八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「医学的に見ても、皮膚接触がない人間はダメなんです。人間の皮膚は神経と同じ細胞で形成されているのです。だから、皮膚感覚のことを触れ合いとも言うでしょう。皮膚感覚というのは非常にコンタクトなもので、心の触れ合いです。人間には触れ合いという感覚が大切なのです。」(近藤章久対談『人間を育む心』)

この文章を読んでいて、学生の頃習った発生学を思い出しました。
確かに、体の一番表面にある皮膚と体の一番奥にある脳神経系は、受精卵が細胞分裂することにによってできた胚の中の、同じ外胚葉から発生したものです。
そうすると皮膚感覚が特別な深さを持つのは当たり前ですね。

皆さんは普段からハグやタッチをしていますか?
親子はもちろん、パートナー同士でも、恋人同士でも、皮膚接触はとても大切です。
文化的に日本では皮膚接触する習慣がとても少ないように思います。

せめてあなたにとって大切な人とは、日常的に触れることをお勧めします。
(反対に、余り触れなくなったら(触れたくなくなったら)、それは心の距離が遠くなったのかもしれません)

以前、ある人が Phyllis K. Davis の絵本『Please Touch Me』を紹介してくれました。
(邦題『わたしにふれてください』訳:三砂ちづる 絵:葉祥明 大和出版)
触れることの大切さがそのまま描いてある本です。
関心のある方は読んでみて下さい。

(面談室の本棚にありますから、ご希望の方にはお見せしましょう)

そしてもし今、いろいろな事情から触れることのできる相手のいない方には、
可能ならば、ペットを撫でることもお勧めです。
勘の良い方なら、お気づきでしょう。
ペットの頭を撫でているあなたの手の平は、ペットの頭に撫でてもらっているのです。
また、泳いだり、温泉に入ったりすることもお勧めです。
肌を水やお湯で撫でられることは、脳を、いや、心を撫でられることでもありますから。

我々の五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の中では、触覚が一番深いところに届くものだと私は思っています。

 

 

最近、「人間の成長段階」には「四段階」あるんじゃないか、ということをつらつらと思っている。
と言っても、「成長段階」の切り口はさまざまあるので、以下はひとつの観方と思って読んでいただければと思う。

四段階の第一、
まず一番弱い人間というのは「服従」するしかない。
その背景に「恐怖」がある。
小さくて弱い子どもは、大きくて強い親に従うしかない。
いじめっ子にも、おっかない先生にも従うしかない。
権力を振るう上司、経営者にも従うしかないのである。
そうやってなんとかかんとか生き延びる。

四段階の第二、
これがもう少し強くなって来ると、「服従」するのがイヤで「逃避」するようになる。
「逃避」は不服従であり、「怒り」の芽でもある。
できるだけイヤなヤツに会わないようにする。
家出する。
不登校になる。
ひきこもる。
出社拒否する。休職、退職、転職する。
「逃避」する方が「服従」するよりはマシである。

四段階の第三、
そしてもう少し強くなって来ると、「反撃」に出るようになる。
そこには明らかな「怒り」がある。
口答えする。
押し返す。

必要とあらば、手が出る、足が出る(暴力は勧めないが)。
言わば、いつでも刀が抜ける、という状態になる。
「反撃」できる方が「逃避」するよりも強い。
その上さらに経済的、精神的に自立できるようになれば、完全自由は近い。

「服従」→「逃避」→「反撃」、通常はここまでで十分であり、外圧をブッ飛ばして自分を生きるこができるようになる。
しかし、これで終わりではない。
それから先もある。

四段階の第四、
それは敵対すべき相手を「愛する」あるいは「育てる」ことである。
これは並大抵のことではない。
そもそも人間業(わざ)では無理だと思う。
そういうミッションを与えられなければ無理だと思う。
人間を超えた働きがないと無理だと思う。
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(『新約聖書』)とは、やはり神業なのだ。
だからそれに続いて「これ天にいます汝らの父の子とならん為なり」となる。
「父の子」でないと無理なのだ。

それでも、「愛」という四段階目もあるのだな、ということを頭の隅に覚えておいていただきたい、と思う。
 


 

本日で松田精神療法事務所から八雲総合研究所に法人化して満13年になる。
ここまでお役目を務めさせていただいたのも、つくづく有り難いことだと思う。
振り返れば、私の人生にも何度かの大きな転機があったが、いつも絶対の自信や確信があって新たな道に踏み出したわけではない。
その度に、これがミッションであれば続くだろうし、ミッションでなければ続かないだろうな、と思いながらやって来た。
実際にピンチがなかったわけではないが、その度に、何とも言えない“救いの手”が予想外の方向から差し出されて、乗り越えることができた。
ミッションに沿ったことをやっていれば、守られるのかな、とも思った。
しかし、思い通りに行くことだけがミッションではないことも知っている。
私自身の成長のために、艱難辛苦が与えられることもあるであろう。
それも甘受するしかない。
それでも、もうしばらくは、縁ある“あなた”に出逢って面談できる歓喜(よろこび)を味あわせていただきたいと願う。
今面談している方々も、これから面談するであろう方々も、どうぞ宜しくお願い致します。
合掌礼拝

 

 

仕事の時間はできるだけ短く  
自分の時間はできるだけ長くしたいという。
しかも 
友だちは、いらない。 
恋人も、いらない。
パートナー、いらない。
ましてや、子どももいらない。
すべて面倒くさいのだそうだ。
最近そういう人が増えているのだという。

何のことはない、そういう人は利己的なのである。
自分だけの、小さな安心のテリトリーを確保して、自分のためだけに時間もお金もエネルギーも使いたいのである。

仕事をするのも
友だちと付き合うのも
恋人と付き合うのも
パートナーと暮らすのも
子どもを育てるのも
確かに面倒くさいことである。

しかし、その面倒くさいことを、利己的ではなく、利他的にやれるようになって初めて人間として成熟したと言える。
縁あって出逢った人の成長に貢献し、またそれが自分自身の成長にもつながる。
人類が二人以上いることの意味は、そういうところにある。

誤解しないでいただきたい。
「利他的にならなければいけない」と言っているのではない。
「いけない」のではなくて、人間が成熟すると、利他的に「なる」んだよね、あなたを通して働く力によって、自ずと。
そしてそこになんとも言えない、深い歓喜(よろこび)が生まれる。

そもそも我々人類に与えらえたミッションは何なのかについて、思いを致してみようよ。

 

 

「その成功というのは、数学で計算された企(たくら)みと謀略とか裏切りとかで成り立っているもので、いわば『後ろ暗い成功』なのです。」(近藤章久対談『人間を育む心』)

「私はよく『成功した神経症』という言葉を使います。現代は大人の世界を見ても自我中心主義で、自分本位、つまり簡単に言ってしまえば、我がままで、自分の思うがままに出来ればそれでいいのです。そうして、その目的は何かというと…政治的な権力もあれば、経済的な金力もあり、地位や名声という権威の力もある。そういうものに成功したとすると、自分では社会的にも人間として非常な成功をしたと思ってしまう。…しかしその成功というのは、数学で計算された企(たくら)みと謀略とか裏切りとかで成り立っているもので、いわば『後ろ暗い成功』なのです。昔は後ろ暗いという言葉を本人もある程度分かっていて通用しましたが、今ではそれが当たり前になってしまっていますね。逆の言い方をすると、陰のない人間は、薄っぺらな人間だとも言えます。そういう薄っぺらな人間が大人の世界で増え、全般的になった。…どうも人間が深くなるどころか浅くなって来ているように思えてならないのです。

この「後ろ暗さ」の自覚を決して否定的にのみとらえず、そこに人間としての「深さ」を見い出しているところは流石、近藤先生だと思います。
どこかで馬鹿らしい、くだらない、汚ならしいと思いながらも、権力や金や地位、名声を求め、それが手に入るとつい喜んでしまう自分というものに対しての偽らざる自覚。
それが人間としての「深さ」をもたらすことがあるということ。

だからこそ近藤先生は、同じ対談の中で子どもたちの「不登校」を取り上げた際に、子どもと父親との関係について、
「父親の場合には、会社や社会の価値観に屈しながら、いろいろなことをやらされていますね。その中で、いろんなことを見せられたり、苦しみもあるわけです。しかし、そのことを家族の前では普通は何一つ言いません。…父親も彼なりに必要悪の中で苦しんでいるんだ、社会の価値観の中で苦しんだり悩んだりしているんだということが、今度は子どもに通じますと、子どもとの関係でいろんなことに役立つと思うのです。そうすると、自分の父親に対して抱いていた反感もなくなってくるし、ああ父親も何も言わないけど苦しんでいるんだという気にもなってきて、子どもも今までとは別の見方が出来るようになりますよね。」

私が常々申し上げている「情けなさの自覚」は、もちろんそれを乗り超えて成長して行くためのものでありますが、
それは、それ以前に、人間の持つ「弱さ」「愚かさ」「ずるさ」をそのままに認める「後ろ暗さ、後ろめたさの自覚」でもあり、その自覚が人間に「深さ」や「陰」をもたらす、ということも知っておいていただきたいと思います。

 

 

「ひとり暮らしの人へ」と言っても、別に、結婚しろとか、同棲しろ、誰かと暮らせ、という話ではない。
同居によって、却って自分が自分でいにくくなるのであれば、ひとり暮らしの方が余程せいせいするというものである。
マイナスを逃れてゼロに至るためには、ひとり暮らしはとても良いものであると言える。

しかし、ひとり暮らしの短所としては、やはり「寂しさ」と「話し相手がいないために同じこと(悩み)が頭の中を何度もグルグル回ってしまうこと」であろうか。
中には、寂しさを紛らわせるために結婚や同棲を選ぶ人もいるが、その惨憺たる結果については、よく御存知の通りである。
結婚や同棲でなくても、趣味とか同好のことを通じて集うだけでも、寂しさはある程度、解消される。
また、ただ話すことで、ただ聞いてもらえることで、消えてなくなる悩みは確かに少なくない。
けれど、そのために同居までする必要はない。
そういうことを話せる相手を別に得れば良いというだけのことである。

私はゼロがプラスにならなければ同居の甲斐はない、と思っている。
一緒にいることで、私がより私でいられて、あなたがよりあなたでいられる。
そこに安心と愛と成長がある。
そういう場所を「ホーム」というのである。
そうであるならば、ふたり(
以上)暮らしは、とてもお勧めである。

え? 幸か不幸か、もうふたり(以上)暮らしをしてるって? しかも諸々の問題があると。
それならば、あなたが出て行くか、あなた以外の人に出て行ってもらい、ひとり暮らしにする方法もあるが、
今のその場所が、私がより私でいられて、あなたがよりあなたでいられる場所になるように努力してみるのも現実的な選択肢である。
縁は異なもの味なもの、実はそのための出逢いだったのかもしれないから。

結局のところ、ひとり暮らしか、ふたり(以上)暮らしかという話ではなく、ずべての人が今回の人生でちゃんと自分を生き、自分に与えられた意味と役割を果たすか否か、という話になるのであった。

 

 

基本的に人類全員に問題があると(「問題」と言って語弊があれば「成長課題」と言ってもいい)私は思っている。

臨床においては
彼ら彼女らは苦しんでいる。
だから、その問題/成長課題について真剣な話ができる。
ヒリヒリとしたやりとりにやりがいを感じる。

成長においては(八雲総合研究所においては)
彼ら彼女らは求めている。
だから、その問題/成長課題について本気の話ができる。 
真っ直ぐに向き合ったやりとりにミッションを感じる。

それ以外の場面で接するフツーの人は
すぐに彼ら彼女らの問題/成長課題、山積みなのが観通せてしまうのだが
その鈍感さ、独善性、厚顔無恥さに辟易(へきえき)して来る。
5分で疲れる。
やっぱり一番重いんだよな。
そしてまだ彼ら彼女らには余裕があるんだよね。
それでも少なくとも、老いる苦しみ、病気を与えられる苦しみ、死ぬ苦しみは、万人に与えられている。
本当に苦しんでから、本当に求めるようになってから、話しましょ、と言うしかない。

というようなわけで、フツーの人との交流が最も少ない私です。
人間好きなんだけどなぁ。
最低限の社交以外に噛み合う話題がないんだからしょうがないのでありました。

 

 

 

今日はちょっとややこしい話に思われるかもしれないが、お付き合い下され。
可能な限り、端的に書きましょう。

仏教においては、人間の行為=「業(ごう)」というものを三種に区別する。
それが「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」。
具体的には
「身業(しんごう)」=身体的行為
「口業(くごう)」=言語表現
「意業(いごう)」=心意作用
つまり、「体」「口」「心」ですること、である。
確かに、人間の行為はこの三つにすべて含まれる。

そして特に密教においては、衆生(しゅじょう)=生きとし生けるものの行いが本質的には仏の働きと同一であると考えているので、この「身口意の三業」を「身密(しんみつ)、口密(くみつ)、意密(いみつ)の三密(さんみつ)」とする。
即ち、具体的に何をするかというと、
「身密」=身体において手印(しゅいん)を結ぶ(手印:手指の組み合わせによって、ある仏、菩薩、明王(みょうおう)などの働きを象徴して表すこと[例]阿弥陀定印(あみだじょういん)
「口密」=口に真言(しんごん)を読誦(どくじゅ)する(真言(マントラ):ある言語表現によって、ある仏、菩薩、明王などの働きを象徴して表すこと[例]オン・バイタレイヤ・ソワカ(弥勒(みろく)菩薩の真言)
「意密」=心に本尊の観想(かんそう)を行う(観想:ある仏、菩薩、明王などの形や姿を心に思い浮かべること
である。

ややこしいように見えて、これは実によくできている。
身体的に手印を組み、
口に真言をとなえ、
心に仏像を思い浮かべれば、
他に何もできないのだ。

例えば、三密を行いながら、過去のことにとらわれ、まだ来ぬ未来を心配し、あいつのことを恨みに思うことなどできない。
つまり、三密が行われている瞬間、少なくとも我々がとらわれていることから解放されているのである。
よくできてるなぁ。
もちろんこれは三密の形の上での入門に過ぎず、三密相応、三密加持、即身成仏などなど、三密には果てしない深みがあるが、我々凡夫にはこの形だけでも大いに救われる。

しかし、愚かな凡夫はトホホなことに、この三密の実践すら覚束(おぼつか)ない。
そんなときは口だけでいい。
しかも真言もいいが、念仏でいい、祝詞(のりと)でいい、祈りでいいのである。
少なくとも、それをとなえている間だけは、とらわれから逃れられ、我々は救われるのだ。
つくづく先人たちの智慧は大したもんだと思う。
愚かな凡夫はやっぱり易行(いぎょう)=易(やさ)しい行でないと救われないもの。

そしてそんな易行も、何日も何カ月も何年も続けていると、ただとらわれから逃れられるだけじゃなくて、ちょっと違ったことが起きて来るんだけど、その話はまた、あなたの体験が実際に進んでからにしよう。

それでは、お付き合い、多謝深謝。

 

 

[注]密教専門書よりも『岩波仏教辞典』の表記が入門的にわかりやすく、多く引用させていただいた。

 

 

「そんなふうに『病気にまでさせて気がつかせてもらえる』という、こういう有り難いことはどうでしょうかね。」(近藤章久対談『心身平安』より)

「必ず人間にはむしろ自分の欲望がドンドコ行っているときには気がつかない。つまり、そこでうまく行かなくなって挫折感を感じて、心の痛みを感じて、心の痛みを感じたときに、案外そういうことに気がついちゃうことがあるんですよ。『痛感する』っていうんです。ですから『痛み、有り難し』「挫折、有り難し」ということですね。ノイローゼになって私のところへいらっしゃる方もそのときチャンスがあるわけですね。」
「それは『今まで気がつかなかったことを気がつかしてくれる大きな縁』ですよね、『力』です。」
「そんなふうに『病気にまでさせて気がつかせてもらえる』という、こういう有り難いことはどうでしょうかね。
「あらゆることがチャンスだと思うんです。その人によりまして、非常にうまく行ったときも、『あ、うまくいったのは何故だろう?』というふうに考えますと、すぐに自分を超えたものに気づかせるものもありますね。『あ、こんなふうに健康なのは何故だろう?』というところに『支えられている自分はは何だ?』というようなことに気づくんですね。
「『挫折も縁、成功も縁』ですね。あらゆるものがそういうセンシビリティと言いますか、自分の中に深い感じる気持ちがあります…。


思い通りに行ったときは、それで満足して喜んで、それで終わり。
また、思い通りに行かなかったときは、それが不満でガッカリして、それで終わり。
そういうことが多いんじゃないでしょうか。
しかしそこで終わりにしないで、「思い通りに行ったこと」「思い通りに行かなかったこと」が与えられたことの“意味”を考える、感じる。
そういうことがとても大事なんじゃないかと思います。
そういうことが与えられることによって、気づかせてもらえる大切な何か
があるんです。

そしてそれは、愚かな我々にとって「思い通りに行ったとき」よりも「思い通りに行かなかったとき」の方が気がつきやすいのかもしれません。
ですから、私は患者さんによく言うんです。
「あなた、折角苦しい思いをしたんだから、ちょっと楽になったくらいで『喉元過ぎれば』になっちゃあ、もったいないでしょ。これからのあなたの生き方に関わる大切なことを一緒に見い出して行きましょうよ。」

そこに込められた深い意味を感じ取ることができれば、人生、無駄なことは起きない、と私は思っています。


 

否定されて来た生い立ちのせいで自己評価の低くなった人間ほど虚栄心に走ることについては既に述べた。
そりゃあ中身に価値がないんだもの、せめて外側を派手に飾りたくもなるさ。
なんだか割られたガラス片(へん)に一所懸命、金メッキしているような光景が浮かんで来る。

でも本当はガラス片なんかじゃないんだよね。
『生命の讃嘆』を思い出してみよう。
生まれるときに授かった生命(いのち)そのものに絶対的な尊さがある。
何かを知ってるから
何かができるから
何かを持ってるから
価値があるんじゃなくって
生命(いのち)そのものに
存在していることそのものに絶対的な価値があるんだよ。

その真実に戻らなきゃ。
その体験の事実に戻らなきゃ。
それを感じなきゃ。

そうしたらね、気づくでしょ。
ダイヤモンドに金メッキは必要ないって。
それにダイヤモンドは割れてないよ。

だから
その感覚を取り戻すために
自己の生命(いのち)を
他者の生命(いのち)を
合掌礼拝して生きて行きましょ。

 

 

一昨日、昨日と、虚栄心について書いて来たが
考えてみれば、我々凡夫に虚栄心のない人間などいるのか、ということにもなる。
多分いないだろう。
だったらせめて、虚栄心でやっているのに虚栄心でないかのようなフリをするのだけはやめようよ、と私は申し上げたい。

どうせ虚栄心からみせびらかしてるのがバレてるんだから、それを認めなさい。

「すいません。虚栄心からフェラーリをわざわざ人目につくように乗って来ました。エクゾーストノイズもバリバリいわせてます。できましたら『すっげぇ!』『高そう!』などの賛辞を言っていただけるととても嬉しいです。」

「お忙しいところ大変申し訳ありませんが、虚栄心からケリーバッグを用もないのに持って来ました。さっきからちらちら振り回してます。それでもし宜しければ『かっこいい!』『セレブー!』なんて大きめの声で言っていただけると非常に幸せです。」

「お嬢さん、頼みますよ。虚栄心からわざわざアメリカまで行って撮って来た大谷翔平とのツーショット写真を人目につくように飾ってるんですから、是非とも写真に気がついて『大谷翔平と知り合いなんですか!?』(←だからどうだってんだ)『皆さーん、〇〇さんのところに大谷翔平とのツーショット写真があるんだって!』と周囲に言いふらして下さいよ。」

などと言えれば、大変正直であるし
少しは可愛げも出て来る。

中には奇特な人がいて
「しょーがねーなー。じゃあ、付き合ってやるよ。」
などと言ってもらえるかもしれない。

それに、そこまで正直にやっていると、不思議なことが起きて来る。 

「なんだかなぁ。」
「何やってんだろうなぁ。」
と心底、馬鹿らしくなって来るのである。

実は、虚栄心を正面から認めることは、虚栄心自体を骨抜きにすることにもつながることも知っておいていただきたいと思う。

 

 

本当に好きなことは、夜中の3時にひとり部屋の隅でニヤニヤしながらやっているようなことである、と常々私は言っている。

変な表現であるが、別な言い方をすれば、本当に好きなことは自己完結している、と言える。

昨日記した「虚栄心」に類することは「他人にどう見せるか」が重要であるから、必ず見てくれる他人=ギャラリーが必要となる。
無人島に一人で暮らしていて、私道を作りフェラーリを嬉々として乗り回しているのであれば、それは本当にフェラーリが好きなのかもしれない。
また、深山幽谷に一人で暮らしていて、ケリーバッグを持って田畑に出かけるのであれば、それは本当にケリーバッグが好きなのかもしれない。
さらに今風の例を挙げれば、大谷翔平と一緒に撮った写真を、誰にも見せずに!夜中の3時にひとり部屋の隅でニヤニヤしながら眺めているのであれば、それは本当に大谷翔平が好きなのかもしれない。

しかし、フェラーリやケリーバッグや大谷翔平の写真が虚栄心を示すための道具である場合は、やはりそれを見てくれるギャラリーがいなければ困る、甲斐がないということになる。
そして彼ら彼女らはみせびらかす、時に遠慮しながら。
しかし、あなた
を見つめるギャラリーたちの眼差しが、必ずしも羨望ではなく、時として、またあのバカがこれみよがしにフェラーリに乗ってるよ、ケリーバッグを持ってるよ、大谷翔平の写真をわざわざ見せてるよ、という軽蔑と嘲笑に満ちたものであることをまだ本人は知らない。
虚栄心という神経症的なこころの曇りが本人の眼を塞いでいるのである(ここに「特性」が加わるとさらに本人は気づきにくくなる)
そのときの心の底から得意になっている表情を見ると、私はとてもとても悲しい気持ちになる(否定されて来た生い立ちのせいで自己評価の低くなった人間ほど虚栄心に走ることについては既に述べた)
そして結局また、低い他者評価を喰らうのだ。

やっぱり本当に好きなことは、夜中の3時にひとり部屋の隅でニヤニヤしながらやるのが良い(フェラーリは無理か)。
少なくとも、本当に好きなことは自己完結してやるもんだ、という自覚を持っておいた方が、真の意味で、人生は楽しくなると思う。
 

 

「虚栄心の中核は『自分を他人にどう見せるか』というところにある。」(近藤章久『虚栄心』より)

「こういう例(自己評価の低い人間になってしまう例)は枚挙に遑(いとま)がない程たくさんあるが、それらを通じていえることは、その根本の原因は何(いず)れも自分の価値を考える場合に、幼い頃の他人(親)の自分に対する評価によるということである。」
「大体『他人からどう見られるか』と、他人の考え方を忖度(そんたく)し始めると、今度は自分が『他人にどう見えるか』を気にしはじめることになる。そして次には自分の方から進んで『自分をどう見せるか』ということを考え始めるのです。」
「即ち虚栄心の中核は『自分を他人にどう見せるか』というところにある。いいかえれば『自分がどうであるか』ということが問題ではなくて『どう見せるか』が ー つまり見せかけ、外見を重要だと考える態度が虚栄心であるということが出来る。」

 

自己評価の低い人間の現われようには三つのタイプある。
ひとつは、いかにも自信なさげで、影が薄く、他者評価にビクビクしているタイプ。
これは自己評価の低いことがわかりやすい。
もうひとつは、虚栄心の強いタイプ。
これは自己評価の低いことがわかりにくい。
学歴も、ブランド物も、容色も、車も、豪邸も、すべて「自分を他人にどう見せるか」のためにある。
一見強気に見えるが、実は自己評価が低いからこそ、これでもかと他者評価獲得に打って出ているのである。
面倒くさいのが三つ目。
一見、謙虚で控え目なのだが、ところどころで虚栄心が漏れ出て来るタイプ。
例えば、ある年配の女性は、いつもは決して前には出ないのだが、突如職場に娘の派手な服を着て来たりする。
その“痛さ”にまわりは引くが、本人は全く気づいていない。
またいつもは職場で行き届いた気配りをしているのに、ふと同僚の前で
「私は別に働かなくてもいいのよね。」
などと言ったりして、これまた引かれるが、本人はやはり気づいていない。
漏れ出て来る虚栄心。
これは一つ目と二つ目がミックスしたタイプと言える。
これが意外と多い。

よって、自己評価の低い人間のうち、二つ目と三つ目が虚栄心の強いタイプとなる。
一つ目の人間は自分を高く見せようとはしない。ただ低く見られたくないということにはこだわる。

細かい話はここまで。

そんな「他人からどう見られるか」「他人にどう見えるか」「自分をどう見せるか」よりも「自分がどうであるか」を磨いて行きましょうよ、ね。
 

 

 

昨日も触れた通り、「技術」「演技」「テクニック」を駆使するのが対人援助職だと思っているバカチンがいる。
あるドアホな女性精神科医は後輩に「臨床は女優だから。」と本気で言っていた。

そんな小細工は早晩、見透かされるに決まってるだろ。
クライアントをなめてはいけない。

それでは、対人援助職が「技術」や「演技」や「テクニック」を使うことが全くないのかというと、そんなことはない。
使うことはある。

例えば、私が大学病院にいた頃、小児科の病棟に白血病の子どもたちがたくさん入院していた。
そして病状が厳しくなると、個室=無菌室に行くということを子どもたちはみんな知っていた。
個室に移ったある子が看護師に尋ねた。
「僕、死ぬの?」

そんなとき、あなただったら
「そうだよ、君はもうすぐ死ぬんだよ。」
と言いますか?
そうは言いませんよね。
その子の「僕、死ぬの?」というのは決して質問ではなく、大丈夫と言ってほしいという願いだと気がつきますよね。
だから

「大丈夫だよ。きっと良くなるよ。」
と我々は言うんです。
でも、これはウソですよね。

あのね、愛のあるウソを「方便」というんです。

小手先の、自分がその場をちょろまかして切り抜けるための「技術」「演技」「テクニック」とは違うんです。
愛のないウソはただのウソであり、それは罪でさえ
あります。

たとえウソでもそこにこめられた愛が届くから、「僕、死ぬの?」と訊いた子どもの気持ちがちょっとだけ軽くなるんです。

緩和ケア病棟においても、もし患者さんから
「オレ、死ぬのが怖いんだよ。」
とか
「もう死にたくなっちゃった。」
などと言われた場合、スタッフは答えに窮してしまうことが多いといいます。
そんなときは

「〇〇さんはそう思うんですね。
と切り返す「テクニック」があるというのを聞いたことがあります。
心の底から
「バッカじゃないか。」
と思いました。
これまた、自分がその場をちょろまかして切り抜けるための「技術」「演技」「テクニック」の類(たぐい)なんです。
何故、誠実に衷心から答えないのか、患者さんのために。
患者さんが看護師に
「オレ、死ぬのが怖いんだよ。」や「もう死にたくなっちゃった。」というのは単なるコメントではなく、不安を少しでも軽くしてほしいという願いからですよね。
小細工はいいんです。
私ならこう答えます。
「そう言われてどう答えて良いのかわかりませんが、〇〇さんの気持ちが少しでも楽になることを心から願っています。」
と。

どうか間違っても、上記のセリフだけを真似しないで下さい。
愛のない模倣が相手に響くわけがないですから。

そしてもし心に愛があれば、どんなウソも、「技術」も「演技」も「テクニック」も、相手の生命(いのち)に響く「方便」となるのです。

で、それは一体誰の愛なんでしょうね。
私の愛? あなたの愛?
それについてはまたいつかお話しましょう。

 


 

新人として対人援助の現場に出たとき、当然ながら、何をどうして良いやらわからず、大変不安なものである。
それはわかる。
むしろ不安になるのが当たり前である。

そして先輩上司などに
こういうときはどう言ったら良いんですか?
こういうときはどうしたら良いんですか?
といったハウツーをつい訊きたくなる。

気持ちはわかるが、これが道を誤る第一歩。
そしてまた、そういうときに出逢った先輩・上司が碌でもないと、対人援助職としての一生が台無しになる危険性がある

私が講義をしていたとき、教室に行くと他の講師の作成した配布資料が教壇の上に残っていた。
『相談援助技術』という科目のその資料には
「腹の底からイヤなクランアントに笑顔で接することのできる技術を教えます」
と本当に書いてあったのを見て、軽い眩暈を覚えた。
そもそも『相談援助“技術”』という科目名が気に入らない。

また、某学会の精神療法を専門とする精神科医たちが編集した精神科面接の本を読んでみたところ、その「技術」「演技」「テクニック」の記述のオンパレードに軽い頭痛を感じた。

これらだけでなく、医療福祉保健機関などで、先輩・上司から新人がおかしな指導をされているところを見かけたときには、「おい、それ、違うんだけどな。」といたたまれない気持ちになって来る。

だから、言っておきます。

「面接」も「相談」も「精神療法」も「カウンセリング」も、「技術」「演技」「テクニック」ではありません。

そんなこともわからず、何年~何十年とやってるうちに、小手先でペラッペラの「技術」「演技」「テクニック」の引き出しをいっぱい抱えた対人援助職になっちゃったのね。
そしてそれをまた不安な後輩・後進たちに教えて、碌でもない対人援助職を再生産して行くことになる。

やめてくれ。

まず何よりも大切なのは基本的人間観。
そして治療観。
さらには世界観。

それがなければ対人援助ができるわけないでしょ。
もちろん人間観、治療観、世界観と言っても、それが単なる観念的遊戯じゃあしょうがない。
体験に基づいて血となり肉となり、それがその人の“生きる姿勢”として体得されたものでなければ意味がない。

それを教えることのできる先輩・上司の許(もと)でないと、碌な対人援助職は育たないよ。

「策士、策に溺れる」
ような対人援助職になるべからず。
目指すなら
「大巧は巧術なし」
その真意を極められる対人援助職を目指すべし。

 

 

 

本日で令和5年度の八雲勉強会が終了しました。
八雲総合研究所の現在地への移転と共にスタートした八雲勉強会も今回で54回を数え、新規発足後4年と9カ月となりました。
熱心で愉快な参加者に恵まれ、お蔭さまをもちまして、私にとっても毎回が楽しみな開催となっています。

つきましては、新年度=令和6年度(令和6年4月~令和7年3月まで)八雲勉強会の内容が決まりましたので、以下にお知らせ致します。

[1][3]はこれまでと変わりませんが、[2]の内容につきましては、新年度から大きな変更を行いましたので、ご関心のある方はどうぞご確認下さい。

新年度も八雲勉強会の時間が参加者にとって、お互いの人間的成長のための大切な時間となることを心から願っています。

 

[1]参加対象 現在、八雲総合研究所に面談に来られている方(対面面談だけでなく、Skype、Zoom、Facetime、電話などによるリモート面談を利用している方も含む)が対象となります。

[2]内容 令和6年度(第55回)以降は、(1)近藤先生の文献を使った精神療法に関するレクチャー(2)参加者による話題提供とディスカッションという(1)+(2)2本立ての構成で行って行きます。
(1)につきましては、松田が資料を用意し、参加者宛てに郵送した上で、当日、松田がレクチャーします。
(2)につきましては、参加者による話題提供の内容として、①今の自分自身について感じたこと、気づいたこと、成長課題について話していただくか、②『塀の上の猫』所載の「金言を拾う」の内容の中からひとつを選んでいただき、それを読んで、自分自身が感じたこと、気づいたことについて話していただきます。①か②のどちらかひとつです。いずれの場合も発表後、参加者全体で互いの成長のためにディスカッションして行きます。
尚、誰が話題提供するかについては、その前の回で5名を指名致します。現実には1回の開催で5名回ることは難しいと思いますので、時間内に進んだところまでとし、回らなかった方は次回に順延します。

[3]令和6年度の八雲勉強会は、原則として Zoom による開催とします(会場での対面開催が可能となりましたらお知らせ致します)。

以上

 

 

「溝をつけた上で水は流れて行くわけです。溝をつけなければ水は行かないんだ。その溝をつける仕事というものが、平生(へいぜい)からやってなくちゃいけない。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

日常の中で「子どもが言うことを聞いてくれない。」「生徒が言うことを聞いてくれない。」「患者が言うことを聞いてくれない。」 そんなことがよく起こります。

「いろんなこことを私はね、方々で訊かれるんです。『どうしたらうちの子どもをよくすることができるでしょうか?』、ね。『どうして導いたらいいでしょうか?』とおっしゃる。そういうお母さんに逢うけども、私は『急にはできません。』と言うんです。何故かというと、そんなね、急にやったらね、インチキだと思いますよ。信じません、子どもは。『なぁんだ、おかしいな。なんかどっかで聞いて来たんだろ。』なんてことを言います。
「平生からね、平生だから毎日ですよ、ね。とにかく毎日のことが大事だと言うんです。
「挨拶というのはね…互いにね、お互いのね、実は、ことを思いやっていることなの、ね。思いやるってのはどういうこと、相手の生命(いのち)っていうものをんね、いい? お互いにだ、相手の生命(いのち)に手を合わせてる状態なの。
「Mutual congratulation、お互いに祝福し合う、生命(いのち)を祝福し合う、そういうことが挨拶なんだ。

「そういうことをね、毎日やっていくうちにですよ、具体的に言いますと、そういう気持ちの中、気持ちが溢れた挨拶をして…そしてしかもそのときに、『おはよ。』とこう、ちょっとでいいから会釈する。そういうふうなアレがありますと、子どもは自然に…お母さんによって…自分の生命(いのち)が、ね、なんかわからないけれど、尊ばれ、尊重される、大事にされていることを知るでしょう。」
「今、つまらない例ですけどもね、やはり毎日毎日やるね、その礼拝行(らいはいぎょう)というといかにも卑屈に聞こえるようだけどもそうじゃない、こんな楽しいことはない。相手の生命(いのち)をね、祝福し、相手の生命(いのち)をね、本当に見つめながら、素晴らしく健やかにっていうぐらい良い気持ちのものはないんですよ。」
「そういうことをやっていますと、初めて言葉が役に立つときが来るのです。私が一年間そういうことをやったために…一年後に…初めて素直に聴いてくれたわけです。」
「水路、溝をつけなさい。
溝をつけた上で水は流れて行くわけです。溝をつけなければ水は行かないんだ。その溝をつける仕事というものが、平生(へいぜい)からやってなくちゃいけない

近藤先生は、八雲学園の校長として女子高生に関わっていたとき、そしてクライアントに関わっていたときに、毎日毎日、心の中で合掌礼拝(らいはい)されていたわけです。
その平生からの積み重ねがあったからこそ、生徒たちやクライアントたちが近藤先生の言うことに耳を傾けるようになるのです。
特に問題を起こす子どもたちやクライアントたちは、それまで自分の生命(いのち)を尊ばれ、尊重される体験に乏しかったわけですから、余計に敏感なんです。

私が近藤先生のところに通っていたとき、いつの頃からか面談の終わりにお互いに立ち上がって合掌礼拝するようになっていました。
私にとってそれが本当に有り難かった

つまり、私の生命(いのち)が喜んでいたわけです。

そして愚かにも、先生が亡くなられてから、私は気がつきました。
ああ、先生は私が初めて八雲に伺ったときから、私の生命(いのち)に向かってずっと合掌礼拝して下さっていたのだと。

溝をつける、平生から、毎日毎日。

 

 

たまには統計の話から。

2020(令和2)年に行われた患者調査によれば、受療中(通院中か入院中)の精神障害者数は614.8万人(通院586.1万人+入院28.8万人)に達し、特に通院患者数が急激に増えつつある(2017(平成29)年の通院389.1万人なので3年間でなんと約200万人!増えた(50%以上!増加した)ことになる)。

ちなみに、2020(令和2)年時点での日本の人口は約1億2,614万人であるから、およそ国民の20人に1人が受療中ということになる。
これは多い。

さらに、受療していない人も含めると、生涯に一度でも精神障害になったことがある人の数は1,900万人に達するという報告もあり、およそ国民6.7人に1人が生涯に一度は精神障害になるということになる。
これまた多い。

また、その診断内訳となると、少なくとも最近大都市圏で精神科クリニックを開業した幾人かの精神科医からの情報によると(こちらの方がタイムラグのある患者調査よりも“今”が感じられる)、いずれも「精神病圏」と言われて来た統合失調症や双極性(感情)障害(躁うつ病)などの患者さんが占める割合が減少し、初診の大半が適応障害や不安障害など「神経症圏」の患者さんが占め、まだ統計の実数には現れていないが「発達障害」が基底にある患者さんが相当数を占める印象がある、という話をよく聞くようになった。
これらは入院にも対処する精神科病院や地方の精神科医療の状況とは多少異なるかもしれないが、時代の方向性を如実に反映しているものと私は思っている。

言い方を変えれば、「薬」だけでは治らない患者さんが急速に増えて来ているのである(元々すべての精神障害が「薬」だけで治ると私は思っていないが)。
即ち、「神経症圏」の患者さんには「精神療法」が不可欠であり、「発達障害圏」の患者さんには「療育」や「心理教育」が重要である。

さらにさらに話を進めると、「診断」がつかない患者さん?も急速に増えつつある。
つまり、この人に必要なのは「治療」なのか、人間としての「教育」なのか迷うところで、
後者ならば、それは医療機関で医療関係者やることなのか、という問題である。

どんどん話が長くなりそうなので、私見を言っておこう。
私は「治療」か「教育」かを分けることなく、すべての人に「人間としての成長のための精神療法/人間教育」が必要だと思っている。
それが、事の善し悪しに拘らず、否応なしに求められる時代になって来たのである。
よって、医療関係者に求められるものも当然変わって来る。
「薬」だけ出していれば良いということにはならないし、
狭義の「治療」のためだけの「精神療法」「療育」「心理教育」をやっていれば良いということにもならない。
「専門的」な「知識」や「技術」だけでは足りないのだ(それだけなら受け売りである程度はできる)。
「人間の成長」に関わることのできる「人間」個人としての「力量」が要求される時代になって来ている、と私は思っている。
こう申し上げると、読者の方々の中には異論・反論もあると思うが、これが私の持論(確信)なのだからしょうがない。面々のおはからい、で結構である。
そしてこういった時代の方向性を片目で見ながらも、以前と変わらず私は、「人間としての成長のための精神療法/人間教育」の志を同じくする方々と出逢って行ければ、と願っている。

 

 

DREAMS COME TRUE の歌詞ではない。

大切なことは何度でも、聴くということ、言うということ。

本当に「わかる」ということは、そう簡単なことではない。
時に「それはもう以前に聞きました。」と言われる患者さんがいる。
「耳で聞いたことがある」というのと「体得しました」というのでは大違いだ。
「頭でわかった」というのと「腹の底からわかった」というのも大違いである。
「具体的な仕事の場、生活の場で咄嗟のときでも実践できるようになる」、そうなって初めて「わかった」と言えるのである。
そうなるまで何度でも何度でも何度でも繰り返し聴かなければならない。
そうして初めて本当に「わかる」ようになる。

視点を変えてみよう。
「先生、○○だとわかりました!」
と初めてのようにクライアントから言われることがある。
こちらは
「それはもう十回以上言って来たんだけどな。」
とつい思いそうになる。
しかし、もしそう思ったとしたら、こちら側の間違いである。
ただ「言った」だけでは何にもならない。
相手の心に沁みるまで、芯の芯に沁みるまで、咄嗟の行動変容が起こるまで
そうなるまで何度でも何度でも何度でも繰り返し言わなければならない。
そうして初めて本当に「わかる」ようになる。

目標は飽くまでも本当に「わかる」こと。
聴く回数、言う回数は、関係ないのである。

 

 

「仲間の匂い」については何度か申し上げて来た。
混乱が起きぬように、今回はその「仲間の匂い」に2種類あることを整理しておきたい。

ひとつは「仲間の匂い」の中でも「闇の仲間の匂い」というもの。
2024(令和6)年2月12日(月)『金言を拾う その3  弱さの仲間』
で書いたように、自分と同じような心の傷を抱え、痛みを抱え、弱さを抱えた相手に対して感じる「仲間の匂い」がある。
これは、ある意味、血の匂いであり、涙の匂いであり、孤独の匂いでもある。
自分の中から匂うものと同じ匂いを相手からも感じる。
言わば、こいつも地獄を経験して来たな、と感じる匂いである。
それ故に、親近感もあり、話もしやすいが、下手をすると、互いに
傷口をなめ合い、居場所のない者同士が集い、一緒にさらに暗い深みに落ちて行く闇の仲間になってしまう危険性がある。
これが「闇の仲間の匂い」。
(同じ「におい」と言っても「匂い」ではなく「臭い」と書いた方がいいかもしれない)

もうひとつが「仲間の匂い」の中でも「光の仲間の匂い」というもの。
2024(令和6)年2月7日(水)『金言を拾う その2  絶対孤独を超えて』
で書いたように、上記の「闇の仲間の匂い」もするのであるが、それだけに留まらない、
言わば、こいつ、その闇を超えて来たな、と感じる匂いである。
厳密に言うと、これはさらに2種類に分かれる。
闇を超えて光の世界に達した者同士がわかり合う匂いもあれば、
自分はまだ闇の中にいるが、相手はその闇を超えて光の世界にいるな、と感じる匂いもある。

在米中の近藤先生が初めて鈴木大拙に逢った瞬間、互いに感じたのが、闇を超えて光の世界に達した者同士の「光の仲間の匂い」であった。すぐさま大拙から「近藤くん、いろいろ手伝ってくれんかな。」という話になったのも当然であろう。
また、私が初めて近藤先生に逢った瞬間(講演を聴きに行き、壇上に立った先生の姿を観た(まだひと言も発してない)瞬間)に感じたのが、自分はまだ闇の世界にいるが、この人はその闇を超えて光の世界にいる、という感覚であった。
後に成長のための薫習を受けることになるクライアント-セラピスト関係の始まりとしては理想的だったかもしれない。

以上、「仲間の匂い 光と闇」即ち「闇の仲間の匂い」と「光の仲間の匂い」、読者の方々に誤解なく真意が伝われば幸いである。

 

 

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