八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

“治療”の面談場面においては
クライアントの「沈黙」には大きな意味がある。
それこそ、対人援助職に対するテスティングに使われることもあれば、
クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときである。
しかし「沈黙」に弱い対人援助職は、その「沈黙」に耐えられず、ついベラベラと薄っぺらなことをしゃべり、クライアントの不信と失望を招く。
対人援助職には、悠々と「沈黙」に付き合う力量が必要である。
但し、クライアントが何かこちら(対人援助職)から話して(声をかけて)もらいたくて「沈黙」しているときもある。それがわからずこちらも「沈黙」していれば、それはクライアントに苦痛しか与えない。

近藤先生のクライアントで、半年間ひと言もしゃべらなかった外国人女性がいた。
週1回50分の面談である。
師は全く困らず、クライアントを大きな気で包んで、スッとそこに座っていた。
そして半年後「ドクター近藤、おまえは信用できる。」と言って、彼女は話し始めた。
そんなことがある。

“成長”の面談場面においては
ほぼ「沈黙」は存在しない。
クライアントは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を持って来ているはずだもの、自分の成長課題や問題の話をするのに50分で足りるはずがない。
あれもこれも課題だらけ問題だらけのはずであるから。
私が近藤先生のところに通っていた頃もとても1回50分では足りなかった。
準備をしなくても話したいことが次から次へと出て来た。
(もし出て来ない人がいたら準備した方が良いかもしれない。時間がもったいない)

唯一の例外は、“治療”の面談場面と同じく、クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときであろうか。
そんなときは私もただ“沈黙”に付き合う。
こころの中で祈りながら。

 

 

「僕の、そのときの、聞き方、態度、そういうことで、ちゃんと患者はテストしてる、その間に。それで、この人は話してもいいかな、悪いかな、どの程度まで話すかな、というようなことを考えるんです。おかしいけどね、ここ(近藤クリニック)へ折角来てるんだから。だけども、そういうことが自然に起きちゃう、…そういうのを聞いてるうちに、ああ、これは安心できるな、と思ったら…話してくれます。」(近藤章久『心身平安への道』)

 

テスティング、試すこと、つまり、試されること。
サイコセラピーなんてやっていると、そんなことがしょっちゅう起こります。
でもね、そんなの今さら、取り繕ったって、演じたって、どうしてもバレちゃうんですよ、こっちの本音がね。
だから、どう思われるかに右往左往しないで、テストに合格するかしないかに一喜一憂しないで、ただこの自分で勝負するしかないんです。

本音が変わることを成長といいます。
自分が磨かれて行くんです。
そうなると本音がバレることが恐くなくなります。
なんたって、それが本音なんだもの。

そしてこれがサイコセラピー場面だけの話ではなく
あらゆる人間関係 ~ 親子、夫婦、恋人、友人、同僚、上司部下などなど ~ にも当てはまることがわかりますよね。
そうなんです。
いつもあなたの本音は、互いにそうとは知らないうちに、試されているのです。

 

 

ある和食店で食事をしていたとき、そこの板前さんが東南アジアの某国の日本料理店で働いていた頃のことをお客さんに話していた。
その店の厨房で洗い物をするために雇われていたのが中近東某国出身の若い女性たちであったが、これが全く仕事をしない。
ずっとしゃべっているか、スマホをいじっているのだという。
で、現地のシェフはどうするかというと、その子たちに向かって、耳をつんざくような声で怒鳴り倒し、恐怖によって仕事をさせていた。
それを見て、流石にそれはおかしいと思った板前さんは、できるだけ彼女らに優しく接してみたが、そうするとあからさまに舐めて来て、さらに仕事をしないのだという。
その態度に嫌気がさし、また彼女らに舐められている自分の姿を嘲笑的に眺めている周囲の視線も気になった板前さんは、意を決して大声で怒鳴り上げ、ゴミ箱を蹴りまくって威嚇したのだという。
そうすると確かに彼女たちは働いた。
しかし、そうこうするうちに、こんなことを続けていたら、人間が荒(すさ)んでしまう、と感じた板前さんは、早々に日本に帰国したのだそうだ。
聞くでもなく聞こえて来た話だが、この板前さんは人間として感覚がマトモな人だと思った。

しかし、宿題が残された。
そんなとき、あなたならどうするか。私ならどうするか。
優しくすれば舐められる。
かといって、恫喝するのは最も安易な方法である。

近藤先生の姿が浮かんだ。

「寛にして畏(おそ)れられ、厳にして愛せらる」(朱子『宋名臣言行録』)
 優しいのにおっかない。厳しいけれど皆から愛される。

極めて難しい道であり、到達するのに長い年月を要する道ではあるが、
それ以外に正解はないと思った。

 

 

 

御存知の通り、アルコール依存症は誰でもがなり得る病気である。
特別に意志が弱い人がなるわけではなく、
アルコール依存症になってから(依存が成立してから)意志が弱くなるのである。

ちょっと何か辛いこと、イヤなことがあったとき、ちょっと一杯ひっかける。
誰でもがやりそうなことである。
それでちょっと楽になる。
抑制系精神作用物質であるアルコールは、あなたの心の“見張り番”を抑制するので、事態は何も解決していないのに、取り敢えず気持ちが楽になる。
だもんだから
、今度は昼間っからちょっと一杯やるようになる。
それがいつしか朝からになって、やがて一日中ずっとになる。

で、今日はアルコール依存症の話がしたいわけではない。
不安や心配で一日中アルコールを飲むくらいなら、ちゃんと精神科を受診して抗不安薬をもらった方がまだマシかもしれない。
ベンゾジアゼピン系抗不安薬(これも抑制系精神作用物質)だと、それはそれで依存性があるが、今は依存性の少ない非ベンゾジアゼピン系抗不安薬もあるし、抗うつ薬(不安障害などではこちらが第一選択薬となる)や抗精神病薬を使う方法もある。

しかし、なんと言っても、お勧めしたいのは、薬よりも精神療法である。
自分自身と向き合う。
自分の問題と正面から向き合って解決して行くのである。
余りに不安が強いときは、まず薬を併用しながらでも良いが、やっぱり自分の心の問題を解決しないことには、いつまで経っても薬をやめられないことになる。

多くの人たちにとって“悩み始め”の時期というものがある。
そのときにアルコールではらすのも良いけれど、もっと自分自身と、事の本質とちゃんと向き合いませんか、というのが今日お伝えしたい核心である。
それも早ければ早いほど良い。
逃げずに向き合うことは、時にしんどいけれど、やっぱり本当の成長はそこからしか生まれないんだよね。
それを応援するためにサイコセラピストやカウンセラーがいる(この段階なら、当研究所の出番もあるかもしれない)。
もちろん実力もピンキリ、相性もさまざま、なので選ぶ必要はあるが、良い出逢いがあれば、あなたの人生は変わるかもしれない、根本から、アルコールや薬抜きで。

 

 

泣くことは病気ではありません。

悲しくて泣くこと。
嬉しくて泣くこと。
悔しくて泣くこと。
感動して泣くこと。
感情が動くときに涙は出るものです。

そうそう。
演技的に泣くことだけは病気かもしれません(注意獲得的、操作的という意味で)。
そんなのはすぐにバレちゃいますから。

そうでない涙は問題ありません。
涙が出るときは(「出す」んじゃなくて「出る」んですから)、八雲でいくらでも泣いて下さい。

それは
悲しくても
嬉しくても
悔しくても
感動しても
広い意味で、安心の涙なのです。

安心して泣いて下さい。
安心してそのときのあなたになって泣いて下さい、何回でも。
そして必ず止まりますから(これもまた「止める」んじゃなく「止まる」んです)。

 

 

皆さんは、「ニセ科学」というのを御存知だろうか?
「科学を装っているけれども、実は科学でないもの」
あるいは
「見かけは(科学に)よく似ていながら、内実は科学的でないもの」
を指し、「疑似科学」とか「トンデモ科学」とも呼ばれている。

最近では、新型コロナウイルス感染症について、ワクチンがどうの、マスクがどうのと、いろいろな「ニセ科学」が横行したことが記憶に新しい。

そしてもちろんこの「ニセ科学」に引っかからない=「真実」を掴むための対策としては、「ホンモノの科学」的検討が必要だ、ということで識者の意見は一致しているように見える。
(尚、「ニセ科学」について学びたい人には、この記事がよくまとまっていてわかりやすい)

今日私がお話したいのは、そこからの話で、その「真実」を掴むには「ホンモノの科学」しかないのかということである。
以前、小欄で『分析延々、直観一瞬』ということを書いた。
それがここでも当てはまるのではないか、ということが申し上げたいのである。

例えば、食べ物の〇〇が体に良い、という話がよくある。
食べ物の話は、ある意味、「ニセ科学」の宝庫であると言える。
〇〇は良い、□□が良い、という、ちょっと“怪しい”話は巷(ちまた)に溢れている。

私も昔、玄米菜食をやったことがあるが、その際、辟易したのが、「ニセ科学」で滔々と説明して来るその筋の人たちであった。
あるとき、有機栽培の蕎麦を使った手打ち蕎麦のイベントがあった。
参加した私はとても美味しい蕎麦を堪能し、非常に満足であったが、傍らで「ニセ科学」的効能を説く人たちには、新興宗教の説法を聞かされるようで、心底うんざりしていた。
すると、蕎麦を打ってくれたおじさんが(この人はただゲストで呼ばれた蕎麦打ちのおじさんである)
「難しいことはよくわかんないけど、この蕎麦、うまいよな。」
と言ったのが非常に明快であった。

その「ニセ科学」に対して「ホンモノの科学」のエヴィデンスを示して徹底的に論破しても良いのだけれど、
ただ、食べてうまいかどうか。
食べて体が喜んでいるかどうか。
それで決めれば良いじゃん、と私は思った。
いわば、「科学延々、直観一発」である。

もし体に悪いものを食べて 
美味しいと感じたり
体が喜んでいると感じたりしたら
その責任はあなたが取りなさいよ、というだけのことである。

または、
その話をしているその人自身が信頼できるかどうか
胡散(うさん)臭いかどうか
を直観で観抜いて決めるのもありかもしれない。

 

【例】コーヒーに利尿作用があると言われている。
暑い時期にコーヒーを飲むと却って利尿作用が進み脱水になりやすいから控えた方が良い、ということが言われる。
私は、例えば、通常1回150~200mlと言われる平均排尿量がコーヒー1杯を飲むことによって、どれくらい増えるのか、調べてみたくなった。
それが100ml増えるなら大変だが、10ml増しくらいなら大したことないじゃん、と思ったのである。
調べた結果見つけたのは、コーヒーを飲んだ前後での総体水分は、ただの水を飲んだ前後での総体水分と比べて差がない、ということが書かれた論文であった。

なんじゃ、そりゃ。
これもまた、関連論文を網羅して科学的に白黒つける「ホンモノの科学」的解決法もあるだろうが、どうも私には迂遠に思えてならない。
私としては、これからも自分の体に訊いてみて、飲むか飲まないかを決めてみようと思っている。
それでもし自分の鈍感さのせいで脱水になったのだったら、自業自得で結構である。

 

 

「医学的に見ても、皮膚接触がない人間はダメなんです。人間の皮膚は神経と同じ細胞で形成されているのです。だから、皮膚感覚のことを触れ合いとも言うでしょう。皮膚感覚というのは非常にコンタクトなもので、心の触れ合いです。人間には触れ合いという感覚が大切なのです。」(近藤章久対談『人間を育む心』)

この文章を読んでいて、学生の頃習った発生学を思い出しました。
確かに、体の一番表面にある皮膚と体の一番奥にある脳神経系は、受精卵が細胞分裂することにによってできた胚の中の、同じ外胚葉から発生したものです。
そうすると皮膚感覚が特別な深さを持つのは当たり前ですね。

皆さんは普段からハグやタッチをしていますか?
親子はもちろん、パートナー同士でも、恋人同士でも、皮膚接触はとても大切です。
文化的に日本では皮膚接触する習慣がとても少ないように思います。

せめてあなたにとって大切な人とは、日常的に触れることをお勧めします。
(反対に、余り触れなくなったら(触れたくなくなったら)、それは心の距離が遠くなったのかもしれません)

以前、ある人が Phyllis K. Davis の絵本『Please Touch Me』を紹介してくれました。
(邦題『わたしにふれてください』訳:三砂ちづる 絵:葉祥明 大和出版)
触れることの大切さがそのまま描いてある本です。
関心のある方は読んでみて下さい。

(面談室の本棚にありますから、ご希望の方にはお見せしましょう)

そしてもし今、いろいろな事情から触れることのできる相手のいない方には、
可能ならば、ペットを撫でることもお勧めです。
勘の良い方なら、お気づきでしょう。
ペットの頭を撫でているあなたの手の平は、ペットの頭に撫でてもらっているのです。
また、泳いだり、温泉に入ったりすることもお勧めです。
肌を水やお湯で撫でられることは、脳を、いや、心を撫でられることでもありますから。

我々の五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の中では、触覚が一番深いところに届くものだと私は思っています。

 

 

昨日お話した「成長の四段階」の話の中でも特に、「服従」→「逃避」に進む人の方が、魂を売ってうまいこと「服従」し「適応」できている人たちよりも、実は健全なのだということを今日は特に追記しておきたい

なんだか「逃避」だとか「うまく適応できない(=不適応、適応障害)」だとかというと、どうも弱っちくてダメなもののように思われがちであるが、私に言わせれば、おかしな環境に魂を売れなかったからこそそうなったのであり、むしろその健全さを見逃してはならないと思う。

本当は、魂を売ってうまいこと「服従」して「適応」している人たちの方が、魂を売らないで「逃避」したり「適応障害」になっている人たちに対して、秘かな“劣等感“を抱いているために、彼ら彼女らに対して見下すような言動を取っていることが多々あるのである
「子どもだな。」「弱っちいな。」「もっと大人になれよ。」「ダメだな。」「いつまで自分探ししてんだよ。」などなど。
実は自分の方が感覚麻痺やちょろまかしを使ってうまいこと立ち回ってるだけのヘタレだとはバレたくないからね。

自分がもし「服従」から「逃避」に至ったならば、その本当の意味をちゃんと掴んでおこう。
「服従」するのがまっぴらだから、魂を売りたくないから、

できるだけイヤなヤツに会わないようにする。
家出する。
不登校になる。
ひきこもる。
出社拒否する。休職、退職、転職する。
それも一歩。

そしてその上で、あくまでも「逃避」が通過点であることもちゃんと押さえておくことだ。
通過点としての「逃避」は大いに結構だが、いい年こいて何十年も「逃避」では埒(らち)が明かない。
残念ながら
パラダイスのような家庭はない。
パラダイスのような学校もない。
パラダイスのような会社もない。

だからこそ、「逃避」の次に、堂々と「反撃」できるようになる段階が待っている。

そうして初めて、逆境を蹴散らしながら、本当の自分を生きることのできる、幹の太い人間になって行けるのである。
上っ面を漂流し続けるような「自分探し」ではなく、「本来の自己の面目」としての、本当の「自分探し」とその実現がそこにある。

そのためにも今はまず、ちゃんと逃げて、体制を立て直して、さあて、反撃の準備をじっくりと始めましょうか。
ゆっくりでいいよ。
でも、いつか、必ず。


 

 

最近、「人間の成長段階」には「四段階」あるんじゃないか、ということをつらつらと思っている。
と言っても、「成長段階」の切り口はさまざまあるので、以下はひとつの観方と思って読んでいただければと思う。

四段階の第一、
まず一番弱い人間というのは「服従」するしかない。
その背景に「恐怖」がある。
小さくて弱い子どもは、大きくて強い親に従うしかない。
いじめっ子にも、おっかない先生にも従うしかない。
権力を振るう上司、経営者にも従うしかないのである。
そうやってなんとかかんとか生き延びる。

四段階の第二、
これがもう少し強くなって来ると、「服従」するのがイヤで「逃避」するようになる。
「逃避」は不服従であり、「怒り」の芽でもある。
できるだけイヤなヤツに会わないようにする。
家出する。
不登校になる。
ひきこもる。
出社拒否する。休職、退職、転職する。
「逃避」する方が「服従」するよりはマシである。

四段階の第三、
そしてもう少し強くなって来ると、「反撃」に出るようになる。
そこには明らかな「怒り」がある。
口答えする。
押し返す。

必要とあらば、手が出る、足が出る(暴力は勧めないが)。
言わば、いつでも刀が抜ける、という状態になる。
「反撃」できる方が「逃避」するよりも強い。
その上さらに経済的、精神的に自立できるようになれば、完全自由は近い。

「服従」→「逃避」→「反撃」、通常はここまでで十分であり、外圧をブッ飛ばして自分を生きるこができるようになる。
しかし、これで終わりではない。
それから先もある。

四段階の第四、
それは敵対すべき相手を「愛する」あるいは「育てる」ことである。
これは並大抵のことではない。
そもそも人間業(わざ)では無理だと思う。
そういうミッションを与えられなければ無理だと思う。
人間を超えた働きがないと無理だと思う。
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(『新約聖書』)とは、やはり神業なのだ。
だからそれに続いて「これ天にいます汝らの父の子とならん為なり」となる。
「父の子」でないと無理なのだ。

それでも、「愛」という四段階目もあるのだな、ということを頭の隅に覚えておいていただきたい、と思う。
 


 

過日、ある病院で新規採用職員研修を行って来た。
医療職だけでなく、全職種の新規採用職員対象である。
テーマは「メンタルヘルスについて」。

例によって、ただの情報棒読み睡眠誘発研修になるのはイヤなので、興味を持っていただきやすいテーマに絞り、動画や朗読の演出を加え、今日メンタルヘルスが日常的かつ身近な話題であること、できるだけ早く相談機関や医療機関を利用することの重要性や、自分の心を見つめることが万人にとってより良き人生を送るためにとても大切であることなどをお伝えした。

そして精神科医である私が新規採用職員の前に“露出”することもとても重要だと思っている。
願わくば、精神科医というものに対して、ネガティブイメージでなく、とっつきやすいイメージを持っていただければ幸いである。
但し、私自身が「変」でないかと言えばかなり「変」だし、「変わっている」と言えばかなり「変わっている」ので、せめて「どうも悪い人ではないらしい」と思っていただければ上出来である。
「情報」や「知識」も重要だが、「印象」「心証」というものも時にさらに重要なのだ。

尚、研修資料も、敢えてプリントアウトし、配布、持ち帰っていただいている。
そうでないと、記憶と共に去りぬ、で、あれ、何の話だったっけ?になりやすい。
将来もし困ったときに、そういえば、なんかプリントがあったよな、と思って、見ていただければ意外と役に立つかもしれない。

というわけで、こういう機会もひとつの結縁(けちえん)なのかしらん、と有り難く思っている。
職員だけでなく全国民にとっても、今回話したことが当たり前になると良いなぁ。

 

 

本日で松田精神療法事務所から八雲総合研究所に法人化して満13年になる。
ここまでお役目を務めさせていただいたのも、つくづく有り難いことだと思う。
振り返れば、私の人生にも何度かの大きな転機があったが、いつも絶対の自信や確信があって新たな道に踏み出したわけではない。
その度に、これがミッションであれば続くだろうし、ミッションでなければ続かないだろうな、と思いながらやって来た。
実際にピンチがなかったわけではないが、その度に、何とも言えない“救いの手”が予想外の方向から差し出されて、乗り越えることができた。
ミッションに沿ったことをやっていれば、守られるのかな、とも思った。
しかし、思い通りに行くことだけがミッションではないことも知っている。
私自身の成長のために、艱難辛苦が与えられることもあるであろう。
それも甘受するしかない。
それでも、もうしばらくは、縁ある“あなた”に出逢って面談できる歓喜(よろこび)を味あわせていただきたいと願う。
今面談している方々も、これから面談するであろう方々も、どうぞ宜しくお願い致します。
合掌礼拝

 

そして早速の改訂である。
昨日(2024(令和6)年3月31日(日)付けの当所感日誌で、

「ついては、読者の方々が、私が改訂したかどうかわかるように、改訂した場合には、表題の下に改訂の日付を入れることにした。
例えば「2024(令和6)年3月31日(日)『〇〇〇』」の下に「2024-04-01」とあれば、2024(令和6)年4月1日に改訂をしたな、ということである。
改訂内容は、句読点ひとつの改訂でも反映されるため、そのときそのときでさまざまである。
また1回でなく何度も改訂されることも少なくない。
もし気になる内容のものがあれば、適宜、改訂日付をチェックしてみて下され。」

と書きましたが、改訂した日付を表示しようとすると、掲載の順番が変わる(古い日付の所感日誌がトップに表示されてしまう)ことが発覚しました。
よって、昨日の今日ですが、改訂した日付表示をすることは断念させていただきます。
しかし、内容についての改訂作業はこれからも続けて行きますので、ご関心のある方は、古い日付の所感日誌をご覧になったとき、あれ、前に読んだときと記載が違うな、と気づかれましたら、ああ、改訂したんだな、と思って下さい。

 

 

この「主宰者の所感日誌『塀の上の猫』」も、本年2月3日(近藤先生の命日)から毎日書き続けて来たが、我ながらよく今日まで続いているものだと思う。
強迫的に(あるいは執着して)やっているわけではないので、いつ途切れてスローペースになるかわからないが、このところ、以前はよくやっていた記載内容の「改訂または削除」がほとんど行えていないことが気になっている。

「主宰者の所感日誌『塀の上の猫』」の冒頭、「はじめに ~『塀の上の猫』について ~」の中で
(5)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。
自分として完成度に納得しない場合は、何度も同じテーマで書き直すこともある。
これは自分自身のためである。」
と記(しる)した
通り、今後は過去の所感日誌について、適宜、改訂または削除を行っていくつもりである。
これはあくまで自分なりに少しでも納得のいく内容にして行くための作業である。

ついては、読者の方々が、私が改訂したかどうかわかるように、改訂した場合には、表題の下に改訂の日付を入れることにした。
例えば「2024(令和6)年3月31日(日)『〇〇〇』」の下に「2024-04-01」とあれば、2024(令和6)年4月1日に改訂をしたな、ということである。
改訂内容は、句読点ひとつの改訂でも反映されるため、そのときそのときでさまざまである。
また1回でなく何度も改訂されることも少なくない。
もし気になる内容のものがあれば、適宜、改訂日付をチェックしてみて下され

尚、削除については、ある日付の所感日誌が、ある日突然消えることもあるため、ご容赦を。
後日、内容を温め直して、類似内容で再掲する場合があるかもしれない。
これもまた自分として納得のいく内容にするための作業であることをご了解下さい。

以上、お知らせまで。

 

※上記、赤字部分は削除します。

 

 

ある患者さん(Aさん)が、過去の辛い出来事について話し始めた。
それに対して、対人援助職のBさんはどう応えるか。
それにワンパターンの答えなどあるはずがない。
例えば、それは「ただ話を聞いてほしい」だけかもしれない。
ならば、一所懸命に話を聴けば良い。
例えば、それは「慰めの言葉がほしい」のかもしれない。
ならば、誠実に慰めの言葉を言えば良い。
例えば、それは「未来に向かってのアドバイスがほしい」のかもしれない。
ならば、真摯に未来に向かってのアドバイスを言えば良い。
他にもいろいろな可能性が考えられるが、いずれにしてもAさんが過去の辛い出来事の話を「何のためにするのか」を見抜かなければ対応できない。

と言うと、「じゃあ、Aさんに『ただ話を聞いてほしいんですか?』『慰めの言葉がほしいんですか?』『未来に向かってのアドバイスがほしいんですか?』と訊けば良いじゃないですか。」と言ったすっとこどっこいがいる。
本人がわかってしゃべってることは非常に少ない。
そこを見抜くのが対人援助職の仕事である。

このように、Aさんが過去の辛い出来事について話す真意がどこにあるかを理性的に「分析」し始めると、それだけでもこんなに延々とした話になる。

これが「直観」だと一瞬で終わる。
「あ、こうしてほしいのね。」
しかし、これがそう簡単ではない。
鈍いのに、あるいは、偏っているのに、自分は「直観」が発達している、自分の「直観」が当たると思っているへっぽこがいる。

あのね、「直観」が働くようになるためには、あなたの心に後から付いた神経症的な曇りや歪みを除去しないと、「直観」が当たるようにはならないのだよ。
曇ったガラスを通して、あるいは、歪んだガラスを通して真実が見えるわけないよね。
そのために対人援助職者には、自分の神経症的問題を解決して行くトレーニングが要るわけです。
例えば、まだ自分の他者評価の奴隷の問題も解決していないのに、他人の真意が見抜けるわけがないよね。そこに投影が起こるに決まっているから。

そしてさらにもう一歩踏み込んでおこう。
最初に挙げたAさんの話は、いわば、Aさんの秘められた「真意」を見抜く話であるが、その「真意」というのは、残念ながら、まだまだ「浅い真意」である。
「ただ話を聞いてほしい」にしても、「慰めの言葉がほしい」にしても、「未来に向かってのアドバイスがほしい」にしても、それらはせいぜいAさんの秘めた「我の真意」である。
確かに、それに応えてあげるとAさんの「我」は喜ぶかもしれない。
しかし、そのもっともっと奥にAさんの「生命(いのち)の真意」があることを忘れてはいけない。
その「生命(いのち)の真意」を観抜けなくっちゃあ、本当の「直観」が働いているとは言えないのである。
ひょっとしたら、その生命(いのち)の声は、「いつまでも過去の出来事なんかにとらわれていないで、自分を通して働く大きな生命(いのち)の力を感じて、のびのびと本当の自分を生きて行きたい」と言っているかもしれないのである。

だから
「直観」磨くべし。
「神経症的問題」解決すべし。
私もすーっとずーっと修行中である。
そして最後に、この行程は同時に自分自身の「生命(いのち)の真意」が観えて来る道でもあるのである。

 

 

 

「古(いにしえ)の愚や直(ちょく)、今の愚は詐(さ)のみ。」(『論語』陽貨篇)

 昔のポンコツは正直であった。今のポンコツはウソつきだ。

これは「昔」と「今」の違いの話ではない。
また「ポンコツ」の話でもない。
(ちなみに人類全員が元々愚=凡夫=ポンコツなのでご心配なく)
それとは別の「人格」の話である。

例えば、認知症の検査をする。
できないことを証明する検査というのは受けていて辛いものであるが、それがいつの間にか、認知症の検査ではなく、パーソナリティ(人格)検査になるときがある。
検査を受けてわからないとき、正直な方は「わかりません。」と端的におっしゃる。潔い、正直な態度である。
しかし、あれやこれや取り繕う方も少なくない。中には、怒り出す人もいる。
できる、できないの問題でなく、ストレスがかかったとき、その人の本音の「人格」が露呈する。
(ちょっと別の話になるが、個人的には、認知症の検査をどうか本人にとってもっと受けやすいものに改良していただきたいと願っている)

認知症つながりでもうひとつ言うと、
物忘れから、ちょい置きした財布がどこに行ったかわからなくなったとする。
そんなとき
「あら、イヤねぇ。すぐ忘れちゃうんだから。」
と言える方は正直である。
元々の「人格」が猜疑的な人(基本的に人間への信頼感を持っていない人)はそうはならない。
「おまえが盗っただろう。」
と本気で疑う。
両者とも健忘が進んでいるのは同じであるが、それがいわゆる「物盗られ妄想」になるかどうかは「人格」によって決まる。

もちろん認知症の方ばかりではない。
よく御存知の通り、我々もまた、ちょいちょいやらかす。
そしてやらかしたときに
、すぐに正直に認められる人と取り繕う(ウソをつく)人に分かれる。

こういうときにも、この「愚=凡夫=ポンコツの自覚」ということが役に立つのだと思う。
自分が「できる」「偉い」「優秀だ」などと思っている(思いたい)(見せびらかしたい)人は、自分がやらかしたときに、その事実をなかなか認めにくい。
元々自分が愚=凡夫=ポンコツだと思っていれば、やっぱりやっちゃいましたか、ということになって認めやすい。
そしてその上で、気をつけてなくてもやらかさないための工夫をいろいろ行っていく、それだけのことである。

我々は本来ポンコツなんだから、ポンコツはポンコツの道を極めましょ。
 

 

 

仕事の時間はできるだけ短く  
自分の時間はできるだけ長くしたいという。
しかも 
友だちは、いらない。 
恋人も、いらない。
パートナー、いらない。
ましてや、子どももいらない。
すべて面倒くさいのだそうだ。
最近そういう人が増えているのだという。

何のことはない、そういう人は利己的なのである。
自分だけの、小さな安心のテリトリーを確保して、自分のためだけに時間もお金もエネルギーも使いたいのである。

仕事をするのも
友だちと付き合うのも
恋人と付き合うのも
パートナーと暮らすのも
子どもを育てるのも
確かに面倒くさいことである。

しかし、その面倒くさいことを、利己的ではなく、利他的にやれるようになって初めて人間として成熟したと言える。
縁あって出逢った人の成長に貢献し、またそれが自分自身の成長にもつながる。
人類が二人以上いることの意味は、そういうところにある。

誤解しないでいただきたい。
「利他的にならなければいけない」と言っているのではない。
「いけない」のではなくて、人間が成熟すると、利他的に「なる」んだよね、あなたを通して働く力によって、自ずと。
そしてそこになんとも言えない、深い歓喜(よろこび)が生まれる。

そもそも我々人類に与えらえたミッションは何なのかについて、思いを致してみようよ。

 

 

「その成功というのは、数学で計算された企(たくら)みと謀略とか裏切りとかで成り立っているもので、いわば『後ろ暗い成功』なのです。」(近藤章久対談『人間を育む心』)

「私はよく『成功した神経症』という言葉を使います。現代は大人の世界を見ても自我中心主義で、自分本位、つまり簡単に言ってしまえば、我がままで、自分の思うがままに出来ればそれでいいのです。そうして、その目的は何かというと…政治的な権力もあれば、経済的な金力もあり、地位や名声という権威の力もある。そういうものに成功したとすると、自分では社会的にも人間として非常な成功をしたと思ってしまう。…しかしその成功というのは、数学で計算された企(たくら)みと謀略とか裏切りとかで成り立っているもので、いわば『後ろ暗い成功』なのです。昔は後ろ暗いという言葉を本人もある程度分かっていて通用しましたが、今ではそれが当たり前になってしまっていますね。逆の言い方をすると、陰のない人間は、薄っぺらな人間だとも言えます。そういう薄っぺらな人間が大人の世界で増え、全般的になった。…どうも人間が深くなるどころか浅くなって来ているように思えてならないのです。

この「後ろ暗さ」の自覚を決して否定的にのみとらえず、そこに人間としての「深さ」を見い出しているところは流石、近藤先生だと思います。
どこかで馬鹿らしい、くだらない、汚ならしいと思いながらも、権力や金や地位、名声を求め、それが手に入るとつい喜んでしまう自分というものに対しての偽らざる自覚。
それが人間としての「深さ」をもたらすことがあるということ。

だからこそ近藤先生は、同じ対談の中で子どもたちの「不登校」を取り上げた際に、子どもと父親との関係について、
「父親の場合には、会社や社会の価値観に屈しながら、いろいろなことをやらされていますね。その中で、いろんなことを見せられたり、苦しみもあるわけです。しかし、そのことを家族の前では普通は何一つ言いません。…父親も彼なりに必要悪の中で苦しんでいるんだ、社会の価値観の中で苦しんだり悩んだりしているんだということが、今度は子どもに通じますと、子どもとの関係でいろんなことに役立つと思うのです。そうすると、自分の父親に対して抱いていた反感もなくなってくるし、ああ父親も何も言わないけど苦しんでいるんだという気にもなってきて、子どもも今までとは別の見方が出来るようになりますよね。」

私が常々申し上げている「情けなさの自覚」は、もちろんそれを乗り超えて成長して行くためのものでありますが、
それは、それ以前に、人間の持つ「弱さ」「愚かさ」「ずるさ」をそのままに認める「後ろ暗さ、後ろめたさの自覚」でもあり、その自覚が人間に「深さ」や「陰」をもたらす、ということも知っておいていただきたいと思います。

 

 

「ひとり暮らしの人へ」と言っても、別に、結婚しろとか、同棲しろ、誰かと暮らせ、という話ではない。
同居によって、却って自分が自分でいにくくなるのであれば、ひとり暮らしの方が余程せいせいするというものである。
マイナスを逃れてゼロに至るためには、ひとり暮らしはとても良いものであると言える。

しかし、ひとり暮らしの短所としては、やはり「寂しさ」と「話し相手がいないために同じこと(悩み)が頭の中を何度もグルグル回ってしまうこと」であろうか。
中には、寂しさを紛らわせるために結婚や同棲を選ぶ人もいるが、その惨憺たる結果については、よく御存知の通りである。
結婚や同棲でなくても、趣味とか同好のことを通じて集うだけでも、寂しさはある程度、解消される。
また、ただ話すことで、ただ聞いてもらえることで、消えてなくなる悩みは確かに少なくない。
けれど、そのために同居までする必要はない。
そういうことを話せる相手を別に得れば良いというだけのことである。

私はゼロがプラスにならなければ同居の甲斐はない、と思っている。
一緒にいることで、私がより私でいられて、あなたがよりあなたでいられる。
そこに安心と愛と成長がある。
そういう場所を「ホーム」というのである。
そうであるならば、ふたり(
以上)暮らしは、とてもお勧めである。

え? 幸か不幸か、もうふたり(以上)暮らしをしてるって? しかも諸々の問題があると。
それならば、あなたが出て行くか、あなた以外の人に出て行ってもらい、ひとり暮らしにする方法もあるが、
今のその場所が、私がより私でいられて、あなたがよりあなたでいられる場所になるように努力してみるのも現実的な選択肢である。
縁は異なもの味なもの、実はそのための出逢いだったのかもしれないから。

結局のところ、ひとり暮らしか、ふたり(以上)暮らしかという話ではなく、ずべての人が今回の人生でちゃんと自分を生き、自分に与えられた意味と役割を果たすか否か、という話になるのであった。

 

 

…と昨日は申し上げたが、そう簡単に分類できるものでもない。

臨床においても
一応は苦しんでいるのだろうけども
いい年になっても、自分の問題/成長課題との直面化を回避して、いつまでも逃げ回っている人たちがいる。
自分の問題/成長課題と正面から向き合って解決するのか、逃げ回って過ごすのか、いつも私は「寿命との競争だ」と言っている。
観念して向き合うのが早いか、寿命が来て死ぬのが早いか。
臨床においては、縁ある限り付き合うが、後者も結構少なくないのよ。
段々に年を取って65歳も過ぎる頃になると、その人の顔を見ながら実に侘(わび)しい気持ちになって来る。
やっぱり人生は自己責任なのだ。

そして、フツーの人たちの中にも
時に非常に敏感な人たちがいる。
彼ら彼女らの問題/成長課題にちょっと触れただけで
堰を切ったように、自分のことを話し出す。
今までそんな話をどこで誰にして良いのかわからず
かと言って、夫や妻や友人に話しても通じないため
悶々としながら半ば諦めていたのだ。
フツーの人たちの中にもちゃんと苦しみ求めている人もいるのである。

現在の八雲総合研究所は、医療福祉系国家資格者を対象とした機関となっているが、
改組以前から通っている方々の半数近くは、専門職ではないフツーの人たちである。
結局のところ、専門職とか、当事者とか、フツーの人とか、関係ないのだ。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持って、自分の問題/成長課題と逃げずに向き合う人たちだけが、今生で私が出逢うべき人なのだとつくづく思う。

だから、出逢いましょ、そんなあなたと。

 

 

 

基本的に人類全員に問題があると(「問題」と言って語弊があれば「成長課題」と言ってもいい)私は思っている。

臨床においては
彼ら彼女らは苦しんでいる。
だから、その問題/成長課題について真剣な話ができる。
ヒリヒリとしたやりとりにやりがいを感じる。

成長においては(八雲総合研究所においては)
彼ら彼女らは求めている。
だから、その問題/成長課題について本気の話ができる。 
真っ直ぐに向き合ったやりとりにミッションを感じる。

それ以外の場面で接するフツーの人は
すぐに彼ら彼女らの問題/成長課題、山積みなのが観通せてしまうのだが
その鈍感さ、独善性、厚顔無恥さに辟易(へきえき)して来る。
5分で疲れる。
やっぱり一番重いんだよな。
そしてまだ彼ら彼女らには余裕があるんだよね。
それでも少なくとも、老いる苦しみ、病気を与えられる苦しみ、死ぬ苦しみは、万人に与えられている。
本当に苦しんでから、本当に求めるようになってから、話しましょ、と言うしかない。

というようなわけで、フツーの人との交流が最も少ない私です。
人間好きなんだけどなぁ。
最低限の社交以外に噛み合う話題がないんだからしょうがないのでありました。

 

 

 

今日はちょっとややこしい話に思われるかもしれないが、お付き合い下され。
可能な限り、端的に書きましょう。

仏教においては、人間の行為=「業(ごう)」というものを三種に区別する。
それが「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」。
具体的には
「身業(しんごう)」=身体的行為
「口業(くごう)」=言語表現
「意業(いごう)」=心意作用
つまり、「体」「口」「心」ですること、である。
確かに、人間の行為はこの三つにすべて含まれる。

そして特に密教においては、衆生(しゅじょう)=生きとし生けるものの行いが本質的には仏の働きと同一であると考えているので、この「身口意の三業」を「身密(しんみつ)、口密(くみつ)、意密(いみつ)の三密(さんみつ)」とする。
即ち、具体的に何をするかというと、
「身密」=身体において手印(しゅいん)を結ぶ(手印:手指の組み合わせによって、ある仏、菩薩、明王(みょうおう)などの働きを象徴して表すこと[例]阿弥陀定印(あみだじょういん)
「口密」=口に真言(しんごん)を読誦(どくじゅ)する(真言(マントラ):ある言語表現によって、ある仏、菩薩、明王などの働きを象徴して表すこと[例]オン・バイタレイヤ・ソワカ(弥勒(みろく)菩薩の真言)
「意密」=心に本尊の観想(かんそう)を行う(観想:ある仏、菩薩、明王などの形や姿を心に思い浮かべること
である。

ややこしいように見えて、これは実によくできている。
身体的に手印を組み、
口に真言をとなえ、
心に仏像を思い浮かべれば、
他に何もできないのだ。

例えば、三密を行いながら、過去のことにとらわれ、まだ来ぬ未来を心配し、あいつのことを恨みに思うことなどできない。
つまり、三密が行われている瞬間、少なくとも我々がとらわれていることから解放されているのである。
よくできてるなぁ。
もちろんこれは三密の形の上での入門に過ぎず、三密相応、三密加持、即身成仏などなど、三密には果てしない深みがあるが、我々凡夫にはこの形だけでも大いに救われる。

しかし、愚かな凡夫はトホホなことに、この三密の実践すら覚束(おぼつか)ない。
そんなときは口だけでいい。
しかも真言もいいが、念仏でいい、祝詞(のりと)でいい、祈りでいいのである。
少なくとも、それをとなえている間だけは、とらわれから逃れられ、我々は救われるのだ。
つくづく先人たちの智慧は大したもんだと思う。
愚かな凡夫はやっぱり易行(いぎょう)=易(やさ)しい行でないと救われないもの。

そしてそんな易行も、何日も何カ月も何年も続けていると、ただとらわれから逃れられるだけじゃなくて、ちょっと違ったことが起きて来るんだけど、その話はまた、あなたの体験が実際に進んでからにしよう。

それでは、お付き合い、多謝深謝。

 

 

[注]密教専門書よりも『岩波仏教辞典』の表記が入門的にわかりやすく、多く引用させていただいた。

 

 

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