八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

診断基準を満たさないものの自閉スペクトラム(AS:Autism Spectrum)や注意欠如・多動症(AD/HD:Attention-deficiet Hyperactivity Disorder)の“傾向”を持つ方は、思いの外、多くいらっしゃる。

ある男性は、小さい頃から、忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
結婚し、子どもができてからも、
忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、さまざまなことで妻からも怒られて来た。
特に彼の妻は、神経症的に几帳面で気を遣い過ぎる方であったために、細かいことまで注意・叱責される日々が続いた。

その妻が、ある日、珍しく大きなミスをした。
そういう性格の人なので、自分でもガッカリしてうなだれていたが、それを見た夫は、ここぞとばかりに、日頃の恨みを晴らそうと、そのミスについてしつこく責めた。

だからあなたは嫌われる。

この夫が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)その態度によって、彼の妻は、今度夫がミスしたときには今まで以上に徹底的に責めてやろうと心に誓い、
本気で、この人と一緒にいて意味があるのだろうか、と考えるようになった。

「己(おのれ)の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ」(『論語』)
という通り、自分がされてイヤなことは相手にはしない。
妻がミスしたときこそ、優しく接してあげることができれば、夫婦仲は大きく変わったかもしれない。

別の男性もまた、同様の特性を持ち、周囲から怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
しかし、彼の場合は、鉄の意志と鬼の努力でガリ勉し、医学部に入って、医者になった。
それでもまだ忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、医局の中では先輩医師から注意・叱責されることが多かった。
そして彼はクリニック開業の道を選んだ。

自分が院長になってしまえば、誰かに責められることがない(少なくとも大幅に減る)。
その思い通り、彼は雇用した看護師や医療事務などの職員の上に“君臨”し、今までの憂さを晴らすかのように、実にエラソーな院長になってしまったのである。

だからあなたは嫌われる。

この男性が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)
自分のミスは棚に上げたそのエラソーな態度によって、退職者は後を絶たず、慢性的に人手不足・求人しっ放しの状態に悩むことになった。

のび太がジャイアンになってどうするんだよ。
自分の特性を認めて謙虚になり、職員に助けてもらいながら、患者さんのために誠実に働く院長になりましょうよ。

結局、起こる問題の本質はいつも、特性によるのではなく、人格によるのである。
特性は変えられないが、人格は変えられる=人間として成長できることを忘れてはならない。

 

 

日本の厚生労働省が採用している診断基準と言えば、WHO の作成した ICD(International Statistical Classifiction of Diseases and Related Health Problem)(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)である。
現在、『ICD-10』(第10版(Tenth Revision)という意味)が使われているが、往時、その精神科領域の日本語版作成を私の出身大学が担当し、研修医だった私もその翻訳に参画したのを覚えている。
そう思うと、随分古い話になる。

WHO では既に第11版の『ICD-11』が刊行されているが、その日本語版がなかなか出版されず、そのブランクを埋めるかのように作成・翻訳・出版されているのが、アメリカ精神医学会が作成した DSM(Diagnostic and Stastistical Manual of Mental Disorders)(精神疾患の分類と診断の手引)、現在は『DSM-5-TR 』(第5版の改訂版(Fifth Edition Text Revision)という意味)の日本語版が出版である。

それで仕方なく、『DSM-5-TR』を拾い読みしていたが、余りにも『ICD-11』日本語版の出版が遅いので、この機会に『DSM-5-TR』を通読してみることにした。
そもそもが Desk Reference とあるように、小さな冊子なので、毎日、数項目ずつ読み進めても、そのうち読了できる
『ICD-11』日本語版も出版されれば、きっと同じやり方で通読するだろう。

ICD も DSM も、精神科医による診断一致率を高めるため、例えば、「最近6カ月以内に、以下の10項目の症状のうち、7つ以上が認められれば、〇〇症と診断してよい」というような「操作的診断基準」の立場を取っているので、表面的と言えば表面的、奥行きがないと言えばない、のだけれど、それでも「へぇ、今はそう考えるんだぁ。」と勉強になる場面がいくつもあった。
純粋に精神科医としての知識獲得には役立ったと思う。

しかし、私は精神科医よりも精神療法家になりたいし、精神療法家よりも人間的にさらにさらに成長したい。
そして、クライアント/患者さんがどのような精神疾患の診断基準を満たそうとも、人間対人間という根本的スタンスは(考えて、気をつけて、そうするのではなく)自然にそう感じていられる人間でいたいと思う。
 

 

「カウンセリングで良くなった人を見たことがない。」
と時々言われる。
残念ながら、返す言葉がない。

知人の精神科医が精神科病院で臨床心理士/公認心理師の求人を行ったところ、面接に来る人、来る人、病んだ人が多くて困った、と言っていた。
私見では、精神科医も五十歩百歩なので、偉そうなことは言えないが、
カウンセリング/サイコセラピーを行おうとする本人が、
メンタルな問題を抱えているだけでなく、
その問題と向き合って勝負しようとしないのは極めて問題であると思う。
そんな人がカウンセリング/サイコセラピーを行っても、確かに良くなるはずがない。
そしてもしクライアント/患者さんに「カウンセリング/サイコセラピーってこの程度のものか。」と失望させたら、その罪はさらに重いと思う。

まず自分の問題と向き合って勝負しましょうよ。
そして自分の問題を解決した経験があればあるほど、それはクライアント/患者さんにとって役に立つ経験智にもなっていくと思う。
しかも、人間の成長は無限である。
言い方を変えれば、人間の抱える問題/成長課題も無数にあると言える。
従って、ひとつやふたつ問題解決したくらいで慢心しないで、次々と自分の問題と果敢に向き合って行くことをお勧めしたい。
それによって、あなたの中の智慧の引き出しもまた無限に増えて行く。
ひょっとしたら、引き出しなんていう小さなものを超えた次元に発展していくかもしれない。

初めてカウンセリング/サイコセラピーを受けるとき、面談室/診察室のドアを開けた瞬間、いかにも病んだ/擦れたカウンセラー/サイコセラピスト登場でガッカリ、という惨事だけはなくしたいと思う。

まず汝自身を癒しなさい。

そこからすべては始まるのである。

 

 

「いのちというものは、けっして私たちがつくり上げたものでない。…それはいただいたものなのです。与えられたものなのです。…子どもを産んだものと考えるか、授かったものと考えるか、大変な違いが生ずるので、よく聞いてくださいね。
子どものいのちを自分が産んだとなると、自分のものだという気がする。そうすると子どもが自分の思った通りにならないと、『なによ、あんた』とピシャンピシャンとこうなる。…
問題は、自分の思い通りにさせたいと思うところにある。いうことをきかない ー 親のいうことをきく子はよい子であって、きかない子は悪い子とするのはお母さんの考えです。親は、きっと偉いのでしょうね。自分のいうことをちゃんときいていれば、それはよいというのだから。そうすれば人間として立派になれると思っているのでしょうね。そうかしらねー。…
授かったいのちは、自分とつながりのあるいのちだけれども、自分と同じいのちではない。異なったひとつの独立したいのちであるということ。こういうことを考えてみると、お母さんは授かったいのちを大切にしていかなければならない。猫かわいがりすることでもなく、自分の思ったとおりにすることでもなく。
自分のものとして考えるからおかしなことになるのであって、授かったと考えるならば、もう少し落ち着いて、そのいのちに対する態度をとるだろうと思うのです。それは他人行儀に見えるかもしれない。正しく言えば、『他人』です。他人というのはどういうことかというと、自分のいのちと独立したいのちだということで、異なった特徴を持ったいのちです。そこのところについての認識をハッキリしておくということが大事だと思います。…
こういうことをあなた方の前でいったところで、他に何十億という人がいる。だから私のいうことはここだけの話にすぎないけれども、私は、ここの人だけにでもお願いしたい。
人のいのちを尊敬するためには、まず自分のいのちを尊敬しなければいけない。自分のいのちを尊敬できる人でなくてはならない。
自分のいのちを尊敬できる人は、自分のいのちのほんとうの声が聴こえる人でなければならない。自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じられる人にならなければいけない。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

だから、特に対人援助職の方々には申し上げたい。
あなたは自分のいのちを尊敬できていますか?
あなたは自分のいのちのほんとうの声が聴こえていますか?
あなたは自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じていますか?
自分においてそれができない人が、他人においてそれができるはずがないのです。
まずは自分のことから。
これが鉄則。
自分のことを後回しにして、他人のことを優先させるのは、美談でも何でもなく、自分との勝負を回避しているだけです。
あなた自身が自分と勝負して来た経験と実績があって初めて、自分以外の人の成長の役に立つことができるのです。

私もまた、ここの人だけにでもお伝えしたいと思います。

 

 

クライアントが、神経症的に、ずるいやりくち、汚いやりくち、依存的なやりくち、思い上がったやりくちで、何かをやらかしたとする。
当研究所に通っているからには、その問題点をズバリと指摘する。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」がなければ、当研究所に来る縁はないので、それは致し方ない。

しかし、私からの指摘を「怒られちゃった。」と解する人たちがいる。
残念ながら、そういう人たちは伸びない。

特に発達障害ベース(特に「自閉スペクトラム」の方。「自閉スペクトラム症」の「診断」がつく人は当研究所の対象外となるが、「自閉スペクトラム」という傾向を持った方は世間にたくさんいらっしゃる)の人に多いが、幼少期から怒られ続けて来たため、どうしても「怒られちゃった」という“形式”に反応するようになってしまい、具体的に何が問題で次はどうしたらいいか、という“中身”を詰めることが二の次になり、そのため、何度も同じ失敗を繰り返すことになる。

もう一度言う。
私から問題点を指摘されて、「怒られちゃった。」と言う“形式”に反応する人は伸びない。
何が問題で、次どうしたらいいか、
という“中身”を詰めて行く人は伸びる。

中身を詰めれば、具体的な言動を変えざるを得ず、それを実践すれば、当然、結果が変わって来る。
私はその姿勢=何が問題で、次どうしたらいいか、という“中身”を詰めて、実践するという姿勢を褒めて、本人も段々にその姿勢に自信を深めて行く。
そうなれば、成長の波に乗り、未来が開けてくる。
一度しかない人生、そうこなくっちゃ、である。

だからこそ、“形式”反応の「怒られちゃった。」に注意すべし。

 

 

今はどうか知らないが、昔は駅からがんセンターに向かう道すがら、怪しい新興宗教の案内やら、胡散臭い民間療法のポスターなどがいくつも貼ってあったという。
当事者や家族の不安な心理につけこんだ、阿漕(あこぎ)なやりくちである。

昔、面談を申し込んで来た男性で、ある難治疾患の民間療法を生業(なりわい)としている人がいた。
その民間療法には、科学的に治療効果を示せるエビデンスがなく、高額で、メンタルに問題があるクライアントの心理につけこんでいるのは明白であった。
弱い心理へのつけこみ、そしてぼったくり価格には、悪質ホストクラブ問題に近いものを感じた。
それがわかった途端、面談はお断りした。

そこに「情けなさの自覚」を感じないようでは、成長どころじゃないでしょ。
そういう生業を続けられていること自体に、その人の大きな問題が存在する。
どうしても当研究所に面談に来たいのであれば、まずその商売を廃業して、真っ当な仕事に就いてからいらっしゃい、と告げた。
そうでなければ、他のセラピスト/カウンセラーのところへどうぞ。
その後、連絡がないところをみると、どうなったことやら。

今となっては何を相談したかったのかわからないが、人間が精神的に成長するときには、後から付いた心理的な塵埃を掃うことがとても重要である。
まず生業的にも、塵埃を掃って身綺麗にしてからだね。
少なくとも他者から搾取を続けながら、自分だけ成長することは絶対にあり得ないのだ。

 

 

こう暑い日が続くと、冷たいアイスクリームを食べたくなるのが人情というものである。

初めて Lady Borden のアイスクリームを食べたときは、子ども心に
「人間が堕落してしまう…。」
と、その余りの美味しさに打ちのめされたのを覚えている。

その後、Lady Borden は一時店頭から姿を消し、Häagen-Dazs や 31icecream に取って代わられた観があったが、現在は Lotte がライセンス生産する形で復活を遂げている。

Lady Borden の食べ方としては、やはり一度は大容量のカップを大人買いして、小脇に抱え、もういいと言うまで、スプーンですくって食べてみたいものである。
実際にやってみると、そんなに食べられるものではないが、精神的達成感は大きい(しかし、しばらくは見たくもなくなるという副作用が出ることあり)。

そしてカップで購入した場合、アイスクリームをすくいとる道具の工夫をお勧めしたい。
お店などでは、綺麗な球形にすくいとるために、お馴染みのアイスクリームディッシャーが使われているが、自宅の冷凍庫でアイスクリームが硬くなっていると、それでもなかなかすくいとりにくい。

そういう場合には、熱伝導率の高い素材で作られた、スプーン型のアイスクリームスクープをお勧めする。
亜鉛合金製や、中にはハンドル内に特殊な解凍液が封入され、手の温もりに敏感に反応して、アイスクリームをすくいとりやすくする優れものもある。
カチカチのアイスクリームが、思いの外、スッと取れると、なんだか嬉しい。

で、野暮な注意点としては、ご存知の通りである。
アイスクリームは、乳脂肪分が高い方が美味しいのよね。
どうして体に悪いものほど美味しいのであろうか。
あとは自己責任でお願いします。

 

 

なつかない(なつきにくい)ペットというのがいる。

シマリスがなつきにくいという話はよく聞く。
テレビの動物番組では、シマウマがなつきにくいと言っていた。
また、カブトムシやクワガタといった昆虫類というのもなつきそうにない。
昔、“謎の生物”シーモンキーの飼育が流行ったことがあるが、本名はアルテミアという甲殻類の一種で、こういうものもなつかないであろう。

なんでこういう話をするかというと、なつかない(なつきにくい)ペットを飼うということは、なついてくれるという報酬は得られない、ということを意味するからだ。
そうすると、手間がかかるだけになる。
つまり、そのお世話には、一方的な、無償の愛が要求されることになるのだ。
ならば、そういうペットを飼うということは、ひとつの修行になり得る。

但し、例外が三つ。
ひとつは、ブリーダーとして飼って、繁殖させて儲ける、という場合。
ふたつめは、研究・観察対象として飼う場合。
こういう場合はペットではないな。
そしてみっつめは、そのなつかない(媚びない)姿に、孤高の自分を重ねて悦に入っている人の場合。
そこにあるのは自分の投影であって、ペットへの愛ではない。

そうして、人間はペットではないが、反抗期に入って何かと逆らって来る子どもや、治療者にテスティングを仕掛けて来る(わざと面倒臭い言動で試して来る)患者においても、これは近似性がある話だと思えて来る。
それでも愛せるか。
凡夫には無理そうだな。
よって祈ることになるのである。

ペットを超えた話になった。

 

 

たまに、私が精神科医とわかると、いろいろ話したそうにする人がいる。
さらに私が精神療法家や精神分析医であることを知ると、余計に何かを訊きたそうにする人がいる。
こころの健康に関する国民の啓蒙・啓発という点からすれば、別にいろいろ訊いてもらって構わないし、お答えできることはお話するが、困るのが個人的なプチ相談である。
これはそう簡単に応じることができない。
ちょっと、軽く、気になってたことを相談する ー そういう相談はやってないのである。
当ホームページをご覧になればおわかりの通り、当研究所では、自分自身に対して本気で「情けなさの自覚」を持ち、真剣に「成長への意欲」を抱いている人を対象とし、その人の生き方自体を根本的に変えて行こうというのであるから、残念ながら、ちょっと、軽く、とはいかないのだ。
しかし現代では、ちょっと、軽く、に応じてくれる相談先もたくさんあるようであるから、それで良い方にはそちらへどうぞ。

先日も、「松田先生ところは、『対象』をそんなに絞って、よく来る人がいますね。」と言われたが、有り難いことに、世の中にはそういう奇特な方々もいらっしゃるのである。
確かに、
希望者が怒涛のように押し寄せて来ることはないが、よくまあ、ここに申し込んで来られましたね、というような方々との出逢いが、私の確信(私が逢うべき人には逢えるようになっている)をさらに深めてくれている。

中には、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が甘く、残念ながら、途中で脱落して行く人もいなくはないが、それも年に一人いるかいないかであり、結果的に、深く、根本的に、というのが、当研究所におけるセラピストとクライアントとの関係になっているようだ。

それでも生かされている時間は決して長くない。
私の中で、一人でも多く、逢うべき人に逢いたい、その人の本質的な成長に関わりたい、という想いは、開業当初から今日まで些かも変わっていないどころか、さらに強くなっているような気がする。

「ちょっと、軽く」が「深く、根本的に」になったら、どうぞ八雲の門を叩き下さい。
「そのとき」が、あなたの転機です。

 

 

「精神療法(心理療法)は、十年はやらないと何もわからないよ。」と近藤先生はよく言われていた。

その十年でも、毎週近藤先生の指導を受けながらの十年と、全くの我流か、せいぜいたまに研修を受けるくらいの十年とでは雲泥の差があろう。

また、面談頻度においても、以前「松田先生に10年間ご指導いただきました。」と言う人がいたが、その人は2〜3カ月に一度、気が向いたときにしか来られなかったので(昔は1カ月に1度以上面談に通うという決まりはなかった)「君は実質、1年くらいだね。」と伝えた。

そもそも、人間というものは非常に思い上がりやすいものであるから、ちょっとやったくらいで、なんだかできそうな気にすぐになってしまう。
しかし、はっきり申し上げて、実力はない。
そして、患者さんやクライアントに迷惑をかける。
「精神療法/心理療法って、こんなものなのか。」
失望(場合によっては絶望)を与えるのだ。
その罪は深い。

よって、精神科医や臨床心理士が本格的な精神療法/心理療法ができるようになるための教育は非常に重要である。
中でも、学生(大学院生)〜精神科医/臨床心理士になって最初の十年は、とても大切だと思っている。
どこで誰からどんな教育を受けるかで、その後のセラピストとしての力量に大きな差が生じる。

中には、かなりベテランの域に達しても、それまでの自分の精神療法/心理療法に疑問を持ち続け、意を決して、根本から学び直す人もいる。
その姿勢は大したものである。

いずれにしても、精神科医や臨床心理士が本格的な精神療法/心理療法を行えるようになるには、それ相応の修練と年月がかかることを肝に銘じておいていただきたいと思う。

 

結局ここにおいても、謙虚な人間ほど成長し、思い上がる人間ほど成長しない、という原則は、あてはまるのであった。

 

「私は、職業柄、いつも悩みを持ち、問題を持った人たちのご相談を受けているえあけなんですけれども、いのち、その方のいのちが病んでいると思ったことは一度もないのです。いのちがただ迷っているのだと思うのです。いのちが本質的には輝いてその人の中にある。しかしながら、その人がほんとうの自分のいのちを生かすということに目覚めていないために、他のつまらぬものを生かそうとしているためにとでもいいましょうか、自分のいのちよりも大事なものと考えるものがあって、それを生かすためにじつは問題が生じているということなんですね。…
いろいろな人がいます。愛人に裏切られちゃったから、もう私は人生に何の希望もありません。そういうような女の人 ー カミソリの刃でもって手首をパッと切ってね、自殺を図ったというふうな女性もいました。…『そう、その人はどういう人なの?』と聞くと、いいところを話す。好きなんだからいいところばかりいうのは決まっている。けれども、だんだん話していくうちに『でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね』と私はいった。そうすると妙な顔をしておられる。『その人は一時あなたを愛していたのでしょう? 少なくとも愛するという言葉は使われたのです。しかし、愛するということはどういうことかというと、私にいわせれば、相手のいのちを育てることではないでしょうか』と、いってみた。そうするとね、なるほどと、なんとなくぼんやりとわかったような感じをなさるのですね。愛というものは、うっかり間違うと自分のいのちを育てるどころか、腕を切って死んじゃうというような、自分のいのちを傷害するほうにも働きますね。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね」
あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたのいのちが育つことに役立っていますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.のいのちが育つことに役立っていますか?
「愛するということは…相手のいのちを育てることではないでしょうか」

あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたを愛していますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.を愛していますか?
この世の中で縁あっての出逢いです。
ただの出会いじゃあ、しょうがない。
表面を撫でたような出会いじゃあ、もったいない。
情にまみれた出会いじゃあ、気持ち悪い。
互いのいのちを育て合う、育み合う出逢いにして行きたいじゃあ、ありませんか。
そうして初めて、この世界にあなたとわたしが生まれて来て、そして、あなたとわたしが出逢った本当の意味が、成就するのだと思います。

 

 

厚生労働省の施策に「精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築について」(略称:にも包括)というものがある(概要を知りたい方はリンク参照)。
この施策名を初めて見たとき、「精神障害『にもかい! ついでかい!」とガックリ来たのを覚えている(説明文では「精神障害の有無や程度にかかわらず」と言い訳しているが)。

共生社会を目指すことに何の異論もないが、この娑婆は(昨日触れたように)能力主義、効率主義、功利主義などが蔓延(はびこ)っている。
自分は「できる」と思い上がり、おまえは「できない」と見下す連中がウヨウヨいる。
そんな価値観に基づいて生きている地域住民の中で、どうやって障害者と共生して行けば良いのか。

かつて私はアプノーマライゼイションについて述べた。
世に言われるノーマライゼイションに対して、みんながノーマルなんぞと思い上がらず、みんなアプノーマルと認め合った方が良いんじゃないか、という提言である。

その発想を仏教的に言うならば、いつも申し上げている、「凡夫の自覚」ということになる。
厩戸皇子(聖徳太子)のおっしゃる通り、世の中にいるのは「凡夫」のみ。
「できる」などと思い上がらない。
「てきない」などと見下さない。
所詮、ドングリの背比べ。
ノーベリストも認知症になれるし、金メダリストも寝たきりになれる。
そもそもが大したことないし、ちょっとできるかのように思い上がってみても、みんな、すぐにできなくなれるのである。
そんな五十歩百歩のポンコツ同士が、この世界の中で、支え合って、助け合って、生きて行けば良いじゃないの、というわけである。

ポンコツだらけの住民を抱えられる力を持つのが、本当の意味で、健全な地域であり、そのありようはまさに“ポンコツランド”であろう。

地域を支える諸制度、諸施設、諸機関などの整備は、これからも大いに有り難いが、
形の前に気持ち、住民同士がポンコツ同士という自覚を本音で持ち、思い上がらず見下さず、一緒に暮らせる地域に、私は住みたいと思う。

 

 

精神科医療福祉関係者で、自分が仕事が“できる”ことを“誇る”人がいる。
また、自分のことでなくても、ある人が仕事が“できる”ことを“賞讃”する人がいる。
大抵は、仕事を計画的に、効率的に、うまいことこなせることをもって、“できる”と自負し、“使える”などと評価されているようだ。
いかにも資本主義下の現代社会で評価されやすい功利的な価値観と言える。

しかし、私はいつも違和感を抱いて来た。

で、あなた方が関わっているのは、どういう人たちでしたっけ?
障害の種類にもよるが、それこそ、計画的に、効率的に、うまいことこなすことが得意でない人たちが多いのではありませんか?
それなのに上記のような価値観を持っているということは、患者さん、利用者さん、メンバーさんに対して、実は密やかな差別観を抱いていることになりませんか?(そしてそれはバレている)

それ故、“できる”職員という表現を簡単に使う神経に私は違和感を覚えるのである。

そりゃあ、たまたま“能力”として「計画的に、効率的に、うまいことこなす」力を授かっている人がいて、それを発揮することには何の問題もないと思う。
それは、大喰いができるとか、鼻が利くというような“能力”と同じである。
問題はそこではなくて、「計画的に、効率的に、うまいことこなす」ことを“誇る”あるいは“賞讃”する価値観にあるのである。

患者さんに向かって、学歴なんてどうでもいいじゃないですか、と言いながら、家庭では、子どもの有名校受験にプレッシャーをかけている精神科医療福祉関係者がいる。
それもその子どもがその子の本来の自分を発揮するのに、その学校の校風がたまたま合っているのであれば、何の問題もない。
しかし、その有名校に行っていることを“誇る”あるいは“賞讃”するとなると、一気に生臭い話になって来る。

もう一度申し上げる。
たまたま“能力”として「計画的に、効率的に、うまいことこなす」力を授かっている職員がいて、それを発揮することには何の問題もない。

しかし、“誇る”あるいは“賞讃する”価値観による汚染を許してはならない。

我らが仲間たちには、二枚舌の偽善者に堕していただきたくないからね。

 

 

 

世の中に「背徳グルメ」というものがあるそうな。

食べると背徳感や罪悪感を感じる料理のことで、高カロリーのものと脂っぽいものが双璧であるが、他にプリン体の多いものや悪玉コレステロールが跳ね上がるものなどさまざまだ。
具体的には、山盛りの唐揚げ、背脂ラーメン(ニンニク増し増し)、焼き肉食べ放題、トンカツ&エビフライなんならメンチカツものせカレー、炭水化物×炭水化物、スウィーツビュッフェ、チーズケーキやアイスクリームケーキのホール食い、痛風鍋、魚卵攻めなどなど、いくらでも挙げられる。

そうすると思い出すのが、19世紀スウェーデンの、敬虔なクリスチャンにして菜食主義者であったエリク・ヤンソンである。
彼が、余りにも美味しそうな見た目と香りに誘惑され、つい口にしてしまった料理が「ヤンソンの誘惑」(アンチョビとジャガイモのグラタン)である(以前にも少し触れた。由来には諸説あり)。

(昔、勉強会の後の懇親会でスウェーデン料理を食べに行きましたね)
ヤンソンが食したときの、その苦悩に満ちた悦楽の笑顔が想像できる。

嗚呼、食べてはいけない、と思うほど、食べたくなり、
食べてはいけないものほど、美味しいと感じるのは何故でしょうか。
(酒とタバコも同じようなものであるが、両者には依存性があるので事情がちょっと異なる)

その背景が解明されない限り、肥満や糖尿病、脂質異常症、痛風などの食事療法は、これからも苦戦することになるだろうと思う。

ちなみに、あなたの「背徳グルメ」は何ですか?
他で言わないから、そっと教えて下さい。

 

 

最近のデータによれば、日本の自殺死亡率は16.4(人口10万人あたり)だという。
他方、ある研究者が、精神科医の自殺率は約0.5%に上ると報告していた。
これを人口10万人あたりに換算すると、約500になる。
すると、精神科医の自殺死亡率は、日本人全体の約30倍に匹敵することになるのだ。

この数字をどう見るか。

よく言われることであるが、もともと心の病気に親和性を持った人間が精神科医になりたがるという背景がある。
なりたがること自体を止める理由はない。

しかし、ここからがいつも申し上げている話になる。
自分の心の問題とちゃんと向き合って、それを解決する(あるいは、それを抱えながら逞しく生きて行く)ことに成功した人は、臨床の現場に出ても、その経験を活かして、患者さんに貢献できる精神科医になれる可能性が高い。
しかし、自分の心の問題と向き合わず、未解決の問題を抱えたまま臨床の現場に突入すれば、自分の問題に加え、患者さんの問題も抱えるようになり、事態は一層深刻になる危険性が高い。そこで誰にもつながらない、誰にもすがらないのであれば、自殺の危険性が高まってもおかしくはない。

だから、同業者の方々に言っておきたい。
あなたの主治医を持った方が良い。
「主治医」という表現に抵抗があるのであれば「指導医」でもいい。本当は「人生の師」と言いたいところだ。
そういう存在は、「治療」という狭い意味ばかりではなく、人間的な「成長」という広い意味で、非常に重要である。
私自身も、もし近藤先生がいらっしゃらなかったならば、と思うとぞっとする。
少なくとも私は、近藤章久を得て、出世の本懐を感じることができた、と本気で思っている。

精神科医が自殺すると、患者さんへの影響は甚大である。
人生は生きるに値しないということを示すことになるから。
そうではなくて、精神科医は生を授かった意味と役割を果たす喜びを患者さんに示さなければならない、と私は思っている。

 

 

 

親が全員愚かというわけではない。
親は時に愚かになってしまうという話である。

身近なことで言えば
精神科医として
臨床心理士として
精神保健福祉士として
看護師として
作業療法士として
散々、不登校や引きこもりの当事者・家族に関わって来たにもかかわらず、
いざ、自分の子どもが不登校や引きこもりになってしまうと、一気に愚かな親に堕してしまう場合がある。

抱え過ぎる、甘やかし過ぎる、恐れ過ぎる、イジリ過ぎる、放っておき過ぎる、などなど。
その挙げ句に
「他人のことだと言えるけど、いざ自分の子どもとなると、できないものよね〜。」
「そうよね〜。」
などと、愚かな親同士で、自分のダメさ加減を正当化・一般化して慰め合う者たちさえいる。
そうではなくて、それまで行って来た支援の中味もまた、大いに反省しなければならない、ということだ。

かつて「子育ては難しい。」と連呼するお母さんがいた。確かに子育ては簡単ではないが、その人の場合は、子育て一般の難しさのせいにすり替えて、「私の子育てがダメでした。」「私が愚かでした。」とは言わなかった
また、子どもにあれこれ過保護に手を出すことに「まだあれがこれで必要なんです。」「折角ここまで来たので、それ以上、追い詰めたくないんです。」と合理化=屁理屈をつけるのがうまい親がいる。
れは親の方の不安であり、つまりは、子どもの中にある生命(いのち)の力を信じていないのである。これは8050予備軍に多い。

し自分の子どもがそうなったら、
まず自分の非を、自分の親としての足りなさを謙虚に、そして徹底的に認めて、
その上で、改めてその子が生まれたときのことを思い出し、この子の生命(いのち)がどうか健やかに成長して行きますように、と合掌礼拝するような気持ちで接することから始めれば、何かが変わっていくかもしれない。

伸び行く生命(いのち)を止めてはならない。
伸び行く生命(いのち)を曲げてはならない。
伸び行く生命(いのち)を感じなければならない。

親から自分の生命(いのち)が伸び行くことを感じてもらい、尊い存在として合掌礼拝され続けた子どもが成長しないわけがないのである。

 

 

なかなかの問題がある両親の許で育った私は、自分の安心・安全のために、常にアンテナを張って、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読む力を身につける必要があった。
そのお蔭と言って良いのかどうかわからないが、後に精神科医になっても、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読むことは人一倍得意であり、それが役に立つ場面もあった。

しかし、医者になったばかりの頃は、境界性パーソナリティ障害が一気に増えて来た時代で、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読むということにおいては、そのクライアントの一部に自分と同類のものを感じていた。
但し、彼ら彼女らは、その力を使ってこちらを巻き込み、共に破壊する方向に持ち込もうとするため、こちらとしても、そんなおまえらの巻き込みなんぞに引っかかってたまるか、こっちはその一枚も二枚も上を行ってやる、と対抗心を燃やし、面談場面はさながら“神経戦”の様相を呈していた。
なんのことはない、それは“我”と“我”の戦いに他ならなったのである。
そこには、子どもの頃と同じく、強烈な相手に対し、自分の安心・安全を得ようとする“保身”の姿勢があった。

やがて私は気がついた。
そこに、相手の成長を願う“愛”がなかった。
それでは“治療”になるはずがない。

そして、相手のこころの奥底にある、健康な、本来の自分を実現しようとする力を感じられるようになって初めて、診察の場は“神経戦”から“相手の成長を願う場”に変わって行くことを知ったのである。

“愛”なきところに“治療”なし。
“愛”なきところに“成長”なし。

これは治療場面だけではなく、家族でも、友人でも、職場でも、どこでも同じであった。

 

 

「私は現在女子教育にたずさわっておりますが、日頃つくづく思うのですけれど、入学してくる生徒さんたちが挨拶するということがとても少ないと思うのです。…挨拶とはそもそも何かというと、頭を下げて『おはよう』という。おはようということは、私が早く起きたよと威張っているわけではない。相手に対して『おはやいですね、早く起きて健康ですね、健康だから早起きなのです。すばらしいですね』と、このような気持ちで『おはよう』というのです。同じような意味で『グッドモーニング』と、そういうわけですね。『グッドモーニング・フォー・ユー』ー あなたにとって良き朝でありますように、という言葉ですね。…
私のようにだんだんと年をとってきますと、人生が単純に見えてくる。人生というのは、何かこう余計なコチョコチョしたもの、ムダなものをいっぱい持っている。『オギャー』と生まれるときには何もつけてない。にもかかわらず、それからいっぱいいろいろなものをくっつけて生きて、自縄自縛(じじょうじばく)といいますが、自分を縄で縛って自分で窮屈になって、自分で悲しんだり、苦しんだりする人が多い。これが人生みたいなもの。年をとってくるとそういうのが、自分のつくるすべて幻想みたいなものであるとわかってくる。そうするとできるだけ自分のいのちを大事にして限られたいのちを生かしていきたいと思うのです。
そこで、さきほどの挨拶ですが、英語でいえば、God bless you - 神様があなたに祝福を与えてくださいますように。日本語でいえば、おはようございます。お互いに早く起きられて健康で、今日もこのいのちを持てるということはどんなにありがたいことでしょうと、そういう気持ちなんですね。つまりそれは、相手のいのちに対する祝福なんです。挨拶というのは、そういうものなんです。お互いのいのちを祝福するのはどういう意味かといえば、これこそ、私がいいたいことなんですけれども、いのちというものが私たちに一回しか与えられていないということからくるのです。そして、そのいのちは他の人と替えることができないものです。私が長生きをしたいというので、私のいのちをどこかで、若い人のいのちと取り替えるわけにはいかない。
このことは、みなさん、神秘的なことですが、わかりやすい事実でしょう。わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この一番最後のところが大事。
いのちの大切さについては、いろいろな人がいろいろなことを言っています。
近藤先生の言葉も、中には、そんなこと、わかってるよ、当たり前だろ、と思う人がいるかもしれません。
しかし、そうじゃないんですね。
「わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです」
理屈ではない。頭でわかる話ではない。
感じること。あなたの存在を通して体験すること。
そうして初めて、相手の生命(いのち)を感じて、毎日の挨拶がこころからの相手への祝福になるのです。

 

 

殿さまはちょっとバカな方がいいという。

トップに立つ人間が、余り細かいところにまで気がつくと、下がやりにくい。
細かいところに眼を光らせるのは、家老/番頭/重役格の人の役目であって、殿さま/店の主人/社長は、本当に大事なところだけを押さえておいて、他のことについてはちょっと抜けているくらいの方がいいのである。
その方が組織の中が窮屈でないし
、むしろ下が「自分がしっかりしなきゃ。」と思って自律的に働くようになる。

私が知っている教授の面々でも、いわゆる名教授と言われる人はみんな愛すべきバカ(失礼)であった。
(念のためにフォローしておくと、研究においてはみんな優秀な方々です)
計算高く、如才なく、細かい教授ばかりでは息が詰まる。

しかし最近は番頭さんのまま店の主人になるような場合が増えているようで、働きにくいという話をよく聞く。
そこらも実は先人たちの智慧があり、昔は番頭さんが自分で店を構えて独立する(暖簾分けする)ときには、お世話になった店の主人から「主人というものの心構え」について諭されることがあったという。
おまえは今まで番頭として非常によくやってくれたけども、この度、店の主人になるにあたっては、ちょっとバカにならなきゃいけない。
そして番頭の役目は別の人にやってもらうんだよ。

そんな智慧の伝達が途絶えてしまった現代、ちょっとここに書いておこうと思った。
今日これを読んでいる方の中に、トップの立場の方がいらしたら、ちょっと知っておいて下さいな。
主人は主人の役を、番頭は番頭の役をちゃんと果たして行きましょうね。

 

 

時に講義の依頼を受けることがある。
ホームページにある通り、対象は学生が多いが、私としては毎回楽しみである。

それも昔っから楽しみだったわけではない。
気持ちが、聴講生ではなく、自分の方に向いていたときは、講義の目的が、自分が受ける評価の方に偏っていたため、余計な緊張や身構えがあったと思う。
それが、ある時から、「一生のうちで出逢える人の数は限られている。ならば、その限られた出逢いの中で、一歩でも半歩でも人間として成長するきっかけになってほしい。」と願いながら聴講生の方を向いて講義するようになってからは、不要な緊張や身構えもなくなったように思う。

そして、そういう気持ちで聴講生を観ていると、その一人ひとりの中に、伸び行こうとする生命(いのち)の力を感じるときがある。
そんなとき、聴講生の顔が、その生物学的年齢とは別に、皆、子どものような顔に見えて来る。
ああ、折角、生命(いのち)を授かって“自分”に生れて来たのだから、本来の“自分”を実現して生きて行ってほしいなぁ、と親心のように願う。

そのためかどうかわからないが、講義きっかけで、今も当研究所に面談に来られている方は多い。
私としては“営業”のために講義をやっているわけではないので、講義中に当研究所の“宣伝”をすることはないが、数少ない講義きっかけで、長く、深い付き合いに至ることもまた、天のお導きという他ない。

私のところでなくてもいい、誰のところでもいい、どこでもいい、やはり行き着くところは、たった一度の人生、自分以外を生きているヒマはない、ちゃんと自分を生きて死にましょうね、ということに尽きるのである。
講義は、そのメッセージを伝える小さな端緒となる。

 

 

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