八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

今日は三か月に一度のハイブリッド勉強会。
今回は対面参加:リモート参加=1:2くらいの割合であったが、どちらでも各人の判断で選択されれば宜し。
ただ素朴に、“生(なま)〇〇さん”との対面は楽しいものである。

そして今日は、レクチャー&ディスカッションの『人間の承認欲求について』で3時間すべてを使ったが、参加者の成長のための時間であって、予定消化のための時間ではないので、それで大いに結構である。

その内容には敢えて触れないけれど、今日は特に参加者の発言によって会が深まって行く実感があり、個人面談も良いけれど、やっぱり集団も良いなぁ、ということを実感した。
Aさんの発言がBさんを刺激し、Bさんの発言がまたCさんを刺激する。そうやって参加者が相互に成長への刺激を与え合って行く。
もちろん特に発言しなくても、参加各人の中に起きているものがあり、それが会の雰囲気を醸(かも)し出す。
なかなか言葉では言い尽くせないが、かつてのワークショップや、毎週講義をしていた頃の教室の空気感を今日は思い出し、やっぱり集団は良いなぁ、と思った次第である。
それもこれも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った参加者のお蔭であることは間違いない。

また次回、4月のハイブリッド勉強会でお逢いしましょう。

で最後に、ハイブリッド勉強会の開催は、午後1時15分~午後4時15分です。
毎月の八雲勉強会(午後1時30分~4時30分)とは開催時間が異なりますので、ご注意を。

 

 

ある男子高校生が、
サッカー部に入れば、恐らく万年二軍選手だろうが、
陸上部に入れば、きっとすぐに全国大会で活躍できる、と言われて悩んでいた。
即ち、
本当に何をやりたいのかで選ぶのか、
どうやったらより評価されるのかで選ぶのか、ということである。

あなたならどちらを選びますか? 

かつて医学部に入学したとき、医学部に入ったらエラいと思ってもらえるから入った、医者になったらきっと儲かると思って入った、と思っている(はっきりそう口にするかどうか別にして)連中が余りに多いのに驚いた。
苦しむ患者さんに貢献するために、という言葉は建前でも聞いたことがなかった(実際には本気でそう思っていたヤツもいたと思うが…)。
その意味では、どうやったらより評価されるかで選ぶ、という方に著しく偏っていたと思う。

旧ソ連では、医者では喰えないので、タクシーの運転手をやっている、というテレビ報道を観たことがあった。
もし日本がそうなったら、どれくらいの人が医者になるだろうか。
それでも医者をやりたいという人に是非、医者になってもらいたいと思う。

そしてもう一歩深いことを言うならば、
評価されるかどうかを超えて
自分がやりたいかどうかも超えて
何をするのが自分のミッションなのかを掴み取れる感性を磨いて行ってほしいと願う。

 

 

 

所用があって、私鉄駅改札窓口の駅員さんやJR駅改札窓口の駅員さんと話す機会があった。
そのやりとりの合間合間に、ちょっと待つ時間があり、窓口横に立っていたのだが、その間にいろんな人が窓口にやって来た。

待つこと数秒で 
「早く領収証出せよ。オレ待たされるの嫌いなんだよ。チッ。』 
と言って立ち去るジジイ。

ちょっとした電車遅延の不満を、忙しい駅員相手に延々と言い続けるおっちゃん。

くしゃくしゃのメモを広げて、入れ歯なし(恐らく)のふにゃふにゃ言語で、なんだかずーっと怒ってるおばあちゃん(認知症の方かもしれない)。

毎日毎日これじゃあ、駅員さんも大変だな、と思った。
どこか自分が顧客である立場を悪用して、駅員さんをナメている臭いがする。

そしてまた駅員さんの対応が勉強になった。

そんな利用のされ方(言いがかり?)に対抗するためか、虚勢を張ったしゃべり方をする駅員さんもいるにはいたが、流石に女子高生相手にそんなのは要らないんじゃないかと思った。
しかし、そんなのは一人だけで、私が対応してもらった何人もの駅員さんたちは皆、とても親切であった。
特に、毎日毎日わがままな利用者たちに接しながら、中堅~ベテランの域に入っても“擦れる”ことなく、親切な対応を続けておられる姿勢には感服した。

目立たないことだけれど、地味なことかもしれないけれど、毎日毎日、何年も何十年も、この娑婆の中に生きて、汚泥を浴びせられながらも、こころの芯だけは清浄(しょうじょう)に保てているのは素晴らしいことだと思う。

まだちょっとこの世界には希望があるかもしれない。

 

 

ある舞台の話。 

ひとりの少年が、不運にも親に愛されずして、児童養護施設で育った。
見捨てられ感に泣いた彼の唯一の救いは、施設の図書室の本を読むことだった。
現実と異なる想像の世界が、彼のこころを癒した。

やがて自らの豊かな想像力を悪用するようになった彼は、念入りに練った経歴詐称を操るペテン師となっていた。
たとえそれが盛りに盛ったウソであっても、注目され、評価されるのが嬉しかった。

そしてある日、ひとりの初老の男性に出逢った。
その男は、すぐに彼のウソを見抜いたが、彼を責めることなく、

「本当の君のことが知りたい。」

と言った、繰り返し、繰り返し。
盛った彼ではなく、盛る前の彼に、心からの関心と愛情を抱いたのである。

「本当のオレには何の価値もない。」

と言いながら、泣き崩れるシーンには、私も思わず胸を打たれた。

なかなかやるな、この脚本家。 

寄り添われずに育てば、自己の存在価値なんてないものと思うようになるに決まっている。
それでも生きて行くために、身につけたニセモノの自分。
それで得られる、薄っぺらな存在価値がある。
でもさ、そんなものじゃなくて、そのままの自分に、本当の存在価値を感じたいじゃないの。

こういう脚本に出逢うと、ちょっと嬉しくなる私でした。

 

 

「皆さんは一応安心していらっしゃるように見えますが、心の中ではやっぱり漠然たる不安を感じられているのではないかと思うのです。一体どうしたらいいでしょう。本当にこの何とも言えない不安を乗り超えることが出来るのでしょうか。ここで一つ深く考えて見ましょう。私たち日本人はもう少し、目に見えないものの持つ意味を感じられるのではないでしょうか。いや、我々にその力が自然に与えられているのではないでしょうか。あなた方は目に見えないもの、例えば自分の家族に対する愛、子供に対する愛、愛情、これは目に見えないですよ。それを私たちは信じているでしょう。私たちは自ずからそういうものを、感じる力を持っているのではないでしょうか。これは一体どんなことでしょうか。一体それはどこから来たのでしょうか。
近頃見ていると、男性も女性も若い人達、少なくとも私が接する限りには、そうしたことに関して非常に割り切っているというか、浅い考えしかもっていない感じがするのです。だからお互いの間に本当の信頼はないのではないでしょうか。本当の信頼がないくせに簡単に安っぽく信じてしまう。そういうイージーな信頼の結果裏切られることが多い。その上裏切られた時に傷つけられても、その意味を深く考えない。こんなこと大したことないと、打ち消してしまう。このような何か自分の生命とか、自分の生活に対する安易な態度、自分の生き方に対する浅薄な態度は非常に強くていい加減な生活をしているような気がするのです。
私達の祖先は、いろんな厳しい状態をずっと生き抜いてきました。その中で彼らはいろんな困難に面し、不安に直面して、真剣にどうしたら生きていけるかを考えました。そして何が本当にこうした不安を超えられるか、ということを真剣になって追求した人達がいるのです。…親鸞聖人はその一人でしょう。法然上人もそうですね。そしてこの方々が人間が本当に真の安定を得て、真の安心が得られるのは何かを教えて下さったと思うんです。ひるがえって今のインテリの方々に聞きたいのです。私にどうしたら安心が出来るのか教えてほしいのです。医学博士でも理学博士でも、どこのプロフェッサーでもいいけれど、それを聞いたときにハッキリ答えられる方はほとんどいないのではないかと思うのです。何故かと言うと、少なくとも学者達は科学的な考え方をしている限りは、この質問に関してはおそらく返事は出来ないと思います。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

この当たり前の生活の背後にある、漠然とした不安を、あなたは感じたことがありますか?
拭(ぬぐ)っても、誤魔化しても、逃げ出しても、消し切れない不安があることを、あなたは感じたことがありますか?
そしてその不安を本当に乗り超えたいと、心の底から願ったことがありますか?
またあなたは、目に見えるものだけでなく、目に見えないものの持つ意味を感じたことがありますか?
そこに本当の安心への道がある、本当の安心へと連れて行って下さる力があることを感じたことがありますか?
消し切れない不安をひしひしと感じ取り、それを乗り超える道を真剣になって追求し、目に見えない働きを見い出して来た歴史が、この国の先人たちにはある、ということを知っておいていただきたいと思います。

 

 

諸般の事情により、世間のあちこちで値上げが起こっている。
個人的に、一番如実に値上げを感じるのは、スーパーやコンビニで食糧品関係を買ったときや、外食したときであろうか。
いずれも各店舗では非常な営業努力をされているわけで、それについてどうこう言うつもりはない。

ただ、値上げの仕方に二通りある。
以前のままの商品で、値上げするもの。
あるいは、値段は同じ(かちょっと上がったくらい)で、商品が小さくなるもの。

これまた個人的な願望であるが、前者で行くか、どうしても後者で行く場合には、「小さく(少なく)しましたよ~」とどこかにはっきりと明示してほしい。

消費者に気づかれにくいように、ちょ~っとずつサイズを小さくしたり、内容量を少なくしたものに出逢うと(「ステルス値上げ」とか「シュリンクインフレーション(shrinkinflation)」と言うらしい)、なんだかとっても寂しい気持ちになる。
値上げは、確かに、消費者にとっても痛いものであるが、生産者や提供者の大変さもわかっているつもりなので、国民みんなで一緒に乗り超えて行こう!という気持ちでいるところを、知らないうちに「ステルス値上げ」されると、なんだか騙されたような、信頼されてないような気がして来る。

そりゃあ、実際に値上げをブースカ言って来る消費者もいるだろうけども、ここらは生産者/提供者に“矜持”や“姿勢”を示していただきたい、と私は願っている。

「わたしたちも頑張っているので、サイズダウン/ボリュームダウンにご協力下さいっ!」とか。

先日、20年以上前から利用している洋食屋さん(盛りの良いので有名なお店)でオムライスを注文したら、黙~って、ひと回り小さくなったオムライスが出て来て、そのボリュームダウン以上にガックリ来た私なのでありました。

 

 

人間が自分の寿命のことを本気で考えるようになるのは、
大病や大きな事故・被災などを除けば、
四十歳過ぎくらいからではなかろうかと思う。

近藤先生はよく
寿命のことを考えるのは、
平均寿命の半分を過ぎたあたりか、
二親(ふたおや)が死んだ頃からじゃないかな、
と言われていた。

前者は、寿命を「あと何年」と数えるようになる年齢であり、
後者は、死への防波堤であった親がいなくなり、自分が直に死と向かい合うようになる年齢である。

蓮如上人は

「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法の事は、いそげいそげ。」

と言われ、早くにこの世界の真実を見い出すことを求められた。
若い頃は、そんなに焦らなくても、と思ったりしていたが、
年齢を重ねると、この一年、この一か月、この一週間、この一日の貴重さが実感を持って迫って来る。

ニセモノの自分、仮幻の自己を悠長に生きているヒマなんてないんだよね。

元より世俗的な成功や長寿などは、どうでもいい。
自分が今回、自分に生まれた意味と役割を果たしたか、果たしているか、本当の自分、真の自己を生きているのかが問題なのである。
そういう自覚によって、今この一瞬が濃くなるのであれば、寿命があることも、そしてその中で年を取ることも悪くないと思う。

 

 

二十代の頃だったろうか。
知人が
「まっちゃん、話を聴いてくれよ。」
と言って来た。
格段親しい男ではなかったが、伏し目がちにそう言う彼には、ただならぬ雰囲気があった。
「いいよ。」

そうして彼は話し始めた。
彼にはずっと片思いの女性がいたそうである。
悩み抜いた末に、思い切って彼女に声をかけ、今日、喫茶店で逢って来たのだと言う。
結局、踏み込んだ話はできないままに終わり、アパートに帰って来たのだが、洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、ハッとした。

「どうしたんだ?」
という私の問いに、彼は自嘲気味に答えた。
「ブレザーの左襟が立ってたんだよ。」

一瞬にして彼の言いたいことがわかった。

彼が彼女と逢っていた間、ずっとその襟は立っていたわけだ。
彼女はそれを直さなかった。
少なくとも指摘もしてくれなかった。
それが彼女の彼に対する関心の度合いであった。
彼がそんな格好で街を歩いていようと、どうでも良かったのである。

それが答えだった。

当時の私がうまいこと言えるわけもなく
ただ
「辛いな。」
と言うと、
彼はしばらく黙ったあと
「ありがとう。」
と言って、席を立って行った。

 

ブストーリーの映画を観ていて、何十年ぶりかでそんな話を思い出した。
胸の中がチクチクする話だった。


 

 

「大巧(たいこう)は為(な)さざる所(ところ)に在(あ)り」(『荀子』)

こんな言葉に触れると、ああ、東洋だな、と思う。

例えば、精神療法において、ああ分析して、こう戦略を立てて、こういうセリフを使って、あっちに持ってって、こう気づかせて、こんなふうに変わらせる、そんな手練手管(てれんてくだ)の、テクニック(技術)とスキル(手法)の精神療法が行われている。

いかにも自我の立った、「私」が「あなた」を操作する、「私」が「あなた」を治す、やり方である。
その点で、西洋の自我中心主義の臭いがプンプンする。
実際、そんな精神療法が多い。
それで本当に人間が変わったり、成長したり、救われたりするのであろうか。

それに対し、「自我の強化」どころか「無我」を志向する東洋では、そういう「自我」の「はからい」を嫌う。

「大功」の「大」は「人間を超えた力、働き」を表す。

「大功は為さざる所にあり」
人間を超えた力が働き、大いなる巧みさが実現するのは、人間が何もしないところにおいてである、というのだ。

人間が何もしない=「私」が何もしない=「自我」が余計なことをしないときに、人間を超えた力が働く。
そうして、何かを言う、言わされるときがある。
それで、人が変わる、成長する、救われるのである。

例えば、良き仏像を観ていても思う。
ああ、これは仏師が作ったのではなく、仏師が作らされた仏像だなと。

そして、西洋の名誉のために付け加えるならば、
『新約聖書』において

「何を言はんと思ひ煩(わずら)ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん」
(何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる)

とある。
やはりわかってらっしゃる方はわかってらっしゃる。

大功(大いなる巧みさ)は、そういうところで実現されるものではなかろうか。

 

ある海外ドキュメンタリー番組の中で、女性獣医がポツリと

「人間は他の種(species)と関係を持ちたがる動物だ。」

と言った。
このひと言が妙にこころに残った。

「確かに。」

ペットのことを思い浮かべればわかるように、人間はいろいろな他の種の動物と関係を持ちたがる。

そして、気がついた。

「おいおい、動物ばかりじゃないぞ。」

下手をすると、鉢植えや庭の木々などの植物とも関係を持ちたがっている。
少なくとも日本人はよく話しかけ、場合によっては木の幹に抱きついたりもする。

さらに、思い当たった。

「そう言えば、あのじいさんは庭石とよく話していたな。」

無生物まで行くか。
山や海や夕陽や月と話す人もいるぞ。

「関係を持つ」とは、どういうことか。

その存在と存在との根底において、ぶっつづきのものを感じるということである。

話が禅的になってきた。
いや、神道的か。

そんなものが感じられれば、世界の分断や対立もちょっとは少なくなるかもしれない。

まずは、動物でも植物でも無生物でもいいから、表面的な“隔て”を超えて「関係を持つ」ことから始めましょ。

 

 

時間と関心のある方には「書き初め」をお勧めする。

「書き初め」と言ってもただの「書き初め」ではない。
私のお勧めするものは、まず「お題」が変わっている。
まず黙って
『計画性がない』
と書いていただきたい。

書き初めに使う半紙のサイズは、よく使われる「半切」というもので、34.5cm×136cmの縦長サイズである。
これに縦書きで書く。

さて、実際に書いてみてどうなるか。
その結果は三つに分かれる。

(1)まずは、書いているうちに紙が足りなくなり、最後の「がない」あたりが立て込んで窮屈になるもの。
(2)次に、今度は紙が余って、「がない」の下に余白ができてしまうもの。
(3)三番目に、きっちり「半切」のサイズにバランスよく「計画性がない」の六文字がおさまるもの。

お気づきの通り、(1)と(2)には、いかにも計画性がない。
行き当たりバッタリに書き始めて、こういう結末になったことがわかる。
それに対して(3)は、計画性がある。
中には、予め「半切」の半紙を六つに折って、折り目を付けてから書き始める方もおられる。
何だったら「計画性がある」と書き直しても良い。

そして、である(これで終わりではない)。
ちょっと見直してみよう(ここからが本番)。

(1)の方は、「あれ、紙の残りが少なくなったぞ。」と気づいた時点で、今度は紙を下に継ぎ足しても良かったのである。
誰もそうしてはいけない、と言っていない。
そうすれば、「計画性がない」の六文字が問題なくおさまる。
(2)の方は、「あれ、紙が余っちゃうぞ。」と気がついた時点で、今度は余白部分を切り取っても良かったのである。
これまた誰もそうしてはいけない、と言っていない。

そうすれば、「計画性がない」の六文字が綺麗におさまる。
(3)の方は、半紙にきっちり六文字がおさまって大変結構であるが、ひょっとしたらその中に(全員ではないが)、内なる“見張り番”から「失敗してはならない」に脅されて、計画性にとらわれた人がいたかもしれない。
そういう人は、さっき申し上げた「計画性がある」ではなく、「計画性にとらわれる」という九文字で書き直した方が良いかもしれない。
もちろん半紙を九つに折って、折り目を付けてからきちんと書きあげることであろう。

で、何が言いたいのか。
この書き初めを通して
「靴に足を合わせる生き方」と
「足に靴を合わせる生き方」の
違いに気が付いていただければ、それで十分である。

そんな変わった「書き初め」。
おヒマな方はどうぞお試しあれ。

 

 

本来は、暦の上のどの一日も、二度と戻るものではなく、等しく尊いものである。
しかし、愚かな凡夫にとっては、どこかで区切りを付けないと、どの日も等しく尊いどころか、どの日も等しくどうでもいい日にしかねないため、「元日」という心機一転の区切りをつけている。
そういう凡夫のための暦の“からくり”については既に述べた。

そして、現行の新暦(太陽暦=太陽周期で「計算」)以前(明治初期まで)には、旧暦(太陰太陽暦=太陰暦(=月の満ち欠けで「計算」)+太陽暦)というものがあった。
しかし、これもまた日付がちょっと違うだけで、これこれこういう日を「元日」(旧正月)と「計算」し、それを区切りとするという考え方は旧暦も同じであった。

また、「二十四節気」による「立春」という区切りの付け方がある。
一年で最も昼の時間の長い夏至と、最も短い冬至を中心に決めたもので、平気法と定気法があるそうであるが、いずれにしても一年を二十四等分して「計算」し、そのスタート地点を「立春」と決めるという意味では、新暦、旧暦と五十歩百歩の考え方である。

が、しかし、である。
「二十四節気」だけは、旧暦や新暦と違って面白い点がある。
それはそこに「気」という言葉が入っているという点である。
そう。
この日を起点に「気」が変わるのである。
そういう「感覚」がその根底にあるのではないかと私は思っている。
いや、私としては、もう一歩踏み込んで申し上げたい。
「あれ、なんだか今日から『気』が変わった。」と感じて、その日を「立春」としたのである。
「気」が先。
「計算」などどうでもよくなってくる。

ある朝、起きてみて感じる。
外に出てみて感じる。
天を仰いでみて感じる。
この世界に満ちる「新たに」という強い力。
そうして初めて「新たな年」が始まった、と言いたくなるのだ

その「気の変化の感得」が先で、それでできたのがそもそもの「節気」というのが、私の個人的見解である。

その方が遥かに面白い。
面白いというより真実だと私は思っている。
「計算」という「理性」は、「真実」を感得する「感性(あるいは霊性)」の鈍い人たちのためにある、というのが私の見解だ。

元日くらいちょっと変わった、こんな話をしても良いだろう。

そんな話を近藤先生とよくしていたなぁ、と懐かしく思い起こす元日であった。

 

 

人間が本気で変わろうとするとき
変わるのは
今日から
今からでなければ意味がない。

しかし、アンポンタンな凡夫は
すぐにそのきっかけを逃してしまう。

そんなとき
大晦日から元日という大きな区切りがあることはとても有り難い。
元旦から!
と手をつけやすいのだ。
よしっ!
元日から変えて行くぞ!
新年から変えて行くぞ!

そして経験者は御存知の通り
これまたアンポンタンな凡夫は三日坊主に終わるのである。

ですから
いい加減、自力を当てにするのはあきらめて
おまかせしましょう、他力に。
あなたを通して働く
あなたをあなたさせてくれる力に。

おまかせします
おまかせします
おまかせします

そのことを
「南無阿弥陀仏」といい
「御心(みこころ)のままに」といい
「惟神(かんながら)」というのである。
宗教用語が嫌いな方は、ホーナイの精神分析の言葉を借りて
「わたしの無意識の底で働いている、わたしの『真の自己』を実現させる力におまかせします」
でも良い。

どうか
そんな想いを胸に
新たなるを迎えられますように。

 

合掌礼拝

 

 

時々、冠婚葬祭のマナー、テーブルマナー、さまざまな世事の付き合いごと、接遇などなど、いろいろなマナーや儀礼に関して、うるさいことを言う人がいる。
そんな話を聞く度に、マナー、儀礼の“根本”について、一度ちゃんと勉強された方が良いんじゃないかと思う。

言うまでもなく、我が国の「礼」に大きな影響を与えたのは、儒教、孔子である。
その孔子が最も嫌ったのが、形だけの「虚礼」であり、「相手を大切に思う気持ち」が先にあって、それをなんとかして表したくて、出来上がったのが「礼」という形である、という孔子の見解に私は大賛成である。

とすると、マナーや儀礼を知らない人を見下す人たちの姿勢には、そもそも「相手を大切に思う気持ち」がない。
これは致命的である。
むしろ最も「無礼」と言える。

さらに、「そんなことも知らないのは恥ずかしい。」と言って相手を責める人もいるが、“恥ずかしい”で相手をコントロールしようとすること自体、そう言っているその人自身が“他者評価の奴隷”であることを自ら露呈しているようなものである。

「恥ずかしくないように」世俗的なマナーと儀礼を完璧にマスターしているが、いちいち言うこと・なすことが慇懃無礼で、いちいち癇に障る人がいる。
また、世俗的なマナーや儀礼なんぞとんと御存知ないが、その溢れる愛と想いに胸を打たれる人もいる。
あなたはどちらになりたいか?

もちろん、まず愛と想いがあって、“ついでに”マナーと儀礼という形も知っているというのであれば、それはそれで苦しゅうない。

ですがやっぱり、「相手を大切に思う」という「気持ちの出どころ」こそが「礼」の“根本”です。
お心得、あるべし。


 

本日をもって、八雲総合研究所も仕事納めである。

今年、面談でお話して来た、あの人、この人の顔が浮かぶ。
勉強会でお話して来た、あの人、この人の顔も浮かぶ。

私にとって重要なのは、その人に対して私に与えられたミッションを果たして来れたかどうか、ということである。
元より、私の力でやっていることではないので、私を通して働く力を私が邪魔しなかったかどうかが問題、ということになる。

「仏法には無我にで候ふ」と蓮如上人がおっしゃる通り、私の我が働けば、それがパイプに詰まり、私を通して働く力が通りづらくなる。
だから、全てを投げ出して、我まで投げ出して、おまかせすることが必要になるのだ。

その上で、さくらがさくらであるように、すみれがすみれであるように、それぞれのカラー、芸風となって、その力が発揮されて行く。
私のカラー、芸風は、授かった持ち味なので、どうかご容赦いただきたい。

そうして、面談を通して働く、勉強会を通して働く、その力によって、少しでもあなたがあなたに近づくことができたのであれば幸いである。

来年またお逢いしましょうね。
来年またお話しましょうね。

あなたがあなたの顔になり、
あなたの生命(いのち)の輝きが増すのを感じる度に
私の凡情も喜ぶけれど
この世界が共に喜んでいるのを感じるのでありました。

 

 

 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と断定的なことを自信たっぷりに言う人がいるが、実際のところは、間違っていることも少なくない。

「それは本当にアンケートを取って調べたのか?」
「確かなエビデンス(証拠)があるのか?」
と詰めて行くと、甚だ怪しいこととなり、その人だけか、せいぜいその周囲の少数の人たちだけの思い込みだったりする。
精一杯
広く見ても、せいぜい、その地域、その時代だけの思い込みであることが多い。
それではとても「フツー」「みんな」などと言うことはできない。
それなのに、

フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と言うのは、十分に「独善的」である。

さらに
 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
という表現の裏には、
「だから、おまえもそうしろ!」
というメッセージも隠されている。
そうなると「支配的」でさえある。

皆さん、騙されないように。

健全な人間には、
フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と思いそうになっても、

「ひょっとしたら、これは自分だけの思い込みかもしれない。」
という謙虚な内省が生じるはずであり、

もし万が一、あなたが誰かに、あなたの意見を言いたいと思ったとしても、
「フツー」「みんな」というような、言わば、“ズルい”言い方を使わず、
「(他の人は違うかもしれないが)私はこう思う。」
とか
「だから(もし宜しければ)、あなたもそうした方が良いんじゃないかと思う。」
というような表現になるだろう。

そのときには、あなたにはあなたの人生を歩んで行ってほしい、という愛と願いがこもるはずである。
そうなると、あなたの存在は、世界に一人であり、人類史上初めての存在であるわけだから、
「フツー」も「みんな」も関係なく、あなたの選択が、世界に一人の、人類史上初めてのものであっても構わない、ということになる。

だから、やっぱり戻るところはここになる。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かった。
自分がどう生きて死ぬのかを見い出すのが、出生の本懐なのである。

 

 

 

以前、知人宅で家族一緒のカードゲームに誘われた。
家族みんなが好きなのだというが、私は苦手なので、と丁重にお断りした。

そう。
カードゲームは余り好きではない。
相手の心理を読んだ上の駆け引きとか、勝つためのフリに演技に嘘八百など、やろうと思えばいくらでもできるし、所詮遊びなのだからとテキトーなやり方もできないではないが。それでも面倒臭くてしょうがないのである。

それには私の生育史が絡んでいる。
相手の心理を読んだ上での駆け引きとか、なんとかその場を切り抜けるためのフリに演技に嘘八百など、そんなことは保身のためにイヤというほどやって来た。
もうたくさんなのだ。
そんなゲームをしなくても、本音から結論からコミュニケーションして行って、楽しい時間はいくらでも過ごせるということを、今の私は知っている。

だから、今の仕事も向いているのだろう。
相手の心理を読んだ上での駆け引きとか、なんとかその場を切り抜けるためのフリに演技に嘘八百に行き詰まったクライアントの方々が面談にいらっしゃる。
もっと人間を信じて、言葉を信じて、生きて行きたい人が面談にいらっしゃる。
私の通って来た道だ。
伝えられることは山ほどある。

そういう信頼と愛とに基づいた人間関係を構築できるようになった後で、やっぱりカードゲームを楽しみたいのであれば、それも「あり」だろうが、それでも私は「なし」だな。
可能ならば、いつでもどこでも誰とでも、正面からど真ん中の関係が私には心地よい。
 

 

今日、親族の逝去に立ち会った。
通常なら、そういう時間を持つことも難しいが、今回はたまたまが重なって立ち会うことになった。

地域のある大きな基幹病院での、本人と家族への医療と看護。
終末期の対応から、看取り後のエンゼルケア、エンゼルメイク、そして病棟からの送り出し。
事務方、葬儀社連携の霊安室から御見送りまでの流れ。

それが誰であろうと、ひとりの人間が生きて来た長い一生の最終の最後だもの。
どれも、いい加減に済ませたり、機械的に済ませたりできるものではない。
敬意を持って接したい。
その意味で、大規模病院ながら行き届いたものであった。

こうしたさまざまなハードとソフトも含め、故人のお蔭で、勉強になることが多かった。
やっぱり病院は“人の姿勢”で運営されているのだと思う。
少なくとも故人は、闘病はあったにしても、幸せな最後を迎えられたと確信した。

そしてここまでが“情”のお話。
究極のところは、何がどうなろうとおまかせなのであり、救いは万人に約束されている。

その想いを胸に
「一生のミッション、お疲れさまでした。」
と合掌礼拝して御見送りした。

 

 

「教育者全体にも言いたいことですが、人間関係にも言いたい。それはどういうことかと言いますと、よく私が言う、ひと言でいうと、水を流すためには溝を作れ、というんです。…水が来るように、そこに溝をね、掘らなくちゃいけない。溝を掘ると自然に水は流れる、通じて来る。それがだな、私はいつも思うんだけども、この家庭の問題で、あるいは人間関係で、教育で、足りないのがそれだと思うんです。…
やっぱり、その意味でね、平生(へいぜい)からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。だから、子どもでもそうですね。子どもでも、急にこうしたからといって、なんですか、お母さんは、『私はあなたの生命(いのち)を大切にしてんのよ、だから、こうしなくちゃ!』なんて、僕に聞いたようなことを言ったって、そりゃ、ダメですよ。本当に、毎日のおかずを作ること、御飯を作ることに心を込めた、そうした本当の、先ほど言ったように、ね、ニッコリ笑ってあげるとか、そういうことでね、溝を掘って行かないといかんのだな。溝を作っていかなくちゃいけない。そうしたときに、フッとこう、どうかしょうと思ったとき、お母さんの顔が浮かんだと、ね、それで思い直したと。何のことはない、ただもう無性に…うちに帰りたくなったと。こうしてお母さんにね、逢って、そうして人生の転機をね、迎えた人が何人か、たくさんあります。…
これも、普通の人間関係でもそうです。普通の人間関係でも、お互いにそうしたことを、上役が部下に対して、急に威張ろうとしてもダメなの。平生から部下との間の、いわゆる、そうした意味の、部下の生命(いのち)を観、その若々しい生命(いのち)をもう、じっとこう観て…若い人たちに僕は心から、本当に祝福を送りたい。そういう若者というものは、いつも、やはり、決してね、悪くなろうなんて思ってないの。いつもね、本当に自分の自分の生命(いのち)を輝かそう、本当に発揮しようと思ってる。そういうものを本当に認めてやるときに、生命(いのち)は伸びて行く、若者はね。だから、それをいつも、上役とか年寄りはね、考えるべきだと思うの。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

「溝を作る」ことについては、別の講演(「金言を拾う その9 溝をつける」)でも近藤先生は強調されていました。
改めてここで確認しておきましょう。
本当の挨拶(
=相手の生命(いのち)に対して合掌礼拝(らいはい)する姿勢)を毎日毎日続けること。
親が子どもの食事を作ってあげるときも、子どもの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って、毎回毎回心を込めて作ること。
上司が部下に、先輩が後輩に接するときも、毎日毎日その部下の、後輩の生命(いのち)を祝福する気持ちで接して行くこと。
大切なのは、毎日毎日、毎回毎回。
でも、我々は愚かな凡夫なので、つい忘れてしまうんです。
忘れたって構わない。
思い出す度、思い出す度、やっていると、いつの間にか、段々覚えていることが増えて行くんです。
それで結構。
それが凡夫の歩み。
でも凡夫なりの一所懸命。

そうなんです。
「溝を作る」とは、「私」と「あなた」の間に溝を作るということなんですが、それだけでなく、「大いなる力(あなたに生命(いのち)の礼拝をさせる力)」と「私」との間に溝を作るということにもなっていたのです。

 

 

今日はクリスマスイヴ。

釈尊もそうだけれど、キリストも、わざわざ人間という形を取って、この世に生まれて来て下さったということに、言葉に尽くせない感謝を感じます。
そういうふうにして示して下さらないと、この凡夫は、この迷える子羊は、いつまで経っても、仏の大悲に、神の愛に包まれていることに気がつけないもの
しかも、釈尊は釈尊で、キリストはキリストで、酷い酷い目にまで遭って下さるんです。

だから気づきましょう。
だから感じましょう。
キリストの降誕は、いつ・いずこにありやと。
それは2024年前(実はその数年前だとか諸説ありますが)のベツレヘムの馬小屋ではありません。

今ここに刻々と降誕し続けて下さっているのです。
生命(いのち)の降誕。
真実の降誕。
愛の降誕。
それが途切れるわけがないじゃないですか。
常に生まれ生まれて生まれ生まれて。
でも、それがわからないボンクラのために
わざわざ12月24日という一日を設定して
思い出させて下さっているのです。

どこまでも行き届いた設定に
どこまでもアンポンタンな迷える子羊は
ただ首(こうべ)を垂れて合掌し、感謝するしかないのでありました。

 

 

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