昨日の続きである。
禅においても、釈尊から数えて何代目、達磨大師から数えて何代目という言い方をする。
私にはそれが不思議でならない。
何故、“私”と“釈尊”とが今さら違う存在であるかのように言うのか。
何故、“私”と“達磨大師”とが今さら違う存在であるかのように言うのか。
「何代」と数えるためには、その一人ひとりが異なる存在でなければならない。
それでは禅としてお話にならないだろう。
「父母未生已然(ぶもみしょういぜん)本来の面目」
と言ってのける禅である。
父母がまだ生まれる前を扱っているのだから、「父と母がいて私がいる」という料簡では、この公案は永遠に解けないことになる。
嗣法は常に師家からではなく「釈尊未生已然」の法身から、に決まっている。
人間どころではない。
「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」(囲いの壁や瓦や石ころ)
とのぶっつづきを言い切る禅である。
無生物でさえぶっつづきになるのに、何を今さら人間を一人ひとり分けてカウントしているのか。
ズバリと真理に参入しながら
意外に師家にウエットな禅がいつも不思議である。