近藤先生の著書の中に、以下のような一節を見つけた。
「どんな集まりでも、みんなが同じような型にはまったことをいっているのでは、話にならないと思うのです。人間はちょうど、それぞれの花が、バラはバラ、百合は百合、桜は桜と、おのおのがまったく違う美しさをもっているように、人間も、それぞれのほんとうの意味における個性があるはずです。自分自身の独自性があるはずです。その独自性というものを発揮してこそ、はじめて自分ということがはっきり表現されうると思います。
それぞれの人たちが、それぞれ自分でなければできない表現をするということが、正直な自然な表現であると思います。ほんとうに正直な、自然な、その人でなければいえないような表現、それが、おのずからあらわれてくるのです。人にあわせたり、なにか権威の前に屈従したりすることではない、みんなそれぞれが、ひとりひとりが、自分自身のほんとうに感じたもの、切実に感じたものを自由に話すことが大切です。
…
そこで、そういうものをお互いに自由に話し合う場が必要であろうと思うのです。そこでは、みんなが思っていることを吐露しあい、お互いの気持ちをほんとうにいいあう、そのときに自分のもっている弱さも、きたなさも、ありのまま出せる。そうすると、なにかせいせいしてさっぱりとした気持ちになることができます。
そこには自分のいうことに耳をそばだてて、ほんとうに注意して聞いてくれる友のあることの発見とよろこびがあります。なんら利害関係において結ばれたのではない、一銭の利益があるわけでもないが、そこでほんとうに自分の気持ちをきいてくれる人を見いだしたよろこびを心から感じるのです。
また一方では、こうやって聞いてみると自分だけが苦しんでいる自分だけの世界だと思ったけれども、自分の苦しみと同じ苦しみに、やっぱりこの人も苦しんでいたのか、自分だけでなくあなたもそうだったのかという発見、そこに問くもの話すものの、お互いの間に交流する心の流れというものがあるのです。
これは味わってみると不思議なものです。普通の場合は、われわれが友達になり縁があるのは、たいてい利害関係によってです。しかしそこでは利害関係でなしに、そういうことが感じられるという不思議があります。そうしたことをわれわれは体験することによって、もっと深いものを知らされ、導かれていくわけであります。」
この「自分の持っている弱さも、きたなさも、ありのままに出せる」ということについて付言するならば、
それは、そこで相手に攻撃性や悪依存を“垂れ流し”て“巻き込んで”良いということではない。
それではただ“神経症に飲み込まれ、操られている”だけのことである。
そうではなくて、「自分にはこういう弱いところがある/汚いところがある」ということをそのまま正直に認めて吐露でき、
「そういう情けない自分を乗り越えて行きたい」と心から願うところに、私の言う
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」がある。
そこには“神経症”を打ち破ろうとする“真の自己”の働きがある。
だから我々は、そうやって「『自分にはこういう弱いところがある/汚いところがある』ということをそのままに正直に吐露」するあなたの姿勢を立派だと思い、
「『そういう情けない自分を乗り越えて行きたい』と心から願う」姿勢を美しいと思うのである。
そしてそういうあなたを参加者たちが衷心より支持する。
それが私の目指す勉強会&ワークショップだ。
小さくとも集団から誠実に支持されることは、あなたにとって力になる。
それが集団本来の健康な力だと私は思っている。