八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「松尾芭蕉が

『よく見れば 薺(なずな)花咲く 垣根かな』

と歌っています。ここで一番大事なのは、いつも何気なく見過ごしているのに、ふと気が付いてよく見ると、今まで気がつかなかったのにそこの垣根になずなが咲いていたという驚き。これはこの人の有名な

『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』

とも同じです。蛙が池にポンと飛び込んだ時に、これが実に深く、ピィーンと自分の胸に深く染み渡るその感動、それはこれまでは全く気がつかなかった気持ちでしょう。同じくよく挙げられる句ですけれども、

『山路来て 何やらゆかし すみれ草(ぐさ)』

山道をどんどん歩いて来て、くたびれてほっとひと休みした時に、ふっと見るとそこにすみれが咲いている。思いもかけない発見です。ただすみれと言えばすみれですが。そんなところにもすみれをすみれとして生き生きと活かしている力が私達の胸に伝わって来るのではないでしょうか。それに芭蕉は感動したと思うのです。これら全て素晴らしく元気に生き生きと活かされているものに、我々すべてを生かして下さる自然の大きな力を感じるのであります。これを仏と言い神と言い、何と言っても良いのです。概念なんかどうでもよろしい。問題は私達が活かされている有り難さを感じるかどうかです。この感じる力があれば、必ず、あなた方は何かぐぅっと本当に腹に落ちる、腑に落ちるものを感じることが出来るでしょう。頭でもなく理屈を言うのでもないのです。自分で『本当にこうだ』と感じるものがあるはずだと思うのです。
最後に、又一つ芭蕉の句、

『やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の聲(こえ)

蝉は何十年も地中に沈潜して出て来る時を待っています。しかし一度出て来ても、その命は僅かなものです。人間の命と比べれば非常に僅かなものです。僅かだけれども、それを本当に『やがて死ぬ景色も見えず蝉の聲』でミーンミーンとないて、本当に精一杯生きている。それこそ本当に素晴らしい姿ではないでしょうか。そこに蝉の全存在を生かしている大きな力を感じるのです。蝉を生かして居る大きな力、そしてそれと同様に我々も生かされている大きな力、それをあなた方が自分も共感して自分も有り難く生かされていると感じたときに、初めてあなた方は宗教といわれているものに初めて目覚める、気が付くことになるのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

その一生が長かろうと短かろうと関係ない。
自分を超えた大きな力によって自分の全存在を精一杯に生かされている瞬間の体験があるかないか、これがすべてなのです。
その体験がない一生であるならば、3万年生きても仕方がない。
その体験が一瞬でもあれば、もういつ死んでもいい。
だから、「やがて死ぬ景色」などどうでもいいのです。
これはかつての『不惜身命の世界』と同じ話になるのです。
ある辛い境遇にある方が念仏をして「本当に有り難いんです。」と二度繰り返しておっしゃいました。
そうです。その方には“本当に有り難い”体験の瞬間があったのです。
私たちはその体験をするために生命(いのち)を授かりました。その体験をするために生れて来たのです。

そして、その体験を授かって初めてあなたもアンパンマンに答えることができることになりますね。


 

ルッキズム(lookism)、外見主義という言葉がある。
我々が他者からどう見えるか(見られるか)、あるいは、他者にどう見せたいか、ということに価値を置いていることは、紛れもない事実である。
そうでなければ、化粧品は売れないし、美容整形も流行らない。
雑誌の表紙は概ね、美男美女であり、わざわざブランド物を着て、スーパーカーに乗るのも他者に見せるためである。
ある女性は、新型コロナウイルス感染症の予防接種に行ったとき、注射をしてくれた女性看護師が、同性の眼から見ても美人であったために、痛さが半減したと言っていた。
そういう姿勢を軽佻浮薄と非難する人もいるが、そんな人でも桜は美しいと愛でるであろう。
外見的美観(何が外見上美しいと思うか)に個人差はあるが、外見上美しいと感じることに価値を置くのは、そんなにおかしいこととは思えない。

要は、外見主義が、外見至上主義になって来るか否かである。
至上では困る。
外見(looking)は、たくさんある要素のひとつに過ぎない。
例の「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌詞がある。
観ている(「見ている」ではない)のは外見ではない。
ドブネズミを純度100%のドブネズミさせているものを感じて「美しい」と言っているのである。
そういう感性を持っていれば、巷のルッキズムにそれほど目くじらを立てなくてもいいのではなかろうか。
それはそれとしてのルッキズムに付き合いながら、外見を引っぺがしたものを感じていればいいのである。

 

 

今日は令和6年度6回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目に続いて6回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたい。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

b.自らに対する神経症的要求 neurotic shoulds

「仮幻の自己」の実現に対する試みは、又自分自身に対して、「汝かくあらざるべからず(shoulds)」も形を取って要求を提出する。その要求は厳格且つ無慈悲である。それは絶対命令であり、その意味で強迫的である。彼の全ての行動はこの要求に応えねばならない。それは可能か不能かを問わない。勿論、彼の現実の心的状況も、感情も顧慮に値しない。それは寧(むし)ろこの要求の前に無視され、抑圧されねばならない。
 この shoulds の命令に対して、攻撃的な拡大的タイプの人間は、一切のそれに反する要素を抑圧して、全能的な存在そのものであることを確信せねばならぬし、依存的な縮小的タイプの人間は自分を常に完全な愛の具現者として、他人の犠牲となり、しかも常に卑下して卑小なものとして自分を感じなくてはならないのであり、更に、孤立的な限定的タイプの人間は、あらゆる外界からの圧迫に対して、独立と自由を守る人間として抵抗し、反抗し、しかも自己内界の平静を持する人間として自己を表現しなくてはならないのである。
 この要求のもたらす結果は、次第に彼は自分自身の自然な感情や考えを抑圧し、最後に自分らしい感情や思考をもつ能力を麻痺させると言う、恐るべき状態をもたらすと共に、逆に shoulds の命令によって形作られる仮構された感情や思考を、自分の自然なものと考える様になるのである。かくて患者の言を借りれば「自分は何を本当に感じているか判らない。まあ感じなくてはならないから感じているのですよ」と言うことになるのである。

 

「ニセモノの自分」「仮幻の自己」は、自分自身に対して「~であるべき」「~でなければならない」の形を取って、さまざまな要求をして来る。
これもすべては「仮幻の自己」を実現するためである。
「真の自己」の実現を許されなかった人間にとっては、「仮幻の自己」を実現するしか生き残る道はなかったのだ。
自己拡大的支配型の人間は、全能的な存在でなければならないし、
自己縮小的依存型の人間は、完全な愛の具現者として犠牲的でなければならないし、
自己限定的断念型の人間は、あらゆる圧迫から独立と自由と守る人間でなければならない。
そして、その shoulds が進めば進むほど、自分がどう感じるべきかはわかっても、自分が本当は何を感じているかがわからなくなってしまい、自らに対する神経症的要求(neurotic shooulds)は、「真の自己」を闇の底に葬り去ろうとして行くのである。

 

 

「そういう意味でこの『なにごとの おはしますかは 知らねども』という気持ちが素直に有るのが田舎だと思います。古い大木にはしめ縄を張り、お賽銭箱があってお花を供えたりしてあります。皆さん御存知の例えば有名な華厳の滝、華厳というのは仏教の『華厳経』からきたのだと思いますが、仏教から頂いた有り難い名前を付けているのは、そこに神聖なものを感じるからなのです。これは日本人としては当たり前の話ですね。そういう意味で、東洋人はこの宇宙や、その中の一つである地球上にある全てのものがみんなそれぞれが或る何か目に見えない、頭では解らないものを持っているのを感じるのです。それを魂と呼べば、そういう何かのものを持っている、木でいえば木魂(こだま)とかですね。水は水の神様、火は火で荒神(こうじん)さま、今まではこういう木魂とか水神さまや荒神さまは日本の至るところにありました。なにか日本の国はそういうものを持っているわけです。つまり本来的に日本人と言うのは、すべてに、火にも石にも木にも、そこらの中にある万物、草木植物、全てに何か大きな精神性、を感じてるのだと思うのです。あなた方がそういう眼で見られると、例えば自分の庭に咲いた一つの菊の花でも、その生きている姿から、そこに籠っている何かを感じられると思います。そうしますと、あなた方は何か、自分も生かされ、又自分も生かし、又その花も活かしている、そういったものを必ず感じられます。じっとその花を見つめてホッとする心、それが本当に花を愛し、花を愛(め)でる気持ちだと私は思うのです。
我々が自分がそういう気持ちを持っていることを感じ、ハッと気が付く時があるんですね。これが敏感さです。今まで何十年連れ添っていた女房が、何か言った時、それまで気が付かなかったことにふっと気が付かされ、あぁこれは不可思議な縁だなぁと思う時もあるのです。そろそろ私のようにこの世におさらばしようとする歳になると、そんなことを感じます。年寄りだから鈍感になるかと言いますとそうじゃなくて、逆にそういうものに対して敏感になるものなんです。若い方だけが異性に対しては敏感なわけじゃないんですよ。長い間連れ添っているとやっぱり違います。何でもない一寸(ちょっと)したことにもパッと感じるものなんです。そうした感じることが大事なんですね。ふっと気が付く。今まで気が付かなかったことにふっと気が付く。その時、ときには感動して涙が滂沱(ぼうだ)として流れる時があります。このように心から感動する気持ちを持つことこそ、正に生きているということではないでしょうか。この生かされている喜びを心から有り難く感じられるのはそういう時だと思います。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

感じるか感じないかによって、敏感さがあるかないかによって、この世界に生きることの豊かさがこんなにも違って来るのかと思います。
皆さん、最近、そんな瞬間がありましたか?  今まで気づかなかったことにふっと気が付いて、心からの感動に包まれるような瞬間が。
そんな瞬間のない人生は寂しいですよ。
だから、深く丹田呼吸をして、あなたのまわりにいる人に対して、そして、あなたのまわりにある万物に対して、まずは手を合わせて頭を下げてみましょうよ。
その丹田呼吸と合掌礼拝(らいはい)が、いつの間にか鈍化していた、あなたの「感じる力」をリセットし、必ずや敏感にして行ってくれると思います。
但し、1回や2回ではなくて、繰り返し繰り返し、何回も何回も、ね。
そうして、それが
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
の世界に、敏感さと霊的感動の世界に、あなたを連れて行ってくれるでしょう。

 

 

 

就職活動をしている青年から、進路選択について訊かれた。

仕事ということについて核となるところは既に『仕事観』に書いたので、今回は少し切り口を変えて彼に話してみた。

まず「収入のために働く」という観点からの選択がある。
それならば、働く時間はできるだけ短く、あるいは楽で、給料はできるだけ多いところを探せば良い。
最近は、「最低限食べて行ければ良いです。」「できるだけ働きたくないです。」という人たちも増えていると聞く。
あなたの人生だ。
あなたがそれで良ければ、
自己責任において、その観点で探せば良いと思う。

二番目に「やりたいことをやるために働く」という観点からの選択がある。
日本も欧米並みに個人主義的となり、「なりたい自分になる」「生きたい人生を生きる」という自我中心的な生き方が市民権を得て来たように思う。
それはそれで、自分以外の誰かに隷属したり、他者評価に支配されたままで生きるよりは結構である。
自分が本当は何がしたいのか、を見つめてみれば良いと思う。
ただ現実には、やりたい求人がないときもある。
また、あっても採用されない場合もある。
一旦勤めてみたが違っていた、ということもある。
あなたが本当にやりたい仕事を求めるならば、自己責任において、これがやりたかったんだ、と感じるまで探し続ければ良いと思う。

そして三番目に、「自分の生れて来た意味と役割、ミッションは何か」という観点からの選択がある。
「自分がやりたいこと」と「ミッション」とは必ずしも一致しない。
そこが二番目の観点との決定的な違いである。
例えば、サイコセラピストになることがミッションの人がいる。サイコセラピストになることがミッションでない人もいる、どんなに本人がなりたくても。しかしその人には国際公務員や実業家やパティシエになるミッションがあるかもしれない。
そもそも最初から自分の「ミッション」がわかっている人はほとんどいない。
働いてみながら、そして「本来の自分とはなんぞや」「自分のミッションはどこにあるのか」を求め続けながら、試行錯誤して行くことになる。
これは多数派の人が歩む人生とは違う人生になるかもしれない。
それでも、あなたがミッションに生きることを求めるならば、自己責任において、自分に与えられたミッションを見い出すまで求め続ければ良いと思う。

そう答えて、あとは二十歳を過ぎた彼にまかせることにした。

 

 

「私は最近アメリカから帰って地方に行きましたが、面白いことに立派な木や石に縄をめぐらし、手で作った白い紙が付いています。しめなわですね。これはつまり神聖なものの印です。日光の中禅寺湖の付近に行かれた方は御存知でしょうけれども、立木(たちき)観音が彫られておるのですね。木の幹と観音様、日本人にとって何の矛盾もないんですね。木が観音様、木に観音様がいらっしゃる、木と観音様が一体になっているのです。同じ意味で、石や岩が、なんかとっても有り難いものとして祭られているところもあります。そういう場所に行きますと誰が上げるのかお賽銭やお花が上げてあるのです。そこにお賽銭が上げてあるというのは、やっぱり人々が手を合わせているのでしょう。そういう意味で、日本人には何というのか、自然に対して、つまりその中にある力、そこに潜んでいる大きな力、そういうものに自ずから頭を下げ祈る気持ちがあるのだと思います。
皆さんに、年を取った方ぐらいしか覚えていないような歌がありますから、紹介いたします。若い人は覚えておいてくださいね。そういうものは我々の祖先がやっぱり感じたことなのです。こういう歌があります。

なにごとの おしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

実はこれには、その瞬間に感じた素直な、そして非常に純真な気持ちがすっと出ていると思います。これが日本人の気持ち、本音なんです。そこには肉眼では見えないもの、しかし何か感じられるものに対する率直な素直な敏感さ、そしてそういうものに対する自然は礼拝の気持ち、それに対して自ずから頭を下げる、これが日本人の真骨頂だと思うんですね。殆どの日本人はそういうことを自然に行います。欧米人は大体理屈ぽくて、これはこういう訳でこうなんだと、理屈で攻めて頭でちゃんと納得しないと、絶対に認めないのです。「なにごとの おしますかは 知らねども」ではいけないんです。それは一体何だと言うわけです。日本料理を食べるとき、これは一体何を使っているのかと必ずきます。つまり、必ず理屈がともなわないといけないのです。私に言わせれば、直感力が不足なんです。物をスカッと見る、スーッと感じることが出来ない、感受性の不足ということですよ。もとより例外もありますが、私は、何時も外国の方々とお話をしていて強く感じます。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

西行が伊勢神宮に参拝したときに詠んだのではないか、と言われる上掲歌は、何度読んでも心に深く響くものがあります。
別に伊勢神宮でなくてもいいんです。
本当は、いつでも、どこでも、誰に対しても、何に対しても感じられるはずのことですから。
でも、特に感じやすい人や物、そして場は、あるかもしれませんね。
それがわかる。
なんとなくわかる。
頭や理屈でわかるのとは違うんです。
それが日本人の、正確に言えば、日本の風土で育った者に授かった“感じる力”なのです。
外国人の中にも、ホーナイのように敏感な人もいますが、近藤先生のおっしゃる通り、これはやはり日本人の真骨頂だと思います。
ですから、例えば、サイコセラピーに携わるとき、セラピストにこの敏感さがあるかないかで、全く違う展開になるであろうことは容易に想像できると思います。
だから、絶対に必要なんです、セラピストが“感じる力”を磨くことが。
そうは思いませんか?
いやいや、セラピストだけじゃない、親にも、教師にも、社長にも、すべての人にこの“感じる力”は必要だと思いますね。

 

 

労働の対価としての報酬を受け取るために働いている、という人がいる。
全くもって正論である。
それで結構な人は結構である。

しかし、私はそれではとても寂しく、全然物足りない気持ちになってしまう。
貴重な人生の時間を切り売りして対価を得るというのであれば、働いている時間はどうしても「世を忍ぶ仮の姿」、「死に体(たい)」の時間、「ゾンビ」の時間と化してしまう。
だからこそ、ワークライフバランスなどと言うのである。
収入のためにイヤなことをやっているワークはできるだけ短く、好きなことをのびのびとやれるライフはできるだけ長くと願うに決まっているのだ。
私は、一回しかない人生の貴重な時間を1秒たりとも、そんな仮死状態のような時間にしたくない。

そもそも仕事をするということは、今回の人生において自分に与えられた意味と役割を、ミッションを果たすためにある。
そしてまた、この娑婆の中で働くということは、漏れなくイヤなヤツと変なヤツに出会わざるを得ないであろうから、いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいられるという“勁さ”を養うため、自分が自分でいるという幹を太くして行くためにあるのだ、と私は思っている。

わかりやすいリトマス試験紙がある。
その人の仕事観をみるには、こう尋ねてみれば良い。
「あなたは10億円の宝くじが当たっても今の仕事を続けますか?」

私は10億円が100回当たっても、この仕事を辞めたくないし、絶対に辞めない。
いや、それだけのお金が転がり込んでくるということは、またどんなミッションがあるのだろうと思って、さらに打って出るかもしれない。

あなたがこの世に生を受けた以上、絶対に意味と役割が、ミッションがあるんです。
(意外なところに、意外な形で、あったりもしますが)
それを忘れないでいただきたいと強く強く思います。

 

 

ドブネズミみたいに美しくなりたい

という歌があった。
これが

サクラみたいに美しくなりたい

だったらどうだろうか。
サクラは元々誰もが美しいと思っているので、一気に歌詞のインパクトはなくなってしまうだろう。

しかし、その深意には
サクラがサクラしているときが最も美しく
ドブネズミがドブネズミしているときが最も美しい
という美観がある。

これは
サクラは美しく
ドブネズミは醜い
とは異なる美観である。

サクラがサクラして美しく
ドブネズミがドブネズミして美しいのに
我々は人間は、自分しておらず、なんと醜いのだろう。
だから
ドブネズミがドブネズミして美しいように
私も私して美しくなりたい
という歌詞なのだ。

だから
ドブネズミがドブネズミしているとき
ドブネズミがドブネズミさせられているとき
ドブネズミを通して現れるやさしさもあたたかさも、この上なく純なものだから(そこに意識も努力もはからいもない)

ドブネズミみたいに誰よりもやさしく
ドブネズミみたいに何よりもあたたかく

という歌詞になるのである。

敢えてそこに、一般には醜いと思われているドブネズミを出して来る。
敢えて非常識を打ち出して、常識を打ち破り、真理に迫る。
ここらはかの一休宗純さんが得意とした表現である。

だから、周囲から否定され、顧みられず、蔑(さげす)まれている人たちがこの歌を好み、ドブネズミに自分を投影して、オレたちだって/ワタシたちだって美しいんだよっ!と主張するというのとは本質が異なる。

あなたがあなたしているとき
あなた絶対的に!美しいんです、ドブネズミのように。

 

 

だから、死ということは、人間がもし本当に自分を充実させて、そして、自分を充実させるっていうことは、どういうことかっていうと…僕はこう言いましたね、自分の生命を尊重するのと一緒に他人の生命も尊重する、と言いましたね。他人の生命の尊重ということ、それから尊敬と、そういうものが僕は愛だと思う。だから、つまり、そしてお互いに尊敬し、mutual(ミューチュアル)に尊敬し合うということ、そういうことがね、人間と人間の本当の交わりの元になると思うんです。そういうものがね、例えば、僕は、結婚でも、恋愛でも、お互いの間の尊敬がない関係っていうものは崩れて行く関係だと思う。お互いの生命に対する本当の尊敬があって、そこに何かお互いに頭を下げ、合掌し合うような、そういうものがあったときに、それは永続性を持つと僕は思う。
だけども、そういう意味で、この、人間は一人で生きるわけじゃなくて、共に生きるということを…人間っていうものは、本当に人間として生きる場合に、人間というように、日本語が言っている、人の間です。つまり、人と人と、お互いにですね、間柄を持って生きるということ。そういうときに初めて生きるということになる。ですから、今言ったように、本当に自分の一生を生きるというときには、人をお互いに愛し合って、愛情を持ち、愛し合ったところの、愛する関係っていうものがなきゃいけないと思う。これはやっぱり人間として非常に大事なことじゃないか、基本なことじゃないか。だから、それは生命を愛することから出発して、それを基礎とした愛するということですね。そういうものが、僕は、あって初めて、それを本当に生きたときに、死ぬるということは、本当は、そんなに恐ろしくなくなると。
つまり、もうひとつ言い換えてみましょう。仏教的に言えば、この生命は与えられたものです。与えられたものだから、我々の、つまり、勝手に殺したり、処分できない。与えられたその定めに従って、与えられた意味に従って、その意味を充足さすことによって、そして終わるべきときに終わると、いうことが、私は、死だと思う。だから、はっきり言えば、本当に、その意味では、自分の与えられた生命を与えられたものに返して行くわけで、だから、自分はそんなことについて余りこだわらなくていいと思うんですよ。ただ、自分に与えられた責任、与えられたものを尊敬し、それを尊重し、大事にして行く。たったひとつしかないこの生命(いのち)の機会を大事にして行くということが、そういうことが大事だと私、思うんですね。まあ、私は、そういうことをちょっと補う意味で、あの、補足致します。最後のは、あなた方に対する問いかけであるし、それに対するいろんな、僕は、考え方がある思いますが、率直に私の気持ちを申しあげておきます。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

前回(金言を拾う その33)で、「そもそも何のために授かった生命かがわかり、その生命を生きたとき、我々の生命は永遠のものとなる」ということを書きました。
それだけでも大変有り難いことではあるのだけれど、それでは自分だけしか救われない。
厳しく言えば、甚(はなは)だ利己的な結論と言わざるを得ない。
よって、そこに留まらず、縁あって出逢った他人の生命への尊重、尊敬が溢れ出す、我々を通して湧き出して来る、そういう展開になら
なければ、利他的にはならないのである。
そしてさらに、その利他と利他とが出逢うとき、それは相互的となる。

「お互いの生命に対する本当の尊敬があって、そこに何かお互いに頭を下げ、合掌し合うような、そういうものがあったときに、それは永続性を持つ」
そうなって初めて、人間と人間との本来の世界=唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)が転法輪する世界が顕(あきら)かになるのではないか、と私は思っている。

 

 

 

ふと気になって『新約聖書』(文語訳)を開いてみた。

マタイ傳福音書に
「人もし汝(なんじ)の右の頬をうたば、左をも向けよ。」(第5章39節)  
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(マタイ第5章44節) 
「これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。」(第5章45節) 
とある。

また、ルカ傳福音書には
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを憎む者を善くし、汝らを詛(のろ)ふ者を祝し、汝らを辱(はづか)しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。」(第6章27~29節
「汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。」(第6章36節
とある。

これ、あなた、できます?
敵を愛せますか、心の底から?
例えば、あなたの一番大事な人を凌辱したり殺したりした相手でも。
よっぽどの偽善者でない限り、できるとは言えないでしょう。

そう。
勘の良い方は、かつて小欄に書いた『戒 私論』を思い出されたのではないでしょうか。

これらの聖句が示されたのは、それを実践することは、おまえらには無理だ、自分には無理だ、ということを愚かな人間どもに徹底的に思い知らせるためなのです。

そうなると、我々が進む道はひとつしかなくなります。
自分でなんとかできないのだから、自分を超えたものにすがるしかない、おまかせするしかない。
それが「御心(みこころ)のままになさしめ給え」であり、仏教でいう「南無」なのである。
神の御業(みわざ)が迷える子羊を通して行われることを「父の子となる」「父の慈悲のごとく、汝らも慈悲なれ」と言われているのである。
そうすれば、汝の敵を愛する、という奇跡が行われるかもしれない、人間の力ではなく、神の御業によって。
(ここらを勝手に解釈できるところがクリスチャンでない私の特権である)

昔、右浅側頭静脈あたりをヒクヒクさせながら、憎い相手のことを無理矢理頑張って愛そうとしているクリスチャンの友人を見かけたことがある。
偽善者になろうとするのはおやめなさい、
自力、我力、人力では不可能なことを認めて祈りなさい、
とクリスチャンでない私が彼を説教したのでありました。
それも実は、私にそう言わせたのは、私ではないんだけどね。

 

 

「あの、有名な雪山童子(せっせんどうし)っていう話があるんですがね、仏典の中にね。それはね、羅刹(らせつ)(悪鬼)がいるんですね。そこへ道を求めて、童子が行くわけです。そうしますと羅刹がね、おまえがもしも自分の体を自分に食べさせれば、私は真理をおまえに与えてやろう、とこう言うわけです。この場合、問われているのは、その人の生命ですね。そのときに童子は自分のそれを施身(せしん)、つまり、自分の体を施(ほどこ)してね、そして羅刹の餌食(えじき)になろうとしたわけです。その途端に、羅刹帝釈天の形になって、そして、本当にその童子に、有名な句ですが、ひとつの真理を教えてくれたという譬(たと)えがありますねそういう意味で、私たちは、本当の人間になるためには、場合によれば、そういうことも必要な場合もあります。私はこれを非常に強く言うわけではありませんよ。…
で、今…いわゆる施身聞偈(せしんもんげ)というふうなことをちょっと申しあげましたけども、こういったことは、生命ということは、生命はなんのためにあるか、というふうなことを考える上での、ひとつの参考に申し上げましたけども、私は、これから少し、なんて言いますか、暴論を吐きます。私の率直な感じを申しあげるんですけど。私たちは生命を与えられたものだと思うんです、私は。その与えられた生命ですが、これの中には素晴らしい可能性が宿っていると私は思うんです。改めて我々のめいめいに与えられた生命の値打ちというものを、その可能性をじっくりこう考えてみる必要がありはしないか。これ、一回しかない。この一回しかない生命というものが与えられているということの重要性というものは非常に大事だと思う。その生命を、今までの我々の先輩は、今の施身聞偈の例にあるように、本当の真理を求めるためには投げ出しても構わない。ということは、つまり、我々の生命というものが何のためにあるかということを、ひとつ、示唆していると思うんですね。
よく不惜身命(ふしゃくしんみょう)、身命を惜しまず、身や命ですね、身命を惜しまず、という言葉があります。その後に続くのが、ただ身命を惜しめ、と(「不惜身命、但惜身命(たんじゃくしんみょう)」(道元『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』))。矛盾してますね。身命を惜しまず、ただ身命を惜しめ。ただ身命を惜しめ、の方が今の場合、注釈が必要だと思いますが、私の考えでは、この与えられた生命の素晴らしい可能性ということに気がつけば、その身命を本当に惜しんでも惜しんでも足りないもんじゃないかと、こんなふうに思うんですね。一人ひとりが自分の中に、自分の中に宿ってる、そういった生命の尊厳と尊さ、その猛烈な持っている可能性というものを本当に感じたときに、この一日を、この一瞬を、この生命が生きる一瞬というものを本当に生きるときに、永遠に通ずるものがあると思うんです。
だから、死をなんとかコントロールしよう。死んでも生きてやる。まあ、極端に言うとね。死んでも生きてやるってのはありますよ。…なんか知らんけど、人間ってのは、そういう形で、死っていうものを生によって塗りつぶそうとするわけ。だけども、それがひとつの生に対するこだわりですね。執着です。しかし、その生というもののね、何故執着するかというと、先ほど僕が言ったように、その人の生が本当に十分に生きられていない場合に、生を失うまいとするんじゃないかと。本当に自分が充実して生を生きて、生の意味を果たし、人間としての本当の生命を発展させて生きているときには、恐らく…坂本龍馬じゃないけども、途中で死んでも悔いがないだろうと思う。…
死ぬことが生きることで、生きることが死ぬことの場合もある。そういうふうなこともある、ということを言いたいんです、僕はね。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

近藤先生が「私はこれを非常に強く言うわけではありませんよ」とか「暴論を吐きます」と慎重に言葉を選びながらおっしゃっているが、
「一人ひとりが自分の中に、自分の中に宿ってる、そういった生命の尊厳と尊さ、その猛烈な持っている可能性というものを本当に感じたときに、この一日を、この一瞬を、この生命が生きる一瞬というものを本当に生きるときに、永遠に通ずるものがある」
その人の生が本当に十分に生きられていない場合に、生を失うまいとするんじゃないかと。本当に自分が充実して生を生きて、生の意味を果たし、人間としての本当の生命を発展させて生きているときには、恐らく…坂本龍馬じゃないけども、途中で死んでも悔いがないだろうと思う
死ぬことが生きることで、生きることが死ぬことの場合もある
から先生の真意がわかる。
そもそも何のために授かった生命かがわかり、その生命を生きたとき、我々の生命は永遠のものとなる。
そのためにはいつ死んでもかまわない。
反対に、
その人の生が十分に生きられていない場合に、その人は生に執着する。
即ち、生物学的に死ぬことによって、永遠の生命に生きることもあれば、
生物学的に生きることに執着することによって、永遠の生命を失うこともあるのである。
さらに話を進めれば、
「身命を惜しまず」、本当の意味で、身命を惜しまないということは、永遠の生命に生かされているという真実を体験するためであれば、この身命も惜しまないということであり、
また、「身命を惜しめ」、本当の意味で、身命を惜しむということは、
永遠の生命に生かされているという真実を体験するために、この身命を惜しんで生きよ、ということなのである。
即ち、「不惜身命(身命を惜しまず)」いうことと「惜身命(身命を惜しめ)」ということが、実は同じ方向性を持った言葉であったということになる。
そう思うと益々「不惜身命(しゅしゃくしんみょう)、但惜身命(たんじゃくしんみょう)」(身命を惜しまず、但し、身命を惜しめ)という言葉は、流石、道元と言わざるを得ない。

 

 

 

ジャータカとは、釈尊の前世の物語。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われ、このような輪廻転生を繰り返して、やがて釈尊として生まれた、というお話。
輪廻転生があるのかないのかは知らないが、ジャータカに込められた意味は掴むことができる。
近藤先生の講演録からの「金言を拾う その32」の前置きとして、3日間に渡って釈尊のジャータカをご紹介して来たが、今日はその3日目最終日。

 

【3】雪山童子(せっせんどうじ)の施身聞偈(せしんもんげ)の話。
出典:涅槃経(ねはんぎょう) 聖行品(しょうぎょうぼん)

ある菩薩が雪山(せっせん)(ヒマラヤ山脈)で修業を重ね、雪山童子と呼ばれていました。
その様子をご覧になっていた釈提桓因(しゃくだいかんいん)(帝釈天)が、修行の心が堅固であるかどうかを試すため、恐ろしい羅刹(らせつ)(悪鬼)に姿を変えて、童子に迫り、声高らかに「諸行無常(しょぎょうむじょう)」(諸行は無常なり)「是生滅法(ぜしょうめつほう)」(是(こ)れ生滅の法なり)と唱えました。
これは過去の仏たちがお説きになった仏教の真理を示す偈文(げもん)の前半部分でした。
これを聞いた童子は、この尊い教えを一体誰が唱えているのであろう、とあたりを見回しましたが、それらしき人は見当たりません。
ただ谷底に恐ろしい羅刹がいるばかりでした。
このような偈文を羅刹が唱えるわけがないと思いましたが、まわりを見ても誰もいないので、羅刹に尋ねました。
「言ったのは確かに私だが、この数日、何も食べていない。空腹で偈文どころではない。」
「それでは、何をお食べになりたいですか? 何でも差し上げましょう。」
「そうか。それほどまで言うのなら、私が食べるのは人間の生肉と生き血なのだ。今は飢えに泣いているような始末だ。」
「わかりました。それでは私の身体(からだ)を差し上げますから、どうか後の半偈をお聞かせ下さい。」
羅刹は厳(おごそ)かに後の半偈である「生滅滅已(しょうめつめつい)」(生滅を滅し已(おわ)りて)「寂滅為楽(じゃくめついらく)」(寂滅を楽となす)と唱えました。
童子はその偈文を聞くと、至るところの木の幹や石に書き付けました。
そして樹上より飛び降りて、その身を羅刹に捧げました。
その瞬間、羅刹は元の
釈提桓因の姿に戻り、両手で童子の身体を受け止め、地上に下ろしました。
真実を究めようと修行し、半偈のために身を捨てた雪山童子とは、釈尊の前生(ぜんしょう)の姿だったのです。

 

(以上、この話にもいくつかのヴァリエーションが存在するが、今回は特に薬師寺のサイトの文章を下地にさせていただいた)

 

なんのために生れて
なにをして生きるのか
こたえれないままおわる
そんなのはいやだ

アンパンマンのマーチを待つまでもなく、それが我らの出生の本懐である。
それが体験・体得できたならば、今回授かった生命を大いに生きたことになり、最早いつ死んでも悔いはないのである。
長命、長寿も有り難いことではあるが、そもそも何のために授かった生命なのか。
雪山童子に「思わず」「躊躇なく」その身を差し出させたものもやはり童子を通して働く大いなる生命の力であった。
その本質については、明日の近藤先生の言葉を待とう。

 

【附記】この『雪山偈(せっせんげ)(諸行無常偈)』(諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)を和歌にしたのが「いろは歌」だと言われています。
ちなみに、「いろは歌」は、一説に空海の作とか、柿本人麻呂の作とか言われていますが、実際の作者はわかっていません。

いろはにほへと ちりぬるを   色は匂(にほ)へど 散りぬるを
 花は艶(あで)やかに咲き誇っても、やがて散ってしまう 
 
諸行無常(諸行は無常なり)  作られたものはすべて無常である

わかよたれそ つねならむ    我が世誰ぞ 常ならむ
 私たちの人生も同じく無常です
 是生滅法(是(こ)れ生滅の法なり)  生じては滅していくことを本性とする

うゐのおくやま けふこえて   有為(うい)の奥山 今日越えて
 万物で満たされたこの迷いの山を今日こそ越えて
 生滅滅
已(生滅を滅し已(おわ)りて)  生滅することがなくなり

あさきゆめみし ゑひもせず   浅き夢見じ 酔ひもせず
 浅くはかない夢を見て酔っていないで、真の安らぎを学びましょう
 寂滅為楽(寂滅を楽となす)  静まっていることが安らぎである

 

※ちなみに、前回の「薩埵太子の捨身飼虎」の話と今回の「雪山童子の施身聞偈」の話は、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)に描かれている。
 

 

ジャータカとは、釈尊の前世の物語。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われ、このような輪廻転生を繰り返して、やがて釈尊として生まれた、というお話。
輪廻転生があるのかないのかは知らないが、ジャータカに込められた意味は掴むことができる。
近藤先生の講演録からの「金言を拾う その32」の前置きとして、3日間に渡って釈尊のジャータカをご紹介する、今日はその2日目。

 

【2】薩埵太子(さったたいし)の捨身飼虎(しゃしんしこ)の話。
出典:釈尊のジャータカに登場する話だが、『金光明経(こんこうみょうきょう)』では、同じ話が
薩埵太子=大勇(だいゆう)として描かれており、こちらの話の方がわかりやすいので以下に示す。

インドに大事(だいじ)という名前の王さまがいました。
この国は富み栄え、いつも正しい仏教の教えをもって国民を導いていました。
王さまには3人の王子がいました。
長男は大渠(だいこ)、次男は大天(だいてん)、三男は大勇という名前でした。
ある日、3人で森に遊びに出かけました。すると7匹の子虎を連れた母虎が、親子ともどもに飢えて痩せ衰え、餓死寸前になっていました。
飢えのあまり、あわや我が子を食べようとしている母虎の様子を目(ま)の当たりにし、
大渠と大天の2人は憐(あわれ)みの心を起こしましたが、「虎は、豹(ひょう)やライオンと同じく、生肉や生き血を食べている。私たちはこの虎の飢えを救うことはできない。」と三男の大勇に言い、その場を立ち去ってしまいました。
人はみな自分のことのみを愛して他者を省みず、大慈・大悲によって我が身を忘れて他を救うような人間はいない、のがこの世界の実情です。
しかし大勇は、思わず、そして躊躇(ちゅうちょ)することなく、虎の前に身を投げ出しました。
すると虎は直ちに飛びかかって、その血肉を喰い尽くし、あとには白骨が散らばるだけでとなり、母子の虎は飢えから救われたのでありました。

 

(以上、この話にもいくつかのヴァリエーションが存在するが、今回は特に薬師寺のサイトの文章を下地にさせていただき、松田が改訂した)

 

この話も、薩埵太子=大勇自身が思案し、自分の意志に基づいた決断によって、母虎の前に身を投げる、と解されている場合が多い。
となれば、それは自力の話である。
大勇が“ご立派”という話になってしまう。
それでは浅過ぎる。
大勇の自力ではなく、大勇を通して働く力が、そうさせたのである。
だから、「思わず」「躊躇することなく」が成立するのだ。
これもまた、ベタベタの情だけで読んでは薩埵太子=大勇に申し訳ない。
このジャータカも、偉い話でも、可哀想な話でもなく、ただ尊く、美しい話なのである。

 

 

ジャータカとは、釈尊の前世の物語。前生譚(ぜんしょうたん)とも言われ、このような輪廻転生を繰り返して、やがて釈尊として生まれた、というお話。
輪廻転生があるのかないのかは知らないが、ジャータカに込められた意味は掴むことができる。
近藤先生の講演録からの「金言を拾う その32」の前置きとして、今日から3日間に渡って、釈尊のジャータカをご紹介する。

 

【1】『月のウサギ』の話  出典『今昔(こんじゃく)物語集 三獣行菩薩道兎焼身語』

今は昔
天竺(てんじく)(インド)で、ウサギ、キツネ、サルが一緒に暮らしていました。
3匹は菩薩行(ぼさつぎょう)を行うため、毎日修行し、お互いを実の家族のように慕い合っていました。
そんな3匹の様子を見ていた帝釈天(たいしゃくてん)は、その行いに感心し、本当に仏の心を持っているかどうか、試そうと思いました。
そこで帝釈天は、老人に化け、3匹のもとを訪ねて、「貧しく、身寄りもない自分を助けてほしい。」と言いました。
3匹はその申し出を快く受け入れ、老人のために食べ物を探します。
サルは木の実や果物を取り、キツネは魚を獲って来ました。
ところが、ウサギだけは、山の中を一所懸命に探しても、老人は食べる物をどうしても見つけることができませんでした。
そしてある日、サルとキツネに「食べ物を探して来るので、火を起こしておいてほしい。」と頼みました。
サルとキツネが火を起こすと、ウサギは老人に「私を食べて下さい。」と言って、火の中に身を投げ、焼け死んでしまいました。
すると老人は元の帝釈天の姿に戻り、ウサギの命を惜しまぬ行動を世界に示すため、その姿を月の中に映しました。
今も月の中にいるのはこのウサギで、月の表面の雲のような模様は、ウサギが焼けた煙だと言われています。

 

(以上、この話にはいくつかのヴァリエーションが存在するが、今回は特にアニコム損保保険のサイトの文章を下地にさせていただき、松田が改訂した。

 

初めてこのジャータカを読んだのは子ども向けの絵本だっただろうか。
「私を食べて下さい。」という言葉と、ウサギが火の中に身を投げる絵に、胸を突かれたのを覚えている。
しかし、当時の私はこの話を「ウサギは偉いなぁ。」「ウサギが可哀想だなぁ。」と情緒的に(感情的に)読んでいたのだと思う。
火の中に身を投げ出したのはウサギの自力ではないのである。
ウサギを通して働く力がそうさせたのだ。
ベタベタの情だけで読んではウサギに申し訳ない。
これは偉いは話でも、可哀想な話でもなく、ただ尊く、美しい話なのである。

 

 

今日は令和6年度5回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目に続いて5回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたい。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

一度「仮幻の自己」が結晶されると、その個人の生活態度乃至(ないし)傾向は「仮幻の自己」の実現と言うことを中心に展開して行く。そしてここに、次に見るような特異な神経症的性格構造の内容が観察されるのである。

a.他に対する神経症的要求 neurotic claims

「仮幻の自己」実現の試みは先ず第一に、彼を取り巻く世界に対する神経症的要求 ー neurotic claims の形を取る。「仮幻の自己」の持つ様々な欲望や必要条件は、それが実現される為には、現実によって充足されなければならないのは勿論である。
しかし、これらは個人の心内に於いて要求に変容するのである。即ち、現実は ー 対人関係その他を含めて ー それらを充足しなくてはならないし、すべきなのである。要求は自己 ー「仮幻の自己」ー の当然な権利であり、正しい自己主張と考えられる。
この要求が充足されない時は、現実こそ非難されるべきものなのであって、彼は非難さるべきものではない。彼は寧(むし)ろ同情さるべき被害者なのであって、彼の要求は当然且(か)つ正当であり、その意味で何人(なんぴと)も批判を許されない。彼はあらゆる責任から免(まぬが)れるのであり、責任を負うべきは他人であり、現実であるのである。しかも、彼の要求は正しく、権利であるばかりでなく、それが正当であると言う理由で、彼の努力を煩(わずら)わさずに、充足されねばならにと言う要求に迄(まで)発展するのである。
従って、彼の側の努力を要求されることは、不正であり、屈辱として彼には感じられる。しかし、この様な正当化にもかかわらず、不幸なことに現実は必ずしも彼の神経症的要求を満足してはくれない。特に彼の要求が、その完全な充足を要求するに及んで益々そうである。彼の自己免許の主張や権利は常に挫折の運命にある。しかし彼にとって、第三者から見れば自己中心的な、傲慢な、手前勝手な要求であるにしても、これらの要求は正しく彼の生存にとって必要なものであり、したがってその挫折は不安のもととなる。彼は怒り、恐れ、要求を妨げる現実や他人に対し、激しい敵意を抱き、復讐に駆り立てられる。
それらが又挫折する時、怒りや怨恨(えんこん)となる。こうして彼は何時(いつ)も不安や不満、焦燥感や怒りに満ちた存在となるのである。

 

不幸な生育環境のせいで、「真の自己」を押し込められ、「仮幻の自己」に生きざるを得なくなったのであるから、そこに神経症的要求が生じるのは当然である。
せめて「仮幻の自己」の実現のために、周囲は自分のあらゆる要求に応えるべきなのであり、応えないことは許されない、いや、許さないのだ。
あなたの知っている人にいませんか?
自己中心的な無理難題を次から次へと当たり前のように要求して来る人を。
あのド厚かましさ、厚顔無恥はここから来るのである。
そして、神経症に呑み込まれている人に、内省はない。
自分がおかしなことをやらかしていることに気づかない限り、残念ながら、彼/彼女は「何時も不安や不満、焦燥感や怒りに満ちた存在」であり続けることになる。
行き詰まり果てて気づくのか、面倒臭いヤツのまま寿命を終えるのか、いい年をした大人である以上、それもまた厳しき自己責任なのである。
 

 

「人間だけですよ。松はね、どんなことがあってもちゃんと松になるんだ。イチョウはちゃんと、どんなことがあってもイチョウになるの。…どうして人間だけ人間にならないでいいか、という。えぇ?! 人間には人間になる権利がある。人間は人間になる、そういう素質を持っているわけ。…
いかに人間が健康に生きるかってことは、いかに、そういうふうな、単なる自己中心的な、利己的な、自己保存欲から抜けて、自分だけの生命だけを大切にするんでなくて、他の人の生命も大切にする、自他の生命を尊敬しながら伸ばして行くと、こういうことがね、私はもう少し眼を開いて良いんじゃないかと思うんです。
つまり、こだわりということは、大体言えば、自分自身の自己中心主義、自分自身の利己主義、利己的なね、自分の価値観をね、防衛するところから起きるところのね、精神作用だと私は思う。…
私たちはね、本質には、人間であるということ、その弱さを認める、自覚することがひとつ。さらに、人間であるということは、人間自身を、自分自身の低い人間性をもっと高い段階へ成長さす、そういうことが人間のまた可能性の中にあるということ。つまり、私たちが、言うならば、一応、そりゃあ人間らしいことだね、と言うときには、人間らしい弱さを言ってることが多い。しかしながらそれのみに堕(だ)さない。我々が人間として、言うならば、ある意味における人間を超えて、我々の、人間を本当に超えることが、逆に言うと、人間であることの証明にもなるということです。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

自分が紛れもなく自分になるということは、大切であるけれど、そこには我々の自己中心性や利己的なところが紛れ込みやすい。
そういった我々人間の持つ弱さ=自己中心的で利己的になりやすいということを認めた上で、それのみに堕さず、我々人間に与えられた成長して行く力=利他的になる、自他の生命を共に尊敬し大切にして行くことができるようになることが重要なのである。
即ち、我々が利己的であるということも、人間というもののひとつの証明ではあるけれど、それだけに留まらず、我々が利他的になる可能性を秘めているということもまた、人間というものの証明なのである。
どちらも人間だけれども、やっぱりね、闇より光で生きて行きたいね。

 

 

玄関先の庭を掃除していたら、茗荷(みょうが)が驚くほど勢力拡大していることに気がついた。
植えた覚えはないので、前住者が残した球根から生えて来たのかもしれない。

茗荷と言えば、思い出すのが釈尊の弟子の一人、周利槃特(しゅりはんどく/チューリパンタカ)のことである。
大変に忘れっぽく愚鈍であったため、自分の名前さえ忘れ、自分の名前を書いた名札(幟(のぼり)という説もあり)を背中にしょって、名前を訊かれる度に背中を指さしていた、と言われる。そのため、仏道修行も進まず、諦めかけたときに、釈尊から「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除をするよう言われ、一所懸命に行ったが、それでも当初は箒(ほうき)さえも忘れる始末であったという。しかし、めげずに何年も何年も掃除を続けていたある日、折角綺麗にした所を子どもたちに汚され、思わず怒っている自分に気がついた。ああ、払い除くべきはこころの三毒=貪(とん:むさぼり)、瞋(しん:怒り)、癡(ち:無知)であった、と気づき、遂には阿羅漢(あらかん:修行者の到達し得る最高位)に至った(十六羅漢の一人)と言われている。

その周利槃特が亡くなった後、墓から名の知らぬ草が生え、それを上記のエピソードに因(ちな)んで「茗荷」(=名を荷(にな)う=名前を背負う)と名づけ、茗荷を食べると周利槃特のように物忘れがひどくなると言われるようになったとやら。
だから茗荷を見て、周利槃特のことを思い出したのだ。

そしてまた、周利槃特の掃除する姿にヒントを得て作られたキャラクターが、『天才バカボン』の「レレレのおじさん」である、という説がある。
レレレのおじさんが何を掃いているかを思うと
「おでかけですか? レレレのレ―!」
も意外に深いのかもしれない。
「あなたはもう三毒を掃き終わりましたか? レレレのレー!」

そして今日、玄関先を箒で掃きながら茗荷に気づいた私は、周利槃特の話を書かないわけにはいかんな、と思ったのでありました。

これからは、こころの掃除を思いながら、普段の掃除を致しましょう。


 

世の中には、戒あるいは戒律というものがある。

有名なものとしては、まずキリスト教のモーゼの「十戒」がある。
このうち、最初の三つは神のために守る戒律であり、残りの七つは人間との関係において守る戒律である。
例えば、その後半七つを挙げてみよう。
4.汝(なんぢ)の父母(ちちはは)を敬へ
5.汝殺すなかれ
6.汝姦淫(かんいん)するなかれ
7.汝盗むなかれ
8.汝その隣人(となり)に對(たい)して虚妄(いつわり)の證據(あかし)をたつるなかれ
9.汝その隣人の家を貪(むさぼ)るなかれ
10.汝その隣人の妻およびその僕(しもべ)婢(しもめ)牛驢馬(ろば)ならびに凡(すべ)て汝の隣人の所有(もちもの)を貪るなかれ
とある。(『舊新約聖書』日本聖書協会)
さて、これら全部を完全に守れる人がどこにいるというのであろうか?

また、仏教では、在俗信者が守るべきものとして「五戒」がある。
1.不殺生(ふせっしょう)
2.不偸盗(ふちゅうとう)
3.不邪淫(ふじゃいん)
4.不妄語
5.不飲酒(ふおんじゅ)
上記の十戒と結構重なることがわかる。
さて、これら全部を完全に守っている人が一体どこにいるのであろうか?
さらに出家者が守るべき戒律として、比丘(びく)(男性出家者)は二百五十戒、比丘尼(びくに)(女性出家者)は三百四十八戒があるというから、段々クラクラしてくる。

中には鈍感で思い上がりやすい人がいて、この「十戒」なら、この「五戒」なら、オレは(わたしは)ちゃんと守れている、守れる、と簡単におっしゃる。
例えば、一瞬でも性欲や物欲を感じたことのない人間が果たしているのだろうか。実際に行動に移さなければセーフという料簡(りょうけん)が甚だ甘いのである。
さらに、私のように、人間の無意識を相手にしている立場からすると、うまいこと意識上のことをちょろまかしても、その皮を一枚剥がした無意識では、破戒=戒律破りのオンパレードである。
だから、人間のことを「偽善者」といい、「凡夫」というのである。

ここで私も気がついた。
戒や戒律が示されるのは、それを守ることは、おまえらには無理だ、自分には無理だ、ということを愚かな人間どもに徹底的に思い知らせるためなのだと。
そうなると、我々が進む道はひとつしかなくなる。
自分でなんとかできないのだから、自分を超えたものにすがるしかない、おまかせするしかない。
それが「御心(みこころ)のままになさしめ給え」であり、「南無」なのである。

そこを踏まえた上で、先の「十戒」「五戒」に戻るならば、
(どうせ守れないから好き放題やっていいよ、ということではなくて)
どうせおまえらにできないことはわかっているけれど、できないなりに、できる範囲ではやってみなさいよ、
というのが戒律の意味だったのである。

 

     蛇皮を脱ぐ 罪なきものは なかりけり

 

 

「男の人の場合でも…自分というものが、いつでもそういうステータス、つまり地位とか場所だとかね、自分のポジションだな、そういうことでもって自分というものの価値を決めてるわけ。だから、そこいらの価値をね、自分の生存とつながっていると思うから、その価値をちょっとでも傷つけられるとね、すごくそれにこだわるわけですよ。
僕の隣の人が一所懸命になって自動車を磨いているんですよね。…自動車をものすごく綺麗に磨く。…日本人はちょっとでもね、人の車でもって傷つけられるとカンカンに怒っちゃうの。つまり、あれはね、我が分身なんだな、日本人にとって、極端に言うと。自分の自動車っていうのはね…自分の分身なんだ、自分の延長なんだ、ね。それを、だから、傷つけられたりすると大変だし、だからしょっちゅうピカピカピカピカ、こうやってないと気が済まない。つまり、そういうことで日本人の場合、こだわりがひとつ増えてる。…
自分の延長であり、自分の身代わりみたいなもの。自分の身代わりだから、ちょっとガッツンとやられると、とても癪(しゃく)に障(さわ)っちゃうわけね、これね。…
万事につけて、そういうふうなことやって来ると、それにこだわってると、面白いんだけども、一体どういうことになって来るかっていうと、我々はね、しょっちゅう傷つけられ、しょっちゅうもう、心を傷つけ、いろんな小さなことにもう傷ばっかり、満身創痍(まんしんそうい)じゃないけど、しょっちゅうハートに傷ばかりしているようなことになってしまう。これが極端になると…僕が取り扱う神経症になるわけです、ね。けれどもね、これは普通の人の場合にもそれがある。
私がこだわるということに関して、こんなことを持ち出したのは、我々がこだわる中に、つまり、我々が人間として生きる上において、本当に意味のある価値というものが、実はこだわられないで、嘘の価値、我々がむしろ人間として成長するためには妨害となる…ものがこだわられているということがあると思う。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

車にこだわっている人は車を傷つけられると自分が傷つき、
学歴にこだわっている人は自分以上の学歴の人が出て来ると傷つき、
お金にこだわってる人は自分以上の金持ちが出て来ると傷つき、
地位にこだわっている人は自分以上の地位の人が出て来ると傷つく。
結局は、そういうすがるもの、こだわるものに価値を置いて、自分の存在価値と結びつけている。
つまり、裏を返せば、裸の自分に自信がないのである。
裸の自分では存在価値がないのである。
それもそのはず、子どもの頃から、自分が自分であることに寄り添われて、愛されて、育っていないんだもの。
だから、代わりに評価してもらえるものが必要になり、“メッキ”にすがってこだわるのである。
よって、そのメッキがちょっとでも傷つけられると、自分の全存在が傷つけられたような気になり、ガラスのハートは些細な出来事で傷だらけになって行くのだ。
あのね、そんな嘘のメッキはもうどうでもいいからさ、裸の自分の方に、自分の存在の根底にある尊さの方に、眼を向けて行きましょうよ、という話なのである。


 

第二次世界大戦中、軍医をしていた亡父の話。
戦況が悪化する一方の前線の野戦病院で、多くの兵士を看取ったと言っていた。

そんなとき
「天皇陛下、万歳!」
と言う
て死んで行ったヤツは一人もおらん。
みんな
「おかあちゃん。」
と言うて死ぬんじゃ。

最後に頼るのはおかあちゃん。
刀折れ、矢尽き、傷ついた兵士が、異国で一人寂しく死を迎えるときも、思わずその名を呼びたくなる存在なのです。

しかし、「毒親」という言葉が当たり前のように使われている現代、血縁上、戸籍上の母親が必ずしも本当の「おかあちゃん」ではないかもしれません。
そうではなくて、「おかあちゃん」というのは、いつでもどこでもどんなときでも、無条件に受け入れ、抱きしめ、愛してくれる存在の象徴なのです。

浄土門では、阿弥陀仏のことを「おやさま」と呼びます。
それは明らかに、父親ではなくて母親です。
生きることに迷い、疲れ、心細くなってたときに、おかあちゃんの名を呼ぶことが念仏、南無阿弥陀仏なのです。

また、キリスト教のカトリックにおいても、聖母マリアの人気は絶大です。
これもまた聖なるおかあちゃんでしょう。

生命(いのち)を生み出し、生命(いのち)を育んでくれるおかあちゃん。
そして最後に生命(いのち)を引き取ってくれるおかあちゃん。

凡夫であり、迷える子羊である我々は、いくつになっても、大いなる母性にすがって生きて行くしかないのかもしれません。

 

 

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