八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

今日は令和6年度3回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目に続いて3回目。
今回も、以下に参加者と一緒に取り組んだ部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみるチャンスになる。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症の生成と発展

b.不安防衛のための態度 ー 神経症的傾向の萌芽

この様な環境にあり、この様な不安に脅(おびや)かされながら、しかし幼児は生きなければならない。人間に存在する成長への衝動が彼を動かすのである。しかし、幼児らしい自然な感情で自分を取り巻く人間に対して反応することは、この様な不安な状態では可能でない。
この様な状況に適応し、生きて行く為に、少なくともこの不安をかきたてたり、増加したりしない様に、いやむしろ、それを何とかして感じない様にする為の方法を見つけなくてはならない。自ら幼児は幼児として無意識な必要から、その素質や環境の特異性に従って、特有な態度を取って行くわけである。一般的に言えば、自分の周りの強力な人間にくっついて行こうとしたり、反抗して闘ったり、自分の中へ引き籠って、他の人間によって自分の心が乱されないようにすると言う風なやり方をとるわけである。
普通の場合では、この様な態度 ー(1)人に従って行く動き、(2)人に反対して行く動き、(3)人から離れて行く動き ー は、それぞれ補足し合って人間関係を充実させて行く態度なのであるけれども、不安におびえている幼児が、これらの態度を取る場合に極端になり、固くなって行くのである。そして、その態度も彼の不安の程度に比例するのである。
これらの態度は必ずしも一方向に限られるものでないから、互に矛盾し合うこともある。しかし、結局、どれか一つの態度が優勢となって来る。そして、それをもととして、他の傾向を抑圧し、敏感になり、色々な要求をする様になる。かくて、そういう傾向をもととした personality の発展が現れて来る。
勿論、幼児期に於けるこうした傾向は、まだ強固に定着しているわけではないから、友人とか、教師とかを通じて、何等かの意味で暖かい良好な人間関係に入って行くと、変化する場合も多いのである。

 

幼児には生育環境を選ぶことはできない。「しかし幼児は生きなければならない」 このフレーズが悲しくも胸に響く。そして神経症的性格の3つのタイプについては後に詳しく触れる。少なくともここでは、基礎的不安(基本的不安)を払拭するために、幼児が神経症的傾向を身に着けなければならないことを知っておいていただきたい。そして「暖かい良好な人間関係」が与えられれば、そのような神経症的傾向を振り払うことは、子どもだけでなく、大人でも十分に可能なのである(子どもの方が早いけどね)。そこに人間というものへの希望がある。

 

 

「もうひとつ大事なことは、特に若い方、年寄りの方、両方に共通なことですけども、クライアントにやってるうちに、これは…いろいろ違います、違いますが、そこをじっと聴いているとね…やはりね、自分にとってもね、非常に教えられるところがあるもんですよ。ね。そこをね、よ~く自分でね、聴き込んで、そして自分に取り入れて行きますと、自分自身が、私は今年七十六ですけども、自分自身が、まだこれでもね、自分で取り入れて成長できるっていうことを感じますね。本当にね、ああ、そういうことに気がつかなかった、ね。私は…まだまだ年を喰ってないと。もう十年くらい、もう二十年くらいやらなきゃ、まだわかんないんじゃないかと。こういうふうなことも随分ございます。だからね、自分自身が、やっぱりね、それによって成長させていただくというね、気持ちも、ひとつ、持って、体験もされて行くんじゃないかと思います。
そのことがあると、これはね、自分自身が成長するっていうことがわかりますと、これはね、セラピストとして、あるいは、カウンセラーとして非常に進歩するんです。というのは、今までははっきりしなかったんだけども、相手も成長できるんだってことがわかる、ね。人間というものが成長する。相手がまた成長することによって、こちらがまた「あっ、これは自分も成長できるんだ。」ということがお互いにわかる。これで、ひとつだけ申し上げるのは、成長は、お互いに成長は無限にできるんだ、ということを、ここでやられる、体験されるあなた方カウンセラーは、すごく恵まれた方だと思うんです。
…ま
あ、このね、カウンセラーっていうのはね、私はね、よっぽど好きでなきゃ、やれた商売じゃないと思うんですね。今言ったような事柄を聴かれただけでもそうでしょうけども、私もね、これ、よっぽどね、好きでなきゃできない。とにかく余程、人間に対する愛情とかね、そういうものがないとできない。だから、自分のことを省みられて、私は自分はそれほどの人間に対する愛情は持たない、人のことはどうでもいいと、ね。自分のことが、まあ、どうやら喰って行けりゃあ良いや、というふうな気持ちでやってらっしゃると、そのうちに、この仕事はとても馬鹿馬鹿しくてイヤになって他所(よそ)のことをやりたくなりますから。まあ、そういう他所のことをやられれば良いんですけども、まあ、そういう意味で、私は、これは非常に忍耐を必要とするということを始めから覚悟して。それで、そういうものができないなぁ、そういうものをやるだけの価値がない、ということであれば、自分を知る上から言ってね、自分はもっとそれよりもNTTの株かなんか買ってですな、何百万円か買って、それで儲ける方が良いと、こういう方が適しているという人は、どんどんそっちの方に行った方が、僕は良いと思いますね。やはり、それぞれの人間の、それぞれの一生をかけてやることは、それぞれあるわけですからね。
…そして、それが本当に、私は少なくともこう信じる。人間は自分のために奉仕するということよりも、人のために奉仕することによって、もっと人間が、自分に豊かに奉仕することになる。こういう具合に私は思うんですね。ですから、やっぱり何よりも、教育もやってますけども、何しろ、人間の生命(いのち)を育てるということぐらい、人間の一番深い喜びはないんだろうと思います。」(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

僭越ながら、師の言葉に今少し付け加えると、
まず「人間に対する愛情」ということ。
これは人間の力では無理だと思うんです。
だって凡夫は自己愛的なんだもの。
人のことなんて、二の次、三の次。自分が可愛くて可愛くてしょうがない。
でも、それが、自分以外の人間を愛せる場合がある。

また「人のために奉仕するということ」。
これもまた人間の力では無理だと思うんです。
だって凡夫は自己中なんだもの。
人の奉仕なんかやってられませんわ。むしろ私に奉仕しろっていうくらい。
でも、それが、
自分以外の人間に奉仕できる場合がある。

だけども、凡夫の自力では無理だけれど、
我々凡夫を通して働く大いなる力によって、それが可能になる場合がある。
人を愛し、人に奉仕できる場合がある。

人間の生命(いのち)の成長は、この世界の願い、この宇宙の願いなんです。
人間の生命(いのち)が成長するとき、この世界が、この宇宙が喜ぶんです。
ですから、「人間の生命(いのち)を育てるということぐらい、人間の一番深い喜びはないんだろうと思います」ということになるわけです。

 

 

「初心者の方に、私、何よりも勧めたいのは…何にもまだその人についての知識もなければ、初めて会ったんですからね、詳しい理解もあるはずないわけです。ですから…本当に…これしかないわけですが、ただ聴くということ、ね。聴くということ。リスニング。よく聴くということ。この聴くということが、私は大変、大切だと思うんです。その聴き方ですが、できるだけこちらがゆったりとして…そしてこう、私は本当に心からあなたの言われることを聴きますよ、というふうな、本当に、その、向こうはわざわざ、忙しい中をやって来たんです。本当に真剣にやってるんですから、こちらの気持ちとしては、そうしたやはり対応といいましょうか、そういうゆったりとした対応をすることがね、必要だと思うんです。
そうしてもうひとつ大事なことは、聴くということは、まあ、単純なことのように思いますけれども、私は…そうですね、忍耐が必要な行為じゃないかと思うんですね。忍耐が必要。まず声が小さかった人なら、一所懸命、声の小さい人の、その声を聴かなきゃいけない。これだって、ひとつの忍耐ですね。それが…また人によりますと、長いこと、どういうことを言おうとしてるんだかわからないけど、ずーっとこういうふうに言われる人があります。そういう人も、じっと聴いていかなきゃいけない、ね。…
そのことを私は、その態度のことを、よく説明するときに使う言葉として「聴き込む」という言葉を使うんです…「よく聴き込んで。」、ね。「込む」という字は非常に、私は…意味があるんじゃないかと、ね。お酒を仕込むとか、いろいろな言葉がありますね、タクワンを漬け込むとかね。「込む」っていう、それはね、心の中にですね、入っちゃう、ね、聴き込む。向こうの声がこちらの心の底に通るほど聴き込むということですね。…
本当に、それだけでもって、面白いことは…あなた方というかカウンセラーが本当に腰をこうグッと入れて真剣に聴き込みますと、不思議なことに、そのカウンセラーに対しているクライアントがね、何かね、そこにね、感じるんです。これは、僕はそこでなんとか、物理的に電気が起きるとかなんとかいうことを言うんじゃないんですが、あなた方にしても、お互いが、お二人、どなたでも、普通の場合でも、本当にこう、真剣にお話をしていらっしゃるときは、何か向こうからですね、やはり、伝わって来るものがあるでしょ。そういうことを感じられるでしょ。一所懸命やってくれるなぁっていう気がする、簡単に言えば。
これが、私は、まず、初めて会って、何も知らない、ね、二人の間に、よく信頼関係、信頼関係って言いますけれども、信頼関係が起きる、そのね、それが起きる元である。こんなふうに思うんですね。ですから、信頼関係ってのは始めからあるんじゃないんですね。それは、そういう二人の人間の間の信頼関係っていうのは、そんな形で、本当は樹立されて来るもの、作られて来る、創造されて行くものである、ね。で…まず第一に…信頼関係っていうものが…ありませんと、これはですね、このカウンセリングをやっていく関係はですね、もうね、続かなくなるんです。この信頼関係が、これからずーっと続く、何十時間、何十時間かわかりませんが、その間の長い時間、たとえ長い時間であっても、それを支え、それをずっと続けて行く、その人たちの大きな力になるんです。これはどんな人間関係でも大事なことなんです。教師と生徒の関係、あるいは、夫と妻の関係、あらゆる人間関係において、この信頼関係ってことがない関係っていうのは、本当は人間関係と言えないだろうと思うんです、本当の意味でね。」(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

この「聴くこと」くらい、ああ、もうわかってる、やってる、くらいに済まされて。全然わかっていない、全然行われていないことはないと思うんです。
形式としての「傾聴」、active listening なんていうのはもううんざりなんで、私は「聴くこと」において、本当に重要なポイントは二つあると思っています。
ひとつは、どういう姿勢で聴くかということ。
そしてもうひとつが、何を聴くかということ。

前者は、即ち、相手の存在への畏敬の念を持って聴いているかどうか、ということ。
それがあるからこそ、聴き込むことも、忍耐も、信頼関係もできて来るわけです。
そして、そういう姿勢で聴くことを繰り返して行きますと、やがてそれをクライアントも感じてくれます。
以前、『金言を拾う その9 溝をつける』でお話ししたことを思い出してみて下さい。

そして後者は、相手が実際に話していることを聞きつつも、その人の主観ではない、我ではない、生命(いのち)が何を言いたがっているかを聴くということ。我の声だけではなく、生命(いのち)の声を聴くということ。それがとても大切です。
例えば、あるお母さんが子どもの障害に悩んでおられたとする。
なかなか他では言えない、嘆きや悲しみややるせなさをカウンセラーの前で吐露されるかもしれない。
それを聴くのは当たり前です。
しかしそれだけではない。本当の意味で、しっかりと聴いていますと、お母さんの生命(いのち)の声が聴こえて来るときがあるんです。
何がどうであっても、まるごとこの子を愛したい。無条件に愛せる母親でいたい。そうなりたい。そうさせて下さい、と。
そういう生命(いのち)の声が聴こえて来るんです。お母さん自身さえも気がついていない、深い、深い、その声が。
その声が聴こえなければ、私は、本当の意味で、聴いてないんじゃないかと思います。
近藤先生の講演で『いのちの響きを共に聞く』という題のものがありました(私は「聞く」でなく「聴く」の方が良いのではないかと思いますが)。
この題だけで近藤先生がおっしゃりたいことがもうわかりますよね。

そういった点も含めて、どうか相手の言われることを聴いてみて下さい。
「聴く」ということの意味が、実感として、わかって来るかもしれませんよ。

 

 

受精卵から分化・発生して行く過程で、我々は身体を獲得する。
皮膚によって内外を区別され、その内側の存在こそ、私の身体なのだ。
そして脳に芽生えた“自我意識”がそれを“私の身体”として認識する。
仏教において、百八つの煩悩のうち、「我見」(自我意識=自我があると思うこと、自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体が(他と別に)あると思うこと)の二つを根本煩悩としているのは、流石と言わざるを得ない。
「我見」(自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体があると思うこと)がほぼ同時に発生するのだ。

そして、ここからすべての「苦」が始まる。
何故ならば、「我」=他と違う自分が生じた途端、そこに「我欲」(自己中心性(本当は自我中心性と言いたいところであるが))が発生する、精神的にも精神的にも「我」の満足=「我の思い通りになること」を要求するからである。
それ故、我々は、今に至るまで、我の思い通りになれば喜び(あのガッツポーズを見ればわかるだろう)、
我の思い通りにならなければ怒り、悲しみ、苦しむのである。
しかし、残念ながら、この世の大半は思い通りにはならない。
従って、この人生は、苦しいことのみ多かりき、ということになる。

そんな中で、子どもは成長して行く。
まだ母親のお腹の中にいるときには、かろうじて臍の緒でつながっていた。
わずかに母子=自他の一体感が残っていたかもしれない。
しかし出生するや否や、それは断ち切られ、「我見」「我身見」が完全に成立する。
そしてその後、少しずつ大きくなって行くということは、生きるエネルギーも増大して行くということであり、我に備給されるエネルギーも増大して行くことになる。

それが「イヤイヤ期」であったり、別に「〇〇期」とつけなくても、我が活発に働けば、思春期はもちろん、大人に至るまで、この「思い通りにならなければイヤだ」という我欲の主張は続くことになるのである。

で、どうするか。
それでは、どう子どもを育てるのか。
通常の精神分析や精神療法、発達心理学的見地からは、この我欲をコントロールすることが要求される。
そのために、すぐに全部思い
通りにならなくても(「すぐに全部思い通りにしたい」という欲求を「幼児的欲求」ということは既にどこかで述べた)、それを抱えていける力や、場合によっては諦めることのできる力をトレーニングして行かなければならない。
それが教育なのである。
極めて手のかかることであるが、親は、大人は、辛抱強く子どもに付き合いつつ、スモールステップで、体験的に教えて行くことになる。
ここで、我が子を思い通りにしようとすること自体に、親の我欲があることも忘れてはならない。

そして最後に、この問題の根本解決として、「無我」というものがある。
思い通りになることを願って止まない「我」がなくなってしまえば、少なくとも薄まってしまえば、問題は消える、少なくとも非常に楽になる。
但し、これは子どもには無理である。
長年、我の問題で相当苦しんだ人間でないと「無我」を志向することはまずない。
よって、関わる大人の側、親の側が、呼吸/念仏/瞑想などによって、自分を超えた力によって「我」という幻想を持って行ってもらい、ほんのわずかでも「無我」の体験をいただくのである。
自分で乗り超えられない、無能、無力、非力の凡夫にはその道しかない。
そしてもし運が良ければ、「我」を持って行ってもらうだけでなく、あなたを通して働く子どもへの「愛」を授かるかもしれない。
それが子どもの(我ではなく)生命(いのち)を育てて行く。

 

以上、これでも簡便過ぎて、意を尽くしたとは言えないが、いくら書いてもキリがないことでもある。
どなたか一人でも何かを感じるきっかけになれば幸いである。
 

 

 

欧米においては、「自我」の存在は、精神分析的にも、発達心理学的にも、当然のものとされている。
しかし、東洋では、少なくとも仏教においては、かの蓮如上人が「仏法には無我と仰(おほ)せられ候(さふらふ)。我と思うことは、いささか、あるまじきこと也(なり)。」と示されたように、「自我」があると思うこと=「我見」は、百八つある煩悩の中でも根本煩悩に数えられて来た。
ここに決定的な違いがある。

よって、私が教育分析を受けていた頃、「自我」の存在を自明のものとして構築されている精神分析の体系に疑いを抱いたのである。
虚構の上に建てられた体系に何の意味があるのか。
急速に精神分析への関心がなくなったのを覚えている。

そして既に「無我」の体験のある近藤先生が何故、精神分析を用いておられるのか、が次の疑問として浮かんで来た。
この答えは実に簡単であった。
人類の大半は、「自我」という幻想の下に生きているからであった。
生育史にとらわれる「私」も、トラウマにとらわれる「私」も、苦悩する「私」も、存在すると思っている。
「無我」の体験などありはしない。
従って、「自我」の存在を前提とした精神分析が治療として機能したのである。
そのためのものだったのか。

私の思うところを観抜いた近藤先生は、それまでの「教育分析」をやめ、「自我」を超えた精神的境地の世界への指導に重心を移された。
不思議なことに、それと同時に、私の中では、凡夫を救うための精神分析、精神療法というものが復権した。
「自我」に生きる者の抜苦与楽もなければならない。

それらが現在のわたしのサイコセラピーを形成している。
一方で、「自我」には「自我」の救いのための精神分析、精神療法を行いながら
難行としての「自我」を超える道=「(竪超というよりは)竪出(けんしゅつ)」と
易行としての「自我」を超える道=「横超(おうちょう)」とを示すことである。

そしてその上で、例えば、その発達過程において、「自我」という幻想を獲得して行かざるを得ない、子どもたちの哀しき定めと、それにどう応じて行くかについては、また明日触れよう。

 

 

大原則として、我々は自分を生きるために生命(いのち)を授かって生まれて来た、と私は思っている。
よって、人間には、魂を売って自分以外を生きるという選択肢はない。

しかし、例えば、学校やクラスが病んでいる場合がある。
ならば、そんなところに行く必要はない。
不登校、大いに結構である。

また、会社が病んでいる場合もある。
ならば、そんなところに行く必要はない。
退職、転職、大いに結構である。

また、引きこもるという道もある。
それも大いに結構だ。

しかし、問題は、それで終わりですか?というところにある。
ずーっと不登校の子がいる。
ずーっと引きこもりの子/人がいる。
何度も何度も転職を繰り返している人がいる。
逃げるだけですか?
成長はないのですか?

例えるならば、まだ自分が自分である幹が細い場合、強い逆風の中に身を置くと、幹が折れてしまう危険性がある。
だから、一時的に風の弱いところへ避難するのは全然構わない。
しかし、残念ながら、この世の中にパラダイスはない。
どこかにイヤなヤツや変なヤツが必ずいて、何らかの逆風があるのが娑婆の実状である。
従って、自分が自分である幹を太くして行かなければならない。
それを成長というのである。
逆風に負けず、自分を保てる幹の太さ、それを養って初めて自立した大人になることができる。

だから私は、不登校の子、引きこもりの子/人、転職を繰り返す人に言うようにしている。
今は逃げたって良いけどさ、ただ逃げ癖がついただけの人間にはなるなよ。
今日より明日、今週より来週、今月より来月、今年よりも来年、ほんの少しずつでも自分が自分である幹が太くして行け。
それを怠るな。
そうすれば、いつか必ず逆風をブッ飛ばせる日が来る、と。

では、自分が自分である幹を太くして行くにはどうしたら良いか。
本当の意味で“勁い”人間になるにはどうしたら良いか。
それはそれができている人間に訊きなさい。
(間違っても、魂を売ってうまいこと生きている人間には訊かないように)
それができるか否かで、人生が根底から変わることだけは事実である。

 

 

カウンセリングには…いろんな形がありますので、これを一括してですね、どうしたら良いという、ひとつの方法はないわけです。ただ、ひとつの態度はあります。どういう態度かといいますと、ここに悩んでいる一人の人がいる、人間がいる、という認識ですね。その人特有の、独自の…固有な悩みといい、困難といい、特殊な事情というのは、それはその人から直接伺わなくてはわかりません。わかりませんが、この人は、どんな人であれ、そこに悩みを持って苦しんでおられる人間が、わざわざ時間を割いて、カウンセラーである自分の前にいる、ということ、これをね、私はまず第一に、重要なことであると思うんです。…その人に対して、どうか、この人は苦しんでいるけれども、悩みを持っているけれども、真剣に、とにかくやはり、たとえどんな形であろうとも、心の奥深いところでは、真剣にあなたのところに来て、何かを得たいと思っていると、こういうことをね、認識していただきたい。その何かを得たいというところが、実は問題の重要なところなんです。(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

このクライアントの中にある「何かを得たい」という、悩みを突破して成長して行きたいという力、
いや、万人を通して働いている、その人の本来の自分を実現させようとする力、
これを感じるところからカウンセリングは始まるのです。
これを感じない、カウンセリング、サイコセラピー、対人援助などあるわけがありません。

さらに、近藤先生が言っておられる「心の奥深いところでは」というところも非常に重要で、「治療」場面でよくあることですが、
クライアントが、一見、やる気がなさそうであったり、愚痴と弱音ばかり吐いていたり、それどころかカウンセラーに喰ってかかったりして来ることもあります。
しかし、そんな上(うわ)っ面(つら)の言動の皮を引っ剥がしたところ、「心の奥深いところ」では、成長を求めて止まない力が脈々と働いているのです。
それを感じること。
それがカウンセリングの基本中の基本、本質中の本質ということができると思います。

 

 

今、八雲総合研究所で面談をしている方の中に、私と二人で一緒に本を読んでいる方が何名かいらっしゃる。
面談のための時間とは別の時間を予約して、ひとつの本を一緒に読み、感じたこと、気づいたこと、連想したことなどについて二人で話すのである。
個人情報に属することなので、詳細を紹介することは控えるが、どの本を読むかは最初に話し合って決めている。
どうせ一緒に読むからには、歯応えのある本が良いので、古典や仏典、精神療法の本や近藤先生の著書そして小説など、種類は多彩である。

中でも古典、仏典となると、今は余り読まれない漢文、古文も入って来るが、所詮は日本語。
読んでいるうちに慣れても来るし、それ以上に、真意がわかるようになるから面白い。
勉強会などで皆と一緒に読んで、さまざまな人の発言を聴くことも実に楽しいが、
二人だけで読むことならではの味わいもある。

そういうやり方もあったのなら、教えてほしかった、と言われたので、ご紹介した次第である。

また、訊いて下されば、さまざまな書籍のご紹介も行っている。
一緒に本を読む時間を取らなくても、ご紹介した本について読んで来られれば、ディスカッションすることもできる。
(但し、「先生、この本を読んでおいて。」と言われるのは厳しい。私が読みたいと思っている本は常に何十冊も waiting list にあり、とても時間がないので、私からご紹介した本についてでお願いしたい)

とにかく今生で出逢えている時間は長いようで短い。
いろいろに活用していただければ幸いである。

 

 

データベースを整理していたら、18年前に勉強会で取り上げた女流俳人・三橋鷹女(みつはし・たかじょ)(1899-1972)の俳句が出て来た。 
単に「自由」「奔放」「前衛的」では片づけられない“勢い”のある句風の人である。 
生きてるね、鷹女さん、という感じ。

このまま死蔵してしまうのも惜しいので、以下に抜粋して挙げる。 
(他にいわゆる「代表作」もあるが、ある意図を持って抜粋した)

俳句もまた考えるものではない、感じるものである。
鷹女の感性を、センサーを開いて、今のあなたで味わうべし。

 

 夏痩(や)せて 嫌ひなものは 嫌ひなり

 

 初嵐して 人の機嫌は とれませぬ

 

 チューリップ 驕慢(きょうまん)無礼なり 帰る

 

 おもふこと みなましぐらに 二月来ぬ

 

 藤咲いて 人にはさみしき うなじがある

 

 白萩(しらはぎ)より 雨の紅萩(べにはぎ) さみしいよ

 

 堕(お)ちてゆく 炎(も)ゆる夕日を 股挟(またばさ)み

 

 老いながら 椿となつて 踊りけり

 

 白露(しらつゆ)や 死んでゆく日も 帯締めて

 

ある抑圧の強い女性が、鷹女の句を読んで、ただの言いたい放題ではないか、と言った。
違います。
周囲が恐くて本心を言えないあなたが、自分のヘタレを正当化するために、自分がヘタレなのではなく鷹女の方が言いたい放題であるとこじつけているのです。

 

 

少しずつ“本当の自分”を取り戻し、恐い相手に以前なら言えなかった“本音”がようやく言えるようになって来たとする。
大変喜ばしいことであるが、そんなときに起こりやすいのが、ひとこと言っただけで全精力を使い果たしてしまい、「ふう。」と気持ち的に座り込んでしまう場合がある。
そうなると、最初のひとことで相手をノックアウトできたのなら良いのだが、そうできなかった場合、相手から想定外の反撃を喰らって、こっちがノックアウトされることになりかねない。
そこでやり返されてしまうと、相手からの
反撃が恐くなり、以前よりも本音を言えなくなってしまうことすらある。

だから、予め申し上げておきたい。
本音の矢を射る場合には、一之矢で終わりとせず、必ず、二之矢、三之矢を次々と射る覚悟で臨むことである。
相手も一之矢に対して反撃できたとしても、まさか二之矢、三之矢まで来るとは思っていない。
仕留めるまで射続けるのである。

などと思っていたら、先月引用した柳生宗矩(むねのり)の著『兵法家伝書』の中に、このことがズバリと書いてあった。

「一太刀(ひとたち)打つてからは、はや手はあげさせぬ也(なり)。打つてより、まうかうよとおもふたらば、二の太刀は又敵に必ずうたるべし。爰(ここ)にて油断して負(まけ)也。うつた所に心がとまる故(ゆえ)、敵にうたれ、先(せん)の太刀を無にする也。うつたる所は、きれうときれまひと、まま、心をとゞむるな。二重、三重、猶(なお)四重、五重も打つべき也。敵にかほをもあげさせぬ也。勝つ事は、一太刀にて定る也。」
[意訳]一度刀を抜いて斬り込んでからは、もう反撃を許してはならない。どうしようかと躊躇(ちゅうちょ)したならば、二の太刀を敵から必ず打たれることになる。それで油断して負けになる。打ったところに心が留まってしまうから、敵に打たれ、最初の太刀を無駄にしてしまうのである。打ったところは、斬れようが斬れまいがこころを留めてはいけない。二之太刀、三之太刀、さらに四之太刀、五之太刀も打つべきである。敵に顔も上げさせないように打ち込むのである。勝つことは、一度刀を抜いたときに決まるのである。

但し、付け加えておくことがある。
自分の“我”を通すためにこれを使えば、ただの迷惑な攻撃野郎となる。
あくまで「自我」でなく「自己」、「神経症的自己中心性」ではなく「本当の自分」「真の自己」を生きるために行うことであることを忘れてはならない。

 

 

「私は医者として患者が治るときに、そこに単なる薬だとか医者の手当てだとかいう以上に、その患者に深く動いている、患者の命に働きかけている深い強い力を感じる時があります。これが正に患者を治すものであります。そういう力を我々医者は信じて仕事に従うことができるのです。治るということ、これは医者の力でもありませんし、薬の力でもありません。それを超えたもっと深い力が働いていることを、もしその医者が謙虚に自分の何十年かの治療経験を顧みるならば、気がつくことだと思います。私はそういうことを本当にこの何十年かの治療生活で感じています…」(近藤章久講演『一味の世界を目指して』より)

近藤先生は長年多くの患者さんの治療に携わって来られました。
中には非常に難治な方が劇的に回復されたこともありましたが、一度として「自分が誰々を治した。」という表現をされたことがありませんでした。
「私が誰々を治した」ではなく、「誰々の命に働きかけている深い強い力がその人を治した」のであり、それが近藤先生にとって偽らざる実感だったのです。

よく先生は「邪魔しなければ名医」と笑って言っておられました。
藪(やぶ)な医者は、賢(さか)しら立って余計なことを言い、また余計なことをして、治ることの邪魔ばかりしているのです。
まずそれがなければ名医。

私は先生に申し上げました。
「それでは少しでも力になれたら大名医ですね。」
そしてその「少しでも力になる」というのは、余計なことをするのではなく、
患者の中に働いているそ
の力を感じて信じること、
そして、その力に対して心の中で合掌礼拝しながら関わること。
そしてさらに、医者自身の命を通して働いているその力に促されて、あるいは導かれて、何某(なにがし)かのことを言う、あるいはするのみです。

これが「治療」ということの本質です。
 

 

子どもの前では、夫婦喧嘩をしないようにしている、と言うお母さんがいる。
気持ちはわかるが、子どもを侮(あなど)ってはいけない。
お父さんの悪口を言いたくてしょうがないことは、とっくにバレている。
そして子どもは、険悪な空気に気づいていないフリまでしてくれる。
それならばむしろ、子どもの前で多少ドンパチやろうとも、そんなことでビクともしないほど夫婦の絆は強固なのだ、ということを示せた方が良いのではないかと思う。

もう離婚したお母さんの場合。
子どもの前でずっとお父さんの悪口を言い続けるお母さんがいる。
それだけの理由があって別れたのだから、悪口を言いたくなる気持ちもわかる。
しかし、子どもにとっては、それでも世界に一人のお父ちゃんである。
その父親がアンポンタンのポンコツだと言い続けられるのを聞くのは、ちょっとしんどい。
なんだか自分も半分、失敗作のような気がして来る。
だから、こういう場合には、できるだけ悪口は少なめにして、「お母さんとは合わなかったけれど、良い人だったよ。」くらいは言いたいところである。
もちろん子どもは気づいている、それが無理なウソだということを。
それでも自分のために良いように言ってくれているんだな、ということにやがて気づくようになる。
そこに母の愛がある。
(お母さんの愚痴を言う相手は他に確保しておきましょう。これはこれで溜めてはいけません)

なんだか今日は人情噺のようになったな。

 

 

今日は令和6年度2回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も前回に続いて2回目。
今回も、ホーナイの本質をとらえ、しかも、わかりやすい筆致は流石である。
以下に参加者と一緒に取り組んだ部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的に、かつ、系統的に学んでみるチャンスです。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症の生成と発展

a.基礎的不安 basic anxiety

しかし、幼児がF、この世に生を受けた時、必ずしも良好な条件の中に生れ出て来るものばかりではないばかりか、良好でない条件は数え切れない程あるのである。しかし、窮極するところ、幼児を取り囲むその環境に於ける人々の態度が問題である。それらの人々自身が神経症的であり、神経症的な要求や反応を示すとすれば、それは自(おのずか)ら幼児に影響する訳である。
例えば、親が保護し過ぎたり、脅迫的であったり、依怙(えこ)ひいきをしたり、焦々(じりじり)し勝ちであったり、権威的であったり、やかましやであったり、無関心であったり、偽善的であったり、不安であったりする時、それらの態度は幼児の成長に対して影響を持たざる得ない。
それらの態度の結果として、幼児は何かしら安全感を持てなくなる。幼児は深い不安と漠然とした恐れを体験する。彼は何か、自分に対して敵意をはらんでいる世界に住んでいると感じるのである。
そこで彼は一人ぼっちにされ、無力だと言う感情を持たざるを得ない。これが、こうした状態に於いて感じるものであり、Horney が基礎的不安 basic anxiety と呼んだ感情である。

 

 

動物を殺すのは可哀想だから肉(動物性食品)は食べない、という人たちがいる。
植物は殺しても良いのか、と思う。

植物を殺すのも可哀想だから、木から落ちた実しか食べないという人たちがいる。
あなたが歩いているときに踏み潰している虫や微生物はどうでも良いのか、と思う。

虫や微生物を殺すのも可哀想だから、非常に気をつけて生きている人たちがいる。
残念ながら、どんなに気をつけても、例えば、われわれの腸内では微生物の殺戮が毎日行われている。

別にそれぞれの考え方や生き方に、イチャモンをつけているわけではない。
自らの信ずるところに従って人生を生きて行かれれば良い。今回、私が言いたいのはそこではない。

生きるということは、どんなに考えて意識して気をつけても、誰かや何かを犠牲にして成り立っている、という事実を知っておいた方が良いと思う。

そうすると、人格というものがちょっと謙虚になる。
 

 

「自分でね、1分間でも2分間でも3分間でもいいから、静かに心を統一して瞑想することですね。これはできると思う。その瞬間、あなた方の心は洗われているわけです。何も考えない。何も思わない。滝に打たれたような感じ。そういう気持ちになる。行動です。こういうふうな感じでの行動をですね、少なくとも、最低ですよ、一番やりやすい2回ね、朝と寝る前の2回、静かに、我欲のない自分、我執にとらわれてない自分、そういうものに帰って、帰れます! 帰れますから、そうやれば、帰ってみたらどうかと思います。…ただ静かに息をして、そして自分の気持ちを、本当に清水に洗われたような思いにするんですよ。できます! できますよ、これは。気持ちが良いです。こういう気持ちになることがないんですよ、普通。だからそういうときを作ること。…これね、やってみなきゃ、わからないの。…短いけれど、3分間だけども、3分間の中に永遠がある。その中に浸っているときは、時を問わず、年を思わず、そうじゃなくて、ただ絶対の、本当に清らかな世界の中にあなた方は生きてるわけです。そのときに、体から全部洗われて行く感じです。心が全部洗われて行く感じです。この気持ちを感じたときに、あなた方は自ずから『本当の自分』になります。」(近藤章久講演『迷いのち晴れ』より(著書の『迷いのち晴れ』とは異なる))

 

これは是非、行動されることを、実践されることを強くお勧めします。
近藤先生がこの講演の中で言われている通り、もし瞑想よりも念仏の方がやりやすいという方は、もちろん念仏でかまいません。
とにかく実際にやってみること、そして、続けてみることが重要です。
本当に、1日朝と寝る前の2回、1回1分でも2分でも3分でも

続ける、続ける、続ける、そしてどうせ続けるなら年単位。
今日まで生きて来たあなたの人生の長さを思えば、1年くらい続けたってバチはあたらないでしょう。
そしてさらに2年でも、3年でも、5年でも、10年でも。
これからも「ニセモノの自分」で死ぬまで生きて行くのか、それとも「本当の自分」を実現して行く一瞬を、“永遠の今”を授かるのか。
最後はあなたの人生です。
あなたの責任で決めて下さい。

 

 

「僕の願いは、みんなが『本当の自分』、人間らしい自分を自覚して、そしてそれで生きてもらうことなんです。そんな難しいことじゃない。それは要するに、『本当の自分』っていうものは、いわゆる我欲だけで生きない、自分の中に、自分の生命を成長させ、そして本当に自分を生かして、その生命が生かされている本物、根拠、そういうものを感じてですね、そしてそれに生かされる喜びというものの中に生きがいを見い出す。そういうことを感じてもらいたいんです。そのときに百万円のネックレスも意味がなくなります。『本当の自分』を生きたときに、顔は本当に柔らかに優しく微笑み、豊かな気持ちになり、人を愛し、自分を愛し、そして常にみんなと一緒に和(なご)やかに生活して行く人になっていくだろうと思うんですね。」(近藤章久講演『迷いのち晴れ』より(著書の『迷いのち晴れ』とは異なる))

 

「本当の自分」って何ですか?
「真の自己」とは何ですか?
しばしば訊かれる。
言葉で説明しようとすると、これほど難しいことはない。
しかし、この師の講演を聴いていると、そうそう、そうなんだよな、あるに決まってるんだよ、と問答無用に「わかって」くるから不思議である。
そう。
こう語っている近藤先生の「本当の自分」が今、目の前でダイナミックに動いているのを感じ、
そしてまたそれによって、自分の「本当の自分」が刺激され、触発されて、ダイナミックに動き出すのを感じるのである。
そして、近藤先生の「本当の自分」と私の「本当の自分」が共に響き合い、一如となる、その体験によって初めて本当に「本当の自分」が「わかる」のである。
言語なんかで、言語ごときで、「わかる」ものじゃあないんだよね。
だから、言葉から入らないで、アタマから入らないで、感じましょう、体験しましょう、としか申し上げようがないのです。

 

 

長年、大企業の社長秘書を務めているAさんは、非常に優秀な方である。

社長のスケジュールを完璧に把握し、社内でこなすべき業務、会議などはもちろん、社外への移動手段、会議・折衝の段取り、食事・宴席、宿泊の手配などをも漏らすことなく準備し、さらにA案がダメなときはB案、それもダメなときはC案と代替策も何枚腰かで準備している。
そのため、“できる”秘書として、周囲から全幅の信頼と評価を得ている。

しかし、である。
一旦社を離れ、プライベートなことになると、彼女のやり方はガラリと変わる。

無計画、思いつき、行き当たりばったり、出たとこ勝負の連続なのである。
例えば、フレンチ料理を食べたいと思ったとする。
大して下調べもせず、大体こんなもんか、で出かけて行く。
案の定、お店は定休日だったり、満席だったりする。
そこで全く反省も後悔もなく、あたりの他の店を物色する。
あのイタリアンの店、良さそうじゃん。
ふらりと
入ってみると実に愉快なお店で、いつの間にやら会話が弾んで大盛り上がり。
最後はシェフまで出て来て、ワイン1本サービスしてくれた。

隣のテーブルの客たちとも仲良くなり、今度、ハンググライダーに連れてってもらうことになった。
そんな展開は“予定通り”の人生には起こらない。
もちろん、時には“壮絶な失敗”もあるが、それもまた人生の彩りとして面白がっている。

能率、効率を追求し、周到な準備によって全てをコントロール下において、予定通りの目標を達成する。
良いか悪いかは別にして、そんなことに価値を置く現代日本が存在する。
能率、効率を汲々と考えず、なるようにおまかせして、予想外の展開を楽しむ。
そんな生き方も存在する。

冒頭にAさんのことを「非常に優秀な方」と申し上げた。
それは現代に生きながら、前者の生き方に呑み込まれず、後者の生き方ができているからである。
人生の本当の“豊かさ”がどこにあるかを彼女は感じ取っている。

 

 

ランチ時に新宿の小さなお店に入った。
店内はまさに忙しさのピークで、お客さんでいっぱい。
水を運ぶ、オーダーを取る、料理を出す、レジを打つ、お皿を下げる、フロアを取り仕切っている一人の中年女性が忙(せわ)しげに店内を動き回っている。
その表情たるや、眉間に皺を寄せ、ピリピリした雰囲気が店内を支配している。
いつまで経っても席に案内されないので、勝手に空いている席を見つけて座る。
しかし、どれだけ待ってもオーダーを取りに来ない。
隣の席の客がシビレを切らせて、フロア係の女性に声をかける。
「お待ち下さいっ!」
イラついた声に怒気さえこもる。
これじゃあ、昼飯がまずくなると、私はそのまま席を立って店を出た。
そんな店もある。

また別の日、ランチ時に築地場外市場のある小さな店に入った。
これまた店内は忙しさのピークで、お客さんでいっぱいだ。
水を運ぶ、オーダーを取る、料理を出す、レジを打つ、お皿を下げる、フロアを取り仕切っている一人の中年女性が忙しげに店内を動き回っている。
ここまでの状況は前出の店とほぼ同じ。
しかし、ここからが違った。
どんなに忙しくても、この女性はにこやかなのだ。
さらにお客は、「御飯4分の3で。」「味噌汁、ネギ抜き。」「ソースだくだく。」など勝手な注文を次々つけて来る。
それに対して、「あんた、野菜喰わなきゃダメだよ。」「御飯、お代わり禁止だよ。」「昼からビール飲むんじゃない!」などと笑顔でジョークをかましながら、手と足を動かし続けている。
それなりの時間はかかったが、お蔭で非常に愉快な気持ちで昼食を取ることができた。

この二人を比べればわかる。
忙しさは気分とは関係ない。
1軒目の女性は、自分でイライラを作り出していたのであり(内なる“見張り番”に支配され、せっつかれている)、
2軒目の女性は、自分でイライラを作り出さなかったのである(内なる“見張り番”に支配されていない)。
状況はただ忙しいだけであり、やることは、その状況に対してただ一所懸命に働くだけのことである。
気分は関係ない。 

いや、どうにでもなる。

自分が忙しくなったとき、よくこのエピソードを思い出す。
市井(しせい)に師あり、である。
とても勉強になりました、はい。

 

 

「わたしたちは感じる力を持っているのですから、本当に心に響くもの、内から催すものに敏感に感じてほしいものです。私が『感じる力を育てる』という本を書いたのは、そういう微妙な、目に見えない催す力、とにかく我々を働かす大きなダイナミックな力が、この世の中に働いてこの世界が動いている。その力でこの宇宙で我々人間は生かされてる、という事をはっきりと考えていただきたかったからです。」(近藤章久講演『私達と世界のめざめ』より)

これはもう感じるか・感じないかのお話になるのですが、私が初めて近藤先生からこういうお話を伺ったとき、その頃はもちろんはっきりとそれを感じる体験などなかったにもかかわらず、それは絶対にそうだろうな、そういう力が働いているに決まっているだろうな、という“奇妙な確信”があったのです。
それは実は近藤先生にそう言われる前から私の中にあった“感覚”であり、近藤先生にはっきりと言語化していただいて初めて、そうそう、そうなんですよ、そうに決まってるんですよ、と私の意識上に上った気がします。
即ち、それもまた私を通して働く力によって、この世界を通して働く力によって、既に私の意識下にあったのであり、それがまた近藤先生を通して働く力によって、そしてこの世界を通して働く力によって、私の意識上に顕在化して来たと言えます。

このように書くと長々とした文章になってしまいますが、感じてしまえば一瞬なんです。
そしてそれが真実なんです、絶対に。
薄っぺらい科学的証明無用の、絶対的な体験の真実なのです。

そしてこういった体験もまた、「感じる力」が磨かれることによって、さらにまごうことなき強度の体験になって行くのだと私は確信しています。

 

 

「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃(みの)の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰(もら)ってきて、山の炭焼き小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里(さと)へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小谷の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻(しき)りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢(ろう)に入れられた。
この親爺(おやじ)が六十近くになってから、特赦を受けて世の中に出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう。」
(柳田国男『山の人生』「山に埋もれたる人生あること」岩波文庫)

この文章は、昔、私のただ一人の畏友から教えられた。
そしてこの文章が、決して「気の毒」で「可哀想な」「悲しい」話ではないことを知った。
これが「美しい」話であることをあなたは感じたであろうか。
「くらくらとして」という言葉を選んだところに柳田国男の真骨頂がある。

後日、私はこの文章を近藤先生にお見せした。
師は黙って涙を流しておられた。
それが情緒的なべたべたした涙ではなく、霊的なさらさらとした涙であった。

情緒的には「悲しく」、霊的には「美しい」話である。

 

 

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