八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

昨日の続き。

近藤先生亡き後の私は今、誰に/何に支えてもらっているのか?

近藤先生御存命の頃は、近藤先生に支えていただいている、と思っていた。
しかしやがて、そうではないことに気がついた。
近藤先生にではなく、近藤先生を通して働いているものに支えられていたのである。
それに気づくと同時に、その働きは私にも直に働いていることに気がついた、近藤先生を介さなくても。
この発見は大きかった。
それ故に、近藤先生が逝去されたとき、
「ああ、間に合った。」
と思った。
そうでなければ、きっと喪失体験に沈んで、路頭に迷っていたであろう。

私は支えられていたのである、この世界に、最初からずっと。

そうして改めて「支え手」の意味を知った。
ちょうと近藤先生が私にそうして下さったように、
まず私を通して働く力によって、その人がその人であることを、その人がその人に成長して行くことを支えるのである。
そしてやがて気づいていただく、感じていただく。
あなたをあなたさせる力は、私を通さなくても、あなたの中に働いていることを。
それが「支え手」という役割の本質なのである。

 

 

癌闘病を続けながら、自分のクリニックで臨床を続けている精神科医がいた。
彼が言うには、診察中の話の流れで、自分が癌治療中であることを患者さんに話すことがあるが、大抵はちょっと同情的なことを言ってくれるだけで、すぐに自分の問題や症状の話に戻ってしまうそうだ。

「人間って結局、自分のことしか考えないんだよね。」
と残念そうに言うときの彼の表情からは、彼の本音が漏れ出ていた。
「ホントは君が寄り添ってほしかったんだよね。」
と言うと、賢明な彼は
「そうなんだよな。オレもオレのことしか考えてなかったのかもしれない。」
と呟いた。

精神科医、いや、対人援助職者である前に人間であるのだから、支えがほしいときにはそれを求めて良い、と思う。
いや、求めて当然である。
かくいう私も、近藤章久という支え手がいて下さったからこそ、腐りもせず、病みもせず、死にもせず、やって来れたのだと思う。
そして八雲総合研究所の役目のひとつに、ケアラーズケア(carer's care)(=ケアしている人をケアすること)がある。

もちろん、当研究所の本質はそこに留まらず、人間的成長の場であるが。

先に挙げた彼の場合には、専門機関で緩和ケアとしての精神療法を受けることが一番合っている気がする。
(念のために付け加えておくと、「緩和ケア」とは、末期状態の患者さんのケアを行うことに限定されず、治療可能なごく初期の癌患者さんに対しても行うケアである。苦痛を緩和するケアはすべて「緩和ケア」と呼ばれる。誤解なきように)

 

そしてさらに先のことを言うと、近藤先生亡き後の自分は今、誰に/何に支えてもらっているのか?
それはまた明日語ろう。

 

 

この仕事をしていると感じるのは、世間の人たちは、思っていたよりも、話をちゃんと聴いてもらっていない、ということである。

50分間話を伺っただけで
「聴いてもらってありがとうございます。」
と言われることがある。

中には、そう言われて
「仕事ですから。」
と答えるアンポンタンの専門職もいるそうだが、私は全くそう思わない。
確かに、相談援助技術やら、カウンセリング入門、精神療法の技法などといった文献には、職業的専門性としての「傾聴」について書いてあることが多いが、そんな小手先の技術でやれるほど、この世界は甘くない。

もうちょっとマシな文献には、相手の話を聴くこと=相手に関心を持ち、その人のために時間とエネルギーを割いて聴くことが、その人の存在を大切に思っていることになる、と書いてあり、それも「情緒的」には悪くないが、近藤門下の私にはそれでも物足りない。

まず「仕事」だからではなく「ミッション」だからである。
仏教風に言えば、「縁」だからである。
また、相手の存在を「大切」に思う、
でも悪くはないが、相手の存在の根底に対して「畏敬」の念を抱く、となると、さらに深くなる。

しかも、そう思おうとするのではなく、実際にそう感じることが重要である。
そのために何をするか。
それが「他者礼拝(らいはい)」である。
相手の存在の根底に向かって両手を合わせて頭を下げる。
実際にやってみるとわかる。
それだけでちょっと感覚が変わって来る。
もちろん相手の目の前でやれば、アブナイ奴と思われるので、面談前、誰からも見えない場所で礼拝してから面談場所に入るか、心の中で礼拝してから面談を始める。
こうなると「情緒的」から「霊的」になって来る。

すべての人の中に
あなたの中に
尊いものがあるんです
絶対に。

そこから始めないと、本当の意味で、人の話を聴くことはできないと私は思っている。

 

 

 

ある定食屋さんで夕食を摂っていたら、隣のテーブルに若いお母さんと小学校1年生くらいの女の子と幼稚園年少さんくらい女の子の家族連れが来ていた。

食事し終わったお母さんが、上のお姉ちゃんに向かって
「宿題、やったんだっけ?」
と問うと、女の子は決まり悪そうに
「まだ…。」
という。
続けてその子は
「今、ここでやる!」
と言い出したが、お母さんは
「帰ってからやんな。」
と却下。

そして問題はこれからで、そのお姉ちゃんはそれを聞かず、お母さんに向かって両手を合わせて
「お願いっ!」
と要求したのである。

ああ、こういう女の子は松田一族にはいなかったなぁ、と思いながら見ていると、そのお母さんも
「しょうがないなぁ。」
と認めて、娘に宿題をさせたのであった。
こういうお願いの仕方、あるいは、甘え方は、そういうやり方が有効であるということを経験した子どもしかやらないものである。
松田一族のように親が支配的な家庭で育った子どもは絶対にやらないと思う(お願いしたって潰されるに決まっている)。

お願いする、甘える、ということ自体は、人と人との関係における健全な選択肢のひとつであり、それ自体に問題はない。
むしろ、どのような場合でも、お願いできない、甘えられないとしたら、それこそ問題である。

しかし、だからといって、何でもかんでもお願いや甘えを認めていたら、依存的で、操作的な気持ちの悪い大人が出来上がってしまう。

即ち、子どもからのお願いや甘えに対して、親が是々非々で応える。
健全なお願いや甘えは許し、不健全なお願いや甘えは許さないことが教育的であると言える。
そこで親もまた試され、子どもを育てることは自分もまた育てられること、という真理が成り立つのである。

さて、あなたは健全な「お願いっ!」ができますか?

 

 

私は今、へちまを育ててるんですよね。へちまを育てるのが大好きなんでやってるんですけどね。へちまってのは、ぶらっとこう下がるもんですけどね、ところが、ぐんぐんぐんぐん上がっちゃってね、それでもう、ぽっぽっぽっぽ、あっという間に上がっちゃっいましてね、屋根の上に上がっちゃったんですよね。屋根の上に上がっちゃって、自分の目の前に、実は、僕としては、へちまがぶらっと下がっている姿を想像してたところが見えないんですよね。じゃあ、どこにいるんだろう、と思ったらね、今年はダメかな、と思ったら、屋根の上でね、こう、あるんですね。屋根の上に行きますとね、面白いんですよ、あのね、へちま、こんなになっちゃってるんですよ、曲がってね。それで、カッコ悪いんですよ、とてもね。これは随分カッコ悪いな、いつものへちまはスラッとしてる、どうしたんだろうと、こう思いましたら、やはりね、屋根の上に置いてることからね、そんなことが起きてるわけですよね。それでね、考えちゃって、ひとつは、自分の前の前にぶらさげてみたいっていう、こういう願望があるわけですね。ひとつは、なんだかこう曲がってるのがね、これがね、なんて言いますか、医者根性と申しましょうかね、なんか、これ、健康じゃない気がしたんですよね。そこでね、僕は、それをね、持って降りましてね、屋根に上って、もう年も年ですから、足が危ないですけど、でも、これを持って降りて、ぶらさげたんですよ。そうしたら面白いですね、段々段々まっすぐになって行くじゃありませんか。それでね、こうなってたのが段々ああやってね、カッコ良くなって来たんですよ。面白いなぁ、と僕はとっても、そこでね、感動しちゃったんですよね。やっぱり、そのね、本来、へちまはぶらっと飄逸(ひょういつ)なね、良い気持ちなもんですよ。あれ、私、大好きで、ああいうふうなの、大好きなんだけど。そういう自然にフワーッとなってる姿になるのが当たり前なのが、たまたまの環境でですね、屋根の上に上がっちゃうと曲がる。しかし、その屋根の上に上がったのをポッとやると、すぐに直って来る。はぁ、これは本来へちまっていうのはこうなるもんだ。
そうするとですね、むしろ人間っていうのは、老子じゃないけどもね、本来、自然にしておけばね、自然にしておけば、自(おの)ずからね、人間としてね、成長して行くんじゃないかと。そういうふうに思うんですね。…老子の思想なんかによくありますけども、自然という思想、これがまあ、日本に来ると、親鸞なんかの自然(じねん)いうことになりますわね。自ずから然(しか)らしむると。その自然な姿、そういったものがね、人間の中に自然に、つまり、成長して行けばね、環境さえ良ければと、言いますか、へちまと同じようなもんじゃないかとこう思うんです。
実際、私ね、治療してましてね、確かに環境が良くなった場合にね、いろんなことが良くなるんですよ。…
そういうもので観ますとね、まあ、随分、おまえはものを単純化して観てるなって言うけどね、翻(ひるがえ)ってそういうものでね、考えて、また、『老子』だとかなんか読んでみますとね、面白いんですね。「大国(たいこく)を治むるは小鮮(しょうせん)を烹(に)るが如(ごと)し」 つまり、おっきな国を、国ですな、それをね、取り扱うときはね、とにかく、ちっちゃな魚ね、魚を煮るようにする。ちっちゃな魚、これはまあ、あそこに女性の方がおられるから、小さな魚をごちゃごちゃ煮てるとき、あんまりひっくり返したりなんかしますと、身がボロボロに落っこちちゃうんですね。つまり、ああだこうだ、こうだああだってやってるとですね、結構ダメになっちゃうんですね。ところが、それから考えてみますとね、本来、自然にしておけば良いものを、なんかごちゃごちゃごちゃごちゃしてね、結果ね、妙なことに、それが悪い環境として働いてですな、なってしまう。そういうことがあると思うんですね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

人でも植物でも何かを育てるときには、余計なことをしないのが一番です。
私もよく近藤先生から「邪魔しなければ名医。」と言われました。
その人に/そのものに最初から与えられている本来の自己を実現しようとする力におまかせできるかどうか。
そこをどうも我々は、賢(さか)しらだって、あるいは、自分の思い通りにしたくて、手を出して失敗してしまうわけです。
答えは、そもそもその人/そのものの中にあり。
その成長を邪魔しない環境を提供することができれば、それは素晴らしい教育であり治療であると私は思っています。

 

 

シングルマザーとして懸命に働きながら、3人の子どもを育てている女性がいた。

6歳の長女が発熱したので、仕事を休んでを病院に連れて行ったら、インフルエンザと診断された。
これから他の子にも自分にも感染するかもしれないことを思うと、いろいろ頭をかすめる心配もあったが、まずは目の前の長女のケアに専念しなきゃ、と思った。
そう思った矢先、病院からの帰りの車の中で、長女が下痢を漏らしてしまった。
まさにOMG(Oh, My God!)である。
申し訳なさそうな長女の顔を見ていると、わざとしたわけでもなく、出てしまったものは仕方がないと、淡々と片付けをした。
そして帰宅して長女を布団に寝かし付けた後、今度は布団の上に嘔吐してしまった。
またまたOMGである。
さらに申し訳なさそうな顔をしている長女の顔を見ていると、これもまたわざとしたわけでもなく、出てしまったものは仕方がないと、淡々と片付けた。

私が伺った、それだけのエピソードであるが、やっぱり“それだけの”エピソードではない。
余裕のない暮らしをしながらも、全く長女を怒らなかったこのお母さんの姿はとても有り難いと思った。

しかし、この姿勢をすべての親御さんに要求するつもりはない。
実際には、つい子どもを怒ってしまう場合も少なくないと思う。
同じ状況に置かれたら私だって怒ってしまうかもしれない。
それでも怒ってしまった後に、ああ、悪いことをした、怒らなきゃ良かった、もう少し優しい親になりたい、と思えたとしたら、凡夫の親としてはそれで十分なんじゃないかと思う。
つい怒ってしまう姿は、確かに余り良いもんじゃないけれど、そんな自分を超えて成長したい、もっと我が子を愛したい、という思いがその人を貫いて働くところに希望があるのである。
そうしたらいつか先のお母さんのように“自然に”怒らないでいられるようになるかもしれない。
そう。
実は先のお母さんが怒らなかったのも、そのお母さんの力ではないのである。

我々のこころは、愚かな凡夫性がその表面を覆っているけれど、その奥には常に尊い仏性が働いている、という二重性こそが、人間の偽らざる姿だと私は思っている。

 

 

あなたが何かをしくじって相手に迷惑をかけたとする。
あるいは、あなたの子どもが何かをやらかして相手の子どもに迷惑をかけたとする。
そんなときには、できるだけ早く、誠実に相手に謝る。
そして何らかの実害があった場合には、相応の補償も要るかもしれない。
それが当たり前のことである。

しかし、時として相手から執拗に攻撃され続ける場合がある。
また、非常識に大きな補償を求められる場合がある。
問題はそういったときである。
こちらがやらかした負い目があるために黙ったままでいると、サンドバック状態で殴られ続け、奪われ続けることになる。

こちらがやらかした過失については、誠実に「ごめんなさい」しながら、
相手の過剰な攻撃や要求に対しては「そこまで言われる筋合いはない!」で突っぱねるのが、適正な対応である。

特に、こちらがサービス提供者側で、相手が顧客側であるときなどは、不当な攻撃を受けやすい。
中にはそれで、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になったり、うつ病になったりする人までいる。
そういう攻撃は立派な暴力である。
どんな関係性であろうと、人間対人間という根本は変わらない。
人間としてならぬものはならぬものです。

 

 

子どもたちや若者たちの今と未来を潰してしまう「ヤングケアラー」問題については、いろいろな場面で取り上げられて来た。
子どもたちや若者たちが、その時間とエネルギーを奪い取られずに済み、自分の人生を大切に切り拓いて行けるように、そしてケアの必要な人に適切なケアが届くように、状況に即した丁寧な対策が必要なことは言うまでもない。

そんなケアについて考えていると、子どもたちや若者たちばかりではなく、高齢者は高齢者でよくぶつかる問題がある。
それは、デイサービスに行くのをイヤがる、ヘルパーが自宅に来るのをイヤがる、ショートステイをイヤがる、施設入所をイヤがるなどといった、ケアを忌避する問題である。
これを「オールドケアされらー」問題と私は呼んでいる。
確かに、これらを最初から喜んで受け入れる人は多くないかもしれない。
それは主に、ケアされ慣れてないことによるが、特に若い頃から他人の世話をして来た人(その代表が対人援助職者である)が高齢になると、自分がケアされることに抵抗する方が多い。
しかし上手に利用すれば、現実に本人も助かるし、家族も助かる。
(付け加えるならば、たまに元対人援助職者で自分が援助されることに上手な方がいる。そういう方はきっと良い支援をして来た人なのだろうと思う。支援され上手は、支援し上手である)

…と、ここまでは時々話して来たテーマであるが、ケアに関してもうひとつ、よく生じる問題があることに気がついた。
それは(年齢によらず)「ケアさせらー」問題である。
自分ができることをやらずに他人にさせようとする、という問題だ。
これは性質(たち)が悪い。
依存的であり、自己中心的であり、搾取的ですらある。
また、相手を見て巻き込んで来るので、相手の主観的満足に反することをしようとすると罪悪感を抱くようなタイプ(裏を返せば、他人の主観的満足を自分の存在価値として来たようなタイプ)の人は格好の餌食(えじき)となる。
巻き込もうとして来たときに、即座に、きっぱりと
「イヤなこった!」「自分でやれ!」
と言いましょう。
きっと当座は、ブーたれる、逆恨みする、怒るでしょうが、毅然と繰り返しているうちにやがて諦めて、巻き込んで来なくなる。

真っ当な人間は、自分ができることは自分でやり、できないことは上手にケアしてもらうのであります。

 

 

大乗仏教においては、「一人残らず救う」ということが何よりも要(かなめ)となっている。
自分だけが救われる小乗(小さな乗り物)仏教に対して、わざわざみんなが救われる大乗(大きな乗り物、優れた乗り物)仏教と称しているのであるから、そこは譲れない。
中には、「一人残らず救う」と言いながら、「でも、流石にこんなヤツは救ってやんない。」と条件を付けて除外する教えもあるが、それは大乗仏教と呼ばず、権仏教(ごんぶっきょう)と称して区別している。

そんな大乗仏教の救いの代表が、まずは阿弥陀如来である。
その誓願によって、我々娑婆の凡夫を一人残らず救って下さるという、誠に有り難い話である。
ご苦労はんだす、阿弥陀はん。

それで話がすべて終わってしまうところであるが、中に気づいた人があった。
今、娑婆にいる人間はすべて救われるにしても、輪廻転生(りんねてんしょう)を称える仏教においては、今、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を輪廻している者については、人間道(=娑婆、人間界)以外の者が救われないではないか。
あとの五道に行っちゃってるものはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが地蔵菩薩である。
みなさんもどこかの辻で見かけたことがおありであろう、あの六地蔵を。
そう。
六地蔵とは、今、六道に輪廻している者たちを、一地蔵一道ずつ、漏れなく救いに行こうとされている御姿なのである。
だから、わざわざ手に錫杖(しゃくじょう)(=杖)を持って、六道どこへでも、こちらから救いに行きまっせ!ということになっている。
本当に有り難い話である。
ご苦労はんだす、地蔵はん。

で、それで終わりかと思ったら、また気づいた人がある。
それで今いるものは六道全部で救われたとしても、今から生まれて来るものたちはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。
細かいなぁ。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが弥勒(みろく)菩薩である。
五十六億七千万年後に、兜率天(とそつてん)から降りて来て、それまでに救いそこなったもの全てを救うという。
未来のことまで準備済みである。
誠に行き届いて有り難い話である。
ご苦労はんだす、弥勒はん。

上記はあくまで私の解釈であるが、それでも話にはキリがなくて、じゃあ、五十六億七千万年後以降はどうすんねん、ということになって来るし、他にもツッコミどころが限りなくありそうである。
けれども、そろそろ勘の良い読者の方はお気づきであろう。
結局のところ、阿弥陀はんも、地蔵はんも、弥勒はんも、みんな方便なのである。
救いの力が、永遠の過去から永遠の未来まで、すべての世界を貫いて働いていることを示すための仮の名前なのでありました。

そういう眼であの曼荼羅をご覧になると、あらゆる力を結集して一人残らず救おうとされているのを感じて、有り難さがさらにさらに増して来るかもしれまへんなぁ。

 

 

40代になって、大工からラーメン屋に転職した人がいた。
それも屋台を押しての開業である。
全くの異業種に変わることに何の不安もなかったのであろうか。
80代になった今も現役で屋台を押しているその人にある人が尋ねた。

「自信はあったんですか?」

老人は即答した。

「ありました。」

余りに迷いのない返答ぶりに息を呑んでしまった訊き手に対して、彼は言葉を付け加えた。

「覚悟を決めたら何でもできますよ。」

 

この話を
「自力」の 鉄の意志と鬼の努力によって「覚悟」してやった成功譚と聞くか
「他力」の ミッションによって「覚悟」させられ、有無を言わさずやることになった成功譚と聞くか
で話の深みが大いに変わるのである。

 


 

公益社団法人AC ジャパンのテレビCMで、プラン・インターナショナル(PLAN INTERNATIONAL)の活動についてご覧になった方も多いのではなかろうか。

その内容

 

女の子という理由で学校に通わせてもらえななかった。
プラン・インターナショナルの支援で、学校に通えるようになった。
学び、夢を見つけ、今では教師に。
今度は私が子どもたちを支える番です。

救われた人は、
救う人になる。

支援のつながりに、さあ、あなたも。

 

サイコセラピー(精神療法、心理療法)の世界でも全く同じことが言える。

救われた人は、
救う人になる。

しかし、自分がまだ救われていないのに、他人のことをやりたがる人間が多いのも、この世界の問題である。
自分がまだ救われていないからこそ、自分の問題が解決されていないからこそ、かつての自分を患者さんやクライアントに投影し、ズレた支援、相手のためと言いながら自分のための支援をやらかしてしまうかもしれない。
また、自分の未解決の問題に、患者さんやクライアントを巻き込んでしまうかもしれない。

救われてない人は、
救う人になれない。

但し、完全に救われるまで待っていたら、一生他人の支援なんてできない。
だからせめて、一所懸命に自分の問題と向き合いながら、必死になって自分の問題を解決しながら、やらせていただくしかない、と私は思っている。

そして、そんな方々が、そんな同志が、いらしているのが八雲総合研究所です。

 

 

「はっきり申しますと、医者というものの、あるいは、医師という、医学というもの、癒すということを中心とする仕事の中にはね、基本的な、これはもう、公理というか、疑うことのできない、それなくしては医療ということができない、ひとつの哲学と言いますか、考え方が、根本的な考え方があると思うんです。
それはどういうことかと言いますと、医者は神さまではありませんから、何か新しく生命を付与したり、新しく生命を作ったりすることはできないわけです。そうでなくて、結局、医者ができるのは、たかだかと言っても良いと思うんですけども、その人の持っている健康に生きる力、そういったものをヘルプして行く、助ける、これ以外にないと思うんです。…
つまり、そのね、人間にインヒアラント(inherent)に、実際、固有に備わっているところの、人間の生きる力、そういったものというものが根本的前提になっていると思うんです。で、その生きる力というものは、人間を通じて、人間自身がその生涯を通じながら、常に進展し、発展し、成長して行くもんだという、そういう根本的なテーゼ(These)というものが私になくしてはですね、結局、何事もできないわけです。
よく西洋の諺で、馬を水のそばに連れて行くことはできるけれども、水を飲ますことはできない、飲むのは馬である、とこう言いますが、結局、飢えだとか渇きだとか、その中にあって初めて、それは人間の、生物の健康な働きとして、そういうものがあって初めて水を飲み、食事を食べるもんだと思うんですね。その意味で、やはり、基本的に人間の中に、それなくしては考えられない、生きる、生きんとする力、そうしたものが基本的に動いているってことは、我々、医学をやる者について基本的に考えて行かなきゃいけない。それがもう無意識でありますけれども、我々の中にあるんだ、とこういう具合に思うんですね。…
そういうものが、私はもう少し、非常にこう、単直に行きますけども、私は、今の、例えば、教育なんかでですね、言わば、そういうふうな生命力、人間の成長して行く力というものを益々強め、そしてその方向を本当に自分自身がそれぞれ見定めて、例えば、杉が杉になるように、松が松になるように、その人それ自身が独自のものになって行く、その人間が本当に生まれて来たことの、ある意味で、意味をそこで完遂して行くことが、それが一生だと思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

我々がまず、本当の自分、真の自己というものを一人ひとりに授かっているということ。
そしてまた、真の自己を授かっただけではなく、それを実現して行く力というものもまた与えられているということ。
これが基本的人間観の大前提となります。
そして、それ故に、それをヘルプして行くのが、医師や教育者や親の重要な役割ということになります。
宜しいですか。
答えは、こちら側(癒す側、教える側、育てる側)にではなく、向こう側、人間存在一人ひとりの中にある、ということです。
従って、この人はそもそもサクラなのかスミレなのか、それを観通す、感じ取ることができなければ、治療も教育も養育も始まらない、それどころかミスリードしてしまう危険性もある、ということになります。
自分自身においても、他人においても、真の自己を観通す、感じ取ることは、必ずしも簡単なことではありませんが、少なくとも、それをなんとかして観い出そう、感じ取ろうという姿勢がとてもとても大切ということになりますね。

 

 

親戚のおじさんで、急に黙り込む人がいた。
妻や子どもが心配して
「どうしたんですか?」
と何度も訊くのだが、何を言ってもダンマリを決め込んでしまう。
結局、原因もわからないため、時が経つのを待つしかなく、その間家族は、ピリピリとした沈黙の空気感に付き合わされ、疲弊というか、正直ウンザリしていた。
聞くところによると、そのおじさんの母親というのが大変に支配的な人で、息子にとにかく勉強をさせ、その後ろに座って少しでも息子の集中力が切れると、手に持った竹の物差しでピシッピシッと叩いていたという。
それを聞いただけでも、おじさんの中に出すに出せない怒りがいかに渦巻いていたかが想像できる。
そうやって、ギリギリの反撃手段として覚えたのが沈黙だったんだな、と察しがついた。
出ようとする10の怒りを、10の力で抑圧し、計20使って差し引き0にしてていたのだから、エネルギー消費も相当なものである。
そして沈黙されれば、周囲は
「どうしたんですか?」
と訊かざるを得なくなる。
しかし、彼は答えない。
その巻き込みが非常に面倒臭い。
こういう人は決して無人島で一人で沈黙はしない。
沈黙して困る相手がいなければ沈黙する甲斐がないからである。
だからといって、周囲がその沈黙を無視すれば、本人はさらにヘソを曲げ、周囲を困らせるためのダンマリ期間は一層長くなるのである。
あぁ、面倒臭い。

後日談として、そのおじさんの場合は、高齢になって認知症となり、良い具合に抑圧が外れて、何でもしゃべる、喜怒哀楽も示せるようになったそうである。
そうなって初めて面倒臭くなくなった。
しかし、そうなるまで待ってはいられない。
そもそもの話、沈黙に走るのも、小さくて弱い子どもの頃なら仕方がないが、いい年こいた大人がやることではない。
大人なら、自分自身とも相手とも勝負できるはずである。
自分で解決しなさい。
それができないなら、周囲に迷惑をかけないように、やっぱり無人島で暮らしなさい。

 

 

応援団の部員がいる。
推し活に励む人がいる。

運動部のマネージャーがいる。
黒子に徹する人がいる。
縁の下の力持ちがいる。

ある歌舞伎の名脇役がいた。
主役の華が立つように、長年、行き届いた配慮と演技をして来た人である。
悪意の歌舞伎ファンが
「でも、いつまでたっても脇役だよね。」
と言った。
その言葉を伝え聞いたその人は背筋伸ばして言った。
「私は私の人生の主役でございます。」
彼は彼自身の華が立つように生きていた。

よって、
自分自身を応援すること
自分自身を推すこと
自分自身のマネジメントしてあげること
自分自身も黒子として支えること
自分自身を縁の下から支えること
も忘れないように。

あなたはあなたの人生の主役でございます。

 

 

 

最近、精神科クリニックでなかなか初診予約が入れられないという話を聞く。
それについて、ある開業精神科医のコメントが読んだ。

再診患者を1日α名診察すると、保険診療報酬が年間β千万円になる。
このβ千万円を超えると、制度上、税金が2倍に
なる。
よって、開業して再診患者数がα名に達すると(大体開業1年で到達する)、それ以後、初診患者の受け付けをお断りして、年間保険診療報酬がβ千万円を超えないようにする。
しかも最近は、手のかかる面倒臭い初診患者が多い。
よって、気心の知れた手のかからない患者だけを再診α名に抑えて診察し続けて行く方が、サロン状態にできて一番心地良いのだという。

一読して我が目を疑った。
こんなバカ開業医が実際にいるのかと。
ここには私利私欲の計算しかない。
楽して儲けることしか考えていない。
何のために医者になったのか。
何のために開業したのか。
そこにはミッションも志もないのである。
こいつだけの例外的な話と思いたい。

あのね、そもそも我々はミッションを果たすために生命(いのち)を授かったんですよ。
医者になったのなら、開業したのなら、
診られる範囲で何人でも一所懸命に診るのがミッションなのである(診られる以上に診ろとは言わない。医師が健康で持続な可能な人数で十分である)。

そして、そもそも面倒臭いことをやるのがミッションなのである(人間は面倒臭いんです。臨床は面倒臭いんです)。
しかしそのミッションの中に、人間の変化と成長に立ち会えるという(大変さと面倒臭さを遥かに上回る)やりがいと喜びがあるんです。
楽して儲けたい方は、とっとと医者なんかやめて、もっとあからさまに金儲け本意の仕事に転職されることを心からお勧めしたい、

 

 

たまには硬派な文章を解説抜きでお示ししたい。

「傍観者になれない人生とは、公正な視線を貫くことである。そのためには、賭けた夢も潰(つい)え、もちろん出世も望むべくもない。しかし、この公正な視線が贏(か)ち得るものは、無償の行為である。そして、自分が成しとげたまことの…仕事が残るはずである。」
「俺は強いんだぞ、と誇示した者にかつて勁かった奴はいない。むしろ、名もない漁師や職人に勁直な人間が多い。かつて私は海のすぐそばに棲んでいたことが何年かある。私はそこでいろいろな漁師と知りあった。彼等はみんな貧しく正直な男達だった。海に舟をだしてたったいっぴきの魚しか釣れない日があっても、それが彼等の生活を支えていた。そこには胸に迫ってくる生活の現実感があった。こうした彼等の日常を支えていたものが何であったかというと、それは勁さであった。彼等は弱者でありながら勁さをそなえていた。」
「知識人とは何か。これにたいする明確な答は得られないと思う。はたして現代の日本にまことの知識人がいるのかどうか、いたとしたら、それはごくわずかな数ではないか、という気がする。知識人と自他ともに認めている人が、実は知識の仲買人にすぎなかった、というような場合が多いのは何故だろうか。仲買人の数は実に多い。いま数えただけでもたちどころにかなりの人の名前があがってくる。…彼はヨーロッパに知識を仕入れに行き、こんどはそれを日本で切りうりするわけである。…仲買人の知識に勁さが欠けていることは述べるまでもない。また、切りうりといっても、たいがいは水でうすめて売るのが仲買人の常套だから、勁さがともなうはずもない。」
「現代の知識階級に欠如している最大のものは勁さである。」
「勁さは悪に対してもっともつよい反応を示すはずである。」
「他者の反応がなくとも恥を正確に恥と感じる能力をそなえた人間もいる。」
「わが国では、武士の倫理思想のなかで自覚的に継承されてきた名誉のかたちがある。これは廉恥心(れんちしん)と表裏をなしている。廉恥とは、それを知らない人のたまにやさしく解釈すると、心が濁っておらず恥を知る心があることを言う。」

 

感想のある方はまた面談のときに。

 

 

Apple Music が音楽ストリーミングサービスをサブスクリプション(サブスク)で始めたのが、2015(平成27)年であったという。
当時は、この画期的なサービスの開始により、既に息も絶え絶えの状態にあったアナログレコード業界は、完全に息の根を止められるだろうと言われていた。

しかし、不思議なことが起こった。
アナログレコードの売り上げが、
2015(平成27)年から、むしろ右肩上がりの上昇に転じたのである。
皆、驚いた。
何が起こったのかわからなかった。
アナログレコード業界の人が、当時のことを振り返って

「我々の中に面倒くさいことを尊ぶ文化があったんですよ。」

と語った。
なるほどね。

コスパ(コストパフォーマンス)とかタイパ(タイムパフォーマンス)とか言われ、
誰もが効率主義や功利主義に追われている時代のように見えて、
実は、どこかに「本当に大事なものはそんなところにないんだよね」という感覚が、まだ我々のどこかに残っていたのである。

それは人間というものに希望が持てる話だ。

我々は毎日、人間存在という最も面倒くさいものに関わって生きているんだものね。

イヤんなっちゃうときもあるけど、人間が人間に関わることはやめられないんです、やっぱり。

 

 

ネットニュースに「女子高生のなりたい職業」のアンケート調査結果が載っていた。

高校生になれば、小学生や中学生と違い、ある程度の現実性を考えて、自分の進路を検討しているはずである。
その今どきの女子高生は一体何になりたいんだろう、と興味を持って読んでみると、

第1位 公務員(7.8%)
第2位 看護師(7.1%
第3位 教師(5.2%)
なのだそうだ。

公務員の第1位は、いかにも手堅いであろうから納得がいくが、現代になっても、第2位に看護師が入っていることに驚いた。
現代の女子高生たちも、自分以外の誰かの苦しみを救うために働きたいと思ってくれているのだ。
これには希望を感じる。

しかし私は知っている。
そういった希望に胸を膨らませて看護学校/看護学部/看護学科に入学したのは良いが、大体がまず「看護実習」あたりでダメージを受ける。
ある報告によると、「看護学生生活で『つらい』と感じたこと」のワースト1は「看護実習」なのだそうだ(なんと86.5%!)。

そして、なんとか看護実習を切り抜け、国家試験に合格し、病院に就職してから「新人看護職員研修」を受けることになる。
この「新人看護職員研修」がまた、学生時代の「看護実習」の再来に、いや、プロになってからであるので、さらに一層「つらい」ものとなりかねない。
これが2回目のダメージであり、これから休職や退職にまで発展することもある。
ある報告によれば、新人看護師の離職率は7.5~7.9%。
かなりの数値だ。

では、何がそんなに「つらい」のか。

私自身の病院勤務経験や、病院職員のメンタルヘルスに関わって来た経験からすると、まず一番辛いのは「働く環境」である。もっと言えば「人的環境」である。さらに言えば、「先輩・上司との人間関係」である。

さて、どうするか?

ここらが師長、看護部長の腕の見せどころだと私は思っている。
新人看護師を指導する人間を指導できるか否か。
結局、看護部長→師長→係長/主任(役職名は病院によって異なる)→先輩看護師(プリセプター、エルダー、メンターなども含む)→新人看護師の流れが、本当の意味で、人を育てるようになっているかどうかが問題なのである。

もちろん看護学生や新人看護師の側に、難しい問題がある場合もあることも私は知っている。
中には適性上、困難な子もいる(その場合は早くに他の道に方向転換した方が良いかもしれない)。
それでも、もし可能性があるのであれば、先輩職員たちが、この難しい新人をどう育てようかと、あーでもないこーでもないと、愛情を持って、智慧を寄せ合い、考えていただきたいと思う。

そう。やっぱり「裁くのか/育てるのか」「攻撃するのか/愛するのか」という問題に行き着く。

看護師が看護学生を愛して育ててくれると良いなぁ。
先輩看護師が新人看護師を愛して育ててくれると良いなぁ。

そうして、看護師になりたかった女子高生の夢が、やがて現実に、やりがいと喜びを持って、叶うと良いなぁ、と本気で願っているのでありました。

 

 

「生きている私達は、我々の知性だけでなくて、見るものだけでなく、見えないものをも直感、直覚して、私達にそれを感動を持って感じさせてくれる働きを持っているのです、それは自ずから我々を越えて働く大きな力であり…それがなかったら我々は決して安心することが出来ないのです。…
我々現代の人々は各種の教育が障害となって、どうしてもそういうことを感じられないのです。どんな秀才であっても、科学主義の洗礼を受けてそれに従うとき、実はその人の持っている人間として与えられた能力の僅かの部分しか使われていないわけです。我々に与えられている、もっと大きな、もっと素晴らしい、感じる力というものに気が付くことが出来ないのです。これが現代の科学主義の限界なのです。これを科学主義が非常な傲慢さを持って、自分たちの科学主義が最高の真実であると、堂々と主張して憚らなかったのが二十世紀なんです。私は来る二十一世紀はそうであってはならないと思うんです。…
私が今皆さんに申し上げたことが、少しでも皆さんの耳を通じて心に達したら、嬉しいと思います。私達は心があるということを忘れてはいけないのです。私達は頭だけではないんですよ。心は目で見えるもの以上のものを感じ、感覚するんです。感覚から感情になって行くのです。…私達は時々不安に陥ります。するとその不安を超えようとする願いが起きてきます。…この呼びかけに素直に耳を傾け、それを全身心を以て感じる時に、あなた方は苦しんでいる今までの自分と違った、自分自身を超える、大いな偉大なるものに触れて、自分が支えられている大きな喜びを感じるでしょう。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

まず、目に見えるものを考えるのではなく、目に見えないものを感じること。
そうして感じる力が敏感になって来ると、我々を不安や苦悩から救って下さる大いなる力を感じられうようになって来るということ。
その道筋を、近藤先生は何度も何度も、言葉を変え、表現を変えて、伝えようとして下さっています。
そして、この講演の現場にいた私にとっては、まさにこの近藤先生による講演自体が、我々を超えた大いなる力を感じさせていただけるものでありました。
しかし、現場にいなかった皆さんが失望する必要はありません。
あなたの感じる力が敏感になって行けば、この講演録からも、行間を通して働く大いなる力を感じられるようになるものと私は信じています。

(尚、この講演が、近藤先生の浄土真宗 東本願寺派本山 東本願寺(いわゆる浅草本願寺)における生前最後の講演となった)

 

 

先日、勧められて、あるドキュメンタリー映画を観て来た。

『どうすればよかったか?』

既にご覧になった方もいらっしゃるだろう。

娘が統合失調症を発症したのに、医師である両親がそれを否認し、医療を受けさせないまま25年が経過した話である。
しかもその経過を実の弟が撮影し、映画化した作品だ。

作品を観て、言いたいことは山ほどあるが、これから観る方もいらっしゃるであろうから、これ以上内容に触れるのは控えておこう。

全国で順次公開されるそうで、あなたの近くのミニシアター系映画館で、上映されている(これからされる)かもしれない。

私が観たとき、小さな映画館内はほぼ満席で、一見して、当事者、家族、精神科医療福祉関係者が大半を占めている感じがした(多分当たっていると思う)。

重い内容なので、どなたにも勧められる作品ではないが、精神科臨床や福祉に関わる方々は観ておいた方が良いと思っている。

 

 

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