所感日誌『塀の上の猫』

2019(令和元)年6月9日(日)『八雲勉強会』

今日は新しく発足した八雲勉強会の第1回目。

4月までの二つの勉強会を統合し、新たな参加者を得、会場いっぱいのメンバーの顔を見たとき、ようやくここまで来た、と私的に感慨深いものがあった。

参加者は皆、面談で話をして来た人たちであるが、この集団にはかつてない「集団力」の兆しを感じたのである。

私が主宰して来た勉強会の歴史は結構長い。

形を変え、テーマを変え、名前を変え、二十五年以上になろう。

当初は私も若く、自分の問題に無自覚な参加者も多かった。

若いからそれもこれも引きずりながら突っ走れたが、まだ集団が成熟していなかった。

「集団力」とは、集団の参加者一人ひとりが成長することによって(私が介入しなくても)新たな参加者に対して、そして参加者相互に、感化力を持つようになることをいう。

集団が集団を育てて行けるようになるのである。

そうなれば理想的だ。

今はまだ「兆し」だけれど、ここに来てようやく「集団力」の芽生えを感じ、長くやっていると良いこともあるんだなぁ、という思いを強くした。

もちろんその力はあなたの力ではない。

あなたを通して働く力だ。

そこのところはしっかり押さえておこう。

それも踏まえて、さて、面白くなるのはこれからだ。

来月からも近藤先生の講演に刺激され、共に成長して行きましょう。

 

 

2019(令和元)年5月27日(月)『改めて『塀の上の猫』について』

『塀の上の猫』の読者について改めて確認する。

(1)原則として『塀の上の猫』の第一の想定読者は、まだ出逢ったことのない“私が出逢うべき人たち”である。

そういう方々を思い浮かべながら『塀の上の猫』を書いている。

(2)二番目に、現在、面談に来られている方、勉強会やワークショップに参加された方を想定して『塀の上の猫』を書くこともある。

しかし、面談に来ている方について暗喩的に何かメッセージを書くことは絶対にない。

毎月1回以上面談でお逢いしているわけであるから、必ず面談で直接に申し上げる。

稀に「あれは暗に私のことを書いておられましたね。」と言われることがあるが、それを自意識過剰、関係念慮というのである。

勘繰る気持ちが強いようでは成長できない。

(3)現在、他所で精神科医や臨床心理士からサイコセラピー/カウンセリングを受けている方の閲覧はご遠慮願っている。

ダブル・セラピストで良いことは何もない。

目の前のサイコセラピー/カウンセリングに専念することを強くお勧めする。

一度に二つの道は登れない。

そして二股は潔くない。

潔くないのは嫌いである。

(4)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。

自分として完成度に納得しない場合は、何度も同じテーマで書き直すこともある。

これは自分自身のためである。

以上

 

 

2019(令和元)年5月21日(火)『私の出番』

精神科領域の世界的な診断基準として、例えばWHOによるICD-10がある。

改訂間近であるが、その診断基準の中に「社会的、職業的あるいは家庭的活動」に「困難」を感じることなどという記載がある。

早い話が、私生活や職業生活において支障があるかないかということが“治療”を要する“病気”と診断する上で重要なポイントとなっているのである。

これは合理的ではある。

しかし“私の”診断基準はこれと合致しない。

たとえ私生活と職業生活を“表面的に”適応的に生きていたとしても、それがニセモノの自分(後から身につけた神経症的な自分)を生きているのであれば、大いに問題がある、と私は感じているからである。

それ故、昔は本来の自分を生きていない人間は全て“病気”だと言っていたが、今はより厳密に二つに分けている。

即ち、本来の自分を生きていなくても(=ニセモノの自分を生きていても)、そこに切実な「情けなさの自覚」を持ち、それを乗り越えないではいられないという「成長への意欲」を持っている人は、そう思える限り、“健全”であり“成長”のための精神療法の対象になる。

しかし、本来の自分を生きていない(=ニセモノの自分を生きている)にもかかわらず、「情けなさの自覚」が切実でない人、「成長への意欲」が薄い人がいる。

それでは当研究所の“成長”のための精神療法の対象にはならない。

例えば、自分の怒りの垂れ流しや八つ当たりに関してなかなか気がつかない人、腹の底から認めない人、一応気がついてはいるが必死に取り組もうとしない人がいる。

これでは、私生活と職業生活を“表面的に”は送れているので、もちろん医療機関における治療対象にはならないし、当研究所における成長のための精神療法の対象にもならない。

もし可能性があるとすれば、精神療法専門医がやっている自由診療のクリニックの中に対象として受けて下さるところがあるかもしれない。

そういうところは本当に役割分担だと思っている。

私は自分の担当する、細い、狭い範囲で大いに結構である。

(と言いながら、私のセラピーの対象は実は潜在的に多いと思っているのだが)

令和以降、小さな面談室で、クライアントと共に可能な限り本物のセラピーをやらせていただきたいと願っている。

 

2019(令和元)年5月19日(日)『新緑の緑風苑ワークショップ in 磐梯熱海』

5月18日(土)19日(日)と福島県・磐梯熱海にて『新緑の緑風苑ワークショップ』を開催した。

天気にも恵まれ、気温は暑いほどで、冠名に相応しく、何よりも新緑が圧倒的であった。

ワークでは、前々回のワークショップではミュージカル映画、前回はムード歌謡と来て、今回は落語を素材として取り入れた。

私にとっても毎回がチャレンジである。

楽しみながら、体験を深めていただけたのであれば幸いである。

そもそも参加者は、ワークショップに参加するくらいだから問題を抱えているに決まっている。

しかし問題があるのは、あなたに後から付いた(身に付けざるを得なかった)神経症的な部分であって、本来のあなたには何の問題もない。

私が指摘するのも、あなたに後から付いた塵埃の部分なのである。

そこを自分本体が否定されたかのように誤解・曲解されませんように。

そこさえ押さえてしまえば、自分にはこんな問題あるよね、と正面から見つめ認めることが非常にやりやすくなり、それは成長への大きな武器となる。

今回も参加者によって作られたワークショップとなった。

各人が今なりの自分なりの精一杯で誠実に参加されたことに感謝したい。

そして最後にいつも思う。

面白くなるのはまだまだこれからだ。

また緑風苑で逢いましょう。

 

 

 

◆追伸

次回の緑風苑ワークショップは、当初11月の開催予定であったが、諸般の事情により9月28日(土)29日(日)開催となった。

秋の開催が9月となるのは初めてである。

参加希望の方は、今から予定を空けておかれますように。

2019(令和元)年5月15日(水)『丹田呼吸の本意』

昔、丹田呼吸をやっていた頃は、段々に肚が据わり、自分が強くなって来たような気がしていた。

しかし、それは“我”が強くなっていたのであり、てめぇ、斬るぞ、という態度で人相も目付きも悪くなっていたように思う。

新宿を歩いていたとき、向こうから来る人たちが次々と道を開けてくれたのを今でも覚えている。

あのときもしチンピラと行き逢っていたらどうなっていたかと思うとゾッとする。

いつ死んでも良いと思っていたし、邪悪なものは叩っ斬ってやろうと思っていた。

そう思って毎日木刀を振っていた。

幕末の龍馬でなく新撰組の心持ちに近かったろうと思う。

これもまたのび太がジャイアンになって行く典型であった。

入って来た“気”を自分のものだと思って過信する。

自我は肥大し、慢心し、自分が強くなったと思い込む。

そうではない。

自分はどこまでいっても凡夫、無力・無能・非力なままなのだ。

そう思い上がることができること自体が愚かな証しである。

その力が本来、他力であること、借りものであることを忘れてはならない。

凡夫が運良く龍にまたがらせてもらっているだけのことであり、自分が龍であると勘違いしてはならないのだ。

自力で思い上がって強くなった気になるか

他力に助けられて勁くなっていることを自覚するか

それが決定的な分かれ目となる。

以前、小心者でビビリの青年が二人いた。

二人とも丹田呼吸で自分が強くなったと過信した。

私がその過信を指摘したところ

Aくんは再びビビって来なくなってしまい

Bくんは素直に内省し、本当の意味で勁くなって行った。

ここでもまた「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が試されるのである。

丹田呼吸の本意、掴むべし。

 

 

 

◆追伸

我らが北勝旺、令和最初の夏場所は1勝1敗、奮闘中です。

2019(令和元)年5月13日(月)『勁いのび太』

かの聖徳太子が『十七条憲法』の中で

「共(とも)に是(こ)れ凡夫(ただひと)あらくのみ」

と言われている。

要は、人間全員が凡夫(ぼんぷ)だ、ポンコツだけだ、と千四百年前に言われているのである。

前回の拙欄を読まれて

「本当に自分は凡夫だなぁ。」

と(ポーズでなく)心の底から思われた方は幸いである。

それを私は「情けなさの自覚」という。

そういう方々には大いに成長の可能性がある。

しかし

「そういう人いるよね。」

「自分は違う。」

と思われた方もいる。

中には“反応”した方もいるかもしれない。

そういう方々は今後、拙欄を読まれない方が良いだろう。

「情けなさの自覚」のないところに成長はなく、私との縁もない。

そしてその成長であるが、我々は元々が凡夫なのであるから、自分の意図的努力=自力で成長できるなどと思わない方が良い。

凡夫にできることなどたかがしれている。

頑張ってなまじっか少しでもできたりすると、すぐに増長する。

我は肥大しやすいのだ。

欧米の精神療法が自我の強化を目指して来たことに私は強い違和感を覚える。

のび太をジャイアンにしてどうする。

のび太はのび太のままで勁くなれる。

正確に言えば、のび太はどこまでいっても弱いのだけれど、弱いままで勁くさせていただける道があるのである。

それが他力。

その道はいくつもあるが

例えば、丹田呼吸。

最近になってアメリカで境界性パーソナリティ障害や心的外傷後ストレス障害の治療法の中に呼吸法が取り入れられ、日本に逆輸入されている。

日本人が言い出せば胡散臭がられるかもしれないものが、舶来になると重宝がられるというのも情けない話である。

しかし残念ながら、厳密には、深呼吸や腹式呼吸と丹田呼吸の違いがわかっておられない。

肚が据わらなければ意味がない。

呼吸によって肚を据わらさせていただけるのが丹田呼吸。

出る息で我が吐き出され

入る息で大きな力をいただく。

それは自分の力ではない。

しかし勁くなる。

勁いのび太になる。

Yes, I can なんて有り得ない。

凡夫は全員 No,we can't である。

そして有り難いことに Yes, he can なのだ。

He が I して世界は踊る。

今回はこれくらいで。

 

 

2019(令和元)年5月7日(火)『凡夫悲歎述懐』

“私”は本来

無力である

無能である

非力である

ヘタレである

ビビリである

見栄っ張りである

虎の威を借る狐である

卑怯である

しかしそれを認めない

ほんのわずかに認めたとしても

自分がこうなったのは他人のせいである

子どもがこうなったのも他人のせいである

独善他罰である

責任をなすりつけるのは大得意である

自分は被害者である

自分は悪くない

自分は正しい

それどころか

自分も未熟ですから、と謙虚なフリすらして見せる

偽善的である

狡猾である

虚栄心の塊である

ポーズはあっても本質的には何の反省もない

 

さぁ、みんなで唱えましょう

これが“私”の実相です。

 

でもね

全部バレてる

漏れてる

丸見えである

気づいてないのは自分だけ

愛想笑いのその裏で

世人から軽蔑と嘲笑に包まれていることさえ

気がつかない鈍感さ 

そして馬鹿は今日も踊る

 

それが“我々”凡夫の実相です

 

 

2019(令和元)年5月5日(日)『その人を観よ』

前評判というものがある。

噂話というものがある。

あの患者は面倒くさい。

あの親の方が重病だ。

などなど臨床場面でも、受診前に関係者からそんな情報が入って来ることがある。

しかし、経験的に言うならば、余り当たったことがない。

火のないところに煙は立たず、というが

現実には、尾ひれが付くどころか、羽根まで生えて飛んでいくようなガセネタも多い。

よって私は信じない。

むしろ自分の眼でその人を観、その人を感じるまでは、鵜呑みにしない。

情報過多の現代だからこそ、決して騙されてはならないと思う。

自分が近藤先生に出逢うまでも、近藤先生についていろんなことを言う人がいた。

しかし私はそう言っている人たち自身の人格を信じられなかったので

他者情報を排除し、自分で文献を読み、直接に近藤先生に逢って自分の感覚で師と決めた。

自分で決めたことなら自分で責任が取れる。

間違いはなかった。

そして自分の観る眼に自信をつけた。

騙されるな。

あなたもまたあなたの眼でその人を観よ。

 

 

2019(令和元)年5月4日(土)『Aさんへ』

「他者評価の奴隷」ということは度々申し上げて来た。

我が国においても、時代が令和になっても、他者評価を気にする方々がまだまだ多いように感ずる。

いつも先聖たちのことを思う。

イエス・キリストがどうであったか。

釈尊がどうであったか。

孔子がどうであったか。

彼らでさえ、酷い他者評価どころか、生死に関わる迫害まで受けて来た。

人格が高邁であれば、言動に気をつけていれば、誰からも評価されるというのは、残念ながら幻想である。

だとすれば、三聖に遠く及ばない我々が、悪意の攻撃や、病的非難に晒されることなどは当たり前なのである。

娑婆には、常に悪意の人、病的攻撃性の人間が存在する。

それは私の臨床経験からも断言できる。

それはカスタマーレビューや書き込みやクレームや苦情SNSなどを見れば、あなたにもおわかりでしょう。

だから振り回されることなかれ。

基本は、自分の評価は自分で決めることだ。

自分自身が一番厳しい自分の評価者であれば良い、本質的な意味で。

そしてもし他者の評価を採用するのであれば

その評価者を選ぶべし。

信頼する人以外は、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、即ゴミ箱行きであるし

反対に、信頼する人であれば、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、真摯に検討するべきである。

そしてその結果がどうであっても、人生単位でその責任を取れば良い。

あなたの人生の主人公があなたであることを忘れてはならない。

他者評価の奴隷、排すべし。

 

 

2019(令和元)年5月1日(水)『令和元年』

令和である。

だからなんだってんだ、と言われると、何とも言いようがない。

それでも少なくとも、改元、新年、誕生日、何周年、アニバーサリーデイなどというものは、心機一転のきっかけになる。

当研究所も、令和元年5月1日、本日をもって組織の大きな変更を行った。

昨秋ホームページ上で告知して以来、8カ月の移行期間を置いたので、今のところ、大きな混乱もなく経過している。

もし8カ月間も当ホームページをご覧になっていなかったというのであれば、それはもう縁が切れたということであり、

稀に、新たに決めた「対象」でないのに、自分だけは例外であろうと一人決めして、久しぶりに面談を申し込んで来られる方がいらっしゃる。

残念ながらお断りすることになる。

これから当研究所が何をするか、旗色は鮮明に示した。

極めてシンプルに、本気で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、月1回以上通って来られる方たちとだけ面談して行くつもりである。

より明確に与えられた天命を果たす日々としたい。

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