八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

今日は令和6年度4回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目に続いて4回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症の生成と発展

c.理想像の定立とそれとの同一化による「仮幻の自己」ー 神経症的性格の完成

しかし、何れにもせよ、この様な傾向が、自分の安全を中心として発展したものであるだけに、自分の自然な感情や考えは、安全の必要の為に押し殺されることが多く、次第に自分らしい感情や考えが自分自身にも、はっきりしなくなって来る。
これは「真の自己」の成長から、次第に離れて行く過程であり、自己疎外と呼ばれる現象である。この結果として、不安は一応防衛されても、そこに何か、はっきりした自分の感じのない、自信のない態度が生じて来るのである。自分の感じがなく、自信がない時、自ら生きて行く為にそれに代って安心の得られるもの、あおれらの代用品を必要とすることになる。
この場合に、自己疎外にある人間にとって、その様な代用品の材料として持ち得るものは、不安防衛の為にとった先にあげた3種の態度と、それに関する価値しかない。
例えば、自分の安全が強力なものに迎合し、依存して行くことによって防衛されるとして、そういう屈従的な態度をとるものは、自己の態度を、他の為に何ものをも犠牲にして止まない献身的な愛に満ちた態度であるとするし、反抗的、攻撃的な防衛方法をとるものは、自己の態度を悪に復讐する強大な力、指導性、正義を擁護する勇気の表現とするし、更に人から離れ、孤立的な態度によって不安を免れようとするものは、自分の態度を知性的とか、独立、自由、或は自足の表現であると価値づける。
その様に価値づけることによって、自分の自信のなさをするかえるわけである。この様に自己の態度を価値づけ、それを価値あるものと考える様になると、自らその価値を中心として自分のあるべき理想的な姿を画(えが)くことになる。
かくて自分の過去の生活の中で生れた夢想や、経験や、望みや、才能を材料としてそれぞれが特徴のある理想像が画かれる。それによって仮構された統一像を得るのである。この様な理想像の定立は確かにはっきりした目標を与える。その意味で、或る安心感の根拠になる。しかし、まだそれは充分ではない。何故なら、理想像はまだあるべき自分の姿であって、そこに自分との距離を感じる。到達すべきものとの間に空間があることは、まだ不安である。不安をなくする為には、この距離をなくさねばならない。一挙にこの空間を埋める方法は、その理想像に、想像の助けを借りて同一化する他ない。Salzburg(ザルツブルグ)の坑内の塩が ー Stendhal(スタンダール)の表現を借りれば ー つまらない枯枝を華麗な姿に変じる様に、その価値を核として、想像力が壮大な仮幻の自己を現出する。
「仮幻の自己」の完成は、一つの分水嶺を意味する。そこに立つ時、私達は一方に於て「基礎的不安」から出発する幼児期からの様々な傾向の展望を持ち得ると共に、他方に於て、ここから発して新たに展開する神経症的性格の構造に関して展望が得られるのである。


「基礎的不安(基本的不安)」を払拭するために、幼児は神経症的傾向を身に着けなければならなかった。しかしそれは「真の自己」から離れて行く道であり、やがて「自己疎外」に至ることになる。この心許ない状況を打開するためには、この神経症的傾向という代用品を理想像=「仮幻の自己」として完成させなければならず、その理想像との距離を一気に縮めるのに暗躍するのが我々の想像力なのである。
こうして、辛い環境の中に生きながら安心を得るために、おかしなまがい物であるこの理想像=「仮幻の自己」に人は酔いしれることになる。
尚、ザルツブルグの小枝の話は、流石の教養を思わせる文学的譬えである。関心のある方は、スタンダールの『恋愛論』をご覧あれ。

 

 

法事というのは余り好きではない。
正確に言うならば、形式としての法事、虚礼としての法事が好きではないのである。
もっと言うと、わざわざ時間とエネルギーとお金を割いて、義務と義理を果たしに来てやりました、というのが嫌いなのだ。
そういう連中は法事に参加しても、ビール飲んで料理喰って与太話をして帰るだけで、大抵、故人の話は申し訳程度である。
お坊さんの話も、無常を感じるには絶好の機会なので、是非有り難い話をしていただきたいのであるが、なかなかそういう話に出逢わない(失礼)。
それだったら、形式的・.虚礼的な法事には出席せずとも、ふと故人のことを思い出したり、誰かと故人のエピソードに華を咲かせる方が、よっぽど故人を悼んでいるのではないか、と思っている。
そして、その人がこの世に存在した意味や役割、ミッションについて、思いを馳せたり語ったりすることができたら、それ以上の追悼があるだろうか。
人それぞれいろんな人生があり、
中には、流産した子もいる、百十歳過ぎまで生きた人もいる、人知れずひっそりと生きて死んだ人もいる、ノーベル賞や金メダルを取った人もいる。
それぞれに意味と役割、ミッションがある。

 生まれ生まれ生まれ生まれて 生の始めに尊く

 死に死に死に死んで 死の終わりに尊し

(空海さん、勝手にアレンジしました。ごめんなさい)

そんなことが感じられる法事なら、是非行ってみたいと思う。

 

 

かつて近藤先生が年に一回、精神療法懇話会という場で若手の精神科医/臨床心理士の指導をされていた。
一人の患者さんの治療経過の発表と質疑応答に三時間ほどかけ、一日に二人の発表だけだったと記憶しており、丁寧に検討する会であったと思う。
そんな中で、参加する度に何より楽しみだったのが、近藤先生の最後のコメントであった。

まず若手が治療経過を発表をし、その後、フロアとの質疑応答に入る。
続いて、コメンテーター役の複数の中堅の精神科医/臨床心理士がコメントし、その後、ベテランの精神科医がコメントする。

そうして、オオトリに近藤先生がコメントされる、という流れであった。

私が楽しみにしていたのは、その近藤先生の最後のコメントで、それまでの他のコメントを全てひっくり返し、人間の本質、サイコセラピーの本質をズバリと示される様子は、毎回、実に痛快であり、やっぱり格が違うなぁ、と唸らされた。

当時、既に近藤先生の許にも通っていたので、会での近藤先生のコメントについてディスカッションするのも大変楽しみであった。
もちろん最初のうちは、想像を遥かに絶する先生の発言にただ感動し、唸るしかなかったが、
段々と自分だったらどうコメントするかを考えるようになり、自分のコメントと近藤先生のコメントとの差が、自分にとっての成長の道しるべとなって行った。

そうこうするうちに気づいたのが、近藤先生は観抜いたことの全てをコメントされているわけではない、ということであった。
私でさえ気がつく発表者やコメント提供者の問題や成長課題について、近藤先生が触れられないことが何度もあった。
「先生はあの人のこういう面に気づかれていたのに、触れられませんでしたね。」
というと、うんうんと応じられ、さらに私が
「目の前のもう一歩の成長のためには、何を言うかよりも何を言わないかの方が重要なんですね。」
と言うと、
「よくわかったね。」
と笑顔でおっしゃられた。
そんなやりとりが数え切れないほどあり、今から思えば、発表者やコメント提供者だけでなく、私のこともそうやって子どもを諭すように育てて下さったのだなぁ、としみじみ思う。

それからは、近藤先生が会で、気づいておられながらおっしゃられなかった点について、私が自分の領解(りょうげ)をお話して、(禅でいう)点検をしていただくことが恒例となった。
そうして段々一致する点が増えて行くことに、大きな成長の喜びがあった。

しかし、残念ながら、近藤先生が遷化されるまでに先生の境地に到達することは遥かに及ばなかった。
それでも、今もまだ私の中での近藤先生との問答は続いており、死ぬまで伸びしろはまだまだあるんじゃないかと思っている。
気づいておられながらも、あるいは、体験しておられながらも、当時の私にはおっしゃられなかったこと、それを解き明かして行くことが、今の私にとっては無上の楽しみである。

 

 

中学の頃、英語の授業で Sunday clothes や Sunday best という言葉を習った。
キリストの復活の日である
日曜日に教会に行くときは、着飾って行く、晴れ着を着て行く、というものであった。
初めて聞いたときに、よりによって教会に行く日に着飾るのは、虚飾に走るようで違和感があった反面、特に楽しみの少なかった時代にそれを口実にお洒落を楽しむのも良いんじゃないかと思ったのを覚えている。
神さまもそれくらいは微笑ましいと許して下さるだろう。

そう言えば、以前住んでいた地域のバス沿線には修道院があり、時々修道女の方が乗り合わせて来た。
皆さん、ご存じの修道服を着ていらしたが、その質素な出で立ちの中に、ちょっとメガネの端に花のデザインが入っていたり、黒いサンダルの甲バンドの端に星のデザインが入っていたりするのが、「清貧、純潔、服従」の暮らしの中にも、密やかなお洒落をしているようで微笑ましかった。

確かに、余りにブランド虚栄に走った服装にはゲンナリするが、我々の生活の中での、たまのお洒落は“地上の華”“俗世の彩り”として、なかなか宜しいんじゃないかと思っている。

昔、他人のちょっとしたお洒落を見かけると見下したことを言う、思いあがった似非クリスチャンがいた。
そいつは確かにいつも質素な身なりをしていたが、私はいつも質素にしています・虚飾に走っていません的な独善他罰の思いあがりが鼻についた。
ある日、私の前で第三者のちょっとしたお洒落を虚栄に満ちて華美だと批判したので、
「おまえの格好もまだまだ華美だよ。明日からいちじくの葉っぱ1枚で来いよ。」
と言ったのを覚えている(ちなみに女性の場合はいちじくの葉っぱ3枚となる)。
「そうしたら質素だと褒めてやるよ。」
呆気に取られた顔をしたそいつの肩を叩き、
「May you be blessed.」
と言うと、それを見ていた別のクリスチャンの友人が大笑いをしていた。

どうぞ生きてる間のことです。
いちじくがイヤな方は、たまにはお洒落を楽しみましょう。

 

 

「ホーナイが…日本に行って、経験したところ、見たところによれば、日本人全部がそうじゃないのですが、日本人にははるかに西洋人よりも、少なくとも日本の精神的な歴史の中に、本当に人間というものの成長 ー 真に良く生きることに関して、高い精神レベルのものに本当に達しうる色々な伝統があり、方法があると感じたと言いました。しかし残念なことに、今どちらかというと形式化している面もあるようだ。中には本当に生きているものがある。それは素晴らしいものなのだから、これをなんとかはっきりした形で表現して、日本人から世界に対する精神的な寄与として貢献してもらいたいと言いました。
…日本人を治療するのは、やはり日本人の持っている知恵だと思います。たとえばこういうことがあります。沢庵禅師、漬物を作った人ですが、この人の作った和歌に参考になるところがあると思いますので読みます。

『まだ立たぬ 波の音をば 湛(たた)えたる 水にあるよと 心にて聞け』

この歌は、まだ波の音が立たない、その音が立たないうちに、じっとたたえたその水の中に、その音がすでに潜んでいることを聞き取れ、心聞け、ということを言っています。こういうことを言いうる先人たちを持つ我々です。西洋ではそれをクライアントが言葉に出して、波の音がざわざわして、荒波が立ちさわぐようになってはじめて、その意味はどういうわけでしょうかと聞き始めるわけですね。今の日本のあなたがたセラピストはやはり同じ様に、大きな波の音が聞こえるようになって、その波の音を聞いて、何故そんな音がするのかと考え始める。けれども30年くらいセラピーをやっていますと、多少この趣(おもむき)がわかるのですね。敏感性というものに関連しますが、

 霜(しも)を踏んで堅氷(けんぴょう)に至る

という言葉があります。つまり霜の落ちた時点で早くも氷を感じることです。まだ立たない波がそのうちに立ち始める。波の音は今現在静かなたたえた水の中にあると感取する、そういうことを感じることが必要だと思うのです。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

日本人の持つこの敏感さ、正確に言えば、何人(なにじん)でも良いのですが、この日本の風土と伝統の中で育つうちに与えられると言いますか、この風土から薫習(くんじゅう)されると言いますか、そういうものがあるんです。
このことを思うとき、この国に生れて良かったなぁ、と本当に心の底から思います。
その敏感さを発揮して行く。
その敏感さを磨いて行く。
現代化し、欧米化することによって、理性化はしたけれども、鈍化し、劣化してしまった敏感さがあるわけです。
それでは理屈は立っても、クライアントの中に動いている真実を掴めない。クライアントの成長に寄与できないことになります。

こういうトレーニングは、本当は優れたセラピストのセラピー場面に陪席して磨いて行くのが一番良いと思うのですが、実際には難しいため、ある人(クライアントであろうと一般の人であろうと)について、自分が感じたことと信頼・尊敬できる人(師)が感じたこととの異同を検討することによって、磨いて行くのが良いのではなかろうかと思っています。

近藤先生の著書の中に『感じる力を育てる』があります。
やはり生命(いのち)を育てる際に一番大切なものは何かというと、感じる力、敏感さに尽きますね。

 

 

「己(おのれ)の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ」
(自分がしてほしくないことは他人にするな)

『論語』にある孔子の言葉である。
また、『新約聖書』には

「己の欲する所を人に施せ」
(自分がしてほしいことは他人にもしてあげなさい)

とある。

ああ、孔子もイエスも優しいなぁ、とつくづく思う。
凡夫や迷える子羊にちょうど良い、初歩的指導である。

世俗的には、相手の主観=我(神経症的自我)が喜ぶことをしてあげるのは良いことであり、同様に、相手の主観=我(神経症的自我)が喜ばないことはしないでいてあげるのも良いことである。
昔、『接遇』や『顧客サービス』『顧客満足』の講義を聴いたことがあるが、そんな話のオンパレードであった。
注意するべきは、そこで喜ぶのはいつも、その人の主観=我(神経症的自我)である。
まぁまぁ、初歩的にはそれで良いのかもしれない。
学歴が自慢の人には学歴を褒め、収入が自分の人は収入を褒め、社会的地位が自慢の人には社会的地位を褒めてあげる。
(学歴に引け目のある人の前では学歴の話題は出さないし、収入に引け目のある人の前では収入の話題は出さないし、社会的地位に引け目のある人の前では社会的地位の話は出さないのである)
そうすると自分は「善い人」になれるし、たいそう喜ばれる。
これを「我の満足」というのだ。
それ以上でも以下でも以外でもない。

例えば、暑い日にアルコール依存症の人によく冷えたビールを出してあげると喜ばれるかもしれない。
しかし、その行為はその人を破壊する。
また、虚栄心に満ちた人をよいしょしてあげると、実に嬉しそうな顔をして喜び、さらに思い上がった言動を垂れ流すようになる。
そんな虚栄心を強化してあげてどうする。
私たちは、その人の主観=我(神経症的自我)を喜ばせるのではなく、その人の生命(いのち)を喜ばせなければならない。
そこを間違えてはならない。
自分がどれだけあなたの存在を大切に思っているのか、そしてそのために自分を破壊するような飲酒はやめてほしいと願っているか、と思いを込めて伝えたならば、
あるいは、そんな自慢話をしなくたって、知ったかぶりをしなくたって、あなたは存在しているだけで尊いんですよ、ということを心から伝えたならば、
相手の主観=我(神経症的自我)は面白くないかもしれない、あるいはポカンとしているだけかもしれない。
けれども、本人さえも気づいていないその人の生命(いのち)は、実は喜んでいるかもしれない。
そこで初めて初歩を脱する。

過日、武田信玄によるという

「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」

という言葉を教わった。
小善が相手の主観=我(神経症的自我)を喜ばせることであり、
大善が相手の生命(いのち)を喜ばせることである。
従って、小善が実は大悪であったり、大善が非情に見えたりすることがあるのである。

きっと孔子もイエスも、初歩を脱した人たちに対しては
「その人の生命(いのち)の喜ばざるところを施すこと勿れ。」
「その人の生命(いのち)の喜ぶところを施せ。」
と言われるであろう。

 

 

公園で若いお母さんが小さな子ども二人を遊ばせていた。
やっと歩き始めた下の男の子が転んで泣いているのをお母さんが抱き起こしている。
4歳くらいの上の女の子は自分が地面に描いた絵をお母さんに見せたくてしょうがない。
「ねぇ、ママ、ママ!」
「ママ、見て、見て、見て!」
「ねぇ、ママ、聞いてったら!」
見て、聞いて、かまって、認めて。
ああ、こんなに承認欲求があるんだな、と思う。
これはもう我々に自我意識が芽生える以上、仕方のないことだと思う。
自我が芽生えれば、他とは違うこの存在の意義を、価値を認めてもらいたくなるのは当然だ。
忙しいお母さんは大変だけれども、できるだけ子どもたちの承認欲求を認めてあげていただきたいと思う。
しかし私に言わせれば、これもまた小児的欲求なのである。

問題なのは、大人になってからも、この承認欲求が強い人が非常に多いということである。
多いどころか、それを求めるのが当然だと思っている人がほとんどではなかろうか。
確かに、誰かに認めてもらうとつい嬉しくなったり、認めてもらえないとうなだれてしまうようなところがまだあるよね。
あのね、大人になるというのはね、他者からの承認がなくても、一度しかない人生、自分が何をして生きて死ぬのか、自分のミッションは何なのか、を掴んで生きることができるようになることをいうのだよ。

 「世の人は 我を何とも 言わば言え 我なすことは 我のみぞ知る」   坂本龍馬

最後は「天のみぞ知る」でも良いかもしれない。
こうなってこその大人である。

道元も言った。

 「万法に証せらるるなり」

そう。
究極の承認欲求というものがあるとすれば、人からではなく、この世界から承認されることにあるのである。

人は急には成長できないものだから、取り敢えずのところは、他者の承認を求めても良いけどさ、
あなたもわたしも、そのうち「ママ、ママ」を卒業して、いっちょまえの大人になりましょうね。


 

たまに一人で外食をすることがある。
食べるものにそんなにこだわりがある方ではないので、何が食べたいかというよりは一人で気軽に食べられる雰囲気の店を選ぶことが多い。

大抵は大丈夫なのだが、間違ってカウンターしか席が空いてない店に入ったりすると、マスターやら近くの席のひとり客から話しかけられることが多い。
なんだか知らないけれど、ちょいちょい話しかけられる。
職業柄、話しかけやすいというのは悪いことではないのだろうが、時と場合による。
特に孤独なお父さんや寂しいおばあさんから話しかけられることが多い気がする。
そして私の場合、仕事とプライベートでオンとオフを使い分けるような作為的な生き方をしていないので、そんなちょっとした雑談くらいでも、相手が観えてしまうから困ったことになる。
本人が気づいていないいろんな問題や生育史までもが観える。
観えてしまうものは仕方がない。
これが、昔だったら、筋金入りの聞き上手となり、相手が泣いて喜ぶくらいの相槌を打って差し上げることもできるのだが、とうに相手の主観的満足(我(神経症的自我)の満足)に沿う生き方はやめてしまったので、ご期待には沿えませぬ。
かといって、頼まれてもいないのに、相手の問題点を指摘するわけにもいかず、やがて会話は途切れ、沈黙が支配することになる。

やっぱり自分には、本気で自分と向き合って成長しようとする人以外とは話すことがないな、とつくづく思う。
そういう人は人類のほんの一部なのだけれど、私の毎日がそんな人たちとの面談で回っているという事実は、なんと幸せなのだろうと思わないではいられない。
まあまあ、八十億も人間がいるのだから、一人くらいこんな変わった人間がミッションを果たさせてもらっても良いだろうと思う。

だから
ヒマな人、話しかけないでね。
求めてる人、話しかけてね。
である。

 

 

時々講義の夢を見る。
講義の夢と言っても、なかなか講義する教室に辿り着けないという夢である。
駅に着けない、駅に着いても乗りたい電車が見つからない、乗ってもおかしなところに連れて行かれる、開講時間が刻々と迫って来る、という夢が多い。
私が私に与えられたミッションを果たして行くのに、なかなか望ましい環境が与えられない、いろいろと阻(はば)んで来るものがある、という私のこれまでの体験と実感を反映している夢だと自己分析している。

しかし、それだけだと悪夢の一種のようになってしまうが、その夢の中にも大きな希望がある。
というのは、夢の中で私の講義に向かう学生たちに出逢うと、みんな私の講義に対して大きな希望と期待を抱いていてくれているのだ。
そしてたまに教室に辿り着き、講義を始めることができると、教壇を見つめる学生たちの澄んだ眼差しがキラキラと輝いている。
これは私の現実体験と一致する。
そして、絶対にこの期待と信頼に応えなければならないという気持ちが湧き起こり、夢の中では不思議なことに、その期待と信頼に応える講義をする絶対の自信があるのだ。
これは全く揺るがない。
自分はそんなに自信家でも自我肥大的でもないと思うのだが、「私の」自信というより「天から授かる」自信であり、その意味ではこれは「自らを信じられる」という自信ではなく、「自ずから信じられる」という自信なのだ。

でもね、これはやっぱり「求める学生たち」がいてくれないと成立しないのだよ。
学生たちを貫いて働く「成長させようとする力」、そして、私を貫いて働く「成長させようとする力」、それが相俟って現成(げんじょう)する世界があるのだ。
それがたまらない。

そんな光景を、文字通り、夢見ながら、あの教え子たちの成長を、今も、これからも、ずっと願っている。
いつまでもあの眼差しでいてくれよ。
そうすれば成長の機会はこの世界に満ちている。

 

 

「男の人は、ふつう男は涙を流すものでは無いというところがありますが、しかしいったん涙を流すときは自分の腹から出たことを言います。だから男の涙は割合信頼できるけれども、女の涙はあまり信用できないときもあります。…
特に若い男性のセラピストなんか、女性のクライエントに泣かれちゃうとどうしていいかわからなくなっちゃって、つい相手の感情に巻かれて虜になります。そういう例が少なくない、若い男性の非常に弱い所だから、こういうときは距離を保つということに気を付けることです。それに対して女性のカウンセラーは、女性のクライエントが涙を流したときに割合だまされない、いわば距離が取れます。自分の経験からもわかっているのでしょう。しかし距離は取れるけれど扱いかねて、そこでただアアといって次に言う言葉を失ってしまうことがあります。そういうときにカウンセラーにお願いしたいのは『あなたの泣く気持ちはよくわかります。だけど今はどんな気持ちだったんですか、どんな感じだったので泣いたのですか』ともう一度クライエントを『認識する自我』に返してあげることが必要だと思います。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

私が八雲に通い始めた頃、近藤先生から直(じか)に「若い女性の涙には気をつけるんだよ、松田くん。」と言われたことがありますが、「何に気をつけるんだろう。」と思っていました。幸い私は女性の使う「可哀想な私」にまるっきり引っかからない性質(たち)でしたので、その後も事なきを得ました(←どういう“事”があるっちゅうんじゃ)。
今回の近藤先生の言葉は、「若手向け」のものですので、少し解説が必要でしょう。
きちんとしたトレーニングを受けた敏感なセラピストであれば、若い女性クライエントの涙の中に、依存や陽性転移や無意識の(時に意識的な)罠(巻き込み)があることをすぐに観抜ける、感じ取れるのですが、
まだ若い(特にまだなって十年未満の)男性セラピストですと、簡単に引っかかったり、混乱させられたりすることが起きがちです。
まだ感じ取れないのですから、まずは意識的に、物理的、心理的な「距離を取る」のが一番無難ということになるでしょう。
また、きちんとしたトレーニングを受けた敏感なセラピストであれば、クライエントの涙の出どころを観抜き、また、今このクライエントがどこまでそれを内省できるかを観抜く、感じ取ることも難しくないでしょうが、
まだ若いセラピストであれば、とてもそこまでは観抜けませんので、感情の表出を「『認識する自我』に返してあげる」という「やり方」を行うことが無難ということになると思います。

「距離を取る」「『認識する自我』に返してあげる」などという言葉は、近藤先生は通常おっしゃられない、若手向けのアドバイスですので、そこのところを誤解なきように汲み取っていただければと思います。
セラピストがきちんとしたトレーニングを受けて、「感じる力」が磨かれて来れば、「距離を取る」や「『認識する自我』に返してあげる」という「やり方」を離れて、もっと自由自在なセラピーになって行きます。
しかしそのためには、長年の(やっぱり十年はかかるでしょうか)トレーニングが必要なのです。

 

 

本年3月13日付けの小欄において『対面面談の際のマスク着用の自由化およびリモート面談の継続について[最新報]』をお知らせしました。
そして、2024(令和6)年4月1日から厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対応も新たなフェーズに入ったことに伴い、

【1】2024(令和6)年4月1日から
当研究所における入室時のアルコール手指消毒
当研究所における対面面談の際のマスク着用
来談者の自由(してもしなくてもOK)として来ました。
これらについては、2024(令和6)年7月2日以降も継続と致します。
但し、風邪などを引かれている場合、咳、くしゃみなどの症状がある場合には、コロナ前と同じく、マスクを着用されるか、病状により面談日時を変更されるかをお願い致します。
尚、私(松田)自身は、今しばらくマスク着用を継続するつもりです。
また、7月28日(日)開催予定の『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』におきましても同様に、マスク着用するか否かは、参加者の自由(してもしなくてもOK)と致します。

【2】現在、Skype、Zoom、Facetime などでリモート面談を行っている方々につきましては、2024(令和6)年7月2日以降も引き続き、Skype、Zoom、Facetime などのリモート面談の利用継続可能と致します。
新型コロナウイルス感染症拡大が落ち着けば、リモート面談の利用継続可能を続けながら、「1年に1回は八雲総合研究所に来所いただき、対面面談を行う」こととする予定ですが、
新型コロナウイルス感染症拡大状況は、残念ながら、現在も実質上、第11波(専門家によっては「夏の波」)の拡大に入っているようですので、これも延期とし、新型コロナウイルス感染症拡大状況の推移を見守りたいと思っています。

以上、どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

本年6月14日(金)付けの小欄で予告していたように、当研究所の「人間的成長のための精神療法」の「対象」を本日7月1日(月)付けで「一般市民」まで拡大することとした。
ようやくホームページおよびフォームなどの改訂が終了したので、ここにお伝えする。

 

変更点については、特に以下のホームページをご覧あれ。

「八雲総合研究所で行っていること」

「人間的成長のための精神療法のお申し込みを検討されている方」

 

ホームページ更新再開後、この1年のご要望に沿うため、約5年ぶりの「一般市民」対象の復活である。

従来の医療・福祉系国家資格者(精神科医、臨床心理士、正看護師、作業療法士、社会福祉士、精神保健福祉士)を「グループA」、一般市民を「グループX」にグループ分けし、「人間的成長のための精神療法」の申し込みを受け付ける。

 

先にも書いた通り、現在、当研究所の面談を受けている方々は、医療・福祉系国家資格者が約6割、それ以外の方が約4割を占める。
後者は約5年前に「対象」を「医療・福祉系国家資格者」に限定する前から面談を続けられている方々で、ということは、最低でも5年以上、面談に通われていることになる。
かように熱心な方々が多く、その「情けなさの自覚」や「成長への意欲」においては、医療・福祉系国家資格者と差はなく(元よりあるはずがない)、私としても非常に嬉しく、かつ、頼もしく思っている。

だからこそ、どこまでいっても、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」は絶対条件なのだ。

 

そしていつも原点に戻る。
そもそも何のために八雲総合研究所を作ったのか(その前身の松田精神療法事務所を作ったのか)。
私の今生でのミッションは何なのか。

何をやって生きて死ぬのか。

世俗的名利に踊る人生を送る気はない。

縁あって出逢った方々の人間的成長に関わることこそが私のミッションである。

いつもそこに戻って、目の前のやることを決めて行く。

 

さてこれから、どんなあなたに逢えるだろうか。

 

 

 

…と昨日で話は終わりではない。
長くなっても書かなければならない続きがある。

南無阿弥陀仏で「自我」を捨て、阿弥陀におまかせするところまでは書いた。
それで「山」を越えることについても書いた。

で、お気づきであろう。
それって、凡夫の方から「山」を越える話なのである。
改めて『山越阿弥陀図』を見る。
そうではなくて、阿弥陀の方から「山」を越えて来て下さっている。

ああ、そうだったのか、と嘆息する他ない。
自分から「山」を越えることのできない、「自我」を捨てることのできない、このバカのために、このクズのために、この凡夫のために、阿弥陀の方から「山」を越えてまで、迎えに来て下さっているのである。

我々の「自我」を超えた救いの働きを、一方的に、全く途切れることなく、永遠に与え続けていて下さっている、こっちがどんなにポンコツでアンポンタンであっても。

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
(親鸞『正像末浄土和讃』)

そのダイナミックな働きを表しているのが『山越阿弥陀図』の真意である(と私は思う)。

よって私は断言する。
『山越阿弥陀図』は静止画ではない。
動いて観えなければならないのである。

 

 

『山越阿弥陀図(やまごえ/やまごしあみだず)』を御存知だろうか。
凡夫が往生の際、阿弥陀仏が観音菩薩や勢至菩薩などを従え、極楽浄土から山を越えて往生者を迎えに来る、という場面を描いたものである。
(先日、東京国立博物館で開催された『法然と極楽浄土』でも『山越阿弥陀図』が展示されたが、検索されればいくつかの種類のものを見ることができる)。

で、まず、私が気になったのは、越えて来る「山」とは何かということである。
確かに、仏教伝来以前から山岳信仰のある我が国においては、「山上他界観」という伝統があり、阿弥陀が他界(極楽浄土)に向かう死者を待ち受けているという解釈は一理あると思う。
しかし、それはやはり「解釈」であり、「理」なのだ。
よくできているが、そこには、真に煩悩に苦しみ、念仏した者でなければわからない「体験」がない。

で、改めて、念仏して越える「山」とは一体何なのだろうか

念仏=南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に自分を投げ出すということである。
そこに越えるべき「山」がある。
即ち、自分を、「自我」を捨てなければ「山」は越えられないのだ。
「自我」という「山」がそこに立ちはだかっている。
従って、「自我」を捨てて初めて、自分を救う力=阿弥陀仏に包摂され、極楽浄土に迎え取られることになる。

いやいや、さらに言うならば、そのとき初めて、実は自分が無始以来既に救われており、極楽浄土にいたことに気づく。
越えてみれば、元々「山」はなかったのである。
これが「体験」によってわかる。
それが「山越阿弥陀図」の「山」の示すところなのだ(と私は思う)。

しかし残念ながら、凡夫の前には、高い高い「山」が現前する。
我々凡夫の「自我」は相当にしぶとい。
これをどないせえっちゅうんじゃ。
やっぱり凡夫のできることは、助けて下さい、と念仏するしかないのである。

 

 

認知症の中に、前頭側頭型認知症という疾患がある。
さまざまな症状があるが、特に抑制欠如(自制心や羞恥心を欠く言動、道徳感情の低下など)や反社会的行動(性的逸脱行動、万引きなど)を引き起こす人格変化で知られ、対応はなかなか大変である。
ある文献に「それでもどこか憎めないところがある」と書いてあったが、日々対応と謝罪に振り回されていたある妻は「憎めます。」とはっきりおっしゃった。

また、発達障害の中に、注意欠如多動症(AD/HD)という疾患がある。
その中でも、多動-衝動性が優勢なタイプは、離席、飛び出し、走り回り、高い所に上り、しゃべり続け、順番が待てないなど、じっとしていないため、目が離せず、対応はなかなか大変である。
これまたある文献に「それでも子どものやることなので憎めない」と書いてあったが、日々対応と謝罪に追われていたあるお母さんは「憎めます。」と涙ながらにおっしゃった。

これは障害のある大人/子どもについてだけの話ではない。
あなたの身近な大切な人のことを思い浮かべてみよう。
憎めるところは本当に皆無だろうか。
絶対に永遠に微塵もないと言えるだろうか。

ここでもう一度思い出してみよう、人間存在の二重構造を。
人間存在の表面を、このような症状、そして症状でなくてもその人が生育史の中で身に着けたろくでもない思考パターンや言動パターンが覆っている。
それらはなかなかに大変なものである。
よって、それらに基づく言動は、憎める。むかつく。十分に憎々しいと言える。
抑圧や偽善を使うか、あるいは、余程鈍感でない限り、憎めて当然である。

しかし、人間存在はそれだけではない。
二重構造の奥、人間存在の根底には、大切な生命(いのち)がある。
それは単なる生物学的な生命ではなく、その人を存在せしめる働きの源としての生命(いのち)である。
これは無条件に尊い。絶対的に尊い。とても憎めるものではない。
だから、前頭側頭型認知症の夫や注意欠如多動症の息子の寝顔を見たとき(寝ているときはその症状には苦しめられない)、あんなに怒った自分がイヤになり、ついその寝顔に手を合わせて謝ったりするのである。

つまり、人間存在の表面はどこまでも憎め、人間存在の根底はどこまでも尊い=憎めない、これが両立するのである。
ここを押さえておかないと、よく見かける負のループに陥る。
即ち、毎晩、寝顔を見ながら、ああ、明日こそは怒るまい、と誓いながら、やっぱり翌日も怒ってしまい、自責の念に苛まれる。
怒るまいと誓うことが無理なんです。
何故なら、存在の表面の問題はなくならないから、怒るネタは尽きません。
それよりも、怒ってかまわないから、憎んでかまわないから、ちゃんと存在の根底に対して、手を合わせて頭を下げましょう。
それしかないんです。

だから
憎めるけど憎めない。

むかつくけど尊い。
それが人間存在の実相。
だから(その存在の表面を)憎んでいいんですよ。
でも必ず(その存在の根底に対して)手を合わせて拝みましょうね。

 

 

三省」という言葉がある。
『論語』の中で、孔子の弟子の曾子(そうじ)が、一日のうちに三回反省した、という話から来ている。

「曾子曰(のたま)わく、吾(われ)、日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為めに謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。」
(曾先生がいわれた。「私は毎日三回、自己反省する。他人の相談に、まごころをこめて乗ってやらなかったのではないか。友だちとの交際に、約束をたがえたのではないか。先生に教わったことを、じゅうぶん復習せずに君たちに教えてしまったのではないか」)(貝塚茂樹訳注『論語』中公文庫)

前々から思っていたことであるが、『論語』の中に収められている言葉のうち、孔子の言葉と孔子の弟子たちの言葉とでは明らかな“格”の違いがある。
個人的には『論語』は、孔子の言葉だけで良いんじゃないかと思っている。
この「三省」などは、その良い例で、一日三回、意図的に、気をつけて、反省する、というのであるから、結局は、反省したいことしか反省せず、一番反省した方が良い“痛い”ところは、無意識に回避されることは、火を見るより明らかである。
その上に、自分は一日に三回も自らを反省=自省している、なんて謙虚なんだろう、という“不遜な”自負も生じやすい。

確かに、「三省」もしないよりはした方がマシであろうが、本当の自省はそんなものではない。
そもそも「自省」は、「自(みずか)らを省みる」のではなく、「自(おの)ずから省みる」と訓(よ)む。
自力で内省するのでなく、他力によって内省させられるのである。
そういう内省は深い。しかも的を射ている。
どんなに痛いところも、容赦なく内省させられることになる。
それこそが本当の内省である。
そして、成長することができる。
そう。
他力によって内省させられるということは、他力によって成長させていただけるということなのだ。
これを儒教風に言うと、他力ではなく、天の力と言えば良いのだろうか。

そして、自ずから内省させていただき、自ずから成長させていただくにはどうしたら良いのだろうか。
それは既にお伝えしているはずだ。

 

 

「頭で解釈して理論的にわかると、万事がわかったような感じになる。これはまあだいたいが日本の教育は頭でわかって答案を書けば、それで百点くれるんだから、それはそれでいいんでしょうけれど、分析だけはそうはいかない。カウンセリングも同じことだけれど、頭でわかってもうまくいかない。『わかっちゃいるけどやめられない』という言葉があります。たばこの悪いのはわかっているけどやめられない、ということがあるでしょう。理性によってそんなに自由に感情をコントロールできないものです。実は私は毎日タバコ6箱くらい吸っていたのですが、あるとき急に嫌になり止めてしまいました。皆私のことを意志が強いと言うのですけれど、実は意志なんかちっとも関係ないんです。ただ私の身体が嫌だと思っているのです。頭の方より、体の方が嫌だ嫌だって言っているのだから、どうしたってタバコを手に取る気がしないんです。つまりどういうことかと言うと、私たちの無意識はそれ程強いということです。むしろ私の場合は無意識で生きる方が大半なのです。そして一般的に分析では、無意識を意識によってコントロールして生きることが成熟した態度であると言うわけです。ただ無意識で生きるというのは大人らしくないということを言います。しかしタバコの例について言いますと、私はああ嫌だと強く感じた。たしかに無意識からの声ですが、これは私の正しい声だ、本当の声だと感じたからで、肺癌になったり体に悪いから止めなさいと言うのでは止めなかったのです。本当に止めたい、腹から止めたいと言うから止められたのです。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

昔、アロンアルファと屁理屈はどこへでもくっつく、と言ったことがあるが、少なくとも、人間のこころに関しては、頭や理屈はあまり当てにはならない。
昔から「理に落ちる」と言って、理性ではいくらでもそれらしいことを滔々(とうとう)と語れるが、実際に患者さんが治らない、症状が一向に良くならない、ということがよく起こって来る。
そんなんじゃあ、精神分析もカウンセリングも、屁のつっぱりにもならない。
人間の実相を掴み、その成長に資するためには、自他の体の声についても、無意識の声についても、それらをちゃんとキャッチする“感じる力”が必要なのだ。
近藤先生は自らの無意識の声を聴き、その働きに従ったからこそ、「喫煙をやめた」のではなく「喫煙がやんだ」のである。
先生が逝去された後、有り難いことに、私にも同じ体験が起こった。
私も喫煙歴が25年くらいあったが、ある日、ふっと喫煙がやんだのである。
私は自分の意志薄弱には自信があるので、自分の意志ではやめられないと確信していた。
それがある日、ふと吸いたくなくなったのである。
以来、1本も吸っていない。何の我慢もしていない。
そのとき、近藤先生に起きたことが、自分なんかにも起きるんだなぁ、と思ったのを覚えている。
今思えば、自分「なんか」は余計であった。
確かに私自身は、どうしようもないポンコツのアンポンタンだが、私の無意識を貫いて働く力は、近藤先生のそれと同じく、とてもとても尊く、勁いのであった。

 

 

まだ精神保健福祉士どころか、社会福祉士の国家資格もなかった頃、精神科病院でワーカーをやっている人たちと言えば、なかなかエッジの効いた“人物”が多かった。
資格もなく、診療報酬への直接貢献もなかったにもかかわらず、誰よりも患者さん、メンバーさんの方を向き、“志”と“誇り”を持って精力的に動いている人が多かった印象がある。

しかし時代は下り、精神医療福祉保健機関の中で、特に精神科病院の中では、医師を頂点としたヒエラルヒーができやすく、いつの間にか、医師以外のスタッフは para-medical と呼ばれて、その他大勢扱いになりがちであった。
そしてその傾向は、co-medical と呼ばれるようになっても(幾分薄まったかもしれないが)、まだ続いているように思う。
けれど実際には、いくら祭り上げられても医師というだけで全体をまとめ上げる力があるはずもなく(たまにはいたかもしれないが)、チーム全体が迷走状態に陥りがちであった。

しかし改めて、医療、福祉、保健分野の構造を見直してみると、中心となって働くべきは、車輪の軸となるべきは、ワーカーなんじゃないかと私は思っている。
あくまで患者さん、メンバーさんを中心に、あらゆる関連職種、あらゆる関連機関、社会資源の組み合わせを考え、コーディネートし、リードして行くには絶好の立ち位置にいると言える。
そうなって来ると、要求されるのは、それに相応しい“力量”と“人望”だ。
それがあれば、〇〇さんにひとつまかせてみよう、〇〇さんが言うんならそうだろう、という機運が生まれ、全体の力がひとつにまとまって行く。
(そうなって来ると、医師がチームの中心となってコケて来た歴史は、医師であったためではなく、その人に“力量”と“人望”がなかったせいかもしれない)

そして、“力量”と“人望”と言っても、“力量”の方は知識と技術と経験年数である程度はなんとかなるかもしれないが、“人望”となると求められるのはやはり人格である。
人格陶冶、即ち、人間としての成長、成熟がないと、なかなか周囲からの“人望”は得られない。
で、どうするか、となると、ここでもまた、ちゃんとした先達から、ちゃんとしたトレーニングを、知識・技術だけではない人間としての成長のトレーニングを受けることを大いに勧めたい、ということになる。

私も医師の端くれなので、〇〇さんなら全体の舵取りを安心してまかせられる、そんなワーカーと一緒に仕事がしてみたい、と切に希望している。
頼むぜっ!

 

 

クライアントと話していて時々出逢うのが、妙に“カウンセリング慣れ”した人たちがいることである。
そのカウンセリング歴について訊いてみると、なるほど小学校からスクールカウンセラーに相談して来たという。
スクールカウンセラー制度ができたのが 1995(平成7)年だから、小学校・中学校と相談し、その後、高校、大学でも相談して来たという人もいるわけだ。
その点を取り上げれば、カウンセリングを利用するということが一般的になって来たわけであるから、これは間違いなくスクールカウンセラー制度の功績であり、歓迎すべきことであろう。

しかし、“カウンセリング慣れ”ということからすると、抵抗なくカウンセリングを利用するようになったのは良いのだが、どうも話を聴いていると、カウンセリングをただの愚痴垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場と思っている人たちが少なくない印象がある。
そしてその理由も、すぐに想像がつく。
恐らく Rogers“的”な(本来 Rogers が言っているものとは異なる)形式的“傾聴”のカウンセリングを受けて来たのね。
それだと、カウンセリングが、愚痴の垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場だと思うようになっても致し方ない。
しかし、そ
れでは今の弱さ、ダメさの肯定に終わりやすく、未来の成長がない、どんな環境にあろうとも自分自身を生きて行こうとする“勁さ”が育たないことになる。

時にスクールカウンセラーは、確固たる“人間観”“成長観(治療観)”を持ってクライアントを導かなければならない。
それがあるだろうか。
あったとしても、それが一人の人間が自分の人生だけで考え出した(申し訳ないが)狭量で時に独善的な“人間観”“成長観(治療観)”であっては、却って有害である。
だからスクールカウンセラー自身も、ちゃんとした先達から、ちゃんとしたトレーニングを、知識・技術だけではない人間としての成長のトレーニングを受けることが必要だ、と私は思っている

それについては、関連の協会、協議会などの研修も行われているが、知識・技術的でしかも集団かつ座学のものが多く、わざわざ個別のスーパーヴィジョンや指導を受けている人は稀で、現在、当研究所で面談を受けている方々などは、かなり奇特な人たちと言えよう。
でも、それくらいやらないと、なかなか深まらないのだよ。
別に、みんなうちに来い、なんてそれこそ狭量で独善的なことは言わないから、自分に合ったところを見つけて、信頼できる先達を見つけて、もっと個別なスーパーヴィジョンや指導を受けた方が良いんじゃないかなぁ、と私は切に思っている。
それが、あなただけのことに留まらず、あなたのカウンセリングを受ける子どもたちの未来に直接、影響するからね。
スクールカウンセラーが担っているのは、尊き重責なのだ。

スクールカウンセリングがそんなに簡単に行かないことは私も知ってるけどさ、
それでも、折角の、子どもたちを救い、育てるためのスクールカウンセラーなんだもの。
せっせせっせと自分を磨いて行きましょ。


 

余談である。

ホームページの改訂で気になっていることに、私の掲載写真がある。
大したことではないと言えば大したことではない話なのだが、現在掲載中の写真に比して、私の頭髪が現在ほぼ真っ白になっているのである。
写真を変えなければ、と思いつつも、ちゃんと撮り直すための手間が億劫で、今日まで来てしまった。
別に、若く見せるための詐欺写真ではないので、どうぞご容赦いただきたい。
そのうち(いつか?)更新します。

で、白髪というと、いつも思い出す落語のフレーズがある。
ある大店(おおだな)のご主人が、外にお妾さんを作り、そこに足繁く通っている。
その頭に白髪が生えて来たのを見て、旦那が老けて見えるのがイヤなお妾さんは毛抜きでその白髪を抜いてしまう。
そしてうちに帰ると、うすうす旦那の浮気に気づいているお内儀(かみ)さんは、「まあ、黒々しちゃっていやらしい。商家の当主というものは、頭髪霜をいただくようになって初めて信用というものがつくものです。」と言って、今度は毛抜きで黒髪を抜いてしまう。
あっちで白髪を抜かれ、こっちで黒髪を抜かれているうちに、旦那の頭はとうとう禿になってしまいました、という噺である。

この「頭髪霜をいただくようになって」というフレーズが妙に耳に残っていて、若い頃は、そうなのかしらん、と漠然と思っていたが、いざ自分がそうなってみると、やっぱり「信用」というものは「白髪」じゃないなとつくづく思う。
白髪だけで信用がつくなら、皆さん、とっくにブリーチしてるわな。

「信用」はやっぱり「人格」です。

そのためには、地道に人間的成長を積み重ねて行くしかない、と改めて思う私なのでありました。

 

 

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