八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

夕暮れが早くなり、午後5時過ぎにはかなり暗くなって来た。
それでも近所の公園からは、遊ぶ子どもたちの大きな声が聞こえて来る。
近所の公園や保育所の子どもたちの声がうるさいと訴えた人がいたが、私には全くわからない反応である。
子どもたちの声をうるさいと思ったことがない。

子どもの頃育った地域は、水を張った蓮根畑に囲まれていたので、夏の夜になると蛙の大合唱であった。
相当な音量であったが、平気でグースカ寝ていた。
うるさいと思ったことがなかった。
先の人なら、これも訴えるのであろうか。

しかし、これが大人の会話の声なら十分にうるさいのである。
また、工事などの騒音であれば、言うまでもなく、うるさい。
この違いは一体どこから来るのであろうか。

子どもの声も、蛙の声も、それは生命(いのち)の声なのである。
ならば、うるさいはずがない。
いやむしろこちらの生命(いのち)も刺激されて、嬉しくなって来る。

それに対して、賢(さか)しらだって演技がましい大人の会話の声はうるさい。
工事などの騒音も、文字通り、騒音でうるさい。

残念ながら、それが感じ分けられない人にとっては、どちらもただの何デシベルの騒音にしか聞こえないだろう。

先日、近所の思春期のお兄ちゃんがシャウトする歌声が聞こえて来た。
またある日、近所の認知症のおじいちゃんの絶叫が聞こえて来た。
これもそんなにうるさくない。
その声の中にまだ、生命(いのち)の一部(全部じゃないけどね)が含まれているからであろう。

そいて、赤ちゃんの泣き声をうるさいと思うかどうか。
試されているのは私たちの方かもしれない。

 

 

「今は情報化の時代ですからね…沢山情報は何時でも、直ぐ、早く手に入るのですけれども…本当に何か自分自身の、何というか、自分の存在全体にグンとこたえるような感動、自分の心と身体全体をゆり動かすような、そういう種類の情報を我々は今日感じられるでしょうか。私はひとにこういう感動をもたらし、気づかせるのが本当の情報だと思うんです。…
情報がたとえ早く、しかも多くなっても、よほど、心を落ち着けて、どんな情報が自分にとって本当に必要か、よほどよく考えないと混乱してしまって、世界中にあふれるほどの沢山の情報があっても心の落ち着きは運んでくれないのではないでしょうか。いわんや本当の心の落ち着きのもとである安心はもたらされないのではないか、と思います。…
私は年を取ることはいいことだと思います。年を取らないと分からないことも沢山ありますし、つまらないこともあんまり感じなくて済みます。そこで『年を取らして頂いて有り難いなぁ』と思って頂きたい。若い時代は若い故に沢山の情報に敏感でつまらない事で悩んだり、苦しんだり、求めたりして、波にももまれるように暮らしているものです。それに比べれば年をとると、頑固になることに十分注意すれば、何か心が騒がず、落ち着いて来るものです。これは年寄りの有り難さなんですね。」(近藤章久講演『情報化社会は人間を救うか』より)

 

若い頃は、できるだけたくさんの情報を、できるだけ早く入手して、うまいこと立ち回りたいと思うものです。
それで、そのうまいこと立ち回って得た報酬はどれほどのものなのでしょうか。
たとえそれで天文学的な収入を得たとしても、世俗的な名声を得たとしても、それで本当の出生の本懐(自分が今回この人生に生れて来た意味)が得られるのか、ということとは別問題なわけです。
それならば、たくさんの情報を早く、というとらわれを脱して、本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報にのみ絞り込んで行くことが必要なのかもしれません。
特に若い方々にはそのことをお勧めします。
そして年輩の方々は、折角、意図的に頑張らなくても自然にガツガツ立ち回ることができなくなるようにしていただいているわけですから、
本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報だけを大事にして行くことがより容易に行いやすいわけです。
従って、老若男女を問わず、絞りましょ、ホンモノの情報に。
ホンモノの人生を生きていくために本当に必要な情報は、それほど多くないのかもしれません。

 

 

味方のいない家庭で育った子どもは、当然のことながら、全部を自分の小さな頭と心で考えて対処するしかなかった。
そうなると、元々が偏りのある家で育って来た上に、一人で考えて来たものだから、いろいろなことに間違い・勘違い・思い込みが入り込む。
そして、それは本人一人で気づけることではないし、そんなことについて深く話す相手もいないものだから、修正されないままに大人になることになる。
それじゃあ、社会生活で生きにくくなるに決まっているよね。

面談をしていると、よくそんな方にでくわす。
「おっと、そこは勘違いだね。実はこうなんだよ。」
「それが有効だったのはお母さんとお父さんに対してだけだね。健全な人間関係では…。」
「いやいや、あなたが本当に感じているのは…。」
時には、何重にも間違い・勘違い・思い込みが層をなして絡み合い、これはどこから手を付けたらいいのか、と途方に暮れそうになるときもあるが、信頼さえしてくれれば、それでも薄皮を剥がすように余計なものが取れて行き、その度に本人も生きることが楽になり、そして、どの方向を目指して生きて行けばいいかが見えて来て、安心を実感するようになる。
それが体験できれば、この道で間違いない、この世界で私も私を生きて行けるようになれるかもしれない、という希望が生まれる。
そしてその希望が、さらに次の一歩への原動力となる。

そういうことが起こるのは、決して私の“正解”にその人を導いているのではない。
その人の中にある“正解”にその人が導かれて行くのである。
導くのは“私”ではない。
私を通して働く力と、その人を通して働く力とが、導いてくれるのである。

 

 

子どもがおねしょをした。
お母さんはギャンギャンと怒った。
「何やってんの!」「本当にもうあんたは!」「お母さんがどれだけ大変かわかってんの!」
おねしょは本人がわざとやっていることではないため、怒られても途方に暮れるしかなく、あ~あ、自分はダメだなぁ、と子どもの自己評価を下げることになる。

子どもがおねしょをした。
お母さんは盛んに言った。
「大丈夫、大丈夫。」「おねしょなんてどうってことないから。」「気にしなくていいからね。」「大したことない、ない。」「心配いらないよ。」
子どもはポカンとした顔で聞いていたが、母親が余りに言うので却って、自分は大変なことをやってしまったのか、と気になってしまった。
演技的オーバーアクションは嘘くさくなる(実はお母さんが気にしていることがバレてしまう)のでしない方がいい。
子どもの直観は侮(あなど)れない。

子どもがおねしょをした。
お母さんはあっさりと
「大丈夫よ。」「さ、着替えて。」「お布団も洗って干しましょうね。」
と言っただけで終わり(本音でそれだけ)。
子どもの自己評価が下がることもなく、疑心暗鬼になることもない。
それよりも何よりも、子どものおねしょなんかで揺るがない母親の愛を感じる。

ちなみに、「おねしょ」が「夜尿症」になって「症」が付いて来ると、ちょっと意味が違って来る。
「夜尿症」の定義は、
1.年齢:5歳以上
2.頻度:1カ月に1回以上が、3カ月以上続く
であり、1週間に4回以上となると「重症度」が「頻回」となる。

そして、有病率は、5歳:15%、6歳:13%、7歳:10%、8歳:7%、10歳:5%、12~14歳:2~3%、15歳以上:1~2%、と少なくない。
いろいろな場合があるので、心配な親御さんは小児科医に相談しましょう。

で、最後に大事なことをひとつ。
上記のように、お母さんが子どもに愛情を持って接することができるようになるためには、お母さん自身もまた愛される必要がある。
お父さんはもちろん、(心理的に)お母さんの近くにいる人たちは、一所懸命に生きているお母さんを非難するのではなく、愛しましょう。

愛されて初めてその人は本来のその人を発揮します。

 

 

今日は令和6年度7回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目に続いて7回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

c.神経症的誇り neurotic pride

一方に於いて、「仮幻の自己」の高みに立つものにとって、あらゆる他のものは卑に見える。今や長い間の卑劣感や劣等感から免れて、他に優越、超出(ちょうしゅつ)し、栄光に包まれた存在としての自分を発見するのである。
優れて価値あるものとして自己を発見する時、おのずからそこに誇りを感じる。これが神経症的誇り neurotic pride と呼ばれるものであり、神経症的性格のすみずみに行き渡っている。だから見方によっては神経症的性格は誇りの体系とも見られる。それは神経症者の生きる様々な状況に於いて極めて敏感な、主観的な標尺(ひょうしゃく)として作用する。
彼の外に対する要求 claims に於いても、内に対する要求 shoulds に於いても、誇りの感情はいつも働き、よろこび、悲しみ、痛苦、快感等の烈しい感情的反応の源泉となる。誇りは一定の自己評価に基づいているから自信と同じ結果を与える。自信と同じ様に誇りは彼の生活を支持し、生甲斐(いきがい)を与える。
しかし、誇りは自信と違って、現実的な自己評価でなく、想像された自己の仮幻の価値にもとづいているから、当然現実に面する時傷つき易い弱点を蔵している。
この脆弱(ぜいじゃく)性を曝露(ばくろ)されることの危険を感じると、主観的な自分の価値を守る為に ー 神経症者は、その様な状況を回避したり、或は曝露され傷ついた時は、それによって生ずる屈辱感や怒りを、自分の面子(めんつ)が傷つけられたとか、正義の怒りだとか、愚なものの為に耐え忍ぶだとか、様々な口実を設けて合理化するのである。
しかし、この脆弱性は本質的なものであるから、これを守る為の様々な試みは、神経症的悪循環を増大するのみであって、解決にならないのは当然である。そして結局のところ、その様な脆弱性を持つ「現実の自己」を許し難いものとして非難し、それに対して軽蔑と憎悪を感じるのである。

 

自分が自分であることに寄り添われずに、そして、自分が自分であることを否定されて育った人間でも、やっぱり自分の存在には価値があると信じたい。
しかし、自分が自分であることに価値を認めてもらえないとなると、何でもいいから、価値がありそうなものをでっちあげて、それにすがるしかない。
それが「仮幻の自己」。
そして
そこに誇り=神経症的誇りを感じたいと願う。
しかし、「仮幻の自己」は余りにも理想的に過ぎるため、
[例]誰からも愛される、成績が誰よりも優れているなど。
満たされない度に傷つく脆(もろ)さを持っている。
そのため、その不満を他人のせいにしたり、理想の「仮幻の自己」を実現できていない「現実の自己」=今の自分のせいにして、責めたてるのである。
やっぱりそもそもの「仮幻の自己」に大きな問題があったのだ。
そして、小さい頃はしょうがなかったけれど、大人になった今は、そろそろ「仮幻の自己」じゃなくて「真の自己」を取り戻す方に舵を切りませんか、という話につながっていくのである。

 

 

電話に出られない、かけられない若者が増えているという。
その気持ちもわからないではない。
いやいや、わからないどころか、私も若者の頃にはその傾向があったと思う。
思えば、未知の相手とのコミュニケーションに不安があったのであろう。

相手はどんな人だろうか。
自分はちゃんとコミュニケーションを取れるだろうか。
相手の意を害さないであろうか。
相手の意に添わないと、非難され、攻撃されるのではなかろうか。
ああ、面倒くさい。
回避したい。

根底にはそんな不安と恐怖がある。

何故そうなるのか、そうなってしまったのか。
生まれつきのはずはない。
単なる経験不足なら、経験によって急速に改善するはずであるが、なかなかそうはならない。
それは、そのままの自分の不用意な言動を非難・攻撃されて来た歴史があるからである。
誰からか?
おわかりであろう。
それも多くは、すぐに児童相談所に通報されそうな虐待によってではない。
当人たちもそれと気づかないマルトリートメント(maltreatment)=子どもへの不適切な関わりは、日常生活の中で密(ひそ)やかに行われ、子どもは小さなパンチを受け続けて行く。

そうして、電話よりも安全距離があり、ダイレクトでない、LINEなどのSNSが選ばれるのである。
最近は、仕事の退職の申し出もLINEで済まされる。
退職代行サービスも、安全距離が保たれ、ダイレクトではない点では同様である。
恐くて直面化できない。

これまた子どもの頃ならそれもしょうがない。
しかし成人になってからは、自分の責任だからね。
相手の反応によらず、いつでも、どこでも、誰の前でも、自分でいられるようになることを目指すか・目指さないか、
それはあなた次第。
折角、世界に一人、一回だけの人生を授かったのだから、自分を生きて死にませんか?

ここでもまた、心からそうなろうとする人には応援団がいることを知っておいて下さい。

 

 

ダチョウは危険が迫ると、頭を砂の中に隠して危険をなかったことのようにする、という。
思い浮かべると滑稽な姿である。
そこから、都合の悪いことから目を背ける姿勢のことを「オーストリッチ(ダチョウ)効果(ostrich effect)」というそうな
精神分析的に言えば「否認(denial)」ということになる。

ダチョウの名誉のために言うならば、実際のダチョウはそんなことはしない。
ダチョウが聞いたら怒るだろう。

しかし、人間はやる。
都合の悪いことから目を背ける。

それも、小さくて弱い子どもは仕方がないと思う。
辛い
現実から目を背けて誤魔化さないとやってられないんだもの。

しかし、大人がやるのはいかがなものか。
そのときだけちょろまかしたところで、問題は全く解決していないし、
すぐその場で破綻しなければ、うやむやのうちに時は過ぎ、後で破綻することになる。
「オーストリッチ効果」は「先送り」とセットになりやすい。
不登校、引きこもり、8050問題。
健診や人間ドックを受けず(受けても結果を放置し)/体の不調も放っておき、気がついたら大変なことになっている。
などなど、例には事欠かない。

まず、せめて「情けなさの自覚」を持とうよ。
「オレって(ワタシって
)しんどいことが起こると目を背けて誤魔化すよな、逃げるよな。とほほ(あ~あ)。」と。
そして次に「成長への意欲」を持とうよ。
「誤魔化さないで、逃げないで、向き合えるようになりたい、直面化できるようになりたい。成長したい。」と。
そうなれば、やることがある、できることがある、いくらでもある。

そして最後は大人の責任。
まだ逃げます? 向き合います?
その結果は容赦なくあなたの人生に返って来る。
最早子どもではない大人のあなたの責任。

せめて向き合おうとする人には応援団がいることを知っておいて下さい。

 

 

所用で立ち寄った郵便局に、ポスターが貼ってあった。
見ると、カスタマーハラスメントの掲示で、
「当グループではカスタマーハラスメントを『お客さま等による妥当性を欠いた要求や、社会通念上不相当な言動(暴言、暴行、脅迫等)により、役員、社員の就業環境を害されること』と定義」し、「対象となる行為があったと当グループが判断した場合、対応をお断りさせていただきます。また、悪質と判断した場合には、警察・弁護士等に相談のうえ、適切に対処いたします」
などと書いてある。
ごもっとも。
こういう姿勢は個人的には大歓迎である。

今まで、精神科臨床は大変だと思っていた面があったが、よく考えてみれば、こういった一般の接客の方が遥かに大変である。
コンビニ、スーパーなどの小売店、ファストフード店などの飲食店、衣料品店などなど、誰が来るかわからない。
あらゆるカスタマーに対応しなければならないのだ。

それをアルバイトの若いお兄ちゃん・お姉ちゃんが接客しているのかと思うと、何かと批判・非難されやすい“今どきの”若いお兄ちゃん・お姉ちゃんたちであるが、なかなか頑張ってるな、とちょっと見直したくなる。

昭和の頃、「お客さまは神さまです」と言った人もいたが、客全員を神さまと持ち上げる必要はないし、かと言って、客全員を鬼・悪魔と貶(おとし)める必要もない。
カスタマーといっても特別扱いはなし。

互いにただの人間同士がいるだけなのだから、当たり前の人間としてやっていいことはいいし、やっていけないことはダメ、というだけのことである。
いつもそこに戻ろう。
真実はいつもシンプルなところにある。

 

 

子どもには、何かこう、愛を求め、愛というものを、本当にね、感じたい、幼い気持ちが、いや、子どもらしいというよりも、全人類に共通したそういうものが、心の中にあると思うんです。我々全人類っていうものはね、大人も子どももです、我々は愛というもの求め、それに渇(かわ)いている人間じゃないでしょうか。…
よく子どもは授かりものだと。そうなの。授かるって、何を授かる。自分がそれを本当に健やかに、幸せにするように、のびのびと成長さすように、そういう役割を自分は持ってる。母という役割を持ってる。そういう気持ちでね、見て下さい。だから、その生命(いのち)を汚しちゃいかん、その生命(いのち)を傷つけちゃいかん、その生命(いのち)を健やかに育てて行かなくちゃいけない。そのために私たちは、まず第一に大事なことは、自分自身の心を正直な、偽りない、偽善でなくて、本当の意味の愛というもの、正しい、本当の、正直な愛というものを子どもに対して持つ、その生命を育てて行く、ということが必要じゃないかと思う。
どうか、もう一遍繰り返しますけど、具体的にそれを言えば、子どもを認めてあげて下さい。旦那さんも認めてあげて下さい。自分を認めてあげて下さい。…
だから、結婚の愛というもの、夫は妻の生命がすくすくと育つようにするのが夫の愛です。妻は夫がすくすくと、その生命が伸びて行くようにする。これが妻の愛です。…
その根本的な愛があるならば、自分の子どもに、授かった子どもに対して、その生命を育てて行くために、一所懸命、どんない苦労しても、こんなにやりがいのあることはない、と私は思うんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

人間一人の一生の間で、まず自分一人の生命(いのち)を本当に愛し、本当に育てることができたならば、それは素晴らしいことだと思います。
そして、自分以外の生命(いのち)を一人でも、本当に愛し、本当に育てることができたならば、それはさらに素晴らしいことだと私は思っています。
ですから、
縁あって夫婦になることの本当の意義

縁あって子どもを授かることの本当の意義
縁あってわたしがあなたに出逢った本当の意義
を確かに掴み、

相手の生命(いのち)を本当に愛し、育てて行くことに、
あなたに与えられた深いミッションを感じていただきたい、と切に願うのであります。

 

 

ふと思う。
私が若い頃から得意だった、相手が何を望んでいるかを見抜き、それを率先して言ってあげるようなセラピーをやっていたら、どうなっていただろうかと。
恐らく、短期的には絶大な支持と人気とを博したかもしれない。
クライアントたちの実に嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。
しかし、大変申し訳ないが、それは各人の我(が)が喜んでいるだけの、薄っぺらい笑顔だ。
そうして必ず行き詰る、そんなやり方では。

甘い毒は後から効いてくる。
その間の貴重な人生の時間が無駄になり、
多くの成長のチャンスが失われる。
そんな共犯者に私はなりたくない。

だから、多少耳が痛くても、
心にチクチク刺さろうとも、
時に真実を申し上げる。
耳触りの良い、あなたの我が喜ぶような言葉だけをお聞きになりたいのであれば、他のセラピストのところへどうぞ。
成長のための真実の言葉がお聞きになりたいのであれば、こちらへどうぞ。

そして流石に私のところへ面談に来られる方たちは、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っておられる。
従って、私が申し上げるまでもなく、自分から果敢に自分の問題や成長課題について取り上げられる方も多い。
そうなると、私が何かを申し上げる必要もない。

そういう姿勢の違いが停滞か成長かの分かれ目になる。

苦い薬もまた後から効いてくる。
そしてそれはやがてあなたの人生の深い味わいとなる。

 

 

自分で言うのもなんだが、私は腹の底から納得しないと絶対に謝らない性質(たち)である。
寄ってたかってどんなに責められようとも、自分に非がないものは謝らない。
逆に、自分に非があると思ったら、求められなくてもこちらから謝る。
随分、頑固、強情だな、と自分でも思っていたが、そんな態度もまだまだだな、と思う経験が今までに二度あった。

ひとつ目は、以前、お茶の水の喫茶店で一人コーヒーを飲んでいたとき。
通路を挟んで隣のテーブルで、背広を着たサラリーマンらしきおじさん二人が何やらもめている。
聞くともなしに聞こえて来た内容からすると、営業マンと取引先の担当者らしく、担当者のおじさん(五十代くらいの細身で長身)が営業マンのおじさん(四十代くらいの太って中背)に向かって盛んに怒っている。
伝わって来る内容からして、結構、面倒臭そうなおじさんで、いちゃもんに近い御託を並べているように聞こえる。
それに対して、営業マンのおじさんはさっきから平身低頭で、ペコペコペコペコ謝っている。
ああ、気の毒に可哀想だな、と思って、営業マンのおじさんの方を見て驚いた。
それほど責め立てられているのに、その営業マンのおじさんは卑屈になるどころか、全く動じていないのである。
確かに表面的には、テーブルに額をぶつけそうな勢いで何度も頭を下げ、「申し訳ありません。」「すみません。」と連呼している。
しかし、気持ちが全く動じていないのが伝わって来るのだ。
こりゃあ、したたかだなぁ、と思った。
それまで私のまわりにはいなかったタイプの人間である。
これならどんなに謝り倒しても、なんだったら土下座しても、全く自尊心は傷つかず、屁の河童であろう。
こういう海千山千のしたたかな強さもあるのだ、と思った。
これなら平気で謝れる。

そうしてもうひとつは、近藤先生である。
あるクライアントがそれこそ、いちゃもんをつけてギャースカピースカ言って来た。
しばらく黙って聴いていた先生が、「それは悪かったね。ごめんなさい。」と静かに言われた。
先生、なんでそんなヤツに謝るんですか!?と私の気持ちはいきり立ったが、それを聞いたクライアントの熱がスッと冷めた。
そう。グズっている小さな子どもを、大きな大人が優しく抱きとめたように見えた。
そこに愛があったのである。
愛があるから理不尽なことに対しても謝れる。
なんだかとても深くてあったかいものを見せていただいた気がした。
(誤解のないように付け加えるならば、いちゃもんに対して近藤先生がいつもこのような対応をされていたわけではない。ド迫力の気合いでブッ飛ばされた場合もあった。それは臨機応変・自由自在である。しかし、いつもそこには愛があった)

海千山千のしたたかさで、理不尽なことでも平気で謝れるようになりたいとは思わないが、
本当の意味で相手を育てるためであるなら、理不尽なことでも謝れるようになりたいと願えるようになったことで、私のつまらない頑固さ、強情さを崩していただいたのは、実に有り難いことであった。

 

 

時々、三遊亭圓生(六代目)の落語を聴く。
事務作業をしながら、You Tube を流し聴きをしていることが多いのだが、
ふと不思議に思ったのが、江戸末期~明治初期の庶民に使われた「~でげす」「~でがす」という言葉を使い、また、噺の中でも「へへへ」と笑うような、言わば“下賤な”表現を多用しているにもかかわらず、その話しぶりが全く“下品”にならない、いやいや、それどころか非常に“品格がある”のである。
これは面白い。

そう思えば、その反対もある。
身なりから、立ち居振る舞いから、言葉遣いから、出自から、学歴から、非常に行き届いて、羨望されるべきものがありながら、どうやっても“下品”になる人がいる。
なんとも拭い難い、隠し難い“下品さ”が漏れ出て来る。

となるとやっぱり行き着くところは、“人格”、“人品”よるのであろう。

圓生も、余り褒められたものではない数々の行状も伝わってはいるが、特に年を取れば取るほど、紛れもなく圓生、どこを切っても圓生になっていく。
そこに、どんなにへりくだって下賤に見せようとも、その芯に己が己であることの矜持がある。

それに比べ、はからいがあると、どうも人間が浮いて来る、嘘臭くなる。
そのはからいに卑(いや)しみがある。

“人格”、“人品”の出どころ、いずこにありや、である。

よって、「圓生みたいになりたいなぁ。」と思うべからず。
「圓生が圓生であったように、私も私になりたいなぁ。」と思うべし。

 

 

先日ふと気がついたのだが、カウンターのある飲食店は2種類に分類されるような気がする。
(いつもそんなことばかり考えて店に行っているわけではないが、気づいてしまうものはしょうがない)

カウンターの中の大将(マスター)/女将さん/スタッフが一人客の話し相手をすることを前提に作られている店とそうでない店の2種類である。
そこを間違えるとちょっと哀しいことになる。

例えば、ある居酒屋では、一人客の話し相手前提、それのみならず、話し合相手を求める一人客(大抵は常連)同士が来る前提のスタイルとなっており、カウンターでいろいろな話に花が咲いている。
しかし、別の居酒屋では、そういうスタイルになっておらず、盛んに大将やアルバイトのお姉ちゃんに話しかける客は生返事と苦笑を返されることになる。

となると、客の方でも、自分は食事をしたくて/飲みたくて行くのか、話をしたくて行くのかを、よく自分に訊いてから、さらに店を選んでから、出かけた方が良いと思う。
でないと、余計に寂しい思いをすることになる。

そして、それ以上に気になるのは、この人は店のカウンターでしか寂しさを紛らわせられないのか、ということである。
以前に『寂しさ』で触れたが、情緒的な寂しさを抱えている人は、実は想像よりも随分多い気がしている(特に東京だからだろうか)。
そしてそれと共に、情緒的寂しさを解消する選択肢の数が相当乏しい気がしている。
大枚をはたいて綺麗なお姉さんやかっこいいおにいさんが話相手になってくれるお店もあるが、そうではなくて、趣味とか、運動とか、ボランティアとか、推し活とか、山のようにある選択肢の中からいろいろ選んで、どんどん打って出ましょうよ。

なんだか地域の民生委員の方の話みたいになって来た。

我々は凡夫ゆえに、老若男女を問わず、情緒的寂しさはあるものです。
それは健全に、積極的に、豊かに、はらしましょ。

 

 

 

近所に公園がある。
朝は元気な高齢者たちがラジオ体操に集まる。
そして午前中は保育園児たちが散歩にやって来る。
昼過ぎには若いお母さんたちが乳母車を押して訪れ、ベンチではおじいさんたちが日向ぼっこをしている
夕方からは学校帰りの子どもたちが増え、ボール遊びの歓声が夕飯時まで続く。
で、私が気になるのは、そこから後である。
夜遅くまで、日によっては日付が変わる頃まで、一人でずっとバスケットボールでシュートを繰り返したり、サッカーボールを蹴り続けたり、壁に向かってボールを投げ続けている中高生がいる。
それが部活の延長の個人練習でないことはすぐにわかる。
そういう体(てい)で一人の時間を過ごしているのである。
なんかそういう気持ちがすごくわかるのだ。
このほんのりとした寂寥感と孤独感とよるべのなさを一体どう過ごしたら良いのだろう。
幸い治安の良い地域なので、危険なことはないし、おまわりさんも是非補導などはしないでいただきたいと思う。
そういう時間がね、必要なんだよ、人間として成長して行くためには。
勉強や部活や友達付き合いで誤魔化せないこの子たちに、将来、自分と向き合えるようになる可能性を感じるのだ。
そうしてこの中から、いつか話すことになる大人が出て来るかもしれないね。

 

 

今日は昼から激しい腹痛に襲われた。
原因はわかっている。
持病の尿路結石による疝痛(せんつう)発作である。
私の場合、1~2カ月に一度くらいのペースで襲われて来たが、経験された方はおわかりのように、この疝痛発作は救急車レベルでとても痛い。
幸いにも私の結石は小さいようだが、それでも自然排石(自然に石が出る)には、統計上平均8日程度かかるとされ、そんなに激痛を我慢していられないし、放っておくと、水腎症や腎盂腎炎になってしまう危険性もある。
従って、すぐに鎮痛剤の座薬を使い、とにかく鎮痛を図る。
そうすると、私においては、幸いにも疝痛発作がおさまり、数時間で結石が流れ出されて、自然排石される。
出てしまえば、何事もなかったかのようにケロッとしていられる。
そして普段からも、予防的措置として、水分とクエン酸をしっかり取り、原因となるシュウ酸を増やすというコーヒー、紅茶、緑茶、チョコレート、ナッツ類は摂取しないようにしている(しかし、どれも好物なので、たまにチートデイ(cheat day)(ズルの日)を作り、チョコレートケーキを食べ、コーヒーを飲んで、まぎらわせている)。
その甲斐もあって、最近は疝痛発作の頻度が3カ月に1回ほどに伸びて来た。

しかし、今日お話ししたいのは、尿路結石の予防と対策ではない。
この疝痛発作が、私の我の増長を防ぐのに役立っているということである。
痛みの前に人間は全く無力なのだ。
疝痛発作に襲われたときは、本当に心から「助けて下さい!」という気持ちになる。
この体験が良いのである。
尿路結石の体験は辛いので、皆さんには勧めたくないが、どんなことであっても、自分の弱さ、自分の無力さを体験できる機会を生活の中に持つことは大いにお勧めしたいと思う。
それがあなたの我を矯(た)め、思い上がりを挫(くじ)き、自分以外のものにすがる気持ちを強めてくれると思う。
それが私が尿路結石から学んだ最大の教訓である。

 

 

「人間ってものは自分を認められたいという気持ちがあるんです。どんな小さな子どもでのね、認められたいんです。…
まず認めるということが、私、非常に大事だと思うんですよね。認めてもらえばね、なんとなく嬉しいんです。なんとなく嬉しい気持ちですね。それから聞くとね、悪口でも聞けるんですよ。…
認めてやる。これは甘やかすことじゃないんですよ。そこんところ、間違えずに。甘やかすというのはね、何でもかんでも賛成しちゃうことなんですよ。いいですか。…
ちょうど3歳くらいからね、5歳くらいまでの間っていうものはね、これは自律性のときなの。そのときにね、一番問題なのは、自分がそれまで思わなかった、いろんな欲望が出て来る、わかって来る、そういうときにそれをやろうとすると、なかなかそれがうまくできない場合がある、ね。そういうときに、これをですね、なんでもやらしちゃうとですね、それこそ、自分の思うことを何でもね、衝動的にやるというね、そういう人になりがちなんです。
この3歳から5歳を僕は非常に重要視するんですがね。その頃に、できないこととできること、こういうことは許されないことであり、こういうことは許されることである。それをはっきりお母さんがケジメをつけて言わないといけないと思います。…そのことがね、後に彼および彼女にとって非常な、僕は、幸せになると思うんです。つまり衝動的にならないんですね。…
けども、そのときにです、単にやかましいんでなくて、どうかね、あなた方の、これは本当に自分はいけないと思うんだと、心ね、自分の気持ち、そういうものがね、素直なね、本当に子どものためを思う愛情というものであるかどうかっていうことをまず吟味してね。…つまり、どういうことかと言えば、子どもにとって大事なことは、お母さんが本当に、正直に感じて、自分を愛して認めてくれているかどうかということが、正直にというポイントが要るわけ。口先でなくて。そういうことが一番子どもにとっては大事なことなんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

認めるということは、単に甘やかすことではない。
ケジメをつけて言うということは、単にやかましいことではない。
認めるときも、ケジメをつけて言うときも、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対する畏敬の念がなくちゃいけない。
そんな大切なものをこんなポンコツな親に託されたのだから、ポンコツなりの精一杯で、愛し、認め、ケジメをつけ、この子がこの子になりますようにと祈りながら育てなくてはいけない。
その祈る姿勢の中に、あなたの感情を超えた愛が、あなたを通して働くのである。
ですから、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対して、すべてを投げ出して合掌礼拝(らいはい)する(=手を合わせて頭を下げる)ことを強く強くお勧めします。

 

 

受験に失敗した。
喧嘩して負けた。
失恋した。
レギュラーになれなかった。
試合で負けた。
オーディションに落ちた。
発表会でしくじった。
クビになった。
重い病気の宣告を受けた。
子どもに障害が見つかった。
大切な人が亡くなった。
被災して大事なものを失った。
などなど。

そして、我々は泣くことがある。

思い通りに、希望通り・期待通りに、ならないことが起きたから泣くのである。
そう。
それは受け入れ難いことを受け入れようとして泣いているのである。
それは、みっともない姿でも、情けない姿でもない。
当然の姿である。
受け入れようとしているところは、むしろ立派でさえある。
だから、
思い通りに、希望通り・期待通りに、ならないことが起きたときには、しっかりと、ちゃんと、十分に、泣かなければいけない。

時に、泣くのではなく、怒る人もいる。
これはまだ我が強いのである。

まだまだ、思い通りに、希望通り・期待通りに、ならないことを受け入れようとしていない。
受け入れるのが気に入らなくて怒っている。
だから、放っておけば良い。
但し、正当そうな理由をつけて周りの人を巻き込まないように、一人で怒らせるのがよい。
そして、怒りが尽き果てたら、泣けるようになる。
受容が始まるのはそれからだ。

泣くことを中途半端に止めて、悲しみを長引かせないように、泣くことの真意を間違えないように、お伝えした。

 

 

聖母マリア像には非常に多くの種類が分類されていると聞くが、私としては、聖母マリア単独で両手を広げている像が好ましい。

また仏像にもさまざまな種類があるが、私としては、如来や菩薩が施無畏(せむい)与願(よがん)印という印相を結んでいる像が好ましい。
施無畏とは畏れを取り去り、与願とは願いを叶えて下さることを示す。

しかし、そんな説明はどうでも良い。
どちらも見ていて、自分が大いなる力に抱(いだ)かれているような気持ちになるのである。
ここに安心の原体験がある。

無力なままに生まれて、無力になって死んで行くのが、我々の運命である。
その間も、自分が自力で何でもできている、なんて思い上がらない方が良い。
その力もまたいただいたものである。

「御心(みこころ)のままに」とは、「南無」とは、大いなる力の御胸(みむね)に我が身を投げ出すことである。

 

“God's arms are always open”という曲を聴きながら、そんなことを思い浮かべていた。

 

 

先日、知人の眼科医から、眼科の現行用語について教わった。

既に「色盲」「色弱」という用語は撤廃され、日本眼科学会では「色覚異常」(「2色覚」「異常3色覚」)に含まれるそうである。
また、日本遺伝学会では、「色覚異常(color blindness)」という用語も使わず、「色覚多様性(color vision variations)」というそうだ。
(ここらは各学会で別々に決めないで、日本医学会あたりで統一していただきたいと思う)

最近、発達障害分野でよく言われる「神経多様性(neurodiversity)(ニューロダイバーシティ)」と同様の発想であろうか。
思えば、「多様性(diversity)」という言葉自体、いろんな分野で言われるようになって既に久しい。

で、用語の適正なる改訂については、歓迎すべき方向なのであろうが、やっぱり気になるのが「内なる差別観」の方である。
どう言い方を変えてみたところで、「あなたの、そして、私の中の差別観」がなくなっていなければ何にもならない。

やっぱり、そっちが本丸である。

精神科分野でも、かつての「精神分裂病」が「統合失調症」に用語が変わった。

用語改訂の話を聞く度、いつも「あなたの、そして、私の本音の本音の差別観はどうよ?」と訊き正しくたくなる私であった。

 

 

寂しさについて連想していたら、近藤先生のことを思い出した。
独語的に語ってみよう。

寂しさには、情緒的な寂しさと霊的な寂しさとがある。

情緒的な寂しさは、一般的な寂しさであり、
これは誰かが傍にいてくれることで
あるいは、誰かとつながることで
癒されるものである。
特に情緒的に愛されたりすると、大いに癒される。
これは、良い・悪いではなく、そういうものである。
愛着障害などと言われるものもここに関連したものであり、
東日本大震災のときに言われた絆というのもここに含まれる。
人間は、情緒的な寂しさによって、情緒的に苦しみ、情緒的に癒される。
ズバリ言ってしまえば、苦しむのも、癒されるのも我(が)なのである。
そういう意味で、実に人間らしい寂しさと言えるかもしれない。
そう言えば、往時、近藤先生が
「人間、寂しくなければ、結婚なんかしないよな。」
と言って、私にウインクされたことがあった。
大した御方である。

それに比べ、霊的な寂しさを感じている人は、そんなにいないかもしれない。
しかし、これを感じたが最後(気づいてしまったが最後)、情緒的な寂しさとは雲泥の差の、強烈な寂しさに襲われることになる。
これは、どんなに大人数に囲まれていても、ベッタベッタにくっついていても、全く癒されない。
情緒的な浅さは、霊的な深さに全く届かない。
いわば、本来、ぶっつづきの生命(いのち)であったものが切り離され、放り出されたことから起きて来る寂しさである。
感じた者(気づいた者)は、徹底的な絶対孤独に苛(さいな)まれることになる。
そして求める、本来のぶっつづきの生命(いのち)に戻ることを。
求めているのは、私ではない、我ではない。
私の生命(いのち)が、私の霊性が、天地ぶっつづきの生命(いのち)に戻ることを求めて止まないのである。
そしてもしそれが達成されてしまえば、最早、情緒的な寂しさなどは、大海の水面(みなも)のさざ波のようなものとなる。
(但し、気づいてしまえば、天地ぶっつづきの生命(せいめい)は無始よりこの方、ずっとぶっつづきだったんだけどね)

ちなみに、近藤先生は、情緒的には寂しがり屋であった。
そして霊的には、天地ぶっつづきの生命(いのち)に生き、全く寂しくなかった。
その上で、情緒的な寂しさも楽しんでおられた。
一人で平気で生き、一人で平気で死ねるのに、である。
やっぱり大した御方であった。

 

 

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