八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

今日は令和6年度3回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目に続いて3回目。
今回も、以下に参加者と一緒に取り組んだ部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみるチャンスになる。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症の生成と発展

b.不安防衛のための態度 ー 神経症的傾向の萌芽

この様な環境にあり、この様な不安に脅(おびや)かされながら、しかし幼児は生きなければならない。人間に存在する成長への衝動が彼を動かすのである。しかし、幼児らしい自然な感情で自分を取り巻く人間に対して反応することは、この様な不安な状態では可能でない。
この様な状況に適応し、生きて行く為に、少なくともこの不安をかきたてたり、増加したりしない様に、いやむしろ、それを何とかして感じない様にする為の方法を見つけなくてはならない。自ら幼児は幼児として無意識な必要から、その素質や環境の特異性に従って、特有な態度を取って行くわけである。一般的に言えば、自分の周りの強力な人間にくっついて行こうとしたり、反抗して闘ったり、自分の中へ引き籠って、他の人間によって自分の心が乱されないようにすると言う風なやり方をとるわけである。
普通の場合では、この様な態度 ー(1)人に従って行く動き、(2)人に反対して行く動き、(3)人から離れて行く動き ー は、それぞれ補足し合って人間関係を充実させて行く態度なのであるけれども、不安におびえている幼児が、これらの態度を取る場合に極端になり、固くなって行くのである。そして、その態度も彼の不安の程度に比例するのである。
これらの態度は必ずしも一方向に限られるものでないから、互に矛盾し合うこともある。しかし、結局、どれか一つの態度が優勢となって来る。そして、それをもととして、他の傾向を抑圧し、敏感になり、色々な要求をする様になる。かくて、そういう傾向をもととした personality の発展が現れて来る。
勿論、幼児期に於けるこうした傾向は、まだ強固に定着しているわけではないから、友人とか、教師とかを通じて、何等かの意味で暖かい良好な人間関係に入って行くと、変化する場合も多いのである。

 

幼児には生育環境を選ぶことはできない。「しかし幼児は生きなければならない」 このフレーズが悲しくも胸に響く。そして神経症的性格の3つのタイプについては後に詳しく触れる。少なくともここでは、基礎的不安(基本的不安)を払拭するために、幼児が神経症的傾向を身に着けなければならないことを知っておいていただきたい。そして「暖かい良好な人間関係」が与えられれば、そのような神経症的傾向を振り払うことは、子どもだけでなく、大人でも十分に可能なのである(子どもの方が早いけどね)。そこに人間というものへの希望がある。

 

 

「もうひとつ大事なことは、特に若い方、年寄りの方、両方に共通なことですけども、クライアントにやってるうちに、これは…いろいろ違います、違いますが、そこをじっと聴いているとね…やはりね、自分にとってもね、非常に教えられるところがあるもんですよ。ね。そこをね、よ~く自分でね、聴き込んで、そして自分に取り入れて行きますと、自分自身が、私は今年七十六ですけども、自分自身が、まだこれでもね、自分で取り入れて成長できるっていうことを感じますね。本当にね、ああ、そういうことに気がつかなかった、ね。私は…まだまだ年を喰ってないと。もう十年くらい、もう二十年くらいやらなきゃ、まだわかんないんじゃないかと。こういうふうなことも随分ございます。だからね、自分自身が、やっぱりね、それによって成長させていただくというね、気持ちも、ひとつ、持って、体験もされて行くんじゃないかと思います。
そのことがあると、これはね、自分自身が成長するっていうことがわかりますと、これはね、セラピストとして、あるいは、カウンセラーとして非常に進歩するんです。というのは、今までははっきりしなかったんだけども、相手も成長できるんだってことがわかる、ね。人間というものが成長する。相手がまた成長することによって、こちらがまた「あっ、これは自分も成長できるんだ。」ということがお互いにわかる。これで、ひとつだけ申し上げるのは、成長は、お互いに成長は無限にできるんだ、ということを、ここでやられる、体験されるあなた方カウンセラーは、すごく恵まれた方だと思うんです。
…ま
あ、このね、カウンセラーっていうのはね、私はね、よっぽど好きでなきゃ、やれた商売じゃないと思うんですね。今言ったような事柄を聴かれただけでもそうでしょうけども、私もね、これ、よっぽどね、好きでなきゃできない。とにかく余程、人間に対する愛情とかね、そういうものがないとできない。だから、自分のことを省みられて、私は自分はそれほどの人間に対する愛情は持たない、人のことはどうでもいいと、ね。自分のことが、まあ、どうやら喰って行けりゃあ良いや、というふうな気持ちでやってらっしゃると、そのうちに、この仕事はとても馬鹿馬鹿しくてイヤになって他所(よそ)のことをやりたくなりますから。まあ、そういう他所のことをやられれば良いんですけども、まあ、そういう意味で、私は、これは非常に忍耐を必要とするということを始めから覚悟して。それで、そういうものができないなぁ、そういうものをやるだけの価値がない、ということであれば、自分を知る上から言ってね、自分はもっとそれよりもNTTの株かなんか買ってですな、何百万円か買って、それで儲ける方が良いと、こういう方が適しているという人は、どんどんそっちの方に行った方が、僕は良いと思いますね。やはり、それぞれの人間の、それぞれの一生をかけてやることは、それぞれあるわけですからね。
…そして、それが本当に、私は少なくともこう信じる。人間は自分のために奉仕するということよりも、人のために奉仕することによって、もっと人間が、自分に豊かに奉仕することになる。こういう具合に私は思うんですね。ですから、やっぱり何よりも、教育もやってますけども、何しろ、人間の生命(いのち)を育てるということぐらい、人間の一番深い喜びはないんだろうと思います。」(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

僭越ながら、師の言葉に今少し付け加えると、
まず「人間に対する愛情」ということ。
これは人間の力では無理だと思うんです。
だって凡夫は自己愛的なんだもの。
人のことなんて、二の次、三の次。自分が可愛くて可愛くてしょうがない。
でも、それが、自分以外の人間を愛せる場合がある。

また「人のために奉仕するということ」。
これもまた人間の力では無理だと思うんです。
だって凡夫は自己中なんだもの。
人の奉仕なんかやってられませんわ。むしろ私に奉仕しろっていうくらい。
でも、それが、
自分以外の人間に奉仕できる場合がある。

だけども、凡夫の自力では無理だけれど、
我々凡夫を通して働く大いなる力によって、それが可能になる場合がある。
人を愛し、人に奉仕できる場合がある。

人間の生命(いのち)の成長は、この世界の願い、この宇宙の願いなんです。
人間の生命(いのち)が成長するとき、この世界が、この宇宙が喜ぶんです。
ですから、「人間の生命(いのち)を育てるということぐらい、人間の一番深い喜びはないんだろうと思います」ということになるわけです。

 

 

今日はわけのわからない話をする。

先日、庭で草むしりをしていて、誤ってレンゲショウマの葉茎を抜いてしまった。
毎夏、俯きかげんの可憐な花を咲かせてくれていたのに。
随分、後になって、そのことに気づき、「ああ、殺してしまった。」と悔恨の想いに苛まれた。

凡夫は、自分「が」レンゲショウマ「を」殺してしまった、とレンゲショウマ「に」執着し、私「が」嘆くのである。
本当は、自分も虚構であり、存在すべてが虚構であり、この世界が虚構なのに。
それなのに、虚構が実体性を持って感じられ、その上で自他の区別が生じ、私「が」レンゲショウマ「について」嘆くのである。
よって、有り難くも、念仏すれば、自我が薄まり、レンゲショウマが薄まり、この世界が薄まり、私の嘆きも薄まる。

研修医の頃、小児外科を目指しているという同僚の話を聞き、自分には絶対なれないな、と思ったのを覚えている。
手術を失敗したときはもちろん、失敗ではなくても難しい手術でもし子どもが死んだとしたら、自分には耐えられないと思った。
「子ども」という存在が強烈に「私」という存在を惹起する、「私」を立たせるのである。
これも普通人にとっては普通の話であろう。
普通人の別名を凡夫という。

凡夫は、自分「が」子ども「を」殺してしまった、と子ども「に」執着し、私「が」嘆くのである。
本当は、自分も虚構であり、存在すべてが虚構であり、この世界が虚構なのに。
それなのに、虚構が実体性を持って感じられ、その上で自他の区別が生じ、私「が」子ども「について」嘆くのである。
よって、有り難くも、念仏すれば、自我が薄まり、子どもが薄まり、この世界が薄まり、私の嘆きも薄まる。
この消息については、良寛の話をどこかに書いた。

近藤先生の友人で、手術のときに念仏する外科医がいたという。
それが、手術室でみんなの前で声に出して称えるのか、心の中で称えるのかは知らないが、その気持ちはとてもよくわかる(知らない人がこの外科医の念仏を聞いたら「縁起が悪いからやめてくれ。」と言うだろうが)。
たとえ真実においては虚構であろうとも、虚構と思えず、実体性をもって感じて、執着する凡夫にとっては、救いがなければならない。
そうでなければ凡夫には耐えられない。

南無蓮華升麻大菩薩の日であった。

 

 

[追記]
今回は、念仏のもたらす「仮」について書いた。

「実」について書く日はいつか来るのだろうか。
それもまた、おまかせである。

 

 

「ああ、男を観る眼がなくて結婚しちゃったぁ!」
「あんな子育てしかできなくてホントに子どもにごめんなさい!」
などという女性方の嘆きの声を時に拝聴することがある。

私の答えは決まっている。
「当たり前じゃん!」

人を観る眼なんて、余程自分が成長してからでないと持てるわけがないし、
精神的には、子どもが子どもを産むんだから、全ての子育ては失敗だらけに決まっているのだ。

だから、せめて若い人たちに申し上げたいのは、
できる範囲で良いから、本当の自分、本来の自己というものを追究して行こうよ、せめてそういう姿勢を身につけようよ。
自分が自分に近づけば近づくほど、相手が何者かを観抜く眼が養われるし(自分を観る眼と他人を観る眼は必ずセットなのだ)、
子どもに対しても、本来のこの子はどういう子なのかを観抜いて(感じ取って)、その上でこの子がすくすく育つことができるように関わりやすくなるだろう。

そして、既に結婚している人、
あるいは、子育てしている人は、
どうしても合わないなら相手と離婚するのも面々のおはからいで“あり”だけれども
まだ縁がありそうであれば、まだお互いに、実は気づいていない出逢いの意味と役割を見い出して行く方向性もあるし、
子どもに対しても、改めてこの子がこの子でありますように、と祈りながら(子どもが何歳になっていても)関わることが出来るんじゃないかと思う(子どもがある年齢以上になれば、敢えて関わらないという選択肢も含めて)

やっぱり、戻るところは、我ら人間は凡夫、ポンコツのアンポンタン。
後悔だらけで当たり前(むしろ自分の言動に後悔のない人たちの方が恐ろしい)。
問題は、で、どーする。
凡夫なりに一所懸命に、そして足りないところは手を合わせ頭を下げて祈りながら、どうにかこうにか生きさせていただけるんじゃないかと思うのでありました。

 

 

「初心者の方に、私、何よりも勧めたいのは…何にもまだその人についての知識もなければ、初めて会ったんですからね、詳しい理解もあるはずないわけです。ですから…本当に…これしかないわけですが、ただ聴くということ、ね。聴くということ。リスニング。よく聴くということ。この聴くということが、私は大変、大切だと思うんです。その聴き方ですが、できるだけこちらがゆったりとして…そしてこう、私は本当に心からあなたの言われることを聴きますよ、というふうな、本当に、その、向こうはわざわざ、忙しい中をやって来たんです。本当に真剣にやってるんですから、こちらの気持ちとしては、そうしたやはり対応といいましょうか、そういうゆったりとした対応をすることがね、必要だと思うんです。
そうしてもうひとつ大事なことは、聴くということは、まあ、単純なことのように思いますけれども、私は…そうですね、忍耐が必要な行為じゃないかと思うんですね。忍耐が必要。まず声が小さかった人なら、一所懸命、声の小さい人の、その声を聴かなきゃいけない。これだって、ひとつの忍耐ですね。それが…また人によりますと、長いこと、どういうことを言おうとしてるんだかわからないけど、ずーっとこういうふうに言われる人があります。そういう人も、じっと聴いていかなきゃいけない、ね。…
そのことを私は、その態度のことを、よく説明するときに使う言葉として「聴き込む」という言葉を使うんです…「よく聴き込んで。」、ね。「込む」という字は非常に、私は…意味があるんじゃないかと、ね。お酒を仕込むとか、いろいろな言葉がありますね、タクワンを漬け込むとかね。「込む」っていう、それはね、心の中にですね、入っちゃう、ね、聴き込む。向こうの声がこちらの心の底に通るほど聴き込むということですね。…
本当に、それだけでもって、面白いことは…あなた方というかカウンセラーが本当に腰をこうグッと入れて真剣に聴き込みますと、不思議なことに、そのカウンセラーに対しているクライアントがね、何かね、そこにね、感じるんです。これは、僕はそこでなんとか、物理的に電気が起きるとかなんとかいうことを言うんじゃないんですが、あなた方にしても、お互いが、お二人、どなたでも、普通の場合でも、本当にこう、真剣にお話をしていらっしゃるときは、何か向こうからですね、やはり、伝わって来るものがあるでしょ。そういうことを感じられるでしょ。一所懸命やってくれるなぁっていう気がする、簡単に言えば。
これが、私は、まず、初めて会って、何も知らない、ね、二人の間に、よく信頼関係、信頼関係って言いますけれども、信頼関係が起きる、そのね、それが起きる元である。こんなふうに思うんですね。ですから、信頼関係ってのは始めからあるんじゃないんですね。それは、そういう二人の人間の間の信頼関係っていうのは、そんな形で、本当は樹立されて来るもの、作られて来る、創造されて行くものである、ね。で…まず第一に…信頼関係っていうものが…ありませんと、これはですね、このカウンセリングをやっていく関係はですね、もうね、続かなくなるんです。この信頼関係が、これからずーっと続く、何十時間、何十時間かわかりませんが、その間の長い時間、たとえ長い時間であっても、それを支え、それをずっと続けて行く、その人たちの大きな力になるんです。これはどんな人間関係でも大事なことなんです。教師と生徒の関係、あるいは、夫と妻の関係、あらゆる人間関係において、この信頼関係ってことがない関係っていうのは、本当は人間関係と言えないだろうと思うんです、本当の意味でね。」(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

この「聴くこと」くらい、ああ、もうわかってる、やってる、くらいに済まされて。全然わかっていない、全然行われていないことはないと思うんです。
形式としての「傾聴」、active listening なんていうのはもううんざりなんで、私は「聴くこと」において、本当に重要なポイントは二つあると思っています。
ひとつは、どういう姿勢で聴くかということ。
そしてもうひとつが、何を聴くかということ。

前者は、即ち、相手の存在への畏敬の念を持って聴いているかどうか、ということ。
それがあるからこそ、聴き込むことも、忍耐も、信頼関係もできて来るわけです。
そして、そういう姿勢で聴くことを繰り返して行きますと、やがてそれをクライアントも感じてくれます。
以前、『金言を拾う その9 溝をつける』でお話ししたことを思い出してみて下さい。

そして後者は、相手が実際に話していることを聞きつつも、その人の主観ではない、我ではない、生命(いのち)が何を言いたがっているかを聴くということ。我の声だけではなく、生命(いのち)の声を聴くということ。それがとても大切です。
例えば、あるお母さんが子どもの障害に悩んでおられたとする。
なかなか他では言えない、嘆きや悲しみややるせなさをカウンセラーの前で吐露されるかもしれない。
それを聴くのは当たり前です。
しかしそれだけではない。本当の意味で、しっかりと聴いていますと、お母さんの生命(いのち)の声が聴こえて来るときがあるんです。
何がどうであっても、まるごとこの子を愛したい。無条件に愛せる母親でいたい。そうなりたい。そうさせて下さい、と。
そういう生命(いのち)の声が聴こえて来るんです。お母さん自身さえも気がついていない、深い、深い、その声が。
その声が聴こえなければ、私は、本当の意味で、聴いてないんじゃないかと思います。
近藤先生の講演で『いのちの響きを共に聞く』という題のものがありました(私は「聞く」でなく「聴く」の方が良いのではないかと思いますが)。
この題だけで近藤先生がおっしゃりたいことがもうわかりますよね。

そういった点も含めて、どうか相手の言われることを聴いてみて下さい。
「聴く」ということの意味が、実感として、わかって来るかもしれませんよ。

 

 

受精卵から分化・発生して行く過程で、我々は身体を獲得する。
皮膚によって内外を区別され、その内側の存在こそ、私の身体なのだ。
そして脳に芽生えた“自我意識”がそれを“私の身体”として認識する。
仏教において、百八つの煩悩のうち、「我見」(自我意識=自我があると思うこと、自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体が(他と別に)あると思うこと)の二つを根本煩悩としているのは、流石と言わざるを得ない。
「我見」(自分がいると思うこと)と「我身見」(自分の体があると思うこと)がほぼ同時に発生するのだ。

そして、ここからすべての「苦」が始まる。
何故ならば、「我」=他と違う自分が生じた途端、そこに「我欲」(自己中心性(本当は自我中心性と言いたいところであるが))が発生する、精神的にも精神的にも「我」の満足=「我の思い通りになること」を要求するからである。
それ故、我々は、今に至るまで、我の思い通りになれば喜び(あのガッツポーズを見ればわかるだろう)、
我の思い通りにならなければ怒り、悲しみ、苦しむのである。
しかし、残念ながら、この世の大半は思い通りにはならない。
従って、この人生は、苦しいことのみ多かりき、ということになる。

そんな中で、子どもは成長して行く。
まだ母親のお腹の中にいるときには、かろうじて臍の緒でつながっていた。
わずかに母子=自他の一体感が残っていたかもしれない。
しかし出生するや否や、それは断ち切られ、「我見」「我身見」が完全に成立する。
そしてその後、少しずつ大きくなって行くということは、生きるエネルギーも増大して行くということであり、我に備給されるエネルギーも増大して行くことになる。

それが「イヤイヤ期」であったり、別に「〇〇期」とつけなくても、我が活発に働けば、思春期はもちろん、大人に至るまで、この「思い通りにならなければイヤだ」という我欲の主張は続くことになるのである。

で、どうするか。
それでは、どう子どもを育てるのか。
通常の精神分析や精神療法、発達心理学的見地からは、この我欲をコントロールすることが要求される。
そのために、すぐに全部思い
通りにならなくても(「すぐに全部思い通りにしたい」という欲求を「幼児的欲求」ということは既にどこかで述べた)、それを抱えていける力や、場合によっては諦めることのできる力をトレーニングして行かなければならない。
それが教育なのである。
極めて手のかかることであるが、親は、大人は、辛抱強く子どもに付き合いつつ、スモールステップで、体験的に教えて行くことになる。
ここで、我が子を思い通りにしようとすること自体に、親の我欲があることも忘れてはならない。

そして最後に、この問題の根本解決として、「無我」というものがある。
思い通りになることを願って止まない「我」がなくなってしまえば、少なくとも薄まってしまえば、問題は消える、少なくとも非常に楽になる。
但し、これは子どもには無理である。
長年、我の問題で相当苦しんだ人間でないと「無我」を志向することはまずない。
よって、関わる大人の側、親の側が、呼吸/念仏/瞑想などによって、自分を超えた力によって「我」という幻想を持って行ってもらい、ほんのわずかでも「無我」の体験をいただくのである。
自分で乗り超えられない、無能、無力、非力の凡夫にはその道しかない。
そしてもし運が良ければ、「我」を持って行ってもらうだけでなく、あなたを通して働く子どもへの「愛」を授かるかもしれない。
それが子どもの(我ではなく)生命(いのち)を育てて行く。

 

以上、これでも簡便過ぎて、意を尽くしたとは言えないが、いくら書いてもキリがないことでもある。
どなたか一人でも何かを感じるきっかけになれば幸いである。
 

 

 

欧米においては、「自我」の存在は、精神分析的にも、発達心理学的にも、当然のものとされている。
しかし、東洋では、少なくとも仏教においては、かの蓮如上人が「仏法には無我と仰(おほ)せられ候(さふらふ)。我と思うことは、いささか、あるまじきこと也(なり)。」と示されたように、「自我」があると思うこと=「我見」は、百八つある煩悩の中でも根本煩悩に数えられて来た。
ここに決定的な違いがある。

よって、私が教育分析を受けていた頃、「自我」の存在を自明のものとして構築されている精神分析の体系に疑いを抱いたのである。
虚構の上に建てられた体系に何の意味があるのか。
急速に精神分析への関心がなくなったのを覚えている。

そして既に「無我」の体験のある近藤先生が何故、精神分析を用いておられるのか、が次の疑問として浮かんで来た。
この答えは実に簡単であった。
人類の大半は、「自我」という幻想の下に生きているからであった。
生育史にとらわれる「私」も、トラウマにとらわれる「私」も、苦悩する「私」も、存在すると思っている。
「無我」の体験などありはしない。
従って、「自我」の存在を前提とした精神分析が治療として機能したのである。
そのためのものだったのか。

私の思うところを観抜いた近藤先生は、それまでの「教育分析」をやめ、「自我」を超えた精神的境地の世界への指導に重心を移された。
不思議なことに、それと同時に、私の中では、凡夫を救うための精神分析、精神療法というものが復権した。
「自我」に生きる者の抜苦与楽もなければならない。

それらが現在のわたしのサイコセラピーを形成している。
一方で、「自我」には「自我」の救いのための精神分析、精神療法を行いながら
難行としての「自我」を超える道=「(竪超というよりは)竪出(けんしゅつ)」と
易行としての「自我」を超える道=「横超(おうちょう)」とを示すことである。

そしてその上で、例えば、その発達過程において、「自我」という幻想を獲得して行かざるを得ない、子どもたちの哀しき定めと、それにどう応じて行くかについては、また明日触れよう。

 

 

大原則として、我々は自分を生きるために生命(いのち)を授かって生まれて来た、と私は思っている。
よって、人間には、魂を売って自分以外を生きるという選択肢はない。

しかし、例えば、学校やクラスが病んでいる場合がある。
ならば、そんなところに行く必要はない。
不登校、大いに結構である。

また、会社が病んでいる場合もある。
ならば、そんなところに行く必要はない。
退職、転職、大いに結構である。

また、引きこもるという道もある。
それも大いに結構だ。

しかし、問題は、それで終わりですか?というところにある。
ずーっと不登校の子がいる。
ずーっと引きこもりの子/人がいる。
何度も何度も転職を繰り返している人がいる。
逃げるだけですか?
成長はないのですか?

例えるならば、まだ自分が自分である幹が細い場合、強い逆風の中に身を置くと、幹が折れてしまう危険性がある。
だから、一時的に風の弱いところへ避難するのは全然構わない。
しかし、残念ながら、この世の中にパラダイスはない。
どこかにイヤなヤツや変なヤツが必ずいて、何らかの逆風があるのが娑婆の実状である。
従って、自分が自分である幹を太くして行かなければならない。
それを成長というのである。
逆風に負けず、自分を保てる幹の太さ、それを養って初めて自立した大人になることができる。

だから私は、不登校の子、引きこもりの子/人、転職を繰り返す人に言うようにしている。
今は逃げたって良いけどさ、ただ逃げ癖がついただけの人間にはなるなよ。
今日より明日、今週より来週、今月より来月、今年よりも来年、ほんの少しずつでも自分が自分である幹が太くして行け。
それを怠るな。
そうすれば、いつか必ず逆風をブッ飛ばせる日が来る、と。

では、自分が自分である幹を太くして行くにはどうしたら良いか。
本当の意味で“勁い”人間になるにはどうしたら良いか。
それはそれができている人間に訊きなさい。
(間違っても、魂を売ってうまいこと生きている人間には訊かないように)
それができるか否かで、人生が根底から変わることだけは事実である。

 

 

カウンセリングには…いろんな形がありますので、これを一括してですね、どうしたら良いという、ひとつの方法はないわけです。ただ、ひとつの態度はあります。どういう態度かといいますと、ここに悩んでいる一人の人がいる、人間がいる、という認識ですね。その人特有の、独自の…固有な悩みといい、困難といい、特殊な事情というのは、それはその人から直接伺わなくてはわかりません。わかりませんが、この人は、どんな人であれ、そこに悩みを持って苦しんでおられる人間が、わざわざ時間を割いて、カウンセラーである自分の前にいる、ということ、これをね、私はまず第一に、重要なことであると思うんです。…その人に対して、どうか、この人は苦しんでいるけれども、悩みを持っているけれども、真剣に、とにかくやはり、たとえどんな形であろうとも、心の奥深いところでは、真剣にあなたのところに来て、何かを得たいと思っていると、こういうことをね、認識していただきたい。その何かを得たいというところが、実は問題の重要なところなんです。(近藤章久講演『カウンセリングを始める人への若干のアドバイス』より)

 

このクライアントの中にある「何かを得たい」という、悩みを突破して成長して行きたいという力、
いや、万人を通して働いている、その人の本来の自分を実現させようとする力、
これを感じるところからカウンセリングは始まるのです。
これを感じない、カウンセリング、サイコセラピー、対人援助などあるわけがありません。

さらに、近藤先生が言っておられる「心の奥深いところでは」というところも非常に重要で、「治療」場面でよくあることですが、
クライアントが、一見、やる気がなさそうであったり、愚痴と弱音ばかり吐いていたり、それどころかカウンセラーに喰ってかかったりして来ることもあります。
しかし、そんな上(うわ)っ面(つら)の言動の皮を引っ剥がしたところ、「心の奥深いところ」では、成長を求めて止まない力が脈々と働いているのです。
それを感じること。
それがカウンセリングの基本中の基本、本質中の本質ということができると思います。

 

 

今、八雲総合研究所で面談をしている方の中に、私と二人で一緒に本を読んでいる方が何名かいらっしゃる。
面談のための時間とは別の時間を予約して、ひとつの本を一緒に読み、感じたこと、気づいたこと、連想したことなどについて二人で話すのである。
個人情報に属することなので、詳細を紹介することは控えるが、どの本を読むかは最初に話し合って決めている。
どうせ一緒に読むからには、歯応えのある本が良いので、古典や仏典、精神療法の本や近藤先生の著書そして小説など、種類は多彩である。

中でも古典、仏典となると、今は余り読まれない漢文、古文も入って来るが、所詮は日本語。
読んでいるうちに慣れても来るし、それ以上に、真意がわかるようになるから面白い。
勉強会などで皆と一緒に読んで、さまざまな人の発言を聴くことも実に楽しいが、
二人だけで読むことならではの味わいもある。

そういうやり方もあったのなら、教えてほしかった、と言われたので、ご紹介した次第である。

また、訊いて下されば、さまざまな書籍のご紹介も行っている。
一緒に本を読む時間を取らなくても、ご紹介した本について読んで来られれば、ディスカッションすることもできる。
(但し、「先生、この本を読んでおいて。」と言われるのは厳しい。私が読みたいと思っている本は常に何十冊も waiting list にあり、とても時間がないので、私からご紹介した本についてでお願いしたい)

とにかく今生で出逢えている時間は長いようで短い。
いろいろに活用していただければ幸いである。

 

 

すぐにビビる人がいる。
すぐにアワアワして何も言えなくなる人がいる、小さな声、こもった声しか出なくなる人がいる。
すぐに心臓バクバクになる人がいる。
すぐにカチンコチンに固まってしまう人がいる、動きがぎこちなくなる人がいる。
すぐに手汗、冷や汗をかく人がいる。
すぐに目を逸らす、目を伏せる人がいる。
すぐに逃げる人がいる。
すぐに誤魔化す人がいる。
すぐに保身のウソをつく人がいる。

ヘタレな人を表現しようと思ったら、いくらでも表現が出て来る。

生まれつきそんな赤ちゃんがいるわけではないことを思うと、ヘタレは生育史の中で作られることがわかる。
子どもは自分で自分の生育環境(親などの人的環境が特に大きい)を選べるわけではないので、その人がヘタレになるのはその人のせいではないことになる

従って、その人がヘタレになったからといって、その人を責めたり、バカにするのは間違いである。
その人が好きでそうなったのではないから。

しかし、問題はここからである。
ヘタレになってしまうことは仕方がないのだけれど、自分がヘタレであることに気づいて以降、それからどうするかは、その人次第となる。
つまり、ヘタレになることに責任はないが、ヘタレになってから
(特に成人以降)は責任があるのである。
変えるかどうかは、変わるかどうかは、その人の責任なのだ

よって、ヘタレのままでいいという人たちはそれでいいのだけれど、私と縁があるのは、ヘタレから脱したいと心から願う人たちであり、ただ願うだけでなく実際にヘタレから脱するために一所懸命に(ただいい加減にやるのでは意味がない)“行”をおこなう人たちである。
そこにも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が絡む。
それに、自分がヘタレっていて、いざというときに対人援助職が務まるのか、自分以外の人を守れるのか、という大きな問題がある
そうなると成長するしかない、しかも必死になって。
そして、思ったよりもヘタレというのは根深い。
一所懸命にやらないと、ヘタレの一生に終わってしまいますぞ。

最後に、自分はヘタレではないと思っている人のために付け加えるならば、たとえどんな人間に対してもビビらなくなれたとしても、あなたはヒグマやホオジロザメと1対1で対峙してビビらないでいられるだろうか。
実は、脱ヘタレの道も、もうこれでいいということのない、エンドレスの道なのである。
 

 

 

「村八分」という言葉がある。

(現在は放送自粛対象の言葉になっているそうだ)
諸説あるようだが、村の秩序を乱した者に対して、村民全体が申し合わせて、例えば、村落生活における重要な十の活動のうちの八つ(冠(
成人式)、婚(結婚)、出産、農作業の手伝い、新改築の手伝い、水害時の世話、病気の看病、法事)について、一切の協力や交際を絶つ制裁行為と言われている。

ちなみに残る二つは葬(葬式)と火事。これだけは協力するようだ。

 

いずれにしても非常に病んだ習慣であり、現代の法律では「共同絶交」、人権侵害や脅迫などの違法行為として、既に数々の事件、裁判が起きている。
また、今
の学校や会社、近隣地域で起きているいじめやハラスメントの中にも、「村八分」類似のものが少なからずある。

 

どうも陰な話題だが、今回取り上げたのは、「村八分」そのものの話をしたいわけではなく、実際にあなたが、このような状況=不当に村八分される状況に置かれたとき、あるいは、置かれたと想像したときに、どういう心持ちになるか、ということを訊きたかったのである。

 

気分が良くないのは当然であろうが、それだけにとどまらず、
下を向いてワナワナと震え、恐怖と無力感に苛(さいな)まれるのか。
上等じゃないか、百倍返しでやったろうじゃないの、と戦闘意欲に燃えるのか。
その間のグラデーションもいろいろあるであろう。

 

そこにあなたの今日までの生育史上の体験が影響して来るのである。
特に前者の心持ちに近い場合、自分の中に解決すべき問題があることを自覚した方が良い。
どこかに痛めつけられ、孤立無援の中にいた過去が臭う。
そして準備が整ったら、その問題と向き合って解決しておいた方が良いと思う。
あなた自身の人生を守るために。
そしてあなたの大事な人を守るために。

 

私も別に好戦的なわけではないが、田舎の少女が村八分と毅然と戦った事件の話などを読むと、とても心強く思う。

 

あなたがあなたとして生を授かった以上、屈従して魂を売り、ヘタレの人生を生きる選択肢はない。

あなたがあなたを生きるために、時には悪の闇を叩っ斬る必要がある、勁(つよ)く、深く、真っ二つに。


 

 

 

データベースを整理していたら、18年前に勉強会で取り上げた女流俳人・三橋鷹女(みつはし・たかじょ)(1899-1972)の俳句が出て来た。 
単に「自由」「奔放」「前衛的」では片づけられない“勢い”のある句風の人である。 
生きてるね、鷹女さん、という感じ。

このまま死蔵してしまうのも惜しいので、以下に抜粋して挙げる。 
(他にいわゆる「代表作」もあるが、ある意図を持って抜粋した)

俳句もまた考えるものではない、感じるものである。
鷹女の感性を、センサーを開いて、今のあなたで味わうべし。

 

 夏痩(や)せて 嫌ひなものは 嫌ひなり

 

 初嵐して 人の機嫌は とれませぬ

 

 チューリップ 驕慢(きょうまん)無礼なり 帰る

 

 おもふこと みなましぐらに 二月来ぬ

 

 藤咲いて 人にはさみしき うなじがある

 

 白萩(しらはぎ)より 雨の紅萩(べにはぎ) さみしいよ

 

 堕(お)ちてゆく 炎(も)ゆる夕日を 股挟(またばさ)み

 

 老いながら 椿となつて 踊りけり

 

 白露(しらつゆ)や 死んでゆく日も 帯締めて

 

ある抑圧の強い女性が、鷹女の句を読んで、ただの言いたい放題ではないか、と言った。
違います。
周囲が恐くて本心を言えないあなたが、自分のヘタレを正当化するために、自分がヘタレなのではなく鷹女の方が言いたい放題であるとこじつけているのです。

 

 

少しずつ“本当の自分”を取り戻し、恐い相手に以前なら言えなかった“本音”がようやく言えるようになって来たとする。
大変喜ばしいことであるが、そんなときに起こりやすいのが、ひとこと言っただけで全精力を使い果たしてしまい、「ふう。」と気持ち的に座り込んでしまう場合がある。
そうなると、最初のひとことで相手をノックアウトできたのなら良いのだが、そうできなかった場合、相手から想定外の反撃を喰らって、こっちがノックアウトされることになりかねない。
そこでやり返されてしまうと、相手からの
反撃が恐くなり、以前よりも本音を言えなくなってしまうことすらある。

だから、予め申し上げておきたい。
本音の矢を射る場合には、一之矢で終わりとせず、必ず、二之矢、三之矢を次々と射る覚悟で臨むことである。
相手も一之矢に対して反撃できたとしても、まさか二之矢、三之矢まで来るとは思っていない。
仕留めるまで射続けるのである。

などと思っていたら、先月引用した柳生宗矩(むねのり)の著『兵法家伝書』の中に、このことがズバリと書いてあった。

「一太刀(ひとたち)打つてからは、はや手はあげさせぬ也(なり)。打つてより、まうかうよとおもふたらば、二の太刀は又敵に必ずうたるべし。爰(ここ)にて油断して負(まけ)也。うつた所に心がとまる故(ゆえ)、敵にうたれ、先(せん)の太刀を無にする也。うつたる所は、きれうときれまひと、まま、心をとゞむるな。二重、三重、猶(なお)四重、五重も打つべき也。敵にかほをもあげさせぬ也。勝つ事は、一太刀にて定る也。」
[意訳]一度刀を抜いて斬り込んでからは、もう反撃を許してはならない。どうしようかと躊躇(ちゅうちょ)したならば、二の太刀を敵から必ず打たれることになる。それで油断して負けになる。打ったところに心が留まってしまうから、敵に打たれ、最初の太刀を無駄にしてしまうのである。打ったところは、斬れようが斬れまいがこころを留めてはいけない。二之太刀、三之太刀、さらに四之太刀、五之太刀も打つべきである。敵に顔も上げさせないように打ち込むのである。勝つことは、一度刀を抜いたときに決まるのである。

但し、付け加えておくことがある。
自分の“我”を通すためにこれを使えば、ただの迷惑な攻撃野郎となる。
あくまで「自我」でなく「自己」、「神経症的自己中心性」ではなく「本当の自分」「真の自己」を生きるために行うことであることを忘れてはならない。

 

 

「私は医者として患者が治るときに、そこに単なる薬だとか医者の手当てだとかいう以上に、その患者に深く動いている、患者の命に働きかけている深い強い力を感じる時があります。これが正に患者を治すものであります。そういう力を我々医者は信じて仕事に従うことができるのです。治るということ、これは医者の力でもありませんし、薬の力でもありません。それを超えたもっと深い力が働いていることを、もしその医者が謙虚に自分の何十年かの治療経験を顧みるならば、気がつくことだと思います。私はそういうことを本当にこの何十年かの治療生活で感じています…」(近藤章久講演『一味の世界を目指して』より)

近藤先生は長年多くの患者さんの治療に携わって来られました。
中には非常に難治な方が劇的に回復されたこともありましたが、一度として「自分が誰々を治した。」という表現をされたことがありませんでした。
「私が誰々を治した」ではなく、「誰々の命に働きかけている深い強い力がその人を治した」のであり、それが近藤先生にとって偽らざる実感だったのです。

よく先生は「邪魔しなければ名医」と笑って言っておられました。
藪(やぶ)な医者は、賢(さか)しら立って余計なことを言い、また余計なことをして、治ることの邪魔ばかりしているのです。
まずそれがなければ名医。

私は先生に申し上げました。
「それでは少しでも力になれたら大名医ですね。」
そしてその「少しでも力になる」というのは、余計なことをするのではなく、
患者の中に働いているそ
の力を感じて信じること、
そして、その力に対して心の中で合掌礼拝しながら関わること。
そしてさらに、医者自身の命を通して働いているその力に促されて、あるいは導かれて、何某(なにがし)かのことを言う、あるいはするのみです。

これが「治療」ということの本質です。
 

 

子どもの前では、夫婦喧嘩をしないようにしている、と言うお母さんがいる。
気持ちはわかるが、子どもを侮(あなど)ってはいけない。
お父さんの悪口を言いたくてしょうがないことは、とっくにバレている。
そして子どもは、険悪な空気に気づいていないフリまでしてくれる。
それならばむしろ、子どもの前で多少ドンパチやろうとも、そんなことでビクともしないほど夫婦の絆は強固なのだ、ということを示せた方が良いのではないかと思う。

もう離婚したお母さんの場合。
子どもの前でずっとお父さんの悪口を言い続けるお母さんがいる。
それだけの理由があって別れたのだから、悪口を言いたくなる気持ちもわかる。
しかし、子どもにとっては、それでも世界に一人のお父ちゃんである。
その父親がアンポンタンのポンコツだと言い続けられるのを聞くのは、ちょっとしんどい。
なんだか自分も半分、失敗作のような気がして来る。
だから、こういう場合には、できるだけ悪口は少なめにして、「お母さんとは合わなかったけれど、良い人だったよ。」くらいは言いたいところである。
もちろん子どもは気づいている、それが無理なウソだということを。
それでも自分のために良いように言ってくれているんだな、ということにやがて気づくようになる。
そこに母の愛がある。
(お母さんの愚痴を言う相手は他に確保しておきましょう。これはこれで溜めてはいけません)

なんだか今日は人情噺のようになったな。

 

 

今日は令和6年度2回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も前回に続いて2回目。
今回も、ホーナイの本質をとらえ、しかも、わかりやすい筆致は流石である。
以下に参加者と一緒に取り組んだ部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的に、かつ、系統的に学んでみるチャンスです。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症の生成と発展

a.基礎的不安 basic anxiety

しかし、幼児がF、この世に生を受けた時、必ずしも良好な条件の中に生れ出て来るものばかりではないばかりか、良好でない条件は数え切れない程あるのである。しかし、窮極するところ、幼児を取り囲むその環境に於ける人々の態度が問題である。それらの人々自身が神経症的であり、神経症的な要求や反応を示すとすれば、それは自(おのずか)ら幼児に影響する訳である。
例えば、親が保護し過ぎたり、脅迫的であったり、依怙(えこ)ひいきをしたり、焦々(じりじり)し勝ちであったり、権威的であったり、やかましやであったり、無関心であったり、偽善的であったり、不安であったりする時、それらの態度は幼児の成長に対して影響を持たざる得ない。
それらの態度の結果として、幼児は何かしら安全感を持てなくなる。幼児は深い不安と漠然とした恐れを体験する。彼は何か、自分に対して敵意をはらんでいる世界に住んでいると感じるのである。
そこで彼は一人ぼっちにされ、無力だと言う感情を持たざるを得ない。これが、こうした状態に於いて感じるものであり、Horney が基礎的不安 basic anxiety と呼んだ感情である。

 

 

動物を殺すのは可哀想だから肉(動物性食品)は食べない、という人たちがいる。
植物は殺しても良いのか、と思う。

植物を殺すのも可哀想だから、木から落ちた実しか食べないという人たちがいる。
あなたが歩いているときに踏み潰している虫や微生物はどうでも良いのか、と思う。

虫や微生物を殺すのも可哀想だから、非常に気をつけて生きている人たちがいる。
残念ながら、どんなに気をつけても、例えば、われわれの腸内では微生物の殺戮が毎日行われている。

別にそれぞれの考え方や生き方に、イチャモンをつけているわけではない。
自らの信ずるところに従って人生を生きて行かれれば良い。今回、私が言いたいのはそこではない。

生きるということは、どんなに考えて意識して気をつけても、誰かや何かを犠牲にして成り立っている、という事実を知っておいた方が良いと思う。

そうすると、人格というものがちょっと謙虚になる。
 

 

昨日と似ていてちょっと違う話。

幼少期から母親にひどい虐待を受けて育った中年女性。
何があったかについてはっきり思い出せるようになったのも、つい最近のことだそうだ。
そして、ある日、診察の中で笑いながら私に語った話。
夫に、小さい頃、母親にこんなことを言われた、こんなことをされた、という話をすると
「それはひどい母親だね。」
「毒親だね。」
って必ず母親の悪口を言うから、もう話さないことにしました
と言う。

この話のからくりがわかりますか?
昨日の話と似てますよね。

つまり、
母親にこんなことを言われた、こんなことをされた、と言い、
その内容は、誰がどう聞いても、ひどい内容なので
聞いた人が「それはひどい母親だね。」「毒親だね。」と言うのは当たり前のこと。
それは子どもでも予想できる(しかし彼女自身は全く気づいていない)。
そう。
彼女は、自分からは絶対に「あいつはひどい母親だ。」「毒親だ。」と言わないで、
聞いた相手にその代弁をさせる。
これを昨日の表現に合わせて言うと、
他者に母親を非難する言葉を言わせて自分の怒りを満足させつつ=留飲を下げつつ、
自分は母親の悪口を言うような悪い娘にならないで済む=“良い娘”でいられる、ということになる。

大人からの身体的虐待(暴力)、心理的虐待(暴言)という執拗な攻撃を前に、小さくて弱い子どもは、強烈な恐怖感に支配されて、自分の怒りを徹底的に抑圧するしかない(間違って怒りを出せば、どんな恐ろしい目に遭うかわからない)。
従って、少しでも母親を非難・攻撃しようとすれば、そう思っただけで、強烈な恐怖感に支配されてしまうのである、大人になった今でさえも。
彼女の中には、いまだに怒りを抑圧させる恐怖の見張り番(母親)が住んでいる。

しかし、時が経ち、今になってようやく彼女の中の本音が蠢(うごめ)き始めたのである。
なんとかして母親への怒りを出したい、母親を攻撃したい。
しかし直接、罵倒するのは恐くてできない。
そうして編み出したのが、自分で攻撃せず、他人に攻撃させる方法なのである。
しかもまだ、それを意識してやろうとすると、恐怖感に襲われる。
従って、自分ではそうと気づかず(無意識に気づかないようにして)、
母親にこんなことを言われた、こんなことをされた、と人に話すのである(多分、これからも繰り返すだろう)。

そして、親からの虐待の場合、恐怖以外にもうひとつの要素が付け加わる。
それでも母親は、いとしい愛着の相手なのである。
どこかに、それでも母親に愛されたい、という切ない(そして幼い)願望がこもる。
そうなると、余計に母親を攻撃しにくくなる。

なんだか哀しいね。

だから、母親への怒りを、自然に、十分に、感じ、出せるようになるまで、ちょっと遠回りの方法を使いながら、長い時間がかかることになる。
でも、その道を進むしかない、本当の自分の人生を取り戻すためには

例えば、当事者がこの文章を読んで、怒りを感じ怒りを出して、本当の自分を取り戻したい、と決断できた場合には、向き合う準備ができており、「成長」の道を歩むことができるだろう。
しかし、当事者であるにもかかわらず、どこか他人事でピンと来ず、まだ「ふーん。」と言っているようでは、まだ向き合えない(準備ができていないのに無理矢理迫ることはできない)。そしてあとは寿命との競争になる。

できれば、間に合いますようにと祈るしかない。
一生はとても短いからね。

 

 

 

あるクリスチャンの中年女性。
面談の度に
〇〇さんにこんなことを言われました
△△さんにこんなことをされました
などとおっしゃる。
それはいずれも、誰がどう聞いても
ひどいことを言われた
ひどいことをされた
内容である。
そのため、それを聞いた人は、まず間違いなく
それはひどいですね。
それはひどい人ですね。
などと言うことになる。いや、そう言わされることになる。

すぐに気がついたのは
彼女は

〇〇さんにこう言われました。
△△さんにこうされました。
と起こった事実を述べるだけで、絶対に
ひどい目に遭いました。
本当にひどい人ですね。
などと、自分の思いを言わない、特に誰かを非難するようなことは絶対に言わないのである。

これはずるい。
狡猾で巧妙だなと思った。
つまり、そうすることによって、
他者に相手を非難する言葉を言わせて自分の怒りを満足させつつ=留飲を下げつつ、
自分は他者の悪口を言うような人間にならないで済む=“良い人”でいられるのである。

きったねー。

こういうのは怒りを抑圧する見張り番を埋め込まれて来た人に多い。

それで私はその女性に訊いてみた。
あなたがやっていることをキリスト教ではなんと言うんでしょうね?
しばらく考えていたが、バカではない彼女は目を上げて言った。
「偽善者…ですね。」
正解っ!
こういうことは、他人から言われるよりも自分で気がついた方が良い。
それに、それに気づける、それが言える人だからこそ、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」があると言えるのだ。
私は大いに褒めた。
そもそも我々は凡夫なので、いやいや、迷える子羊なので、ちょいちょい偽善者するに決まっているのである。
問題は、偽善者することにあるのではなくて、それに気づかない、それを認めないことにあるのだ。
気がつけば謙虚になる、そして、認めれば成長できるかもしれない。
ですからまず、ひどいことや、ひどい人については、ひどいと思って、ひどいと言って良いんですよ、はい。

 


 

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