八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「私の田舎は、へんぴなところで、瀬戸内海の真ん中の孤島みたいなところで、水清く、まったくの白砂青松(はくさせいしょう)で、のんびりした漁村です。そんなところで暮らしていたのが、急に東京にパッと出されて、しかも小学校へ行ったら、まず方言でみんなからあざけられたり、からかわれたりしたわけです。あんな、いやな気持ちはないですね。子どもを転学させる場合は、よっぽど気をつけてくださいよ。
私は、故郷のことが非常になつかしくなったものですから、作文に書いた。そうしたら、先生がそれをすごく認めてくれて、もう少ししたらさみしくなくなるからと、はげましてくれた。それで、私は助かったんですよ。いろいろな理屈をいいますけれど、人間が弱ったり、くたびれたり、心細くなったり、悲しくなったり、苦しんでいたりするときは、どうか、慰めてあげてくださいよ。やっぱり、それが人間同士ということではないかと思います。いろんなことで苦労して、悲しんで、苦しんでいるときはには、親鸞さんがおやりになったようにひとつお酒でもあたためて、一緒に飲んであげることもいいと思う。念仏を称えよとも、何をしろともいわないんだなー。ただ、お酒を一緒に飲んでと、そういうことなのです。私はそういうものだと思う。むずかしいことはいわなくとも、人間の気持ちは、お互いにやっぱり感じる力を持っているのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

9月4日(木)付けの拙文を読んでいただければ、この近藤先生のコメントの位置付けが、よりはっきりされるでしょう。
子どもたちに寄り添うとき、
娑婆で精一杯生きているフツーの人たち(即ち、俗人、凡夫)に寄り添うときは、
こういきたいものです。
そんなときは「念仏しなさい」なんて言わなくて良い。
分析も説明も要らない。
しかも、
「さあ、飲みたまえ。」
ではなく
「さあ、一緒に飲もう。」
なのである。

 

 

「面談の進め方」の基本については昨日述べた。

自らの問題や成長課題を誤魔化さず、真摯に見つめ、言葉にしていく「情けなさの自覚」。
そしてその問題や成長課題をなんとしても解決・突破していこうとする「成長への意欲」。
これが「面談」の根幹になることは間違いない。

それを踏まえた上で、今日はその「補足」を記しておきたい。

ひとつは、「自分が今まで生きて来た歴史上の問題点」に気づくこと。
特に親との関係や心の傷となった過去の出来事などが浮上して来る場合がある。
抑圧が外れ、封印が解かれて、直面化せざるを得なくなって来る。
だが、心配は要らない。
基本的に、向き合う準備ができていないことを思い出せないようにできているからである。
(即ち、思い出せるということは勝負できる準備が整ったということになるのだ)
過去の呪縛から脱し、あなたがあなたを生きていくために、そういった話題も繰り返し取り上げる必要がある。

そしてもうひとつは、「過去」のことではなく、「今」起きて来るさまざまな出来事がある。
そのうち、「特にあなたのこころを揺さぶる出来事」の中には、あなたの問題や成長課題を刺激するテーマが隠れている。
そこを見逃さないで、掴まえ、そのからくりをひも解いて行く。
「今」を扱いながら、そこにもまた「過去」が、過去の未解決の問題が潜んでいるのである。
これもまたあなたが解放され、成長していくために必要である。

そして最後に、
自らの「成長」が感じられて来ると、
「こんなことが感じられるようになりました。」
「こんなことが言えました。」
「こんなことができました。」
という発見もある。
こういった、あなたがあなたを取り戻していく「成長」の“喜び”も、是非共有したいものである。
しかし、経験した方はおわかりであろうが、その“喜び”も束の間、長く浸ってはいられない。
次々と新たな成長課題が見えて来るからである。
終わりなき「成長」が、この道の宿命なのだ。

その他、取り上げればキリがないので、まずはここまでにしておこう。
少しでも「面談」のイメージが整理できたのであれば幸いである。

 

 

「面談の進め方」というような「方」=“How to”な言い方は、死ぬほど嫌いであるが、
新しく面談に来られる方々のために
また
今、面談に来られている方々がそもそもの来談の原点を見直すために
今回、敢えて記しておこうと思った。
ご参考になれば幸いである。

まず何よりも、言わずと知れた当研究所の面談の基本姿勢は、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」である。

よって面談は、クライアントが自分自身についてどこをどう情けないと思っているか、という「情けなさの自覚」の独白から始まる。
言わば、自分で自分の問題提起をしていただくことになる。
私に言われて、ではなく、まず自分から、自分の問題を取り上げることに大きな意義がある。
これがないことには面談が始まらない。
実際、ちゃんと自分を見つめれば、1週間の間でも、「できなかったこと」「やらかしたこと」の三つや四つはすぐに見つかるはずである。

そして私はその独白を伺いながら、それが問題の核心を突いているか否か、それが浅いか深いか、などを観通して、フィードバックして行くことになる。
そうやって二人で「何が本当に問題なのか」を明らかにして行くわけである。

それが明確になって来ると、次にその問題をどう解決して行くか、どう乗り越えて行くか、という話になる。
問題を見つけただけでは何にもならない。
そこで下を向いてお通夜のように過ごしても何も変わらない。
「で、どーする?」 
の段階に進んで行くわけだ。
その根底に「成長への意欲」が働いていることは言うまでもない。
それについても、まずご本人の解決策、突破策を伺う。
実際にこう言ってみました、こうやってみました、でも良い。
(思いつくところからで構わない。何よりも自分で考えてみるという姿勢が大事なのである)

そして私はそういった案を伺いながら、それが本当に問題解決につながるか否か、それが浅いか深いか、などを観通し、フィードバックして行くことになる。
そうやって二人で「どうやって解決し、成長して行くか」という道を見い出して行くわけである。

こういうことを毎回繰り返すことによって、何を目指しているかというと、
自分ひとりで、自分の問題の核心を掴み、
自分ひとりで、本当に有効な解決策を見い出せる
ようになっていただくことである。

かつてホーナイが唱えた「自己分析」の本質がここにある。
クライアントのセラピスト(精神分析家)による被分析体験が、クライアントが自己洞察し、自己成長して行く力をはぐくんでいくのである。

もちろん上記のことが最初からスムーズに進んで行くわけではない。
必要な試行錯誤を繰り返しながら進んで行く。
むしろその試行錯誤に意味がある。
また、「自己分析」する力を付けるには(面談頻度にもよるが)最低、年単位の時間がかかる。
可能な範囲で構わないので、必要な時間をかけ、肚を据えて、取り組んでいただきたいと思う。

それであなたの人生が変わるならば、
少しでもあなたが本当のあなたを生きることができるようになるのであれば、
本気になってやってみる価値があると思いませんか?

 


 

今日は久しぶりに「講演」を行った。

新入職員研修などを除けば、「講演」がどれくらいぶりになるのか、記憶が定かではない。
新型コロナウイルス感染症拡大以降、「講演」自体が途切れていた上に、「講演・講義等のご依頼」にある通り、「対象」を明確にして来たため、今回のような開催は本当に久しぶりであった。

世間には、残念ながら、テキトーにやりくりしながらちょろまかし、わかったようなことを言っている人たち(特に専門職)が多い中で、今日のような方々を「対象」とした「講演」をしてみると、「反応」や「感想」も自分に引き付けて、良い格好しないで正直に発言されるので、ああ、これでこそ私の思う「講演」なんだよね、と強く思う。
そこに仲間の、同志の匂いがする。

今の私には、余計な色の着いていない新人たちか、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った人たちかのどちらかに関わることに、はっきりとしたミッションが感じられるのである。
感じられるのだからしょうがない。

今日出逢った方々とは
またお逢いしましょう。
またお話しましょう。
そして
まだ見ぬ、お逢いすべきあなたとも。

 

 

当研究所の「人間的成長のための精神療法」の「対象」を、医療・福祉系の国家資格者から「一般市民」に再拡大してから1年以上が過ぎた。

有り難いことに、面談申込者の多くは、正確に「対象」=「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を理解して申し込んで来られ、再拡大して良かったと思っている。

面談に来ておられる方々は、どこかで私の講演を聴いた、私の講義を受けた、一緒に働いたことのある医療・福祉系の国家資格者の方が多いのだが、そんな中で、この『塀の上の猫』を読んだだけで面談を申し込まれる方が、「一般市民」の中には多く、不思議な縁を感じる。

当研究所は、松田精神療法事務所時代から、気軽な気持ちでわんさか面談申し込みがあるような開業スタイルではないが、申し込まれる方は本気で申し込まれる場合が多く、私としてもやりがいを感じている。

世の中では決して多数派ではないと思うけれど、それこそかつての私がそうであったように、真剣に悩んで、自分の成長課題や問題点を一所懸命に見つめて、成長・突破したいと心から願っている人がいないわけがないのだ。

そんな人がこの世の中にいるはずだ、と思っていること自体が、私の人間というものへの期待である。
この期待は捨てられない。

そんな“仲間”に逢って、共に成長して行きたい、とこれからもずっとずっと願い続けるだろう。

 

 

久しぶりに渋谷のデパートにでかけた。

ある買い物のためであったが、ついつい道行く人たちを眺めてしまう。
外国人観光客らしい人たちが多いなぁとか、
こういう人は渋谷や新宿にしかいないなぁとか、
眺めながら、
ちょっとお洒落をして来ている人たち ー デートかな、友だちとおでかけかな、はたまた観劇やライブやコンサートかな ー を見るのも良いもんだなぁと思った。

だからどうだってんだ、という話でもあり、
言ってしまえば、それもまた虚栄心なのかもしれないが、
ちょっと“気合い”の入ったファッションやメイクには、それはそれなりの“俗世の華”を感じるのである。
やっぱりそういうのもないとね、俗世は俗世でつまんないのよ。

思い起こせば、かく言う私も、講演や講義がないと、スーツも着ないし、ネクタイもしないわな。
ついつい楽な格好で済ませたくなっちゃうのよ。
そう言えば、たまに拝見する近藤先生の燕尾服姿はかっこよかったなぁ。

だから、皆さんもたまにはね(毎日でコッテリだとそれはそれで食傷気味になってくるが)、“気合い”の入ったファッションやメイクでおでかけしましょ。
なんかこの俗世の“場”がね、華やぐのでありました。

 

 

 

例えば、少年・少女が、失恋した、受験に失敗した、部活でレギュラーになれなかったなどで失意に沈んでいるとする。
それが彼ら彼女らの一所懸命なのであるから、寄り添って慰めてあげることが大切である。

そんなことにとらわれてどうする、などと詰める必要はない。
それが子どもである彼ら彼女らの精一杯なのだから。

そして大人の場合でも、我々のように内省的に生きている方が稀なわけであるから、失業した、離婚した、癌が見つかったというような場合、それでいっぱいいっぱいなので、その失意に寄り添うのが相応(ふさわ)しいと言える。
そんなことにとらわれてどうする、などと詰めるのは酷というものだ。
これまた、それがその人の精一杯なのだから。

しかし、「情けなさの自覚」を持ち、「成長への意欲」を持っているというのであれば、話が変わって来る。
向き合う準備ができているというのであるから、そんなことでよしよししてあげるわけにはいかない。
それは却って本人の可能性や伸びしろを潰すことになる。

よって詰める。
どこどこにあなたの成長課題、問題がある。

そして、そんなことにとらわれてしまう境地を超えて行こうと。

詰めるのか寄り添うのか。
その人がどの段階にいるのか、その見極めと自覚によって決まって行くのである。

 

 

「いままでお話した、色々の欲望の挫折というものを、西洋ではフラストレーションといってそれを、苦しみと一応は考えています。欲求の不満が苦しみ、欲求の挫折が苦しみということであります。しかし、私は、自分自身でずっと考えてみて、苦しみや悩みというものの分析については、仏教の右に出るものは他にないと思うのです。たとえば欲求不満というものを、仏教ではとっくの昔にいっているわけです。
 求不得苦(ぐふとっく)
 五陰盛苦(ごおんじょうく)
 愛別離苦(あいべつりく)
 怨憎会苦(おんぞうえく)
四苦八苦という言葉があるのをご存知でしょう。たとえば欲求不満というのをどのようにいっているかというと、求めて得ざる苦しみ、欲求が満たされないことでしょう。この欲求不満ということを、フロイトがいろいろいう前に仏教では、そういう苦しみがあるということを教えているわけです。『求不得苦』というとわからないけれど、これは「求めて得ざる苦しみ」ということです。もう少し仏教の分析を話したいと思います。先ほど、私がいった欲望を追求していきますと、だいたい私たちの欲求は感覚的なものです。それをどのようにいっているかといいますと、『五陰盛苦』といいます。五陰とは、五感ということで私たちの感覚ということです。その感覚からくる欲望が盛んだと、苦しむというわけです。このことは、改めて認識してもらいたいことだと思います。
自分の好きな、愛しているものから別れて離れなくてはならない。どんなに好きでも思い切らなくてはならない、好きでも一緒になれない苦しみ、そういうものがありますね。『愛別離苦』ー これは異性の場合だけではない。自分の父や母や子ども、すべて自分が愛情をかけてるもの、愛情を感じているものから別れていく、離れていくこの悲しみ、苦しみ、そういうことをいっているわけです。
こういうことは我々にとってよくあるでしょう。執着するから、愛執とか、愛着とかいいますね。それをにぎりしめて、所有して、どうしてもそれを奪われたくないという気持ちですね。しかし、いろいろなことで奪われる。自分の非常に大事な子どもを病気によって奪われていくとか、自分の愛人を人にとられるとか。いずれにしても日常茶飯におきている出来事のなかに、愛を中心とした執着、愛するものをなくす、また愛するものと別れる悲しみ、これらは私たちの生活における重要な苦しみなんですね。
それからもうひとつ、自分がうらんだり、憎んだりしている、いやな人と会わなければいけない苦しみ ー 姑と嫁もそうですね。毎日毎日顔をつき合わせて、お互いにいやだなあーと思っている。いやだなあーと思ってお互いに憎みあい、苦しみあっている。どうして私は、こんなに憎むのだろう。どうして私は、こんなに憎まれるのだろう。お互いに、うらみ、憎んでいる人と暮らさなくてはいけない。こういう現状から、ほんとうは離れたいのです。けれど、こういうことをよく考えてみると、現在この世で生きている我々は、そういった苦しみをはっきり体験していると思います。
これは大変な仏教の心理分析だと思うのです。仏教というものは、我々の生活における苦しみ、悲しみ、悩み、そういったものを人間の生存に必然的にあるものとして、認識し、そのところから出発しているところに、大きな意味があるように思います。私は、もういっぺん、このあたりを振り返ってみたいと思うのです。私はここでは、けっして西洋の心理学における苦しみとか、悲しみとか、そういう定理をいいません。なぜかというと、いろいろと私は経験した結果、この仏教の分類くらいはっきりしたものはないと思うからです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

フロイトによる無意識の発見が十九世紀末と言われますが、仏教においては既に4世紀に無意識について、しかも遥かに詳細に論じられています。
また、自我の思い通りにならないことに不満を感じることを西洋では当然のことと考えますが、仏教においては、思い通りにならないことに「苦」を感じる「自我」そのものをむしろ問題視していきます。

こういった事実について余り知られていないのは、非常に残念なことです。
かつて近藤先生の提案により、世親(せしん)による『阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)』の「隨眠品(ずいめんほん)」を読み進め、いわゆる“百八つの煩悩”を一緒に整理して行ったことを懐かしく思い出します。
例えば、我々の身に「愛別離苦」や「怨憎会苦」が起きたとき、悩み苦しんで、なんとか思い通りにしようかと悪戦苦闘して行くのか、思い通りにならないと気が済まない自分を超えて行こうとするのか、では決定的な差があることになります。
少なくとも欧米由来のほとんどのサイコセラピーが前者を前提に“治療”を考えているのに対し、仏教は後者に基づいて“救い”を考えていることを知っておいていただきたいと思います。

 

 

寄席ではあんなに愉快そうにしゃべるのに、プライベートではほとんどしゃべらない落語家がいる。
最近になって、その気持ちがわかるようになって来た。
高座に座って客席を眺め、お客の反応を敏感に感じ取りながら、刻々と噺の塩梅(あんばい)を変えて行く。
相当な集中力を要するものだと思う。
ならば、せめて高座から降りたときくらい、気を遣ってしゃべるのは勘弁してくれ、ということになるであろう。

かくいう私も面談中は、私なりの精一杯の“全集中”状態にある
クライアントが話される内容やそれを話すときの表情や所作は言うに及ばず、その裏に隠された本音や、さらに本人さえも気がついていない奥の奥まで感じ取らなければ、サイコセラピーとして深まらない。
それも意識することなく、自然にスイッチが入る。
それがいわゆる“求めている”人たち相手なら、望むところなのだが、困るのがプライベートの場面で俗世話や神経症的コミュニケーションを振られたときで、そんなときも自然にスイッチが入るため、いやぁ、ちょっと勘弁してくれ、という気持ちになってくる。

但し、プライベートでは誰でもダメというわけではなく、子どもたち(思春期前まで)や、大人でも正直・素直な人相手であれば、苦にならない。
いや、むしろ楽しく過ごせたりする。
しかし、世の中、そんな人ばかりではない。
“相手や状況に合わせて演技する社交性”は、近藤先生に出逢うまでに一生分使い果たしてしまったので、勘弁して下され。
そんなときは、そっとしておいていただけると有り難い。
その代わり、ミッションのときはフルマックスで働きまする。

 

 

城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』を読んだ。

『落日燃ゆ』『男子の本懐』などの経済小説で知られる城山氏が、長年連れ添った愛妻を亡くした後に書かれたエッセイである。
普段こういったジャンルの本を読むことはないのだが、ふと見かけて衝動買いしてしまった。

読んでみて個人的に思うのは、読者を選ぶ作品ではないかということである。
結婚して三十年(できれば四十年)以上共に暮らし、妻に助けられて来たという自覚のある男性が読むと、非常に情緒的に刺さる作品であると思う。
女性や若い人が読んでも感じるところはあると思うが、老年期に至った男のロマンチシズムという読者側の要素がないと、膨らみに欠けるかもしれない。

そう。
年輩の男性がこの表題を見たときから、その内容は走り始めているのである。

そんな本もあるのだな。

 

たまには“エモい”作品を読むのもいいかもしれない。

 

 

明日は9月1日。
子どもたちの自殺が一番多い日と言われる。
多くの学校で2学期が始まるからだ(地域差あり)。

学校でイジメられ、
家庭で虐待されている子は、
生きる場所がない
…と思いがちである。

実際には、学校と家庭以外にも生きる場所はいくらでもあるのだが、
それ以外の選択肢があることを知らない子どもたちは、死ぬしかない、と思い込んでしまう。

昔、担当していた自閉スペクトラム症の男の子で、
お父さんやお母さんに怒られると、
ひとりで児童相談所まで歩いて行き、
「保護して下さい。」
と願い出る子がいた。
小学校6年生の彼は、児童相談所の一時保護について自分で調べたらしい。
ご両親は苦笑するしかなかったが(実際には虐待相当の叱責ではなかった)、自ら第3の選択肢を見い出したのは大したものである。

There is enough room for all of us to live.
(すべての人に生きて行くスペースは用意されている)

そして、あなたがこの世に生命(いのち)を授かったからには、あなたには果たすべきミッションがある。

それを見い出し、果たすまでは死んでたまるか。

何か特別なことができるわけじゃないけど、私もまた縁あって出逢った子どもたちにはそのことを伝えて来たし、これからも伝えて行きたいと思う。

そして、皆さんからも是非伝えて行っていただきたい。

 

 

これまでの面談経験、ワークショップの経験、そして、自分自身の経験から、
その人のこころを抑圧しているものが外れて来ると、
「独り言」と「鼻歌」が増える、という明らかな傾向があると、常々申し上げて来た。

子どもと高齢者を思い浮かべてほしい。
まだ抑圧の少ない子どもや、加齢によって脱抑制が起きて来た高齢者は、
考えているプロセスをみんなしゃべるし、すぐに歌い出す。

また、多くの人においても、アルコールが入ると、これまた抑圧が外れて来るので、
べらべら本音をしゃべったり、歌ったりし始めるのは、御存知の通りである。

年齢に関係なく、また、アルコールなどの力を借りなくても、
普段から、素面(しらふ)で、本当の自分を表出できるかどうかは、
その人が本来の自己を回復して来たかどうかを見極めるのに、非常に重要な目安になる。

ある期間以上、面談に通って来られている方たちや、
ワークショップにある回数以上参加されて来た方たちを見ていると、
その傾向が確認できる。

面談で本音から話されるようになる(願わくば、本音の本音まで行きたいところだが)。
ワークショップで皆の前で歌えるようになる。
あ、そうそう。 
「独り言」と「鼻歌」だけでなく、「踊り」出す人もいる。

しゃべって、歌って、踊って。
あなたが解放される。
あなたがあなたになる。
あなたがあなたを取り戻す。

そこに至るまでに、いっぱい泣いたり、秘めた怒りに気づいたり、いろいろあるんだけどね。

こういうふうになっていくのが、我が研究所らしい“芸風”なのかもしれない。
 

 

「依法不依人(えほうふえにん)」
という言葉がある。
「法に依りて人に依らず」
とよみ、その内容が真実かどうかに依るのであって、誰がその内容を説いたかに依らない、という意味である。

例えば、窃盗で前科十犯の犯罪歴があるお父さんが子どもに「人の物を盗んじゃいけないよ。」と教えたとする。
フツーなら「おまえが言うな!」と怒られそうなところであるが、そう言って良いのである。
何故ならば、人の物を盗んではいけない、というのは真実であるから、誰が言ったかに依らないのである。

ここまでは以前にも触れたことのあるお話。

しかし、娑婆においては
「依人不依法」
のときもある。
「人に依りて法に依らず」
凡夫はね、その内容がいくら真実であっても、信頼あるいは尊敬している人の言うことしか聴かないんです。
親であっても先生であっての先輩であっても専門家であっても、信頼あるいは尊敬する人が言うのでなければ聴かないんです。

…というわけで、
「依法不依人」が真諦=本当の真理、
「依人不依法」が俗諦=世俗的な真理、
ということになる。

両方をわきまえておかないと、真俗二諦に生きる凡夫は救われないのです。

 

 

凡夫は、愚かですので、言ってほしいことを言ってもらったり、してほしいことをしてもらうと嬉しいものです。

そんなとき起きているのは、我(が)が喜んでいるだけで、実にくっだらないことなのですが、それが全くないとへこたれちゃうんですよ、愚かな凡夫は。

従って、それが愚かな我の満足だとわかった上で(わかってないとダメですよ)、たまにはちょこっとね(いつもズブズブにはダメですよ)、言ってほしいことを言ってあげ、してほしいことをしてあげてると良いんです。

そうすると、我が喜ぶんです、凡情が満たされるんです。

生命(いのち)に、魂に響く言葉を下さりながら、ちょいちょいと我を満たす、凡情が喜ぶ言葉を下さるような方でした、近藤先生は。

その加減というか、塩梅(あんばい)が、絶妙な方でした。

そういうのを本物のサイコセラピストというか、俗世の中の導師というんでしょうね。

 

 

「私にとって煩悩という言葉は、少年期にはそんなになじみのある言葉ではありませんでしたが、私の祖父母は私に人間とは煩悩そのものなんだよと、よく話してくれました。しかし子どもには煩悩というのは、何のことかわかりません。わかりませんが、とにかく、そういうことをいってくれた祖父や祖母がいたわけです。…
いまごろの方々に煩悩といってもですね、ちょっとピンとこないところがあるのではないかと思いますので、私流に解釈させていただいて、できるだけわかるようにしたいと思います。
わかりやすくいいますと、私は煩悩というものは、人間のいろいろな欲望から出てくるのではないかと思います。欲望の結果が、いわゆるわずらいであり、悩みであり。それによって苦しみ、悩む。その苦しみ、悩む状態を煩悩と称するのではないかと思います。
一口に欲望といいましても、私たちは、つねにいろいろなことを考えます。たとえば、食欲、性欲、睡眠欲、それからはじまりまして、権力欲、獲得欲、所有欲、あるいは金銭欲、その他、いろいろな愛欲といったものが私たちの心のなかにあると思います。…
こういうようなことから考えますと欲望というのは、いろいろな種類があって、それが達せられないとき、それが得られないときに苦しみ、悩むのです。西洋の心理学は単純に、それをフラストレーションという言葉で片づけているわけです。欲求挫折ともいいますし、欲求不満ともいいます。…
日本は戦後何をやったかというと、とにかく生産を高めてその結果高度成長を成し遂げました。…いろんな欲望をどんどん加速度的に高めることによって、高度の成長を遂げたということになるわけですね。そこに流れているものは、欲望の肯定ということです。欲望というのは無限に大きくてよろしい。それに対して、その欲求を満足することこそ人間の幸福だというようなことが、おおっぴらにはいいませんが、少なくとも自然に私たちの気持ちとしてあるんですね。つまり、欲望の充足こそ最大の価値である、こういう考え方があると思うのです。
このように戦後の日本の社会は、欲望をあまりにも肯定して、少し以前の日本人はエコノミック・アニマルといわれたのに、最近はセクシャル・アニマルといわれています。そういう意味で、性的開放ということは、我々が現に直面している問題です。…
現代においては、むしろ性を謳歌し、肯定し、解放しているところがあります。はなはだ、どぎついようですが、私は性の事実は事実として正直にまっすぐに見たいのです。仏教でいう八正道(はっしょうどう)のなかの正見(しょうけん)ということは、とても大事なことですね。あるものをあるものとして見る、正しく見せる、その意味をはっきりさせる。やはり、これが出発点だと思うのです。その正見が、さらに発展して正思(しょうし)ということにいったとき、キリスト教徒にとっては、

 われキリストとともに十字架につけられたり
 もはやわれ生けるにあらず
 キリストわれに在りて生けるなり
 今われ肉体にありて生けるは
 われを愛してわがために己を捨てたまいし者すなわち神の子を信ずるによりて生けるなり
                                                                                                                   (ガラテヤ書 2・20)
の自覚になります。
いずれにしても人間の本質といいますか、本来の人間らしい人間、その上に人間関係を見るということを考えてみて、ほんとうの自分というものを考えることができます。
」(近藤章久『迷いのち晴れ』(春秋社)より)

 

我々の中にある欲望 ー それは我の思い通りにしたいということ。
よって、その欲望が文明を発展させて来たところもあるわけです。
しかし残念ながら、我々の欲望は無限ですので、常に思い通りにならないこともあることになります。
よって、苦しみ、悩む煩悩も尽きることがありません。
まずは自分に欲望があるという事実を正しく見ること(=正見)。
それがないことには始まりません。
そしてそれを正しく見た上で、正しく考えて行く(=正思)とき、その苦しみ、悩む煩悩を超えて行く道も示されて行くことになります。
われキリストとともに十字架につけられる、とは、仏教的に言うと、キリストの愛の贖罪によって、自分の我が死ぬこと。欲望、我欲の大元の我がなくなるということを意味しており、
そして我がなくなったときに現れるものがキリスト=神の子の働きということになります。
眼を逸らさず正面から見つめる=正見から始まり、正思へと展開して行く真実の世界がある、ということを改めて確認しておきたいと思います。

 

 

約三年の月日をかけて『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を読了した。
言わずと知れた道元の主著である。
しかし、これほど読者に“体験”を要求して来る著作も少ない。
いわゆる“体験”がないと何が書いてあるのかさっぱりわからないようにできているからである。

「あなたは『正法眼蔵』を読みましたか?」
と訊かれてなんと答えるか。
先ほど、「読了した」と書いたが、正確に言えば、
「字面(じづら)だけは。」
と付け加えざるを得ない。
何故ならば、道元と同等の“体験”がないと、本当の意味で「『正法眼蔵』を読んだ。」とは言えないからである。

いわゆる知識人たちによる『正法眼蔵』の現代語訳や解説、関連書籍などは無数に上梓されているが、「よく書けるな。」と思うことがほとんどである。
いや、むしろ自分がわかっていないことがわかっていないから書けるのであろう。
失礼を承知で申し上げれば、いわゆる知識人の方たちほど「霊的感性」の鈍い方が多い。
『正法眼蔵』は、理性や知性では読めないのである。
“体験”に基づいた「霊的感性」がないと読めないのが『正法眼蔵』である。

最近の方で、学者でありながら少しでも“体験”のある、珍しい方として、井筒俊彦氏と玉城康四郎氏が挙げられるが(残念ながら両氏とも他界された)、私は玉城氏の『正法眼蔵』全六巻(大蔵出版)を選んだ。

近藤先生は、戦後の書籍がない頃、『正法眼蔵』をむさぼるように読まれたという。
私なりに『正法眼蔵』の位置付けが感じられるようになって来た今、『正法眼蔵』についていろいろ伺いたかったなぁ、と思う。

師亡き今、それでも
「徧界(へんかい)、曾(かつ)て隠さず」
(この全宇宙には何物をも包みかくすことはない。真実はいたるところにありのままの姿を顕現している)
真実を感得できるか否かは、こちらにかかっているのである。

 

 

先日、年に一度の健康診断を受けて来た。

健康診断を受けるのが好きか?と訊かれれば、
そもそも検査を受けること自体、面倒臭いし、
健康診断の結果を聞くとき、何故か、苦手な科目のテスト結果が返って来るような気分になるので、
好きではない(キッパリ)。

しかし、健康診断もまた今の偽らざる自分と向き合う機会であるため、イヤであろうと何であろうと受けるのである。
私が逃げていたら、人様に「自分自身と向き合いなさい」と言う資格を失ってしまう。

先年、何かの酒席で、七十代の女性が
「わかったってわからなくったって結果は同じだから、健康診断なんて受けないの。」
と虚勢の笑顔で話していた。
そしてその眼には
「悪い結果が出たら恐いから逃げてるんです。」
と書いてあった。
だったらそう言えば良いのに。

また他日、知り合いの五十代の男性が
「健康診断って受けた方が良いんですかね?」
と訊いて来た。
訊いて来られるだけ逡巡が感じられた。
「受けた方が良いかどうかと訊かれれば、そりゃあ、受けた方が良いですよ。早くに見つかった方が早くに治りますから。」
と正論で答えながら、いつも申し上げている通り、この身はレンタル・バディですから、メンテして、いたわって、ちゃんと使い切ってお返ししましょうね、と心の中で思っていた(まだそんな話が通る関係性ではない)。

…というわけで、健康診断を受けることは、ひとつのワークになる。

それを踏まえた上で、

で、あなたは健康診断、受けてますか?

 

 

ご覧になった方もいらっしゃると思うが、ネットニュースに「自称カウンセラー」に警鐘を鳴らす記事が出ていた。

「カウンセリング」が業務独占ではなく、誰でもが「カウンセラー」と名乗れてしまうこと
資格として「公認心理師」か「臨床心理士」の資格取得者かどうかを確認すること
などを指摘。

ようやくこんな記事が出て来たかとホッとした。

個人的には「臨床心理士」の方を勧めるが(大半が「公認心理師」の資格も取得している)、何度も本欄でお話して来た通り、その資格取得はほんのスタートラインに過ぎない。
医師免許が、取っただけでは何の役にも立たないのと同じように、それからの研修・研鑽の積み重ねが実力を決めるのである。
また、いくら知識・技術の研修・研鑽を重ねても、自分自身を見つめ、自分自身の問題の解決に取り組み、解決して来た体験の積み重ねがなければ、ろくな「カウンセリング」「心理療法」「精神療法」はできない、というのが私の立場である。
逆の言い方をすれば、そうやってクライアントの半歩、一歩先を行きながら、共に成長して行くのが、「臨床心理士」「精神科医」なのである。

そしてもちろんこのことは「カウンセラー」だけでなく、対人援助職すべてに当てはまるものと信じる。

ホンモノを見極めましょう。
そして
ホンモノになりましょう。

 

 

 

平安時代の天台宗の僧・源信(げんしん)は、日本浄土教の祖とも言われ、浄土真宗においては七高僧の第六祖とされている。

早くに父を亡くした源信は、母の勧めもあって九歳で比叡山に入って早くから学才を表わし、十五歳のときには、村上天皇による法華八講の講師に選ばれたという。
その際、下賜された褒美の品を故郷の母親の許に送ったところ、母は源信を諫める和歌を添えてその品物を送り返した。

 「後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに 世渡る僧とぞ なるぞ悲しき」 まことの求道者となり給へ
(迷える人々を浄土に渡す橋となってほしいと願っていたのに、世渡りのうまい僧になってしまったのが悲しい。本当の求道者になって下さい)

その和歌を読んだ源信は、名利を捨てて横川にある恵心院に隠棲し、念仏の生活を送ったという(それ故、恵心僧都(えしんそうず)とも呼ばれる)。
このエピソードを読み返す度、母からの和歌を読んだときの源信の思いが胸に迫る。
父はおらず、九歳で家を出て、まだ十五歳。
愛しい母が喜んでくれると思って送ったんだろうなぁ。

今日はその源信による『横川法語(よかわほうご)』の一節をご紹介したい。

「妄念はもとより凡夫の地体(じたい)なり。妄念の外(ほか)に別に心はなきなり。臨終の時までは、一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこゝろえて念仏すれば、来迎(らいごう)にあづかりて、蓮台(れんだい)に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。」

ズバリと言われてしまいました。
「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別に心はなきなり。
そもそも凡夫の地は妄念なんだって。凡夫には妄念しかないんだって。
ここまで言われちゃあ、返す言葉がありません。
そしてその妄念の塊の凡夫が念仏によって、他力によって、救われるのです。

こんな言葉を残す源信さんは、間違いなく「まことの求道者」「念仏者」なのでありました。

 

 

「慙愧(ざんき)に耐えない」の「慙愧」という言葉がある。
また、「羞恥心(しゅうちしん)」の「羞恥」という言葉がある。
いずれも「はずかしい」気持ちを表す熟語であるが、「慙愧」の方が「羞恥」よりも深く「はじ入る」ニュアンスがある。

そしてその熟語を構成する四つの漢字、「慙」「愧」「羞」「恥」はいずれも「はずかしい」という意味であるが、これが二つのグループに分かれる(諸説あり)。

まず「慙」と「羞」。
これは自分で自分を省みて「はずかしい」と思う気持ちを指し、
それに対し、「愧」と「恥」は、
他人の眼から見て「はずかしい」と思う気持ちを指す。

となると、後者の「愧」「恥」は、いわゆる他人さま、世間さまから見てはずかしい、ということであり、厳密に言えば、「他者評価の奴隷」の域にある、ということになる。
さらに言えば、他人の眼がなければ何をやってもずかしくない、ということにもなり、他者から責めらる可能性がなければ、大災害のときに暴徒と化しても良いのであり、旅の恥はかきすて、でも良いというこことになる。
よって、私に言わせれば、「愧」「恥」の「はずかしさ」は底が浅く、あまり当てにならない。

それに対し、前者の「慙」「羞」は、自分で自分を省みて「はずかしい」と思う気持ちなので、他者不要というところからすると、こちらの方が「愧」「恥」よりも良さそうであるが、その意味はさらに二つに分かれる。

ひとつは幼少期から埋め込まれた「見張り番」=「~でなければならない」「~であるべきだ」から見て「はずかしい」と感じる気持ちである。
これは外から来たくせに、自分の価値観のような顔をして居ついているので要注意である。
それは決してあなたの価値観ではない。
そうではなくて、それらは親や大人たちから来たものであるから、実は「慙」「羞」のように見えて、限りなく「愧」「恥」に近い「はずかしさ」なのである。

従って、本当の「愧」「恥」とは、あなたがあなたとして生かされて生きて行く上で、その道を外れてた言動を取って生きているときに「はずかしい」と感じることを指しているのである。

逃げる、誤魔化す、ヘタレる、日和(ひよ)る、怯(ひる)む、媚(こ)びる、保身に走る、思い上がる、わかったような気になる、上から目線になる、威張る、エラソーになる、偽善者ぶる etc. etc.

あああああ、はずかしいっ!!!

ホンモノの「慙」「羞」でいきましょう。

それが「情けなさの自覚」の原点です。

 

 

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