八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

アンポンタンなことに、昔の私は、人間が成長すれば、感情を克服できるものだと思っていた。

例えば、怒り。
これもまた、人間が成長すれば、何があっても腹が立たなくなるんじゃないか、と素朴に思っていた。
確かに、成長すれば成長するほど、ちょっとしたことで腹が立ちにくくなる、ということはあるかもしれない。
しかし、何があっても全く腹が立たなくなったとしたら、それは人間としておかしいんじゃないかと思う。
喜怒哀楽すべてがあって初めて人間の感情として健全なのではなかろうか。
よって、感情の超え方として、その感情、例えば怒りなら、怒りがなくなる、怒りをなくす、という方向性にはどうも賛同できない。
無理にそちらに進もうとすれば、ただ怒りを抑圧するだけの偽善的な誤魔化し方に陥ることになると思う(事実、そういう偽善者は多い)。
(以前にも触れたが、もし「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」というようなことができるとすれば、それは人間業ではない。神の御業だからできるのである)

そうではなくて、人間が成長すれば、感情はどうなるかというと、なくなりはしないが、以前に比べ、サラサラと流転するようになるのである。
例えば、腹が立ったとする。しかし、すぐ次に別の出来事が起きたとすると、怒りはすぐに流れてしまい、他のことを思っている。
ニワトリが三歩歩いたらすぐに忘れてしまうようなものである。
腹が立つことはなくならないが、キレが良くなる。
つまり、執着、固着の「着」が段々と薄まり、ネバネバしなくなり、サラサラと流れるようになるのである。
場合によっては、人間には記憶力があるので、またその腹が立ったエピソードを思い出すことがあるかもしれない。
そして思い出してまた腹が立つ。
しかし、それもまたサラサラと流転して行く。
これは経験してみればわかるが、非常に楽である。
恐らく、幼い子どもたちはこうやって生きているのだと思う。

よって、人間の成長としての感情の超え方は、
感情をなくす方向ではなくて
感情が起きてもサラサラと流転するようになる方向が正解であると私は思っている。

 

 

「私思うのは、いわゆる、子どもに対して、そういった意味で、母親とか、重要なんですが、その母親が、例えば…子どもを置きっぱなしに置いて、いろんなことをやりに行くというふうなことが起きますと、そういうことが非常に子どもに孤独感、寂しい感じを与えますね。不安感を与えます。そうしたものが、しかし、さっき言ったように、そこでもって敵意を母親に対して、イヤなお母さんだと思うけど、悪いお母さんだと思うけど、それを抑えてる。
抑えてることがずっと続きますと、そうしますと、その抑えられた敵意というものはどこかに出すもんなんです。あなた方が、例えば、夫婦喧嘩をして我慢をした。あるいは、上役にはっきり反抗できなくて我慢したと。そういうときにどうしたかというと、奥さんであれば、それは、あるいは猫に当たるとか、ね。そういうふうなことになるだろうし、また、普通の男の人であれば、さらに自分の下役を怒鳴るとか、ね。あるいは、まあ、せいぜいバーかどっかに寄って、ガーガー怒鳴って憂さを晴らすとか。どっかでそれを出して来ますね。
同じように、抑えられたものというのは、どこかで出して来ますから、子どもの場合に、それはどこに出るかというと、この例のように、例えば、この人は、お父さんとお母さんがですね、夜、飲み屋をやってるわけですよ、ね。それで、うちへね、学校から帰って、ずーっとね…たった一人で…小さな四畳半ぐらいの部屋でね、アレなんですよ、テレビを一人で観てるんです。そういうことを長いことやってる。そうやって、まあ、見捨てられた子どもですね。
そういうのが、こういうふうなものになって来て、それでどうしたかっていうと…学校に行きましてね、人の物をね、人がみんなこう、ちゃんとしてるでしょ、子どもたち。そうするとね、子どもたちの上にある本やなんか全部、うわーっと気違いみたいに、みんなね、メッチャクチャにしちゃう。それからね、人の物をね、どんどん自分で使っちゃう。つまり、敵意をそういう形で表してる。
これは大人から見ますとね、非行ですね、良くない態度でしょ。けれども、それはね、どこから出るか、よ~く考えてみるとね、そういったね、基本的にね、基本的に不安があるわけです。不安をね、それを癒してくれない親に対する敵意ね。そういうものが全部そこに来ているわけですね。…
例えば、あなた方は、あなた方の旦那さんの、ね、傍にいるだけで満足すること、ありませんか? 彼氏がどこかへ行っちゃって、寂しくてしょうがない、ね。だけど彼氏の傍が、彼氏が別にどうってことない。おお、おまえ、それじゃあ、なんてなことを考えても、そんなことじゃない、私はあなたの傍にいればいいんだと。こういうふうなことで満足することありませんか? ね。つまり、傍におられるということが、つまり、夫が傍にいるってことが安心感の素でしょ?
同じように、子どもにとってはもっともっと親の傍にいるってことは安心感の素なんですよ。その安心感を与えてくれない親に対する敵意ってのは当然でしょ。しかし、親に対する敵意は、さっき言ったように、下役の人間が上役に敵意を出せないのと同じように、出せるもんじゃないんですよ。出せないから抑圧する。抑圧したものをどこかへ持ってく。それが結局、いろんな問題が起きて来てるわけですね。
ですから、私は、無関心が、つまり、ある意味で、決して意図的には無関心じゃないけれども、子どもとの、子どもの傍にいない親、父親、母親、そういうものが、親ってものは、ひとつの問題を作る原因を僕は持ってると思います。これは、ひとつ、考えていただきたいと思います。
そこで、この人たちはどうするかって言うと、敵意をどこかで出す。そうすると一番始めのうちは、どういうことかというと、自分と同じような種類の友だちと結び合って、そして、この、そういったものをね、お互いに一緒にやろうと、こういうことになるわけです。類は友を呼ぶと言いますけども、不思議に、人間っていうものは、あの、お互いにね、共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすいんですね。偉いとこで、人間同士の友情と言った場合に、大変偉いところで結ぶ、素晴らしい性質を持ってるというところで結ぶことがあります。けれども、それよりも、お互いにこうだよね、というところで、言わば、連帯感を持つことが大変多いのです。
で、子どもの場合もそうなんです。だから結局ね、子どもの場合は、やっぱりね、自分と、類は友を呼ぶで、同じような人とね、結びやすくなる。そうすると、あんな子と遊んで!というふうにお母さんは言われるかもしれないけども、そりゃあ、子どもにとっちゃあしょうがない。そんなことだったら、お母さんよ、あなたが私に欲するものを与えて下さい、ということになるわけですね。
そういう意味で、私は、ひとつの、これを無関心、放棄タイプっていうかね、置き去りタイプ、そういうものになる。これ、旦那にもいるんですよ。無関心、置き去りタイプの旦那、いるんですよ。それを、だから、お母さんたちはご覧になって、自分がもしそうだったら、どうだろうか考えて下さい。無関心、置き去りで、仕事が大事なんだ、なんとかっていうんで、大変もう仕事ばっかりになっちゃって、うちへは帰って来ない。そういうときにあなた方はどんな感じがします?
これはね、あなた方の中にも、幼児性といいましてね、いいですか、子どもと同じものがあなた方にあるんですよ、みんなね、いいですか。だから、それだけにお母さんの方が子どもをわかりやすいの。それだから、僕はあなた方に余計、僕はアピールしたいんです、それをね。
そういう具合に、この、無関心、放棄型、あるいは、置き去り型というものが、という親があります。これはひとつの問題児を作って行く、ひとつのタイプであります。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

現代なら、働いているお母さん方も多いことでしょう。
近藤先生のお話を現代風にアレンジするとすれば、ただ親が子どもの傍にいれば良い、という話でもないのです。
っぱり重要なのは、そこに愛はあるんか、ということです。
例えば、諸般の事情からシングルマザーとして働いて、子どもと接する時間を持ちたくても、なかなか持てないお母さんもいらっしゃることでしょう。
じゃあ、その子どもたちが全員、敵意に満ちて非行に走るのかというと、そうではありません。
たとえ時間は短くても深い愛で子どもに接しているお母さんがいらっしゃいます。
愛は深さ×時間で、時間が短くても深さで勝負すれば良いのです。
そしてもうひとつ、近藤先生がさりげなくおっしゃったひとこと。
「人間っていうものは、お互いに共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすい」
がこころに残りました。
だから私は、思い悩んだ経験のある人の方が、今苦しむ人のこころに寄り添いやすい、と思っています。
但し、その思い悩んだ問題を今は突破していることも要求したいと思います。
今もまだ問題が未解決のままだと、一緒に漂流するだけになっちゃいますからね。
だから私は、苦しんで突破して来た人こそが良い支援者になれる、と確信しているのです。

 

 

坪庭の落ち葉掃除をしていたら、綺麗な緑色の細長い葉っぱを見つけた。
余りに鮮やかな緑色に見惚れて、思わず触れたら、この葉っぱが動いたんです。
ありゃ、こりゃあ、葉っぱじゃなくって、バッタか?
よく見ると、確かに正面に仮面ライダーの顔。
人差し指と親指で細長い胴体部分をそっと掴むと、モソモソと肢を動かして
「やめてくらさい。」
のアピール。
気温の低かったせいか、体動がとてもスローで、私にはどうしても「やめてください」ではなく「やめてくらさい」に聴こえた。
これ以上触るのは気の毒と思い、ゆっくり放すと枯れた芝生の下へガサガサと身を隠して行った。

それにしても鮮烈な緑、いや、碧(あお)というべきか。
生命(いのち)の塊に触れたような気がした。
具体的なもの(バッタ?)に抽象的なもの(生命(いのち))を感じる。
限定的なもの(バッタ?)に永遠のもの(生命(いのち))を感じる。
我ながら、これが日本人の精神性の伝統だ。

後で調べてみると、ショウリョウバッタなどのバッタは卵で越年するそうで、この時期にこの大きさの成虫が観られるのはキリギリス、特にクビキリギリス(クビギリス)らしい(バッタとキリギリスが違うことを初めて知った)。
クビキリギリスは噛む力がとても強いと書いてあり、危ない、危ない。

でもやっぱり、あの碧は触りたくなるよなぁ。

 

 

「4月1日から居場所を失ってしまう方へ」という見出しのネットニュース記事を見た。

夏休み明けの子どもたちに配慮した記事(また学校でイジメに遭うのを苦にして自殺を図ることを予防するための記事)は見たことがあったが、確かに、年度替わりもまた人間が窮地に迫られる時期である。
仕事がない、住むところがない、頼るところがない、そしてどこにヘルプサインを出して良いのかもわからず、そもそもヘルプサインを出すことさえ断念している人たちがいる中、こちらから当事者に声をかけていくこの姿勢は重要だと思った。

ある若い女性が、居場所をなくしたときに、ポツリと「死んじゃおうかな。」と漏らしたのを覚えている。
幸(さち)薄い彼女の生育史を思えば、それは注意獲得的な演技ではなく、掛け値なしの本音であった。

腐っても日本。
長年、精神科医療に携わって来た経験から言うと、日本国は衣食住と医療とを提供する力は持っている。
まずは公的機関に相談しよう。
住居が確保でき、当面の衣食が間に合えば、未来への計画を立てる気にもなってくる。
そしてあなたのことを気にかけてくれる人がつく。
そこから人生を逆転して行った人間はいくらでもいる。
先に挙げた彼女もまた、今は元気に働いている一人である。

こんな小さなサイトの、こんな小さなひと言でも、声をかけようと思います。
少なくとも、これを読んで下さっている方たちの中に、小さな輪が広がるかもしれないから。

折角もらった生命(いのち)だもの。
あなたが今回の人生で果たすべき意味と役割が絶対にあるんです。
死ぬのはそれを果たしてからで十分です。

 

 

2024(令和6)年7月2日付けの小欄において『『対面面談の際のマスク着用の自由化およびリモート面談の継続について[最新報]』をお知らせしました。
今回はその続報です。

新型コロナウイルス感染症につきましては、世間では最早、「今、コロナ、第何派だっけ?」「まだ第何派って言ってるんだっけ?」というような状況ですが、私の周囲でも新型コロナウイルスに感染する方はゼロにはなっておりませんし、まだ厚生労働省から終息宣言も出ておりませんので、今は“第12派”としてカウントされているようです。

【1】そのような状況下における当研究所における感染対策としましては、引き続き、
当研究所入室時のアルコール手指消毒
当研究所対面面談時のマスク着用
しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。
但し、風邪などを引かれている場合、咳、くしゃみなどの症状がある場合には、コロナ前と同じく、マスクを着用されるか、病状により面談日時を変更されるかをお願い致します。
尚、私(松田)自身は、今しばらくマスク着用を継続するつもりです。
また、ハイブリッド勉強会対面参加される場合につきましても、引き続き、マスク着用しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。

【2】また、現在、Skype、Zoom、Facetime などでリモート面談を行っている方々につきましては、今後も引き続き、Skype、Zoom、Facetime などのリモート面談の利用継続可能と致します(尚、Skypeのサービスが2025(令和7)年5月5日をもって終了となることにつきましては、既にお知らせ致しました)。
新型コロナウイルス感染症拡大が落ち着けば、リモート面談の利用継続可能を続けながら、「1年に1回は八雲総合研究所に来所いただき、対面面談を行う」こととする予定ですが、新型コロナウイルス感染症拡大状況がまだ第12波にある以上、これも延期とし、厚生労働省による終息宣言が出るまでは現状維持と致します。

以上、どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

昨日書いた「依存しながらブータレる問題」は、思春期の子どもたちや、自立しそこなった大人子どもたちだけの問題ではない。

稀に当研究所に“間違って”面談を申し込んで来る人たちの中にも、それが見られる。
自分自身の問題に対して「情けなさの自覚」を持っている人しか対象にしていないが、その人の成長課題や問題点を指摘すると、“面白くない”とか“腹が立つ”という反応をする人がいる。
ということは、まだ抵抗や反発ができる分だけ、「情けなさの自覚」が足りないのである。
そしてそれでいながら依存はしたい。
おいおい、当研究所はそういう場所ではないぞ。
道場に来ておいて、稽古が厳しいというなら、軽い運動と甘い褒め言葉のサロンにでも行った方が良い。
即面談終了として、お引き取りいただいている

反対に、成長課題や問題点の指摘を喜ぶ方たちもいる。
あいたたたた、でも、いつまでもこんなところにはいられない。
一緒になって真剣に突破の道を探って行く。
そのプロセスは苦しくも甲斐のあるものである。
そして現に成長して行かれる。
そういう方たちのために当研究所はある。

しかしながら、これが「治療」となると、また話は変わる。
「情けなさの自覚」の醸成にも長い時間がかかるし、
「成長への意欲」の発露にも相当な時間がかかる。
向精神薬が必要になることも多い。

そういうところから始まるのが「治療」である。
じっくりやらざるを得ない。
しかし、そんな中からでも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持って、治癒+成長して行かれる方々もいる。

苦しんだからこそ、本当の答えでないと、納得できないという方々もいる。

「成長」だろうと「治療」だろうと、結局は、取り組む「姿勢」、生きる「姿勢」というところに話は帰着する。
依存しながらブータレているヒマはないのである。

 

 

思春期の子どもを持つ親御さんの偉いところは、親に依存しないと生きて行けないくせに、生意気にも反抗・反発・ブータレてくる子どもの世話を、それでもちゃんと焼いていることである。
もっと幼い頃は可愛いかったが、この年頃になると段々可愛くなくなってくる。
かといって、自分たちが成した子である以上、扶養義務がある。
思い通りにならなければ捨てる、というわけにはいかない。
よって、どんなに生意気な子どもでも、生活させ、学費を払い、小遣いまで与えるというのは、義務と言えば義務であるが、親として大したものだと思う。

しかしながら、扶養義務がかかるのは20歳まで。
それを過ぎれば、あるいは、遅くとも大学や専門学校卒業後には、特別な事情がない限り、とっとと自立してもらった方が良い、できれば、家を出るという形で。
どうしても同居を続けるというのであれば、せめて別居に等しい経済的および家事の負担を担わせた方が良いと私は思う。
そこらを心しておかないと、いい年になっても、依存しながら文句をタレる、気持ちの悪い大人子どもを作り上げてしまうことになる。
8050問題は、特別な親子関係においてだけ起こる事態ではない。
そうではなくて、
大人になったら、文句があるなら出てけ、が当たり前である。
上等じゃないか、こんな家出てってやる、と来て、初めて子別れ、親別れが成立するのだ。

悪依存するんじゃないよ。
悪抱えするんじゃないよ。

互いの生命(いのち)の成長のために。

不安だけど夢がある。
心配だけど期待がある。

そんな子と親双方の自立を期待したい。

 

 

 

近藤先生が非常に難しい患者さんの治療に取り組み、ようやく治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。 
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と近藤先生に三拝九拝して感謝されたそうだ。

またある時、別の非常に難しい患者さんの治療に取り組み、紆余曲折を経て治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。
その経過を聴いて喜ばれた鈴木大拙は、近藤先生の両手を握り、涙を流して「ありがとう、ありがとう。」と感謝されたという。

普通ならば、相手に感謝されたとき、人間はちょっと遠慮して「いやいや。」「とんでもない。」と謙遜してみせることが多い。
しかし、近藤先生はそうしなかった。
これらの感謝の言葉に対して「ありがたいですね。」と応じたのである。

即ち、自分が治したのであれば、「オレが治した。」と誇ることもできるし、そう思いながらもちょっと謙遜して「いやいや。」「とんでもない。」と言うこともできる。
しかし、近藤先生の場合は、自分が治したという自覚はまるでなかった。
自分を通して働く力が、そして、その人を通して働く力が、治すのである。
だからどうしても返事は「有り難いね。」となる。

そして話を戻せば、鈴木大拙の「ありがとう、ありがとう。」という言葉も、実は近藤先生に対して言った言葉ではなかったことがわかる。
鈴木大拙が近藤先生に対して言った言葉は、実は、近藤先生に対してではなくて、近藤先生を通して働く力に対して言ったのである。

おわかりか?

よって、全ての手柄は、人間にはなく、あなたを通して、私を通して、この世界を通して働く力にこそあるのである。
褒めるべきは、讃嘆すべきは、この力だけである。
よって、キリスト教では「褒むべきものは神の御名のみ(褒められるべきは神さまの名前だけである)」という。
神の御名を唱えながら、これが仏教ならば、仏の御名を称えながら、というわけで、南無阿弥陀仏に落ち着くのである。

ありがとう/ありがたいね。

 

 

「そこで、基本的に幼児時代というものは、母親の問題が非常に大きい。そのときに母親がです、その、もし不安だけ与える、不安だけ与えて、不安と、つまり愛と、愛憎がありますと言いましたけれども、愛が少なくて、あるいは、愛より、愛してはくれるけど憎が多いというふうな状況を作って、憎しみが大きい状況を子どもに作ったら、どういうことになる。そうしますと、この憎しみを主張しようとしますね。そうすると、それは母親に、ところが、幼児の立場から言やぁ、お母さんはもし自分が主張したら、自分を見捨てるかもしれないでしょ、ね。
あなた方もそうですね。旦那さんに対する憎しみがあっても、それをあんまり主張しちゃったら、旦那に捨てられちゃうでしょ。捨てられちゃうと自分の安全がなくなりますね。三食昼寝付きでテレビ観てるってわけにいかないでしょ。だから、結局ね、そうすると自分の敵意はこう抑えちゃってね。我慢するでしょ。我慢したけれども腹が立つ、我慢したものっていうものは、それを抑えなくちゃいけない、抑圧しなくちゃいけない。これは術語で言いますとね。抑圧するといつも敵意があります。
これ、男性で言いますと、上役がいますね。上役が怒鳴ると。そうすると、それに対して、この野郎!とこう敵意が起こる、ね。そうすると、この野郎!と思うけども、これを、しかし、あいつにやるとクビになっちゃうとかね、昇進が遅れるとか、やれどうだとかで、ここで我慢。忍耐、これね。忍耐する。忍耐っていうのは日本の美徳です、これね。我慢に我慢を重ねて行く。その結果、どうかっていうと、心の中に、この野郎!っていう気持ちがある。その気持ちは、忍耐の下にこう抑えられている。沢庵石(たくわんいし)の下の漬物みたいになってる、こうやってね。そういうものが爆発するとね。例えば、前の校長がどっかに行っちゃう。もう大丈夫だ。あいつはもうアレだっていうんで、グーッと出て来てね。前の校長に対してそういう気持ちを思っていたと仮定しますよ、そうすると、今度なった校長先生と、あるいは教頭に対して、もうその先生は文句だらけだな。
そういう具合に、人間っていうのはね、非常によく見ますとね、この、愛憎というものの不思議なね、絡み合いの中で生きてるようなもんです。で、私はこんなことを言うのは、大人のことを言ってるのは、これが子どものことにも関わって来る。子どもの問題っていう場合に、やっぱりね、そういうものをね、見逃してはならないということです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

愛憎のアンビバレンスの中でも特に、憎、憎しみの抑圧ということが問題になって来ます。
愛憎のうち、愛の表出は一般に歓迎されますが、憎の表現は抑圧されやすいのです。
そうなりますと、表出されない憎は、いつもその人の中にあることになります。
子どもでも大人でも、我々の中に抑圧されいる感情で、最も大きいものは、憎=怒りなんじゃないでしょうか。
虐待された子どもも、マルトリートメント(不適切な関わり)された子どもも、そのときは、親は恐いし、しかも愛着の相手でもあるし、憎=怒りは抑圧されてばかりとなります。
また、夫や上司にひどい扱いを受けた大人も、利害関係や恐怖から、その憎=怒りは抑圧され続けています。
けれども、その憎=怒りはなくなってはいません。
よって、それが後になって、適当な機会をとらえて噴出して来るわけです。
このからくりをよく知っておく必要があります。
そして、できるだけ早いうちに、その憎=怒りを健全な形で発散できないか、解消できないか、ということが重要な問題になってくるわけです。
とにかく
子どもは憎んでいる、怒っているということを
大人は憎んでいる、怒っているということを
自分は実は憎んでいる、怒っているということを
よくよくわきまえておきましょう。
やっぱり感情はね、成仏させてあげないといけないのです。

 

 

一時「親ガチャ」という言葉が流行った。
「ガチャ」(カプセルトイの販売機=ガチャポンによる)のように、どういう親の元に生れるか、それがどんな酷い親であろうと、子どもは親を選べないという意味だったように思う。

そうしたら、今度は「医者ガチャ」という言葉に出くわした。
医療機関を初めて受診した際、どんな医者が出て来るか、それがどんな酷い医者であろうと、患者は医者を選べないという意味らしい。
厳密に言うと、今はSNS上の書き込み情報などを読むことができ、或る程度の下調べも可能になって来ているし、その医者と合わなければ病院を変えれば良いので、まだ「選べる」方かもしれない。
また、医者の方からすれば、「患者ガチャ」もあり、一方だけの問題でもない。

そこからさらに眼を大きく転ずれば、多少の程度の差はあれ、この世には、「親ガチャ」「患者ガチャ」どころか、「入学ガチャ」「進級ガチャ」「クラスメートガチャ」「担任ガチャ」「入社ガチャ」「異動ガチャ」「上司ガチャ」「部下ガチャ」「転職ガチャ」「引っ越しガチャ」「結婚ガチャ」「入店ガチャ」などなど、「ガチャ」が数限りなくあることが観えて来る。

そう。
察しの良い方はお気づきであろう。
「ガチャ」には、思い通り、希望通りにならないもの/人に当ったらイヤだなという、はっきり申し上げて、自己中心的願望のニュアンスがあるのであるが、
本来は、出逢うべくして出逢う「縁」という意味なのである。
それを選り好みする(これはイイけど、あれはイヤ)観点からすれば、「ガチャ」という表現になる。

この世の中は、残念ながら、思い通りにならないようにできている。
その思い通りにならないところから
そこをまた思い通りにするために頑張りに頑張るのか
思い通りにならないことが気に入らない自分(自我)というものを超えて行こうとするのか
で、その後の展開は、天と地ほど違って来るのである。

そう思うと、「ガチャ」から学べることは、実はたくさんありそうだ。

 

 

酷い上司、先輩、同僚、部下、あるいは、酷い家族に囲まれて、苦しい環境で生きている人たちがいる。
そうなると人間は弱いもので、
「こういうときはこうやっときゃいいんだよ。」
「そういうときはそう言っときゃいいんだよ。」
「テキトーにヨイショしといて、裏で舌を出しときゃいいのさ。」
などと、いわゆる世俗的な処世術を教えられると、ついそっちに走りたくもなる。
そういうことを、頼んでもいないのに言って来る人たちは、自分自身が使っているちょろまかし方を教えて来るのであり、(自分だけが負け犬のすれっからしになりたくないので、)一緒に泥沼に沈んでいく道連れを増やそうとしているとも言える。

しかしながら、そこで踏みとどまって、自分だけは易(やす)きに流れずに、ど真ん中を歩いて行くことは、実にしんどい。
しんどいけれど、それでもやっぱり私としては、その道をお勧めしたい。

私もそこそこ長く生きているので、濁世(じょくせ)の大変さを知らないわけでもないし、そんなに簡単にど真ん中を歩いて行けないこともよく知っている。
私自身も、アンポンタンでポンコツの立派な凡夫である。
しかし、それでも最初から諦めていてはダメだと申し上げたい。
現実には、ひーひー言いながら踏ん張って踏ん張って踏ん張って、実際に達成できるのは目標の6割くらいかもしれない。だからこそ最初は100を目指すのである。最初から60じゃあ、現実にはその6割、36くらいになってしまう
そうやって、無能、無力、非力の凡夫の自力を尽くしながら、自分を超えた他力を祈ってやっていくしかないのである、ひーひー言いながら。

そうするとね、1年や2年では変わらないけどさ、何年も何年もそうやっているうちに、
「ああ、やっぱり、魂を売らないで、ど真ん中を歩いて来て良かったな。」
「昔の私に、それでいい、と言ってやりたい。」
「こんなに自分が自分でいてのびのびできる時間が来るとは思わなかった。」
と心底思える日が来るのである。
これらはあなた方の先輩たちの言葉である。

だから、それでもど真ん中を歩いて行きましょうよ。
少なくとも、歩いて行こうとしましょうよ、ひーひー言いながら。

その甲斐はきっとありますよ。

 

 

朝早めの仕事が入ったとする。
その分、朝早く起きなくちゃ、と思う。
この「なくちゃ」=「ねばならない」が動き出した途端、睡眠が浅くなり、夜中に何度も目が覚め、結局、翌日は睡眠不足気味となる。
そんなことが何度もあった。
そんなことくらいで、どうしてこうなるんだろう、と昔から思っていた。

それは「ねばならない」が動くと同時に、「そうしないと大変なことになる」「そうしないと責められる」が働くからであり、そうなるにはそれだけの生育史上の体験があった。
子どもが生まれつき、そんなふうであるはずがない。
相手(=親や先生や大人たち)の意向に添わなかった、合わせられなかったときにくらった叱責や非難による不安と恐怖の体験の積み重ねが、後生(こうせい)にまで祟っているのである。

現実には、万が一寝過ごしたり遅刻したところで、市内引き回しの上、磔(はりつけ)獄門にはならないし、この世の終わりも来ない。
しかし、それは理屈であって、理屈は理性しか納得させられない。
不安と恐怖は感情であり、理屈は感情の前では無力なのである。
よって、感情の面での安心を勝ち得なければ、この問題は解決しない。

従って、過去の内省、分析よりも(分析は理性的理解しかもたらさない。知的に整理はできるがそこまでである)、丹田呼吸で肚が据わる方が余程、根本解決となる。
肚が据われば、殺すんなら殺せ、で、殺されることが恐くなくなれば、恐いものは何もない。
ちょっとしたことで眠りが浅くなるような小心な自分が、今度は、世間一般の人たちよりも遥かに揺るがない境地を獲得できる。
これが面白いところである。
よって、小心な人は大歓迎である。
特に、自分が小心であることを、良い格好せず、認められる人で、かつ、その小心さを乗り超えたいと心から望む人は(結局は「情けなさの自覚」と「成長への意欲」ということになる)、自らの伸びしろに大いに期待していただきたいと思う。

 

 

感情についてはしばしば取り上げて来た。
通俗的には、人間が成長すると、感情的にならず、いつも冷静沈着、泰然自若としている、というような大変な誤解/曲解が横行している。
そんなことがあるはずはない。
それじゃあ、まるで不感症の、鈍感なバカである。

そうではなくて、むしろ喜怒哀楽の感情は豊かに、そして綺麗に現れるようになる。
しかし、未熟な頃と違うのは、その感情がサラサラと流転するようになるのである。
感情の本質として、感情は長引かない。
長引くときは、その感情の元となったもの/ことに対して固着/執着が起きているのである。
場合によっては、その固着/執着によって、元々の感情を増幅させたり、変質させたりしている。
それは感情本来の性質ではなく、人間が二次的に作り出したものである。
それが余計なのである。
人間が成長すれば、その余計なものがなくなる。
よって、感情は豊かに、しかしサラサラと流転して行くようになる。
それが感情本来の姿。

たとえそれがトラウマのような出来事に基づく感情であったとしても、思い出す度に、何らかの感情が起きるであろうが、それが段々とブツ切りのようになって来る。
つまり、思い出す度に、何らかの感情は起きるが、連想によって、または他の刺激によって、簡単に流転し、そこに留まらなくなって来るのである。
ネバネバしていたのがサラサラになって来る。
そうしてやがてトラウマ自体が瓦解して行く。

そんな感情の消息を、妙好人の吉兵衛さんがズバリと言い表している。

「俺(わし)も凡夫だから腹を立てる。しかし根が切ってあるので実がならぬのだ。」

「根が切ってある」の前に「阿弥陀さんのお蔭で」を入れると、より明確になる。
その方が、自力でなく他力で切っていただいている、という感じがはっきりする。

今日も明日も、相も変わらず、腹立ちは起きる。
しかし、我々が成長すればするほど、腹立ちもまたサラサラサラサラと流転して行くようになるのでありました

 

 

最近の知見では、円形脱毛症(AA:alopecia areata)は、心因性のもの(ストレスによるもの)ではなく、(成長期毛包組織に対する)自己免疫疾患と考えられている。
よって、その治療も局所的免疫療法、ステロイド療法、紫外線療法、免疫抑制剤療法などが行われている(詳細は専門的に過ぎるのでご関心のある方は、日本皮膚科学会 円形脱毛症診療ガイドライン2024 参照)。

しかし、ふと思う。
エビデンスに基づいたガイドラインであるから、その治療法で治癒している方々が実際におられるのであろう。
しかし、私が今まで心因性のものとして治療し、円形どころか、頭髪全体から眉毛まで抜けていた女性が、精神療法のみで全く完治してしまったのも事実である。
あれはどういうことだったのであろうか?
その治療には抗不安薬も使っていない。
まさかたまたま自然経過で生えて来ただけというわけでもあるまい。
少なくとも彼女の精神的成長は明らかであった。
(ちなみに先のガイドラインでは、抗不安薬の投与も心理療法も「推奨しない」となっている)

真実はどこに?

また、心的外傷後ストレス障害(PTSD:post traumatic stress disorder)の患者さんにおいては、海馬の萎縮があることが報告されている。
これまた、私が精神療法による治療を行なって来た方で、幸いにも、徐々に回復し、遂に完治した青年がいた(しかも私の行った精神療法は PTSD治療ガイドライン[第3版]で推奨されている精神療法ではない)。
ということは、その人の海馬は、治療によって体積を増したのか、それともたまたま海馬が委縮していないタイプの方だったのかしらん、と思う。
少なくとも彼の精神的成長は明らかであった。

真実はどこに?

最近はエビデンス流行りであるが、一理があってニ理がないエビデンス倒れも散見される。
あくまで臨床現場の実体験を大切にして、真実の居場所を観誤らないようにしたい。

 

 

「これは、女性の方が今日は多いから言いますが、あなた方の旦那さんとかね、いうものに対する考え方をひとつよく見て下さい。私があなた方に、旦那さんを愛してらっしゃいますか?と訊けば、皆さん、手を挙げられると思うんです、ね。しかし、本当に愛だけですか? どうでしょ? 甚(はなは)だこんなことは言いにくい話だけども、やっぱり憎んでいるところがあるはずです。これをはっきりさせないもんだから、だから、ものがはっきりしないところがあるわけです。癪(しゃく)に障(さわ)るけどしょうがない、まあ、食うね、素を持って来てくれるんだから、しょうがない。亭主と認めてやるわ。こういうところがあるわけですね。男性が今日は、一、二、三、四人だから、合計五人だから、思い切って言える。男性をイジメる会ってことじゃないかもしらんけども、けども、そういう男性がそこで、オレこうやって威張ってるけれども、威張ってる相手の奥さんのお腹の中に二つあるわけです、ね。つまり愛憎ということがあるわけです。
恋人に対してもそうですよ。愛人というけれども、愛しているけれども、それは必ずしも全てが愛ではないはずです。憎らしい。私をこんなに待たせて酷(ひど)い人。私はじっと待ってなくちゃいけない。私はコーヒーをもう何杯飲んだ、胃がお蔭で変になっちゃったってなことがある。それは腹が立ちますよね。なんで待たすの? でも私は愛するから仕方がない。こうなっちゃうでしょ。必ずそういう矛盾した気持ちがある。
日本の女性は、そういう点は、非常に、あの、なんていうか、よくできてるというか、大人しいというか、言わないから、その愛憎を二つ出ない。自分の中の憎しみに気がつかない。気がつかない結果、それがね、あんまり、あの、解決されない。そのままずるずるべったり行って、最後に腹が立ってね、六十ぐらいになって、これから離婚します、なんて言う。親父さんが弱くなっちゃって、今度はね、おまえ、頼むよ、頼むよっていうことになって来るとね、さあ、ご覧なさい、と言ってね、今度は、愛より憎しみが出て、私をどんなにイジメたでしょ。もうあなたなんかおっぽっちゃう、なんていうわけで、まあ、必ずしも言わないよ、そういうことになっちゃう。
そういうふうな愛憎というものが子どもにあるんですよ、良いですか。ここがね、今、あなた方が自分の旦那さんやお父さんを笑ったかもしれないけども、今やまさに子どもから見りゃあなた方がそうなんだ。母親に対する愛憎、それから父親に対する愛憎、父親はもっとひどいんだな。父親が、よく考えてみると、最初の敵意は母親がそうですが、同時に最も強力に侵入して来るのは父親です。お母さんの傍(そば)にゆっくりこうやって、乳房にくっついて傍にいたいときに、突然夜になってお母さんを奪って行くのは誰ですか? お父さんでしょ。そういうときに子どもは、おぎゃあおぎゃあと泣きながらですね、侵(おか)されてるんですね。
近頃は3LDKになると、子どもは別のところにおいて、お母さんとお父さんは別のところにいるだろう、ね。従って子どもは非常に孤独の中に残されるわけですよ、ね。お母さんとお父さんは楽しいかもしらん。そういうときにいつも自分の大事な大事な、子どもにとっては安心と、その、本当に安心感と、なんていうか、満足の元である、源であるお母さんを奪って行くのはお父さんでしょう。お父さんていうものはね、まず最初にはね、自分から自分の愛する者、自分の安心の元を奪って行く対象として見られるんですよ。ですから、子どもにとって最初はね、親父なんてちっとも有り難くない。
その証拠に、親父もまた子どもをあまり可愛がらない。うるせえな。少し黙らせたらどうだ、なんていうことになっちゃう、ね。おまえが悪いんだってなことになってね。うるさい。こういうことになる。
そういうふうに、父親と子どもってものは、最初は、最初の経験は、僕は愛ではないと思う。これは今まで見て来たように、そうではなくて、むしろ原本的に、あの、愛の経験は母親でしょ、恐らくね。父親は要するに、後は、今度はどうかっていうと、それは、父親の有り難みが少しわかって来るのは、もう少し後なんだ、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、アンビバレンス(『アンビバレンス(1)参照』)の対象となるのが、母親だけにとどまらないということ。
夫、恋人などさまざまな人がアンビバレンスの対象となり得る。
その中で、特に女性は、自分の「憎」の部分に気づきにくい。
しかし、気づかなくても実際にある「憎」が、後になって復讐を果たすこともあるのでご注意を。
そして、やはり子どもにとって、最初の愛の経験の対象は母親。
父親は自分から愛する人、安心の元を奪って行く存在でしかない。
父親の本当の出番はもう少し後になってから。
こんなことも、近藤先生の講演を機に、ちょっと知っておくとね、夫婦関係や親子関係において、不要な問題を引き起こさないで済むかもしれない。
良い悪いではなく、人間のこころの事実として、アンビバレンスというものがあることを知っておきましょ。

 

 

名もなき陶工がいた。
毎日毎日、日常雑器としての茶碗や皿を何百、何千と焼き続けていた。
そんな毎日の繰り返し。
そんな中で、ふと“できてしまう”器があった。
人間国宝でも作れない究極の名品が“なってしまう”ことがあった。
そして世に埋もれがちなそんな作品を“目利き”して取り上げたのが、柳宗悦の民藝運動であった。
無名の作り手がふと“作らされた”名品があるのである。
(そんなことにご関心のある方は、東京目黒の日本民藝館に行かれると良い)

それには遥か先駆がある。
茶道において、それまで城も買えるような高価な茶碗=“名物”志向であったものを、例えば、朝鮮半島の庶民が使っていた飯盛り茶碗などの日常雑器などの中から“目利き”して選び出し、茶碗として使ったのが千利休であった。
流石である。

そして、同じことが人間においても起こった。
浄土真宗の門徒のうち、字も読めない、計算もできない、貧しき庶民の中に、本願寺の法主や禅の老師も驚くような深い信仰の境地を持った人たちが現れて来たのである。
それを妙好人という。
妙好とは白い蓮の華のこと。
泥より咲いて 泥に染まらぬ 蓮の華 である。
そんな人が出て来る、泥=娑婆の中から。

だから、何も世俗的に、立派な人や偉い人を目指さなくていいんですよ。
繰り返される日常の中で、余計なはからいのない日常の中で、なんだか知らないけれど“できてしまう”“なってしまう”尊さがあるんです。

 

 

首都圏近郊の小さな都市に出かけることがあった。
所用のあった高台に建つビルの最上階レストランから、低い山に囲まれた市街地を見下ろすことができた。
山の緑に囲まれた中に、戸建て住宅やアパート、小さなマンションなどがたくさん建ち並んでいるのが見える。

ふと今まで出逢って来た、いろいろな人たちの暮らしが思い出された。

児童養護施設を十八歳で退所し、一人暮らしと仕事を始めたばかりの青年。
家事も仕事もまだ慣れないし、何にも自信はないけれど、一所懸命に生きている。

夫も娘も息子も発達障害という状況で、親の介護もしながら孤軍奮闘しているお母さん。
溜め息をついた後、
深夜自分のためだけに淹れる一杯のコーヒーがやすらぎ。

長年二人だけで生きて来た夫を七年前に亡くしたおばあちゃん。
気丈に生きているけれど、「昨日会いたくて涙が出ちゃった。」と微笑(わら)う。

そんな暮らしが、きっとこの眼下の街の中にもある。

そして
臨床で出逢って来た人たちにも
八雲で出逢って来た人たちにも
やはり誰とも違う、その人だけの人生と暮らしがあった。

これからも、まぎれもなくここに人間が生きている、という人たちと出逢いながら、私もまた生きて行きたいなぁ、と思う

 

 

来たる4月13日(日)開催の『陽春のハイブリッド勉強会04』の開催要項をアップしましたので、ご関心のある方はご参照下さい。

毎月開催している八雲勉強会のうち、ワンシーズンに1回=3カ月に1回を、ハイブリッド勉強会(会場での対面参加 あるいは Zoomによるリモート参加のどちらも可能)として、現在、八雲総合研究所に通っている方以外にもオープンに開催しています(詳細は開催要項参照)。

今回も、内容は2部構成で、

前半は、レクチャー&ディスカッション『体得ということについて』で、
これまでのハイブリッド勉強会では、
第1回01『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』では、基本的「人間観」「世界観」「成長観(治療観)」「人生観」を
第2回02『仲秋のハイブリッド勉強会』では「人間の成長段階について」を
第3回目03『新春のハイブリッド勉強会』では、「人間の承認欲求について」を取り上げて参りました。
今回第4回04では、「体得ということについて」を取り上げます
講師からのレクチャーの後、気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて、話し合い、深めて行きましょう。

そして後半は、ディスカッション『鉑言(はくげん)に深める』で、ここでは、所感日誌『塀の上の猫』の中の「金言を拾う」シリーズを読んで、自分が気づいたこと、感じたことなどを自部自身の成長課題や問題に引き付けて、話し合い、深めて行きましょう。
金言を鉑言鉑とは白金、プラチナのことです。金からさらにプラチナへ)にまで深めて行くのが『鉑言に深める』の目標です。

人間的成長を目指す“仲間”たちの参加を心からお待ちしています。

 

 

寒暖の差が激しいこの頃である。
風邪を引きやすく、コロナもインフルエンザもまだ収まってはいない。
花粉症も全盛で、鼻閉(鼻づまり)から口を開けて眠り、ノドをやられる人も多い。
そうでなくても、元々持病のある方、長く闘病中の方々もいらっしゃる。

このように体調が悪いことを、快か不快かと訊かれれば、間違いなく不快ではあるが、だからこそ気づける大切なこともある。
それは症状が重ければ重いほど、気力・体力を奪われて、却って自力が失せてしまうということである。
我の願いは、何事も自分の思い通りにしたいということだが、自力がなくなればなくなるほど、我は弱り、無我に近づいて行く。
そうなると最早、他力におまかせするしかなくなるのだ。
その境地が与えられるというのは、非常に有り難いことである。

人間、弱らないとわからないことがある。

いわゆる修行において、よく難行・苦行が行われるのは、人工的に弱らせておいて、自力を奪おうという作戦なのだ。

従って今、闘病中の方々よ、闘病は辛いが、今だからこそ授かりやすい体験がある。
丹田呼吸をして、祈って、深い境地に誘(いざな)っていただきましょう。

 

 

以下は、いわゆる神経症圏の方に対する薬物療法のお話。
しっかりとした薬物療法の継続が極めて重要な、いわゆる精神病圏の方には当てはまらないので、誤解なきように。

 

例えば、不安障害の患者さんがいらしたとする。
パニック発作などの不安にとても耐えられず、精神科を受診された。
そして処方された薬が著効し、不安が起きなくなった(あるいは、不安が起きてもすぐに服薬で対処できるようになった)。
大変喜ばしいことである。

しかし、ひとつ問題が起こる。
薬によって不安を解消できたのは良かったが、そのせいで、不安が起きる根本について自分の内面を見つめなくても済むようになってしまったのである。
そのため、ずーっと薬を飲み続けることになってしまうかもしれない。
実際、何十年も薬をもらいに通っている方々がいらっしゃる。
ご本人がそれで良いのなら良いのだけれど、完治への道もあることは御存知なのかしらんと思う。

反対に、敢えて薬物療法を使わず、薬を飲まないで、自分自身の内面を徹底的に見つめて行こうとする方も(稀に)いらっしゃる。
なるほど、そのやり方なら、根本的な完治に至る可能性がある。
しかし、その姿勢は立派ではあるけれど、鉄の意志と鬼の根性で耐えるには、不安が強烈過ぎる場合もある。
そういうときは、せめて薬物療法を併用して、薬でちょっと気持ちの余裕を作りながら、内省を進めて行くのが一番良いんじゃないかと私は思っている。

薬は使いようである。
折角、製薬会社の人も一所懸命に創って下さっているのだから、必要な方は賢明に活用するのが良いと思う。
しかし、使いようを間違えると、対症療法が成功して根本療法が行われなくなってしまう、という危険性があることを知っておきたい。

 

ちなみに今、八雲研究所に面談に来られている方は、治療対象の方ではないので、全員薬なしで、しんどいときもヒーヒー言いながら、自分と向き合って行きましょう。
 

 

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。