八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

あなたは、何かを「行うか行わないか」迷ったとき、それを決める自分独自の基準をお持ちだろうか?

今日はそのお話。

[1]まずそれを「行うべきか行うべきでないか」で決める場合がある。
その「行うべきか行うべきでないか」あるいは「行わなければならないか行ってはならないか」という基準は、あなたがいつの間にか親から/時代・文化・所属集団から/他者から埋め込まれた価値観によって決められていることが多い。
これを「埋め込まれた見張り番」による選択という。
よって、決める主体があなた以外にある、いわば、「他律的な選択」ということもできよう。
具体的に、あなたが自分以外の誰かの顔を思い浮かべながら決めるときは、この基準が使われている場合が多い。

[2]次に「行いたいか行いたくないか」で決める場合がある。
このとき、決める主体はあなた自身にある、いわば、「自律的/自立的な選択」ということができよう。
いわゆる「自己決定の原則」はここに属し、自分以外の誰かの影響によらない「主体的な選択」ということもできる。
欧米由来の個人主義的な選択基準ということになる。
これは現代日本においては優勢な基準ではなかろうか。
誰が何と言おうと我が道を行く、というわけである。

[3]そして最後に、「それを行うことがミッションかミッションでないか」で決める場合がある。
これが最も深いが、最も難しい。
このとき、決める主体は、あなた自身でも、あなた以外の人たちでもない。
あなたが「行いたいか行いたくないか」も、「行うべきか行うべきでないか」も、関係ないのである。
誤解を恐れずに申し上げるならば、それは、天が決める、あなたを通して働く力が決める、ということができる。
そしてそういうときに人は祈るしかない。
どこに天意があるのかを感じ取るために。

そしてそこにミッションがあれば、どんなにやりたくなくても、やらなければならない。やらない選択肢はない。
また逆に、ミッションがなければ、どんなにやりたくても、やってはならない。やる選択肢はない、ということになる。

いつも原点に戻る。そもそもに戻る。
我々が何のために生命(いのち)を授かったかというと、
自分以外の誰かから見て「生きるべき人生」を生きるためではなく、
自分が「生きたい人生」を生きるためでもなく、
ミッションを果たすためである、と私は思っている。

「天巧(てんこう)を亮(あき)らかにせよ」(『書経』)
((自らを通して働く)天の働きを明らかにしなさい)

とはそういうことである。

それを一生をかけて(試行錯誤しながら)実現していくのが我々の人生なのである。


 

「子どもは自分が生んだのだ、自分たちがつくったものだと考えるところから、いろいろと間違いが発生してきます。私の子ども、“私たちのもの”だから私たちの自由に育てよう、私の自由にしてもよい、と自然に、気がつかぬうちに物と同じように所有し支配する考えが生じてきます。恋人や夫婦の場合でも、『あなたは私のものよ』とか、『もうお前は俺のものだ』とか、普通の男女関係でも言うことがありますが、その途端に愛は転落します。愛が所有欲に変化するのです。自分が愛した者(人間)が物になってしまう。者が物になってしまいます。…
ノイローゼというのはいろいろ言われますが一言で言えば、子どもを自分の物だから大切にしたいと物扱いにしてしまって、人間としての能力を伸ばすことを忘れてしまうことから起こってくることが多いのです。子どもにとっては非常に不幸なことです。別に人間として発達しなくても、お父さん、お母さんにとってよい子であればよい。つまり親がある独断的なイメージを持って子どもをこういう人間にしようと強制し、押しつけようとすることから起こっているのです。…
しかし、もし親が、生命の不可思議なことをほんとうに感じ、子どもの生命は自分にたまたま授かったものと考えていれば、こんなふうに言えるでしょう、『私たちはお前を、こんな人間に生もうとか…性格をどうしようとか、前もって考えて自分勝手に生んだのではないのです。お前という生命を授けられて、それで責任をもって育てることになったんです。だからこそお前を大事にもするし、お前の生命が健やかに成長するようにいろいろと考えもするのです』という具合に落ち着いて話してやることもできます。…
そこでいろいろなことを言う子どもの外形にとらわれず、子どもの中に潜む生命に語りかけるつもりで正直に、誠実に話し合っていけばいのです。親がそういう態度であくまで子どもの中の生命を信じて、それをみつめて語るうちに、おのずから子どもは、そうした親の態度に信頼感を持つようになるものです。
ここにあるのは自分の子どもという一つの大切な生命であります。世界の中で、ただ一つの独自な生命を持っている者がわが子としてここに存在しているという、混じり気のない透徹した眼で子どもを見たいものです。これは英知の眼であると同時に、愛情の眼であり、生命に対する知恵と愛がそこにあるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

小さい子どももダダこねをし、言うことをききません。
もう少し大きくなると、さらに主張は強くなり、なにかと反発して来ます。
思春期になると、体も大きくなり、口も立ち、その生意気さはピークに達して来ます。
生活全般を親に依存しているくせに、その態度にはチョーむかつきます。
しかし、それだけなら、子どもと子どもの喧嘩です。
それで終わりではなくて、本当の大人には、成熟した大人には、智慧と愛があります。

子どもの外側を覆っている我(が)は生意気で腹も立ちますが、それだけではない、子どもの存在の奥底にある生命(いのち)に対して畏敬の念を感じます。
それが生命(いのち)に対する智慧と愛なのです。
親も凡夫なので、相変わらずチョーむかついて、ドッカンドッカン怒りながらも、ふと感情が過ぎ去った後に、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対して、手を合わせて頭を下げたいと思います。
そして、そんなことを続けていると、最初の「チョーむかつき」も、何のやりくりも抑圧も使っていないのに、少しずつ少しずつ小さくなってくるかもしれませんよ。

 

第一生命経済研究所によれば、いわゆる「ママ友」が一人もいない「ママ友ゼロ」の人は、20年前に約6%であったのが、最近は約半数にまで増加しているという。

皆さんはこれを聞いて、どんな想いを抱かれるであろうか。

そもそも何をもって「友だち」というか、という問題については、以前にも触れたことがある。
「どうでもいい話をしながらお茶かランチ、たまに飲みに行くだけの女子仲間」「仮面と仮面レベルでの演技的お付き合いの相手」「園や学校の情報源として活用するための顔見知り」などのことを「友だち」と言っている方が多いような気がする。
私に言わせれば、それは「友だち」ではなく「知り合い」である。

少なくとも私は、演技でなく本音で、仮面でなく直面(ひためん)で深い話をすることができ、大事な価値観が一致し、相互に信頼できる相手でなければ「友だち」とは呼ばない。
そうなると、そういうレベルの「友だち」がたくさんできるとも思えない。
子どもの園や学校を通じて一人できれば、むしろ上々であろう。
そう思うと、「ママ友ゼロ」が約半数というのは当然、いや、もうちょっと多くてもいいのではなかろうか。

時に「ママ友」に関して、子どものために園や学校の情報から切り離されることを心配するお母さん方がいらっしゃるが(そのために本当はくっだらないと思っている関係性を維持している場合もある)、そういう場合は、忙しいお母さん仲間たちに声をかけ、最初から「園/学校の情報共有のためだけのネットワーク」を作りましょう、と動い方がいた。
賢明な戦略だと思う。
「情報共有のためだけ」というところがポイントであり、最初から「知り合い」レベルの付き合いとわかっている。

そして最後に、心からの期待を持って付け加えるならば、「ママ友」レベルを超えて、世界中の人に否定されても自分たちだけは信頼し合え、支え合えるような「親友」レベル(=「ママ親友(まぶだち)」)の出逢いがあれば、これ以上の僥倖はないと言えよう。

 

 

「無気力、無感動と言われる若者たちがいます多くの場合、こうした若者たちは…知能は発達しているにもかかわらず、勉強にも遊びにもその他の生活にも、打ちこんだり感動することがないのです。感動がないというのは、人と会っても自然や物に触れても、自分の実感が湧かないということです。このような青少年は…まるで心の成長しない幼児のような感じを与えます。幼児的段階というのはいわば自分が未発達な状態のことで、赤ん坊のような非常に発達段階の低い状態です。赤ちゃんには、オギャオギャとただ生存しているだけという時期がありますが、あの赤ちゃんの心の中にはまだ挫折がありません。
ところがこの無気力、無感動には挫折があるわけです。つまり、自分がせっかく伸びようとする時にブツッと芽をつまれる。また伸びると鋏(はさみ)を入れられる。まるで盆栽のようにされている状態です。極端に言えば無気力、無感動は親や社会が寄ってたかって、パチン、パチンと鋏を入れてきたことの結果、出てきている状態と言ってよいでしょう。長い間、親の満足のための功利的な考え方や知識だけを詰め込む教育を受けた結果、次第に子ども自身が、いまここに生きている、生かされているという喜び、実感を失っている姿なのです。
つまり、成長する過程で周囲の事情でじかに物にふれて感じる ー 直接感覚の世界を知らなかったことから、結局感覚というものを発達させていないわけです。しかし人間は本来、深い心の内部で直接感覚を求めています。たとえどんなに抑圧されても求め続けているわけです。…
内部感覚というのは、自分の外側のものを直接に感覚する時に体の内に湧き起こっている感覚で、私は生命の感覚であると思っています。…ところがいまの若者のように平和で保護されて…何の危険もなく暮らしていると、危機感がないので自分の中の生命の動きというものの促しを感じること、言いかえれば内部感覚を感じる機会がない。要するに危機が全くないところに内部感覚の動きがなく、必然的にアパシーが生じます。…
苦を避け楽だけを望むということは誰しも持つ願望ですが、実際は到底できない相談なのです。苦も楽も共に人生の実相であり、その両面であります。苦があって楽を感じるのが現実です。そういう人生の現実を知らせることが大事だと思います。苦労があってはじめて本気になる、苦しんで考える、真剣になる。精神が集中できる。そのあとで苦悩を突破していく喜びが生まれる。生きてゆく自信が持てるのです。…
いずれにしても、これらの若者は『自分らしい自分』『ほんとうの自分』のもととなる内部感覚が触発されていなにので、アパシー状態になっているのです。しかしその心の中には『自分らしい自分』『本当の自分』を発見しようとする欲求が深く存在しているのです。…
さまざまな例からわかりますように、青少年の苦悩や無気力、いろいろな現象は、ひとつの危機の知らせというか、自分がほんとうに生きていないということを知らせている信号なのです。
こうした青年の姿は、本人ばかりでなく、同時に両親や社会に対してその価値観に反省を求め、危機を告げている姿と言ってもよいでしょう。ともあれ青少年の苦悶する姿の中には、ほんとうの自分を知ろうという内部感覚の促しによって生きようとする、痛切な願いがかくされているのです。
根本的に…親として、一個の生命にどう関わっていくのか、その生命力の活動を親の意志のもとに妨害するのか、あるいは真にわが子の内部感覚を呼びさまし、生命の活動する力を促すように関わっていくのか、親であることの責任をもう一度しっかりと腹を据えて考えてみる必要があります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「内部感覚」を発達させるためには、残念ながら、挫折や苦が必要である、思い通りにならないことが必要であるということ。
そして、そのような危機があって初めて「内部感覚」が発達し、その「内部感覚」によって「真の自己」を感じ取ることができるようになるということがまずひとつ。

そして、無気力、無感動は確かに問題ではあるけれど、それは単なる問題でなく、生命(いのち)からの信号、メッセージでもあるということ。
内部感覚を発達させ、「真の自己」を生きてくれ、という重要なメッセージ性があるのだ、ということを観抜かなければなりません。
無気力、無感動で満足している若者の生命(いのち)などあるはずがないのです。
そしてそういう若者に関わっていくためには、親にも大人にも、
「で、あなたの内部感覚は敏感に発達していますか?」
「あなたは『真の自己』を生きていますか?」
と問われることになります。
そうなるともう大人も子どもも一緒に成長していくしかありませんね。

 

 

根幹に関わる大事なことを端的に述べておきたい。

「『生の目的』は何か?」
と問われれば、
「生命(いのち)を育てることである。」
と即答する。

「では、『生命(いのち)を育てる』とはどういうことか?」
と問われれば、
「本来の自己を実現していくことを助けることである。」
と答える。

そして
「誰の、何の、生命(いのち)を育てるのか?」
と問われれば、
「まず第一に、自分自身の生命(いのち)を育てる。
 第二に、子どもの生命(いのち)を育てる。
 第三に、縁あって出逢った人の生命(いのち)を育てる。』
と答える。

まず自分自身の生命(いのち)を育てられなければ話にならない。
次に伸びて行こうとしつつもまだ弱い子どもたちの生命(いのち)を守り育てなければならない。
そして、パートナーとして、親友として、後輩・部下として、患者さんとして、利用者さんとして、クライアントとしてなど、縁あって出逢った生命(いのち)を育てなければならない。

そして、「本来の自己を実現する」とは、「今回の生において与えられたミッションを果たして行く」ということと同義なのである。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目に続いて16回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、段々最終コーナーにさしかかってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(3)

さてこの様にして神経症的傾向は次第に理解されるが、通常最初に明らかになるのは、患者がそれでもって一応の葛藤を解決している方法であるところの神経症的傾向であろう。仮に自己拡大的方法を以て解決している場合は、彼の自由連想や、夢や、対人関係に、彼の自己拡大的な shoulds や claims を発見し、あとづけ、連関を考えて、次第に彼の神経症的構造の中核をなす「仮幻の自己」の明確化に迫って行くのである。
これらに関する理解が一応成熟して来た時、患者に対して、患者の意識に近い面から、適当な時期に ー この時期の判断が重要であるが ー 解釈を試みるのである。解釈は断言的でなくて、出来るだけ「でしょうか?」等の疑問の形をとって、患者自身による思考と省察に訴えたい。
と言うのは、解釈は分析者からの患者への呼びかけであり、その注意の喚起であり、自己認識への促しであり、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与える方法であるからである。
と同時に又、疑問の形に応えて、決定し判断するのは患者であって、分析者は助力者であることを次第に明らかにして行く為でもある。
解釈が幸にも受入れられ、理解されると、それは、患者の自己認識への大きな照明となり、新しい分析への通路を開くことになる。
しかし、必ずしも受入れられない場合でも、分析者は、患者のそれに対する表現や反応によって、更に深い理解への手引きを得ることが出来る。
ともかく、この様なことを繰返しているうちに、患者は次第に過去の回想や現在の感動的な経験を再体験することによって、自分のとっている神経症的態度との連関を見出して行く。
もとより、始めのうちは、たとえ見出すにせよ、狭い特殊な状態との関係のみにとどまるか、或は漠然として一般的な形でしか見られないだろう。しかし、その様な関係を理解出来る事は洞察の一種である。その様な洞察は、回を重ねるにつれ遅かれ早かれ、現在の状況に於て自分の内に作用している色々な要素が、自分の場合に於て具体的にどの様な現象として現われ、どの様な結果をもたらしているかの現実的な洞察に導き、更にそこに動いている自分に固有な shoulds や claims を理解するに至るであろう。
そして更に自分の神経症的な pride に気付き、様々な曲折を経ながら、その背後にある「仮幻の自己」の存在を感じ始めるだろう。それと共に、一方に於て、前景にあって強く動いている。重要な解決方法としての神経症的態度の下に、抑圧された他の要求や誇りが存在する事実に面する様になる。例えば自己拡大的な主傾向の下に、依存的傾向や自己限定的傾向が抑圧否定されて存在することに気付くであろう。
そして、それらの諸傾向の間の矛盾や葛藤が露呈せられ、自分の神経症的性格の構造連関と、その間の力動関係が認識され洞察されるに至る。洞察は広く解すれば知的認識から情動的認識を含む(但し、オブザーバー的知的認識を除外する)。そして知的認識自体は必ずしも直ちに神経症的なものからの解放 ー 性格的変化 ー をもたらすとは言えないが、それは治療的な価値を持っている。
自分の悩んでいる症状に、はっきりした原因があると言うことを発見することは、少なくとも処置しようとすれば取扱える対象があると言う気持を与え、今迄の様に訳のわからないままに苦しんでいた状態にいなくてすむと言う希望を与えるのである。この意味で知識はやはり力である。そして、洞察が重なるにつれ、分析に対する信頼、積極的な態度が増大して来ると言う大きな効果がある。

 

クライアントの神経症的な問題を「解釈」して行くとき、どうしてもセラピストが一方的な、あるいは独断的な解釈をしがちである。そうではなくて、セラピーの過程においては、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与えることが非常に重要であり、あくまでセラピストは助力者であることを忘れてはならない。
また、自己縮小的依存型の傾向、自己拡大的支配型の傾向、自己限定的断念型の傾向は、前景に出てわかりやすい一つの傾向の下に、他の二つが抑圧されて存在するという事実は、時にショッキングでありながらも、洞察を深めるためには避けて通れないプロセスである。
さて、今これを読まれているあなたは、自分自身においてお気づきでしょうか?
そして、洞察が、知的認識だけの話ではなく、深い洞察ほど実は情動的認識を含む、ということも見過ごせない事実である。
ただの冷静な「ああ、そうか。」ではなく、「ああ!そうだったのか!」という情動を伴うところに、その後の認知の変容や行動の変容がより強く期待できるのである。
いくら頭の先で「わかった」って、日々の具体的な「生き方」が変わらなければ意味はない。


 

過日、電車に乗ると、80代と思(おぼ)しきおじいさんが車椅子で優先スペースに乗車していた。
杖を持ち、キャップをかぶっているが、そのキャップに刺繍文字で何やら英語が書いてある。
私が立っている角度からは文末しか見えず、“… not alone.と読める。

それじゃあ、全文は
I am not alone.

We are not alone.
だろう。
そうだよ、じいさん。あんたは一人じゃないよ。

…と思っていたら、なんと全文は、
You are not alone.
であった。
孤独な立場に見えるじいさんが、自分以外の人にメッセージを発していたのである。

昔、子ども専門病院で研修を受けて来た知り合いの医師が、そこに入院していたアメリカ人少年の話を聞かせてくれた。
重体で余命幾ばくもない少年は、研修が終わり、別れを告げに行った知人に、声にならない声で何かを言ったそうだ。
傍らの看護師さんに訊くと、少年は
May God bless you.(あなたに神の祝福がありますように)
と絞り出すように言ったのだという。
涙目で「自分は祝福されていないのに、オレに向かってそう言ったんだよ。」と言う彼に私は反論した。
その少年を通して働く力がそう言わせたんだから、そのとき彼も祝福されたんだよ。

翻って、あのおじいさんはどうだろうか。
あのおじいさんもまた、自分を通して働く力によって“You are not alone.というキャップをかぶったとき、同時に自分はひとりではないことを感じたのだと思う。

時にそんな力が働くことがあると私は思っている。

 

 

「一般に本能というものは食欲にしろ、睡眠にしろ、あるいは性欲にしろ、あるのが健康ではありますが、その欲求を充足する場合には、おのずから社会的なきまりというか、マナーがあります。…そして、食欲とか睡眠欲の場合は、小さいときから訓練を受けています。…ところが性に関してだけは、性の欲求がかなりあとの思春期になって出てくるものですから、それに関するしつけは全然できてないわけです。…言いかえれば、子どもたちは自分一人で、この問題についていろいろな試行錯誤をしなくてはならないのです。…
女の子の場合は、女性ホルモンが活発に出てきますと月経という現象がありますが、この頃から女の子は変わってきます。急にふっくらとして女らしく、なめらかな曲線が出てきます。…つまり女の子にとっては一般的に、成熟していくことが喜びなのです。性ホルモンの作用は、女性がもっぱら美しくやさしくなるように出てきます。
ところが男の子の場合には、極めて現実的には性欲としてはっきり出てきます。自分の体の中に、何だかわからないが、つき上げる衝動として荒々しく突然出てくるのです。
このような差異を頭に置いて…この時期によくある恋愛感情についてふれてみますと…恋愛を、心理的な側面と肉体的な側面とに分ければ、一般的には、女の子の方には心理的な面が強く、男の子には肉体的欲求の面が強いと言うことができます。このために、よく…行きちがいが起きるのですが…大人たちは、男の子と女の子の思春期におけるこうした点をよく認識した上で、それに対する教育的な準備を…するべきではないでしょうか。
もとより、若い生命ですから、男の子も女の子も…経験を通じて学び、成長していくことと思いますが、時として女の子には肉体的にも精神的にも大きな打撃となることが多いのです。…
また、この時代の男の子の問題に対して、母親だけではどうにもならないことがあるわけで、とかく、叱責するとか、見て見ぬ振りをするとかに終りがちですが、ここは一つ、父親が男性の先輩として暖かく、明るい態度で、誰しも青春の日に陥り易い傾向であること、それに耽りすぎないようにすること、エネルギーが余ったら体を動かして発散したらどうかなど、大らかに話して頂けたらどうかと思います。…
そして、この時代を乗りきって成長していくために…何よりも、自分の目標や中心をはっきりと持っていることが…必要だと思われます。…自分の生活に目標があり、中心がある時は、性の問題は少なくとも第一次の問題でなくて、第二次、第三次の問題となっていきます。もちろん、その目標や中心となっているものは、自分がほんとうに必要と認め、自分の内部感覚がほんとうに求め、興味を持っているものです。こうした目標や中心があると、それに対してエネルギーが向けられ、狭い意味での性的対象に向けられるエネルギーが少なくなります。…
いずれにせよ自分が本気で取り組めるものあれば、それはそれぞれの生命を生かし、成長させるものです。そればかりでなく、同じ目標や同じ興味を持つ仲間を次第に発見して、お互に刺激し合い、はげまし合い、楽しみ合っていく友情を発展させることができて、人間関係の上からも、場合によっては各人の生涯にわたる大きな収穫を得ることができるのです。
もとより、こうした中でも性的な衝動は自然にありますが、自分の生活に目標や中心がある場合、それと性の衝動とのはげしい葛藤の中で努力し苦闘することで、次第に鍛えられ、たくましく成長し、やがてこれが自分なのだ、自分はこう生きて行くのだという自覚が生まれて、ほんとうの大人として生きていくことになります。
このように性の問題は、青春期をゆるがす大きな問題でありますが、同時にそれは、若い生命の発展と成長のための機会となり、自己形成への飛躍台にもなる積極的意味を持っているものです。この時代の苦しみを通じて、本気に自分の取り組める興味や関心の対象を発見させる方向へ助力することに、この時代の親の役割があると思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

男女における性の発現の仕方の違いは、近藤先生が度々強調されて来たことです。
現代の性教育においても、医学的なことは説明されていても、男女が自分の性の発現の仕方の特徴、異性の性の発現の仕方の特徴、さらにその心理的特徴について、ちゃんと教育されているとは言い難いと思います。
そこを是非、お父さん・お母さん方、先生方、あるいは、年長の先輩方から思春期の子どもたちに教え伝える機会を設けていただきたいと思います(そのためにはもちろんお父さん・お母さん方、そして、年長の先輩方が真実をしっかり理解している必要があります)。
そしてその上で、性の問題をただの問題として扱うのではなく、性欲に支配されることなく、本来の自分を逞しく生きて行けるようになるための踏み台として活用して行くところに、事の本筋があるように思います。
そうすれば、この性欲を、名誉欲や金銭欲など他の欲望に置き換えても、当てはまる、即ち、どのような欲望にも支配されず、この人生において本来の自分を生きて行けるようになる、という大切な教えとなるのではないでしょうか。

 

児童専門外来をやっていたとき、まず驚いたのは、診断書があれば学校に行かない不登校の子でも中学までは卒業できるという事実であった。
「なんだ。学校に行かなくても中学までは卒業できるのか。」
あんなに頑張って学校に行っていたのが馬鹿らしくなった。

そして、高校に行かない、あるいは、中退した子たちの勉強に付き合っているうちに、半年くらいフツーに勉強すれば、高卒認定試験に受かることに気がついた。
「なんだ。学校に行かなくても高校卒業資格がそんなんで取れるのか。」
またもや、あんなに頑張って高校に行っていたのが馬鹿らしくなった。

いわゆる教科書の内容自体は、非常によくできているものが多いので、それは学んでおいた方が良いと思うが、どこで、誰から、誰と学ぶかについては、もっと自由で良かったのか、と今になって思う。

もしあの頃、自分に生きる軸があれば、学校に行かず(もちろん行きたい学校であれば行くが)、経済的に可能な範囲で、塾や予備校に行きながら勉強し、スポーツや英会話などのやりたいことも学べるところに行って学び、進路を見定めて大学受験をしただろうと思う。
実際、医学部の学生の中には各学年に一人くらい、高校に行っていないヤツがいた(今もいるんじゃないかな)。

よく「“通常の”集団生活を経験しないと“変な”大人になる」式の話を聞くが、私の経験から言うと、“通常の”集団生活を経験して来た大人たちの中に(特に過剰適応して来た大人たちの中に)十分に“変な”大人たちがいるというのは、どういうことであろうか。

今になってそう思うが、子どもの頃は、哀しいかな、自分の軸がなかった。
多数派と違う道を選ぶのは恐かった。
だから、そこは“軸のある”大人たちから応援してもらいたいと思う。

「どんな道を進んでも大丈夫だよ。」
「君は君を生きるために生れて来たんだから。」
「本当の自分を生きることを目指せば、登り道はいくらでもある。」

 

親の応援については明日述べる。

 

「いまの社会では大人も子どもも、特に子どもたちが非常に衝動的になっている傾向です。これは社会が自由という言葉で衝動的な行為を認めて、甘やかしているところにも原因があると思います。衝動的というのは何事でも、その時の自分の気分だけで実行してしまう。心の動きを制しきれず、感情だけですぐ短絡的に行為をしてしまうことを言います。…
その時の気分だけに従うのではなく、我慢すべきところは我慢して、衝動というものに短絡的に反応しないで耐える力を養うことを考えなくてはいけません。…
子どもは衝動的になりやすいのです。大人とちがって何も先を考えないからできるのです。むしろ理由らしい理由がないのにやるのです。…
衝動的になるということと、直接的な感覚とはどう違うかというと、衝動も直接的感覚には違いないのですが、そこに知恵が働いていないのです。子どもの場合にはいわゆる生の、原始的な生の衝動というか、生命力というか、生命的なエネルギーがあるのです。けれどいかんせん頭の方が未発達で、生命を健康に育てていく大脳の働きがまだ充分に育っていないのです。知恵がないわけです。…
自分を生かしていく、生命力を感じる知恵ができることをほんとうの成熟といいますが、子どもの場合はその点で未成熟なのです。また、子どもの時の特徴として、『自分の要求を、今すぐ、ここで、全部、容れられなければいやだ!』という気持ちがあります。これを小児的傾向といいますが、自分の欲求を先へのばして待つということがなかなかできないのです。…
問題は…親が子どもの生命力を生かす知恵を育てたかどうかということなのです。…
いまの子どもたちは困難と戦ったり、忍耐するということを世間からも親からも教わっていないようです。耐え忍ぶ力をつけること、現在の欲求満足を一時耐えて、不満の充足を将来に伸ばし得る能力を養っていくことが現実を生きる上で必要なことなのですが、それが少しも訓練されていません。大人は子どもに対して、拒絶する場合は静かに明るく、キッパリと拒絶するという、はっきりした姿勢とか態度が必要です。ところが親の方が腹が決まっていないのです。腹が決まっていないから結局、その時いちばん楽な方法 ー つまり子どもの言うなりにするという態度をとるわけです。そしてそれが愛情のあるやり方だと自分で信じこんでいることが多いのです。
私のいう愛情というのは、ある厳しさが含まれます。愛は…ただ甘いだけでなく、きびしさと忍耐を必要とします。つまりほんとうの愛は知恵を伴わなくてはなりません。したがってある厳しさが含まれているものです。
この点に関連して、子どもはうまく表現することはできなくとも、親の気持を敏感に感じ取り、見抜く力を備えていることを知っておいて下さい。親が無定見でただ甘えさせているのか、しっかりした考えをもって落ち着いた愛情で導いてくれるのかに対して、それぞれ正直に反応するものなのです。そしてそれが子どもの生きる態度を決定するのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「自分の要求を、今すぐ、ここで、全部、容れられなければいやだ!」という“小児的傾向”。
これを持っている大人も多いですね。
子どもだけでなく、大人ももう一度鍛え直す必要があるかもしれません。
私が言う、逆風の中でこそ自分が自分である幹が太くなっていく、というのはそういうことなのです。
細い幹では、ちょっとした逆風でポキッポキッと簡単に折れてしまいます。
いや、その前に逃げ出してばかりになるかもしれません。
思い通りにならないことを抱えられる力。
逆風の中でも、何人もの相手選手に組み付かれながらも一歩でも半歩でも前へ進んで行こうとするラグビー選手のような“勁さ”を養うことが、大人の階段を昇るということなのです。
そしてその大切さをちゃんとわきまえておくのが“知恵”。
やはり子どもを育てるというのは、自分を育てるということ。
まず親から、大人から、自分から
始めましょう。

 

 

映画『ジェシー・ジェームズの暗殺』(2007 アメリカ)は、ブラッド・ピット主演で、数々の賞も受賞しているため、ご存じの方も多いのではなかろうか。
西部劇というには余りにも心理描写の優れた作品である。
映画の楽しみ方は、人それぞれなので、むしろ私の視点は変わっているのかもしれない。
しかし、この映画を観て、ひと言申し上げたくなった。

それは、ブラッド・ピット演ずる冷酷な無法者ジェシー・ジェームズが放つ、独特の空気感が、わかる人にはビリビリとした実感を持って感じられるだろう、と思ったからである。
それは特に、本来は愛着を抱くはずの相手に、震え上がるような恐怖と共に煮えたぎるような殺意を感じたことのある人だけが肌感覚でわかるものと言って良いだろう。
例えば、典型的には、虐待親のもとで育った人、DV夫に君臨されて来た人などは当てはまると思うが、そこまでいかなくても、支配的な環境で育った人にはわかるものがあるのではなかろうか。

ジェシーの手下であるボブは、ジェシーに対して、一方では、強い愛着と憧れを抱きながら、他方では、全てを見透かされ、支配され、隷属させられている圧迫感と恐怖に苛まれている。
そしてさらにその恐怖の背後には、強い敵意と攻撃性が隠れているのである。
そしてそのアンビバレントな感情がピークに達したとき、ボブはジェシーの一番の良き奴隷からジェシーの暗殺者に変わる。
しかも、その殺戮の仕方までもが、丸腰で背中を向けているジェシーに対してボブが後ろから撃つことによって完遂される。
映画の原題が“The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford(臆病者ロバート(ボブ)・フォードによるジェシー・ジェームズの暗殺となっているのももっともなことである。
背中から丸腰の相手を撃つことは、限りなく卑怯でありながらも、その恐怖と殺意の折衷点がそこにしかないことが、体験のある人にはまるで我がことのようにわかるだろう。
ボブによる暗殺は、とても coward(臆病)なやり方でありながら、それまで屈従させられて来た人間にとっては、精一杯 brave(勇敢)なやり方でもあるのだ(私はボブが銃を構えた瞬間、「やれっ!」「躊躇するなっ!」と叫んでいた)。
そこに至るまでの、ジェシーのゾッとするほど独善的で傲慢な態度、そしてその一挙手一投足にヒリヒリとビクつくボブたちの心情、そしてその場を支配する暗く重い空気感。
そんなことが映画で示せるのかと感嘆した作品であった。

私の観方は、かなり変わっていると思うが、今、小欄を読んでどこか共感できるものを感じた方はどうぞご鑑賞あれ。

 

 

今回から「金言を拾うⅢ」、近藤章久『感じる力を育てる』に入ります。

「親の過保護とか過干渉とかいうものは…ものすごく残酷な結果をもたらすものですが、それを親は気がつきません。自分は愛情をもっていると独り決めして、この子のためにはこうすることがいちばんよいのだと思っています。こんなふうに自分は愛情をもったよい親であるという錦の御旗をもっていることに、実は問題があるのです。
親は愛情の名のもとに、自分たちの強制的な管理の下に自分の子どもを置いているわけです。…子どもは物ではないのです。人間なのです。…ところがその生命を持った人間である子どもを愛情の名のもとに、まるで物のように取り扱うところに問題があるのではないでしょうか。
…物とちがって人間は、生まれて一年もすると、なかなか親の思いどおりにはなりません。子どもは自分で歩きはじめる。そうすると親が『そっちへ行ってはいけません』というのにかえって、反対の方へ飛び出したりして、なかなかコントロールができない存在になってくるものです。
そこら辺から母親とか父親の間違いがはじまります。しつけなければならないと、いわゆるアメと鞭でもって、できるだけ自分たち大人の言うことをきくようにしつけようとします。そして、いろいろやった揚げ句、それが成功して、おとなしい子どもになったと安心した時には、子どもは自分の生命から自然に出る自発性を失っているわけです。自分が何を感じ、何を考えるかわからなくなっています。そして現実に面すると深い無力感を感じます。どうしていいかわからない。自分で考えることも、決めることもできなくなっているのです。…
親は自分の理想像を子どもに強制して、自分の考えどおりに子どもをコントロールしますが、事実は子どもの自由に発達するべき能力を伸ばさず、かえって退化させてしまって、せっかくの可愛い子どもを不幸にすることになるのです。
その不幸から子どもを救うためには、子どもには子どもの人生があり、親はその子どもに代って生きることができないという現実をよく認識して、ゆったりと大らかに子どもを見守り、子どもに接すること、子どもが自分で物事を感じとり、思考や感情を生き生きと伸ばして行くのを助けることから始めるより方法はありません。
ここで親は、自分の根本的な態度をもう一度、ありのままに見て、自分たちは子どもを自分の思いどおりにしようとしているかどうか、子どものありのままの姿をそのままに認めて、それを伸ばそうとしているかどうか、この際しっかりと検討してみることが何より大切です。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より

 

ちょっと厳しいことを申し上げるようですが、ここでも私は世の親御さんたちに「凡夫の自覚」を要求したいと思います。
親が子どもを産める年齢というのは、何故か、とても若いのです。
生物学的にそう決まっているから仕方ないのですが、精神的には、子どもが子どもを産むということになります。
即ち、若い親が授かるには、子どもの生命(いのち)というのは尊過ぎるのです。
ですから、親の基本的姿勢としては、「こんな未熟な親だけれど一所懸命に育てるから勘弁してね。」ということになります。
ここに謙虚さが生まれます。
「正しい親」が「何もわかっていない子ども」をコントロールしてやる、というような思い上がりは生まれないはずです。
ですから、ここでもまた、子どもの生命(いのち)に対して、どうか合掌礼拝(らいはい)するような気持ちで、子育てに当たっていただきたいと切に願います。


 

大学病院に勤めていた頃、外来の隣の診察室からベテラン精神科医の声が聞こえて来た。
「ここは人生相談に来るところじゃないからね。」
初診の患者さんに話しているらしい。
「病気の人が治療に来るところだよ。」
確かに、診断を付けて、薬物療法などの治療を行うことが医師の役目、病院の役目というのは、ごもっともなご意見である。
しかしそれを聞いて、私の中には何とも言えない違和感が残った。
「ここは人生の相談をするところじゃないんだ。」

その違和感がどこから来たかが後日、明確になった。
つまり、そのベテラン精神科医は、診断や処方はできても、人生に関する答えを持っていなかったのである。
だったら、そう言えばいいのに。
「私は答えを持っていません。」と。
そして近藤先生に出逢ったときに確信した。
「この人は答えを持っている。」
人が何のために生まれて、何をして生きて死ぬのかを知っている。

結局、人生の問題を解決してくれる薬物療法はなく(酒やドラッグに逃げるくらいか)、
精神療法というのも、治療におけるものは、本人が所属環境に適応して生きて行けるようになることぐらいしか目標としていないことがわかってしまった。
それじゃあ、人生の答えは持っていないわな。

よって、私が思う本当の精神療法を行うためには、人生の答えが要るんです。

そしておもしろいことに、同様のことが、最近の精神科クリニック界隈でも起きている。
初診者の内訳が変わって来ているのだ。
いくつかの最近の潮流があるが、そのひとつとして、はっきりとしたザ・精神障害があり、明確なザ・治療を必要とする人たちが減って、診断のつかない、そしてまさに人生相談に来るような人が増えているという。
それくらい精神科クリニック受診の敷居が低くなったことは有り難いことであるが、困るのは医療者の方で、人生の答えを持っていないのである。
残念ながら、そんなに自分自身のことも、自分の人生のことも見つめてはいないのだ。
サイコセラピーもカウンセリングも面接も、専門的知識と技術でちょろまかせるうちはいいが、本格的な人生の話となれば、医療者個人が人間として試されることになる。

人生の問題に正面から答えられるサイコセラピーやカウンセリングや面接が、
いや、人生の問題に正面から答えられる医療者が、
いや、人生の問題に正面から答えられる人間が必要とされているのである。

 

 

Aさんは面談に来る度、
まず前回の面談から今回の面談までの間に、自分がどれだけ情けない言動をして来たかについてつぶさに話される。
それが余りに容赦ない内省なので、私は黙って聴いているしかない。
そして話はそこで終わらず、
その今の自分を超えて行くためにどうしたらいいかを、これまた一所懸命に話される。
それがなかなか的を射ているため、これまた私は黙って頷いているしかない。
そして次回までに(口先だけでなく)必ず実践して、その結果がどうであったかを包み隠さず話される。
まさに「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を地で行く面談である。
こうなってくると、私の出番はほとんどなく、どんどんと自分で成長して行ける。
(また次の段階になってくると、私の新たな出番がでてくるが、それについては今回は触れない

しかし、Aさんも最初からそうだったわけでない。
当初は、自分の情けなさに気づかない、認めない、言い訳する、かなりひどかった。
よってこちらから指摘することにある。
そうすると、逃げる、誤魔化す、抗弁する、これまたかなりひどかった。
そして今の自分を超えて行くためにどうすればいいか、についても全く出てこない。
たまに出て来ても、全くの的外れであるため、何の役にも立たない。
そしてこちらが提案しても、申し訳程度にやってくるか、全く実践してこない。

これじゃあ、面談終了だな、と思い、もう一度本人の意志を確認する。
「自分がどれだけ情けないか、本気で向き合う気がありますか?」
そう訊かれて彼は必ず
「あります!」
というのである。
そうなると、面談が続くことになるが、本人がそう言った以上、私の指摘も段々と容赦ないものになってくる。

よって毎回彼はズタボロになる。
しかし、彼はまたやってくる。
毎週毎週やってくる。
何年も何年もやってくる。
よくイヤにならないな、と思うが、そういう厳しい面談が毎回続いていく。

実際、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を面談の条件としたはずなのに、
「自分がどれだけ情けないか、本気で向き合う気がありますか?それとも中退しますか?」
と訊かれて、
「中退します。」
と言ってやめた人が何人かいる。
でも、彼はやめなかった。
そして何年もかけて、頭記のような境地にまで達したのである。
そこを私が褒めると、決して愛想を崩すことなく、真顔で
「まだまだ全然お話になりません。」
と即答する。
これならさらに成長できる。

みんながみんな、同じ通り道をとおるわけではないが、突かれても突かれても踏ん張って踏ん張って成長した人もいる、という一例のお話である。
 

 

 

「そもそも私は、ほんとうは死んでいる人間なんです。
あれは、箱根で水上スキーをやっていたときのことでした。私は、五十いくつぐらいかのときよく水上スキーをやっていたのですが、そのときは自分のワイフに教えようと思ってやっていたのです。
モーターボートの運転手に『はい』と合図して、スピードがだんだん出てグーッとロープが引っ張られたとき、何が何だかわからないうちに、私は水中にひっくり返ってしまったのです。そして水をガブガブ飲んでしまったんです。あっ、これは死にそうだ、このままいったら死ぬなと思いました。ああいうときに、どうしてあんな気持ちがおきたのかわからないですけれど、どういうものか、私は水のなかで非常に静かな気持ちになっていました。すごく静かな気持ちです。自分はすごいスピードで水の中を引っ張られているのですが、目の前を通る水が見えるのです。静かな気持ちで見えるんです。見えると同時に自分の足が見えるんです。その足がスキーとモーターボートをつなぐロープにからまっているのがわかったのです。それを見て、このまま死ぬんだなと思ったときに、ふっとロープを手でつかめた。それでありがたいことに一本の足がロープからはずれたんです。それから次の足がはずれて。ポカッと水面に浮きあがったのです。太陽がサンサンと湖の上に照っている。すばらしく美しい。生きているとはすばらしいことだと思いました。
この体験以来、死ぬということはあんまりこわくない。『死』自体はね。もうひとつ私には死に近い体験があるのです。
戦時中のことです。私は通信兵としてその夜、沖縄に向かうことになっていました。昼に、穴掘り作業をやっていたのですが、そのとき私の戦友が少し気が変になって、ツルハシを振りまわしたんですね。それが私の手にあたって、手が麻痺してしまったんです。そうしましたら、おまえでは通信の役に立たない、だから連れていかないというので、他の人が行くことになったのです。私の部隊は深夜三時に沖縄に向けて出発しました。一緒に行くはずの私は見送ることになったのでした。自分としては沖縄に行くことは死ぬことだと思っていました。部隊は沖縄へ行く途中、南シナ海でアメリカの潜水艦に爆撃されて全滅です。あのとき、戦友がツルハシを振りまわしていなかったら、私はいまこうしていられませんね。
こういう人間という存在の意味を考えますと、人間が最初にいのちを与えられるとき、赤ん坊にも親にもわからないけれど、どんないのちにもその独自の生きる意味が与えられているということが私には強く感じられる。そして、その独自のいのちが持つ『使命』が完了したときに死が訪れるものだと思うのです。苦しんだり嘆いたり、つらい思いをしたり、どうしてこんな目に遭うのだろうと感じたりしますが、そこにその人のいのちの大きな意味がある。その意味を果たしたときに、私は死が訪れてくるのだと思うのです。そのときにはじめて、もうおまえは帰ってきていいよ、と生まれたところへ帰ってくる。ふるさとに帰ってくることができるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

可能ならば、自分がいのちを与えらえた意味を知りたいと思います。
自分に与えられた使命を知りたいと思います。
そしてそれを生き、それを果たしてから死にたいと思います。
少なくともわたしはつよくつよくそう思うのです。
ニセモノの自分を生きて死ぬのはイヤです。
上っ面の満足で生きて死ぬのもイヤなんです。
ちょろまかしの人生でへらへ生きて死ぬなんてまっぴらです。
人間の「成長」とは、結局のところ、自分に与えられた使命を知り、それを果たして生きて死ぬことを指しているのだと思います。

 

 

小学生からスポーツひと筋。
朝から晩まで、なんだったら夢の中まで、どうやったらうまくなれるかだけを考えて練習して来た。
ボーイフレンドもなし、服装はいつもTシャツかジャージ、もちろん化粧もなし、勉強は進級に必要なだけ。
進学はいつもスポーツ推薦。
部の寮住まいで、すべて練習、練習、練習。
遠征はすべて親がバックアップ。
そして彼女のひとつの集大成が高校のインターハイだった。
目指すはもちろん日本一。
それだけのために他のすべてを捨てて、練習して来た。
しかし健闘空しく、無念の敗退。

前説明が長くなった。

そして流した涙を見た。
両方の眼(まなこ)から大粒の涙がぽろぽろぽろぽろと溢れた。

これほど綺麗な涙を見たことがなかった。
胸を掴まれるほど感動した。

小さな子どもたちの涙も綺麗だが、こんなに苦労はしていない。
勝利や達成の涙も綺麗だが、敗北や失意の涙の方が美しい。

なんでだろうね。

死ぬほど一所懸命にやった上で、思い通りにならなかったことを受け入れようとして流す涙は、本当に綺麗だった。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目に続いて15回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」に入り、終盤となってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(2)

さて、この様な観察を横糸とするならば、分析関係は患者の自由連想(広く夢や日常生活に於ける反応を含む)を縦糸として発展して行くのである。
自由連想は患者が自分の心の中に浮んで来ることを、どんなつまらないことでも、心に浮んで来たままに、出来るだけそのままに表現して行くことである。これは、必ずしも自由連想が患者の心的事実のすべてを完全に、忠実に現わしていると言うことではない。
しかし、患者の日常生活に於ける表現に比べれば、比較的に利害関係や、一定の目的に支配されることが少ないという意味で、患者の心的現実により近いということがある。内容的にも、思想や経験、想像、期待、恐怖、不安、安心、失望等の感情等が表出されるのであるが、この間にあって、言い澱(よど)み、省略し、沈黙し、回避するものも多いわけである。
しかし、患者が自分の語っているものの内的意味について気づいていない時でも、治療家は自分の知識と訓練と直観と、自己の自由連想等を動員して、患者の様々な表現や、表現しないところから次第に脉絡(みゃくらく)を発見し、そこに流れている様々な傾向を理解して行くことが出来る。
この時に要せられるのは、観察と理解に関しての安定した忍耐深い態度である。十分理解出来る事ではあるが、治療者にある神経症的な要求によって、ともすれば焦燥感に駆られて、時期尚早な解釈を与えたり、傾聴するのみ倦(う)んだり、患者の変化のないのに無力感や罪悪感を感じたりして、その結果、分析状況の発展を攪乱(かくらん)することの危険がある。
次に重要なのは、様々な神経症的潮流の間に現れる患者の「真の自己」表現であるところの健康な諸傾向に対する公平な注意深い観察である。Horney 自身は、著書に於ては分析の後期に於ける場合を除いてこのことについて明記していないが、その講義に於て強調していたものである。こ
の事は分析に於ける観察が、単に病的なものの観察ではないことが理解出来よう。
第3に留意されなくてはならない事は、分析の全過程を通じて言い得ることであるが、分析者が、この様な観察と理解にもとづいて形成して行く患者の神経症的傾向及び性格に関する心像は、一つの作業仮説であり、いつも患者の心的事実についての新しい発見によって訂正或は補足され、生きた個性的存在としての患者の性格構造に近づいて行かなければならないと言う事である。

 

上記を「THE精神分析における自由連想による治療」の話と狭く取ってしまうと、学べることが少なくなってしまうが、
人間が人間に関わるときの基本的姿勢として受け止めれば、学ぶことはたくさんある。
例えば、後半の3点について、
(1)相手を理解するときの忍耐深い態度。人間を深く理解するには時間も手間もかかる。
勉強会でも「忍耐強い」でなく「忍耐深い」という表現を使っていることへの指摘があったが、確かに「忍耐強い」では自力になり(頑張って耐える)、「忍耐深い」では他力となる(自分を通して働く力によって自ずから耐えられる)。どうしても「忍耐づよい」という表現が使いたければ「忍耐勁い」が相応しい。そんなことも勉強会では取り上げている。
(2)相手の「仮幻の自己」(闇の部分、後天的な病んだ部分)への着目だけでなく、相手の「真の自己」(光の部分、本来の自分の部分)への着目。
(3)初期の先入観で相手を決めつけず、相手のことがわかればわかるほど、その度毎に相手の「仮幻の自己」の理解も「真の自己」の理解も修正していく。
これらは深い人間理解のための基本的態度として、誰にとっても大いに勉強になると思う。

 

 

「挨拶は明るく元気よく!」とよく言われる。

基本的に異論はない。
しかし、“作った”明るさや元気良さならば御免蒙(こうむ)りたい。
眼と魂が死んでる分だけ、“作った”明るさや元気良さは、見ていて余計に悲しくなる。

しかし、部活や社内、店頭で時々見かける“作った”明るさや元気良さを、嬉しそうに眺めている監督や上司、「明るくて元気良くていいわねぇ。」と本気で言っているお客の鈍感さを見ると、あきれ返ってしまう。
この鈍感さがあるから、そんな“演技”が蔓延(はびこ)るのだろう。

では、挨拶とは何か。

ひとつには、挨拶は自らの生命(いのち)の発露である。
自分を自分させようとする生命(いのち)の働きが躍動して溢れ出す。
それが挨拶となる。
幼い子どもたちの挨拶を見よ。

ふたつには、挨拶は相手の生命(いのち)への讃嘆である。
あなたをあなたさせようとする生命(いのち)の働きに手を合わせて拝みたくなる。
それが挨拶となる。
他者礼拝(らいはい)に他ならない。

この挨拶の本質の二面をどうぞご承知おき下さい。

そのとき、挨拶は「する」のではなく、挨拶に「なる」のである。

 

 

 

推し活をしている人が、甲斐あって推しが公演する劇場の1列目の席が取れた。
一番近くで推しが見られると大変に喜んだが、実際に公演が始まり、憧れの推しと目が合った瞬間、思わず目を逸らしてしまった。
バカ、バカ、あたし、何やってんだ! 誰か私を殴って下さい!」
れも経験値。

数カ月後、運良くまた1列目の席が取れたとき、今度は開演前から何度も気合いを入れて
「絶対に目を逸らさないで見返すんだ!」

と自分に言い聞かせる。
そして本番。
なんとまた推しと目が合った。
気合いを入れて拳を握り締め、推しの目を見返したが、なんと推しがウィンクして来た。
忽ち撃沈して固まった。
「あぁ〜、なんで何の反応もできなかったのか! こっちからもウィンクし返すことができたら!」
悔しくて眠れない夜が続く。

そしてまた数カ月後、運良くまたまた1列目の席が当たった。
今度こそウィンクし返してやる。
何度もリハーサルを行い、気合い十分で“そのとき”を迎えた。
そして目が合った瞬間、待ちに待った推しからのウィンクが来た!
全エネルギーを使ってウィンクし返す。
一瞬推しも驚いた顔をしたが、すぐに笑顔。
やったぁ! 遂にミッション・コンプリーテッドだっ!

…と思ったら、推し仲間の子は、推しからのウィンクに対して、なんと投げキッス!で返していたことを知る。
う~ん、そっかぁ~、そのまま返せばおわりというわけじゃあないのね。
もっと自由に、もっとクリエイティブにやりとりを楽しまなきゃ。

そのようにして推し活は推し活で奥深く、自分を解放する道にも通じているのでありました。

 

 

「全体を眺めてみると、我々人間は好むと好まざるとにかかわらず、何かに頼って生きているということがわかります。外に出れば会社、派閥、あるいは出世といったものに頼り、家庭にあっては、妻に頼る、子どもに頼る、親に頼る。奥さんだったら夫や子どもに頼っている。
ところが、その頼りにしていたもの、これがじつは頼りにならないんだなぁ。永久不滅のしっかりとした支えなんてそうザラにあるもんじゃない。たいがい崩れやすくて不安定なものです。これは、日常生活でだれもがイヤというほど知っている、否定しようのない事実だと思います。なのに、我々はそれでも頼ってしまう。そして、いつも危機を迎えるんです。
考えてみましょうね。我々が頼り、支えられているもの ー これは『他』ではないですか? 会社も子どもも『自分以外』なんです。それらの『他』に我々は頼り、支えられている。この『他』というのは自分の思ったとおりにはならないものではありませんか。…
そうすると、最後の最後までほんとうに頼れるもの、真に自分を支えてくれるものは何か。人でもない、モノでもない、それらを超えた普遍的な支えというものがあるのでしょうか?…
私は、熟年の危機というものは、すばらしい『転換期』だと思います。それまで自分が頼りにしてきたもの、支えとしてきたものは、不安定で、もろく、実態のないもの、幻のようなものであって、それを我々は一生懸命に追いかけてきた。それが無残にも滅んでしまう。
そうすると、私たちは最後の最後まで滅びることのない、真に心の支えとなる何かを模索しはじめる。そのとき、これまでの狭い、うわっつらの考え方から解放されて、広い世界に飛び立つ出発点になるんです。すべてのものはなくなって、丸裸になった、その時点からいままでの人生と違う人生がはじまるんですね。さなぎが蝶になるように ー 。
さなぎは殻に覆われた窮屈なときです。しかし、そこに次の広い世界に出ていくチャンスが内包されている。このことを私はぜひ強調しておきたいと思います。
抽象的に申しますと、我々のいのちというか内面世界というのは、海みたいなものではないでしょうか。我々はその表面をドロ舟に乗って航海している。はじめは立派な舟だと思っていたのが、だんだんとドロが溶けていくものだから、しまった!と気づくのです。おまけにあたりには、にわかに濃い霧が立ちこめてきて、もう何も見えない。
そのときにね、直感といいますか、心の深いところから響いてくる信号を感じとるのです。いま沈まんとしている我がドロ舟のすぐ近くに、正真正銘の立派な舟があることを教える信号が ー。
もちろん、それに気づかずにドロ舟と共に沈んでいく人もいるでしょう。しかしね、この世界には、すべての人に次の舟が用意されていると思うのです。私はよく『死ー再生』ということをいいますが、今までの生活を死んで、新しい生活を生きる。この転換の時期が、これまで述べて来たような、熟年期の危機というものであろうと思います。いずれにしてもこうした場合、しばらく時をおいて、自分の感情が落ち着きはじめたころ、顔を上げ、視野を広くし、現実をはっきりと見つめて検討することです。必ずそこに、見落としていた自己を生かす道があります。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

頼りにならないものを頼りにしてきた自分の愚かさに気づくこと。
そして全く頼りない世界に放り出されること。
それがまさに、それまでの偽りの自分の“死”ということであり、我々は人生の大きな“危機”に陥ることになります。

そして、それじゃあ、本当に頼りになるものは何なのか、本当に支えとなるものは何なのか、を真剣に求め、(もうニセモノでは満足できませんから)真の答えが得られるまで七転八倒することになるかもしれません。
しかしそれは、本当の答えを得るための必要なプロセスであり、成長のために必要な“危機”であると言えると思います。
そして運よく、絶対的に頼りになるもの、絶対的な支えになるものを見つけたとき初めて、私たちの新しい、本当の“生”が始まるのです。
それは、真の意味で、私を私させるもの、この世界をこの世界させているものの発見ということができるでしょう

そうして初めて、我々がこの世に、自分に、生まれて来た甲斐があるというものです。

 

 

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