所感日誌『塀の上の猫』

2020(令和2)年10月22日(木)『向き合うこと』

辛いときがある。

しんどいときがある。

そういうとき、できる限り、逃げず、誤魔化さず

自分の内的問題の核心と向き合って勝負することをお勧めしている。

そうすれば、楽ではないけれど

辛いこと、しんどいことが

確実に人間的成長の糧となって行く。

そうしないで

一杯やって誤魔化す

ゲームに溺れて逃げる

色恋沙汰に依存する

など、飲む・打つ・買うなど、面白おかしく過ごすことは、人間の伝統的なちょろまかし法である。

そうやって先延ばしにしたところで

未解決の問題は必ずあなたに降り掛かって来る。

逃げられはしない。

唯一の例外は

その人のキャパシティを超えて

治療を要するまで辛くなったときである。

そのときは無理して向き合わなくても良い。

その辛さを軽減するために向精神薬も開発されている。

きちんと用法・用量を守れば、アルコールよりも遥かに安全で有効である。

心を楽にする薬が開発されているというのは、実に有り難いことである。

そして薬を使うときも

言わば、薬の作用のお蔭で、向き合うべき問題のハードルを下げることができれば

可能なところから問題と向き合って行けるかもしれない。

そうすれば、やがて薬の用量を減らせられるかもしれないし

ひょっとしたら、薬が要らなくなるかもしれない。

(ここらは疾患の種類によるので主治医とよく相談されたし)

結局のところ、治療の要否によらず、自分を見つめ、自分を知り、

自分の未解決の問題と向き合って行くことは、あなたの人生を真に豊かなものにして行くに違いない。

 

ある青年が述懐した。

辛くなったら、いつも一杯やって誤魔化してました。

そうしたら辛くないから、内省も丹田呼吸もろくにやりませんでした。

そのことに気づいて、飲むのをやめたら

てきめんに辛くなったので

今の方が自分の問題と向き合い、一所懸命に呼吸も練っています。

中途半端に楽になるのも考えものですね。

 

You're right.

そしてそういうあなただから、私は万難を排して応援して行くのです。

 

 

2020(令和2)年10月20日(火)『地上の華』

こんにちは。

花組の柚香光(ゆずかれい)です。

 

…というわけで、また行ってきましたよ、奥さん。

宝塚ですよ、旦那さん。

花組公演ですよ、お姉さん。

あの『はいからさんが通る』ですよ、お兄さん。

今回もヘビーファンの方からチケットを分けていただきました。

コロナ下でも劇場内は劇団側もファン側も、なんとしても「観せたい」「観たい」が相俟っての感染防止体制が徹底している印象でした。

そして公演そのものは、原作マンガ、アニメ、実写版を踏まえた、歌と踊りとお芝居のクォリティの高さはもちろん、やっぱり生舞台の演じ手の熱意、これには今回も感動しました。

感動の根幹は、前回も今回も同じ。

さらに、いつもセラピー場面では、人間の「感情」を超えた世界に焦点を当てがちだけれど

この日の純然たるラブストーリーに、我々の「感情」「凡情」の豊かさを再認識した一日でした。

「恋しい」「愛しい」「憎らしい」「妬ましい」「寂しい」「嬉しい」「哀しい」「腹立たしい」などもまた、地上に肉を持つ我々凡夫の華。

豊かなもんだね。

マドモアゼールやマッダームたちが宝塚の世界に酔うのもわかるってもんだ。

 

「僕が選んだあなただから、あなたの受けた運命は、僕も一緒に生きて行くんです。」

 

あなたが大切な人に本気でそう言えれば、あなたもまたあなたの人生でトップスターになれるかもしれない。

そしてまた今回もしばらくは、『はいからさんが通る』を歌って踊っているであろう私でした。

 

 

2020(令和2)年10月19日(月)『もう一歩と二歩』

ある旦那さんが時々育児をしてくれるという。

それはそれでただそれだけのことであるが、育児をした日には必ず

「今日自分は○○をした。」

と何度も奥さんに言ってくるそうなのである。

奥さんにしては、それが面倒くさくてしょうがない。

奥さんが「ありがとう。」「助かるわ。」と感謝や賛辞を述べるまで何度も連呼して来るのである。

これが問題の第一段階。

それならばまず旦那さんは

「自分はこれだけ頑張って育児をしたのだから褒めてほしい。褒めてくれませんか?」

と正直にお願いするべきである。

そう言わないで、別の表現で感謝や賛辞を言わせようとするのは卑怯な操作である。

(ちなみに、褒めるか褒めないかは奥さんの自由なので、ここはあくまで「〜くれませんか?」という疑問文での「お願い」の表現となる。「ほめてくれ。」「ほめろ。」という「命令」はあり得ない。)

まずこういう本音の表現ができるようになること、それが第一段階。

しかし、これがゴールではない。

次の第二段階がある。

それは、いかに本音で「お願い」したところで、そもそも他者に評価されるためにやる、という奴隷根性が問題なのである。

そこに小児的承認欲求がある。

それでは大人ではない、未熟な小児である。

真に成熟した大人ならば、妻と子への愛に基づいて一方的に育児をやる、たとえそれが気づかれず認められなくても。

それが本来の姿。

その「一方的さ」「見返りの求めなさ」が愛の本質であり、だからこそ尊いのである。

(時々、僕は育児を“手伝って”ます、と言って墓穴を掘るお父さんがいる。あなたの子どもなんだから「手伝う」ことはあり得ない。あなたも最初から育児のメインキャストである)

付け加えておくならば、本当は気がついて認めてほしいのに、無償の愛のフリをするのはもっと悪質な「偽善」である。

二十歳を超えた大人ならば「偽善」でない「愛」を実践したいものだ。

…であるが、そうは申し上げて来たが、一足飛びに第二段階の境地に至るのはなかなか難しいのも事実である。

せめてまず第一段階から実践して行きましょ。

成長の道は一歩ずつ、着実に。

 

 

2020(令和2)年10月11日(日)『第13回 八雲勉強会』

今日は「第13回 八雲勉強会 by Zoom」を開催。

近藤先生の『こだわりについてU』の講演追加部分と質疑応答を聴く。

お腹いっぱい、胸いっぱいに感じるところがあったが、

その一端だけ、ここに引用すると

例えば、女の方で、女の方に言うんだけども、女の方が目についちゃうんで、つい言うんだけども、女の方で、例えば、とっても泣きたくなる、悲しくてね。そういうときは、僕はね、オンオン泣いてほしいと思うの、一人でいいから。オンオンオンオンね、涙が尽きるまで、涙が涸(か)れるまでね、泣いてほしいの。そういう泣くということが耐えることなの、そのときには、ね。何もそこで、やれ、どうだこうだとしないでね、ただ悲しいときはひたすらに悲しくね、ただオンオンオンオン泣いてほしいと思うんですよ、ね。男でもそうです。男でも格好(かっこう)つけないで、ね。泣きたいときには、オンオン大声出して泣いたらどうかと思う。そうやって初めて耐えることができる。人間にはそういう、だから、そういう道があると僕は言うんです、ね。いかにも格好から言えば、意気地(いくじ)がない、なんだかって言うかも知らんけれど、人間のね、正直な気持ちをね、出して、そこにね、そのままいることがね、耐えることなんだ。だから、それで、その、正直に、そのままに認めて行くという、このね、自分に対する柔軟な、従順な、正直な態度、こういうものが必要だと思うんです、ね。

 特に、あの、怒りを感じたり、いろんな侮辱を持ったりするようなときにでも、そういうときに、悔しいと思ったり、苦しいと思ったときに、そんとき、そのまま、悔しさをそのままに、悔しいなぁ、と思って、本当に、人に知られない涙を流すということも男だってあると思う。それでいい。そうやって耐えて行く。そして自分というものを、そのために、曲げないことだ。自分というものの成長が一番にやってくる。こういうことを私はちょっと付け加えておきたい。

何も付け加えることはない。

これをどう感じるかは面々のおはからいである。

でもやっぱりライヴで響くものは文面を超える。

その体験を共にしたい方は、また次回11月8日(日)「第14回 八雲勉強会 by Zoom」でお逢いしましょう。

 

 

2020(令和2)年10月6日(火)『もしあなたに出逢えなかったら』

今、面談に来られている方は、振り返ってみていただきたい。

もしあなたと私が出逢えなかったら

面談する機会がなかったら

あなたの人生はどうなっていたか。

もしそこで少しでも

あなたが偽りのあなたを離れ

本来のあなたを生きることができるようになったとすれば

あなたと私の出逢いの意味は果たされていることになります。

毎回、伊達や酔狂でどうでもいい与太話をしているわけではありません。

また知識と技術によってあなたを俗世に適応させる操作的なセラピーごっこをやっているわけでもありません。

そこで起きることは

あなたの力によるのでもなく

私の力によるのでもなく

あなたと私を通して働くものが

あなたを本来のあなたさせ

私に私のミッションを果たさせて行くのです。

さて、私の一生のうちに一体、何人に出逢えるでしょうか。

今も毎日の面談が楽しみです。

そして明日の面談も楽しみです。

良い時間にしましょう

大切な時間にしましょう

一緒にね。

 

 

2020(令和2)年10月5日(月)『接点』

現在、面談に来られている人は、圧倒的に元々面識のあった人が多い。

同じ場所で働いていた人。

私の講演・講義を受けたことのある人。

それ以外のどこかで知り合いだった人。

私という人間がある程度わかった上で、面談に来られるというのは、当然のことと思う。

今までどこかで「接点」があったのだ。

しかし、少数派ではあるが、ホームページだけを見て申し込んで来られる方もいらっしゃる。

チャレンジングと言えば、そう言えるかもしれないが、

その場合でも、かなり『塀の上の猫』を読み込んで来られる方が多い。

そういう意味では、それもまた、私という人間がある程度わかった上で、申し込んで来られると言える。

しかしより重要な問題は、その「接点」がその後、「点」で終わるか否かということである。

その「接点」がやがて「線」となり、「面」となり、「世界」となっていくか。

それは時間的長さとは関係がない。

長くても「点」のままの人もいれば

短くても「世界」が立ち上がる場合もある。

その転機が徐々に起こる人もいれば

あるとき急に転機が訪れることもある。

そこには人のはからいを超えたものが作用しているとしか言いようがない。

いずれにしても

世界に一人ずつの「あなた」と「私」

一回しかない人生。

そこに「接点」が生まれるということ自体が奇跡と言えば、奇蹟である。

願わくば、つながるべき「接点」がつながりますように

そしてそれが、この人生において、あなたならではの「世界」が立ち上がる「縁」となりますように

と祈るばかりである。

間違いなくそこに、私のミッションがある。

 

 

2020(令和2)年10月4日(日)『友だちになれるかもしれない』

こんな人とは友だちになれるかもしれない。

 

「リアリィ?」が言いたいばっかりに Asahi THE RICH を買って飲んだことのある人。

バケツサイズのアイスクリームを大人買いして、しばらくうんざりしたことのある人。

ハッピーターン味のメロンパンと聞いて即買いし、食べたことのある人。

誰もいないときに張った声で「半沢ぁ〜!」あるいは「おしまい death!!」などと言ったことのある人。

ミュージカル、宝塚、歌舞伎などを観た後、必ず歌って踊る人。

寝っ転がって流れる雲をず〜っと見ていられる人。

凪(なぎ)の海の金波銀波をず〜っと眺めていられる人。

茜色の夕焼けが濃紺から漆黒に変わるまでず〜っと眺めていられる人。

満月を見て遠吠えしたくなる人。

縄文ラテン系の人。

蘊蓄(うんちく)や情緒でなく、仏像や能面や日本庭園を“観る”ことのできる人。

慚愧(ざんき)と涙で眠れない夜を過ごしたことのある人。

自分の情けなさと向き合える人。

一所懸命に生きて行こうとしている人。

生きる哀しみを知っている人。

生かされる歓びを知っている人。

そして

志と愛する人のためなら死ねる人。

 

そんな人となら友だちになれるかもしれない。

 

 

2020(令和2)年9月22日(火)『On the Edge』

初回面談申し込みを受ける際、ちょっと悩むときがある。

一応「対象」は満たしているのであるが、その「一応」のところがどうも「気にかかる」方が時々いらっしゃる。

私がかつて近藤先生のところに通い始めたときは、それまでの生き方にどうにもこうにも行き詰まっていたため、全否定大歓迎、煮るなと焼くなと好きにしてくれ、屍(しかばね)の中から甦(よみがえ)って成長してやる、という覚悟があった。

しかし「一応」の彼ら彼女らはどこかまだ闇の裾(すそ)を握っているのである。

そこに「一応」情けなさを感じ、成長したいと思ってはいるが、まだ「本気で」「心底」情けなくなっていないし「何が何でも」成長したいと思ってはいないのである 

そして「気にかかる」という理由にもうひとつある。

それは開業以来の経験からして、そういう「対象」の際(きわ)にいる人たちの脱落率が非常に高いことである。

結局、逃げる。

闇の世界に舞い戻る。

例えば、この二十年余りを振り返ってみると、

やっぱり他人よりもちゃんとやってる自分、頑張ってる自分に存在意義を感じ続けたい人がいた。頑張り続けることをやめられず、それで得意になることをやめられなかった。それがどこから来るかという生育史の問題を本当には見つめたくなかった、解決したくなかった。そんな若い女性がいた。

また、

猜疑心に満ちた被害的世界観に呑み込まれながら、社会を疑い、幼児のように無意味な抵抗を続ける人もいた。抵抗するとき、嫌われる側に与(くみ)するとき、逸脱するとき(性的も含めて)、妙な力と快感があった。セラピーに通いながらも問題を指摘されることを恐れた。それをかつての脅される恐怖に結び付けた。それでは成長のしようがなかった。そんな年輩の男性がいた。

さらに、

いつまで経っても埋め込まれた見張り番に支配され、自分を縛り、子どもを締め上げ続ける人がいた。見張り番に従っているとき、恐怖感から解放される感覚があった。しかし、それがどれだけおぞましいことなのか、本当にはわかっていなかったし、わかりたくなかった。どこかでまだ自分は正しいと思っていた。そんな年輩の女性がいた。

そして三人とも勝負せずに脱落した。

どれもほんのちょっとはわかっている。

しかしいざとなると対決するより逃げる。

中には十年以上もずーっと逃げ回っていた人もいた。

その間、本質的な問題は何も解決せず、私が核心にちょっと触れた途端、逃げ出した。

そしてそれが医療福祉心理関係者だと、その後、患者さん、クライアント、利用者さんに対してどういう影響を与えるだろうか

それでも二十歳を超えた大人だもの。

起こる事態の責任を取ってもらうしかないだろう。

致し方なし。 

だけれども、だからと言って「際(きわ)にいる」と感じる人たちを最初から全員断るかというと、そういう気にもならない。

何故ならば、数は少ないが、そこから果敢に自分の問題を見つめ、ぐいぐいと成長して来る方が現にいらっしゃるからである。

そこに希望がある。

光がある。

その光の可能性を断つわけには行かない。

「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あればはなる」(親鸞)

それしかない。

実際には当研究所におけるクライアント全体の定着率は驚くほど高いけれど

それもまたひとつの結果であって、すべては縁で回るのみなのである。

そして大半の縁あるクライアントの方々は、自分自身の問題と誠実に向き合い、一所懸命に成長して行こうとしていらっしゃる。

その姿に私はただ礼拝合掌するばかりである。

操作的なセラピーなど死んでもやるつもりはない。

あなたを向き合わせ、あなたを成長させる力と共に

私のミッションを果たして行くだけなのである

 

 

 

 

◆追伸

我らが北勝旺、令和2年秋場所、1勝4敗で奮闘中である。

何がどうであろうと、目の前の一番は一番だ。

いけーっ!

2020(令和2)年9月13日(日)『第12回 八雲勉強会 by Zoom』

今日は、近藤先生の講演『こだわりについてU』を聴く。

前年の講演『こだわりについて』は、テープ起こしされた小冊子で読んだことがあったが、これはその翌年の講演である。

師自身が「同じ話をするのは好きではない」と言われる通り、これは紛れもなく別講演で、全くUではなかった。

我々の持つ“こだわり”の由来につき

かつての小さな子どもがどれほど弱く不安に満ちていたか

そして、その子どもが偽りの安心を得るために

いかに本当の自分以外のモノ・コトにしがみつくか。

師の話は明快であり

その明快さ以上に

じめじめと卑屈に生きるわけには行かない

こだわりにとらわれて生きるわけにはいかない

のびのびと本来の自己を生きることの大切さを説く師の迫力

(正確には師を通して働くものの迫力)

に大いに感じるものがあった。

講演は、単なる知識伝達のためにあるのではない。

また、情緒的感傷に浸るためにあるのでもない。

講演には魂に、存在の根底に響くものがなければならない。

今回もそれをやってみせて下さった講演であった。


ちなみに今日、参加者の希望を確認し、

次回10月11日(日)開催の「第13回 八雲勉強会 by Zoom」において、今回(第12回)の講演『こだわりについてU』の休憩後追加講演部分および質疑応答部分を聴くこととなった。

質疑応答の質問の声が聞き取れなかったりもするが、近藤先生の答えでその内容もわかり、やりとりのリアルな空気感も伝わって、それだけで十分に深い内容がある(希望される方は、第13回からの参加も可能である)。

また次回をお楽しみに。




2020(令和2)年9月12日(土)『緑風苑ワークショップ開催中止のお知らせ』

来たる10月31日(土)・11月1日(日)に福島県・磐梯熱海で開催予定であった「緑風苑ワークショップ」の開催中止をお知らせ致します。

世の中はGo To トラベル」に東京都を追加するやらしないやら、でもめておりますが、

当の開催会場である緑風苑が「外部への貸し出し・利用はまだ禁止でいつ解除になるかわからない」ということでしたので、世話人の光子さんと相談の上、開催中止を決定致しました。

残念ではありますが、新型コロナウイルス感染拡大の終息と来春の緑風苑ワークショップ開催を期待することと致しましょう。

安田のおばちゃん、また行くまで元気でいてくれー。




◆追伸 11月の八雲勉強会は休止の予定でしたが、緑風苑ワークショップ開催中止により、11月8日(日)に八雲勉強会を開催することと致します。

2020(令和2)年8月27日(木)『厩火事(うまやかじ)』

医療福祉機関は、患者さんや利用者さんおよびスタッフへの新型コロナウイルス感染を防ぐべく、さまざまな対策を取っている。

しかし、その経営者、管理者の言葉の端々(はしばし)から、立派な“建前”とは別の“本音”が漏れ出て来る場合がある。

「患者さま、ご家族さま、そして当院(当施設)スタッフを新型コロナウイルス感染症から守るために」

と言いながら、実は

「自分が(社会から、周囲から)責められたくない・非難されたくないから」

「自分のせいにされたくないから」

即ち、“保身”のために、自分の職場にさまざまな感染防止の規制をかけている人たちの存在が目について来るのである。

例えば、新型コロナウイルス感染症拡大の第1波が落ち着いた頃、専用病棟から最後の患者さんが治癒して退院されたとき

ある病院のある師長さんは、患者さんの背中を見送りながら、「良かった、良かった。」と涙ぐみ

別の病院のある師長さんは、患者さんの背中を見送りながら、「あ〜、せいせいした。」と思わず呟(つぶや)いてしまった。

いざというときに、その人の本性が現れるんだよね。

元より我々も凡夫だから、つい後者のように言ってしまう場合もあるかもしれないけれど

せめてそれを誤魔化したり、取り繕ったりしないで、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持とうよ。

そうすれば、違う未来が開けて来るかもしれない。

ちなみにその師長さんは発言を指摘されて、「私、そんなこと言ってません。」と抵抗したそうであり、その病院の院長に至っては「そう言ってもしょうがないんじゃないの。」と認めちゃったそうな。

どうしてそんなに擦れちゃったんだろう。

だったら、退院して行く患者さんに面と向かって「あ〜、せいせいした。」と言ってみろよ。

その師長も院長も、かつて看護学生や医学生だったときは、そうじゃなかったと信じたい。

もちろんこれは職種の問題ではない。

人間としての問題だ。

さて、あなただったらどうするか、どうしたいと思うか。

それは私にも突きつけられる問題であり

八雲の同志ならば、目指す方向はきっと同じはずである。

 

 

2020(令和2)年8月25日(火)『変』

治療よりも成長に焦点を絞った私の開業形態を知った精神科医の後輩から

「先生は“変”な人は診ないんですね。」

と言われたことがある。

私は即座に

「君ほど“変”じゃないよ。」

と答えた。

彼の発言の中にある“差別観”(治療を受けている人間は“変”だ)

および“思い上がり”(自分は“変”じゃない側にいる)

を砕いておく必要があった。

少なくとも治療を受けている人たちは苦悩している。

そしてそれを乗り越えるべく、自分の意志で通院されている。

そういう意味では“変”どころか極めて“健全”である。

それに比べ、自分の“変”さにも気づかず、他人を見下し、自分は“健全”だと思っている方が遥かに“変”ではないか。

実は、私の開業形態は、最も“変”な人たちを対象としているのだ。

医療福祉関係者、対人援助職者という、最も“変”でありながら、最も自分の“変”さに自覚のない人たちに「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を求めるのたがら、“変”と言えば、これほど“変”な開業形態もない。

しかし、医療福祉関係者、対人援助職者でありながら、自分自身に対して「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を持てるというのであれば、これほど“健全”な人はいない、ということにもなる。

何が“変”で、何が“健全”か。

本当の意味での使い方と、世俗的な意味での使い方とを混同してはならない。

世俗的な意味で“変”な人たちで、かつ、本当の意味で“健全”な人たちは、大切な我が同朋である。

 

 

2020(令和2)年8月18日(火)『責任』

初めて処方箋を書いたとき、身震いするような緊張感があったのを覚えている。

自分が処方を間違ったら大変なことになる。

大きな責任を感じた。

そして病棟で実際に服用して下さっている患者さんの姿を見ながら

それがどれほど大きな信頼に基づいているのかを実感し、身の引き締まる思いがした。

信頼には応えなければならない。

児童専門外来をやっているときもそうであった。

子どもたちには長い未来がある。

家族も行く末を案じている。

発達障害分野においては、幸い熱心な療育スタッフに恵まれたが

相も変わらず、全くの不勉強で専門家顔をする教師、スクールカウンセラー、療育関係者、そして精神科医のいることに戦慄を覚える。

あなたの力量がこの子の一生を分けるのだよ。

親御さんはホンモノの療育者に巡り逢って初めて、その決定的な差に気づく。

それは今私が行っている精神療法やカウンセリングにおいても同じ。

クライアントの一生がかかっている。

信頼して心を預けて下さるからには、こちらも応えなければならない。

ならないものはならない。

不本意に誰かに押しつけられたような責任ならば、御免蒙りたいが

この人生において、天から与えられた責任なら、受けて立つしかない。

それでも、元より凡夫なれば、我々にそう大したことができるわけではないのだけれど

無能・無力・非力な凡夫が、その上にサボッちゃあ、被害甚大である。

ポンコツなりに、丹田呼吸しながら、祈りながら、一所懸命にやらせていただくしかないのである。


 

2020(令和2)年8月1日(土)『塀の上の猫について』

(1)まず第一に、『塀の上の猫』は、まだ出逢ったことのない “私が出逢うべき人たち”を思い浮かべながら書いている。

何よりも本欄は、今生で逢うべき人に逢うためにある。

(2)第二に、現在、面談に来られている方、勉強会やワークショップに参加された方を想定して『塀の上の猫』を書くこともある(連絡事項を含む)

しかし、面談に来ている方について暗喩的に何かメッセージを書くことはない。

必ず面談で直接に申し上げる。

稀に「あれは暗に私のことを書いておられましたね。」と言われることがあるが、それを自意識過剰、関係念慮というのである。

それ自体が解決すべきテーマである。

(3)現在、他所で精神科医や臨床心理士からサイコセラピー/カウンセリングを受けている方の閲覧はご遠慮願っている。

ダブル・セラピストで良いことは何もない。

目の前のサイコセラピー/カウンセリングに専念することを強くお勧めする。

一度に二つの道は登れない。

同様に、かつて当研究所に通われていた方にも閲覧をご遠慮願っている。

別れた前夫(前妻)のFACEBOOKをいつまでも覗いている前妻(前夫)のようで、やめた方がいい

前を向いて新しい道を進もう。

(4)尚、『塀の上の猫』の中に登場するセラピー例や個人の内面に関する記載は、守秘義務のため、特定の個人のものとならぬよう、他の多数の経験例も加えて編集・加工してあることをご了解下さい。

(5)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。

自分として完成度に納得しない場合は、何度も同じテーマで書き直すこともある。

これは自分自身のためである。

以上

 

 

2020(令和2)年7月21日(火)『しもた』

先に惚れてしもた あたしの負けや

 少し痩せてしもた あんたのせいや


 

最近、Skypeによるテレビ電話面談や電話カウンセリングの

料金の振り込みを忘れる方が続出している。

今月だけで既に6人を超えた。

年齢性別によらない現象だ。

それを責める気持ちはさらさらない。

むしろ喜ばしく思っている。

何故ならば、忘れた全員が元々はものすごく気をつけて頑張って

生きて来た人たちだからである。

その心の中の見張り番が取れて来た。

それでコロッと忘れている。

そこに余計なものがない。

それもまたひとつの「成長」なのだ。

 

これが「治療」場面だと些か意味が異なって来る。

意図的に

あるいは

無意識にわざと

料金の支払いを忘れる=支払わない場合がある。

それは駆け引きであり

巻き込みなのだ。

面倒くさい。

そこに余計なものがある。

だから「治療」が必要なのである。

 

その余計なものがあるかないかに

私が気づかないわけがないではないか。

 

八雲は「成長」の場所。

従って「成長」は常に喜ばしいことである。

 

 

振り込み忘れてしもた 天然のせいや

2020(令和2)年7月16日(木)『小さなお知らせ』

小さなお知らせをいくつか。

(1)ホームページの改訂

少しずつホームページの改訂を行っている。

放っておくとすぐに当研究所の「今」との間で齟齬が生じて来る。

手間と言えば手間だが

初めての方は「今」のホームページからが初見となるため

放置しておくわけにはいかない。

以前からご高覧いただいている方々も、時々ホームページ全体を眺めていただければ幸いである。

世界もこの小さなホームページも、流れ続けている。

(2)『私家版 八雲便り』について

時々、購入のお問い合わせをいただくが、現在、面談に通われている方にのみ販売している。

拙著ながら、大切なことを共有していただける方に読んでいただきたいと思っている。

悪しからずご了承下さい。

(3)面談予約について

いつの頃からか、面談予約が月の後半に集中しつつある。

次の月の面談予約が入れにくくなって来ている。

日程上可能でしたら、月の前半の方が予約を入れやすくなっていますので、ご一考あれ。




2020(令和2)年6月18日(木)『Black Lives Matter』

白人警察官による黒人殺害事件を機に、世界中に

Black Lives Matter.

(黒人の生命(いのち)は大切だ)

という運動が高まった。

その運動の政治的意義などは別にして、黒人差別に対して多くの人が激しい違和感を感じているのは重要なことだと思う。

事情通の知人によれば

かつて

Black Lives Matter.

に対するカウンター運動として

All Lives Matter.

という運動が起こったそうだ。

なるほど、黒人の生命だけが大切なわけではなく、白人の生命も、黄色人種の生命も、ヒスパニックの生命も、先住民の生命も、ありとあらゆる全人類の生命が大切である、という主張が起こるのももっともだ。

しかし、この

All Lives Matter.

の運動は、元々がカウンター運動だったせいもあり

Black Lives Matter.

ほどの盛り上がりを見せずに今日に至っているという。

ほう。

その歴史的変遷よりも、私の関心は事の本質にある。

私が違和感を感じたのは、そこでいう

All Lives Matter.

All Human Lives Matter.

(全ての人類の生命は大切だ)

という意味ではないかということだ。

本当に

All Lives Matter.

と言うならば

人間以外の動物、植物、その他のあらゆる生命体、生きとし生けるもの全ての生命が大切だ、という意味でなければならない。

そうなって初めて

All Lives Matter.

(生命あるもの全てが大切である)

と言うことができる。

しかし、これで終わりかというと、まだお尻のあたりがムズムズして来る。

非生物の存在は重要ではないのか、ということだ。

我々には、森羅万象に八百万(やおよろず)の神を感じて来た伝統がある。

空にも滝にも石にも、尊いものが働いていることを感じて来たのである。

生物と非生物とに区別はない。

あなたはそれを感じませんか?

となると、生物、非生物をひっくるめて

All Lives & Non-Lives Matter.

(全ての生物・非生物は大切である)

と言いたくなる。

しかし、これではなんだか冗長だ。

もっとスッパリいかないか。

そこで

All Matters.

(全ての存在が大切だ)

となる。

うむ。

ここに行き着く。

行き着いて改めて

自己礼拝し、四方拝したくなるような心持ちになった。

 

 

2020(令和2)年6月15日(月)『八雲Web勉強会』

6月14日(日)の八雲勉強会も、Zoomを使った Web meeting 形式で開催した。

テーマは『良寛の感性』。

良寛の漢詩、和歌、手紙などを取り上げながら、四つの話で構成した。

江戸期の越後の禅僧、良寛の話は、普段の八雲勉強会で取り上げている近藤先生の講演と一見関係ないように見えて、実は思い切り相通じた話であることをおわかりいただけたものと思う。

その四つのうち一つをご紹介すると、

まず良寛については、子どもたちと手鞠(てまり)をついて遊ぶ話が有名である。

良寛の歌。

冬ごもり 春さりくれば 飯(めし)乞(こ)ふと 草のいほりを 立ち出(い)でて 里にい行けば たまほこの 道のちまたに 子どもらが 今を春べと 手まりつく ひふみよいむな 汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ あがつけば なはうたひ つきてうたひて 霞(かすみ)立つ 長き春日(はるひ)を 暮らしつるかも

何故子どもたちと遊ぶのが好きか、と訊かれて良寛は

その真にして仮(け)なきを愛す

(子どもたちは本来の自己を生かされるままに生きており、そこに嘘、ニセモノ、はからいがないのを私は愛する)

と答える。

そして良寛の和歌二首。

つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを 十(とを)とおさめて また始まるを

この里に 手毬つきつつ 子供らと 遊ぶ春日(はるひ)は くれずともよし

不慣れな古文調を厭(いと)わず、声に出して詠みたいところである。

そして、良寛にとっては、月も子どもと同じであった。

風は清(きよ)し 月はさやけし いざともに 踊りあかさむ 老(おい)の名ごりに

いざ歌へ 我れ立ち舞はん ぬば玉の 今宵(こよい)の月に いねらるべしや

汝(な)が吾(あ)になり、吾が汝になり、吾が月になり、月が吾になって、遊び、踊る。

そこに子どもも月も良寛もない。

そこには生命(いのち)の大演舞がある。

さ、あなたもご一緒に。

 

 

2020(令和2)年6月14日(日)『7月12日(日)開催の八雲勉強会について』

世田谷区より、6月15日(月)以降の会場使用にあたり、以下の要請(一部要約)がありましたので、お知らせ致します。

(1)利用人数を従来の定員の半分以下とすることになりました(下記◆1参照)。

(2)人と人との間隔を2m(最低1m)空けて下さい。

(3)歌うこと、大きな声での会話はお控え下さい。

(4)飲食は禁止します。但し、熱中症予防の水分補給は可能です。

(5)熱や咳、頭痛などの体調の悪い方の利用は禁止します。

(6)入館の際は、手洗いや手指消毒を徹底し、マスク着用して利用して下さい。

(7)30分に1回以上、数分程度、部屋の換気をして下さい(→講師が行います)。

(8)利用後の清掃の際には、テーブルや椅子の背もたれ、ドアノブ、電気スイッチ、使用物品の消毒清掃を行って下さい(→講師が行います)。

(9)感染者の発生に備えて、利用ごとに利用提出書を提出して下さい(下記◆2参照)。

◆1 まず(1)のために、会場の料理講習室の定員が24名→半分の12名ということになります。今から他の会場を取ることもできないため、八雲勉強会会員17名+講師1名=18名では、6人のオーバーとなります。従いまして、今回は参加申込制(申込締切6月30日(火):詳しくは「企画部門からのお知らせ」参照)とし、もし参加希望者が12名を超えた場合には私の方で抽選と致します。大変申し訳ありませんが、どうかこの時節ですので、ご了承下さい。尚、抽選に漏れた方は、次々回8月9日(日)開催の八雲勉強会の参加に最優先権があるものと致します。

◆2 (9)の利用提出書につきましては、講師が区所定の用紙に全参加者の氏名を書いて(住所・電話番号などは不要)提出します(感染の疑いのある方が発生した場合には、保健所に情報提供されることになりますので、ご承知置き下さい)。

 

緊急事態宣言が解除されたのに続き、東京アラートも解除されましたが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の可能性は消えていませんので、参加申込をするか否かは、各人が、地域および公共交通機関とその沿線の感染状況、持病、年齢、家族、職務、その他諸般の事情に照らしてご判断下さい。

7月12日(日)の八雲勉強会の開催も、新型コロナウイルス感染症拡大の影響下における開催ですので、八雲勉強会会員の方は、参加されてもされなくても、年間参加回数上、全て出席扱いとしてカウント致します。

 

 

2020(令和2)年5月5日(火)『ステイホーム』

以前、「ホームレス」について書いたことがあった。

「ホーム」がないのが「ホームレス」である。

決して「ハウスレス」ではないのである。

ここに妙味がある。

で、「ホーム」とは何かというと、「あなたが安心して本当のあなたでいられる場所」が「ホーム」である。

そういう場所がない。

それを「ホームレス」という。

となると、どんな大邸宅に住んでいても、どんな大家族と暮らしていても、「ホームレス」は存在することになる。

ふむ。

そして今回の新型コロナウイルス感染症対策としての「ステイホーム」である。

ただ「ハウス」にいればいいというものではない。

「ステイ」するのは「ホーム」でなければならない。

外出を控えているうちに、DVや虐待が増えたという。

それはひどい「ハウス」だ。

暴力や虐待を受ける場所は、断じて「ホーム」ではない。

だから、あなたにとっての「ホーム」を探そう。

今あなたがいる「ハウス」よりも、シェルターや児童相談所の方がずっとマシかもしれない。

そしてその先に、あなたにとっての本当の「ホーム」があってほしいと願う。

「あなたが安心して本当のあなたでいられる場所」を探そう。

それがなければ、変えて行こう、創って行こう。


「ステイホーム」。

実は、なかなかに深いテーマである。

 

 

2020(令和2)年4月20日(月)『もしも新型コロナウイルスに感染したら』

全国の新型コロナウイルス感染者数が1万人を超え、おおよそ日本国民1万人に1人が罹患した、という段階に入った。

地域差はあるものの、これからは我々にとって身近な人が感染者として報告され始め、我々自身もまた感染者となる可能性がずっと高まるだろう。

症状からの検査・受診の相談については、厚生労働省や地元自治体などの指針に沿って粛々と行っていく他なく、もし検査で陽性となれば、「無症状感染者」「軽症者」は「宿泊療養」「自宅療養」という流れになって来ている。

で、もし今、八雲に通われている方が検査陽性となり、「宿泊療養」「自宅療養」となった場合にはどうするのか。

もちろん、まずは必要な身体的治療をしっかり受けること。

そしてもし私の出番があるとすれば、電話やSkypeは使えるでしょうから、メンタルなサポートは十分可能です。

有事の仲間は支えます。

どうぞお申し出下さい。

と言いつつ、もし私の方が検査陽性となり、「宿泊療養」「自宅療養」となった場合にはどうするのか。

それでも、電話やSkypeは使えるでしょうから、しゃべりづらくなる症状が出ない限り、お話しすることはできるでしょう。

そしてもし万が一、あなたか私が重症化して入院となったら。

自力を尽くし、他力におまかせするのみです。

はい。

いつも有事はしんどいけれど、ギリギリのところで我々が試され、本質的な人間的成長の好機にできることは間違いない。

となれば

活かさないでおくべきか。

 

 

2020(令和2)年4月18日(土)『テレビ電話始めました』

Skype の設定が終了し、明日4月19日(日)より、いわゆるテレビ電話(ビデオ通話)の利用が可能となりました。

顔が見えて話せた方が良いという方はどうぞご利用下さい。

私のパソコンがちょっと古いため、カメラの画像が粗かったりぎこちなかったりしますが、何よりもマイクに不具合があったため、設定に手間取りました。

今後、「電話スーパーヴィジョン」や「電話カウンセリング」をご利用の際、

「通常の電話利用」か

Skype によるテレビ電話(ビデオ通話)利用」か

をお知らせ下さい。

また既に「通常の電話利用」で予約をされている方も、もし「Skype によるテレビ電話(ビデオ通話)」への変更をご希望でしたら、遠慮なくお申し出下さい。




以上、お知らせまで。

2020(令和2)年4月7日(火)『緊急事態宣言発出』

遂に緊急事態宣言が発出された。

これにより当研究所における面談もほとんどが電話カウンセリングとなり

研究所で対面面談できるのは、徒歩、自転車、バイク、車で来所できる方々のみということになるだろう。

引き続き、研究所でも、手指消毒用アルコールを用意し、換気を行い(花粉の侵入は邪魔だが)、宣言が出されている間は、マスクを着用して(予備のマスクも用意しておきます)、空気清浄機(プラズマクラスター付き:効果には諸説あり)をつけての面談となる。

そしてもし公共交通機関を利用して来所されるのであれば、感染予防に一層のご留意を。

かくいう私も公共交通機関を使って出かけて行く仕事があり、マスクはもちろん、マイ手指消毒用アルコールは必携で、事ある毎に「♪てのひら あらおう」「♪おねがい おねがい」も可)と歌いながら手洗いをしている。

しかし何よりも、コロナごときのために、気持ちまで感染させてなるものか、というところが重要である。

「籠の中のカナリアの絶対自由」を思い出す。

不自由を作り出すのはウイルスではない、われわれの心だ。

明日はスーパームーン。

月光(がっこう)浴して、放たれよ。

 

 

2020(令和2)年4月4日(土)『経過報告U』

今日付けの発表で、東京都の新型コロナウイルス感染症の新たな陽性患者数が1日100人を超えた(117名)という。

状況はさらにキナ臭くなって来た。

当研究所の面談も、電話カウンセリングを利用される割合が半数を超えたところである。

これからさらに割合が増して行くことが予想される。

初めての電話カウンセリング利用という方も少なからずいらっしゃるが、それもまた新たなワークになるものと思う。

それにしても、である。

コロナ禍が始まって以来、面談をやめた方が一人もいらっしゃらない。

これは驚くべきことである。

ある方が

「今こそ月に1回50分の時間が、私が私であるために必要なんです。」

と言われた。

今日まで紆余曲折のあった当研究所であるが

本当の意味で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った方々になった気がする。

と言っても、今から面談をやめるのをお止めすめる気持ちもないので、ご心配なきように。

付くべき縁は付き、離るべき縁は離るのが人の世の常。

堂々と申し出られるべし。

それもまたその人にとってワークになるだろう。

畢竟、私個人にとっての禍福、当研究所にとっての禍福などどうでも良いのである。

どのような状況下にあろうとも、私に与えられたミッションを果たして行くために、私も研究所も存在している。

 

 

2020(令和2)年3月30日(月)『闇が来る前に』

仏教にジャータカという話がある。

本生譚(ほんじょうたん)ともいい、早い話が釈尊の前世の物語、即ち、こういう前世を輪廻してやがて釈尊に生まれたという話である。

有名なものでは「月のウサギの話」がある。

皆さんもどこかで聴かれたことがあるかもしれない。

昔、ウサギとサルとキツネがいた。

そこに空腹に窮した老人が通りかかった。

気の毒に思った動物たちは、それぞれに食べ物を集めた。

サルは木の実や穀物を採って来て捧げた。

キツネは魚を獲って来て捧げた。

しかしウサギは何も捧げるものを得ることができなかった。

そこでウサギは、サルに「柴を刈って来てほしい」と頼み、キツネに「それに火をつけてほしい」とお願いした。

準備が整うとウサギは老人に「私を食べて下さい」といい、火の中に身を投げた。

その瞬間、老人は帝釈天の正体を現し、このウサギの姿を月の中にこめ、一切衆生にその捨身(しゃしん)行を示したという。

そしてウサギは輪廻して、やがて釈尊となって生まれる。

そんな話がある。

そしてもうひとつは、法隆寺の玉虫の厨子(ずし)に描かれたジャータカの話。

昔、薩た(土扁に垂)(さった)王子が狩りに出かけたとき、飢えて死にかけている母子の虎に出逢った。 

母虎は、余りの飢えの辛さ故に自分の子虎さえも食べようとする。

その瞬間、王子は我が身を虎に差し出した。

しかも、衰えた虎が食べやすいように、自らの首を掻き切って、高所から身を投げたのである。

そして王子は輪廻して、やがて釈尊となって生まれる。

厨子に描かれた「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」。

そんな話がある。

輪廻が本当にあるのかどうか、まだ死んだことがないので私にはわからん。

しかし、現代においてもこんなことが起こる。

本欄でもかつて「薩た(土扁に垂)(さった)王子を想うとき」という拙文を書いた。

6歳の男の子が3歳の女の子を救うために「思わず」“鼻をつまんで”川に飛び込んで亡くなった事件である。

6歳の男の子が、である。

またかつて、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようとして、韓国人留学生の青年と日本人男性が「思わず」線路に降りて、3人が死亡した事故があった。

見ず知らずの誰かのために命を投じるのである。

捨身行という大悲行は、考えて行う人間業(わざ)ではない。

その人を通して「思わず」働く力によって行われるとしか言いようがない。

だから尊い。

我々はどこまで行っても、自分のことしか考えず、他人のことなどどうでもいい、神経症的不安と自己中心的欲求にまみれた凡夫である。

しかしその凡夫にこのようなことが起こる。

そういうことが現代でも起こることに、私は有り難さと希望を持つ。

 

どうして今回こんな話を書いたかというと

都内の新型コロナウイルス感染症の新感染患者数の大幅増加を聴いて

やがて感染爆発が起こるかもしれないと感じたからである。

そのときになってパニックに陥り、自己中心的行為に走る前に

一人でも多くの方々に知っておいていただきたいと思った。

助け合い、支え合う力が、我々を通して与えられている。

 

本当はね、ジャータカはかつての釈尊の話ではない。

今のあなたの話かもしれない。

 

 

2020(令和2)年3月28日(土)『経過報告』

現時点での当研究所の面談状況は、三つに分かれている。

ひとつは、電話カウンセリングに切り換えて行っている方(最も増えつつある)

もうひとつは、徒歩、自転車、車で来所されている方

そして、今まで同様、電車、バスなどの公共交通機関を使って来所されている方である。

どれを選ばれるかは、一人ひとりの背景事情が異なるため、各人の判断におまかせする他ない。

刻々と変わる情勢を見極めて判断されたし。

 

2020(令和2)年3月25日(水)『浮足立つことなかれ』

本日、東京都内の新型コロナウイルス感染症患者の増加を受けて、小池東京都知事が「感染爆発の重大局面」に関する記者会見を行った。

さて、また、試される。

あなたは不安に支配されて怯(おび)える神経症的我利我利亡者に陥るのか。

あなたを通して働く生命(いのち)の声を聴いて生きる人間に成長して行けるのか。

たとえ今後、全国的なオーバーシュートが起きたとしても、人間存在として大切なことは何も変わらない。

それはあの3.11のときの大切な教訓であった。

浮足立つな。

ブレるな。

魂を売るな。

そのために何が必要なのかは面談を通して伝えて来たはずである。

よくよく思い返していただきたい。

そして当研究所における対策も変わらない。

私が面談可能な限り、個人面談は継続する。

今後、ロックダウン(都市封鎖)が行われ、緊急事態宣言や外出禁止令が出されたとすれば

「対面」面談は不可能になるかもしれない。

しかし、「電話カウンセリング」があることは既に述べた

一部クライアントはもう電話に切り換えている。

対面面談と電話カウンセリングのどちらを選ぶかは、各人が、地域および公共交通機関とその沿線の感染状況、持病、年齢、家族、職務、その他諸般の事情により、判断されれば良い。

そして八雲勉強会も、会場である世田谷区の施設が開放中止にならない限り、続行する。

こちらも参加するか否かは、各人が、地域および公共交通機関とその沿線の感染状況、持病、年齢、家族、職務、その他諸般の事情により、判断されれば良い。

判断するとき、自分の心の中に何が動いているかの本音を、そして本音の本音を感じ取るべし。

さて、ひとつランクの上がったワークが始まる。

活かさないでおくものか。

 

 

2020(令和2)年3月15日(日)『インフォデミック』

新型コロナウイルス感染症の拡大による社会への影響について、大学のときの同級生(健康情報学が専門)がコメントを寄せていた。

「本当にいろいろなことが中止になって、いろいろな関係者が負担を負っているのもたしか。

 コロナウイルス以上に私たち自身の対応で経済が止まり、追い詰められる人が増えてしまう可能性もあります。

 よくわからない情報を前に恐怖心が増幅され、インフルエンザのほうが恐ろしいかもしれないのに、未知がゆえにコロナウイルスを怖がってしまう。

 いまフェイクニュースがSNSを介し、ウイルス以上に世界を駆け巡り、間違ったインフォメーションの拡散を指すインフォデミックとして注目されています。

 一方、人を守るのも情報。

 コロナウイルスは症状が軽くても人に感染しやすい反面、致死率は低い。

 パニックになると負の情報しか見えなくなったり、極端に走る人に引っ張られて群集心理が形成されたりします。

 そうではなく、正の情報も見て落ち着くことが大事で、それこそが少しでもダメージを小さくする方法です」

(中山健夫 京大教授)

彼は人間的にも実力的にも信頼のできる研究者である。

確かにインフォデミック(infodemic)=インフォメーション(information)+パンデミック(pamndemic)は、パンデミック自体よりも危険になり得る。

煽られてなるものか。

情報を選ぶ理性、真実を掴む直観、その上で矜恃にブレない決断。

人間が試されるワークが続く。

 

 

2020(令和2)年3月11日(水)『9年目』

9年目の 3.11。

あなたがもし

一番大切な人や

一番大切なものや

一番大切な仕事を

突然奪われたとしたら

あなたはどうするだろうか。

「私」はとても生きていられないかもしれない。

それでも「私」を通して働くものが

「生きていろ」と言うのならば

「何かをしろ」と言うのならば

「私」は生きて行かなければならない

「もういいよ」と言われる日まで。

それまで

余計なことをやってはいられない

偽りの自分を生きるわけにはいかない

今回のこの人生をどう生きて死ぬのか

見極めないわけにはいかないのだ。

こんな現況の中で

そんな大切なことを思い起こさせてくれる 3.11 である。



2020(令和2)年3月1日(日)『利他行』

マスクに続いて、トイレットペーパーやティッシュなどの紙製品が軒並み売り切れになっているという。

政府やメーカーが、紙製品の在庫は十分にある、デマに流されないように、とアナウンスしているにもかかわらず、である。

人間、不安になって利己的に走る姿を見ていると、なんだか悲しくなって来る。

 

それは東日本大震災直後のことであった。

八雲の近くのコンビニに入ると、棚に残された食品はほとんどなかった。

私の後に杖をつきながら店に入って来た高齢男性は(見るからに単身生活者である)、棚からパンをひとつだけ持って、レジに向かった。

顔見知りらしいレジの年輩女性が

「もっと買って帰ったら。」

と言うと、男性は

「他の人が困るだろう。」

とだけ言った。

 

今、書いていて思い出した。

酷い虐待の中で育った若い女性であった。

当時、大学病院の私の外来に来ていた。

診察の後の昼休み、学内の生協の売店で彼女の後ろ姿を見かけた。

書籍コーナーで彼女は一冊の雑誌を手に取って買い求めていた。

平積みの一番上の、一番ヨレヨレになったヤツを。

彼女を見ている人間は私以外にいない。

もちろん彼女は気づいていない。

次の外来のときにそのことを話すと

彼女は恥ずかしそうに下を向いているだけだった。

 

一番守られるべき人たちが一番他者に優しかったりする。

 

あなたもそうするべきだ、という気はさらさらない。

先日触れた通り、「〜すべきだ」「〜しなければならない」で頑張ってやることではない。

頑張ってやれば、それは却って偽善的な、いやらしいことになる。

我々はどこまでいっても自己中心的な凡夫だけれども

そうでないものも我々を通して働いている。

その力が自然に発現するといいなぁ。

 

 

2020(令和2)年2月22日(土)『個人面談について』

新型コロナウイルス感染症に関連して、もうひとつ。

当研究所での「個人面談」についても触れておく必要があるだろう。

個人面談自体は、私とクライアントで行うことなので、人が集まるイベントや集会などとは状況が異なる。

それでも今後万が一、国内に感染が広がれば、当研究所に来所される際、公共交通機関などで移動中に感染する危険性が出て来るかもしれない。

しかし、その際の解決策は至極簡単である。

研究所での面談をやめて「電話」を使えば良い。

ウイルスは電話で感染しない。

よって、その場合は、当研究所から近い遠いにかかわらず、「面談」を「電話カウンセリング」に切り換え、料金の支払いは後日銀行振込とすれば事足りることになる。

但し、あくまで上記は国内の感染が相当に広がったときの対策である。

感染の起こりやすさも、持病、年齢、地域および公共交通機関とその沿線の感染状況など、その他諸般の事情により、差もあるだろう。

しかし、感染拡大がそこまで行っていないのに、強迫的不安に駆られて、通常の市民活動が過剰に制約されることについては、個人的に非常な違和感と不快感を覚える。

是々非々、各位、賢明に生きるべし。

 

 

2020(令和2)年2月18日(火)『山川異域 風月同天』

新型コロナウイルス感染症が日本でも徐々に広がりつつある。

これもまたわれわれにとって、ひとつの大きなワークになると私は思っている。

何故ならば、神経症的な人間ほど不安が強く、自己中心的・排他的な言動に走りやすいからだ。

その背景に十分に寄り添ってもらえなかった生育史があり

基本的に他者を信じておらず、自らが作り出す不安に煽られて、自分の利益だけに奔走する。

他者のことなどはどうでもいい。

それは既に大震災や大きな災害の度に何度も示されて来たことだ。

既に一部では、マスクの買い占めや盗難が始まっている。

やがて感染者差別が始まるかもしれない。

しかしわれわれには、同時に体験して来た正反対の事実もある。

苦難のときこそ分け与え、助け合っても来たのである。

それもまた大震災や大きな災害の度に何度も示されて来たことだ。

今回も国を超えての動きが既に始まっている。

 

助け合うのか、排除し合うのか。

間違ってはならない。

助け合う「べき」で排除しては「ならない」、のではない。

そんな教条的、超自我的、偽善的なことを言っているのではない。

人間としての当たり前の感覚に戻れば

助け合い「たい」し排除し「たくない」気持ちに「自ずから」なるはずなのである。

そういう力が私たちを通して働いている。

それは絶対的な事実である。

われわれの悪性(あくしょう)はどこまでも残忍で

われわれを通して働く霊性はどこまでも尊い。

今回、われわれはどちらの姿を見るのであろうか。

 

 

2020(令和2)年2月17日(月)『失望と希望』

時に中堅以上のキャリアのある精神医療福祉関係者に会ってガッカリすることがある。

そのキャリアが意味のあるものになっていないのだ。

いや、意味のあるものになっていないどころか、実力を伴わない自信だけを身に着けて、有害であったりする。

ああ、低いところで止まって固まっちゃったのね

ああ、横に逸れて行って固まっちゃったのね

と溜息が出る。

そういう人たちに出会う度に思う。

やっぱり初期教育が重要なんだよな。

できれば学生時代から

少なくとも入職して早いうちに

対人援助者にとって本当に必要なものは何なのか

自分の成長課題は何なのか

未解決の問題は何なのか

についてきちんと見つめられる姿勢を作っておかないとね。

年月が経つうちに、まぁ、こんなもんでいいかな、と低いところで固まり、

きっとこんなもんだろう、との思い込みで横に逸れて固まって行く。

もったいない。

そして患者さん・利用者さんや同僚・後輩にとって迷惑だ。

それでも、ベテランの人たちに完全に希望を失っているわけではない。

多くはないが、どこかで行き詰って、今度ばかりはと自分自身と向き合う人たちもいる。

地位も役職も得て、安全な高みにいながら、そんな化城(けじょう)に安住せず、戦いに出て来る人たちもいる。

本人が決断さえすれば、いつからでも向き合えるのだ。

だから人間は面白い、希望がある、光がある。

さて、あなたはどうですか。

そして今日も八雲には二十代から七十代の方が通われている。

 

 

2020(令和2)年1月29日(水)『自分に引き付ける人たち』

当研究所の成長のための精神療法の「対象」は、ホームページに書いてある通りである。

面談を申し込んで来られる方の大半は、ちゃんと「対象」要件を確認して申し込まれ、すぐに日程が決まり、直ちに面談が始まる。

実にシンプルな話である。

「対象」を文字通り読まれて、そのまま満たしているならば、躊躇される必要はない。

同志は大いに歓迎する。

しかし、そうでない方も申し込んで来られる。

「対象」ではないのでお断りすることになる。

それが最近何名も続くため、ここに明記しておく。

まずホームページに挙げてある6つの国家資格取得者が対象である。

類似民間資格は対象ではない(臨床発達心理士、産業カウンセラー、心理カウンセラーなど)。

取得見込みは資格取得ではない。

自己判断の治療中断は、治療終了ではない。

(きちんと治療終結してから来ている人はたくさんおられる

服薬していなければ良いのではない。

(薬物療法を受けていなくても診断名が付くうちは治療対象である)

「対象」は最初から端的に示してある。

それなのに、「対象外」であることが明々白々であるにもかかわらず

都合の良いように解釈して

あるいは

強引に

自分に引き付けて申し込んで来る人がいる。

中には、面談を受けるために

本当は自分自身の「診断」に気づいているのに

「診断はつかない」と言ってもらえるまで何カ所も精神科受診を繰り返した人も

どこかで「心理検査」を受けて「大丈夫でした」と自称する人も

敢えて「未受診」で(受診しないで)回避して来た人もいた。

本当は自分自身の『診断』に気づいているのに」そういうことをする自分自身に対する「情けなさの自覚」がないのである。

完全に「対象外」である。

そして長年「治療」の方も「本気で」行って来た経験からすれば、そういう人たちを「対象」とする精神療法専門の精神科医療機関が存在する。

ちゃんと道はある。

餅は餅屋。

馬は馬方。

海のことは漁師に問え。

役割分担である。

当研究所は当研究所の役割を果たして行くのみだ。

 

 

2020(令和2)年1月27日(月)『運命の岐路』

人間には人生の中で運命の分かれ目となる岐点がある。

私にとっては恩師との出逢いもそのひとつだ。

もしあのとき出逢っていなければ

そして千載一遇のチャンスを逃さず、捉えていなければ

自らも問題を抱え、クライアントに有害な影響を与える、ろくでもない対人援助職者の一人になっていたか

下手をすれば、早晩死んでいたのではないかと思う。

失礼ながら、他のセラピストでは真実の道は開かなかった。

当時は問題山積の若輩ではあったが

人を観る眼があったことと

つながる縁があったことは

天に感謝すべきか。

その後の一生が根底から変わることになった。

そしてそれから近藤先生とクライアント・若手セラピストたちとの出逢いの縁を観ていると

出逢いの有り難さがわからず、これほど大きなチャンスを自ら失う人や

他のニセモノ、擬(まが)い物との出逢いに簡単に引っかかる・満足する人も目にすることになる。

そして二度とチャンスはない。

そうかと思うと、本人の意に反し、何をどうしてもつながらない縁もある

うーん。

「汝(なんじ)が性(さが)のつたなきを泣け。」(芭蕉『野ざらし紀行』)

そう言って「ただこれ天にして」通り過ぎるには

私にもまた「喰物(くいもの)なげ」てしまう人心(じんしん)がありそうである。

 

 

 

◆追伸

我らが北勝旺、令和2年初場所を5勝2敗で終えた。

北勝旺も「まだ」27歳である。

さらなる活躍と良き出逢いの縁を祈る。

2020(令和2)年1月21日(火)『受験前夜』

世の中は受験シーズン真っ只中である。

他でもない自分が決めた道だもの、逃げるわけにはいかないさ。

そして今、試験本番まで残された時間は短い。

となれば、その日まで「食う・寝る・学ぶ」で、食事と睡眠(あとはトイレと風呂くらいか)以外、勉強だけに没頭してもバチは当たらないだろう。

(但し、ゆったりと湯船につかり、しっかり眠ることは、頭の回転と記憶の定着のためにお勧めする)

そして試験会場で「試験に必要な物以外は片付けて下さい。」と言われるまで、見直しを続けよう。

さらに試験中は最後の1秒まで諦めてはならない。

投げ出さずに粘るのだ。

現にそれが合否を分けたこともある。

我々はどんなに頑張っても自分以上にはなれないが、不安によって自分未満になってしまってはもったいない。

少なくとも試験後に「やるだけやった。」と思えるところまでは、やってやろうじゃないか。

そして戦い終わり、答案用紙を出してしまえば、あとは野となれ山となれ。

何がどうなろうと、私は君がそこまで頑張ったことの証人でいよう。

君は試験とも自分ともちゃんと勝負した。

だから、そう思えるようになるために

今はただ

やれぇーっっっ!!!

 

 

2020(令和2)年1月20日(月)『自己分析』

私が初めて買った心理系の本が、ホーナイの『自己分析』であったことは、以前どこかに書いた。

当時、十八、九歳くらい。

お茶の水の丸善の心理学コーナーで、長時間読み比べて買ったのを今でも覚えている。

後に自分がホーナイ派の精神分析を学ぶことになろうとは夢にも思わなかった。

そして自己分析。

フロイトは自己分析を認めない立場を取った。

それもわかる。

我々は自分のことを見たいようにしか見ない。

相当に詰めて内省したつもりでも、一番重要なところ、痛いところは、無意識にあるいは巧妙に回避するか誤魔化す。

よって他人から、専門の精神分析医から分析してもらった方が良い、いや、してもらうしかない、ということになる。

ホーナイの立場は異なる。

自己分析は可能だとする。

我々の中にある「真の自己」(本来の自分)が働けば、「仮幻の自己」(後から身につけたニセモノの自分)に気づくことができる、感じ取れるはすだ、と考える。

それはそうだ。

しかし、ホーナイは条件を付ける。

最初から一人での自己分析は難しい。

やはりそれは浅いか、誤ったものになりやすい。

まず本物のセラピスト(自分自身が「真の自己」を実現して来た経験を持つセラピスト)から分析してもらう経験を持った方が良い。

その体験が基となって、自己分析が可能になって来る、という。

なるほど、まず穏当なところと言うべきか。

市井にも、対人援助職者の中にも、我流や聞きかじりの知識で自分や他人を分析したがる人が多いのはご存じの通り。

それはやっぱり浅いか、誤ったものになりやすい。

単なるおしゃべりや与太話でするなら良いけれど

人のこころの真実を求めるのであれば

信頼できるセラピストの許、まず自分が自分と勝負する機会を持った方が良いと私は思う。

ちなみに私は師が存命中の間は、せっせと教育分析に通い

(それも本当は「分析」などという狭い範囲を超えたものであったが)

通いながら自分で自分を感じ取る練習をし

師亡き後は、強制的に自分でやらざるを得なくなった。

それでもなんとか間に合って、今この仕事をやれているという次第である。

そして思う。

まだまだ師から聴いてなかった人間のこころの、そしてこの世界の真実の奥行きがある。

それは自分で開拓して行くしかないと覚悟している。


 

2020(令和2)年1月13日(月)『TAKARAZUKA!』

宝塚ーっ!

前から一度は観てみたいと思っていたが、チケット入手は困難を極め、半ば諦めていた。

そんなとき、ヘビーファンの方から運よくチケットを分けていただき、遂に初見参となった次第である。

で、出かけてみたら

ミュージカルもレビューも面白いっ!

生舞台しかも生オーケストラは良いっ!

トップスターの風格も良いっ!

クラクラして来た。

歌って踊ってが好きな私が、宝塚歌劇を好まないわけがない

フツーにしゃべれよ、というところを敢えて歌って踊る。

しかもたっぷりの振りを付けて。

いーじゃないの。

また、上演中に「客席降り」という、タカラジェンヌが客席まで降りて行って歌って踊ってくれる交流がある。

ファンは予めそのための準備をしっかりとして来るんだとさ。

そんなことされりゃあ、そりゃ、推しメンにもなるだろ。

そして折角観に行ったからには、宝塚の定番モノをしっかり味わいたい。

フィナーレが近づき、待ってましたの大階段登場!

おおーっ。

ああ、シャンシャンだっ!

(シャンシャンとは、公演のフィナーレでタカラジェンヌたちが手に持つ小道具のこと

持ってみたーい!

出ました、背負い羽根!

3番手スター、2番手スター、そしてトップスターになるほど巨大化して行く豪華絢爛な背負い羽根。

そこまでやるかー。

背負ってみたーい!

ほとんどお調子者の馬鹿である。

当然のことながら、観る方よりやる方がさらに好きなのだ。

近藤先生がニューヨークにおられた頃、ブロードウェイのミュージカルを観に行かれると、帰ってから必ず自宅で再演されていた、という話を奥さまから伺ったことがある。

この師にしてこの弟子あり、である。

私も当然、自宅で再演さ。

やるときにやらなくてどうする。

でもやっぱり、公演全般を通じて一番感動したのは、タカラジェンヌたちのひたむきな一所懸命さである。

宝塚音楽学校を目指して幼少期からバレエに日本舞踊に声楽などの習い事に明け暮れ、運よく入学できたとしても、在学中は厳しい指導や競争が続き、卒業・入団してからもみんながトップスターになれるわけではない。

それでも一所懸命に自分の役を歌って踊って演じて、この舞台を創り上げているんです、彼女たちは。

濃い人生の時間を過ごしていると思う。

そりゃあ、まだ若いからいろいろあるだろうけどさ。

さらに成長しろよ。

おまえもな。

はい。

初宝塚、満足である。

 

 

 

追伸

そう言えば、昔は竹の塚歌劇団が好きだったなぁ。

2020(令和2)年1月6日(月)『「自力」から「他力」へ』

[1]「自力」で立つ

まずしっかりとした「自分」を確立する。

「自力」で生きられるようになって初めて一人前の大人である。

まず他者評価の「奴隷」をやめる。

相手の思惑を察し、自分を抑えて、気をつけて頑張り、承認・評価して下さい、という奴隷根性をやめる。

生育史の呪縛を解く。

そして人生の「傍観者」になることもやめる。

自分の人生のセンターに立つ。

自分で考え、自分で感じ、自分で決める。

選択・決断し、発言・行動し、その責任を取る。

自分で自分の人生を切り拓く。

やると決めたらやる。

徹底的にがんばる。

他者からの余計な非難・中傷・邪魔・妨害はぶっ飛ばす。

そうして初めて自分の人生が始まる。

自分の人生の「主人公」になったと言える。

しかし、ここまでの「自分」には、「自我」の「自分」が混入する。

「自力」の最大の弱点は「自負」(「俺が」「私が」やっている)が生まれることにある。

「自負」が生まれれば「自我」肥大が起こる。

「我」が強くなってしまうのだ。

(ちなみに「我を張る」ことを「がんばる」という)

自己中心的(自我中心的と言った方がいいか)になる。

エラソーになる。

そして独善他罰が起こる。

他者を批判し、自分の価値観や考えを押し付けようとする。

当然ながら、その鬱陶しさに人は付いて来ない。

やがて逃げ出す、見捨てる、離れて行く。

ジャイアンに人望がないのは致命的である。

そういう人のまわりには誰もいなくなるか、気の弱い(あるいは人の良い)人たちだけが残るのが関の山である。

 

[2]「他力」にまかせる 〜「自力」を超える 〜

だから次の段階が必要になる。

例えば、今のオリンピアンの中にさえ、自分が練習して努力して=自力で今の体や技術を作り上げたと自負している人がいるかもしれない。

しかしそれは大きな勘違いである。

その練習に耐えられる体や気力、知力というのもあなたが作ったのか?

たまたまあなたに与えられていたものが達成させてくれたに過ぎない。

それと同様に、それまで「自力」と思っていたものすべてがやがて「他力」なのだとわかる。

それは「他力」が「自力」の顔をして、あなたを通して現れていたのに過ぎない。

そこを間違えてはいけない。

元々私たちの中にあるものは何もない。

私たち自身はどこまでいっても、無能・無力・非力の「凡夫」でしかないのである。

だからむしろ無駄な「はからい」をやめて「おまかせ」しなければならない。

この世界は、この世界を世界させる「働き」に満ちている。

桜を桜させ、すみれをすみれさせ、

あなたをあなたさせ、私を私させようとする「働き」に満ちている。

その「働き」のことを「他力」といい、「妙用(みょうゆう)」というのだ。

人間の「成長」というのは、その「働き」に従って、おまかせして、「本来の自分」を実現して行くことに他ならない。

そこに私たちが生を与えられたミッションがある。

はからいの「自力」はいらない。

むしろ邪魔である。

「他力」が「自力」の顔をして、あなたを通して現れて来るのだけは歓迎する。

(そういうときは「がんばろうとしなくてがんばれる」という不思議な現象が起きて来る。已(や)むに已まれずやってしまう、できてしまう感じ。意識的に自分に鞭打ってがんばるのとは全く異なる)

そしてその「他力」の中にこそ、本当の「大悲」(愛)も利他行も行われる。

気分屋の「自力」では無理だ。

気まぐれ、思いつきの「愛情」は出ても、ブレない、広大無辺な「愛」はない。

さて広長舌過ぎた。

「自力」から「他力」へ。

実践と体験、体得あるのみ、今から、日々の具体的なことの中で。

 

 

2020(令和2)年1月1日(水)『元旦』

元日の朝、東京は快晴に恵まれた。

松陰神社に初詣に行く。

今年から初詣は松陰先生(「しぇんしぇい」と読む)の神社(かむやしろ)とする。

私にとって「神」は「働き」の異名なので、宗教宗派を問わず、無宗教も含め、なんでもよろしい。

時に散見する狭量排他差別的な姿勢に素朴な違和感を覚える。

要は霊的感性の問題である。

この世界を通して、あなたを通して、私を通して

この世界を世界する、あなたをあなたする、私を私する

「働き」が感じられますか、という問題なのだ。

それは主義主張思想哲学教義ではなく、「体験」の事実である。

その「体験」こそが私の精神療法の根本にある。

そして、その「働き」の別名を「光」と呼ぶ。

麗春光明無量

無量の光が

世界となって、あなたとなって、私となって

踊りましょう。

 

佳き年でありますように。

 

 

 

令和二年 元旦

2019(令和元)年12月31日(火)『大晦日』

今日で令和元年が終わる。

みなさんにとって今年一年はどういう一年だったでしょうか。

年を取るごとに一年経つのが早く感じられる、と言いますが

それだけにこの一年を、来年一年を、偽りの自分で生きるわけにはいかないじゃないですか。

八雲に通って来られた皆さん。

あなたの成長はどこにありましたか。

あなたの課題はどこにありますか。

さらに一緒に取り組んで行きましょう。

未解決の問題を抱えながら、まだ自分と本気で向き合っていない皆さん。

いつ向き合いますか。

一人で向き合いますか。

誰と向き合いますか。

ここでなくて構いません。

八雲でなくて構いません。

そんなケチなことは言いません。

また当研究所の対象と異なる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、向き合える場所は必ずあるはずです。

かつての私が一人で探し出したように。

できるならば、早い方が良いと思います。

あなたがいくら若くても

この一年はこの一年だけの一年なのだから。

新年が、あなたが本当のあなたを生きる一年となるよう祈ります。

 

 

 

恵存

2019(令和元)年12月20日(金)『面倒くさい人U』

ややこしい問題を幾重にも抱えた面倒くさい人たちの中で、私が関わらざるを得ない、もうひとつの人たちがいる。

その人たちは、心からの「情けなさの自覚」も切実な「成長への意欲」も何もない。

よって通常ならば、私が関わることのない人たちである。

しかし関わらざるを得なくなる。

何故ならば、彼ら彼女らとの間に今生(こんじょう)の「縁」があるからである。

これは仕方がない。

私に選択肢はない。

その人たちを見ていると、見れば見るほどつくづくとバカチンである(失礼)。

本当に救いようがない(また失礼)。

それがまた事実なんだからしょうがない(またまた失礼)。

しかし「相手が死ぬか、俺が死ぬまで面倒見なきゃならんのだろうなぁ」と思わせる「縁」がある。

だから仕方がない。

私が決めることではない。

天が決めることなのだ。

これもまたミッションである。

覚悟を決めて付き合うしかない。

(ちなみにこういう「縁」は研究所外の関係で起きる。

 研究所では対象外となるからだ)

でも不思議なんだよなぁ。

そういう場合は苦にならないのである。

相当面倒くさいのに…。

天を仰ぐ。




2019(令和元)年12月19日(木)『面倒くさい人』

「あー、こいつ、面倒くせぇ!」

と感じる人がいる。

ややこしい問題を幾重にも抱えた人である。

しかし、そのことと、その人と付き合いたいと思うかどうか、とは全く別件である。

どんなに面倒くさくても

自分で自分の面倒くささを自覚している人がいる。

そしてその面倒くささを乗り越えようと死に物狂いになって取り組んでいる人がいる。

こういう人とは付き合ってみたい、いや、是非とも付き合いたいと思う。

今の面倒くささがどんなにひどくても、そんなことは問題ではない。

「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が問題なのだ。

そうして実際にそういう人は変化・成長して行く。

これが素晴らしい。

反対に、中途半端程度の面倒くささを持っている人でも

それに対する心からの「情けなさの自覚」や切実な「成長への意欲」を持っていない人がいる。

そういう人と付き合いたいとは思わない、いや、付き合いたくない。

そうして実際にそういう人は成長しない。

信じて受け入れる「素直さ」も、藁をも掴む「切実さ」も持っていない。

かつて受験生の家庭教師をやっていた頃を思い出す。

どんなに成績が悪くても、例えば、数学20点なら20点の自分の実力を自覚し(誤魔化さず認め)、現状を乗り越えようと一所懸命に勉強する子は、どんどんと実力が伸び、実際に受験も合格して行った。

反対に、50点くらいの実力があったとしても、その実力を認めず、「僕の実力は80点くらいですかねぇ」などと言って、必死に勉強をしない子は残念ながら合格には至らないものだ。

私が家庭教師をした子が全員合格したのは、そのときの実力で引き受けるかどうかを決めず、「できない自覚」と「勉強する意欲」を持っているかどうかで引き受けて来たからである。

そういう子は、数学20点からでも、どんどんと実力が伸びる。

そう思うと、私が人に関わる基本的姿勢は、昔から変わらんなぁ、と思う。

面倒くさい人も大いに歓迎します。

但し、心からの「情けなさの自覚」と切実な「成長への意欲」は必要です。

 

 

2019(令和元)年12月10日(火)『哀しい噺』

落語が好きなことは何度か述べた。

贔屓は、故人なら、三遊亭圓生(六代目)、春風亭柳昇、存命中なら、柳家小三治、入船亭扇遊というところであろうか。

好きな噺家を聞けば、その人がわかるというが、私の場合はどうだろう。

また年を取れば変わるかもしれない。

しかしもう一人、入れたい噺家がいる。

上方の落語家・桂枝雀である。

うつ病で自殺された経緯から、彼の噺を聴くとどこか物悲しくなってしまう。

しかし実のところ、それは生前から感じていたことなのだ。

オーバーアクションの爆笑落語でありながら、どこかに「生きる哀しみ」が匂うのである。

笑いにはどこか哀しみが匂う、というのはどういうことであろうか。

ただおもしろおかしいだけのペラペラの笑いよりも、哀しみに裏打ちされた笑い、哀しみを通って来た笑いの方が深い、とも言えるのだ。

そう言えば、良い対人援助職者にも、そういう人が多いかもしれない。

いろんな顔が浮かぶ…。

但し、哀しみは超えなければならない。

時機が来たら、哀しみの根源とは向き合わなければならない、と私は思っている。

そうして初めてできる本当の援助がある。

枝雀は道半ばだったのだろうか。

その先の噺があったのではなかろうか。

今となっては知るべくもない。

残念である。

 

 

2019(令和元)年12月2日(月)『ダークサイド・イン・ザ・バックヤード』

Aくんは、ある精神科病院で働く若手精神保健福祉士である。

よく気がつき、頭も回り、マメに動く。

笑顔・冗談を連発し、上司・先輩に従順で

ちょっと過剰適応気味じゃないかと思うくらい、期待に応えてよく働く。

しかし、上司・先輩たち(特におっかない上司・先輩たち)の前では見せていないが

同僚・後輩たちが知っている、他の一面がある。

それは上司・先輩たちのいないバックヤードに入ると

愚痴、文句、すれっからし発言の垂れ流しが始まることだ。

この表裏(おもてうら)の二面性。

これだけで彼の生育史の想像がつく。

恐らくは支配的な親の許(もと)、その圧政の中で生き残るために、アンテナを張って、期待に応える自分を身につけたのであろう。

しかしそれは所詮、演技。

従順に服従しながらも、その底には反発がある。

よって「表」では勝手に過剰に服従しておいて、「裏」では反発を垂れ流す。

そしてやがて疲れて破綻する。

彼にとっての最大の問題は、そういう自分に対して「情けなさの自覚」がないことであった。

自分でその二面性に対して「いつまでも何やってんだ,オレは!」という情けなさの自覚がない。

情けなさの自覚がなければ、変化・成長へとつながらない。

そして案の定、彼はその精神科病院を辞めた。

またふりだしに戻る、である。

彼はまだ自分の二面性と向き合う気になっていない。

それならばまた別の所で働き、同じことを繰り返すであろう。

嗚呼(ああ)、已(や)んぬる哉(かな)。

表での過剰適応も、裏での反発もいらない。

いつでも、どこでも、誰の前でも、あなたはあなたでいようよ。

そこに着地しない限り、漂流の人生はいつまでも続いて行くのであった。

 

 

 

[補記]

バックヤードで後輩・同僚たちに向かってダークサイドを垂れ流すのには、もうひとつ、わけがある。

それは巻き込みだ。

「所詮、人間っていうのは、職場っていうのは、この世界っていうのはそんなもんでしょ。」

「ね。あなたもそう思うでしょ。」

と撒き散らして仲間を増やそうとする。

だから、トイレで一人で呟かないで、誰かがいるところで垂れ流すのである。

神経症的問題の持ち主は、仲間を増やそうとする。

引っ掛かることなきように。

2019(令和元)年11月25日(月)『自分探し 〜 同志の命日に 〜』

何歳になっても、いつまで経っても、同じところをグルグルグルグルと回り、「自分探し」を続けている人がいる。

精神科医にもいるし、臨床心理士にもいるし、ワーカーにもいるし、看護師にもいるし、作業療法士にもいる。

どうして「自分探し」が終わらないのか。

ひとつには、「自分」のありかを「どこか」に求めているからである。

もうひとつには、求める気持ちが切羽詰まっていないからである。

「自分」は「どこか」にはいない。

「自分」は「そこ」にいる。

あなたが生まれて来てからこの方、「真の自己」は一度もあなたから離れたことはない。

『華厳経』の善財童子もしかり、メーテルリンクの『青い鳥』もしかり、最後に見つけたのはいつも「そこ」であった。

「真の自己」はあなたの中に働いている。

そして、中途半端な「自分探し」では「自分」は見つからない。

ちょっと精神世界の本など読んでみる。

ちょっとその道の人に相談してみる。

ちょっとセミナーやワークショップに行ってみる。

ちょっと坐禅や瞑想に行ってみる。

もう「ちょっと」は良いでしょう。

人生は短い。

そろそろ勝負しなさい。

そろそろ徹底しなさい。

そして世間には「自分探し」を中学生の感傷のように笑う人もいる。

しかしその多くは、自分自身もまた「自分探し」に失敗した人たちである。

彼ら彼女らが「真の自己」を達成しているとはとても思えない。

せいぜい後から付いた「仮幻の自己」を自分だと思い込み、ニセモノの安定を得ているだけである。

だから「自分探し」を恥じる必要はないが

やるのであれば

他に求めず、自分の中に求めよ。

お茶を濁すような求め方をやめ、徹底的に勝負せよ。

「自己の本来の面目」を極めることは、人間の一生の大事である。

易行中の易行でありながら難行中の難行である。

しかし、やらないわけにはいかないのだ。

さぁ、どうする?

 

 

 

◆追伸

大相撲、令和元年九州場所、我らが北勝旺は3勝4敗で取り組みを終えた。

彼は一人で土俵に上がり、勝負を続けている。

2019(令和元)年11月8日(金)『Who is to blame?』

先日、落語を聞きにあるホールに出掛けた。

階段状の広いホールの一番後ろの席であったが

私の真後ろの席(通路)には、高齢女性が車椅子で座り(聞こえて来る介助者との会話から軽度の認知症の方と思われる)

また私の後ろの席(通路)の端にはリクライニングの大型車椅子で酸素マスクを付けた年配の男性が来られ

階段を挟んだ右横の席には白杖を持った年配男性が来られていた。

いずれも介助者同伴で、当たり前に落語を楽しみに来られているということに、なんだか嬉しい気持ちになった。

しかし、すぐに問題が起きた。

私の真後ろのおばあさんが、落語家の噺に対していちいち相槌を打ち、しゃべり出したのである。

しかもその声が通る。

私の前の席の若い男性が何度も迷惑顔で振り返る。

かと思うと、大型車椅子の男性が何か不具合があったのか、噺の最中に介助者に対して何度か話しかける(男性の声は低く小さいので気にならない)。

しかしそれに応答する介助者の声が大きい(男性の声の大きさからしてこの男性が難聴とは思えない)。

これまた何人かが振り返る。

そして今度は、右横の白杖の男性が、噺の最中に隣席の介助者に大きな声で話しかける。

それに対してはかなりの人数の人が振り返るが、彼には自分が見られていることがわからない。

(そのときの何も知らない男性の笑顔が私には忘れられない)

この様子を見て、私かつての電車内・バス内での体験を思い出した(その一部は以前、拙誌で触れた)。

自閉症と思われる青年に介助者(家族か施設職員とおぼしき人)が付いて座席にすわっている。

青年が大きな声を挙げ始める。

すると隣の介助者が「シーッ!」と言う。

青年は一瞬黙るが、数秒でまた大きな声を挙げ始める。

介助者がまた注意する。

それに対し、青年本人が「うるさい」「静かにしなさい」などと言い始める。

それはいつも言われているセリフなのだ。

介助者には彼の発声の理由がわからないのであろうか。

青年はヒマなのである。

車内が苦痛なのである。

社会的に受け入れられる形で車内で楽しく過ごすスキルを教えてもらっていないのである。

ならば、声を挙げて自己刺激行動で時間を潰すか、声を挙げてヘルプサインを出すしかないではないか。

それで怒られるのでは割が合わない。

「だったら車内での充実した時間の過ごし方をわかりやすく教えてくれよ。」

と青年は言いたいだろう。

青年に何の罪もない。

それと同じ。

上掲の3人とも、本人たちには何の罪もない。

問題なのは介助者であると私は思う。

何故、認知症のおばあさんの隣にいる介助者は、本人にわかるようにルールとマナーを伝えないのか。

何故、大型車椅子の男性の隣にいる介助者は、密やかな声でコミュニケーションしないのか。

何故、目の不自由な男性の隣にいる介助者は、彼にすぐにアドバイスしないのか。

いずれも見かねたホールの係員が歩み寄り、申し訳なさそうに声をかけていた。

世の介助者の方々の名誉にかけて言うならば、そんな介助者ばかりではない。

当人たちの特性を熟知し、行き届いたケアをされている介助者のいることも私は承知している。

未熟な介助者のせいで当事者が排除されるようになってはならないと思う。

これからの時代、真に多様性が世に受け入れられるためには

当事者でなく周囲の人間への啓発・教育が必要であることを改めて実感した出来事であった。

そして、これは我々医療関係者も同じ。

殷鑑遠からず、である。

今度はあの人たちと楽しく落語を味わいたいと願う。

 

 

2019(令和元)年10月31日(木)『で、どうする』

改めて医療・福祉業界を眺めていると、まだまだ人知れず懊悩している専門職の人たちが相当いるなぁ、と感じている。

懊悩するだけ見どころがあるんだけど、そのまま木成りの果物のように凋(しぼ)んで腐って行っては、もったいないやら、情けないやら。

どこまでいってもあなたの人生なんだから、あなたがそれで良ければそれで良いんだけどさ。

 

その中のほんのひと握りの人でもいいから

もうこれ以上、自分を誤魔化し切れなくなったら

演じ切れなくなったら

魂を売れなくなったら

そういうもんだに染まり切れなくなったら 

話しにいらっしゃいよ。

 

対象さえ満たせば、私は付き合わせていただきいますよ、本気で。

 

先延ばしにしている間にも、あなたの人生の時間はどんどん過ぎ去ってしまっているのです。

 

 

2019(令和元)年10月27日(日)『ホワイトナイト』

ホワイトナイト(white knight)とは金融経済用語のひとつで、敵対的買収を仕掛けられた会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併してくれる会社のことを指す。

まさに「白馬の騎士」が窮地から救ってくれる、というイメージから来ている。

 

ある精神科通院中の二十代の女性が本当は家を出て一人暮らしをしたいのだけれど、お父さんが恐くて言い出せないという。

担当の男性ワーカーに懇願して言う。

「代わりに父にかけあってくれませんか?」

 

夜間、PHSで呼び出すと怒りだすバカ当直医がいた。

怒鳴られて何も言えなかった看護師は、翌日、懇意の医師に言った。

「先生から言って下さいよ。」

 

仕事でクライアントとトラブルを頻発している課長のクレームを受けてばかりの部下がいた。

恐くて課長に言えない部下は係長に泣きついた。

「係長からなんとか言ってくれませんか。」

 

懇願する人たちの姿を想像すると、私の頭の中には“涙目のとっとこハム太郎”が浮かぶ。

「こんな無力で可哀想な私にどうしろって言うんですか。」

「代わりになんとかしてくれたっていいでしょう。」

 

そうはいかない。

子どもや制限行為能力者など、自分で自分のことを打開する力が制限されている場合や、

犯罪に関する場合、特殊な専門性を要する場合などは仕方がない。

頼って良いし、頼るべきでもある。

しかし大の大人が、自分で受けて立つべきことを“可哀想な私”を使って他者になんとかしてもらおうとするような阿漕(あこぎ)な悪依存にまんまとハマるわけにはいかない。

 

Once upon a time、敵軍に攻め入られそうになっている領主が、隣国に援軍を求めた。

隣国の将の答えはこうだった。

「貴国の兵があなたを含めて全滅するまでまず自力で戦う気なら兵を出しましょう。

 そうでなければ、大事な兵士を一人も出すわけにはいきませぬ。」

当然である。

全滅するまで戦う気なら援軍は来るかもしれない。

 

まず、ホワイトナイトを当てにする前に、覚悟のウォリアー(warrier:戦士)はいませんか?

と私は問いたい。

そこにいるでしょ。

 

 

2019(令和元)年10月15日(火)『許されていること』

台風19号による災禍はおさまっていない。

ある男性は、長年の夢だった店舗を自宅開業したばかりであったが、停電、断水の上に、河川の氾濫で調度を流され、泥だらけになった店舗を見て、茫然自失となっていた。

幸い被災をまぬがれた知人二人が、彼のことをとても案じていた。

しかし、実はその一人は、前立腺癌のサバイバーであり、八年間の闘病を続けていた。

またもう一人は、子どもの頃に糖尿病に罹患し、何十年も血糖値管理とインシュリン調整を行って来たが、昨年からは人工透析を受けていた。

人間、生きていれば、好むと好まざるとにかかわらず、いろいろなものが与えられる。

で、どう生きるのか。

いつもそこで試される。

自分の不幸をかこち、感情を垂れ流すのも人間なれど

自分の不幸を忘れ、他人の不幸を案じられるのもまた人間であると信じたい。

我々に許されていること。

それは人事を尽すことだけだ。

しかも健康に継続可能な範囲でね。

 

 

2019(令和元)年9月29日(日)『初秋の緑風苑ワークショップ』

昨日今日と福島県・磐梯熱海で初秋の緑風苑ワークショップを行って来た。

初めての9月開催で、天気も1日のうちにさまざまに変わったが、概ね暑いくらいの天候であった。

20190929.jpg

そんな中、涙あり笑いあり再会ありアクシデントありの1泊2日。

そもそもワークショップは、自分が自分を取り戻そうとし

相手が相手になることを応援しようとする場である。

従って、参加者が参加者に与える影響には非常に大きいものがある。

誰かが真摯にそして果敢に自分自身に向き合おうとすれば、他の参加者に、グループ全体に大きなインパクトを与える。

その反面、もし誰かが神経症的言動をやめようとせず、無力感にとらわれるならば、その悪影響も甚大である(それでは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」の要件に反する)。

改めて各個人の人間力とグループの集団力によってワークショップが作られることを実感した時間であった。

それは到底私一人が操作的に作り出せるものではない。

今回も良き参加メンバーに恵まれたことに感謝したい。

そしてワークショップが終われば皆、日常に戻る。

日常こそが正念場だ。

ワークショップでの体験の感触を胸に、仕事でもプライベートでも自分して行こう。

いつでもどこでも誰の前でも、あなたはあなたなのだ。

 

 

 

◆追伸

早々と次回の緑風苑ワークショップのお知らせ。

2020(令和2)年5月16日(土)17日(日)開催予定です。

参加希望の方は予定を空けておいて下され。

安田のおばちゃんも元気でね。

2019(令和元)年9月16日(月)『一発勝負』

昨日行われたマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で東京オリンピックのマラソン代表選手が内定した。

MGC一発勝負で決めることには賛否両論があったそうだが、私自身は一発勝負に賛成であった。

ひとつには、オリンピック本番も一発勝負であること。 

そしてもうひとつには、どういう方法で選考しても選手の真の実力を測ることができない、という視点からであった。

かつて教育界でも、1回だけの入学試験でその子の実力を本当に測ることができるのか、という議論があった。

そのとき私が支持した論旨は、一発勝負の、言わばギャンブルだからこそ、それで人間の能力が正確に測れるわけはなく、受かっても思い上がらず、落ちても自己卑下せず、むしろテストで人間の能力が正確に測れるという考えの方が思い上がりだ、というものであった。 

実際、今回のMGCでも、入学試験でも、いつも“番狂わせ”があり、それが一発勝負、それがこの世の中、という認識の方が、近視眼的にならず、大きな視野で人生を眺めていられると思う。

練習でも勉強でも、本番に至るまでの一人ひとりの努力をきちんと評価し、結果だけで自分の存在価値を測るなよ、とむしろ私は伝えたい。

前途洋々たる子どもたちにも、自分自身にも、そういった視点で生きて行ってもらいたい、生きて行きたい、と願っている。

 

 

2019(令和元)年8月29日(木)『成り下がる前に』

ある臨床心理系の大学院生が訪れた。

彼女の話を信じる限り、彼女が教官から受けている臨床指導は耳を疑うような内容であった。

自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けて、研究のようなものをしても教授や教官にはなれるのである。

少なくとも私は、本当のサイコセラピーを行うに当たって、致命的な“人格”的問題がそこにあると思う。

人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。

世界の大学院、教官の名誉にかけて、そうでない大学院もあるし、教官もいると私は信じている。

 

ある若手精神科医が訪れた。

彼の話を信じる限り、その大学の医局で行われている精神療法研究会の指導は目を覆うような内容であった。

自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けても、わかったようなことを言えるのである。

私は彼に尋ねた。

「あなた自身やあなたの大切な人が思い悩んだとき、その先輩から精神療法を受けたいと思う?」

もう一度言う。

人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。

世界の医局、精神療法専門医の名誉にかけて、そうでない医局、そうでない精神療法専門医がいると私は信じている。

 

ある精神保健福祉士が訪れた。

彼女の話を信じる限り、その就労支援施設の経営者や先輩たちの働く姿勢は、聞いていて眩暈がするほどひどいものであった。

安い給料、長い残業、名目上の就労率を上げるためのやりくり、利用者の利益よりも経営上の利益を上げるためのエセ福祉施設に成り下がっていた。

そういう話が多過ぎる。

「そんなことをするために苦労して精神保健福祉士の資格を取ったんだっけ?」

絶望してまた他の福祉施設に勤め、また絶望する。

そのうち、どこもこんなものかと思い始める。

世界の福祉施設やそこで働く精神保健福祉士の名誉にかけて、そうでない福祉施設があり、精神保健福祉士がいると私は信じている。

 

そしてこのような環境に出逢ったとき、各人の取る態度は二つに分かれる。

擦れて染まって魂売って、環境に支配される人間に成り下がるか、

擦れず染まらず魂売らず、どこまでもホンモノを追求する人間となるか。

八雲総合研究所は、後者に逞しきホンモノになってもらうための場所である。

 

 

2019(令和元)年8月21日(水)『People to come』

八雲は成長の場である。

今までの自分に「情けなさの自覚」を持ち、本来の自分に向かって「成長の意欲」を持って進んで行く場だ。

それなのに、今までの自分を持ち込んで来ようとする人がいる。

ということは、今までの自分に大して「情けなさの自覚」もないし、「成長の意欲」もない、ということだ。

私はこんなにわかってる、知ってる、できてる。

ならば、ここに来ないで、それで生きて行けば良いだろう。

お断りである。

依存する、特別な配慮を要求する、自分の方に合わさせようとする。

そうしていることに気づいて止められないなら、あなたが受けるべきは治療だ

精神療法専門の医療機関もある。

成長課題以外のどうでもいい話題、八雲の運営がどうの、建物がどうの、私の家族がどうの。

何しに来てんの?

これまたお断りである。

確かに人間というものは凡夫だから、神経症的なものがこころを過(よぎ)ったり、くだらない世俗的なものに気を惹かれたりすることもあるかもしれない。

要は、それに気づけるか否かだ。

気づけば止められる。

気づけない=情けなさの自覚を持てない、止められない=呑み込まれているようでは、八雲に来る時機ではない。

八雲ではガッツリ、あなたの「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の話をしよう。

これから八雲に来ようとされている人たちは「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を合わせ持つ方々と信じているし、

これまでも大半がそういう方々であった。

そういう方々のために成長のためのセラピーを行うことこそが私のミッションである。

 

 

2019(令和元)年8月16日(金)『直観鑑別』

外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「わ〜、これ、美味しい!」

「すっご〜い!」

「ははははは。」

などと何度も声を挙げている。

音量的に大きいは大きいのだが

大して気にならない。

何故ならば、発言に他意がないことがわかるからである。

本来特性である。

赤ちゃんが泣いているようなものだ。

(必要があれば淡々とマナーを教えてあげれば良い)

気持良く食事をいただいて店を後にする。

 

そして別の日、別の外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「あ〜、これ、何、何、何!?」

「美味し〜い!」

「〇〇〇(本人の名前)はねぇ。」

などと何度も声を挙げている。

音量的にも先の女性と同じくらいの大きさなのだが

その発言がいちいち癇(かん)に障(さわ)る。

発言の裏に動くものがある。

相手の男性はもちろん、音量が届く限りの人間を巻き込もうとする闇の意図が観える(本人が自覚しているか否かは別として)。

これは二次(後から身につけた)特性だ。

これに気づいてもらうのは、ひと仕事である。

この日居合わせた客にも料理人にも惨事であった。


もう何年も対人援助職として働いているのに、この両者の違いがわからない、という人がいた。

感度が鈍い。

余計な塵埃を払って、感度を磨き上げる必要がある。


またある人は、この女性両方に対して腹が立つ、と言った。

埋め込まれた「〇〇のときは〇〇すべきではない」に支配されているために、両者の表面的言動に反応し、その出所(でどころ)の違いがわからないのである。

これまた鈍い。

まず埋め込まれたものを除去する必要がある。

 

こういうことは、受け売りの知識をつけても、小手先の技術を学んでも、身につくものではない。

場を共にしたマンツーマンの指導、感化、薫習(くんじゅう)が必要である。

そして直観の精度は、この程度ではなく、無限に磨くことができる。

私が専門職に個人的な指導を行っている所以(ゆえん)である。

 

 


2019(令和元)年8月14日(水)『8月の悼み』

8月6日は広島の原爆忌。

8月9日は長崎の原爆忌。

8月15日は終戦記念日。

などなど戦争を思い起こさせる行事が続く。

子どもの頃、8月6日になると母に連れられ、広島の平和記念公園内にある、原爆で亡くなった叔父たち=当時の中学生たちの慰霊碑に行っていた。

(爆心地近くで被爆した叔父は結局、遺体も見つからなかった)

そしてその後に続くお盆に墓参りに行くと、広い墓地の一角に原爆犠牲者の写真が飾ってあるが祭壇あり、何故かその中に中学生の叔父の遺影があった。

母も、なんでここにこの写真があるんだろうねぇ、と不思議がっていたが、まだ幼さの残る顔になんとも言えない哀しみを感じたのを覚えている。


この時期になると思う。

こうして生かされていることの奇蹟を。 

我々凡夫は欲張りなので、ああじゃなきゃダメだ、こうじゃなきゃダメだ、とつい思ってしまうが、亡くなった方たちが身をもって示してくれたこの原点に、せめてこの時期ばかりは戻りたいと思う。

情的な追悼も良いが

霊的な追悼にならなければ、故人に申し訳ない。

 

さて、どう生きて死にましょうか。

 

 

2019(令和元)年8月5日(月)『夫婦の温度差』

「夫婦の温度差」と言っても、夫婦仲がどうのという話ではない。

この夏の熱帯夜に、冷房をどこまでかけるか・かけないかの話である。

テレビで取り上げていたのを横目で観ていただけなので、その詳しい内容は理解していないが、気になる箇所が一点だけあった。

夫が暑がりのため夜間冷房をガンガンにかけて、寒がりの妻は寝袋で寝ているという話である。

うーん。

妻が夫に合わせるんだ。

まさか、オレさまにおまえが合わせて当たり前、と思ってはいないよね。

せめて妻が愛する夫のために自ら望んでしていると信じたい。

そうなると、夫婦の温度差の話は、冷房の話ではなく、やっぱり夫婦仲の話になって来る。

愛する相手であれば、相手にしんどい思いをさせたくないと思うよね。

例えば、小さな子どもと寝るとすれば、自分と子どもとどちらに合わせるかは明白だ。

それが妻でも子どもでも、少なくとも私には、相手に合わせさせておいて平気で眠れる神経はない。

などと思っていたら、うちはとっくに夫婦別々の部屋で寝ています、という方がおられた。

合理的ではあるが、夫婦仲としてはちょっと寒い。

少しでも傍にいたかったあの頃は今どこに…。

なんだかきみまろのようになって来た。

ちなみに最近のエアコンは、同じ部屋でも場所により別々の温度設定できるそうだ。

それが現代の無難な解決法なのかもしれない。

 

 

2019(令和元)年8月1日(木)『太鼓』

あちこちで盆太鼓が聞こえる。

東京オリンピックパラリンピックの余波を受けて、夏祭りの太鼓会場(馬事公苑)を奪われた私は、太鼓を叩きたくとも叩く場所がなく、体がウズウズしている。

で、先日、太鼓の音に惹かれ、近所の小さな夏祭り会場に行ってみた。

揃いの法被を着た若い男女のグループが盆太鼓を叩いている。

東京音戸、炭鉱節などのスタンダード曲に加え、元々歌謡曲やアニメ曲などもよく取り入れられているが、初めて聴いたダンシングヒーローの盆太鼓に心奪われた。

櫓のステージのお兄さんの叩きっぷりが、曲の展開を熟知しているだけでなく、浴衣の踊り手たちの振りも取り込み、ソロ部分の盛り上がりを含めて演出が完璧なのである。

ちっくしょー、やられた!

自分だったらどう叩くかが頭の中を駆け巡る。

こういうときは、原曲と踊りの振りを徹底的に研究して、はからってはからってはからって準備するか、

全く何も準備せず何も考えず、手の動くまま足の動くまま、すべておまかせで踊るように舞うように叩くか、のどちらしかないのだ。

どっちもいいが、それにしても体がウズウズする。

やっぱり叩かなきゃ、いかんですわ、太鼓は。

しかし盆太鼓の叩き手は、オファーを待つのが基本。

呼ばれて初めてバチを握れる。

勝手に他の縄張りを荒らすわけにもいかず、また太鼓にはその叩き手集団の芸風に大きな違いがあるため、誰とでも組めるというわけでもない。

ああ、存分に太鼓を叩ける日はいつ来るのやら。

今夜もまた夢の中で太鼓を叩くのであった。

どどん!

 

 

2019(令和元)年7月29日(月)『面談』

面談前夜〜当日の朝に、その日の面談の準備をする。

予約表を確認し、来談される方の面談記録を見返しながら、一人ひとりの顔を思い浮かべる。

ああ、明日(今日)はあの人が来られる。

あのことはどうなっただろう。

それは私にとって、すごく楽しみなことである。

楽しみと言っても、一人ひとりが抱えておられる成長課題は決して軽いものではない。

その内容は千差万別であるが、いずれも自分の人生がかかった話をしに来られるわけである。

私も受けて立たなければならない。

毎日、呼吸をし、祈り、そのときを迎える。

全ては私のミッションを果たすためである。

そこにはやりがいしかない。

今の私に危惧があるとすれば、私が今生でお逢いすべき人に逢えているかどうか=私が私の役割を果たしているがどうかだけである。

令和改元と共に5月1日から始まった当研究所の組織改変が3カ月を迎えようとしている。

今後新しくお逢いすべき方々のことは、疾うにホームページ上で明確に示している。

(「スーパーヴィジョンのお申し込みを検討されている方へ」 「よくあるご質問」「面談時間の長さと面談頻度」

そこに例外はない。

基本的に[私の基準によれば]精神科医、臨床心理士、精神保険福祉士、社会福祉士、看護師、作業療法士をやっていて(わざわざそんな職業を選ぶんだもの)解決すべき成長課題がないわけがないじゃないの。

それを未解決なまま、自らもなんだかよくわからないままの人生を生き、

また臨床や福祉の現場で、患者さん、利用者さん、メンバーさんたちをあなたの未解決の問題に巻き込み(付き合わせ)、迷惑をかけて良いわけがないでしょ。

この人間に関わる仕事が、知識と技術(操作)でやれないことは、流石にわかっているよね。

関わるあなた自身の人間性そのものが“ものすごく”絡むんです。

それが人のこころに関わる仕事。

とても大切な仕事。

本気で向き合いたいと思ったら、そのときにどうぞ八雲の門を叩きなさい。

小さな面談室からあなたの人生が変わって行くかもしれません。

 

 

2019(令和元)年7月9日(火)『正しい地口(じぐち)の使い方U』

拙欄にも人気ページがある。

例えば、2013(平成25)年12月27日付『正しい地口の使い方』は、いまだに閲覧者数がトップ3内にある。

「そうは烏賊(いか)の〇玉…」の話であるが、読者の方々はこんな話題が好きなのかしらん、と不思議な気持ちになる。

などと思っていたら、たまたま聞いていた三遊亭圓生の落語の中に、面白い地口のセリフが出て来たのでご紹介する。

「下衆(げす)の考えと猫の金玉は後から出て来る」

また「〇玉」の話ですいません。

これはまた変わった地口だ、というわけで由来を調べてみた。

どうやら、子猫においては生まれたときの性別がわかりにくく、オスの場合は、生後カ月経ってから睾丸が下降して体外に出、いわゆる〇玉となってオスであることがわかるようになるのだという。

猫の金玉は後から出て来る、というのは獣医学的事実であったのだ。

そして下衆の考えの方は、下衆=お馬鹿さんなわけであるから、すぐに考えが思い浮かばず、後になってから間の抜けた考えが出て来ても役に立たない、ということであろう。

こんなことを書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを何度も書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、

ここまで読んで来て今ごろになってそう言うのが遅いんだよ!

だから、下衆の考えと猫の金玉は後から出て来るってんだ!
二度と読むな! このバーカ!

…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

 

2019(令和元)年6月29日(土)『若いヤツら』

基本的に、学生や新入職者たちを相手にした講義や研修は楽しい。

若い彼ら彼女らに無限の可能性を感じるからである。

中にはちょっと年齢の高い人たちもいるが

私からすれば、自嘲的に、おじさん、おばさんと自称したり

擦れた訳知り顔をするのはやめていただきたい。

1960年代に流行ったトラッドのブランドのコピーに

For the young and the young-at-heart

というのがあった。

生物学的な年齢は関係ない。

私が私しようとする生命(いのち)の勢いが溢れていることを

若いというのである。

かつてセラピーに訪れた83歳の女性が劇的な成長を見せたことについては以前に書いた。

そして、縁あって出逢った“若い”人たちの顔を眺めながら思う。

己を知り、己を活かし、己を実現する人生をどうか歩んで行っていただきたい。

もちろん若くったって生きていればいろいろある

その傷も、悩みも、苦しみも、ちゃんと向き合い、成長の糧にして行けば

やがて貴重な経験智となっていくだろう。

Go forward!

 

 

2019(令和元)年6月26日(水)『拾得物』

駅の構内でお金を拾った。

一万円札で二枚。

二つ折りの剥き出しで落ちていた。

駅員さんに届ける。

「拾得物の届け出、書かれますか?」

と訊かれたが、次の仕事の時間が迫っていたため

「ああ、いいです。」

と答える。

「拾得者のものになるかもしれませんよ。」

「いいです。いいです。」

そんな降って湧いたお金はいただかなくて結構。

今は働いて食べて行けるので十分だ。

急ぎ足で次の仕事に向かう。

そしてその日の仕事が無事終わった。

さて、宝くじ売り場に行くか。

おいっ!

 

 

2019(令和元)年6月23日(日)『表札』

「松田」の表札をつけている。

何でもないことのようだが、私には少しばかり意味がある。

かつて近藤先生から墨書の巻紙の手紙を戴いた。

その手紙そのものも有り難かったが、そこに込められたものが私にとってとてもとても有り難かった。

その文字にこもるものがある。

その封書に表書きされた「松田」の二文字を取った。

肉筆をスキャンし、檜の表札に焼き付けてもらったのである。

その表札は

大寺の門の金剛力士(仁王)像のように

悪しきものを退け

善きものを招き入れるのか。

いやいや、求める者を招き入れるという方がその役割らしい。

私を招き入れてくれたものがその文字の中に働いているのである。

しかしどこまでいっても、表札そのものは目印に過ぎない。

やがてその表札がなくても、今ここであなたにわたしに働いているものを感じよう。

そして初めて表札はなくなり、至るところ是れ法門となるのである。

 

 

2019(令和元)年6月9日(日)『八雲勉強会』

今日は新しく発足した八雲勉強会の第1回目。

4月までの二つの勉強会を統合し、新たな参加者を得、会場いっぱいのメンバーの顔を見たとき、ようやくここまで来た、と私的に感慨深いものがあった。

参加者は皆、面談で話をして来た人たちであるが、この集団にはかつてない「集団力」の兆しを感じたのである。

私が主宰して来た勉強会の歴史は結構長い。

形を変え、テーマを変え、名前を変え、二十五年以上になろう。

当初は私も若く、自分の問題に無自覚な参加者も多かった。

若いからそれもこれも引きずりながら突っ走れたが、まだ集団が成熟していなかった。

「集団力」とは、集団の参加者一人ひとりが成長することによって(私が介入しなくても)新たな参加者に対して、そして参加者相互に、感化力を持つようになることをいう。

集団が集団を育てて行けるようになるのである。

そうなれば理想的だ。

今はまだ「兆し」だけれど、ここに来てようやく「集団力」の芽生えを感じ、長くやっていると良いこともあるんだなぁ、という思いを強くした。

もちろんその力はあなたの力ではない。

あなたを通して働く力だ。

そこのところはしっかり押さえておこう。

それも踏まえて、さて、面白くなるのはこれからだ。

来月からも近藤先生の講演に刺激され、共に成長して行きましょう。

 

 

2019(令和元)年5月19日(日)『新緑の緑風苑ワークショップ in 磐梯熱海』

5月18日(土)19日(日)と福島県・磐梯熱海にて『新緑の緑風苑ワークショップ』を開催した。

天気にも恵まれ、気温は暑いほどで、冠名に相応しく、何よりも新緑が圧倒的であった。

ワークでは、前々回のワークショップではミュージカル映画、前回はムード歌謡と来て、今回は落語を素材として取り入れた。

私にとっても毎回がチャレンジである。

楽しみながら、体験を深めていただけたのであれば幸いである。

そもそも参加者は、ワークショップに参加するくらいだから問題を抱えているに決まっている。

しかし問題があるのは、あなたに後から付いた(身に付けざるを得なかった)神経症的な部分であって、本来のあなたには何の問題もない。

私が指摘するのも、あなたに後から付いた塵埃の部分なのである。

そこを自分本体が否定されたかのように誤解・曲解されませんように。

そこさえ押さえてしまえば、自分にはこんな問題あるよね、と正面から見つめ認めることが非常にやりやすくなり、それは成長への大きな武器となる。

今回も参加者によって作られたワークショップとなった。

各人が今なりの自分なりの精一杯で誠実に参加されたことに感謝したい。

そして最後にいつも思う。

面白くなるのはまだまだこれからだ。

また緑風苑で逢いましょう。

 

 

2019(令和元)年5月15日(水)『丹田呼吸の本意』

昔、丹田呼吸をやっていた頃は、段々に肚が据わり、自分が強くなって来たような気がしていた。

しかし、それは“我”が強くなっていたのであり、てめぇ、斬るぞ、という態度で人相も目付きも悪くなっていたように思う。

新宿を歩いていたとき、向こうから来る人たちが次々と道を開けてくれたのを今でも覚えている。

あのときもしチンピラと行き逢っていたらどうなっていたかと思うとゾッとする。

いつ死んでも良いと思っていたし、邪悪なものは叩っ斬ってやろうと思っていた。

そう思って毎日木刀を振っていた。

幕末の龍馬でなく新撰組の心持ちに近かったろうと思う。

これもまたのび太がジャイアンになって行く典型であった。

入って来た“気”を自分のものだと思って過信する。

自我は肥大し、慢心し、自分が強くなったと思い込む。

そうではない。

自分はどこまでいっても凡夫、無力・無能・非力なままなのだ。

そう思い上がることができること自体が愚かな証しである。

その力が本来、他力であること、借りものであることを忘れてはならない。

凡夫が運良く龍にまたがらせてもらっているだけのことであり、自分が龍であると勘違いしてはならないのだ。

自力で思い上がって強くなった気になるか

他力に助けられて勁くなっていることを自覚するか

それが決定的な分かれ目となる。

以前、小心者でビビリの青年が二人いた。

二人とも丹田呼吸で自分が強くなったと過信した。

私がその過信を指摘したところ

Aくんは再びビビって来なくなってしまい

Bくんは素直に内省し、本当の意味で勁くなって行った。

ここでもまた「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が試されるのである。

丹田呼吸の本意、掴むべし。

 

 

2019(令和元)年5月13日(月)『勁いのび太』

かの聖徳太子が『十七条憲法』の中で

「共(とも)に是(こ)れ凡夫(ただひと)あらくのみ」

と言われている。

要は、人間全員が凡夫(ぼんぷ)だ、ポンコツだけだ、と千四百年前に言われているのである。

前回の拙欄を読まれて

「本当に自分は凡夫だなぁ。」

と(ポーズでなく)心の底から思われた方は幸いである。

それを私は「情けなさの自覚」という。

そういう方々には大いに成長の可能性がある。

しかし

「そういう人いるよね。」

「自分は違う。」

と思われた方もいる。

中には“反応”した方もいるかもしれない。

そういう方々は今後、拙欄を読まれない方が良いだろう。

「情けなさの自覚」のないところに成長はなく、私との縁もない。

そしてその成長であるが、我々は元々が凡夫なのであるから、自分の意図的努力=自力で成長できるなどと思わない方が良い。

凡夫にできることなどたかがしれている。

頑張ってなまじっか少しでもできたりすると、すぐに増長する。

我は肥大しやすいのだ。

欧米の精神療法が自我の強化を目指して来たことに私は強い違和感を覚える。

のび太をジャイアンにしてどうする。

のび太はのび太のままで勁くなれる。

正確に言えば、のび太はどこまでいっても弱いのだけれど、弱いままで勁くさせていただける道があるのである。

それが他力。

その道はいくつもあるが

例えば、丹田呼吸。

最近になってアメリカで境界性パーソナリティ障害や心的外傷後ストレス障害の治療法の中に呼吸法が取り入れられ、日本に逆輸入されている。

日本人が言い出せば胡散臭がられるかもしれないものが、舶来になると重宝がられるというのも情けない話である。

しかし残念ながら、厳密には、深呼吸や腹式呼吸と丹田呼吸の違いがわかっておられない。

肚が据わらなければ意味がない。

呼吸によって肚を据わらさせていただけるのが丹田呼吸。

出る息で我が吐き出され

入る息で大きな力をいただく。

それは自分の力ではない。

しかし勁くなる。

勁いのび太になる。

Yes, I can なんて有り得ない。

凡夫は全員 No,we can't である。

そして有り難いことに Yes, he can なのだ。

He が I して世界は踊る。

今回はこれくらいで。

 

 

2019(令和元)年5月7日(火)『凡夫悲歎述懐』

“私”は本来

無力である

無能である

非力である

ヘタレである

ビビリである

見栄っ張りである

虎の威を借る狐である

卑怯である

しかしそれを認めない

ほんのわずかに認めたとしても

自分がこうなったのは他人のせいである

子どもがこうなったのも他人のせいである

独善他罰である

責任をなすりつけるのは大得意である

自分は被害者である

自分は悪くない

自分は正しい

それどころか

自分も未熟ですから、と謙虚なフリすらして見せる

偽善的である

狡猾である

虚栄心の塊である

ポーズはあっても本質的には何の反省もない

 

さぁ、みんなで唱えましょう

これが“私”の実相です。

 

でもね

全部バレてる

漏れてる

丸見えである

気づいてないのは自分だけ

愛想笑いのその裏で

世人から軽蔑と嘲笑に包まれていることさえ

気がつかない鈍感さ 

そして馬鹿は今日も踊る

 

それが“我々”凡夫の実相です

 

 

2019(令和元)年5月5日(日)『その人を観よ』

前評判というものがある。

噂話というものがある。

あの患者は面倒くさい。

あの親の方が重病だ。

などなど臨床場面でも、受診前に関係者からそんな情報が入って来ることがある。

しかし、経験的に言うならば、余り当たったことがない。

火のないところに煙は立たず、というが

現実には、尾ひれが付くどころか、羽根まで生えて飛んでいくようなガセネタも多い。

よって私は信じない。

むしろ自分の眼でその人を観、その人を感じるまでは、鵜呑みにしない。

情報過多の現代だからこそ、決して騙されてはならないと思う。

自分が近藤先生に出逢うまでも、近藤先生についていろんなことを言う人がいた。

しかし私はそう言っている人たち自身の人格を信じられなかったので

他者情報を排除し、自分で文献を読み、直接に近藤先生に逢って自分の感覚で師と決めた。

自分で決めたことなら自分で責任が取れる。

間違いはなかった。

そして自分の観る眼に自信をつけた。

騙されるな。

あなたもまたあなたの眼でその人を観よ。

 

 

2019(令和元)年5月4日(土)『Xさんへ』

「他者評価の奴隷」ということは度々申し上げて来た。

我が国においても、時代が令和になっても、他者評価を気にする方々がまだまだ多いように感ずる。

いつも先聖たちのことを思う。

イエス・キリストがどうであったか。

釈尊がどうであったか。

孔子がどうであったか。

彼らでさえ、酷い他者評価どころか、生死に関わる迫害まで受けて来た。

人格が高邁であれば、言動に気をつけていれば、誰からも評価されるというのは、残念ながら幻想である。

だとすれば、三聖に遠く及ばない我々が、悪意の攻撃や、病的非難に晒されることなどは当たり前なのである。

娑婆には、常に悪意の人、病的攻撃性の人間が存在する。

それは私の臨床経験からも断言できる。

それはカスタマーレビューや書き込みやクレームや苦情SNSなどを見れば、あなたにもおわかりでしょう。

だから振り回されることなかれ。

基本は、自分の評価は自分で決めることだ。

自分自身が一番厳しい自分の評価者であれば良い、本質的な意味で。

そしてもし他者の評価を採用するのであれば

その評価者を選ぶべし。

信頼する人以外は、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、即ゴミ箱行きであるし

反対に、信頼する人であれば、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、真摯に検討するべきである。

そしてその結果がどうであっても、人生単位でその責任を取れば良い。

あなたの人生の主人公があなたであることを忘れてはならない。

他者評価の奴隷、排すべし。

 

 

2019(令和元)年5月1日(水)『令和元年』

令和である。

だからなんだってんだ、と言われると、何とも言いようがない。

それでも少なくとも、改元、新年、誕生日、何周年、アニバーサリーデイなどというものは、心機一転のきっかけになる。

当研究所も、令和元年5月1日、本日をもって組織の大きな変更を行った。

昨秋ホームページ上で告知して以来、8カ月の移行期間を置いたので、今のところ、大きな混乱もなく経過している。

もし8カ月間も当ホームページをご覧になっていなかったというのであれば、それはもう縁が切れたということであり、

稀に、新たに決めた「対象」でないのに、自分だけは例外であろうと一人決めして、久しぶりに面談を申し込んで来られる方がいらっしゃる。

残念ながらお断りすることになる。

これから当研究所が何をするか、旗色は鮮明に示した。

極めてシンプルに、本気で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、月1回以上通って来られる方たちとだけ面談して行くつもりである。

より明確に与えられた天命を果たす日々としたい。

 

 

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