八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

時々
「性格は変えられますか?」
と訊かれることがある。
すると私は
「今のニセモノの性格が本来の性格に変わることならあり得ますよ。」
と答える。
自分で勝手に選んで、こんな性格になりたい、あんな性格になりたい、というふうには変えられない。
また、“変える”のではなく“変わる”のだ、とお伝えしている。
いや、“変わる”というより“戻る”と言えば、さらに正確かもしれない。
そして、今のニセモノの性格ができあがるには、それ相応の年月(大人になるまでとすれば最低でも18年〜20年)がかかっていますから、本来の性格に戻るのにもそれなりの時間がかかりますよ、と付け加える。

ちなみに、もし私が悪意の人間であれば、今までの経験と知識と技術を駆使して、ある人の性格を別の性格に変えることも可能かもしれない。
しかし、その別の性格というのもまた(その人の本来の性格ではなく)ニセモノの性格であるため、時間の問題でメッキが剥がれることになるだろう。
“洗脳”というのは、一時的にしか成功しないのだ。
考えてみれば、ニセモノの自分というもの自体が、一種の“洗脳”の産物なのである。
但し、年季が入っているために、下手をすると、そのまま死ぬまで行けてしまうかもしれない。

そもそも人間は本来の自分を生きるために生命(いのち)を授かった、と私は思っている。
残念ながら、多くの方々が寿命が永遠にあるかのように悠長に過ごしておられるけれども、そろそろ本気で、本来の自分に戻ることに取り組んでおかないと、今回の人生では間に合わないかもしれませんぞ。

 

 

その次に、それじゃあ、そんなことは私はありませんと。私は子どもに対して、非常にもう、なんかっていうともう、なんでも言うことは聞いて、傍(そば)にいてやって、なんでもかんでも言うことを聞いてますと。子どもが欲しいものは全部与えていますと。こういう具合に、まあ、おっしゃる方もあるだろうと思います。で、これはですね、ある意味で言いますと、まあ、その、いわゆる、近頃もう、誰でも使いますからね、皆さん、わかり切ったように思ってらっしゃるけれど、過保護型っていうことになるんですね。
過保護っていうのはね、過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです、ね。自分がね、そのね、甘えられない欲望をですね、あってね、それを子どもに転嫁(てんか)して、自分はさぞかし、こんなにホントに、無意識にね、ホントはとっても甘えたいの。それがなかなか甘えられない。そうするとね、幸福なのは、甘えられることが幸福だと思うからね。だから、自分の子どもにですよ、甘えられるように、どんどこどんどこ与えてやる、ね。いいですか。そうするとね、子どもはね、非常に喜びます、ある意味でね。しょっちゅう一緒にいて、甘えられて、そうするとね、これは、ものすごくお母さんに対してね、しょっちゅうお母さんがいないと大変なんだな。もうしょっちゅういなくちゃいけないからね、もうお母さん、お母さんと、お母さんの袖(そで)にぶらさがってね。今、袖がないんだけど何? スカートか(笑)。ぶらさがっているというふうな形になるわけですね。
でね、そういうことが重なって来ますとね、面白いことに、面白いっていうのは、これがね、幼稚園なんかに出て行きますとね、大変問題が起こるんです。ていうのは、お母さんがいないと安心感がないでしょ。一遍もひとりで独立してただっていうのがないから、だから今度は、その、幼稚園に行きますとね、いわゆる乳離れが悪いといいますか、幼稚園に行くと、幼稚園に行くのがイヤなんですね、うちにいたい。お母さん、何よ、そんな! 向こうへ行くとね、泣き虫になってね。すぐもうね、何かっていうと帰って来て、おかあちゃん、とこういうことになるわけですね。…
それでね、どうなるかっていうとね、これがね、まあ、その、幼稚園時代は、甘えたりなんかして、まあ、そういうふうに、泣いたりなんかして、やっとこさっとこやる。そのうちに慣れるでしょう。慣れるけれどもね、しばらくこう行っても、なんとなくね、この、弱々しい子になっちゃうんですね。弱々しい子になって、まあ、いわゆる、なんていいますかな、泣かされる、イジメられっ子になっちゃう。イジメっ子じゃなくてね、イジメられっ子になっちゃう、ね。そうしてね、そのくせ、うちではね、ものすごく、あの、甘ったれになっちゃうんです、ね。
だから、どういうふうな形になる、まあ、いろんなことが起きて来ますが、その、いろんな形と言いますと、ひとつだけ言いますと、例えば、それが、ある思春期になりましてね、その人が思春期になって、まあ、高等学校に行くんですね。そうすると、面白いことはね、女の子であればね、例えば、学校に行きますね。学校に行くと言って出て、行かない。あるいは、放課後ね、どこかに行っちゃう、ね。面白いですよね。今まであれほどお母さんの傍にいたわけだから、いつまでもそうかというと、その頃になるとね、自分の今に干渉されたくない、人間としての、ひとつのね、ある意味で自然なね、ことだとも思うんですけど、表れ方が、いわゆる非行になっちまうんだな。自分が今まであんまり束縛され、お母さんによってアレされたのがイヤになっちゃってね、それで今度は、逆にですよ、その間に自分の自由を楽しもうというようなことになって、まあ、ロッカーの中へね、入れといて、服装を替えて行ったりしますね。
それからまた、男の子であれば、例えば、同じようなね、お母さんに頼んで、250だか、ホンダのなんとかっていうのを買ってもらってね、そうしてね、どうかっていうと、友だちとね、おんなじようなね、やっぱり一緒になってね、それから、なんかね、ああいうふうなね、ものに乗って行くと、こういうことになるんです。
あの、暴走族なんかの気持ちの中にはね、本当は暴走族の連中ってのは、個人的に言いますと、非常に気の弱い人が多いんですよ、どっちかと言いますとね。自分自身の力、腕力に対してはね、そんなにね、自信がないんですよ。だからこそね、ああいうね、馬力の強いね、ああいう、この、まあ、なんていうんですかね、オートバイをね、ブルブルブルとこうやるとね、もう自分がすごく力強くなった気がするんですよね、途端に変身しちゃう、ね。
これは大人にもありましてね、あの、自動車に、平生(へいぜい)、すごくね、謙遜でね、内気なようなね、男性がですよ、一度(ひとたび)ね、オーナードライバーになると飛ばして、ブーンブーンブーンとやってね、ものすごいんですよ、ね。へ~んし~んて言うんでしょうね(笑)、この頃にしたらね。それは要するに、今までの抑圧されたものが全部、出ちゃう、ね。自分自身が本当はね、そういうことがしたいわけ。だけど、自分に自信がない。ところが、物を借りてね、自動車とか、そういうものを借りてね、やると自分のような気がする。そこでそういうようなことを主張する、というようなことがあります。
だから、今言ったように、あんまり過保護にするとね、そういうことになっちゃう。そうして結局、困っちゃう、とかなんとかいうことになるわけですがね。それからまたね、ですから、過干渉ということがある。
それからさらにこれが、まだ良いんですけどね、これが無力感になって、しょっちゅうイジメられっ子になる。学校の成績も良くない。そういうことになりますとね、自分でものすごくね、あの、悲観しちゃうんですね。だからね、この人はね、ものすごく内気になって、内向的になってですよ、その結果ね、もう何ものも失敗しちゃってね。そうした、まあ、結果、自殺するという場合もあります、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

今回は、母親が子どもに対して非常に過保護な場合。
お母さんがいないと不安になってしまい、甘ったれで、自立できない、弱弱しい子、ひいてはイジメられっ子になってしまう。
それが思春期以降になると、母親の過干渉に反発したくなって、非行に走ったり、また、バイクや車の力を借りて、抑圧した思いを発散するようになったりする。
しかし実際には、非常に気の弱い、自信のない子であることには変わりがない。
それが無力感にまで行ってしまうと、内向的になって、自殺の危険性すら出て来ることになる。
やっぱり、自分が自分であることの幹を太くして行くためには、過保護・過干渉ではなく、試行錯誤をやらせてみて、手痛い失敗からも学ばせて、自力で切り拓いて行く力を養う必要があるわけです。
それにしても、今回も近藤先生の発言の中で、
「過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです。」
のひと言は、流石に鋭い。
これはね、対人援助職の人にも当てはまりますよ。
患者さん、利用者さん、メンバーさんにサービス過剰な人はご注意を。
それは相手のためではありません、自分のためですから。

 

 

家族や友人を失って初めて、その人の大切さを知る。
健康を失って初めて、健康の大切さを知る。
平和を失って初めて、平和の大切さを知る。
ライフラインを失って初めて、ライフラインの大切さを知る。
挙げればキリがない。
そうして、それらを失ったときには、これからはその大切さを忘れないようにしよう、と心に誓うのであるが、それもまた時と共に薄れ、元の木阿弥と化して行く。
それが凡夫。
気をつけても、気をつけても、そのときだけ。
心底バカだなぁ、と思う。

…で、話を終わらせては、夢も希望もない。
そんな凡夫でも、せめてできることはないでしょうか、という話。
なんでもいいから、一日一回だけでいいから、両手を合わせて頭を下げましょう、ということを提案したい。
どこを向いてやったらいいかって?
どこを向いてやったって構いません。
やってるうちに導いてもらえます。
ただ一所懸命にやることです。
人前で始めると、急にどうしたのかと訝(いぶか)しがられますから、一人のときにやるのがいいでしょう。
それだけでいいんです。
難しいことは言いません。
騙されたと思って、そんなことをバカみたいに毎日毎日やっていると、ちょっとだけね、普段から、当たり前のことが当たり前じゃなくなって、なんだか有り難く感じられるようになる“かも”しれませんよ。

 

 

いわゆる過去の偉人について、その評伝や評論、解説を平気で書く人がいる。
私はそれはとても難しい仕事だと思ってる。
何故ならば、偉人でもない者が偉人について書けるのか、という根本的な問題がある。
少なくとも偉人の境地に肉薄する体験を持っていなければ、書けるはずがないと私は思う。
厳しく言えば、
「燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志(し)を知らんや。」(『史記』)
(ツバメやスズメにオオトリやコウノトリの志がどうしてわかろうか、わかるはずがない)
である。
じゃあ、小人は偉人について一切語ってはいけないのか、となると、そうも思わない。
自分が足りないことを自覚した上で、一歩でも半歩でも尊敬する人物に近づくために、人間として成長するために、偉人が残した言動に触れて、今の自分の精一杯で、ああでもないこうでもないと思いを巡らせることには大きな意義があると思う。
何よりもこの“足りなさの自覚”が重要なのである。
その自覚のない、思い上がった、自己愛的な人物が語るものには、残念ながら、何の意味もない。
簡単にわかったと思うなよ、である。
それ故、かくいう私も近藤先生の言葉について語れるのである。
まだまだわかっていない。
その自覚がある。

しかし先生の言葉に触れることには、絶望ではなく、成長の楽しみがある。
私が近藤先生について書く場合、それは私にとって面談の続きなのである。

偉人たちが残した言葉もそういうふうに活用されれば、たとえそれが浅はかな解釈であっても、故人たちは笑顔で許してくれるものと思う。
 

 

夕方、隣駅まで行く用事ができた。
たまには散歩を楽しむか、と歩き始める。
かつて観たテレビ番組で、新幹線では流れるだけの車窓の風景が、各駅停車に乗るとじっくり楽しめる、と言っていたのを思い出した。
各駅停車どころではない、徒歩でこそ楽しめる風景がある。
そして自分の歩く速度がいつの間にか速くなっていたことに気がつく。
東京の人は歩くのが速いんですよ。
だからといって、実は大したことはしてないんですけどね。

そして敢えてとぼとぼと歩いてみた。
そうしてみてわかったのは、敢えてとぼとぼではない、これが本来の歩く速さだったんだな、と。
ゆっくりと流れる道路脇の風景。
東京はソメイヨシノが満開から散り始めである。
花びらの舞う速度が歩く速さにちょうどいい。
雲の流れる速さも。
公園で遊ぶ幼な子たちの声や笑顔もしっかりと入ってくる。
足の裏で一歩一歩大地を感じ取れる。
忘れていたちょうどの速さで歩くと、感じる世界が一気に広がり、そして、深まった。

あなたにもお勧めします。
とぼとぼと歩いてみましょう。
やがてそれがとぼとぼでないことに気づきます。

 

 

年を取ると、その人のパーソナリティ上の問題点が先鋭化する、という。
段々に抑圧が外れて来る(脱抑制)ため、その人の隠していた本性がダダ漏れになってくるのである。
恥ずかしきエロ爺(じぃ)と化してしまった元校長先生がいる。
人を口汚く罵(ののし)り、裁きまくるようになった元教会長老の女性がいる。
哀しいかな、それが本音だったのだから、今さら抑えようがない。

ですから、私は講義や講演などで、繰り返し若い人にお話している。
いいですか、今のうちから、本音と建て前を一致させておくんですよ。
年を取ったら、隠していた本音が露呈しちゃいますからね。
そして、建て前じゃなくって、その本音が変わることを本当の成長というんですよ、と。

しかし、年の取り方は、そんなトホホな展開ばかりではない。
いい感じにエネルギーが落ちてくる場合もある。
それまでこころの“見張り番(超自我)”に備給されていたエネルギーが加齢で段々減少してくる。
そうすると、以前は「~しなければならない」「~するべきだ」で、自分を締め上げ、返す刀で相手も締め上げていた“見張り番”が弱体化する。
また、“(自)我”に備給されていたエネルギーも加齢によって段々減少してくる。
そうなると、「何がなんでもああしたい、こうしたい」「絶対にあれもほしい、これもほしい」と思っていた“我欲”が弱体化する。
そうして、いずれの場合も、まあ、これでもいいんじゃないかな、と鷹揚(おうよう)な気持ちになってくる。
こういった変化は大歓迎である。
自然に肩の力が抜けるというか、自ずとおまかせの境地に近づいていく。
これは加齢の賜物(たまもの)といっていいだろう。

さて、あなたの加齢が、前者になるか、後者になるか。
それは神のみぞ知る、であるが、せめてできることとして、先に挙げた「本音の成長」だけは取り組んでおかれることをお勧めしたい。

そして、かくいう私がもし前者になったとしたら、すいません、優しくして下さい。

 

 

子どもの頃、歯が痛くなった。
痛さにわんわん泣いたのを覚えている。
歯科が休みだったのか、母は私をおぶって、近くの薬局に正露丸を買いに出かけた。
正露丸を虫歯の穴に詰めると痛みが治まると言われていたのである。
しかし、母の背中で痛みに泣きながらも、私は薬局に着かないことを祈っていた。
そう。
この母の背中で、直に母の温もりを感じられる時間が、例えようもなく、幸せだったのである。
幼い頃から母は、家事だけでなく、父の経営する病院の調理室の仕事までやらされ、実質的に無給職員のような扱いで働いていた。
そのため、四人の子どもに関わる時間がなく、しかも私(三男)と弟(四男)とは双子であったため、いつも二人で遊んでいるように見え、余計に手をかけてはもらえなかった。
しかし、いくら双子でも母親の代わりになるはずはない。
いつも寂しかったのである。
それが今回ばかりは母親を独占できた。
こんな嬉しいことはない。
だから、歯の痛さに泣きながらも薬局に着かないことを祈ったのである。
あの感触を思い出す度、幼少期に十分に寄り添われなかった子どもが、「基本的不安」に苛まれるというホーナイの説に納得がいく。
患者さんやクライアントの話を聴いていても、ネグレクト~マルトリートメントのために、大人になっても、不安と孤独感に苛まれている人は珍しくない。
ある女性は、今も彼にしがみついて寝るのだという。
その肌から感じる温もりと安心感で、ようやく不安が癒えて、眠れるのだ。
このように、不幸な生育史のせいで十分な愛着関係を得られず、そのために自我が感じる不安がある。
そしてその不安を解消するためには、なんらかの形で愛着を満たし、自我が安心するようにしてあげれば良い、ということになる。
精神療法や精神分析というものは、そのように、自我の感じるところを前提にして治療が組み立てられているのだ。

しかし、である。
今日書きたいのはここからだ。
人間が感じる不安は、そんなものばかりではない。
めったに出逢わないが、自分の存在=自我の存在自体の虚構性に気づいて陥る甚深な不安もある。
そうなると、自分が今ここに存在していること自体が、本当にそうなのか、不安になってくるのである。
この不安は強烈に深い。
また同時に、外界の存在の虚構性まで感じられて来ると、事態はさらに深刻となる。
自分の存在だけでなく、この世界の実在性までもが揺さぶられることになる。
これを欧米の精神病理学者は暢気(のんき)に「自我障害」などと言っているが、これは「障害」ではない。
確かに「離人感・現実感消失症」や「統合失調症」などにおいて、「障害」としてこの体験が起こることがあるが、ごく一部の人には、感覚が非常に敏感であるために、自分の存在の虚構性、この世界の存在の虚構性という「真実」を感じる人が存在するのである。
そうして起こる甚深なる不安は、先ほどのように、いくら彼氏にしがみついたところで消えはしない。
自分自身も、そして彼氏の存在も怪しいのであるから、消えるはずがないのである。
では、この不安はどうやって解消すれば良いのだろうか。
それはそうなった人にだけお話したい。
というのは、そこまで陥った体験がなければ、ここでどう語ったところで、一から十までピンと来ないに決まっているからである。
今までそんな話を共有できたのは、近藤先生と一人の親友だけであったが、万が一読者の中にその体験に苦しむ人がいるかもしれず、そのためにふと書く気になったのである。
いや、それだけではない。
昨夜、久しぶりにその体験が起きた。
自分の存在の虚構性が立ち現われ、内腑をえぐられるような、あの甚深な不安が起きたのである。
しかし、今の私は幸いにして、それを超える道を知っている。
だから、死にもせず、狂いもせず、こうして生きていられるのである。
そんな機縁で、今日このことを書いている。
また、わけのわかんないことを書いてるな、と思う方はどうぞ読み飛ばしてくれ給え。


 

アンポンタンなことに、昔の私は、人間が成長すれば、感情を克服できるものだと思っていた。

例えば、怒り。
これもまた、人間が成長すれば、何があっても腹が立たなくなるんじゃないか、と素朴に思っていた。
確かに、成長すれば成長するほど、ちょっとしたことで腹が立ちにくくなる、ということはあるかもしれない。
しかし、何があっても全く腹が立たなくなったとしたら、それは人間としておかしいんじゃないかと思う。
喜怒哀楽すべてがあって初めて人間の感情として健全なのではなかろうか。
よって、感情の超え方として、その感情、例えば怒りなら、怒りがなくなる、怒りをなくす、という方向性にはどうも賛同できない。
無理にそちらに進もうとすれば、ただ怒りを抑圧するだけの偽善的な誤魔化し方に陥ることになると思う(事実、そういう偽善者は多い)。
(以前にも触れたが、もし「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」というようなことができるとすれば、それは人間業ではない。神の御業だからできるのである)

そうではなくて、人間が成長すれば、感情はどうなるかというと、なくなりはしないが、以前に比べ、サラサラと流転するようになるのである。
例えば、腹が立ったとする。しかし、すぐ次に別の出来事が起きたとすると、怒りはすぐに流れてしまい、他のことを思っている。
ニワトリが三歩歩いたらすぐに忘れてしまうようなものである。
腹が立つことはなくならないが、キレが良くなる。
つまり、執着、固着の「着」が段々と薄まり、ネバネバしなくなり、サラサラと流れるようになるのである。
場合によっては、人間には記憶力があるので、またその腹が立ったエピソードを思い出すことがあるかもしれない。
そして思い出してまた腹が立つ。
しかし、それもまたサラサラと流転して行く。
これは経験してみればわかるが、非常に楽である。
恐らく、幼い子どもたちはこうやって生きているのだと思う。

よって、人間の成長としての感情の超え方は、
感情をなくす方向ではなくて
感情が起きてもサラサラと流転するようになる方向が正解であると私は思っている。

 

 

「私思うのは、いわゆる、子どもに対して、そういった意味で、母親とか、重要なんですが、その母親が、例えば…子どもを置きっぱなしに置いて、いろんなことをやりに行くというふうなことが起きますと、そういうことが非常に子どもに孤独感、寂しい感じを与えますね。不安感を与えます。そうしたものが、しかし、さっき言ったように、そこでもって敵意を母親に対して、イヤなお母さんだと思うけど、悪いお母さんだと思うけど、それを抑えてる。
抑えてることがずっと続きますと、そうしますと、その抑えられた敵意というものはどこかに出すもんなんです。あなた方が、例えば、夫婦喧嘩をして我慢をした。あるいは、上役にはっきり反抗できなくて我慢したと。そういうときにどうしたかというと、奥さんであれば、それは、あるいは猫に当たるとか、ね。そういうふうなことになるだろうし、また、普通の男の人であれば、さらに自分の下役を怒鳴るとか、ね。あるいは、まあ、せいぜいバーかどっかに寄って、ガーガー怒鳴って憂さを晴らすとか。どっかでそれを出して来ますね。
同じように、抑えられたものというのは、どこかで出して来ますから、子どもの場合に、それはどこに出るかというと、この例のように、例えば、この人は、お父さんとお母さんがですね、夜、飲み屋をやってるわけですよ、ね。それで、うちへね、学校から帰って、ずーっとね…たった一人で…小さな四畳半ぐらいの部屋でね、アレなんですよ、テレビを一人で観てるんです。そういうことを長いことやってる。そうやって、まあ、見捨てられた子どもですね。
そういうのが、こういうふうなものになって来て、それでどうしたかっていうと…学校に行きましてね、人の物をね、人がみんなこう、ちゃんとしてるでしょ、子どもたち。そうするとね、子どもたちの上にある本やなんか全部、うわーっと気違いみたいに、みんなね、メッチャクチャにしちゃう。それからね、人の物をね、どんどん自分で使っちゃう。つまり、敵意をそういう形で表してる。
これは大人から見ますとね、非行ですね、良くない態度でしょ。けれども、それはね、どこから出るか、よ~く考えてみるとね、そういったね、基本的にね、基本的に不安があるわけです。不安をね、それを癒してくれない親に対する敵意ね。そういうものが全部そこに来ているわけですね。…
例えば、あなた方は、あなた方の旦那さんの、ね、傍にいるだけで満足すること、ありませんか? 彼氏がどこかへ行っちゃって、寂しくてしょうがない、ね。だけど彼氏の傍が、彼氏が別にどうってことない。おお、おまえ、それじゃあ、なんてなことを考えても、そんなことじゃない、私はあなたの傍にいればいいんだと。こういうふうなことで満足することありませんか? ね。つまり、傍におられるということが、つまり、夫が傍にいるってことが安心感の素でしょ?
同じように、子どもにとってはもっともっと親の傍にいるってことは安心感の素なんですよ。その安心感を与えてくれない親に対する敵意ってのは当然でしょ。しかし、親に対する敵意は、さっき言ったように、下役の人間が上役に敵意を出せないのと同じように、出せるもんじゃないんですよ。出せないから抑圧する。抑圧したものをどこかへ持ってく。それが結局、いろんな問題が起きて来てるわけですね。
ですから、私は、無関心が、つまり、ある意味で、決して意図的には無関心じゃないけれども、子どもとの、子どもの傍にいない親、父親、母親、そういうものが、親ってものは、ひとつの問題を作る原因を僕は持ってると思います。これは、ひとつ、考えていただきたいと思います。
そこで、この人たちはどうするかって言うと、敵意をどこかで出す。そうすると一番始めのうちは、どういうことかというと、自分と同じような種類の友だちと結び合って、そして、この、そういったものをね、お互いに一緒にやろうと、こういうことになるわけです。類は友を呼ぶと言いますけども、不思議に、人間っていうものは、あの、お互いにね、共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすいんですね。偉いとこで、人間同士の友情と言った場合に、大変偉いところで結ぶ、素晴らしい性質を持ってるというところで結ぶことがあります。けれども、それよりも、お互いにこうだよね、というところで、言わば、連帯感を持つことが大変多いのです。
で、子どもの場合もそうなんです。だから結局ね、子どもの場合は、やっぱりね、自分と、類は友を呼ぶで、同じような人とね、結びやすくなる。そうすると、あんな子と遊んで!というふうにお母さんは言われるかもしれないけども、そりゃあ、子どもにとっちゃあしょうがない。そんなことだったら、お母さんよ、あなたが私に欲するものを与えて下さい、ということになるわけですね。
そういう意味で、私は、ひとつの、これを無関心、放棄タイプっていうかね、置き去りタイプ、そういうものになる。これ、旦那にもいるんですよ。無関心、置き去りタイプの旦那、いるんですよ。それを、だから、お母さんたちはご覧になって、自分がもしそうだったら、どうだろうか考えて下さい。無関心、置き去りで、仕事が大事なんだ、なんとかっていうんで、大変もう仕事ばっかりになっちゃって、うちへは帰って来ない。そういうときにあなた方はどんな感じがします?
これはね、あなた方の中にも、幼児性といいましてね、いいですか、子どもと同じものがあなた方にあるんですよ、みんなね、いいですか。だから、それだけにお母さんの方が子どもをわかりやすいの。それだから、僕はあなた方に余計、僕はアピールしたいんです、それをね。
そういう具合に、この、無関心、放棄型、あるいは、置き去り型というものが、という親があります。これはひとつの問題児を作って行く、ひとつのタイプであります。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

現代なら、働いているお母さん方も多いことでしょう。
近藤先生のお話を現代風にアレンジするとすれば、ただ親が子どもの傍にいれば良い、という話でもないのです。
っぱり重要なのは、そこに愛はあるんか、ということです。
例えば、諸般の事情からシングルマザーとして働いて、子どもと接する時間を持ちたくても、なかなか持てないお母さんもいらっしゃることでしょう。
じゃあ、その子どもたちが全員、敵意に満ちて非行に走るのかというと、そうではありません。
たとえ時間は短くても深い愛で子どもに接しているお母さんがいらっしゃいます。
愛は深さ×時間で、時間が短くても深さで勝負すれば良いのです。
そしてもうひとつ、近藤先生がさりげなくおっしゃったひとこと。
「人間っていうものは、お互いに共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすい」
がこころに残りました。
だから私は、思い悩んだ経験のある人の方が、今苦しむ人のこころに寄り添いやすい、と思っています。
但し、その思い悩んだ問題を今は突破していることも要求したいと思います。
今もまだ問題が未解決のままだと、一緒に漂流するだけになっちゃいますからね。
だから私は、苦しんで突破して来た人こそが良い支援者になれる、と確信しているのです。

 

 

坪庭の落ち葉掃除をしていたら、綺麗な緑色の細長い葉っぱを見つけた。
余りに鮮やかな緑色に見惚れて、思わず触れたら、この葉っぱが動いたんです。
ありゃ、こりゃあ、葉っぱじゃなくって、バッタか?
よく見ると、確かに正面に仮面ライダーの顔。
人差し指と親指で細長い胴体部分をそっと掴むと、モソモソと肢を動かして
「やめてくらさい。」
のアピール。
気温の低かったせいか、体動がとてもスローで、私にはどうしても「やめてください」ではなく「やめてくらさい」に聴こえた。
これ以上触るのは気の毒と思い、ゆっくり放すと枯れた芝生の下へガサガサと身を隠して行った。

それにしても鮮烈な緑、いや、碧(あお)というべきか。
生命(いのち)の塊に触れたような気がした。
具体的なもの(バッタ?)に抽象的なもの(生命(いのち))を感じる。
限定的なもの(バッタ?)に永遠のもの(生命(いのち))を感じる。
我ながら、これが日本人の精神性の伝統だ。

後で調べてみると、ショウリョウバッタなどのバッタは卵で越年するそうで、この時期にこの大きさの成虫が観られるのはキリギリス、特にクビキリギリス(クビギリス)らしい(バッタとキリギリスが違うことを初めて知った)。
クビキリギリスは噛む力がとても強いと書いてあり、危ない、危ない。

でもやっぱり、あの碧は触りたくなるよなぁ。

 

 

「4月1日から居場所を失ってしまう方へ」という見出しのネットニュース記事を見た。

夏休み明けの子どもたちに配慮した記事(また学校でイジメに遭うのを苦にして自殺を図ることを予防するための記事)は見たことがあったが、確かに、年度替わりもまた人間が窮地に迫られる時期である。
仕事がない、住むところがない、頼るところがない、そしてどこにヘルプサインを出して良いのかもわからず、そもそもヘルプサインを出すことさえ断念している人たちがいる中、こちらから当事者に声をかけていくこの姿勢は重要だと思った。

ある若い女性が、居場所をなくしたときに、ポツリと「死んじゃおうかな。」と漏らしたのを覚えている。
幸(さち)薄い彼女の生育史を思えば、それは注意獲得的な演技ではなく、掛け値なしの本音であった。

腐っても日本。
長年、精神科医療に携わって来た経験から言うと、日本国は衣食住と医療とを提供する力は持っている。
まずは公的機関に相談しよう。
住居が確保でき、当面の衣食が間に合えば、未来への計画を立てる気にもなってくる。
そしてあなたのことを気にかけてくれる人がつく。
そこから人生を逆転して行った人間はいくらでもいる。
先に挙げた彼女もまた、今は元気に働いている一人である。

こんな小さなサイトの、こんな小さなひと言でも、声をかけようと思います。
少なくとも、これを読んで下さっている方たちの中に、小さな輪が広がるかもしれないから。

折角もらった生命(いのち)だもの。
あなたが今回の人生で果たすべき意味と役割が絶対にあるんです。
死ぬのはそれを果たしてからで十分です。

 

 

2024(令和6)年7月2日付けの小欄において『『対面面談の際のマスク着用の自由化およびリモート面談の継続について[最新報]』をお知らせしました。
今回はその続報です。

新型コロナウイルス感染症につきましては、世間では最早、「今、コロナ、第何派だっけ?」「まだ第何派って言ってるんだっけ?」というような状況ですが、私の周囲でも新型コロナウイルスに感染する方はゼロにはなっておりませんし、まだ厚生労働省から終息宣言も出ておりませんので、今は“第12派”としてカウントされているようです。

【1】そのような状況下における当研究所における感染対策としましては、引き続き、
当研究所入室時のアルコール手指消毒
当研究所対面面談時のマスク着用
しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。
但し、風邪などを引かれている場合、咳、くしゃみなどの症状がある場合には、コロナ前と同じく、マスクを着用されるか、病状により面談日時を変更されるかをお願い致します。
尚、私(松田)自身は、今しばらくマスク着用を継続するつもりです。
また、ハイブリッド勉強会対面参加される場合につきましても、引き続き、マスク着用しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。

【2】また、現在、Skype、Zoom、Facetime などでリモート面談を行っている方々につきましては、今後も引き続き、Skype、Zoom、Facetime などのリモート面談の利用継続可能と致します(尚、Skypeのサービスが2025(令和7)年5月5日をもって終了となることにつきましては、既にお知らせ致しました)。
新型コロナウイルス感染症拡大が落ち着けば、リモート面談の利用継続可能を続けながら、「1年に1回は八雲総合研究所に来所いただき、対面面談を行う」こととする予定ですが、新型コロナウイルス感染症拡大状況がまだ第12波にある以上、これも延期とし、厚生労働省による終息宣言が出るまでは現状維持と致します。

以上、どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

昨日書いた「依存しながらブータレる問題」は、思春期の子どもたちや、自立しそこなった大人子どもたちだけの問題ではない。

稀に当研究所に“間違って”面談を申し込んで来る人たちの中にも、それが見られる。
自分自身の問題に対して「情けなさの自覚」を持っている人しか対象にしていないが、その人の成長課題や問題点を指摘すると、“面白くない”とか“腹が立つ”という反応をする人がいる。
ということは、まだ抵抗や反発ができる分だけ、「情けなさの自覚」が足りないのである。
そしてそれでいながら依存はしたい。
おいおい、当研究所はそういう場所ではないぞ。
道場に来ておいて、稽古が厳しいというなら、軽い運動と甘い褒め言葉のサロンにでも行った方が良い。
即面談終了として、お引き取りいただいている

反対に、成長課題や問題点の指摘を喜ぶ方たちもいる。
あいたたたた、でも、いつまでもこんなところにはいられない。
一緒になって真剣に突破の道を探って行く。
そのプロセスは苦しくも甲斐のあるものである。
そして現に成長して行かれる。
そういう方たちのために当研究所はある。

しかしながら、これが「治療」となると、また話は変わる。
「情けなさの自覚」の醸成にも長い時間がかかるし、
「成長への意欲」の発露にも相当な時間がかかる。
向精神薬が必要になることも多い。

そういうところから始まるのが「治療」である。
じっくりやらざるを得ない。
しかし、そんな中からでも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持って、治癒+成長して行かれる方々もいる。

苦しんだからこそ、本当の答えでないと、納得できないという方々もいる。

「成長」だろうと「治療」だろうと、結局は、取り組む「姿勢」、生きる「姿勢」というところに話は帰着する。
依存しながらブータレているヒマはないのである。

 

 

思春期の子どもを持つ親御さんの偉いところは、親に依存しないと生きて行けないくせに、生意気にも反抗・反発・ブータレてくる子どもの世話を、それでもちゃんと焼いていることである。
もっと幼い頃は可愛いかったが、この年頃になると段々可愛くなくなってくる。
かといって、自分たちが成した子である以上、扶養義務がある。
思い通りにならなければ捨てる、というわけにはいかない。
よって、どんなに生意気な子どもでも、生活させ、学費を払い、小遣いまで与えるというのは、義務と言えば義務であるが、親として大したものだと思う。

しかしながら、扶養義務がかかるのは20歳まで。
それを過ぎれば、あるいは、遅くとも大学や専門学校卒業後には、特別な事情がない限り、とっとと自立してもらった方が良い、できれば、家を出るという形で。
どうしても同居を続けるというのであれば、せめて別居に等しい経済的および家事の負担を担わせた方が良いと私は思う。
そこらを心しておかないと、いい年になっても、依存しながら文句をタレる、気持ちの悪い大人子どもを作り上げてしまうことになる。
8050問題は、特別な親子関係においてだけ起こる事態ではない。
そうではなくて、
大人になったら、文句があるなら出てけ、が当たり前である。
上等じゃないか、こんな家出てってやる、と来て、初めて子別れ、親別れが成立するのだ。

悪依存するんじゃないよ。
悪抱えするんじゃないよ。

互いの生命(いのち)の成長のために。

不安だけど夢がある。
心配だけど期待がある。

そんな子と親双方の自立を期待したい。

 

 

 

近藤先生が非常に難しい患者さんの治療に取り組み、ようやく治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。 
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と近藤先生に三拝九拝して感謝されたそうだ。

またある時、別の非常に難しい患者さんの治療に取り組み、紆余曲折を経て治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。
その経過を聴いて喜ばれた鈴木大拙は、近藤先生の両手を握り、涙を流して「ありがとう、ありがとう。」と感謝されたという。

普通ならば、相手に感謝されたとき、人間はちょっと遠慮して「いやいや。」「とんでもない。」と謙遜してみせることが多い。
しかし、近藤先生はそうしなかった。
これらの感謝の言葉に対して「ありがたいですね。」と応じたのである。

即ち、自分が治したのであれば、「オレが治した。」と誇ることもできるし、そう思いながらもちょっと謙遜して「いやいや。」「とんでもない。」と言うこともできる。
しかし、近藤先生の場合は、自分が治したという自覚はまるでなかった。
自分を通して働く力が、そして、その人を通して働く力が、治すのである。
だからどうしても返事は「有り難いね。」となる。

そして話を戻せば、鈴木大拙の「ありがとう、ありがとう。」という言葉も、実は近藤先生に対して言った言葉ではなかったことがわかる。
鈴木大拙が近藤先生に対して言った言葉は、実は、近藤先生に対してではなくて、近藤先生を通して働く力に対して言ったのである。

おわかりか?

よって、全ての手柄は、人間にはなく、あなたを通して、私を通して、この世界を通して働く力にこそあるのである。
褒めるべきは、讃嘆すべきは、この力だけである。
よって、キリスト教では「褒むべきものは神の御名のみ(褒められるべきは神さまの名前だけである)」という。
神の御名を唱えながら、これが仏教ならば、仏の御名を称えながら、というわけで、南無阿弥陀仏に落ち着くのである。

ありがとう/ありがたいね。

 

 

「そこで、基本的に幼児時代というものは、母親の問題が非常に大きい。そのときに母親がです、その、もし不安だけ与える、不安だけ与えて、不安と、つまり愛と、愛憎がありますと言いましたけれども、愛が少なくて、あるいは、愛より、愛してはくれるけど憎が多いというふうな状況を作って、憎しみが大きい状況を子どもに作ったら、どういうことになる。そうしますと、この憎しみを主張しようとしますね。そうすると、それは母親に、ところが、幼児の立場から言やぁ、お母さんはもし自分が主張したら、自分を見捨てるかもしれないでしょ、ね。
あなた方もそうですね。旦那さんに対する憎しみがあっても、それをあんまり主張しちゃったら、旦那に捨てられちゃうでしょ。捨てられちゃうと自分の安全がなくなりますね。三食昼寝付きでテレビ観てるってわけにいかないでしょ。だから、結局ね、そうすると自分の敵意はこう抑えちゃってね。我慢するでしょ。我慢したけれども腹が立つ、我慢したものっていうものは、それを抑えなくちゃいけない、抑圧しなくちゃいけない。これは術語で言いますとね。抑圧するといつも敵意があります。
これ、男性で言いますと、上役がいますね。上役が怒鳴ると。そうすると、それに対して、この野郎!とこう敵意が起こる、ね。そうすると、この野郎!と思うけども、これを、しかし、あいつにやるとクビになっちゃうとかね、昇進が遅れるとか、やれどうだとかで、ここで我慢。忍耐、これね。忍耐する。忍耐っていうのは日本の美徳です、これね。我慢に我慢を重ねて行く。その結果、どうかっていうと、心の中に、この野郎!っていう気持ちがある。その気持ちは、忍耐の下にこう抑えられている。沢庵石(たくわんいし)の下の漬物みたいになってる、こうやってね。そういうものが爆発するとね。例えば、前の校長がどっかに行っちゃう。もう大丈夫だ。あいつはもうアレだっていうんで、グーッと出て来てね。前の校長に対してそういう気持ちを思っていたと仮定しますよ、そうすると、今度なった校長先生と、あるいは教頭に対して、もうその先生は文句だらけだな。
そういう具合に、人間っていうのはね、非常によく見ますとね、この、愛憎というものの不思議なね、絡み合いの中で生きてるようなもんです。で、私はこんなことを言うのは、大人のことを言ってるのは、これが子どものことにも関わって来る。子どもの問題っていう場合に、やっぱりね、そういうものをね、見逃してはならないということです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

愛憎のアンビバレンスの中でも特に、憎、憎しみの抑圧ということが問題になって来ます。
愛憎のうち、愛の表出は一般に歓迎されますが、憎の表現は抑圧されやすいのです。
そうなりますと、表出されない憎は、いつもその人の中にあることになります。
子どもでも大人でも、我々の中に抑圧されいる感情で、最も大きいものは、憎=怒りなんじゃないでしょうか。
虐待された子どもも、マルトリートメント(不適切な関わり)された子どもも、そのときは、親は恐いし、しかも愛着の相手でもあるし、憎=怒りは抑圧されてばかりとなります。
また、夫や上司にひどい扱いを受けた大人も、利害関係や恐怖から、その憎=怒りは抑圧され続けています。
けれども、その憎=怒りはなくなってはいません。
よって、それが後になって、適当な機会をとらえて噴出して来るわけです。
このからくりをよく知っておく必要があります。
そして、できるだけ早いうちに、その憎=怒りを健全な形で発散できないか、解消できないか、ということが重要な問題になってくるわけです。
とにかく
子どもは憎んでいる、怒っているということを
大人は憎んでいる、怒っているということを
自分は実は憎んでいる、怒っているということを
よくよくわきまえておきましょう。
やっぱり感情はね、成仏させてあげないといけないのです。

 

 

一時「親ガチャ」という言葉が流行った。
「ガチャ」(カプセルトイの販売機=ガチャポンによる)のように、どういう親の元に生れるか、それがどんな酷い親であろうと、子どもは親を選べないという意味だったように思う。

そうしたら、今度は「医者ガチャ」という言葉に出くわした。
医療機関を初めて受診した際、どんな医者が出て来るか、それがどんな酷い医者であろうと、患者は医者を選べないという意味らしい。
厳密に言うと、今はSNS上の書き込み情報などを読むことができ、或る程度の下調べも可能になって来ているし、その医者と合わなければ病院を変えれば良いので、まだ「選べる」方かもしれない。
また、医者の方からすれば、「患者ガチャ」もあり、一方だけの問題でもない。

そこからさらに眼を大きく転ずれば、多少の程度の差はあれ、この世には、「親ガチャ」「患者ガチャ」どころか、「入学ガチャ」「進級ガチャ」「クラスメートガチャ」「担任ガチャ」「入社ガチャ」「異動ガチャ」「上司ガチャ」「部下ガチャ」「転職ガチャ」「引っ越しガチャ」「結婚ガチャ」「入店ガチャ」などなど、「ガチャ」が数限りなくあることが観えて来る。

そう。
察しの良い方はお気づきであろう。
「ガチャ」には、思い通り、希望通りにならないもの/人に当ったらイヤだなという、はっきり申し上げて、自己中心的願望のニュアンスがあるのであるが、
本来は、出逢うべくして出逢う「縁」という意味なのである。
それを選り好みする(これはイイけど、あれはイヤ)観点からすれば、「ガチャ」という表現になる。

この世の中は、残念ながら、思い通りにならないようにできている。
その思い通りにならないところから
そこをまた思い通りにするために頑張りに頑張るのか
思い通りにならないことが気に入らない自分(自我)というものを超えて行こうとするのか
で、その後の展開は、天と地ほど違って来るのである。

そう思うと、「ガチャ」から学べることは、実はたくさんありそうだ。

 

 

酷い上司、先輩、同僚、部下、あるいは、酷い家族に囲まれて、苦しい環境で生きている人たちがいる。
そうなると人間は弱いもので、
「こういうときはこうやっときゃいいんだよ。」
「そういうときはそう言っときゃいいんだよ。」
「テキトーにヨイショしといて、裏で舌を出しときゃいいのさ。」
などと、いわゆる世俗的な処世術を教えられると、ついそっちに走りたくもなる。
そういうことを、頼んでもいないのに言って来る人たちは、自分自身が使っているちょろまかし方を教えて来るのであり、(自分だけが負け犬のすれっからしになりたくないので、)一緒に泥沼に沈んでいく道連れを増やそうとしているとも言える。

しかしながら、そこで踏みとどまって、自分だけは易(やす)きに流れずに、ど真ん中を歩いて行くことは、実にしんどい。
しんどいけれど、それでもやっぱり私としては、その道をお勧めしたい。

私もそこそこ長く生きているので、濁世(じょくせ)の大変さを知らないわけでもないし、そんなに簡単にど真ん中を歩いて行けないこともよく知っている。
私自身も、アンポンタンでポンコツの立派な凡夫である。
しかし、それでも最初から諦めていてはダメだと申し上げたい。
現実には、ひーひー言いながら踏ん張って踏ん張って踏ん張って、実際に達成できるのは目標の6割くらいかもしれない。だからこそ最初は100を目指すのである。最初から60じゃあ、現実にはその6割、36くらいになってしまう
そうやって、無能、無力、非力の凡夫の自力を尽くしながら、自分を超えた他力を祈ってやっていくしかないのである、ひーひー言いながら。

そうするとね、1年や2年では変わらないけどさ、何年も何年もそうやっているうちに、
「ああ、やっぱり、魂を売らないで、ど真ん中を歩いて来て良かったな。」
「昔の私に、それでいい、と言ってやりたい。」
「こんなに自分が自分でいてのびのびできる時間が来るとは思わなかった。」
と心底思える日が来るのである。
これらはあなた方の先輩たちの言葉である。

だから、それでもど真ん中を歩いて行きましょうよ。
少なくとも、歩いて行こうとしましょうよ、ひーひー言いながら。

その甲斐はきっとありますよ。

 

 

Microsoft は、Skype のサービスを2025(令和7)年5月5日(月)をもって終了すると発表しました。
Skype は Microsoft の Teams に集約されるとのことです。

つきましては、当研究所のリモート面談を Skype で行っている方は、2025(令和7)年5月6日(火)以降のリモート面談を Zoom あるいは Facetime に移行することと致します

[1]Zoom への移行を希望される方は、
(1)予め2025(令和7)年5月6日(火)以降のリモート面談当日までに、当日使用するスマホかタブレットかパソコンにZoomをダウンロードしておいて下さい。
(2)当日の面談予約時刻の5分前~定時に、招待メールをお送りしますので、招待メールを送ってほしいメールアドレスを予め主宰者
までメールで知らせておいて下さい。

[2]iPhone iPad をお持ちの方は、Facetime への移行が可能ですので、ご希望の方は予め2025(令和7)年5月6日(火)以降のリモート面談予約前日までに主宰者まで、面談時に口頭かメールでお申し出下さい。

Skype からのスムーズな移行のために、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

 

朝早めの仕事が入ったとする。
その分、朝早く起きなくちゃ、と思う。
この「なくちゃ」=「ねばならない」が動き出した途端、睡眠が浅くなり、夜中に何度も目が覚め、結局、翌日は睡眠不足気味となる。
そんなことが何度もあった。
そんなことくらいで、どうしてこうなるんだろう、と昔から思っていた。

それは「ねばならない」が動くと同時に、「そうしないと大変なことになる」「そうしないと責められる」が働くからであり、そうなるにはそれだけの生育史上の体験があった。
子どもが生まれつき、そんなふうであるはずがない。
相手(=親や先生や大人たち)の意向に添わなかった、合わせられなかったときにくらった叱責や非難による不安と恐怖の体験の積み重ねが、後生(こうせい)にまで祟っているのである。

現実には、万が一寝過ごしたり遅刻したところで、市内引き回しの上、磔(はりつけ)獄門にはならないし、この世の終わりも来ない。
しかし、それは理屈であって、理屈は理性しか納得させられない。
不安と恐怖は感情であり、理屈は感情の前では無力なのである。
よって、感情の面での安心を勝ち得なければ、この問題は解決しない。

従って、過去の内省、分析よりも(分析は理性的理解しかもたらさない。知的に整理はできるがそこまでである)、丹田呼吸で肚が据わる方が余程、根本解決となる。
肚が据われば、殺すんなら殺せ、で、殺されることが恐くなくなれば、恐いものは何もない。
ちょっとしたことで眠りが浅くなるような小心な自分が、今度は、世間一般の人たちよりも遥かに揺るがない境地を獲得できる。
これが面白いところである。
よって、小心な人は大歓迎である。
特に、自分が小心であることを、良い格好せず、認められる人で、かつ、その小心さを乗り超えたいと心から望む人は(結局は「情けなさの自覚」と「成長への意欲」ということになる)、自らの伸びしろに大いに期待していただきたいと思う。

 

 

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医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。