八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

昨日も触れた通り、「技術」「演技」「テクニック」を駆使するのが対人援助職だと思っているバカチンがいる。
あるドアホな女性精神科医は後輩に「臨床は女優だから。」と本気で言っていた。

そんな小細工は早晩、見透かされるに決まってるだろ。
クライアントをなめてはいけない。

それでは、対人援助職が「技術」や「演技」や「テクニック」を使うことが全くないのかというと、そんなことはない。
使うことはある。

例えば、私が大学病院にいた頃、小児科の病棟に白血病の子どもたちがたくさん入院していた。
そして病状が厳しくなると、個室=無菌室に行くということを子どもたちはみんな知っていた。
個室に移ったある子が看護師に尋ねた。
「僕、死ぬの?」

そんなとき、あなただったら
「そうだよ、君はもうすぐ死ぬんだよ。」
と言いますか?
そうは言いませんよね。
その子の「僕、死ぬの?」というのは決して質問ではなく、大丈夫と言ってほしいという願いだと気がつきますよね。
だから

「大丈夫だよ。きっと良くなるよ。」
と我々は言うんです。
でも、これはウソですよね。

あのね、愛のあるウソを「方便」というんです。

小手先の、自分がその場をちょろまかして切り抜けるための「技術」「演技」「テクニック」とは違うんです。
愛のないウソはただのウソであり、それは罪でさえ
あります。

たとえウソでもそこにこめられた愛が届くから、「僕、死ぬの?」と訊いた子どもの気持ちがちょっとだけ軽くなるんです。

緩和ケア病棟においても、もし患者さんから
「オレ、死ぬのが怖いんだよ。」
とか
「もう死にたくなっちゃった。」
などと言われた場合、スタッフは答えに窮してしまうことが多いといいます。
そんなときは

「〇〇さんはそう思うんですね。
と切り返す「テクニック」があるというのを聞いたことがあります。
心の底から
「バッカじゃないか。」
と思いました。
これまた、自分がその場をちょろまかして切り抜けるための「技術」「演技」「テクニック」の類(たぐい)なんです。
何故、誠実に衷心から答えないのか、患者さんのために。
患者さんが看護師に
「オレ、死ぬのが怖いんだよ。」や「もう死にたくなっちゃった。」というのは単なるコメントではなく、不安を少しでも軽くしてほしいという願いからですよね。
小細工はいいんです。
私ならこう答えます。
「そう言われてどう答えて良いのかわかりませんが、〇〇さんの気持ちが少しでも楽になることを心から願っています。」
と。

どうか間違っても、上記のセリフだけを真似しないで下さい。
愛のない模倣が相手に響くわけがないですから。

そしてもし心に愛があれば、どんなウソも、「技術」も「演技」も「テクニック」も、相手の生命(いのち)に響く「方便」となるのです。

で、それは一体誰の愛なんでしょうね。
私の愛? あなたの愛?
それについてはまたいつかお話しましょう。

 


 

新人として対人援助の現場に出たとき、当然ながら、何をどうして良いやらわからず、大変不安なものである。
それはわかる。
むしろ不安になるのが当たり前である。

そして先輩上司などに
こういうときはどう言ったら良いんですか?
こういうときはどうしたら良いんですか?
といったハウツーをつい訊きたくなる。

気持ちはわかるが、これが道を誤る第一歩。
そしてまた、そういうときに出逢った先輩・上司が碌でもないと、対人援助職としての一生が台無しになる危険性がある

私が講義をしていたとき、教室に行くと他の講師の作成した配布資料が教壇の上に残っていた。
『相談援助技術』という科目のその資料には
「腹の底からイヤなクランアントに笑顔で接することのできる技術を教えます」
と本当に書いてあったのを見て、軽い眩暈を覚えた。
そもそも『相談援助“技術”』という科目名が気に入らない。

また、某学会の精神療法を専門とする精神科医たちが編集した精神科面接の本を読んでみたところ、その「技術」「演技」「テクニック」の記述のオンパレードに軽い頭痛を感じた。

これらだけでなく、医療福祉保健機関などで、先輩・上司から新人がおかしな指導をされているところを見かけたときには、「おい、それ、違うんだけどな。」といたたまれない気持ちになって来る。

だから、言っておきます。

「面接」も「相談」も「精神療法」も「カウンセリング」も、「技術」「演技」「テクニック」ではありません。

そんなこともわからず、何年~何十年とやってるうちに、小手先でペラッペラの「技術」「演技」「テクニック」の引き出しをいっぱい抱えた対人援助職になっちゃったのね。
そしてそれをまた不安な後輩・後進たちに教えて、碌でもない対人援助職を再生産して行くことになる。

やめてくれ。

まず何よりも大切なのは基本的人間観。
そして治療観。
さらには世界観。

それがなければ対人援助ができるわけないでしょ。
もちろん人間観、治療観、世界観と言っても、それが単なる観念的遊戯じゃあしょうがない。
体験に基づいて血となり肉となり、それがその人の“生きる姿勢”として体得されたものでなければ意味がない。

それを教えることのできる先輩・上司の許(もと)でないと、碌な対人援助職は育たないよ。

「策士、策に溺れる」
ような対人援助職になるべからず。
目指すなら
「大巧は巧術なし」
その真意を極められる対人援助職を目指すべし。

 

 

 

本日で令和5年度の八雲勉強会が終了しました。
八雲総合研究所の現在地への移転と共にスタートした八雲勉強会も今回で54回を数え、新規発足後4年と9カ月となりました。
熱心で愉快な参加者に恵まれ、お蔭さまをもちまして、私にとっても毎回が楽しみな開催となっています。

つきましては、新年度=令和6年度(令和6年4月~令和7年3月まで)八雲勉強会の内容が決まりましたので、以下にお知らせ致します。

[1][3]はこれまでと変わりませんが、[2]の内容につきましては、新年度から大きな変更を行いましたので、ご関心のある方はどうぞご確認下さい。

新年度も八雲勉強会の時間が参加者にとって、お互いの人間的成長のための大切な時間となることを心から願っています。

 

[1]参加対象 現在、八雲総合研究所に面談に来られている方(対面面談だけでなく、Skype、Zoom、Facetime、電話などによるリモート面談を利用している方も含む)が対象となります。

[2]内容 令和6年度(第55回)以降は、(1)近藤先生の文献を使った精神療法に関するレクチャー(2)参加者による話題提供とディスカッションという(1)+(2)2本立ての構成で行って行きます。
(1)につきましては、松田が資料を用意し、参加者宛てに郵送した上で、当日、松田がレクチャーします。
(2)につきましては、参加者による話題提供の内容として、①今の自分自身について感じたこと、気づいたこと、成長課題について話していただくか、②『塀の上の猫』所載の「金言を拾う」の内容の中からひとつを選んでいただき、それを読んで、自分自身が感じたこと、気づいたことについて話していただきます。①か②のどちらかひとつです。いずれの場合も発表後、参加者全体で互いの成長のためにディスカッションして行きます。
尚、誰が話題提供するかについては、その前の回で5名を指名致します。現実には1回の開催で5名回ることは難しいと思いますので、時間内に進んだところまでとし、回らなかった方は次回に順延します。

[3]令和6年度の八雲勉強会は、原則として Zoom による開催とします(会場での対面開催が可能となりましたらお知らせ致します)。

以上

 

 

「溝をつけた上で水は流れて行くわけです。溝をつけなければ水は行かないんだ。その溝をつける仕事というものが、平生(へいぜい)からやってなくちゃいけない。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

日常の中で「子どもが言うことを聞いてくれない。」「生徒が言うことを聞いてくれない。」「患者が言うことを聞いてくれない。」 そんなことがよく起こります。

「いろんなこことを私はね、方々で訊かれるんです。『どうしたらうちの子どもをよくすることができるでしょうか?』、ね。『どうして導いたらいいでしょうか?』とおっしゃる。そういうお母さんに逢うけども、私は『急にはできません。』と言うんです。何故かというと、そんなね、急にやったらね、インチキだと思いますよ。信じません、子どもは。『なぁんだ、おかしいな。なんかどっかで聞いて来たんだろ。』なんてことを言います。
「平生からね、平生だから毎日ですよ、ね。とにかく毎日のことが大事だと言うんです。
「挨拶というのはね…互いにね、お互いのね、実は、ことを思いやっていることなの、ね。思いやるってのはどういうこと、相手の生命(いのち)っていうものをんね、いい? お互いにだ、相手の生命(いのち)に手を合わせてる状態なの。
「Mutual congratulation、お互いに祝福し合う、生命(いのち)を祝福し合う、そういうことが挨拶なんだ。

「そういうことをね、毎日やっていくうちにですよ、具体的に言いますと、そういう気持ちの中、気持ちが溢れた挨拶をして…そしてしかもそのときに、『おはよ。』とこう、ちょっとでいいから会釈する。そういうふうなアレがありますと、子どもは自然に…お母さんによって…自分の生命(いのち)が、ね、なんかわからないけれど、尊ばれ、尊重される、大事にされていることを知るでしょう。」
「今、つまらない例ですけどもね、やはり毎日毎日やるね、その礼拝行(らいはいぎょう)というといかにも卑屈に聞こえるようだけどもそうじゃない、こんな楽しいことはない。相手の生命(いのち)をね、祝福し、相手の生命(いのち)をね、本当に見つめながら、素晴らしく健やかにっていうぐらい良い気持ちのものはないんですよ。」
「そういうことをやっていますと、初めて言葉が役に立つときが来るのです。私が一年間そういうことをやったために…一年後に…初めて素直に聴いてくれたわけです。」
「水路、溝をつけなさい。
溝をつけた上で水は流れて行くわけです。溝をつけなければ水は行かないんだ。その溝をつける仕事というものが、平生(へいぜい)からやってなくちゃいけない

近藤先生は、八雲学園の校長として女子高生に関わっていたとき、そしてクライアントに関わっていたときに、毎日毎日、心の中で合掌礼拝(らいはい)されていたわけです。
その平生からの積み重ねがあったからこそ、生徒たちやクライアントたちが近藤先生の言うことに耳を傾けるようになるのです。
特に問題を起こす子どもたちやクライアントたちは、それまで自分の生命(いのち)を尊ばれ、尊重される体験に乏しかったわけですから、余計に敏感なんです。

私が近藤先生のところに通っていたとき、いつの頃からか面談の終わりにお互いに立ち上がって合掌礼拝するようになっていました。
私にとってそれが本当に有り難かった

つまり、私の生命(いのち)が喜んでいたわけです。

そして愚かにも、先生が亡くなられてから、私は気がつきました。
ああ、先生は私が初めて八雲に伺ったときから、私の生命(いのち)に向かってずっと合掌礼拝して下さっていたのだと。

溝をつける、平生から、毎日毎日。

 

 

たまには統計の話から。

2020(令和2)年に行われた患者調査によれば、受療中(通院中か入院中)の精神障害者数は614.8万人(通院586.1万人+入院28.8万人)に達し、特に通院患者数が急激に増えつつある(2017(平成29)年の通院389.1万人なので3年間でなんと約200万人!増えた(50%以上!増加した)ことになる)。

ちなみに、2020(令和2)年時点での日本の人口は約1億2,614万人であるから、およそ国民の20人に1人が受療中ということになる。
これは多い。

さらに、受療していない人も含めると、生涯に一度でも精神障害になったことがある人の数は1,900万人に達するという報告もあり、およそ国民6.7人に1人が生涯に一度は精神障害になるということになる。
これまた多い。

また、その診断内訳となると、少なくとも最近大都市圏で精神科クリニックを開業した幾人かの精神科医からの情報によると(こちらの方がタイムラグのある患者調査よりも“今”が感じられる)、いずれも「精神病圏」と言われて来た統合失調症や双極性(感情)障害(躁うつ病)などの患者さんが占める割合が減少し、初診の大半が適応障害や不安障害など「神経症圏」の患者さんが占め、まだ統計の実数には現れていないが「発達障害」が基底にある患者さんが相当数を占める印象がある、という話をよく聞くようになった。
これらは入院にも対処する精神科病院や地方の精神科医療の状況とは多少異なるかもしれないが、時代の方向性を如実に反映しているものと私は思っている。

言い方を変えれば、「薬」だけでは治らない患者さんが急速に増えて来ているのである(元々すべての精神障害が「薬」だけで治ると私は思っていないが)。
即ち、「神経症圏」の患者さんには「精神療法」が不可欠であり、「発達障害圏」の患者さんには「療育」や「心理教育」が重要である。

さらにさらに話を進めると、「診断」がつかない患者さん?も急速に増えつつある。
つまり、この人に必要なのは「治療」なのか、人間としての「教育」なのか迷うところで、
後者ならば、それは医療機関で医療関係者やることなのか、という問題である。

どんどん話が長くなりそうなので、私見を言っておこう。
私は「治療」か「教育」かを分けることなく、すべての人に「人間としての成長のための精神療法/人間教育」が必要だと思っている。
それが、事の善し悪しに拘らず、否応なしに求められる時代になって来たのである。
よって、医療関係者に求められるものも当然変わって来る。
「薬」だけ出していれば良いということにはならないし、
狭義の「治療」のためだけの「精神療法」「療育」「心理教育」をやっていれば良いということにもならない。
「専門的」な「知識」や「技術」だけでは足りないのだ(それだけなら受け売りである程度はできる)。
「人間の成長」に関わることのできる「人間」個人としての「力量」が要求される時代になって来ている、と私は思っている。
こう申し上げると、読者の方々の中には異論・反論もあると思うが、これが私の持論(確信)なのだからしょうがない。面々のおはからい、で結構である。
そしてこういった時代の方向性を片目で見ながらも、以前と変わらず私は、「人間としての成長のための精神療法/人間教育」の志を同じくする方々と出逢って行ければ、と願っている。

 

 

DREAMS COME TRUE の歌詞ではない。

大切なことは何度でも、聴くということ、言うということ。

本当に「わかる」ということは、そう簡単なことではない。
時に「それはもう以前に聞きました。」と言われる患者さんがいる。
「耳で聞いたことがある」というのと「体得しました」というのでは大違いだ。
「頭でわかった」というのと「腹の底からわかった」というのも大違いである。
「具体的な仕事の場、生活の場で咄嗟のときでも実践できるようになる」、そうなって初めて「わかった」と言えるのである。
そうなるまで何度でも何度でも何度でも繰り返し聴かなければならない。
そうして初めて本当に「わかる」ようになる。

視点を変えてみよう。
「先生、○○だとわかりました!」
と初めてのようにクライアントから言われることがある。
こちらは
「それはもう十回以上言って来たんだけどな。」
とつい思いそうになる。
しかし、もしそう思ったとしたら、こちら側の間違いである。
ただ「言った」だけでは何にもならない。
相手の心に沁みるまで、芯の芯に沁みるまで、咄嗟の行動変容が起こるまで
そうなるまで何度でも何度でも何度でも繰り返し言わなければならない。
そうして初めて本当に「わかる」ようになる。

目標は飽くまでも本当に「わかる」こと。
聴く回数、言う回数は、関係ないのである。

 

 

「仲間の匂い」については何度か申し上げて来た。
混乱が起きぬように、今回はその「仲間の匂い」に2種類あることを整理しておきたい。

ひとつは「仲間の匂い」の中でも「闇の仲間の匂い」というもの。
2024(令和6)年2月12日(月)『金言を拾う その3  弱さの仲間』
で書いたように、自分と同じような心の傷を抱え、痛みを抱え、弱さを抱えた相手に対して感じる「仲間の匂い」がある。
これは、ある意味、血の匂いであり、涙の匂いであり、孤独の匂いでもある。
自分の中から匂うものと同じ匂いを相手からも感じる。
言わば、こいつも地獄を経験して来たな、と感じる匂いである。
それ故に、親近感もあり、話もしやすいが、下手をすると、互いに
傷口をなめ合い、居場所のない者同士が集い、一緒にさらに暗い深みに落ちて行く闇の仲間になってしまう危険性がある。
これが「闇の仲間の匂い」。
(同じ「におい」と言っても「匂い」ではなく「臭い」と書いた方がいいかもしれない)

もうひとつが「仲間の匂い」の中でも「光の仲間の匂い」というもの。
2024(令和6)年2月7日(水)『金言を拾う その2  絶対孤独を超えて』
で書いたように、上記の「闇の仲間の匂い」もするのであるが、それだけに留まらない、
言わば、こいつ、その闇を超えて来たな、と感じる匂いである。
厳密に言うと、これはさらに2種類に分かれる。
闇を超えて光の世界に達した者同士がわかり合う匂いもあれば、
自分はまだ闇の中にいるが、相手はその闇を超えて光の世界にいるな、と感じる匂いもある。

在米中の近藤先生が初めて鈴木大拙に逢った瞬間、互いに感じたのが、闇を超えて光の世界に達した者同士の「光の仲間の匂い」であった。すぐさま大拙から「近藤くん、いろいろ手伝ってくれんかな。」という話になったのも当然であろう。
また、私が初めて近藤先生に逢った瞬間(講演を聴きに行き、壇上に立った先生の姿を観た(まだひと言も発してない)瞬間)に感じたのが、自分はまだ闇の世界にいるが、この人はその闇を超えて光の世界にいる、という感覚であった。
後に成長のための薫習を受けることになるクライアント-セラピスト関係の始まりとしては理想的だったかもしれない。

以上、「仲間の匂い 光と闇」即ち「闇の仲間の匂い」と「光の仲間の匂い」、読者の方々に誤解なく真意が伝われば幸いである。

 

 

「子どもの生命(いのち)が観えたとき…そのときのお母さんの眼の中には、智慧の光が宿ります。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

「僕はもう七十ですから、あと何年かの生命(いのち)しかございません。しかしこの生命(いのち)こそ、自分が本当に尊(たっと)び、本当に純粋に保って、死ぬまで伸ばし、生きていかなくては、活かして行かなくてはいけないんです。そういう生命(いのち)だと私は思います。」
「これは私の生命(いのち)ではない。私に与えられた生命(いのち)です。他にどこにもない生命(いのち)なんだ。私の中にだけある生命(いのち)です。だから私にとってはね、これは荘厳(しょうごん)すべき、これは礼拝(らいはい)すべき、本当に尊い、唯一無二の値打ちを持った生命(いのち)だと思います。」
「自分の生命(いのち)を本当に尊び、本当にそれに対する価値を認めるときに、そこに自分の目の前にある、お母さんにとっては『我が子』と呼ばれる、その子どもの生命(いのち)が観えるでしょう。自分の生命(いのち)を尊ぶときに、その生命(いのち)を通じて現れた、与えられた、授けられた、その生命(いのち)の意味もわかるんじゃないでしょうか。」
「自分の子ども、我が子と、『我』という字が付くために、どうでしょ…私たちはともすると、自分の考えた、思ったように、その生命(いのち)をしようとしてるんじゃないでしょうか。」
「子どもを自分のハンドバックや、あるいは、鉛筆と同じように考えてないか、とちょっと考えたときに、あなた方の、お母さんの、あおのときのお母さんの眼の中には、智慧の光が宿ります。」

自分に授けられた生命(いのち)の尊さを感じる
子どもに授けられた生命(いのち)の尊さを感じる
縁あって出逢った人の中に授けられた生命(いのち)の尊さを感じる
考えるのでも想像するのでもなく、感じる
この体験の事実
それこそが人間一人ひとりを超えて働く大いなる力による賜物(たまもの)だと思います。
そしてその大いなる力に導かれて
自分の生命(いのち)を尊び
子どもの生命(いのち)を尊び
縁あって出逢った人の生命(いのち)を尊ぶとき
開かれて来る新しい世界、本当の世界、本来の世界があるのではないでしょうか。

改めて
自分に授けられた生命(いのち)に対して合掌礼拝(らいはい)する「自己礼拝」を
相手に授けられた生命(いのち)に対して合掌礼拝(らいはい)する「他者礼拝」を
お勧めしたいと思います。
我々の存在を覆うものは、取るに足らない、つまらない凡夫性ですが
我々の存在の根底には、合掌礼拝(らいはい)すべき尊い生命(いのち)が与えられているのです。

 

 

かつて児童専門外来を担当していた頃、3歳児健診で発達の遅れを指摘された子どもたちが精密検査のために受診していた。
親御さんたちも指摘されたので已む無く受診に来られるわけで、私も非常に気を遣い、特に自閉症スペクトラム(当時は自閉症)の診断を下す際には、子どもたちの未来のために正確な診断が必要とわかっていても、なかなかに気の重い仕事であった。

その際、親御さんに伝えて行く大事なことに関しては、とてもこの小欄では書き尽くせないが、今回はその中のひとつ、将来の「自立」について特に記しておきたい。

診断が下ったとき、親御さんはショックに打ちひしがれながらも、私(たち)がこの子の面倒を一生みなければ、思われる方が多い。
そのため、このことだけははっきりとお伝えするようにしている。
「ご心配でしょうが、お子さんが大人になったときに自立していなければ療育は失敗ですよ。」
誤解のないように付け加えるならば、大人になって親と同居してはいけない、と申し上げているわけではない。
いつでも一人で暮らせる力を持った上であれば、親との自宅同居も全然OKだと思う。
要は、成人したときに自立して暮らせる力を身に着けることを今からイメージして(そこから逆算して)療育を始めましょうね、ということである。

御存知のように、「この子を残して」問題は昨今、精神障害者家族会の中で大きなテーマとなっている。
そう。確率的に言えば、親御さんの方が先にいなくなるのである。

実は、若い世代に発症が多い統合失調症や双極性(感情)障害(躁うつ病)などの場合でも、発症当初から本人や親御さんと将来の「自立」をイメージして治療プラン、ライフプランを立てて行くという発想が遅れて来た歴史がある。
私は最初からそういうイメージを本人、家族と共有しておくことは、とても大切だと思っている。
そうでないと、あっという間に5年、10年、〇十年が経ってしまう(ホントに早いですよ)。

本人には本人の人生がある。
親御さんには親御さんの人生がある。
兄弟姉妹にも兄弟姉妹の人生がある。
みんなの人生は同時進行だ。
どの人生も豊かなものであっていただきたいと願う。

そして最近ようやく必要な社会資源も整って来ている。
かつては医療機関しかなかったものが、住むところ、働くところ(働く練習をするところ)、集うところ、そしてまざまな支援制度や応援部隊も増えつつある。
次第に家族ではなく地域がサポートする時代が開けつつあるのだ(まだ地域差はあるけどね)。

そして最後に付け加えておきたいのが、「自立」生活が魅力的なものであってほしい、ということである。
そもそも「自立」ということが「ねばならないもの」ではなくて「是非是非そうしたいもの」であってほしいと心から願っています。



 

子どもが幼かったとき、歪んだ親は、恫喝や暴力、精神的圧迫や否定、そして経済的縛りによって子どもを支配した。
小さくて弱い子どもは、不安と恐怖から親に従うしかなかった。

しかし、子どももやがて大人になり、身体的にも経済的にも自立した。
気が付くと、親も年を重ね、心身ともに弱って来た。
子どもはこれでようやく親の支配から逃れられると思った。

だが、そうはいかなかった。
今度は親が“可哀想な私”を使って来たのである。
あれほど強く君臨していた親は、今度は心身の不調などさまざまな弱さを訴え
子どもに罪悪感を抱かせることで再び支配しようと迫って来たのである。

これは巧妙だ。

若いときは強さで
年を取れば弱さで
子どもを支配しようとする
硬軟の罠。

どうぞひっかかりませんように
念のため。

 

付け加えておくと
上記のことは健康な親子関係には当てはまりません
本当の意味で、大切に思い合い、愛し合う親子ならば(ベタベタの相互依存を除く)
何をしてもしなくても問題ないと思います。

 

 

昨日と逆の話。

ある五十代の女性が、自分の嘘っぱちで演技的な生き方を変えたいと言って面談に来られた。
それが彼女の酷薄な生育史由来することは明らかだった。
長年沁み付いた心の垢を取って行くことは容易ではなかったが、覚悟を決めた彼女は果敢に取り組み、一枚一枚薄紙を剥がすようにニセモノの自分を脱ぎ捨てて本当の自分を取り戻して行った。
最後の大きな山を越えたとき、なんだかピカピカの赤ちゃんになったような気がします、と言って彼女は笑った。

そして意外なことが起こった。
面談に来たことのない(即ち、私が一度も逢ったことがない)家族にも変化が起き始めたのである。

夫が優しくなりました。
息子が荒れなくなりました。
娘が泣かなくなりました。
みんな以前よりも正直になりました。
本音の話ができるようになりました。

そんな場合もある。
それはいくつかの機が熟したときに起こる。
特に家族が敏感で内省的なときに起こりやすいかもしれない。

こんなとき、思いもしなかった余禄を戴いたようで
私までとてもとても幸せな気持ちになる。

そう、私まで戴いたのだ。
何のことはない、クライアントから、クライアントの家族から、私が戴いたのである。
いや、クライアントも、クライアントの家族も、私も戴いたのである、と言った方が正確かもしれない。
誰が与えたのか?
そんなのは言わなくてもわかるでしょ。

こういうことが起こるから、この仕事はやめられないのである。
 

 

ある四十代の女性が、自分の問題を解決したいと面談に来られた。
それが彼女と母親との関係に由来することは明らかだった。
彼女の自分と向き合う覚悟がしっかりできていたこともあり、しんどい時期もあったが、やがて彼女は本来の自分を取り戻すことに成功した。
何よりもとても生きやすくなった。
しかし問題が起こった。
彼女の変化・成長に彼女の娘が付いて来れなかったのである。

お母さんが変になった。
だらしなくなった。

〇〇なんだからもっとこうするべきだ。
□□としての自覚が足りない。
そんなんじゃダメだ。
こうしなきゃ。

聞いていて彼女は苦笑した。
それはすべて自分が娘に言って来たセリフであり
自分がかつて母親から言われて来た言葉だったのである。

なんだか娘が母に見えて来ました。
娘をそんなふうにしたのは私なんですけどね。

娘より先に母親が成長すると、たまにこんなことが起こる。

娘をこうした責任の一端は私にあるので、娘もまた成長できるように時間をかけて付き合って行こうと思います。

聞けば、娘はまだ十七だという。
それなら付き合ってあげないとね。

それがもし二十歳を過ぎていたら、もう大人と大人。
で、自分がどう生きるのかは本人の責任ということになる。
愛情を持って見守りながら、責任を取り過ぎないでいい。
下手をすると、また新たな支配・干渉と取られかねないからね。

時に成長は自分自身の問題だけに終わらない。
後始末が必要になることもある。

 

 

「私は、今、患者さん達を診ていましてね、本当に安心をしたい、本当に安らかな気持になりたい、本当の安定を得たいというのが人間の一番深い欲望だと思うんです。」(近藤章久座談会『欲望と人間』より)

続いて
「小さな自我ですとね。いつも孤独ですし、疎外されていますし、いつも不安です。本当の自我を支え、生かしている、大きな生命力といいますか、そういったものにふれませんと、この自我は生きた力強いものになりません。」
「いつも、すべての人が共に生かされているという、本当の意味における何か連帯感、感謝といったものが感じられると、そこでは非常に安息した、安定した、いわゆる安心(あんじん)の気持が出てくると思うのです。」
「本当の安定というのは…結局、自分が生かされている、本当に人間に生まれて、生かされていると知らされ、それによって生きていくという、この喜びといえるのではないでしょうかね。」

 

どんなに思い上がっても、どんなに肥大しても、この小さな自我では、本当の安心を、永遠に変わらぬ盤石の安心が得られないのです。
その小さな自我を支えると言いますか、すべての小さな自我に連なると言いますか、最早自我も超えて墻壁瓦礫(しょうへきがりゃく)にも草木国土にもこの宇宙にも連なると言いますか、そういったものを支える大きな生命力に連なる体験がないと、本当の大安心(だいあんじん)を得られないのです。
そしてその大きな生命力に連なりたいという欲望こそが、個人の我欲を超えた、生命(いのち)の大欲である(あなたの中にもあるのですよ)ということを知っておく必要があると思います。

そうして気がついてみれば、永遠の無始より、我々の小さな自我は大きな生命力に連なり、いや、生かされていたのだということを発見し、言いようのない歓喜と感謝に溢れることになるのであります。

こうしてお話しますと、何か壮大な話のようですが、その体験の“芽”は、小さな“芽”は、実は我々の日常の中にたくさんあるのです。
あなたもどこかで感じているはずですよ、きっと。

その一つひとつについてはまた面談でお話しましょう。


 

 

年初にふと思いついて統計を取ってみた。
どういう「縁」で皆さんが八雲総合研究所に面談に来られるようになったか、についてである。

多い順に列挙すると

第1位 私と同じ職場で働いたことがある。    3割強
第2位 ホームページを見て直接申し込んだ。   2割強
第3位 どこかで私の教え子であった。      2割弱
同率第3位 私の講演やワークショップで出逢った 2割弱
第5位 紹介                  1割弱
第6位 その他

以上より、計約7割弱の人たちが、どこか(職場/学校/講演・ワークシップ)で私と出逢って(直接私を見て)から面談を申し込まれていることになる。
それはそうだろうと思う。
その方が私の人となりを見てから申し込めるので安心であろう。
実に有り難い話である。
ちなみに、これら職場、学校、講演・ワークショップで、私の研究所に来い、と“営業”したことは一度もない。
職場や学校で無料で相談に乗ったことはいくらでもあるが、その関係性を“利用”することは恥ずかしいことだと思っている。
だからこそ私を見て自発的に面談を申し込んで下さるのは有り難いことなのだ。
しかし現在は、学校で教えたり、講演やワークショップを開催することも止めているので、これからは少なくなって行くかもしれない。
これからどうするか思案中である。
大卒者や大学院生、現職者対象なら教えるかなぁ。

しかし意外だったのが、第2位の「ホームページを見て直接申し込んだ」という方が多かったことである。
2割を超えているとは思わなかった。
たまたま八雲総合研究所のホームページ(というよりこの『塀の上の猫』か?)を見て、私に実際に逢うことなく申し込まれるのであるから、細くも強い「縁」と言うか、不思議な「縁」である。
自分で気持ちを決めてから申し込まれる分、「情けなさの自覚」や「成長への意欲」をしっかり持っている方が多い反面、たまに全然条件無視、見当はずれで申し込んで来られる方もいる。
前者は大歓迎だが、後者は即お断りしている。

そして以前にも触れたが、思ったより少ないのが「紹介」経由である。
知っている人が面談に行っているということで、比較的気楽に申し込まれるが、最初にお断りするか早いうちに脱落する率が高い。
「あの人が行ってるんなら。」と申し込まれる分だけ、「情けなさの自覚」や「成長への意欲」の検討が甘いことが多いのである。
その中でも本気の方は残る。
結局はそうなる。

そう。
以上の「縁」は、言わば、入り口の「縁」であって、本当の「縁」は入り口とは関係ないのかもしれない。
どの入り口からでも構わない。
短い一生である。
ある程度以上深い話ができる人との出逢いは限られている。

今回の人生で私と出逢うべき人に出逢いたいと心から願っている。

 

 

拙文の中で再三申し上げている「凡夫」という言葉。
私にとっては「凡夫」そのままでしっくり来るのだが、今どきの若い人たちや仏教語に縁のない人たちにとってはそうではないらしい。
【注】「凡夫」(ぼんぷ)愚かな人。凡庸な人。愚か者。愚かな一般の人たち。無知なありふれた人たち。…迷える者。中村元『佛教語大辞典』

そこで最近では「アンポンタン(安本丹)」とか「ポンコツ」とも言うようにしているが、ふと他にバリエーションがないかと考えてみた。

もちろん類語なら何でも良いというわけにもいかない。

例えば「馬鹿」や「くず(屑)」「ぐず(愚図)」「まぬけ(間抜け)」ではちょっと語感がきつ過ぎる(「凡夫」の本義から言うと、それでも全然甘いんだけどね)。

「アホ(阿呆)」はマイルドだが、含むところが広過ぎる。

「たわけ(戯け)」「うつけ(虚け)」となると、信長が出て来そうだ。

では、「とんま(頓馬)」「とんちき(頓痴気)」「とんちんかん(頓珍漢)」はどうだ。 
段々良い感じになって来た。

この勢いに乗って、「ぽんつく」「へっぽこ(屁鉾)」「すかたん」「いかれぽんち」の「すっとこどっこい」!

なんで今、私は立ち上がってるんでしょうか!

う~む、個人的には「アンポンタン」「ポンコツ」に加えて、この「へっぽこ」と「すっとこどっこい」を採用したいと思います。

まだまだ他にも良い表現がありそうだ。 
どうぞ皆さんも何か思いつきましたら、面談のときにでも教えて下され。
どう表現しても、我々は間違いなく「凡夫」なのですから。

 

 

「私、患者さんから『先生直してくれ』っていわれて、私は直せません、あなたの中にあるものが直すんですよ。ただ出来るだけのお手助けはしますがとそう言うんですよ。」(近藤章久座談会『欲望と人間』より)

そして、
「もうひとつ付け加えさせてもらえば、人間が煩悩を持っているからこそ、苦しみ悩みを種にし、縁にして何か自分の中に、自分を越えたもっと大きな力、それで本当に支えられ、生かされている自分を感じることが出来るとすればね、私は人間煩悩喜ぶべしと思うんですがね。」

人間は本当に苦しまないと深まらないんです。
まだちょろまかせているうちは大して苦しんではいないんです。
本人は大袈裟に言いますけどね。
死ぬもできず、狂うもできず、生きるもできず、となったとき、開けて来る世界があります。

禅ではよく「頭燃を払うが如く」と言います(髪の毛に火が燃え移ってそれを必死に払うように)。
私は「鉄板で下からあぶられるように」と感じましたし(あちちあちちあちちで足をつけていられません)、
「釣り天井が下がって来るように」とも思いました(無数の槍が天井から迫って来てもうすぐブスブスと体に刺さります(時代劇で時々見ます))。

だから今まさに苦しんでいる人は、悲観しないで下さい。
「絶後再び蘇(よみがえ)る」
逃げないで誤魔化さないで真正面から苦しむからこそ与えられる本当の救いがあります。

 

 

ある精神保健福祉士志望の女子学生がいた。
就活時期になっても、自己評価が低くて、自分がなくて、他者の評価が気になって、どうしようどうしようといつもフラフラフラフラしていた、
その後、
なんとかある精神科病院に就職したが、毎日が不安で不安でしょうがない。
そんな彼女であったが、偉いのは、そういう自分を誤魔化さず、逃げず、面談を申し込んで来たことである。

就職から逃げる手もあった。
病院から逃げる手もあった。
そして自分の問題から逃げる手もあった。
しかし彼女は逃げなかった。
ドキドキしながらも、情けなさの自覚と成長への意欲を持って、自分自身との勝負に出た。
そこは十分に褒めて良いと思う。

そして5年。
いやいやいや、なんとか一人前の精神保健福祉士ができました。
もちろん、この世界、成長は無限だが、こんなに自分に着地して落ち着いた自分になることは彼女自身も想像していなかっただろう。
おお、勁(つよ)くものを言うこともできるじゃないの。

5年かけて、妙に場数(ばかず)を踏んだだけで変な自信だけつけ、わかったようなことを言う、張子の虎を育てて来たわけではない。
自分の軸で考え、メンバーさんの方を向いて考え、他者評価に翻弄されない、自分が自分あることの幹を着実に太くして来た女性がそこにいた。
その5年間のこともまた十分に褒めて良いだろう。

しかし経験5年くらいでは、まだ一人前の一番下っ端くらいである。
ピヨピヨがピーピーになったくらい。
より骨太の一人前への道はまだまだ続く。

それでも、このように一人の人間が変化・成長して行く場面に立ち会えるということは、私自身にこの上ない喜びを与えてくれる。
その人が本当のその人になっていくプロセスに関わる仕事は、だからやめられないのだ。
あなたがあなたのミッションを果たせるようになることで
私もまた私のミッションを果たしていると言えるのである。

そして遥か青い空を見上げれば、彼女だけでなく、私だけでなく、なんだかこの世界も彼女の成長を喜んでいる気がするのである。

 

 

「大体、人間っていうのは、ゴタゴタしているのが普通ですね。」(近藤章久座談会『人間の欲望』より)

頭文に続いて
「私はいろんな症状、いろんな苦しみに接して、患者さんの話を聞いていると、自分の中にも思い当たり、やっぱり同じようにも感じるものがある訳です。ああ、この人も私とおなじようなんだな~と。そうすると患者さんの方も『先生もそうなんですか』と、感じてくださる訳ですね。そこに共に、人間としての、ありのままの ー あんまりみっともいい姿じゃないですが ー その姿を一応、お互いに認めていくひとつの状況が生まれるわけです。それこそ、お互いに無知なくせに、そうした姿を一緒に見られる。そこに、なるほど俺はこうなんだな~、ああそうか、というような安堵感というものが出てくる。そして、同時に、しみじみと『情けないですね』という感慨が湧いてくるのです。
分かっちゃいるけどやめられないというような、本当にゴタゴタしている自分の姿というものが見えますとね、それは悲しみを持ったもんですけれどね『お互いに感じ合い、人間ってそうなんですね~』という風な共感というものがあるわけなんですね。そして自分ひとりだけが、ゴチャゴチャゴチャゴチャやっていたのが、そうでないっていう感じがする訳ですよ。

人間っていうのは相当見栄っ張り(精神分析的に言うと自己愛的)なものですから、なかなか自分の「情けなさ」を認められないわけですよ。
それが認められるというのは
ひとつには、いよいよ誤魔化し切れないほど行き詰った場合と
もうひとつには、その弱みを吐露し共有できる相手との出逢いがあった場合ですね。

やはりここでも共に是(こ)れ凡夫(ただひと)ならくのみ」ですから。
あなたも凡夫、わたしも凡夫、だからこそ始まるものがあるわけです。
それを相手に感じてもらえるか否か。
“仲間の匂い”がするか否か。
ここらがね、難しいけれど勝負どころなんです、特に対人援助職ではね。
あんまり“偉い”“ご立派な”“専門職”にならないで下さいよ。
まずは、共に愚かな隣人でいましょ。


 

 

 

『古事記』において語られる「天地初発の時」(世界が生まれたとき)の話。

「天地初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)。次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。…(中略)…次に国稚(くにわか)くして脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物に因(よ)りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。…(後略)」

これを読んで、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天之常立神といった神々はみんな抽象神だ、ということを観抜き、
これら抽象観念をその名とする神々は後代の挿入であって、
宇摩志阿斯訶備比古遅神こそが最初の神だ、
と断じたのは益田勝美氏(『火山列島の思想』)だという(唐木順三氏の著書『日本人の心の歴史』によって教えられた)。

天地最初の神を、何も考えず原文通りに受け取って抽象神としてしまうのか、この国の霊性の伝統を考えて具象神に違いないと観抜くのか、には決定的な違いがある。
『古事記』と言ったって、原文を鵜呑みにすれば良いというわけにはいかないのだよ。
益田氏とそれを取り上げた唐木氏の炯眼(けいがん)に胸が震えた。

益田氏は言う、
「ウマシは賛美のことば、ヒコヂは男性の長老への敬称である彦舅(ひこぢ)、だから最初のウマシアシカビヒコヂの神にしても…(中略)…実は角(つの)ぐむ(角のように芽を出す)葦の芽、アシカビそのものの神格化以外のなにものでもないことがわかる。ー 天地のはじめ、陸地がまだ若く、くらげのやうに漂つてゐた時、一本の葦の芽の神が頭をもたげたよ ー さういふ原始の自然物に神を見る心…(後略)」

日々みるみる芽を出して伸びて行く葦の姿に神を観る、神の働きを観る。
それこそが、頭の先でこねくり回してでっちあげたような抽象神ではなく
“具体的なものの中に神を観る”、これこそがこの国の人間の霊性の伝統なのである。

この素晴らしい伝統を受け継いで行きましょうよ、皆さん。
この国に生まれて良かったと、今日もまたしみじみと思うのでありました。
(この感動がどのくらい伝わっているかしらん)

 

 

昨日、「新人の利点」について書いた。
今日は、非新人、即ち、経験者、中堅、ベテランの話。
既に新人の頃を過ぎてしまった人には、成長の可能性はないのか、ということ。

もちろんあるに決まっている。
但し、経験年数を積んでも、自分自身に、そして自分のまわりの環境や同僚のおかしさに疑問や違和感を持ち続けられた人に限る。

それだけ、擦れず、流されず、誤魔化さず、思い上がらず、最初の感覚を持ち続けるというのは難しいのだ。

「そういうもんか?」がいつの間にか「そういうもんだ」になり「そんなもんだ」になる。
「知りません、わかりません、できません」がいつの間にか「知ってます、わかってます、できます(できてます)」になる。
何年経っても、自分の根本的な“問題”は未解決のままであるにもかかわらず、である。

それでも、例えば対人援助職の世界に限って言えば、経験者、中堅、ベテランになっても、私のところに面談を申し込んで来られる方々は後を絶たない。
中には、その世界で既に指導的な立場を確立している方もおられる。
そのままおさまっていれば、大した問題もなく、いや、むしろ世俗的には権威者としてのうのうと過ごせるにもかかわらずである。

そこに経験のあるなしを超えた、人間としての矜持(きょうじ)を感じる。
本当の自分をちゃんと生きたい。
本当の仕事をちゃんとしたい。
それは人間として、健全かつ立派な姿勢である。
そしてそういう方たちは、新人に負けず劣らず成長して行かれるから素晴らしい。

八雲総合研究所の前身、松田精神療法事務所を開業してからもうすぐ25年になる。
面談に来られている方で二十代の方も珍しくないが、65歳以上の方も珍しくなくなった。
これまた、みんな私のところへ来い、というようなセコいは言わないから
どこでも良いから、誰の許でも良いから、あなたが信頼できる人のところで、自分自身と向き合ってみよう。
少なくとも、素直に成長しようとし続ける魂は、いつまでも少年少女のように初々しい、と言っておきたい。


 

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