所感日誌『塀の上の猫』

※『塀の上の猫』について

 

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当代「塀の上の猫」…駅から研究所までのどこかにいます。

2020(令和2)年1月21日(火)『受験前夜』

世の中は受験シーズン真っ只中である。

他でもない自分が決めた道だもの、逃げるわけにはいかないさ。

そして今、試験本番まで残された時間は短い。

となれば、その日まで「食う・寝る・学ぶ」で、食事と睡眠(あとはトイレと風呂くらいか)以外、勉強だけに没頭してもバチは当たらないだろう。

(但し、ゆったりと湯船につかり、しっかり眠ることは、頭の回転と記憶の定着のためにお勧めする)

そして試験会場で「試験に必要な物以外は片付けて下さい。」と言われるまで、見直しを続けよう。

さらに試験中は最後の1秒まで諦めてはならない。

投げ出さずに粘るのだ。

現にそれが合否を分けたこともある。

我々はどんなに頑張っても自分以上にはなれないが、不安によって自分未満になってしまってはもったいない。

少なくとも試験後に「やるだけやった。」と思えるところまでは、やってやろうじゃないか。

そして戦い終わり、答案用紙を出してしまえば、あとは野となれ山となれ。

何がどうなろうと、私は君がそこまで頑張ったことの証人でいよう。

君は試験とも自分ともちゃんと勝負した。

だから、そう思えるようになるために

今はただ

やれぇーっっっ!!!

 

 

2020(令和2)年1月20日(月)『自己分析』

私が初めて買った心理系の本が、ホーナイの『自己分析』であったことは、以前どこかに書いた。

当時、十八、九歳くらい。

お茶の水の丸善の心理学コーナーで、長時間読み比べて買ったのを今でも覚えている。

後に自分がホーナイ派の精神分析を学ぶことになろうとは夢にも思わなかった。

そして自己分析。

フロイトは自己分析を認めない立場を取った。

それもわかる。

我々は自分のことを見たいようにしか見ない。

相当に詰めて内省したつもりでも、一番重要なところ、痛いところは、無意識にあるいは巧妙に回避するか誤魔化す。

よって他人から、専門の精神分析医から分析してもらった方が良い、いや、してもらうしかない、ということになる。

ホーナイの立場は異なる。

自己分析は可能だとする。

我々の中にある「真の自己」(本来の自分)が働けば、「仮幻の自己」(後から身につけたニセモノの自分)に気づくことができる、感じ取れるはすだ、と考える。

それはそうだ。

しかし、ホーナイは条件を付ける。

最初から一人での自己分析は難しい。

やはりそれは浅いか、誤ったものになりやすい。

まず本物のセラピスト(自分自身が「真の自己」を実現して来た経験を持つセラピスト)から分析してもらう経験を持った方が良い。

その体験が基となって、自己分析が可能になって来る、という。

なるほど、まず穏当なところと言うべきか。

市井にも、対人援助職者の中にも、我流や聞きかじりの知識で自分や他人を分析したがる人が多いのはご存じの通り。

それはやっぱり浅いか、誤ったものになりやすい。

単なるおしゃべりや与太話でするなら良いけれど

人のこころの真実を求めるのであれば

信頼できるセラピストの許、まず自分が自分と勝負する機会を持った方が良いと私は思う。

ちなみに私は師が存命中の間は、せっせと教育分析に通い

(それも本当は「分析」などという狭い範囲を超えたものであったが)

通いながら自分で自分を感じ取る練習をし

師亡き後は、強制的に自分でやらざるを得なくなった。

それでもなんとか間に合って、今この仕事をやれているという次第である。

そして思う。

まだまだ師から聴いてなかった人間のこころの、そしてこの世界の真実の奥行きがある。

それは自分で開拓して行くしかないと覚悟している。


 

 

◆追伸

我らが北勝旺、令和2年初場所、ここまで3勝1敗である。

彼もまた師匠に習いながら自分を磨いている。

2020(令和2)年1月13日(月)『TAKARAZUKA!』

宝塚ーっ!

前から一度は観てみたいと思っていたが、チケット入手は困難を極め、半ば諦めていた。

そんなとき、ヘビーファンの方から運よくチケットを分けていただき、遂に初見参となった次第である。

で、出かけてみたら

ミュージカルもレビューも面白いっ!

生舞台しかも生オーケストラは良いっ!

トップスターの風格も良いっ!

クラクラして来た。

歌って踊ってが好きな私が、宝塚歌劇を好まないわけがない

フツーにしゃべれよ、というところを敢えて歌って踊る。

しかもたっぷりの振りを付けて。

いーじゃないの。

また、上演中に「客席降り」という、タカラジェンヌが客席まで降りて行って歌って踊ってくれる交流がある。

ファンは予めそのための準備をしっかりとして来るんだとさ。

そんなことされりゃあ、そりゃ、推しメンにもなるだろ。

そして折角観に行ったからには、宝塚の定番モノをしっかり味わいたい。

フィナーレが近づき、待ってましたの大階段登場!

おおーっ。

ああ、シャンシャンだっ!

(シャンシャンとは、公演のフィナーレでタカラジェンヌたちが手に持つ小道具のこと

持ってみたーい!

出ました、背負い羽根!

3番手スター、2番手スター、そしてトップスターになるほど巨大化して行く豪華絢爛な背負い羽根。

そこまでやるかー。

背負ってみたーい!

ほとんどお調子者の馬鹿である。

当然のことながら、観る方よりやる方がさらに好きなのだ。

近藤先生がニューヨークにおられた頃、ブロードウェイのミュージカルを観に行かれると、帰ってから必ず自宅で再演されていた、という話を奥さまから伺ったことがある。

この師にしてこの弟子あり、である。

私も当然、自宅で再演さ。

やるときにやらなくてどうする。

でもやっぱり、公演全般を通じて一番感動したのは、タカラジェンヌたちのひたむきな一所懸命さである。

宝塚音楽学校を目指して幼少期からバレエに日本舞踊に声楽などの習い事に明け暮れ、運よく入学できたとしても、在学中は厳しい指導や競争が続き、卒業・入団してからもみんながトップスターになれるわけではない。

それでも一所懸命に自分の役を歌って踊って演じて、この舞台を創り上げているんです、彼女たちは。

濃い人生の時間を過ごしていると思う。

そりゃあ、まだ若いからいろいろあるだろうけどさ。

さらに成長しろよ。

おまえもな。

はい。

初宝塚、満足である。

 

 

 

追伸

そう言えば、昔は竹の塚歌劇団が好きだったなぁ。

2020(令和2)年1月12日(日)『第7回八雲勉強会』

今日は弦巻で八雲勉強会。

今回はまず近藤先生による講演『迷いのち晴れ』を聴く。

先生の著書と同名の講演であるが、もちろん別内容である。

新たに響くこと、感動する場面は多々あったが

今回は特にここでお伝えしたいことがひとつ。

それは今回の講演後の聴衆との質疑応答の中で述べられていた。

近藤先生の講演は「情緒的」のみならず「霊的」に「感動」させられることが多い。

そういうレベルでの「感動」を与えられる人はもちろん稀有であり、有り難いことであるが、だからこそ陥りやすい落とし穴もある。

近藤門下の弟子たちは元より、クライアントの方々、講演に何度も足を運ばれた人たち、先生の著作の愛読者、すべてに共通して言えるのは、その「感動」だけで終わるという弊害である。

面談に伺う、お話に触れる、著作を読み返す、その度に深い「感動」がある。

しかしそのときだけで終わり。

時と共に「感動」は薄れ、元の木阿弥の生活に戻り、目に観えた「成長」がない。

そしてまた面談に伺う、お話に触れる、著作を読み返す、その度に深い「感動」がある。

しかしまたそれで終わり。

そういうことが非常に多いのだ。

何が欠けていたのか、何が間違っていたのか。

そのことを今回の講演の質疑応答の中で明確に述べられていた。

「『感動』に頼らないで『行動』すること」

その通りです。

「行動」とは何か。

今回の講演では特に1日3分でも毎日瞑想の時間を持つことを勧められていた。

「行動」は「継続」でなければならない。

「短いけれど、3分間だけども、3分間の中に永遠がある。その中に浸っているときは、時を思わず、年を思わず、そうじゃなくて、ただ絶対の、本当に清らかな世界の中にあなた方は生きているわけです。そのときに体から全部洗われて行く感じです。心が全部洗われて行く感じです。この気持ちを本当に感じたときに、あなた方は自ずから『本当の自分』になります」

「私たちは今、こうやって目を閉じていたときに、本当はひとつの世界にいたんです。何にも思わず、一人でいるのに、一人とか二人とか考えなかった。一人ということも考えなかった。何にも考えない。その中で我々はひとつの世界に住んでたわけです」

「目をつむって、今のこの娑婆の、ね、この現実の欲と功名心と競争心に溢れた、その世界を逸脱して、超えて、超える自分、そういうものをね、感じてもらいたいと思いますね」

「静寂の中に響く、大きな生命の音を聴くことができるだろうと思うんですよ」

 

何も付け加えることはない。

それではまた次回2月9日(日)に弦巻でお逢いしましょう。

 

 

2020(令和2)年1月6日(月)『「自力」から「他力」へ』

[1]「自力」で立つ

まずしっかりとした「自分」を確立する。

「自力」で生きられるようになって初めて一人前の大人である。

まず他者評価の「奴隷」をやめる。

相手の思惑を察し、自分を抑えて、気をつけて頑張り、承認・評価して下さい、という奴隷根性をやめる。

生育史の呪縛を解く。

そして人生の「傍観者」になることもやめる。

自分の人生のセンターに立つ。

自分で考え、自分で感じ、自分で決める。

選択・決断し、発言・行動し、その責任を取る。

自分で自分の人生を切り拓く。

やると決めたらやる。

徹底的にがんばる。

他者からの余計な非難・中傷・邪魔・妨害はぶっ飛ばす。

そうして初めて自分の人生が始まる。

自分の人生の「主人公」になったと言える。

しかし、ここまでの「自分」には、「自我」の「自分」が混入する。

「自力」の最大の弱点は「自負」(「俺が」「私が」やっている)が生まれることにある。

「自負」が生まれれば「自我」肥大が起こる。

「我」が強くなってしまうのだ。

(ちなみに「我を張る」ことを「がんばる」という)

自己中心的(自我中心的と言った方がいいか)になる。

エラソーになる。

そして独善他罰が起こる。

他者を批判し、自分の価値観や考えを押し付けようとする。

当然ながら、その鬱陶しさに人は付いて来ない。

やがて逃げ出す、見捨てる、離れて行く。

ジャイアンに人望がないのは致命的である。

そういう人のまわりには誰もいなくなるか、気の弱い(あるいは人の良い)人たちだけが残るのが関の山である。

 

[2]「他力」にまかせる 〜「自力」を超える 〜

だから次の段階が必要になる。

例えば、今のオリンピアンの中にさえ、自分が練習して努力して=自力で今の体や技術を作り上げたと自負している人がいるかもしれない。

しかしそれは大きな勘違いである。

その練習に耐えられる体や気力、知力というのもあなたが作ったのか?

たまたまあなたに与えられていたものが達成させてくれたに過ぎない。

それと同様に、それまで「自力」と思っていたものすべてがやがて「他力」なのだとわかる。

それは「他力」が「自力」の顔をして、あなたを通して現れていたのに過ぎない。

そこを間違えてはいけない。

元々私たちの中にあるものは何もない。

私たち自身はどこまでいっても、無能・無力・非力の「凡夫」でしかないのである。

だからむしろ無駄な「はからい」をやめて「おまかせ」しなければならない。

この世界は、この世界を世界させる「働き」に満ちている。

桜を桜させ、すみれをすみれさせ、

あなたをあなたさせ、私を私させようとする「働き」に満ちている。

その「働き」のことを「他力」といい、「妙用(みょうゆう)」というのだ。

人間の「成長」というのは、その「働き」に従って、おまかせして、「本来の自分」を実現して行くことに他ならない。

そこに私たちが生を与えられたミッションがある。

はからいの「自力」はいらない。

むしろ邪魔である。

「他力」が「自力」の顔をして、あなたを通して現れて来るのだけは歓迎する。

(そういうときは「がんばろうとしなくてがんばれる」という不思議な現象が起きて来る。已(や)むに已まれずやってしまう、できてしまう感じ。意識的に自分に鞭打ってがんばるのとは全く異なる)

そしてその「他力」の中にこそ、本当の「大悲」(愛)も利他行も行われる。

気分屋の「自力」では無理だ。

気まぐれ、思いつきの「愛情」は出ても、ブレない、広大無辺な「愛」はない。

さて広長舌過ぎた。

「自力」から「他力」へ。

実践と体験、体得あるのみ、今から、日々の具体的なことの中で。

 

 

2020(令和2)年1月1日(水)『元旦』

元日の朝、東京は快晴に恵まれた。

松陰神社に初詣に行く。

今年から初詣は松陰先生(「しぇんしぇい」と読む)の神社(かむやしろ)とする。

私にとって「神」は「働き」の異名なので、宗教宗派を問わず、無宗教も含め、なんでもよろしい。

時に散見する狭量排他差別的な姿勢に素朴な違和感を覚える。

要は霊的感性の問題である。

この世界を通して、あなたを通して、私を通して

この世界を世界する、あなたをあなたする、私を私する

「働き」が感じられますか、という問題なのだ。

それは主義主張思想哲学教義ではなく、「体験」の事実である。

その「体験」こそが私の精神療法の根本にある。

そして、その「働き」の別名を「光」と呼ぶ。

麗春光明無量

無量の光が

世界となって、あなたとなって、私となって

踊りましょう。

 

佳き年でありますように。

 

 

 

令和二年 元旦

2019(令和元)年12月31日(火)『大晦日』

今日で令和元年が終わる。

みなさんにとって今年一年はどういう一年だったでしょうか。

年を取るごとに一年経つのが早く感じられる、と言いますが

それだけにこの一年を、来年一年を、偽りの自分で生きるわけにはいかないじゃないですか。

八雲に通って来られた皆さん。

あなたの成長はどこにありましたか。

あなたの課題はどこにありますか。

さらに一緒に取り組んで行きましょう。

未解決の問題を抱えながら、まだ自分と本気で向き合っていない皆さん。

いつ向き合いますか。

一人で向き合いますか。

誰と向き合いますか。

ここでなくて構いません。

八雲でなくて構いません。

そんなケチなことは言いません。

また当研究所の対象と異なる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、向き合える場所は必ずあるはずです。

かつての私が一人で探し出したように。

できるならば、早い方が良いと思います。

あなたがいくら若くても

この一年はこの一年だけの一年なのだから。

新年が、あなたが本当のあなたを生きる一年となるよう祈ります。

 

 

 

恵存

2019(令和元)年12月20日(金)『面倒くさい人U』

ややこしい問題を幾重にも抱えた面倒くさい人たちの中で、私が関わらざるを得ない、もうひとつの人たちがいる。

その人たちは、心からの「情けなさの自覚」も切実な「成長への意欲」も何もない。

よって通常ならば、私が関わることのない人たちである。

しかし関わらざるを得なくなる。

何故ならば、彼ら彼女らとの間に今生(こんじょう)の「縁」があるからである。

これは仕方がない。

私に選択肢はない。

その人たちを見ていると、見れば見るほどつくづくとバカチンである(失礼)。

本当に救いようがない(また失礼)。

それがまた事実なんだからしょうがない(またまた失礼)。

しかし「相手が死ぬか、俺が死ぬまで面倒見なきゃならんのだろうなぁ」と思わせる「縁」がある。

だから仕方がない。

私が決めることではない。

天が決めることなのだ。

これもまたミッションである。

覚悟を決めて付き合うしかない。

(ちなみにこういう「縁」は研究所外の関係で起きる。

 研究所では対象外となるからだ)

でも不思議なんだよなぁ。

そういう場合は苦にならないのである。

相当面倒くさいのに…。

天を仰ぐ。




2019(令和元)年12月19日(木)『面倒くさい人』

「あー、こいつ、面倒くせぇ!」

と感じる人がいる。

ややこしい問題を幾重にも抱えた人である。

しかし、そのことと、その人と付き合いたいと思うかどうか、とは全く別件である。

どんなに面倒くさくても

自分で自分の面倒くささを自覚している人がいる。

そしてその面倒くささを乗り越えようと死に物狂いになって取り組んでいる人がいる。

こういう人とは付き合ってみたい、いや、是非とも付き合いたいと思う。

今の面倒くささがどんなにひどくても、そんなことは問題ではない。

「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が問題なのだ。

そうして実際にそういう人は変化・成長して行く。

これが素晴らしい。

反対に、中途半端程度の面倒くささを持っている人でも

それに対する心からの「情けなさの自覚」や切実な「成長への意欲」を持っていない人がいる。

そういう人と付き合いたいとは思わない、いや、付き合いたくない。

そうして実際にそういう人は成長しない。

信じて受け入れる「素直さ」も、藁をも掴む「切実さ」も持っていない。

かつて受験生の家庭教師をやっていた頃を思い出す。

どんなに成績が悪くても、例えば、数学20点なら20点の自分の実力を自覚し(誤魔化さず認め)、現状を乗り越えようと一所懸命に勉強する子は、どんどんと実力が伸び、実際に受験も合格して行った。

反対に、50点くらいの実力があったとしても、その実力を認めず、「僕の実力は80点くらいですかねぇ」などと言って、必死に勉強をしない子は残念ながら合格には至らないものだ。

私が家庭教師をした子が全員合格したのは、そのときの実力で引き受けるかどうかを決めず、「できない自覚」と「勉強する意欲」を持っているかどうかで引き受けて来たからである。

そういう子は、数学20点からでも、どんどんと実力が伸びる。

そう思うと、私が人に関わる基本的姿勢は、昔から変わらんなぁ、と思う。

面倒くさい人も大いに歓迎します。

但し、心からの「情けなさの自覚」と切実な「成長への意欲」は必要です。

 

 

2019(令和元)年12月10日(火)『哀しい噺』

落語が好きなことは何度か述べた。

贔屓は、故人なら、三遊亭圓生(六代目)、春風亭柳昇、存命中なら、柳家小三治、入船亭扇遊というところであろうか。

好きな噺家を聞けば、その人がわかるというが、私の場合はどうだろう。

また年を取れば変わるかもしれない。

しかしもう一人、入れたい噺家がいる。

上方の落語家・桂枝雀である。

うつ病で自殺された経緯から、彼の噺を聴くとどこか物悲しくなってしまう。

しかし実のところ、それは生前から感じていたことなのだ。

オーバーアクションの爆笑落語でありながら、どこかに「生きる哀しみ」が匂うのである。

笑いにはどこか哀しみが匂う、というのはどういうことであろうか。

ただおもしろおかしいだけのペラペラの笑いよりも、哀しみに裏打ちされた笑い、哀しみを通って来た笑いの方が深い、とも言えるのだ。

そう言えば、良い対人援助職者にも、そういう人が多いかもしれない。

いろんな顔が浮かぶ…。

但し、哀しみは超えなければならない。

時機が来たら、哀しみの根源とは向き合わなければならない、と私は思っている。

そうして初めてできる本当の援助がある。

枝雀は道半ばだったのだろうか。

その先の噺があったのではなかろうか。

今となっては知るべくもない。

残念である。

 

 

2019(令和元)年12月8日(日)『第6回八雲勉強会』

今日は弦巻で八雲勉強会。

今回は近藤先生による対談『心身平安への道』の後半部分、

かつてラジオで3回に渡って放送されたものの後半1.5回分を参加者と共に聴く。

前回は半生記的内容が中心であったが

今回は表題通り、心身平安に至る道について語られた。

話が進むにつれ、

女性の方がスッと念仏に入るのが早い。

ちゃんと悩んでいる人には「悩んでいる君の方が本当なんだよ」と言ってやる。

「あなたは今、人間に与えられた智慧を入れようとしているチャンスにあるんだ」と。

世間的標準を外してね、本当にその人の持ってる人間としての力っていうものを観て上げる必要がある。

薫習(くんじゅう)によって、われわれは相手(患者、利用者、子ども、パートナー)に影響を与えているんだから、自分っていうものをよっぽど考えなきゃいけない。

精神分析だけでやられたら、人間っていうものがほんのわずかしかわからない。

人間っていうものを作っていかなきゃいけない。

など、こころの琴線に触れる言葉が多く、最後に心身平安に至る道として

(1)正しい呼吸をする。

(2)外的なものに一心になる、集中する。

(3)内面において一心になる、集中する。

(4)心が乱れたときは、風によって海面には波が立つけれども、海の底では落ち着いていることを味わえるようになって来る。

(5)自然とのつながりを感じ、共に生きているという感覚を持つ。

(6)今、付き合って良い人、悪い人がわかるようになって来る。

(7)仏典、聖書などのより深い意味がわかるようになって来る。

(8)食べること、飲むこと、人との付き合いなど、いろんなことが味わえるようになって来る。

ということを示された。

どこまで行っても、肉声にこもるもの、言外に響くものをここに記すことはできないが、ほんの一部でも読者に伝わるものがあれば幸いである。

一度だけの人生、軽佻浮薄、酔生夢死に生きて死ぬわけにはいかない。

ちゃんと与えられた自分を生きようよ。

 

ではまた次回は年の改まった令和2年、1月12日(日)に弦巻でお逢いしましょう。

 

 

2019(令和元)年12月2日(月)『ダークサイド・イン・ザ・バックヤード』

Aくんは、ある精神科病院で働く若手精神保健福祉士である。

よく気がつき、頭も回り、マメに動く。

笑顔・冗談を連発し、上司・先輩に従順で

ちょっと過剰適応気味じゃないかと思うくらい、期待に応えてよく働く。

しかし、上司・先輩たち(特におっかない上司・先輩たち)の前では見せていないが

同僚・後輩たちが知っている、他の一面がある。

それは上司・先輩たちのいないバックヤードに入ると

愚痴、文句、すれっからし発言の垂れ流しが始まることだ。

この表裏(おもてうら)の二面性。

これだけで彼の生育史の想像がつく。

恐らくは支配的な親の許(もと)、その圧政の中で生き残るために、アンテナを張って、期待に応える自分を身につけたのであろう。

しかしそれは所詮、演技。

従順に服従しながらも、その底には反発がある。

よって「表」では勝手に過剰に服従しておいて、「裏」では反発を垂れ流す。

そしてやがて疲れて破綻する。

彼にとっての最大の問題は、そういう自分に対して「情けなさの自覚」がないことであった。

自分でその二面性に対して「いつまでも何やってんだ,オレは!」という情けなさの自覚がない。

情けなさの自覚がなければ、変化・成長へとつながらない。

そして案の定、彼はその精神科病院を辞めた。

またふりだしに戻る、である。

彼はまだ自分の二面性と向き合う気になっていない。

それならばまた別の所で働き、同じことを繰り返すであろう。

嗚呼(ああ)、已(や)んぬる哉(かな)。

表での過剰適応も、裏での反発もいらない。

いつでも、どこでも、誰の前でも、あなたはあなたでいようよ。

そこに着地しない限り、漂流の人生はいつまでも続いて行くのであった。

 

 

 

[補記]

バックヤードで後輩・同僚たちに向かってダークサイドを垂れ流すのには、もうひとつ、わけがある。

それは巻き込みだ。

「所詮、人間っていうのは、職場っていうのは、この世界っていうのはそんなもんでしょ。」

「ね。あなたもそう思うでしょ。」

と撒き散らして仲間を増やそうとする。

だから、トイレで一人で呟かないで、誰かがいるところで垂れ流すのである。

神経症的問題の持ち主は、仲間を増やそうとする。

引っ掛かることなきように。

2019(令和元)年11月25日(月)『自分探し 〜 同志の命日に 〜』

何歳になっても、いつまで経っても、同じところをグルグルグルグルと回り、「自分探し」を続けている人がいる。

精神科医にもいるし、臨床心理士にもいるし、ワーカーにもいるし、看護師にもいるし、作業療法士にもいる。

どうして「自分探し」が終わらないのか。

ひとつには、「自分」のありかを「どこか」に求めているからである。

もうひとつには、求める気持ちが切羽詰まっていないからである。

「自分」は「どこか」にはいない。

「自分」は「そこ」にいる。

あなたが生まれて来てからこの方、「真の自己」は一度もあなたから離れたことはない。

『華厳経』の善財童子もしかり、メーテルリンクの『青い鳥』もしかり、最後に見つけたのはいつも「そこ」であった。

「真の自己」はあなたの中に働いている。

そして、中途半端な「自分探し」では「自分」は見つからない。

ちょっと精神世界の本など読んでみる。

ちょっとその道の人に相談してみる。

ちょっとセミナーやワークショップに行ってみる。

ちょっと坐禅や瞑想に行ってみる。

もう「ちょっと」は良いでしょう。

人生は短い。

そろそろ勝負しなさい。

そろそろ徹底しなさい。

そして世間には「自分探し」を中学生の感傷のように笑う人もいる。

しかしその多くは、自分自身もまた「自分探し」に失敗した人たちである。

彼ら彼女らが「真の自己」を達成しているとはとても思えない。

せいぜい後から付いた「仮幻の自己」を自分だと思い込み、ニセモノの安定を得ているだけである。

だから「自分探し」を恥じる必要はないが

やるのであれば

他に求めず、自分の中に求めよ。

お茶を濁すような求め方をやめ、徹底的に勝負せよ。

「自己の本来の面目」を極めることは、人間の一生の大事である。

易行中の易行でありながら難行中の難行である。

しかし、やらないわけにはいかないのだ。

さぁ、どうする?

 

 

 

◆追伸

大相撲、令和元年九州場所、我らが北勝旺は3勝4敗で取り組みを終えた。

彼は一人で土俵に上がり、勝負を続けている。

2019(令和元)年11月10日(日)『第5回八雲勉強会』

あの台風19号から約1カ月。

幸いにも今日は在籍者のほとんどの顔が揃った。

まだまだ被災地で復興に当たっている方々には、心からお見舞い申し上げる。

そして今回は近藤先生による対談『心身平安への道』のテープを聴く。

先にお伝えした通り、先生の半生記の、今日は前半部分

かつてラジオで3回に渡って放送されたものの1.5回分である。

内容だけを言うならば、既に他の著書にも書かれていたことも含まれているが

参加者も指摘されたように、近藤先生の肉声で聴くことに意味がある。

ときどき我々は何を聴いているのだろうかと思う。

我々は話された内容だけを聴いているわけではないのだ。

そこに込められた

その背後に働いている

生命(いのち)の声を聴かなきゃね。

それを本当の傾聴というのです。

そこに響くものがある。

半生記を聴いているだけのはずなのに

何故胸がいっぱいになるのか

何故涙が流れるのか。

生命(いのち)に生命(いのち)が響いているのだ。

そんな時間が持てることは、やはりとても幸せなことだと思う。

良い一日でした。

 

ではまた次回12月8日(日)に勉強会でお逢いしましょう。

今度は、近藤先生の半生記の後半部分です。

 

 

2019(令和元)年11月8日(金)『Who is to blame?』

先日、落語を聞きにあるホールに出掛けた。

階段状の広いホールの一番後ろの席であったが

私の真後ろの席(通路)には、高齢女性が車椅子で座り(聞こえて来る介助者との会話から軽度の認知症の方と思われる)

また私の後ろの席(通路)の端にはリクライニングの大型車椅子で酸素マスクを付けた年配の男性が来られ

階段を挟んだ右横の席には白杖を持った年配男性が来られていた。

いずれも介助者同伴で、当たり前に落語を楽しみに来られているということに、なんだか嬉しい気持ちになった。

しかし、すぐに問題が起きた。

私の真後ろのおばあさんが、落語家の噺に対していちいち相槌を打ち、しゃべり出したのである。

しかもその声が通る。

私の前の席の若い男性が何度も迷惑顔で振り返る。

かと思うと、大型車椅子の男性が何か不具合があったのか、噺の最中に介助者に対して何度か話しかける(男性の声は低く小さいので気にならない)。

しかしそれに応答する介助者の声が大きい(男性の声の大きさからしてこの男性が難聴とは思えない)。

これまた何人かが振り返る。

そして今度は、右横の白杖の男性が、噺の最中に隣席の介助者に大きな声で話しかける。

それに対してはかなりの人数の人が振り返るが、彼には自分が見られていることがわからない。

(そのときの何も知らない男性の笑顔が私には忘れられない)

この様子を見て、私かつての電車内・バス内での体験を思い出した(その一部は以前、拙誌で触れた)。

自閉症と思われる青年に介助者(家族か施設職員とおぼしき人)が付いて座席にすわっている。

青年が大きな声を挙げ始める。

すると隣の介助者が「シーッ!」と言う。

青年は一瞬黙るが、数秒でまた大きな声を挙げ始める。

介助者がまた注意する。

それに対し、青年本人が「うるさい」「静かにしなさい」などと言い始める。

それはいつも言われているセリフなのだ。

介助者には彼の発声の理由がわからないのであろうか。

青年はヒマなのである。

車内が苦痛なのである。

社会的に受け入れられる形で車内で楽しく過ごすスキルを教えてもらっていないのである。

ならば、声を挙げて自己刺激行動で時間を潰すか、声を挙げてヘルプサインを出すしかないではないか。

それで怒られるのでは割が合わない。

「だったら車内での充実した時間の過ごし方をわかりやすく教えてくれよ。」

と青年は言いたいだろう。

青年に何の罪もない。

それと同じ。

上掲の3人とも、本人たちには何の罪もない。

問題なのは介助者であると私は思う。

何故、認知症のおばあさんの隣にいる介助者は、本人にわかるようにルールとマナーを伝えないのか。

何故、大型車椅子の男性の隣にいる介助者は、密やかな声でコミュニケーションしないのか。

何故、目の不自由な男性の隣にいる介助者は、彼にすぐにアドバイスしないのか。

いずれも見かねたホールの係員が歩み寄り、申し訳なさそうに声をかけていた。

世の介助者の方々の名誉にかけて言うならば、そんな介助者ばかりではない。

当人たちの特性を熟知し、行き届いたケアをされている介助者のいることも私は承知している。

未熟な介助者のせいで当事者が排除されるようになってはならないと思う。

これからの時代、真に多様性が世に受け入れられるためには

当事者でなく周囲の人間への啓発・教育が必要であることを改めて実感した出来事であった。

そして、これは我々医療関係者も同じ。

殷鑑遠からず、である。

今度はあの人たちと楽しく落語を味わいたいと願う。

 

 

2019(令和元)年11月5日(火)『数字を超えて』

手元に2017(平成29)年の人口動態統計の資料がある。

人口動態統計とは、厚生労働省が毎年集計・公表している出生・死亡・結婚・離婚などの統計調査である。

「数字」の羅列のように見えて、その背後に観えて来るものがある。

 

亡くなった人たちに着目してみる。

 

2017(平成29)年 1年間で

死亡                      1,340,397人

死産                           20,358人

周産期死亡                      3,308人

乳幼児死亡                    1,761人

死因が「悪性新生物(癌)」である死亡者数  373,334人

死因が「精神及び行動の障害」である死亡者数   21,483人

 

この中に、それぞれのかけがえのない人生がある。

お腹の中で逝った赤ちゃんにも、子どもにも、青年にも、大人にも、高齢者にも。

十把(じっぱ)一絡(ひとから)げの「数字」にしてはならないと思う。

 

あなたの「大切な人」は含まれていますか?

誰もが誰かの「大切な人」であったはずじゃないですか。

 

 

 

やすらかに やすらかに おやすみください。

2019(令和元)年10月31日(木)『で、どうする』

改めて医療・福祉業界を眺めていると、まだまだ人知れず懊悩している専門職の人たちが相当いるなぁ、と感じている。

懊悩するだけ見どころがあるんだけど、そのまま木成りの果物のように凋(しぼ)んで腐って行っては、もったいないやら、情けないやら。

どこまでいってもあなたの人生なんだから、あなたがそれで良ければそれで良いんだけどさ。

 

その中のほんのひと握りの人でもいいから

もうこれ以上、自分を誤魔化し切れなくなったら

演じ切れなくなったら

魂を売れなくなったら

そういうもんだに染まり切れなくなったら 

話しにいらっしゃいよ。

 

対象さえ満たせば、私は付き合わせていただきいますよ、本気で。

 

先延ばしにしている間にも、あなたの人生の時間はどんどん過ぎ去ってしまっているのです。

 

 

2019(令和元)年10月28日(月)『俺がやらなきゃ誰がやる』

 

神経症の根っこのひとつに不安・恐怖があることについては以前にも述べた。

あのときあそこで親(あるいは影響力のあった大人)に対して感じた不安・恐怖が、今も心の奥底に残り、その人を支配している。

対人援助職をやっている人の中には、そういうものを抱えた人が多い。

相手にアンテナを張って生きて来たので、クライアントの言えない思いを察するのは得意であり、それは長所にもなるが、なんでもかんでも感じて拾ってしまうために、相手の思惑に簡単に引っ張りまわされてしまう。

特に相手からの強い感情表出に弱い。

押される、屈する、下を向く、怯(ひる)む、臆する、固まる、ビビる、キョドる、震え上がる、などなど。

せいぜい頑張ってみたところで、ふてくされるか、陰口をたたく、卑怯な対応に出る、そんなところか。

それで対人援助職が務まるのか。

クライアントを守れるのか。

いやいや、それは職業場面だけじゃないでしょ。

それで愛する人を、家族を、そして自分自身を守れるのか。

我々は小さくて弱い子どもであることからスタートした。

従って、元々弱いのは当たり前である。

だから、どうやったら強くなれるのか、という話になる。

まずは、強くなりたいと心の底から願うことから始まる。

そこに立たないと、昨日書いたように、自分以外の誰かに悪依存してなんとかしてもらおうとすることになる。

それでは永遠に弱いままだ。

子どものころから弱く、そして本来、無能、無力、非力な凡夫である我々がどうやったら強く、いや、勁くなれるのか。

それは既に何度もお話ししましたよね。

まずはあなたがやるしかないのです。

そうして初めて、あなたを通して働く勁い力が顕れて来る。

 

「実践実践また実践。

 挑戦挑戦また挑戦。

 修練修練また修練。

 やってやれないことはない。

 やらずにできるわけがない。

 今やらずしていつできる。

 わしがやらねばだれがやる。」

彫刻家・平櫛田中を通して働く力を感じます。

 

(ちなみに「俺がやらなきゃ誰がやる」の本来の出典は『ドラゴンボール』でも『新造人間キャシャーン』でも『小さなスーパーマン ガンバロン』でもありません。平櫛田中です)

2019(令和元)年10月27日(日)『ホワイトナイト』

ホワイトナイト(white knight)とは金融経済用語のひとつで、敵対的買収を仕掛けられた会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併してくれる会社のことを指す。

まさに「白馬の騎士」が窮地から救ってくれる、というイメージから来ている。

 

ある精神科通院中の二十代の女性が本当は家を出て一人暮らしをしたいのだけれど、お父さんが恐くて言い出せないという。

担当の男性ワーカーに懇願して言う。

「代わりに父にかけあってくれませんか?」

 

夜間、PHSで呼び出すと怒りだすバカ当直医がいた。

怒鳴られて何も言えなかった看護師は、翌日、懇意の医師に言った。

「先生から言って下さいよ。」

 

仕事でクライアントとトラブルを頻発している課長のクレームを受けてばかりの部下がいた。

恐くて課長に言えない部下は係長に泣きついた。

「係長からなんとか言ってくれませんか。」

 

懇願する人たちの姿を想像すると、私の頭の中には“涙目のとっとこハム太郎”が浮かぶ。

「こんな無力で可哀想な私にどうしろって言うんですか。」

「代わりになんとかしてくれたっていいでしょう。」

 

そうはいかない。

子どもや制限行為能力者など、自分で自分のことを打開する力が制限されている場合や、

犯罪に関する場合、特殊な専門性を要する場合などは仕方がない。

頼って良いし、頼るべきでもある。

しかし大の大人が、自分で受けて立つべきことを“可哀想な私”を使って他者になんとかしてもらおうとするような阿漕(あこぎ)な悪依存にまんまとハマるわけにはいかない。

 

Once upon a time、敵軍に攻め入られそうになっている領主が、隣国に援軍を求めた。

隣国の将の答えはこうだった。

「貴国の兵があなたを含めて全滅するまでまず自力で戦う気なら兵を出しましょう。

 そうでなければ、大事な兵士を一人も出すわけにはいきませぬ。」

当然である。

全滅するまで戦う気なら援軍は来るかもしれない。

 

まず、ホワイトナイトを当てにする前に、覚悟のウォリアー(warrier:戦士)はいませんか?

と私は問いたい。

そこにいるでしょ。

 

 

2019(令和元)年10月15日(火)『許されていること』

台風19号による災禍はおさまっていない。

ある男性は、長年の夢だった店舗を自宅開業したばかりであったが、停電、断水の上に、河川の氾濫で調度を流され、泥だらけになった店舗を見て、茫然自失となっていた。

幸い被災をまぬがれた知人二人が、彼のことをとても案じていた。

しかし、実はその一人は、前立腺癌のサバイバーであり、八年間の闘病を続けていた。

またもう一人は、子どもの頃に糖尿病に罹患し、何十年も血糖値管理とインシュリン調整を行って来たが、昨年からは人工透析を受けていた。

人間、生きていれば、好むと好まざるとにかかわらず、いろいろなものが与えられる。

で、どう生きるのか。

いつもそこで試される。

自分の不幸をかこち、感情を垂れ流すのも人間なれど

自分の不幸を忘れ、他人の不幸を案じられるのもまた人間であると信じたい。

我々に許されていること。

それは人事を尽すことだけだ。

しかも健康に継続可能な範囲でね。

 

 

2019(令和元)年10月13日(日)U『第4回八雲勉強会』

今日は「台風19号襲来を超えて 特別編」として勉強会を開催した。

予め準備していた内容は、勉強会2回に渡って近藤先生が自らの半生を語るものであったため

交通機関の混乱から今日の参加者が少なくなることを見越して

急遽、1回完結3部構成(遅刻の方も途中から参加できるように)の新しい内容を突貫工事で準備して開催したのである。

(今回準備していた内容は、改めて来月11月〜再来月12月に渡ってお届けする)

予想通り、今日はいつもの半分の出席者であったが

交通機関が完全に復旧していない中、参加しようという方たちだ。

今回は今回で内容の濃いものになったと思う。

3部構成の初めの第1部、第2部は、近藤先生の新聞連載記事を参加者で輪読し、ディスカッションする内容。

かつての勉強会でやっていたスタイルである。

その中で、近藤先生の説く

禅の「自在」=浄土真宗の「非僧非俗」の真意や

「彼岸」をはじめとする仏事の意味するところ

を明らかにできたのではないかと思う。

そして最後の第3部。

近藤先生による八雲学園卒業式の祝辞のテープを聴いていただいた。

結果は言うまでもなかろう。

文章も良いが、やはり近藤先生はライブの人だ。

この魂に響く感動はどういうことだろう。

亡くなって二十年も経つのに、今日もこんなに女性を泣かせてどうするんですか、先生。

今日参加された方は幸せである。

…と申し上げると、台風の影響で参加したくても参加できなかった方々に不運が重なることとなり、それはそれで申し訳ない。

いつかどこかでお聴かせする機会を持ちたいと思う。

 

そして次回11月10日(日)の八雲勉強会では、今日欠席の方々の元気な顔を是非見せていただきたいと願っている。

 

 

2019(令和元)年9月29日(日)『初秋の緑風苑ワークショップ』

昨日今日と福島県・磐梯熱海で初秋の緑風苑ワークショップを行って来た。

初めての9月開催で、天気も1日のうちにさまざまに変わったが、概ね暑いくらいの天候であった。

20190929.jpg

そんな中、涙あり笑いあり再会ありアクシデントありの1泊2日。

そもそもワークショップは、自分が自分を取り戻そうとし

相手が相手になることを応援しようとする場である。

従って、参加者が参加者に与える影響には非常に大きいものがある。

誰かが真摯にそして果敢に自分自身に向き合おうとすれば、他の参加者に、グループ全体に大きなインパクトを与える。

その反面、もし誰かが神経症的言動をやめようとせず、無力感にとらわれるならば、その悪影響も甚大である(それでは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」の要件に反する)。

改めて各個人の人間力とグループの集団力によってワークショップが作られることを実感した時間であった。

それは到底私一人が操作的に作り出せるものではない。

今回も良き参加メンバーに恵まれたことに感謝したい。

そしてワークショップが終われば皆、日常に戻る。

日常こそが正念場だ。

ワークショップでの体験の感触を胸に、仕事でもプライベートでも自分して行こう。

いつでもどこでも誰の前でも、あなたはあなたなのだ。

 

 

 

◆追伸

早々と次回の緑風苑ワークショップのお知らせ。

2020(令和2)年5月16日(土)17日(日)開催予定です。

参加希望の方は予定を空けておいて下され。

安田のおばちゃんも元気でね。

2019(令和元)年9月16日(月)『一発勝負』

昨日行われたマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で東京オリンピックのマラソン代表選手が内定した。

MGC一発勝負で決めることには賛否両論があったそうだが、私自身は一発勝負に賛成であった。

ひとつには、オリンピック本番も一発勝負であること。 

そしてもうひとつには、どういう方法で選考しても選手の真の実力を測ることができない、という視点からであった。

かつて教育界でも、1回だけの入学試験でその子の実力を本当に測ることができるのか、という議論があった。

そのとき私が支持した論旨は、一発勝負の、言わばギャンブルだからこそ、それで人間の能力が正確に測れるわけはなく、受かっても思い上がらず、落ちても自己卑下せず、むしろテストで人間の能力が正確に測れるという考えの方が思い上がりだ、というものであった。 

実際、今回のMGCでも、入学試験でも、いつも“番狂わせ”があり、それが一発勝負、それがこの世の中、という認識の方が、近視眼的にならず、大きな視野で人生を眺めていられると思う。

練習でも勉強でも、本番に至るまでの一人ひとりの努力をきちんと評価し、結果だけで自分の存在価値を測るなよ、とむしろ私は伝えたい。

前途洋々たる子どもたちにも、自分自身にも、そういった視点で生きて行ってもらいたい、生きて行きたい、と願っている。

 

 

2019(令和元)年8月29日(木)『成り下がる前に』

ある臨床心理系の大学院生が訪れた。

彼女の話を信じる限り、彼女が教官から受けている臨床指導は耳を疑うような内容であった。

自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けて、研究のようなものをしても教授や教官にはなれるのである。

少なくとも私は、本当のサイコセラピーを行うに当たって、致命的な“人格”的問題がそこにあると思う。

人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。

世界の大学院、教官の名誉にかけて、そうでない大学院もあるし、教官もいると私は信じている。

 

ある若手精神科医が訪れた。

彼の話を信じる限り、その大学の医局で行われている精神療法研究会の指導は目を覆うような内容であった。

自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けても、わかったようなことを言えるのである。

私は彼に尋ねた。

「あなた自身やあなたの大切な人が思い悩んだとき、その先輩から精神療法を受けたいと思う?」

もう一度言う。

人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。

世界の医局、精神療法専門医の名誉にかけて、そうでない医局、そうでない精神療法専門医がいると私は信じている。

 

ある精神保健福祉士が訪れた。

彼女の話を信じる限り、その就労支援施設の経営者や先輩たちの働く姿勢は、聞いていて眩暈がするほどひどいものであった。

安い給料、長い残業、名目上の就労率を上げるためのやりくり、利用者の利益よりも経営上の利益を上げるためのエセ福祉施設に成り下がっていた。

そういう話が多過ぎる。

「そんなことをするために苦労して精神保健福祉士の資格を取ったんだっけ?」

絶望してまた他の福祉施設に勤め、また絶望する。

そのうち、どこもこんなものかと思い始める。

世界の福祉施設やそこで働く精神保健福祉士の名誉にかけて、そうでない福祉施設があり、精神保健福祉士がいると私は信じている。

 

そしてこのような環境に出逢ったとき、各人の取る態度は二つに分かれる。

擦れて染まって魂売って、環境に支配される人間に成り下がるか、

擦れず染まらず魂売らず、どこまでもホンモノを追求する人間となるか。

八雲総合研究所は、後者に逞しきホンモノになってもらうための場所である。

 

 

2019(令和元)年8月21日(水)『People to come』

八雲は成長の場である。

今までの自分に「情けなさの自覚」を持ち、本来の自分に向かって「成長の意欲」を持って進んで行く場だ。

それなのに、今までの自分を持ち込んで来ようとする人がいる。

ということは、今までの自分に大して「情けなさの自覚」もないし、「成長の意欲」もない、ということだ。

私はこんなにわかってる、知ってる、できてる。

ならば、ここに来ないで、それで生きて行けば良いだろう。

お断りである。

依存する、特別な配慮を要求する、自分の方に合わさせようとする。

そうしていることに気づいて止められないなら、あなたが受けるべきは治療だ

精神療法専門の医療機関もある。

成長課題以外のどうでもいい話題、八雲の運営がどうの、建物がどうの、私の家族がどうの。

何しに来てんの?

これまたお断りである。

確かに人間というものは凡夫だから、神経症的なものがこころを過(よぎ)ったり、くだらない世俗的なものに気を惹かれたりすることもあるかもしれない。

要は、それに気づけるか否かだ。

気づけば止められる。

気づけない=情けなさの自覚を持てない、止められない=呑み込まれているようでは、八雲に来る時機ではない。

八雲ではガッツリ、あなたの「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の話をしよう。

これから八雲に来ようとされている人たちは「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を合わせ持つ方々と信じているし、

これまでも大半がそういう方々であった。

そういう方々のために成長のためのセラピーを行うことこそが私のミッションである。

 

 

2019(令和元)年8月16日(金)『直観鑑別』

外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「わ〜、これ、美味しい!」

「すっご〜い!」

「ははははは。」

などと何度も声を挙げている。

音量的に大きいは大きいのだが

大して気にならない。

何故ならば、発言に他意がないことがわかるからである。

本来特性である。

赤ちゃんが泣いているようなものだ。

(必要があれば淡々とマナーを教えてあげれば良い)

気持良く食事をいただいて店を後にする。

 

そして別の日、別の外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「あ〜、これ、何、何、何!?」

「美味し〜い!」

「〇〇〇(本人の名前)はねぇ。」

などと何度も声を挙げている。

音量的にも先の女性と同じくらいの大きさなのだが

その発言がいちいち癇(かん)に障(さわ)る。

発言の裏に動くものがある。

相手の男性はもちろん、音量が届く限りの人間を巻き込もうとする闇の意図が観える(本人が自覚しているか否かは別として)。

これは二次(後から身につけた)特性だ。

これに気づいてもらうのは、ひと仕事である。

この日居合わせた客にも料理人にも惨事であった。


もう何年も対人援助職として働いているのに、この両者の違いがわからない、という人がいた。

感度が鈍い。

余計な塵埃を払って、感度を磨き上げる必要がある。


またある人は、この女性両方に対して腹が立つ、と言った。

埋め込まれた「〇〇のときは〇〇すべきではない」に支配されているために、両者の表面的言動に反応し、その出所(でどころ)の違いがわからないのである。

これまた鈍い。

まず埋め込まれたものを除去する必要がある。

 

こういうことは、受け売りの知識をつけても、小手先の技術を学んでも、身につくものではない。

場を共にしたマンツーマンの指導、感化、薫習(くんじゅう)が必要である。

そして直観の精度は、この程度ではなく、無限に磨くことができる。

私が専門職に個人的な指導を行っている所以(ゆえん)である。

 

 


2019(令和元)年8月14日(水)『8月の悼み』

8月6日は広島の原爆忌。

8月9日は長崎の原爆忌。

8月15日は終戦記念日。

などなど戦争を思い起こさせる行事が続く。

子どもの頃、8月6日になると母に連れられ、広島の平和記念公園内にある、原爆で亡くなった叔父たち=当時の中学生たちの慰霊碑に行っていた。

(爆心地近くで被爆した叔父は結局、遺体も見つからなかった)

そしてその後に続くお盆に墓参りに行くと、広い墓地の一角に原爆犠牲者の写真が飾ってあるが祭壇あり、何故かその中に中学生の叔父の遺影があった。

母も、なんでここにこの写真があるんだろうねぇ、と不思議がっていたが、まだ幼さの残る顔になんとも言えない哀しみを感じたのを覚えている。


この時期になると思う。

こうして生かされていることの奇蹟を。 

我々凡夫は欲張りなので、ああじゃなきゃダメだ、こうじゃなきゃダメだ、とつい思ってしまうが、亡くなった方たちが身をもって示してくれたこの原点に、せめてこの時期ばかりは戻りたいと思う。

情的な追悼も良いが

霊的な追悼にならなければ、故人に申し訳ない。

 

さて、どう生きて死にましょうか。

 

 

2019(令和元)年8月11日(日)『第3回八雲勉強会』

今回の近藤先生の講演録音テープは『心身平安』という題で、アナウンサーの問いに答える形で行われたものであった。

その中でも特に印象に残るのは

近藤先生は作られた八雲学園、三つの誓い である。

1)心によろこびを持ちましょう

2)強い身体(からだ)になりましょう

3)立派な生活をいたしましょう

これを生徒たちは毎日唱え、またこれに応えて

1)心によろこびを持ちます

2)強い身体(からだ)になります

3)立派な生活をいたします

と唱える。

「心によろこび」って何だろう。

「強い体」って何だろう。

「立派な生活」って何だろう。

その“真意”がわかるのは人生だ、と恩師は言われた。

たとえ赤貧で寝たきりであっても

「立派な生活」「強い体」「心によろこび」があるのである。

おわかりか。

そして「痛感」の話から

「痛み、有り難し」「挫折、有り難し」

「病気までさせて気づかせていただける」

となる。

愚かな凡夫は、起伏のない人生ではなかなか気づけないのである。

「挫折も縁、成功も縁」

そしてどう生きるか、生かされるか。

その肉声に込もったものから、あなたは何を感じられたか。

それもまた面々のおはからいである。

ではまた次回10月13日(日)に弦巻でお逢いしましょう。

 

 

2019(令和元)年8月5日(月)『夫婦の温度差』

「夫婦の温度差」と言っても、夫婦仲がどうのという話ではない。

この夏の熱帯夜に、冷房をどこまでかけるか・かけないかの話である。

テレビで取り上げていたのを横目で観ていただけなので、その詳しい内容は理解していないが、気になる箇所が一点だけあった。

夫が暑がりのため夜間冷房をガンガンにかけて、寒がりの妻は寝袋で寝ているという話である。

うーん。

妻が夫に合わせるんだ。

まさか、オレさまにおまえが合わせて当たり前、と思ってはいないよね。

せめて妻が愛する夫のために自ら望んでしていると信じたい。

そうなると、夫婦の温度差の話は、冷房の話ではなく、やっぱり夫婦仲の話になって来る。

愛する相手であれば、相手にしんどい思いをさせたくないと思うよね。

例えば、小さな子どもと寝るとすれば、自分と子どもとどちらに合わせるかは明白だ。

それが妻でも子どもでも、少なくとも私には、相手に合わせさせておいて平気で眠れる神経はない。

などと思っていたら、うちはとっくに夫婦別々の部屋で寝ています、という方がおられた。

合理的ではあるが、夫婦仲としてはちょっと寒い。

少しでも傍にいたかったあの頃は今どこに…。

なんだかきみまろのようになって来た。

ちなみに最近のエアコンは、同じ部屋でも場所により別々の温度設定できるそうだ。

それが現代の無難な解決法なのかもしれない。

 

 

2019(令和元)年8月1日(木)『太鼓』

あちこちで盆太鼓が聞こえる。

東京オリンピックパラリンピックの余波を受けて、夏祭りの太鼓会場(馬事公苑)を奪われた私は、太鼓を叩きたくとも叩く場所がなく、体がウズウズしている。

で、先日、太鼓の音に惹かれ、近所の小さな夏祭り会場に行ってみた。

揃いの法被を着た若い男女のグループが盆太鼓を叩いている。

東京音戸、炭鉱節などのスタンダード曲に加え、元々歌謡曲やアニメ曲などもよく取り入れられているが、初めて聴いたダンシングヒーローの盆太鼓に心奪われた。

櫓のステージのお兄さんの叩きっぷりが、曲の展開を熟知しているだけでなく、浴衣の踊り手たちの振りも取り込み、ソロ部分の盛り上がりを含めて演出が完璧なのである。

ちっくしょー、やられた!

自分だったらどう叩くかが頭の中を駆け巡る。

こういうときは、原曲と踊りの振りを徹底的に研究して、はからってはからってはからって準備するか、

全く何も準備せず何も考えず、手の動くまま足の動くまま、すべておまかせで踊るように舞うように叩くか、のどちらしかないのだ。

どっちもいいが、それにしても体がウズウズする。

やっぱり叩かなきゃ、いかんですわ、太鼓は。

しかし盆太鼓の叩き手は、オファーを待つのが基本。

呼ばれて初めてバチを握れる。

勝手に他の縄張りを荒らすわけにもいかず、また太鼓にはその叩き手集団の芸風に大きな違いがあるため、誰とでも組めるというわけでもない。

ああ、存分に太鼓を叩ける日はいつ来るのやら。

今夜もまた夢の中で太鼓を叩くのであった。

どどん!

 

 

2019(令和元)年7月29日(月)『面談』

面談前夜〜当日の朝に、その日の面談の準備をする。

予約表を確認し、来談される方の面談記録を見返しながら、一人ひとりの顔を思い浮かべる。

ああ、明日(今日)はあの人が来られる。

あのことはどうなっただろう。

それは私にとって、すごく楽しみなことである。

楽しみと言っても、一人ひとりが抱えておられる成長課題は決して軽いものではない。

その内容は千差万別であるが、いずれも自分の人生がかかった話をしに来られるわけである。

私も受けて立たなければならない。

毎日、呼吸をし、祈り、そのときを迎える。

全ては私のミッションを果たすためである。

そこにはやりがいしかない。

今の私に危惧があるとすれば、私が今生でお逢いすべき人に逢えているかどうか=私が私の役割を果たしているがどうかだけである。

令和改元と共に5月1日から始まった当研究所の組織改変が3カ月を迎えようとしている。

今後新しくお逢いすべき方々のことは、疾うにホームページ上で明確に示している。

(「スーパーヴィジョンのお申し込みを検討されている方へ」 「よくあるご質問」「面談時間の長さと面談頻度」

そこに例外はない。

基本的に[私の基準によれば]精神科医、臨床心理士、精神保険福祉士、社会福祉士、看護師、作業療法士をやっていて(わざわざそんな職業を選ぶんだもの)解決すべき成長課題がないわけがないじゃないの。

それを未解決なまま、自らもなんだかよくわからないままの人生を生き、

また臨床や福祉の現場で、患者さん、利用者さん、メンバーさんたちをあなたの未解決の問題に巻き込み(付き合わせ)、迷惑をかけて良いわけがないでしょ。

この人間に関わる仕事が、知識と技術(操作)でやれないことは、流石にわかっているよね。

関わるあなた自身の人間性そのものが“ものすごく”絡むんです。

それが人のこころに関わる仕事。

とても大切な仕事。

本気で向き合いたいと思ったら、そのときにどうぞ八雲の門を叩きなさい。

小さな面談室からあなたの人生が変わって行くかもしれません。

 

 

2019(令和元)年7月14日(日)『第2回八雲勉強会』

今回の近藤先生の講演録音テープは『こころの健康』という題で、インタビュー形式に応えられたものであった。

珍しく大脳生理学的な説明から始まり、呼吸の話から、礼拝(らいはい)へと話は深まり、生命(いのち)の体感、体験の話となる。

われわれの体の中の筋肉で、呼吸筋は唯一、随意筋と不随意筋の両方が重なるところ(意識しても動かせるし(運動神経支配)、忘れても動いている(自律神経支配))。

となれば、先人たちが「はからい」(自力)と「おまかせ」(他力)の接点として眼をつけたのは流石、慧眼である。

呼気により己の我を吐いて吐いて吐き切って

自ずと入る吸気により生かされていることを体感、体験する。

そしてその呼吸による礼拝は、私の生命(いのち)の讃嘆であり、あなたの生命の讃嘆であり、この世界の生命の讃嘆である。

やがてお話が終わる頃には、自己礼拝、他者礼拝、この世界の礼拝に生きたいと思うのでありました。

それにしても近藤先生は楽しそうにしゃべられる。

その生きざまに思想や建前ではない、生命(いのち)の歓喜(かんぎ)そのものが現れているのであった。

これを体得、一体という。

ではまた次回8月11日(日)に弦巻でお逢いしましょう。

 

 

◆追伸

[1]翌々月9月は、緑風苑ワークショップ開催(9月28日(土)29日(日))のため、弦巻での八雲勉強会はお休みとなります。

[2]八雲勉強会の年間参加回数につきましては、参加者各人で把握しておいて下さい。

欠席は年度内3回までで、4回以上欠席されますとその年度の勉強会に参加できなくなります。

2019(令和元)年7月9日(火)『正しい地口(じぐち)の使い方U』

拙欄にも人気ページがある。

例えば、2013(平成25)年12月27日付『正しい地口の使い方』は、いまだに閲覧者数がトップ3内にある。

「そうは烏賊(いか)の〇玉…」の話であるが、読者の方々はこんな話題が好きなのかしらん、と不思議な気持ちになる。

などと思っていたら、たまたま聞いていた三遊亭圓生の落語の中に、面白い地口のセリフが出て来たのでご紹介する。

「下衆(げす)の考えと猫の金玉は後から出て来る」

また「〇玉」の話ですいません。

これはまた変わった地口だ、というわけで由来を調べてみた。

どうやら、子猫においては生まれたときの性別がわかりにくく、オスの場合は、生後カ月経ってから睾丸が下降して体外に出、いわゆる〇玉となってオスであることがわかるようになるのだという。

猫の金玉は後から出て来る、というのは獣医学的事実であったのだ。

そして下衆の考えの方は、下衆=お馬鹿さんなわけであるから、すぐに考えが思い浮かばず、後になってから間の抜けた考えが出て来ても役に立たない、ということであろう。

こんなことを書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを何度も書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、

ここまで読んで来て今ごろになってそう言うのが遅いんだよ!

だから、下衆の考えと猫の金玉は後から出て来るってんだ!
二度と読むな! このバーカ!

…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

 

2019(令和元)年6月29日(土)『若いヤツら』

基本的に、学生や新入職者たちを相手にした講義や研修は楽しい。

若い彼ら彼女らに無限の可能性を感じるからである。

中にはちょっと年齢の高い人たちもいるが

私からすれば、自嘲的に、おじさん、おばさんと自称したり

擦れた訳知り顔をするのはやめていただきたい。

1960年代に流行ったトラッドのブランドのコピーに

For the young and the young-at-heart

というのがあった。

生物学的な年齢は関係ない。

私が私しようとする生命(いのち)の勢いが溢れていることを

若いというのである。

かつてセラピーに訪れた83歳の女性が劇的な成長を見せたことについては以前に書いた。

そして、縁あって出逢った“若い”人たちの顔を眺めながら思う。

己を知り、己を活かし、己を実現する人生をどうか歩んで行っていただきたい。

もちろん若くったって生きていればいろいろある

その傷も、悩みも、苦しみも、ちゃんと向き合い、成長の糧にして行けば

やがて貴重な経験智となっていくだろう。

Go forward!

 

 

2019(令和元)年6月26日(水)『拾得物』

駅の構内でお金を拾った。

一万円札で二枚。

二つ折りの剥き出しで落ちていた。

駅員さんに届ける。

「拾得物の届け出、書かれますか?」

と訊かれたが、次の仕事の時間が迫っていたため

「ああ、いいです。」

と答える。

「拾得者のものになるかもしれませんよ。」

「いいです。いいです。」

そんな降って湧いたお金はいただかなくて結構。

今は働いて食べて行けるので十分だ。

急ぎ足で次の仕事に向かう。

そしてその日の仕事が無事終わった。

さて、宝くじ売り場に行くか。

おいっ!

 

 

2019(令和元)年6月23日(日)『表札』

「松田」の表札をつけている。

何でもないことのようだが、私には少しばかり意味がある。

かつて近藤先生から墨書の巻紙の手紙を戴いた。

その手紙そのものも有り難かったが、そこに込められたものが私にとってとてもとても有り難かった。

その文字にこもるものがある。

その封書に表書きされた「松田」の二文字を取った。

肉筆をスキャンし、檜の表札に焼き付けてもらったのである。

その表札は

大寺の門の金剛力士(仁王)像のように

悪しきものを退け

善きものを招き入れるのか。

いやいや、求める者を招き入れるという方がその役割らしい。

私を招き入れてくれたものがその文字の中に働いているのである。

しかしどこまでいっても、表札そのものは目印に過ぎない。

やがてその表札がなくても、今ここであなたにわたしに働いているものを感じよう。

そして初めて表札はなくなり、至るところ是れ法門となるのである。

 

 

2019(令和元)年6月9日(日)『八雲勉強会』

今日は新しく発足した八雲勉強会の第1回目。

4月までの二つの勉強会を統合し、新たな参加者を得、会場いっぱいのメンバーの顔を見たとき、ようやくここまで来た、と私的に感慨深いものがあった。

参加者は皆、面談で話をして来た人たちであるが、この集団にはかつてない「集団力」の兆しを感じたのである。

私が主宰して来た勉強会の歴史は結構長い。

形を変え、テーマを変え、名前を変え、二十五年以上になろう。

当初は私も若く、自分の問題に無自覚な参加者も多かった。

若いからそれもこれも引きずりながら突っ走れたが、まだ集団が成熟していなかった。

「集団力」とは、集団の参加者一人ひとりが成長することによって(私が介入しなくても)新たな参加者に対して、そして参加者相互に、感化力を持つようになることをいう。

集団が集団を育てて行けるようになるのである。

そうなれば理想的だ。

今はまだ「兆し」だけれど、ここに来てようやく「集団力」の芽生えを感じ、長くやっていると良いこともあるんだなぁ、という思いを強くした。

もちろんその力はあなたの力ではない。

あなたを通して働く力だ。

そこのところはしっかり押さえておこう。

それも踏まえて、さて、面白くなるのはこれからだ。

来月からも近藤先生の講演に刺激され、共に成長して行きましょう。

 

 

2019(令和元)年5月27日(月)『改めて『塀の上の猫』について』

『塀の上の猫』の読者について改めて確認する。

(1)原則として『塀の上の猫』の第一の想定読者は、まだ出逢ったことのない“私が出逢うべき人たち”である。

そういう方々を思い浮かべながら『塀の上の猫』を書いている。

(2)二番目に、現在、面談に来られている方、勉強会やワークショップに参加された方を想定して『塀の上の猫』を書くこともある。

しかし、面談に来ている方について暗喩的に何かメッセージを書くことは絶対にない。

毎月1回以上面談でお逢いしているわけであるから、必ず面談で直接に申し上げる。

稀に「あれは暗に私のことを書いておられましたね。」と言われることがあるが、それを自意識過剰、関係念慮というのである。

勘繰る気持ちが強いようでは成長できない。

(3)現在、他所で精神科医や臨床心理士からサイコセラピー/カウンセリングを受けている方の閲覧はご遠慮願っている。

ダブル・セラピストで良いことは何もない。

目の前のサイコセラピー/カウンセリングに専念することを強くお勧めする。

一度に二つの道は登れない。

そして二股は潔くない。

潔くないのは嫌いである。

(4)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。

自分として完成度に納得しない場合は、何度も同じテーマで書き直すこともある。

これは自分自身のためである。

以上

 

 

2019(令和元)年5月19日(日)『新緑の緑風苑ワークショップ in 磐梯熱海』

5月18日(土)19日(日)と福島県・磐梯熱海にて『新緑の緑風苑ワークショップ』を開催した。

天気にも恵まれ、気温は暑いほどで、冠名に相応しく、何よりも新緑が圧倒的であった。

ワークでは、前々回のワークショップではミュージカル映画、前回はムード歌謡と来て、今回は落語を素材として取り入れた。

私にとっても毎回がチャレンジである。

楽しみながら、体験を深めていただけたのであれば幸いである。

そもそも参加者は、ワークショップに参加するくらいだから問題を抱えているに決まっている。

しかし問題があるのは、あなたに後から付いた(身に付けざるを得なかった)神経症的な部分であって、本来のあなたには何の問題もない。

私が指摘するのも、あなたに後から付いた塵埃の部分なのである。

そこを自分本体が否定されたかのように誤解・曲解されませんように。

そこさえ押さえてしまえば、自分にはこんな問題あるよね、と正面から見つめ認めることが非常にやりやすくなり、それは成長への大きな武器となる。

今回も参加者によって作られたワークショップとなった。

各人が今なりの自分なりの精一杯で誠実に参加されたことに感謝したい。

そして最後にいつも思う。

面白くなるのはまだまだこれからだ。

また緑風苑で逢いましょう。

 

 

2019(令和元)年5月15日(水)『丹田呼吸の本意』

昔、丹田呼吸をやっていた頃は、段々に肚が据わり、自分が強くなって来たような気がしていた。

しかし、それは“我”が強くなっていたのであり、てめぇ、斬るぞ、という態度で人相も目付きも悪くなっていたように思う。

新宿を歩いていたとき、向こうから来る人たちが次々と道を開けてくれたのを今でも覚えている。

あのときもしチンピラと行き逢っていたらどうなっていたかと思うとゾッとする。

いつ死んでも良いと思っていたし、邪悪なものは叩っ斬ってやろうと思っていた。

そう思って毎日木刀を振っていた。

幕末の龍馬でなく新撰組の心持ちに近かったろうと思う。

これもまたのび太がジャイアンになって行く典型であった。

入って来た“気”を自分のものだと思って過信する。

自我は肥大し、慢心し、自分が強くなったと思い込む。

そうではない。

自分はどこまでいっても凡夫、無力・無能・非力なままなのだ。

そう思い上がることができること自体が愚かな証しである。

その力が本来、他力であること、借りものであることを忘れてはならない。

凡夫が運良く龍にまたがらせてもらっているだけのことであり、自分が龍であると勘違いしてはならないのだ。

自力で思い上がって強くなった気になるか

他力に助けられて勁くなっていることを自覚するか

それが決定的な分かれ目となる。

以前、小心者でビビリの青年が二人いた。

二人とも丹田呼吸で自分が強くなったと過信した。

私がその過信を指摘したところ

Aくんは再びビビって来なくなってしまい

Bくんは素直に内省し、本当の意味で勁くなって行った。

ここでもまた「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が試されるのである。

丹田呼吸の本意、掴むべし。

 

 

2019(令和元)年5月13日(月)『勁いのび太』

かの聖徳太子が『十七条憲法』の中で

「共(とも)に是(こ)れ凡夫(ただひと)あらくのみ」

と言われている。

要は、人間全員が凡夫(ぼんぷ)だ、ポンコツだけだ、と千四百年前に言われているのである。

前回の拙欄を読まれて

「本当に自分は凡夫だなぁ。」

と(ポーズでなく)心の底から思われた方は幸いである。

それを私は「情けなさの自覚」という。

そういう方々には大いに成長の可能性がある。

しかし

「そういう人いるよね。」

「自分は違う。」

と思われた方もいる。

中には“反応”した方もいるかもしれない。

そういう方々は今後、拙欄を読まれない方が良いだろう。

「情けなさの自覚」のないところに成長はなく、私との縁もない。

そしてその成長であるが、我々は元々が凡夫なのであるから、自分の意図的努力=自力で成長できるなどと思わない方が良い。

凡夫にできることなどたかがしれている。

頑張ってなまじっか少しでもできたりすると、すぐに増長する。

我は肥大しやすいのだ。

欧米の精神療法が自我の強化を目指して来たことに私は強い違和感を覚える。

のび太をジャイアンにしてどうする。

のび太はのび太のままで勁くなれる。

正確に言えば、のび太はどこまでいっても弱いのだけれど、弱いままで勁くさせていただける道があるのである。

それが他力。

その道はいくつもあるが

例えば、丹田呼吸。

最近になってアメリカで境界性パーソナリティ障害や心的外傷後ストレス障害の治療法の中に呼吸法が取り入れられ、日本に逆輸入されている。

日本人が言い出せば胡散臭がられるかもしれないものが、舶来になると重宝がられるというのも情けない話である。

しかし残念ながら、厳密には、深呼吸や腹式呼吸と丹田呼吸の違いがわかっておられない。

肚が据わらなければ意味がない。

呼吸によって肚を据わらさせていただけるのが丹田呼吸。

出る息で我が吐き出され

入る息で大きな力をいただく。

それは自分の力ではない。

しかし勁くなる。

勁いのび太になる。

Yes, I can なんて有り得ない。

凡夫は全員 No,we can't である。

そして有り難いことに Yes, he can なのだ。

He が I して世界は踊る。

今回はこれくらいで。

 

 

2019(令和元)年5月7日(火)『凡夫悲歎述懐』

“私”は本来

無力である

無能である

非力である

ヘタレである

ビビリである

見栄っ張りである

虎の威を借る狐である

卑怯である

しかしそれを認めない

ほんのわずかに認めたとしても

自分がこうなったのは他人のせいである

子どもがこうなったのも他人のせいである

独善他罰である

責任をなすりつけるのは大得意である

自分は被害者である

自分は悪くない

自分は正しい

それどころか

自分も未熟ですから、と謙虚なフリすらして見せる

偽善的である

狡猾である

虚栄心の塊である

ポーズはあっても本質的には何の反省もない

 

さぁ、みんなで唱えましょう

これが“私”の実相です。

 

でもね

全部バレてる

漏れてる

丸見えである

気づいてないのは自分だけ

愛想笑いのその裏で

世人から軽蔑と嘲笑に包まれていることさえ

気がつかない鈍感さ 

そして馬鹿は今日も踊る

 

それが“我々”凡夫の実相です

 

 

2019(令和元)年5月5日(日)『その人を観よ』

前評判というものがある。

噂話というものがある。

あの患者は面倒くさい。

あの親の方が重病だ。

などなど臨床場面でも、受診前に関係者からそんな情報が入って来ることがある。

しかし、経験的に言うならば、余り当たったことがない。

火のないところに煙は立たず、というが

現実には、尾ひれが付くどころか、羽根まで生えて飛んでいくようなガセネタも多い。

よって私は信じない。

むしろ自分の眼でその人を観、その人を感じるまでは、鵜呑みにしない。

情報過多の現代だからこそ、決して騙されてはならないと思う。

自分が近藤先生に出逢うまでも、近藤先生についていろんなことを言う人がいた。

しかし私はそう言っている人たち自身の人格を信じられなかったので

他者情報を排除し、自分で文献を読み、直接に近藤先生に逢って自分の感覚で師と決めた。

自分で決めたことなら自分で責任が取れる。

間違いはなかった。

そして自分の観る眼に自信をつけた。

騙されるな。

あなたもまたあなたの眼でその人を観よ。

 

 

2019(令和元)年5月4日(土)『Xさんへ』

「他者評価の奴隷」ということは度々申し上げて来た。

我が国においても、時代が令和になっても、他者評価を気にする方々がまだまだ多いように感ずる。

いつも先聖たちのことを思う。

イエス・キリストがどうであったか。

釈尊がどうであったか。

孔子がどうであったか。

彼らでさえ、酷い他者評価どころか、生死に関わる迫害まで受けて来た。

人格が高邁であれば、言動に気をつけていれば、誰からも評価されるというのは、残念ながら幻想である。

だとすれば、三聖に遠く及ばない我々が、悪意の攻撃や、病的非難に晒されることなどは当たり前なのである。

娑婆には、常に悪意の人、病的攻撃性の人間が存在する。

それは私の臨床経験からも断言できる。

それはカスタマーレビューや書き込みやクレームや苦情SNSなどを見れば、あなたにもおわかりでしょう。

だから振り回されることなかれ。

基本は、自分の評価は自分で決めることだ。

自分自身が一番厳しい自分の評価者であれば良い、本質的な意味で。

そしてもし他者の評価を採用するのであれば

その評価者を選ぶべし。

信頼する人以外は、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、即ゴミ箱行きであるし

反対に、信頼する人であれば、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、真摯に検討するべきである。

そしてその結果がどうであっても、人生単位でその責任を取れば良い。

あなたの人生の主人公があなたであることを忘れてはならない。

他者評価の奴隷、排すべし。

 

 

2019(令和元)年5月1日(水)『令和元年』

令和である。

だからなんだってんだ、と言われると、何とも言いようがない。

それでも少なくとも、改元、新年、誕生日、何周年、アニバーサリーデイなどというものは、心機一転のきっかけになる。

当研究所も、令和元年5月1日、本日をもって組織の大きな変更を行った。

昨秋ホームページ上で告知して以来、8カ月の移行期間を置いたので、今のところ、大きな混乱もなく経過している。

もし8カ月間も当ホームページをご覧になっていなかったというのであれば、それはもう縁が切れたということであり、

稀に、新たに決めた「対象」でないのに、自分だけは例外であろうと一人決めして、久しぶりに面談を申し込んで来られる方がいらっしゃる。

残念ながらお断りすることになる。

これから当研究所が何をするか、旗色は鮮明に示した。

極めてシンプルに、本気で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、月1回以上通って来られる方たちとだけ面談して行くつもりである。

より明確に与えられた天命を果たす日々としたい。

 

 

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