八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

近藤先生が非常に難しい患者さんの治療に取り組み、ようやく治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。 
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と近藤先生に三拝九拝して感謝されたそうだ。

またある時、別の非常に難しい患者さんの治療に取り組み、紆余曲折を経て治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。
その経過を聴いて喜ばれた鈴木大拙は、近藤先生の両手を握り、涙を流して「ありがとう、ありがとう。」と感謝されたという。

普通ならば、相手に感謝されたとき、人間はちょっと遠慮して「いやいや。」「とんでもない。」と謙遜してみせることが多い。
しかし、近藤先生はそうしなかった。
これらの感謝の言葉に対して「ありがたいですね。」と応じたのである。

即ち、自分が治したのであれば、「オレが治した。」と誇ることもできるし、そう思いながらもちょっと謙遜して「いやいや。」「とんでもない。」と言うこともできる。
しかし、近藤先生の場合は、自分が治したという自覚はまるでなかった。
自分を通して働く力が、そして、その人を通して働く力が、治すのである。
だからどうしても返事は「有り難いね。」となる。

そして話を戻せば、鈴木大拙の「ありがとう、ありがとう。」という言葉も、実は近藤先生に対して言った言葉ではなかったことがわかる。
鈴木大拙が近藤先生に対して言った言葉は、実は、近藤先生に対してではなくて、近藤先生を通して働く力に対して言ったのである。

おわかりか?

よって、全ての手柄は、人間にはなく、あなたを通して、私を通して、この世界を通して働く力にこそあるのである。
褒めるべきは、讃嘆すべきは、この力だけである。
よって、キリスト教では「褒むべきものは神の御名のみ(褒められるべきは神さまの名前だけである)」という。
神の御名を唱えながら、これが仏教ならば、仏の御名を称えながら、というわけで、南無阿弥陀仏に落ち着くのである。

ありがとう/ありがたいね。

 

 

「そこで、基本的に幼児時代というものは、母親の問題が非常に大きい。そのときに母親がです、その、もし不安だけ与える、不安だけ与えて、不安と、つまり愛と、愛憎がありますと言いましたけれども、愛が少なくて、あるいは、愛より、愛してはくれるけど憎が多いというふうな状況を作って、憎しみが大きい状況を子どもに作ったら、どういうことになる。そうしますと、この憎しみを主張しようとしますね。そうすると、それは母親に、ところが、幼児の立場から言やぁ、お母さんはもし自分が主張したら、自分を見捨てるかもしれないでしょ、ね。
あなた方もそうですね。旦那さんに対する憎しみがあっても、それをあんまり主張しちゃったら、旦那に捨てられちゃうでしょ。捨てられちゃうと自分の安全がなくなりますね。三食昼寝付きでテレビ観てるってわけにいかないでしょ。だから、結局ね、そうすると自分の敵意はこう抑えちゃってね。我慢するでしょ。我慢したけれども腹が立つ、我慢したものっていうものは、それを抑えなくちゃいけない、抑圧しなくちゃいけない。これは術語で言いますとね。抑圧するといつも敵意があります。
これ、男性で言いますと、上役がいますね。上役が怒鳴ると。そうすると、それに対して、この野郎!とこう敵意が起こる、ね。そうすると、この野郎!と思うけども、これを、しかし、あいつにやるとクビになっちゃうとかね、昇進が遅れるとか、やれどうだとかで、ここで我慢。忍耐、これね。忍耐する。忍耐っていうのは日本の美徳です、これね。我慢に我慢を重ねて行く。その結果、どうかっていうと、心の中に、この野郎!っていう気持ちがある。その気持ちは、忍耐の下にこう抑えられている。沢庵石(たくわんいし)の下の漬物みたいになってる、こうやってね。そういうものが爆発するとね。例えば、前の校長がどっかに行っちゃう。もう大丈夫だ。あいつはもうアレだっていうんで、グーッと出て来てね。前の校長に対してそういう気持ちを思っていたと仮定しますよ、そうすると、今度なった校長先生と、あるいは教頭に対して、もうその先生は文句だらけだな。
そういう具合に、人間っていうのはね、非常によく見ますとね、この、愛憎というものの不思議なね、絡み合いの中で生きてるようなもんです。で、私はこんなことを言うのは、大人のことを言ってるのは、これが子どものことにも関わって来る。子どもの問題っていう場合に、やっぱりね、そういうものをね、見逃してはならないということです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

愛憎のアンビバレンスの中でも特に、憎、憎しみの抑圧ということが問題になって来ます。
愛憎のうち、愛の表出は一般に歓迎されますが、憎の表現は抑圧されやすいのです。
そうなりますと、表出されない憎は、いつもその人の中にあることになります。
子どもでも大人でも、我々の中に抑圧されいる感情で、最も大きいものは、憎=怒りなんじゃないでしょうか。
虐待された子どもも、マルトリートメント(不適切な関わり)された子どもも、そのときは、親は恐いし、しかも愛着の相手でもあるし、憎=怒りは抑圧されてばかりとなります。
また、夫や上司にひどい扱いを受けた大人も、利害関係や恐怖から、その憎=怒りは抑圧され続けています。
けれども、その憎=怒りはなくなってはいません。
よって、それが後になって、適当な機会をとらえて噴出して来るわけです。
このからくりをよく知っておく必要があります。
そして、できるだけ早いうちに、その憎=怒りを健全な形で発散できないか、解消できないか、ということが重要な問題になってくるわけです。
とにかく
子どもは憎んでいる、怒っているということを
大人は憎んでいる、怒っているということを
自分は実は憎んでいる、怒っているということを
よくよくわきまえておきましょう。
やっぱり感情はね、成仏させてあげないといけないのです。

 

 

一時「親ガチャ」という言葉が流行った。
「ガチャ」(カプセルトイの販売機=ガチャポンによる)のように、どういう親の元に生れるか、それがどんな酷い親であろうと、子どもは親を選べないという意味だったように思う。

そうしたら、今度は「医者ガチャ」という言葉に出くわした。
医療機関を初めて受診した際、どんな医者が出て来るか、それがどんな酷い医者であろうと、患者は医者を選べないという意味らしい。
厳密に言うと、今はSNS上の書き込み情報などを読むことができ、或る程度の下調べも可能になって来ているし、その医者と合わなければ病院を変えれば良いので、まだ「選べる」方かもしれない。
また、医者の方からすれば、「患者ガチャ」もあり、一方だけの問題でもない。

そこからさらに眼を大きく転ずれば、多少の程度の差はあれ、この世には、「親ガチャ」「患者ガチャ」どころか、「入学ガチャ」「進級ガチャ」「クラスメートガチャ」「担任ガチャ」「入社ガチャ」「異動ガチャ」「上司ガチャ」「部下ガチャ」「転職ガチャ」「引っ越しガチャ」「結婚ガチャ」「入店ガチャ」などなど、「ガチャ」が数限りなくあることが観えて来る。

そう。
察しの良い方はお気づきであろう。
「ガチャ」には、思い通り、希望通りにならないもの/人に当ったらイヤだなという、はっきり申し上げて、自己中心的願望のニュアンスがあるのであるが、
本来は、出逢うべくして出逢う「縁」という意味なのである。
それを選り好みする(これはイイけど、あれはイヤ)観点からすれば、「ガチャ」という表現になる。

この世の中は、残念ながら、思い通りにならないようにできている。
その思い通りにならないところから
そこをまた思い通りにするために頑張りに頑張るのか
思い通りにならないことが気に入らない自分(自我)というものを超えて行こうとするのか
で、その後の展開は、天と地ほど違って来るのである。

そう思うと、「ガチャ」から学べることは、実はたくさんありそうだ。

 

 

酷い上司、先輩、同僚、部下、あるいは、酷い家族に囲まれて、苦しい環境で生きている人たちがいる。
そうなると人間は弱いもので、
「こういうときはこうやっときゃいいんだよ。」
「そういうときはそう言っときゃいいんだよ。」
「テキトーにヨイショしといて、裏で舌を出しときゃいいのさ。」
などと、いわゆる世俗的な処世術を教えられると、ついそっちに走りたくもなる。
そういうことを、頼んでもいないのに言って来る人たちは、自分自身が使っているちょろまかし方を教えて来るのであり、(自分だけが負け犬のすれっからしになりたくないので、)一緒に泥沼に沈んでいく道連れを増やそうとしているとも言える。

しかしながら、そこで踏みとどまって、自分だけは易(やす)きに流れずに、ど真ん中を歩いて行くことは、実にしんどい。
しんどいけれど、それでもやっぱり私としては、その道をお勧めしたい。

私もそこそこ長く生きているので、濁世(じょくせ)の大変さを知らないわけでもないし、そんなに簡単にど真ん中を歩いて行けないこともよく知っている。
私自身も、アンポンタンでポンコツの立派な凡夫である。
しかし、それでも最初から諦めていてはダメだと申し上げたい。
現実には、ひーひー言いながら踏ん張って踏ん張って踏ん張って、実際に達成できるのは目標の6割くらいかもしれない。だからこそ最初は100を目指すのである。最初から60じゃあ、現実にはその6割、36くらいになってしまう
そうやって、無能、無力、非力の凡夫の自力を尽くしながら、自分を超えた他力を祈ってやっていくしかないのである、ひーひー言いながら。

そうするとね、1年や2年では変わらないけどさ、何年も何年もそうやっているうちに、
「ああ、やっぱり、魂を売らないで、ど真ん中を歩いて来て良かったな。」
「昔の私に、それでいい、と言ってやりたい。」
「こんなに自分が自分でいてのびのびできる時間が来るとは思わなかった。」
と心底思える日が来るのである。
これらはあなた方の先輩たちの言葉である。

だから、それでもど真ん中を歩いて行きましょうよ。
少なくとも、歩いて行こうとしましょうよ、ひーひー言いながら。

その甲斐はきっとありますよ。

 

 

最近の知見では、円形脱毛症(AA:alopecia areata)は、心因性のもの(ストレスによるもの)ではなく、(成長期毛包組織に対する)自己免疫疾患と考えられている。
よって、その治療も局所的免疫療法、ステロイド療法、紫外線療法、免疫抑制剤療法などが行われている(詳細は専門的に過ぎるのでご関心のある方は、日本皮膚科学会 円形脱毛症診療ガイドライン2024 参照)。

しかし、ふと思う。
エビデンスに基づいたガイドラインであるから、その治療法で治癒している方々が実際におられるのであろう。
しかし、私が今まで心因性のものとして治療し、円形どころか、頭髪全体から眉毛まで抜けていた女性が、精神療法のみで全く完治してしまったのも事実である。
あれはどういうことだったのであろうか?
その治療には抗不安薬も使っていない。
まさかたまたま自然経過で生えて来ただけというわけでもあるまい。
少なくとも彼女の精神的成長は明らかであった。
(ちなみに先のガイドラインでは、抗不安薬の投与も心理療法も「推奨しない」となっている)

真実はどこに?

また、心的外傷後ストレス障害(PTSD:post traumatic stress disorder)の患者さんにおいては、海馬の萎縮があることが報告されている。
これまた、私が精神療法による治療を行なって来た方で、幸いにも、徐々に回復し、遂に完治した青年がいた(しかも私の行った精神療法は PTSD治療ガイドライン[第3版]で推奨されている精神療法ではない)。
ということは、その人の海馬は、治療によって体積を増したのか、それともたまたま海馬が委縮していないタイプの方だったのかしらん、と思う。
少なくとも彼の精神的成長は明らかであった。

真実はどこに?

最近はエビデンス流行りであるが、一理があってニ理がないエビデンス倒れも散見される。
あくまで臨床現場の実体験を大切にして、真実の居場所を観誤らないようにしたい。

 

 

「これは、女性の方が今日は多いから言いますが、あなた方の旦那さんとかね、いうものに対する考え方をひとつよく見て下さい。私があなた方に、旦那さんを愛してらっしゃいますか?と訊けば、皆さん、手を挙げられると思うんです、ね。しかし、本当に愛だけですか? どうでしょ? 甚(はなは)だこんなことは言いにくい話だけども、やっぱり憎んでいるところがあるはずです。これをはっきりさせないもんだから、だから、ものがはっきりしないところがあるわけです。癪(しゃく)に障(さわ)るけどしょうがない、まあ、食うね、素を持って来てくれるんだから、しょうがない。亭主と認めてやるわ。こういうところがあるわけですね。男性が今日は、一、二、三、四人だから、合計五人だから、思い切って言える。男性をイジメる会ってことじゃないかもしらんけども、けども、そういう男性がそこで、オレこうやって威張ってるけれども、威張ってる相手の奥さんのお腹の中に二つあるわけです、ね。つまり愛憎ということがあるわけです。
恋人に対してもそうですよ。愛人というけれども、愛しているけれども、それは必ずしも全てが愛ではないはずです。憎らしい。私をこんなに待たせて酷(ひど)い人。私はじっと待ってなくちゃいけない。私はコーヒーをもう何杯飲んだ、胃がお蔭で変になっちゃったってなことがある。それは腹が立ちますよね。なんで待たすの? でも私は愛するから仕方がない。こうなっちゃうでしょ。必ずそういう矛盾した気持ちがある。
日本の女性は、そういう点は、非常に、あの、なんていうか、よくできてるというか、大人しいというか、言わないから、その愛憎を二つ出ない。自分の中の憎しみに気がつかない。気がつかない結果、それがね、あんまり、あの、解決されない。そのままずるずるべったり行って、最後に腹が立ってね、六十ぐらいになって、これから離婚します、なんて言う。親父さんが弱くなっちゃって、今度はね、おまえ、頼むよ、頼むよっていうことになって来るとね、さあ、ご覧なさい、と言ってね、今度は、愛より憎しみが出て、私をどんなにイジメたでしょ。もうあなたなんかおっぽっちゃう、なんていうわけで、まあ、必ずしも言わないよ、そういうことになっちゃう。
そういうふうな愛憎というものが子どもにあるんですよ、良いですか。ここがね、今、あなた方が自分の旦那さんやお父さんを笑ったかもしれないけども、今やまさに子どもから見りゃあなた方がそうなんだ。母親に対する愛憎、それから父親に対する愛憎、父親はもっとひどいんだな。父親が、よく考えてみると、最初の敵意は母親がそうですが、同時に最も強力に侵入して来るのは父親です。お母さんの傍(そば)にゆっくりこうやって、乳房にくっついて傍にいたいときに、突然夜になってお母さんを奪って行くのは誰ですか? お父さんでしょ。そういうときに子どもは、おぎゃあおぎゃあと泣きながらですね、侵(おか)されてるんですね。
近頃は3LDKになると、子どもは別のところにおいて、お母さんとお父さんは別のところにいるだろう、ね。従って子どもは非常に孤独の中に残されるわけですよ、ね。お母さんとお父さんは楽しいかもしらん。そういうときにいつも自分の大事な大事な、子どもにとっては安心と、その、本当に安心感と、なんていうか、満足の元である、源であるお母さんを奪って行くのはお父さんでしょう。お父さんていうものはね、まず最初にはね、自分から自分の愛する者、自分の安心の元を奪って行く対象として見られるんですよ。ですから、子どもにとって最初はね、親父なんてちっとも有り難くない。
その証拠に、親父もまた子どもをあまり可愛がらない。うるせえな。少し黙らせたらどうだ、なんていうことになっちゃう、ね。おまえが悪いんだってなことになってね。うるさい。こういうことになる。
そういうふうに、父親と子どもってものは、最初は、最初の経験は、僕は愛ではないと思う。これは今まで見て来たように、そうではなくて、むしろ原本的に、あの、愛の経験は母親でしょ、恐らくね。父親は要するに、後は、今度はどうかっていうと、それは、父親の有り難みが少しわかって来るのは、もう少し後なんだ、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、アンビバレンス(『アンビバレンス(1)参照』)の対象となるのが、母親だけにとどまらないということ。
夫、恋人などさまざまな人がアンビバレンスの対象となり得る。
その中で、特に女性は、自分の「憎」の部分に気づきにくい。
しかし、気づかなくても実際にある「憎」が、後になって復讐を果たすこともあるのでご注意を。
そして、やはり子どもにとって、最初の愛の経験の対象は母親。
父親は自分から愛する人、安心の元を奪って行く存在でしかない。
父親の本当の出番はもう少し後になってから。
こんなことも、近藤先生の講演を機に、ちょっと知っておくとね、夫婦関係や親子関係において、不要な問題を引き起こさないで済むかもしれない。
良い悪いではなく、人間のこころの事実として、アンビバレンスというものがあることを知っておきましょ。

 

 

『論語』里仁篇に
「子(し)曰(のたま)わく、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能(よ)く人を悪(にく)む。」
([現代語訳]孔子が言われた。「ただ仁の人だけが、本当に人を愛することができ、人を憎むことができる。)
とある。

昔は何度読んでみても、その真意がわからなかった。
能(よ)く好む? 能(よ)く悪(にく)む?
好んだり、嫌ったり?

それじゃあ、ただの我(が)の選り好みじゃん。
儒教の根本とする仁=愛の体現者であるはずの仁者が、相手を絶対的に愛することはあっても、そんな体たらくであるはずがない。
疑問に思って、さまざまな注解書を読んでみたが、どれも腑に落ちることが書いていない。

そうこうするうちに、ようやく感ずるところがあった、あの人間存在の二重構造がわかってから。
仁者たる者は、相手の中にある存在の絶対的尊さを感じている。
そしてその上で、その尊さの上を覆っている人間の、いかにも人間らしい、あるときは愛おしく、あるときは憎たらしい面を十二分に感じているのである。
よって、相手の存在の持つ絶対的な尊さに対して、畏敬の念を抱きながら、あるいは、抱いた上で、その上を覆う極めて人間的な面に対して、自由に、そして存分に、好み、あるいは、悪むことができるのである。
能(よ)く好み、能(よ)く悪(にく)む。
なるほど、良い得て妙である。
相手の存在の持つ絶対的な尊さを感じることが大前提。
それがわかって初めての「能(よ)く」となる。

それにしても、金言というものは、こちらが成長するにつれて、その真意を開示して来ると、つくづく思う。
私が聖なる古典の心読を皆さまにお勧めする所以(ゆえん)はそこにある。
読んでみての疑問や感想は、また面談のときに話しましょう。

 

 

「子どもにとって環境っていうことを段々と今、私は考えてみまして、環境ということ、親子ということが非常に大事で、つまり、最初の母親と子どもの触れ合いっていうものが一番最初の問題です。…
で今、母と子の問題を持ち出したわけです。母と子の問題は、同時に、母が単に一人じゃなくて、夫がある以上は、ここには夫婦の問題もあります。父親と子どもの問題も出て来ます。親子の問題と言っても良いだろうと思いますね。
さあ、そこでです。わかりやすくするために、そのね、お母さんと子どもの問題から出発しますと、あの、非常に、こう、なんと言いますか、単純なことですから、ひとつ、ご経験のある方はわかると思いますが、子どもが最初に、赤ん坊がですね、男の人は絶対にわからない、女の人しかわからないんだが、乳房をくわえます。自然にこう、あれは、あの、吸う本能がございましてね、それで自然に、こう、やるわけです。これは動物全部にあるわけですね。こうやる。そのときに、どうも、吸ってるうちに、それはまず胃に対して非常に良い、その、満腹感を与える、満足する。と同時に、唇ね、唇の中に含む、唇の触感、こうしたものが快感を与えます。
ですから、乳房は単に、二つの目的、一つは、ほんとは三つあるんですが、一つは、自分が飢えたとき、食べたいとき、その成長する欲望である食欲、それを満たしてくれる。喜びがある。第二には、そういう唇による触感によって快感がある。第三は何かというと、そこで実は、後に母の胸に抱かれるというふうな感じで、安心感があるんですね。この三つが、実は、あの、子どもが最初に感じる環境で、そういう三つが満たされたときに、赤ん坊は非常に満足するわけです。そういう意味で、大変簡単に言いましたけれど、それは基本ですから、ひとつね、ずっと覚えておいていただきたいです。
で、そういうものがですね、あって、のんびりしてますと、それにこう、例えば、お腹が空いていなくとも、お母さんの乳房をこう口で含んでいますね。お母さんがそれをこう取ろうとしますね、お母さんも仕事がありますから。そうするとね、イヤでしょ。その最初のね、ガチッとこう噛むんですね。そのとき歯が生え始めていると、お母さん、痛いでしょ。お母さんとしては、非常に、自分自身も、これは母親の方にもまたね、これは父親、男にまたわかんないことだけれども、乳房を含ますということは快感です、喜びです。我が子を育んで行くという最初の、この、気持ちですね。そういうものがね、あるわけですね。そういう気持ちでやってる。両方ともハッピーな、ハネムーン時代ですね、これはね。
だけども、それがね、ちょっとね、この、お母さんが外す、電話がかかってきた、ちょっと。そうすると、そういうことがあると、非常にね、自分の快楽を奪われるわけですね。そういう自分の安全感を奪われるわけでしょ。そこで子どもは、ギュッとそれに対して、自分に不安感を与え、不満を与える人間に対してね、最初の敵意というもの、その最初の敵意は、敵意っていうのは心理的にも今、大人にも言いますけども、どういうことか、具体的に表れて来るのは噛むことです。乳房を噛まれなかったお母さんはいらっしゃるかな? 人工哺乳をやらない限り、必ずこの経験はおありのはずだと思う。なんでもない、まあ、この子はってな調子でこう過ごしていらっしゃるかもしれんけれども、それはそういった心理的な状況を含んでるっていうことを考えておいて下さい。ていうのは、これが僕は、これくらいのときに起きる敵意という、非行だとか、いろんな問題の元になる敵意の、最初の表現だからです。
つまり、その場合に、非常に子どもはね、その、矛盾した気持ちになるわけですね。矛盾した状態に置かれるわけです。これは大人でもあるんですが、はっきり言うとね。矛盾した状態、どういうことか。片っ方でお母さんに頼り、お母さんが自分のいろんな安心感とか快楽とかいろんな欲望を満たしてくれる、その源ですね。ですから、それに対して依存するといいますね、頼りにするわけです。片っ方で頼りにし、それを必要とした。ところでお母さんは同時に、自分からその安心感とか楽しみとかを奪って行く人でもある。同じ人が、片っ方では快楽の源であり、安心感の源である。不安を感じない源であるのにも拘(かか)わらず、その同じ人が自分から安心感を奪って行く。ひとりの人に対して、愛と憎しみと、大人の表現を使うと、そういう形になるわけですね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、母親が自らの乳房から子どもにお乳を与えることの三つの意味、これを押さえておきたいと思います。
ひとつは、空腹を満たしてくれる、満腹感を与えてくれる、食欲を満たしてくれる喜び。
ふたつには、母親の乳首を吸うという唇による触感、その快感の喜び。
みっつには、母の胸に抱かれるという安心感。
そして次に、そうは言っても、母親には母親の生活があるわけで、その三つの喜びをいつも子どもに与えていられるわけではない。
よって、子どもにしてみれば母親は、片方で、上記の三つを与えてくれる愛しい存在でありながらも、もう片方では、その三つを奪う憎らしい存在となるのである。
ひとつの対象に対して抱く相反するふたつの心的傾向。
それがアンビバレンス(ambivalence)(ドイツ語だと、アンビバレンツ(Ambivalenz))=両価性。
そしてこれは母子関係だけでなく、さまざまな(特に近くて大切な)人間関係において見られる現象なのである。
あなたには思い当たる人、いませんか?
そのことについてはまた次回に。

 

 

ああ、この人のためなら何でもしてあげたい、という愛情が燃え上がるときがある。
そして、尽くす、尽くす、尽くす。
それは愛「情」であるからこそ燃え上がるが、
「情」には常に「我」が付きまとう。
「我」 の反応こそが「情」なのである。
よって「我」は主観的満足を求める。
で、どうなるか。
その尽くした分だけの主観的満足=「我」の満足=見返りがないと、へこたれてしまうのである。
あんなにしてやったのに。
甲斐がない。
そうなると、あんなに尽くしていたのに、忽(たちま)ちに恩着せがましくなったり、恨みがましくなったりする。
はっきり言ってしまうと、セコいのである。
そんな愛憎事件、たくさんありますよね。
親子間でもよく起きている。

それに対して(「情」の付いていない)、「愛」は違う。
「愛」は人間によるものではない。
人間を通して働くものである。
よって、一方的である。
主観的満足=「我」の満足=見返りを必要としない。
これは尊い。

愛情はへこたれるが
愛はへこたれないのである。

我らは、残念ながら、愛情にとらわれる凡夫であるが、
時に愛に恵まれるところに救いがある。

だからね、今日もまた、祈るしかないのでありました。

 

 

今日は令和6年度最後、10回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目に続いて10回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

さて、先に述べた process によって定立した「仮幻の自己」の内容は、それぞれの個人によって自ら特異な様相をもち、それぞれの神経症的性格の差を形成して行くのであるが、Horney はこれを大別して三種の方に分ける。もとより、全ての類型学がそうである様に、あくまでもそれは、性格理解の為の一応の目安をつけるのにとどまる。人間の個性は色々な variation をもつものであるから、臨床に当っての観察は、患者に固有な心的現象を理解することが重要であるのは当然である。従って次の分類も、この様な前提のもとに理解されるべきであろう。

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

この型の傾向の人々は、自己を嘆賞の中心として(自己陶酔型)、或は道徳的知的に完璧優秀なるものとして(完全主義型)、或は全能な征服者(復讐型)として考える「仮幻の自己」を持つ。嘆賞と支配と優越に対する追求が、彼等の安全を守るのに必要不可欠なるものとして、行われるのである。
彼等に共通なのは、自分の優秀さに関する誇り pride である。何事も自分には可能であり、不可能なものはないと言う傲慢な自信である。現実や他人に対する要求 claims は、現実や他人が、自己のこの様な優越性を立証すべきものであり、他人は自分を嘆賞し、尊敬し、自分に屈従すべきものであり、自分は批判する権利はあっても、現実や他人が自分を批判することは許されないのである。
非はいつも他人にあり、正義は常に自分にあるのであるから、彼の価値を疑ったり、要求に従わない時は、当然、彼はそれに対して復讐し、攻撃してよいのである、そうすることは、彼の優越性をまた立証することにもなるのである。
もとより、自分の優越性に心酔している彼にとっては、他人が彼を嘆賞し、彼のまわりに集って来る場合には、それらの人々に対して寛大であり極めて愛想よく親切であることも多い。
しかし、この寛大さや親切はみせかけである。一人でも彼の意見と違ったり、彼に批判めいた事でも言えば、その人に対する今迄の寛大さや親切さは消え、軽蔑か、冷淡か、敵意か、更に残酷な計画的な復讐が取って代るのである。
他人は、彼の価値や野心や勝利の為の道具であり、材料に過ぎない。だから人間に取り巻かれながら、根本的に言って彼は孤独である。しかし、この孤独感を感じることは彼の自分自身に課する要求 shoulds によって抑圧、禁止される。
何故なら、孤独感は弱さであり、優越し、全能である彼は、弱くあってはならないからである。同じ理由の為に彼は自分の中に起きて来る自分の優越性や、完璧性、或は自分の野心的な態度等に関する不安や恐れを禁圧しなければならない。失敗はあってはならぬし、又同時に考えてはならぬのである。そして、考えない事によって失敗は主観的に抹殺されるのである。
この型の人間に於いては「仮幻の自己」に対する同一化の程度が高いので、「現実の自己」は深く省みられない。むしろ、彼の神経症的要求 shoulds が「現実の自己」を見ることを禁じているからである。
事実、それによって、彼の自己満足、全能感、完全性は保たれているのである。しかしそれにもかかわらず、取巻きや喝采がなくなった時、自己過信の余り、手を拡げ過ぎた事業が失敗した時、或は自分の知性や意志力をもってしても如何ともしがたい、子供の死や、事故や、妻の不貞や、更に彼の征服と復讐の衝動が、結果として破壊的になり、必然的に他からの強い反撃を呼び起こした場合、否応なしにそこに露呈される「現実の自己」の弱さと不完全さを見ざるを得ない。それは、彼に激しい自分に対する憎悪、軽蔑を感じさせずにはおかないのである。
この様な態度の結果として、彼は人間の生活を生き甲斐あらしめる、愛情とか、幸福、喜び、創造性や成長 ー 私達が「真の自己」の現れと解する種々なものから疎外されて来る。
この自己疎外すら彼は否定しようとするであろう。しかし分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである。

 

今回取り上げる「自己拡大的支配型」という神経症的性格の持ち主とは、あのエラソーで傲慢な、すぐマウントを取って君臨したがり、鬱陶しくも圧の強いアイツのことである。
対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」(次回取り上げる)にとっては最大の“天敵”であり、こういう人物が上司になれば、下は病むか辞めるかのどちらかになることが多い。
しかし、所詮は“張子の虎”であるため、どこかで躓(つまづ)き、しくじり、虐げていた人々からの総反発を招くと、その虚勢は瓦解し、一気に抑うつ状態に陥る。
問題はそのときで、散々迷惑を被(こうむ)って来た連中が、愚かにも「大丈夫だよ。」「あなたは優秀だよ。」「よくやってるよ。」などと慰めると、何の反省もなく簡単に復活する。
よって、「自己拡大的支配型」にとっては、その落ち込んでいるときが、数少ない成長のチャンスであり、どこが問題で、どのように変えていかなければならないか、をしっかりと詰めて教えなければならない。
しかし、そんな面倒臭くて嫌われ者の「自己拡大的支配型」の人間に対しても、「この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間である」と書いておられる近藤先生の姿勢には、返す言葉もなく頭が下がるばかりである。
その人を覆う闇がいかに深くても、その中にある「真の自己」という光は常に発現したがっている、という真実を忘れてはならない。

 


 

皆さんは、十一面観音菩薩というのを御存知であろうか。
頭上に十の小面を付け、本面と合わせて十一面を持つ観音菩薩のことをいう。
今回は、その十一面の内訳のうち、正面三面の慈悲面と左三面の瞋怒(しんぬ)面の六面についてお話したい(他の五面についても話すと長くなるため、それはまたいつか別の機会に)。

まず正面三面の慈悲面。
慈悲のお顔が三つ並ぶ。
慈悲とは、抜苦与楽のこと。
苦しみを抜いて(抜苦=悲)、楽を与えて下さる(与楽=慈)。
深みを持った優しさのお顔立ちである。

次に左三面の瞋怒面。
瞋も怒りを表し、慈悲面と打って変わって、怒りのお顔が三つ並ぶ。
それも、あからさまな怒りというよりは、迫力を秘めた怒りを有しており、凡夫の迷いを断ち切るにはピッタリである。

そうなんです。
凡夫に光をもたらす慈悲面。
凡夫の闇を掃う瞋怒面。
どちらも観音菩薩の示す救いとして、十一面に含まれていることに意味があるのです。

慈悲面だけで、いつもよしよししてくれるのが、観音菩薩の働きではありません。
瞋怒面で、容赦なく闇を叩っ切るのも観音菩薩の救いであることを押さえておく必要があります。

人間の成長に関わるすべての人に慈悲面と瞋怒面を。
但しそれは、“あなた”の優しさや、“あなた”の怒りのことではないことをお忘れなく。

 

 

基本、我々は凡夫である。
それはポンコツでアンポンタンという意味である。

それなのに我々は、恐れ多くも、
親になったり、
先生になったり、
治療者になったり、
支援者になったりする。

とんでもない話である。
そもそもやれるはずがないのである。

それでも、どうしてもやるというのならば、その基本姿勢は、
「ポンコツでアンポンタンですけど、一所懸命やりますから勘弁して下さい。」
ということになる。

間違っても、自分が何かできるなどと思い上がってはならない。
何かできたように見えたときは、自分を通して働く力が何がしかのことをして下さっただけであり、
決して自分の手柄と思ってはならない。

凡夫は基本、無能・無力にしてしばしば(ほぼ)有害。

何もできないときや、相手に迷惑をかけそうなときは、天に向かって、
「助けて下さい。」
と祈りましょう。

それが、凡夫なりの精一杯+おまかせ、の生き方。
我々にはそれしかないのでありました。

 

 

そこでまあ、その安全ですけども、皆さん、どう考える? これはもう人間のね、子どものときに、僕は、そう思うんですね。子どものときに、母親のね、胸に抱かれて、こうやってるときにね、あれはね、なんとも言えない、安らかな感じがしますよね。あれは素晴らしい安全感だと思うんです。子どもにとって安全感ぐらいね、大事なものはない。このことを言い始めるときりがないですけどね、子どもの問題としてね。それがないためにどんなに、いろんな問題が起きてるかわからない。
そういうふうなことが、例えば、私の、ひとつの例を挙げれば、今、小学校の3年になる女の子が、登校拒否を始めた。何故か? それは、嫁と姑がいるんですね。その間がガッチャンガッチャンやったわけです。で、お母さんが、もうこんなところにはおれないから、私は出て行く、とこう言ったわけだね。それを子どもが聞いてたわけですね。そうするとね、すごく不安になるわけですよね。そのためにね、学校に行ってる間に、もしやお母さんがどっかに行っちゃうんじゃないか。それでね、学校に行かないでお母さんの傍にくっ付いたままでいるんですよ、こうやって。それが登校拒否の原因だと。つまり、自分にそういった安全がなくなるということ、お母さんについてね。まあ、そんなことを、まあ、ひとつの例で挙げますけどね。
そういう安全感というのは、子どものときから、そういうものがずっとあると思うんですよ。けどね、そのために、さっき言ったように、我々は大人になっても、自分の安全を守るためにいろんな方法をしてるわけなんですけどね。一体、安全というのは何のためにある。もう一遍考えてみる必要がある、と私は私のとこにいらっしゃる方に言うんですよ。僕はよくわかりますと。僕だって安全っていうことを考えますと。しかし、安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか、いうようなことを、まあ、訊いてみるわけです。これはまあ、いろいろ、皆さんも議論があると思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもにとっては、まず自分の心身の安全は最重要事だと思います。
そうでないと、小さくて弱い子どもは生きて行けません。
そしてそのときに覚えた自分の安全の守り方が、大人になってからも自分の安全の守り方のベースになって行きます。
その安全の守り方が、健全なものだと良いのですが、残念ながら多くの大人が身に付けているのは、前回取り上げた「神経症的人格構造」ということになります。
おかしなことをやらかしてでも、自分の安全を守りたい。
事程左様(ことほどさよう)に、人間というものは、自分の安全が大事というわけです。
そこで近藤先生は、疑問を提出します。
安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか。
まあ、すごい質問をさらっとおっしゃるもんだ、と初めてこの講演テープを聴いたとき、私は唸ったのを覚えています。
皆さん、答えられますか?
私はすぐにイエス・キリストのことが思い浮かびました。
吉田松陰のことが浮かびました。
坂本龍馬のことが浮かびました。
自分の安全よりも、殺されてもなお果たすべきミッションがある。
そもそもそのために授かった生命(いのち)であったと。
何も死ねば良いと申し上げているわけではありません。
いざとなったら、安全とミッションとどちらを取りますか、という問題であり、
そもそもあなたは自分のミッションが何かを見い出していますか?という問題です。

そういうことがわかって初めて、安全を守ることが第一の子どもの生き方から、ミッションに生きて死ぬ大人の生き方への成熟があるんじゃないか、と私は思っています。

 

 

相手の中に問題が観えたとき、その問題にどこまで斬り込んで行くか。

相手の芯まで斬り込んで行く。
これを「裁く」という。

それでは相手を殺してしまう。
斬り込み過ぎである。
表面の「闇」だけなら良いけれど、奥にある「光」まで斬ってしまってはならない。

しかし、だからかといって、何も斬らず=問題に触れず、調子の良いことばかり言っていては、何も変わらない。
そうなるのは結局、こちらの問題であり、自分が良い人でいたいのである。
つまりは、利己的で冷たいのだ。

そうではなくて、相手の「闇」の部分に斬り込んで行く。
それによって「光」の部分を出やすくする。
これを「育てる」という。
本当の意味で、相手を活かすことになる。

そもそもの人間存在の二重構造。
生まれたときに授かった「光」の部分=本来の自己を実現しようとする働きを活かし、
生育史の中で後から付いた「闇」の部分=本来の自己の実現を疎外し、ニセモノの自分を維持しようとする神経症的な部分を払って行く。
いつもこの基本構造をお忘れなく。

 

 

以下、「治療」と「成長」の違いをイメージしていただくための例示である。

例えば、親から厳しく締め上げられて来た人に共通の弱点として、大人になってからも同様に強面(こわおもて)の上司、先輩に対して非常に弱い人がいたとする。
目が合っただけでドキドキする。

傍に行くとすくんでしまう。
その人の一挙手一投足にアンテナを張ってしまう。
また明日会うかと思うと前の晩の寝つきが悪くなる。
などなど。
かつて恐かった親と共通の要素を持つ人間が、その人の“天敵”となる。

しかし、小さくて弱かった子どもの頃はしょうがなかったにしても、大人になってからも恐れ慄(おのの)くようでは大きな問題となる。

そして、その後の展開は二つに分かれる。
その分かれ目のポイントは二つ。
一つは、それによって、実生活に支障が出るか否か。
二つは、そういう自分と勝負して変えて行きたいと心の底から思えるか否か。

まず前者は、そのために出勤できなくなるとか、仕事のパフォーマンスが落ちるなどといった「実害」が出るようになれば、受診するなどの「治療」が必要となる。
それでもなんとか仕事に支障をもたらさないように踏みとどまれているのであれば、「成長」によって乗り切れるかもしれない。

次に後者は、「恐い、恐い。」「どうしよう、どうしよう。」となって、恐怖や不安に呑み込まれ、とても内省したり、現状を打開するために勝負して行こうという気持ちになれないときは、これまた受診するなどの「治療」が必要となる。
そこまで行かず、起きていることを内省でき、現状と向き合って乗り越えてやるという決意が持てるのであれば、「成長」の道が開ける。
両者とも「治療」となると、例えば、環境調整を行ったり、薬物療法を使ったりして、まず気持ちに余裕を作って行く必要がある。それからでないと内省も勝負もできない。
(念のために申し添えておくと、「治療」するのが良い・悪いという問題ではない。当人にとってどちらの道を選ぶことが適切なのかを判断することが重要なのである)

当研究所で面談をお受けできるかどうか、という際にも、上記の2点がポイントとなる。
「治療」が必要な人には、中途半端なところでお茶を濁さず、しっかり「治療」を受けることをお勧めする。
そして、「成長」でやっていける人には、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を要求する。
自分と向き合って内省するのも、現状と勝負して具体的に言動を変えて行くのも楽なことではないが、それができる人が、当研究所の「人間的成長のための精神療法」向きということになる。

 

 

そもそも
集団の中に身を置くということの意義はどこにあるのか?
他の人と交わるということの意義はどこにあるのか?
結婚するということの意義はどこにあるのか?
誰かと一緒に暮らすということの意義はどこにあるのか?
子どもを授かるということの意義はどこにあるのか?
子どもを育てるということの意義はどこにあるのか?
学校に行くことの意義はどこにあるのか?
教育ということの意義はどこにあるのか?
会社に行くということの意義はどこにあるのか?
働くということの意義はどこにあるのか?
会社を経営するということの意義はどこにあるのか?
人に働いてもらうということの意義はどこにあるのか?
自分が自分とし生まれて来た意義はどこにあるのか?
生きるということの意義はどこにあるのか?

但し
建前の見解は要らない。
七面倒臭い観念的な見解も要らない。
うまいことまとめただけの合理化の見解も要らない。
本当に
腹落ちする
心の奥底でしっかりと噛み合う
そんな答でなければ意味がない。

そんなこともわからずして
不登校の子どもたち
引きこもりの子どもたち
出社拒否の大人たち
就労支援やリワーク対象の大人たち
会社経営に悩む経営者たち

人生に悩む人たち
生れて来た意義や生きることの意義を見失っている人たち
の力になれるわけがないのである。

自分が答えを持っていないんだもの。
その答えを突き詰めることなく、ただ上っ面だけ適応して生きて来た人間に、真に悩める人たちの応援ができるとは思えない。
それに引き換え、
今、行き詰っている人たちは切実に悩んでいる。
よって、真実の答えでないと納得しないに決まっている。
結局、そこに小手先の〇〇療法やハウツーで解決しない人間の問題があるのだと思う。

真実の答えを持った人間になろう。
その答えと合致した生き方のできる人間になろう。
それが自分自身が成長する道であり、
それと同時に、自分以外の人間を応援できるようになる道なのである。

 

 

「私がもうひとつ言いたいのは…さっき言ったように、日本において特に出てますものは、
[1]相手の好意とか、愛情とか、それによる保護によってですね、それを得て、自分の安全を確保しようという傾向。そういうものが非常にはっきりしてる。

[2]第二には、今度は、権力とか、地位を得て、それによって、あるいは富を得て、それで自分が安心しようとする考え方。
[3]第三には、そういうものから、あの、できるだけね、もう人とも、ね、それから何でも、自分はこれだけの、こういうのを作っちゃって、箱みたいなものを作って、それの中でもう、知りません、存じません、ありません、干渉しません、私は関係しません、私はこうです、とこういう具合にパッとこう決まっちゃってね、中にピシャッと入っちゃう。こういう安全。
そういうね、ざっと言って、三つのね、型が、私は、あるように思うんですよ。それぞれね、面白いけれども、私のところにいらっしゃる、いろいろ悩んでる方は、そういうことでね、結局ね、自縄自縛(じじょうじばく)になってる人が多いんだ。
[1]まあ、安全っていうこともね、最初から言うと、人の好意に頼り、人の善意に頼り、人の保護に頼ってるとね、確かにそれが得られれば安全ですね。ところが、我々個人、自分自身の感情を考えてみてもね、感情なんて、こんな頼りにならないものはないですね。愛情とか何とかいうんだってね、好意だって。愛情だって、あなた、恋愛でお互いに、好きだわよ、永遠に好きだわよってなことを言っててもね、それだって3年したら離婚したりするなんかするんですからね。これ、非常に頼りにならないですよ、はっきり言うとね。そういうふうなね、この、安全っていうふうなことを考えていてもね、人の好意だとか愛情ってのは、本当、よっぽどやってないと、努力しないとね、続かない、大変です。そういうことでね、基本的には、そういうものがいつも不安な状態にありますね。不定(ふじょう)と言いますかね。そういうもんなんですよ。
[2]二番目にね、権力ってことを言いますね、地位。ところが、その、我々が考える権力とか地位とかっていうものね、考えますとね、富でも良いですよ、それもひっくるめて良いですけど、それも一体いつまでもパーマネント(permanent)に、永久にあるものかどうかですよ。…
[3]それからまた、最後はこういうふうな、こう、中に入っちゃって、もう関係しない、私は、俺はもうこれで良いとこうなる。こうやってるとね、僕に言わせれば、これは実に安全なの。人に関係しない、影響を受けない。安全なんだけれどもね、私に言わせたらね、これは一番牢屋の安全と同じだと思うんですね。牢屋の中に入ってね、こう、四面全部コンクリートかなんかでやって、こうやってね、安全だっていう。
で、昔、私は古いですからね、明治の人間だから、アレだけども、教科書があったんですね。それの中に、今の、子ども心に覚えてるのはね、サザエのことなんですよね。サザエがね、そこにいたら、ワーッとこう、変なふうにごちゃごちゃして来たと。あ、大変だっていうんだね。自分は、しかし、こういう城があるから大丈夫。ピシャッと中に入っちゃってね、中でこうやってたというんですよね。それで、他のタイだとかヒラメだとか、みんな、慌ててる。ああ、可哀想なもんだ、私はこうだ、と。そうしたらね、しばらくしたらね、フッとこう開けてみたらね、3銭で、3銭なんて今頃ないけど、3銭で売られてたって話なんですよね。私やっぱり、そういうもんだと思う、つくづくね。そのことを、私、小さいときに教科書で読んですごく印象を受けてね。どうして印象を受けたかよくわからないけどね、すごく印象を受けちゃった、ね。今頃、私、こういう仕事をしてね、ああ、なるほどね、こういう具合に セルフ・リミティング(self-limiting)、自分を制限し、自分の成長を制限してる人はね、そういうことになっちゃうんだっていうことが、今さらわかったんです。ただ、これをね、みんなわかるんですよ。
例えば、これ、一番深いところに何があるかっていうと、人間っていうのは自分の安全ということをものすごく感じるんですよ。こういうことを言ったら、上役に言ったら、機嫌が悪くなって、悪く思われて損だ。損だというのは自分が安全じゃない、ということ、ね。あるいはまた、こういうことを下の部下に言ったら、みんな、気を悪くして思うだろう。自分の、やっぱり、安全なのね。この中に何があるって、つまり、さっき僕は環境って言ったけどね、環境にさらにプラス、我々の心の中にある問題があると思うんですよ。それはね、自分の安全っていうことをものすごく考えてる。サザエ。サザエも自分の安全を考えてるわけ。
その安全の方法は、
[1]人にこう取り入って、人に甘えて、人のこう関心を得て、安全を得ようっていうのと、
[2]人に優(まさ)って、優越して、支配して安全を得ようっていうのと、
[3]それからもう、人からもう全部逃げ出しちゃってね、自分はこうやってやってると、いうふうなことで安全を得ようと、
いろいろあるんですけどね。動機はいろいろあるけれど、我々の心の中に、安全っていうものに対するものがある。」(近藤章久講演『人間の可能性について』)

 

今回は、近藤先生がカレン・ホーナイの「神経症的人格構造」の種類について、わかりやすく説明して下さっている。
(これについては、『塀の上の猫』の「ホーナイ派の精神分析」の中で、今後説明して行く予定なので、関心のある方はご参照あれ)
整理しやすくするために、かつて小さくて弱かった子どもたちが、自らのこころのの安全を確保するために身につけざるを得なかった「神経症的人格構造neurotic personality structure」の三つの種類の名称を挙げておくと、
[1]自己縮小的依存型(self-effasive dependent type)…Toward people
[2]自己拡大的支配型(self-expansive domineering type)…Against people
[3]自己限定的断念型(self-restricting resignation type)…Away from people
となる。
(それぞれについて、上記の本文の中の[1][2][3]に対応させてある)
いずれにしても、我々が自らのこころの“安全”を求めて、誤った神経症的人格構造を身につけ、そのまま大人になってしまった、ということを押さえておいていただきたいと思う。

 

 

1989(平成元年)、国連総会で「子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)」が採択され、翌1990(平成2)年に発効された。日本がこの条約を批准したのは1994(平成6)年である。
その主な内容としては、以下の四つ。
(1)生きる権利 …すべての子どもの命が守られる権利。
(2)育つ権利  …自分らしく健やかに育つことができる権利。
(3)守られる権利…あらゆる暴力や搾取、有害な労働などから守られる権利。
(4)参加する権利…自分の意見を言ったり活動したりできる権利。

その内容に関して異論はないが、どうも「権利」という考え方自体が私にはしっくり来ない。
今さらここで「そもそも『権利』とは…」「そもそも『人権』とは…」という観念的議論を始めるつもりもない。
関心のある方は、その筋の文献に当たってみることをお勧めする。
そうではなくて、本当に子どもたちを守り、育てようとした場合、「権利」という概念を啓発し、教育し、流布し、理解してもらうことで、現実にどれだけ人間の行動変容が起こるのか、ということが私の最大の関心事なのである。
確かに、「無知」や「誤解」によって起こった問題ならば、正しい「知識」と「理解」によってその問題は解決されるかもしれない。
その意味では、「子どもの権利条約」が採択され、批准されることには大きな意味がある。
「子どもの権利」意識は高まるかもしれない。

しかし、私はそれよりも、人間としての当たり前の“感覚”の方を遥かに重視している。
目の前の子どもたちを見て、この生命(いのち)を守りたいと感じ、健やかに育って行ってほしいと願い、あらゆる被害から守りたいと思い、のびのびと生きられるようになってほしいと祈ることは、「子どもの権利」意識の知的理解から来るのであろうか。
私はそうは思わない。

悲しいことに、「子どもの権利」については知的に熟知していながら、実際に、我が子を、生徒を、子どもたちを「権利侵害」をしてしまっている人たちがいることを私は知っている。
「権利」意識は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは些か弱いと私は思う。
言い方を変えれば、「権利」の「知識」や「理解」は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは十分でないと私は思う。

反対に、「子どもの権利」という概念を知らなくても、人間としての当たり前の“感覚”から、子どもたちを愛している人たちがいる。
なんらかの理由でつい子どもたちに辛く当たってしまった場合にも、人間としての当たり前の“感覚”から、すぐに後悔し、懺悔する人たちがいる。
私は、そんな人間としての当たり前の“感覚”の方が、気をつけなくても、考えなくても出て来るので、余程信頼できると思っている。

但し、この“感覚”は、教わらなくても人間に最初から与えられているものなのだが、その後の生育史の影響によって、その“感覚”が塵埃に覆われて、鈍くなっている人たちが少なからず存在する。
よって、その塵埃を掃う作業が必要になって来る。
そうでないと、“感覚”というものは、“敏感”であれば絶対的な確かさを伴うが、“鈍感”になると曖昧模糊として非常に頼りないものになり下がってしまうのである。
但し、その作業は、「知識」や「理解」では無理である。
それは「内省」と「体験」によってしか行われない。
詳細は長くなるので割愛するが、当研究所で行っている「人間的成長のための精神療法」も、人間としての当たり前の“感覚”を磨くためのひとつの道である、ということは、手前味噌でなく、付け加えておきたいと思う。

ちなみに、「子どもの権利条約」と同様のことが、「障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)」(2006(平成18)年国連総会で採択。2014(平成26)年に日本も批准)についても言える。
障害があろうとなかろうと、人間同士が互いにその存在に畏敬の念を抱き、愛し合うことは、人間としての当たり前の“感覚”によるものであると私は思っている。

 

 

テレビでやっていたあるドキュメンタリー。
舞台が我が故郷・広島であることもあって、見入っってしまった。
貧困と育児放棄の下で居場所がなく食事も摂れない子どもたちのために、話を聞き、説教もし、手作りの食事を提供し続けているばっちゃんがいた。
いろいろ“事件”(万引きなどの非行)をやらかしてくれる子も多く、来る日も来る日も、朝から晩まで夜中に起こされても、ばっちゃんは子どもたちを支え続ける。
急に電話をかけて来て、御飯を食べに来る子がたくさんいた。

ディレクターの質問に答えて言う。
「こがいに大変なのに、なぜ続けるん?って、それ、みんなが聞くんよ。」
当人は本気でこう答える。

「私にもよう分からんのよ。」

しんどいことが続くと
「『もうせーん!』
 なんでここまでせんじゃいけんの!』ちゅうて、
 しょっちゅうヒス起こすことが多いよね。」
とあからさまで、このばっちゃんは全く良い格好をしようとしない。

〈それでも続くのは〇〇さんにも喜びが?〉
とディレクターがばっちゃんに“よくある答え”を言わせようとして誘導尋問するが、
ばっちゃんは質問にかぶせるように
「ありゃせん!」
と即答し、
「つらいばっかり!」

そうなのだ。
すぐにヒスを起こし、イヤになってしまう凡夫のばっちゃんである。
しかしそのばっちゃんを通して働く力が、この人に尊い菩薩行をおこなわせているのである。
本人の意志でやっているわけではないので、
「私にもよう分からんのよ。」と言うのも当然である。
本人の意志を超えたものが本人を突き動かしている。

ここに“凡夫の菩薩行”がある。

感動してしまった。

少年院帰りの男の子にディレクターが尋ねる。
ばっちゃんに電話をかけては御飯を食べに行っていた彼は
「前は食堂みたいな感じだったんですけど。」
と言い、それを聞いたディレクターがまた誘導尋問をする。

〈ばっちゃんに言ったら何て言うかね?〉
「食堂」なんて言ったらばっちゃんに怒られる、みたいな答えを想定していたのだろう。
しかし、彼の答えは違った、
「『悪さするより電話してきてえらかった、えらかった。』と言うと思う。」

ばっちゃんを通して働く愛は、ちゃんと彼に届いていた。

 

 

「利益相反」とは一般に、「ある行為により、一方の利益になると同時に、他方への不利益になる行為のこと」をいう。

私が関わるカウンセリングやサイコセラピー、精神科医療の分野では、「利益相反」ということに余り関係がないように見えるが、実は絡んで来ることがちょくちょくある。

例えば以下は、学校とスクールカウンセラーが関係して来る場合である(学校とスクールカウンセラーの名誉のために断っておくと、子どもの成長のために誠実な努力を続けている学校やスクールカウンセラーが存在することを私はよく知っている)。

時にスクールカウンセラーが、学校側から直接に、あるいは、暗黙裡に不登校の子どもを学校に登校できるようにしてくれ、という要望を受けることがある。
そして、スクールカウンセラーの雇用は実質上、学校側に握られている。
そうなると
、スクールカウンセラーが自分の雇用を守り、学校側からの自分の評価を上げようと思えば、子どもに対して登校を促す関わりをすることになる。
しかし、当の子どもの成長にとって、少なくとも当面の間は、今の学校に登校しない方が良いと思われた場合、スクールカウンセラーは板挟みの立場に立たされる。
つまり、登校促進が、学校にとって利益となる(不登校を減らす)と同時に、子どもとスクールカウンセラーにとって不利益となり(子どもの成長を阻害することになりかねない/スクールカウンセラーとして魂を売ることになる)、
反対に、不登校容認が、子どもとスクールカウンセラーにとって利益となる(今の子どもの成長を守ることができる/スクールカウンセラーとしての矜持を守ることができる)と同時に、学校とスクールカウンセラーにとって不利益となる(不登校者数が増える/スクールカウンセラーとして次年度の契約はなくなるかもしれない)。

こういうときにスクールカウンセラーの姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、スクールカウンセラーをやっているのか?
それが子どものため、子どもの成長のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

似たようなことが、病院職員のメンタルヘルスのために精神科医が一般病院に勤務している場合にも起きて来る(病院と精神科医の名誉のために断っておくが、職員の幸福を真に考え、誠実な努力を続けている病院や精神科医も存在する)

例えば、看護師不足の折、病院としては看護師に辞めてほしくない。
しかし、その看護師の人生単位の幸福を考えると、
退職することが正しい選択の場合もあり得る。
そこで精神科医は板挟みの立場に立たされる。
つまり、看護師に勤務継続を促すことが、病院にとって利益となる(看護師の数が減らない)と同時に、看護師と精神科医にとって不利益となる(看護師の人生を不本意なものにすることになりかねない/精神科医として魂を売ることになる)。
大体、“体制派の犬”のような精神科医のところに誰が相談に行こうと思うだろうか。慰留されるとわかっている相談に出かけて行くはずがない。
反対に、看護師の退職容認が、看護師と精神科医にとって利益となる(看護師の人生の意味と役割を守ることができる/精神科医としての矜持を守ることができる)と同時に、病院と精神科医にとって不利益となる(看護師が減る/精神科医の今後の契約更新はなくなるかもしれない)。

こういうときに精神科医の姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、病院職員のためのメンタルヘルスに携わっているのか?
それが職員のため、職員の人生単位の幸福のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

それでもし私がスクールカウンセラーやメンタルヘルス担当の精神科医として雇われ、なんでもいいから、子どもたちが登校するようにしてくれ、看護師が辞めないようにしてくれ、と頼まれたならどうするか。
私が一番最初に辞表を書くであろう。

(但しもし私にその学校や病院の体質を少しでも改善・改革して行くミッションが下っていたとしたら、そこまでの縁があったとすれば、悪戦苦闘しながらでも改善・改革に取り組んで行くかもしれない)
 


 

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