八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

今日は令和6年度9回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目に続いて9回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

e.「真の自己」への態度 ー 自己疎外 self-alienation

「仮幻の自己」の生成過程に当って、最初から明らかなのは、「基礎的不安」に対処する為に、個体が「真の自己」の成長の方向に向うことが出来ず、次第に神経症的方法の様々な試みを経て、「真の自己」と対蹠的な「仮幻の自己」を定立し、その幻像によって生きるという事である。
この事自体、「真の自己」から離れ、それを疎外してゆく結果であるので、正しく自己疎外と呼ばれるものである。しかし「自己疎外」は、この様な「仮幻の自己」の定立の経過に於いて見られるばかりでなく、更に定立された「仮幻の自己」の自己実現の試みが、二次的に自己疎外を深め強化するのである。言いかえれば、先に述べた内外に対する神経症的要求 claims and shoulds、及び神経症的誇り  neurotic pride が益々「真の自己」の発展を阻止し、益々神経症的傾向を増長せしめて、「自己疎外」を深め、それが更に「真の自己」の発展を阻止すると言う悪循環によって、いわば「自己疎外」の拡大再生産が行われて行くのである。
しかも、それが自己を誤認している「仮幻の自己」の絶対的な要請に基づく為に、この再生産過程は強迫性を帯びるに至る。個体は自分の中の「真の自己」ー William James の言をかりれば、「脈動づる内的生命」によって自発的に感じ、考え、決意し行動するのでなく、偽りの自分である「仮幻の自己」の命ずる claims や shoulds や pride によって、感じ、考え、生きなくてはならないのである。
これは、彼自身が自分の人生を生きる主体でなくなることを意味し、「自己疎外」は更に自己喪失を産んで行くのである。その結果、自分が、何を真に願い、感じ、愛し、怒り、悲しむかに対する感覚  自分の感じ ー が喪われて行くのである。かくて、本当の自分が失われていることすら感じないまでの自己喪失 ー Kierkegaard が「死に至る病」と呼んだものが極端な場合には生じて来るのである。
しかし、この様な「仮幻の自己」の優勢にもかかわらず、人間の中の「真の自己」は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。
claims や shoulds や pride による防衛にもかかわらず、「仮幻の自己」は一面に於いて現実から、他面に於いて深く心内の「真の自己」によって、常にゆるがされている存在なのである。表面上の強固さにもかかわらず、内面的に脆弱なのは、一つにそれが非現実的な想像の所産であることと、二つには人間本来の姿である「真の自己」を抑圧しているからである。そしてこの脆弱さが、主観的には否定せんとしても否定出来ない不安として感じられ、様々な症状として表現される。
かくて一般的に神経症的葛藤は、一応表層的には優勢な一定の神経症的傾向と、他の抑圧された神経症的傾向との相剋の形をとり、又「現実の自己」との矛盾として在るが、更に深く心内に於いて「真の自己」との根本的な葛藤として存在するのである。

 

「基礎的不安」に対処するための方向性が、「真の自己」の成長へではなく、神経症的な方法による「仮幻の自己」の定立に進むことにより、まず「真の自己」の疎外=「自己疎外」が起こる。
そして「仮幻の自己」の実現がさらに、この「自己疎外」を拡大再生産して行き、やがて「自己喪失」にまで至る。
しかしこの「仮幻の自己」は、そもそも非現実的な想像の所産であることから、また、「真の自己」を抑圧していることから、脆弱な存在であり、それがまた不安を引き起こして行く。
「仮幻の自己」は、一方で思い通りにならない「現実の自己」との間で葛藤を起こし、他方で「真の自己」との間で根本的な葛藤を起こして行くのである。
それにしても、「しかし、この様な『仮幻の自己』の優勢にもかかわらず、人間の中の『真の自己』は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。」という文章には救われる思いがする。

 

 

いつから感情は不当に扱われるようになったのであろうか。

「感情的」という表現は、一種の蔑視のニュアンスをもって使われている。
実際には、理性と同じように、感情もまた人間に与えられた一側面に過ぎない。
喜怒哀楽が起こることは、人間として極めて自然な現象であるはずだ。

むしろ私の経験からすると、感情蔑視の考えを持つ方々には、感情を抑圧して来た人が多く、その生育史の中で、感情、特に怒りと悲しみの表出を親や大人たちから禁止されて来た(下手に怒りや悲しみを表出すると親や大人たちから攻撃されて来た)人が多い。
なんのことはない、自分が恐くて感情を出せないことを正当化するために、感情を出している人を「みっともない。」「恥ずかしい。」などと卑下するのである。
それはズルいでしょ。
それならば
「私はへタレで感情を出すことができないが、出せるあなたが羨ましい。」
と言う方が遥かに正直である。

確かに、病んだ感情表出であれば、それは願い下げてあるが、
素直な凡情としての感情表出は、豊かであり、時に美しくさえある。

かの孔子が、最愛の弟子顔回を亡くしたとき、人目も憚(はばか)らず、慟哭(どうこく)して泣いたという。
「先生が慟哭された!」と言った従者に対して孔子は、
「慟(どう)すること有るか。夫(か)の人の為(ため)に慟するに非(あら)ずして、誰(た)が為にかせん。」
(慟哭していたか。この人のために慟哭するのでなかったら、一体誰のためにするんだ!)

と言ったという。
形式的な虚礼を排し、想いの出どころを大切にする、孔子らしい姿であった。

 

 

医師法第十七条に
「医師でなければ、医業をなしてはならない。」
とある。
ここでいう「医業」とは、「医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(「医行為」)を、反復継続する意思をもって(=業として)行うこと」とされている。
例によって、法的に正確を期する文言にしようと思うと、段々何を言っているのか、わからなくなって来る。
不正確さは承知の上で、ざっくり言ってしまうと、
「医師でなければ、診断、処方、手術をしてはならない。」
ということらしい。

今回、何故またこんなことを言い出したかというと、
「医師でなければ、診断してはならない。」
とよく言われるが、その法的根拠を知りたかったのである。

そしてその根拠が頭記の医師法第十七条にあるとわかったとしても、やっぱり気になるのが、本当に医師にしか診断ができないのか、そして、医師の診断がいつも正しいのか、という問題である。

後者については、かつである東大教授が退官時の最終講義で、自身の誤診率(14.2%)を発表したのを思い出す。
当然のことながら、どんな医師でも誤診率0%というわけにはいかないだろう。
だからといって、誤診していいということにはならず、一所懸命に正確な診断を期する必要があるが、私として気になるのはむしろ前者、本当に医師にしかし診断できないのか、という問題である。

私個人の経験からいうと、少なくとも精神科分野に限ったことを言えば、下手な医師よりも的確な診断をつけることのできる臨床心理士/公認心理師、看護師/保健師、精神保健福祉士/社会福祉士、作業療法士はおられる気がする。中には受付を担当している医療事務の人の中にも。
流石に、薬の副作用で精神症状が現れている場合や他の身体疾患のせいで精神症状が現れている場合(いわゆる症状性あるいは器質性精神障害という場合)などは、医師としての知識が必要になるだろう。
私個人としては、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準ではなく、かつて「統合失調症くささ(
Praecoxgefühl)」と言われたような、直観診断はあり得ると思っている。
但し、これも私の個人的見解だが、非医師の場合、「自分は診断できる。」と自負している人の“診断”は大体当てにならず、素直で謙虚な人の“診断”が当てになる場合が多い。
結局のところ、自我肥大的な人間の直観は当てにならず、我の薄い人の直観の方が当てになる、というところに行き着く。

そういうわけで、少なくとも私の場合、もし診断に迷うときがあったならば、直観の優れたスタッフに意見を訊いてみることにしている。
直観で診断して、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準で裏を取る。
現時点での私の診断のスタンスはそんなところかもしれない。

 

 

文明の進歩はそのまま、思い通りにならなかったことを思い通りにして来た歴史でもある。
医学の進歩により、治らなかった病気が治るようになったり、
交通機関の進歩により、飛行機や新幹線で遥かに早く移動できるようになったり、
家電の進歩により、冷蔵庫で食料を保存し、エアコンで暑さ・寒さをコントロールし、電子レンジであっという間に温めることができるようになったりなど、
挙げればキリがなく、我々が受けて来た恩恵は計り知れない。
例えば、私が尿路結石の疝痛発作に七転八倒するとき、これでもし鎮痛剤の坐薬がなかったらと思うとゾッとする。
また、小児がんで苦しむ子どもたちが、最新の治療で完治したなどという話を聞くと、本当に有り難いと思う。
研究者・開発者の方々には深く感謝したい。

先に、思い通りにならないことを抱えながら生きて行けるようになることが大人の成熟であると申し上げたが、それは、何でもかんでも思い通りにならないことはさっさと諦めて我慢しなさい、という意味ではない。
最初に申し上げた通り、思い通りにならなかったことを思い通りにして来たのが文明の進歩である。
その恩恵は享受して良いし、さらに、思い通りにならなかったことを思い通りにして行くという文明進化の未来は、きっと続くであろう。

ただし、それでも、である。
どんなに文明が進歩しても、やっぱり思い通りにならないことは、残念ながら、残る。
必ず残るんですよ。

だからこそ、思い通りにならないことを受け入れるという大人としての成熟は、永遠に求められるのだと思う。

 

 

「私たちは、最初に、おまえはダメだと、よく親が、おまえはダメな子だとか否定的な言葉を言いますね。子どものときはね、大人になったってそうでしょうなぁ、誰かから、上の上長の人とかね、あるいは同輩の人から、おまえはダメだってなことをやられるとですね、クシャンとなっちゃってね、オレはダメだ、と帰りにヤケ酒を飲んじゃったりなんかすると、いうふうなことになりがちですね。つまり、そういうふうな、何かね、人の言(げん)によってね、自分っていうものが上がったり下がったりする。バカだと言われるとバカだと思ったりね。オレはダメだと思ったり、とにかく人の言葉で非常に左右されるところがありますね。まあ、大人になってもそのぐらいです。子どものときはね、それを考える力ないでしょ。そうするとね、親が言った通りに自分も思うわけですね。
今でも、皆さん、どうでしょうか。自分でお考えになって、例えば、小さいときに自分が親に、おまえはとても算数が良いな。おまえはなかなか運動神経が、運神が発達しているな。こういうことを言われたら、なんとなくね、ポジティヴな、積極的なことを言われてですね、なんとなくそうだと思っちゃって、背負(しょ)ったりなんかしてね、大いにそのうちにやっちゃう。ところが、おまえは算数がダメだなって言うとね、俺は算数はダメなんだと決めちゃって、もう諦めちゃって勉強しない。勉強しないから益々ダメになっちゃう。まさにその証明しちゃうわけですね、自分で。そういうからくりが心の中にあるわけ。それはね、我々は、最初は、フロイドが言ったように、親の言ったことを飲み込む、インテイク(intake)言いますがね、飲み込む、ただ飲み込んじゃう。…
常に他と比べられたと、つまり、そこんときに親に、第二のアレは、人と比べて親が評価したでしょ。あれを見なさい、これを見なさい、そうすると、自分をね、評価する場合にね、自然に、無意識に、親の教えたやり方で、俺は、例えば、会社に勤めると、あいつに比べてどうだろう、今度は出世はどうだとかね、それから、あれはこうだか言ってね、そんなふうになっちゃうんですよ。おかしなもんでね。
いわんやね、そこで親ばかりじゃなくて、今度は先生がですね、教室に行くとね、こう、表かなんかやって大いにこう、教育的効果を上げている人がいるわけですよ。点数をやってね。試験いっぱいやって。こうやってるでしょ。しょっちゅう人に比べられてる。おまえは何番中の何番。これはもうね、人と比べてることですね。
これをですね、簡単に言えば、いつも我々の考え方の中に、大人になっても、そりゃあ、体は大人になりますよ、だけどその考え方たるや、子どものときのそのままでいることが多いわけです、ね。これを、ですから、ある人は小児的態度と言うわけですけどもね。我々は小児的態度でもって、小児的態度と思わないでね、やってるわけですよ。あいつはオレと一緒に入ったのに、近頃どんどんこう、うまく行ってると。だから、どうも、オレはダメだ、とかね。やっぱり、あの先生が小学校のときにダメだと言った。オレはダメなんだ、ダメだ、なんて考える。…
そこんところでね、我々の中に何かこう、社会全般に考えるのに、なんか人といつも比較してですよ、自分の価値を決める。そういうね、考え方が非常にあるんですよね。…
まあ、そういうね、言うならば、外からのね、つまり、我々の外側にあるものによるね、価値観によってですね、そのスタンダードで決められる。しかも、自分もですよ、大事なとこはそこなんだ、小さいときからそれを飲み込んでるから、自分自身も自分の価値に関して無知、無明(むみょう)、ね。要するに、そのね、やっぱり人の言うことで自分もそうだと思ってるわけ。
だから面白いことは、逆に行きますとね、人のことで行くと同じことなんで、悪いっていうかね、そういうね、ガッカリしたことばかり言いましたけどね、そればかりじゃなくてね、今度は人に褒(ほ)められる。君は偉いなぁ、なんとかって言うとね、急に偉くなったような気になっちまう、ね。本質は違わない。課長さんが部長さんに、これ、ちょっと差し支(つか)えがあるかもしらんけども、別に本質は変わりないわけ、その人はね。しかし、課長から部長になったら非常に偉くなって、手下が五人だったのが二十人になったっていうと、オレは二十人を、こうなっちゃう、ね。ところが、本質をよく見たらね、余り変わってない。ヒゲの本数も変わらないしね。少々白髪(しらが)が生えたくらいのもんでね。そう、そのね、本質は変わってないわけ。だけども、そういう具合に、他の評価によって変わる。つまり、これを我々が、地位とか、名誉とか、役付きとか、役付きじゃないとか、つまり、そういう価値観というものがたくさんあるわけね。こういうものが我々を支配しているっていうことを私は言いたいんですよね。人間の心はそういうものに支配されてる。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもの頃、親から先生から言われたことをインテイク(intake)=鵜呑みにしたのは仕方がなかったのです。
小さくて弱い子どもだもの、自分の幹は細いし、親からも先生からも愛されたい・評価されたいですから。
しかしそれがね、大人になってからもそのまま、小児的態度のままだと問題になるわけです。
驚くことに、実は大半の大人がそうなんですよ。
そういう意味では、まだ本当に大人になっていない人たちがほとんどなのです。
大人になりましょうよ。
自分を生きましょうよ。
そのために、まず他者評価の奴隷、比較評価の虜(とりこ)という悪しき習慣が暗躍していることに気づくのが第一歩。
そこから本来の自分を回復するという、大切な大切な闘いが始まります。

 

 

子どもの頃、夕飯がすき焼きだったとする。
男ばかりの四人兄弟であったが、野菜が先になくなり、いつも最後に牛肉が残った。
また、別の夜、夕飯がコロッケだったとする。
大皿に盛られたコロッケをそれぞれの皿に取って食べるのだが、いつも最後にコロッケがひとつ残った。
ある日、母親が親戚のおばさんに“自慢げに”話していた。
「いつも最後に牛肉やコロッケが残るのよ。うちの子は誰も取らないの。」
それは、うちの子どもたちがどれほど謙譲の美徳に優れているか(ガツガツと取り合ったりしないこと)を誇りたかったのである。
母親のその考えを感じ取っているからこそ、子どもたちは残った牛肉やコロッケに手を出さなかっだ。
手を出せば、さもしいと見下される。
紛れもなく、偽善の謙譲であった。

その後、実家を離れて一人暮らしを始めた四人兄弟各人は、それぞれ食べたいだけ食べられる自由を謳歌したが、人前に出ると、まだその偽善の謙譲は力を持っていた。

そしてようやくその呪縛から脱したのは、本当に人を愛するということを知ってからであろう。
どんなものでも、たとえそれが大好物であっても、自分が空腹であっても、”自然に”差し出せて、相手の喜んでいる顔を見て、こちらも心から嬉しくなる。
それはもちろん食べ物だけの話ではない。
そんな世界がある。
偽善の謙譲ではなく、本当の愛は自ずと我欲を薄めてくれることを知ったのでありました。

 

 

昔、精神科外来にある若い男性がやってきた。
聞けば、子どもの頃からてんかんの治療を受けているが、なかなか発作が収まらないのだという。
また、障害に理解のある職場に一般雇用で勤めているが、その給料が少ないという。
さらに、障害年金ももらっているが、支給額が少ないという。
それでもうなんだかイヤになっちゃったというのだ。

私は答えた。
私には、てんかん発作を抑えることも、給料を上げることも、年金支給額を上げることもできない。
もし思い通りにならないことを、思い通りにしたいのであれば、それぞれ相談先が違う。
そうではなくて、もしあなたが、思い通りにならないことも受け入れて生きて行けるようになりたい、と言うのであれば、ここで力になれることがあるかもしれない。

長年、彼の置かれた状況が辛いものであることは想像に難くない。
思い通りにしたい、思い通りにならないと気に入らない、というのも、人情としてはよくわかる。
しかし、世の中は思い通りにならないことに満ちている。
それなのに、思い通りにならないとイヤだ、というのを、やっぱり小児的欲求というのである。
そうではなくて、思い通りにならないことを抱えながら生きて行く、それができることを大人の成熟というのだ。 

それでも人間だから、凡夫だから、たまには誰かに思い通りにならない愚痴を誰かに聞いてもらうのもいいけどさ、二十歳を超えたら、一歩ずつでも大人になって行こうね。

 

 

昨日の続き。

近藤先生亡き後の私は今、誰に/何に支えてもらっているのか?

近藤先生御存命の頃は、近藤先生に支えていただいている、と思っていた。
しかしやがて、そうではないことに気がついた。
近藤先生にではなく、近藤先生を通して働いているものに支えられていたのである。
それに気づくと同時に、その働きは私にも直に働いていることに気がついた、近藤先生を介さなくても。
この発見は大きかった。
それ故に、近藤先生が逝去されたとき、
「ああ、間に合った。」
と思った。
そうでなければ、きっと喪失体験に沈んで、路頭に迷っていたであろう。

私は支えられていたのである、この世界に、最初からずっと。

そうして改めて「支え手」の意味を知った。
ちょうと近藤先生が私にそうして下さったように、
まず私を通して働く力によって、その人がその人であることを、その人がその人に成長して行くことを支えるのである。
そしてやがて気づいていただく、感じていただく。
あなたをあなたさせる力は、私を通さなくても、あなたの中に働いていることを。
それが「支え手」という役割の本質なのである。

 

 

癌闘病を続けながら、自分のクリニックで臨床を続けている精神科医がいた。
彼が言うには、診察中の話の流れで、自分が癌治療中であることを患者さんに話すことがあるが、大抵はちょっと同情的なことを言ってくれるだけで、すぐに自分の問題や症状の話に戻ってしまうそうだ。

「人間って結局、自分のことしか考えないんだよね。」
と残念そうに言うときの彼の表情からは、彼の本音が漏れ出ていた。
「ホントは君が寄り添ってほしかったんだよね。」
と言うと、賢明な彼は
「そうなんだよな。オレもオレのことしか考えてなかったのかもしれない。」
と呟いた。

精神科医、いや、対人援助職者である前に人間であるのだから、支えがほしいときにはそれを求めて良い、と思う。
いや、求めて当然である。
かくいう私も、近藤章久という支え手がいて下さったからこそ、腐りもせず、病みもせず、死にもせず、やって来れたのだと思う。
そして八雲総合研究所の役目のひとつに、ケアラーズケア(carer's care)(=ケアしている人をケアすること)がある。

もちろん、当研究所の本質はそこに留まらず、人間的成長の場であるが。

先に挙げた彼の場合には、専門機関で緩和ケアとしての精神療法を受けることが一番合っている気がする。
(念のために付け加えておくと、「緩和ケア」とは、末期状態の患者さんのケアを行うことに限定されず、治療可能なごく初期の癌患者さんに対しても行うケアである。苦痛を緩和するケアはすべて「緩和ケア」と呼ばれる。誤解なきように)

 

そしてさらに先のことを言うと、近藤先生亡き後の自分は今、誰に/何に支えてもらっているのか?
それはまた明日語ろう。

 

 

この仕事をしていると感じるのは、世間の人たちは、思っていたよりも、話をちゃんと聴いてもらっていない、ということである。

50分間話を伺っただけで
「聴いてもらってありがとうございます。」
と言われることがある。

中には、そう言われて
「仕事ですから。」
と答えるアンポンタンの専門職もいるそうだが、私は全くそう思わない。
確かに、相談援助技術やら、カウンセリング入門、精神療法の技法などといった文献には、職業的専門性としての「傾聴」について書いてあることが多いが、そんな小手先の技術でやれるほど、この世界は甘くない。

もうちょっとマシな文献には、相手の話を聴くこと=相手に関心を持ち、その人のために時間とエネルギーを割いて聴くことが、その人の存在を大切に思っていることになる、と書いてあり、それも「情緒的」には悪くないが、近藤門下の私にはそれでも物足りない。

まず「仕事」だからではなく「ミッション」だからである。
仏教風に言えば、「縁」だからである。
また、相手の存在を「大切」に思う、
でも悪くはないが、相手の存在の根底に対して「畏敬」の念を抱く、となると、さらに深くなる。

しかも、そう思おうとするのではなく、実際にそう感じることが重要である。
そのために何をするか。
それが「他者礼拝(らいはい)」である。
相手の存在の根底に向かって両手を合わせて頭を下げる。
実際にやってみるとわかる。
それだけでちょっと感覚が変わって来る。
もちろん相手の目の前でやれば、アブナイ奴と思われるので、面談前、誰からも見えない場所で礼拝してから面談場所に入るか、心の中で礼拝してから面談を始める。
こうなると「情緒的」から「霊的」になって来る。

すべての人の中に
あなたの中に
尊いものがあるんです
絶対に。

そこから始めないと、本当の意味で、人の話を聴くことはできないと私は思っている。

 

 

 

ある定食屋さんで夕食を摂っていたら、隣のテーブルに若いお母さんと小学校1年生くらいの女の子と幼稚園年少さんくらい女の子の家族連れが来ていた。

食事し終わったお母さんが、上のお姉ちゃんに向かって
「宿題、やったんだっけ?」
と問うと、女の子は決まり悪そうに
「まだ…。」
という。
続けてその子は
「今、ここでやる!」
と言い出したが、お母さんは
「帰ってからやんな。」
と却下。

そして問題はこれからで、そのお姉ちゃんはそれを聞かず、お母さんに向かって両手を合わせて
「お願いっ!」
と要求したのである。

ああ、こういう女の子は松田一族にはいなかったなぁ、と思いながら見ていると、そのお母さんも
「しょうがないなぁ。」
と認めて、娘に宿題をさせたのであった。
こういうお願いの仕方、あるいは、甘え方は、そういうやり方が有効であるということを経験した子どもしかやらないものである。
松田一族のように親が支配的な家庭で育った子どもは絶対にやらないと思う(お願いしたって潰されるに決まっている)。

お願いする、甘える、ということ自体は、人と人との関係における健全な選択肢のひとつであり、それ自体に問題はない。
むしろ、どのような場合でも、お願いできない、甘えられないとしたら、それこそ問題である。

しかし、だからといって、何でもかんでもお願いや甘えを認めていたら、依存的で、操作的な気持ちの悪い大人が出来上がってしまう。

即ち、子どもからのお願いや甘えに対して、親が是々非々で応える。
健全なお願いや甘えは許し、不健全なお願いや甘えは許さないことが教育的であると言える。
そこで親もまた試され、子どもを育てることは自分もまた育てられること、という真理が成り立つのである。

さて、あなたは健全な「お願いっ!」ができますか?

 

 

私は今、へちまを育ててるんですよね。へちまを育てるのが大好きなんでやってるんですけどね。へちまってのは、ぶらっとこう下がるもんですけどね、ところが、ぐんぐんぐんぐん上がっちゃってね、それでもう、ぽっぽっぽっぽ、あっという間に上がっちゃっいましてね、屋根の上に上がっちゃったんですよね。屋根の上に上がっちゃって、自分の目の前に、実は、僕としては、へちまがぶらっと下がっている姿を想像してたところが見えないんですよね。じゃあ、どこにいるんだろう、と思ったらね、今年はダメかな、と思ったら、屋根の上でね、こう、あるんですね。屋根の上に行きますとね、面白いんですよ、あのね、へちま、こんなになっちゃってるんですよ、曲がってね。それで、カッコ悪いんですよ、とてもね。これは随分カッコ悪いな、いつものへちまはスラッとしてる、どうしたんだろうと、こう思いましたら、やはりね、屋根の上に置いてることからね、そんなことが起きてるわけですよね。それでね、考えちゃって、ひとつは、自分の前の前にぶらさげてみたいっていう、こういう願望があるわけですね。ひとつは、なんだかこう曲がってるのがね、これがね、なんて言いますか、医者根性と申しましょうかね、なんか、これ、健康じゃない気がしたんですよね。そこでね、僕は、それをね、持って降りましてね、屋根に上って、もう年も年ですから、足が危ないですけど、でも、これを持って降りて、ぶらさげたんですよ。そうしたら面白いですね、段々段々まっすぐになって行くじゃありませんか。それでね、こうなってたのが段々ああやってね、カッコ良くなって来たんですよ。面白いなぁ、と僕はとっても、そこでね、感動しちゃったんですよね。やっぱり、そのね、本来、へちまはぶらっと飄逸(ひょういつ)なね、良い気持ちなもんですよ。あれ、私、大好きで、ああいうふうなの、大好きなんだけど。そういう自然にフワーッとなってる姿になるのが当たり前なのが、たまたまの環境でですね、屋根の上に上がっちゃうと曲がる。しかし、その屋根の上に上がったのをポッとやると、すぐに直って来る。はぁ、これは本来へちまっていうのはこうなるもんだ。
そうするとですね、むしろ人間っていうのは、老子じゃないけどもね、本来、自然にしておけばね、自然にしておけば、自(おの)ずからね、人間としてね、成長して行くんじゃないかと。そういうふうに思うんですね。…老子の思想なんかによくありますけども、自然という思想、これがまあ、日本に来ると、親鸞なんかの自然(じねん)いうことになりますわね。自ずから然(しか)らしむると。その自然な姿、そういったものがね、人間の中に自然に、つまり、成長して行けばね、環境さえ良ければと、言いますか、へちまと同じようなもんじゃないかとこう思うんです。
実際、私ね、治療してましてね、確かに環境が良くなった場合にね、いろんなことが良くなるんですよ。…
そういうもので観ますとね、まあ、随分、おまえはものを単純化して観てるなって言うけどね、翻(ひるがえ)ってそういうものでね、考えて、また、『老子』だとかなんか読んでみますとね、面白いんですね。「大国(たいこく)を治むるは小鮮(しょうせん)を烹(に)るが如(ごと)し」 つまり、おっきな国を、国ですな、それをね、取り扱うときはね、とにかく、ちっちゃな魚ね、魚を煮るようにする。ちっちゃな魚、これはまあ、あそこに女性の方がおられるから、小さな魚をごちゃごちゃ煮てるとき、あんまりひっくり返したりなんかしますと、身がボロボロに落っこちちゃうんですね。つまり、ああだこうだ、こうだああだってやってるとですね、結構ダメになっちゃうんですね。ところが、それから考えてみますとね、本来、自然にしておけば良いものを、なんかごちゃごちゃごちゃごちゃしてね、結果ね、妙なことに、それが悪い環境として働いてですな、なってしまう。そういうことがあると思うんですね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

人でも植物でも何かを育てるときには、余計なことをしないのが一番です。
私もよく近藤先生から「邪魔しなければ名医。」と言われました。
その人に/そのものに最初から与えられている本来の自己を実現しようとする力におまかせできるかどうか。
そこをどうも我々は、賢(さか)しらだって、あるいは、自分の思い通りにしたくて、手を出して失敗してしまうわけです。
答えは、そもそもその人/そのものの中にあり。
その成長を邪魔しない環境を提供することができれば、それは素晴らしい教育であり治療であると私は思っています。

 

 

シングルマザーとして懸命に働きながら、3人の子どもを育てている女性がいた。

6歳の長女が発熱したので、仕事を休んでを病院に連れて行ったら、インフルエンザと診断された。
これから他の子にも自分にも感染するかもしれないことを思うと、いろいろ頭をかすめる心配もあったが、まずは目の前の長女のケアに専念しなきゃ、と思った。
そう思った矢先、病院からの帰りの車の中で、長女が下痢を漏らしてしまった。
まさにOMG(Oh, My God!)である。
申し訳なさそうな長女の顔を見ていると、わざとしたわけでもなく、出てしまったものは仕方がないと、淡々と片付けをした。
そして帰宅して長女を布団に寝かし付けた後、今度は布団の上に嘔吐してしまった。
またまたOMGである。
さらに申し訳なさそうな顔をしている長女の顔を見ていると、これもまたわざとしたわけでもなく、出てしまったものは仕方がないと、淡々と片付けた。

私が伺った、それだけのエピソードであるが、やっぱり“それだけの”エピソードではない。
余裕のない暮らしをしながらも、全く長女を怒らなかったこのお母さんの姿はとても有り難いと思った。

しかし、この姿勢をすべての親御さんに要求するつもりはない。
実際には、つい子どもを怒ってしまう場合も少なくないと思う。
同じ状況に置かれたら私だって怒ってしまうかもしれない。
それでも怒ってしまった後に、ああ、悪いことをした、怒らなきゃ良かった、もう少し優しい親になりたい、と思えたとしたら、凡夫の親としてはそれで十分なんじゃないかと思う。
つい怒ってしまう姿は、確かに余り良いもんじゃないけれど、そんな自分を超えて成長したい、もっと我が子を愛したい、という思いがその人を貫いて働くところに希望があるのである。
そうしたらいつか先のお母さんのように“自然に”怒らないでいられるようになるかもしれない。
そう。
実は先のお母さんが怒らなかったのも、そのお母さんの力ではないのである。

我々のこころは、愚かな凡夫性がその表面を覆っているけれど、その奥には常に尊い仏性が働いている、という二重性こそが、人間の偽らざる姿だと私は思っている。

 

 

あなたが何かをしくじって相手に迷惑をかけたとする。
あるいは、あなたの子どもが何かをやらかして相手の子どもに迷惑をかけたとする。
そんなときには、できるだけ早く、誠実に相手に謝る。
そして何らかの実害があった場合には、相応の補償も要るかもしれない。
それが当たり前のことである。

しかし、時として相手から執拗に攻撃され続ける場合がある。
また、非常識に大きな補償を求められる場合がある。
問題はそういったときである。
こちらがやらかした負い目があるために黙ったままでいると、サンドバック状態で殴られ続け、奪われ続けることになる。

こちらがやらかした過失については、誠実に「ごめんなさい」しながら、
相手の過剰な攻撃や要求に対しては「そこまで言われる筋合いはない!」で突っぱねるのが、適正な対応である。

特に、こちらがサービス提供者側で、相手が顧客側であるときなどは、不当な攻撃を受けやすい。
中にはそれで、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になったり、うつ病になったりする人までいる。
そういう攻撃は立派な暴力である。
どんな関係性であろうと、人間対人間という根本は変わらない。
人間としてならぬものはならぬものです。

 

 

子どもたちや若者たちの今と未来を潰してしまう「ヤングケアラー」問題については、いろいろな場面で取り上げられて来た。
子どもたちや若者たちが、その時間とエネルギーを奪い取られずに済み、自分の人生を大切に切り拓いて行けるように、そしてケアの必要な人に適切なケアが届くように、状況に即した丁寧な対策が必要なことは言うまでもない。

そんなケアについて考えていると、子どもたちや若者たちばかりではなく、高齢者は高齢者でよくぶつかる問題がある。
それは、デイサービスに行くのをイヤがる、ヘルパーが自宅に来るのをイヤがる、ショートステイをイヤがる、施設入所をイヤがるなどといった、ケアを忌避する問題である。
これを「オールドケアされらー」問題と私は呼んでいる。
確かに、これらを最初から喜んで受け入れる人は多くないかもしれない。
それは主に、ケアされ慣れてないことによるが、特に若い頃から他人の世話をして来た人(その代表が対人援助職者である)が高齢になると、自分がケアされることに抵抗する方が多い。
しかし上手に利用すれば、現実に本人も助かるし、家族も助かる。
(付け加えるならば、たまに元対人援助職者で自分が援助されることに上手な方がいる。そういう方はきっと良い支援をして来た人なのだろうと思う。支援され上手は、支援し上手である)

…と、ここまでは時々話して来たテーマであるが、ケアに関してもうひとつ、よく生じる問題があることに気がついた。
それは(年齢によらず)「ケアさせらー」問題である。
自分ができることをやらずに他人にさせようとする、という問題だ。
これは性質(たち)が悪い。
依存的であり、自己中心的であり、搾取的ですらある。
また、相手を見て巻き込んで来るので、相手の主観的満足に反することをしようとすると罪悪感を抱くようなタイプ(裏を返せば、他人の主観的満足を自分の存在価値として来たようなタイプ)の人は格好の餌食(えじき)となる。
巻き込もうとして来たときに、即座に、きっぱりと
「イヤなこった!」「自分でやれ!」
と言いましょう。
きっと当座は、ブーたれる、逆恨みする、怒るでしょうが、毅然と繰り返しているうちにやがて諦めて、巻き込んで来なくなる。

真っ当な人間は、自分ができることは自分でやり、できないことは上手にケアしてもらうのであります。

 

 

大乗仏教においては、「一人残らず救う」ということが何よりも要(かなめ)となっている。
自分だけが救われる小乗(小さな乗り物)仏教に対して、わざわざみんなが救われる大乗(大きな乗り物、優れた乗り物)仏教と称しているのであるから、そこは譲れない。
中には、「一人残らず救う」と言いながら、「でも、流石にこんなヤツは救ってやんない。」と条件を付けて除外する教えもあるが、それは大乗仏教と呼ばず、権仏教(ごんぶっきょう)と称して区別している。

そんな大乗仏教の救いの代表が、まずは阿弥陀如来である。
その誓願によって、我々娑婆の凡夫を一人残らず救って下さるという、誠に有り難い話である。
ご苦労はんだす、阿弥陀はん。

それで話がすべて終わってしまうところであるが、中に気づいた人があった。
今、娑婆にいる人間はすべて救われるにしても、輪廻転生(りんねてんしょう)を称える仏教においては、今、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を輪廻している者については、人間道(=娑婆、人間界)以外の者が救われないではないか。
あとの五道に行っちゃってるものはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが地蔵菩薩である。
みなさんもどこかの辻で見かけたことがおありであろう、あの六地蔵を。
そう。
六地蔵とは、今、六道に輪廻している者たちを、一地蔵一道ずつ、漏れなく救いに行こうとされている御姿なのである。
だから、わざわざ手に錫杖(しゃくじょう)(=杖)を持って、六道どこへでも、こちらから救いに行きまっせ!ということになっている。
本当に有り難い話である。
ご苦労はんだす、地蔵はん。

で、それで終わりかと思ったら、また気づいた人がある。
それで今いるものは六道全部で救われたとしても、今から生まれて来るものたちはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。
細かいなぁ。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが弥勒(みろく)菩薩である。
五十六億七千万年後に、兜率天(とそつてん)から降りて来て、それまでに救いそこなったもの全てを救うという。
未来のことまで準備済みである。
誠に行き届いて有り難い話である。
ご苦労はんだす、弥勒はん。

上記はあくまで私の解釈であるが、それでも話にはキリがなくて、じゃあ、五十六億七千万年後以降はどうすんねん、ということになって来るし、他にもツッコミどころが限りなくありそうである。
けれども、そろそろ勘の良い読者の方はお気づきであろう。
結局のところ、阿弥陀はんも、地蔵はんも、弥勒はんも、みんな方便なのである。
救いの力が、永遠の過去から永遠の未来まで、すべての世界を貫いて働いていることを示すための仮の名前なのでありました。

そういう眼であの曼荼羅をご覧になると、あらゆる力を結集して一人残らず救おうとされているのを感じて、有り難さがさらにさらに増して来るかもしれまへんなぁ。

 

 

40代になって、大工からラーメン屋に転職した人がいた。
それも屋台を押しての開業である。
全くの異業種に変わることに何の不安もなかったのであろうか。
80代になった今も現役で屋台を押しているその人にある人が尋ねた。

「自信はあったんですか?」

老人は即答した。

「ありました。」

余りに迷いのない返答ぶりに息を呑んでしまった訊き手に対して、彼は言葉を付け加えた。

「覚悟を決めたら何でもできますよ。」

 

この話を
「自力」の 鉄の意志と鬼の努力によって「覚悟」してやった成功譚と聞くか
「他力」の ミッションによって「覚悟」させられ、有無を言わさずやることになった成功譚と聞くか
で話の深みが大いに変わるのである。

 


 

公益社団法人AC ジャパンのテレビCMで、プラン・インターナショナル(PLAN INTERNATIONAL)の活動についてご覧になった方も多いのではなかろうか。

その内容

 

女の子という理由で学校に通わせてもらえななかった。
プラン・インターナショナルの支援で、学校に通えるようになった。
学び、夢を見つけ、今では教師に。
今度は私が子どもたちを支える番です。

救われた人は、
救う人になる。

支援のつながりに、さあ、あなたも。

 

サイコセラピー(精神療法、心理療法)の世界でも全く同じことが言える。

救われた人は、
救う人になる。

しかし、自分がまだ救われていないのに、他人のことをやりたがる人間が多いのも、この世界の問題である。
自分がまだ救われていないからこそ、自分の問題が解決されていないからこそ、かつての自分を患者さんやクライアントに投影し、ズレた支援、相手のためと言いながら自分のための支援をやらかしてしまうかもしれない。
また、自分の未解決の問題に、患者さんやクライアントを巻き込んでしまうかもしれない。

救われてない人は、
救う人になれない。

但し、完全に救われるまで待っていたら、一生他人の支援なんてできない。
だからせめて、一所懸命に自分の問題と向き合いながら、必死になって自分の問題を解決しながら、やらせていただくしかない、と私は思っている。

そして、そんな方々が、そんな同志が、いらしているのが八雲総合研究所です。

 

 

「はっきり申しますと、医者というものの、あるいは、医師という、医学というもの、癒すということを中心とする仕事の中にはね、基本的な、これはもう、公理というか、疑うことのできない、それなくしては医療ということができない、ひとつの哲学と言いますか、考え方が、根本的な考え方があると思うんです。
それはどういうことかと言いますと、医者は神さまではありませんから、何か新しく生命を付与したり、新しく生命を作ったりすることはできないわけです。そうでなくて、結局、医者ができるのは、たかだかと言っても良いと思うんですけども、その人の持っている健康に生きる力、そういったものをヘルプして行く、助ける、これ以外にないと思うんです。…
つまり、そのね、人間にインヒアラント(inherent)に、実際、固有に備わっているところの、人間の生きる力、そういったものというものが根本的前提になっていると思うんです。で、その生きる力というものは、人間を通じて、人間自身がその生涯を通じながら、常に進展し、発展し、成長して行くもんだという、そういう根本的なテーゼ(These)というものが私になくしてはですね、結局、何事もできないわけです。
よく西洋の諺で、馬を水のそばに連れて行くことはできるけれども、水を飲ますことはできない、飲むのは馬である、とこう言いますが、結局、飢えだとか渇きだとか、その中にあって初めて、それは人間の、生物の健康な働きとして、そういうものがあって初めて水を飲み、食事を食べるもんだと思うんですね。その意味で、やはり、基本的に人間の中に、それなくしては考えられない、生きる、生きんとする力、そうしたものが基本的に動いているってことは、我々、医学をやる者について基本的に考えて行かなきゃいけない。それがもう無意識でありますけれども、我々の中にあるんだ、とこういう具合に思うんですね。…
そういうものが、私はもう少し、非常にこう、単直に行きますけども、私は、今の、例えば、教育なんかでですね、言わば、そういうふうな生命力、人間の成長して行く力というものを益々強め、そしてその方向を本当に自分自身がそれぞれ見定めて、例えば、杉が杉になるように、松が松になるように、その人それ自身が独自のものになって行く、その人間が本当に生まれて来たことの、ある意味で、意味をそこで完遂して行くことが、それが一生だと思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

我々がまず、本当の自分、真の自己というものを一人ひとりに授かっているということ。
そしてまた、真の自己を授かっただけではなく、それを実現して行く力というものもまた与えられているということ。
これが基本的人間観の大前提となります。
そして、それ故に、それをヘルプして行くのが、医師や教育者や親の重要な役割ということになります。
宜しいですか。
答えは、こちら側(癒す側、教える側、育てる側)にではなく、向こう側、人間存在一人ひとりの中にある、ということです。
従って、この人はそもそもサクラなのかスミレなのか、それを観通す、感じ取ることができなければ、治療も教育も養育も始まらない、それどころかミスリードしてしまう危険性もある、ということになります。
自分自身においても、他人においても、真の自己を観通す、感じ取ることは、必ずしも簡単なことではありませんが、少なくとも、それをなんとかして観い出そう、感じ取ろうという姿勢がとてもとても大切ということになりますね。

 

 

親戚のおじさんで、急に黙り込む人がいた。
妻や子どもが心配して
「どうしたんですか?」
と何度も訊くのだが、何を言ってもダンマリを決め込んでしまう。
結局、原因もわからないため、時が経つのを待つしかなく、その間家族は、ピリピリとした沈黙の空気感に付き合わされ、疲弊というか、正直ウンザリしていた。
聞くところによると、そのおじさんの母親というのが大変に支配的な人で、息子にとにかく勉強をさせ、その後ろに座って少しでも息子の集中力が切れると、手に持った竹の物差しでピシッピシッと叩いていたという。
それを聞いただけでも、おじさんの中に出すに出せない怒りがいかに渦巻いていたかが想像できる。
そうやって、ギリギリの反撃手段として覚えたのが沈黙だったんだな、と察しがついた。
出ようとする10の怒りを、10の力で抑圧し、計20使って差し引き0にしてていたのだから、エネルギー消費も相当なものである。
そして沈黙されれば、周囲は
「どうしたんですか?」
と訊かざるを得なくなる。
しかし、彼は答えない。
その巻き込みが非常に面倒臭い。
こういう人は決して無人島で一人で沈黙はしない。
沈黙して困る相手がいなければ沈黙する甲斐がないからである。
だからといって、周囲がその沈黙を無視すれば、本人はさらにヘソを曲げ、周囲を困らせるためのダンマリ期間は一層長くなるのである。
あぁ、面倒臭い。

後日談として、そのおじさんの場合は、高齢になって認知症となり、良い具合に抑圧が外れて、何でもしゃべる、喜怒哀楽も示せるようになったそうである。
そうなって初めて面倒臭くなくなった。
しかし、そうなるまで待ってはいられない。
そもそもの話、沈黙に走るのも、小さくて弱い子どもの頃なら仕方がないが、いい年こいた大人がやることではない。
大人なら、自分自身とも相手とも勝負できるはずである。
自分で解決しなさい。
それができないなら、周囲に迷惑をかけないように、やっぱり無人島で暮らしなさい。

 

 

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医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。