八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

2020(令和2)年8月18日(火)『責任』

初めて処方箋を書いたとき、身震いするような緊張感があったのを覚えている。

自分が処方を間違ったら大変なことになる。

大きな責任を感じた。

そして病棟で実際に服用して下さっている患者さんの姿を見ながら

それがどれほど大きな信頼に基づいているのかを実感し、身の引き締まる思いがした。

信頼には応えなければならない。

児童専門外来をやっているときもそうであった。

子どもたちには長い未来がある。

家族も行く末を案じている。

発達障害分野においては、幸い熱心な療育スタッフに恵まれたが

相も変わらず、全くの不勉強で専門家顔をする教師、スクールカウンセラー、療育関係者、そして精神科医のいることに戦慄を覚える。

あなたの力量がこの子の一生を分けるのだよ。

親御さんはホンモノの療育者に巡り逢って初めて、その決定的な差に気づく。

それは今私が行っている精神療法やカウンセリングにおいても同じ。

クライアントの一生がかかっている。

信頼して心を預けて下さるからには、こちらも応えなければならない。

ならないものはならない。

不本意に誰かに押しつけられたような責任ならば、御免蒙りたいが

この人生において、天から与えられた責任なら、受けて立つしかない。

それでも、元より凡夫なれば、我々にそう大したことができるわけではないのだけれど

無能・無力・非力な凡夫が、その上にサボッちゃあ、被害甚大である。

ポンコツなりに、丹田呼吸しながら、祈りながら、一所懸命にやらせていただくしかないのである。

2020(令和2)年8月1日(土)『塀の上の猫について』

(1)まず第一に、『塀の上の猫』は、まだ出逢ったことのない “私が出逢うべき人たち”を思い浮かべながら書いている。

何よりも本欄は、今生で逢うべき人に逢うためにある。

(2)第二に、現在、面談に来られている方、勉強会やワークショップに参加された方を想定して『塀の上の猫』を書くこともある(連絡事項を含む)

しかし、面談に来ている方について暗喩的に何かメッセージを書くことはない。

必ず面談で直接に申し上げる。

稀に「あれは暗に私のことを書いておられましたね。」と言われることがあるが、それを自意識過剰、関係念慮というのである。

それ自体が解決すべきテーマである。

(3)現在、他所で精神科医や臨床心理士からサイコセラピー/カウンセリングを受けている方の閲覧はご遠慮願っている。

ダブル・セラピストで良いことは何もない。

目の前のサイコセラピー/カウンセリングに専念することを強くお勧めする。

一度に二つの道は登れない。

同様に、かつて当研究所に通われていた方にも閲覧をご遠慮願っている。

別れた前夫(前妻)のFacebookをいつまでも覗いている前妻(前夫)のようで、やめた方がいい

前を向いて新しい道を進もう。

(4)尚、『塀の上の猫』の中に登場するセラピー例や個人の内面に関する記載は、守秘義務のため、特定の個人のものとならぬよう、他の多数の経験例も加えて編集・加工してあることをご了解下さい。

(5)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。

自分として完成度に納得しない場合は、何度も何度も同じテーマで書き直すことがある。

これは自分自身のためである。

同じテーマが再出しても驚かれませんように。

以上

2020(令和2)年4月20日(月)『もしも新型コロナウイルスに感染したら』

全国の新型コロナウイルス感染者数が1万人を超え、おおよそ日本国民1万人に1人が罹患した、という段階に入った。

地域差はあるものの、これからは我々にとって身近な人が感染者として報告され始め、我々自身もまた感染者となる可能性がずっと高まるだろう。

症状からの検査・受診の相談については、厚生労働省や地元自治体などの指針に沿って粛々と行っていく他なく、もし検査で陽性となれば、「無症状感染者」「軽症者」は「宿泊療養」「自宅療養」という流れになって来ている。

で、もし今、八雲に通われている方が検査陽性となり、「宿泊療養」「自宅療養」となった場合にはどうするのか。

もちろん、まずは必要な身体的治療をしっかり受けること。

そしてもし私の出番があるとすれば、電話やSkypeは使えるでしょうから、メンタルなサポートは十分可能です。

有事の仲間は支えます。

どうぞお申し出下さい。

と言いつつ、もし私の方が検査陽性となり、「宿泊療養」「自宅療養」となった場合にはどうするのか。

それでも、電話やSkypeは使えるでしょうから、しゃべりづらくなる症状が出ない限り、お話しすることはできるでしょう。

そしてもし万が一、あなたか私が重症化して入院となったら。

自力を尽くし、他力におまかせするのみです。

はい。

いつも有事はしんどいけれど、ギリギリのところで我々が試され、本質的な人間的成長の好機にできることは間違いない。

となれば

活かさないでおくべきか。

2020(令和2)年4月18日(土)『テレビ電話始めました』

Skype の設定が終了し、明日4月19日(日)より、いわゆるテレビ電話(ビデオ通話)の利用が可能となりました。

顔が見えて話せた方が良いという方はどうぞご利用下さい。

私のパソコンがちょっと古いため、カメラの画像が粗かったりぎこちなかったりしますが、何よりもマイクに不具合があったため、設定に手間取りました。

今後、「電話スーパーヴィジョン」や「電話カウンセリング」をご利用の際、

「通常の電話利用」か

Skype によるテレビ電話(ビデオ通話)利用」か

をお知らせ下さい。

また既に「通常の電話利用」で予約をされている方も、もし「Skype によるテレビ電話(ビデオ通話)」への変更をご希望でしたら、遠慮なくお申し出下さい。

 

 

以上、お知らせまで。

2020(令和2)年3月1日(日)『利他行』

マスクに続いて、トイレットペーパーやティッシュなどの紙製品が軒並み売り切れになっているという。

政府やメーカーが、紙製品の在庫は十分にある、デマに流されないように、とアナウンスしているにもかかわらず、である。

人間、不安になって利己的に走る姿を見ていると、なんだか悲しくなって来る。

 

それは東日本大震災直後のことであった。

八雲の近くのコンビニに入ると、棚に残された食品はほとんどなかった。

私の後に杖をつきながら店に入って来た高齢男性は(見るからに単身生活者である)、棚からパンをひとつだけ持って、レジに向かった。

顔見知りらしいレジの年輩女性が

「もっと買って帰ったら。」

と言うと、男性は

「他の人が困るだろう。」

とだけ言った。

 

今、書いていて思い出した。

酷い虐待の中で育った若い女性であった。

当時、大学病院の私の外来に来ていた。

診察の後の昼休み、学内の生協の売店で彼女の後ろ姿を見かけた。

書籍コーナーで彼女は一冊の雑誌を手に取って買い求めていた。

平積みの一番上の、一番ヨレヨレになったヤツを。

彼女を見ている人間は私以外にいない。

もちろん彼女は気づいていない。

次の外来のときにそのことを話すと

彼女は恥ずかしそうに下を向いているだけだった。

 

一番守られるべき人たちが一番他者に優しかったりする。

 

あなたもそうするべきだ、という気はさらさらない。

先日触れた通り、「〜すべきだ」「〜しなければならない」で頑張ってやることではない。

頑張ってやれば、それは却って偽善的な、いやらしいことになる。

我々はどこまでいっても自己中心的な凡夫だけれども

そうでないものも我々を通して働いている。

その力が自然に発現するといいなぁ。

2020(令和2)年1月29日(水)『自分に引き付ける人たち』

当研究所の人間的成長のための精神療法の「対象」は、ホームページに書いてある通りである。

面談を申し込んで来られる方の大半は、ちゃんと「対象」要件を確認して申し込まれ、すぐに日程が決まり、直ちに面談が始まる。

実にシンプルな話である。

「対象」を文字通り読まれて、そのまま満たしているならば、躊躇される必要はない。

同志は大いに歓迎する。

しかし、そうでない方も申し込んで来られる。

「対象」ではないのでお断りすることになる。

それが最近何名も続くため、ここに明記しておく。

まずホームページに挙げてある6つの国家資格取得者が対象である。

類似民間資格は対象ではない(臨床発達心理士、産業カウンセラー、心理カウンセラーなど)。

取得見込みは資格取得ではない。

自己判断の治療中断は、治療終了ではない。

(きちんと治療終結してから来ている人はたくさんおられる

服薬していなければ良いのではない。

(薬物療法を受けていなくても診断名が付くうちは治療対象である)

「対象」は最初から端的に示してある。

それなのに、「対象外」であることが明々白々であるにもかかわらず

都合の良いように解釈して

あるいは

強引に

自分に引き付けて申し込んで来る人がいる。

中には、面談を受けるために

本当は自分自身の「診断」に気づいているのに

「診断はつかない」と言ってもらえるまで何カ所も精神科受診を繰り返した人も

どこかで「心理検査」を受けて「大丈夫でした」と自称する人も

敢えて「未受診」で(受診しないで)回避して来た人もいた。

本当は自分自身の『診断』に気づいているのに」そういうことをする自分自身に対する「情けなさの自覚」がないのである。

完全に「対象外」である。

そして長年「治療」の方も「本気で」行って来た経験からすれば、そういう人たちを「対象」とする精神療法専門の精神科医療機関が存在する。

ちゃんと道はある。

餅は餅屋。

馬は馬方。

海のことは漁師に問え。

役割分担である。

当研究所は当研究所の役割を果たして行くのみだ。

2020(令和2)年1月20日(月)『自己分析』

私が初めて買った心理系の本が、ホーナイの『自己分析』であったことは、以前どこかに書いた。

当時、十八、九歳くらい。

お茶の水の丸善の心理学コーナーで、長時間読み比べて買ったのを今でも覚えている。

後に自分がホーナイ派の精神分析を学ぶことになろうとは夢にも思わなかった。

そして自己分析。

フロイトは自己分析を認めない立場を取った。

それもわかる。

我々は自分のことを見たいようにしか見ない。

相当に詰めて内省したつもりでも、一番重要なところ、痛いところは、無意識にあるいは巧妙に回避するか誤魔化す。

よって他人から、専門の精神分析医から分析してもらった方が良い、いや、してもらうしかない、ということになる。

ホーナイの立場は異なる。

自己分析は可能だとする。

我々の中にある「真の自己」(本来の自分)が働けば、「仮幻の自己」(後から身につけたニセモノの自分)に気づくことができる、感じ取れるはすだ、と考える。

それはそうだ。

しかし、ホーナイは条件を付ける。

最初から一人での自己分析は難しい。

やはりそれは浅いか、誤ったものになりやすい。

まず本物のセラピスト(自分自身が「真の自己」を実現して来た経験を持つセラピスト)から分析してもらう経験を持った方が良い。

その体験が基となって、自己分析が可能になって来る、という。

なるほど、まず穏当なところと言うべきか。

市井にも、対人援助職者の中にも、我流や聞きかじりの知識で自分や他人を分析したがる人が多いのはご存じの通り。

それはやっぱり浅いか、誤ったものになりやすい。

単なるおしゃべりや与太話でするなら良いけれど

人のこころの真実を求めるのであれば

信頼できるセラピストの許、まず自分が自分と勝負する機会を持った方が良いと私は思う。

ちなみに私は師が存命中の間は、せっせと教育分析に通い

(それも本当は「分析」などという狭い範囲を超えたものであったが)

通いながら自分で自分を感じ取る練習をし

師亡き後は、強制的に自分でやらざるを得なくなった。

それでもなんとか間に合って、今この仕事をやれているという次第である。

そして思う。

まだまだ師から聴いてなかった人間のこころの、そしてこの世界の真実の奥行きがある。

それは自分で開拓して行くしかないと覚悟している。

2020(令和2)年1月13日(月)『TAKARAZUKA!』

宝塚ーっ!

前から一度は観てみたいと思っていたが、チケット入手は困難を極め、半ば諦めていた。

そんなとき、ヘビーファンの方から運よくチケットを分けていただき、遂に初見参となった次第である。

で、出かけてみたら

ミュージカルもレビューも面白いっ!

生舞台しかも生オーケストラは良いっ!

トップスターの風格も良いっ!

クラクラして来た。

歌って踊ってが好きな私が、宝塚歌劇を好まないわけがない

フツーにしゃべれよ、というところを敢えて歌って踊る。

しかもたっぷりの振りを付けて。

いーじゃないの。

また、上演中に「客席降り」という、タカラジェンヌが客席まで降りて行って歌って踊ってくれる交流がある。

ファンは予めそのための準備をしっかりとして来るんだとさ。

そんなことされりゃあ、そりゃ、推しメンにもなるだろ。

そして折角観に行ったからには、宝塚の定番モノをしっかり味わいたい。

フィナーレが近づき、待ってましたの大階段登場!

おおーっ。

ああ、シャンシャンだっ!

(シャンシャンとは、公演のフィナーレでタカラジェンヌたちが手に持つ小道具のこと

持ってみたーい!

出ました、背負い羽根!

2番手スター、娘役トップ、トップスターになるほど巨大化して行く豪華絢爛な背負い羽根。

そこまでやるかー。

背負ってみたーい!

ほとんどお調子者の馬鹿である。

当然のことながら、観る方よりやる方がさらに好きなのだ。

近藤先生がニューヨークにおられた頃、ブロードウェイのミュージカルを観に行かれると、帰ってから必ず自宅で再演されていた、という話を奥さまから伺ったことがある。

この師にしてこの弟子あり、である。

私も当然、自宅で再演さ。

やるときにやらなくてどうする。

でもやっぱり、公演全般を通じて一番感動したのは、タカラジェンヌたちのひたむきな一所懸命さである。

宝塚音楽学校を目指したときからバレエやボイストレーニングなどの習い事に明け暮れ、運よく入学できたとしても、在学中は厳しい指導や競争が続き、卒業・入団してからもみんながトップスターになれるわけではない。

それでも一所懸命に自分に与えらえた役を歌って踊って演じて、この舞台を創り上げているんです、彼女たちは。

濃い人生の時間を過ごしていると思う。

そりゃあ、まだ若いからいろいろあるだろうけどさ。

さらに成長しろよ。

おまえもな。

はい。

初宝塚、満足である。

 

 

追伸

そう言えば、昔は竹の塚歌劇団が好きだったなぁ。

追伸2

「TAKARAZUKA2!」もあります。

2019(令和元)年12月20日(金)『面倒くさい人Ⅱ』

ややこしい問題を幾重にも抱えた面倒くさい人たちの中で、私が関わらざるを得ない、もうひとつの人たちがいる。

その人たちは、心からの「情けなさの自覚」も切実な「成長への意欲」も何もない。

よって通常ならば、私が関わることのない人たちである。

しかし関わらざるを得なくなる。

何故ならば、彼ら彼女らとの間に今生(こんじょう)の「縁」があるからである。

これは仕方がない。

私に選択肢はない。

その人たちを見ていると、見れば見るほどつくづくとバカチンである(失礼)。

本当に救いようがない(また失礼)。

それがまた事実なんだからしょうがない(またまた失礼)。

しかし「相手が死ぬか、俺が死ぬまで面倒見なきゃならんのだろうなぁ」と思わせる「縁」がある。

だから仕方がない。

私が決めることではない。

天が決めることなのだ。

これもまたミッションである。

覚悟を決めて付き合うしかない。

(ちなみにこういう「縁」は研究所外の関係で起きる。

 研究所では対象外となるからだ)

でも不思議なんだよなぁ。

そういう場合は苦にならないのである。

相当面倒くさいのに…。

天を仰ぐ。

2019(令和元)年12月19日(木)『面倒くさい人』

「あー、こいつ、面倒くせぇ!」

と感じる人がいる。

ややこしい問題を幾重にも抱えた人である。

しかし、そのことと、その人と付き合いたいと思うかどうか、とは全く別件である。

どんなに面倒くさくても

自分で自分の面倒くささを自覚している人がいる。

そしてその面倒くささを乗り越えようと死に物狂いになって取り組んでいる人がいる。

こういう人とは付き合ってみたい、いや、是非とも付き合いたいと思う。

今の面倒くささがどんなにひどくても、そんなことは問題ではない。

「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が問題なのだ。

そうして実際にそういう人は変化・成長して行く。

これが素晴らしい。

反対に、中途半端程度の面倒くささを持っている人でも

それに対する心からの「情けなさの自覚」や切実な「成長への意欲」を持っていない人がいる。

そういう人と付き合いたいとは思わない、いや、付き合いたくない。

そうして実際にそういう人は成長しない。

信じて受け入れる「素直さ」も、藁をも掴む「切実さ」も持っていない。

かつて受験生の家庭教師をやっていた頃を思い出す。

どんなに成績が悪くても、例えば、数学20点なら20点の自分の実力を自覚し(誤魔化さず認め)、現状を乗り越えようと一所懸命に勉強する子は、どんどんと実力が伸び、実際に受験も合格して行った。

反対に、50点くらいの実力があったとしても、その実力を認めず、「僕の実力は80点くらいですかねぇ」などと言って、必死に勉強をしない子は残念ながら合格には至らないものだ。

私が家庭教師をした子が全員合格したのは、そのときの実力で引き受けるかどうかを決めず、「できない自覚」と「勉強する意欲」を持っているかどうかで引き受けて来たからである。

そういう子は、数学20点からでも、どんどんと実力が伸びる。

そう思うと、私が人に関わる基本的姿勢は、昔から変わらんなぁ、と思う。

面倒くさい人も大いに歓迎します。

但し、心からの「情けなさの自覚」と切実な「成長への意欲」は必要です。

2019(令和元)年12月2日(月)『ダークサイド・イン・ザ・バックヤード』

Aくんは、ある精神科病院で働く若手精神保健福祉士である。

よく気がつき、頭も回り、マメに動く。

笑顔・冗談を連発し、上司・先輩に従順で

ちょっと過剰適応気味じゃないかと思うくらい、期待に応えてよく働く。

しかし、上司・先輩たち(特におっかない上司・先輩たち)の前では見せていないが

同僚・後輩たちが知っている、他の一面がある。

それは上司・先輩たちのいないバックヤードに入ると

愚痴、文句、すれっからし発言の垂れ流しが始まることだ。

この表裏(おもてうら)の二面性。

これだけで彼の生育史の想像がつく。

恐らくは支配的な親の許(もと)、その圧政の中で生き残るために、アンテナを張って、期待に応える自分を身につけたのであろう。

しかしそれは所詮、演技。

従順に服従しながらも、その底には反発がある。

よって「表」では勝手に過剰に服従しておいて、「裏」では反発を垂れ流す。

そしてやがて疲れて破綻する。

彼にとっての最大の問題は、そういう自分に対して「情けなさの自覚」がないことであった。

自分でその二面性に対して「いつまでも何やってんだ,オレは!」という情けなさの自覚がない。

情けなさの自覚がなければ、変化・成長へとつながらない。

そして案の定、彼はその精神科病院を辞めた。

またふりだしに戻る、である。

彼はまだ自分の二面性と向き合う気になっていない。

それならばまた別の所で働き、同じことを繰り返すであろう。

嗚呼(ああ)、已(や)んぬる哉(かな)。

表での過剰適応も、裏での反発もいらない。

いつでも、どこでも、誰の前でも、あなたはあなたでいようよ。

そこに着地しない限り、漂流の人生はいつまでも続いて行くのであった。

 

 

[補記]

バックヤードで後輩・同僚たちに向かってダークサイドを垂れ流すのには、もうひとつ、わけがある。

それは巻き込みだ。

「所詮、人間っていうのは、職場っていうのは、この世界っていうのはそんなもんでしょ。」

「ね。あなたもそう思うでしょ。」

と撒き散らして仲間を増やそうとする。

だから、トイレで一人で呟かないで、誰かがいるところで垂れ流すのである。

神経症的問題の持ち主は、仲間を増やそうとする。

引っ掛かることなきように。

2019(令和元)年11月25日(月)『自分探し 〜 同志の命日に 〜』

何歳になっても、いつまで経っても、同じところをグルグルグルグルと回り、「自分探し」を続けている人がいる。

精神科医にもいるし、臨床心理士にもいるし、ワーカーにもいるし、看護師にもいるし、作業療法士にもいる。

どうして「自分探し」が終わらないのか。

ひとつには、「自分」のありかを「どこか」に求めているからである。

もうひとつには、求める気持ちが切羽詰まっていないからである。

「自分」は「どこか」にはいない。

「自分」は「そこ」にいる。

あなたが生まれて来てからこの方、「真の自己」は一度もあなたから離れたことはない。

『華厳経』の善財童子もしかり、メーテルリンクの『青い鳥』もしかり、最後に見つけたのはいつも「そこ」であった。

「真の自己」はあなたの中に働いている。

そして、中途半端な「自分探し」では「自分」は見つからない。

ちょっと精神世界の本など読んでみる。

ちょっとその道の人に相談してみる。

ちょっとセミナーやワークショップに行ってみる。

ちょっと坐禅や瞑想に行ってみる。

もう「ちょっと」は良いでしょう。

人生は短い。

そろそろ勝負しなさい。

そろそろ徹底しなさい。

そして世間には「自分探し」を中学生の感傷のように笑う人もいる。

しかしその多くは、自分自身もまた「自分探し」に失敗した人たちである。

彼ら彼女らが「真の自己」を達成しているとはとても思えない。

せいぜい後から付いた「仮幻の自己」を自分だと思い込み、ニセモノの安定を得ているだけである。

だから「自分探し」を恥じる必要はないが

やるのであれば

他に求めず、自分の中に求めよ。

お茶を濁すような求め方をやめ、徹底的に勝負せよ。

「自己の本来の面目」を極めることは、人間の一生の大事である。

易行中の易行でありながら難行中の難行である。

しかし、やらないわけにはいかないのだ。

さぁ、どうする?
 

2019(令和元)年11月8日(金)『Who is to blame?』

先日、落語を聞きにあるホールに出掛けた。

階段状の広いホールの一番後ろの席であったが

私の真後ろの席(通路)には、高齢女性が車椅子で座り(聞こえて来る介助者との会話から軽度の認知症の方と思われる)

また私の後ろの席(通路)の端にはリクライニングの大型車椅子で酸素マスクを付けた年配の男性が来られ

階段を挟んだ右横の席には白杖を持った年配男性が来られていた。

いずれも介助者同伴で、当たり前に落語を楽しみに来られているということに、なんだか嬉しい気持ちになった。

しかし、すぐに問題が起きた。

私の真後ろのおばあさんが、落語家の噺に対していちいち相槌を打ち、しゃべり出したのである。

しかもその声が通る。

私の前の席の若い男性が何度も迷惑顔で振り返る。

かと思うと、大型車椅子の男性が何か不具合があったのか、噺の最中に介助者に対して何度か話しかける(男性の声は低く小さいので気にならない)。

しかしそれに応答する介助者の声が大きい(男性の声の大きさからしてこの男性が難聴とは思えない)。

これまた何人かが振り返る。

そして今度は、右横の白杖の男性が、噺の最中に隣席の介助者に大きな声で話しかける。

それに対してはかなりの人数の人が振り返るが、彼には自分が見られていることがわからない。

(そのときの何も知らない男性の笑顔が私には忘れられない)

この様子を見て、私かつての電車内・バス内での体験を思い出した(その一部は以前、拙誌で触れた)。

自閉症と思われる青年に介助者(家族か施設職員とおぼしき人)が付いて座席にすわっている。

青年が大きな声を挙げ始める。

すると隣の介助者が「シーッ!」と言う。

青年は一瞬黙るが、数秒でまた大きな声を挙げ始める。

介助者がまた注意する。

それに対し、青年本人が「うるさい」「静かにしなさい」などと言い始める。

それはいつも言われているセリフなのだ。

介助者には彼の発声の理由がわからないのであろうか。

青年はヒマなのである。

車内が苦痛なのである。

社会的に受け入れられる形で車内で楽しく過ごすスキルを教えてもらっていないのである。

ならば、声を挙げて自己刺激行動で時間を潰すか、声を挙げてヘルプサインを出すしかないではないか。

それで怒られるのでは割が合わない。

「だったら車内での充実した時間の過ごし方をわかりやすく教えてくれよ。」

と青年は言いたいだろう。

青年に何の罪もない。

それと同じ。

上掲の3人とも、本人たちには何の罪もない。

問題なのは介助者であると私は思う。

何故、認知症のおばあさんの隣にいる介助者は、本人にわかるようにルールとマナーを伝えないのか。

何故、大型車椅子の男性の隣にいる介助者は、密やかな声でコミュニケーションしないのか。

何故、目の不自由な男性の隣にいる介助者は、彼にすぐにアドバイスしないのか。

いずれも見かねたホールの係員が歩み寄り、申し訳なさそうに声をかけていた。

世の介助者の方々の名誉にかけて言うならば、そんな介助者ばかりではない。

当人たちの特性を熟知し、行き届いたケアをされている介助者のいることも私は承知している。

未熟な介助者のせいで当事者が排除されるようになってはならないと思う。

これからの時代、真に多様性が世に受け入れられるためには

当事者でなく周囲の人間への啓発・教育が必要であることを改めて実感した出来事であった。

そして、これは我々医療関係者も同じ。

殷鑑遠からず、である。

今度はあの人たちと楽しく落語を味わいたいと願う。

2019(令和元)年10月27日(日)『ホワイトナイト』

ホワイトナイト(white knight)とは金融経済用語のひとつで、敵対的買収を仕掛けられた会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併してくれる会社のことを指す。
まさに「白馬の騎士」が窮地から救ってくれる、というイメージから来ている。

ある精神科通院中の二十代の女性が本当は家を出て一人暮らしをしたいのだけれど、お父さんが恐くて言い出せないという。
担当の男性ワーカーに懇願して言う。
「代わりに父にかけあってくれませんか?」

夜間、PHSで呼び出すと怒りだすバカ当直医がいた。
怒鳴られて何も言えなかった看護師は、翌日、懇意の医師に言った。
「先生から言って下さいよ。」

仕事でクライアントとトラブルを頻発している課長のクレームを受けてばかりの部下がいた。
恐くて課長に言えない部下は係長に泣きついた。
「係長からなんとか言ってくれませんか。」

懇願する人たちの姿を想像すると、私の頭の中には“涙目のとっとこハム太郎”が浮かぶ。
「こんな無力で可哀想な私にどうしろって言うんですか。」
「代わりになんとかしてくれたっていいでしょう。」

そうはいかない。
子どもや制限行為能力者など、自分で自分のことを打開する力が制限されている場合や、
犯罪に関する場合、特殊な専門性を要する場合などは仕方がない。
頼って良いし、いや、むしろ、頼るべきでもある。
しかし大の大人が、自分で受けて立つべきことを“可哀想な私”を使って他者になんとかしてもらおうとするような阿漕(あこぎ)な悪依存にまんまとハマるわけにはいかない。

Once upon a time、敵軍に攻め入られそうになっている領主が、隣国に援軍を求めた。
隣国の将の答えはこうだった。
「貴国の兵があなたを含めて全滅するまでまず自力で戦う気なら兵を出しましょう。
 
そうでなければ、大事な兵士を一人も出すわけにはいきませぬ。」
当然である。
全滅するまで戦う気なら援軍は来るかもしれない。

まず、ホワイトナイトを当てにする前に、覚悟のウォリアー(warrier:戦士)はいませんか?
と私は問いたい。
そこにいるでしょ。

 

 

2019(令和元)年9月29日(日)『初秋の緑風苑ワークショップ』

昨日今日と福島県・磐梯熱海で初秋の緑風苑ワークショップを行って来た。
初めての9月開催で、天気も1日のうちにさまざまに変わったが、概ね暑いくらいの天候であった。

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そんな中、涙あり笑いあり再会ありアクシデントありの1泊2日。
そもそもワークショップは、自分が自分を取り戻そうとし
相手が相手になることを応援しようとする場である。
従って、参加者が参加者に与える影響には非常に大きいものがある。
誰かが真摯にそして果敢に自分自身に向き合おうとすれば、他の参加者に、グループ全体に大きなインパクトを与える。
その反面、もし誰かが神経症的言動をやめようとせず、無力感にとらわれるならば、その悪影響も甚大である(それでは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」の要件に反する)。
改めて各個人の人間力とグループの集団力によってワークショップが作られることを実感した時間であった。
それは到底私一人が操作的に作り出せるものではない。
今回も良き参加メンバーに恵まれたことに感謝したい。

そしてワークショップが終われば皆、日常に戻る。
日常こそが正念場だ。
ワークショップでの体験の感触を胸に、仕事でもプライベートでも自分して行こう。
いつでもどこでも誰の前でも、あなたはあなたなのである。

 

 

2019(令和元)年8月29日(木)『成り下がる前に』

ある臨床心理系の大学院生がやってきた。
彼女の話を信じる限り、彼女が教官から受けている臨床指導は耳を疑うような内容であった。
自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けて、研究のようなものをしても教授や教官にはなれるのである。
少なくとも私は、本当のサイコセラピーを行うに当たって、致命的な“人格”的問題がそこにあると思う。
人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。
世界の大学院教官の名誉にかけて、そうでない大学院もあるし、教官もいると私は信じている。

ある若手精神科医がやってきた。
彼の話を信じる限り、その大学の医局で行われている精神療法研究会の指導は目を覆うような内容であった。
自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けても、わかったようなことを言えるのである。
私は彼に尋ねた。
「あなた自身やあなたの大切な人が思い悩んだとき、その先輩から精神療法を受けたいと思う?」
もう一度言う。
人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。
世界の医局、精神療法専門医の名誉にかけて、そうでない医局、そうでない精神療法専門医がいると私は信じている。

ある精神保健福祉士がやってきた。
彼女の話を信じる限り、その就労支援施設の経営者や先輩たちの働く姿勢は、聞いていて眩暈がするほどひどいものであった。
安い給料、長い残業、名目上の就労率を上げるためのやりくり、利用者の利益よりも経営上の利益を上げるためのエセ福祉施設に成り下がっていた。
そういう話が多過ぎる。
「そんなことをするために苦労して精神保健福祉士の資格を取ったんだっけ?」
絶望してまた他の福祉施設に勤め、また絶望する。
そのうち、どこもこんなものかと思い始める。
世界の福祉施設やそこで働く精神保健福祉士の名誉にかけて、そうでない福祉施設があり、精神保健福祉士がいると私は信じている。

そしてこのような環境に出逢ったとき、各人の取る態度は二つに分かれる。
擦れて染まって魂売って、環境に支配される人間に成り下がるか、
擦れず染まらず魂売らず、どこまでもホンモノを追求する人間となるか。
八雲総合研究所は、後者に逞しきホンモノになってもらうための場所である。

 

 

2019(令和元)年8月16日(金)『直観鑑別』

外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。
食事が始まると、女性の方が大きな声で
「わ〜、これ、美味しい!」
「すっご〜い!」
「ははははは。」
などと何度も声を挙げている。
音量的に大きいは大きいのだが
大して気にならない。
何故ならば、発言に他意がないことがわかるからである。
本来特性である。
赤ちゃんが泣いているようなものだ。
(もしどうしても必要があれば、淡々とマナーを教えてあげれば良い)
気持良く食事をいただいて店を後にする。

そして別の日、別の外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。
食事が始まると、女性の方が大きな声で
「あ〜、これ、何、何、何!?」
「美味し〜い!」
「〇〇〇(本人の名前)はねぇ。」
などと何度も声を挙げている。
音量的にも先の女性と同じくらいの大きさなのだが
その発言がいちいち癇(かん)に障(さわ)る。
発言の裏に動くものがある。
相手の男性はもちろん、音量が届く限りの人間を巻き込もうとする闇の意図が観える(本人が自覚しているか否かは別として)。
これは二次(後から身につけた)特性だ。
これに気づいてもらうのは、ひと仕事である。
この日居合わせた客にも料理人にも惨事であった。

もう何年も対人援助職として働いているのに、この両者の違いがわからない、という人がいた。
感度が鈍い。
余計な塵埃を払って、感度を磨き上げる必要がある。

またある人は、この女性両方に対して腹が立つ、と言った。
埋め込まれた「〇〇のときは〇〇すべきではない」に支配されているために、両者の表面的言動に反応し、その出所(でどころ)の違いがわからないのである。
これまた鈍い。
まず埋め込まれたものを除去する必要がある。

こういうことは、受け売りの知識をつけても、小手先の技術を学んでも、身につくものではない。
場を共にしたマンツーマンの指導、感化、薫習(くんじゅう)が必要である。
そして直観の精度は、この程度ではなく、無限に磨くことができる。
私が専門職に個人的な指導を行っている所以(ゆえん)である。

 

 

2019(令和元)年8月5日(月)『夫婦の温度差』

「夫婦の温度差」と言っても、夫婦仲がどうのという話ではない。
この夏の熱帯夜に、冷房をどこまでかけるか・かけないかの話である。
テレビで取り上げていたのを横目で観ていただけなので、その詳しい内容は理解していないが、気になる箇所が一点だけあった。
夫が暑がりのため夜間冷房をガンガンにかけて、寒がりの妻は寝袋で寝ているという話である。
うーん。
妻が夫に合わせるんだ。
まさか、オレさまにおまえが合わせて当たり前、と思ってはいないよね。
せめて妻が愛する夫のために自ら望んでしていると信じたい。

そうなると、夫婦の温度差の話は、冷房の話ではなく、やっぱり夫婦仲の話になって来る。
愛する相手であれば、相手にしんどい思いをさせたくないと思うよね。
例えば、小さな子どもと寝るとすれば、自分と子どもとどちらに合わせるかは明白だ。
それが妻でも子どもでも、少なくとも私には、相手に合わせさせておいて平気で眠れる神経はない。

などと思っていたら、うちはとっくに夫婦別々の部屋で寝ています、という方がおられた。
合理的ではあるが、夫婦仲としてはちょっと寒い。
少しでも傍にいたかったあの頃は今どこに…。
なんだかきみまろのようになって来た。

ちなみに最近のエアコンは、同じ部屋でも場所により別々の温度設定できるそうだ。
それが現代の無難な解決法なのかもしれない。

 

 

2019(令和元)年7月9日(火)『正しい地口(じぐち)の使い方Ⅱ』

拙欄にも人気ページがある。
例えば、2013(平成25)年12月27日付『正しい地口の使い方』は、いまだに閲覧者数がトップ3内にある。
「そうは烏賊(いか)の〇玉…」の話であるが、読者の方々はこんな話題が好きなのかしらん、と不思議な気持ちになる。

などと思っていたら、たまたま聞いていた三遊亭圓生の落語の中に、面白い地口のセリフが出て来たのでご紹介する。
「下衆(げす)の考えと猫の金玉は後から出て来る」
また「〇玉」の話ですいません。
これはまた変わった地口だ、というわけで由来を調べてみた。
どうやら、子猫においては生まれたときの性別がわかりにくく、オスの場合は、生後カ月経ってから睾丸が下降して体外に出、いわゆる〇玉となってオスであることがわかるようになるのだという。
猫の金玉は後から出て来る、というのは獣医学的事実であったのだ。
そして下衆の考えの方は、下衆=お馬鹿さんなわけであるから、すぐに考えが思い浮かばず、後になってから間の抜けた考えが出て来ても役に立たない、ということであろう。

こんなことを書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを何度も書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、
ここまで読んで来て今ごろになってそう言うのが遅いんだよ!
だから、下衆の考えと猫の金玉は後から出て来るってんだ! 二度と読むなっ!
…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

 

 

2019(令和元)年6月9日(日)『八雲勉強会』

今日は新しく発足した八雲勉強会の第1回目。

4月までの二つの勉強会を統合し、新たな参加者を得、会場いっぱいのメンバーの顔を見たとき、ようやくここまで来た、と私的に感慨深いものがあった。

参加者は皆、面談で話をして来た人たちであるが、この集団にはかつてない「集団力」の兆しを感じたのである。

私が主宰して来た勉強会の歴史は結構長い。

形を変え、テーマを変え、名前を変え、二十五年以上になろう。

当初は私も若く、自分の問題に無自覚な参加者も多かった。

若いからそれもこれも引きずりながら突っ走れたが、まだ集団が成熟していなかった。

「集団力」とは、集団の参加者一人ひとりが成長することによって(私が介入しなくても)新たな参加者に対して、そして参加者相互に、感化力を持つようになることをいう。

集団が集団を育てて行けるようになるのである。

そうなれば理想的だ。

今はまだ「兆し」だけれど、ここに来てようやく「集団力」の芽生えを感じ、長くやっていると良いこともあるんだなぁ、という思いを強くした。

もちろんその力はあなたの力ではない。

あなたを通して働く力だ。

そこのところはしっかり押さえておこう。

それも踏まえて、さて、面白くなるのはこれからだ。

来月からも近藤先生の講演に刺激され、共に成長して行きましょう。

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。