八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

2019(令和元)年10月27日(日)『ホワイトナイト』

ホワイトナイト(white knight)とは金融経済用語のひとつで、敵対的買収を仕掛けられた会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併してくれる会社のことを指す。
まさに「白馬の騎士」が窮地から救ってくれる、というイメージから来ている。

ある精神科通院中の二十代の女性が本当は家を出て一人暮らしをしたいのだけれど、お父さんが恐くて言い出せないという。
担当の男性ワーカーに懇願して言う。
「代わりに父にかけあってくれませんか?」

夜間、PHSで呼び出すと怒りだすバカ当直医がいた。
怒鳴られて何も言えなかった看護師は、翌日、懇意の医師に言った。
「先生から言って下さいよ。」

仕事でクライアントとトラブルを頻発している課長のクレームを受けてばかりの部下がいた。
恐くて課長に言えない部下は係長に泣きついた。
「係長からなんとか言ってくれませんか。」

懇願する人たちの姿を想像すると、私の頭の中には“涙目のとっとこハム太郎”が浮かぶ。
「こんな無力で可哀想な私にどうしろって言うんですか。」
「代わりになんとかしてくれたっていいでしょう。」

そうはいかない。
子どもや制限行為能力者など、自分で自分のことを打開する力が制限されている場合や、
犯罪に関する場合、特殊な専門性を要する場合などは仕方がない。
頼って良いし、いや、むしろ、頼るべきでもある。
しかし大の大人が、自分で受けて立つべきことを“可哀想な私”を使って他者になんとかしてもらおうとするような阿漕(あこぎ)な悪依存にまんまとハマるわけにはいかない。

Once upon a time、敵軍に攻め入られそうになっている領主が、隣国に援軍を求めた。
隣国の将の答えはこうだった。
「貴国の兵があなたを含めて全滅するまでまず自力で戦う気なら兵を出しましょう。
 
そうでなければ、大事な兵士を一人も出すわけにはいきませぬ。」
当然である。
全滅するまで戦う気なら援軍は来るかもしれない。

まず、ホワイトナイトを当てにする前に、覚悟のウォリアー(warrier:戦士)はいませんか?
と私は問いたい。
そこにいるでしょ。

 

 

2019(令和元)年9月29日(日)『初秋の緑風苑ワークショップ』

昨日今日と福島県・磐梯熱海で初秋の緑風苑ワークショップを行って来た。
初めての9月開催で、天気も1日のうちにさまざまに変わったが、概ね暑いくらいの天候であった。

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そんな中、涙あり笑いあり再会ありアクシデントありの1泊2日。
そもそもワークショップは、自分が自分を取り戻そうとし
相手が相手になることを応援しようとする場である。
従って、参加者が参加者に与える影響には非常に大きいものがある。
誰かが真摯にそして果敢に自分自身に向き合おうとすれば、他の参加者に、グループ全体に大きなインパクトを与える。
その反面、もし誰かが神経症的言動をやめようとせず、無力感にとらわれるならば、その悪影響も甚大である(それでは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」の要件に反する)。
改めて各個人の人間力とグループの集団力によってワークショップが作られることを実感した時間であった。
それは到底私一人が操作的に作り出せるものではない。
今回も良き参加メンバーに恵まれたことに感謝したい。

そしてワークショップが終われば皆、日常に戻る。
日常こそが正念場だ。
ワークショップでの体験の感触を胸に、仕事でもプライベートでも自分して行こう。
いつでもどこでも誰の前でも、あなたはあなたなのである。

 

 

2019(令和元)年8月29日(木)『成り下がる前に』

ある臨床心理系の大学院生がやってきた。
彼女の話を信じる限り、彼女が教官から受けている臨床指導は耳を疑うような内容であった。
自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けて、研究のようなものをしても教授や教官にはなれるのである。
少なくとも私は、本当のサイコセラピーを行うに当たって、致命的な“人格”的問題がそこにあると思う。
人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。
世界の大学院教官の名誉にかけて、そうでない大学院もあるし、教官もいると私は信じている。

ある若手精神科医がやってきた。
彼の話を信じる限り、その大学の医局で行われている精神療法研究会の指導は目を覆うような内容であった。
自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けても、わかったようなことを言えるのである。
私は彼に尋ねた。
「あなた自身やあなたの大切な人が思い悩んだとき、その先輩から精神療法を受けたいと思う?」
もう一度言う。
人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。
世界の医局、精神療法専門医の名誉にかけて、そうでない医局、そうでない精神療法専門医がいると私は信じている。

ある精神保健福祉士がやってきた。
彼女の話を信じる限り、その就労支援施設の経営者や先輩たちの働く姿勢は、聞いていて眩暈がするほどひどいものであった。
安い給料、長い残業、名目上の就労率を上げるためのやりくり、利用者の利益よりも経営上の利益を上げるためのエセ福祉施設に成り下がっていた。
そういう話が多過ぎる。
「そんなことをするために苦労して精神保健福祉士の資格を取ったんだっけ?」
絶望してまた他の福祉施設に勤め、また絶望する。
そのうち、どこもこんなものかと思い始める。
世界の福祉施設やそこで働く精神保健福祉士の名誉にかけて、そうでない福祉施設があり、精神保健福祉士がいると私は信じている。

そしてこのような環境に出逢ったとき、各人の取る態度は二つに分かれる。
擦れて染まって魂売って、環境に支配される人間に成り下がるか、
擦れず染まらず魂売らず、どこまでもホンモノを追求する人間となるか。
八雲総合研究所は、後者に逞しきホンモノになってもらうための場所である。

 

 

2019(令和元)年8月16日(金)『直観鑑別』

外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。
食事が始まると、女性の方が大きな声で
「わ〜、これ、美味しい!」
「すっご〜い!」
「ははははは。」
などと何度も声を挙げている。
音量的に大きいは大きいのだが
大して気にならない。
何故ならば、発言に他意がないことがわかるからである。
本来特性である。
赤ちゃんが泣いているようなものだ。
(もしどうしても必要があれば、淡々とマナーを教えてあげれば良い)
気持良く食事をいただいて店を後にする。

そして別の日、別の外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。
食事が始まると、女性の方が大きな声で
「あ〜、これ、何、何、何!?」
「美味し〜い!」
「〇〇〇(本人の名前)はねぇ。」
などと何度も声を挙げている。
音量的にも先の女性と同じくらいの大きさなのだが
その発言がいちいち癇(かん)に障(さわ)る。
発言の裏に動くものがある。
相手の男性はもちろん、音量が届く限りの人間を巻き込もうとする闇の意図が観える(本人が自覚しているか否かは別として)。
これは二次(後から身につけた)特性だ。
これに気づいてもらうのは、ひと仕事である。
この日居合わせた客にも料理人にも惨事であった。

もう何年も対人援助職として働いているのに、この両者の違いがわからない、という人がいた。
感度が鈍い。
余計な塵埃を払って、感度を磨き上げる必要がある。

またある人は、この女性両方に対して腹が立つ、と言った。
埋め込まれた「〇〇のときは〇〇すべきではない」に支配されているために、両者の表面的言動に反応し、その出所(でどころ)の違いがわからないのである。
これまた鈍い。
まず埋め込まれたものを除去する必要がある。

こういうことは、受け売りの知識をつけても、小手先の技術を学んでも、身につくものではない。
場を共にしたマンツーマンの指導、感化、薫習(くんじゅう)が必要である。
そして直観の精度は、この程度ではなく、無限に磨くことができる。
私が専門職に個人的な指導を行っている所以(ゆえん)である。

 

 

2019(令和元)年8月5日(月)『夫婦の温度差』

「夫婦の温度差」と言っても、夫婦仲がどうのという話ではない。
この夏の熱帯夜に、冷房をどこまでかけるか・かけないかの話である。
テレビで取り上げていたのを横目で観ていただけなので、その詳しい内容は理解していないが、気になる箇所が一点だけあった。
夫が暑がりのため夜間冷房をガンガンにかけて、寒がりの妻は寝袋で寝ているという話である。
うーん。
妻が夫に合わせるんだ。
まさか、オレさまにおまえが合わせて当たり前、と思ってはいないよね。
せめて妻が愛する夫のために自ら望んでしていると信じたい。

そうなると、夫婦の温度差の話は、冷房の話ではなく、やっぱり夫婦仲の話になって来る。
愛する相手であれば、相手にしんどい思いをさせたくないと思うよね。
例えば、小さな子どもと寝るとすれば、自分と子どもとどちらに合わせるかは明白だ。
それが妻でも子どもでも、少なくとも私には、相手に合わせさせておいて平気で眠れる神経はない。

などと思っていたら、うちはとっくに夫婦別々の部屋で寝ています、という方がおられた。
合理的ではあるが、夫婦仲としてはちょっと寒い。
少しでも傍にいたかったあの頃は今どこに…。
なんだかきみまろのようになって来た。

ちなみに最近のエアコンは、同じ部屋でも場所により別々の温度設定できるそうだ。
それが現代の無難な解決法なのかもしれない。

 

 

2019(令和元)年7月9日(火)『正しい地口(じぐち)の使い方Ⅱ』

拙欄にも人気ページがある。
例えば、2013(平成25)年12月27日付『正しい地口の使い方』は、いまだに閲覧者数がトップ3内にある。
「そうは烏賊(いか)の〇玉…」の話であるが、読者の方々はこんな話題が好きなのかしらん、と不思議な気持ちになる。

などと思っていたら、たまたま聞いていた三遊亭圓生の落語の中に、面白い地口のセリフが出て来たのでご紹介する。
「下衆(げす)の考えと猫の金玉は後から出て来る」
また「〇玉」の話ですいません。
これはまた変わった地口だ、というわけで由来を調べてみた。
どうやら、子猫においては生まれたときの性別がわかりにくく、オスの場合は、生後カ月経ってから睾丸が下降して体外に出、いわゆる〇玉となってオスであることがわかるようになるのだという。
猫の金玉は後から出て来る、というのは獣医学的事実であったのだ。
そして下衆の考えの方は、下衆=お馬鹿さんなわけであるから、すぐに考えが思い浮かばず、後になってから間の抜けた考えが出て来ても役に立たない、ということであろう。

こんなことを書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを何度も書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、
ここまで読んで来て今ごろになってそう言うのが遅いんだよ!
だから、下衆の考えと猫の金玉は後から出て来るってんだ! 二度と読むなっ!
…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

 

 

2019(令和元)年6月9日(日)『八雲勉強会』

今日は新しく発足した八雲勉強会の第1回目。

4月までの二つの勉強会を統合し、新たな参加者を得、会場いっぱいのメンバーの顔を見たとき、ようやくここまで来た、と私的に感慨深いものがあった。

参加者は皆、面談で話をして来た人たちであるが、この集団にはかつてない「集団力」の兆しを感じたのである。

私が主宰して来た勉強会の歴史は結構長い。

形を変え、テーマを変え、名前を変え、二十五年以上になろう。

当初は私も若く、自分の問題に無自覚な参加者も多かった。

若いからそれもこれも引きずりながら突っ走れたが、まだ集団が成熟していなかった。

「集団力」とは、集団の参加者一人ひとりが成長することによって(私が介入しなくても)新たな参加者に対して、そして参加者相互に、感化力を持つようになることをいう。

集団が集団を育てて行けるようになるのである。

そうなれば理想的だ。

今はまだ「兆し」だけれど、ここに来てようやく「集団力」の芽生えを感じ、長くやっていると良いこともあるんだなぁ、という思いを強くした。

もちろんその力はあなたの力ではない。

あなたを通して働く力だ。

そこのところはしっかり押さえておこう。

それも踏まえて、さて、面白くなるのはこれからだ。

来月からも近藤先生の講演に刺激され、共に成長して行きましょう。

2019(令和元)年5月5日(日)『その人を観よ』

前評判というものがある。

噂話というものがある。

あの患者は面倒くさい。

あの親の方が重病だ。

などなど臨床場面でも、受診前に関係者からそんな情報が入って来ることがある。

しかし、経験的に言うならば、余り当たったことがない。

火のないところに煙は立たず、というが

現実には、尾ひれが付くどころか、羽根まで生えて飛んでいくようなガセネタも多い。

よって私は信じない。

むしろ自分の眼でその人を観、その人を感じるまでは、鵜呑みにしない。

情報過多の現代だからこそ、決して騙されてはならないと思う。

自分が近藤先生に出逢うまでも、近藤先生についていろんなことを言う人がいた。

しかし私はそう言っている人たち自身の人格を信じられなかったので

他者情報を排除し、自分で文献を読み、直接に近藤先生に逢って自分の感覚で師と決めた。

自分で決めたことなら自分で責任が取れる。

間違いはなかった。

そして自分の観る眼に自信をつけた。

騙されるな。

あなたもまたあなたの眼でその人を観よ。

2019(令和元)年5月4日(土)『Xさんへ』

「他者評価の奴隷」ということは度々申し上げて来た。
我が国においても、時代が令和になっても、他者評価を気にする方々がまだまだ多いように感ずる。
いつも先聖たちのことを思う。
イエス・キリストがどうであったか。
釈尊がどうであったか。
孔子がどうであったか。
彼らでさえ、酷い他者評価どころか、生死に関わる迫害まで受けて来た。
人格が高邁であれば、言動に気をつけていれば、誰からも評価されるというのは、残念ながら幻想である。
だとすれば、三聖に遠く及ばない我々が、悪意の攻撃や、病的非難に晒されることなどは当たり前なのである。
娑婆には、常に悪意の人、病的攻撃性の人間が存在する。
それは私の臨床経験からも断言できる。
それはカスタマーレビューや書き込みやクレームや苦情SNSなどを見れば、あなたにもおわかりでしょう。
だから振り回されることなかれ。

基本は、自分の評価は自分で決めることだ。
自分自身が一番厳しい自分の評価者であれば良い、本質的な意味で。

そしてもし他者の評価を採用するのであれば
その評価者を選ぶべし。
信頼する人以外は、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、即ゴミ箱行きであるし、
反対に、信頼する人であれば、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、真摯に検討するべきである。

そしてその結果がどうであっても、人生単位でその責任を取れば良い。
あなたの人生の主人公があなたであることを忘れてはならない。
他者評価の奴隷、排すべし。

 

 

2019(令和元)年5月1日(水)『令和元年』

令和である。

だからなんだってんだ、と言われると、何とも言いようがない。
それでも少なくとも、改元、新年、誕生日、何周年、アニバーサリーデイなどというものは、心機一転のきっかけになる。

当研究所も、令和元年5月1日、本日をもって組織の大きな変更を行った。
昨秋ホームページ上で告知して以来、8カ月の移行期間を置いたので、今のところ、大きな混乱もなく経過している。
もし8カ月間も当ホームページをご覧になっていなかったというのであれば、それはもう縁が切れたということであり、
稀に、新たに決めた「対象」でないのに、自分だけは例外であろうと一人決めして、久しぶりに面談を申し込んで来られる方がいらっしゃる。
残念ながらお断りすることになる。

これから当研究所が何をするか、旗幟は鮮明に示した。
極めてシンプルに、本気で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、月1回以上通って来られる方たちとだけ面談して行くつもりである。
より明確に与えられた天命を果たす日々としたい。

 

 

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
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