八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「笑顔で過ごしましょう」
「いつも笑顔で明るい毎日を」
「笑顔は人を元気にします」
などなど笑顔にまつわる標語は多い。

しかし私はそれらを耳にする度に何かが引っかかる。

中には、どんなに哀しいときでも笑顔にさえしていれば、哀しくなくなって来る、とまで言う人がいるが、それは抑圧であり、すり替えであり、無理な演技の臭いがして来る。

思えば、「作り笑顔」くらい哀しいものはない。
眼が笑ってない。
眼の奥が笑ってない。
心が笑ってない。
生命(いのち)が笑ってない。
余程、鈍感でない限り、その背後にある哀しみを観抜かれる。

笑顔はあくまで結果であり、
「感情」が喜んだ結果、笑顔になる。
また、「感情」よりもさらに深く、「生命(いのち)」が歓喜(よろこ)んだとき、即ち、「霊性」が喜んだとき、結果として笑顔になる。
笑顔に「なる」、それが本来の姿。

と思っていたら、ある居酒屋のアルバイトのお兄ちゃんがとってもイケメンで、お勘定のときに「ありがとうございました!」と笑顔で言われた瞬間、それだけでちょっと嬉しい気持ちになった。
また、コロナの予防接種を受けたとき、注射してくれた看護師さんが余りに美人で、注射後に「お疲れさまでした!」と笑顔で言われた瞬間、もうそれだけでちょっと幸せな気持ちになった。
つまり、何が言いたいかというと、作った「笑顔」でも「感情」までは操作できることがある、ということである。
それは認めよう。

それでも、「作り笑顔」では、「生命(いのち)」までは、「霊性」までは届かない。
そこまで深く到達しない。
だからやっぱり、「生命(いのち)」の喜び、「霊性」の喜びを目指しましょうよ。
それはあなたが紛れもなく本当のあなたを生きているときに与えられるものである。
そのときの笑顔は何よりも何よりも素晴らしいと断言できる。

 

 

たまにはお気楽なお話。

昨日・今日(12月15日(日)・16日(月))は「世田谷のボロ市」前半の開催日。
1578(天翔6)年から447年続く、骨董品や日用品の露店市であり、露店の数は600にのぼるという。
今夜は所用の帰りに、ちょっと足を伸ばして、ボロ市通りを散策してみた。
訪れるのは十年以上ぶりになる。

閉店近い時間帯だったせいもあり、人出でも落ち着き始め、ゆっくりと露店を見て回ることができた。
そうすると、真っ当そうなお店やお祭りでもよく見かける食べ物屋さん以外に、やっぱりいろいろありましたよ、怪しげな(失礼)お店が。
これだから、こういう露店市はたまらない。
夜の裸電球(今はLED?)の下で見る、わけのわからなそうな(また失礼)商品たちがとっても魅力的に見えるのであります。
みなさんよく御存知の通り、買い物の醍醐味は、無駄遣いと衝動買い。
それをそそるに十分な雰囲気である。
ああ、どうしてこの空気の中では、必要のないもの、しょーもない(またまた失礼)ものがこんなに買いたくなるのだろう。
おいおい、おじょうさん、それを買うと絶対に後悔しますよ?(またまたまた失礼)
ああ、お父さん、そんなものを持って帰ったら絶対に奥さんに怒られますよ(またまたまたまた失礼)。
でも、いいんです。
それがボロ市。
それでもね、間にコロナを挟んで、ボロ市の勢いがちょっと大人しくなった感がありました。

御関心とついでのある方は、年明けの「世田谷のボロ市」の後半へどうぞ。
2025(令和7)年1月15日(水)・16日(木)午前9時~午後8時の開催。
寒いときにやるのがボロ市です。
東急世田谷線「上町駅」または「世田谷駅」下車で人の流れに乗ればすぐわかります。

 

 

通っていた学校が、旧藩校だったせいか、悩める中学生はまず『論語』を読み始めた。
その意味で私の求道歴は、儒教から始まったと言える。
以下、読んできた書籍を詳細に挙げればキリがないため、代表的なものに絞って書く。
続いて道教に興味が広がり、『老子』『荘子』なども読むようになった。
それら中国古典のお蔭で、その後、漢文が苦にならなくなったのは有り難いことであった。
そして精神科医になった頃から、本格的に仏典に手を伸ばすようになった。
まず『仏教辞典』を通読してみたのは、若者らしいチャレンジだったと思う。
そして浄土門や禅を中心に、唯識仏教や倶舎論から大乗経典を読んでみた。
私の本の読み方として、解説書を読むのは最低限に留め、可能な限り原典を読む、という姿勢は今も大切にしている(わかっていない人間の書く解説書は最悪であり、まだ純粋に学者の書く学術的注釈の付いた本の方が、余計なものが入っておらず、有り難い。しかしサンスクリット語からの現代語訳はどうもピンと来ないため、漢訳の方を読んでいる)。
その数少ないわかっている人間として、鈴木大拙と玉城康四郎の著作にはお世話になっていると思う。
そんな中で、近藤先生と一緒に『阿毘達磨倶舎論をレジュメを作りながら読んだのは、良い思い出である。
そしてまた先生から、「体験に基づいて読む」という姿勢を教わったのは、返す返すも有り難いことであった。
この姿勢により、単なる「読んだことがあるだけの受け売り・物知り人間」にならないで済んだ。

その後、キリスト教にちゃんと触れていないのは良くないと思い、聖書を読むようになったが、どうも口語訳(現代語訳)は軽い感じがするため、今日に至るまで『旧約聖書』も『新約聖書』も文語訳の方を読んでいる。
ここではエックハルトなどとの出逢いもあった。

そして神道にも興味が広がり、ここでもまず『神道事典』を通読してから、『古事記』『日本書紀』や古神道、復古神道などを読んだ。
今でも、霊性的には、神道が一番しっくりする気がしている。
もっと言えば、縄文かもしれないが。
そして最後にイスラム教。
これを知らないのは宜しくないと思い、まず『コーラン』(厳密に言えば、『コーラン』はアラビア語のみを『コーラン』とし、日本語訳は存在しないことになっている。岩波書店の『コーラン』も正確には日本語訳ではなく日本語の解説書ということになる)を読んだ。

そして、この分野では、その後、井筒俊彦の著作に大いに助けられた(イスラム思想だけではなかったが)。
このように、儒教→道教→仏教→キリスト教→神道→イスラム教が、私が触れて来た道筋である(今回は宗教分野についてご紹介した)。

いずれかの分野にご関心のある方は、面談時にでも訊いて下されば、お勧めの書籍をご紹介致しましょう。
但し、くれぐれも頭で読むのではなく、身読でね。

 

 

昨日に続いて、今日は「書類」についての話。

精神科分野で医師が記載する書類としては、①自立支援医療の診断書と②精神障害者保健福祉手帳の診断書、それから③障害年金の診断書を書く機会が多い。
そこに児童が入ると、④特別児童扶養手当が加わることになる。

これもまた前医が書いたコピーなどを見ると、これでホントに通ったのか!?と思うくらいスッカスカの内容の書類に出会うことがある。
実際、制度利用のためなのだから最低限を書いて通れば良いだろう、その方が効率が良いというものだ、とうそぶく医師もいた。

しかし、私はそうは思わない。
例えば、2年に1度更新して提出する書類であれば、その書類は、通れば良いというだけのものではなく、その人が2年間生きて来た証しを記(しる)すという面があるのだ。
その証しを少しでも書いておきたい、という思いが私にはある。

これまた、とても業務が忙しかったり、担当する患者さんの数が多く、書類を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も、いつもそんなに立派な書類を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、
1行でもいい、なんなら1語でもいいから何かキラッと光るもの、その人(患者さん)の存在が伝わるものがある書類を書いておこうとすることである。

先日、ある精神科医と話していたら、私と同じ気持ちで書類を書いている人であった。
そのやり方だと書類作成が遅くなるので、よく事務方に怒られますけどね、と笑っていた。
同志というのはいるものだ。
なんだか嬉しくなった。

よって、このことは精神科医の後輩たちにお勧めしておきたいと思う。

これは単なる書類書きではなく、主治医としての“姿勢”の問題なのである。

 

 

もう30年以上前のことになるが、私が研修医になった年の秋、初めて週1回の関連病院パート勤務が始まった。
行ってみると、超長期入院の患者さんばかりの担当になっていた。
思うに、新人には状態の安定している患者さんを、という配慮だったのであろう。
そしてカルテを見て驚いた。
とにかく書いてない。
それまでカルテ記載は、月に1回の診察で毎回ドイツ語で「stationär」(変わりなし)の1語(1行)のみ。
新人研修医でも流石に、それはおかしいだろう、と思った。
人間がひとり、1週間生きていれば、絶対に何かがあるに決まっている。
意地でもそれを見い出して、毎週カルテに書いてやろうと思った。
そしてそういう姿勢で診察に臨むと、最初は何も話してくれなかった患者さんたちも次第に思いの内を話して下さるようになった。
そうなると、さらにカルテに書くことが増えて行く。
そうこうしているうちに段々と、なんでこの人はこんなに長く入院しているのだろう、などと思うようにもなって行った。

当時の原点に始まって今日に至るまで、変わることなく思うのは、その記録が、その人がこの世に生きて来た証しとなる、ということである。
そう思うと、あんまりいい加減な記録で済ますわけにはいかなくなって来る。
それはカルテだけではない。看護記録、介護記録、訪問記録、面接記録、作業記録などなど、何でもそうである。
時々、なんとか空欄を埋めただけの空疎な記録、怒られない程度に何か書いたフリの記録、コピペで済ませた毎回ほぼおんなじ内容の記録などを見るとガッカリする。
そりゃあ、とても業務が忙しかったり、担当する患者さん、利用者さんが多く、記録を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も毎回そんなに立派な記録を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、1行でもいい、なんなら1語でもいい、何かキラッと光るもの、その人(患者さん、利用者さん)の存在が伝わるものがある記録を書こうとするということである。
それだけは対人援助職の後輩たちにお勧めしておきたい。
そしてそうすることで、有り難いことに、我々対人援助職者の“感性”も常に磨かれ続けて行くのである。

 

 

昔、外来に来ていた青年が村上春樹の小説をよく読んでいた。
よく話題に出るので、その人を理解するために、私も十数冊ほど読んでみたことがある。
それでも全著作を読んだわけではないので、話題に出て来た作品について、知っていれば知っていると言い、知らなければ知らないと言って話を続けていた。
ある日、彼がボソッと言った。
前に通っていた精神科の先生は、村上春樹のことを知っているというので話していたけど、実は解説記事を読んだことがあるくらいで、1冊も読んだことがなかったんだよね。
それがわかったときの彼の失望が目に浮かんだ。
読んだことがないなら、ただそう言えばいいのにね。

やっぱり、ウソはいかんです。
特に、面談という大事な場面でそれはいかんです。
知らないことは知らんでいいんです。
それよりも何よりも、大切な話をしている人に対しては誠実でなければいかんです。
クライアントよりも自分の虚栄心=知ったかぶりの方が大切なのはいかんです。

誤解のないように付け加えるならば、
クライアントが関心を持っていることを全部セラピストも知るべきだ、と私は思っていない。
また、クライアントが関心を持っていることをセラピストが知ろうとすることは、クライアントに媚びを売るためではない。
もしそれがクライアントの治療や成長に必要だと思ったならば、そうすればいいだけのことである

昔、児童専門外来をやっていた頃、スーパー戦隊ヒーローが好きな男の子が多かった。
ゴレンジャー以降のスーパー戦隊ヒーローを知らない私は、毎年のように名前が変わる〇〇レンジャーや〇〇マンなどに付いて行くのにヒーヒー言っていた。
そこで途中からは、「わからないから先生に教えて。」と子どもたちにご教示願うことにした。
流石に、スーパー戦隊ヒーローに子どもたちほどの関心を持てなかったわけであるが、子どもたちには大いに関心があった。
それで良かったのである。
それがあればウソも虚勢もない。

結局、真実は簡単なこと。 
人間として正直にいきましょ。

 

 

「女性っていうものは…生命(いのち)を作り、生命(いのち)を本当に育てて行く、素晴らしい役目を持ってるんじゃないかな。下手な男女同権論よりも、私は、この、女性の持ってるね、独自性を考えた方が良いと思う、ね。
よく私は言います。女性っていうものは、海徳(かいとく)を持っている。あるいは、土徳(どとく)を持っている。これは別に…中国の本に書いてあったわけでもなければ、西洋の本に書いてあったわけではない。私が創った言葉です。
どういう意味かと言いますと、海というものを考えてみましょうね。海は洋々として広いです。大きいですね。豊かな水でもって、こう、溢れるばかりです。…
海はね、いろんな川が行きます。鬼怒川も入るね、那珂川も入るな。いろいろな川が入ります。汚い墨田川も入りますの。…荒川も入る。江戸川も入る、みんなね。汚いもの入れるけれど、海はそれを、全てを入れますね。違うかな? そしてそれは自然な浄化作用。その汚いものを綺麗にして行く作用がある、ね。そういう素晴らしい作用があるんですよ。
しかも、面白いことは…初めてこの地球に生物ができたのは、海の中なんですよ、ね。海の中にできたの。海の中で初めて生物の形成ができたの。段々段々、だから、お魚になったり、両生動物になったり、それから陸上動物になって来てるわけ。そして人間も生まれるわけ、ね。そのね、そういう生命の、生命(いのち)の素なの。
で、面白いことに…人間はです、その生物ができたのと同じようなことを繰り返している。例えばね、今のこの精子とね、卵子の結合にしてもそうなの。あれは、ひからびたところでできるんじゃないの。卵管の中はね、非情に潤ってるわけ。その中で、成分的に言えば、非常に海の水に近い、その成分の中で結合してる。そしてさらに、その結合ができますと、自ずから、一番小さいね、子どもですね。子どもの素みたいなもんだけど、それがね、お魚そっくりなの。そうしてね、羊水と言いましてね、その成分は海の水とほとんど同じような、その成分の中でそれが育って行くの、ね。あなた方は、だから、自分のお腹の中に海を持ってる。その海が生命を育てたように、あなた方はその生命(いのち)を育てているわけ。面白いんですよね。その生命(いのち)を育てるということ、その意味で、海(かい)、海と同じだと。それから、いろいろなね、その、汚いもの、いろんなものを、全てべ、入れてると、こういうとこで、私は女性に素晴らしさがあると思う。
だから、良いですか、自分の…子どもだとか、ね、夫にしてもそうなの。そりゃあ、イヤなとこ、あるでしょう。私、ああいうところ、嫌い!大っ嫌い!なんてことをね、あんまり言わないでほしいんですよ、ね。それはあなた方の海を、海徳を汚すことになるの、ね。良いことも悪いことも全て無条件に受け入れる。そういう態度であってほしいと思うんです、ね。これができますとね、あなた方の家庭は、素晴らしくね、なるんですよ。憎しみとか、差別、この子どもは可愛くて、この子どもはいけない、そういう差別、そうしたことを、海のように全てを無条件に、差別することなく、汚い墨田川も、綺麗な鬼怒川も、全てを受け入れて行く。この広さを持っていただけたらと思うんです、ね。…
では、土徳とは何でしょう、ということになる。そうしますと、それは土を観ましょう、大地を。大地はいろいろなものに踏んづけられますね、こう、ね。あなた方の足でも踏み付けられるし、猫はおしっこするし、いろんなことしますね。それだけれども、この大きな建物が、しっかりした建物が建つっていうのは、どこの上なんでしょうね。大地の上じゃないですか。もし大地がなかったら、この建物ができますか。そうして、しかもその大地は、今言ったように、いろんな汚いものも入れるんです。唾(つば)を吐く人もいるし、いろいろある。けれどもそれを全部ね、肥料に変えて、そこで木だとか、お米だとか、いろんなものを育てるでしょ。全てのものをやはり差別しない。じっと耐える、全てを背負って。そしてその上に大きな生命を、建物を創る。これを私は土徳という。それをあなた方は持ってるっていうことを忘れないでほしいと思います、ね。」(近藤章久講演『心を育てる』)

 

母なる海、母なる大地。
これを「父なる」とは言わないんです。
だから、我々はどこかでわかっているんです、女性に与えられた大いなる特性のことを。
それを是非とも発揮していただきたいと思う。
「海徳」「土徳」の「徳」というのは「働き」という意味です。
さらに言えば、「その人(物)を通して働く力」のことを「徳」と言うのです。
ですから、「海徳」「土徳」を発揮するには「自力」ではダメなんです。
女性を通して働く力=「他力」によって発揮させていただく。
そうなるとやっぱり、自力でウンウン頑張るのではなく、祈っておまかせするしかありません。
そうして初めてあなたを通して海と大地の働きが現れて来ることになるのです。

 

 

今度こそ子どもに優しくしよう。
今度こそ夫/妻に優しくしよう。
今度こそ親に優しくしよう。

何度そう誓ったことだろう。
しかし長く続いたためしがない。
すぐにまたきつく当たってしまう。

そりゃそうだろう。
そんなのは一時的な気分=感情なんだもの。
感情はすぐに流転する。
我々の感情は、この人のためなら死んでもいい、と思った直後に、こいつなんか死んじまえ、と思えるのだ。
人間の感情はそのときだけのものである。
そもそもそんな人間が頭記のような誓いを立てること自体が無理なのだ。

じゃあ、どうするか。

人間が当てにならない以上、人間を超えたものにおまかせするしかない。

キリスト教ふうにいくとしたら

「御心ならば
子どもに優しくできますように。
夫/妻に優しくできますように。
親に優しくできますように。」

あるいは
仏教ふうにいくとしたら

「南無阿弥陀仏」

阿弥陀仏(=人間を超えた力)に南無(=おまかせ)します。

既成宗教臭さがイヤならば、どんな用語を使っても良い。
能書きに陥らず、人間を超えた働きが感じられるか否かが肝心なのである。

 


 

子育てをしていると、折角の親の努力が徒労に終わることがある。
折角、苦労して離乳食を作ったのに、ひっくり返された。
折角、早起きして弁当作ったのに、ろくに食べないで残された。
折角、好物の夕食を作ったのに、遊び呆けて帰って来なかった。
折角、月謝の高い塾に通わせたはずなのに、財布からゲーセン代を盗まれてた。
折角、ひいひい働いて学費を捻出したのに、大学を中退された。

これがもし株式投資なら、こんな株はとっくに売却している。
それに、コスパ(コスト・パフォーマンス)もタイパ(タイム・パフォーマンス)も悪いったらありゃしない。
しかし、いくら値が下がって、パフォーマンスが悪くても、子どもは捨てるわけにいかない。
そこに親の愛がある。
徒労に終わっても徒労に終わっても愛し続ける、一方的に。
もちろん、愛するとは、ただ好き放題にさせることではなく、必要な苦労をさせることも含まれる(特に大人の場合)。
つまり、ここでいう「愛する」とは、子どもの「生命(いのち)を育てる」ということなのである

その「生命(いのち)を育てる」という“働き”が親を通して現れる。
お金と時間とエネルギーが、どんなに徒労に終わろうとも。
それは結果によらない、“働き”なのである。

で、これが親子関係を離れたらどうか。
会社での上司と部下、先輩と後輩。
学校での教師と生徒、教授と学生。
対人援助職における医療者と患者、支援者と利用者などなど。
これも本質は同じ。
縁あって出逢った者の「生命(いのち)を育てる」ということ。
その「生命(いのち)を育てる」という“働き”があなたを通して現れる。

お金と時間とエネルギーが、どんなに徒労に終わろうとも。
結果によらない、“働き”なのである。

 

 

今日は令和6年度8回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目に続いて8回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

d.「現実の自己」への態度 ー 自分への憎しみ self-hate

「仮幻の自己」に自分を見出す時に、それは大きな栄光と力と自信とを与えるかの様である。
しかし、その現実化に一歩ふみ出す時、他への要求 claims は容易に充足されることなく、その挫折の責めを他人や現実に帰して非難しても、非難は非難に止(とどま)るか、攻撃に変ずるか、あるいは他からの脅威と反撃にさらされるかに終って、結局現実の自己の無力さを責めねばならなくなるし、又一方、自らに対して「仮幻の自己」の要求に適合する様に命令しても(shoulds)、絶対的な完全性を要求するその標準を充足することは不可能である。
とすると、何れの場合でも、ここに「現実の自己」の劣弱と無力を認めねばならぬ。この様に「仮幻の自己」から見る時「現実の自己」は無力で卑で軽蔑すべき存在である。ここに「現実の自己」に関する軽蔑 self-contempt が生じ、そてに伴って劣等感が生じて来るのである。
しかし、皮肉なことに、如何に軽蔑しても、「仮幻の自己」の要求完成の為には「現実の自己」に依存せざるを得ない。これは「仮幻の自己」にとっての大きな屈辱である。屈辱は転じて、「現実の自己」への敵意に化する。「現実の自己」の無力こそ正に非難さるべきものであり、憎むべきものである。
ここに自己に対する憎悪 self-hate が発生し、「現実の自己」を責める結果、自己を苛酷に切刻み、自己懲罰的、自虐的な傾向を生じるのである。神経症者に見る罪悪感はこの様な心的 process(プロセス)の結果であって、「仮幻の自己」が「現実の自己」に課する刑罰である。しかしこの process(プロセス)は単にこの様な結果をもたらすのに止(とどま)るのではない。この様な結果をもたらした跡を辿(たど)る時、それは本来「仮幻の自己」の負うべき責任なのであるし、それに由来する「誇り」の受ける屈辱感のすりかえに過ぎない。
それによって、実は全ての責任を「現実の自己」に転嫁し、すりかえることによって、「仮幻の自己」自身への批判をはぐらかし、その温存を計っている防衛の手段でもある。この様な胡麻化しは更にもっと大きな結果「真の自己」からの自己疎外の増大をもたらすのである。

 

「~であるべきだ」「~でなければならない」と理想化された「仮幻の自己」を実現するのは大変である。
しかし「仮幻の自己」によってしか自己の存在意義を感じられない人間にとっては他に選択肢はない。
例えば、必死になって「誰よりも優秀な私」「誰よりも気がつく私」「誰からも好かれる私」などを実現しようと頑張るが、そんな空想的理想が実現する日は来ない。
よって、そんな「現実の自己」は非難・攻撃の対象となり、そこから「自己軽蔑」や「自己憎悪」が生まれる。
徹底的に「現実の自己」を軽蔑し、憎悪する。
しかし、これは問題のすり替えである。
そもそもそんな「仮幻の自己」にすがろうとすることに問題があったのであり、「仮幻の自己」がまさに愚かな「仮」と「幻」の存在
であったのだ。
それでも「仮幻の自己」を捨てては生きてはいけぬ、それ以外に頼るものを知らないとなれば、代わりに「現実の自己」を非難・攻撃するしかないではないか。
そうやってまた本質的問題の解決から遠ざかり、そんな生き方をしている限り、いつまで経っても「真の自己」の出番は来ないのである。

 

 

AさんからBさんについての話を聴く。
(例えば、親から不登校の子どもについての話を聴く/子どもから虐待されてきたという親についての話を聴く/妻から自閉スペクトラム症らしき夫についての話を聴く)
私にとってBさんは会ったことも見たこともない人である。
「そうなんですね。」
と聴いて
「ということはこういうことですかね。」
と話を進めようとすると、
真面目なAさんは
「私だけの話だけを聴いて、信じていいんですか? Bにも会って話を聴いてからの方がいいんじゃないですか?」
と至極ごもっともなことをおっしゃる。
私は、
「そういう機会があれば、もちろんいいのですが、お話を伺いながら、私はあなたを観ているのですよ。」
とお応えする。
そう。
私はお話を伺いながら、話している当人の特性やら傾向やらパーソナリティやらいろいろなものを観ている、感じているのである。
(念のために付け加えるならば、これは意図的に行っているのではない。自ずと観え、自ずと感じるのである)
それがわかれば、この人を通して伝わって来る情報が、どのように曲がっているか曲がっていないのかがわかる。
例えば、この人が赤の100と言えば、実際には、それがそのまま赤の100だろうとか、ピンクの70くらいだなとか、いやいや青の30かとか、が観えて来るのである。
よって必ずしもそこにいないBさんからの情報が必要なわけでもないのである。
(もう一度申し上げるが、これは私が技術的に行っていることではなく、調子がいいときに、あるいは、自分の調子をいい状態に保てているときに、勝手に起こることである)

精神科面接について、また、さまざまなサイコセラピーやカウンセリングについて、あまりにも意図的な観察法や、技術的・操作的な面接法が奨励されているのにウンザリして、ついこんなことを書きたくなった。
聞き流して下されば、それで良い。

 

 

今日はちょっとややこしい話。

アンビバレンツ(Ambivalenz)(英語ではアンビバレンス(ambivalence))、両価性と訳す。
精神分析で「同一の対象に対して相反する心的傾向、心的態度が同時に存在することを表現する言葉」(『精神分析辞典』)である。
その代表が、同一の相手に対しての愛と憎しみの共存であり、特に親に向けられるアンビバレンツは典型的である。
一人の親に対して愛と憎しみの両方を抱く。

ある女性は、父親から虐待を受けながら育った。
そしてその父親に対して、一方で強烈な怒りと憎しみを抱きながら、片一方では、強い愛着、愛されたいという欲求を捨てられなかった。
いかにもアンビバレンツである。
しかしそのアンビバレンツというのも、その両価に微妙なバランスがあることに注意を要する。

[例1]自分は父親からこんなことをされた、あんなことをされたと繰り返し訴える。
それを聞いた相手が「それはひどいお父さんだね。」と言ってくれると、満足そうな顔をして黙って聞いている。
父親への愛着があるため、自ら父親のことを「ひどい」と言って父親への憎しみを直接に露わにすることはできないが、
代わりに、相手に「お父さんはひどい」言わせることで、留飲を下げるのである。
アンビバレンツながら、憎しみの方が少し優位である。

[例2]自分は父親からこんなことをされた、あんなことをされたと繰り返し訴える。
それを聞いた相手が「それはひどいお父さんだね。」と言うと、「あなた、なんてひどいことを言うの!」「もうあなたには話さない!」(必ずまた話すが)と怒り出す。
自分でそう言わせておきながら(父親への憎しみは発散しながら)、父親を擁護する。
どっちなんだよ!と言いたくなるが、ここらがこの人のアンビバレンツのバランスなのである。これはこれもアンビバレンツながら、[例1]よりも愛着が強い。

[例3]その父親が脳卒中で倒れる/末期癌が発覚する/急死したとする。
そうなると、憎しみの対象としては弱過ぎるため、攻撃しにくくなる。
それまでのバランスが崩れて、憎しみに抑圧がかかって愛着がさらに優位となり、それまで憎んでいた自分の思いや言動に対して後悔と懺悔に苛まれることになる。
(しかしながら父親への憎しみはこころの奥底に生き残っており、なくなってはいない。いつか来る出番を待っている)
これもアンビバレンツながら、[例2]よりもさらに愛着の方が強い。

以上、わずかに例を挙げただけでも、アンビバレンツにはヴァリエーションがあることがわかる。
そう思うと、極めて面倒臭そうな話になるが、そうでもない。
自分の中に、それがどんなバランスであろうとも、一人の親に対する、愛は愛として、憎しみは憎しみとして、(両者を差し引きせず(取り引きせず))別々にはっきりさせていけば、二つながらの思いが果たされていくのである。
これを私は、アンビバレンツが二つながらに成仏していく、と呼んでいる。

 

 

朝、目覚ましに起こされる。
寝不足の上、子どもの風邪がうつったのか、なんだかノドがイガイガして体もだるい。
しかし、朝御飯の支度をして、上の子のお弁当を作って、下の子を保育園に送っていかなければならない。
しかも今日の仕事は私がプレゼンだ。
旦那は今週出張でいない。
ワンオペでやるしかない。
しょうがない、起きるか。

そんなお母さんが全国に何人いることだろうか。たまには、たまにはで良いのだけれど、何もしないで昼まで寝かせてあげたいと思う。
確か
に、昭和のお母さんたちもバリバリ頑張って来たかもしれない。
でも、それは比較じゃないんだよね。
昭和だろうと令和だろうと、お母さんが孤立せず、ちゃんと大事にされること。
自分の存在がなおざりにされず、大事にされているという実感があること。
それがやっぱり必要なんだと思う。
現実にはいろいろ大変でも、その実感があればなんとかやっていける

ますはそれをお父さんに要求したい。
すると、オレだって大変なんだよ、という声が聞こえてきそうだ。
そうしたらそれはまた、お父さんの存在がなおざりにされず、大事にされればいい。

そう。
家族がお互いに支え合い、愛し合う。
そこからすべてが始まるのだと思う。
だからね、愛してほしいときは、愛してほしいと要求してもいいのだけれど、相手を愛することから始めてみるのもいいかもしれない。
愛された相手が満たされて、またあなたを愛してくれる。
そこのところをしっかり押さえることが、人間の“叡智”なのだと思う。
ほしいものから与えること。
それは人間の黄金律(golden rule)のひとつであろう。

 

 

「そんなやたらにね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。この私はどうせダメなんだから。くだらんことを言わないでほしいんだ。その意味で、生命(いのち)を軽蔑しないでほしいの。…どうせ私ダメなんだからとか…どうせ俺はしょうがねぇよ…そういうのがだ、ね、これはみんな自分の生命(いのち)というものをね、粗末に考えている。…
英語でもドイツ語でも、産まれるという言葉は使わないの。受け身になる。I was born. こうなる、ね。ということを、もっと日本語的に言うと、授かったんだ。だから、あなたは自分自身の生命(いのち)をもっと考えてほしいんだ。私の生命(いのち)は、私は授かっているんだ。…このね、あなた方の、一人ひとりの生命(いのち)は、かけがえがないの。失ったらおしまい。これを不幸にするか、幸福にするか、健全にするか、病的にするか、これはあなた方の重要な責任ですぞ。これを、自分のことを思ってほしい。
それをよく考えたら、自分の目の前にある、自分の子どもというものを考えるだろう。この子どもの生命(いのち)を観るだろう。その子どもの光り輝いているところの独自の生命を観るだろう。これが母親が、その生命(いのち)を育てることが、その生命(いのち)を健やかに伸ばすことが、それが母親の意味だ。それを私は一番偉大な教育者と呼ぶものなの。どんな教育者よりも、それは素晴らしい教育を持っているものなの。
生命(いのち)のかけがえのない尊さを考えてもらいたい。そして、その生命(いのち)を自分が汚(けが)さないことなの。心配とか、不幸とか、不安だとか、そういうことで、自分の生命(いのち)を粗末にしてもらいたくない。自分の生命(いのち)を本当に大事にする人は、初めて他人(ひと)の生命(いのち)も大事にする。いわんや、自分の子どもの生命(いのち)を大事にするんじゃないかと思う。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の力のこもった講演が続く。
まず自分に与えられた生命(いのち)の尊さを(考えるのではなく)感じること。
そうして初めて自分以外の人間、特に目の前にいる自分の子どもの生命(いのち)の尊さも感じられて来る。
その生命(いのち)の尊さが感じられれば、自分の生命(いのち)、縁あって出逢った人の生命(いのち)、そして縁あって我が子として授かった子どもの生命(いのち)の成長を願わないではいられなくなる。
そうしてその生命(いのち)を育てること、健やかに伸ばすことこそが、我々のミッションであると、(頭の先ではなく)肚の底からわかってくるのである。
それがわからずして何の人生であろうか。
それを果たさずして何の人生であろうか。
もう世俗的な、些末な、表面的なことはどうでもいいから、生命(いのち)の尊厳について、その生命(いのち)の成長について感じましょう、ね。

 

 

履歴書(職務経歴書)を見ていて気づくことがある。
転職を繰り返している人の特徴として、一カ所に留まって働いている期間が、転職する度に段々短くなっている傾向があるのだ。

本質的には長かろうと短かろうと構わないのだが、その中身が二種類に分かれる。

ひとつは、段々にその人の弱さ(自分が自分であることの幹の細さ)が顕わになって来て、どこに勤めても、ちょっとイヤなヤツ、変なヤツ、特に恐いヤツがいると、すぐに逃げ出してしまうようになる。
それでも「服従」して魂を売って長く勤めるよりは、「逃避」する方がまだましなのであるが、転職する度に勤務期間はどんどん短くなって行く。
しかし幸か不幸か、
対人援助職の求人はいつもあるため、次の就職には困らない。
たとえ転職を繰り返しているうちに年を取ったとしても、なんとか老後資金があれば、それもありなのかと思うが、「逃避」だけの人生では自分に生れて来た甲斐があるとは思えない。

もうひとつは、転職を繰り返す度に、自分の弱さ、成長課題と真摯に向き合って、いつでもどこでも誰の前でも自分でいられるように、自分が自分であることの幹の太さを養っていく人たちもいる。
こういう人たちは、ある時機までは転職を繰り返す度に勤務期間が短くなっていくのだが、どこかで転機を迎え、攻勢に転じていく。
即ち、他者からの圧力や攻撃に対しても「反撃」できるようになり、最早転職せず会社の中で管理職としての地位を得て行く(他者に影響を与えていけるようになる)か、そうでなければ、自ら起業する場合も多い。
どちらにしても自分が自分でいる居場所を作れる“勁さ”を身に付けていくのである。
こうなれば、自分が自分に生れて来た甲斐があるというものだ。

よって、転職を繰り返している人たちには、是非とも後者をお勧めしたい。
要は、転職を繰り返しているかどうか、勤務期間が長いか短いか、が問題なのではなく、あなたがあなたを生きる勁さを身につけていっているかどうかが問題なのである。
この要点をくれぐれも間違えないように。


 

段々寒さが増して来るこの季節であるが、空だけは澄んで美しく見える。

そんな空も眺めていれば、感じることがあるもので、
天上は雲ひとつない快晴のように見えて、地平線に近づくにつれ、青がほのかになる。

それが夕焼けでもわかる。
西の空が茜色に染まる日暮れどき、この季節の夕暮れは、夏などに比べ、茜色がほのかになる。

そんなことにお気づきか。

そのほのかさにこちらのこころのほのかさが反応して感じるものがある。
それを感じるのが、
この繊細にして敏感な風土で長年暮らして来た人間の感性の伝統である。

「ほのか」を漢字で書くと、「仄」「側」「彿」「髣」「髴」などたくさんあり、「洸」も悪くないが、やっぱり「さんずい」よりも「りっしんべん」の「恍」が良い。

ほのかなるこころの光。

自然への感性と人間への感性とが別物であるはずがない。
ここを踏まえて初めて、あなたの目の前にいる人のこころの中にほのかに光るものも感じ取れるようになるのである。
 

 

 

来たる1月12日(日)、年が明けて間もないこの時機に『新春のハイブリッド勉強会』を開催します。
詳しい開催要項は昨日11月30日(土)にアップ致しました。

八雲総合研究所では、毎月1回定期的にリモート開催している「八雲勉強会」のうち、ワンシーズンに1回=3カ月に1回を、オープンでハイブリッド(会場での対面参加 あるいは Zoomによるリモート参加のどちらも可能)な勉強会の開催に置き換えて開催することにしています。

今回はそのハイブリッド開催の3回目。

今回も「現在、当研究所の『人間的成長のための精神療法』に通っておられない方」や6つの医療・福祉系国家資格者(精神科医、臨床心理士、正看護師、作業療法士、社会福祉士、精神保健福祉士)でない方も参加でき、開催要項にあります「参加対象」さえ満たせば、初めての方も大歓迎です。

ハイブリッド勉強会の構成は、以下の二部構成で、
[1]レクチャー&ディスカッション『人間の承認欲求について』

今回は、『人間の承認欲求について』お話したいと思っています。
これまでのハイブリッド勉強会では、第1回01『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』では、基本的「人間観」「世界観」「成長観(治療観)」「人生観」について取り上げました。また、第2回02『仲秋のハイブリッド勉強会』では「人間の成長段階について」取り上げました。そして今回第3回目03『新春のハイブリッド勉強会』では、「人間の承認欲求について」取り上げたいと思っています。まず最初に講師の方からその要点をレクチャーし、その上で、それぞれが気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて(←ここが重要)、話し合い、深めて行きたいと思っています。
[2]
ディスカッション『鉑言(はくげん)に深める』
ここでは、所感日誌『塀の上の猫』の中の「金言を拾う」シリーズを取り上げ、参加者とのディスカッションを通してさらにその真意を深めて行く展開にしたいと思っています。
参加者は予め「金言を拾う」の中から自分の心の琴線に触れるところに目を通して来ていただき、自分が気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて(←ここが重要)、語り合い、掘り下げ、金言を鉑言鉑とは白金、プラチナのことです。金からさらにプラチナへにまで深めて行く時間にしたいと思っています。

その上で、どうなるかは、その日の参加者次第。
新年を迎え、気持ちも新たに、深い人間的成長の場を一緒に創って行きましょう!

 

【注記】『新春のハイブリッド勉強会』の開催日(1月12日(日))は第2日曜日に当たります。
ハイブリッド勉強会を開催する日は、面談予約を入れることができません。
いつも第2日曜日に面談の予約を入れていた方は、お手数ながら、ハイブリッド勉強会を開催する月の第2日曜日だけは、他日に予約を入れて下さいますようお願い申し上げます。

 

 

認知症疑いの高齢者の方に検査を行う。
わからない問題に接したときに
「わかりません。」
とフツーに答えられる方がいる。
大したもんだと敬意を覚える。

高齢者だけではない。
例えば、注意欠如多動症疑いの方に検査を行う。
できないことに関して
「できません。」
とそのまま答えられる方がいる。
これまた大したもんだと敬意を覚える。

わからないこと、できないことが顕わになる検査を受けることは幸せな気分ではない。
きまり悪そうに、申し訳なさそうに返答される方も少なくない
高齢者の場合、振り返って同伴者に助けを求める方もいらっしゃる。
中には、できないと
キレ気味に怒り出す方もいらっしゃる。
そうはならず、自分にとって不利なことも、偽らず、飾らず、そのまま認められる方がいらっしゃる。
やっぱり
大したもんだと敬意を覚える。

お気づきの通り、これはできるかできないかという障害の問題ではなく、潔く認められるか認められないかというパーソナリティの問題である。

確かに、できないことを認めたくない(否認したくなる)のも、我々人間の、偽らざる見栄っ張りな一面である。
しかしその一方で、いつまでも事実を認めようとしない自分もなんだかなぁ、と思えるのも、我々人間の、有り難く尊い一面である。
その闇と光。
やはり、どうせ生きて行くなら、どうせ人と関わって行くなら、その光の部分に希望を持って生きて行きたいと思う。

 

 

尾籠な話題で恐縮です。

医療福祉関係者の間で時々話題になるテーマに
「あなたはお尻の穴を見せられますか?」
というのがあります(ひょっとしたら私の周りだけかもしれませんが…)。
これは露出癖的な話ではなく、あなたが利用者としてケアを受けるときに、そこまで自分をさらけ出して、支援者におまかせすることかできますか?という質問なのです。

で、あなたはいかがですか?

私はできます。
というか、もうやってます。
定期的に大腸内視鏡検査を受けているもので。
これも最近でこそ静脈鎮静法を使って、寝ている間に検査が済んでしまいますが、最初はそれもなく、意識清明下に検査を受けていました。

そうでなくても私たちもいつかケアを受ける日がやって来ます。
でも「いつか」でしょうか?
思い起こせば、生まれたときからそうでしたね。
乳児の頃、一から十まで何もかもやってもらっていました。
それがいつの間にか自分の力でやっているかのように思い上がってしまいました。
本当は、ずっと与えられた力でやらせていただいていただけなのに。
そう思うと、何を今さら「お尻の穴を見せられますか?」でしょう。

とっくの昔から、骨の髄まで、心の奥底まで見透かされています。
それを思えば
、元から私たちを生かしてくれている力に、何もかもおまかせするしかない人生なのでありました。

 

 

美味しい玄米御飯を食べさせる店がある。
店まで1時間近くかかるが、それでもこの店の玄米は滋味に溢れ、つい食べたくなって出かけてしまう。
おじさん二人でやっている店なのだが、メニューはなかなかにお洒落でヘルシー、女性客から男性客、カップルに家族連れと、なかなかの繁盛だ。

かし、私がこの店に行くにはもうひとつの楽しみがある。
御飯を食べている最中、ある時刻になると、入口のガラス戸に何やら大きな影が映る。
見れば、大型犬。
スタンダードプードルとゴールデンレトリバーのミックスのダイちゃんだ。
この店が散歩のコースに入っているそ
うで、大体決まった時間に現れる。
そして、店の中に向かって大アピールが始まる。
大きな尻尾を盛んに振り、おじさんが出て来てくれようものなら、さらにちぎれんばかりに振って喜んでいる。

なんてわかりやすいんだろう。
この本音いっぱいのダイちゃんに会うのが楽しみである。

そして私は思う。
人間にもこの尻尾をつけてみたらどうなるだろうか。

嬉しいくせに嬉しくないフリをする。
嬉しくないくせに嬉しいフリをする。
Aと思っているのにBと言う。
そんな面倒臭いことをするのは人間くらいである。
尻尾をつけたら。その人の本音がすごくわかりやすくなるだろう。

「僕と付き合ってくれませんか?」
「この私の手料理、美味しい?」
「あなた、お金好き?」

「わたしのことを本当に愛していますか?」

尻尾に全部出るだろう。

 

 

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