八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

我ら凡夫の中にも、仏性(ぶっしょう)という尊い働きがあることは、本当に有り難いことである。
凡夫を覆う煩悩は、全くどうしようもないけれど、その仏性の働きによって、我々には救われる道が開けている。

それを端的に表した仏像として、以前、勉強会の中でも「宝誌和尚立像」をご紹介した。
宝誌和尚の顔面が割れて、十一面観音菩薩が顔を出している仏像である。
これまた視覚的にわかりやすく表して下さることが、凡夫にとっては有り難い。
西往寺から京都国立博物館に寄託されているので(但し、展示されている期間をご確認のこと)、ご関心のある方は是非、実物をご覧になると良い。

あなたの中にも仏性はある。
 

   [宝誌和尚立像(クリック)]


で、今回は、もうひとつの仏像をご紹介したくて、この欄を設けた。
それが、釈尊の弟子であり、実の息子でもある「羅怙羅(らごら)尊者像」である。
羅怙羅尊者が自らの胸を開くと、そこに釈尊の顔が出現している。
これを親子の情でベッタベタに解釈している文章もあったが、それでは地獄に落ちる。
釈尊の本体は久遠仏であり、仏性の働きそのものである。
禅の黄檗宗の大本山、京都・萬福寺で拝観できる。

あなたの中にも仏性はある。
 

   [羅怙羅尊者像(クリック)


別に、グロテスクで奇っ怪な仏像を選んでお勧めしているわけではない。
その造形を手掛かりに、造形で表せない仏性の働きそのものを感じ取っていただきたいと思う。

 

 

後輩セラピストから相談のあった例。
母親のこころの病気で長年苦労して来た娘がいた。
そのことについてセラピストが
「そりゃあ、お母さんから酷い目に遭って来ましたね。」
と言うと、
「いえ。母は母で大変だったと思います。」
と母親を庇(かば)い、
今度は、セラピストが
「お母さんはお母さんなりに精一杯だったんでしょうね。」
と言うと、
「いえ。酷い母親に育てられた子どもにしてみればたまったものじゃありません。」
と母親を攻撃した。
「母親を庇うのか攻撃するのか、どっちなんだよ。」
と言いたくなるが、こんなアンビバレンスはよくある話で、母親が愛着の対象でもあり、怒りの対象でもあるのである。
よって、娘は、その二つの気持ちの間を行ったり来たりしながら過ごすことになる。
即ち、母親に怒りを感じれば、罪悪感が起き、
母親に愛着を感じれば、報われない重荷を感じるのであった。
しかし、どちらかというと、母親への怒りを抑圧し、怒りを感じると罪悪感を感じる人たちの方が多い印象がある。
よって、後輩のセラピーも、娘さんの中にある母親に対する怒りをちゃんと認められるようになることを目指していた。
そんなある日、一人暮らしの娘のもとへ、一人暮らしの母親が急死したとの連絡が入った。
一方で、母が亡くなって悲しい自分がいたが、
もう一方で、亡くなって清々した自分がいた。
そしてそれを感じた途端、娘は猛烈な罪悪感に襲われた。
自分は母親に冷たかったんじゃないかという後悔にも苛まれた。
そしてその後、面談に来なくなったそうである。
「ああ、まだそこだったのか。」
と後輩は残念がった。
本当は、悲しいのと清々したのとの両方を感じるのが当然なのだが、
その娘は、清々とした自分を受け入れられず、その気持ちと直面化することから逃げたのであった。
「どうすれば良かったんですかね?」
という後輩に対し、
「ハウツーはないよ。娘さんの心において、『未だ時、熟さず』だったということだ。」
と伝えた。
「せめて『こうやって罪悪感を抱くことがまだ私の問題なんですね。』というところにまで来ていてくれれば、それからの道もあったと思う。」
後はただ、またいつかどこかで、この娘さんがリターンマッチに挑んでくれる日が来ることを祈るのみである。
罪悪感を抱き続けながら、一生逃げ回るわけにはいかないだろう。
そこを超えて初めて、娘さんの本当の人生が始まるのである。

 

 

近頃の人は教養がない、とよく言われる。

確かに
漢字が読めない。
一般常識がない。
社会情勢も知らない。
そんな人たちには、以前よりもよく遭遇するようになった気がする。

しかし
だからどうだってんだ、という気もして来る。
どんなに博覧強記であっても
イヤなヤツ
くだらないヤツ
はごろごろいる。
所詮は、受け売りの知識ではないか。

それに私などは、職業上
重度心身障害の子どもたちや
認知症の大人たち
に接して来たため、彼ら彼女らを見下すような価値観には同意できない。

しかし、である。
上記のことを踏まえて、であるが
教養の中でも
古典(古文、漢文)を読む力だけは、それが可能な方たちには、お勧めしておきたい。
外国語も良いのだが、外国語をマスターするには大いに時間がかかる。
それに比べ、古文、漢文(書き下し文)は、古い言葉とは言え、どこまでいっても日本語である。
外国語ほど習得に時間がかからない。
それに
古文、漢文は、その内容が、東洋文化、日本文化のルーツに連なるため、親和性がある。
そして何よりも私は、日本の精神性は世界に冠たるものである、と思っている。
よって、古文、漢文が読めるとね、時空を超えて、過去の賢者たちと直接に話ができるのだよ。
(ちなみに現代語訳では、本来の語感やニュアンスが死んでしまうのでダメです)

でも、やっぱり、できれば、なんです。
字も読めない妙好人が、禅の老師が舌を巻くような境地を示したように、最後は知識ではなく体験なんです。
そしてさらに言えば、体験よりも存在がすべて、なのでありました。

 

 

先日「囁き通り魔(基礎編)」ついて書いた。
今日は応用編。

どこらへんが応用編かというと、囁き方がさらに巧妙かつ狡猾なのである。
すれ違いざまに囁くというようなわかりやすいやり方ではなく、
会話の中にスッと仕込んで来る。
特に終わり際あたりにさりげなく入れて来るところは、昨日・今日始めたのではない年季を感じさせる。
しかし囁かれた方は確実に、巧妙なやり方で刺された、あるいは、狡猾なやり方で巻き込まれたことに気づく(気づくのが即座か、後になってからかは、こちらの感情抑圧の程度によって差がある)。

[例1]ある人は、ごく普通の会話の中に、時々見下したような目つきと、フンという鼻息をからめて来る。これが(ずっとではなく)「時々」のためこちらは反応しにくく、「目つき」と「鼻息」という言質を取れない表現のため、確実にこちらをバカにしている心証はあっても、客観性をもって追及しにくい。
これは非言語的な“攻撃性”の例。

[例2]私の後輩が外来で経験した例。外来で電子カルテのキーボードを打ちながら診察をしていると、面談と全く関係ないところで、「先生はブラインドタッチじゃないんですね。」と言って来る。表面的な会話は「そうだよ。」で終わるだけだが、裏の会話では「ブラインドタッチもできないのか、おまえは。」「うるせー。」のやりとりがある。これもまた確実にこちらを攻撃している心証はあっても、それを客観的に証明しにくい。
これは(表の会話に現れてない)裏の会話による“攻撃性”の例。

[例3]
ある女性は(圧倒的に女性に多い)、自分の神経症的問題を解決しようと真剣に通院している最中であるにもかかわらず、ふと話がホストに入れあげている友人のことになった後、帰り際になって「先生がホストだったら行くんだけどなぁ。」というような言葉をボソッと放り込んで来る。実は、自分の神経症的問題を解決したいというのは通って来るためのフリであって、本当はベッタベタに依存したくて来ているのである。
(治療場面ではよくある話だ。八雲なら即面談お断りである。そういう自分への「情けなさの自覚」がないからね)
これはベッタベタ依存の“巻き込み”の例。

その他、いくらでも例を挙げることができ、「囁き通り魔(応用編)」の体系がまとめられそうであるが、そんな気持ちの悪い分析をやりたいとは思わない。

書いていて思うのは、やはり「囁き通り魔」は、基礎編であろうと、応用編であろうと、その質(たち)の悪さと有害性から「要治療レベル」だということだ。
しかし、当人たちの多くは自覚がないので受診しない。

となると、こちらで精神的に武装して防衛する他ないのである。

敏感に観抜いて、そして、悪業はバッサリ斬り捨てましょう。
愛のある話はそれからだ。

 

 

 

生育史の影響で後から付いた「ニセモノの自分」がある。
そんなものが付く前の「本来の自分」がある。

後から付いた「ニセモノの自分」を排除し、「本来の自分」を取り戻して行くプロセスを「成長」という。

「本来の自分」を取り戻して行くプロセスは、例えば、30%→60%→90%→100%というふうに進んで行くかというと、そうはいかない。
30%→60%→90%くらいまでは、まあまあそれでいいのだけれど、終盤がちょっと変わって来る。
90%→100%がスッと行かず、
90%→99%→99.9%→99.99%というふうに進んで行くのである。

つまり、何が言いたいかというと、そんなに簡単に100%にはならないのだ。

かつて近藤先生が
「どんなに分析しても、どんなに治療しても、何か残る。」

と言われたのを思い出す。

もう完全に乗り超えた、もう完璧に払拭したと思っていても、どこかにまだ、後から付いた「ニセモノの自分」の残滓がのこる。
ほんのわずかでも残る。
そして忘れた頃に顔を出す。

何を隠そう、私も、先日、何十年ぶりかで試験の夢を見た。
本当に何十年かぶりである。
勝手にそんなものを受けさせられて
勝手にそんなもので自分の存在を値踏みされて
イヤ~な気持ちで机について、従順に試験が始まるのを待っているのである。
まだそんな夢を見るのか、と愕然とした。
おいおい、夢なんだから、そんな試験会場なんぞメッタメタに破壊して、楽しいテーマパークでも作れよ、と言いたいところだ。
まだ私の中に残滓がのこっていたのである。

だから、簡単に、もうこの問題は解決しました、と言い切らない方がいい。
もうこの問題は“ほぼ”解決しました、と言うのが正確である。

しかし、絶望する必要はない。
そんなどこまでも愚かな凡夫のことをかねてより御存知で、どんなアンポンタンな凡夫でもなんとかして救おうという道もまた用意されているのである。
それがあるからこんな凡夫でも生きて行けるのであった。

おまかせして祈るのみである。

 

 

ちょうど“Silent majority”に関する記事を読んだ。
前々から考えていたテーマなので、これは書かずばなるまい、と思って今日の話題に取り上げた。

まずは言葉の説明から。
そもそも“Silent majority(静かな多数派)”や“noisy minority(うるさい少数派)”という言葉がある。

“Silent majority”というのは、実は集団の意見の多数派を占めているのだが、積極的に発言をしないため、あたかもその意見がないように扱われてしまう多数派のことをいう。
それに対し、“noisy majority”というのは、実は集団音中では少数派に過ぎないのだが、積極的に(うるさく)発言をするため、あたかもそれが多数派の意見であるかのように受け取られてしまう少数派のことをいう。

みなさんもすぐに具体的な場面を思い浮かべることができるだろう。

PTAの会合でもいい、マンションの管理組合や町内会の集まりでもいい、会社の会議でもいい、それが実はかなり偏った独善的な意見であるにもかかわらず、特定の個人あるいは少数派の人々が、声高に、圧強く発言するため(これが noisy minority)、他の多数派の人々はおかしいと思いながらも、ビビってしまい(ヘタレってしまい)、発言することができず(これが silent majority)、noisy minority の意見に押し切られてしまう場合があるのである。
そして後になってコソコソと、silent majority 同士でLINEなどで愚痴を言い合ったりしている。

しかし、そこで意見を言わなかったのも、(たとえ消極的であっても)minority の意見に賛同したのも、大人の自己責任であるから、どんな酷い結果になったとしても同情には値しない。
自業自得である。
そして、そこで黙る(本音を言えない)ようになるのには、その人の生育史からの哀しき影響がある。

ちなみに私のところに面談に来ているような人たちは、生育史の影響で一旦ヘタレな silent majority になったとしても、本来の自分を取り戻すにつれ、silent ではなくなり、かといって noisy ではなく、steadfast に(毅然と)物が言えるようになる人が多い。
従って、そういう会合の場でも決して黙ってはいない。

で、そういう人たちからよく聞くのは、例えば、先に挙げたPTAの会合でも、マンションの管理組合や町内会の集まりでも、会社の会議でも、毅然と発言し、noisy minority の人たちと、場合によっては、バチバチとやりあうこともあるが、silent majority の人たちはそれでも傍観しており、なんだか孤立しているような気分にさせられることがあるそうだ。
いかにもありそうである。
それで、後になって、silent majority の人たちから(noisy minority の人たちがいなくなったところで)「よくぞ言ってくれました。」「もっといけ、いけ、と思ってました。」などと言われることがある。
これでは情けなさ過ぎる。
おまえも会合の最中に声をあげろよ!

その他にも、ネット上のいろんな「書き込み」においても、社会の中でのいろんな「活動」「運動」などの場においても、類似のことが起きていることもあるんじゃないかな、と思う。

今すぐできなくてもいいけどさ(私も100%の自信はないけどさ)、せめて目指しましょうよ、“steadfast majority(毅然とした多数派)”になることを。
それは間違いなく、あなた自身を、そして世界を、健全にして行く道につながっていると思う。

 

 

「人間くらい残酷なことに頭脳を使っている生きものもいないなと思う。…
だいたい人間というのは自分の利益を考えている動物です。…自分のことを考えることがいちばん先です。…しょせん弱肉強食。強いのが勝つ。けれども、僕みたいな変な人間でも、どうやら生きているところをみると、必ずしも弱肉強食でなくても生きられるということの証明かもしれないから、まあ、そういうことをしなくても人間はちゃんと生きられるということも、ひとつみなさんにいっておきたいと思います。…
私はみなさんに豊かな道を歩いていただきたい。豊かとは何かというと、悲しいときには悲しみ、よろこばしいときにはよろこび、苦しいときは苦しみ、ほんとうに人間として、本音で感じた生活を『豊かな生活』と私はいいたいと思います。そこに自分が生きてることだと思います。…
人を裏切る苦しみ、また自分が信じた人に裏切られる悲しみも、じっと心で味わってもらいたいものだと思うのです。…
私の経験でいうと、愛情に恵まれなかった人がほんとうに自分に愛情を持ってくれる人に出会ったときに、そこで感じる感動というものはすばらしいものであり、深いものであることも事実です。ですから、自分が不幸であったことをくよくよと考えないことです。苦しみを通り、悲しみを通って、そしてほんとうの愛情に接した場合にやはりそこには、いうにいわれぬ深く身に感じる愛情の、深さというもの、ありがたさというものがあるように思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より

 

嬉しいこと、楽しいことけじゃなく、悲しいこと、苦しいことを感じて生きて行くことも、人生の豊かさであるということ。
特に、人を裏切る苦しみ、人に裏切られる悲しみについて取り上げているのは、やはり流石、近藤先生だと思う。
闇を経験したからこそ感じる光の明るさ、温かさがある。
愛されずして、苦しみ・悲しみを通って来たからこそ感じる、本当の愛の深さ、有り難さがある。
そしていつか、凡夫の自力では不可能だけれど、自分を通して働く他力によって、誰かを愛することができたならば、それもまた人間として生れて来た本懐と言えるんじゃないかと思います。


 

すれ違いざまに、小声で「ばか」とか「死ね」「ブス」などの悪口を相手にぶつけることを“囁き通り魔”というらしい。

パブリックスペースで全く見知らぬ人から言われる場合と
自分の職場や学校で既知の人物から言われる場合とがあるようである。

いずれにしても“悪意”と“攻撃性”の垂れ流しであり、“通り魔”と言われる通り、すれ違いざまに殴られたのと同じ「心理的暴力」である。

基本的に全くの被害案件であるが、これはこちらにとってワークにすることができる
それが今日言いたいこと。
即ち、即座に反応できるかどうか。
普段から感情的抑圧の強い人は、反応できない、または反応が遅れる。
ということは、やられっぱなしにならないために、“囁き通り魔”を感情解放の練習台に活用することができる、というわけだ。

こういった場合、よく「驚いてしまって」とか「呆気に取られて」何もできなかった、という人がいるが、それは事実ではない(言い訳である)。
例えば、あなたが突然誰かに足を踏まれたとする。
痛覚があれば、その瞬間、痛いに決まっている。痛くないことはあり得ない。
そして感情が出る。
「痛っ!」「何すんだっ!」となるのが普通である。
犬なら、瞬時に咬むかもしれない。
しかし黙る人がいる(それが結構多い)。
瞬時に自分の感情に抑圧をかけ、結果として感覚麻痺に陥っているのである。
しかし怒りは消えていないので、時間が経ってから次第に怒りを自覚するようになる。

そもそも生まれつき感情を抑圧するような幼児はいない。幼児はすぐに反応する。
しかしやがて反応しなくなる、反応が遅れるようになる。
それにはそれ相応の感情抑圧の歴史があるのである。

よって、抑圧が取れ、感情が解放されるにつれ、反応が早くなって来る。
最初、その日の夜、布団に入ってからようやくムカムカしていた人は、
その事件が起きてから数時間後にムカムカするようになるかもしれない。
またさらに相手が立ち去ってしばらくしてからムカムカするようになるかもしれない。
そしてやられた直後にムカムカするようになり、
最後に、言われた瞬間に反応が出るようになる。
「うるせっ!」「黙れっ!」

残念ながら、世の中には抑圧の強い人が、思いの外、多いので、実は通り魔側も瞬時に反撃されたことがない(それで調子に乗って繰り返している)。
よって、この瞬時の反撃ができたならば非常に有効であり、今度は通り魔が黙ることになる。
さらにダメ押しとしては、反撃をその一の矢でおしまいにせず、二の矢、三の矢を繰り出しておくと一層有効である。
「通りすがりに『バカ』と言うんじゃねぇ!」
「あったま、おかしいのか、おまえは!」
万が一相手が何かを言おうとしたならば、それに被せるように、これを大きな声で(まわりに聞こえるように)言うことはさらに効果的である(相手はそこまでやると思っていない)。
しかも感情が解放されて来ると、その表出に自然と“圧”(気迫)が加わって来る。
よく「そんな反撃をしたら、またさらに何をされるかわからない。」とビビる人がいる。
残念ながら、そう思った時点で既に勝負は負けなのである。

少々話が長くなったが、細かいことはどうでもよい。
要するに、こいつに“囁き通り魔”をやるとどんな即時反撃を喰らうかわからない、と思わせれば良いのである。
感情が解放されて来れば、それが準備なしに、身構えなしに、できるようになって来る(いつもシミュレーションして準備し、人がすれ違う度に身構えていたら大変である)。

“囁き通り魔”から始まった話であるが、結局は「抑圧からの解放」こそが、あなたを守り、生かすことにつながるのである。

 

 

衛星放送の映画専門チャンネルを点けたら、
『幽幻道士』(1985:台湾)シリーズにキョンシーが出ていた。
『バイオハザード』(2002:アメリカ)シリーズにゾンビが出ていた。
『新感染』(2017:韓国)シリーズにもゾンビが出ていた。
『カメラを止めるな!』(2017:日本)もゾンビ映画に入れていいだろう。
他にいくらでもある。

どれだけゾンビものが好きなのだろうか、と思った。
好きなハズである、人類の大半がゾンビなんだもの。

職場で働いているときは、世を忍ぶ仮の姿。
できるだけ仕事は少なく、早く終わらせて、とっとと帰りたい。
ワークライフバランスも、できればワークがゼロが理想。
となると、働いているときは自分を殺し、それはまさにゾンビじゃん。

大人ばかりではない、子どもたちも。

学校に行っているときは、世を忍ぶ仮の姿。
できるだけ勉強も少なく、早く終わらせて、とっとと帰りたい。
恐い先生、イヤなクラスメートの前ではうまいこと演じ切ってやり過ごしたい。
となると、学校に行ってるときは自分を殺し、それはまさにゾンビじゃん。

朝起きて(なんなら前の晩から)、あぁあ、行きたくないなぁ、と溜め息をつき、
職場/学校に着いた頃には、既に死んでいる。

子どもでも
大人になっても
それが当ったり前で
世の中はそんなものなのでしょうか。

いやいや、騙されてはいけません。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かりました。
それは本当の自分を生きるため
本当の自分を殺して、ニセモノの自分を、ゾンビの自分を生きるためではありません。

そうしたら、わざわざ「ゾンビが人間に戻る映画」を挙げている人がいた。
『ウォーム・ボディーズ』(2013:アメリカ)
『CURED キュアード』(2017:アイルランド/カナダ)
『感染家族』(2019:韓国)
などがあるそうな。

そうなると、ゾンビ映画にも希望があるな。

では、我々もそろそろ人間に、それも本当の自分に戻りましょう。

 

 

ある女子大生。
先日、不運にも、夜道を一人で歩いていてひったくりに遭った。
後ろから来たバイクの男にバッグを奪われそうになり、必死にしがみついてバッグは奪われなかったが、転倒して手のひらと膝を擦り剝いた。
警察にも届けたが、しばらくの間、恐くて夜道を歩けなくなった。
そりゃあ、そうだろう、と思う。

しかし、ある日、彼女は思い直した。
あの犯人のせいで、人間というものへの基本的な信頼感まで奪われては癪(しゃく)に障(さわ)る、自分の自由な行動に制限を加えられるのも癪に障る。
もちろん、世の中良い人ばかりではないことは知っている。
また犯罪被害に遭うかもしれない可能性があることもわかっている。
それでも彼女は、敢えて以前と同じように、歩きたいときに夜道を歩くことにした。

もちろん最初は恐かった。
足も震えた。
しかし、新しく買ったショルダーバッグを斜め掛けにして体の前に持ち、バッグのファスナーもしっかり閉め、防犯ブザーをバッグの外側に付けて、外に出た。
当初は、バイクや自転車が近づいて来る度に緊張したが、彼女は夜間外出をやめなかった(もちろん必要があるときだけだったが)。
そして段々と平気で外出できるようになった。

その話を聴いたとき、思わず
「やるねぇ、姐さん。」
と言葉が出た。
遥か年下だが、その姿勢に敬意を表して「姐さん」と呼んだのである。

不幸な事件に遭っても、自分は人間というものを信じて生きる方を選ぶ。
広い世間を自分で狭くしないように生きる。

“今どきの若い者”にも、大いに期待あり、である。
そしてまた私も、人間というものに期待する方を選ぶのである。

 

 

テレビでランボーの映画をやっていた。
観るとはなしに観ていたら、あるランボーのセリフが耳に入って来た。

“live for nothing or die for something”

“live for nothing”=何にもならないことのために生きる=無為に生きる
“die for something”=某(なにがし)かのために死ぬ=有為に死ぬ

映画の状況からして
「ただ生きるくらいなら何かをやって死にたい」
というニュアンスであることが伝わって来る。

いかにもハリウッド、アメリカらしい考え方だと思った。

何が有為か無為か(価値があるかないか)は自分が決め、
どう行動するかしないかも、生きるか死ぬかも、自分で決める。
まさに自己決定的、いや、自我決定的な発想である。
その主体として、筋骨隆々たるランボーはいかにも相応(ふさわ)しい(筋肉は自我の象徴でもある)。

しかし、そうでない決め方、決まり方もある。
何が有為か無為かもおまかせ。
生きるか死ぬかもおまかせ。
催されるままに行動し、あるいは、催されるままに行動せず
そして
生かされるままに生き、召されるままに死ぬ。
決定権は自己にはない、自我にはない。
しかしミッションは果たされて行く。
そんな無我的な生き方、生かされ方もあるということを書いておきたかった。

そしてそう思ったのも私ではない。

 

 

人間の成長段階として、三つの段階を挙げて来た。

親に対し、
恐い相手に対し、
一番弱い人間は「屈従」し、
二番目に弱い人間は「逃避」し、
段々強くなって来ると「反撃」する。

例えば、いじめにこれを当てはめると、
一番弱い人間は、いじめっこに屈従し、子分になってしまう。
二番目に弱い人間は、子分になるのはイヤだがまだ戦えないので、いじめっこに会わないように、逃避して不登校になる。
それが強くなって来ると、反撃できるようになり、登校していじめっこと対決できるようになって来る。

概ねこれで良いのだが、「屈従」と「反撃」の間には、「逃避」とは別のヴァリエーションが存在する。
それが「屈従」しながらちょこちょこ「反撃」するという、中途半端なグズグズ状態である。

具体的には、何かイヤなことを強制されると、(聞こえるか聞こえないかの小さな声で/本人がいなくなったところで)ボソボソ/モゴモゴと文句を言いながら服従する。
不本意なことを命令されると、イヤイヤながら(ヤル気なさそうに)屈従する。
この、はっきりしない、半身の、玉虫色の、どっちつかずの態度が特徴的である。

先にこれを「屈従」と「反撃」の間と言い、あたかも「屈従」よりはマシであるかのように取り上げたが、この態度は、ある意味、はっきりした「屈従」よりも“卑怯”であるとみなされる。
何故ならば、「屈従」するなら「屈従」する、「反撃」するなら「反撃」する、よりも、この優柔不断な態度は“潔くない”からである。
少なくとも日本文化において、“潔くない”ことは、強い軽蔑の対象となる。
「屈従」するなら「屈従」しろ! 

「反撃」するなら「反撃」しろ!
中途半端にグズグズ言いながら従うような、潔くない、卑怯なマネはやめろ!
である。

言わば、「屈従」「逃避」「反撃」が“縦”の三段階とすると、「グズグズ」は「逃避」の“横”にズレている状態と言えよう。
だから気持ち悪い。

そしてどっちにせよ、まずはきちんと「反撃」できるようになることを目指そうよ、それが必ずしも簡単でないことは私も知ってるけどさ。
自分が自分を生きるためには、やっぱりそこを目指す“姿勢”が必要なのさ。

そしてさらにそれらを超えた最後の四段階目、人を「愛する」ようになるためには、単なる“強さ”ではなく、ホンモノの“勁さ”が必要になって来るのである。

 

 

私も自分が65歳を越えてみて思うことは、もう残りはそんなに長くないなと感じつつ、まわりの65歳以上の人たちを見ていて、(全員ではないが結構な割合の人たちの)その人格の余りのトホホぶりに絶望的な気持ちになって来る、ということである。
その年でその体たらくでは、死ぬまでには到底間に合わんぞ。
若い頃はそんなことは思ってもみなかったが、今は切実にそう思う。

そこで、仏教が輪廻転生を言うのもわからないではないな、という気になって来た。
仏教の言う輪廻転生が本当にあるかどうかは知らないけれど、
来世を設定しなければ、到底、今生(こんじょう)だけでは間に合いそうにない人たちが多過ぎるのだ。

ある男性は若い頃から坐禅に励んでいて、ああ、どこまで成長するだろうか、と楽しみにしていたが、いつまで経っても、坐禅していてちょっと無我に触れたくらいの体験で満足し、一向に成長しないまま、気がついたら60代になっていた。
坐禅はカルチャーセンターのサロン的な遊戯ではない。生きるか死ぬかの大事である。その切迫感がない

しかし、切迫感を持て、と言っても甲斐なきことは私もよく知っている。
本人の中で煮詰まらないとことには始まらないのだ。
でもそれでは寿命が間に合わない。

かつて法然が、今生でダメなら来世で、と言っていたということを近藤先生から伺ったことがあるが、その言葉がリアルに響いて来る今日この頃である。

それでもね、若かろうが年輩であろうが、人間の無限の成長を信じたい気持ちはやめられない私であった。

 

 

「恋愛最中のひとは、手を握り合っただけで感じ合うものがあるだろうと思います。もし手を握って何も感じないというのであれば、それは恋愛じゃないから私はやめたほうがいいと思います。ちょっと触れただけでピリッとくるような、そういう電気が伝わるようなものでないとほんとうの恋愛ではないですよ。それは疑似恋愛ですね。恋愛をしたいという欲望を仮に満足して抱っこちゃんの代わりに連れて歩いているようなものであります。そういうのはやめたほうがいいです。というのは、精神衛生上よろしくないし、満足がないからいつか別れますね。まあ、いつわりのものだから割れたっていいようなものでね、僕は、どんどん別れたほうがいいと思っている。ニセモノはなんでも別れたほうがいい。
そのニセのモノを生涯とりつくろって、うまくやったようなつもりでいるかもしれないが、そんなのは死ぬときに『あー、私の一生はつまらないものだった』と後悔するんです。本音で生きる、これが大事だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この「ピリッ」にも浅いのと深いのとがありますから、お間違いのないように。
でないと、「ピリッ」と来たはずなのにすぐに別れた人もたくさんいます。
その深さが大事なんです。
「本音で生きる」も同じ。
人間の本音にも浅いのと深いのとがあるんです。
でないと、本音と思ったら違ってた、なんてことになります。
その深さが大事なんです。
ということは、どちらも敏感に「感じる力」が必要になります。
敏感に「深いピリッ」を感じ取る。
敏感に「深い本音」を感じ取る。
それがあなたの人生を分けます。
ですから、『感じる力を育てる』(←まさに近藤先生の著書の題名)ことが大切になるんです。
「その人、今回の人生を共にする人だったっけ?」
「その仕事、今回の人生をかけてやることだったっけ?」
と訊かれて
「あったりまえだっ!」
と即答したいですね。
 

 

 

明日、あいつに会う。
明日、あいつが来る。
明日、あいつと話さなきゃならない。

イヤだなぁ。
休もうかなぁ。
逃げたいなぁ。

もうこの時点で
押されている
呑まれている
負けている。
言わば、“位負け”しているのである。

まずは
自分がビビって
ヘタレってることを
ちょろまかさないで

うやむやにしないで
認めましょ。
意外とそれすらも誤魔化してる人が多いのよ。
弱いんです。

「情けなさの自覚」がないことには話が始まらないからね。

そしてその上で
肚を据えて

毅然と
対峙できる
ブッ飛ばせる
ようになることを本気で目指しましょ。
それが「成長への意欲」。
ここらもちゃんと勝負しないで、事を荒立てず、うまいこと立ち回れるようになるくらいのことを目指しているビビりやヘタレも結構多いのよ。
それじゃあ、まだまだズルくて弱いでしょ。
本当の成長じゃないよね。
本当の成長のためには直面化しかありません。

もちろん、自分がビビりでヘタレであることを認めることも、
正面から相手と勝負できるようになることも、現実にはとっても大変です。
残念ながら、すぐにそうなれるわけではありません。
しかし!絶対に!そのときなりの自分なりの精一杯で奮闘し続けるんです。
その「姿勢」があることが、「今すぐ全部できなくて大丈夫」という免罪符を得る唯一の条件です。

かくいう私も間違いなくビビりでヘタレです。
でもその「姿勢」だけは絶対に守ろうと思っています。

 

 

ある若手の精神科医が外来で受け持ち患者さんの診察をしていた。
診察後、隣の診察室にいたベテラン先輩医師が、若手の精神科医に声をかけて来た。
二人のやりとりが隣の診察室に聞こえていたのであろう。
性格優しめの若手医師に対して、アク強めの先輩医師はこう言った。
「正しいことでも、押し気味に言わないと、相手に伝わらないぞ。」

後輩にアドバイスしようと思った善意は多としたいが、内容に問題がないわけではない。
即ち、これでは、「押し気味に言えば、多少間違っていても、相手に伝わる」というニュアンスになりかねず、“ハッタリの勧め”になってしまうではないか。
いかにもその先輩医師自身がそういうタイプであった。

そうではなくて、いかに性格優しめであったとしても、その発言に“勁さ”や“押し”がないのは、実は、自分の考えに“確信”がなかったのである。
“確信”がないと、声も小さくなるし、押しも弱くなる。
従って、若手医師が学ぶべきことは、まず自分自身の人間観、治療観、人生観、世界観をしっかりと(腹の底からそう思えるように)持つことなのだ。
そうなれば、自ずからその発言は、力のあるものになって来る。
そして当然、相手にも伝わりやすい。

だから、私ならば若手医師にこう言うだろう。

「まず自分の軸を持とう。」

そしてそのためには、自らの内省と人間的成長が必要なのである。

ハッタリ屋になるなよ。

 

 

今日は令和7年度最初の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目に続いて11回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※尚、神経症的性格の3つの類型(①自己拡大的支配型、②自己縮小的依存型、③自己限定的断念型)についての説明は、他の文献では見られないほど詳細である。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

b.自己縮小的依存型 self-effasive dependent type

この型のもつ「仮幻の自己」像は、丁度、上述のタイプの陰画の様なものである。自己拡大的支配型の人間が、「仮幻の自己」との同一化に没入するのに対して、この型の人々はその様な「仮幻の自己」の輝かしい像に一致出来ない自分を見出し、そのことによって自分を責め、卑小に感じ、無力な存在とするのである。
そして、それ故に自らを他人の助力や保護、そして愛情を必要とする存在であるとする。見方を変えて言えば、先のタイプにおける「仮幻の自己」によって嫌悪され、憎悪され、軽蔑される、卑小、無力な「現実の自己」に自分を同一化しているとも言える。
この型の人は、他人に勝とうともせず、目立たぬ様にし、人に従順であり、感じよく思われる様に振舞い、自分も主張しない。勝負事をしても、勝つと悪いことをした様な気がし、指導的な地位のなると不安になり、当然の権利であっても主張するのに自信がなく、他人に何かを頼むにも弁解を長々としたり、逆に頼まれたら断るのが悪い様な気がして、心にもなく引受けたりする。
自分の欲望や願望や意見を持つのは、何時も僭越で、傲慢なことだから持つべきでないのである。彼にとって優越すること、自分の事を考えること、他人に対して主張をすることは、全て許されないことなのである。
こう言う彼の態度から、私達は「よい人だ」という感じをもつ。しかし、分析によって知ることは、この様な態度が彼の「真の自己」の発展を阻止し、縮小している事実なのである。そして、その原因として、彼の謙遜さにもかかわらず、それと反対なものがあることを発見するのである。
最初に私達が発見するものは、彼は上述の様な「現実の自己」と同一化することによって、その「現実の自己」を転じて新しい誇りに満ちた「仮幻の自己」を定立していることである。この「仮幻の自己」は絶対的な無私、同情、愛、犠牲的精神というものを内容としている。まさに自己をこの様な存在として見ることはそれ自身一つの傲慢であり、謙遜ではない。しかも、その反面に於いて、彼は果敢な自己主張や野心の追求、呵責ない制服や非情な態度という様な自己拡大的な態度に対して、ひそかな、しかし激しい嘆賞と渇望をもっていると言うことに気付かされる。
この事は、彼の「仮幻の自己」が、自己拡大的支配型の陰画から構成されていると言う事と共に、その乳児期に於ける状況と関係があるのである。自己縮小的依存型の人々は、その早期の問題 ー 基礎的不安 ー を「人に従って行く態度」で解決した人々である。
自己拡大的な型の人が幼児期に於いて、甘やかされたり、厳格に躾けられたり、或は残酷に取扱われた人々に多いのに対して、この型の人々は誰かの蔭で育った人に多いのである。
例えば、特に両親に愛された兄弟の蔭か、他人から始終尊敬されている親の蔭とか、美貌の母親とか、愛情はあるが独裁的な父親とかの蔭である。そこでは自分は何時も第二義的な存在であるが、しかし、何かの意味で愛情は得られないでもない。唯、そては服従と言う対価を払って得られるのである。
彼は妥協したり、屈従したりして ー 自分の感情を犠牲にしてしか、他人からの愛を得られないことを学ぶのである。一方に於いては、自己拡大的な人達への羨望とそれの抑圧、他方に於いて自己屈従的・自己犠牲的態度が取られて来るのである。
人に愛せられるためにとられる態度 ー 自己を主張しないこと、屈従的なこと ー これが利他的無私とか、惜しみなき愛とか、自己犠牲の高貴性とかに美化される。そして、そこに自己の存在理由と価値を発見し、それを内容とする「仮幻の自己」が完成されるのである。そして、ここに彼の「誇り」pride が宿る。
ところで、彼の「仮幻の自己」は、自己拡大型の人間がする様に誇ることを許されないと言う矛盾に面する。しかも、そこに誇りを感じざるを得ないために、彼は「仮幻の自己」の要求を充足し得ない無力な「現実の自己」を感じて、自己卑小感、自己嫌悪を抱くに至る。この事は、さらぬだに無力感に満ち、烈しい自己嫌悪を持っている彼に益々その感を深くさせ、自己を責め、自己を嫌悪する傾向を強めるのである。
彼の shoulds は、何時も、自己否定的に働き、彼の自己主張や心の中でひそかに熱望する攻撃性を抑圧するのであるが、そればかりでなく、他人に対する彼の評価を束縛する。彼は常に他人に好意を持たなくてはならないから、他人の善意を疑ったり、他人に悪意や心の狭さを見てはならないのである。
他人を少しでも疑う事は許されない結果として、結局彼は何時も他人の意のままになることになる。このことは又、彼の無力感や自己嫌悪を深くする。たまたま、他人によって利用されることに対して怒りや敵意を覚えても、それは shoulds の命ずるところに反するから、そういう事を感じることに罪悪感と自己に対する嫌悪を覚えざるを得ないし、抑圧しなくてはならない。
この型の「仮幻の自己」が、愛される必要から出たことは先に述べた。従って愛というものが、彼にとって一番重要な価値を意味する。「仮幻の自己」の種々な内容を貫くものは愛であると言える。他人に対する関係に於て、彼が最も関心するのは愛の様々な徴表である。
彼には、孤独は愛せられていないことを意味する。彼には他人の存在が自分の価値の確証として役立つから、屈従的な手段によっても他人のそばに自分を置くのに努力するのである。この事は彼の必要から出ているものだから、他人がどう感じるかは二義的になり、他人の都合もかまわず、哀訴し、嘆
願し、まといつく。
しかし、この必要だという事が、必要なものは充足されて当然だと言う考え方に変容すると、それは他人に対する要求 claims に化して来る。
愛情や、理解や、同情や、援助を必要とすると言うことが、当然愛情や理解や同情や助けが与えられるべきだと言う要求になり権利に変じるのである。この変化は微妙であり、もとより無意識的であるが、しかし強力である。
この要求を支えるものとして、彼が如何に懸命に他人を理解し、同情的であり、犠牲的に他人の為に努力しているかと言う考えがある。これらの態度は実に彼の shoulds の結果として取られた態度なのであるが、それを彼は無意識に自分の要求を合理化する基礎とするのである。
つまり、彼が愛情的であり、同情的であるのだから、他人も同様でなくてはならないという要求に変じるのである。同様の感情論理が、彼の苦悩や、被害感に働くと ー 苦情や被害感が彼の shoulds から来ているのにもかかわらず ー 他人は自分を救うべきであり、損害を補償すべきであると言う要求に変じるのである。
一方すでに彼の shoulds によって招来されていた自己に対する憎しみ self-hate は、これらの他人に対する要求 claims が充足されない時、一層深刻となる。自己が益々無価値で、無力であると感じられ、苦しみが強くなり、益々自分を責める。
この様な自分に対する憎悪に苦しめられる時、それを免れる方法として、この型のものは、自己拡大型のものの様に、自己についての拡大された像に同一化する方法をとることが出来ない。従って彼のなし得ることは、先ず自分を他人の無理解、非情な仕打ちに迫害されて泣く、高貴な、気の毒な人間として劇化し(dramatization)、それに同情の涙をそそぐことである。こういう態度は更に進むと無意識に人を挑発して、自分を迫害する様にしむけ、それによって自分を惨めな状態にし、それに感動すると言う自虐的なこと(masochism)にもなる。
また、他の方法は、分析に於て明らかにされることであるが、「どうせ自分はつまらない人間なのですから」と言う様な表現で、表面、自分の無力で嫌悪すべき状態を、人が言う前に先に自分で承認して受け入れる態度を取ることにより、実はそれによって他人からの批判をそらし、又自分自身それを直接に感じることを避け、誤魔化すことである。

何れにもせよ、この様なことは、全てこの型のもつ自己の卑小化・縮小化の傾向を増しこそすれ減じはしない。それは益々、自己疎外の傾向を強めるのみである。ここにも又自分の真の感情や願い、また喜びや成長を知らない人間がいるのである。彼の感じるのは自己に対する嫌悪、無力感、不安であり、苦悩である。
しかし、私達はこの型の人に、前記の自己拡大型の人に比べて、何かしら柔らかな、愛情的な人間らしいものを感じる。それは恐らく愛が敵意よりも、例えそれが神経症的に追求されているにもせよ、もっと人間性に深い関係をもっていることを示す事かも知れない。



今回、取り上げるのは、我々対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」についてです。
これは「誰かの蔭で育って来た」人々であり、「低い自己評価」に基づく「基礎的不安」を「人に従って行く(toward people)態度」で解決して来た人々である。
人に愛されるために自己屈従的・自己犠牲的な態度を取り、それを利他的無私とか、惜しみなき愛とか、自己犠牲の高貴性に美化して、そこに自己の存在理由と価値を発見し、そういう「仮幻の自己」を作って来たのである。
つまり、本当はただのヘタレの他者評価の奴隷に過ぎないくせに、それを美化して生きている。
そしてその美化の中に、「自己縮小的依存型」に潜む、思い上がった「自己拡大的支配型」の臭いさえするのである。
しかし、そんな“闇”の中にも、自己屈従的・自己犠牲的とは異なる、非常に素朴な、人の良さや他人への愛情深さが感じるのもまた「自己縮小的依存型」の人々の特徴である。
そしてそこに、その人を通して働く本当の愛=“光”につながる可能性を指摘しているのも、流石、近藤先生であると言わざるを得ない。
ニセモノの愛の中に、ホンモノの愛の芽が潜んでいるのである。

 

 

「謙虚さ」という言葉がある。
古今東西、その態度はひとつの徳目として取り上げられることが多い。

しかし私としては、どうしても徳目とは思えない。
何故ならば、「謙虚さ」というとき、私には、無理をして、頭を抑えている、あるいは、腰を低くしている姿しか思い浮かばないのである。
そう。
「謙虚さ」の前提として、人間の「傲慢さ」や「思い上がり」が臭う。
人間に「傲慢さ」や「思い上がり」があるからこそ、それを抑えることが徳目とされるのである。

よくハリウッド映画などで、謙虚に謙虚に生きて来た主人公が、侮辱され、蔑(さげす)まれ、遂には堪忍袋の緒が切れて爆発し、バカにして来た連中をブッ飛ばすという展開がよく出て来る。
本人も観客も、それで大いに溜飲を下げ、拍手喝采を送るのだ。
「おまえなんかに負けるもんか。」
「オレはこんなに強いんだ。」
それが本音である。
そんな人間の「傲慢さ」や「思い上がり」を抑えるのが「謙虚さ」なのである。
抑える手が緩めば、「傲慢さ」や「思い上がり」は簡単に顔を出す。
よくビジネス誌などで、「経営者には謙虚さが必要。」などと書いてある。
社長室に「謙虚」などと大書して飾っている人もいる。
しかしその実状はどうかというと、皆さん、よく御存知の通り。
偽善である。

それに比べ、「凡夫」の自覚となると、「謙虚さ」とはちょっと違って来る。
「凡夫」というのは、そもそもが本気で「バカ」で「クズ」で「愚か」なのである。
何も引いていない。
何も抑えていない。
ただその事実を認めるだけだ。
そしてその「凡夫」の自覚も、「他者」からの評価によるのではなく、内なる「霊性」によるものであり、自ずからそう思う、否応なしにそう感じるのである。
本当は「傲慢」で「思い上がっている」のに、そう思っていないようなフリをする「謙虚さ」とは根本的に異なる。

注意すべきは、「凡夫」の自覚のポーズのみ。
それだと、「謙虚さ」と同じ、偽善になっちゃうからね。
ただ素直に、自分が「凡夫」であることを認めてしまえば、小賢(こざか)しいことをしなくても、生きることはずっと楽になるんじゃないかな、と私は思っている。

 

 

話していて、その人本来の姿が観えるときがある。
幻視でもなく
錯視でもなく
目で見ているのでもなく
とにかく観えるのである。
これは体験してみないとわからないが
観えるものはしょうがないのである。
しかも、私の意図で観えているわけではないので
それがいつ観えるのかも私にはわからない。
しかし、それが観えないことにはセラピーが始まらない。
何故ならば、私のセラピーは、私がクライアントを意図的にどこかへ連れて行くわけではなく
クライアントの中に本来のその人がいるのであるから
クライアントが本来のその人を取り戻せるように応援して行くだけなのである。
答えが観えている
進む方向が観えている
というのは実に有り難いことである。
それが目標であるから
ただ適応させるだの
学校に行かせるだの
会社に行かせるだの
うまいこと生きて行けるようにするだの
そんなことのためにセラピーを行っているわけではない。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かったのだから
真の自己が観えないセラピーが成立するはずはないのである。
近藤先生と話して来たことの真意が、今になってわかってくるのである。

 

 

獣医のドキュメンタリー番組を見ていると、よく家畜の去勢シーンが出て来る。
メスを過剰に妊娠させないためという理由もあるが、乱暴で困るという理由で馬や牛などのオスが去勢されている。
気の毒に、と思いながら見ているが、そもそも我々ヒトの男性において、男性ホルモン=テストステロンがどういう作用を及ぼしているのか、が気になって、改めて調べてみた。

そうすると、
身体的には、筋肉や骨格の増強、性欲や性衝動の亢進など
精神的には、競争心の亢進、積極的で前向き、短気で易怒的など
がもたらされるという。

医学的には、へぇ、そうなんだ、で終わるところだが、これをの視点から見てみると、別の様相が観えて来て、実に興味深い
即ち、我欲(性欲、物欲、金銭欲、名誉欲など)を満たすために、即ち、思い通りにするために、腕力、権力、財力などを使って、競争相手をブッ飛ばして行く。
いわゆる“我”を男性ホルモンが強化しているフシがあるのである。

正直、ろくてもないな、と思った。
かと言って、男性ホルモンを止めるために、片っ端から去勢していけば良い、というものでもなかろう。
それじゃあ、人類が絶滅してしまう。
そんな安易な解決法ではなくて、男性ホルモン=テストステロンという生物学的影響を受けながらも、それに支配されず、つまり、我欲の塊に堕さず、我々を通して働く、もっと高次な力に導かれて生きて行きたいものだと思う。

それができない大人の男どもは…(あとは想像して下さい)。


 

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