八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

昨日の話をもう少し発展させたい。

昨日の説明では、
Aさんは、「超自我」(見張り番)による「強制(compulsion(コンパルジョン))」で動き、
Bさんは、「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」で動き、
Cさんは、「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」で動いた、
というように思えるが、実際はそう簡単ではない。

「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」の要素をα(アルファ)、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」の要素をβ(ベータ)、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」の要素をγ(ガンマ)
とするならば、
実際には(あくまで「例えば」の話であるが)、
Aさんは、αが7割、βが2割、γが1割で動き、
Bさんは、αが1割、βが7割、γが2割で動き、
Cさんは、αが1割、βが2割、γが7割で動いた、
という方が、より正確であると言えるのだ。

即ち、何が言いたいのかと言うと、
「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「自発的自由意志(ボランティア)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「自発的自由意思(ボランティア)」が混じっている、
ということである。

最初からこう言うと、話がややこしくなるため、まず最初に昨日のように単純化した話をしたのである。
しかし、上述の方が正確であることは間違いない。

そして、この中で特に重要なのが、すべての行動に「天命(ミッション)」が入っている可能性があるということである。
どんな行動にも、本人の「超自我」(見張り番)や「(自)我」を超えた「天命(ミッション)」が働いているかもしれないという事実には、希望と光がある。

そして同様に重要なのが、たとえ最初に「思わず」「天命(ミッション)」で行動した(させられた)人であっても、
ふと「この行動はすべきであったのか」と「考え込んで」しまったり(「超自我」(見張り番)の「侵入)、
つい支援活動を褒められて嬉しくなったり、批判されてガッカリしたりする(「(自)我」の侵入)
ことがあるかもしれないのである。
こう言うと、「天命(ミッション)」が100%でないことは残念なような気もするが、
そんな「超自我」(見張り番)や「(自)我」が混じっていることが、とても「人間的」あるいは「凡夫的」であるという気もして来る。

思えば、近藤先生は、天命(ミッション)に生かされる人でありながら、非常に情の厚い方であった。
いかに悟っていても、この人間臭がないと、地上に肉を持って生きている人間として、どこか豊かでない、彩りがない、瑞々しくない、と私は感じてしまう。
そして、いつも
「煩悩即菩提」

「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」
という言葉が浮かんで来るのであった。

 

 

ある3人が被災地支援に出かけて行った。

Aさんは、内なる見張り番から「支援に行くべきである」「支援に行かなければならない」と「強制」されて出かけて行った。
内なる見張り番とは、その人が生育史の中で環境(多くは親)から埋め込まれた「~べきだ」「~ねばならない」の主(あるじ)を指す。
被災者がいると聞いて何もしないでいると、内なる見張り番から責められ、罪悪感と自責の念に苛まれて、落ち着いていられないのである。
こういう人の第一の特徴は、見張り番が自分を締め上げるのと同時に、返す刀で、他人も裁くことである。
よって、自分はやるべきことをちゃんとやっているという「自負」があり、「どうしてみんな支援に行かないのか」と支援に行かない人たちを上から目線で「裁く」。
支援に行くことは、見張り番(超自我)からの「強制」である。

Bさんは、自分の自発的自由意志によって、支援に出かけて行った。
被災者が気の毒だ、という情緒的な理由が大半を占める。
語源的にもボランティア(=自発的自由意思によって動く)に最も合致する行動である。
しかし自発的自由意志とは「(自)我」を根源とする。
よって、支援したことが余り感謝されなかったり、ましてや不満をぶつけられたりすると、たちまち気持ちが萎える。時には怒りさえ覚える。
喜ばれたい、評価されたい、が付いて回るところが我の所業らしいことろである。
誤解のないように付け加えれば、ボランティアは一般市民の善良なる思いから出るものであり、現実に大きな貢献をしていることは事実である。
そこを踏まえた上で、その行動の出どころを観抜くのが私の仕事である。

Cさんは「思わず」出かけて行った。
Cさんを通して働く力に催されて、支援に出かけて行ったのである。
よって、「~べきだ」「~ねばならない」の重さはない。
喜ばれたい、評価されたい、の粘っこさもない。
たとえ全然評価されなくても、心ない批判を浴びても、芯は揺るがない。
それは一方的な行動なのである。
そこに働いているのはミッションなのだ。
実は、先に挙げたボランティアの方々の中にも、ミッションで行動している人たちが含まれる。

「超自我」による「強制(compulsion(コンパルジョン))」でもなく
「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」でもなく
言わば「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」があるということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

「私ね、一番嬉しいのは、こういう仕事をしながらね、子どもをやるでしょ。お母さんが良くなっちゃう。お母さんが良くなると、お父さんが良くなる、全体が良くなっちゃう。とてもそれが楽しいんですよ、ね。で、これはね、教育っていうのは、学校でもって教育するのが教育委員会みたいですけどね。でもね、こういうふうに言いますとね、僕は医者としての、こういう仕事をしながらね、一種の社会教育だと思ってんですよ。それでね、その方がまた他の方と付き合われるでしょ。他の方もまた、そういうことで感じますね。段々とこう広がって行くね。だから私は、とっても今、自分がやってる仕事がね、教育もね、だから医学もね、ちっとも矛盾しないもんだと、こんなふうに思うんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

こういう家族から家族への、人から人への波及効果とでも言うのでしょうか、家族については私も何度か経験があります。家族の順番がちょっと違いますが。
前、思春期の子どもたちの不登校に関わっていた頃、まず最初から本人は外来には来ません来られるのは大抵、お母さん一人です。
そして、お母さんと何回も話すうちに、少しずつ少しずつお母さんが変わって来ます。
するとある日、お母さんと一緒に、本人がふらっとやって来ます。
そして本人は余りしゃべらず、最初はちらちらとこちらをみているだけですが、お母さんによれば、お母さんの変化を見て、どんな医者か一遍見てみようと思って来たとのこと。
それがポツリポツリ通って来るようになり、段々話してくれるようになります。
そして段々元気になって、顔つきまで変わって来ます
これからのことも本音で話せるようになります。
…と、忘れた頃に、お父さんがやって来て、周回遅れ、かつ、カメの歩みで成長して行きます。
大抵、お父さんは最後です。

そんなことがありましたね。
確かに、成長の連鎖はとっても嬉しいです。

 

 

ちゃんと泣いてますか?
声を出しておいおい泣いてますか?
突っ伏してさめざめ泣いていますか?
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと泣いて、「悲しみ」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

ちゃんと悔いていますか?
ああすればよかった、ああしなければよかった、ああ言えばよかった、ああ言わなければよかった、と声に出して後悔していますか?
奥歯を噛みしめ、拳(こぶし)を握りしめて、悔やんでいますか?
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと悔いて、「後悔」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

そして、ちゃんと怒ってますか?
悲しみや後悔によって、怒りは押し込められているものです。
しかし、故人への怒りも恨み言もあるはずです。
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと怒って、「怒り」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

そしてちゃんと十分に感じてあげることで、これらの感情もまた成仏して行きます。

必要な時間は、何日でも、何週間でも、何カ月でも、場合によっては、何年かけてもいいのです。
そしてそれが終わってから、今回の人生で故人と出逢った本当の意味について、ゆっくりと振り返って行きましょう。
本当の「愛」と「感謝」が溢れて来るのは後からなんです。

 

 

特別養護老人ホームにて:
認知症の高齢女性の前で、ある職員がその女性を侮蔑したような悪口を言っている。
他の職員が諫(いさ)めると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

若い家族の自宅にて:
お昼寝している幼児の横で、お母さんがその子のダメなことろを数え上げている。
夫が注意すると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

観光地の飲食店で:
外国人観光客の前で、日本人の店員がその客たちの言動を笑いものにしている。
他の店員が指摘すると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

いいや、わかっています、 あなたの悪意が。

 

また、
ある病院で:
若いお母さんが重度心身障害児の我が子の背中をさすりながら、ずっと話しかけている。
やめさせようとする夫に
「わからなくてもいいのよ。」

認知症治療病棟で:
重度の認
知症の父親に娘さんがずっと子どもの頃の楽しい思い出話を聞かせている。
止めようとする母親に
「わからなくてもいいのよ。」

新宿駅で:
階段の途中で、大きな荷物を抱えて苦労しているアジア人観光客に、ほぼ日本語で話しかけて助けようとしている若い女性がいる。
日本語で言っているのをやめさせようとする彼氏(多分)に
「わからなくてもいいのよ。」

いいや、わかっています、 あなたの愛が。

 

我々は言葉だけでコミュニケーションしているわけではありません。
存在と存在でコミュニケーションしているところがあるのです。
それが伝わる、届く、響く。
ならば、悪意ではなく、愛を伝えましょ。

 

 

以前、私の外来にある夫婦が来られていた。
きくと最近、毎日のように諍(いさか)いが絶えないという。
理由を尋ねると、互いに
生真面目な夫婦同士が相手の些細な言動の至らなさを許せず、相手を裁いて、責め立てているのであった。
夫婦喧嘩は犬も喰わない、という通り、諍いの一つひとつを取り上げて仲裁を付ける気はさらさらないが、眉間に皺を寄せている二人の顔を見ているとおかしくなって吹き出してしまった。

怪訝な顔で私を見ている奥さんに言った。
「奥さん、あなた、元々調子者ですよね。」
最初、呆気に取られていたが、やがて笑顔になった。
「ええ、まあ、そうですけど…。」
つられてご主人も笑っている。
「それなのに、育っていく過程で後から生真面目さを埋め込まれちゃったんですよ。ホントは違うのに。その後から付いた生真面目さが出て来るとご主人を攻撃しちゃう。」

そして今度は、横で笑っているご主人の方に向き直ってこう言った。
「ご主人も笑ってますけど、あなたも元々調子者ですよね。」
これまた最初は呆気に取られていたが、すぐに笑顔になる。
「ええ、まあ、そうです。」
今度は奥さんがご主人の肩を突(つつ)いて笑っている。
「それなのに、ご主人もまた育っていく過程で生真面目さを埋め込まれてこんなになっちゃった。ホントは違うのに。その後から付いた生真面目さ出て来ると奥さんを攻撃しちゃう。」
奥さんが、そうだそうだ、という顔をして見ている。

あのね、これは私の想像ですけどね、二人が出逢われたとき、ホントはお互いの調子者のところに惹かれたんじゃないですか?
生真面目に、窮屈になりやすい自分が、ああ、この人と一緒にいたら、のびのびと楽な気持ちになれると。
そこに惹かれ合って一緒になったのに、後から埋め込まれた生真面目さの方を発揮して、互いに攻撃し合ってどうするんですか。
元の調子者に戻って、一緒に笑って暮らしましょうよ。

二人は互いを見て照れ臭そうにしていた。
夫婦善哉(めおとぜんざい)である。

これは、この二人が本来どういう人間であるかを観抜けたから、言えたことであった。
そこを見損なえば、大ハズレのになる話である。
「本来の自己」というのは、こういうときにも役に立つ。

 

ちなみに、このお二人は精神科的には統合失調症の診断がついている方々であった。
今、統合失調症という診断名を聞いて、この二人に対する見方が変わった方は、この二人を人間としてではなく、統合失調症として見てしまったのかもしれません。

 

 

禅においては、経論や語録などの書物を読むばかりで、坐禅を徹底しない、存在をかけて公案に挑まない姿勢を「黒豆食い」と言って批判した。
墨蹟黒々とした漢字を黒豆に譬えたものである。
黒豆のような漢字ばっかり追いかけていて、真実の体験がない、ということだ。

また、心学においても、儒教や仏教、神道などの書物を読むばかりで、学んだことが体得されていない、生き方に現れていない人間のことを「文字芸者」と呼んで批判した。
文字を操るだけの芸者という意味であろう。
いわゆる「論語読みの論語知らず」などもその中に含まれる。

いずれにしても、知識や理解よりも、体験や体得でなければ意味がない、という立場である。

そういうと難しいことのように思われるかもしれないが、実際には意外と簡単である。
その人間に逢ってみればわかる。
日々の言動を見ていればわかる、のである。

体験がある者にだけ感じられるものがある。
存在から匂い立つものがある。
日常のささやかな言動の中に、その人間の本音の本音が現れる。

私はそうやって近藤章久を見つけ、
親しく接するようになっても、さらに信頼が深まった。

そして、そういう人を観る眼というのは、やっぱり自己責任なのだと思う
今までも申し上げて来たように、人を観る眼がないのは致命的である。
我々の生涯をかけて、「黒豆食い」でないホンモノを見つけ、
我々の生涯をかけて、我々自身もまた「黒豆食い」でないホンモノになって行きましょう。

 

 

あるフロイト派の精神分析家が言っていた話。
面倒臭い患者がいたとする。
できれば、こんなヤツは診たくない。
そんなときどうするかというと、わざとそのクライアントが怒るようなことを言うのだという。
そうすれば、こちらに愛想をつかして来なくなる。
それで厄介払いができてめでたしめでたしなのだと。
最初にこの話を聞いたときは、我が耳を疑った。
そもそも面倒臭いことをやるのが精神科臨床であり、その苦労が臨床家を育てるのである。
また、百歩譲って、どうしてもクライアントと合わない場合もあるかもしれない。
そうだとしたら、それを真正面からクライアントに言うことが、せめてもの誠実な姿勢であろう。
わざと怒らせて来ないようにするというやり方は、余りにも小汚い、ちょろまかしである。

一方で、そういうセラピストがいる。

昔日、近藤先生のところに、それこそ思い切り面倒臭い患者が通っていた。
たまたま私も面識のある人間である。
ひねくれて、意地が悪く、屁理屈をこねては抗弁し、虚栄心の強い、思い上がった人物であった。
それまでもいろいろなセラピストのところを転々とし、うまくいかないのはみなセラピストのせいにして来た。
そんなクライアントに対し、先生は非常に丁寧に面談を続けられていた。
クライアントの抱える問題は溢れ返り、ツッコミどころは満載であったが、そのクライアントが実は、心が傷だらけで非常に傷つきやすく無理に虚勢を張って生きて来たのを観抜いていた師は、その傷口に不用意に触れぬよう、丁寧に丁寧に扱った。
無造作に傷口に指を入れれば、彼はすぐに怒り出し、すぐに来なくなってしまうだろう。
師は、このクライアントが自分のところでないと良くならないだろう、ということを観抜き、悪態をつかれようが、無礼な態度を取られようが、通い続けられるようにと、辛抱強く付き合っておられたのである。
そこには確かに、面倒臭い愚かなクライアントへの愛があった。

他方で、そういうセラピストもいる。

臨床にいけるこの二極のセラピストを知ったことは、有り難い勉強となった。
そんなセラピストたちがいるということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

今日は、今まで度々触れて来た、人間の「承認欲求」について改めて振り返ってみようと思う。

(1)まず最初が「他人から認めてもらう」ということ。
まず、子どもの頃の我々は、親に認めてもらいたい。
それから、先生に認めてもらいたい。
それが長じて、自分以外の他人から認めてもらいたい、という欲求を持つ。
他者からの承認が、自己の存在意義の裏付けとなり、他者からの承認は素朴に嬉しいことでもあるが、そこにとらわれると「他者評価の奴隷」の人生が口を開けて待っていることになる。
しかしまだそれが子どもの頃ならいい。
自我の発達途上にある子どもたちは
「お母ちゃんに認めてもらいたい。」
「先生に認めてもらいたい。」
「友だちに認めてもらいたい。」
と確かに思っている。
それは絵に描いたような「小児的欲求」である。
しかし、それが大人になってからもまだあるようだと問題になってくる。
「おいおい、あんたはもう子どもじゃないよ。」
と言いたくなるが、あなたもよく御存知の通り、これがいい年をした大人に非常に多い。
名声、有名になることを求める気持ち、虚栄心などなど、かなり強いよね。
あのね、成人したらね、ちょっとは成長して次の段階に移って行きましょうよ、
他者評価の奴隷の自分に、そろそろ本気で情けなさの自覚を持たれてはいかが、と申し上げたい。

(2)そして次が「自分で自分を認める」ということ。
他者不在。いや、他者不要である。
自分の価値は自分で決める。
他人から褒められようと、けなされようと、関係ない。
こうなってようやく、ちょっと成長した匂いがして来る。
自立といっていい。
しかし、注意すべき点もある。
ただの、ひとりよがりの、思い上がりの「我立」に陥らないことである。
「聞く耳持たぬ」で突っ走るだけでは、他人から認めてもらいたい「小児的欲求」は脱していても、まだまだつっぱらかった思春期あたりのお兄ちゃんお姉ちゃんレベルである。
その自分が、あなたがそう思い込みたいだけの自分なのか、本当の自分なのか、がきちんと検討されていないのだ。

(3)そして最後が「この世界から認められる」ということ。
これも他者評価は必要としないが、
自分で自分を認めるという自己評価も必要としない。
その存在を通して働く力によって
サクラがサクラするように
スミレがスミレするように
あなたがあなたするように
わたしがわたししていくのである。
いわば、わたしをわたしさせる力が、わたしを通して働いていることを感じたとき、自分の存在がこの世界から証明された体験を授かるのである。
この体験は絶対的である。
他者評価や、自己評価によるような、不安定さがない。
それでいて、これには独善の怖れもない。
サクラはこれ見よがしにサクラせず、スミレは肩で風を切ってスミレしない。
淡々と、それでいて絶対的な安定感を持って、わたししているのである。

折角、生命(いのち)を授かってこの世に生まれて来たからには、この境地を目指して、生きて行きたいと私は願っている。

 

 

「子どもっていうものはね、母親と父親のですね、こころの中をね、鏡のように反映してるんですよ。これはね、うっかり、あなた方ね、子どもだからと思ってね、甘く見ると大変なことになるってことを一度申し上げておきたい。…
例えば、女の人は…男の人の気持ちというものをしょっちゅう、こういう具合にして、レーダーをやってですね、どんな気持ちであるか、主人は私のことをどう思ってるか、というようなことをですね、見てるんですよ。これは、正直言って、僕はいろいろ知ってるから、そう言うんでね。皆さん、そうじゃないなんて言わせません(笑)。それはそういうふうな、いつもデリケートな、『あの人、今日はどこへ行っちゃった?』なんていうんで、『どこへ行っちゃったんでしょ。』なんてね、レーダー、すごいんですよ。これね、それぐらいにね、自分が愛されたい。愛情の対象ってものに対しては、非常に人間っていうものはん、自分のレーダーを張るもんです。
同じようにね、子どもってのはそういうもんです。もうお母さんのちょっとした言い方でもね、お母さんの心がどこにあるか、すぐわかるんです、ね。この前も、子どもがね、何かな、プラモデルかなんか買ってくれないっていうんでね、死んじゃったっていうでしょ。あれだけ見たら、お母さんは、『私、なんだかわかりません。』とね。『いつでも買ってやると言ってたのに。』なんて。『どうしてかわかりません。』あれはね、あれだけ、新聞記事では読めませんよね。…相当お母さんに、僕は問題があったと思うんです。お母さんがきっとどこかね…自分の子どもに対してね、本当の意味のね、愛情をね、注いでいなかったと、注意していなかったということが僕はあると思うんです。人間、私は、そういう隙(すき)があるもんですよ、ね。
うっかりしているうちに、ホントに、例えば、旦那さんが、あなた、女性関係があってですね、そんなことばかり考えてたら、心が、あなた、子どもに行きませんよね。いいですか。なんかあっても、『ああ、お金あげるから買ってらっしゃい。』それでよそのことを考えてる。これはね、いかにも『私はお金をやったから。』とやるようなもんだけど、そうはいかないんですよ。子どもっていうのは非常に、そこ、敏感なんですよ。子どもは、だから、これはペアレンツばかりではない、ティーチャーズにもそうなんです。子どもはね、あの先生がね、どんなふうに自分を思っているかっていうことに、やっぱりレーダーかけてるんです。こうやって、ね。だから、そのね、先生が依怙贔屓(えこひいき)するかしないかってことに非常に鋭敏です。
ですから、子どもっていうものはね、その代わりですよ、逆に、愛情をかけてやれば、非常に、その、スッとわかるんです。もうひと言でそれを感じてしまって安心するんですね。そういうものなんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

小さくて弱い子どもは、愛情の対象である親に対して、それから、関心の対象である先生に対して、一所懸命にレーダーを張っています。
親には愛されたいし、先生からは認められたいもの。
だから、親や先生の(表面的言動ではなく)本音を非常に敏感に観抜いて来ます。
そしてその影響の大きさを侮(あなど)ってはいけません。
その子のそれからの一生を左右し、生き死ににさえ関わることもあるんです。
ですから、愛しましょう、認めましょう、その子がその子であることを。
(ここについては小欄『子ほめ』も参照)
その子が、間違いなく、その子の人生を生きることができるようになるために。

 

 

人間をやっていれば、心身の調子が悪くなるときもある。
そういう弱ったときは、忌み嫌われがちであるが、必ずしもそうとも言えない。
そういう弱ったときでないと、わからないことがある。

弱ったときには、まず自力の弱さ、自力の当てにならなさがよくわかる。
まだ余裕があるときには、意志と気合いでなんとかなるくらいに思っているが、本当に弱って来ると、そんなものは何の役にも立たないことがわかる。
遂にはグッダグダのデレデレになる。

しかし、そういうときこそ他力を感じるまたとないチャンスになる。
自力が枯渇しているからこそ、自分の力ではない、自分を通して働く力、他力を感じやすくなっているのだ。
海中で疲れ果て、もがいて泳ぐことができなくなったとき、プカプカと浮いたまま、初めて海流に乗っているのに気が付くことに似ている。

しかも、生きている限り、我々は呼吸をしている。
随意にも呼吸でき、不随意にも呼吸しているという、呼吸の不思議を感じる。
そんな中で、まだ僅かに残る自力を吐いて吐いて吐いて、あなたをあなたさせる他力が入って入って入って来るのを感じる。
こういうのも弱っているときの方が遥かに感じやすい。

他力を感じるというのは、実は非常に深い体験である。
自力が弱ったチャンスを活かさない手はない。

あなたも今度、弱ったときには是非お試し下さい。

そう思うと、人間、自力ガンガンで、調子に乗ってばかりでない方がいいのかもしれない。
弱ったときには弱ったときにしか体験できない成長の楽しみがある。

 

 

面談の申し込みについて、時々訊かれることがある。
面談を申し込もうかどうか、悩んでいる方々である。
すべてはホームページに書いてある通りで、要は「情けなさの自覚」と「成長への意欲」があるかどうかに尽きるのだが、
これを別の言い方で言い表すならば、
面談が進み、向き合いづらい、認めづらい問題が出て来たときに、逃げずに向き合えるか、認められるか。
そして、その問題を乗り超える作業がしんどくなって来たときも、逃げずに最後まで勝負できるか、
の二つということになる。

そうすると、私に訊いて来る方々は、概ね以下の二つに分かれる。

ひとつは、もう逃げない気持ちでいる方々。
そういう人たちには、そんなに心配することはないよ。さぁ、どうぞいらっしゃい、私も精一杯応援しますから、と手を広げて歓迎したくなる。
そしてもうひとつは、まだ逃げる気持ちのある方々。
もう少し肚が据わってからいらっしゃい、と申し上げることになる。

このように言うと、わかりやすいかもしれない。

ちなみに、かつての私は日々生きることにおいてダメダメだったので、今さらどんな問題が出て来てもしょうがないし、這ってでも生きる活路を見い出すしかない、と思って、師の門を叩いた。
今振り返っても、タイミングとしてピッタリだったと思う。

 

 

 

心学の書に
「草木(そうもく)は天にたがはざるも因(より)て、教(おしへ)は不入(いらず)。人は喜怒哀楽の情に因(より)て、天命にそむく。故に教をなして人の道に入れしむ。」(石田梅岩『都鄙問答』)
(草木は天に背(そむ)かないので、教えはいらない。人間は喜怒哀楽の情によって天に背くので、教えによって人の道に入れさせなければならない)
「赤子(せきし)の心を失はざる者は聖人なり。」(同上)
(赤ん坊の心を失わない者は聖人である)
とあった。
全くおっしゃる通りである。
ああ、それなのに、それなのに、我々はその後の生育環境の影響を受けて、赤心(せきしん:赤ん坊の心)の上に塵埃を積み重ねて、ろくでもない大人になって行く。

聖書に言う。
「もし汝(なんじ)ら飜(ひるが)へりて幼兒(おさなご)の如くならずば、天國に入(い)るを得(え)じ。」(『新約聖書』マタイ傳福音書)
(あなたたちはもし心を入れ替えて幼い子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない)

「天國はかくのごとき者(=幼兒(おさなご))の國なり。」(同上)
(天国はこのような者たち(=幼い子どもたち)の国である)
全く同じではないか。

また、禅でも
「赤心片片(せきしんへんぺん)」(『碧巌録』)
(赤ん坊のような純粋無垢な心が満ち満ちていること)
をよしとする。
かの良寛さんが小さな子どもたちと遊ぶのを好んだのもそのためであった。

しかし、失望する必要はない。
赤心はあなたの中にずっとある。
そして、いつでも出て来る、あなたが本当に安心さえすれば。

 

 

ホームページ管理会社によれば、去る10月6日(日)(『仲秋のハイブリッド勉強会』開催日)の当ホームページのヒット数がここ5年間の中で最高値を記録したという。
理由はわからないが、有り難いことである。

先日、テレビであるラーメン屋さんのことを報じていた。
ラーメンはすごく美味しいのだが、店の場所がわかりにくく、大将が職人気質のため宣伝下手で、経営が徐々に苦しくなり、店じまいしようかという話が出ていたという。
心配した常連客がテレビ局に投稿して番組で取り上げたところ、大反響を得て、放送から一年経った後も行列店になっているそうだ。
どんなに美味しいラーメン屋さんでも知られないことには始まらない好例である。

精神療法とラーメンとでは諸条件が違い、特にうちのようなクライアントにも要求するところがあるようなやり方は稀であろうが、それでも知られないことには始まらない。
今さら、有名になりたいとは微塵も思っていないがこの人生はミッションを果たすためにある、と気づいてしまった以上、自分のミッション(=今回の人生で縁あって出逢った人たちが、本来の自分を実現して、この世に生まれて来た意味と役割を果たす、ことを応援して行く)を果たすためには、知られる必要があり、そのためにこのホームページも運営している。

以前から申し上げている通り、実際には、今の自分に情けなさの自覚を持ち、成長への意欲を抱き続ける人は、ひょっとしたら、一万人に一人くらいかもしれない。
それならば、一万人に知られれば、一人と出逢えることになる。
段々、私も年を取って来て、余計に出逢いたいと思うようになって来ている。
そんなことから、
頭記の、このホームページのヒット数が上がって有り難い、という話につながって行くのである。

それもたまたま勉強会の日であったが、きっと勉強会に参加された方々も感じられたのではなかろうか
こんな仲間が、同志が、一人でも増えたら、世の中はもっと生きやすくなり、仕事はもっとやりやすくなるだろうと。
誰でもいいというわけにはいかないけれど、誰でもいいというわけにはいかないからこそ、そんな仲間を、そんな同志を一人でも増やしたいとこころから願っている。
そういうあなたも一緒に願って行きましょ。

 

 

ある小学校1年生の男の子が絵を描きました。家庭に問題があり、困った行動を重ねる子でした。ひとつは首がちょん切られてる絵。次に骸骨の絵。これ、殺すでしょ。やってやるんだというときにね、敵意があるんです。こうしてやるんだ。こうしてこんなふうにしてやるんだと、これね。これが出て来たら、つまりこのの場合は、ひどい敵意があるんですね。これがわかる。子どもだから敵意がないなんて思ったら大間違いなんですよ。その敵意こそ重要なことなんです。…
フロイドという有名な、これは精神分析の、まあ、最初に作った人ですが、その人が最も悲観的な考え方を持ってるんですが、人間っていうものは敵意の動物ではないか。そして最後に皆殺しにしてお互いに死ぬんじゃないかっていうような、そういうことまで考えたぐらい、敵意っていうのは人間の深いところにあるんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

子どもは小さくて弱い存在です。
ですから、親や大人たちから理不尽なことをされ、本当は親や大人たちに対して敵意や怒りを持っていても、それを出すことができません。
特に親は、それがどんな親であっても、愛着の対象でもありますし、愛されたい。
となれば、余計に敵意や怒りを出すことが、いや、感じることさえ、できなくなってしまうかもしれません。
しかし、たとえ抑圧したとしても、子どもは敵意や怒りを持っています、確実に、こころの奥底に。
それが身体化症状になったり、さまざまな不適切行動や非行になったりします。
また、子どもが大きくなったときに、その敵意や怒りが、
あるときは、復讐の形で当の親に向けられ、
またあるときは、親に代わる対象にぶつけられたりすることもあります。
そうなんです。子どもたちは怒っています。
そのことを親は、大人たちは、知っておかなければなりません。
で、どうするか。
親や大人たちが子どもへの言動を気をつければ良いのか?
違います。そんな意図的・表面的配慮は要りません。
答えは決まっています。

子どもを愛して下さい、こころから。
それしかありません。

 

 

[次回の『金言を拾う その40』につづく]

 

 

昨日もお話したように、小さくて弱い子どもは、ある意味、他者評価の奴隷にならざるを得ない。
よってもしその子の傍に健全な親や大人がいたならば、本人が本来の自分であるところを褒めて、認めて行っていただきたい。
そうされることによって子どもは、本来の自分を実現する道を歩んで行くことができる。

しかし、それはあくまで本人が子どもであるときのお話。
いつまでもそうではない。

子どもが二十歳(最近は十八歳)を過ぎたら、今度は本人のことは本人の問題になってくる。
親や大人たちは、一度は自分の子育てや関わりを徹底的に反省した方が良いが、いつまでもずっと反省し続ける必要はない。
私(たち)のせいでこの子がこうなった、というのは、子どもが未成年のうちなら良いが、成年後もそう思い続けることは、この子の一生はもう生育期に決まってしまって、この子には最早、本当の自分を実現して行く力がない、と言っていることになるからだ。
そんなことはない。
すべての人間に本来の自分を実現する力が与えられている。
成年後は、本来の自分を実現するという人生の大目標は本人の手に委ねられるのである。
本人から求められて、本人が本来の自分を実現していくのを手伝う・援助するのなら良いが、そうでないならば、余計なことはしない・言わない方が良い。
中には、「罪滅ぼし」といって何かとやりたがる・言いたがる親や大人たちもいるが、子どもにしてみれば、却って迷惑ということになる。

やっぱりここでも親や大人は、本来の自分を実現して行くという道程における先達であっていただきたいと思う。
だから、本当に子どものことを思うならば、子どものことより自分の成長が先。
これはまた、本当に患者さん/利用者さん/メンバーさんのことを思うならば、患者さん/利用者さん/メンバーさんよりも自分の成長が先、という対人援助職者にも当てはまる鉄則なのである。

 

 

「子ほめ」は古典落語ではよく知られた演目である。
一杯ごちそうになるために、子どもが生まれたばかりの家に伺って、子どもをあれこれ褒めるのだが、どれもこれもしくじってしまうといったお噺。

今日のテーマはそれではない。
直接に子どもに向かって褒めるというお話である。

小さくて弱い子どもは褒められ、認められたがっている。
親によって、大人たちによって、褒められ、認められることによって、子どもは自分の存在価値を感じることができる。
だから、小さくて弱い子どもは、大きくて強い親や大人たちに対してアンテナを張って、どうやったら褒められるか、どうしたら認められるかを、ある意味、血眼(ちまなこ)になって探っている。

だから、ある子は、父親が野球好きだから、本当は大して好きでもない野球をやり、
またある子は、母親の学歴ブランドを察知して、本当は大してやりたくもない勉強に集中するのである。
子どもは褒められ、認められるためなら、なんでもやる。

だから、親や大人たちの責任は重大である。
しかし多くの場合、自分たちのに埋め込まれた世俗的価値観や我欲に引き寄せたミスリードが行われる。
そして子どもたちは、本来の自分と違う道に引きずり込まれることになる。
やめましょ、そういうの。

そうではなくて、子どもに対して、この子は本来どういう子なのか、を一所懸命に観抜くこと。
そして、桜が桜になるように、スミレがスミレになるようにガイドしてあげること。
即ち、桜が桜らしいときに褒め、スミレがスミレらしいときに認めるのである。
そうすれば、子ども本人は、自分が自分であるときに褒められ、認められることで、自分が自分であることの幹を太くして行くことができる。

となると、それを言う親や大人たちにも要求されることがある。
そう言うあなたは自分が本来、何者なのかわかっていますか?
そう言うあなたはその本来の自分を実現していますか?
勿論、本来の自分の実現は、一生をかけての大事である。
そんなに簡単に達成できるものではない。
しかし、人生の先輩として、子どもたちよりもせめて半歩、一歩前を行くことはできるのではないだろうか。
それが親や大人たちの責務であると私は思う。

さて、今日からあなたは子どもをどう褒めますか?

 

 

昨日の「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」(囲いの壁や瓦や石ころ)から発展したお話。

近藤先生は講演の中で、極めて重要なことを、話の合間にフッと言われることがあった。
こちらもつい聞き逃しそうになるのだが、
いやいやいや、ちょっと待って下さいよ、先生。今、なんておっしゃいました?
と聴衆席で一人ツッコミを入れていたのを思い出す。
そしてそれが次回の先生との面談での重要なテーマになった。

例えば、ある講演で、師はフッとこう言われた。
「まあ、僕は、石にも生命(いのち)があると思うんだけどね。ま、それはいいとして…。」

「おいおいおい、今、とっても大事なことを言われたでしょ。」

昨日、牆壁瓦礫とのぶっつづきについて触れた。
人間や人間以外の
動植物に対して、それを自分とぶっつづきの生命(いのち)として感じることは、同じ生物学的生命なので、難しくないように思われるかもしれない。
しかし、本当はそれは生命(いのち)ではないのだ。
生命(いのち)というのは、生物学的生命のことを言っているのではなく、万物を存在させ、万物を動かし、成長・発展させる、宇宙ぶっつづきの働き=妙用(みょうゆう)のことをいっているのである。
だから、当然、
牆壁瓦礫にも生命(いのち)がある。
無生物にも生命(いのち)がないわけがない。
万物にある。

かつて、敏感な我々の先祖は、岩を磐境(いわさか)として神の依代(よりしろ)と感じた。
その神=迦微(かみ)こそ、生命(いのち)の別名なのである。
(初心者の方は「巨石信仰」で検索し、岩を信仰対象としている古い神社に行かれると良い。感じれば、理屈なしで、わかる)

そんな大事を、なんでもないことのように、フッと言われるのが師であった。

 

 

昨日の続きである。

禅においても、釈尊から数えて何代目、達磨大師から数えて何代目という言い方をする。
私にはそれが不思議でならない。

何故、“私”と“釈尊”とが今さら違う存在であるかのように言うのか。
何故、“私”と“達磨大師”とが今さら違う存在であるかのように言うのか。
「何代」と数えるためには、その一人ひとりが異なる存在でなければならない。

それでは禅としてお話にならないだろう。

「父母未生已然(ぶもみしょういぜん)本来の面目」
と言ってのける禅である。
父母がまだ生まれる前を扱っているのだから、「父と母がいて私がいる」という料簡では、この公案は永遠に解けないことになる。

嗣法は常に師家からではなく「釈尊未生已然」の法身から、に決まっている。

人間どころではない。
「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」(囲いの壁や瓦や石ころ)
とのぶっつづきを言い切る禅である。
無生物でさえぶっつづきになるのに、何を今さら人間を一人ひとり分けてカウントしているのか。

ズバリと真理に参入しながら
意外に師家にウエットな禅がいつも不思議である。

 

 

以前、故郷の菩提寺から法事の案内があった。
祖先の二百五十回忌の法要をするのだという。
我が耳を疑った?
それは一体どなたでしょうか?

このやり方だと、果てしなく法要を増やせることになり、どうも怪しい臭いがする。
当然、私は行かなかった。

行かない第一の理由は、そもそも私は毎日心から祈っており、基本的にわざわざの法要は必要ないと思っている、特に形式的なものは。

そして第二の理由は、私には祖先崇拝という発想がない。
よく、今の自分がいるのは父母のお蔭、そのまた祖父母のお蔭、そのまたまた曾祖父母のお蔭、…先祖代々のお蔭、と言う人がいるが、私はそう思っていない。
子どもを産むという生殖行為は、天から授かったものであり、間違っても、人間ごときが、私が作った、産んだ、育てた、などと思い上がらない方が良い。
性欲も、生殖能力も(最近の生殖医学を進歩させた人間の大脳の力も)、子どもの養育に必要な能力も、みんな授かったものである。
祖先のお蔭ではなく、もし崇拝するなら、その力を授け給うた天を崇拝した方が理に適っているのではなかろうか。
もし私が死んで祖先の側に回ったとしたら、自分の子孫に対して、おまえらが存在するのはオレのお蔭だ、オレを崇拝しろ、などという思い上がったことは絶対に要求しないし、思いもしない。

ただ、極めて“情緒的”な意味で、母さんが夜なべして手袋編んでくれた的な感謝はあっても良いと思う。
それも本当言うと、母親に手袋を編ませた力の元は母親のものではないんだけどね。

と私見を述べましたが、それでもどうしても祖先を崇拝したい方は、二百五十年なんて中途半端なことを言わないで、是非、かのアウストラロピテクスの代まで遡(さかのぼ)って崇拝してあげて下さい。

 

 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。