八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「私たちは、最初に、おまえはダメだと、よく親が、おまえはダメな子だとか否定的な言葉を言いますね。子どものときはね、大人になったってそうでしょうなぁ、誰かから、上の上長の人とかね、あるいは同輩の人から、おまえはダメだってなことをやられるとですね、クシャンとなっちゃってね、オレはダメだ、と帰りにヤケ酒を飲んじゃったりなんかすると、いうふうなことになりがちですね。つまり、そういうふうな、何かね、人の言(げん)によってね、自分っていうものが上がったり下がったりする。バカだと言われるとバカだと思ったりね。オレはダメだと思ったり、とにかく人の言葉で非常に左右されるところがありますね。まあ、大人になってもそのぐらいです。子どものときはね、それを考える力ないでしょ。そうするとね、親が言った通りに自分も思うわけですね。
今でも、皆さん、どうでしょうか。自分でお考えになって、例えば、小さいときに自分が親に、おまえはとても算数が良いな。おまえはなかなか運動神経が、運神が発達しているな。こういうことを言われたら、なんとなくね、ポジティヴな、積極的なことを言われてですね、なんとなくそうだと思っちゃって、背負(しょ)ったりなんかしてね、大いにそのうちにやっちゃう。ところが、おまえは算数がダメだなって言うとね、俺は算数はダメなんだと決めちゃって、もう諦めちゃって勉強しない。勉強しないから益々ダメになっちゃう。まさにその証明しちゃうわけですね、自分で。そういうからくりが心の中にあるわけ。それはね、我々は、最初は、フロイドが言ったように、親の言ったことを飲み込む、インテイク(intake)言いますがね、飲み込む、ただ飲み込んじゃう。…
常に他と比べられたと、つまり、そこんときに親に、第二のアレは、人と比べて親が評価したでしょ。あれを見なさい、これを見なさい、そうすると、自分をね、評価する場合にね、自然に、無意識に、親の教えたやり方で、俺は、例えば、会社に勤めると、あいつに比べてどうだろう、今度は出世はどうだとかね、それから、あれはこうだか言ってね、そんなふうになっちゃうんですよ。おかしなもんでね。
いわんやね、そこで親ばかりじゃなくて、今度は先生がですね、教室に行くとね、こう、表かなんかやって大いにこう、教育的効果を上げている人がいるわけですよ。点数をやってね。試験いっぱいやって。こうやってるでしょ。しょっちゅう人に比べられてる。おまえは何番中の何番。これはもうね、人と比べてることですね。
これをですね、簡単に言えば、いつも我々の考え方の中に、大人になっても、そりゃあ、体は大人になりますよ、だけどその考え方たるや、子どものときのそのままでいることが多いわけです、ね。これを、ですから、ある人は小児的態度と言うわけですけどもね。我々は小児的態度でもって、小児的態度と思わないでね、やってるわけですよ。あいつはオレと一緒に入ったのに、近頃どんどんこう、うまく行ってると。だから、どうも、オレはダメだ、とかね。やっぱり、あの先生が小学校のときにダメだと言った。オレはダメなんだ、ダメだ、なんて考える。…
そこんところでね、我々の中に何かこう、社会全般に考えるのに、なんか人といつも比較してですよ、自分の価値を決める。そういうね、考え方が非常にあるんですよね。…
まあ、そういうね、言うならば、外からのね、つまり、我々の外側にあるものによるね、価値観によってですね、そのスタンダードで決められる。しかも、自分もですよ、大事なとこはそこなんだ、小さいときからそれを飲み込んでるから、自分自身も自分の価値に関して無知、無明(むみょう)、ね。要するに、そのね、やっぱり人の言うことで自分もそうだと思ってるわけ。
だから面白いことは、逆に行きますとね、人のことで行くと同じことなんで、悪いっていうかね、そういうね、ガッカリしたことばかり言いましたけどね、そればかりじゃなくてね、今度は人に褒(ほ)められる。君は偉いなぁ、なんとかって言うとね、急に偉くなったような気になっちまう、ね。本質は違わない。課長さんが部長さんに、これ、ちょっと差し支(つか)えがあるかもしらんけども、別に本質は変わりないわけ、その人はね。しかし、課長から部長になったら非常に偉くなって、手下が五人だったのが二十人になったっていうと、オレは二十人を、こうなっちゃう、ね。ところが、本質をよく見たらね、余り変わってない。ヒゲの本数も変わらないしね。少々白髪(しらが)が生えたくらいのもんでね。そう、そのね、本質は変わってないわけ。だけども、そういう具合に、他の評価によって変わる。つまり、これを我々が、地位とか、名誉とか、役付きとか、役付きじゃないとか、つまり、そういう価値観というものがたくさんあるわけね。こういうものが我々を支配しているっていうことを私は言いたいんですよね。人間の心はそういうものに支配されてる。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもの頃、親から先生から言われたことをインテイク(intake)=鵜呑みにしたのは仕方がなかったのです。
小さくて弱い子どもだもの、自分の幹は細いし、親からも先生からも愛されたい・評価されたいですから。
しかしそれがね、大人になってからもそのまま、小児的態度のままだと問題になるわけです。
驚くことに、実は大半の大人がそうなんですよ。
そういう意味では、まだ本当に大人になっていない人たちがほとんどなのです。
大人になりましょうよ。
自分を生きましょうよ。
そのために、まず他者評価の奴隷、比較評価の虜(とりこ)という悪しき習慣が暗躍していることに気づくのが第一歩。
そこから本来の自分を回復するという、大切な大切な闘いが始まります。

 

 

この仕事をしていると感じるのは、世間の人たちは、思っていたよりも、話をちゃんと聴いてもらっていない、ということである。

50分間話を伺っただけで
「聴いてもらってありがとうございます。」
と言われることがある。

中には、そう言われて
「仕事ですから。」
と答えるアンポンタンの専門職もいるそうだが、私は全くそう思わない。
確かに、相談援助技術やら、カウンセリング入門、精神療法の技法などといった文献には、職業的専門性としての「傾聴」について書いてあることが多いが、そんな小手先の技術でやれるほど、この世界は甘くない。

もうちょっとマシな文献には、相手の話を聴くこと=相手に関心を持ち、その人のために時間とエネルギーを割いて聴くことが、その人の存在を大切に思っていることになる、と書いてあり、それも「情緒的」には悪くないが、近藤門下の私にはそれでも物足りない。

まず「仕事」だからではなく「ミッション」だからである。
仏教風に言えば、「縁」だからである。
また、相手の存在を「大切」に思う、
でも悪くはないが、相手の存在の根底に対して「畏敬」の念を抱く、となると、さらに深くなる。

しかも、そう思おうとするのではなく、実際にそう感じることが重要である。
そのために何をするか。
それが「他者礼拝(らいはい)」である。
相手の存在の根底に向かって両手を合わせて頭を下げる。
実際にやってみるとわかる。
それだけでちょっと感覚が変わって来る。
もちろん相手の目の前でやれば、アブナイ奴と思われるので、面談前、誰からも見えない場所で礼拝してから面談場所に入るか、心の中で礼拝してから面談を始める。
こうなると「情緒的」から「霊的」になって来る。

すべての人の中に
あなたの中に
尊いものがあるんです
絶対に。

そこから始めないと、本当の意味で、人の話を聴くことはできないと私は思っている。

 

 

 

私は今、へちまを育ててるんですよね。へちまを育てるのが大好きなんでやってるんですけどね。へちまってのは、ぶらっとこう下がるもんですけどね、ところが、ぐんぐんぐんぐん上がっちゃってね、それでもう、ぽっぽっぽっぽ、あっという間に上がっちゃっいましてね、屋根の上に上がっちゃったんですよね。屋根の上に上がっちゃって、自分の目の前に、実は、僕としては、へちまがぶらっと下がっている姿を想像してたところが見えないんですよね。じゃあ、どこにいるんだろう、と思ったらね、今年はダメかな、と思ったら、屋根の上でね、こう、あるんですね。屋根の上に行きますとね、面白いんですよ、あのね、へちま、こんなになっちゃってるんですよ、曲がってね。それで、カッコ悪いんですよ、とてもね。これは随分カッコ悪いな、いつものへちまはスラッとしてる、どうしたんだろうと、こう思いましたら、やはりね、屋根の上に置いてることからね、そんなことが起きてるわけですよね。それでね、考えちゃって、ひとつは、自分の前の前にぶらさげてみたいっていう、こういう願望があるわけですね。ひとつは、なんだかこう曲がってるのがね、これがね、なんて言いますか、医者根性と申しましょうかね、なんか、これ、健康じゃない気がしたんですよね。そこでね、僕は、それをね、持って降りましてね、屋根に上って、もう年も年ですから、足が危ないですけど、でも、これを持って降りて、ぶらさげたんですよ。そうしたら面白いですね、段々段々まっすぐになって行くじゃありませんか。それでね、こうなってたのが段々ああやってね、カッコ良くなって来たんですよ。面白いなぁ、と僕はとっても、そこでね、感動しちゃったんですよね。やっぱり、そのね、本来、へちまはぶらっと飄逸(ひょういつ)なね、良い気持ちなもんですよ。あれ、私、大好きで、ああいうふうなの、大好きなんだけど。そういう自然にフワーッとなってる姿になるのが当たり前なのが、たまたまの環境でですね、屋根の上に上がっちゃうと曲がる。しかし、その屋根の上に上がったのをポッとやると、すぐに直って来る。はぁ、これは本来へちまっていうのはこうなるもんだ。
そうするとですね、むしろ人間っていうのは、老子じゃないけどもね、本来、自然にしておけばね、自然にしておけば、自(おの)ずからね、人間としてね、成長して行くんじゃないかと。そういうふうに思うんですね。…老子の思想なんかによくありますけども、自然という思想、これがまあ、日本に来ると、親鸞なんかの自然(じねん)いうことになりますわね。自ずから然(しか)らしむると。その自然な姿、そういったものがね、人間の中に自然に、つまり、成長して行けばね、環境さえ良ければと、言いますか、へちまと同じようなもんじゃないかとこう思うんです。
実際、私ね、治療してましてね、確かに環境が良くなった場合にね、いろんなことが良くなるんですよ。…
そういうもので観ますとね、まあ、随分、おまえはものを単純化して観てるなって言うけどね、翻(ひるがえ)ってそういうものでね、考えて、また、『老子』だとかなんか読んでみますとね、面白いんですね。「大国(たいこく)を治むるは小鮮(しょうせん)を烹(に)るが如(ごと)し」 つまり、おっきな国を、国ですな、それをね、取り扱うときはね、とにかく、ちっちゃな魚ね、魚を煮るようにする。ちっちゃな魚、これはまあ、あそこに女性の方がおられるから、小さな魚をごちゃごちゃ煮てるとき、あんまりひっくり返したりなんかしますと、身がボロボロに落っこちちゃうんですね。つまり、ああだこうだ、こうだああだってやってるとですね、結構ダメになっちゃうんですね。ところが、それから考えてみますとね、本来、自然にしておけば良いものを、なんかごちゃごちゃごちゃごちゃしてね、結果ね、妙なことに、それが悪い環境として働いてですな、なってしまう。そういうことがあると思うんですね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

人でも植物でも何かを育てるときには、余計なことをしないのが一番です。
私もよく近藤先生から「邪魔しなければ名医。」と言われました。
その人に/そのものに最初から与えられている本来の自己を実現しようとする力におまかせできるかどうか。
そこをどうも我々は、賢(さか)しらだって、あるいは、自分の思い通りにしたくて、手を出して失敗してしまうわけです。
答えは、そもそもその人/そのものの中にあり。
その成長を邪魔しない環境を提供することができれば、それは素晴らしい教育であり治療であると私は思っています。

 

 

あなたが何かをしくじって相手に迷惑をかけたとする。
あるいは、あなたの子どもが何かをやらかして相手の子どもに迷惑をかけたとする。
そんなときには、できるだけ早く、誠実に相手に謝る。
そして何らかの実害があった場合には、相応の補償も要るかもしれない。
それが当たり前のことである。

しかし、時として相手から執拗に攻撃され続ける場合がある。
また、非常識に大きな補償を求められる場合がある。
問題はそういったときである。
こちらがやらかした負い目があるために黙ったままでいると、サンドバック状態で殴られ続け、奪われ続けることになる。

こちらがやらかした過失については、誠実に「ごめんなさい」しながら、
相手の過剰な攻撃や要求に対しては「そこまで言われる筋合いはない!」で突っぱねるのが、適正な対応である。

特に、こちらがサービス提供者側で、相手が顧客側であるときなどは、不当な攻撃を受けやすい。
中にはそれで、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になったり、うつ病になったりする人までいる。
そういう攻撃は立派な暴力である。
どんな関係性であろうと、人間対人間という根本は変わらない。
人間としてならぬものはならぬものです。

 

 

大乗仏教においては、「一人残らず救う」ということが何よりも要(かなめ)となっている。
自分だけが救われる小乗(小さな乗り物)仏教に対して、わざわざみんなが救われる大乗(大きな乗り物、優れた乗り物)仏教と称しているのであるから、そこは譲れない。
中には、「一人残らず救う」と言いながら、「でも、流石にこんなヤツは救ってやんない。」と条件を付けて除外する教えもあるが、それは大乗仏教と呼ばず、権仏教(ごんぶっきょう)と称して区別している。

そんな大乗仏教の救いの代表が、まずは阿弥陀如来である。
その誓願によって、我々娑婆の凡夫を一人残らず救って下さるという、誠に有り難い話である。
ご苦労はんだす、阿弥陀はん。

それで話がすべて終わってしまうところであるが、中に気づいた人があった。
今、娑婆にいる人間はすべて救われるにしても、輪廻転生(りんねてんしょう)を称える仏教においては、今、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を輪廻している者については、人間道(=娑婆、人間界)以外の者が救われないではないか。
あとの五道に行っちゃってるものはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが地蔵菩薩である。
みなさんもどこかの辻で見かけたことがおありであろう、あの六地蔵を。
そう。
六地蔵とは、今、六道に輪廻している者たちを、一地蔵一道ずつ、漏れなく救いに行こうとされている御姿なのである。
だから、わざわざ手に錫杖(しゃくじょう)(=杖)を持って、六道どこへでも、こちらから救いに行きまっせ!ということになっている。
本当に有り難い話である。
ご苦労はんだす、地蔵はん。

で、それで終わりかと思ったら、また気づいた人がある。
それで今いるものは六道全部で救われたとしても、今から生まれて来るものたちはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。
細かいなぁ。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが弥勒(みろく)菩薩である。
五十六億七千万年後に、兜率天(とそつてん)から降りて来て、それまでに救いそこなったもの全てを救うという。
未来のことまで準備済みである。
誠に行き届いて有り難い話である。
ご苦労はんだす、弥勒はん。

上記はあくまで私の解釈であるが、それでも話にはキリがなくて、じゃあ、五十六億七千万年後以降はどうすんねん、ということになって来るし、他にもツッコミどころが限りなくありそうである。
けれども、そろそろ勘の良い読者の方はお気づきであろう。
結局のところ、阿弥陀はんも、地蔵はんも、弥勒はんも、みんな方便なのである。
救いの力が、永遠の過去から永遠の未来まで、すべての世界を貫いて働いていることを示すための仮の名前なのでありました。

そういう眼であの曼荼羅をご覧になると、あらゆる力を結集して一人残らず救おうとされているのを感じて、有り難さがさらにさらに増して来るかもしれまへんなぁ。

 

 

「はっきり申しますと、医者というものの、あるいは、医師という、医学というもの、癒すということを中心とする仕事の中にはね、基本的な、これはもう、公理というか、疑うことのできない、それなくしては医療ということができない、ひとつの哲学と言いますか、考え方が、根本的な考え方があると思うんです。
それはどういうことかと言いますと、医者は神さまではありませんから、何か新しく生命を付与したり、新しく生命を作ったりすることはできないわけです。そうでなくて、結局、医者ができるのは、たかだかと言っても良いと思うんですけども、その人の持っている健康に生きる力、そういったものをヘルプして行く、助ける、これ以外にないと思うんです。…
つまり、そのね、人間にインヒアラント(inherent)に、実際、固有に備わっているところの、人間の生きる力、そういったものというものが根本的前提になっていると思うんです。で、その生きる力というものは、人間を通じて、人間自身がその生涯を通じながら、常に進展し、発展し、成長して行くもんだという、そういう根本的なテーゼ(These)というものが私になくしてはですね、結局、何事もできないわけです。
よく西洋の諺で、馬を水のそばに連れて行くことはできるけれども、水を飲ますことはできない、飲むのは馬である、とこう言いますが、結局、飢えだとか渇きだとか、その中にあって初めて、それは人間の、生物の健康な働きとして、そういうものがあって初めて水を飲み、食事を食べるもんだと思うんですね。その意味で、やはり、基本的に人間の中に、それなくしては考えられない、生きる、生きんとする力、そうしたものが基本的に動いているってことは、我々、医学をやる者について基本的に考えて行かなきゃいけない。それがもう無意識でありますけれども、我々の中にあるんだ、とこういう具合に思うんですね。…
そういうものが、私はもう少し、非常にこう、単直に行きますけども、私は、今の、例えば、教育なんかでですね、言わば、そういうふうな生命力、人間の成長して行く力というものを益々強め、そしてその方向を本当に自分自身がそれぞれ見定めて、例えば、杉が杉になるように、松が松になるように、その人それ自身が独自のものになって行く、その人間が本当に生まれて来たことの、ある意味で、意味をそこで完遂して行くことが、それが一生だと思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

我々がまず、本当の自分、真の自己というものを一人ひとりに授かっているということ。
そしてまた、真の自己を授かっただけではなく、それを実現して行く力というものもまた与えられているということ。
これが基本的人間観の大前提となります。
そして、それ故に、それをヘルプして行くのが、医師や教育者や親の重要な役割ということになります。
宜しいですか。
答えは、こちら側(癒す側、教える側、育てる側)にではなく、向こう側、人間存在一人ひとりの中にある、ということです。
従って、この人はそもそもサクラなのかスミレなのか、それを観通す、感じ取ることができなければ、治療も教育も養育も始まらない、それどころかミスリードしてしまう危険性もある、ということになります。
自分自身においても、他人においても、真の自己を観通す、感じ取ることは、必ずしも簡単なことではありませんが、少なくとも、それをなんとかして観い出そう、感じ取ろうという姿勢がとてもとても大切ということになりますね。

 

 

たまには硬派な文章を解説抜きでお示ししたい。

「傍観者になれない人生とは、公正な視線を貫くことである。そのためには、賭けた夢も潰(つい)え、もちろん出世も望むべくもない。しかし、この公正な視線が贏(か)ち得るものは、無償の行為である。そして、自分が成しとげたまことの…仕事が残るはずである。」
「俺は強いんだぞ、と誇示した者にかつて勁かった奴はいない。むしろ、名もない漁師や職人に勁直な人間が多い。かつて私は海のすぐそばに棲んでいたことが何年かある。私はそこでいろいろな漁師と知りあった。彼等はみんな貧しく正直な男達だった。海に舟をだしてたったいっぴきの魚しか釣れない日があっても、それが彼等の生活を支えていた。そこには胸に迫ってくる生活の現実感があった。こうした彼等の日常を支えていたものが何であったかというと、それは勁さであった。彼等は弱者でありながら勁さをそなえていた。」
「知識人とは何か。これにたいする明確な答は得られないと思う。はたして現代の日本にまことの知識人がいるのかどうか、いたとしたら、それはごくわずかな数ではないか、という気がする。知識人と自他ともに認めている人が、実は知識の仲買人にすぎなかった、というような場合が多いのは何故だろうか。仲買人の数は実に多い。いま数えただけでもたちどころにかなりの人の名前があがってくる。…彼はヨーロッパに知識を仕入れに行き、こんどはそれを日本で切りうりするわけである。…仲買人の知識に勁さが欠けていることは述べるまでもない。また、切りうりといっても、たいがいは水でうすめて売るのが仲買人の常套だから、勁さがともなうはずもない。」
「現代の知識階級に欠如している最大のものは勁さである。」
「勁さは悪に対してもっともつよい反応を示すはずである。」
「他者の反応がなくとも恥を正確に恥と感じる能力をそなえた人間もいる。」
「わが国では、武士の倫理思想のなかで自覚的に継承されてきた名誉のかたちがある。これは廉恥心(れんちしん)と表裏をなしている。廉恥とは、それを知らない人のたまにやさしく解釈すると、心が濁っておらず恥を知る心があることを言う。」

 

感想のある方はまた面談のときに。

 

 

ネットニュースに「女子高生のなりたい職業」のアンケート調査結果が載っていた。

高校生になれば、小学生や中学生と違い、ある程度の現実性を考えて、自分の進路を検討しているはずである。
その今どきの女子高生は一体何になりたいんだろう、と興味を持って読んでみると、

第1位 公務員(7.8%)
第2位 看護師(7.1%
第3位 教師(5.2%)
なのだそうだ。

公務員の第1位は、いかにも手堅いであろうから納得がいくが、現代になっても、第2位に看護師が入っていることに驚いた。
現代の女子高生たちも、自分以外の誰かの苦しみを救うために働きたいと思ってくれているのだ。
これには希望を感じる。

しかし私は知っている。
そういった希望に胸を膨らませて看護学校/看護学部/看護学科に入学したのは良いが、大体がまず「看護実習」あたりでダメージを受ける。
ある報告によると、「看護学生生活で『つらい』と感じたこと」のワースト1は「看護実習」なのだそうだ(なんと86.5%!)。

そして、なんとか看護実習を切り抜け、国家試験に合格し、病院に就職してから「新人看護職員研修」を受けることになる。
この「新人看護職員研修」がまた、学生時代の「看護実習」の再来に、いや、プロになってからであるので、さらに一層「つらい」ものとなりかねない。
これが2回目のダメージであり、これから休職や退職にまで発展することもある。
ある報告によれば、新人看護師の離職率は7.5~7.9%。
かなりの数値だ。

では、何がそんなに「つらい」のか。

私自身の病院勤務経験や、病院職員のメンタルヘルスに関わって来た経験からすると、まず一番辛いのは「働く環境」である。もっと言えば「人的環境」である。さらに言えば、「先輩・上司との人間関係」である。

さて、どうするか?

ここらが師長、看護部長の腕の見せどころだと私は思っている。
新人看護師を指導する人間を指導できるか否か。
結局、看護部長→師長→係長/主任(役職名は病院によって異なる)→先輩看護師(プリセプター、エルダー、メンターなども含む)→新人看護師の流れが、本当の意味で、人を育てるようになっているかどうかが問題なのである。

もちろん看護学生や新人看護師の側に、難しい問題がある場合もあることも私は知っている。
中には適性上、困難な子もいる(その場合は早くに他の道に方向転換した方が良いかもしれない)。
それでも、もし可能性があるのであれば、先輩職員たちが、この難しい新人をどう育てようかと、あーでもないこーでもないと、愛情を持って、智慧を寄せ合い、考えていただきたいと思う。

そう。やっぱり「裁くのか/育てるのか」「攻撃するのか/愛するのか」という問題に行き着く。

看護師が看護学生を愛して育ててくれると良いなぁ。
先輩看護師が新人看護師を愛して育ててくれると良いなぁ。

そうして、看護師になりたかった女子高生の夢が、やがて現実に、やりがいと喜びを持って、叶うと良いなぁ、と本気で願っているのでありました。

 

 

「生きている私達は、我々の知性だけでなくて、見るものだけでなく、見えないものをも直感、直覚して、私達にそれを感動を持って感じさせてくれる働きを持っているのです、それは自ずから我々を越えて働く大きな力であり…それがなかったら我々は決して安心することが出来ないのです。…
我々現代の人々は各種の教育が障害となって、どうしてもそういうことを感じられないのです。どんな秀才であっても、科学主義の洗礼を受けてそれに従うとき、実はその人の持っている人間として与えられた能力の僅かの部分しか使われていないわけです。我々に与えられている、もっと大きな、もっと素晴らしい、感じる力というものに気が付くことが出来ないのです。これが現代の科学主義の限界なのです。これを科学主義が非常な傲慢さを持って、自分たちの科学主義が最高の真実であると、堂々と主張して憚らなかったのが二十世紀なんです。私は来る二十一世紀はそうであってはならないと思うんです。…
私が今皆さんに申し上げたことが、少しでも皆さんの耳を通じて心に達したら、嬉しいと思います。私達は心があるということを忘れてはいけないのです。私達は頭だけではないんですよ。心は目で見えるもの以上のものを感じ、感覚するんです。感覚から感情になって行くのです。…私達は時々不安に陥ります。するとその不安を超えようとする願いが起きてきます。…この呼びかけに素直に耳を傾け、それを全身心を以て感じる時に、あなた方は苦しんでいる今までの自分と違った、自分自身を超える、大いな偉大なるものに触れて、自分が支えられている大きな喜びを感じるでしょう。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

まず、目に見えるものを考えるのではなく、目に見えないものを感じること。
そうして感じる力が敏感になって来ると、我々を不安や苦悩から救って下さる大いなる力を感じられうようになって来るということ。
その道筋を、近藤先生は何度も何度も、言葉を変え、表現を変えて、伝えようとして下さっています。
そして、この講演の現場にいた私にとっては、まさにこの近藤先生による講演自体が、我々を超えた大いなる力を感じさせていただけるものでありました。
しかし、現場にいなかった皆さんが失望する必要はありません。
あなたの感じる力が敏感になって行けば、この講演録からも、行間を通して働く大いなる力を感じられるようになるものと私は信じています。

(尚、この講演が、近藤先生の浄土真宗 東本願寺派本山 東本願寺(いわゆる浅草本願寺)における生前最後の講演となった)

 

 

ある女性が中学時代、部活でイジメを受けていた。
ようやく高校に進み、イジメた連中と縁が切れて清々していたが、そいつらから何度も「会おうよ。」と誘いの連絡が入って来る。
人の良い彼女は、渋々会いに行き、そいつらと話してみて、なんだかカラクリがわかったような気がした。
結局、イジメていた連中自身が健康な人間関係を築けないヤツらだったのである。
よって、高校になってもマトモな友だちが作れない。
それで遡って、中学時代の知り合いに声かけるのである。
通常なら、高校は高校で新しい友だちができて、その交友で忙しくなるはずである。
過去の友だちなんぞにかかずらわっているヒマはない。
彼女の読み通り、さらに大学に進学しても、就職しても、その連中からの誘いの連絡はなくならなかった。
もちろん、もう誘いに応えることはなかったので、段々に連絡は消滅して行ったが、大学に行っても、就職しても、そいつらは新たな交友関係が築けなかったと見える。
それがもし“生涯の親友”との運命的な出逢いがあったのであれば、時間的に後ろ向きの交友関係もあり得る。
文字通り、一生の付き合いとなるだろう。

しかし通常は、小学校→中学→高校→大学→社会人となって行くにつれ、交友は広がり、質的にも深まり、“今が一番充実した交友関係”になるはずである。
後ろを向いているヒマはない。向く必要もない。

だから私ももし「昔の知人に逢いたいか?」と訊かれれば、答えは「No。」である。
今の交友が忙しくて、充実していて、懐古的になるヒマがないのである。
もちろんその交友の“友”には、面談しているクライアントや勉強会参加者の方々も含まれる。
彼ら彼女らは大切な“同志”であり、ある意味、一般的な“友”よりもずっと深い関係かもしれない。

だからやっぱりどう考えてみても、後ろ向きの交友をしているヒマはないんだなぁ。

 

 

ある男子高校生が、
サッカー部に入れば、恐らく万年二軍選手だろうが、
陸上部に入れば、きっとすぐに全国大会で活躍できる、と言われて悩んでいた。
即ち、
本当に何をやりたいのかで選ぶのか、
どうやったらより評価されるのかで選ぶのか、ということである。

あなたならどちらを選びますか? 

かつて医学部に入学したとき、医学部に入ったらエラいと思ってもらえるから入った、医者になったらきっと儲かると思って入った、と思っている(はっきりそう口にするかどうか別にして)連中が余りに多いのに驚いた。
苦しむ患者さんに貢献するために、という言葉は建前でも聞いたことがなかった(実際には本気でそう思っていた人もいたと思うが…)。
その意味では、どうやったらより評価されるかで選ぶ、という方に著しく偏っていたと思う。

旧ソ連では、医者では喰えないので、タクシーの運転手をやっている、というテレビ報道を観たことがあった。
もし日本がそうなったら、どれくらいの人が医者になるだろうか。
私としては、それでも医者をやりたいという人に是非、医者になってもらいたいと思う。

どうすれば評価されるかを超えて
自分がやりたいかどうかも超えて
何をするのが自分のミッションなのかを掴み取れる感性を磨いて行ってほしいと願う。

 

 

「皆さんは一応安心していらっしゃるように見えますが、心の中ではやっぱり漠然たる不安を感じられているのではないかと思うのです。一体どうしたらいいでしょう。本当にこの何とも言えない不安を乗り超えることが出来るのでしょうか。ここで一つ深く考えて見ましょう。私たち日本人はもう少し、目に見えないものの持つ意味を感じられるのではないでしょうか。いや、我々にその力が自然に与えられているのではないでしょうか。あなた方は目に見えないもの、例えば自分の家族に対する愛、子供に対する愛、愛情、これは目に見えないですよ。それを私たちは信じているでしょう。私たちは自ずからそういうものを、感じる力を持っているのではないでしょうか。これは一体どんなことでしょうか。一体それはどこから来たのでしょうか。
近頃見ていると、男性も女性も若い人達、少なくとも私が接する限りには、そうしたことに関して非常に割り切っているというか、浅い考えしかもっていない感じがするのです。だからお互いの間に本当の信頼はないのではないでしょうか。本当の信頼がないくせに簡単に安っぽく信じてしまう。そういうイージーな信頼の結果裏切られることが多い。その上裏切られた時に傷つけられても、その意味を深く考えない。こんなこと大したことないと、打ち消してしまう。このような何か自分の生命とか、自分の生活に対する安易な態度、自分の生き方に対する浅薄な態度は非常に強くていい加減な生活をしているような気がするのです。
私達の祖先は、いろんな厳しい状態をずっと生き抜いてきました。その中で彼らはいろんな困難に面し、不安に直面して、真剣にどうしたら生きていけるかを考えました。そして何が本当にこうした不安を超えられるか、ということを真剣になって追求した人達がいるのです。…親鸞聖人はその一人でしょう。法然上人もそうですね。そしてこの方々が人間が本当に真の安定を得て、真の安心が得られるのは何かを教えて下さったと思うんです。ひるがえって今のインテリの方々に聞きたいのです。私にどうしたら安心が出来るのか教えてほしいのです。医学博士でも理学博士でも、どこのプロフェッサーでもいいけれど、それを聞いたときにハッキリ答えられる方はほとんどいないのではないかと思うのです。何故かと言うと、少なくとも学者達は科学的な考え方をしている限りは、この質問に関してはおそらく返事は出来ないと思います。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

この当たり前の生活の背後にある、漠然とした不安を、あなたは感じたことがありますか?
拭(ぬぐ)っても、誤魔化しても、逃げ出しても、消し切れない不安があることを、あなたは感じたことがありますか?
そしてその不安を本当に乗り超えたいと、心の底から願ったことがありますか?
またあなたは、目に見えるものだけでなく、目に見えないものの持つ意味を感じたことがありますか?
そこに本当の安心への道がある、本当の安心へと連れて行って下さる力があることを感じたことがありますか?
消し切れない不安をひしひしと感じ取り、それを乗り超える道を真剣になって追求し、目に見えない働きを見い出して来た歴史が、この国の先人たちにはある、ということを知っておいていただきたいと思います。

 

 

二十代の頃だったろうか。
知人が
「まっちゃん、話を聴いてくれよ。」
と言って来た。
格段親しい男ではなかったが、伏し目がちにそう言う彼には、ただならぬ雰囲気があった。
「いいよ。」

そうして彼は話し始めた。
彼にはずっと片思いの女性がいたそうである。
悩み抜いた末に、思い切って彼女に声をかけ、今日、喫茶店で逢って来たのだと言う。
結局、踏み込んだ話はできないままに終わり、アパートに帰って来たのだが、洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、ハッとした。

「どうしたんだ?」
という私の問いに、彼は自嘲気味に答えた。
「ブレザーの左襟が立ってたんだよ。」

一瞬にして彼の言いたいことがわかった。

彼が彼女と逢っていた間、ずっとその襟は立っていたわけだ。
彼女はそれを直さなかった。
少なくとも指摘もしてくれなかった。
それが彼女の彼に対する関心の度合いであった。
彼がそんな格好で街を歩いていようと、どうでも良かったのである。

それが答えだった。

当時の私がうまいこと言えるわけもなく
ただ
「辛いな。」
と言うと、
彼はしばらく黙ったあと
「ありがとう。」
と言って、席を立って行った。

 

ブストーリーの映画を観ていて、何十年ぶりかでそんな話を思い出した。
胸の中がチクチクする話だった。


 

 

「大巧(たいこう)は為(な)さざる所(ところ)に在(あ)り」(『荀子』)

こんな言葉に触れると、ああ、東洋だな、と思う。

例えば、精神療法において、ああ分析して、こう戦略を立てて、こういうセリフを使って、あっちに持ってって、こう気づかせて、こんなふうに変わらせる、そんな手練手管(てれんてくだ)の、テクニック(技術)とスキル(手法)の精神療法が行われている。

いかにも自我の立った、「私」が「あなた」を操作する、「私」が「あなた」を治す、やり方である。
その点で、西洋の自我中心主義の臭いがプンプンする。
実際、そんな精神療法が多い。
それで本当に人間が変わったり、成長したり、救われたりするのであろうか。

それに対し、「自我の強化」どころか「無我」を志向する東洋では、そういう「自我」の「はからい」を嫌う。

「大功」の「大」は「人間を超えた力、働き」を表す。

「大功は為さざる所にあり」
人間を超えた力が働き、大いなる巧みさが実現するのは、人間が何もしないところにおいてである、というのだ。

人間が何もしない=「私」が何もしない=「自我」が余計なことをしないときに、人間を超えた力が働く。
そうして、何かを言う、言わされるときがある。
それで、人が変わる、成長する、救われるのである。

例えば、良き仏像を観ていても思う。
ああ、これは仏師が作ったのではなく、仏師が作らされた仏像だなと。

そして、西洋の名誉のために付け加えるならば、
『新約聖書』において

「何を言はんと思ひ煩(わずら)ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん」
(何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる)

とある。
やはりわかってらっしゃる方はわかってらっしゃる。

大功(大いなる巧みさ)は、そういうところで実現されるものではなかろうか。

 

ある海外ドキュメンタリー番組の中で、女性獣医がポツリと

「人間は他の種(species)と関係を持ちたがる動物だ。」

と言った。
このひと言が妙にこころに残った。

「確かに。」

ペットのことを思い浮かべればわかるように、人間はいろいろな他の種の動物と関係を持ちたがる。

そして、気がついた。

「おいおい、動物ばかりじゃないぞ。」

下手をすると、鉢植えや庭の木々などの植物とも関係を持ちたがっている。
少なくとも日本人はよく話しかけ、場合によっては木の幹に抱きついたりもする。

さらに、思い当たった。

「そう言えば、あのじいさんは庭石とよく話していたな。」

無生物まで行くか。
山や海や夕陽や月と話す人もいるぞ。

「関係を持つ」とは、どういうことか。

その存在と存在との根底において、ぶっつづきのものを感じるということである。

話が禅的になってきた。
いや、神道的か。

そんなものが感じられれば、世界の分断や対立もちょっとは少なくなるかもしれない。

まずは、動物でも植物でも無生物でもいいから、表面的な“隔て”を超えて「関係を持つ」ことから始めましょ。

 

 

時間と関心のある方には「書き初め」をお勧めする。

「書き初め」と言ってもただの「書き初め」ではない。
私のお勧めするものは、まず「お題」が変わっている。
まず黙って
『計画性がない』
と書いていただきたい。

書き初めに使う半紙のサイズは、よく使われる「半切」というもので、34.5cm×136cmの縦長サイズである。
これに縦書きで書く。

さて、実際に書いてみてどうなるか。
その結果は三つに分かれる。

(1)まずは、書いているうちに紙が足りなくなり、最後の「がない」あたりが立て込んで窮屈になるもの。
(2)次に、今度は紙が余って、「がない」の下に余白ができてしまうもの。
(3)三番目に、きっちり「半切」のサイズにバランスよく「計画性がない」の六文字がおさまるもの。

お気づきの通り、(1)と(2)には、いかにも計画性がない。
行き当たりバッタリに書き始めて、こういう結末になったことがわかる。
それに対して(3)は、計画性がある。
中には、予め「半切」の半紙を六つに折って、折り目を付けてから書き始める方もおられる。
何だったら「計画性がある」と書き直しても良い。

そして、である(これで終わりではない)。
ちょっと見直してみよう(ここからが本番)。

(1)の方は、「あれ、紙の残りが少なくなったぞ。」と気づいた時点で、今度は紙を下に継ぎ足しても良かったのである。
誰もそうしてはいけない、と言っていない。
そうすれば、「計画性がない」の六文字が問題なくおさまる。
(2)の方は、「あれ、紙が余っちゃうぞ。」と気がついた時点で、今度は余白部分を切り取っても良かったのである。
これまた誰もそうしてはいけない、と言っていない。

そうすれば、「計画性がない」の六文字が綺麗におさまる。
(3)の方は、半紙にきっちり六文字がおさまって大変結構であるが、ひょっとしたらその中に(全員ではないが)、内なる“見張り番”から「失敗してはならない」に脅されて、計画性にとらわれた人がいたかもしれない。
そういう人は、さっき申し上げた「計画性がある」ではなく、「計画性にとらわれる」という九文字で書き直した方が良いかもしれない。
もちろん半紙を九つに折って、折り目を付けてからきちんと書きあげることであろう。

で、何が言いたいのか。
この書き初めを通して
「靴に足を合わせる生き方」と
「足に靴を合わせる生き方」の
違いに気が付いていただければ、それで十分である。

そんな変わった「書き初め」。
おヒマな方はどうぞお試しあれ。

 

 

 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と断定的なことを自信たっぷりに言う人がいるが、実際のところは、間違っていることも少なくない。

「それは本当にアンケートを取って調べたのか?」
「確かなエビデンス(証拠)があるのか?」
と詰めて行くと、甚だ怪しいこととなり、その人だけか、せいぜいその周囲の少数の人たちだけの思い込みだったりする。
精一杯
広く見ても、せいぜい、その地域、その時代だけの思い込みであることが多い。
それではとても「フツー」「みんな」などと言うことはできない。
それなのに、

フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と言うのは、十分に「独善的」である。

さらに
 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
という表現の裏には、
「だから、おまえもそうしろ!」
というメッセージも隠されている。
そうなると「支配的」でさえある。

皆さん、騙されないように。

健全な人間には、
フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と思いそうになっても、

「ひょっとしたら、これは自分だけの思い込みかもしれない。」
という謙虚な内省が生じるはずであり、

もし万が一、あなたが誰かに、あなたの意見を言いたいと思ったとしても、
「フツー」「みんな」というような、言わば、“ズルい”言い方を使わず、
「(他の人は違うかもしれないが)私はこう思う。」
とか
「だから(もし宜しければ)、あなたもそうした方が良いんじゃないかと思う。」
というような表現になるだろう。

そのときには、あなたにはあなたの人生を歩んで行ってほしい、という愛と願いがこもるはずである。
そうなると、あなたの存在は、世界に一人であり、人類史上初めての存在であるわけだから、
「フツー」も「みんな」も関係なく、あなたの選択が、世界に一人の、人類史上初めてのものであっても構わない、ということになる。

だから、やっぱり戻るところはここになる。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かった。
自分がどう生きて死ぬのかを見い出すのが、出生の本懐なのである。

 

 

 

「教育者全体にも言いたいことですが、人間関係にも言いたい。それはどういうことかと言いますと、よく私が言う、ひと言でいうと、水を流すためには溝を作れ、というんです。…水が来るように、そこに溝をね、掘らなくちゃいけない。溝を掘ると自然に水は流れる、通じて来る。それがだな、私はいつも思うんだけども、この家庭の問題で、あるいは人間関係で、教育で、足りないのがそれだと思うんです。…
やっぱり、その意味でね、平生(へいぜい)からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。だから、子どもでもそうですね。子どもでも、急にこうしたからといって、なんですか、お母さんは、『私はあなたの生命(いのち)を大切にしてんのよ、だから、こうしなくちゃ!』なんて、僕に聞いたようなことを言ったって、そりゃ、ダメですよ。本当に、毎日のおかずを作ること、御飯を作ることに心を込めた、そうした本当の、先ほど言ったように、ね、ニッコリ笑ってあげるとか、そういうことでね、溝を掘って行かないといかんのだな。溝を作っていかなくちゃいけない。そうしたときに、フッとこう、どうかしょうと思ったとき、お母さんの顔が浮かんだと、ね、それで思い直したと。何のことはない、ただもう無性に…うちに帰りたくなったと。こうしてお母さんにね、逢って、そうして人生の転機をね、迎えた人が何人か、たくさんあります。…
これも、普通の人間関係でもそうです。普通の人間関係でも、お互いにそうしたことを、上役が部下に対して、急に威張ろうとしてもダメなの。平生から部下との間の、いわゆる、そうした意味の、部下の生命(いのち)を観、その若々しい生命(いのち)をもう、じっとこう観て…若い人たちに僕は心から、本当に祝福を送りたい。そういう若者というものは、いつも、やはり、決してね、悪くなろうなんて思ってないの。いつもね、本当に自分の自分の生命(いのち)を輝かそう、本当に発揮しようと思ってる。そういうものを本当に認めてやるときに、生命(いのち)は伸びて行く、若者はね。だから、それをいつも、上役とか年寄りはね、考えるべきだと思うの。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

「溝を作る」ことについては、別の講演(「金言を拾う その9 溝をつける」)でも近藤先生は強調されていました。
改めてここで確認しておきましょう。
本当の挨拶(
=相手の生命(いのち)に対して合掌礼拝(らいはい)する姿勢)を毎日毎日続けること。
親が子どもの食事を作ってあげるときも、子どもの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って、毎回毎回心を込めて作ること。
上司が部下に、先輩が後輩に接するときも、毎日毎日その部下の、後輩の生命(いのち)を祝福する気持ちで接して行くこと。
大切なのは、毎日毎日、毎回毎回。
でも、我々は愚かな凡夫なので、つい忘れてしまうんです。
忘れたって構わない。
思い出す度、思い出す度、やっていると、いつの間にか、段々覚えていることが増えて行くんです。
それで結構。
それが凡夫の歩み。
でも凡夫なりの一所懸命。

そうなんです。
「溝を作る」とは、「私」と「あなた」の間に溝を作るということなんですが、それだけでなく、「大いなる力(あなたに生命(いのち)の礼拝をさせる力)」と「私」との間に溝を作るということにもなっていたのです。

 

 

ある臨床心理士の書いた発達障害に関する文献を読んでいたら、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」として、子どもの「強み」として感じられることを「意識しながら伝え直して終了」すると書いてあった。
その理由として、親御さんの中には、子どもの発達歴を振り返ることで、自分の育て方に問題があったのではないか、本人の困り感にちゃんと気づいて対処してやれなかくて申し訳ない、と自責の念を抱いている人もいるからだという。
そして、そのような気持ちを払拭するために、面接の最後は、子どもの「強み」の話や、親御さんが感じている子どもの「肯定的な面」を「意識して」伝え直して、気持ちよく終了へと導いていくというのだ。

この文献は。そこまでは非常に優れた内容で、大変勉強になったのだが、この点だけはガックリと失望した。
発達障害の臨床的知見については優秀なのだが、サイコセラピー的な面となると、根本的な間違いを犯している。

まずひとつには、「強み」「肯定的な面」と称して、具体的には、お子さんはこういうところは苦手だけれど、こういうところは優れている、などと伝えていく点である。
その背景には、やっぱりできる方が良くて、できない方がダメだ、という能力主義的な発想がある。
そこが大問題なのだ。
例えば、一部の専門家が、「サヴァン症候群」と称して、自閉スペクトラム症の人たちが、一方で障害を抱えながら、他方で非常に優れた能力を発揮することを取り上げている。
その背景にも、こんな障害がありながらも、こんなことができるなんてすごい!という価値観が臭う。
やっぱり、できてなんぼ、なのである。
じゃあ、同じ自閉スペクトラム症の人たちで、サヴァン症候群でない人たちはダメなのか?
私はいつも重度心身障害児病棟で出逢った子どもたちのことを思い出す。
最重度の子どもたちのどこに、他の子どもたちよりも優れた「強み」や「肯定的な面」を見い出せというのか。
なんのことはない、この臨床心理士自身が、実は能力主義(=できる方が優れている)者だったのである。
何かが苦手な障害者の方々に接するのが我々の仕事である。
いい加減、能力主義というとらわれから脱しようよ。
息をして心臓が動いているだけで、どれだけ尊いか、人間の存在の絶対的価値を本気で体感しようよ。
まず能力主義へのとらわれが第一の問題。

そして次に、それが親御さんの自責の念を払拭するためであるのならば、そんな迂遠な、まわりくどいことをせず、はっきりと親御さんの眼を見て、「お母さんの育て方のせいではありません。ご自分を責めないで下さい。」「何も教わっていない非専門家がちゃんと気づいて対処することは不可能です。教わらない中で、支えられない中で、お母さんはお母さんなりの一所懸命でやって来ました。」と明確に告げるべきだと私は思う。
自責の念を払拭するために、子どもの「強み」や「肯定的な面」を挙げるのは、迂遠過ぎる、というのが第二の問題。

そして第三に、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」というのがどうしても引っかかる。
「方」かい!
やっぱり how to なのである。方法なのである。操作なのである。
そうじゃないでしょ。
そんなうすっぺらな「やり方」ではなく、目の前の親御さんに対する思いの出どころが、「ああ、このお母さんにも幸せな人生を歩んでもらいたい。」「母親である前に、一人の人間として自分を生きて行っていただきたい。」などという思いがあれば、言葉なんてもうどうでも良いのである。
近藤
先生の言葉を借りれば、親御さんの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って接することができれば、もうそれでいいのだ
肝心なそれがなく、「終わらせ方」という「操作的」な「やり方」に堕しているのが第三の問題である。

 

 

「例えば、教師はね、この前もちょっと言ったけど、どうしてあのは校長先生の言うことを聞いて、私の言うことを聞かないんでしょう、とこう言うわけですね。僕は別に何もしたわけじゃないんですよ、ね。ただ毎日、その子どもがやってくるときに、こうやって『おはよう!』とこうやるんです。ニッコリ笑って『おはよう!』と言ってる。すると向こうが『おはようございます!』とこう言います。それ以外、何もやったわけじゃない。けれども、僕はそのときに、『おはよう!』って言うときに、本当に『おはよう!』っていうのは、私は、実は、自分の気持ちで、まあ、あるとこにも書きましたけども、『おはよう!』という挨拶ね、あれは、どういう意味かというと、ああ、今日もあなたは健康に、早く目覚めて、生きていますね。おめでとう! こういうことが『おはよう!』ってことなんだ。だから英語では“Good morning”。Good なんだ、ね。おはようってのは、そういう気持ちで、つまり、あなたの生命(いのち)を私は礼讃(らいさん)します。あなたの生命(いのち)は活き活きと今、動いています。今日も溌溂(はつらつ)と動いていますね。おめでとう! それが『おはよう!』 それは相手の、生徒の持ってる、子どもの持ってる、その生命(いのち)に対する礼拝(らいはい)です。
僕はさっきあなた方に頭を下げました。この頭を下げたのは、なんでもないようですけども、僕はここに、あなた方がこうやってらっしゃる。全ての人の生命(いのち)に対して心から喜びを述べたんです。一人ひとりに花咲いているこの生命(いのち)、これに対して私はつくづくと頭を下げるわけです。挨拶ってそういうもんです。…
そういう意味で、いつも、この、挨拶ということをやる。それをやっていますと、自然に通じるんです、その気持ちがね。それから後で何か言うと、聞いてくれるんです。…
それをね、その、平生(へいぜい)のだ、毎日毎日のことをしないで、これを僕は触れ合いって言うんです、ね。心の触れ合い。生命(いのち)と生命(いのち)の触れ合いです。そういうものをしておかないとですね、私が校長訓話なんてやったってね、誰も聞いてくれないんですよ。何言ってやんでぇ、とこうなっちゃう、ね。
やっぱり、その意味でね、平生からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の生命(いのち)を通して働く力が、近藤先生にホンモノの挨拶をさせ、その力が生徒たちの生命(いのち)に届いて、その生命(いのち)が喜ぶ、ということになります。
そのとき、生徒たちの生命(いのち)が喜ぶのはもちろん、挨拶をしている近藤先生の生命(いのち)も喜んでいる、というところがとても大事なんです。
我々の生命(いのち)を通して、大いなる力が働くとき、まず我々の生命(いのち)が喜ぶ。
そして、それがホンモノの挨拶となって生徒たちに届く。
すると、その大いなる力が届いた生徒たちの生命(いのち)も喜ぶのです。
すから、このとき、近藤先生も生徒たちも笑顔になります。
昨日、お話したことですが、これはホンモノの笑顔ですね。
生命(いのち)が喜んだことから溢れて来る、最も深い笑顔です。

 

 

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