八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

悪性(あくしょう)さらにやめがたし

 

八月は 原爆忌があり 終戦記念日があるためか 戦争に関するドキュメンタリー番組が多い。

略奪 拷問 殺戮 ホロコースト 観ていて こんなにも人間は残忍なものかと思う。

昔話ではない。

今も ウクライナで ガザで 地球上で 同じことが繰り返されている。

そしてその残忍さは 特別なことではない と私は思っている。

臨床を通じて 私はそのことを知っている。

いや 臨床以前に あなたの中に わたしの中に その残忍さがあることを私は知っている。

そして 生活の中でも その残忍さは そうではないような顔をして 繰り返されている。

それくらい人間は悪い。

誰もが心の奥底にそんな闇を持っている。

 

あたしの心の深い闇の中から
おいで おいで
おいでをする人 あんた 誰

 

そんな曲を聴いていたら 頭記の親鸞の言葉が出て来た。

 

あのね われわれの闇の認識は 浅過ぎるのだよ。

あなたは わたしは 人間は もっと もっと もっと 悪い。

存在の奥底から 震えるほど悪い。

人間というものを 本当に理解するためには そのことを知っておいた方が良いかもしれない と思う。

そうして初めて それでもその闇を晴らす光がある という話をすることができるからだ。

闇が浅ければ それを晴らす光の話も浅くなる。

それでは 弱い 薄っぺらい 有り難くない。

あなたの持つ わたしの持つ 人間の持つ 
自我中心性に基づく 残忍さ 非道さ 冷酷さ 攻撃性 破壊性 悪魔性 
を徹底的に 知った上で 見据えた上で

それでも 怖れず 諦めず 呑み込まれず 
求める者に 求めさせられる者に 
その闇を破る光が与えられるのである。
いや 無始よりこの方 その光が与えられていたことに 気づかせていただけるのである。

深い深い闇に気づかなければ 深い深い光に気づけないのだ。

それがわれわれの宿命なのである。

 

 

 

「私は最近アメリカから帰って地方に行きましたが、面白いことに立派な木や石に縄をめぐらし、手で作った白い紙が付いています。しめなわですね。これはつまり神聖なものの印です。日光の中禅寺湖の付近に行かれた方は御存知でしょうけれども、立木(たちき)観音が彫られておるのですね。木の幹と観音様、日本人にとって何の矛盾もないんですね。木が観音様、木に観音様がいらっしゃる、木と観音様が一体になっているのです。同じ意味で、石や岩が、なんかとっても有り難いものとして祭られているところもあります。そういう場所に行きますと誰が上げるのかお賽銭やお花が上げてあるのです。そこにお賽銭が上げてあるというのは、やっぱり人々が手を合わせているのでしょう。そういう意味で、日本人には何というのか、自然に対して、つまりその中にある力、そこに潜んでいる大きな力、そういうものに自ずから頭を下げ祈る気持ちがあるのだと思います。
皆さんに、年を取った方ぐらいしか覚えていないような歌がありますから、紹介いたします。若い人は覚えておいてくださいね。そういうものは我々の祖先がやっぱり感じたことなのです。こういう歌があります。

なにごとの おしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

実はこれには、その瞬間に感じた素直な、そして非常に純真な気持ちがすっと出ていると思います。これが日本人の気持ち、本音なんです。そこには肉眼では見えないもの、しかし何か感じられるものに対する率直な素直な敏感さ、そしてそういうものに対する自然は礼拝の気持ち、それに対して自ずから頭を下げる、これが日本人の真骨頂だと思うんですね。殆どの日本人はそういうことを自然に行います。欧米人は大体理屈ぽくて、これはこういう訳でこうなんだと、理屈で攻めて頭でちゃんと納得しないと、絶対に認めないのです。「なにごとの おしますかは 知らねども」ではいけないんです。それは一体何だと言うわけです。日本料理を食べるとき、これは一体何を使っているのかと必ずきます。つまり、必ず理屈がともなわないといけないのです。私に言わせれば、直感力が不足なんです。物をスカッと見る、スーッと感じることが出来ない、感受性の不足ということですよ。もとより例外もありますが、私は、何時も外国の方々とお話をしていて強く感じます。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

西行が伊勢神宮に参拝したときに詠んだのではないか、と言われる上掲歌は、何度読んでも心に深く響くものがあります。
別に伊勢神宮でなくてもいいんです。
本当は、いつでも、どこでも、誰に対しても、何に対しても感じられるはずのことですから。
でも、特に感じやすい人や物、そして場は、あるかもしれませんね。
それがわかる。
なんとなくわかる。
頭や理屈でわかるのとは違うんです。
それが日本人の、正確に言えば、日本の風土で育った者に授かった“感じる力”なのです。
外国人の中にも、ホーナイのように敏感な人もいますが、近藤先生のおっしゃる通り、これはやはり日本人の真骨頂だと思います。
ですから、例えば、サイコセラピーに携わるとき、セラピストにこの敏感さがあるかないかで、全く違う展開になるであろうことは容易に想像できると思います。
だから、絶対に必要なんです、セラピストが“感じる力”を磨くことが。
そうは思いませんか?
いやいや、セラピストだけじゃない、親にも、教師にも、社長にも、すべての人にこの“感じる力”は必要だと思いますね。

 

 

労働の対価としての報酬を受け取るために働いている、という人がいる。
全くもって正論である。
それで結構な人は結構である。

しかし、私はそれではとても寂しく、全然物足りない気持ちになってしまう。
貴重な人生の時間を切り売りして対価を得るというのであれば、働いている時間はどうしても「世を忍ぶ仮の姿」、「死に体(たい)」の時間、「ゾンビ」の時間と化してしまう。
だからこそ、ワークライフバランスなどと言うのである。
収入のためにイヤなことをやっているワークはできるだけ短く、好きなことをのびのびとやれるライフはできるだけ長くと願うに決まっているのだ。
私は、一回しかない人生の貴重な時間を1秒たりとも、そんな仮死状態のような時間にしたくない。

そもそも仕事をするということは、今回の人生において自分に与えられた意味と役割を、ミッションを果たすためにある。
そしてまた、この娑婆の中で働くということは、漏れなくイヤなヤツと変なヤツに出会わざるを得ないであろうから、いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいられるという“勁さ”を養うため、自分が自分でいるという幹を太くして行くためにあるのだ、と私は思っている。

わかりやすいリトマス試験紙がある。
その人の仕事観をみるには、こう尋ねてみれば良い。
「あなたは10億円の宝くじが当たっても今の仕事を続けますか?」

私は10億円が100回当たっても、この仕事を辞めたくないし、絶対に辞めない。
いや、それだけのお金が転がり込んでくるということは、またどんなミッションがあるのだろうと思って、さらに打って出るかもしれない。

あなたがこの世に生を受けた以上、絶対に意味と役割が、ミッションがあるんです。
(意外なところに、意外な形で、あったりもしますが)
それを忘れないでいただきたいと強く強く思います。

 

 

(以上は、先日の「はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会」でお話した「仕事観」の内容をさらに発展させてここに示した)

 

 

最近は、日本的な庭のある家が少なくなった。

「日本庭園」と大袈裟に言うほどのものでなくても、昔の家には小さな庭があり、それを眺めているとき、娑婆の雑事を離れて、自分をリセットできる瞬間があった。
その庭を庭させているものと、私を私させているものとの共鳴の瞬間があったのである。

そう思うと、どんなに立派な日本庭園であっても、作庭者のはからいを感じるものは、眺めていてどこか鬱陶しくなって来るが、
名もなき民家の坪庭でも、作庭者がいつの間にか作らされた庭は、眺めていて大いに浄化されるものがある。

ここらは仏像の事情と大いに通じるところで、仏師のはからいを感じる仏像は、それが有名な大仏師によるものであっても、眺めていてゲンナリして来るが
作者も知れぬ仏像でも、仏師が作らされた仏像には、大いに霊性を刺激される。

そう。蘊蓄的ではなく、また情緒的でもなく、霊性的に庭を味わいたいのである。

 

ここらの事情にご関心のある方には、立原正秋の『日本の庭』をお勧めする。

但し、所収の庭は当時のものであって、今は変わってしまったかもしれない。

庭もまた“生き物”なのである。

 

 

ドブネズミみたいに美しくなりたい

という歌があった。
これが

サクラみたいに美しくなりたい

だったらどうだろうか。
サクラは元々誰もが美しいと思っているので、一気に歌詞のインパクトはなくなってしまうだろう。

しかし、その深意には
サクラがサクラしているときが最も美しく
ドブネズミがドブネズミしているときが最も美しい
という美観がある。

これは
サクラは美しく
ドブネズミは醜い
とは異なる美観である。

サクラがサクラして美しく
ドブネズミがドブネズミして美しいのに
我々は人間は、自分しておらず、なんと醜いのだろう。
だから
ドブネズミがドブネズミして美しいように
私も私して美しくなりたい
という歌詞なのだ。

だから
ドブネズミがドブネズミしているとき
ドブネズミがドブネズミさせられているとき
ドブネズミを通して現れるやさしさもあたたかさも、この上なく純なものだから(そこに意識も努力もはからいもない)

ドブネズミみたいに誰よりもやさしく
ドブネズミみたいに何よりもあたたかく

という歌詞になるのである。

敢えてそこに、一般には醜いと思われているドブネズミを出して来る。
敢えて非常識を打ち出して、常識を打ち破り、真理に迫る。
ここらはかの一休宗純さんが得意とした表現である。

だから、周囲から否定され、顧みられず、蔑(さげす)まれている人たちがこの歌を好み、ドブネズミに自分を投影して、オレたちだって/ワタシたちだって美しいんだよっ!と主張するというのとは本質が異なる。

あなたがあなたしているとき
あなた絶対的に!美しいんです、ドブネズミのように。

 

 

だから、死ということは、人間がもし本当に自分を充実させて、そして、自分を充実させるっていうことは、どういうことかっていうと…僕はこう言いましたね、自分の生命を尊重するのと一緒に他人の生命も尊重する、と言いましたね。他人の生命の尊重ということ、それから尊敬と、そういうものが僕は愛だと思う。だから、つまり、そしてお互いに尊敬し、mutual(ミューチュアル)に尊敬し合うということ、そういうことがね、人間と人間の本当の交わりの元になると思うんです。そういうものがね、例えば、僕は、結婚でも、恋愛でも、お互いの間の尊敬がない関係っていうものは崩れて行く関係だと思う。お互いの生命に対する本当の尊敬があって、そこに何かお互いに頭を下げ、合掌し合うような、そういうものがあったときに、それは永続性を持つと僕は思う。
だけども、そういう意味で、この、人間は一人で生きるわけじゃなくて、共に生きるということを…人間っていうものは、本当に人間として生きる場合に、人間というように、日本語が言っている、人の間です。つまり、人と人と、お互いにですね、間柄を持って生きるということ。そういうときに初めて生きるということになる。ですから、今言ったように、本当に自分の一生を生きるというときには、人をお互いに愛し合って、愛情を持ち、愛し合ったところの、愛する関係っていうものがなきゃいけないと思う。これはやっぱり人間として非常に大事なことじゃないか、基本なことじゃないか。だから、それは生命を愛することから出発して、それを基礎とした愛するということですね。そういうものが、僕は、あって初めて、それを本当に生きたときに、死ぬるということは、本当は、そんなに恐ろしくなくなると。
つまり、もうひとつ言い換えてみましょう。仏教的に言えば、この生命は与えられたものです。与えられたものだから、我々の、つまり、勝手に殺したり、処分できない。与えられたその定めに従って、与えられた意味に従って、その意味を充足さすことによって、そして終わるべきときに終わると、いうことが、私は、死だと思う。だから、はっきり言えば、本当に、その意味では、自分の与えられた生命を与えられたものに返して行くわけで、だから、自分はそんなことについて余りこだわらなくていいと思うんですよ。ただ、自分に与えられた責任、与えられたものを尊敬し、それを尊重し、大事にして行く。たったひとつしかないこの生命(いのち)の機会を大事にして行くということが、そういうことが大事だと私、思うんですね。まあ、私は、そういうことをちょっと補う意味で、あの、補足致します。最後のは、あなた方に対する問いかけであるし、それに対するいろんな、僕は、考え方がある思いますが、率直に私の気持ちを申しあげておきます。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

前回(金言を拾う その33)で、「そもそも何のために授かった生命かがわかり、その生命を生きたとき、我々の生命は永遠のものとなる」ということを書きました。
それだけでも大変有り難いことではあるのだけれど、それでは自分だけしか救われない。
厳しく言えば、甚(はなは)だ利己的な結論と言わざるを得ない。
よって、そこに留まらず、縁あって出逢った他人の生命への尊重、尊敬が溢れ出す、我々を通して湧き出して来る、そういう展開になら
なければ、利他的にはならないのである。
そしてさらに、その利他と利他とが出逢うとき、それは相互的となる。

「お互いの生命に対する本当の尊敬があって、そこに何かお互いに頭を下げ、合掌し合うような、そういうものがあったときに、それは永続性を持つ」
そうなって初めて、人間と人間との本来の世界=唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)が転法輪する世界が顕(あきら)かになるのではないか、と私は思っている。

 

 

 

夢にもいろいろあるが、今日は夢が変化して行くお話。
そもそも定型分析的な夢判断は余り信じていないし、それだけで分析できるわけがないと思っている。
私としては、そのときそこにいるその人におけるその夢の意味を重視する。

今日はその中でもわかりやすい例を挙げよう(詳細な分析は割愛する)。
例えば、ある人が、子どもの頃受けた虐待の夢を繰り返し見るとする。
中には、直接“あの”光景を思い出すのは耐えられないため、親が幽霊や化け物に置き換えられることもある。
最初のうちは、その化け物に襲われて不安と恐怖に駆られ、逃げる、隠れる、身を潜める。そして汗だくになりドキドキしながら目が覚める。
そんな悪夢が続く。

そのうちにセラピーが進み、クライアントは段々本来の自分を取り戻し始める。
そうなると夢が変わって来る。
逃げないで戦えるようになる。
まだ武器は貧弱だが、ハラハラしながらも夢の中で化け物と対峙することができる場面が増えて来る。

さらにセラピーが進むと、今度は、相手の出方を待っていないで、こっちから化け物に攻撃を仕掛けられるようになって来る。
こちらの武器も段々重装備になって来たが、戦いはまだ一進一退である。

そして次の段階に入ると、化け物を打ち負かして行く場面が増えて来る。
こうなって来ると、最早「化け物」に置き換える必要もなくなり、夢の中でも「親」と戦い、押し返したり打ち負かしたりすることもできるようになって来る。

そして最後に、夢の中で、いつでもこいつを倒せる、という確信が出て来る。
そうなる頃には、実生活においても、職場においても、親に負けない、イヤな上司・先輩にも負けない、何だったらブッ飛ばす場面が増えて来て、それがまた本人に自信を与える。
段々と、いつでもどこでも誰の前でも自分でいることができるようになって来るのである。

こういう夢の変化も、それ相応の年月を要する場合が多いが、夢の変化は本音の変化であり(浅い夢は除く)、その人の本来の自己の実現具合、成長度合いを観る、良い目安となる。

最後に、私の夢の例も挙げておこう(これも詳細な分析は割愛する)。
よく空を飛びながら(草原の上を低空飛行)、真っ暗な底なしの闇の中に落ちて行く夢を見ていた。この夢は、いつからか覚えていないくらい子どもの頃から、またかと思うほど繰り返して見ていた。

それが近藤先生のところに通ううちに、真っ暗な闇の中に落ちなくなった。真っ暗な闇も出なくなった。
まだ低空飛行ではあったが、草原の上を少しずつ安心して飛べるようになった。

そして今度はどんどん高空を飛べるようになって来た。
高く晴れた空を飛ぶのは気持ち良く、雲の中も自在に飛べた。落ちる心配は全くなかった。

そしてある夜、夢の中でドイツ風のゴシック建築の壮麗な教会の中を飛んでいた。
低空から上を見上げて、高い天井ギリギリのところまで一気に上昇した。
が、急に失速し、床に向かって急降下して行った。
ああ、床にぶつかる、というスレスレのところで、
「なんちゃって。」
と言って静止し、反転して空中に上昇した。
そう。落ちることを遊べるようにまでなっていたのである。
その頃には、実生活においても、結論から本音から言える場面が増え、親は最早敵ではなくなっていた。

以来、空を飛ぶ夢は見なくなった。見る必要がなくなったのかもしれない。

 

 

ふと気になって『新約聖書』(文語訳)を開いてみた。

マタイ傳福音書に
「人もし汝(なんじ)の右の頬をうたば、左をも向けよ。」(第5章39節)  
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(マタイ第5章44節) 
「これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。」(第5章45節) 
とある。

また、ルカ傳福音書には
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを憎む者を善くし、汝らを詛(のろ)ふ者を祝し、汝らを辱(はづか)しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。」(第6章27~29節
「汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。」(第6章36節
とある。

これ、あなた、できます?
敵を愛せますか、心の底から?
例えば、あなたの一番大事な人を凌辱したり殺したりした相手でも。
よっぽどの偽善者でない限り、できるとは言えないでしょう。

そう。
勘の良い方は、かつて小欄に書いた『戒 私論』を思い出されたのではないでしょうか。

これらの聖句が示されたのは、それを実践することは、おまえらには無理だ、自分には無理だ、ということを愚かな人間どもに徹底的に思い知らせるためなのです。

そうなると、我々が進む道はひとつしかなくなります。
自分でなんとかできないのだから、自分を超えたものにすがるしかない、おまかせするしかない。
それが「御心(みこころ)のままになさしめ給え」であり、仏教でいう「南無」なのである。
神の御業(みわざ)が迷える子羊を通して行われることを「父の子となる」「父の慈悲のごとく、汝らも慈悲なれ」と言われているのである。
そうすれば、汝の敵を愛する、という奇跡が行われるかもしれない、人間の力ではなく、神の御業によって。
(ここらを勝手に解釈できるところがクリスチャンでない私の特権である)

昔、右浅側頭静脈あたりをヒクヒクさせながら、憎い相手のことを無理矢理頑張って愛そうとしているクリスチャンの友人を見かけたことがある。
偽善者になろうとするのはおやめなさい、
自力、我力、人力では不可能なことを認めて祈りなさい、
とクリスチャンでない私が彼を説教したのでありました。
それも実は、私にそう言わせたのは、私ではないんだけどね。

 

 

「あの、有名な雪山童子(せっせんどうし)っていう話があるんですがね、仏典の中にね。それはね、羅刹(らせつ)(悪鬼)がいるんですね。そこへ道を求めて、童子が行くわけです。そうしますと羅刹がね、おまえがもしも自分の体を自分に食べさせれば、私は真理をおまえに与えてやろう、とこう言うわけです。この場合、問われているのは、その人の生命ですね。そのときに童子は自分のそれを施身(せしん)、つまり、自分の体を施(ほどこ)してね、そして羅刹の餌食(えじき)になろうとしたわけです。その途端に、羅刹帝釈天の形になって、そして、本当にその童子に、有名な句ですが、ひとつの真理を教えてくれたという譬(たと)えがありますねそういう意味で、私たちは、本当の人間になるためには、場合によれば、そういうことも必要な場合もあります。私はこれを非常に強く言うわけではありませんよ。…
で、今…いわゆる施身聞偈(せしんもんげ)というふうなことをちょっと申しあげましたけども、こういったことは、生命ということは、生命はなんのためにあるか、というふうなことを考える上での、ひとつの参考に申し上げましたけども、私は、これから少し、なんて言いますか、暴論を吐きます。私の率直な感じを申しあげるんですけど。私たちは生命を与えられたものだと思うんです、私は。その与えられた生命ですが、これの中には素晴らしい可能性が宿っていると私は思うんです。改めて我々のめいめいに与えられた生命の値打ちというものを、その可能性をじっくりこう考えてみる必要がありはしないか。これ、一回しかない。この一回しかない生命というものが与えられているということの重要性というものは非常に大事だと思う。その生命を、今までの我々の先輩は、今の施身聞偈の例にあるように、本当の真理を求めるためには投げ出しても構わない。ということは、つまり、我々の生命というものが何のためにあるかということを、ひとつ、示唆していると思うんですね。
よく不惜身命(ふしゃくしんみょう)、身命を惜しまず、身や命ですね、身命を惜しまず、という言葉があります。その後に続くのが、ただ身命を惜しめ、と(「不惜身命、但惜身命(たんじゃくしんみょう)」(道元『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』))。矛盾してますね。身命を惜しまず、ただ身命を惜しめ。ただ身命を惜しめ、の方が今の場合、注釈が必要だと思いますが、私の考えでは、この与えられた生命の素晴らしい可能性ということに気がつけば、その身命を本当に惜しんでも惜しんでも足りないもんじゃないかと、こんなふうに思うんですね。一人ひとりが自分の中に、自分の中に宿ってる、そういった生命の尊厳と尊さ、その猛烈な持っている可能性というものを本当に感じたときに、この一日を、この一瞬を、この生命が生きる一瞬というものを本当に生きるときに、永遠に通ずるものがあると思うんです。
だから、死をなんとかコントロールしよう。死んでも生きてやる。まあ、極端に言うとね。死んでも生きてやるってのはありますよ。…なんか知らんけど、人間ってのは、そういう形で、死っていうものを生によって塗りつぶそうとするわけ。だけども、それがひとつの生に対するこだわりですね。執着です。しかし、その生というもののね、何故執着するかというと、先ほど僕が言ったように、その人の生が本当に十分に生きられていない場合に、生を失うまいとするんじゃないかと。本当に自分が充実して生を生きて、生の意味を果たし、人間としての本当の生命を発展させて生きているときには、恐らく…坂本龍馬じゃないけども、途中で死んでも悔いがないだろうと思う。…
死ぬことが生きることで、生きることが死ぬことの場合もある。そういうふうなこともある、ということを言いたいんです、僕はね。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

近藤先生が「私はこれを非常に強く言うわけではありませんよ」とか「暴論を吐きます」と慎重に言葉を選びながらおっしゃっているが、
「一人ひとりが自分の中に、自分の中に宿ってる、そういった生命の尊厳と尊さ、その猛烈な持っている可能性というものを本当に感じたときに、この一日を、この一瞬を、この生命が生きる一瞬というものを本当に生きるときに、永遠に通ずるものがある」
その人の生が本当に十分に生きられていない場合に、生を失うまいとするんじゃないかと。本当に自分が充実して生を生きて、生の意味を果たし、人間としての本当の生命を発展させて生きているときには、恐らく…坂本龍馬じゃないけども、途中で死んでも悔いがないだろうと思う
死ぬことが生きることで、生きることが死ぬことの場合もある
から先生の真意がわかる。
そもそも何のために授かった生命かがわかり、その生命を生きたとき、我々の生命は永遠のものとなる。
そのためにはいつ死んでもかまわない。
反対に、
その人の生が十分に生きられていない場合に、その人は生に執着する。
即ち、生物学的に死ぬことによって、永遠の生命に生きることもあれば、
生物学的に生きることに執着することによって、永遠の生命を失うこともあるのである。
さらに話を進めれば、
「身命を惜しまず」、本当の意味で、身命を惜しまないということは、永遠の生命に生かされているという真実を体験するためであれば、この身命も惜しまないということであり、
また、「身命を惜しめ」、本当の意味で、身命を惜しむということは、
永遠の生命に生かされているという真実を体験するために、この身命を惜しんで生きよ、ということなのである。
即ち、「不惜身命(身命を惜しまず)」いうことと「惜身命(身命を惜しめ)」ということが、実は同じ方向性を持った言葉であったということになる。
そう思うと益々「不惜身命(しゅしゃくしんみょう)、但惜身命(たんじゃくしんみょう)」(身命を惜しまず、但し、身命を惜しめ)という言葉は、流石、道元と言わざるを得ない。

 

 

 

ジャータカとは、釈尊の前世の物語。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われ、このような輪廻転生を繰り返して、やがて釈尊として生まれた、というお話。
輪廻転生があるのかないのかは知らないが、ジャータカに込められた意味は掴むことができる。
近藤先生の講演録からの「金言を拾う その32」の前置きとして、3日間に渡って釈尊のジャータカをご紹介して来たが、今日はその3日目最終日。

 

【3】雪山童子(せっせんどうじ)の施身聞偈(せしんもんげ)の話。
出典:涅槃経(ねはんぎょう) 聖行品(しょうぎょうぼん)

ある菩薩が雪山(せっせん)(ヒマラヤ山脈)で修業を重ね、雪山童子と呼ばれていました。
その様子をご覧になっていた釈提桓因(しゃくだいかんいん)(帝釈天)が、修行の心が堅固であるかどうかを試すため、恐ろしい羅刹(らせつ)(悪鬼)に姿を変えて、童子に迫り、声高らかに「諸行無常(しょぎょうむじょう)」(諸行は無常なり)「是生滅法(ぜしょうめつほう)」(是(こ)れ生滅の法なり)と唱えました。
これは過去の仏たちがお説きになった仏教の真理を示す偈文(げもん)の前半部分でした。
これを聞いた童子は、この尊い教えを一体誰が唱えているのであろう、とあたりを見回しましたが、それらしき人は見当たりません。
ただ谷底に恐ろしい羅刹がいるばかりでした。
このような偈文を羅刹が唱えるわけがないと思いましたが、まわりを見ても誰もいないので、羅刹に尋ねました。
「言ったのは確かに私だが、この数日、何も食べていない。空腹で偈文どころではない。」
「それでは、何をお食べになりたいですか? 何でも差し上げましょう。」
「そうか。それほどまで言うのなら、私が食べるのは人間の生肉と生き血なのだ。今は飢えに泣いているような始末だ。」
「わかりました。それでは私の身体(からだ)を差し上げますから、どうか後の半偈をお聞かせ下さい。」
羅刹は厳(おごそ)かに後の半偈である「生滅滅已(しょうめつめつい)」(生滅を滅し已(おわ)りて)「寂滅為楽(じゃくめついらく)」(寂滅を楽となす)と唱えました。
童子はその偈文を聞くと、至るところの木の幹や石に書き付けました。
そして樹上より飛び降りて、その身を羅刹に捧げました。
その瞬間、羅刹は元の
釈提桓因の姿に戻り、両手で童子の身体を受け止め、地上に下ろしました。
真実を究めようと修行し、半偈のために身を捨てた雪山童子とは、釈尊の前生(ぜんしょう)の姿だったのです。

 

(以上、この話にもいくつかのヴァリエーションが存在するが、今回は特に薬師寺のサイトの文章を下地にさせていただいた)

 

なんのために生れて
なにをして生きるのか
こたえれないままおわる
そんなのはいやだ

アンパンマンのマーチを待つまでもなく、それが我らの出生の本懐である。
それが体験・体得できたならば、今回授かった生命を大いに生きたことになり、最早いつ死んでも悔いはないのである。
長命、長寿も有り難いことではあるが、そもそも何のために授かった生命なのか。
雪山童子に「思わず」「躊躇なく」その身を差し出させたものもやはり童子を通して働く大いなる生命の力であった。
その本質については、明日の近藤先生の言葉を待とう。

 

【附記】この『雪山偈(せっせんげ)(諸行無常偈)』(諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)を和歌にしたのが「いろは歌」だと言われています。
ちなみに、「いろは歌」は、一説に空海の作とか、柿本人麻呂の作とか言われていますが、実際の作者はわかっていません。

いろはにほへと ちりぬるを   色は匂(にほ)へど 散りぬるを
 花は艶(あで)やかに咲き誇っても、やがて散ってしまう 
 
諸行無常(諸行は無常なり)  作られたものはすべて無常である

わかよたれそ つねならむ    我が世誰ぞ 常ならむ
 私たちの人生も同じく無常です
 是生滅法(是(こ)れ生滅の法なり)  生じては滅していくことを本性とする

うゐのおくやま けふこえて   有為(うい)の奥山 今日越えて
 万物で満たされたこの迷いの山を今日こそ越えて
 生滅滅
已(生滅を滅し已(おわ)りて)  生滅することがなくなり

あさきゆめみし ゑひもせず   浅き夢見じ 酔ひもせず
 浅くはかない夢を見て酔っていないで、真の安らぎを学びましょう
 寂滅為楽(寂滅を楽となす)  静まっていることが安らぎである

 

※ちなみに、前回の「薩埵太子の捨身飼虎」の話と今回の「雪山童子の施身聞偈」の話は、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)に描かれている。
 

 

ジャータカとは、釈尊の前世の物語。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われ、このような輪廻転生を繰り返して、やがて釈尊として生まれた、というお話。
輪廻転生があるのかないのかは知らないが、ジャータカに込められた意味は掴むことができる。
近藤先生の講演録からの「金言を拾う その32」の前置きとして、3日間に渡って釈尊のジャータカをご紹介する、今日はその2日目。

 

【2】薩埵太子(さったたいし)の捨身飼虎(しゃしんしこ)の話。
出典:釈尊のジャータカに登場する話だが、『金光明経(こんこうみょうきょう)』では、同じ話が
薩埵太子=大勇(だいゆう)として描かれており、こちらの話の方がわかりやすいので以下に示す。

インドに大事(だいじ)という名前の王さまがいました。
この国は富み栄え、いつも正しい仏教の教えをもって国民を導いていました。
王さまには3人の王子がいました。
長男は大渠(だいこ)、次男は大天(だいてん)、三男は大勇という名前でした。
ある日、3人で森に遊びに出かけました。すると7匹の子虎を連れた母虎が、親子ともどもに飢えて痩せ衰え、餓死寸前になっていました。
飢えのあまり、あわや我が子を食べようとしている母虎の様子を目(ま)の当たりにし、
大渠と大天の2人は憐(あわれ)みの心を起こしましたが、「虎は、豹(ひょう)やライオンと同じく、生肉や生き血を食べている。私たちはこの虎の飢えを救うことはできない。」と三男の大勇に言い、その場を立ち去ってしまいました。
人はみな自分のことのみを愛して他者を省みず、大慈・大悲によって我が身を忘れて他を救うような人間はいない、のがこの世界の実情です。
しかし大勇は、思わず、そして躊躇(ちゅうちょ)することなく、虎の前に身を投げ出しました。
すると虎は直ちに飛びかかって、その血肉を喰い尽くし、あとには白骨が散らばるだけでとなり、母子の虎は飢えから救われたのでありました。

 

(以上、この話にもいくつかのヴァリエーションが存在するが、今回は特に薬師寺のサイトの文章を下地にさせていただき、松田が改訂した)

 

この話も、薩埵太子=大勇自身が思案し、自分の意志に基づいた決断によって、母虎の前に身を投げる、と解されている場合が多い。
となれば、それは自力の話である。
大勇が“ご立派”という話になってしまう。
それでは浅過ぎる。
大勇の自力ではなく、大勇を通して働く力が、そうさせたのである。
だから、「思わず」「躊躇することなく」が成立するのだ。
これもまた、ベタベタの情だけで読んでは薩埵太子=大勇に申し訳ない。
このジャータカも、偉い話でも、可哀想な話でもなく、ただ尊く、美しい話なのである。

 

 

ジャータカとは、釈尊の前世の物語。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われ、このような輪廻転生を繰り返して、やがて釈尊として生まれた、というお話。
輪廻転生があるのかないのかは知らないが、ジャータカに込められた意味は掴むことができる。
近藤先生の講演録からの「金言を拾う その32」の前置きとして、今日から3日間に渡って、釈尊のジャータカをご紹介する。

 

【1】『月のウサギ』の話  出典『今昔(こんじゃく)物語集 三獣行菩薩道兎焼身語』

今は昔
天竺(てんじく)(インド)で、ウサギ、キツネ、サルが一緒に暮らしていました。
3匹は菩薩行(ぼさつぎょう)を行うため、毎日修行し、お互いを実の家族のように慕い合っていました。
そんな3匹の様子を見ていた帝釈天(たいしゃくてん)は、その行いに感心し、本当に仏の心を持っているかどうか、試そうと思いました。
そこで帝釈天は、老人に化け、3匹のもとを訪ねて、「貧しく、身寄りもない自分を助けてほしい。」と言いました。
3匹はその申し出を快く受け入れ、老人のために食べ物を探します。
サルは木の実や果物を取り、キツネは魚を獲って来ました。
ところが、ウサギだけは、山の中を一所懸命に探しても、老人は食べる物をどうしても見つけることができませんでした。
そしてある日、サルとキツネに「食べ物を探して来るので、火を起こしておいてほしい。」と頼みました。
サルとキツネが火を起こすと、ウサギは老人に「私を食べて下さい。」と言って、火の中に身を投げ、焼け死んでしまいました。
すると老人は元の帝釈天の姿に戻り、ウサギの命を惜しまぬ行動を世界に示すため、その姿を月の中に映しました。
今も月の中にいるのはこのウサギで、月の表面の雲のような模様は、ウサギが焼けた煙だと言われています。

 

(以上、この話にはいくつかのヴァリエーションが存在するが、今回は特にアニコム損保保険のサイトの文章を下地にさせていただき、松田が改訂した。

 

初めてこのジャータカを読んだのは子ども向けの絵本だっただろうか。
「私を食べて下さい。」という言葉と、ウサギが火の中に身を投げる絵に、胸を突かれたのを覚えている。
しかし、当時の私はこの話を「ウサギは偉いなぁ。」「ウサギが可哀想だなぁ。」と情緒的に(感情的に)読んでいたのだと思う。
火の中に身を投げ出したのはウサギの自力ではないのである。
ウサギを通して働く力がそうさせたのだ。
ベタベタの情だけで読んではウサギに申し訳ない。
これは偉いは話でも、可哀想な話でもなく、ただ尊く、美しい話なのである。

 

 

来たる10月6日(日)、仲秋の終盤、物想うには良い季節に『仲秋のハイブリッド勉強会』を開催することに決定致しました。

7月に『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』を開催してみた感触から、今後、毎月1回定期的にリモート開催している「八雲勉強会」のうち、ワンシーズンに1回=3カ月に1回を、オープンでハイブリッド(会場での対面参加 あるいは Zoomによるリモート参加のどちらも可能)な勉強会の開催置き換えて開催することと致しました。

今回も「現在、当研究所の『人間的成長のための精神療法』に通っておられない方」や6つの医療・福祉系国家資格者(精神科医、臨床心理士、正看護師、作業療法士、社会福祉士、精神保健福祉士)でない方も参加でき、開催要項にあります「参加対象」さえ満たせば、初めての方も大歓迎です。

今回のハイブリッド勉強会の構成は、講師によるレクチャー+参加者による質疑応答&ディスカッション(その日の勉強会の進展に応じた)ワークを考えています。

レクチャーにつきましては、『鉑言(はくげん)に深める』と題し、所感日誌『塀の上の猫』の中の「金言を拾う」シリーズを取り上げ、参加者とのディスカッションを通してさらにその真意を深めて行く展開にしたいと思っています。
(これに伴い、「八雲勉強会」では「金言を拾う」シリーズを取り上げないこととし、「ハイブリッド勉強会」に移行することに致しました)
参加者は予め「金言を拾う」の中から自分の心の琴線に触れるところを読んで来ていただき(当日の配布資料はありません)、自分が気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて(←ここが重要)語り合い、掘り下げ、金言を鉑言鉑とは白金、プラチナのことです。金からさらにプラチナへ)にまで深めて行く時間にしたいと思っています。
内容が深まるのであれば、最終的に、別の話にまで発展して行くことも大いに歓迎します。

また、ワークにつきましては、最初から準備せず、会の進行に応じて、臨機応変に行いたいと思っています。

さて、どうなるかは、その日の参加者次第。
秋の午後を深い人間的成長の場にして行きましょう。

 

 

 

今日は令和6年度5回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目に続いて5回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたい。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

一度「仮幻の自己」が結晶されると、その個人の生活態度乃至(ないし)傾向は「仮幻の自己」の実現と言うことを中心に展開して行く。そしてここに、次に見るような特異な神経症的性格構造の内容が観察されるのである。

a.他に対する神経症的要求 neurotic claims

「仮幻の自己」実現の試みは先ず第一に、彼を取り巻く世界に対する神経症的要求 ー neurotic claims の形を取る。「仮幻の自己」の持つ様々な欲望や必要条件は、それが実現される為には、現実によって充足されなければならないのは勿論である。
しかし、これらは個人の心内に於いて要求に変容するのである。即ち、現実は ー 対人関係その他を含めて ー それらを充足しなくてはならないし、すべきなのである。要求は自己 ー「仮幻の自己」ー の当然な権利であり、正しい自己主張と考えられる。
この要求が充足されない時は、現実こそ非難されるべきものなのであって、彼は非難さるべきものではない。彼は寧(むし)ろ同情さるべき被害者なのであって、彼の要求は当然且(か)つ正当であり、その意味で何人(なんぴと)も批判を許されない。彼はあらゆる責任から免(まぬが)れるのであり、責任を負うべきは他人であり、現実であるのである。しかも、彼の要求は正しく、権利であるばかりでなく、それが正当であると言う理由で、彼の努力を煩(わずら)わさずに、充足されねばならにと言う要求に迄(まで)発展するのである。
従って、彼の側の努力を要求されることは、不正であり、屈辱として彼には感じられる。しかし、この様な正当化にもかかわらず、不幸なことに現実は必ずしも彼の神経症的要求を満足してはくれない。特に彼の要求が、その完全な充足を要求するに及んで益々そうである。彼の自己免許の主張や権利は常に挫折の運命にある。しかし彼にとって、第三者から見れば自己中心的な、傲慢な、手前勝手な要求であるにしても、これらの要求は正しく彼の生存にとって必要なものであり、したがってその挫折は不安のもととなる。彼は怒り、恐れ、要求を妨げる現実や他人に対し、激しい敵意を抱き、復讐に駆り立てられる。
それらが又挫折する時、怒りや怨恨(えんこん)となる。こうして彼は何時(いつ)も不安や不満、焦燥感や怒りに満ちた存在となるのである。

 

不幸な生育環境のせいで、「真の自己」を押し込められ、「仮幻の自己」に生きざるを得なくなったのであるから、そこに神経症的要求が生じるのは当然である。
せめて「仮幻の自己」の実現のために、周囲は自分のあらゆる要求に応えるべきなのであり、応えないことは許されない、いや、許さないのだ。
あなたの知っている人にいませんか?
自己中心的な無理難題を次から次へと当たり前のように要求して来る人を。
あのド厚かましさ、厚顔無恥はここから来るのである。
そして、神経症に呑み込まれている人に、内省はない。
自分がおかしなことをやらかしていることに気づかない限り、残念ながら、彼/彼女は「何時も不安や不満、焦燥感や怒りに満ちた存在」であり続けることになる。
行き詰まり果てて気づくのか、面倒臭いヤツのまま寿命を終えるのか、いい年をした大人である以上、それもまた厳しき自己責任なのである。
 

 

「人間だけですよ。松はね、どんなことがあってもちゃんと松になるんだ。イチョウはちゃんと、どんなことがあってもイチョウになるの。…どうして人間だけ人間にならないでいいか、という。えぇ?! 人間には人間になる権利がある。人間は人間になる、そういう素質を持っているわけ。…
いかに人間が健康に生きるかってことは、いかに、そういうふうな、単なる自己中心的な、利己的な、自己保存欲から抜けて、自分だけの生命だけを大切にするんでなくて、他の人の生命も大切にする、自他の生命を尊敬しながら伸ばして行くと、こういうことがね、私はもう少し眼を開いて良いんじゃないかと思うんです。
つまり、こだわりということは、大体言えば、自分自身の自己中心主義、自分自身の利己主義、利己的なね、自分の価値観をね、防衛するところから起きるところのね、精神作用だと私は思う。…
私たちはね、本質には、人間であるということ、その弱さを認める、自覚することがひとつ。さらに、人間であるということは、人間自身を、自分自身の低い人間性をもっと高い段階へ成長さす、そういうことが人間のまた可能性の中にあるということ。つまり、私たちが、言うならば、一応、そりゃあ人間らしいことだね、と言うときには、人間らしい弱さを言ってることが多い。しかしながらそれのみに堕(だ)さない。我々が人間として、言うならば、ある意味における人間を超えて、我々の、人間を本当に超えることが、逆に言うと、人間であることの証明にもなるということです。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

自分が紛れもなく自分になるということは、大切であるけれど、そこには我々の自己中心性や利己的なところが紛れ込みやすい。
そういった我々人間の持つ弱さ=自己中心的で利己的になりやすいということを認めた上で、それのみに堕さず、我々人間に与えられた成長して行く力=利他的になる、自他の生命を共に尊敬し大切にして行くことができるようになることが重要なのである。
即ち、我々が利己的であるということも、人間というもののひとつの証明ではあるけれど、それだけに留まらず、我々が利他的になる可能性を秘めているということもまた、人間というものの証明なのである。
どちらも人間だけれども、やっぱりね、闇より光で生きて行きたいね。

 

 

玄関先の庭を掃除していたら、茗荷(みょうが)が驚くほど勢力拡大していることに気がついた。
植えた覚えはないので、前住者が残した球根から生えて来たのかもしれない。

茗荷と言えば、思い出すのが釈尊の弟子の一人、周利槃特(しゅりはんどく/チューリパンタカ)のことである。
大変に忘れっぽく愚鈍であったため、自分の名前さえ忘れ、自分の名前を書いた名札(幟(のぼり)という説もあり)を背中にしょって、名前を訊かれる度に背中を指さしていた、と言われる。そのため、仏道修行も進まず、諦めかけたときに、釈尊から「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除をするよう言われ、一所懸命に行ったが、それでも当初は箒(ほうき)さえも忘れる始末であったという。しかし、めげずに何年も何年も掃除を続けていたある日、折角綺麗にした所を子どもたちに汚され、思わず怒っている自分に気がついた。ああ、払い除くべきはこころの三毒=貪(とん:むさぼり)、瞋(しん:怒り)、癡(ち:無知)であった、と気づき、遂には阿羅漢(あらかん:修行者の到達し得る最高位)に至った(十六羅漢の一人)と言われている。

その周利槃特が亡くなった後、墓から名の知らぬ草が生え、それを上記のエピソードに因(ちな)んで「茗荷」(=名を荷(にな)う=名前を背負う)と名づけ、茗荷を食べると周利槃特のように物忘れがひどくなると言われるようになったとやら。
だから茗荷を見て、周利槃特のことを思い出したのだ。

そしてまた、周利槃特の掃除する姿にヒントを得て作られたキャラクターが、『天才バカボン』の「レレレのおじさん」である、という説がある。
レレレのおじさんが何を掃いているかを思うと
「おでかけですか? レレレのレ―!」
も意外に深いのかもしれない。
「あなたはもう三毒を掃き終わりましたか? レレレのレー!」

そして今日、玄関先を箒で掃きながら茗荷に気づいた私は、周利槃特の話を書かないわけにはいかんな、と思ったのでありました。

これからは、こころの掃除を思いながら、普段の掃除を致しましょう。


 

世の中には、戒あるいは戒律というものがある。

有名なものとしては、まずキリスト教のモーゼの「十戒」がある。
このうち、最初の三つは神のために守る戒律であり、残りの七つは人間との関係において守る戒律である。
例えば、その後半七つを挙げてみよう。
4.汝(なんぢ)の父母(ちちはは)を敬へ
5.汝殺すなかれ
6.汝姦淫(かんいん)するなかれ
7.汝盗むなかれ
8.汝その隣人(となり)に對(たい)して虚妄(いつわり)の證據(あかし)をたつるなかれ
9.汝その隣人の家を貪(むさぼ)るなかれ
10.汝その隣人の妻およびその僕(しもべ)婢(しもめ)牛驢馬(ろば)ならびに凡(すべ)て汝の隣人の所有(もちもの)を貪るなかれ
とある。(『舊新約聖書』日本聖書協会)
さて、これら全部を完全に守れる人がどこにいるというのであろうか?

また、仏教では、在俗信者が守るべきものとして「五戒」がある。
1.不殺生(ふせっしょう)
2.不偸盗(ふちゅうとう)
3.不邪淫(ふじゃいん)
4.不妄語
5.不飲酒(ふおんじゅ)
上記の十戒と結構重なることがわかる。
さて、これら全部を完全に守っている人が一体どこにいるのであろうか?
さらに出家者が守るべき戒律として、比丘(びく)(男性出家者)は二百五十戒、比丘尼(びくに)(女性出家者)は三百四十八戒があるというから、段々クラクラしてくる。

中には鈍感で思い上がりやすい人がいて、この「十戒」なら、この「五戒」なら、オレは(わたしは)ちゃんと守れている、守れる、と簡単におっしゃる。
例えば、一瞬でも性欲や物欲を感じたことのない人間が果たしているのだろうか。実際に行動に移さなければセーフという料簡(りょうけん)が甚だ甘いのである。
さらに、私のように、人間の無意識を相手にしている立場からすると、うまいこと意識上のことをちょろまかしても、その皮を一枚剥がした無意識では、破戒=戒律破りのオンパレードである。
だから、人間のことを「偽善者」といい、「凡夫」というのである。

ここで私も気がついた。
戒や戒律が示されるのは、それを守ることは、おまえらには無理だ、自分には無理だ、ということを愚かな人間どもに徹底的に思い知らせるためなのだと。
そうなると、我々が進む道はひとつしかなくなる。
自分でなんとかできないのだから、自分を超えたものにすがるしかない、おまかせするしかない。
それが「御心(みこころ)のままになさしめ給え」であり、「南無」なのである。

そこを踏まえた上で、先の「十戒」「五戒」に戻るならば、
(どうせ守れないから好き放題やっていいよ、ということではなくて)
どうせおまえらにできないことはわかっているけれど、できないなりに、できる範囲ではやってみなさいよ、
というのが戒律の意味だったのである。

 

     蛇皮を脱ぐ 罪なきものは なかりけり

 

 

「男の人の場合でも…自分というものが、いつでもそういうステータス、つまり地位とか場所だとかね、自分のポジションだな、そういうことでもって自分というものの価値を決めてるわけ。だから、そこいらの価値をね、自分の生存とつながっていると思うから、その価値をちょっとでも傷つけられるとね、すごくそれにこだわるわけですよ。
僕の隣の人が一所懸命になって自動車を磨いているんですよね。…自動車をものすごく綺麗に磨く。…日本人はちょっとでもね、人の車でもって傷つけられるとカンカンに怒っちゃうの。つまり、あれはね、我が分身なんだな、日本人にとって、極端に言うと。自分の自動車っていうのはね…自分の分身なんだ、自分の延長なんだ、ね。それを、だから、傷つけられたりすると大変だし、だからしょっちゅうピカピカピカピカ、こうやってないと気が済まない。つまり、そういうことで日本人の場合、こだわりがひとつ増えてる。…
自分の延長であり、自分の身代わりみたいなもの。自分の身代わりだから、ちょっとガッツンとやられると、とても癪(しゃく)に障(さわ)っちゃうわけね、これね。…
万事につけて、そういうふうなことやって来ると、それにこだわってると、面白いんだけども、一体どういうことになって来るかっていうと、我々はね、しょっちゅう傷つけられ、しょっちゅうもう、心を傷つけ、いろんな小さなことにもう傷ばっかり、満身創痍(まんしんそうい)じゃないけど、しょっちゅうハートに傷ばかりしているようなことになってしまう。これが極端になると…僕が取り扱う神経症になるわけです、ね。けれどもね、これは普通の人の場合にもそれがある。
私がこだわるということに関して、こんなことを持ち出したのは、我々がこだわる中に、つまり、我々が人間として生きる上において、本当に意味のある価値というものが、実はこだわられないで、嘘の価値、我々がむしろ人間として成長するためには妨害となる…ものがこだわられているということがあると思う。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

車にこだわっている人は車を傷つけられると自分が傷つき、
学歴にこだわっている人は自分以上の学歴の人が出て来ると傷つき、
お金にこだわってる人は自分以上の金持ちが出て来ると傷つき、
地位にこだわっている人は自分以上の地位の人が出て来ると傷つく。
結局は、そういうすがるもの、こだわるものに価値を置いて、自分の存在価値と結びつけている。
つまり、裏を返せば、裸の自分に自信がないのである。
裸の自分では存在価値がないのである。
それもそのはず、子どもの頃から、自分が自分であることに寄り添われて、愛されて、育っていないんだもの。
だから、代わりに評価してもらえるものが必要になり、“メッキ”にすがってこだわるのである。
よって、そのメッキがちょっとでも傷つけられると、自分の全存在が傷つけられたような気になり、ガラスのハートは些細な出来事で傷だらけになって行くのだ。
あのね、そんな嘘のメッキはもうどうでもいいからさ、裸の自分の方に、自分の存在の根底にある尊さの方に、眼を向けて行きましょうよ、という話なのである。


 

かの『論語』第六 雍也(ようや)篇に

「子(し)の曰(のたま)わく、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」

とある。
有名な文章であり、一般には

「先生が言われた、『知っているというのは、好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない。』」(金谷治訳注『論語』岩波文庫)

と解されている。
これで「ああ、楽しむ方が好むのよりも上なのね。」くらいに解して疑問に思わない人はそれでいいのであるが、私は引っかかった。
それでは「好む」と「楽しむ」の違いが明確ではないではないか。

ふわっとした解釈で済ませるのなら、それでいいけれど、わざわざ孔子がそう言うからには必ずそこに何らかの深意がある。
こういうのが『論語』や『聖書』や仏典などの聖典の言葉の読み方である、と私は思っている。
通俗的・表面的解釈ではもったいない、深意を明らかにしなければ意味がない。

そして思う。
「好む」際に喜んでいるのは、我々の「我(が)」である。
主観的に「好き」なのだ。
「好む」とは「我」が喜ぶことをいう。
それをすると「我」が喜ぶことを「好む」というのだ。

それに対して、「楽しむ」際に喜んでいるのは、我々の「我」ではなく、我々の「生命(いのち)」である。
「楽しむ」とは「生命(いのち)」が喜ぶことをいう。
人間ひとりの小さな「我」が喜んでいるのではなく、「生命(いのち)」が喜ぶとは、人間ひとりの「生命(いのち)」だけではなく、大きな「生命(いのち)」が、宇宙の「生命(いのち)」が喜ぶことをいう。
何故ならば、それをすることが、その人に天から与えられたミッションだからである。
だから、それをすると宇宙の「生命(いのち)」が喜ぶ。
それを「楽しむ」という。

そして仏教では、同じ「楽しむ」ことでも、宇宙の「生命(いのち)」が喜ぶように「楽しむ」ことを「大楽(だいらく)」という。
そういう言葉が既に用意されていることに驚く。

ここまで来てようやく
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず
の深意が観えて来るのである。

しかし、これもまた現時点での私の体験的解釈に過ぎない。
私にさらなる成長が与えられれば、また次の深意への道が開かれるであろう。
そうやって深めて行くのが、聖典の言葉の読み方なのである。

 

 

第二次世界大戦中、軍医をしていた亡父の話。
戦況が悪化する一方の前線の野戦病院で、多くの兵士を看取ったと言っていた。

そんなとき
「天皇陛下、万歳!」
と言う
て死んで行ったヤツは一人もおらん。
みんな
「おかあちゃん。」
と言うて死ぬんじゃ。

最後に頼るのはおかあちゃん。
刀折れ、矢尽き、傷ついた兵士が、異国で一人寂しく死を迎えるときも、思わずその名を呼びたくなる存在なのです。

しかし、「毒親」という言葉が当たり前のように使われている現代、血縁上、戸籍上の母親が必ずしも本当の「おかあちゃん」ではないかもしれません。
そうではなくて、「おかあちゃん」というのは、いつでもどこでもどんなときでも、無条件に受け入れ、抱きしめ、愛してくれる存在の象徴なのです。

浄土門では、阿弥陀仏のことを「おやさま」と呼びます。
それは明らかに、父親ではなくて母親です。
生きることに迷い、疲れ、心細くなってたときに、おかあちゃんの名を呼ぶことが念仏、南無阿弥陀仏なのです。

また、キリスト教のカトリックにおいても、聖母マリアの人気は絶大です。
これもまた聖なるおかあちゃんでしょう。

生命(いのち)を生み出し、生命(いのち)を育んでくれるおかあちゃん。
そして最後に生命(いのち)を引き取ってくれるおかあちゃん。

凡夫であり、迷える子羊である我々は、いくつになっても、大いなる母性にすがって生きて行くしかないのかもしれません。

 

 

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