八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

今日のマスコミは、長嶋茂雄氏の追悼一色である。

私は巨人ファンでも長嶋茂雄ファンでもないが、その“名言”のエピソードに触れていると、我々が目指す“何にも考えてない境地”に近いものが観えて来る。

 

「失敗は成功のマザー。」

「“I live in Tokyo.”を過去形にすると“I live in Edo.”になる。」

「『好きな番号は何ですか?』と訊かれて『ラッキーセブンの3!』と即答。」

「巨人の監督復帰の記者会見で『僕は12年間漏電していたんですよ。』と発言。」(←「充電だろっ!」)

「アメリカに初めて行ったとき、マクドナルドを見て『アメリカにも進出しているんだなぁ。』」

「アメリカにて『こっちの子は英語がうまいなぁ。』『こっちは外車ばかりだねぇ。さすがアメリカだ。』」

「アメリカ人に『英語でベースボールは何て訳すの?』と訊いていた。」

「魚偏にブルーで鯖。」

「ファンから『長嶋さんと同じ誕生日なんです。』と言われ、「へぇ~、で、あなたの誕生日はいつ?」と訊いていた。」

「他人の100円玉を持ち帰り、後日『ごめん。オレの100円玉に似てたから。』と謝った。」

「肉離れは英語で、ミート・グッドバイ。」

「流れている音楽に耳を傾け、『『君が代』は良いですねぇ。僕も日本人だなぁ。』と言っていたが、実は『蛍の光』だった。」(←『蛍の光』はスコットランド民謡)

 

長嶋茂雄は何も考えてないように見えて、陰では緻密に計算し、考え抜いていた、と言う識者がいるが、私はそうは思わない。あくまでも何も考えてないのだが、たまにほんのちょっと考えると、それがものすごく考えているように見えただけだと思う。

故人を追悼しつつ、我々も上記のようなエピソードを残せるようになると良いなぁ、と願う。
もし既にそのようなエピソードをお持ちの方がいらしたら、面談のときにでもそっと教えて下さい。

 

 

未熟な母親/父親だけれど、一所懸命に子育てするから勘弁してね。
一緒に成長するから勘弁してね。

未熟な教師/幼稚園教諭/保育士だけれど、一所懸命に君たちに関わるから勘弁してね。
一緒に成長するから勘弁してね。

未熟な精神科医/臨床心理士/精神保健福祉士/社会福祉士/看護師/作業療法士だけれど、一所懸命にあなた方の力になれるように関わるから勘弁してね。
一緒に成長するから勘弁してね。

未熟でやらかしまくっている凡夫のくせに、エラソーに親面(づら)、先生面、専門職面するのは、無量阿僧祇劫早いです。
(阿僧祇劫(あそうぎこう:仏教でいう途方もない時間の長さ))

謙虚に、誠実に、一所懸命に、なけなしの微力を尽くし、あとは祈りながらやるしかありません。
それが基本姿勢。

そうして祈っていれば、『論語』に言う「一(いつ)以(もっ)てこれを貫く」(ひとつの働きがあなたを貫く)が与えられるかもしれません。
それは、あなたの自力や自負や思い上がりとは全く別のものです。
その貫くものが、大きく、深く、勁く、温かく、あなたも相手も育ててくれるでしょう。

 

 

八雲勉強会、令和7年度の年度参加あるいは単発参加のご案内です。

八雲勉強会は、月に1度、第2日曜日の午後の約3時間、Zoomによりリモート開催しています。
現在、会の前半は近藤先生の文献により「ホーナイ派の精神分析」を学び、後半は参加者による話題提供とディスカッションという構成になっています。
現在の参加者は、対人援助職者と一般市民とで半々くらいでしょうか。
人間的成長を目指す場ですので、特別な“知識”は必要ありません(「ホーナイの精神分析」についてもそうですが、何か必要があれば私が解説します)。
それよりも内省と成長の姿勢がすべてです

私が主宰して来た勉強会やワークショップの歴史も既に25年以上となり、メンバー一人ひとり、そして、グループ自体が成長し、会全体が参加者の成長を促す「集団力」を持って来ていることを実感しています。
まともな人は実社会では(何故か)いつも少数派ですが、この勉強会の場だけは多数派になれるでしょう。
また、グループという形には(個人面談と異なる)小社会と言える力があり、ここで養った力を持ってまた実社会へ戻って行けるのもグループの良いところです。

今回、欠員が3名に達しましたのでご案内を致しましたが、もちろん、ただ早く欠員を埋められれば良い、などとは努々(ゆめゆめ)思っていません。
あなたのこころの中で参加の気持ちが熟したとき、それが今日でも、明日でも、何か月後、何年後でも、お申し込み下さい。
そのときが仲間になるときです。

八雲総合研究所の面談に来られている方で、参加を希望される方は、松田まで、メールあるいは口頭でお知らせ下さい。

あなたのちょうどのときを待っています。

 

 

私が学生への教育を重視しているのは、まだ現場の変な先輩たちに汚染されないうちに、大切なことを伝えられるからである。
話してみて感じるのは、何よりもその吸収の素直さである。
従って、現場に出る前に、いくらかでも本質的なメッセージを伝えておけば、たとえ逆風渦巻く現場に出たとしても、なんとか自分を保って、成長して行けるかもしれない。

それに比し、既に現場に出ている人たちは、そこで生き残るために、そもそもの問題に加え、一層ややこしいことになってしまっている場合が多い。
それでも私が希望を捨てていないのは、酷い環境にいながらも、自分の真っ当な感覚を死守し、患者さん・利用者さんのために、懸命になって戦っている人たちがいるからである。
こういう人たちは、残念ながら、いつも少数派ではあるが、いてくれるから、現場が支えられているのだと思っている。

これらのことから、私は、
対人援助分野の学生の教育
および
現場で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持って働いている対人援助職者たちの応援
に特に力を入れているのである。
まだ若い学生に最初から「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を求めるのは酷というもので、その代わりに、彼ら彼女らの素直さに懸けている)

まだまだ気になることは、あれもこれも数え切れないくらいあるが、私の身ひとつ、そして1日24時間、1年365日を考えると、そうとっちらかってはいられない。

若い頃は、義理や義務、時に情や欲も絡んで、やることが、文字通り、とっちらかっていたように思う。
年を重ねるということは、やるべきことがわかりやすくなってくるということでもあるのだな、ということをしみじみと実感している。

 

 

時々、誰かから内緒話を打ち明けられることがある。
通常はそれを普通に聴けばいいだけの話だが、ときどき面倒臭い問題が起きて来る。
それは特にその内容を聴いて、これは自分だけの胸におさめておくのはまずいな、と思う内容のときである。
内緒話と言われてしまうと、こちらは話を聴かされた上に、自由にしゃべる権限を奪われることになるのだ。
そうなると実に面倒臭い。

よって、最初に相手が
「これ、内緒なんだけど…。」
と話し始めそうになったときに、こちらが黙っていると、暗黙の了解をしたことになってしまうため、
「わたし、すぐしゃべっちゃうけどいい?」
とか
「オレが誰かにしゃべるかどうかはオレの自由でいいよね?」
と言い返すことが有効である。
場合によっては、そのまま相手が黙ってしまうかもしれないが、それならそれで結構である。

さらに、相手が狡猾な場合は、勝手に内緒話を始めておいて、話し終わった後に
「これ、内緒ね。」
と言って、後から口止めして来る場合がある。
これも、このまま黙っていたのでは、自由にしゃべる権限を奪われることになる。
よって間髪入れず、
「残念でした。わたし、すぐにしゃべっちゃうわ。」
とか
「話す前に約束しなかったのは君の失敗だね。オレ、しゃべっちゃうかも。」
と言って、相手の規制を外しておくのが良い。
こういう巻き込みをして来る相手とあなたがこれからも付き合って行って、人生の糧になるとは思えない。

ちなみに、内緒話を聞いた人が、これまた第三の人に「これ、内緒なんだけど…。」とまた内緒で話を広げて行く場合がある。
あるあるではあるが、それでもやっぱり程度が低いにもほどがある話である。

人間の健全なコミュニケーションにおいては、可能な限り、「露堂々」としたものが理想である。
内緒話は、可能な限り、排除する。

しかしながら、場合によっては、その内緒話を聞いたあなたの判断において、その後何が起きても(刑務所に行くことになろうが地獄に落ちることになろうが)全責任を取る覚悟で、一人で棺桶まで持って行かざるを得ない場合もある。
私のような仕事をしていると、
一方で、神経症的かつ操作的な巻き込みとしての内緒話を聴かされることもあるが(そういうのは申し訳ないが徹底的にブッ飛ばす)、
他方で、その人が本来のその人を生きて行くために、私が全部受け取りましょう、という内緒話もある。
そういう場合、正確に言うと、それを受け取るのは私じゃないのである。私を通して広大無辺なものに受け取っていただくのだ。そうしてあなたは悲しみや苦しみから解放されて、あなたならではの人生をのびのびと歩んで行けばいいのである。

そういう内緒話は、いつか、するべき相手に(相手を間違わず)、必ず、しなければならない、と思う。

 

 

誕生日に「おめでとう!」とお祝いしてもらう。
自分の存在を祝われたようで、嬉しいものである。

ある人は、誕生日は生まれて来た本人ではなく、産んでくれたお母さんに感謝する日だと言う人もいる。
自分の存在を評価されたようで、母親も嬉しかろう。

それでよい。
それが俗諦(世俗的、世間的な真実)の話。

で、ちょっと真諦(絶対的な、出世間的な真実)の話を付け加える。

誕生日に「おめでとう!」と言われて嬉しいのは私の「我」である。
子どもの誕生日に「ありがとう!」と感謝されて嬉しいのは母親の「我」である。
しかし、この世に生まれて来たのは自分の力ではない。
産んだのも自分の力ではない。
となると、誕生日には、自分を存在させてくれた大元に
子どもを産ませてくれた大元に感謝するのが真実ではなかろうか。
ということは、感謝する先はひとつということになる。

よって
誕生日に「おめでとう!」と言われて嬉しいとき
子どもの誕生日に「ありがとう!」と感謝されて嬉しいとき
ちょっと天を仰いで「ありがとうございます」と祈ってみてもいいんじゃないかな。

そして誕生日だけでなく、こうやって存在させてもらっていること全てに毎日感謝してもいいんじゃないかと思う。

 

 

「思いやりというときに、そもそも人間のいちばん最初にあるところの自己主義、自分のことしか考えない、他人のことは考えないというようなところから一歩進んでいるわけです。少なくとも恋愛している人は、相手のことを自分のことのように感じるわけですね。そういうことを感じることで自分中心の考えを立ち越えるということになります。しかし、それはまだ特定の人しか案じていない。いわば二人だけの自己主義かもしれない。…
どうか、二人の愛に満足したならば、それを立ち越えて、もっと他の者に対する思いやりを広げていってもらいたいと思うのです。小さな自分に対する愛、それが相手を愛する愛まで自分を越えていく。さらに自分と相手を越えたものに立ち上がっていく。一つひとつ広がっていくことが自分の世界の広がり、心の広がり、心の深さになっていくだろうと思うのですね。…
よく考えてください。私たちの考えるのはたしかに自分中心、自我中心ですが、それでもほんのわずかな自我を越えた経験を持っています。自分の子どもの病気を、一生懸命になって介抱したとき。そのとき、自分は死んでもいい、私のいのちはどうなってもよいから子どものいのちを助けてください。…そういう気持ちで自分というものを越えるときがあるのです。
そういうときにほんとうの一心で、純粋で、何かほんとうに生きている意味が感じとれるときですね。そこまではあなた方が体験できることだと思います。そこまでが人間界で、人間がふつうに感じることであるといえましょう。子ども…はまだ自分の延長ともいえますからね。
私は、あなた方に、それ以上のものを望みたいのです。人間はそれだけのものではないということを知ってもらいたいと思います。
 もっと普遍的な愛。
 もっと無差別な愛。
 もっと無条件な愛。
そういう愛する力を我々はっ持っているのです。そうした力があるということを、この一回しかない人生のなかで、どうか体験してもらいたいと思うのです。これが人間が持っているすばらしい可能性だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のことしか考えない人間の中に、せいぜい自分の子どもや身近な人のことしか考えない人間の中に、それを越えた、もっと普遍的な愛が、もっと無差別な愛が、もっと無条件な愛が働く可能性があるということ。
そう思うと、なんだかね、自然に手が合わさって頭が下がるんです。
あなたの中に、わたしの中に、わたしたちは所詮つまらない自己中心的な人間だけれど、その中に、あなたを通して、わたしを通して、それを越えた広大無辺な愛の働きがあるということを感じていきたいですね。
そしてそれをわかりやすく表して下さったのが、昨日ご紹介した宝誌和尚立像であり、羅怙羅尊者像だったのです。

 

 

我ら凡夫の中にも、仏性(ぶっしょう)という尊い働きがあることは、本当に有り難いことである。
凡夫を覆う煩悩は、全くどうしようもないけれど、その仏性の働きによって、我々には救われる道が開けている。

それを端的に表した仏像として、以前、勉強会の中でも「宝誌和尚立像」をご紹介した。
宝誌和尚の顔面が割れて、十一面観音菩薩が顔を出している仏像である。
これまた視覚的にわかりやすく表して下さることが、凡夫にとっては有り難い。
西往寺から京都国立博物館に寄託されているので(但し、展示されている期間をご確認のこと)、ご関心のある方は是非、実物をご覧になると良い。

あなたの中にも仏性はある。
 

   [宝誌和尚立像(クリック)]


で、今回は、もうひとつの仏像をご紹介したくて、この欄を設けた。
それが、釈尊の弟子であり、実の息子でもある「羅怙羅(らごら)尊者像」である。
羅怙羅尊者が自らの胸を開くと、そこに釈尊の顔が出現している。
これを親子の情でベッタベタに解釈している文章もあったが、それでは地獄に落ちる。
釈尊の本体は久遠仏であり、仏性の働きそのものである。
禅の黄檗宗の大本山、京都・萬福寺で拝観できる。

あなたの中にも仏性はある。
 

   [羅怙羅尊者像(クリック)


別に、グロテスクで奇っ怪な仏像を選んでお勧めしているわけではない。
その造形を手掛かりに、造形で表せない仏性の働きそのものを感じ取っていただきたいと思う。

 

 

後輩セラピストから相談のあった例。
母親のこころの病気で長年苦労して来た娘がいた。
そのことについてセラピストが
「そりゃあ、お母さんから酷い目に遭って来ましたね。」
と言うと、
「いえ。母は母で大変だったと思います。」
と母親を庇(かば)い、
今度は、セラピストが
「お母さんはお母さんなりに精一杯だったんでしょうね。」
と言うと、
「いえ。酷い母親に育てられた子どもにしてみればたまったものじゃありません。」
と母親を攻撃した。
「母親を庇うのか攻撃するのか、どっちなんだよ。」
と言いたくなるが、こんなアンビバレンスはよくある話で、母親が愛着の対象でもあり、怒りの対象でもあるのである。
よって、娘は、その二つの気持ちの間を行ったり来たりしながら過ごすことになる。
即ち、母親に怒りを感じれば、罪悪感が起き、
母親に愛着を感じれば、報われない重荷を感じるのであった。
しかし、どちらかというと、母親への怒りを抑圧し、怒りを感じると罪悪感を感じる人たちの方が多い印象がある。
よって、後輩のセラピーも、娘さんの中にある母親に対する怒りをちゃんと認められるようになることを目指していた。
そんなある日、一人暮らしの娘のもとへ、一人暮らしの母親が急死したとの連絡が入った。
一方で、母が亡くなって悲しい自分がいたが、
もう一方で、亡くなって清々した自分がいた。
そしてそれを感じた途端、娘は猛烈な罪悪感に襲われた。
自分は母親に冷たかったんじゃないかという後悔にも苛まれた。
そしてその後、面談に来なくなったそうである。
「ああ、まだそこだったのか。」
と後輩は残念がった。
本当は、悲しいのと清々したのとの両方を感じるのが当然なのだが、
その娘は、清々とした自分を受け入れられず、その気持ちと直面化することから逃げたのであった。
「どうすれば良かったんですかね?」
という後輩に対し、
「ハウツーはないよ。娘さんの心において、『未だ時、熟さず』だったということだ。」
と伝えた。
「せめて『こうやって罪悪感を抱くことがまだ私の問題なんですね。』というところにまで来ていてくれれば、それからの道もあったと思う。」
後はただ、またいつかどこかで、この娘さんがリターンマッチに挑んでくれる日が来ることを祈るのみである。
罪悪感を抱き続けながら、一生逃げ回るわけにはいかないだろう。
そこを超えて初めて、娘さんの本当の人生が始まるのである。

 

 

近頃の人は教養がない、とよく言われる。

確かに
漢字が読めない。
一般常識がない。
社会情勢も知らない。
そんな人たちには、以前よりもよく遭遇するようになった気がする。

しかし
だからどうだってんだ、という気もして来る。
どんなに博覧強記であっても
イヤなヤツ
くだらないヤツ
はごろごろいる。
所詮は、受け売りの知識ではないか。

それに私などは、職業上
重度心身障害の子どもたちや
認知症の大人たち
に接して来たため、彼ら彼女らを見下すような価値観には同意できない。

しかし、である。
上記のことを踏まえて、であるが
教養の中でも
古典(古文、漢文)を読む力だけは、それが可能な方たちには、お勧めしておきたい。
外国語も良いのだが、外国語をマスターするには大いに時間がかかる。
それに比べ、古文、漢文(書き下し文)は、古い言葉とは言え、どこまでいっても日本語である。
外国語ほど習得に時間がかからない。
それに
古文、漢文は、その内容が、東洋文化、日本文化のルーツに連なるため、親和性がある。
そして何よりも私は、日本の精神性は世界に冠たるものである、と思っている。
よって、古文、漢文が読めるとね、時空を超えて、過去の賢者たちと直接に話ができるのだよ。
(ちなみに現代語訳では、本来の語感やニュアンスが死んでしまうのでダメです)

でも、やっぱり、できれば、なんです。
字も読めない妙好人が、禅の老師が舌を巻くような境地を示したように、最後は知識ではなく体験なんです。
そしてさらに言えば、体験よりも存在がすべて、なのでありました。

 

 

先日「囁き通り魔(基礎編)」ついて書いた。
今日は応用編。

どこらへんが応用編かというと、囁き方がさらに巧妙かつ狡猾なのである。
すれ違いざまに囁くというようなわかりやすいやり方ではなく、
会話の中にスッと仕込んで来る。
特に終わり際あたりにさりげなく入れて来るところは、昨日・今日始めたのではない年季を感じさせる。
しかし囁かれた方は確実に、巧妙なやり方で刺された、あるいは、狡猾なやり方で巻き込まれたことに気づく(気づくのが即座か、後になってからかは、こちらの感情抑圧の程度によって差がある)。

[例1]ある人は、ごく普通の会話の中に、時々見下したような目つきと、フンという鼻息をからめて来る。これが(ずっとではなく)「時々」のためこちらは反応しにくく、「目つき」と「鼻息」という言質を取れない表現のため、確実にこちらをバカにしている心証はあっても、客観性をもって追及しにくい。
これは非言語的な“攻撃性”の例。

[例2]私の後輩が外来で経験した例。外来で電子カルテのキーボードを打ちながら診察をしていると、面談と全く関係ないところで、「先生はブラインドタッチじゃないんですね。」と言って来る。表面的な会話は「そうだよ。」で終わるだけだが、裏の会話では「ブラインドタッチもできないのか、おまえは。」「うるせー。」のやりとりがある。これもまた確実にこちらを攻撃している心証はあっても、それを客観的に証明しにくい。
これは(表の会話に現れてない)裏の会話による“攻撃性”の例。

[例3]
ある女性は(圧倒的に女性に多い)、自分の神経症的問題を解決しようと真剣に通院している最中であるにもかかわらず、ふと話がホストに入れあげている友人のことになった後、帰り際になって「先生がホストだったら行くんだけどなぁ。」というような言葉をボソッと放り込んで来る。実は、自分の神経症的問題を解決したいというのは通って来るためのフリであって、本当はベッタベタに依存したくて来ているのである。
(治療場面ではよくある話だ。八雲なら即面談お断りである。そういう自分への「情けなさの自覚」がないからね)
これはベッタベタ依存の“巻き込み”の例。

その他、いくらでも例を挙げることができ、「囁き通り魔(応用編)」の体系がまとめられそうであるが、そんな気持ちの悪い分析をやりたいとは思わない。

書いていて思うのは、やはり「囁き通り魔」は、基礎編であろうと、応用編であろうと、その質(たち)の悪さと有害性から「要治療レベル」だということだ。
しかし、当人たちの多くは自覚がないので受診しない。

となると、こちらで精神的に武装して防衛する他ないのである。

敏感に観抜いて、そして、悪業はバッサリ斬り捨てましょう。
愛のある話はそれからだ。

 

 

 

生育史の影響で後から付いた「ニセモノの自分」がある。
そんなものが付く前の「本来の自分」がある。

後から付いた「ニセモノの自分」を排除し、「本来の自分」を取り戻して行くプロセスを「成長」という。

「本来の自分」を取り戻して行くプロセスは、例えば、30%→60%→90%→100%というふうに進んで行くかというと、そうはいかない。
30%→60%→90%くらいまでは、まあまあそれでいいのだけれど、終盤がちょっと変わって来る。
90%→100%がスッと行かず、
90%→99%→99.9%→99.99%というふうに進んで行くのである。

つまり、何が言いたいかというと、そんなに簡単に100%にはならないのだ。

かつて近藤先生が
「どんなに分析しても、どんなに治療しても、何か残る。」

と言われたのを思い出す。

もう完全に乗り超えた、もう完璧に払拭したと思っていても、どこかにまだ、後から付いた「ニセモノの自分」の残滓がのこる。
ほんのわずかでも残る。
そして忘れた頃に顔を出す。

何を隠そう、私も、先日、何十年ぶりかで試験の夢を見た。
本当に何十年かぶりである。
勝手にそんなものを受けさせられて
勝手にそんなもので自分の存在を値踏みされて
イヤ~な気持ちで机について、従順に試験が始まるのを待っているのである。
まだそんな夢を見るのか、と愕然とした。
おいおい、夢なんだから、そんな試験会場なんぞメッタメタに破壊して、楽しいテーマパークでも作れよ、と言いたいところだ。
まだ私の中に残滓がのこっていたのである。

だから、簡単に、もうこの問題は解決しました、と言い切らない方がいい。
もうこの問題は“ほぼ”解決しました、と言うのが正確である。

しかし、絶望する必要はない。
そんなどこまでも愚かな凡夫のことをかねてより御存知で、どんなアンポンタンな凡夫でもなんとかして救おうという道もまた用意されているのである。
それがあるからこんな凡夫でも生きて行けるのであった。

おまかせして祈るのみである。

 

 

ちょうど“Silent majority”に関する記事を読んだ。
前々から考えていたテーマなので、これは書かずばなるまい、と思って今日の話題に取り上げた。

まずは言葉の説明から。
そもそも“Silent majority(静かな多数派)”や“noisy minority(うるさい少数派)”という言葉がある。

“Silent majority”というのは、実は集団の意見の多数派を占めているのだが、積極的に発言をしないため、あたかもその意見がないように扱われてしまう多数派のことをいう。
それに対し、“noisy majority”というのは、実は集団音中では少数派に過ぎないのだが、積極的に(うるさく)発言をするため、あたかもそれが多数派の意見であるかのように受け取られてしまう少数派のことをいう。

みなさんもすぐに具体的な場面を思い浮かべることができるだろう。

PTAの会合でもいい、マンションの管理組合や町内会の集まりでもいい、会社の会議でもいい、それが実はかなり偏った独善的な意見であるにもかかわらず、特定の個人あるいは少数派の人々が、声高に、圧強く発言するため(これが noisy minority)、他の多数派の人々はおかしいと思いながらも、ビビってしまい(ヘタレってしまい)、発言することができず(これが silent majority)、noisy minority の意見に押し切られてしまう場合があるのである。
そして後になってコソコソと、silent majority 同士でLINEなどで愚痴を言い合ったりしている。

しかし、そこで意見を言わなかったのも、(たとえ消極的であっても)minority の意見に賛同したのも、大人の自己責任であるから、どんな酷い結果になったとしても同情には値しない。
自業自得である。
そして、そこで黙る(本音を言えない)ようになるのには、その人の生育史からの哀しき影響がある。

ちなみに私のところに面談に来ているような人たちは、生育史の影響で一旦ヘタレな silent majority になったとしても、本来の自分を取り戻すにつれ、silent ではなくなり、かといって noisy ではなく、steadfast に(毅然と)物が言えるようになる人が多い。
従って、そういう会合の場でも決して黙ってはいない。

で、そういう人たちからよく聞くのは、例えば、先に挙げたPTAの会合でも、マンションの管理組合や町内会の集まりでも、会社の会議でも、毅然と発言し、noisy minority の人たちと、場合によっては、バチバチとやりあうこともあるが、silent majority の人たちはそれでも傍観しており、なんだか孤立しているような気分にさせられることがあるそうだ。
いかにもありそうである。
それで、後になって、silent majority の人たちから(noisy minority の人たちがいなくなったところで)「よくぞ言ってくれました。」「もっといけ、いけ、と思ってました。」などと言われることがある。
これでは情けなさ過ぎる。
おまえも会合の最中に声をあげろよ!

その他にも、ネット上のいろんな「書き込み」においても、社会の中でのいろんな「活動」「運動」などの場においても、類似のことが起きていることもあるんじゃないかな、と思う。

今すぐできなくてもいいけどさ(私も100%の自信はないけどさ)、せめて目指しましょうよ、“steadfast majority(毅然とした多数派)”になることを。
それは間違いなく、あなた自身を、そして世界を、健全にして行く道につながっていると思う。

 

 

「人間くらい残酷なことに頭脳を使っている生きものもいないなと思う。…
だいたい人間というのは自分の利益を考えている動物です。…自分のことを考えることがいちばん先です。…しょせん弱肉強食。強いのが勝つ。けれども、僕みたいな変な人間でも、どうやら生きているところをみると、必ずしも弱肉強食でなくても生きられるということの証明かもしれないから、まあ、そういうことをしなくても人間はちゃんと生きられるということも、ひとつみなさんにいっておきたいと思います。…
私はみなさんに豊かな道を歩いていただきたい。豊かとは何かというと、悲しいときには悲しみ、よろこばしいときにはよろこび、苦しいときは苦しみ、ほんとうに人間として、本音で感じた生活を『豊かな生活』と私はいいたいと思います。そこに自分が生きてることだと思います。…
人を裏切る苦しみ、また自分が信じた人に裏切られる悲しみも、じっと心で味わってもらいたいものだと思うのです。…
私の経験でいうと、愛情に恵まれなかった人がほんとうに自分に愛情を持ってくれる人に出会ったときに、そこで感じる感動というものはすばらしいものであり、深いものであることも事実です。ですから、自分が不幸であったことをくよくよと考えないことです。苦しみを通り、悲しみを通って、そしてほんとうの愛情に接した場合にやはりそこには、いうにいわれぬ深く身に感じる愛情の、深さというもの、ありがたさというものがあるように思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より

 

嬉しいこと、楽しいことけじゃなく、悲しいこと、苦しいことを感じて生きて行くことも、人生の豊かさであるということ。
特に、人を裏切る苦しみ、人に裏切られる悲しみについて取り上げているのは、やはり流石、近藤先生だと思う。
闇を経験したからこそ感じる光の明るさ、温かさがある。
愛されずして、苦しみ・悲しみを通って来たからこそ感じる、本当の愛の深さ、有り難さがある。
そしていつか、凡夫の自力では不可能だけれど、自分を通して働く他力によって、誰かを愛することができたならば、それもまた人間として生れて来た本懐と言えるんじゃないかと思います。


 

すれ違いざまに、小声で「ばか」とか「死ね」「ブス」などの悪口を相手にぶつけることを“囁き通り魔”というらしい。

パブリックスペースで全く見知らぬ人から言われる場合と
自分の職場や学校で既知の人物から言われる場合とがあるようである。

いずれにしても“悪意”と“攻撃性”の垂れ流しであり、“通り魔”と言われる通り、すれ違いざまに殴られたのと同じ「心理的暴力」である。

基本的に全くの被害案件であるが、これはこちらにとってワークにすることができる
それが今日言いたいこと。
即ち、即座に反応できるかどうか。
普段から感情的抑圧の強い人は、反応できない、または反応が遅れる。
ということは、やられっぱなしにならないために、“囁き通り魔”を感情解放の練習台に活用することができる、というわけだ。

こういった場合、よく「驚いてしまって」とか「呆気に取られて」何もできなかった、という人がいるが、それは事実ではない(言い訳である)。
例えば、あなたが突然誰かに足を踏まれたとする。
痛覚があれば、その瞬間、痛いに決まっている。痛くないことはあり得ない。
そして感情が出る。
「痛っ!」「何すんだっ!」となるのが普通である。
犬なら、瞬時に咬むかもしれない。
しかし黙る人がいる(それが結構多い)。
瞬時に自分の感情に抑圧をかけ、結果として感覚麻痺に陥っているのである。
しかし怒りは消えていないので、時間が経ってから次第に怒りを自覚するようになる。

そもそも生まれつき感情を抑圧するような幼児はいない。幼児はすぐに反応する。
しかしやがて反応しなくなる、反応が遅れるようになる。
それにはそれ相応の感情抑圧の歴史があるのである。

よって、抑圧が取れ、感情が解放されるにつれ、反応が早くなって来る。
最初、その日の夜、布団に入ってからようやくムカムカしていた人は、
その事件が起きてから数時間後にムカムカするようになるかもしれない。
またさらに相手が立ち去ってしばらくしてからムカムカするようになるかもしれない。
そしてやられた直後にムカムカするようになり、
最後に、言われた瞬間に反応が出るようになる。
「うるせっ!」「黙れっ!」

残念ながら、世の中には抑圧の強い人が、思いの外、多いので、実は通り魔側も瞬時に反撃されたことがない(それで調子に乗って繰り返している)。
よって、この瞬時の反撃ができたならば非常に有効であり、今度は通り魔が黙ることになる。
さらにダメ押しとしては、反撃をその一の矢でおしまいにせず、二の矢、三の矢を繰り出しておくと一層有効である。
「通りすがりに『バカ』と言うんじゃねぇ!」
「あったま、おかしいのか、おまえは!」
万が一相手が何かを言おうとしたならば、それに被せるように、これを大きな声で(まわりに聞こえるように)言うことはさらに効果的である(相手はそこまでやると思っていない)。
しかも感情が解放されて来ると、その表出に自然と“圧”(気迫)が加わって来る。
よく「そんな反撃をしたら、またさらに何をされるかわからない。」とビビる人がいる。
残念ながら、そう思った時点で既に勝負は負けなのである。

少々話が長くなったが、細かいことはどうでもよい。
要するに、こいつに“囁き通り魔”をやるとどんな即時反撃を喰らうかわからない、と思わせれば良いのである。
感情が解放されて来れば、それが準備なしに、身構えなしに、できるようになって来る(いつもシミュレーションして準備し、人がすれ違う度に身構えていたら大変である)。

“囁き通り魔”から始まった話であるが、結局は「抑圧からの解放」こそが、あなたを守り、生かすことにつながるのである。

 

 

衛星放送の映画専門チャンネルを点けたら、
『幽幻道士』(1985:台湾)シリーズにキョンシーが出ていた。
『バイオハザード』(2002:アメリカ)シリーズにゾンビが出ていた。
『新感染』(2017:韓国)シリーズにもゾンビが出ていた。
『カメラを止めるな!』(2017:日本)もゾンビ映画に入れていいだろう。
他にいくらでもある。

どれだけゾンビものが好きなのだろうか、と思った。
好きなハズである、人類の大半がゾンビなんだもの。

職場で働いているときは、世を忍ぶ仮の姿。
できるだけ仕事は少なく、早く終わらせて、とっとと帰りたい。
ワークライフバランスも、できればワークがゼロが理想。
となると、働いているときは自分を殺し、それはまさにゾンビじゃん。

大人ばかりではない、子どもたちも。

学校に行っているときは、世を忍ぶ仮の姿。
できるだけ勉強も少なく、早く終わらせて、とっとと帰りたい。
恐い先生、イヤなクラスメートの前ではうまいこと演じ切ってやり過ごしたい。
となると、学校に行ってるときは自分を殺し、それはまさにゾンビじゃん。

朝起きて(なんなら前の晩から)、あぁあ、行きたくないなぁ、と溜め息をつき、
職場/学校に着いた頃には、既に死んでいる。

子どもでも
大人になっても
それが当ったり前で
世の中はそんなものなのでしょうか。

いやいや、騙されてはいけません。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かりました。
それは本当の自分を生きるため
本当の自分を殺して、ニセモノの自分を、ゾンビの自分を生きるためではありません。

そうしたら、わざわざ「ゾンビが人間に戻る映画」を挙げている人がいた。
『ウォーム・ボディーズ』(2013:アメリカ)
『CURED キュアード』(2017:アイルランド/カナダ)
『感染家族』(2019:韓国)
などがあるそうな。

そうなると、ゾンビ映画にも希望があるな。

では、我々もそろそろ人間に、それも本当の自分に戻りましょう。

 

 

ある女子大生。
先日、不運にも、夜道を一人で歩いていてひったくりに遭った。
後ろから来たバイクの男にバッグを奪われそうになり、必死にしがみついてバッグは奪われなかったが、転倒して手のひらと膝を擦り剝いた。
警察にも届けたが、しばらくの間、恐くて夜道を歩けなくなった。
そりゃあ、そうだろう、と思う。

しかし、ある日、彼女は思い直した。
あの犯人のせいで、人間というものへの基本的な信頼感まで奪われては癪(しゃく)に障(さわ)る、自分の自由な行動に制限を加えられるのも癪に障る。
もちろん、世の中良い人ばかりではないことは知っている。
また犯罪被害に遭うかもしれない可能性があることもわかっている。
それでも彼女は、敢えて以前と同じように、歩きたいときに夜道を歩くことにした。

もちろん最初は恐かった。
足も震えた。
しかし、新しく買ったショルダーバッグを斜め掛けにして体の前に持ち、バッグのファスナーもしっかり閉め、防犯ブザーをバッグの外側に付けて、外に出た。
当初は、バイクや自転車が近づいて来る度に緊張したが、彼女は夜間外出をやめなかった(もちろん必要があるときだけだったが)。
そして段々と平気で外出できるようになった。

その話を聴いたとき、思わず
「やるねぇ、姐さん。」
と言葉が出た。
遥か年下だが、その姿勢に敬意を表して「姐さん」と呼んだのである。

不幸な事件に遭っても、自分は人間というものを信じて生きる方を選ぶ。
広い世間を自分で狭くしないように生きる。

“今どきの若い者”にも、大いに期待あり、である。
そしてまた私も、人間というものに期待する方を選ぶのである。

 

 

テレビでランボーの映画をやっていた。
観るとはなしに観ていたら、あるランボーのセリフが耳に入って来た。

“live for nothing or die for something”

“live for nothing”=何にもならないことのために生きる=無為に生きる
“die for something”=某(なにがし)かのために死ぬ=有為に死ぬ

映画の状況からして
「ただ生きるくらいなら何かをやって死にたい」
というニュアンスであることが伝わって来る。

いかにもハリウッド、アメリカらしい考え方だと思った。

何が有為か無為か(価値があるかないか)は自分が決め、
どう行動するかしないかも、生きるか死ぬかも、自分で決める。
まさに自己決定的、いや、自我決定的な発想である。
その主体として、筋骨隆々たるランボーはいかにも相応(ふさわ)しい(筋肉は自我の象徴でもある)。

しかし、そうでない決め方、決まり方もある。
何が有為か無為かもおまかせ。
生きるか死ぬかもおまかせ。
催されるままに行動し、あるいは、催されるままに行動せず
そして
生かされるままに生き、召されるままに死ぬ。
決定権は自己にはない、自我にはない。
しかしミッションは果たされて行く。
そんな無我的な生き方、生かされ方もあるということを書いておきたかった。

そしてそう思ったのも私ではない。

 

 

人間の成長段階として、三つの段階を挙げて来た。

親に対し、
恐い相手に対し、
一番弱い人間は「屈従」し、
二番目に弱い人間は「逃避」し、
段々強くなって来ると「反撃」する。

例えば、いじめにこれを当てはめると、
一番弱い人間は、いじめっこに屈従し、子分になってしまう。
二番目に弱い人間は、子分になるのはイヤだがまだ戦えないので、いじめっこに会わないように、逃避して不登校になる。
それが強くなって来ると、反撃できるようになり、登校していじめっこと対決できるようになって来る。

概ねこれで良いのだが、「屈従」と「反撃」の間には、「逃避」とは別のヴァリエーションが存在する。
それが「屈従」しながらちょこちょこ「反撃」するという、中途半端なグズグズ状態である。

具体的には、何かイヤなことを強制されると、(聞こえるか聞こえないかの小さな声で/本人がいなくなったところで)ボソボソ/モゴモゴと文句を言いながら服従する。
不本意なことを命令されると、イヤイヤながら(ヤル気なさそうに)屈従する。
この、はっきりしない、半身の、玉虫色の、どっちつかずの態度が特徴的である。

先にこれを「屈従」と「反撃」の間と言い、あたかも「屈従」よりはマシであるかのように取り上げたが、この態度は、ある意味、はっきりした「屈従」よりも“卑怯”であるとみなされる。
何故ならば、「屈従」するなら「屈従」する、「反撃」するなら「反撃」する、よりも、この優柔不断な態度は“潔くない”からである。
少なくとも日本文化において、“潔くない”ことは、強い軽蔑の対象となる。
「屈従」するなら「屈従」しろ! 

「反撃」するなら「反撃」しろ!
中途半端にグズグズ言いながら従うような、潔くない、卑怯なマネはやめろ!
である。

言わば、「屈従」「逃避」「反撃」が“縦”の三段階とすると、「グズグズ」は「逃避」の“横”にズレている状態と言えよう。
だから気持ち悪い。

そしてどっちにせよ、まずはきちんと「反撃」できるようになることを目指そうよ、それが必ずしも簡単でないことは私も知ってるけどさ。
自分が自分を生きるためには、やっぱりそこを目指す“姿勢”が必要なのさ。

そしてさらにそれらを超えた最後の四段階目、人を「愛する」ようになるためには、単なる“強さ”ではなく、ホンモノの“勁さ”が必要になって来るのである。

 

 

私も自分が65歳を越えてみて思うことは、もう残りはそんなに長くないなと感じつつ、まわりの65歳以上の人たちを見ていて、(全員ではないが結構な割合の人たちの)その人格の余りのトホホぶりに絶望的な気持ちになって来る、ということである。
その年でその体たらくでは、死ぬまでには到底間に合わんぞ。
若い頃はそんなことは思ってもみなかったが、今は切実にそう思う。

そこで、仏教が輪廻転生を言うのもわからないではないな、という気になって来た。
仏教の言う輪廻転生が本当にあるかどうかは知らないけれど、
来世を設定しなければ、到底、今生(こんじょう)だけでは間に合いそうにない人たちが多過ぎるのだ。

ある男性は若い頃から坐禅に励んでいて、ああ、どこまで成長するだろうか、と楽しみにしていたが、いつまで経っても、坐禅していてちょっと無我に触れたくらいの体験で満足し、一向に成長しないまま、気がついたら60代になっていた。
坐禅はカルチャーセンターのサロン的な遊戯ではない。生きるか死ぬかの大事である。その切迫感がない

しかし、切迫感を持て、と言っても甲斐なきことは私もよく知っている。
本人の中で煮詰まらないとことには始まらないのだ。
でもそれでは寿命が間に合わない。

かつて法然が、今生でダメなら来世で、と言っていたということを近藤先生から伺ったことがあるが、その言葉がリアルに響いて来る今日この頃である。

それでもね、若かろうが年輩であろうが、人間の無限の成長を信じたい気持ちはやめられない私であった。

 

 

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