所感日誌『塀の上の猫』

2019(令和元)年8月16日(金)『直観鑑別』

外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「わ〜、これ、美味しい!」

「すっご〜い!」

「ははははは。」

などと何度も声を挙げている。

音量的に大きいは大きいのだが

大して気にならない。

何故ならば、発言に他意がないことがわかるからである。

本来特性である。

赤ちゃんが泣いているようなものだ。

(必要があれば淡々とマナーを教えてあげれば良い)

気持良く食事をいただいて店を後にする。

 

そして別の日、別の外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「あ〜、これ、何、何、何!?」

「美味し〜い!」

「〇〇〇(本人の名前)はねぇ。」

などと何度も声を挙げている。

音量的にも先の女性と同じくらいの大きさなのだが

その発言がいちいち癇(かん)に障(さわ)る。

発言の裏に動くものがある。

相手の男性はもちろん、音量が届く限りの人間を巻き込もうとする闇の意図が観える(本人が自覚しているか否かは別として)。

これは二次(後から身につけた)特性だ。

これに気づいてもらうのは、ひと仕事である。

この日居合わせた客にも料理人にも惨事であった。


もう何年も対人援助職として働いているのに、この両者の違いがわからない、という人がいた。

感度が鈍い。

余計な塵埃を払って、感度を磨き上げる必要がある。


またある人は、この女性両方に対して腹が立つ、と言った。

埋め込まれた「〇〇のときは〇〇すべきではない」に支配されているために、両者の表面的言動に反応し、その出所(でどころ)の違いがわからないのである。

これまた鈍い。

まず埋め込まれたものを除去する必要がある。

 

こういうことは、受け売りの知識をつけても、小手先の技術を学んでも、身につくものではない。

場を共にしたマンツーマンの指導、感化、薫習(くんじゅう)が必要である。

そして直観の精度は、この程度ではなく、無限に磨くことができる。

私が専門職に個人的な指導を行っている所以(ゆえん)である。

 

 


2019(令和元)年8月14日(水)『8月の悼み』

8月6日は広島の原爆忌。

8月9日は長崎の原爆忌。

8月15日は終戦記念日。

などなど戦争を思い起こさせる行事が続く。

子どもの頃、8月6日になると母に連れられ、広島の平和記念公園内にある、原爆で亡くなった叔父たち=当時の中学生たちの慰霊碑に行っていた。

(爆心地近くで被爆した叔父は結局、遺体も見つからなかった)

そしてその後に続くお盆に墓参りに行くと、広い墓地の一角に原爆犠牲者の写真が飾ってあるが祭壇あり、何故かその中に中学生の叔父の遺影があった。

母も、なんでここにこの写真があるんだろうねぇ、と不思議がっていたが、まだ幼さの残る顔になんとも言えない哀しみを感じたのを覚えている。


この時期になると思う。

こうして生かされていることの奇蹟を。 

我々凡夫は欲張りなので、ああじゃなきゃダメだ、こうじゃなきゃダメだ、とつい思ってしまうが、亡くなった方たちが身をもって示してくれたこの原点に、せめてこの時期ばかりは戻りたいと思う。

情的な追悼も良いが

霊的な追悼にならなければ、故人に申し訳ない。

 

さて、どう生きて死にましょうか。

 

 

2019(令和元)年8月11日(日)『第3回八雲勉強会』

今回の近藤先生の講演録音テープは『心身平安』という題で、アナウンサーの問いに答える形で行われたものであった。

その中でも特に印象に残るのは

近藤先生は作られた八雲学園、三つの誓い である。

1)心によろこびを持ちましょう

2)強い身体(からだ)になりましょう

3)立派な生活をいたしましょう

これを生徒たちは毎日唱え、またこれに応えて

1)心によろこびを持ちます

2)強い身体(からだ)になります

3)立派な生活をいたします

と唱える。

「心によろこび」って何だろう。

「強い体」って何だろう。

「立派な生活」って何だろう。

その“真意”がわかるのは人生だ、と恩師は言われた。

たとえ赤貧で寝たきりであっても

「立派な生活」「強い体」「心によろこび」があるのである。

おわかりか。

そして「痛感」の話から

「痛み、有り難し」「挫折、有り難し」

「病気までさせて気づかせていただける」

となる。

愚かな凡夫は、起伏のない人生ではなかなか気づけないのである。

「挫折も縁、成功も縁」

そしてどう生きるか、生かされるか。

その肉声に込もったものから、あなたは何を感じられたか。

それもまた面々のおはからいである。

ではまた次回10月13日(日)に弦巻でお逢いしましょう。

 

 

2019(令和元)年8月9日(金)『Growth Seat』

啓示が降りて来た。

啓示と言っても、今度の緑風苑ワークショップで行うワークのアイデアのことである。

今回は原点に戻って、グループサイコセラピーの王道にチャレンジしてみようと思う。

先入観を持たれないために詳細は控えるが

リスクを超えて成長する喜びを味わっていただきたい。

そう思えるのも最近、参加者たちの成長を実感するようになって来たからだ。

集団の成長は1年や2年でできるものではない。

しかし年月をかけて培って来た成長には力がある。

それが参加者を相互に育て合う集団力を作る。

ようやくグループサイコセラピーの原点に戻ってワークをするには最適な環境が醸成されて来たと言えよう。

念のために付け加えるならば、ワークショップに初参加の人がいたとしても心配はいらない。

「対象」を満たす人であれば、あなたの成長意欲が集団力によって後押しされることを体験できるチャンスとなろう。

また、何回も参加されて来た方々は反対に、擦れた“お局(つぼね)さま”や“ご老中”を認めない当ワークショップにおいては、今までの参加経験に安住できないワクワクする体験となろう。

現在のカーッと暑い夏も良いが、秋は秋で内省に最適な季節である。

初秋の磐梯熱海で、一歩進んだ成長の場を共に創って行きましょう。

 

 

2019(令和元)年8月5日(月)『夫婦の温度差』

「夫婦の温度差」と言っても、夫婦仲がどうのという話ではない。

この夏の熱帯夜に、冷房をどこまでかけるか・かけないかの話である。

テレビで取り上げていたのを横目で観ていただけなので、その詳しい内容は理解していないが、気になる箇所が一点だけあった。

夫が暑がりのため夜間冷房をガンガンにかけて、寒がりの妻は寝袋で寝ているという話である。

うーん。

妻が夫に合わせるんだ。

まさか、オレさまにおまえが合わせて当たり前、と思ってはいないよね。

せめて妻が愛する夫のために自ら望んでしていると信じたい。

そうなると、夫婦の温度差の話は、冷房の話ではなく、やっぱり夫婦仲の話になって来る。

愛する相手であれば、相手にしんどい思いをさせたくないと思うよね。

例えば、小さな子どもと寝るとすれば、自分と子どもとどちらに合わせるかは明白だ。

それが妻でも子どもでも、少なくとも私には、相手に合わせさせておいて平気で眠れる神経はない。

などと思っていたら、うちはとっくに夫婦別々の部屋で寝ています、という方がおられた。

合理的ではあるが、夫婦仲としてはちょっと寒い。

少しでも傍にいたかったあの頃は今どこに…。

なんだかきみまろのようになって来た。

ちなみに最近のエアコンは、同じ部屋でも場所により別々の温度設定できるそうだ。

それが現代の無難な解決法なのかもしれない。

 

 

2019(令和元)年8月1日(木)『太鼓』

あちこちで盆太鼓が聞こえる。

東京オリンピックパラリンピックの余波を受けて、夏祭りの太鼓会場(馬事公苑)を奪われた私は、太鼓を叩きたくとも叩く場所がなく、体がウズウズしている。

で、先日、太鼓の音に惹かれ、近所の小さな夏祭り会場に行ってみた。

揃いの法被を着た若い男女のグループが盆太鼓を叩いている。

東京音戸、炭鉱節などのスタンダード曲に加え、元々歌謡曲やアニメ曲などもよく取り入れられているが、初めて聴いたダンシングヒーローの盆太鼓に心奪われた。

櫓のステージのお兄さんの叩きっぷりが、曲の展開を熟知しているだけでなく、浴衣の踊り手たちの振りも取り込み、ソロ部分の盛り上がりを含めて演出が完璧なのである。

ちっくしょー、やられた!

自分だったらどう叩くかが頭の中を駆け巡る。

こういうときは、原曲と踊りの振りを徹底的に研究して、はからってはからってはからって準備するか、

全く何も準備せず何も考えず、手の動くまま足の動くまま、すべておまかせで踊るように舞うように叩くか、のどちらしかないのだ。

どっちもいいが、それにしても体がウズウズする。

やっぱり叩かなきゃ、いかんですわ、太鼓は。

しかし盆太鼓の叩き手は、オファーを待つのが基本。

呼ばれて初めてバチを握れる。

勝手に他の縄張りを荒らすわけにもいかず、また太鼓にはその叩き手集団の芸風に大きな違いがあるため、誰とでも組めるというわけでもない。

ああ、存分に太鼓を叩ける日はいつ来るのやら。

今夜もまた夢の中で太鼓を叩くのであった。

どどん!

 

 

 

◆追伸

来たる9月28日(土)29日(日)開催の「初秋の緑風苑ワークショップ in 磐梯山熱海」の案内をアップした。

今の猛暑の中、初秋は想像しにくいけれど、恵まれた環境の中、深い時間を共に過ごしましょう。

2019(令和元)年7月29日(月)『面談』

面談前夜〜当日の朝に、その日の面談の準備をする。

予約表を確認し、来談される方の面談記録を見返しながら、一人ひとりの顔を思い浮かべる。

ああ、明日(今日)はあの人が来られる。

あのことはどうなっただろう。

それは私にとって、すごく楽しみなことである。

楽しみと言っても、一人ひとりが抱えておられる成長課題は決して軽いものではない。

その内容は千差万別であるが、いずれも自分の人生がかかった話をしに来られるわけである。

私も受けて立たなければならない。

毎日、呼吸をし、祈り、そのときを迎える。

全ては私のミッションを果たすためである。

そこにはやりがいしかない。

今の私に危惧があるとすれば、私が今生でお逢いすべき人に逢えているかどうか=私が私の役割を果たしているがどうかだけである。

令和改元と共に5月1日から始まった当研究所の組織改変が3カ月を迎えようとしている。

今後新しくお逢いすべき方々のことは、疾うにホームページ上で明確に示している。

(「スーパーヴィジョンのお申し込みを検討されている方へ」 「よくあるご質問」「面談時間の長さと面談頻度」

そこに例外はない。

基本的に[私の基準によれば]精神科医、臨床心理士、精神保険福祉士、社会福祉士、看護師、作業療法士をやっていて(わざわざそんな職業を選ぶんだもの)解決すべき成長課題がないわけがないじゃないの。

それを未解決なまま、自らもなんだかよくわからないままの人生を生き、

また臨床や福祉の現場で、患者さん、利用者さん、メンバーさんたちをあなたの未解決の問題に巻き込み(付き合わせ)、迷惑をかけて良いわけがないでしょ。

この人間に関わる仕事が、知識と技術(操作)でやれないことは、流石にわかっているよね。

関わるあなた自身の人間性そのものが“ものすごく”絡むんです。

それが人のこころに関わる仕事。

とても大切な仕事。

本気で向き合いたいと思ったら、そのときにどうぞ八雲の門を叩きなさい。

小さな面談室からあなたの人生が変わって行くかもしれません。

 

 

2019(令和元)年7月14日(日)『第2回八雲勉強会』

今回の近藤先生の講演録音テープは『こころの健康』という題で、インタビュー形式に応えられたものであった。

珍しく大脳生理学的な説明から始まり、呼吸の話から、礼拝(らいはい)へと話は深まり、生命(いのち)の体感、体験の話となる。

われわれの体の中の筋肉で、呼吸筋は唯一、随意筋と不随意筋の両方が重なるところ(意識しても動かせるし(運動神経支配)、忘れても動いている(自律神経支配))。

となれば、先人たちが「はからい」(自力)と「おまかせ」(他力)の接点として眼をつけたのは流石、慧眼である。

呼気により己の我を吐いて吐いて吐き切って

自ずと入る吸気により生かされていることを体感、体験する。

そしてその呼吸による礼拝は、私の生命(いのち)の讃嘆であり、あなたの生命の讃嘆であり、この世界の生命の讃嘆である。

やがてお話が終わる頃には、自己礼拝、他者礼拝、この世界の礼拝に生きたいと思うのでありました。

それにしても近藤先生は楽しそうにしゃべられる。

その生きざまに思想や建前ではない、生命(いのち)の歓喜(かんぎ)そのものが現れているのであった。

これを体得、一体という。

ではまた次回8月11日(日)に弦巻でお逢いしましょう。

 

 

◆追伸

[1]翌々月9月は、緑風苑ワークショップ開催(9月28日(土)29日(日))のため、弦巻での八雲勉強会はお休みとなります。

[2]八雲勉強会の年間参加回数につきましては、参加者各人で把握しておいて下さい。

欠席は年度内3回までで、4回以上欠席されますとその年度の勉強会に参加できなくなります。

2019(令和元)年7月9日(火)『正しい地口(じぐち)の使い方U』

拙欄にも人気ページがある。

例えば、2013(平成25)年12月27日付『正しい地口の使い方』は、いまだに閲覧者数がトップ3内にある。

「そうは烏賊(いか)の〇玉…」の話であるが、読者の方々はこんな話題が好きなのかしらん、と不思議な気持ちになる。

などと思っていたら、たまたま聞いていた三遊亭圓生の落語の中に、面白い地口のセリフが出て来たのでご紹介する。

「下衆(げす)の考えと猫の金玉は後から出て来る」

また「〇玉」の話ですいません。

これはまた変わった地口だ、というわけで由来を調べてみた。

どうやら、子猫においては生まれたときの性別がわかりにくく、オスの場合は、生後カ月経ってから睾丸が下降して体外に出、いわゆる〇玉となってオスであることがわかるようになるのだという。

猫の金玉は後から出て来る、というのは獣医学的事実であったのだ。

そして下衆の考えの方は、下衆=お馬鹿さんなわけであるから、すぐに考えが思い浮かばず、後になってから間の抜けた考えが出て来ても役に立たない、ということであろう。

こんなことを書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを何度も書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、

ここまで読んで来て今ごろになってそう言うのが遅いんだよ!

だから、下衆の考えと猫の金玉は後から出て来るってんだ!
二度と読むな! このバーカ!

…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

 

2019(令和元)年6月29日(土)『若いヤツら』

基本的に、学生や新入職者たちを相手にした講義や研修は楽しい。

若い彼ら彼女らに無限の可能性を感じるからである。

中にはちょっと年齢の高い人たちもいるが

私からすれば、自嘲的に、おじさん、おばさんと自称したり

擦れた訳知り顔をするのはやめていただきたい。

1960年代に流行ったトラッドのブランドのコピーに

For the young and the young-at-heart

というのがあった。

生物学的な年齢は関係ない。

私が私しようとする生命(いのち)の勢いが溢れていることを

若いというのである。

かつてセラピーに訪れた83歳の女性が劇的な成長を見せたことについては以前に書いた。

そして、縁あって出逢った“若い”人たちの顔を眺めながら思う。

己を知り、己を活かし、己を実現する人生をどうか歩んで行っていただきたい。

もちろん若くったって生きていればいろいろある

その傷も、悩みも、苦しみも、ちゃんと向き合い、成長の糧にして行けば

やがて貴重な経験智となっていくだろう。

Go forward!

 

 

2019(令和元)年6月26日(水)『拾得物』

駅の構内でお金を拾った。

一万円札で二枚。

二つ折りの剥き出しで落ちていた。

駅員さんに届ける。

「拾得物の届け出、書かれますか?」

と訊かれたが、次の仕事の時間が迫っていたため

「ああ、いいです。」

と答える。

「拾得者のものになるかもしれませんよ。」

「いいです。いいです。」

そんな降って湧いたお金はいただかなくて結構。

今は働いて食べて行けるので十分だ。

急ぎ足で次の仕事に向かう。

そしてその日の仕事が無事終わった。

さて、宝くじ売り場に行くか。

おいっ!

 

 

2019(令和元)年6月23日(日)『表札』

「松田」の表札をつけている。

何でもないことのようだが、私には少しばかり意味がある。

かつて近藤先生から墨書の巻紙の手紙を戴いた。

その手紙そのものも有り難かったが、そこに込められたものが私にとってとてもとても有り難かった。

その文字にこもるものがある。

その封書に表書きされた「松田」の二文字を取った。

肉筆をスキャンし、檜の表札に焼き付けてもらったのである。

その表札は

東大寺南大門の金剛力士(仁王)像以上に

悪しきものを退け

善きものを招き入れるのか。

いやいや、求める者を招き入れるという方がその役割らしい。

私を招き入れてくれたものがその文字の中に働いているのである。

しかしどこまでいっても、表札そのものは目印に過ぎない。

やがてその表札がなくても、今ここであなたにわたしに働いているものを感じよう。

そして初めて表札はなくなり、至るところ是れ法門となるのである。

 

 

2019(令和元)年6月9日(日)『八雲勉強会』

今日は新しく発足した八雲勉強会の第1回目。

4月までの二つの勉強会を統合し、新たな参加者を得、会場いっぱいのメンバーの顔を見たとき、ようやくここまで来た、と私的に感慨深いものがあった。

参加者は皆、面談で話をして来た人たちであるが、この集団にはかつてない「集団力」の兆しを感じたのである。

私が主宰して来た勉強会の歴史は結構長い。

形を変え、テーマを変え、名前を変え、二十五年以上になろう。

当初は私も若く、自分の問題に無自覚な参加者も多かった。

若いからそれもこれも引きずりながら突っ走れたが、まだ集団が成熟していなかった。

「集団力」とは、集団の参加者一人ひとりが成長することによって(私が介入しなくても)新たな参加者に対して、そして参加者相互に、感化力を持つようになることをいう。

集団が集団を育てて行けるようになるのである。

そうなれば理想的だ。

今はまだ「兆し」だけれど、ここに来てようやく「集団力」の芽生えを感じ、長くやっていると良いこともあるんだなぁ、という思いを強くした。

もちろんその力はあなたの力ではない。

あなたを通して働く力だ。

そこのところはしっかり押さえておこう。

それも踏まえて、さて、面白くなるのはこれからだ。

来月からも近藤先生の講演に刺激され、共に成長して行きましょう。

 

 

2019(令和元)年5月27日(月)『改めて『塀の上の猫』について』

『塀の上の猫』の読者について改めて確認する。

(1)原則として『塀の上の猫』の第一の想定読者は、まだ出逢ったことのない“私が出逢うべき人たち”である。

そういう方々を思い浮かべながら『塀の上の猫』を書いている。

(2)二番目に、現在、面談に来られている方、勉強会やワークショップに参加された方を想定して『塀の上の猫』を書くこともある。

しかし、面談に来ている方について暗喩的に何かメッセージを書くことは絶対にない。

毎月1回以上面談でお逢いしているわけであるから、必ず面談で直接に申し上げる。

稀に「あれは暗に私のことを書いておられましたね。」と言われることがあるが、それを自意識過剰、関係念慮というのである。

勘繰る気持ちが強いようでは成長できない。

(3)現在、他所で精神科医や臨床心理士からサイコセラピー/カウンセリングを受けている方の閲覧はご遠慮願っている。

ダブル・セラピストで良いことは何もない。

目の前のサイコセラピー/カウンセリングに専念することを強くお勧めする。

一度に二つの道は登れない。

そして二股は潔くない。

潔くないのは嫌いである。

(4)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。

自分として完成度に納得しない場合は、何度も同じテーマで書き直すこともある。

これは自分自身のためである。

以上

 

 

2019(令和元)年5月21日(火)『私の出番』

精神科領域の世界的な診断基準として、例えばWHOによるICD-10がある。

改訂間近であるが、その診断基準の中に「社会的、職業的あるいは家庭的活動」に「困難」を感じることなどという記載がある。

早い話が、私生活や職業生活において支障があるかないかということが“治療”を要する“病気”と診断する上で重要なポイントとなっているのである。

これは合理的ではある。

しかし“私の”診断基準はこれと合致しない。

たとえ私生活と職業生活を“表面的に”適応的に生きていたとしても、それがニセモノの自分(後から身につけた神経症的な自分)を生きているのであれば、大いに問題がある、と私は感じているからである。

それ故、昔は本来の自分を生きていない人間は全て“病気”だと言っていたが、今はより厳密に二つに分けている。

即ち、本来の自分を生きていなくても(=ニセモノの自分を生きていても)、そこに切実な「情けなさの自覚」を持ち、それを乗り越えないではいられないという「成長への意欲」を持っている人は、そう思える限り、“健全”であり“成長”のための精神療法の対象になる。

しかし、本来の自分を生きていない(=ニセモノの自分を生きている)にもかかわらず、「情けなさの自覚」が切実でない人、「成長への意欲」が薄い人がいる。

それでは当研究所の“成長”のための精神療法の対象にはならない。

例えば、自分の怒りの垂れ流しや八つ当たりに関してなかなか気がつかない人、腹の底から認めない人、一応気がついてはいるが必死に取り組もうとしない人がいる。

これでは、私生活と職業生活を“表面的に”は送れているので、もちろん医療機関における治療対象にはならないし、当研究所における成長のための精神療法の対象にもならない。

もし可能性があるとすれば、精神療法専門医がやっている自由診療のクリニックの中に対象として受けて下さるところがあるかもしれない。

そういうところは本当に役割分担だと思っている。

私は自分の担当する、細い、狭い範囲で大いに結構である。

(と言いながら、私のセラピーの対象は実は潜在的に多いと思っているのだが)

令和以降、小さな面談室で、クライアントと共に可能な限り本物のセラピーをやらせていただきたいと願っている。

 

2019(令和元)年5月19日(日)『新緑の緑風苑ワークショップ in 磐梯熱海』

5月18日(土)19日(日)と福島県・磐梯熱海にて『新緑の緑風苑ワークショップ』を開催した。

天気にも恵まれ、気温は暑いほどで、冠名に相応しく、何よりも新緑が圧倒的であった。

ワークでは、前々回のワークショップではミュージカル映画、前回はムード歌謡と来て、今回は落語を素材として取り入れた。

私にとっても毎回がチャレンジである。

楽しみながら、体験を深めていただけたのであれば幸いである。

そもそも参加者は、ワークショップに参加するくらいだから問題を抱えているに決まっている。

しかし問題があるのは、あなたに後から付いた(身に付けざるを得なかった)神経症的な部分であって、本来のあなたには何の問題もない。

私が指摘するのも、あなたに後から付いた塵埃の部分なのである。

そこを自分本体が否定されたかのように誤解・曲解されませんように。

そこさえ押さえてしまえば、自分にはこんな問題あるよね、と正面から見つめ認めることが非常にやりやすくなり、それは成長への大きな武器となる。

今回も参加者によって作られたワークショップとなった。

各人が今なりの自分なりの精一杯で誠実に参加されたことに感謝したい。

そして最後にいつも思う。

面白くなるのはまだまだこれからだ。

また緑風苑で逢いましょう。

 

 

 

◆追伸

次回の緑風苑ワークショップは、当初11月の開催予定であったが、諸般の事情により9月28日(土)29日(日)開催となった。

秋の開催が9月となるのは初めてである。

参加希望の方は、今から予定を空けておかれますように。

2019(令和元)年5月15日(水)『丹田呼吸の本意』

昔、丹田呼吸をやっていた頃は、段々に肚が据わり、自分が強くなって来たような気がしていた。

しかし、それは“我”が強くなっていたのであり、てめぇ、斬るぞ、という態度で人相も目付きも悪くなっていたように思う。

新宿を歩いていたとき、向こうから来る人たちが次々と道を開けてくれたのを今でも覚えている。

あのときもしチンピラと行き逢っていたらどうなっていたかと思うとゾッとする。

いつ死んでも良いと思っていたし、邪悪なものは叩っ斬ってやろうと思っていた。

そう思って毎日木刀を振っていた。

幕末の龍馬でなく新撰組の心持ちに近かったろうと思う。

これもまたのび太がジャイアンになって行く典型であった。

入って来た“気”を自分のものだと思って過信する。

自我は肥大し、慢心し、自分が強くなったと思い込む。

そうではない。

自分はどこまでいっても凡夫、無力・無能・非力なままなのだ。

そう思い上がることができること自体が愚かな証しである。

その力が本来、他力であること、借りものであることを忘れてはならない。

凡夫が運良く龍にまたがらせてもらっているだけのことであり、自分が龍であると勘違いしてはならないのだ。

自力で思い上がって強くなった気になるか

他力に助けられて勁くなっていることを自覚するか

それが決定的な分かれ目となる。

以前、小心者でビビリの青年が二人いた。

二人とも丹田呼吸で自分が強くなったと過信した。

私がその過信を指摘したところ

Aくんは再びビビって来なくなってしまい

Bくんは素直に内省し、本当の意味で勁くなって行った。

ここでもまた「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が試されるのである。

丹田呼吸の本意、掴むべし。

 

 

2019(令和元)年5月13日(月)『勁いのび太』

かの聖徳太子が『十七条憲法』の中で

「共(とも)に是(こ)れ凡夫(ただひと)あらくのみ」

と言われている。

要は、人間全員が凡夫(ぼんぷ)だ、ポンコツだけだ、と千四百年前に言われているのである。

前回の拙欄を読まれて

「本当に自分は凡夫だなぁ。」

と(ポーズでなく)心の底から思われた方は幸いである。

それを私は「情けなさの自覚」という。

そういう方々には大いに成長の可能性がある。

しかし

「そういう人いるよね。」

「自分は違う。」

と思われた方もいる。

中には“反応”した方もいるかもしれない。

そういう方々は今後、拙欄を読まれない方が良いだろう。

「情けなさの自覚」のないところに成長はなく、私との縁もない。

そしてその成長であるが、我々は元々が凡夫なのであるから、自分の意図的努力=自力で成長できるなどと思わない方が良い。

凡夫にできることなどたかがしれている。

頑張ってなまじっか少しでもできたりすると、すぐに増長する。

我は肥大しやすいのだ。

欧米の精神療法が自我の強化を目指して来たことに私は強い違和感を覚える。

のび太をジャイアンにしてどうする。

のび太はのび太のままで勁くなれる。

正確に言えば、のび太はどこまでいっても弱いのだけれど、弱いままで勁くさせていただける道があるのである。

それが他力。

その道はいくつもあるが

例えば、丹田呼吸。

最近になってアメリカで境界性パーソナリティ障害や心的外傷後ストレス障害の治療法の中に呼吸法が取り入れられ、日本に逆輸入されている。

日本人が言い出せば胡散臭がられるかもしれないものが、舶来になると重宝がられるというのも情けない話である。

しかし残念ながら、厳密には、深呼吸や腹式呼吸と丹田呼吸の違いがわかっておられない。

肚が据わらなければ意味がない。

呼吸によって肚を据わらさせていただけるのが丹田呼吸。

出る息で我が吐き出され

入る息で大きな力をいただく。

それは自分の力ではない。

しかし勁くなる。

勁いのび太になる。

Yes, I can なんて有り得ない。

凡夫は全員 No,we can't である。

そして有り難いことに Yes, he can なのだ。

He が I して世界は踊る。

今回はこれくらいで。

 

 

2019(令和元)年5月7日(火)『凡夫悲歎述懐』

“私”は本来

無力である

無能である

非力である

ヘタレである

ビビリである

見栄っ張りである

虎の威を借る狐である

卑怯である

しかしそれを認めない

ほんのわずかに認めたとしても

自分がこうなったのは他人のせいである

子どもがこうなったのも他人のせいである

独善他罰である

責任をなすりつけるのは大得意である

自分は被害者である

自分は悪くない

自分は正しい

それどころか

自分も未熟ですから、と謙虚なフリすらして見せる

偽善的である

狡猾である

虚栄心の塊である

ポーズはあっても本質的には何の反省もない

 

さぁ、みんなで唱えましょう

これが“私”の実相です。

 

でもね

全部バレてる

漏れてる

丸見えである

気づいてないのは自分だけ

愛想笑いのその裏で

世人から軽蔑と嘲笑に包まれていることさえ

気がつかない鈍感さ 

そして馬鹿は今日も踊る

 

それが“我々”凡夫の実相です

 

 

2019(令和元)年5月5日(日)『その人を観よ』

前評判というものがある。

噂話というものがある。

あの患者は面倒くさい。

あの親の方が重病だ。

などなど臨床場面でも、受診前に関係者からそんな情報が入って来ることがある。

しかし、経験的に言うならば、余り当たったことがない。

火のないところに煙は立たず、というが

現実には、尾ひれが付くどころか、羽根まで生えて飛んでいくようなガセネタも多い。

よって私は信じない。

むしろ自分の眼でその人を観、その人を感じるまでは、鵜呑みにしない。

情報過多の現代だからこそ、決して騙されてはならないと思う。

自分が近藤先生に出逢うまでも、近藤先生についていろんなことを言う人がいた。

しかし私はそう言っている人たち自身の人格を信じられなかったので

他者情報を排除し、自分で文献を読み、直接に近藤先生に逢って自分の感覚で師と決めた。

自分で決めたことなら自分で責任が取れる。

間違いはなかった。

そして自分の観る眼に自信をつけた。

騙されるな。

あなたもまたあなたの眼でその人を観よ。

 

 

2019(令和元)年5月4日(土)『Xさんへ』

「他者評価の奴隷」ということは度々申し上げて来た。

我が国においても、時代が令和になっても、他者評価を気にする方々がまだまだ多いように感ずる。

いつも先聖たちのことを思う。

イエス・キリストがどうであったか。

釈尊がどうであったか。

孔子がどうであったか。

彼らでさえ、酷い他者評価どころか、生死に関わる迫害まで受けて来た。

人格が高邁であれば、言動に気をつけていれば、誰からも評価されるというのは、残念ながら幻想である。

だとすれば、三聖に遠く及ばない我々が、悪意の攻撃や、病的非難に晒されることなどは当たり前なのである。

娑婆には、常に悪意の人、病的攻撃性の人間が存在する。

それは私の臨床経験からも断言できる。

それはカスタマーレビューや書き込みやクレームや苦情SNSなどを見れば、あなたにもおわかりでしょう。

だから振り回されることなかれ。

基本は、自分の評価は自分で決めることだ。

自分自身が一番厳しい自分の評価者であれば良い、本質的な意味で。

そしてもし他者の評価を採用するのであれば

その評価者を選ぶべし。

信頼する人以外は、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、即ゴミ箱行きであるし

反対に、信頼する人であれば、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、真摯に検討するべきである。

そしてその結果がどうであっても、人生単位でその責任を取れば良い。

あなたの人生の主人公があなたであることを忘れてはならない。

他者評価の奴隷、排すべし。

 

 

2019(令和元)年5月1日(水)『令和元年』

令和である。

だからなんだってんだ、と言われると、何とも言いようがない。

それでも少なくとも、改元、新年、誕生日、何周年、アニバーサリーデイなどというものは、心機一転のきっかけになる。

当研究所も、令和元年5月1日、本日をもって組織の大きな変更を行った。

昨秋ホームページ上で告知して以来、8カ月の移行期間を置いたので、今のところ、大きな混乱もなく経過している。

もし8カ月間も当ホームページをご覧になっていなかったというのであれば、それはもう縁が切れたということであり、

稀に、新たに決めた「対象」でないのに、自分だけは例外であろうと一人決めして、久しぶりに面談を申し込んで来られる方がいらっしゃる。

残念ながらお断りすることになる。

これから当研究所が何をするか、旗色は鮮明に示した。

極めてシンプルに、本気で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、月1回以上通って来られる方たちとだけ面談して行くつもりである。

より明確に与えられた天命を果たす日々としたい。

 

 

▲このページのトップに戻る