八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

思春期の子どもを持つ親御さんの偉いところは、親に依存しないと生きて行けないくせに、生意気にも反抗・反発・ブータレてくる子どもの世話を、それでもちゃんと焼いていることである。
もっと幼い頃は可愛いかったが、この年頃になると段々可愛くなくなってくる。
かといって、自分たちが成した子である以上、扶養義務がある。
思い通りにならなければ捨てる、というわけにはいかない。
よって、どんなに生意気な子どもでも、生活させ、学費を払い、小遣いまで与えるというのは、義務と言えば義務であるが、親として大したものだと思う。

しかしながら、扶養義務がかかるのは20歳まで。
それを過ぎれば、あるいは、遅くとも大学や専門学校卒業後には、特別な事情がない限り、とっとと自立してもらった方が良い、できれば、家を出るという形で。
どうしても同居を続けるというのであれば、せめて別居に等しい経済的および家事の負担を担わせた方が良いと私は思う。
そこらを心しておかないと、いい年になっても、依存しながら文句をタレる、気持ちの悪い大人子どもを作り上げてしまうことになる。
8050問題は、特別な親子関係においてだけ起こる事態ではない。
そうではなくて、
大人になったら、文句があるなら出てけ、が当たり前である。
上等じゃないか、こんな家出てってやる、と来て、初めて子別れ、親別れが成立するのだ。

悪依存するんじゃないよ。
悪抱えするんじゃないよ。

互いの生命(いのち)の成長のために。

不安だけど夢がある。
心配だけど期待がある。

そんな子と親双方の自立を期待したい。

 

 

 

近藤先生が非常に難しい患者さんの治療に取り組み、ようやく治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。 
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と近藤先生に三拝九拝して感謝されたそうだ。

またある時、別の非常に難しい患者さんの治療に取り組み、紆余曲折を経て治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。
その経過を聴いて喜ばれた鈴木大拙は、近藤先生の両手を握り、涙を流して「ありがとう、ありがとう。」と感謝されたという。

普通ならば、相手に感謝されたとき、人間はちょっと遠慮して「いやいや。」「とんでもない。」と謙遜してみせることが多い。
しかし、近藤先生はそうしなかった。
これらの感謝の言葉に対して「ありがたいですね。」と応じたのである。

即ち、自分が治したのであれば、「オレが治した。」と誇ることもできるし、そう思いながらもちょっと謙遜して「いやいや。」「とんでもない。」と言うこともできる。
しかし、近藤先生の場合は、自分が治したという自覚はまるでなかった。
自分を通して働く力が、そして、その人を通して働く力が、治すのである。
だからどうしても返事は「有り難いね。」となる。

そして話を戻せば、鈴木大拙の「ありがとう、ありがとう。」という言葉も、実は近藤先生に対して言った言葉ではなかったことがわかる。
鈴木大拙が近藤先生に対して言った言葉は、実は、近藤先生に対してではなくて、近藤先生を通して働く力に対して言ったのである。

おわかりか?

よって、全ての手柄は、人間にはなく、あなたを通して、私を通して、この世界を通して働く力にこそあるのである。
褒めるべきは、讃嘆すべきは、この力だけである。
よって、キリスト教では「褒むべきものは神の御名のみ(褒められるべきは神さまの名前だけである)」という。
神の御名を唱えながら、これが仏教ならば、仏の御名を称えながら、というわけで、南無阿弥陀仏に落ち着くのである。

ありがとう/ありがたいね。

 

 

「そこで、基本的に幼児時代というものは、母親の問題が非常に大きい。そのときに母親がです、その、もし不安だけ与える、不安だけ与えて、不安と、つまり愛と、愛憎がありますと言いましたけれども、愛が少なくて、あるいは、愛より、愛してはくれるけど憎が多いというふうな状況を作って、憎しみが大きい状況を子どもに作ったら、どういうことになる。そうしますと、この憎しみを主張しようとしますね。そうすると、それは母親に、ところが、幼児の立場から言やぁ、お母さんはもし自分が主張したら、自分を見捨てるかもしれないでしょ、ね。
あなた方もそうですね。旦那さんに対する憎しみがあっても、それをあんまり主張しちゃったら、旦那に捨てられちゃうでしょ。捨てられちゃうと自分の安全がなくなりますね。三食昼寝付きでテレビ観てるってわけにいかないでしょ。だから、結局ね、そうすると自分の敵意はこう抑えちゃってね。我慢するでしょ。我慢したけれども腹が立つ、我慢したものっていうものは、それを抑えなくちゃいけない、抑圧しなくちゃいけない。これは術語で言いますとね。抑圧するといつも敵意があります。
これ、男性で言いますと、上役がいますね。上役が怒鳴ると。そうすると、それに対して、この野郎!とこう敵意が起こる、ね。そうすると、この野郎!と思うけども、これを、しかし、あいつにやるとクビになっちゃうとかね、昇進が遅れるとか、やれどうだとかで、ここで我慢。忍耐、これね。忍耐する。忍耐っていうのは日本の美徳です、これね。我慢に我慢を重ねて行く。その結果、どうかっていうと、心の中に、この野郎!っていう気持ちがある。その気持ちは、忍耐の下にこう抑えられている。沢庵石(たくわんいし)の下の漬物みたいになってる、こうやってね。そういうものが爆発するとね。例えば、前の校長がどっかに行っちゃう。もう大丈夫だ。あいつはもうアレだっていうんで、グーッと出て来てね。前の校長に対してそういう気持ちを思っていたと仮定しますよ、そうすると、今度なった校長先生と、あるいは教頭に対して、もうその先生は文句だらけだな。
そういう具合に、人間っていうのはね、非常によく見ますとね、この、愛憎というものの不思議なね、絡み合いの中で生きてるようなもんです。で、私はこんなことを言うのは、大人のことを言ってるのは、これが子どものことにも関わって来る。子どもの問題っていう場合に、やっぱりね、そういうものをね、見逃してはならないということです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

愛憎のアンビバレンスの中でも特に、憎、憎しみの抑圧ということが問題になって来ます。
愛憎のうち、愛の表出は一般に歓迎されますが、憎の表現は抑圧されやすいのです。
そうなりますと、表出されない憎は、いつもその人の中にあることになります。
子どもでも大人でも、我々の中に抑圧されいる感情で、最も大きいものは、憎=怒りなんじゃないでしょうか。
虐待された子どもも、マルトリートメント(不適切な関わり)された子どもも、そのときは、親は恐いし、しかも愛着の相手でもあるし、憎=怒りは抑圧されてばかりとなります。
また、夫や上司にひどい扱いを受けた大人も、利害関係や恐怖から、その憎=怒りは抑圧され続けています。
けれども、その憎=怒りはなくなってはいません。
よって、それが後になって、適当な機会をとらえて噴出して来るわけです。
このからくりをよく知っておく必要があります。
そして、できるだけ早いうちに、その憎=怒りを健全な形で発散できないか、解消できないか、ということが重要な問題になってくるわけです。
とにかく
子どもは憎んでいる、怒っているということを
大人は憎んでいる、怒っているということを
自分は実は憎んでいる、怒っているということを
よくよくわきまえておきましょう。
やっぱり感情はね、成仏させてあげないといけないのです。

 

 

一時「親ガチャ」という言葉が流行った。
「ガチャ」(カプセルトイの販売機=ガチャポンによる)のように、どういう親の元に生れるか、それがどんな酷い親であろうと、子どもは親を選べないという意味だったように思う。

そうしたら、今度は「医者ガチャ」という言葉に出くわした。
医療機関を初めて受診した際、どんな医者が出て来るか、それがどんな酷い医者であろうと、患者は医者を選べないという意味らしい。
厳密に言うと、今はSNS上の書き込み情報などを読むことができ、或る程度の下調べも可能になって来ているし、その医者と合わなければ病院を変えれば良いので、まだ「選べる」方かもしれない。
また、医者の方からすれば、「患者ガチャ」もあり、一方だけの問題でもない。

そこからさらに眼を大きく転ずれば、多少の程度の差はあれ、この世には、「親ガチャ」「患者ガチャ」どころか、「入学ガチャ」「進級ガチャ」「クラスメートガチャ」「担任ガチャ」「入社ガチャ」「異動ガチャ」「上司ガチャ」「部下ガチャ」「転職ガチャ」「引っ越しガチャ」「結婚ガチャ」「入店ガチャ」などなど、「ガチャ」が数限りなくあることが観えて来る。

そう。
察しの良い方はお気づきであろう。
「ガチャ」には、思い通り、希望通りにならないもの/人に当ったらイヤだなという、はっきり申し上げて、自己中心的願望のニュアンスがあるのであるが、
本来は、出逢うべくして出逢う「縁」という意味なのである。
それを選り好みする(これはイイけど、あれはイヤ)観点からすれば、「ガチャ」という表現になる。

この世の中は、残念ながら、思い通りにならないようにできている。
その思い通りにならないところから
そこをまた思い通りにするために頑張りに頑張るのか
思い通りにならないことが気に入らない自分(自我)というものを超えて行こうとするのか
で、その後の展開は、天と地ほど違って来るのである。

そう思うと、「ガチャ」から学べることは、実はたくさんありそうだ。

 

 

酷い上司、先輩、同僚、部下、あるいは、酷い家族に囲まれて、苦しい環境で生きている人たちがいる。
そうなると人間は弱いもので、
「こういうときはこうやっときゃいいんだよ。」
「そういうときはそう言っときゃいいんだよ。」
「テキトーにヨイショしといて、裏で舌を出しときゃいいのさ。」
などと、いわゆる世俗的な処世術を教えられると、ついそっちに走りたくもなる。
そういうことを、頼んでもいないのに言って来る人たちは、自分自身が使っているちょろまかし方を教えて来るのであり、(自分だけが負け犬のすれっからしになりたくないので、)一緒に泥沼に沈んでいく道連れを増やそうとしているとも言える。

しかしながら、そこで踏みとどまって、自分だけは易(やす)きに流れずに、ど真ん中を歩いて行くことは、実にしんどい。
しんどいけれど、それでもやっぱり私としては、その道をお勧めしたい。

私もそこそこ長く生きているので、濁世(じょくせ)の大変さを知らないわけでもないし、そんなに簡単にど真ん中を歩いて行けないこともよく知っている。
私自身も、アンポンタンでポンコツの立派な凡夫である。
しかし、それでも最初から諦めていてはダメだと申し上げたい。
現実には、ひーひー言いながら踏ん張って踏ん張って踏ん張って、実際に達成できるのは目標の6割くらいかもしれない。だからこそ最初は100を目指すのである。最初から60じゃあ、現実にはその6割、36くらいになってしまう
そうやって、無能、無力、非力の凡夫の自力を尽くしながら、自分を超えた他力を祈ってやっていくしかないのである、ひーひー言いながら。

そうするとね、1年や2年では変わらないけどさ、何年も何年もそうやっているうちに、
「ああ、やっぱり、魂を売らないで、ど真ん中を歩いて来て良かったな。」
「昔の私に、それでいい、と言ってやりたい。」
「こんなに自分が自分でいてのびのびできる時間が来るとは思わなかった。」
と心底思える日が来るのである。
これらはあなた方の先輩たちの言葉である。

だから、それでもど真ん中を歩いて行きましょうよ。
少なくとも、歩いて行こうとしましょうよ、ひーひー言いながら。

その甲斐はきっとありますよ。

 

 

朝早めの仕事が入ったとする。
その分、朝早く起きなくちゃ、と思う。
この「なくちゃ」=「ねばならない」が動き出した途端、睡眠が浅くなり、夜中に何度も目が覚め、結局、翌日は睡眠不足気味となる。
そんなことが何度もあった。
そんなことくらいで、どうしてこうなるんだろう、と昔から思っていた。

それは「ねばならない」が動くと同時に、「そうしないと大変なことになる」「そうしないと責められる」が働くからであり、そうなるにはそれだけの生育史上の体験があった。
子どもが生まれつき、そんなふうであるはずがない。
相手(=親や先生や大人たち)の意向に添わなかった、合わせられなかったときにくらった叱責や非難による不安と恐怖の体験の積み重ねが、後生(こうせい)にまで祟っているのである。

現実には、万が一寝過ごしたり遅刻したところで、市内引き回しの上、磔(はりつけ)獄門にはならないし、この世の終わりも来ない。
しかし、それは理屈であって、理屈は理性しか納得させられない。
不安と恐怖は感情であり、理屈は感情の前では無力なのである。
よって、感情の面での安心を勝ち得なければ、この問題は解決しない。

従って、過去の内省、分析よりも(分析は理性的理解しかもたらさない。知的に整理はできるがそこまでである)、丹田呼吸で肚が据わる方が余程、根本解決となる。
肚が据われば、殺すんなら殺せ、で、殺されることが恐くなくなれば、恐いものは何もない。
ちょっとしたことで眠りが浅くなるような小心な自分が、今度は、世間一般の人たちよりも遥かに揺るがない境地を獲得できる。
これが面白いところである。
よって、小心な人は大歓迎である。
特に、自分が小心であることを、良い格好せず、認められる人で、かつ、その小心さを乗り超えたいと心から望む人は(結局は「情けなさの自覚」と「成長への意欲」ということになる)、自らの伸びしろに大いに期待していただきたいと思う。

 

 

感情についてはしばしば取り上げて来た。
通俗的には、人間が成長すると、感情的にならず、いつも冷静沈着、泰然自若としている、というような大変な誤解/曲解が横行している。
そんなことがあるはずはない。
それじゃあ、まるで不感症の、鈍感なバカである。

そうではなくて、むしろ喜怒哀楽の感情は豊かに、そして綺麗に現れるようになる。
しかし、未熟な頃と違うのは、その感情がサラサラと流転するようになるのである。
感情の本質として、感情は長引かない。
長引くときは、その感情の元となったもの/ことに対して固着/執着が起きているのである。
場合によっては、その固着/執着によって、元々の感情を増幅させたり、変質させたりしている。
それは感情本来の性質ではなく、人間が二次的に作り出したものである。
それが余計なのである。
人間が成長すれば、その余計なものがなくなる。
よって、感情は豊かに、しかしサラサラと流転して行くようになる。
それが感情本来の姿。

たとえそれがトラウマのような出来事に基づく感情であったとしても、思い出す度に、何らかの感情が起きるであろうが、それが段々とブツ切りのようになって来る。
つまり、思い出す度に、何らかの感情は起きるが、連想によって、または他の刺激によって、簡単に流転し、そこに留まらなくなって来るのである。
ネバネバしていたのがサラサラになって来る。
そうしてやがてトラウマ自体が瓦解して行く。

そんな感情の消息を、妙好人の吉兵衛さんがズバリと言い表している。

「俺(わし)も凡夫だから腹を立てる。しかし根が切ってあるので実がならぬのだ。」

「根が切ってある」の前に「阿弥陀さんのお蔭で」を入れると、より明確になる。
その方が、自力でなく他力で切っていただいている、という感じがはっきりする。

今日も明日も、相も変わらず、腹立ちは起きる。
しかし、我々が成長すればするほど、腹立ちもまたサラサラサラサラと流転して行くようになるのでありました

 

 

最近の知見では、円形脱毛症(AA:alopecia areata)は、心因性のもの(ストレスによるもの)ではなく、(成長期毛包組織に対する)自己免疫疾患と考えられている。
よって、その治療も局所的免疫療法、ステロイド療法、紫外線療法、免疫抑制剤療法などが行われている(詳細は専門的に過ぎるのでご関心のある方は、日本皮膚科学会 円形脱毛症診療ガイドライン2024 参照)。

しかし、ふと思う。
エビデンスに基づいたガイドラインであるから、その治療法で治癒している方々が実際におられるのであろう。
しかし、私が今まで心因性のものとして治療し、円形どころか、頭髪全体から眉毛まで抜けていた女性が、精神療法のみで全く完治してしまったのも事実である。
あれはどういうことだったのであろうか?
その治療には抗不安薬も使っていない。
まさかたまたま自然経過で生えて来ただけというわけでもあるまい。
少なくとも彼女の精神的成長は明らかであった。
(ちなみに先のガイドラインでは、抗不安薬の投与も心理療法も「推奨しない」となっている)

真実はどこに?

また、心的外傷後ストレス障害(PTSD:post traumatic stress disorder)の患者さんにおいては、海馬の萎縮があることが報告されている。
これまた、私が精神療法による治療を行なって来た方で、幸いにも、徐々に回復し、遂に完治した青年がいた(しかも私の行った精神療法は PTSD治療ガイドライン[第3版]で推奨されている精神療法ではない)。
ということは、その人の海馬は、治療によって体積を増したのか、それともたまたま海馬が委縮していないタイプの方だったのかしらん、と思う。
少なくとも彼の精神的成長は明らかであった。

真実はどこに?

最近はエビデンス流行りであるが、一理があってニ理がないエビデンス倒れも散見される。
あくまで臨床現場の実体験を大切にして、真実の居場所を観誤らないようにしたい。

 

 

「これは、女性の方が今日は多いから言いますが、あなた方の旦那さんとかね、いうものに対する考え方をひとつよく見て下さい。私があなた方に、旦那さんを愛してらっしゃいますか?と訊けば、皆さん、手を挙げられると思うんです、ね。しかし、本当に愛だけですか? どうでしょ? 甚(はなは)だこんなことは言いにくい話だけども、やっぱり憎んでいるところがあるはずです。これをはっきりさせないもんだから、だから、ものがはっきりしないところがあるわけです。癪(しゃく)に障(さわ)るけどしょうがない、まあ、食うね、素を持って来てくれるんだから、しょうがない。亭主と認めてやるわ。こういうところがあるわけですね。男性が今日は、一、二、三、四人だから、合計五人だから、思い切って言える。男性をイジメる会ってことじゃないかもしらんけども、けども、そういう男性がそこで、オレこうやって威張ってるけれども、威張ってる相手の奥さんのお腹の中に二つあるわけです、ね。つまり愛憎ということがあるわけです。
恋人に対してもそうですよ。愛人というけれども、愛しているけれども、それは必ずしも全てが愛ではないはずです。憎らしい。私をこんなに待たせて酷(ひど)い人。私はじっと待ってなくちゃいけない。私はコーヒーをもう何杯飲んだ、胃がお蔭で変になっちゃったってなことがある。それは腹が立ちますよね。なんで待たすの? でも私は愛するから仕方がない。こうなっちゃうでしょ。必ずそういう矛盾した気持ちがある。
日本の女性は、そういう点は、非常に、あの、なんていうか、よくできてるというか、大人しいというか、言わないから、その愛憎を二つ出ない。自分の中の憎しみに気がつかない。気がつかない結果、それがね、あんまり、あの、解決されない。そのままずるずるべったり行って、最後に腹が立ってね、六十ぐらいになって、これから離婚します、なんて言う。親父さんが弱くなっちゃって、今度はね、おまえ、頼むよ、頼むよっていうことになって来るとね、さあ、ご覧なさい、と言ってね、今度は、愛より憎しみが出て、私をどんなにイジメたでしょ。もうあなたなんかおっぽっちゃう、なんていうわけで、まあ、必ずしも言わないよ、そういうことになっちゃう。
そういうふうな愛憎というものが子どもにあるんですよ、良いですか。ここがね、今、あなた方が自分の旦那さんやお父さんを笑ったかもしれないけども、今やまさに子どもから見りゃあなた方がそうなんだ。母親に対する愛憎、それから父親に対する愛憎、父親はもっとひどいんだな。父親が、よく考えてみると、最初の敵意は母親がそうですが、同時に最も強力に侵入して来るのは父親です。お母さんの傍(そば)にゆっくりこうやって、乳房にくっついて傍にいたいときに、突然夜になってお母さんを奪って行くのは誰ですか? お父さんでしょ。そういうときに子どもは、おぎゃあおぎゃあと泣きながらですね、侵(おか)されてるんですね。
近頃は3LDKになると、子どもは別のところにおいて、お母さんとお父さんは別のところにいるだろう、ね。従って子どもは非常に孤独の中に残されるわけですよ、ね。お母さんとお父さんは楽しいかもしらん。そういうときにいつも自分の大事な大事な、子どもにとっては安心と、その、本当に安心感と、なんていうか、満足の元である、源であるお母さんを奪って行くのはお父さんでしょう。お父さんていうものはね、まず最初にはね、自分から自分の愛する者、自分の安心の元を奪って行く対象として見られるんですよ。ですから、子どもにとって最初はね、親父なんてちっとも有り難くない。
その証拠に、親父もまた子どもをあまり可愛がらない。うるせえな。少し黙らせたらどうだ、なんていうことになっちゃう、ね。おまえが悪いんだってなことになってね。うるさい。こういうことになる。
そういうふうに、父親と子どもってものは、最初は、最初の経験は、僕は愛ではないと思う。これは今まで見て来たように、そうではなくて、むしろ原本的に、あの、愛の経験は母親でしょ、恐らくね。父親は要するに、後は、今度はどうかっていうと、それは、父親の有り難みが少しわかって来るのは、もう少し後なんだ、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、アンビバレンス(『アンビバレンス(1)参照』)の対象となるのが、母親だけにとどまらないということ。
夫、恋人などさまざまな人がアンビバレンスの対象となり得る。
その中で、特に女性は、自分の「憎」の部分に気づきにくい。
しかし、気づかなくても実際にある「憎」が、後になって復讐を果たすこともあるのでご注意を。
そして、やはり子どもにとって、最初の愛の経験の対象は母親。
父親は自分から愛する人、安心の元を奪って行く存在でしかない。
父親の本当の出番はもう少し後になってから。
こんなことも、近藤先生の講演を機に、ちょっと知っておくとね、夫婦関係や親子関係において、不要な問題を引き起こさないで済むかもしれない。
良い悪いではなく、人間のこころの事実として、アンビバレンスというものがあることを知っておきましょ。

 

 

名もなき陶工がいた。
毎日毎日、日常雑器としての茶碗や皿を何百、何千と焼き続けていた。
そんな毎日の繰り返し。
そんな中で、ふと“できてしまう”器があった。
人間国宝でも作れない究極の名品が“なってしまう”ことがあった。
そして世に埋もれがちなそんな作品を“目利き”して取り上げたのが、柳宗悦の民藝運動であった。
無名の作り手がふと“作らされた”名品があるのである。
(そんなことにご関心のある方は、東京目黒の日本民藝館に行かれると良い)

それには遥か先駆がある。
茶道において、それまで城も買えるような高価な茶碗=“名物”志向であったものを、例えば、朝鮮半島の庶民が使っていた飯盛り茶碗などの日常雑器などの中から“目利き”して選び出し、茶碗として使ったのが千利休であった。
流石である。

そして、同じことが人間においても起こった。
浄土真宗の門徒のうち、字も読めない、計算もできない、貧しき庶民の中に、本願寺の法主や禅の老師も驚くような深い信仰の境地を持った人たちが現れて来たのである。
それを妙好人という。
妙好とは白い蓮の華のこと。
泥より咲いて 泥に染まらぬ 蓮の華 である。
そんな人が出て来る、泥=娑婆の中から。

だから、何も世俗的に、立派な人や偉い人を目指さなくていいんですよ。
繰り返される日常の中で、余計なはからいのない日常の中で、なんだか知らないけれど“できてしまう”“なってしまう”尊さがあるんです。

 

 

首都圏近郊の小さな都市に出かけることがあった。
所用のあった高台に建つビルの最上階レストランから、低い山に囲まれた市街地を見下ろすことができた。
山の緑に囲まれた中に、戸建て住宅やアパート、小さなマンションなどがたくさん建ち並んでいるのが見える。

ふと今まで出逢って来た、いろいろな人たちの暮らしが思い出された。

児童養護施設を十八歳で退所し、一人暮らしと仕事を始めたばかりの青年。
家事も仕事もまだ慣れないし、何にも自信はないけれど、一所懸命に生きている。

夫も娘も息子も発達障害という状況で、親の介護もしながら孤軍奮闘しているお母さん。
溜め息をついた後、
深夜自分のためだけに淹れる一杯のコーヒーがやすらぎ。

長年二人だけで生きて来た夫を七年前に亡くしたおばあちゃん。
気丈に生きているけれど、「昨日会いたくて涙が出ちゃった。」と微笑(わら)う。

そんな暮らしが、きっとこの眼下の街の中にもある。

そして
臨床で出逢って来た人たちにも
八雲で出逢って来た人たちにも
やはり誰とも違う、その人だけの人生と暮らしがあった。

これからも、まぎれもなくここに人間が生きている、という人たちと出逢いながら、私もまた生きて行きたいなぁ、と思う

 

 

来たる4月13日(日)開催の『陽春のハイブリッド勉強会04』の開催要項をアップしましたので、ご関心のある方はご参照下さい。

毎月開催している八雲勉強会のうち、ワンシーズンに1回=3カ月に1回を、ハイブリッド勉強会(会場での対面参加 あるいは Zoomによるリモート参加のどちらも可能)として、現在、八雲総合研究所に通っている方以外にもオープンに開催しています(詳細は開催要項参照)。

今回も、内容は2部構成で、

前半は、レクチャー&ディスカッション『体得ということについて』で、
これまでのハイブリッド勉強会では、
第1回01『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』では、基本的「人間観」「世界観」「成長観(治療観)」「人生観」を
第2回02『仲秋のハイブリッド勉強会』では「人間の成長段階について」を
第3回目03『新春のハイブリッド勉強会』では、「人間の承認欲求について」を取り上げて参りました。
今回第4回04では、「体得ということについて」を取り上げます
講師からのレクチャーの後、気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて、話し合い、深めて行きましょう。

そして後半は、ディスカッション『鉑言(はくげん)に深める』で、ここでは、所感日誌『塀の上の猫』の中の「金言を拾う」シリーズを読んで、自分が気づいたこと、感じたことなどを自部自身の成長課題や問題に引き付けて、話し合い、深めて行きましょう。
金言を鉑言鉑とは白金、プラチナのことです。金からさらにプラチナへ)にまで深めて行くのが『鉑言に深める』の目標です。

人間的成長を目指す“仲間”たちの参加を心からお待ちしています。

 

 

寒暖の差が激しいこの頃である。
風邪を引きやすく、コロナもインフルエンザもまだ収まってはいない。
花粉症も全盛で、鼻閉(鼻づまり)から口を開けて眠り、ノドをやられる人も多い。
そうでなくても、元々持病のある方、長く闘病中の方々もいらっしゃる。

このように体調が悪いことを、快か不快かと訊かれれば、間違いなく不快ではあるが、だからこそ気づける大切なこともある。
それは症状が重ければ重いほど、気力・体力を奪われて、却って自力が失せてしまうということである。
我の願いは、何事も自分の思い通りにしたいということだが、自力がなくなればなくなるほど、我は弱り、無我に近づいて行く。
そうなると最早、他力におまかせするしかなくなるのだ。
その境地が与えられるというのは、非常に有り難いことである。

人間、弱らないとわからないことがある。

いわゆる修行において、よく難行・苦行が行われるのは、人工的に弱らせておいて、自力を奪おうという作戦なのだ。

従って今、闘病中の方々よ、闘病は辛いが、今だからこそ授かりやすい体験がある。
丹田呼吸をして、祈って、深い境地に誘(いざな)っていただきましょう。

 

 

以下は、いわゆる神経症圏の方に対する薬物療法のお話。
しっかりとした薬物療法の継続が極めて重要な、いわゆる精神病圏の方には当てはまらないので、誤解なきように。

 

例えば、不安障害の患者さんがいらしたとする。
パニック発作などの不安にとても耐えられず、精神科を受診された。
そして処方された薬が著効し、不安が起きなくなった(あるいは、不安が起きてもすぐに服薬で対処できるようになった)。
大変喜ばしいことである。

しかし、ひとつ問題が起こる。
薬によって不安を解消できたのは良かったが、そのせいで、不安が起きる根本について自分の内面を見つめなくても済むようになってしまったのである。
そのため、ずーっと薬を飲み続けることになってしまうかもしれない。
実際、何十年も薬をもらいに通っている方々がいらっしゃる。
ご本人がそれで良いのなら良いのだけれど、完治への道もあることは御存知なのかしらんと思う。

反対に、敢えて薬物療法を使わず、薬を飲まないで、自分自身の内面を徹底的に見つめて行こうとする方も(稀に)いらっしゃる。
なるほど、そのやり方なら、根本的な完治に至る可能性がある。
しかし、その姿勢は立派ではあるけれど、鉄の意志と鬼の根性で耐えるには、不安が強烈過ぎる場合もある。
そういうときは、せめて薬物療法を併用して、薬でちょっと気持ちの余裕を作りながら、内省を進めて行くのが一番良いんじゃないかと私は思っている。

薬は使いようである。
折角、製薬会社の人も一所懸命に創って下さっているのだから、必要な方は賢明に活用するのが良いと思う。
しかし、使いようを間違えると、対症療法が成功して根本療法が行われなくなってしまう、という危険性があることを知っておきたい。

 

ちなみに今、八雲研究所に面談に来られている方は、治療対象の方ではないので、全員薬なしで、しんどいときもヒーヒー言いながら、自分と向き合って行きましょう。
 

 

『論語』里仁篇に
「子(し)曰(のたま)わく、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能(よ)く人を悪(にく)む。」
([現代語訳]孔子が言われた。「ただ仁の人だけが、本当に人を愛することができ、人を憎むことができる。)
とある。

昔は何度読んでみても、その真意がわからなかった。
能(よ)く好む? 能(よ)く悪(にく)む?
好んだり、嫌ったり?

それじゃあ、ただの我(が)の選り好みじゃん。
儒教の根本とする仁=愛の体現者であるはずの仁者が、相手を絶対的に愛することはあっても、そんな体たらくであるはずがない。
疑問に思って、さまざまな注解書を読んでみたが、どれも腑に落ちることが書いていない。

そうこうするうちに、ようやく感ずるところがあった、あの人間存在の二重構造がわかってから。
仁者たる者は、相手の中にある存在の絶対的尊さを感じている。
そしてその上で、その尊さの上を覆っている人間の、いかにも人間らしい、あるときは愛おしく、あるときは憎たらしい面を十二分に感じているのである。
よって、相手の存在の持つ絶対的な尊さに対して、畏敬の念を抱きながら、あるいは、抱いた上で、その上を覆う極めて人間的な面に対して、自由に、そして存分に、好み、あるいは、悪むことができるのである。
能(よ)く好み、能(よ)く悪(にく)む。
なるほど、良い得て妙である。
相手の存在の持つ絶対的な尊さを感じることが大前提。
それがわかって初めての「能(よ)く」となる。

それにしても、金言というものは、こちらが成長するにつれて、その真意を開示して来ると、つくづく思う。
私が聖なる古典の心読を皆さまにお勧めする所以(ゆえん)はそこにある。
読んでみての疑問や感想は、また面談のときに話しましょう。

 

 

「子どもにとって環境っていうことを段々と今、私は考えてみまして、環境ということ、親子ということが非常に大事で、つまり、最初の母親と子どもの触れ合いっていうものが一番最初の問題です。…
で今、母と子の問題を持ち出したわけです。母と子の問題は、同時に、母が単に一人じゃなくて、夫がある以上は、ここには夫婦の問題もあります。父親と子どもの問題も出て来ます。親子の問題と言っても良いだろうと思いますね。
さあ、そこでです。わかりやすくするために、そのね、お母さんと子どもの問題から出発しますと、あの、非常に、こう、なんと言いますか、単純なことですから、ひとつ、ご経験のある方はわかると思いますが、子どもが最初に、赤ん坊がですね、男の人は絶対にわからない、女の人しかわからないんだが、乳房をくわえます。自然にこう、あれは、あの、吸う本能がございましてね、それで自然に、こう、やるわけです。これは動物全部にあるわけですね。こうやる。そのときに、どうも、吸ってるうちに、それはまず胃に対して非常に良い、その、満腹感を与える、満足する。と同時に、唇ね、唇の中に含む、唇の触感、こうしたものが快感を与えます。
ですから、乳房は単に、二つの目的、一つは、ほんとは三つあるんですが、一つは、自分が飢えたとき、食べたいとき、その成長する欲望である食欲、それを満たしてくれる。喜びがある。第二には、そういう唇による触感によって快感がある。第三は何かというと、そこで実は、後に母の胸に抱かれるというふうな感じで、安心感があるんですね。この三つが、実は、あの、子どもが最初に感じる環境で、そういう三つが満たされたときに、赤ん坊は非常に満足するわけです。そういう意味で、大変簡単に言いましたけれど、それは基本ですから、ひとつね、ずっと覚えておいていただきたいです。
で、そういうものがですね、あって、のんびりしてますと、それにこう、例えば、お腹が空いていなくとも、お母さんの乳房をこう口で含んでいますね。お母さんがそれをこう取ろうとしますね、お母さんも仕事がありますから。そうするとね、イヤでしょ。その最初のね、ガチッとこう噛むんですね。そのとき歯が生え始めていると、お母さん、痛いでしょ。お母さんとしては、非常に、自分自身も、これは母親の方にもまたね、これは父親、男にまたわかんないことだけれども、乳房を含ますということは快感です、喜びです。我が子を育んで行くという最初の、この、気持ちですね。そういうものがね、あるわけですね。そういう気持ちでやってる。両方ともハッピーな、ハネムーン時代ですね、これはね。
だけども、それがね、ちょっとね、この、お母さんが外す、電話がかかってきた、ちょっと。そうすると、そういうことがあると、非常にね、自分の快楽を奪われるわけですね。そういう自分の安全感を奪われるわけでしょ。そこで子どもは、ギュッとそれに対して、自分に不安感を与え、不満を与える人間に対してね、最初の敵意というもの、その最初の敵意は、敵意っていうのは心理的にも今、大人にも言いますけども、どういうことか、具体的に表れて来るのは噛むことです。乳房を噛まれなかったお母さんはいらっしゃるかな? 人工哺乳をやらない限り、必ずこの経験はおありのはずだと思う。なんでもない、まあ、この子はってな調子でこう過ごしていらっしゃるかもしれんけれども、それはそういった心理的な状況を含んでるっていうことを考えておいて下さい。ていうのは、これが僕は、これくらいのときに起きる敵意という、非行だとか、いろんな問題の元になる敵意の、最初の表現だからです。
つまり、その場合に、非常に子どもはね、その、矛盾した気持ちになるわけですね。矛盾した状態に置かれるわけです。これは大人でもあるんですが、はっきり言うとね。矛盾した状態、どういうことか。片っ方でお母さんに頼り、お母さんが自分のいろんな安心感とか快楽とかいろんな欲望を満たしてくれる、その源ですね。ですから、それに対して依存するといいますね、頼りにするわけです。片っ方で頼りにし、それを必要とした。ところでお母さんは同時に、自分からその安心感とか楽しみとかを奪って行く人でもある。同じ人が、片っ方では快楽の源であり、安心感の源である。不安を感じない源であるのにも拘(かか)わらず、その同じ人が自分から安心感を奪って行く。ひとりの人に対して、愛と憎しみと、大人の表現を使うと、そういう形になるわけですね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、母親が自らの乳房から子どもにお乳を与えることの三つの意味、これを押さえておきたいと思います。
ひとつは、空腹を満たしてくれる、満腹感を与えてくれる、食欲を満たしてくれる喜び。
ふたつには、母親の乳首を吸うという唇による触感、その快感の喜び。
みっつには、母の胸に抱かれるという安心感。
そして次に、そうは言っても、母親には母親の生活があるわけで、その三つの喜びをいつも子どもに与えていられるわけではない。
よって、子どもにしてみれば母親は、片方で、上記の三つを与えてくれる愛しい存在でありながらも、もう片方では、その三つを奪う憎らしい存在となるのである。
ひとつの対象に対して抱く相反するふたつの心的傾向。
それがアンビバレンス(ambivalence)(ドイツ語だと、アンビバレンツ(Ambivalenz))=両価性。
そしてこれは母子関係だけでなく、さまざまな(特に近くて大切な)人間関係において見られる現象なのである。
あなたには思い当たる人、いませんか?
そのことについてはまた次回に。

 

 

ああ、この人のためなら何でもしてあげたい、という愛情が燃え上がるときがある。
そして、尽くす、尽くす、尽くす。
それは愛「情」であるからこそ燃え上がるが、
「情」には常に「我」が付きまとう。
「我」 の反応こそが「情」なのである。
よって「我」は主観的満足を求める。
で、どうなるか。
その尽くした分だけの主観的満足=「我」の満足=見返りがないと、へこたれてしまうのである。
あんなにしてやったのに。
甲斐がない。
そうなると、あんなに尽くしていたのに、忽(たちま)ちに恩着せがましくなったり、恨みがましくなったりする。
はっきり言ってしまうと、セコいのである。
そんな愛憎事件、たくさんありますよね。
親子間でもよく起きている。

それに対して(「情」の付いていない)、「愛」は違う。
「愛」は人間によるものではない。
人間を通して働くものである。
よって、一方的である。
主観的満足=「我」の満足=見返りを必要としない。
これは尊い。

愛情はへこたれるが
愛はへこたれないのである。

我らは、残念ながら、愛情にとらわれる凡夫であるが、
時に愛に恵まれるところに救いがある。

だからね、今日もまた、祈るしかないのでありました。

 

 

公園で小さな子どもが遊んでいる。
まぁ、じっとしてないこと。
フツーに歩けば良いのに、走り出す、ジャンプする、回転するなど、やりたい放題である。
生命力が小さな体から溢れ出ている。
おまえら、生きてるの楽しいだろ、とつくづく思う。

と思っていたら、上には上がいるもので、あるテレビ番組で、子ヤギの様子を放映していた。
あいつらも、走る、ジャンプするなど、じっとしていない。
しかし、そのジャンプにはプラスαがあった。
あいつらはただジャンプせず、ジャンプしたと同時に体をツィストする(捻る)のである。
ただジャンプするだけでは、まだ足りないのだ。
クィッとツィストする、クィッと。
やるなぁ、子ヤギ。
生命力の溢れようが一段上を行く。
You Tube で探してみたが、そのときテレビで観たようなツィスト三昧の良い動画はなかった。
せめてこの動画だと少しは雰囲気が伝わるかもしれない。
ご関心のある方はご覧あれ。

 

そして今、まわりに人がいないのを確認してから、そっとジャンプして体をツィストしてみたあなた!
あなたはわたしの仲間です。
(ちなみにこ子ヤギのジャンプのエピソードは、先日の八雲勉強会でもご紹介したが、今の参加メンバーは皆、実際にジャンプしそうな人たちばかりである)
さ、ご一緒に、生命力の発露を体感しましょう。

 

 

今日は令和6年度最後、10回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目に続いて10回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

さて、先に述べた process によって定立した「仮幻の自己」の内容は、それぞれの個人によって自ら特異な様相をもち、それぞれの神経症的性格の差を形成して行くのであるが、Horney はこれを大別して三種の方に分ける。もとより、全ての類型学がそうである様に、あくまでもそれは、性格理解の為の一応の目安をつけるのにとどまる。人間の個性は色々な variation をもつものであるから、臨床に当っての観察は、患者に固有な心的現象を理解することが重要であるのは当然である。従って次の分類も、この様な前提のもとに理解されるべきであろう。

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

この型の傾向の人々は、自己を嘆賞の中心として(自己陶酔型)、或は道徳的知的に完璧優秀なるものとして(完全主義型)、或は全能な征服者(復讐型)として考える「仮幻の自己」を持つ。嘆賞と支配と優越に対する追求が、彼等の安全を守るのに必要不可欠なるものとして、行われるのである。
彼等に共通なのは、自分の優秀さに関する誇り pride である。何事も自分には可能であり、不可能なものはないと言う傲慢な自信である。現実や他人に対する要求 claims は、現実や他人が、自己のこの様な優越性を立証すべきものであり、他人は自分を嘆賞し、尊敬し、自分に屈従すべきものであり、自分は批判する権利はあっても、現実や他人が自分を批判することは許されないのである。
非はいつも他人にあり、正義は常に自分にあるのであるから、彼の価値を疑ったり、要求に従わない時は、当然、彼はそれに対して復讐し、攻撃してよいのである、そうすることは、彼の優越性をまた立証することにもなるのである。
もとより、自分の優越性に心酔している彼にとっては、他人が彼を嘆賞し、彼のまわりに集って来る場合には、それらの人々に対して寛大であり極めて愛想よく親切であることも多い。
しかし、この寛大さや親切はみせかけである。一人でも彼の意見と違ったり、彼に批判めいた事でも言えば、その人に対する今迄の寛大さや親切さは消え、軽蔑か、冷淡か、敵意か、更に残酷な計画的な復讐が取って代るのである。
他人は、彼の価値や野心や勝利の為の道具であり、材料に過ぎない。だから人間に取り巻かれながら、根本的に言って彼は孤独である。しかし、この孤独感を感じることは彼の自分自身に課する要求 shoulds によって抑圧、禁止される。
何故なら、孤独感は弱さであり、優越し、全能である彼は、弱くあってはならないからである。同じ理由の為に彼は自分の中に起きて来る自分の優越性や、完璧性、或は自分の野心的な態度等に関する不安や恐れを禁圧しなければならない。失敗はあってはならぬし、又同時に考えてはならぬのである。そして、考えない事によって失敗は主観的に抹殺されるのである。
この型の人間に於いては「仮幻の自己」に対する同一化の程度が高いので、「現実の自己」は深く省みられない。むしろ、彼の神経症的要求 shoulds が「現実の自己」を見ることを禁じているからである。
事実、それによって、彼の自己満足、全能感、完全性は保たれているのである。しかしそれにもかかわらず、取巻きや喝采がなくなった時、自己過信の余り、手を拡げ過ぎた事業が失敗した時、或は自分の知性や意志力をもってしても如何ともしがたい、子供の死や、事故や、妻の不貞や、更に彼の征服と復讐の衝動が、結果として破壊的になり、必然的に他からの強い反撃を呼び起こした場合、否応なしにそこに露呈される「現実の自己」の弱さと不完全さを見ざるを得ない。それは、彼に激しい自分に対する憎悪、軽蔑を感じさせずにはおかないのである。
この様な態度の結果として、彼は人間の生活を生き甲斐あらしめる、愛情とか、幸福、喜び、創造性や成長 ー 私達が「真の自己」の現れと解する種々なものから疎外されて来る。
この自己疎外すら彼は否定しようとするであろう。しかし分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである。

 

今回取り上げる「自己拡大的支配型」という神経症的性格の持ち主とは、あのエラソーで傲慢な、すぐマウントを取って君臨したがり、鬱陶しくも圧の強いアイツのことである。
対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」(次回取り上げる)にとっては最大の“天敵”であり、こういう人物が上司になれば、下は病むか辞めるかのどちらかになることが多い。
しかし、所詮は“張子の虎”であるため、どこかで躓(つまづ)き、しくじり、虐げていた人々からの総反発を招くと、その虚勢は瓦解し、一気に抑うつ状態に陥る。
問題はそのときで、散々迷惑を被(こうむ)って来た連中が、愚かにも「大丈夫だよ。」「あなたは優秀だよ。」「よくやってるよ。」などと慰めると、何の反省もなく簡単に復活する。
よって、「自己拡大的支配型」にとっては、その落ち込んでいるときが、数少ない成長のチャンスであり、どこが問題で、どのように変えていかなければならないか、をしっかりと詰めて教えなければならない。
しかし、そんな面倒臭くて嫌われ者の「自己拡大的支配型」の人間に対しても、「この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間である」と書いておられる近藤先生の姿勢には、返す言葉もなく頭が下がるばかりである。
その人を覆う闇がいかに深くても、その中にある「真の自己」という光は常に発現したがっている、という真実を忘れてはならない。

 


 

「所詮世の中そんなものさ。」
と嘯(うそぶ)く人がいる。

“世の中”のことをどれだけわかった人が言っているのかと思ったら、結構若い人だったりする。
また、ある程度年輩の人でも、その人の人生経験は、どこまで行ってもその人だけのもので、また、一生のうち、頑張ってたくさんの人に出逢ったとしても、100万人も行かないのではないか。
残念ながら、世界人口は八十億人以上なのですよ。

しかも、よく聴いてみると、そういう“思い込み”は、その人の人生の早いうちに形成されている場合が多い。
若いうちの“世界”=“世の中”というものは、家庭の中か、学校の中か、地域の中か、まだ勤務年数の少ない職場くらいのもので、そこで体験したことが、その人の世界観、人生観、人間観に色濃く影響を与えている。
そしてそれがもし否定的なものであったならば、その体験が“汎化”されて、「所詮世の中は…」ということになるのである。

そしてその後、身の回りやニュース上でさまざまな出来事に接したとき、その中から自分の世界観に合致したものだけを(無意識に)抽出して、「ほら、やっぱり、所詮世の中は…」と自らの思い込みを強化して行くのだ。

よって、まず気づきましょ、自分の“思い込み”に。
ひょっとしたら、そうじゃないんじゃないかと。
大疑ありて大悟あり。
大切な成長はいつも、今の自分を疑うことから始まります。

世の中は“そんなもの”ではありません。

 

 

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