八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』に続いて、今日は『葉隠(7)』(中・聞書第五・四七)。

ある武士が天下を取ってやろうと思い立ち、さまざまに奮闘してみたが、天下を取ったところでつまらぬ苦労に明け暮れるだけだということをさとり、出家して詠んだ歌。

「我他彼此(がたひし)と 思ふ心の とけぬれば 自己智(じこち)もなくて 無性(むしょう)なりけり
(オレだアイツだ、アレだコレだ、とこだわっていた心がなくなってみれば、(賢(さか)しらだった))自分の智慧などというものもなくなって、ただ、アレもコレもない、おまかせの世界であった)

 

我他彼此(がたひし)」=我(自分)と他(他人)を区別すること、彼(アレ)と此(コレ)を区別することを指し、これが現代語の「ガタピシ」の語源というのは面白いですね。
人間において自他の区別を超える、物質存在においてもアレとコレとの区別を超える、そして一如の世界を体験することは仏教の要諦のひとつです。
そうなってみれば、もちろん「私の」智慧なんていうものはなくて、誰がどう何がどうというもののない、一如を一如あらしめている働きだけの世界が広がっていたということを思い知らされるのです。

 

 

あけましておめでとうございます

今年の元旦の言葉は

「明浄正直(めいじょうせいちょく)」

を挙げたいと思います。

「明(あか)き浄(きよ)き正しき直(なお)き心」は、古くから神道で理想とされたこころの有り様であり、それは特別な努力を経て獲得されるものではなく、最初から我々に与えられたこころの有り様なのでありました。

後から付いた余計なものを取り去って、戻りたいなぁ。

自ずと我々にそう思わせるものが、この世界に働いているのであります。

 

令和八年 元旦

 

 

 

「要するに、それだけ人間というものはふんぎりが悪いのです。親自身がそういう自覚を持っていれば…我が子がそういうことをやっている時にわかるわけです。ですから人間の心理には、大人も子どももないということが言えます。つまり大人がちょっと自分でふり返って自分のことを考えれば、子どもの心理も言うこともすぐわかるわけです。大人と子ども、善人も悪人も、人間の心理としてはみな共通なのです。
私はもとより自分が、特にすぐれた人間でないことを知っています。私なりの精一杯の知恵で考えてゆきたいと思っています。愚かな者もまた生きていけますし、また生かされていくのです。愚かな者も賢い者と同様に生かされていくものだ、ということを私は感じます。それだからこそ、ありがたい。善人だけが生かされるのだったら、とてもたまったものではありません。悪人もまた生かされるところがすばらしいと思います。
人間は苦悩や欲望を持った存在、煩悩を持ちながら生きている存在ですが、それこそそういう人間が、やはり自分の中にかかえている煩悩によって教えられるのです。煩悩を経験することによって『ああ、これはつらいなあ』と苦悩を知るわけです。苦悩を知ってはじめて助けを求めるわけです。助けを求めて、助けとられる歓びを知り、そこではじめて素直になるわけです。ほんとうに愚者にかえるのです。愚かさそのものに素直になる。それまでは愚者のくせに多少は賢いつもりで、あちこちとごちゃごちゃやっているのです。…やはり己を知るということは、自分が感じるということしかないわけです。素直になってはじめて自分の愚かなることを悟り、その結果、愚かなままに救われて、ひとつの自由な境地を得られるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

近藤先生は私の前でも「私はもとより自分が、特にすぐれた人間でないことを知っています。」と同趣旨のことを何度もおっしゃっていました。
それが形だけの謙遜ではなく、本気の言葉であることが毎回伝わって来ました。
その徹底した凡夫の自覚。
そしてその上での「
愚かな者もまた生きていけますし、また生かされていくのです。愚かな者も賢い者と同様に生かされていくものだ、ということを私は感じます。」という言葉は、本当に私の生命(いのち)に響きました。
こんなクズでも生きていける、生かされていけるのだと。
もう手を合わせて生かされて行くしかないと思いました。
素直になってはじめて自分の愚かなることを悟り、その結果、愚かなままに救われて、ひとつの自由な境地を得られるのです。」

 

そんな気持ちで来年もまた共に生かされて行きましょうね。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」に続いて、今日は『葉隠(6)』(中・聞書第五・四七)。

ある姫さまが外出時に見かけた他家の家臣たちに比べ、当家の家臣たちはいかにも見劣りすると、殿さまに訴えた。
それに対する殿さまの答え。
「他方の供の者は見掛(みかけ)よき男を選(えら)み、寸尺(すんしゃく)に合はせ、見場(みば)一篇に取り集めたる抱者(かかえもの)にて候(そうろう)。それ故何事と云(い)ふ時は、主(あるじ)をも見捨て迯(に)ぐる者共なり。我等が家中は譜代(ふだい)相伝の者共ばかり故、
見掛の善悪も構はず、在り合はせ候者を供に連れ候故、見物所はこれなく候へども、自然の時は一歩も引かず、主の為に命を捨つる者ばかりにて候。此方(こなた)の家は不男(ぶおとこ)が名物にて候。」
(他家の供の者たちは見かけの良い男たちを選び、背格好を合わせて、外見だけで集めたお抱え者たちである。だから、いざというときには主君さえも見捨てて逃げるヤツらだ。我々の家臣は代々仕えて来た者たちばかりである。見かけの良い悪いに関係なく、そこにいた者たちを供に連れて行ったので、見栄えのするところはなくても、万一のときには一歩も引かず、主君のために命を捨てる者ばかりである。当家は醜男(ぶおとこ)が名物である。

 

余計な解説は不要でしょう。
武士の外見でなく内面の矜持(きょうじ)を表わした逸話だと思います。

「此方(こなた)の家は不男(ぶおとこ)が名物にて候
当家は醜男(ぶおとこ)が名物である

とは、いかにもいかにもかっこいいセリフです。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』に続いて、今日は『葉隠(5)』(上・聞書第二・一一一)。

「何某(なにがし)は御家中(ごかちゅう)一番のたはけなるが、たはけに自慢して『我はたはけなるが故(ゆえ)身上恙(つつが)なし。』と申したるとなり。奉公の志と云ふは別の事なし。當介(とうかい)を思ひ、自慢を捨て、我が非を知り、何とすればよきものかと探促(たんそく)して、一生成就せず、探促し死に極るなり。非を知って探促するが、則ち取りも直さず道なり
(誰々は家臣の中で一番のアンポンタンであるが、アンポンタンであることを自慢して「自分はアンポンタンであるから身の回りに問題なし。」と言っているという。主君に仕える心構えというのは特別なことではない。主君を大切に思い、思い上がる心を捨て、自分のダメさ加減を知り、どうすればよいかと追い求めて、一生答えに辿り着くことなく、追い求め続けて死んでいくことに極まるのである。自分のダメさ加減を知ってそれでも追い求め続けるのが、取りも直さず、武士の道というものである。)

 

「たはけ」を「アンポンタン」と訳してみましたが、「ポンコツ」でも「愚か者」でも「凡夫」でもよいでしょう。
そういう自分の愚かさを自覚した上で=情けなさの自覚を持った上で、たとえ死ぬまで成長し切れなかったとしても、成長しようとし続けて行くこと=成長への意欲を持ち続けて行くこと、が武士(もののふ)の道であると言っています。
なんだかいつも私が申し上げていることと同じことを言って下さっているようで非常に面白く読みました。
唯一の違いは、これが『葉隠』の場合は、「當介」=忠=主君に仕える武士の道であるということであり、私の場合は、私を私させてくれる生命(いのち)の働きに応えて行く人間の道であるということでしょう。

 

「父親だって昔は子どもだったのです。母親も娘の頃がありました、その頃の気持を思い起こしてみましょう。大人は若い者に対して自分を抜きにして、つい評価したり、判断したりしがちなものです。ためしに子どもを批判する評価の基準を、そのまま自分たちに向けてごらんなさい。それに耐えられますか。そんな無理なことを子どもに言ってもできるわけはありません。…
八雲学園の高校生がある校則違反をしました。あのくらいの年頃の高校生は、自分でしていることがどんなことか、ちゃんとわかっているのです。悪いとわかるけれどやめられない、という気持なのです。こういう気持は大人にもあります。するとその子が一度くらい過ちを犯しても、とがめだてするようなことは私にはできません。互いにそのような気持があるという共感の世界に立ち、しかしやっぱりやってはいけないことはやらないことだとわかり合えば、子どもも納得します。
教育ということを考える場合、教えるということは、こういうことをすればこういうことになるということを教える、つまり知識や情報を与えるということです。しかし育てるということ、教育の育の方は共感の世界でなければ育ちません。どこかに、『先生は、わかってくれる』というところがないといけません。…
少なくともひとたび信頼感を持ったら、どんなに叱っても、こちらの気持を理解してくれます。信頼や共感がないところにきつく叱っては、ただ怖いだけです。『あの先生はわかってくれる。わかった上で言ってくれてるんだ』ということが伝わらなくては、どんな言葉も役に立ちません。…
とにかく、親でも子でも、みんな同じ人間であるという気持、そして人間というものは自分も含めて完全でないということ、完全でないという悲しみを互いに感じるところから出発せざるを得ないのです。…
普通、人は大てい自分を棚上げして言っています。相手に共感する、あるいは相手を認めるということは、その人にいいところがあるから共感したり評価するというようなことではありません。そのような善悪の評価では決してありません。一般に世の中では善いことをすすめ、悪いことを罰するとよくなるという錯覚があります。人間は、他人に注意されたり教えられたりして、そう簡単に変わるものではありません。自分でいろいろ体験して、つまりいろいろな試行錯誤があって、あの人が言ったのはほんとうだと感じた時、初めて自分から変わるのです。それをしっかり感じないと、また誤りを犯してしまいます。何回か失敗して『あ、やっぱりそうですね。わかりました』とほんとうに気づいて変わるものです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

まずは「教育」の「教」と「育」の違い。
「教」は、知識や情報を与えるということ。
それに対し、「育」は、いわば、あなたもわたしも共に凡夫(ポンコツでアンポンタン)であるという「共感」のベースの上に、相手の成長を育んで行くということ。
次に、人間の変化・成長について、「
人間は、他人に注意されたり教えられたりして、そう簡単に変わるものではありません。自分でいろいろ体験して、つまりいろいろな試行錯誤があって、あの人が言ったのはほんとうだと感じた時、初めて自分から変わるのです。
頭でわかっても人間は変わりません。体でわかって、体験的にわかって初めて人間は変わるのです。
従って、それまでいろいろな試行錯誤をするのを待つ、見守るということも必要になってきます。
今回もまた近藤先生は、我々がわかっているようで実はわかっていなかったことを、明確に、かつ、わかりやすく、説いて下さっています。
この姿勢こそが、まさに私たち読者に対する(文章を通してさえ伝わって来る)「共感」の上に立った、私たちの成長を育む「愛」の実例なのでありました。

 

 

面談に来られている人が、早めに着いたので、近くの公園のベンチに座って、時間調整をしていたという。
すると、公園の端っこで、小学校低学年くらいの女の子と若いお父さんとがバトミントンをしているのが目に入った。
小さな女の子の打つシャトルは不安定で、どこに飛ぶかわからず、その度にお父さんは大忙しで飛び回る。
しかし毎回、子どもが打ちやすいところに優しくシャトルを返していた。
それでもお父さんがシャトルを取りそこなうと
「パパ、ちゃんと取ってよぅ。」
と女の子が文句を言う。
「ごめん、ごめん。」
と笑いながら答えるお父さん。
とんでもないところに打った娘が悪いはずなのだけれど、自分の非として受け入れるお父さんの笑顔に愛がある。

それを見ていて涙が出ました。
小さい頃から、私の方がいつも親の不安定な言動に合わせて、カバーして、フォローしていました。
まともな親子はそうじゃないんですね。
あのお父さんのように、親は、子どもが気づかなくても、子どもに合わせ、子どもの非まで引き受け、子どもが楽しく過ごせるようにしてあげるんですね。
うちの家庭は逆でした。
親の失態まで私のせいにさせられていました。

もちろん親は親で、働いてお金を稼いだり、御飯を作ったり、着るもの、寝るところを用意したりと、何もしなかったわけではない。
いや、むしろ相当に頑張ったかもしれない。
しかし、金銭的なもの、物質的なものだけでは、子どもは満たされないのである。

あなたの存在を大切に思っている。

衷心からそう思い、それが具体的言動の端々(はしばし)に現れて、相手に沁みるような関係性でないとね。

折角そのことに気づいたんだから
もうそろそろ自分以外の誰かに合わせ過ぎる生活はやめて
せめて自分だけは自分に寄り添う生活を始めて行きましょうね。

 

 

(以前にも本文の一部を取り上げたが、今回正式に全文を取り上げる)

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』に続いて、今日は『葉隠(4)』(上・聞書第二・一〇七)。

「公事沙汰(くじざた)(=裁判や訴訟)、又は言い募(つの)ること(=主張)などに、早く負けて見事な負けがあるものなり。相撲の様なるものなり。勝ちたがりて、きたな勝ちすれば、負けたるに劣るなり。多分きたな負けになるものなりと。」

 

「勝ちたがって汚い勝ち方をすれば、それは負けるのにも劣ることです。それはきっと汚い負けということになるでしょう。」
勝負としての勝ち負けがあります。
しかし、それだけではなく、勝負の仕方、人間の生き方としての勝ち負けがあるわけです。
たとえ勝負に勝ったとしても、それが“汚い”勝ち方であったならば、それは人間として“汚い”負けになります。
人間の生き方として“汚い”ということは、武士(もののふ)としては万死に値します。
それが『葉隠』の道なのです。


 

「よく、日本人は母性原理に立っている民族であり母性崇拝的である、その点、文化的に父性原理に立っているヨーロッパ人と大きな違いがあるなどと言われます。
一般に母性とは、すべてのものを育み包み込む、愛情にみちたものであるという、一種のロマンチックな考え方があります。そうした考えを裏付けるように、いままでの日本の母親は特に、自己犠牲的なところがありました。そういう点でたしかに、ほんとうに子どもだけに尽くしていたというところがありま
ところで最近は、自己を犠牲にして子どもに尽くす母親もありますが、自分の欲望や考えを子どもを通して実現しようという、少し男性的なところも大分出てきました。一般的に昔の母親は自己犠牲が普通だったのですが、近年は男並みに自己中心的になってきたと言えましょう。
男性は元来が自己中心的ですから、その反対のものを見て非常に賛嘆し、嘆美してきました。上記のロマンチシズムもこうした男性の感情の反映とも考えられます。ところが女性の側も、負けずに自己中心的になってきましたので、表面的にみると女性は意欲的になった、強くなってきたという印象を与え、いままでの母性像から大分変わってきた感があります。この、自己中心的になり、自分の欲望を子どもを通して実現させようという考えが端的に表れているのが教育ママです。…
それは要するに、親の管理のもとに世間並みの、あるいは世間よりすぐれたコースを歩ませようという、功利的な打算に基づいた自己中心的な考え方です。
これは決して、ほんとうに子どもの成長をねがうところの愛情ではありません。世間の価値観を無批判に受け入れ、自分の虚栄心や支配欲を満足させようという態度に他なりません。…
母の愛というものは、子どもの側で感じ、言うことはよいのですが、これを母親が自分の方から、これが母の愛よ、と言うと間違ってきます。…
愛情というのは、子どもなりに第三者からみて、『お母さんはやさしい』と感じられるものです。そのような愛情は、見ていて静かに深い感じがします。母親の知恵がふくまれているのです。
知恵というのは、おのずからその子どもの生命を生かすような知恵ですから、自己中心的な、あるいは功利的な感情によごされたものではない。静かに子どもの成長をみて、わが子の独自の生命を感じとって育てていく、このような知恵をさします。…

よく、子どもは親の言葉でなく親の行動をみて学んでいくとか、親の後姿をみて育つとかいいますが、子どもにとって直感的に感じられる親の落ち着いた生き方、つまり親の内面的な心と外側の行動に矛盾のない姿が、子どもに信頼感を与えるのです。
とかく教育者や宗教家の家庭に非行少年が出ることがありますが、これはその人たちが、倫理とか道徳とか、言葉や概念の世界に住んでいて、言っていることと行動とが矛盾し、自分の正直な姿を出していない場合に起こりがちなことなのです。
『正直にしなさい』と言われて、もしそう言っている当のその人が嘘つきだったらどうでしょう。子どもはものすごい不信感におちいります。そんな父親を持ったら、たまったものではありません。自分のいちばん信じたい人が信じられないくらいつらいことはないのです。
むしろ、ぐうたらおやじでも酒飲みであっても、その自分の姿を認識して、正直な姿を示した方がよおいと思います。
」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

またもや、深いことをさらっとおっしゃる近藤先生です。
男性は元来が自己中心的ですから」…あいたたた。
とかく教育者や宗教家の家庭に非行少年が出ることがあります」…教育者や宗教家だけでなく、精神科医や臨床心理士/公認心理師などの精神科医療関係者を加えてもいいでしょう。
自分のいちばん信じたい人が信じられないくらいつらいことはないのです」…そうだよね。親を信じたいよね。先生も信じたいよね。
そして今日のお話の一番の眼目。
知恵というのは、おのずからその子どもの生命を生かすような知恵です
世俗的な、表面的なことはどうでもいいのです。
「子どもの生命(いのち)を生かす」、この視点があるかないかがすべてです。
本当の意味で、その視点に立ち戻ることができたならば、子どもにどうかかわったらいいか、という答えは自ずと見えて来ることでしょう。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目に続いて17回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、かなり最終コーナーを回ってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(4)

ここまで、分析過程を極めて簡略化して述べた為に、何か分析が易々(やすやす)として行われるかの如き感じを与えるかもしれない。しかし、それは実際に於て痛苦と困難に満ちたものである。と言うのは、その行程が第1に患者の無意識にあるものを意識化すると言うことと第2には神経症的態度が、少なくとも、患者がそれによって安全感を得ている態度であり、自らの価値を置き、無意識に同一化している、「仮幻の自己」を中心とする神経症的体系の防衛のための方法でもあるからである。
治療者を訪れる患者の意識には、症状から免(まぬが)れたい気持はあっても、その為に彼の生活態度の根幹である神経症的構造の変革を考えているものではない。従って、症状から出発して、分析が彼の神経症的傾向の露呈を招来する時に、確かに一方に於て、先述した様に洞察のもたらす効果があるが、他方に於て、自分が無意識裡(り)に当然とし、維持せんとする神経症的体系の構造が露呈され、問われ、その価値が批判されると感じるのである。
このことによって、彼の安全感を防衛するための抵抗が無意識裡に生じる。そして、これこそ分析を困難に陥(おちい)らしめるものなのである。この様な抵抗は分析時の遅刻、様々な積極的、消極的表現をとって現われる。これを取り扱う時に重要なのは恐らく次の様なことであろう。
それには第1に、出来るだけ初期に於いて、抵抗がまだ比較的弱い形を取っている時に、分析者が早く initiative を取り、患者に抵抗の存在を気付かしめ、抵抗の内容と意味を患者と協力して吟味し、分析して明確にすることによって乗りこえて行くと共に、抵抗一般に関する患者の理解を高め、それによって、後に起るべき大きな抵抗に対処する態度を準備することである。
第2に抵抗のもとであるところの不安や安全感の脅威を取扱うに当って、それが何の不安であり、何の安全感の脅威となっているかを問い、それが神経症的な自我の感じる不安であり、脅威であることを明らかにして行くことである。
第3に患者が誤って分析者からの批判としてとっているものが、実は他ならぬ患者自身の健康な自己 ー 治療的な力の源泉である ー「真の自己」の発する批判であること、そのもたらす現実認識に基づくものであることを明らかにして行くことが重要である。

 

近藤先生が示されている通り、クライアントは一方で症状を取ってもらいたいと思ってセラピストの許(もと)にやってくるのであるが、他方では自分を守るために身に付けた神経症的人格構造にはしがみついていたいのである。
ここに困難が生じる。
この二つを両立させる道はない。
従って、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことをクライアントは思い知る必要がある。
本当の「治療」はそこから始まるのであるが、そこまでに非常に長い道程(みちのり)を要するのが「臨床」の実際である。
また、八雲総合研究所のように「成長」を目指す場合においても、「症状」こそ存在しないが(存在すれば「治療」対象となる)、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことを思い知る必要があるのは全く同じである。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」とは、そういう意味なのである

 

「父親は子どもにとって、手本ともなり鑑ともなる、一つのしっかりした像でありたいと思います。…
父親が社会の現実について、子どもにしっかりした情報を与えることができる。また人生の生きる上で、どうしたらよいかの信念を持っている。こうした父親に子どもは信頼感を持ちます。…
第二次大戦のあと…制度上も観念的にも、尊敬の対象としても父親像が一ぺんに失われてしまいました。父親の権威と権力が一ぺんになくなってしまったわけです。
それでは、いまの父親に権力意識がないかというと、ストレートには出ませんが、隠れた形であるわけです。昔はどうかというと、私の父などは、二言目には『何だお前、俺の言うことがきけないのか!』と権力意識丸出しでした。けれどもいまの親は、自分はまるで権力意識がないような言葉遣いをして、しかも裏に権力欲を持ちながら接するからおかしなことになります。
子どもは虚偽というのが嫌いです。これはほんとうは、大人でも嫌いでしょう。たとえ使っている言葉は丁寧でも、底に親の権力欲がみえ、結局自分の考えを強制的に押しつける時、子どもはそこに虚偽を感じとってしまうのです。…
男の子は男の親とほんとうに人間として真剣に対決する時があります。そうしてほんとうの男性になり、人間になっていくものです。理解だとか相互の対話なども大切なことですが、こうした対決も成長の上で必然的なことであり、それを通じて父親は子どもを鍛え、成長させていくものです。…
最近、特に親子の理解とか、人間どうしの理解が叫ばれ、たやすく『理解』という言葉を使いますが、理解などということは決して簡単なことではありません。自分の子どもですら、公平無私な愛情をもって理解するなどということはなかなかできません。…理解できないというのは互いに悲しいことであり、つらいことではありますが、理解できないことは、理解できないという事実として認めなければなりません。お互いに事実を認めることにおいて、そこに共感が成り立つのです。その時には、理解できなかった。それでは理解するために何が解決になるかというと、簡単に言えば、よく言うところの時間が解決することが少なくないものです。時間が解決するとはどういうことかというと、時間をかけてお互にいろんなことを経験し合うことによって、理解に近づいていくということです。いわゆる時熟とか時節因縁ということでしょう。
私は職業がら、親子関係がうまくゆく方法をよく聞かれます。ところが、うまくいかないのが親子関係なのです。それをうまくやろうというのは不自然なことです。うなくいかない、そこにほんとうの真剣さを要求されるものがあるのです。…
子どもが成長して、ある時期、親に刃向かってくる時があります。このような時、親はその攻撃から逃避したり、妥協してうまくやろうというのではなく、子どものために、剣道で言えばけいこ台になってやるくらいの気持がなければなりません。けいこ台であっても、いい加減に相手をすることはできません。時には激しく打ち込む場合もあるでしょう。
その時すぐには、子どもはその一撃を、親の愛情として受けとめることができないかもしれません。しかし、親にほんとうの愛情があれば、あとになって必ずわかってもらえるものです。
底流、アンダートーンという言葉がありますが、深い愛は底流のようなものです。
浅い愛は目に立つが、すべて深いものはかくれてわからないもので、あとになってからほんとうに深くわかるものです。その意味でも待つことが必要であります。はげしい対立のあとに感じられる理解のうれしさは、深く流れる底流があったればこそ味わえるものでしょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「子どもは虚偽というのが嫌いです。
またもや近藤先生は大事な真理をあっさりとおっしゃるものです。
だからこそ大人が子どもに接するとき、嘘偽りのない姿勢が要求されます。
そして、親子の相互理解の難しさ。
時には激しく対立するときもあります。
そのときも親は真剣に誠実に子どもと向き合うということ。
そしてすぐに安易な解決を求めず、時熟を待つ、必要な時間をかけて本当の相互理解が深まっていくのを待つ姿勢が必要となります。
ここでもまた、思い通りにならないことを抱える力、(小児的態度ではなく)成熟した大人の力が要求され、さらに、子どもへの、心の深いところを流れるような、深い愛が要求されるわけです。
そういう時を経て、相互理解できないことに本気で苦しみ、真剣に対立した後だからこそ、味わえる深い喜びと相互信頼があるわけです。
そしてこのことは、親子関係においてだけではなく、すべての深い人間関係において共通の真実と言うことができるでしょう。

 

 

前回の『葉隠(1)』『葉隠(2)』に続いて『葉隠(3)』(上・聞書第二・八四)。

 

「正徳三年十二月二十八日夜夢の事。志強くなる程夢の様子段々變(=変(かわ))り申し候(そうろう)。有體(ありてい)の例は夢にて候。夢を相手にして、精を出し候がよきなり。」
(志が強くなるほど、夢の様子が段々変わって行きます。ありのままに出るのが夢です。夢を相手にして精を出すのが良いでしょう)

 

最初の「志が強くなるほど」というときの「志」の意味は、自分の主観的な思いのことではありません。
「志」という漢字は「心」が「士」を下から支えています。
つまり、その人を下から支えている力が働いているものが「志」であり、「志が強くなるほど」とは、その人をその人させる力が強くなるほど、という意味になります。
そうなってくると、夢が変わってくる。

そもそも(余程浅い夢を除いて)「ありのままに出るのが夢」であり、夢にはその人の今の本音=今の問題や成長課題、そして成長段階がよく現れます。

そして、「夢を相手にして精を出す」というのは、何も夢を相手にして、ああいう夢を見ますように、こういう夢を見ますようにと頑張ることではなく(そんな意識的なものは夢に反映されません)、夢が変わっていくかどうかを目安にしながら、自分自身の問題や成長課題と向き合って行きましょう、ということを言っているのです。

本音が変わると夢が変わる、というのは実は、自分の真の成長度を測る上で非常に役に立つ現象なのです。

 

 

前回の『葉隠(1)』に続いて、『葉隠(2)』(上・聞書第一・五十)。

ある武士が酒席で失態を演じた。
この者の処遇をどうするかが議論されたとき、大方は「立身無用」、即ち、こんなヤツに今後出世の機会はないようにするべきだ、と決しかけたが、ひとりの武士が、一度間違いを犯したの方が後悔し、お役に立つようになる、むしろ出世させるべきだ、自分が請け合う、と申し出た。
何故そこまで請け合うのか、と訊かれたその武士の答え。

「誤(あやまり)一度もなきものはあぶなく候(そうろう)。」
(過ちを一度も犯していない者は危のうございます

先日拙欄で取り上げた『新約聖書』の

「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)

を連想する。

過ちを犯したことのある者、そういう人間の弱さを知っている者こそが、
過ちを犯したことのない者、正確に言えば、過ちを犯したことがあるくせにそれに気づいてない者よりも、
はるかに信用できるのである。

 

 

「父親が、子どもとできるだけ行動を共にすることが非常に大切だと思います。…そういうふうな触れ合いをとおして、お父さんはこんなことを感じているんだとか、考えているんだとかいうようなことが自然に耳に触れる。お父さんの行動や考え方が、以心伝心で膚(はだ)で触れるというふうな感じ、そういうようなものがやはり子どもにとって、子どもの実感をつくっていくのに役に立つのではないかと思うのです。…
私はどうしても教育の本来の形は、はじめは親子の間にあったと思います。これは私の持論です。教育とは親子の間の関係にできるだけ近いものにすることが大切ではないかと思うのです。実感ということも、共感の中の実感というか、実感を共感するというか、そういう関係の中で経験することができます。…
実感を分かち合うことがコミュニケーションなのです。コミュニケーションの『コム』というのは『共に』という意味です。実感を共にすることです。私はそれが親子関係では、いちばん大事なことではないかと思います。…
お義理の家族サービスではない、父親自身がそのことを楽しんでいる姿が、子どもと行動を共にしながら喜んでいるその姿が、子どもにおのずからよい影響を与えることになるのです。
次に父親にとって大切なことは、やはり時々、自分のための暇を作るということでしょう。…
それは自分の内部感覚、自分の生命の呼び声、深い所からの促しを聞くために必要なのです。…
例えば、庭いじりでも日曜大工でも、音楽をきくことでも静かに瞑想することでも、ゆっくりくつろぐことでも何でもいいのです。その中で、一個の人間として自分の命を感じてほしいのです。自分の命が息づいているのを感じる、内部感覚の実感が非常に大切です。
こうした自分自身になった父親の姿を子どもは敏感に感じとります。『何だかお父さんは楽しそうだなぁ』と、それだけでも子どもは安心感と信頼感をもって受けとめるのです。
ところで、自分自身の声をきき、内部感覚を感じ、自分自身になるために、いつでもどこでもできるいちばん簡単な方法は、肩の力を抜いて、ゆっくりとすわってみることです。
ゆったりとしながら…自分の中に湧き起こってくるいろいろな気持を、『ああ、なるほど』と、静かに感じ、見ていく余裕をもつことです。…
自分の声を聞いている。自分の中に起こる状態の在りのままの姿を素直に見ているのですから、いちばん正直であり、最も倫理的な姿であると言えます。倫理の根本は自らを欺かないことです。自らの内なる声に、内部感覚に素直に耳を傾ける、ここからほんとうに自分にとっての正直な行動、落ち着いた態度が生まれてきます。…
自分の内部感覚を尊重し、生命の声に気づいて、その上で自分自身の眼をとおして社会や文化を眺め、人間の生命をほんとうに生かすものかどうか判断し、感じとっていかなければ「ならないと思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

順番としては、まずお父さん自身が、自分の時間を持ち、内部感覚を磨いて、自分の中の生命(いのち) の声を聴けるようになること。それがあってはじめて、自分の生命(いのち)を本当にいかすことができるようになります。
「倫理の根本は自らを欺かないことです。
なんと深いことをさらりとおっしゃるのでしょう。
倫理=ひとの道とは、自らを欺かないで生きること=自分の生命(いのち)を本当にいかして生きることなのです。

そしてそういう「感じる力」を持って、今度は、子どもと「行動を共にする」時間を持つこと。
そうすると、ひとつには、子どもはこのお父さんの内面の変化・成長を感じ取ります。それが子どもに影響を与えることは間違いありません。
そしてふたつには、お父さんは、自分の中の生命(いのち)の声を聴けるようになるだけでなく、子どもの中の生命(いのち)の声も聴くことができるようになります。そうして子どもの生命(いのち)を本当にいかすことも可能になってくるわけです。
やはり親子の成長は同時なのです。

 

 

ある日、面談の申し込みが届く。

「予約フォーム」の「あなたはセラピストの松田と面識がありますか?」の欄を見ると、
「ああ、あのときの教え子の〇〇さん。」
とか
「ああ、そのときのワークショップ/勉強会に参加していた□□さん。」
とか
「ああ、あのときの講演に来ておられたのね。」
と懐かしく思い出すことがしばしばある。

私の中では、それが何年前でも何十年前でも、一度でも教えたことがある相手は永遠に教え子だ、と思っているところがあり、その意味では、ワークショップや勉強会の参加者や講演の聴き手もそれに準ずる出逢いだと思っている。
そのとき何か心に響いたものがなければ、私に関する記憶などとっくの昔に消えてしまっただろう。
そこに縁の分かれ目がある。
「その後」も、このホームページを見てみようという気持ちになるところに、何かが働いている気がする。

かねがね申し上げてきた通り、一生のうちに、ある程度以上深い話をすることのできる相手は限られている。
1億人も2億人も相手に話してはいられない。
しかも当研究所の「対象」を満たす人に限られている。
そんな中で、縁ある人、それは即ち、私がその人の成長に関わることになっている人からの面談申し込みがある度、私の中では、なんとも言えない、ミッション遂行の機会が与えられた気持ちになるのである。

これからも今回の人生で授かったミッションを果たして、生きて死にたいと思っている。

 

 

五カ月ほどかけて、岩波文庫の『葉隠(はがくれ)』(上)(中)(下)三冊を少しずつ少しずつ読み進め、ようやく昨晩読了した。

『葉隠』は、江戸時代、鍋島藩士であった山本常朝(つねとも)の話を聞き書きした田代陣基(つらもと)が編集したもので、武士道の精神的要諦を示す一書である。

『葉隠』と言えば
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
という一文が有名であるが、今回、本書を読もうと思ったきっかけも、まさにその真意を見い出すためであった。
その結果は後日示すとして、折角読了した『葉隠』の内容を私の胸の内だけに留めておくのももったいないと思い、心に響いたものを何回かに渡って記すこととした。

 

まずは今日の一節(上・聞書第一・四七)。

「物識りの道に疎(うと)き事は、東に行く筈(はず)の者が西へ行くがごとくにて候(そうろう)。物を知るほど道には遠ざかり候。その仔細(しさい)は、古(いにしえ)の聖賢の言行(げんこう)を書物にて見覚え、咄(はなし)にて聞き覚え、見解高くなり、はや我が身も聖賢の様に思ひて、平人は蟲(むし)の様に見なすなり。これ道に疎き所にて候。道と云(い)ふは、我が非を知る事なり。念々に非を知って一生打ち置かざるを道と云ふなり。聖の字をヒジリと訓(よ)むは、非を知り給(たま)ふ故(ゆえ)にて候。佛は知非便捨の四字を以(もっ)て我が道を成就すると説き給ふなり。心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數(=数(かず))限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈なり。」(江南和尚)

まず物知り=受け売り知識の思い上がりを戒め、「道と云ふは、我が非を知る事なり」(道というのは自分がダメだということを知ることである)、「聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふ故なり」(聖という字をヒジリとよむのは、自分の非を知っている(自分がどれだけダメかを知っている)からである)、「心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數限りなく候」(ちゃんと気をつけてみれば、一日のうちに悪しき心が起こるのは数え切れないほどである)。
即ち、私が常々申し上げている「凡夫の自覚」(自分がどれだけポンコツでアンポンタンかの自覚)のことを指摘しているのである。
時代を超えて、我が意を得たり、という言葉に出逢うのは嬉しいものである。

 

 

「母親になることは女の人にとって、すばらしい経験だと思います。私も医師として、何べんか分娩の際に立ち会ったことがありますが、そんな時いつも感じるのは、赤ちゃんを生んだときの女の人の顔くらい輝かしいものはないということです。夫が側にくると、『あなた』と言いながら夫を見つめるその顔は輝いて、ほんとうに大きな仕事をなしとげたという、満足感と歓びを感じているように見えます。それにつけてもあとになって、子どものことについていろいろと思い悩む時に、この時の心からの歓びを思い出してほしいと思います。
子どもにとって、特に幼児にとって母親は絶対のものです。母親の胸の中で膝の上で、お母さんの肌に触れつつ安心感を覚え、情緒的にも安定した子どもとして育っていくのです。…
人間がこの世に生まれてきて、はじめに母の懐に抱きとられた時のあの安心感と喜びは、いつまでも懐かしいふるさとであり、心のよりどころです。大きくなって世の中に出て、苦しいことにあった場合でも、もう一ぺんこの気持に帰って、また出直すことができます。このいちばんのもとになるものは、この頃の実感が基礎になっているのです。…
子どもを育てることに歓びを持つ母親の許で、はじめて子どもは安定感を持ち、それこそ伸びやかに育っていくわけです。そうやっていると、子どもと母親との関係は非常に安定したものになります。こうした安定感はまず何よりも、人間の一生の中でのいちばん基本的な財産だと思います。
それではこの時代に父親はどんなふうな協力ができるでしょうか。…幼児は母親とはもう一心同体のような感じですから、母親の感じるものを全部感じとるのです。ですから父親が ー 父というよりもこの時代はむしろ若い夫と言った方がいいでしょうが ー 喧嘩したり心配させたり、
焦々させたりすると、それがたちまち子どもに影響します。子どもが不安になり泣きわめいたりして、その安定感、安心感にに影響します。ですからその時期の男性の役割は、母親が子どもに安心感を与えられるように、夫として自分の妻に安心感を与えることが大事なのです。まずこれが、若い夫が父親としてしなければならない第一のことです。まあ、二歳から三歳までに「それが果されていれば、まず、建築でいえば、需要な礎石が造られたと言えましょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』より)

 

実際の子育ての中で思い悩むことは多々あるものです。
そんなときいつも、近藤先生のおっしゃっている通り、その子が生まれたときの体験、感覚を是非思い出していただきたいと思います。
生命(いのち)を授かること、出産することは、一種の神事であり、神業(かみわざ)だと私は思っています。
その大きな働きの中にお母さんがいる。
だから出産のときのお母さんの顔はあんなに神々(こうごう)しいのです。
あのときの体験を感覚をどうか大切にして下さいね。
そうして、お父さん。
ここで近藤先生は、夫が妻に安心感を与えることの重要性を強調しておられます。
その言葉を変えますと、それは妻を愛してほしい、ということに他なりません。
夫は妻を愛し、子どもを愛する。
そして妻は夫を愛し、子どもを愛する。
それさえあれば大丈夫です。

 

 

ある浄土真宗のお寺のご住職。
普段からお念仏をこころがけて生きて来た真面目なお坊さんであった。
坊守さん(住職の妻)との関係も睦まじく、愛妻家としても知られていた。
それが妻を癌で亡くされ、後期高齢者になった頃から認知症症状が目立つようになり、遂に施設に入所された。
グループホームでは、妻が亡くなったことも忘れて、朝起きてから夜寝るまで奥さんを探し、「さっちゃん(奥さんの愛称)、さっちゃん。」と繰り返し繰り返し呼んでいた。

たまたまお寺の檀家であった人が職員としては働いていて、
「あんなに信心の篤(あつ)かったご住職が念仏を称(とな)えるでもなく、奥さんの名前ばかり呼ぶようになっちゃって…。」
と嘆いていたが、その話を聞いて、私はそうは思わなかった。

「そのご住職にとっては、奥さんの名前を呼ぶことが念仏なんですよ。」

南無阿弥陀仏と称えることだけが念仏ではない。
一遍上人のおっしゃる通り、

「よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」(『一遍上人語録』)
(ありとあらゆる生き物、山や川や草や木、吹く風・立つ波の音までも、念仏でないものはない)

私には、その「さっちゃん、さっちゃん。」が「寂しい」「辛い」「助けて下さい」と聴こえ、そのまま「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に、人間を超えた力におすがりします、おまかせします)」と聴こえて来るのである。

 

 

『新約聖書』の中に、姦通罪で捕らえられた女が律法に従って石打ちの死刑に処せられそうになったとき、学者やパリサイ人から意見を求められ、イエスはこう答えている。
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)
これを聴いた彼らは良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれて、一人また一人と立ち去っていき、イエスと女だけになったという。

この有名な話を思い出す度、私にはこのイエスの言葉が
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ人を咎(とが)め諭(さと)せ」
(おまえたちの中でやらかしたことのない者がまず他人のことを(上から目線で)非難し、(偉そうに)教え諭しなさい)
と聴こえて来る。

そもそも我々迷える仔羊は、相当にひどい存在である。
無数の悪行・罪過・背徳・裏切り・虚言・増長・傲慢などの罪を犯しながら、自分で気づいている/覚えているのはほんの氷山の一角に過ぎず(しかもそのほんの一部を認めて自分はなんと謙虚なのだろうと思い上がったりするくらいひどい)、
そのくせ自分のことは棚に上げて、
上から目線で他人のことをを非難したり、偉そうに他人を教え諭したりする。
他人を非難したり、他人を教え諭す資格が我々にあるかと問われれば、そのやらかしてきた行状を振り返る限り、
ないっ! 絶対にないっ! 微塵もないっ!
それが我々の偽らざる実態である。

それなのに思い上がって、勘違いして、
「先生」をやったり
「親」をやったり
「経営者/上司/先輩」をやったり
「専門職/専門家」をやったり
「権力者」をやったりしている。

ダメでしょ、それ。

しかし、じゃあ、全員がただ黙って他人に関わらないようにすれば良いのかというと、そうもいかない。
それだと誰もが成長しないままに終わる。

よって、こういうことになる。
我々凡夫には、間違っても、他人を非難したり、他人を教え諭したりする資格はないけれど、
我々を通して働く力にはその資格がある。
即ち、もし我々を通して神の御業(みわざ)が行われるならば、人を非難し、人を教え諭す資格が発生するのである。

即ち、わたしには資格がないけれど
わたしのこころの奥底に働く聖霊(仏教なら仏性、神道なら分御霊、精神分析なら宇宙的無意識)にはその資格がある。

そのときは、そのときだけは、言って(言わされて)良いのである。

 


 

最近、いろいろなところで「利他」という仏教由来の言葉が取り上げられているが、その内容が余りにお粗末であるため、ここで気がついたことを記しておきたい。
尚、拙欄で「利他」の本質を系統的に取り上げていく余裕はないので、気がついたところから記しておく。

[1]「利他」は一方的行為である。
時に「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」的な解釈を散見する。
これは「利他」とは言わない。
それは“Give and take”と言う。
どこかで見返りを要求(計算)しているのである。
それはセコい。
全く何も返って来ない、場合によってはものすごく手を尽くし思いを尽くしたのに逆恨みされたりすることもある。
それでも一方的に行う行為を「利他」という。 
だから尊い。

[2]「利他」を行う主体は「私」ではない。
「利他」は人間の意図的・主体的行為ではない。
「人間を通して働く力」によって「思わず」行ってしまう、いわば、させられる行為である。
その「人間を通して働く力」のことを仏教では「仏力」とか「妙用(みょうゆう)」という。
「利他」の主語は「私」でも「人」でもない。「仏」であり「天」である。
だから尊い。
宗教用語がイヤな方は、敢えて精神分析的用語を使って「宇宙的無意識」でもよい。
そして、「私」が行っているのではないから、[1]に記したような見返りは求めない。
(「私」がやると、間違いなく、恩着せがましくなる)

[3]「自利利他」について
従って、「自利利他」という言葉を「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」と解するのは全く間違っている。
「私」を通して「利他」が行われるとき、「人間を通して働く力」が「私」を貫く。
その力に「私」自身が満たされ、潤されているということになる。
それが有り難い。
これ以上の「自利」があるだろうか。
「利他」が行われるとき同時に「私」もまた恩恵を受けている。
「利他」が巡り巡って自分の利益になるのではなく、
「利他」が行われることが同時に「自利」なのである。

そしてさらに深めれば、「自他の区別を超える」というもう一段深遠な世界も開けて行くが、ここでは触れない。

まずは、こういう「利他」の基本を是非押さえておいていただきたいと思う。

 

 

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