八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

認知症の中に、前頭側頭型認知症という疾患がある。
さまざまな症状があるが、特に抑制欠如(自制心や羞恥心を欠く言動、道徳感情の低下など)や反社会的行動(性的逸脱行動、万引きなど)を引き起こす人格変化で知られ、対応はなかなか大変である。
ある文献に「それでもどこか憎めないところがある」と書いてあったが、日々対応と謝罪に振り回されていたある妻は「憎めます。」とはっきりおっしゃった。

また、発達障害の中に、注意欠如多動症(AD/HD)という疾患がある。
その中でも、多動-衝動性が優勢なタイプは、離席、飛び出し、走り回り、高い所に上り、しゃべり続け、順番が待てないなど、じっとしていないため、目が離せず、対応はなかなか大変である。
これまたある文献に「それでも子どものやることなので憎めない」と書いてあったが、日々対応と謝罪に追われていたあるお母さんは「憎めます。」と涙ながらにおっしゃった。

これは障害のある大人/子どもについてだけの話ではない。
あなたの身近な大切な人のことを思い浮かべてみよう。
憎めるところは本当に皆無だろうか。
絶対に永遠に微塵もないと言えるだろうか。

ここでもう一度思い出してみよう、人間存在の二重構造を。
人間存在の表面を、このような症状、そして症状でなくてもその人が生育史の中で身に着けたろくでもない思考パターンや言動パターンが覆っている。
それらはなかなかに大変なものである。
よって、それらに基づく言動は、憎める。むかつく。十分に憎々しいと言える。
抑圧や偽善を使うか、あるいは、余程鈍感でない限り、憎めて当然である。

しかし、人間存在はそれだけではない。
二重構造の奥、人間存在の根底には、大切な生命(いのち)がある。
それは単なる生物学的な生命ではなく、その人を存在せしめる働きの源としての生命(いのち)である。
これは無条件に尊い。絶対的に尊い。とても憎めるものではない。
だから、前頭側頭型認知症の夫や注意欠如多動症の息子の寝顔を見たとき(寝ているときはその症状には苦しめられない)、あんなに怒った自分がイヤになり、ついその寝顔に手を合わせて謝ったりするのである。

つまり、人間存在の表面はどこまでも憎め、人間存在の根底はどこまでも尊い=憎めない、これが両立するのである。
ここを押さえておかないと、よく見かける負のループに陥る。
即ち、毎晩、寝顔を見ながら、ああ、明日こそは怒るまい、と誓いながら、やっぱり翌日も怒ってしまい、自責の念に苛まれる。
怒るまいと誓うことが無理なんです。
何故なら、存在の表面の問題はなくならないから、怒るネタは尽きません。
それよりも、怒ってかまわないから、憎んでかまわないから、ちゃんと存在の根底に対して、手を合わせて頭を下げましょう。
それしかないんです。

だから
憎めるけど憎めない。

むかつくけど尊い。
それが人間存在の実相。
だから(その存在の表面を)憎んでいいんですよ。
でも必ず(その存在の根底に対して)手を合わせて拝みましょうね。

 

 

三省」という言葉がある。
『論語』の中で、孔子の弟子の曾子(そうじ)が、一日のうちに三回反省した、という話から来ている。

「曾子曰(のたま)わく、吾(われ)、日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為めに謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。」
(曾先生がいわれた。「私は毎日三回、自己反省する。他人の相談に、まごころをこめて乗ってやらなかったのではないか。友だちとの交際に、約束をたがえたのではないか。先生に教わったことを、じゅうぶん復習せずに君たちに教えてしまったのではないか」)(貝塚茂樹訳注『論語』中公文庫)

前々から思っていたことであるが、『論語』の中に収められている言葉のうち、孔子の言葉と孔子の弟子たちの言葉とでは明らかな“格”の違いがある。
個人的には『論語』は、孔子の言葉だけで良いんじゃないかと思っている。
この「三省」などは、その良い例で、一日三回、意図的に、気をつけて、反省する、というのであるから、結局は、反省したいことしか反省せず、一番反省した方が良い“痛い”ところは、無意識に回避されることは、火を見るより明らかである。
その上に、自分は一日に三回も自らを反省=自省している、なんて謙虚なんだろう、という“不遜な”自負も生じやすい。

確かに、「三省」もしないよりはした方がマシであろうが、本当の自省はそんなものではない。
そもそも「自省」は、「自(みずか)らを省みる」のではなく、「自(おの)ずから省みる」と訓(よ)む。
自力で内省するのでなく、他力によって内省させられるのである。
そういう内省は深い。しかも的を射ている。
どんなに痛いところも、容赦なく内省させられることになる。
それこそが本当の内省である。
そして、成長することができる。
そう。
他力によって内省させられるということは、他力によって成長させていただけるということなのだ。
これを儒教風に言うと、他力ではなく、天の力と言えば良いのだろうか。

そして、自ずから内省させていただき、自ずから成長させていただくにはどうしたら良いのだろうか。
それは既にお伝えしているはずだ。

 

 

「頭で解釈して理論的にわかると、万事がわかったような感じになる。これはまあだいたいが日本の教育は頭でわかって答案を書けば、それで百点くれるんだから、それはそれでいいんでしょうけれど、分析だけはそうはいかない。カウンセリングも同じことだけれど、頭でわかってもうまくいかない。『わかっちゃいるけどやめられない』という言葉があります。たばこの悪いのはわかっているけどやめられない、ということがあるでしょう。理性によってそんなに自由に感情をコントロールできないものです。実は私は毎日タバコ6箱くらい吸っていたのですが、あるとき急に嫌になり止めてしまいました。皆私のことを意志が強いと言うのですけれど、実は意志なんかちっとも関係ないんです。ただ私の身体が嫌だと思っているのです。頭の方より、体の方が嫌だ嫌だって言っているのだから、どうしたってタバコを手に取る気がしないんです。つまりどういうことかと言うと、私たちの無意識はそれ程強いということです。むしろ私の場合は無意識で生きる方が大半なのです。そして一般的に分析では、無意識を意識によってコントロールして生きることが成熟した態度であると言うわけです。ただ無意識で生きるというのは大人らしくないということを言います。しかしタバコの例について言いますと、私はああ嫌だと強く感じた。たしかに無意識からの声ですが、これは私の正しい声だ、本当の声だと感じたからで、肺癌になったり体に悪いから止めなさいと言うのでは止めなかったのです。本当に止めたい、腹から止めたいと言うから止められたのです。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

昔、アロンアルファと屁理屈はどこへでもくっつく、と言ったことがあるが、少なくとも、人間のこころに関しては、頭や理屈はあまり当てにはならない。
昔から「理に落ちる」と言って、理性ではいくらでもそれらしいことを滔々(とうとう)と語れるが、実際に患者さんが治らない、症状が一向に良くならない、ということがよく起こって来る。
そんなんじゃあ、精神分析もカウンセリングも、屁のつっぱりにもならない。
人間の実相を掴み、その成長に資するためには、自他の体の声についても、無意識の声についても、それらをちゃんとキャッチする“感じる力”が必要なのだ。
近藤先生は自らの無意識の声を聴き、その働きに従ったからこそ、「喫煙をやめた」のではなく「喫煙がやんだ」のである。
先生が逝去された後、有り難いことに、私にも同じ体験が起こった。
私も喫煙歴が25年くらいあったが、ある日、ふっと喫煙がやんだのである。
私は自分の意志薄弱には自信があるので、自分の意志ではやめられないと確信していた。
それがある日、ふと吸いたくなくなったのである。
以来、1本も吸っていない。何の我慢もしていない。
そのとき、近藤先生に起きたことが、自分なんかにも起きるんだなぁ、と思ったのを覚えている。
今思えば、自分「なんか」は余計であった。
確かに私自身は、どうしようもないポンコツのアンポンタンだが、私の無意識を貫いて働く力は、近藤先生のそれと同じく、とてもとても尊く、勁いのであった。

 

 

まだ精神保健福祉士どころか、社会福祉士の国家資格もなかった頃、精神科病院でワーカーをやっている人たちと言えば、なかなかエッジの効いた“人物”が多かった。
資格もなく、診療報酬への直接貢献もなかったにもかかわらず、誰よりも患者さん、メンバーさんの方を向き、“志”と“誇り”を持って精力的に動いている人が多かった印象がある。

しかし時代は下り、精神医療福祉保健機関の中で、特に精神科病院の中では、医師を頂点としたヒエラルヒーができやすく、いつの間にか、医師以外のスタッフは para-medical と呼ばれて、その他大勢扱いになりがちであった。
そしてその傾向は、co-medical と呼ばれるようになっても(幾分薄まったかもしれないが)、まだ続いているように思う。
けれど実際には、いくら祭り上げられても医師というだけで全体をまとめ上げる力があるはずもなく(たまにはいたかもしれないが)、チーム全体が迷走状態に陥りがちであった。

しかし改めて、医療、福祉、保健分野の構造を見直してみると、中心となって働くべきは、車輪の軸となるべきは、ワーカーなんじゃないかと私は思っている。
あくまで患者さん、メンバーさんを中心に、あらゆる関連職種、あらゆる関連機関、社会資源の組み合わせを考え、コーディネートし、リードして行くには絶好の立ち位置にいると言える。
そうなって来ると、要求されるのは、それに相応しい“力量”と“人望”だ。
それがあれば、〇〇さんにひとつまかせてみよう、〇〇さんが言うんならそうだろう、という機運が生まれ、全体の力がひとつにまとまって行く。
(そうなって来ると、医師がチームの中心となってコケて来た歴史は、医師であったためではなく、その人に“力量”と“人望”がなかったせいかもしれない)

そして、“力量”と“人望”と言っても、“力量”の方は知識と技術と経験年数である程度はなんとかなるかもしれないが、“人望”となると求められるのはやはり人格である。
人格陶冶、即ち、人間としての成長、成熟がないと、なかなか周囲からの“人望”は得られない。
で、どうするか、となると、ここでもまた、ちゃんとした先達から、ちゃんとしたトレーニングを、知識・技術だけではない人間としての成長のトレーニングを受けることを大いに勧めたい、ということになる。

私も医師の端くれなので、〇〇さんなら全体の舵取りを安心してまかせられる、そんなワーカーと一緒に仕事がしてみたい、と切に希望している。
頼むぜっ!

 

 

クライアントと話していて時々出逢うのが、妙に“カウンセリング慣れ”した人たちがいることである。
そのカウンセリング歴について訊いてみると、なるほど小学校からスクールカウンセラーに相談して来たという。
スクールカウンセラー制度ができたのが 1995(平成7)年だから、小学校・中学校と相談し、その後、高校、大学でも相談して来たという人もいるわけだ。
その点を取り上げれば、カウンセリングを利用するということが一般的になって来たわけであるから、これは間違いなくスクールカウンセラー制度の功績であり、歓迎すべきことであろう。

しかし、“カウンセリング慣れ”ということからすると、抵抗なくカウンセリングを利用するようになったのは良いのだが、どうも話を聴いていると、カウンセリングをただの愚痴垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場と思っている人たちが少なくない印象がある。
そしてその理由も、すぐに想像がつく。
恐らく Rogers“的”な(本来 Rogers が言っているものとは異なる)形式的“傾聴”のカウンセリングを受けて来たのね。
それだと、カウンセリングが、愚痴の垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場だと思うようになっても致し方ない。
しかし、そ
れでは今の弱さ、ダメさの肯定に終わりやすく、未来の成長がない、どんな環境にあろうとも自分自身を生きて行こうとする“勁さ”が育たないことになる。

時にスクールカウンセラーは、確固たる“人間観”“成長観(治療観)”を持ってクライアントを導かなければならない。
それがあるだろうか。
あったとしても、それが一人の人間が自分の人生だけで考え出した(申し訳ないが)狭量で時に独善的な“人間観”“成長観(治療観)”であっては、却って有害である。
だからスクールカウンセラー自身も、ちゃんとした先達から、ちゃんとしたトレーニングを、知識・技術だけではない人間としての成長のトレーニングを受けることが必要だ、と私は思っている

それについては、関連の協会、協議会などの研修も行われているが、知識・技術的でしかも集団かつ座学のものが多く、わざわざ個別のスーパーヴィジョンや指導を受けている人は稀で、現在、当研究所で面談を受けている方々などは、かなり奇特な人たちと言えよう。
でも、それくらいやらないと、なかなか深まらないのだよ。
別に、みんなうちに来い、なんてそれこそ狭量で独善的なことは言わないから、自分に合ったところを見つけて、信頼できる先達を見つけて、もっと個別なスーパーヴィジョンや指導を受けた方が良いんじゃないかなぁ、と私は切に思っている。
それが、あなただけのことに留まらず、あなたのカウンセリングを受ける子どもたちの未来に直接、影響するからね。
スクールカウンセラーが担っているのは、尊き重責なのだ。

スクールカウンセリングがそんなに簡単に行かないことは私も知ってるけどさ、
それでも、折角の、子どもたちを救い、育てるためのスクールカウンセラーなんだもの。
せっせせっせと自分を磨いて行きましょ。


 

余談である。

ホームページの改訂で気になっていることに、私の掲載写真がある。
大したことではないと言えば大したことではない話なのだが、現在掲載中の写真に比して、私の頭髪が現在ほぼ真っ白になっているのである。
写真を変えなければ、と思いつつも、ちゃんと撮り直すための手間が億劫で、今日まで来てしまった。
別に、若く見せるための詐欺写真ではないので、どうぞご容赦いただきたい。
そのうち(いつか?)更新します。

で、白髪というと、いつも思い出す落語のフレーズがある。
ある大店(おおだな)のご主人が、外にお妾さんを作り、そこに足繁く通っている。
その頭に白髪が生えて来たのを見て、旦那が老けて見えるのがイヤなお妾さんは毛抜きでその白髪を抜いてしまう。
そしてうちに帰ると、うすうす旦那の浮気に気づいているお内儀(かみ)さんは、「まあ、黒々しちゃっていやらしい。商家の当主というものは、頭髪霜をいただくようになって初めて信用というものがつくものです。」と言って、今度は毛抜きで黒髪を抜いてしまう。
あっちで白髪を抜かれ、こっちで黒髪を抜かれているうちに、旦那の頭はとうとう禿になってしまいました、という噺である。

この「頭髪霜をいただくようになって」というフレーズが妙に耳に残っていて、若い頃は、そうなのかしらん、と漠然と思っていたが、いざ自分がそうなってみると、やっぱり「信用」というものは「白髪」じゃないなとつくづく思う。
白髪だけで信用がつくなら、皆さん、とっくにブリーチしてるわな。

「信用」はやっぱり「人格」です。

そのためには、地道に人間的成長を積み重ねて行くしかない、と改めて思う私なのでありました。

 

 

「これは私がホーナイから学んだことですけれど、「近藤、何時でも、とにかくチャンスがあったら “How do you feel right at this moment?”(今この瞬間に、あなたはどう感じますか?)と聞けと言われたのです。私はそれまで、“What do you think right at this moment?”(何を考えるか)とやっていたわけです。ホーナイがそう言った意味が、彼女の教えてくれたとおりに質問したとき、初めてわかりました。そのとき彼らの中には感情が非常に抑圧されていて、その正当な発揮をする場所を得ていない。むしろ理性が暴君になっていると痛感させられることが何度かありました。私の所へ来る人は、ニューヨークにいる頃はあまり経済的に恵まれぬ人は来なかったし、日本に帰って来てもあまり余裕のない人は来られないので、割合にインテリの方が多いのですが、インテリの特徴から、今言いましたような観念的な思考型が多いように思います。それだけにインテリの方にノイローゼが多いのでしょう。 」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

最近の精神療法事情からしても、アメリカ由来の認知行動療法や論理療法などにおいて、何が合理的(rational)で、何が非合理的(irrational)か、という考え方でセラピーを進めているところを見ますと、理性重視の傾向は現在もあるように思います。
しかし、我々人間にとって、感情の問題は非常に重要で、時に「理性に偽装した感情」が跳梁跋扈して悪さをしていることは、まわりを見れば、あるいは、ご自分のことを内省してみれば、容易にわかることでしょう。
まず掴むべきは、そして、表出すべきは、感情です。しかも本音の感情です。もっと言えば、本音の本音の感情です。
良いも悪いもない、感情は瞬時に起きていますから、今さらそれを抑圧したり、否定したりしてもしょうがないのです。
そうしてそれをちゃんと認めて初めて、次のより深い、より本質的なステップに進んで行けることになちます。
それは、「で、その感情がどこから来たのでしょうか?」「あなたの生育史上の何から来ているのでしょうか?」というステップです。
それが解決されて行けば自ずと、起きて来る感情が、抑圧ややりくりを使わなくても、変わって来る、場合によっては消えて行くことさえあります。
だからまず “How do you feel?” “How do I feel?”の把握が大切な一歩。

ちなみに、現在の日本では、たとえ生活保護を受けていても、必要を感じれば自費のカウンセリングを利用される時代になりました。
決して一部の富裕層のものではない、カウンセリングやサイコセラピーの重視は、とても良い傾向だと思っています。

 

 

あるサッカー選手がゴールを決めた。
この上なくドヤ顔のガッツポーズ。
俺が決めたのだ。

あるブラジルのサッカー選手がゴールを決めた。
空を仰いで両手で天を指さす。よく見る光景だ。
神さま、俺が決めるのを助けて下さってありがとうございます。
感謝の祈り。
さっきのよりマシだが、やっぱり決めたのは俺なのだ。

真の信仰を授かっているサッカー選手がゴールを決めた。
空を仰いで両手で天を指さす。アクションはさっきと同じだ。しかし中味が違う。
神さま、すごいですね、という讃美の祈り。
ゴールを決めたのは神さまであって、俺ではないのである。
神さまの力が自分を通して働いてゴールを決めた。
ほむべきものは、神の御名(みな)のみ、である。

だから、もし我々が何か優れたこと、すごいことをやったとき、達成したとき、それは我々の手柄ではなく、天の手柄である。
よって(天に感謝ではなく)天を讃美すべきである。

反対に、もし我々が何かひどいことをやらかしたとき、しでかしたとき、それは我々凡夫の失態なのであり、自分の非である。

つまり、
何かができたら、天の力。
何かをやらかしたら、自分のせい。

そう思えば我々はもうちょっと謙虚になれるかもしれない。

 

 

曹洞禅の開祖、道元が若くして入宋の折、船中で居合わせた老典座(てんぞ:禅寺において食を司る僧)から言われた言葉

「徧界(へんかい)曾(か)つて蔵(かく)さず」

遍(あまね)くこの世界は一度も真実を隠したことがない。
この言葉に打たれたのはもう三十年以上前であろうか。

そして同じ頃、真言密教にも

「衆生(しゅじょう)の自秘(じひ)」

という言葉があることを知った。
この世界は真実に溢れているのに、衆生の方が観える段階に至っていないため、自分で秘密にしているのである。
こちらが観えていないだけで真実はもうとっくの昔から示されていたのだ、と念押しされたような気がした。

そして近藤先生の著書も同じ頃に読んだ。

『その道は開けていた』

またもや、ああ、やられた、と思った。
こっちが気づかなかっただけで、真実への道は、救いへの道は、もうとっくの昔から開けていたのである。

近藤先生が亡くなられたとき、ああ、師を失って、これから私はどうしたらいいのか、という絶望は全くなかった。
真実は、救いは、この世界に溢れていることを私は既に知っていたからである。
近藤章久を近藤章久させていたものは、変わらず、今も、これからも、至るところに働いている

 

 

子どもがやらかすことに対して、こっぴどく怒ってしまう。
そして怒った後、子どもの寝顔を見て、涙ながらに反省するが、次の日また子どもがやらかすと、またこっぴどく怒ってしまう。
また、高齢の親がやらかすことに対して、こっぴどく怒ってしまう。
そして怒った後、しょぼくれた親の様子を見て、死ぬほど反省するが、次の日また親がやらかすと、またこっぴどく怒ってしまう。
あるあるの話である。
この負のループを抜け出すにはどうしたら良いのか。

そもそもの人間観に戻ろう。
我々は天より与えられた尊い生命(いのち)を持つ。
それが我々の存在の根底にある。
その生命(いのち)の力によって我々一人ひとりの「本来の自分」「真の自己」が発現して行く。
これがひとつ。
しかし、その後、我々の置かれた(我々が選べない)生育環境の影響によって、そこで生き残るために、後から身に付けざるを得なかった「ニセモノの自分」「仮幻の自己」が、その「本来の自分」「真の自己」のまわりを覆って行く。
これがふたつ。
この闇が光を覆うような二重構造が、我々の基本的な人間観である。

よって、子どもがやらかすこと、高齢の親がやらかすこと、それは概ね後者=「ニセモノの自分」「仮幻の自己」に基づいている(ただ幼いから、ただ高齢だからやらかすこともあるが、責めるときに火が付くのはそこに「ニセモノの自分」「仮幻の自分」のイヤ~な感じが臭ったときである)。実際、その言動の大体が可愛くないし、生意気だったりする。
となれば、それを突く、怒ることが、絶対的に悪いことだとは思えない。それを、いいよ、いいよ、で済ましてしまうことにも問題がある気がする。
事の本質はそこではないのだ。

その「ニセモノの自分」「仮幻の自分」を責めるとき、あなたは、そこ奥にある「本来の自分」「真の自己」、さらには相手の「生命(いのち)」に対する畏敬の念を忘れてはいませんか?ということが問題の核心である。
それが抜ける。となれば冷酷な滅多切りとなる。
そうではなくて、表面の闇を斬るが、中心の光は斬らない。
いやむしろ、表面の闇を斬って、中心の光を導き出す。
本当の叱責とは、そういうことをいうのだと思う。

従って、大切なことは、いつも相手の生命(いのち)に対して、存在の根底に対して、畏敬の念を持ち、手を合わせて頭を下げる=合掌礼拝する姿勢を忘れないことである。
その上で表面の闇を斬るとき、我々に、あのやるせない後悔の気持ちは起こらない。
また斬られた方も、斬られたのは表面の闇であって、中心の光に対してはちゃんと畏敬の念を持って接してくれていることを感じるので、斬られた方も深い傷を負うことがない。
ここが大切なところである。
(これは以前に書いた『金言を拾う その9  溝をつける』に通じる話である)

さぁ、今から実践しましょう。
1回、2回では変化を感じないかもしれませんが、何回も何回も積み重ねて行くうちに、感触がちょっとずつ変わって行くかもしれませんよ。

 

 

「…私がこうお話ししましたのは、西欧における精神分析の歴史についてだけなのですが、自然科学的なものが非常に価値づけられて、自然科学こそまさにすべての真実を探究していく方法であると信じられた中に、少なくとも精神の世界だけは科学的方法で、物として眺めて理解できるものではない、ということが認められて来たことを申し上げました。このことは皆さんにとって少しも不思議ではないと思います。毎日毎日の臨床経験において、あなたがたはそれを経験していらっしゃると思います。実際に臨床経験において、ただ患者を物として冷然と眺めて、観察して、それだけで治療できるでしょうか。どんないわゆる科学的な理論よりも、臨床におけるあなた方の経験、実際の体験が、それを実証するだろうと思います。患者あるいはクライエントが変化していく場に、ただ知的な観察だけの態度では変化は可能ではありません。
フロイトも最初の頃はそういう態度があったわけでしょう。有名な『分析の隠れ蓑』という言葉がありますが、これは観察を主とした態度です。今でもそれは重宝であり、意味のあるものですが、これをあまりやると治療は一向に発展しないで行き詰ってしまいます。これはご自分でやられたら一番よくわかるけれども、治療ということはそんなものではない。人間の精神は『もの』ではないところに立脚して治療は行われるものです。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

これは日本心理臨床学会での講演からの抜粋です。日々、臨床や福祉の現場において、患者さん、クライアント、メンバーさん、当事者さんと接している方はよくおわかりでしょう。
分析、結構。考察、結構。研究、結構。論文、結構。著作、結構。
で、その人はよくなりましたか?(何をもって「よくなる」というのかという問題もありますが)
その人は人間として成長しましたか?(何をもって「成長」というのかという問題もありますが)
そもそもあなた自身の人生はどうなんですか?
御託(ごたく)や能書きはもういいんです。
具体的に、実際に、健やかに自分を生きましょう。
そして自分以外の誰かが、具体的に、実際に、健やかに自分を生きることに貢献しましょう。
そこには、あなたの「生き方」「人格」「人間性」「存在」が大きく影響することを確認しておきましょう。
だから「現場」を持っている人は(大変だけれども)幸いなんです。
御託と能書きの隠れ蓑でチョロまかしできないからね。
 

 

 

年齢のせいか、役回りのせいか、カンファレンスやミーティングなどの場で、締めのコメントを求められることが多くなって来た。
そのとき思ったことをそのまま言うしかないのだが、振り返ってみれば、昔はそうではなかった。
「良いことを言わなければいけない」「ちょっとかっこいいことを言わなければならない」と思い、段々順番が近づいてくるにつれ、緊張していたのを思い出す。
即ち、「自分が」「まわりから」どう見られるかが気になったのである。
よって、そのコメントは、「自分向き」か「出席者向き」だったのだ。
そもそもが臨床や福祉の現場でのカンファレンスやミーティングでのコメントなのだから、それが患者さん、メンバーさんに資するものであるかどうかが一番重要なのに、かつての私のコメントは「患者さん向き」ではなかった。
「自分向き」の「保身」のコメントか、「出席者向き」の「評価目当て」のコメントだったのである

どっちを向いて、誰を向いて、仕事をするのか。
これは基本中の基本である。

そして改めて「患者さん向き」のコメントを心掛けるようにしたら、コメントすること自体が楽になった。
患者さん、メンバーさんにとって何が良いのかだけを考えれば良いのだから、することがシンプルである。
それでも、コメントの内容に出来・不出来があるかもしれないが、少なくともコメントする「姿勢」はしっかりと定まった。
これは是非みなさんにもお勧めしたい。
患者さんよりも「自分」の方が、「出席者からの評価」の方が大事になったら、支援者としておしまいである。
いつも原点に戻りましょ。

 

 

以前開業していた八雲は、自由が丘が近かった。
自由が丘と言えば、スウィーツの街としても有名だが、占いのメッカとしても知られている。
街を歩けば、あちらこちらに「占いの館」があり、路上に机を出しただけの占い師も見かける。
特に寒い季節の夜の路上占いには、何とも言えない風情(ふぜい)がある。
以前は、いつか歌舞伎町あたりで路上占いをやってみたい、と思っていたが、
最近は、見た目もいい年にもなって来たし、占いの館でも路上占いでもいいので、土地勘のある自由が丘あたりでやるのが面白そうだと思っている。
しかし、肝心の占いができない。
というか、そもそも占いがやりたいのかと言われると、そうでもない。
やるとすれば、「人生相談」をやってみたいのである。
そう言えば、昔、八雲の理容店に入ったとき、話の流れから「ああ、あの人生相談の先生のところに行ってるんですか。」とマスターに言われたことがあった。
そのときは「近藤先生が人生相談か。」と思ったが、確かに人生相談でもある。
となると、「占わない占い師」、いや、「占わない師」でやるのが良さそうだ、という結論に達した。
占いはしないで人生相談だけをやる。
お客に酔っ払いは要らないが、ふらっとやって来る不特定多数の人を相手にする人生相談は、武者修行でいうところの野試合のようで魅力的である。
市井(しせい)の人の中に入って行くというのは、ガッカリすることもあるけどさ、やっぱり成長を求めている人がどこにでもいるんじゃないかという期待と希望は捨てられないんだよね。
いつか将来、自由が丘で私によく似た「占わない師」を見かけることがあったら声をかけてみて下さい。
 

 

今日は令和6年度3回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目に続いて3回目。
今回も、以下に参加者と一緒に取り組んだ部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみるチャンスになる。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症の生成と発展

b.不安防衛のための態度 ー 神経症的傾向の萌芽

この様な環境にあり、この様な不安に脅(おびや)かされながら、しかし幼児は生きなければならない。人間に存在する成長への衝動が彼を動かすのである。しかし、幼児らしい自然な感情で自分を取り巻く人間に対して反応することは、この様な不安な状態では可能でない。
この様な状況に適応し、生きて行く為に、少なくともこの不安をかきたてたり、増加したりしない様に、いやむしろ、それを何とかして感じない様にする為の方法を見つけなくてはならない。自ら幼児は幼児として無意識な必要から、その素質や環境の特異性に従って、特有な態度を取って行くわけである。一般的に言えば、自分の周りの強力な人間にくっついて行こうとしたり、反抗して闘ったり、自分の中へ引き籠って、他の人間によって自分の心が乱されないようにすると言う風なやり方をとるわけである。
普通の場合では、この様な態度 ー(1)人に従って行く動き、(2)人に反対して行く動き、(3)人から離れて行く動き ー は、それぞれ補足し合って人間関係を充実させて行く態度なのであるけれども、不安におびえている幼児が、これらの態度を取る場合に極端になり、固くなって行くのである。そして、その態度も彼の不安の程度に比例するのである。
これらの態度は必ずしも一方向に限られるものでないから、互に矛盾し合うこともある。しかし、結局、どれか一つの態度が優勢となって来る。そして、それをもととして、他の傾向を抑圧し、敏感になり、色々な要求をする様になる。かくて、そういう傾向をもととした personality の発展が現れて来る。
勿論、幼児期に於けるこうした傾向は、まだ強固に定着しているわけではないから、友人とか、教師とかを通じて、何等かの意味で暖かい良好な人間関係に入って行くと、変化する場合も多いのである。

 

幼児には生育環境を選ぶことはできない。「しかし幼児は生きなければならない」 このフレーズが悲しくも胸に響く。そして神経症的性格の3つのタイプについては後に詳しく触れる。少なくともここでは、基礎的不安(基本的不安)を払拭するために、幼児が神経症的傾向を身に着けなければならないことを知っておいていただきたい。そして「暖かい良好な人間関係」が与えられれば、そのような神経症的傾向を振り払うことは、子どもだけでなく、大人でも十分に可能なのである(子どもの方が早いけどね)。そこに人間というものへの希望がある。

 

 

「もうひとつ大事なことは、特に若い方、年寄りの方、両方に共通なことですけども、クライアントにやってるうちに、これは…いろいろ違います、違いますが、そこをじっと聴いているとね…やはりね、自分にとってもね、非常に教えられるところがあるもんですよ。ね。そこをね、よ~く自分でね、聴き込んで、そして自分に取り入れて行きますと、自分自身が、私は今年七十六ですけども、自分自身が、まだこれでもね、自分で取り入れて成長できるっていうことを感じますね。本当にね、ああ、そういうことに気がつかなかった、ね。私は…まだまだ年を喰ってないと。もう十年くらい、もう二十年くらいやらなきゃ、まだわかんないんじゃないかと。こういうふうなことも随分ございます。だからね、自分自身が、やっぱりね、それによって成長させていただくというね、気持ちも、ひとつ、持って、体験もされて行くんじゃないかと思います。
そのことがあると、これはね、自分自身が成長するっていうことがわかりますと、これはね、セラピストとして、あるいは、カウンセラーとして非常に進歩するんです。というのは、今までははっきりしなかったんだけども、相手も成長できるんだってことがわかる、ね。人間というものが成長する。相手がまた成長することによって、こちらがまた「あっ、これは自分も成長できるんだ。」ということがお互いにわかる。これで、ひとつだけ申し上げるのは、成長は、お互いに成長は無限にできるんだ、ということを、ここでやられる、体験されるあなた方カウンセラーは、すごく恵まれた方だと思うんです。
…ま
あ、このね、カウンセラーっていうのはね、私はね、よっぽど好きでなきゃ、やれた商売じゃないと思うんですね。今言ったような事柄を聴かれただけでもそうでしょうけども、私もね、これ、よっぽどね、好きでなきゃできない。とにかく余程、人間に対する愛情とかね、そういうものがないとできない。だから、自分のことを省みられて、私は自分はそれほどの人間に対する愛情は持たない、人のことはどうでもいいと、ね。自分のことが、まあ、どうやら喰って行けりゃあ良いや、というふうな気持ちでやってらっしゃると、そのうちに、この仕事はとても馬鹿馬鹿しくてイヤになって他所(よそ)のことをやりたくなりますから。まあ、そういう他所のことをやられれば良いんですけども、まあ、そういう意味で、私は、これは非常に忍耐を必要とするということを始めから覚悟して。それで、そういうものができないなぁ、そういうものをやるだけの価値がない、ということであれば、自分を知る上から言ってね、自分はもっとそれよりもNTTの株かなんか買ってですな、何百万円か買って、それで儲ける方が良いと、こういう方が適しているという人は、どんどんそっちの方に行った方が、僕は良いと思いますね。やはり、それぞれの人間の、それぞれの一生をかけてやることは、それぞれあるわけですからね。
…そして、それが本当に、私は少なくともこう信じる。人間は自分のために奉仕するということよりも、人のために奉仕することによって、もっと人間が、自分に豊かに奉仕することになる。こういう具合に私は思うんですね。ですから、やっぱり何よりも、教育もやってますけども、何しろ、人間の生命(いのち)を育てるということぐらい、人間の一番深い喜びはないんだろうと思います。」(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

僭越ながら、師の言葉に今少し付け加えると、
まず「人間に対する愛情」ということ。
これは人間の力では無理だと思うんです。
だって凡夫は自己愛的なんだもの。
人のことなんて、二の次、三の次。自分が可愛くて可愛くてしょうがない。
でも、それが、自分以外の人間を愛せる場合がある。

また「人のために奉仕するということ」。
これもまた人間の力では無理だと思うんです。
だって凡夫は自己中なんだもの。
人の奉仕なんかやってられませんわ。むしろ私に奉仕しろっていうくらい。
でも、それが、
自分以外の人間に奉仕できる場合がある。

だけども、凡夫の自力では無理だけれど、
我々凡夫を通して働く大いなる力によって、それが可能になる場合がある。
人を愛し、人に奉仕できる場合がある。

人間の生命(いのち)の成長は、この世界の願い、この宇宙の願いなんです。
人間の生命(いのち)が成長するとき、この世界が、この宇宙が喜ぶんです。
ですから、「人間の生命(いのち)を育てるということぐらい、人間の一番深い喜びはないんだろうと思います」ということになるわけです。

 

 

今日はわけのわからない話をする。

先日、庭で草むしりをしていて、誤ってレンゲショウマの葉茎を抜いてしまった。
毎夏、俯きかげんの可憐な花を咲かせてくれていたのに。
随分、後になって、そのことに気づき、「ああ、殺してしまった。」と悔恨の想いに苛まれた。

凡夫は、自分「が」レンゲショウマ「を」殺してしまった、とレンゲショウマ「に」執着し、私「が」嘆くのである。
本当は、自分も虚構であり、存在すべてが虚構であり、この世界が虚構なのに。
それなのに、虚構が実体性を持って感じられ、その上で自他の区別が生じ、私「が」レンゲショウマ「について」嘆くのである。
よって、有り難くも、念仏すれば、自我が薄まり、レンゲショウマが薄まり、この世界が薄まり、私の嘆きも薄まる。

研修医の頃、小児外科を目指しているという同僚の話を聞き、自分には絶対なれないな、と思ったのを覚えている。
手術を失敗したときはもちろん、失敗ではなくても難しい手術でもし子どもが死んだとしたら、自分には耐えられないと思った。
「子ども」という存在が強烈に「私」という存在を惹起する、「私」を立たせるのである。
これも普通人にとっては普通の話であろう。
普通人の別名を凡夫という。

凡夫は、自分「が」子ども「を」殺してしまった、と子ども「に」執着し、私「が」嘆くのである。
本当は、自分も虚構であり、存在すべてが虚構であり、この世界が虚構なのに。
それなのに、虚構が実体性を持って感じられ、その上で自他の区別が生じ、私「が」子ども「について」嘆くのである。
よって、有り難くも、念仏すれば、自我が薄まり、子どもが薄まり、この世界が薄まり、私の嘆きも薄まる。
この消息については、良寛の話をどこかに書いた。

近藤先生の友人で、手術のときに念仏する外科医がいたという。
それが、手術室でみんなの前で声に出して称えるのか、心の中で称えるのかは知らないが、その気持ちはとてもよくわかる(知らない人がこの外科医の念仏を聞いたら「縁起が悪いからやめてくれ。」と言うだろうが)。
たとえ真実においては虚構であろうとも、虚構と思えず、実体性をもって感じて、執着する凡夫にとっては、救いがなければならない。
そうでなければ凡夫には耐えられない。

南無蓮華升麻大菩薩の日であった。

 

 

[追記]
今回は、念仏のもたらす「仮」について書いた。

「実」について書く日はいつか来るのだろうか。
それもまた、おまかせである。

 

 

「ああ、男を観る眼がなくて結婚しちゃったぁ!」
「あんな子育てしかできなくてホントに子どもにごめんなさい!」
などという女性方の嘆きの声を時に拝聴することがある。

私の答えは決まっている。
「当たり前じゃん!」

人を観る眼なんて、余程自分が成長してからでないと持てるわけがないし、
精神的には、子どもが子どもを産むんだから、全ての子育ては失敗だらけに決まっているのだ。

だから、せめて若い人たちに申し上げたいのは、
できる範囲で良いから、本当の自分、本来の自己というものを追究して行こうよ、せめてそういう姿勢を身につけようよ。
自分が自分に近づけば近づくほど、相手が何者かを観抜く眼が養われるし(自分を観る眼と他人を観る眼は必ずセットなのだ)、
子どもに対しても、本来のこの子はどういう子なのかを観抜いて(感じ取って)、その上でこの子がすくすく育つことができるように関わりやすくなるだろう。

そして、既に結婚している人、
あるいは、子育てしている人は、
どうしても合わないなら相手と離婚するのも面々のおはからいで“あり”だけれども
まだ縁がありそうであれば、まだお互いに、実は気づいていない出逢いの意味と役割を見い出して行く方向性もあるし、
子どもに対しても、改めてこの子がこの子でありますように、と祈りながら(子どもが何歳になっていても)関わることが出来るんじゃないかと思う(子どもがある年齢以上になれば、敢えて関わらないという選択肢も含めて)

やっぱり、戻るところは、我ら人間は凡夫、ポンコツのアンポンタン。
後悔だらけで当たり前(むしろ自分の言動に後悔のない人たちの方が恐ろしい)。
問題は、で、どーする。
凡夫なりに一所懸命に、そして足りないところは手を合わせ頭を下げて祈りながら、どうにかこうにか生きさせていただけるんじゃないかと思うのでありました。

 

 

「初心者の方に、私、何よりも勧めたいのは…何にもまだその人についての知識もなければ、初めて会ったんですからね、詳しい理解もあるはずないわけです。ですから…本当に…これしかないわけですが、ただ聴くということ、ね。聴くということ。リスニング。よく聴くということ。この聴くということが、私は大変、大切だと思うんです。その聴き方ですが、できるだけこちらがゆったりとして…そしてこう、私は本当に心からあなたの言われることを聴きますよ、というふうな、本当に、その、向こうはわざわざ、忙しい中をやって来たんです。本当に真剣にやってるんですから、こちらの気持ちとしては、そうしたやはり対応といいましょうか、そういうゆったりとした対応をすることがね、必要だと思うんです。
そうしてもうひとつ大事なことは、聴くということは、まあ、単純なことのように思いますけれども、私は…そうですね、忍耐が必要な行為じゃないかと思うんですね。忍耐が必要。まず声が小さかった人なら、一所懸命、声の小さい人の、その声を聴かなきゃいけない。これだって、ひとつの忍耐ですね。それが…また人によりますと、長いこと、どういうことを言おうとしてるんだかわからないけど、ずーっとこういうふうに言われる人があります。そういう人も、じっと聴いていかなきゃいけない、ね。…
そのことを私は、その態度のことを、よく説明するときに使う言葉として「聴き込む」という言葉を使うんです…「よく聴き込んで。」、ね。「込む」という字は非常に、私は…意味があるんじゃないかと、ね。お酒を仕込むとか、いろいろな言葉がありますね、タクワンを漬け込むとかね。「込む」っていう、それはね、心の中にですね、入っちゃう、ね、聴き込む。向こうの声がこちらの心の底に通るほど聴き込むということですね。…
本当に、それだけでもって、面白いことは…あなた方というかカウンセラーが本当に腰をこうグッと入れて真剣に聴き込みますと、不思議なことに、そのカウンセラーに対しているクライアントがね、何かね、そこにね、感じるんです。これは、僕はそこでなんとか、物理的に電気が起きるとかなんとかいうことを言うんじゃないんですが、あなた方にしても、お互いが、お二人、どなたでも、普通の場合でも、本当にこう、真剣にお話をしていらっしゃるときは、何か向こうからですね、やはり、伝わって来るものがあるでしょ。そういうことを感じられるでしょ。一所懸命やってくれるなぁっていう気がする、簡単に言えば。
これが、私は、まず、初めて会って、何も知らない、ね、二人の間に、よく信頼関係、信頼関係って言いますけれども、信頼関係が起きる、そのね、それが起きる元である。こんなふうに思うんですね。ですから、信頼関係ってのは始めからあるんじゃないんですね。それは、そういう二人の人間の間の信頼関係っていうのは、そんな形で、本当は樹立されて来るもの、作られて来る、創造されて行くものである、ね。で…まず第一に…信頼関係っていうものが…ありませんと、これはですね、このカウンセリングをやっていく関係はですね、もうね、続かなくなるんです。この信頼関係が、これからずーっと続く、何十時間、何十時間かわかりませんが、その間の長い時間、たとえ長い時間であっても、それを支え、それをずっと続けて行く、その人たちの大きな力になるんです。これはどんな人間関係でも大事なことなんです。教師と生徒の関係、あるいは、夫と妻の関係、あらゆる人間関係において、この信頼関係ってことがない関係っていうのは、本当は人間関係と言えないだろうと思うんです、本当の意味でね。」(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

この「聴くこと」くらい、ああ、もうわかってる、やってる、くらいに済まされて。全然わかっていない、全然行われていないことはないと思うんです。
形式としての「傾聴」、active listening なんていうのはもううんざりなんで、私は「聴くこと」において、本当に重要なポイントは二つあると思っています。
ひとつは、どういう姿勢で聴くかということ。
そしてもうひとつが、何を聴くかということ。

前者は、即ち、相手の存在への畏敬の念を持って聴いているかどうか、ということ。
それがあるからこそ、聴き込むことも、忍耐も、信頼関係もできて来るわけです。
そして、そういう姿勢で聴くことを繰り返して行きますと、やがてそれをクライアントも感じてくれます。
以前、『金言を拾う その9 溝をつける』でお話ししたことを思い出してみて下さい。

そして後者は、相手が実際に話していることを聞きつつも、その人の主観ではない、我ではない、生命(いのち)が何を言いたがっているかを聴くということ。我の声だけではなく、生命(いのち)の声を聴くということ。それがとても大切です。
例えば、あるお母さんが子どもの障害に悩んでおられたとする。
なかなか他では言えない、嘆きや悲しみややるせなさをカウンセラーの前で吐露されるかもしれない。
それを聴くのは当たり前です。
しかしそれだけではない。本当の意味で、しっかりと聴いていますと、お母さんの生命(いのち)の声が聴こえて来るときがあるんです。
何がどうであっても、まるごとこの子を愛したい。無条件に愛せる母親でいたい。そうなりたい。そうさせて下さい、と。
そういう生命(いのち)の声が聴こえて来るんです。お母さん自身さえも気がついていない、深い、深い、その声が。
その声が聴こえなければ、私は、本当の意味で、聴いてないんじゃないかと思います。
近藤先生の講演で『いのちの響きを共に聞く』という題のものがありました(私は「聞く」でなく「聴く」の方が良いのではないかと思いますが)。
この題だけで近藤先生がおっしゃりたいことがもうわかりますよね。

そういった点も含めて、どうか相手の言われることを聴いてみて下さい。
「聴く」ということの意味が、実感として、わかって来るかもしれませんよ。

 

 

受精卵から分化・発生して行く過程で、我々は身体を獲得する。
皮膚によって内外を区別され、その内側の存在こそ、私の身体なのだ。
そして脳に芽生えた“自我意識”がそれを“私の身体”として認識する。
仏教において、百八つの煩悩のうち、「我見」(自我意識=自我があると思うこと、自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体が(他と別に)あると思うこと)の二つを根本煩悩としているのは、流石と言わざるを得ない。
「我見」(自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体があると思うこと)がほぼ同時に発生するのだ。

そして、ここからすべての「苦」が始まる。
何故ならば、「我」=他と違う自分が生じた途端、そこに「我欲」(自己中心性(本当は自我中心性と言いたいところであるが))が発生する、精神的にも精神的にも「我」の満足=「我の思い通りになること」を要求するからである。
それ故、我々は、今に至るまで、我の思い通りになれば喜び(あのガッツポーズを見ればわかるだろう)、
我の思い通りにならなければ怒り、悲しみ、苦しむのである。
しかし、残念ながら、この世の大半は思い通りにはならない。
従って、この人生は、苦しいことのみ多かりき、ということになる。

そんな中で、子どもは成長して行く。
まだ母親のお腹の中にいるときには、かろうじて臍の緒でつながっていた。
わずかに母子=自他の一体感が残っていたかもしれない。
しかし出生するや否や、それは断ち切られ、「我見」「我身見」が完全に成立する。
そしてその後、少しずつ大きくなって行くということは、生きるエネルギーも増大して行くということであり、我に備給されるエネルギーも増大して行くことになる。

それが「イヤイヤ期」であったり、別に「〇〇期」とつけなくても、我が活発に働けば、思春期はもちろん、大人に至るまで、この「思い通りにならなければイヤだ」という我欲の主張は続くことになるのである。

で、どうするか。
それでは、どう子どもを育てるのか。
通常の精神分析や精神療法、発達心理学的見地からは、この我欲をコントロールすることが要求される。
そのために、すぐに全部思い
通りにならなくても(「すぐに全部思い通りにしたい」という欲求を「幼児的欲求」ということは既にどこかで述べた)、それを抱えていける力や、場合によっては諦めることのできる力をトレーニングして行かなければならない。
それが教育なのである。
極めて手のかかることであるが、親は、大人は、辛抱強く子どもに付き合いつつ、スモールステップで、体験的に教えて行くことになる。
ここで、我が子を思い通りにしようとすること自体に、親の我欲があることも忘れてはならない。

そして最後に、この問題の根本解決として、「無我」というものがある。
思い通りになることを願って止まない「我」がなくなってしまえば、少なくとも薄まってしまえば、問題は消える、少なくとも非常に楽になる。
但し、これは子どもには無理である。
長年、我の問題で相当苦しんだ人間でないと「無我」を志向することはまずない。
よって、関わる大人の側、親の側が、呼吸/念仏/瞑想などによって、自分を超えた力によって「我」という幻想を持って行ってもらい、ほんのわずかでも「無我」の体験をいただくのである。
自分で乗り超えられない、無能、無力、非力の凡夫にはその道しかない。
そしてもし運が良ければ、「我」を持って行ってもらうだけでなく、あなたを通して働く子どもへの「愛」を授かるかもしれない。
それが子どもの(我ではなく)生命(いのち)を育てて行く。

 

以上、これでも簡便過ぎて、意を尽くしたとは言えないが、いくら書いてもキリがないことでもある。
どなたか一人でも何かを感じるきっかけになれば幸いである。
 

 

 

欧米においては、「自我」の存在は、精神分析的にも、発達心理学的にも、当然のものとされている。
しかし、東洋では、少なくとも仏教においては、かの蓮如上人が「仏法には無我と仰(おほ)せられ候(さふらふ)。我と思うことは、いささか、あるまじきこと也(なり)。」と示されたように、「自我」があると思うこと=「我見」は、百八つある煩悩の中でも根本煩悩に数えられて来た。
ここに決定的な違いがある。

よって、私が教育分析を受けていた頃、「自我」の存在を自明のものとして構築されている精神分析の体系に疑いを抱いたのである。
虚構の上に建てられた体系に何の意味があるのか。
急速に精神分析への関心がなくなったのを覚えている。

そして既に「無我」の体験のある近藤先生が何故、精神分析を用いておられるのか、が次の疑問として浮かんで来た。
この答えは実に簡単であった。
人類の大半は、「自我」という幻想の下に生きているからであった。
生育史にとらわれる「私」も、トラウマにとらわれる「私」も、苦悩する「私」も、存在すると思っている。
「無我」の体験などありはしない。
従って、「自我」の存在を前提とした精神分析が治療として機能したのである。
そのためのものだったのか。

私の思うところを観抜いた近藤先生は、それまでの「教育分析」をやめ、「自我」を超えた精神的境地の世界への指導に重心を移された。
不思議なことに、それと同時に、私の中では、凡夫を救うための精神分析、精神療法というものが復権した。
「自我」に生きる者の抜苦与楽もなければならない。

それらが現在のわたしのサイコセラピーを形成している。
一方で、「自我」には「自我」の救いのための精神分析、精神療法を行いながら
難行としての「自我」を超える道=「(竪超というよりは)竪出(けんしゅつ)」と
易行としての「自我」を超える道=「横超(おうちょう)」とを示すことである。

そしてその上で、例えば、その発達過程において、「自我」という幻想を獲得して行かざるを得ない、子どもたちの哀しき定めと、それにどう応じて行くかについては、また明日触れよう。

 

 

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