八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

我が国の精神障害者の家族会は、精神障害者の親を中心に運営されて来た歴史がある。
随分後になってから、精神障害者を同胞=兄弟姉妹に持つ人たちの会も作られ、熱心な活動も行われて来たが、親の会ほどの活動には至っていないように思う。
また、精神障害者を親に持つ子どもの会も作られ、これも熱心な活動が見受けられるが、親の会ほどの活動には至っていないと認識している。
もちろん、頭記の家族会の中に参加しておられる同胞、子どもの方もいらっしゃるが、個人的には、親か、同胞か、子どもかで、抱えているものに、共通の部分と、異なる部分とがあり、やはり親には親の、同胞には同胞の、子どもには子どもの、特化した支援も必要ではないかと思っている。

今ここでその活動の全貌を挙げることはできないが、特に気になる2点だけ記しておきたいと思う。

例えば、同胞の場合、「暗に」親から、親亡き後の同胞の世話を託される場合がある(その伏線は随分早くから始まっている)。
そうでなくても、同胞には同胞の、自然な同胞愛があるのだが、それが親に託されて義務と化すと、一気に負担感は重くなる。
時代は、家族が看る時代から、社会が(地域が)看る時代に変わりつつある。
同胞には同胞の人生がある。
同胞が自発的に支援したいというのなら良いのだけれど(「自発的に」を無意識に演じている兄弟姉妹もいるのでご注意を)、少なくとも義務的心理的負担感からは解放されてほしいと願う。
もし同胞として苦しんでいる方がいらっしゃるならば、一人で思い悩むことなく、是非、専門家に相談してほしいと思う。

そして、子どもの場合、特に親が亡くなった場合の「罪悪感」が気になっている。
そもそもそれは親のせいではなく病気のせいなのだけれど、結果的に、小さい頃からせざるを得なかった苦労は想像に余りある。
親への愛憎は子どもの中に蓄積されている。
その親が亡くなった。
素朴な子どもとしての悲しみがある一方で、清々した思いも禁じ得ない。
また、そんな気持ちになっている自分に対する自責の念や、ああしてあげれば良かった・こうしなければ良かったという悔恨の念が子どもを苛む。
それもまた一人自分の胸にしまい込んで苦しみ続けるのではなく、是非、専門家に相談してほしいと願う。

それが親であろうと、同胞であろうと、子どもであろうと、一人ひとりの生命(いのち)は、その人がその人を生きるために授かったものである
どうか
あなたを生きて下さい。

 

 

研修医の頃、精神病理が専門の先輩精神科医からいきなり「松田くんは、親子関係に問題がありそうだな。」と言われたことがあった。
言われなくても全くその通りなのだが、イヤ~な感じがこころに残った。
どうしてそういう気持ちになったかと言うと、
私はその人に分析コメントを依頼していなかったし(つまりその人を信頼していなかった)、
その人の発言に愛がなかったからである。
頼まれてもいないのに、自分はこんなことまで見抜けてますよ、を示すために、
そして、そう言われてハッとした顔をする後輩をニヤニヤしながら見物するために、
分析してみせるのは、その人のパーソナリティにかなりの問題があったのであろう。
当時の私はそこまで整理できなかったが、イヤ~な感じだけは自覚できた。

そしてその体験から学んだのは、
「頼まれていない分析コメントはしない」
「愛のない分析コメントはしない」
ということであった。

残念ながら、生半可な知識で、頼まれていない、かつ、悪意のある分析コメントをする精神科医や臨床心理士は、今日に至るまであるあるであった。

その後、近藤先生のお蔭で、感じる力が増したため、相手のこころは、ある程度、読めるようになった。
それも、さぁ、読んでやるぞ、と思って読むわけではなく、自然に観えて来るんだからしょうがない。
しかし、本人から頼まれない限り、原則としてコメントはしない。
例外は、その人の言動が周囲に大きな問題を引き起こしているときくらいであろうか。
そして頼まれても、愛のないコメントはしない。
相手の成長を願う気持ちがない場合にはコメントはしない。
しかし、愛のあるコメントが、いつも耳障りの良い、優しいコメントになるとは限らない。
愛があるからこそ厳しいコメントになるときもある。

面談に来られている方々は、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持って、私にコメントを求めて来ておられる。
そうなれば、あとはこちらの問題。
元より凡夫に愛はないけれども、私を通して働く力には愛がある。
そしてまた今日も呼吸しながら祈りながら面談を行っていくのである。

 

 

近所の居酒屋に出かけた。
しばらくして大学生と思(おぼ)しきアルバイトのお兄ちゃんが店に入って来た。
着ている山吹色のTシャツの背中に縦書きの筆文字で「不染汚」と大書されている。

「おっ、不染汚(ふぜんな)か。」

と箸が止まる。

不染汚は、禅宗では「ふぜんな」、天台宗では「ふぜんま」とよみ、
染汚が、文字通り、汚れに染まる、煩悩を意味するのに対し、
不染汚となると、汚れに染まらない、煩悩に染まらないことを意味する。

やがて、奥で黒いTシャツと前掛けに着替えたお兄ちゃんが料理を運んで来る。
思わず尋ねる。
「不染汚ってTシャツ着てたけど、仏教系の学生さん?
「いや、高校時代の部活のTシャツです。」
との返事。
それ以上は追究しなかったが、仏教を知る先生が選んだのかもしれない。

不染汚となると、やはり蓮の華が思い浮かぶ。
泥より咲いて、泥に染まらぬ蓮の華。
泥の中から咲いて、泥に染まらぬどころか、泥を栄養にして、清浄(しょうじょう)な蓮の華を咲かせる。
それはまさに菩薩行だ。
如来(仏)になってしまって、蓮の臺(うてな)の上に安穏と座っていれば良いものを
敢えて如来にならず、わざわざ菩薩に留まって、娑婆という泥の中に入って衆生を救う。
しかし本人は全く泥には染まらず、むしろ衆生救済(くさい)という美しい華を咲かせる。

あのお兄ちゃんが不染汚の真意をどれだけ把握しているかはわからないが
彼の中にある仏性の可能性を示すものとして
背中の不染汚はなかなかのものであると一人合点し
いつもよりちょっと酒の旨い夜であった。

 

 

 

「これはある人の詩ですが

  人によく思われたい
  変に思われたくない
  何時(いつ)の間にか見栄を張っていた私
  何時の間にか自分を無くしている私
  他人の眼が気になる
  どうしてこんなに他人の眼が気になるんだろう

しかし、これは日本にすむ我々の正直な心情ではないでしょうか。何時もそういう感じ、しょっちゅう他を気にしている。一体何処(どこ)に自分が生きているか。本当の自分はどこに生きているのだろうか、どうして何時も人のことばかり考えて人の顔色ばっかり窺(うかが)っているのだろう。これは何故でしょうか。本当に自分が大きな力で、自分も他人も超える大きな力で生かされていることを知らないからです。それに気が付かないからです。これではやがて死ぬ気配を見せずに一生懸命に鳴いて、鳴き止まぬ蝉の境地もわかるはずはありません。精一杯生きていれば、生かされているということを気付かされ感謝の心をもっているならば、我々はこんな詩のようなことにならないですよ。…
このような意味で日本人が今日もう一遍どうあるべきか考えるべき時だと思います。元来日本は明治以来かれこれ百何十年か、西洋の真似ばっかりしてやって来ましたけれども、そろそろ考えを変えて、もっと我々の…中にあるところの敏感さ、要するに我々を超えてあるもの、我々を超えて生かして下さっている力を感じる敏感さに気付き、世界中が乱れている今日この日本人の心の在り方を伝えて貰いたいと思うのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

この狭い地上の上で、せせこましく他人の思惑を気にしながら生きること、それをそろそろやめませんか、というお話です。
でも、ただやめませんか、と言ってもやめられませんよね。
かつてのあなたは、その生育環境の中で、他人(親) の思惑を気にしながら、孤独に、無力に、オドオドビクビクしながら生きて来たのですから。
でももうあなたは孤独でも無力でもない、いや元々あなたは孤独でも無力でもなかった。
もっと正確に言うならば、あなたは無力だけれども、あなたを生かして来た力は、いつもあなたに連なり、包み、あなたは孤独ではなかったし、その力は、いかなるものをも凌(しの)ぐ、広大無辺なものであったのです。
それを感じる、体験する。
そうすれば最早、他人の思惑など、どーでもいーことになるのです、あれこれ考えなくてもね、自然に。
だから、感じる力を磨きましょう、磨きましょう、磨きましょう。
そして、そのためのお話をするのが面談の場なんです。

 

 

 

精神科医になって間もない頃、ある学会主催のワークショップに参加した。
いろいろな医療保健福祉職の人たちが参加していたが、私が精神科医だとわかると、ある中年女性が休憩時間に話しかけて来た。
「うつ病って薬で治るんですかね?」
それを聞いて私は堪えた。
「ちゃんと主治医と相談して治療しましょうね。」

そこで、うつ病の一般的治療について、薬物療法、精神療法、環境調整などに分けて説明することもできたが、彼女の質問の本意は、それではなかった。
そう。
彼女自身が、うつ病で通院治療中だったのである。
それならば、
「私は今、うつ病で通院治療中で、抗うつ薬を飲んでいるんですけど、うつ病って薬で治るんですかね?」」
と訊けば良いところを、彼女そう言わなかった。
はっきり言うと、彼女はそういうパーソナリティの持ち主であり、それが彼女の抑うつ状態を遷延させている要因でもあった
のではないかと推察される。
私はその“臭い”を嗅ぎ付けたので、その“変化球”の質問に引っかからず、“直球”に変換して返したのである。

ある新社会人が会社の先輩に尋ねた。
「先輩って仕事していて辛いことありませんか?」
そろそろ皆さんもおわかりだろう。

彼は先輩のことが訊きたかったのではない。
「今、自分が仕事していて辛いんです、」
と言いたかったのである。
本当は自分の話を聴いてほしかったのだ。
そして慰めてほしかったのである。
ならば、そう言うべきである。
「先輩、今、仕事していてめっちゃしんどいんですけど、慰めて下さい。」
でも、そうは言わない。
そして本人もそのことに気づいていない。

質問の形の背後に真意あり。

面倒臭いが、そんな神経症的コミュニケーションが巷に溢れていることを知っておいた方が良いと思う。


 

松田家には代々気の強い女性が多く、そのせいか私の中でも、女性とはそういうものである、という先入観が作られていた。
相手が男だろうが何だろうが、怯(ひる)まず、たじろがず、尻込みせず、必要とあらば堂々と前に出て勝負をかける。
あの映画『極道の妻(おんな)たち』で岩下志麻姐さんを見たときも、まあ、こういう女性はいるだろうな、ぐらいに思っていた。

従って、「いやーん」「こわーい」「きゃーっ」などといって恐がっているような女性は見たことがなく、後年、実際にそういう女性がいる、しかもそういう女性が結構少なくないらしい、ということを知ったときは、大きな驚きであった。

それでも、中には「はちきん」(高知県(土佐)の女性)や「薩摩おごじょ」(鹿児島県の女性)と呼ばれるような、肚の据わった女性がいることを知ると、やっぱり、そうだよな、とちょっと安心したりもした(ひょっとしたら、黒潮(日本海流)沿いの南の地域の方が強い女性の出現率が高いのかもしれん)。
[参照]映画『鬼龍院花子の生涯』の「なめたらいかんぜよ!」、NHK大河ドラマ『篤姫』の「女の道は一本道。引き返すは恥にございます」など。

本来が、体内に生命を宿すことのできる女性の方が強いに決まっており、それができないコンプレックスを秘かに抱く男たちが虚勢を張って腕力・金力・権力に訴えているのだ、というホーナイの分析は、結構当たってるんじゃないか、と私は思っている。

そして願わくば、同じ「つよい」のでも、「我の強い女」ではなく、「自分が自分であることにおいて勁い女」であってほしいと心から願うのでありました。

 

 

サイコセラピーにおいて、ズバリと核心を言わなければならないときがある。
そんなとき、少しでも、曖昧だったり、中途半端だったり、婉曲な言い方をしてはならない。
逃れる隙を作ってはならない。
ズバリと核心を突く。
それができなければホンモノのサイコセラピストとは言えない。

しかしまた、サイコセラピーにおいて、ズバリと核心を言ってはならないときがある。
むしろ黙す。
余計なことは一切言わない。
紆余曲折も、まわり道も、試行錯誤も、ただ黙って見守る。
それができなければホンモノのサイコセラピストとは言えない。

では、両者の区別はどうするのか。
どういうときに核心を突き、どういうときに黙って見守るのか。
知識と技術のサイコセラピーをやる連中は、その操作的な考え方に基づいて、長々と語ることだろう。
しかし、私は立場を異にする。
直観
で判断する。
思いつきではない。
自分を通して働くものによって
言うのではなく、言わせられる。
黙るのではなく、黙らせられる。

その消息がわからなければホンモノのサイコセラピストとは言えない

おして、ホンモノのサイコセラピストを目指して進み続けるのみである。

 

 

うろ覚えの記憶である。
確か、何かのマンガの一シーンだったと思う。
どなたか正確な情報をお持ちの方がいらしたら、お知らせ願いたい。

暗黒の宇宙の中、たくさんの小惑星が並んでいる。
小惑星は内部をくりぬかれ、ひとつずつが鉄格付き子の牢獄の形になっており、その中で人間が一人ずつ眠っている。
そしてその中で永遠に夢を見続ける。
しかもその夢の中身は
その人がそれまでの人生で体験した中で
最も辛い体験
最も哀しい体験
最も情けない体験
最も恥ずかしい体験
そんな体験を、リアルに何度も何度も夢に見続けるのである。

思うに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の患者さんが、フラッシュバックや悪夢を体験しても、あれだけ辛いのに、それが永遠に続くとなると、とても正気ではいられまい。
これは
凄まじい拷問に匹敵する。

改めて思う。
我々は過去を無意識に沈めてしまえるから、今を生きていけるのだ。
我々は過去を忘却して行けるから、今を生きていけるのだ。

ひょっとしたら上記は、私がいつの間にか脚色したか創作した話かもしれない。
それならそれで非常に示唆的であると言える。

そしてもし、無意識に沈めることも、忘却することもできない過去があったとしたら、我々を超えた力によって持って行ってもらうしかない。
祈って 祈って 祈って。
そしてようやく今を生きていける。

 

 

脇を通る車から古い曲が聞こえて来た。

♪Everybody loves somebody sometime

聞くともなしに聞きながら

「誰かが誰かをじゃダメなんだよな。」

と呟(つぶや)いていた。

そう呟きながら、ある自殺予防の動画のセリフを思い出していた。

 

「命は大切だ

 命を大切に

 そんなこと 何千 何万回 言われるより

 あなたが大切だ

 誰かがそう言ってくれたら

 それだけで

 生きていける」

 

一般論の話ではなく

世界に一人の「私」を限定して大切だと言ってくれた方が嬉しい。

だけど、「誰かが」そう言ってくれたら、と言っているところが、まだちょっと哀しい。

世界に一人の具体的な〇〇が、世界に一人の具体的な〇〇(=私)を確かに愛してくれているという実感。

それがあれば生きていける。

 

あなたが子どもの頃、上記の〇〇は埋まりましたか?

そして今のあなたは、上記の〇〇は埋まりますか?

そして今度は、愛されるばかりでなく、世界に一人の具体的な〇〇を愛する側に回りたいですね。

 

 

 

先日お知らせしていた『講義・講演のご依頼』の内容が、ようやくホームページのサイドメニューからも閲覧できるようになったため、お知らせする。

講演の依頼があった場合、いつも悩ましいのが、それを受けるか受けないかということで、
私を本当に必要として下さるところであれば、どんなところへでもどんどんと出かけて行くことを厭わないが、
ゆる~い動機づけで、内省もあさ~い人たちに呼ばれても、これが本当に私のミッションなのかしらん、と思ってしまう。

思うに、講演には、「耕す講演」と「育てる講演」があり、
前者は、文字通り、荒れた畑を耕し、種を蒔くように、対象を限定せず、聴衆の百人に一人でも芽を出す人がいれば幸いという講演であり、声がかかれば出かけて行くというものである。
それに対して後者は、動機づけが強く内省の深い人たちに対象を絞った講演であり、ほとんどが既に芽を出しており、後はそれをどれだけ大きく育てるかということを目標とした講演となる。

それぞれに役目があるため、どっちが良い悪いというものでもないが、少なくとも今現在、私は、「育てる講演」の方にミッションを感じている。
最近、「八雲勉強会」や「ハイブリッド勉強会」に力を入れているのも、同じ理由からである。
それでもたまに「耕す講演」をすることもあるが、それは元々職場単位で普段からメンタルヘルス研修や職員研修を頼まれている場合にほぼ限られる。

やっぱりここでも、今生で私が出逢うべき人に出逢えますように、私に与えられたミッションを果たせますように、と祈りながらやるしかないのである。

それでは、もし「育てる講演」の御要望がありましたら、どうぞお声かけ下さい。
詳しくは
『講義・講演のご依頼』を。

 

 

「松尾芭蕉が

『よく見れば 薺(なずな)花咲く 垣根かな』

と歌っています。ここで一番大事なのは、いつも何気なく見過ごしているのに、ふと気が付いてよく見ると、今まで気がつかなかったのにそこの垣根になずなが咲いていたという驚き。これはこの人の有名な

『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』

とも同じです。蛙が池にポンと飛び込んだ時に、これが実に深く、ピィーンと自分の胸に深く染み渡るその感動、それはこれまでは全く気がつかなかった気持ちでしょう。同じくよく挙げられる句ですけれども、

『山路来て 何やらゆかし すみれ草(ぐさ)』

山道をどんどん歩いて来て、くたびれてほっとひと休みした時に、ふっと見るとそこにすみれが咲いている。思いもかけない発見です。ただすみれと言えばすみれですが。そんなところにもすみれをすみれとして生き生きと活かしている力が私達の胸に伝わって来るのではないでしょうか。それに芭蕉は感動したと思うのです。これら全て素晴らしく元気に生き生きと活かされているものに、我々すべてを生かして下さる自然の大きな力を感じるのであります。これを仏と言い神と言い、何と言っても良いのです。概念なんかどうでもよろしい。問題は私達が活かされている有り難さを感じるかどうかです。この感じる力があれば、必ず、あなた方は何かぐぅっと本当に腹に落ちる、腑に落ちるものを感じることが出来るでしょう。頭でもなく理屈を言うのでもないのです。自分で『本当にこうだ』と感じるものがあるはずだと思うのです。
最後に、又一つ芭蕉の句、

『やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の聲(こえ)

蝉は何十年も地中に沈潜して出て来る時を待っています。しかし一度出て来ても、その命は僅かなものです。人間の命と比べれば非常に僅かなものです。僅かだけれども、それを本当に『やがて死ぬ景色も見えず蝉の聲』でミーンミーンとないて、本当に精一杯生きている。それこそ本当に素晴らしい姿ではないでしょうか。そこに蝉の全存在を生かしている大きな力を感じるのです。蝉を生かして居る大きな力、そしてそれと同様に我々も生かされている大きな力、それをあなた方が自分も共感して自分も有り難く生かされていると感じたときに、初めてあなた方は宗教といわれているものに初めて目覚める、気が付くことになるのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

その一生が長かろうと短かろうと関係ない。
自分を超えた大きな力によって自分の全存在を精一杯に生かされている瞬間の体験があるかないか、これがすべてなのです。
その体験がない一生であるならば、3万年生きても仕方がない。
その体験が一瞬でもあれば、もういつ死んでもいい。
だから、「やがて死ぬ景色」などどうでもいいのです。
これはかつての『不惜身命の世界』と同じ話になるのです。
ある辛い境遇にある方が念仏をして「本当に有り難いんです。」と二度繰り返しておっしゃいました。
そうです。その方には“本当に有り難い”体験の瞬間があったのです。
私たちはその体験をするために生命(いのち)を授かりました。その体験をするために生れて来たのです。

そして、その体験を授かって初めてあなたもアンパンマンに答えることができることになりますね。


 

テレビで海外の獣医番組をやっていた。

ある牧場に呼ばれて馬の治療にやって来た女性獣医師について、牧場主が「お昼休みに連絡したら、お昼抜きですぐに来てくれたんです。」と感謝していた。
これが臨床現場における当たり前の“感覚”だと思う。

かつて精神科病院に勤務していた頃、まさに昼休みに、病棟から、私の受け持ち患者さんが発熱してノドも痛そうだから診察してほしい、と連絡があった。
気を遣った看護師さんは「先生の食事が済んでからで良いですよ。」と付け加えた。
今この瞬間、ノドが痛くてしんどい思いをしている患者さんがいるのに、のうのうと食事を摂っていられる神経は私にはない。
すぐに病棟に行って診察して薬を出した。

誤解のないように。
自慢話をしているのではない。
また、全ての医師、獣医師がそうすべきである、という“べき論”を言っているのでもない。
人間としての、当たり前の、フツーの“感覚”の話をしているのである。

そういう感覚があれば、例えば、受け持ち患者さんが多く忙しくヒーヒー言っている医師であれば、しっかり食べて栄養を付けてから診察した方が良い。ゼリー飲料をチューッと吸いながら、バナナをもぐもぐ食べながら病棟に駆けつけてもいい(感染注意)。
ただ気持ちの中で、一刻も早く楽にしてあげたいな、という素朴な思いがあるかないかが重要なのである。
すべては“気持ち”の問題、“姿勢”の問題。
そもそも医者が低血糖や脱水で倒れたら洒落にならないからね。

テレビ番組でそのシーンは放映されなかったが、診察後にその女性獣医師がちゃんと昼食が摂れたことを願った。

 

 

ルッキズム(lookism)、外見主義という言葉がある。
我々が他者からどう見えるか(見られるか)、あるいは、他者にどう見せたいか、ということに価値を置いていることは、紛れもない事実である。
そうでなければ、化粧品は売れないし、美容整形も流行らない。
雑誌の表紙は概ね、美男美女であり、わざわざブランド物を着て、スーパーカーに乗るのも他者に見せるためである。
ある女性は、新型コロナウイルス感染症の予防接種に行ったとき、注射をしてくれた女性看護師が、同性の眼から見ても美人であったために、痛さが半減したと言っていた。
そういう姿勢を軽佻浮薄と非難する人もいるが、そんな人でも桜は美しいと愛でるであろう。
外見的美観(何が外見上美しいと思うか)に個人差はあるが、外見上美しいと感じることに価値を置くのは、そんなにおかしいこととは思えない。

要は、外見主義が、外見至上主義になって来るか否かである。
至上では困る。
外見(looking)は、たくさんある要素(factors)のひとつに過ぎない。
例の「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌詞がある。
観ている(「見ている」ではない)のは外見ではない。
ドブネズミを純度100%のドブネズミさせているものを感じて「美しい」と言っているのである。
そういう感性を持っていれば、巷のルッキズムにそれほど目くじらを立てなくてもいいのではなかろうか。
それはそれとしてのルッキズムに付き合いながら、外見を引っぺがしたものを感じていればいいのである。

 

 

今日は令和6年度6回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目に続いて6回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたい。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

b.自らに対する神経症的要求 neurotic shoulds

「仮幻の自己」の実現に対する試みは、又自分自身に対して、「汝かくあらざるべからず(shoulds)」も形を取って要求を提出する。その要求は厳格且つ無慈悲である。それは絶対命令であり、その意味で強迫的である。彼の全ての行動はこの要求に応えねばならない。それは可能か不能かを問わない。勿論、彼の現実の心的状況も、感情も顧慮に値しない。それは寧(むし)ろこの要求の前に無視され、抑圧されねばならない。
 この shoulds の命令に対して、攻撃的な拡大的タイプの人間は、一切のそれに反する要素を抑圧して、全能的な存在そのものであることを確信せねばならぬし、依存的な縮小的タイプの人間は自分を常に完全な愛の具現者として、他人の犠牲となり、しかも常に卑下して卑小なものとして自分を感じなくてはならないのであり、更に、孤立的な限定的タイプの人間は、あらゆる外界からの圧迫に対して、独立と自由を守る人間として抵抗し、反抗し、しかも自己内界の平静を持する人間として自己を表現しなくてはならないのである。
 この要求のもたらす結果は、次第に彼は自分自身の自然な感情や考えを抑圧し、最後に自分らしい感情や思考をもつ能力を麻痺させると言う、恐るべき状態をもたらすと共に、逆に shoulds の命令によって形作られる仮構された感情や思考を、自分の自然なものと考える様になるのである。かくて患者の言を借りれば「自分は何を本当に感じているか判らない。まあ感じなくてはならないから感じているのですよ」と言うことになるのである。

 

「ニセモノの自分」「仮幻の自己」は、自分自身に対して「~であるべき」「~でなければならない」の形を取って、さまざまな要求をして来る。
これもすべては「仮幻の自己」を実現するためである。
「真の自己」の実現を許されなかった人間にとっては、「仮幻の自己」を実現するしか生き残る道はなかったのだ。
自己拡大的支配型の人間は、全能的な存在でなければならないし、
自己縮小的依存型の人間は、完全な愛の具現者として犠牲的でなければならないし、
自己限定的断念型の人間は、あらゆる圧迫から独立と自由と守る人間でなければならない。
そして、その shoulds が進めば進むほど、自分がどう感じるべきかはわかっても、自分が本当は何を感じているかがわからなくなってしまい、自らに対する神経症的要求(neurotic shooulds)は、「真の自己」を闇の底に葬り去ろうとして行くのである。

 

 

今日も神社仏閣で、善男善女が「ああして下さい」「こうして下さい」と手を合わせて祈っている。
奉納された絵馬などを見ていると、「商売繁盛」「合格祈願」「恋愛成就」などなど、はっきり申し上げて、実に手前勝手な願いがいろいろと書かれている。
神さん、仏さんも、そんな人間の我欲にいちいち付き合っていたら、とっても大変であろう。
しかし、神社やお寺もしたたかなもので、そんな我欲を満たす御守りなどのラインアップを充実させ、参拝者を引き付けている。
個人的には、そういった御守りなどのグッズは、人寄せのための撒き餌みたいなもので、人々が集まって来たところで、やおらお坊さんや神主さんが出て来て、有り難い話をし、真実の世界へと導いて下さるというのが、本来の神社仏閣の姿ではないか、と思っている。

つまり、神社仏閣は、愚かな人間の我欲を満たすためにあるのではなく、
何がどうなろうとも、人間を超えた大きな力におまかせします、という姿勢を身に付けさせるためにあるのである。
だから
神社では「惟神(かむながら)」
仏閣では「南無」
という祈りになる。
どちらも、人間を超えた力のままにおまかせします、という意味だ。
そうし
て人間は、ただ大きな力に導かれるままに、催されるままに生きて行くしかない、ということを体感するのが神社仏閣参拝の意義だと私は思っている。

 心だに 誠の道にかなひなば いのらずとても 神やまもらむ   菅原道真

(心さえ真実の道に叶っているならば、祈らなくても神さまが守って下さる)

我欲よりも真実の道が先にある。
まことに天神さまのおっしゃる通りである。

 

 

人間というものは全員、凡夫だと思っている。
一人残らず、ポンコツのアンポンタンである。ヘッポコのスットコドッコイともいう。
だから、やらかしまくる。
それは凡夫だからしょうがないのである。
でも、そのままでいるわけにはいかない。

要点は二つだけ。

ひとつは、自分がやらかしたときに、それに気づけるか否か、それを認められるか否か。
気づかない、認めないでは、話が始まらない。
気づかない、認めない人には、それなりの人生を生きて行っていただくしかない。
自分がやらかしたときに、気づくことができ、認めることができること、それを「情けなさの自覚」という。

もうひとつは、ただ気づくだけに留まらず、現状を変えて行くために、成長して行くために、「で、どーする」と、真剣に自分の考えや言動を変えて行こうとするか否か。
中には、気づくこと、認めることはできるのだが、体育座りで俯(うつむ)いてしまい、ただ自虐ワールドに浸っている人もいる。
これでは変わらないし、変える気もない。これまた、それなりの人生を生きて行っていただくしかないことになる。
「情けなさの自覚」に留まらず、あーでもない、こーでもないと、何度も何度も、どこまでも、真剣に自分の考えや言動を変えようと挑み続けること、それを「成長への意欲」という。

この二つ、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が揃ったときに、人は変わる。
その確信があるから、私は八雲総合研究所を開業しているのである。
自分の足で成長の山に登る準備ができたならば、シェルパはまかせとけ、である。

 

 

 

「そういう意味でこの『なにごとの おはしますかは 知らねども』という気持ちが素直に有るのが田舎だと思います。古い大木にはしめ縄を張り、お賽銭箱があってお花を供えたりしてあります。皆さん御存知の例えば有名な華厳の滝、華厳というのは仏教の『華厳経』からきたのだと思いますが、仏教から頂いた有り難い名前を付けているのは、そこに神聖なものを感じるからなのです。これは日本人としては当たり前の話ですね。そういう意味で、東洋人はこの宇宙や、その中の一つである地球上にある全てのものがみんなそれぞれが或る何か目に見えない、頭では解らないものを持っているのを感じるのです。それを魂と呼べば、そういう何かのものを持っている、木でいえば木魂(こだま)とかですね。水は水の神様、火は火で荒神(こうじん)さま、今まではこういう木魂とか水神さまや荒神さまは日本の至るところにありました。なにか日本の国はそういうものを持っているわけです。つまり本来的に日本人と言うのは、すべてに、火にも石にも木にも、そこらの中にある万物、草木植物、全てに何か大きな精神性、を感じてるのだと思うのです。あなた方がそういう眼で見られると、例えば自分の庭に咲いた一つの菊の花でも、その生きている姿から、そこに籠っている何かを感じられると思います。そうしますと、あなた方は何か、自分も生かされ、又自分も生かし、又その花も活かしている、そういったものを必ず感じられます。じっとその花を見つめてホッとする心、それが本当に花を愛し、花を愛(め)でる気持ちだと私は思うのです。
我々が自分がそういう気持ちを持っていることを感じ、ハッと気が付く時があるんですね。これが敏感さです。今まで何十年連れ添っていた女房が、何か言った時、それまで気が付かなかったことにふっと気が付かされ、あぁこれは不可思議な縁だなぁと思う時もあるのです。そろそろ私のようにこの世におさらばしようとする歳になると、そんなことを感じます。年寄りだから鈍感になるかと言いますとそうじゃなくて、逆にそういうものに対して敏感になるものなんです。若い方だけが異性に対しては敏感なわけじゃないんですよ。長い間連れ添っているとやっぱり違います。何でもない一寸(ちょっと)したことにもパッと感じるものなんです。そうした感じることが大事なんですね。ふっと気が付く。今まで気が付かなかったことにふっと気が付く。その時、ときには感動して涙が滂沱(ぼうだ)として流れる時があります。このように心から感動する気持ちを持つことこそ、正に生きているということではないでしょうか。この生かされている喜びを心から有り難く感じられるのはそういう時だと思います。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

感じるか感じないかによって、敏感さがあるかないかによって、この世界に生きることの豊かさがこんなにも違って来るのかと思います。
皆さん、最近、そんな瞬間がありましたか?  今まで気づかなかったことにふっと気が付いて、心からの感動に包まれるような瞬間が。
そんな瞬間のない人生は寂しいですよ。
だから、深く丹田呼吸をして、あなたのまわりにいる人に対して、そして、あなたのまわりにある万物に対して、まずは手を合わせて頭を下げてみましょうよ。
その丹田呼吸と合掌礼拝(らいはい)が、いつの間にか鈍化していた、あなたの「感じる力」をリセットし、必ずや敏感にして行ってくれると思います。
但し、1回や2回ではなくて、繰り返し繰り返し、何回も何回も、ね。
そうして、それが
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
の世界に、敏感さと霊的感動の世界に、あなたを連れて行ってくれるでしょう。

 

 

 

加齢によって起こる難聴では、高音域から聞こえにくくなって来ることが知られている。

若い人には必要ないが、中高年の方に下の「◆ 聞こえチェック ◆」を試していただきたいと思う(厳密な医学的検査ではないので、お気楽にお試し下さい)。

 ◆ 聞こえチェック ◆

ちなみに私も試してみた。
「60代の目安」の10,000Hzは聞こえたが、「50代の目安」の12,000Hzは聞こえなかった。
ただそれだけのことであるが、私の連想は他に広がって行った。
自分が聞こえてないことが、他の人たちには聞こえているのである。
つまり、自分だけが聞こえていない。

これって自閉スペクトラム(AS:Autism Spectrum)や自閉スペクトラム症(ASD:Autism Spectrum Disorder)の人たちが、周りの人は皆、他人の気持ちやその場の空気、全体の中での自分の立ち位置が読めているのにもかかわらず、自分だけが読めていないということに共通しているな、と思った。

自分だけでは、自分がわからない(わかっていない)ことがわからないのである。
しかしこうやって検査を受けてみたり、専門家や信頼できる人から指摘してもらえれば、わからない(わかっていない)ことがわかるようになって来る。
しかし、ここからが二つに分かれる。
自分がわかっていないことを認める人たちと
自分がわかっていないことを認めない人たちである。
これは、加齢性難聴の場合も、自閉スペクトラム(AS)/自閉スペクトラム症(ASD)の場合も同じなのだ。

否認する人たちは「自分には聞こえている、大丈夫だ。」と言い、「自分だって読めている、バカにするな。」と主張する。
即ち、認めるか認めないかは、能力の問題ではなく、パーソナリティの問題なのである。

認めましょう、たとえそれが“不都合な真実”であっても。真実は、事実は、変わらないんだからさ。
認めた上で、じゃあ、どうやって生きて行くか、を模索して行けば良いだけの話なんです。

例えば、私なら、こう言えば済むことだ。
「高音が聞こえていないことで何か不都合なことがあったら、教えて下さいね。」
苦手なことは助け合えば良いのである。
ただそれだけのこと。

 

 

人間、勝負するときには徹底的に勝負した方が良い。
自分の問題、親子の問題、夫婦の問題、家族の問題、仕事の問題、職場の問題などなど。
直面化しないで先延ばしするテキトーな理由(言い訳)はいくらでも思い付ける。
ちょっと何かやったようなフリだけして、お茶を濁す場合もある。
しかし、そんなことをしているうちに時間だけは確実に経って行く。
若い頃は時間が無限にあるくらいに思っているかもしれないが、現実はそうはいかない
8050問題を見てもわかるように、ツケは必ず回って来る、しかも容赦ない形で。
そのまま死んでいいの?
そんな人生でいいの?
だから、自分の問題と徹底的に「直面化」するということはいつも意識しておいた方が良い。
それでも、いつも詰めが甘く、予想以上の時間を要するのが常であるからだ。

そして、いつでも問題を誤魔化さず、正面から直視し、直面化できるようになった後に、それだけではない世界が開けて行く。
いくら徹底的に直面化しても、ならぬものはならぬことがある。
それを悟り、自分を超えた時と力におまかせしなければならないときがある。
但し、そう言えるのは、徹底的に直面化できるようになった人だけである。
それは剣術において、どのような強敵に対してもいつでも刀を抜けるようになって初めて、敢えて刀を抜かないでいられるようになるのと同じである。
(本当はヘタレで刀が抜けなかったのを、抜かないでおいてやった、というような卑怯な言い訳とは異なる)
自力を尽くした者だけが他力におまかせすることができるのだ。

直面化とおまかせ。
やっぱりこの順番だな、と思う。

 

 

就職活動をしている青年から、進路選択について訊かれた。

仕事ということについて核となるところは既に『仕事観』に書いたので、今回は少し切り口を変えて彼に話してみた。

まず「収入のために働く」という観点からの選択がある。
それならば、働く時間はできるだけ短く、あるいは楽で、給料はできるだけ多いところを探せば良い。
最近は、「最低限食べて行ければ良いです。」「できるだけ働きたくないです。」という人たちも増えていると聞く。
あなたの人生だ。
あなたがそれで良ければ、
自己責任において、その観点で探せば良いと思う。

二番目に「やりたいことをやるために働く」という観点からの選択がある。
日本も欧米並みに個人主義的となり、「なりたい自分になる」「生きたい人生を生きる」という自我中心的な生き方が市民権を得て来たように思う。
それはそれで、自分以外の誰かに隷属したり、他者評価に支配されたままで生きるよりは結構である。
自分が本当は何がしたいのか、を見つめてみれば良いと思う。
ただ現実には、やりたい求人がないときもある。
また、あっても採用されない場合もある。
一旦勤めてみたが違っていた、ということもある。
あなたが本当にやりたい仕事を求めるならば、自己責任において、これがやりたかったんだ、と感じるまで探し続ければ良いと思う。

そして三番目に、「自分の生れて来た意味と役割、ミッションは何か」という観点からの選択がある。
「自分がやりたいこと」と「ミッション」とは必ずしも一致しない。
そこが二番目の観点との決定的な違いである。
例えば、サイコセラピストになることがミッションの人がいる。サイコセラピストになることがミッションでない人もいる、どんなに本人がなりたくても。しかしその人には国際公務員や実業家やパティシエになるミッションがあるかもしれない。
そもそも最初から自分の「ミッション」がわかっている人はほとんどいない。
働いてみながら、そして「本来の自分とはなんぞや」「自分のミッションはどこにあるのか」を求め続けながら、試行錯誤して行くことになる。
これは多数派の人が歩む人生とは違う人生になるかもしれない。
それでも、あなたがミッションに生きることを求めるならば、自己責任において、自分に与えられたミッションを見い出すまで求め続ければ良いと思う。

そう答えて、あとは二十歳を過ぎた彼にまかせることにした。

 

 

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