八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

あるスーパーで売っていたほうれん草のパッケージに
「ぼくはあなたにほうれん草」
というキャッチコピーが書いてあるのを見て、全身の力が抜けた。
「ほうれん草」と「惚れている」のシャレなんだろうが、何故か猛烈に何かを言い返したくなった。

そして考えること1時間。
思い付いたキャッチコピーが
「そんなあなたをズッキーニ」
である。
「ズッキーニ」と「好き」のシャレである。
こんなことを思い付くのに1時間も費やすのは実にアンポンタンだが、まだ気持ちがおさまらない。

さらに1時間かけて思い付いたのが、
チョレギサラダのキャッチコピー
「こんなチョレギにサランヘヨ」
「サランヘヨ」(ハングルで I love you)と「サラダ」をかけたのであるが、こんなことに何時間もかけるのは本当にアンポンタンである。
プロのコピーライターや放送作家なら、何時間かけても良いだろうが、フツーはそうはいかない。

しかし、もしこれがワークショップの場だったら、私は参加者に1日目と2日目の間の宿題として、このような食品に関するキャッチコピーを作って来るように告げるかもしれない。

読者の中で、もし名作を思い付いた方がいらしたら、面談のときにでも教えて下され。

豊かな発想は、自由なこころから生まれます、はい。

 

 

「それともうひとつ。まだいろいろ分け方はあるんですけど、重要な、今、大分多い傾向だけを挙げておきますと…よく見るのは、今のが過保護型、あるいは過干渉型と、結果においてはね。そういうことになるんですが、第三にはね、なんかっていうと、つまらないことでギャアギャア怒るお母さんね。感情的瑣末(さまつ)主義という(笑)。これは瑣末的感情主義。大事なことはね、甘くって、つまらないことでギャアギャア言う。ギャアギャア言うってのは感情的ってことですね。それはいろいろ、そのお母さん自身に問題が実は多い場合が多いんです。自分の旦那さんとうまく行かないとかね、お姑(しゅうとめ)さんがどうだとかね、それからもういろいろ忙しいとかね、隣近所との付き合いがどうだとか、お母さん自身がこんなになって、ハチの巣になってるわけですよ、頭の中がね。心の中が安定してない。そういうことが多いんです。本当にお母さんが安定していればこういうことは別にないの。だけど、大抵そういうことが多いんですよ、聴いてみるとね。でね、ですから、お母さんの問題のことが多い。
それは、そういうふうなね、感情的瑣末主義と言ったのは、つまり、つまらないことで、くだらないことで怒るんです。これはね、男の子を持ったら、一番先に、その、馬鹿にされる元だと思うんですよね。男の子はね、そういうね、「なんだこの馬鹿野郎め!」とこう腹の先で思っちゃうんですよ。女に対する軽蔑感が最初にそこで目立つんですよ。母親を見ててね、女の代表ですからね、母親は、男の子にとっては。最初の女のアレですもん、しかも自分が愛着を感じ、憎しみも感じるけど愛着を感じるもの。それが女の代表。だから、昔は、我々の時代は、ね、初恋の人っていうと大抵ね、母親に似た人でしたよ、ね。近頃は違うんじゃないかな。母親と違う、母親と最も違うヤツを選ぶんじゃないかな。そういうことは、これ、皮肉なことですけど。まあ、アレですが。
そういう意味で、その最初のね、非常に感情的なものに行きますとね、これに対してね、ちょうど、特にそれは中学校の高学年から高等学校に入りまして、あの、男の子の中で、理性的に思考する論理性というものが出て来ます。非常に、そのね、これは女性がですね、非常にそのときに同時に感情的なものがね、豊かさが出て来るのと同じように、そのね、筋肉の発達と共に論理的にものを考える、そういうものが出て来るんです。
その頃から母親は、子どもっていうのは、男の子の場合に、どうもわからないと。私のところに来られる母親、お母さんたち、皆そう言われる。男の子の気持ち、私わかりませんわ、とこうおっしゃるんです。わからないはずですね。これはわからないです。けれども、そこにおける、その、普通だったらば、お母さん、これこれなんとかと言って親しく言うのがね、段々軽蔑して、うるせぇ!なんてこと言われる。何言ってやんでぇ!とかなんとか。黙れ!なんていう具合に言うわけだ。そういうのがね、もう恐ろしいとかっていうことになっちゃってね。戦々兢々(きょうきょう)として、どうしていいかわかりませんということになるでしょ。
これはどういうことかというとね、知らないうちにお母さんがね、つまんないことでね、その、くだらないね、感情的爆発をやってる場合が多いわけですよ、ね。自分でちょっとね、省(かえり)みて下さいね。それをやってるとね、馬鹿だな、阿呆だなっていうことになってね、そりゃあね。
それが旦那さんからそう言われたれら、あなた方は、「何よ!私の気持ちもわかんないで!」とこういう具合にこう来るんだ、ね。けれども、自分の我が子から言われたらね、あなた方は堪(こた)えるはずですよ、ね。どうしたんだろう、と思ってね。私はこんなに愛しているのにってなことになっちゃうんだけどね。
そこいらがね、やはりね、非常に大事なとこなんで、そこで、そういうことをやってると、これが内向性になって、何遍もやってるとね、これをやってると、それがね、本当にね、今度は、お母さんが強い人だとしますね、感情的に。この内の方があるかどうかわかりませんが、非常に強くてね、自分の感情を絶対に押し付ける。そうなって来るとね、あの、男の子の場合はね、特にそりゃあ、育たないです。さっき言ったように、非常に女に対して、女性に対して敵意が出て来ますね。内向的になりますよ。その結果ね、その、ま、いろんな意味でね、もう、非常にうちを早く、家出したりね。そんな問題も男の子の場合は起きて来ます。それからさらに、これが敵意でもって、お母さんをぶん殴ったりね。もう、その、まあ、暴力に訴える。そういうふうなことが多いわけですね。
で、そうした結果、結局、そういうことがみんな認められないようになるとですね、あの、みんなおんなじような、類は友を呼ぶと言いまして、おんなじような人と一緒になって、ま、非行に走るというふうなことが多いわけです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

女性が感情的になりやすいということは、男性が論理的になりやすいのと同じように、ひとつの特性に過ぎないわけですが(これらはあくまでひとつの傾向であって、もちろん感情的な男性も、論理的な女性もいらっしゃいます、それが感情的な豊かさに発展して行くのか、どうでもいいことにただギャアギャア反応するだけの感情的瑣末主義に陥るか、で雲泥の差が生じて来るわけです。

後者の場合、母親の感情がそれほど強くない場合には、男の子は母親を軽蔑するようになり、母親の感情が強烈な場合には、敵意を示して暴力的になったり、内向的になって来ます。
従って、世のお母さん方は、自分が感情的になりやすいという特性に自覚を持つと共に、それが深く豊かな方に発展して行くことを目指し、浅く瑣末なことに反応しないように戒めて行く必要があります。
そのためにはまず、人間として肚が据わる必要がありますね。
敏感でありながら簡単に動じない。
そよ風にも枝葉が揺れる敏感さを持ちながらも、太い根幹は簡単に揺さぶられない。
そのためにはやはり丹田呼吸が役に立つのではないかと思っています。

 

 

本当は怒っているのに、怒っていないようなフリをする人がいる。
いわゆる本音と表出が一致していない人である。
生まれつきそんな子どもはいないので、生育史のどこかでこの面倒臭い生き方を身に付けたのであろう。
しかし、残念ながら、怒っていることは周囲にバレている。
バレてないと思っているのは当人だけである。
眼に出ている、顔に出ている、オーラに出ている。
しかし周囲は気づきながらも、何も言わないものである。

こういう人でも、もし人間的に成長することができたならば、怒っているときにちゃんと「私は今怒っています。」と言えるようになる。
これは正直である。
本音と表出が一致している。
但し、これが過ぎて、思い通りにならないことがある度にいちいち怒りを出すようになる人がいる。
こうなって来ると、ただの垂れ流しである。
正直ではあるが、わがままなのである。
これはこれで面倒臭い。

これがさらに人間的に成長して来ると、怒りはちゃんと出るんだけど、キレがよくなって来る。
長続きしないで、サラサラと流れて行く。
幼児の機嫌がすぐ変わるようなものである。
こうなれば、面倒臭さは随分改善される。
凡夫が目指すのは、こんなところがいい。
そして、ここらあたりまで成長して来ると、抑圧もやりくりも使っていないのに、以前ほど怒らなくなる、腹が立たなくなる、ということも起きて来る。
偽善的に怒らないようにするのではない、腹を立てないように気をつけるのでもない、自ずから、自然に、怒ることが減る、腹が立たなくなるのである。
但し、怒ることがなくなりはしませんよ、凡夫ですから。
凡夫が現実的に目指せる人間的成長は、ここらあたりなのかもしれない。
しかし、ここまで来るだけでも、相当に大したものだと思う。

 

 

昨日お話した勉強会に参加されている方々だけでなく、ある期間以上、面談を続けておられる方々を見ていると、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っておられる限り、その before-afterで確実な変化・成長を続けておられることが感じられる。

開業当初は、その変化・成長は、年月が経てば、「人間的成長のための精神療法」など受けなくても、誰でも起こることなのだろうか、と思ったこともあった。
しかし、実際に世の中の、特にある年齢以上の方々を見ていると、残念ながら、子どもの頃からの神経症的問題が全く解決されていないどころか、却ってこじらせて悪化している場合も少なくない。
ご本人に「情けなさの自覚」と「成長への意欲」がない以上、残念ながら、いかんともし難いが、少なくとも片方で、そういう方々と接しながら、もう片方で、面談を続けて来られた方々と接していると、歴然とした違いが感じられる。
そして、その変化・成長した姿に接する度に、よかったなぁ、と心の底から嬉しくなる。
大袈裟な表現でなく、その人の一生が変わったのであるから、こんな深い喜びはない。
ここにサイコセラピストとしての醍醐味がある。

流石に私もバカではないので、それが自分の手柄だとは思っていない。
その人を通して働く、その人を本当のその人させようとする力と、
私を通して働く、その人を本当のその人させようとする力と、
この世界を通して働く、その人を本当のその人させようとする力が相俟って、起こって来る奇跡としか言いようがない。
それにしても、人間が目の前で本来の自分を取り戻し、本来の自分を実現して行く場面に立ち会えるという感動はたまらないですよ。
それは情緒的感動を超えて、霊的感動と言ってよいものだと思う。

しかし、私に与えられた時間は永遠ではないし、お逢いできる方々の数も無限ではない。
むしろそれは、人類全体の数からすれば、微々たるものであろう。
それでも、一人の人生が変わるということは、すごいことなんですよ、ホントに。
それ故に、今回の人生において許される限り、縁あるあなたの変化・成長の瞬間に立ち会いたいと、あなたの人生が変わる瞬間に立ち会いたいと、心の底から願っている次第である。

 

 

今日は、ワンシーズン=3か月に一度のハイブリッド勉強会。
今回は[対面参加]が私を入れて3人、[リモート参加]が16人と、会場内は寂しかったけれど、話し始めてしまえば、そんなことはどこへやら。
特に、かつて緑風苑ワークショップなどで深い体験を共にして来た人間にとっては、すぐにあのときの感覚に戻り、まるで目の前で語り合っているような感覚に陥るのである。

そして今回も、レクチャー&ディスカッションの『体得ということについて』で、3時間すべてを使ったが、参加者の成長のための時間であって、予定消化のための時間ではないので、それで無問題(モーマンタイ)である。

詳しい内容については割愛するが、特に、参加者が人間的な成長過程の中で体得して来たこと、例えば、物事の受け取り方が変わった、感じ方が変わった、何かが楽になった、人間の観え方が変わった、世界の観え方が変わった、生き方が変わった、言動が変わった、などについての参加者からの発言が面白く、あんな私が、気がついてみればこうなっていた、あんなあの人が、気がついてみればこうなっていたには、実に、隔世の感がある。
逃げず、誤魔化さず、自分と向き合い続けて来た日々の積み重ねは決して裏切らない。
みんな、成長して来たんです、確実に。
選べなかった生育環境のせいで、後から付けられた神経症的な部分=ニセモノの自分は、いずれも重く、暗く、固く、窮屈であるけれども、それが払い除けられるにつれて出て来る本来の部分=ホントウの自分は、なんと面白く、おかしく、魅力的なことであろうか。
こうして確かに、本当のあなたに、本当のわたしに、逢えている時間は、貴重に過ぎて行くのでありました。

世知辛い娑婆の日々の中で、本当の自分でいられる、こういう時間はあった方がいいなぁ。

それではまた、次回7月のハイブリッド勉強会でお逢いしましょう。

 

 

社交不安症(社会恐怖)というこころの病気がある。
古くは対人恐怖とも言った。
その症状をざっくりと申し上げると、注目を浴びるような社交場面にいると、自分が変に思われるんじゃないか、ダメだと思われるんしゃないか、ということが気にかかり、不安でいっぱいになってしまうのである。
これもまた、ある意味、自分が他者からどう思われるかということ=他者評価にとらわれているのであるが、決して高い評価がほしいわけではなく、低い評価だけは喰らいたくないのである。
厳密に診断基準を満たさなくても、こういう傾向を持っている人は、かなり多いのではなかろうか。

そのように、自分がどう見られるか、自分がどう思われるか、自分がどう評価されるか、そういう思いにとらわれているとき、意識は常に“自分”に向いている。
その典型的場面を挙げるならば、人前で発言するとき、発表するとき、プレゼンするときなどに、動悸がしたり、冷や汗が流れたり、声や体が震えて来るのである。

そこで今回は、ちょっとその“向き”を変えてみることをお勧めしたい。
“自分が”“自分が”ではなく、何のため、誰のための発言か、発表か、プレゼンかという、そもそもの原点に立ち戻り、
相手にとって、聴衆にとって、伝えたい内容が、役立つ内容が、少しでもわかりやすく、的確に、伝われば良いな、というスタンスで取り組んでみるのである。
即ち、“自分向き”から“相手向き”“目的向き”に姿勢を変えてみるのだ。
そして、
そうやってやってみると、大切な相手に伝えたいことがちゃんと伝わりさえすれば、自分個人の評価なんかどうでも良い、という気持ちにさえなってくる場合もある。
少なくとも、あれほど支配されていた不安がなくなっている、あるいは、格段に減っていることに気がつくだろう。

現実社会には、試す場面はいろいろある。
そのスピーチは、誰のため、何のため。
その講演は、誰のため、何のため。
その学会発表は、誰のため、何のため。

自分が否定的評価を喰らわないためではなく、本来の、誰のため、何のため、に立ち戻って、チャレンジを。
今、ちょっとやってみようかと思ったあなたの中には、少なくとも、今までのあなたを超えて、あなたを成長させようとする力が動き始めているのですよ。

 

 

これが今回の自分の人生のミッションではないかと思ってやっていても、現実にはなかなかうまくいかないことがある。

そんなときには、まずそれが本当に自分に与えられたミッションなのか、
それともミッションと思い込んでいるだけで実は自分の我欲からそれをやりたいだけの勘違いなのか、
を見つめ直してみる必要がある。

もちろん後者ならば、もう一度一から、何が自分に与えられたミッションなのかを問い直してみる必要があるし、
もし前者ならば、現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けなければならない。

仏教において菩薩に課せられる修行として、六波羅蜜(はらみつ)=六つの実践徳目があるが、その中のひとつに忍辱(にんにく)がある。
忍耐すること、耐え忍ぶことを指すが、上記の「現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けること」も、立派に忍辱のひとつと言える。

その途中で、いろんな迷いが生じる、不安にもなる、これでいいのか、と思う。
それでも、自らの魂に訊いて間違いなければ、どんな逆境の中にいても耐え忍ばなければならない。
生前全く評価もされず売れもしなかった芸術家なんていうのは、その典型的な例かもしれない。
それでも創作をやめてはならない。
何故ならば、それがミッション=今回の人生で生を受けた理由であるからである。

しかし、基本的には大丈夫なのである。
それが本当にミッションであれば、なんだか知らないけれど、支えられる、持ちこたえられるようになっている。
そう。
忍辱する主語は「私」ではない。「私」=凡夫なんぞに忍辱する力はない。忍辱する力もまた「私」に与えられるから忍辱できるのである。
六波羅蜜はすべて、他力によって行われるということを知らなければならない。

 

 

時々
「性格は変えられますか?」
と訊かれることがある。
すると私は
「今のニセモノの性格が本来の性格に変わることならあり得ますよ。」
と答える。
自分で勝手に選んで、こんな性格になりたい、あんな性格になりたい、というふうには変えられない。
また、“変える”のではなく“変わる”のだ、とお伝えしている。
いや、“変わる”というより“戻る”と言えば、さらに正確かもしれない。
そして、今のニセモノの性格ができあがるには、それ相応の年月(大人になるまでとすれば最低でも18年〜20年)がかかっていますから、本来の性格に戻るのにもそれなりの時間がかかりますよ、と付け加える。

ちなみに、もし私が悪意の人間であれば、今までの経験と知識と技術を駆使して、ある人の性格を別の性格に変えることも可能かもしれない。
しかし、その別の性格というのもまた(その人の本来の性格ではなく)ニセモノの性格であるため、時間の問題でメッキが剥がれることになるだろう。
“洗脳”というのは、一時的にしか成功しないのだ。
考えてみれば、ニセモノの自分というもの自体が、一種の“洗脳”の産物なのである。
但し、年季が入っているために、下手をすると、そのまま死ぬまで行けてしまうかもしれない。

そもそも人間は本来の自分を生きるために生命(いのち)を授かった、と私は思っている。
残念ながら、多くの方々が寿命が永遠にあるかのように悠長に過ごしておられるけれども、そろそろ本気で、本来の自分に戻ることに取り組んでおかないと、今回の人生では間に合わないかもしれませんぞ。

 

 

その次に、それじゃあ、そんなことは私はありませんと。私は子どもに対して、非常にもう、なんかっていうともう、なんでも言うことは聞いて、傍(そば)にいてやって、なんでもかんでも言うことを聞いてますと。子どもが欲しいものは全部与えていますと。こういう具合に、まあ、おっしゃる方もあるだろうと思います。で、これはですね、ある意味で言いますと、まあ、その、いわゆる、近頃もう、誰でも使いますからね、皆さん、わかり切ったように思ってらっしゃるけれど、過保護型っていうことになるんですね。
過保護っていうのはね、過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです、ね。自分がね、そのね、甘えられない欲望をですね、あってね、それを子どもに転嫁(てんか)して、自分はさぞかし、こんなにホントに、無意識にね、ホントはとっても甘えたいの。それがなかなか甘えられない。そうするとね、幸福なのは、甘えられることが幸福だと思うからね。だから、自分の子どもにですよ、甘えられるように、どんどこどんどこ与えてやる、ね。いいですか。そうするとね、子どもはね、非常に喜びます、ある意味でね。しょっちゅう一緒にいて、甘えられて、そうするとね、これは、ものすごくお母さんに対してね、しょっちゅうお母さんがいないと大変なんだな。もうしょっちゅういなくちゃいけないからね、もうお母さん、お母さんと、お母さんの袖(そで)にぶらさがってね。今、袖がないんだけど何? スカートか(笑)。ぶらさがっているというふうな形になるわけですね。
でね、そういうことが重なって来ますとね、面白いことに、面白いっていうのは、これがね、幼稚園なんかに出て行きますとね、大変問題が起こるんです。ていうのは、お母さんがいないと安心感がないでしょ。一遍もひとりで独立してただっていうのがないから、だから今度は、その、幼稚園に行きますとね、いわゆる乳離れが悪いといいますか、幼稚園に行くと、幼稚園に行くのがイヤなんですね、うちにいたい。お母さん、何よ、そんな! 向こうへ行くとね、泣き虫になってね。すぐもうね、何かっていうと帰って来て、おかあちゃん、とこういうことになるわけですね。…
それでね、どうなるかっていうとね、これがね、まあ、その、幼稚園時代は、甘えたりなんかして、まあ、そういうふうに、泣いたりなんかして、やっとこさっとこやる。そのうちに慣れるでしょう。慣れるけれどもね、しばらくこう行っても、なんとなくね、この、弱々しい子になっちゃうんですね。弱々しい子になって、まあ、いわゆる、なんていいますかな、泣かされる、イジメられっ子になっちゃう。イジメっ子じゃなくてね、イジメられっ子になっちゃう、ね。そうしてね、そのくせ、うちではね、ものすごく、あの、甘ったれになっちゃうんです、ね。
だから、どういうふうな形になる、まあ、いろんなことが起きて来ますが、その、いろんな形と言いますと、ひとつだけ言いますと、例えば、それが、ある思春期になりましてね、その人が思春期になって、まあ、高等学校に行くんですね。そうすると、面白いことはね、女の子であればね、例えば、学校に行きますね。学校に行くと言って出て、行かない。あるいは、放課後ね、どこかに行っちゃう、ね。面白いですよね。今まであれほどお母さんの傍にいたわけだから、いつまでもそうかというと、その頃になるとね、自分の今に干渉されたくない、人間としての、ひとつのね、ある意味で自然なね、ことだとも思うんですけど、表れ方が、いわゆる非行になっちまうんだな。自分が今まであんまり束縛され、お母さんによってアレされたのがイヤになっちゃってね、それで今度は、逆にですよ、その間に自分の自由を楽しもうというようなことになって、まあ、ロッカーの中へね、入れといて、服装を替えて行ったりしますね。
それからまた、男の子であれば、例えば、同じようなね、お母さんに頼んで、250だか、ホンダのなんとかっていうのを買ってもらってね、そうしてね、どうかっていうと、友だちとね、おんなじようなね、やっぱり一緒になってね、それから、なんかね、ああいうふうなね、ものに乗って行くと、こういうことになるんです。
あの、暴走族なんかの気持ちの中にはね、本当は暴走族の連中ってのは、個人的に言いますと、非常に気の弱い人が多いんですよ、どっちかと言いますとね。自分自身の力、腕力に対してはね、そんなにね、自信がないんですよ。だからこそね、ああいうね、馬力の強いね、ああいう、この、まあ、なんていうんですかね、オートバイをね、ブルブルブルとこうやるとね、もう自分がすごく力強くなった気がするんですよね、途端に変身しちゃう、ね。
これは大人にもありましてね、あの、自動車に、平生(へいぜい)、すごくね、謙遜でね、内気なようなね、男性がですよ、一度(ひとたび)ね、オーナードライバーになると飛ばして、ブーンブーンブーンとやってね、ものすごいんですよ、ね。へ~んし~んて言うんでしょうね(笑)、この頃にしたらね。それは要するに、今までの抑圧されたものが全部、出ちゃう、ね。自分自身が本当はね、そういうことがしたいわけ。だけど、自分に自信がない。ところが、物を借りてね、自動車とか、そういうものを借りてね、やると自分のような気がする。そこでそういうようなことを主張する、というようなことがあります。
だから、今言ったように、あんまり過保護にするとね、そういうことになっちゃう。そうして結局、困っちゃう、とかなんとかいうことになるわけですがね。それからまたね、ですから、過干渉ということがある。
それからさらにこれが、まだ良いんですけどね、これが無力感になって、しょっちゅうイジメられっ子になる。学校の成績も良くない。そういうことになりますとね、自分でものすごくね、あの、悲観しちゃうんですね。だからね、この人はね、ものすごく内気になって、内向的になってですよ、その結果ね、もう何ものも失敗しちゃってね。そうした、まあ、結果、自殺するという場合もあります、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

今回は、母親が子どもに対して非常に過保護な場合。
お母さんがいないと不安になってしまい、甘ったれで、自立できない、弱弱しい子、ひいてはイジメられっ子になってしまう。
それが思春期以降になると、母親の過干渉に反発したくなって、非行に走ったり、また、バイクや車の力を借りて、抑圧した思いを発散するようになったりする。
しかし実際には、非常に気の弱い、自信のない子であることには変わりがない。
それが無力感にまで行ってしまうと、内向的になって、自殺の危険性すら出て来ることになる。
やっぱり、自分が自分であることの幹を太くして行くためには、過保護・過干渉ではなく、試行錯誤をやらせてみて、手痛い失敗からも学ばせて、自力で切り拓いて行く力を養う必要があるわけです。
それにしても、今回も近藤先生の発言の中で、
「過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです。」
のひと言は、流石に鋭い。
これはね、対人援助職の人にも当てはまりますよ。
患者さん、利用者さん、メンバーさんにサービス過剰な人はご注意を。
それは相手のためではありません、自分のためですから。

 

 

家族や友人を失って初めて、その人の大切さを知る。
健康を失って初めて、健康の大切さを知る。
平和を失って初めて、平和の大切さを知る。
ライフラインを失って初めて、ライフラインの大切さを知る。
挙げればキリがない。
そうして、それらを失ったときには、これからはその大切さを忘れないようにしよう、と心に誓うのであるが、それもまた時と共に薄れ、元の木阿弥と化して行く。
それが凡夫。
気をつけても、気をつけても、そのときだけ。
心底バカだなぁ、と思う。

…で、話を終わらせては、夢も希望もない。
そんな凡夫でも、せめてできることはないでしょうか、という話。
なんでもいいから、一日一回だけでいいから、両手を合わせて頭を下げましょう、ということを提案したい。
どこを向いてやったらいいかって?
どこを向いてやったって構いません。
やってるうちに導いてもらえます。
ただ一所懸命にやることです。
人前で始めると、急にどうしたのかと訝(いぶか)しがられますから、一人のときにやるのがいいでしょう。
それだけでいいんです。
難しいことは言いません。
騙されたと思って、そんなことをバカみたいに毎日毎日やっていると、ちょっとだけね、普段から、当たり前のことが当たり前じゃなくなって、なんだか有り難く感じられるようになる“かも”しれませんよ。

 

 

いわゆる過去の偉人について、その評伝や評論、解説を平気で書く人がいる。
私はそれはとても難しい仕事だと思ってる。
何故ならば、偉人でもない者が偉人について書けるのか、という根本的な問題がある。
少なくとも偉人の境地に肉薄する体験を持っていなければ、書けるはずがないと私は思う。
厳しく言えば、
「燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志(し)を知らんや。」(『史記』)
(ツバメやスズメにオオトリやコウノトリの志がどうしてわかろうか、わかるはずがない)
である。
じゃあ、小人は偉人について一切語ってはいけないのか、となると、そうも思わない。
自分が足りないことを自覚した上で、一歩でも半歩でも尊敬する人物に近づくために、人間として成長するために、偉人が残した言動に触れて、今の自分の精一杯で、ああでもないこうでもないと思いを巡らせることには大きな意義があると思う。
何よりもこの“足りなさの自覚”が重要なのである。
その自覚のない、思い上がった、自己愛的な人物が語るものには、残念ながら、何の意味もない。
簡単にわかったと思うなよ、である。
それ故、かくいう私も近藤先生の言葉について語れるのである。
まだまだわかっていない。
その自覚がある。

しかし先生の言葉に触れることには、絶望ではなく、成長の楽しみがある。
私が近藤先生について書く場合、それは私にとって面談の続きなのである。

偉人たちが残した言葉もそういうふうに活用されれば、たとえそれが浅はかな解釈であっても、故人たちは笑顔で許してくれるものと思う。
 

 

夕方、隣駅まで行く用事ができた。
たまには散歩を楽しむか、と歩き始める。
かつて観たテレビ番組で、新幹線では流れるだけの車窓の風景が、各駅停車に乗るとじっくり楽しめる、と言っていたのを思い出した。
各駅停車どころではない、徒歩でこそ楽しめる風景がある。
そして自分の歩く速度がいつの間にか速くなっていたことに気がつく。
東京の人は歩くのが速いんですよ。
だからといって、実は大したことはしてないんですけどね。

そして敢えてとぼとぼと歩いてみた。
そうしてみてわかったのは、敢えてとぼとぼではない、これが本来の歩く速さだったんだな、と。
ゆっくりと流れる道路脇の風景。
東京はソメイヨシノが満開から散り始めである。
花びらの舞う速度が歩く速さにちょうどいい。
雲の流れる速さも。
公園で遊ぶ幼な子たちの声や笑顔もしっかりと入ってくる。
足の裏で一歩一歩大地を感じ取れる。
忘れていたちょうどの速さで歩くと、感じる世界が一気に広がり、そして、深まった。

あなたにもお勧めします。
とぼとぼと歩いてみましょう。
やがてそれがとぼとぼでないことに気づきます。

 

 

年を取ると、その人のパーソナリティ上の問題点が先鋭化する、という。
段々に抑圧が外れて来る(脱抑制)ため、その人の隠していた本性がダダ漏れになってくるのである。
恥ずかしきエロ爺(じぃ)と化してしまった元校長先生がいる。
人を口汚く罵(ののし)り、裁きまくるようになった元教会長老の女性がいる。
哀しいかな、それが本音だったのだから、今さら抑えようがない。

ですから、私は講義や講演などで、繰り返し若い人にお話している。
いいですか、今のうちから、本音と建て前を一致させておくんですよ。
年を取ったら、隠していた本音が露呈しちゃいますからね。
そして、建て前じゃなくって、その本音が変わることを本当の成長というんですよ、と。

しかし、年の取り方は、そんなトホホな展開ばかりではない。
いい感じにエネルギーが落ちてくる場合もある。
それまでこころの“見張り番(超自我)”に備給されていたエネルギーが加齢で段々減少してくる。
そうすると、以前は「~しなければならない」「~するべきだ」で、自分を締め上げ、返す刀で相手も締め上げていた“見張り番”が弱体化する。
また、“(自)我”に備給されていたエネルギーも加齢によって段々減少してくる。
そうなると、「何がなんでもああしたい、こうしたい」「絶対にあれもほしい、これもほしい」と思っていた“我欲”が弱体化する。
そうして、いずれの場合も、まあ、これでもいいんじゃないかな、と鷹揚(おうよう)な気持ちになってくる。
こういった変化は大歓迎である。
自然に肩の力が抜けるというか、自ずとおまかせの境地に近づいていく。
これは加齢の賜物(たまもの)といっていいだろう。

さて、あなたの加齢が、前者になるか、後者になるか。
それは神のみぞ知る、であるが、せめてできることとして、先に挙げた「本音の成長」だけは取り組んでおかれることをお勧めしたい。

そして、かくいう私がもし前者になったとしたら、すいません、優しくして下さい。

 

 

子どもの頃、歯が痛くなった。
痛さにわんわん泣いたのを覚えている。
歯科が休みだったのか、母は私をおぶって、近くの薬局に正露丸を買いに出かけた。
正露丸を虫歯の穴に詰めると痛みが治まると言われていたのである。
しかし、母の背中で痛みに泣きながらも、私は薬局に着かないことを祈っていた。
そう。
この母の背中で、直に母の温もりを感じられる時間が、例えようもなく、幸せだったのである。
幼い頃から母は、家事だけでなく、父の経営する病院の調理室の仕事までやらされ、実質的に無給職員のような扱いで働いていた。
そのため、四人の子どもに関わる時間がなく、しかも私(三男)と弟(四男)とは双子であったため、いつも二人で遊んでいるように見え、余計に手をかけてはもらえなかった。
しかし、いくら双子でも母親の代わりになるはずはない。
いつも寂しかったのである。
それが今回ばかりは母親を独占できた。
こんな嬉しいことはない。
だから、歯の痛さに泣きながらも薬局に着かないことを祈ったのである。
あの感触を思い出す度、幼少期に十分に寄り添われなかった子どもが、「基本的不安」に苛まれるというホーナイの説に納得がいく。
患者さんやクライアントの話を聴いていても、ネグレクト~マルトリートメントのために、大人になっても、不安と孤独感に苛まれている人は珍しくない。
ある女性は、今も彼にしがみついて寝るのだという。
その肌から感じる温もりと安心感で、ようやく不安が癒えて、眠れるのだ。
このように、不幸な生育史のせいで十分な愛着関係を得られず、そのために自我が感じる不安がある。
そしてその不安を解消するためには、なんらかの形で愛着を満たし、自我が安心するようにしてあげれば良い、ということになる。
精神療法や精神分析というものは、そのように、自我の感じるところを前提にして治療が組み立てられているのだ。

しかし、である。
今日書きたいのはここからだ。
人間が感じる不安は、そんなものばかりではない。
めったに出逢わないが、自分の存在=自我の存在自体の虚構性に気づいて陥る甚深な不安もある。
そうなると、自分が今ここに存在していること自体が、本当にそうなのか、不安になってくるのである。
この不安は強烈に深い。
また同時に、外界の存在の虚構性まで感じられて来ると、事態はさらに深刻となる。
自分の存在だけでなく、この世界の実在性までもが揺さぶられることになる。
これを欧米の精神病理学者は暢気(のんき)に「自我障害」などと言っているが、これは「障害」ではない。
確かに「離人感・現実感消失症」や「統合失調症」などにおいて、「障害」としてこの体験が起こることがあるが、ごく一部の人には、感覚が非常に敏感であるために、自分の存在の虚構性、この世界の存在の虚構性という「真実」を感じる人が存在するのである。
そうして起こる甚深なる不安は、先ほどのように、いくら彼氏にしがみついたところで消えはしない。
自分自身も、そして彼氏の存在も怪しいのであるから、消えるはずがないのである。
では、この不安はどうやって解消すれば良いのだろうか。
それはそうなった人にだけお話したい。
というのは、そこまで陥った体験がなければ、ここでどう語ったところで、一から十までピンと来ないに決まっているからである。
今までそんな話を共有できたのは、近藤先生と一人の親友だけであったが、万が一読者の中にその体験に苦しむ人がいるかもしれず、そのためにふと書く気になったのである。
いや、それだけではない。
昨夜、久しぶりにその体験が起きた。
自分の存在の虚構性が立ち現われ、内腑をえぐられるような、あの甚深な不安が起きたのである。
しかし、今の私は幸いにして、それを超える道を知っている。
だから、死にもせず、狂いもせず、こうして生きていられるのである。
そんな機縁で、今日このことを書いている。
また、わけのわかんないことを書いてるな、と思う方はどうぞ読み飛ばしてくれ給え。


 

アンポンタンなことに、昔の私は、人間が成長すれば、感情を克服できるものだと思っていた。

例えば、怒り。
これもまた、人間が成長すれば、何があっても腹が立たなくなるんじゃないか、と素朴に思っていた。
確かに、成長すれば成長するほど、ちょっとしたことで腹が立ちにくくなる、ということはあるかもしれない。
しかし、何があっても全く腹が立たなくなったとしたら、それは人間としておかしいんじゃないかと思う。
喜怒哀楽すべてがあって初めて人間の感情として健全なのではなかろうか。
よって、感情の超え方として、その感情、例えば怒りなら、怒りがなくなる、怒りをなくす、という方向性にはどうも賛同できない。
無理にそちらに進もうとすれば、ただ怒りを抑圧するだけの偽善的な誤魔化し方に陥ることになると思う(事実、そういう偽善者は多い)。
(以前にも触れたが、もし「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」というようなことができるとすれば、それは人間業ではない。神の御業だからできるのである)

そうではなくて、人間が成長すれば、感情はどうなるかというと、なくなりはしないが、以前に比べ、サラサラと流転するようになるのである。
例えば、腹が立ったとする。しかし、すぐ次に別の出来事が起きたとすると、怒りはすぐに流れてしまい、他のことを思っている。
ニワトリが三歩歩いたらすぐに忘れてしまうようなものである。
腹が立つことはなくならないが、キレが良くなる。
つまり、執着、固着の「着」が段々と薄まり、ネバネバしなくなり、サラサラと流れるようになるのである。
場合によっては、人間には記憶力があるので、またその腹が立ったエピソードを思い出すことがあるかもしれない。
そして思い出してまた腹が立つ。
しかし、それもまたサラサラと流転して行く。
これは経験してみればわかるが、非常に楽である。
恐らく、幼い子どもたちはこうやって生きているのだと思う。

よって、人間の成長としての感情の超え方は、
感情をなくす方向ではなくて
感情が起きてもサラサラと流転するようになる方向が正解であると私は思っている。

 

 

「私思うのは、いわゆる、子どもに対して、そういった意味で、母親とか、重要なんですが、その母親が、例えば…子どもを置きっぱなしに置いて、いろんなことをやりに行くというふうなことが起きますと、そういうことが非常に子どもに孤独感、寂しい感じを与えますね。不安感を与えます。そうしたものが、しかし、さっき言ったように、そこでもって敵意を母親に対して、イヤなお母さんだと思うけど、悪いお母さんだと思うけど、それを抑えてる。
抑えてることがずっと続きますと、そうしますと、その抑えられた敵意というものはどこかに出すもんなんです。あなた方が、例えば、夫婦喧嘩をして我慢をした。あるいは、上役にはっきり反抗できなくて我慢したと。そういうときにどうしたかというと、奥さんであれば、それは、あるいは猫に当たるとか、ね。そういうふうなことになるだろうし、また、普通の男の人であれば、さらに自分の下役を怒鳴るとか、ね。あるいは、まあ、せいぜいバーかどっかに寄って、ガーガー怒鳴って憂さを晴らすとか。どっかでそれを出して来ますね。
同じように、抑えられたものというのは、どこかで出して来ますから、子どもの場合に、それはどこに出るかというと、この例のように、例えば、この人は、お父さんとお母さんがですね、夜、飲み屋をやってるわけですよ、ね。それで、うちへね、学校から帰って、ずーっとね…たった一人で…小さな四畳半ぐらいの部屋でね、アレなんですよ、テレビを一人で観てるんです。そういうことを長いことやってる。そうやって、まあ、見捨てられた子どもですね。
そういうのが、こういうふうなものになって来て、それでどうしたかっていうと…学校に行きましてね、人の物をね、人がみんなこう、ちゃんとしてるでしょ、子どもたち。そうするとね、子どもたちの上にある本やなんか全部、うわーっと気違いみたいに、みんなね、メッチャクチャにしちゃう。それからね、人の物をね、どんどん自分で使っちゃう。つまり、敵意をそういう形で表してる。
これは大人から見ますとね、非行ですね、良くない態度でしょ。けれども、それはね、どこから出るか、よ~く考えてみるとね、そういったね、基本的にね、基本的に不安があるわけです。不安をね、それを癒してくれない親に対する敵意ね。そういうものが全部そこに来ているわけですね。…
例えば、あなた方は、あなた方の旦那さんの、ね、傍にいるだけで満足すること、ありませんか? 彼氏がどこかへ行っちゃって、寂しくてしょうがない、ね。だけど彼氏の傍が、彼氏が別にどうってことない。おお、おまえ、それじゃあ、なんてなことを考えても、そんなことじゃない、私はあなたの傍にいればいいんだと。こういうふうなことで満足することありませんか? ね。つまり、傍におられるということが、つまり、夫が傍にいるってことが安心感の素でしょ?
同じように、子どもにとってはもっともっと親の傍にいるってことは安心感の素なんですよ。その安心感を与えてくれない親に対する敵意ってのは当然でしょ。しかし、親に対する敵意は、さっき言ったように、下役の人間が上役に敵意を出せないのと同じように、出せるもんじゃないんですよ。出せないから抑圧する。抑圧したものをどこかへ持ってく。それが結局、いろんな問題が起きて来てるわけですね。
ですから、私は、無関心が、つまり、ある意味で、決して意図的には無関心じゃないけれども、子どもとの、子どもの傍にいない親、父親、母親、そういうものが、親ってものは、ひとつの問題を作る原因を僕は持ってると思います。これは、ひとつ、考えていただきたいと思います。
そこで、この人たちはどうするかって言うと、敵意をどこかで出す。そうすると一番始めのうちは、どういうことかというと、自分と同じような種類の友だちと結び合って、そして、この、そういったものをね、お互いに一緒にやろうと、こういうことになるわけです。類は友を呼ぶと言いますけども、不思議に、人間っていうものは、あの、お互いにね、共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすいんですね。偉いとこで、人間同士の友情と言った場合に、大変偉いところで結ぶ、素晴らしい性質を持ってるというところで結ぶことがあります。けれども、それよりも、お互いにこうだよね、というところで、言わば、連帯感を持つことが大変多いのです。
で、子どもの場合もそうなんです。だから結局ね、子どもの場合は、やっぱりね、自分と、類は友を呼ぶで、同じような人とね、結びやすくなる。そうすると、あんな子と遊んで!というふうにお母さんは言われるかもしれないけども、そりゃあ、子どもにとっちゃあしょうがない。そんなことだったら、お母さんよ、あなたが私に欲するものを与えて下さい、ということになるわけですね。
そういう意味で、私は、ひとつの、これを無関心、放棄タイプっていうかね、置き去りタイプ、そういうものになる。これ、旦那にもいるんですよ。無関心、置き去りタイプの旦那、いるんですよ。それを、だから、お母さんたちはご覧になって、自分がもしそうだったら、どうだろうか考えて下さい。無関心、置き去りで、仕事が大事なんだ、なんとかっていうんで、大変もう仕事ばっかりになっちゃって、うちへは帰って来ない。そういうときにあなた方はどんな感じがします?
これはね、あなた方の中にも、幼児性といいましてね、いいですか、子どもと同じものがあなた方にあるんですよ、みんなね、いいですか。だから、それだけにお母さんの方が子どもをわかりやすいの。それだから、僕はあなた方に余計、僕はアピールしたいんです、それをね。
そういう具合に、この、無関心、放棄型、あるいは、置き去り型というものが、という親があります。これはひとつの問題児を作って行く、ひとつのタイプであります。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

現代なら、働いているお母さん方も多いことでしょう。
近藤先生のお話を現代風にアレンジするとすれば、ただ親が子どもの傍にいれば良い、という話でもないのです。
っぱり重要なのは、そこに愛はあるんか、ということです。
例えば、諸般の事情からシングルマザーとして働いて、子どもと接する時間を持ちたくても、なかなか持てないお母さんもいらっしゃることでしょう。
じゃあ、その子どもたちが全員、敵意に満ちて非行に走るのかというと、そうではありません。
たとえ時間は短くても深い愛で子どもに接しているお母さんがいらっしゃいます。
愛は深さ×時間で、時間が短くても深さで勝負すれば良いのです。
そしてもうひとつ、近藤先生がさりげなくおっしゃったひとこと。
「人間っていうものは、お互いに共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすい」
がこころに残りました。
だから私は、思い悩んだ経験のある人の方が、今苦しむ人のこころに寄り添いやすい、と思っています。
但し、その思い悩んだ問題を今は突破していることも要求したいと思います。
今もまだ問題が未解決のままだと、一緒に漂流するだけになっちゃいますからね。
だから私は、苦しんで突破して来た人こそが良い支援者になれる、と確信しているのです。

 

 

坪庭の落ち葉掃除をしていたら、綺麗な緑色の細長い葉っぱを見つけた。
余りに鮮やかな緑色に見惚れて、思わず触れたら、この葉っぱが動いたんです。
ありゃ、こりゃあ、葉っぱじゃなくって、バッタか?
よく見ると、確かに正面に仮面ライダーの顔。
人差し指と親指で細長い胴体部分をそっと掴むと、モソモソと肢を動かして
「やめてくらさい。」
のアピール。
気温の低かったせいか、体動がとてもスローで、私にはどうしても「やめてください」ではなく「やめてくらさい」に聴こえた。
これ以上触るのは気の毒と思い、ゆっくり放すと枯れた芝生の下へガサガサと身を隠して行った。

それにしても鮮烈な緑、いや、碧(あお)というべきか。
生命(いのち)の塊に触れたような気がした。
具体的なもの(バッタ?)に抽象的なもの(生命(いのち))を感じる。
限定的なもの(バッタ?)に永遠のもの(生命(いのち))を感じる。
我ながら、これが日本人の精神性の伝統だ。

後で調べてみると、ショウリョウバッタなどのバッタは卵で越年するそうで、この時期にこの大きさの成虫が観られるのはキリギリス、特にクビキリギリス(クビギリス)らしい(バッタとキリギリスが違うことを初めて知った)。
クビキリギリスは噛む力がとても強いと書いてあり、危ない、危ない。

でもやっぱり、あの碧は触りたくなるよなぁ。

 

 

「4月1日から居場所を失ってしまう方へ」という見出しのネットニュース記事を見た。

夏休み明けの子どもたちに配慮した記事(また学校でイジメに遭うのを苦にして自殺を図ることを予防するための記事)は見たことがあったが、確かに、年度替わりもまた人間が窮地に迫られる時期である。
仕事がない、住むところがない、頼るところがない、そしてどこにヘルプサインを出して良いのかもわからず、そもそもヘルプサインを出すことさえ断念している人たちがいる中、こちらから当事者に声をかけていくこの姿勢は重要だと思った。

ある若い女性が、居場所をなくしたときに、ポツリと「死んじゃおうかな。」と漏らしたのを覚えている。
幸(さち)薄い彼女の生育史を思えば、それは注意獲得的な演技ではなく、掛け値なしの本音であった。

腐っても日本。
長年、精神科医療に携わって来た経験から言うと、日本国は衣食住と医療とを提供する力は持っている。
まずは公的機関に相談しよう。
住居が確保でき、当面の衣食が間に合えば、未来への計画を立てる気にもなってくる。
そしてあなたのことを気にかけてくれる人がつく。
そこから人生を逆転して行った人間はいくらでもいる。
先に挙げた彼女もまた、今は元気に働いている一人である。

こんな小さなサイトの、こんな小さなひと言でも、声をかけようと思います。
少なくとも、これを読んで下さっている方たちの中に、小さな輪が広がるかもしれないから。

折角もらった生命(いのち)だもの。
あなたが今回の人生で果たすべき意味と役割が絶対にあるんです。
死ぬのはそれを果たしてからで十分です。

 

 

2024(令和6)年7月2日付けの小欄において『『対面面談の際のマスク着用の自由化およびリモート面談の継続について[最新報]』をお知らせしました。
今回はその続報です。

新型コロナウイルス感染症につきましては、世間では最早、「今、コロナ、第何派だっけ?」「まだ第何派って言ってるんだっけ?」というような状況ですが、私の周囲でも新型コロナウイルスに感染する方はゼロにはなっておりませんし、まだ厚生労働省から終息宣言も出ておりませんので、今は“第12派”としてカウントされているようです。

【1】そのような状況下における当研究所における感染対策としましては、引き続き、
当研究所入室時のアルコール手指消毒
当研究所対面面談時のマスク着用
しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。
但し、風邪などを引かれている場合、咳、くしゃみなどの症状がある場合には、コロナ前と同じく、マスクを着用されるか、病状により面談日時を変更されるかをお願い致します。
尚、私(松田)自身は、今しばらくマスク着用を継続するつもりです。
また、ハイブリッド勉強会対面参加される場合につきましても、引き続き、マスク着用しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。

【2】また、現在、Skype、Zoom、Facetime などでリモート面談を行っている方々につきましては、今後も引き続き、Skype、Zoom、Facetime などのリモート面談の利用継続可能と致します(尚、Skypeのサービスが2025(令和7)年5月5日をもって終了となることにつきましては、既にお知らせ致しました)。
新型コロナウイルス感染症拡大が落ち着けば、リモート面談の利用継続可能を続けながら、「1年に1回は八雲総合研究所に来所いただき、対面面談を行う」こととする予定ですが、新型コロナウイルス感染症拡大状況がまだ第12波にある以上、これも延期とし、厚生労働省による終息宣言が出るまでは現状維持と致します。

以上、どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

昨日書いた「依存しながらブータレる問題」は、思春期の子どもたちや、自立しそこなった大人子どもたちだけの問題ではない。

稀に当研究所に“間違って”面談を申し込んで来る人たちの中にも、それが見られる。
自分自身の問題に対して「情けなさの自覚」を持っている人しか対象にしていないが、その人の成長課題や問題点を指摘すると、“面白くない”とか“腹が立つ”という反応をする人がいる。
ということは、まだ抵抗や反発ができる分だけ、「情けなさの自覚」が足りないのである。
そしてそれでいながら依存はしたい。
おいおい、当研究所はそういう場所ではないぞ。
道場に来ておいて、稽古が厳しいというなら、軽い運動と甘い褒め言葉のサロンにでも行った方が良い。
即面談終了として、お引き取りいただいている

反対に、成長課題や問題点の指摘を喜ぶ方たちもいる。
あいたたたた、でも、いつまでもこんなところにはいられない。
一緒になって真剣に突破の道を探って行く。
そのプロセスは苦しくも甲斐のあるものである。
そして現に成長して行かれる。
そういう方たちのために当研究所はある。

しかしながら、これが「治療」となると、また話は変わる。
「情けなさの自覚」の醸成にも長い時間がかかるし、
「成長への意欲」の発露にも相当な時間がかかる。
向精神薬が必要になることも多い。

そういうところから始まるのが「治療」である。
じっくりやらざるを得ない。
しかし、そんな中からでも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持って、治癒+成長して行かれる方々もいる。

苦しんだからこそ、本当の答えでないと、納得できないという方々もいる。

「成長」だろうと「治療」だろうと、結局は、取り組む「姿勢」、生きる「姿勢」というところに話は帰着する。
依存しながらブータレているヒマはないのである。

 

 

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。