八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

縁あって出会った人たちを見ていると、親からちゃんと寄り添われなかっただけでなく、ひどい扱いを受けて育って来たために(時にそこに学校時代のイジメ体験が加わることもある)、他人のことなどどうでもよく、とにかく自分第一、そんな保身の生き方を身に付けている人が意外といることに気がつく
そんな人にとっては、
他人は自分の安心のための道具であり、保身のために卑怯かつ狡猾に立ち回ることが板に付いてしまい、それが人間として恥ずかしいことだという意識にも乏しい場合がしばしば見受けられる。
しかし、哀しいかな、保身に走る自己中人間は必ず、誰からも疎(うと)まれ、嫌われることになる。
確かに、そんな人間が愛されるわけがない。
そして結局は、誰からも顧みられず孤独の中で生き、やがて死んで行くことになる。
勘の良い方はお気づきであろう、それは子ども時代の見事なまでの再現なのだ。
つまり、幼少期に親からかけられた呪い=結局おまえは誰からも愛されない、が見事に成就するのである。
そんな哀れな人生もある。

しかし、救いのチャンスもある。
本人が、幸いにも(と敢えて申し上げるが)、誰からも疎まれ、嫌われることによって、なんでいつもこうなるのだろう、と自分の問題に気づき(
気がつくだけでは何も変わらないが)、さらに覚悟を持って自分の保身の姿勢を変えて行きたいと心から願う場合もある。

しかし、そこまで来ても、生きる姿勢を変えることは至難の業(わざ)である。
何故ならば、保身のための卑怯・狡猾な生き方がこころにこびりついてしまっているため、その言動を一から十まで徹底的に洗い出さなければならなくなるからである。
即ち、本気でやろうと思えば、朝から晩まで、その言動にダメ出しされ続け、また自分でもダメ出しし続けることになる。
しかもそれが、場合によっては、年単位で続く。
これは相当に厳しい。
その全否定の嵐に耐えられるか。

私が現実に関わった中では、その全否定の嵐と向き合い、保身を突破し、本来の自分を取り戻した方が若干名いらっしゃる(それ以外は残念ながら脱落された)。
しかも、その行程は平均で十年。
よくまあ、その間、毎回毎回面談の度にほぼ50分間ダメ出しを受け続けるのに、通って来られたと思う。
その姿勢には心から敬意を表する。
そして何よりも、その人の人生が根本から変わった、ということに心からの喜びを覚える。
人間の人生が変わるんですよ、根底から。

そして、あれほど自分の事しか考えなかった人たちが、
自分の愛する人のためなら死ねる
自分の生きる信条のためなら死ねる
という境地にまで到達するのである(但し、一時の感情から口先だけでそう言う人と、実際に行動に移せる人の間にはかなりの差がある)。

これはね、いわゆるフツーに生きてる人たちの中にも、そこまでの境地の人はなかなかいませんよ、実際。
いざとなったら、愛する人も放り出し、信条も投げ捨て、保身に走るんじゃないでしょうかね。
そういう意味では、常に保身に走っていた人間が、愛する人と信条のために死ねるようになったということは、本当に稀有なことなのだと思う。
元より、人間の成長を真に促すのは人の力ではないけれど、私も微力ながら苦労しましたよ、はい。

人間の成長の可能性という意味において、そんな十年に一人の人も確かにいるということをお知らせしておきたいと思う。

 

 

以下、「治療」と「成長」の違いをイメージしていただくための例示である。

例えば、親から厳しく締め上げられて来た人に共通の弱点として、大人になってからも同様に強面(こわおもて)の上司、先輩に対して非常に弱い人がいたとする。
目が合っただけでドキドキする。

傍に行くとすくんでしまう。
その人の一挙手一投足にアンテナを張ってしまう。
また明日会うかと思うと前の晩の寝つきが悪くなる。
などなど。
かつて恐かった親と共通の要素を持つ人間が、その人の“天敵”となる。

しかし、小さくて弱かった子どもの頃はしょうがなかったにしても、大人になってからも恐れ慄(おのの)くようでは大きな問題となる。

そして、その後の展開は二つに分かれる。
その分かれ目のポイントは二つ。
一つは、それによって、実生活に支障が出るか否か。
二つは、そういう自分と勝負して変えて行きたいと心の底から思えるか否か。

まず前者は、そのために出勤できなくなるとか、仕事のパフォーマンスが落ちるなどといった「実害」が出るようになれば、受診するなどの「治療」が必要となる。
それでもなんとか仕事に支障をもたらさないように踏みとどまれているのであれば、「成長」によって乗り切れるかもしれない。

次に後者は、「恐い、恐い。」「どうしよう、どうしよう。」となって、恐怖や不安に呑み込まれ、とても内省したり、現状を打開するために勝負して行こうという気持ちになれないときは、これまた受診するなどの「治療」が必要となる。
そこまで行かず、起きていることを内省でき、現状と向き合って乗り越えてやるという決意が持てるのであれば、「成長」の道が開ける。
両者とも「治療」となると、例えば、環境調整を行ったり、薬物療法を使ったりして、まず気持ちに余裕を作って行く必要がある。それからでないと内省も勝負もできない。
(念のために申し添えておくと、「治療」するのが良い・悪いという問題ではない。当人にとってどちらの道を選ぶことが適切なのかを判断することが重要なのである)

当研究所で面談をお受けできるかどうか、という際にも、上記の2点がポイントとなる。
「治療」が必要な人には、中途半端なところでお茶を濁さず、しっかり「治療」を受けることをお勧めする。
そして、「成長」でやっていける人には、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を要求する。
自分と向き合って内省するのも、現状と勝負して具体的に言動を変えて行くのも楽なことではないが、それができる人が、当研究所の「人間的成長のための精神療法」向きということになる。

 

 

そもそも
集団の中に身を置くということの意義はどこにあるのか?
他の人と交わるということの意義はどこにあるのか?
結婚するということの意義はどこにあるのか?
誰かと一緒に暮らすということの意義はどこにあるのか?
子どもを授かるということの意義はどこにあるのか?
子どもを育てるということの意義はどこにあるのか?
学校に行くことの意義はどこにあるのか?
教育ということの意義はどこにあるのか?
会社に行くということの意義はどこにあるのか?
働くということの意義はどこにあるのか?
会社を経営するということの意義はどこにあるのか?
人に働いてもらうということの意義はどこにあるのか?
自分が自分とし生まれて来た意義はどこにあるのか?
生きるということの意義はどこにあるのか?

但し
建前の見解は要らない。
七面倒臭い観念的な見解も要らない。
うまいことまとめただけの合理化の見解も要らない。
本当に
腹落ちする
心の奥底でしっかりと噛み合う
そんな答でなければ意味がない。

そんなこともわからずして
不登校の子どもたち
引きこもりの子どもたち
出社拒否の大人たち
就労支援やリワーク対象の大人たち
会社経営に悩む経営者たち

人生に悩む人たち
生れて来た意義や生きることの意義を見失っている人たち
の力になれるわけがないのである。

自分が答えを持っていないんだもの。
その答えを突き詰めることなく、ただ上っ面だけ適応して生きて来た人間に、真に悩める人たちの応援ができるとは思えない。
それに引き換え、
今、行き詰っている人たちは切実に悩んでいる。
よって、真実の答えでないと納得しないに決まっている。
結局、そこに小手先の〇〇療法やハウツーで解決しない人間の問題があるのだと思う。

真実の答えを持った人間になろう。
その答えと合致した生き方のできる人間になろう。
それが自分自身が成長する道であり、
それと同時に、自分以外の人間を応援できるようになる道なのである。

 

 

「私がもうひとつ言いたいのは…さっき言ったように、日本において特に出てますものは、
[1]相手の好意とか、愛情とか、それによる保護によってですね、それを得て、自分の安全を確保しようという傾向。そういうものが非常にはっきりしてる。

[2]第二には、今度は、権力とか、地位を得て、それによって、あるいは富を得て、それで自分が安心しようとする考え方。
[3]第三には、そういうものから、あの、できるだけね、もう人とも、ね、それから何でも、自分はこれだけの、こういうのを作っちゃって、箱みたいなものを作って、それの中でもう、知りません、存じません、ありません、干渉しません、私は関係しません、私はこうです、とこういう具合にパッとこう決まっちゃってね、中にピシャッと入っちゃう。こういう安全。
そういうね、ざっと言って、三つのね、型が、私は、あるように思うんですよ。それぞれね、面白いけれども、私のところにいらっしゃる、いろいろ悩んでる方は、そういうことでね、結局ね、自縄自縛(じじょうじばく)になってる人が多いんだ。
[1]まあ、安全っていうこともね、最初から言うと、人の好意に頼り、人の善意に頼り、人の保護に頼ってるとね、確かにそれが得られれば安全ですね。ところが、我々個人、自分自身の感情を考えてみてもね、感情なんて、こんな頼りにならないものはないですね。愛情とか何とかいうんだってね、好意だって。愛情だって、あなた、恋愛でお互いに、好きだわよ、永遠に好きだわよってなことを言っててもね、それだって3年したら離婚したりするなんかするんですからね。これ、非常に頼りにならないですよ、はっきり言うとね。そういうふうなね、この、安全っていうふうなことを考えていてもね、人の好意だとか愛情ってのは、本当、よっぽどやってないと、努力しないとね、続かない、大変です。そういうことでね、基本的には、そういうものがいつも不安な状態にありますね。不定(ふじょう)と言いますかね。そういうもんなんですよ。
[2]二番目にね、権力ってことを言いますね、地位。ところが、その、我々が考える権力とか地位とかっていうものね、考えますとね、富でも良いですよ、それもひっくるめて良いですけど、それも一体いつまでもパーマネント(permanent)に、永久にあるものかどうかですよ。…
[3]それからまた、最後はこういうふうな、こう、中に入っちゃって、もう関係しない、私は、俺はもうこれで良いとこうなる。こうやってるとね、僕に言わせれば、これは実に安全なの。人に関係しない、影響を受けない。安全なんだけれどもね、私に言わせたらね、これは一番牢屋の安全と同じだと思うんですね。牢屋の中に入ってね、こう、四面全部コンクリートかなんかでやって、こうやってね、安全だっていう。
で、昔、私は古いですからね、明治の人間だから、アレだけども、教科書があったんですね。それの中に、今の、子ども心に覚えてるのはね、サザエのことなんですよね。サザエがね、そこにいたら、ワーッとこう、変なふうにごちゃごちゃして来たと。あ、大変だっていうんだね。自分は、しかし、こういう城があるから大丈夫。ピシャッと中に入っちゃってね、中でこうやってたというんですよね。それで、他のタイだとかヒラメだとか、みんな、慌ててる。ああ、可哀想なもんだ、私はこうだ、と。そうしたらね、しばらくしたらね、フッとこう開けてみたらね、3銭で、3銭なんて今頃ないけど、3銭で売られてたって話なんですよね。私やっぱり、そういうもんだと思う、つくづくね。そのことを、私、小さいときに教科書で読んですごく印象を受けてね。どうして印象を受けたかよくわからないけどね、すごく印象を受けちゃった、ね。今頃、私、こういう仕事をしてね、ああ、なるほどね、こういう具合に セルフ・リミティング(self-limiting)、自分を制限し、自分の成長を制限してる人はね、そういうことになっちゃうんだっていうことが、今さらわかったんです。ただ、これをね、みんなわかるんですよ。
例えば、これ、一番深いところに何があるかっていうと、人間っていうのは自分の安全ということをものすごく感じるんですよ。こういうことを言ったら、上役に言ったら、機嫌が悪くなって、悪く思われて損だ。損だというのは自分が安全じゃない、ということ、ね。あるいはまた、こういうことを下の部下に言ったら、みんな、気を悪くして思うだろう。自分の、やっぱり、安全なのね。この中に何があるって、つまり、さっき僕は環境って言ったけどね、環境にさらにプラス、我々の心の中にある問題があると思うんですよ。それはね、自分の安全っていうことをものすごく考えてる。サザエ。サザエも自分の安全を考えてるわけ。
その安全の方法は、
[1]人にこう取り入って、人に甘えて、人のこう関心を得て、安全を得ようっていうのと、
[2]人に優(まさ)って、優越して、支配して安全を得ようっていうのと、
[3]それからもう、人からもう全部逃げ出しちゃってね、自分はこうやってやってると、いうふうなことで安全を得ようと、
いろいろあるんですけどね。動機はいろいろあるけれど、我々の心の中に、安全っていうものに対するものがある。」(近藤章久講演『人間の可能性について』)

 

今回は、近藤先生がカレン・ホーナイの「神経症的人格構造」の種類について、わかりやすく説明して下さっている。
(これについては、『塀の上の猫』の「ホーナイ派の精神分析」の中で、今後説明して行く予定なので、関心のある方はご参照あれ)
整理しやすくするために、かつて小さくて弱かった子どもたちが、自らのこころのの安全を確保するために身につけざるを得なかった「神経症的人格構造neurotic personality structure」の三つの種類の名称を挙げておくと、
[1]自己縮小的依存型(self-effasive dependent type)…Toward people
[2]自己拡大的支配型(self-expansive domineering type)…Against people
[3]自己限定的断念型(self-restricting resignation type)…Away from people
となる。
(それぞれについて、上記の本文の中の[1][2][3]に対応させてある)
いずれにしても、我々が自らのこころの“安全”を求めて、誤った神経症的人格構造を身につけ、そのまま大人になってしまった、ということを押さえておいていただきたいと思う。

 

 

当研究所の「人間的成長のための精神療法」を受ける要件として、「情けなさの自覚」ということを挙げている。
即ち、面談希望者に、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、という自覚を要求しているのであるが、何故これを求めているかというと、それがないことには、人間が成長しない、伸びしろがないからである。
言い換えれば、自分には問題がない、解決すべき成長課題がない、と思っている人が、真摯に自分と向き合えるわけがない。
その能天気さというか、思い上がりというか、そういう自己認識でいたいのであれば、痛くない腹を探られたくはないだろう。
そう。
そもそも痛くないのである。

そして、我々がある程度の自覚を持って、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、と思ったとしても、それはまだ氷山の一角に過ぎない。
自分が気づいているよりも、遥かに多くの、そして、遥かにひどい問題が存在する。
それこそ、ラスボスが出て来るまでには、たくさんのステージをクリアして行かなければならないのだ。
そうすると、自分が気づけているよりも自分は遥かにひどいらしい、という自覚を持った方が良い、ということになる。
それが「情けなさの自覚」よりも、ちょっと深い「凡夫の自覚」である。
基本的に我々は、愚かなくせに愚かだと気づいていない。
ちょっと気づいたくらいで、すぐに自分の愚かさをわきまえているようなフリをするが、その実態は、本人が気づいているよりも何倍、何十倍、何百倍、…何億倍、何兆倍もひどいのである。

かつて近藤先生は
「自分のような者が…」
という表現をしばしば使われたが、それはよくある謙遜のポーズではなく、本気で言っておられることが伝わって来た。
また、八十代になられてからも、当時三十代の私に
「もし僕が間違っていたら、教えてくれよ、松田くん。」
とこれまた、本気でおっしゃっていた。
そこに「罪業深重、底下の凡夫」という自覚がある。

だから、永遠に成長できる。
成長させていただける。
救っていただける世界が展開して行く。

だから、誤解なきように。
「凡夫の自覚」の行き着くところは、地獄のような自己卑下の世界ではなく、浄土のような成長と救いに満ちた世界なのである。

 

 

人間、自分の問題と向き合うのは、なかなかしんどいものである。
しかし、本気で向き合わない限り、本当の自分の人生はやって来ないので、そこは覚悟を決めて勝負するしかない。

だけれども、そもそも自分に問題があると思っていない、気づいていない、気づきたくない人たちがいる。
中には、はっきりと「自分と向き合いたくありません。」と明言した人もいた。
もしその人が大人であれば、それもまた大人の選択であり、自己責任において、それなりの人生を歩んでいただくしかない。
私とは縁のない人たちである。

そして、自分の問題に行き詰ったり、誤魔化し切れなくなったり、心底うんざりして来た人たちがいる。
苦しい状況ではあるが、人間はそうならないと、なかなか自分の問題と本気で向き合わないものである。
そういう人が意を決し、覚悟を持って、面談を申し込んで来られる。
そうなれば大歓迎である。
間違いなく私と縁のある人たちである。

難しいのが、その間の人たちである。
自分に何らかの問題があることには薄ら気づいているが、まだ覚悟を決めて、正面から勝負する気になれない人たちがいる。
こういう人たちは意外に多い。
こっちもね、つい手を差し伸べてくなるんだけど、やっぱり準備ができていないと、時間の問題で逃げるか、脱落して行くんだよね。
深まる人、そうでない人、過去の面談記録を整理しているうちに改めてそう思った。

ひとつの目安として、それまでの自分を全否定しても成長して行きたい、と思えたら、準備はできていると思う。

焦らなくていい(時熟を待とう)、しかし、待ち過ぎなくていい(年を取っちゃうからね)、ちょうどのところでいらっしゃい。
 

 

ある発達障害の中学生の男の子がいた。
相手の気持ちが読めない、空気が読めない、暗黙の了解がわからないなどの特性を持つ彼は、クラスメートとのコミュニケーションがうまくいかず、いつもクラスの中で浮いた存在となっていた。
彼としても、ただ無策にその状況に甘んじていたわけではなく、その状況を打開すべく彼が始めた作戦は、いろいろな“情報”という“貢ぎ物”をクラスメートに提供することで、その関心を得ることであった。
“情報”と言っても、その中味は、ゴシップネタや噂ネタ、三面記事ネタという、いわゆるゲスネタである。
そのモデルとしては、見栄っ張りでいながら、実は裏でゲスネタ好きの母親の影響があった。
みんな、ゲスネタが好きに違いない。
「〇組の△△くんと□□さん、付き合ってたけどもう別れたみたいよ。」
「××くんのお父さん、実はズラなんだって。
「◎◎さんのお母さんて、再婚でフィリピンの人らしいよ。」
どうでもいい“情報”提供が続く。
そんな話をすると笑いながら聞いてくれるクラスメートの顔を見て、彼は自分の作戦が成功していると思っていた。
しかし事実は真逆で、クラスメートは彼のいないところで、
「あの、おしゃべり、誰か黙らせろ。」
「ホントにバカだな、あいつ。」
「ニヤニヤしながらくっだらないことを話すあいつの顔を見てると反吐が出る。」
などと言って嘲笑の的になっていた。
そしてそういったクラスメートの声に気づいた担任教師が彼を読んで話をした。
「君の話は全く受けてないよ。」
「それどころか、君は、君のいないところで、散々バカにされ、嘲笑の的になってるよ。」
「ゲスネタは貢ぎ物にはならないんだよ。」
最初、驚いた顔をしていたが、担任の先生による行き届いた説明で、ようやく起こっていることを理解することができた。
じゃあ、これからどうしたら良いのか、途方に暮れる彼に、先生はアドバイスを続けた。
「まずゲスネタは収集するのも話すのも一切やめた方がいい。知ればしゃべりたくなるから、最初から何も知らないのが一番だ。」
「ゲスネタの代わりに、クラスメートの誰かのいいところを見つけて、褒める話をするといい。」
「但し、面と向かって言うのはTPOを間違えると却って逆効果になるから、本人のいないところで、別のクラスメートたちに話すのがいい。」
「その頻度は、週に一回までね。たくさん言うとこれまた嘘っぽくなるから。」
「本当にいいと思ったことだけ言うんだよ。」
などなど、具体的かつ懇切丁寧なアドバイスが続く。
そして特筆すべきは、やっぱり彼が素直だったことである。
彼は一所懸命にそれを実践した。
中には、彼にゲスネタを言わせようと、わざと話を振って来るクラスメートもいたが、彼は一切それに乗らなかった。
そして半年。
クラスの中での彼の立場は変化していた。
確かに特性のせいで、うまくいかないことも相変わらずあったが、まわりが話していても一切ゲスネタを口にせず、クラスメートのいいところを陰で言う彼の姿勢は、それなりの信頼を得ていた。

いい先生との出逢いを得たことももちろん大きいが、
時に「人間としての素直さは特性を上回る」ことを強調しておきたいと思う。
やっぱり人格は人間の一番の宝である。
 

 

 

1989(平成元年)、国連総会で「子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)」が採択され、翌1990(平成2)年に発効された。日本がこの条約を批准したのは1994(平成6)年である。
その主な内容としては、以下の四つ。
(1)生きる権利 …すべての子どもの命が守られる権利。
(2)育つ権利  …自分らしく健やかに育つことができる権利。
(3)守られる権利…あらゆる暴力や搾取、有害な労働などから守られる権利。
(4)参加する権利…自分の意見を言ったり活動したりできる権利。

その内容に関して異論はないが、どうも「権利」という考え方自体が私にはしっくり来ない。
今さらここで「そもそも『権利』とは…」「そもそも『人権』とは…」という観念的議論を始めるつもりもない。
関心のある方は、その筋の文献に当たってみることをお勧めする。
そうではなくて、本当に子どもたちを守り、育てようとした場合、「権利」という概念を啓発し、教育し、流布し、理解してもらうことで、現実にどれだけ人間の行動変容が起こるのか、ということが私の最大の関心事なのである。
確かに、「無知」や「誤解」によって起こった問題ならば、正しい「知識」と「理解」によってその問題は解決されるかもしれない。
その意味では、「子どもの権利条約」が採択され、批准されることには大きな意味がある。
「子どもの権利」意識は高まるかもしれない。

しかし、私はそれよりも、人間としての当たり前の“感覚”の方を遥かに重視している。
目の前の子どもたちを見て、この生命(いのち)を守りたいと感じ、健やかに育って行ってほしいと願い、あらゆる被害から守りたいと思い、のびのびと生きられるようになってほしいと祈ることは、「子どもの権利」意識の知的理解から来るのであろうか。
私はそうは思わない。

悲しいことに、「子どもの権利」については知的に熟知していながら、実際に、我が子を、生徒を、子どもたちを「権利侵害」をしてしまっている人たちがいることを私は知っている。
「権利」意識は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは些か弱いと私は思う。
言い方を変えれば、「権利」の「知識」や「理解」は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは十分でないと私は思う。

反対に、「子どもの権利」という概念を知らなくても、人間としての当たり前の“感覚”から、子どもたちを愛している人たちがいる。
なんらかの理由でつい子どもたちに辛く当たってしまった場合にも、人間としての当たり前の“感覚”から、すぐに後悔し、懺悔する人たちがいる。
私は、そんな人間としての当たり前の“感覚”の方が、気をつけなくても、考えなくても出て来るので、余程信頼できると思っている。

但し、この“感覚”は、教わらなくても人間に最初から与えられているものなのだが、その後の生育史の影響によって、その“感覚”が塵埃に覆われて、鈍くなっている人たちが少なからず存在する。
よって、その塵埃を掃う作業が必要になって来る。
そうでないと、“感覚”というものは、“敏感”であれば絶対的な確かさを伴うが、“鈍感”になると曖昧模糊として非常に頼りないものになり下がってしまうのである。
但し、その作業は、「知識」や「理解」では無理である。
それは「内省」と「体験」によってしか行われない。
詳細は長くなるので割愛するが、当研究所で行っている「人間的成長のための精神療法」も、人間としての当たり前の“感覚”を磨くためのひとつの道である、ということは、手前味噌でなく、付け加えておきたいと思う。

ちなみに、「子どもの権利条約」と同様のことが、「障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)」(2006(平成18)年国連総会で採択。2014(平成26)年に日本も批准)についても言える。
障害があろうとなかろうと、人間同士が互いにその存在に畏敬の念を抱き、愛し合うことは、人間としての当たり前の“感覚”によるものであると私は思っている。

 

 

テレビでやっていたあるドキュメンタリー。
舞台が我が故郷・広島であることもあって、見入っってしまった。
貧困と育児放棄の下で居場所がなく食事も摂れない子どもたちのために、話を聞き、説教もし、手作りの食事を提供し続けているばっちゃんがいた。
いろいろ“事件”(万引きなどの非行)をやらかしてくれる子も多く、来る日も来る日も、朝から晩まで夜中に起こされても、ばっちゃんは子どもたちを支え続ける。
急に電話をかけて来て、御飯を食べに来る子がたくさんいた。

ディレクターの質問に答えて言う。
「こがいに大変なのに、なぜ続けるん?って、それ、みんなが聞くんよ。」
当人は本気でこう答える。

「私にもよう分からんのよ。」

しんどいことが続くと
「『もうせーん!』
 なんでここまでせんじゃいけんの!』ちゅうて、
 しょっちゅうヒス起こすことが多いよね。」
とあからさまで、このばっちゃんは全く良い格好をしようとしない。

〈それでも続くのは〇〇さんにも喜びが?〉
とディレクターがばっちゃんに“よくある答え”を言わせようとして誘導尋問するが、
ばっちゃんは質問にかぶせるように
「ありゃせん!」
と即答し、
「つらいばっかり!」

そうなのだ。
すぐにヒスを起こし、イヤになってしまう凡夫のばっちゃんである。
しかしそのばっちゃんを通して働く力が、この人に尊い菩薩行をおこなわせているのである。
本人の意志でやっているわけではないので、
「私にもよう分からんのよ。」と言うのも当然である。
本人の意志を超えたものが本人を突き動かしている。

ここに“凡夫の菩薩行”がある。

感動してしまった。

少年院帰りの男の子にディレクターが尋ねる。
ばっちゃんに電話をかけては御飯を食べに行っていた彼は
「前は食堂みたいな感じだったんですけど。」
と言い、それを聞いたディレクターがまた誘導尋問をする。

〈ばっちゃんに言ったら何て言うかね?〉
「食堂」なんて言ったらばっちゃんに怒られる、みたいな答えを想定していたのだろう。
しかし、彼の答えは違った、
「『悪さするより電話してきてえらかった、えらかった。』と言うと思う。」

ばっちゃんを通して働く愛は、ちゃんと彼に届いていた。

 

 

「利益相反」とは一般に、「ある行為により、一方の利益になると同時に、他方への不利益になる行為のこと」をいう。

私が関わるカウンセリングやサイコセラピー、精神科医療の分野では、「利益相反」ということに余り関係がないように見えるが、実は絡んで来ることがちょくちょくある。

例えば以下は、学校とスクールカウンセラーが関係して来る場合である(学校とスクールカウンセラーの名誉のために断っておくと、子どもの成長のために誠実な努力を続けている学校やスクールカウンセラーが存在することを私はよく知っている)。

時にスクールカウンセラーが、学校側から直接に、あるいは、暗黙裡に不登校の子どもを学校に登校できるようにしてくれ、という要望を受けることがある。
そして、スクールカウンセラーの雇用は実質上、学校側に握られている。
そうなると
、スクールカウンセラーが自分の雇用を守り、学校側からの自分の評価を上げようと思えば、子どもに対して登校を促す関わりをすることになる。
しかし、当の子どもの成長にとって、少なくとも当面の間は、今の学校に登校しない方が良いと思われた場合、スクールカウンセラーは板挟みの立場に立たされる。
つまり、登校促進が、学校にとって利益となる(不登校を減らす)と同時に、子どもとスクールカウンセラーにとって不利益となり(子どもの成長を阻害することになりかねない/スクールカウンセラーとして魂を売ることになる)、
反対に、不登校容認が、子どもとスクールカウンセラーにとって利益となる(今の子どもの成長を守ることができる/スクールカウンセラーとしての矜持を守ることができる)と同時に、学校とスクールカウンセラーにとって不利益となる(不登校者数が増える/スクールカウンセラーとして次年度の契約はなくなるかもしれない)。

こういうときにスクールカウンセラーの姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、スクールカウンセラーをやっているのか?
それが子どものため、子どもの成長のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

似たようなことが、病院職員のメンタルヘルスのために精神科医が一般病院に勤務している場合にも起きて来る(病院と精神科医の名誉のために断っておくが、職員の幸福を真に考え、誠実な努力を続けている病院や精神科医も存在する)

例えば、看護師不足の折、病院としては看護師に辞めてほしくない。
しかし、その看護師の人生単位の幸福を考えると、
退職することが正しい選択の場合もあり得る。
そこで精神科医は板挟みの立場に立たされる。
つまり、看護師に勤務継続を促すことが、病院にとって利益となる(看護師の数が減らない)と同時に、看護師と精神科医にとって不利益となる(看護師の人生を不本意なものにすることになりかねない/精神科医として魂を売ることになる)。
大体、“体制派の犬”のような精神科医のところに誰が相談に行こうと思うだろうか。慰留されるとわかっている相談に出かけて行くはずがない。
反対に、看護師の退職容認が、看護師と精神科医にとって利益となる(看護師の人生の意味と役割を守ることができる/精神科医としての矜持を守ることができる)と同時に、病院と精神科医にとって不利益となる(看護師が減る/精神科医の今後の契約更新はなくなるかもしれない)。

こういうときに精神科医の姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、病院職員のためのメンタルヘルスに携わっているのか?
それが職員のため、職員の人生単位の幸福のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

それでもし私がスクールカウンセラーやメンタルヘルス担当の精神科医として雇われ、なんでもいいから、子どもたちが登校するようにしてくれ、看護師が辞めないようにしてくれ、と頼まれたならどうするか。
私が一番最初に辞表を書くであろう。

(但しもし私にその学校や病院の体質を少しでも改善・改革して行くミッションが下っていたとしたら、そこまでの縁があったとすれば、悪戦苦闘しながらでも改善・改革に取り組んで行くかもしれない)
 


 

つまり、日本人は、非常に人付き合いが良いんだけども、本当言うと、人付き合いが嫌いだな。できるだけ一人でいたいところがある、ね。だから、アメリカ人に言わせると、留学生が随分、私のところへいましたけど、どうして日本人ってのはパーティに出て来ないんだろう? 彼らはすごくね、寂しがり屋だから、人懐っこくて、みんな寄って来て、パーティをじゃんじゃんやって、何も知らない者にもこうやるわけですよ。ところが、日本人ってのはそうじゃないから、一人でいてね、よくあのアパートの寂しい、机とね、ベットしかないところにじっと一人でいるな、と感心してるんですよ。感心するわけなんでね、しょっちゅう人にばっかり気を遣ってるんだからね、せめて気を遣わないときがほしい、とこういうわけよ、ね。まあ、一杯飲み屋かなんかに行って、こうやって飲んでたら、とても良い気分になる、これね。一人でこう飲んだらなんとも言えない良い気持ちだ、とこういうわけですよ。
だから、withdrawal(ウィズドローワル)っていうか、人から逃避するという傾向に陥る、ね。そのくせ、普通には、社会的に言うと、なんか、人に向かってですね、ご機嫌を取る。相手に向かって相手のご機嫌を取って、相手の好意を得て、自分にね、そしてこの好意を利用してですね、自分の何か、自分の安全とか、自分の昇進とか、良いことを図ろうという、こういうふうな魂胆(こんたん)があるんですね。
相手の方もまたその魂胆を知って、あいつは俺に近づいて来たって言うけど、これはさっきの話で、そうやってやられると、人から良く思われると良い気持ちなもんだから、ああ、あいつは俺の手下だなっていうわけで、こう、非常に良い気持ちになっちゃう、ね。相互依存と私はこれを言うわけ。つまり、支配する者は支配される者がいなきゃ成り立たないんで、みんないなくなっちゃったら、ヒットラーでもね、支配する人間がいなくなったら、一人ぼっちになっちゃう。フワーッとしてることになっちゃう。ところがまた、支配される人間は、支配する人間がいると安心できる。あいつのせいだっていうことにできるからね。なんでもそう。
だから、日本では、面白いことは、これは徳川時代からそうですけどね、なんか議論やるでしょ。最後にね、ごちゃごちゃ、今の閣議でもそうですな。これは委員長に一任とか、任せちゃう。任せちゃうと、自分は責任を逃れちゃう、ね。あれがやったんだから、オレはまあ、任せたんだからしょうがない。あいつのせいだ、とこういうわけ。依存でしょ、これ。自分自身の意見とか、自分自身の責任において解決してるわけじゃない。だから、それは両方依存してるわけね、これね。そういう意味で、私は、日本の社会の特徴は、相互依存的な関係があって、お互いに利用し合ってる関係。まあ、それはそう言っても良い、ね。…
ところが、ご厚意に甘えまして、てなことになっちゃってね。甘え込んじゃって、宜しくお願いしますって、宜しくってのはどの程度だかわからない。そうすると、そのときの状況によって決定されるわけね。そうすると、私は折角あの人に頼んだのに、あれ程頼んだのに、あの人は私の期待を裏切って、やってくれなかった。そういう具合にブーブー言うことになっちゃう。また、片っ方は片っ方でどうかっていうと、自分でね、宜しくって言うから宜しくって僕はやってやったのに、なんであいつは御礼も言わない、なんてことになっちゃう。そういうふうな、妙ちきりんな、腹の探り合いってことになると、そこで益々ね、お互いの顔色をじっとこう、見ることが必要になって来る。あいつはどういうことを考えてるだろうかってことがね。これがね、私は、エネルギーの大変なロスになってると思うんですよ。このために頭がくしゃくしゃしちゃう。
全く対人関係でのね、そういう意味で、問題が多いんですよ。これもへちまの屋根ですよ。屋根みたいなもの、これね。私たちに何かね、そういうものがね、知らないうちに、平生(へいぜい)やってることだけどもね、のびのびとさせない。さっき言った、自然に人間として人を愛し、ね、人に本当に好意を持ち合ったり、あるいはそういうふうなことで、心と心が触れ合ったりすることを妨げてる、ひとつの材料になっていはしないかと、まあ、こんなふうに思いますね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちらを参照。

 

そうしますと、「服従と引き換えの責任逃れ」と「責任の引き受けと引き換えの君臨支配」という相互依存関係の成立と維持にも、腹の探り合い、気の遣い合いという、非常に面倒臭い手間がかかるということになります。
とにかく神経症的な人間関係というのは結局、エネルギーを使って疲弊することになるわけです。
先日テレビで、現代人の会社での昼休みや休憩時間の過ごし方調査というのをやっていました。
その中で一番多かったのが何かというと、個食や孤食、一人で過ごす、という選択でした。
ここでも、普段人に気を遣って生きているんだから、せめて休み時間くらい一人にさせてくれよ、という思いを感じます。
不登校、引きこもり、繰り返す離職といった現代の状況を含めて、この48年前の講演の頃と変わらぬ問題の根幹がそこにあります。
目指すべきは、そんな消耗と疲弊の関係ではなく、私が私でいて、あなたがあなたでいて、その二人が互いに愛し合い、互いの成長を促し合う関係なのです。
そして最終的には、一人でいても誰かといても、本来の自分でいることを目指しましょう。

 

 

ある若い女性が、小学校高学年から中学校の頃、不登校で病院の精神科に通い、カウンセリングを受けていたという。
長く通っても学校に行けるようにならなかったので、親が怒り出し、自分も通うのをやめてしまったそうだ。

そもそも「不登校」は単なる現象名であって、その背景にはさまざまなが要因があり、ひと口で「不登校への対処の仕方」と言えるものなどあるわけがない。
ちょっと考えてみても、生物学的原因、性格因、環境因など、複数の要素が時に複雑に絡み合っている。
それでも言えることは、私だったらもう少し最初に本人や親に説明しておくことがあったろうな、ということである。

まず私ならば最初に「ここでの治療は学校に行けるようになることを目的としていませんが、それでもいいですか?」と申し上げる。
「お嬢さんがお嬢さんとして生きて行けるようになることを第一の目標としていますので、学校に行けるようになるかどうかはわかりません。今の学校に行けるようになることがお嬢さんの成長にとって良ければ行けるようになるでしょうし、そうでなければ行けるようにはならないでしょう。」

そう。
一番根底にある、これらの「人間観」「人生観」「治療観」がまず試されるのである。
ただ漫然と、学校に行ける方が良いんじゃね?世の中、長いものには巻かれて適応して生きて行けた方が良いんじゃね?と精神科医や臨床心理士が(そして親や本人さえもが)思っていれば、当然、治療もそういう方向性に行ってしまうに決まっているのだ。
そして、どうしてもそれがお望みならば、それに賛同する他の医療機関、関係機関に行ってただくしかない。

私がそういう話をすると、その女性は、
「へぇ~、そうだったんですね。」
と驚いた顔をしていた。

そして私は付け加えた。
「で、これからどうします? 今度こそ自分が自分として生きて行けるようになる道を目指しますか?」
あとは、今や大人になったあなた次第です。

 

 

ある人がある人と結婚した。
ラブラブの間は良かったが、一緒に暮らすうちに、相手のいろいろな問題が見えて来た。
で、どうするか?である。
面倒臭いから斬って捨てるのか。
相手の問題も抱えて生きて行くのか。

相手にちょっとでも問題があると、容赦なく斬って行くのもいいけれど、みんな人間だもの、どこかにきっと問題がある。
斬っても斬っても、次の人次の人に問題が見つかって行くうちに、そして誰もいなくなった、になるかもしれない。

かといって、結婚した以上、相手にどんな問題があろうと添い遂げなければならない、というのも考えものである。
「ねばならない」で強要された「糟糠の妻」などは美しくない。

じゃあ、斬るのか、抱えるのか、どうするのか。

斬るも抱えるも、縁で決める、ミッションで決めるのである。
縁がなければ、ミッションがなければ、抱えたくても離れて行く。
縁があれば、ミッションがあれば、イヤでも抱えることになる。

そしてどちらかというと、各人の自我が強まり、斬る方が増えている現代、
後者の、縁があれば、ミッションがあれば、抱えることになる、ということを今日は強調しておきたいと思う。

本来、その必要はないのに、縁とミッションによって、相手の問題を一緒に引き受けて行く、相手の重荷を一緒に背負って行くこともあるのである。
例えば、
ある人は、待望の養子縁組を行ったが、成長するうちにその子どもに障害が見つかった。
ある女性は、大学教授と結婚したが、暮らすうちにその相手に末期癌が見つかった
面倒臭ければ斬るだろう。
しかし、そこに縁があれば、ミッションがあれば、即ち、私を通して働く大いなる愛(私の愛ではない)があれば、それはあなたの問題だから知らない、ではなく、手を差し伸べて、一緒に背負って行くことになるのである。

 

 

初対面の人に逢うとき、初めての場に行くとき、あなたはどういう気持ちになりますか?

私は今でも、ワクワクする気持ちを禁じ得ません。
そこにどんな深い出逢いが待ち受けているのかと思うと、期待の気持ちで胸がいっぱいになります。

もちろん私も何十年も生きて来ましたから、逢ってみてガッカリしたり、ムカついたりしたことは数え切れないくらいあります。
しかし、それでもまた新たな出逢いに期待しています。
何故そうなるか。
幼少期から現在までの出逢いを振り返ってみても、明らかにガッカリしたり、ムカついたりした経験の方が多かったので、これは私の生育史の影響ではありますまい。

となると、そういう気持ちになるようになったのは、やはりアフター近藤(近藤先生に出逢ってから)の結果であると思います。
即ち、人間存在の二重構造からしますと、
その人の生育史の中で、二次的に着いた塵埃、泥、闇の部分に対しては、いくらでもガッカリし、ムカつきもしますが、
その人の中核に最初から働いている、その人をその人させようとうする働き=光の部分に対しては、期待しないではいられません。
(但し、後者の光が、前者の闇を凌駕するかどうかは、寿命との競争ということになりますが。即ち、生きているうちに間に合うかどうかの競争です。)

やっぱり自分として生命(いのち)を授かったからには、ニセモノの自分でなく、ホンモノの自分を実現して生きて行きたいじゃないですか。

そんなことを思いながら、たとえ裏切られても裏切られても、今日もまた人間に期待しないではいられないのでありました。

 

 

ネットに「結婚したい女性の『職業』ランキング」という記事が載っていた。
その調査の統計上の意義はともかく、ひとつの参考にはなる。

そのランキングを挙げると、
3位 薬剤師
2位 保育士
1位 看護師
という結果であった。

いずれも私にとっては知っている方の多い職業なので、「へ~、そうなんだぁ。」と想いながら、これらの職業が正当に評価されているようで、嬉しい気持ちになった。

しかし、その職業を選んだ理由を読んでいると、「んんん?」という気持ちになって来る。
いずれも、何かあったときに「助かる」「心強い」というコメントが並んでいたのである。
結局、自分にとっての“利用価値”なのか?
それはおかしいでしょ。
それじゃあ、私利私欲でしょ。

そう思って、上記の三つの職業を見直すと、薬剤師、看護師は医療職として“利用価値”がわかりやすいが、残る保育士は、子どもが生まれたときの“利用価値”か?ということになる。
しかし、実はそうではない。
世の既婚女性の方々はよく御存知であろうが、結婚してみてわかるのは、産んだ覚えのない(手のかかる)長男が一人、家庭内に増えた、ということである。
そう。
旦那が一番手のかかる子どもなのだ。
そうなると、保育士は確かに、大いに“利用価値”のある職業ということになる。

そんなことを考えていると、段々希望のない気持ちになって来るが、世の中、捨てたものではない。
コメントを書いている人の中に一人だけ、こう書いている男性がいた。

「支えてあげたくなりますね。」

そうこなくっちゃ。
利己的な、自分にとっての“利用価値”ではなく、自分よりもまず相手を大切に思うこころ。
パートナーは、互いに思い合う相互性で成立している。
上記三種の職業に就いている女性は、この評価に騙されず、そういう眼でしっかりと男を鑑別しましょうね。

 

 

虚々実々の情報が巷(ちまた)に溢れかえり、情報源も数限りなく増えた世の中である。
その氾濫する情報の中で求められているのは、「情報を読む力」である。
どの情報が、真実で、信頼できるか、
どの情報が、ニセ、ガセネタ、フェイクで、信頼できないか。

例えば、ニュースソースを絞ってみるのもひとつの方法である。
具体的には、NHKニュースしか信じない、〇〇新聞しか読まない、大学病院や正規の学会発の医療情報しか信頼しない、と言った具合。
また、□□さんの言うことなら信用できる、と個人を絞る手もある。

情報源としての鑑別が難しいのが、さまざまなニュースに関するSNSなどの書き込み情報、そして店舗や商品については顧客レビュー情報である。
こいつの言っていることが本当に信じられるか否か。

私は情報内容そのものよりも、その情報を書いている人間のパーソナリティが漏れ出ているところを感じ取るようにしている。
特にネガティブな書き込み、煽情的な書き込みには注意を要する。
どこかに悪意やら、常軌を逸した攻撃性やら、傲慢さやら、思い上がりやら、イヤな臭いがする。
そういうヤツからの情報は即却下である。

反対に過度にヨイショする情報にも注意を要する。
そこにもまた読者をどこかバカにした(こんなもんで引っかかるだろうという)ようなイヤな臭いがする。
これまた即却下である。

そして最後は、読者の責任である。
基本的な他者への信頼感、この世界への信頼感を持っていない人間(そうなるにはそうなるようなその人の生育史がある)が引っかかりやすいデマ情報(特に陰謀説系の情報)がある。
それは信じたあなたが自ら堕ちた罠なのよ。
それによって生じる不利益は、自分で責任を取るしかない。

「情報を読む力」は、結局、あなた自身の人間としての健全度、成熟度につながって行くのである。

 

 

イヤなことがあったときどうするか。
自らを振り返ってみたり、周囲に訊いてみれば、よくわかることである。
家族や友だちに話す。
酒を飲む。
美味しいものを食べる。
買い物をする。
カラオケに行く。
などなど。
これらの方法を否定するつもりはない。
これらの、いわゆる気分の“紛らわし”は確かに有効であろう。
それで気持ちがスッキリと晴れるときもある。
しかし、それはあくまで「イヤなこと」の程度が浅いときに限られる。
ある程度以上深い「イヤなこと」があったときには、こんなことで紛らわすことができない。
紛らわしても紛らわしても「イヤなこと」が何度も浮上し、我々は繰り返し繰り返し懊悩することになる。
これではたまらない。

しかし、心配することなかれ、それでも賢明なる先人たちは、そんなときの救いの道も用意しておいてくれている。
それが「無我」への道ということである。
即ち、気にしている私=「我」がなくなれば、懊悩することがなくなる。
イヤな思いをする主体、懊悩する主体がなくなってしまうのだから。

かの心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療においても一時、“紛らわし”のちょろまかし療法が流行ったことがあったが、それではやはり根本的解決にはならなかった。
そうではなくて、トラウマ(心的外傷)を感じている私、傷つく私=「我」がなくなれば、すべての懊悩から解放されることになる。

傷つく私=「我」をなくすといっても、もちろん、自殺してしまっては元も子もない。
実際にも、辛くて辛くて自殺を図る人もいるが、それは真の解決にはならない。
生きながらにして、気にしている私=「我」がなくなる道はないか、というのが事の核心なのである。

それが呼吸による「無我」の道なのだ。
そんなことで、と軽んずることなかれ。
必死にやってみればわかる。
まず呼気において、息を吐いて吐いて吐いて、吐き尽くす。
これはやってみればわかるが、いくらでも出る、驚くほど出る。
我々の通常の呼吸がいかに浅いかがわかる。
そして、吐いて吐いて吐いて、吐き尽くした最後に、自分=「我」まで吐いてしまうのである。
そのとき、ほんの一瞬かもしれないが「無我」の瞬間がある。
これは体験してみるしかないが、確かにその一瞬は、あらゆる苦しみから解放された瞬間がある。
この“体験”が重要。
体験しなければ意味がない。
体験しなければわからない。
もちろん、ちょっとやってみてすぐに得られるような体験ではない。
繰り返しやってやってやって、ようやく授かる体験である。
しかし、この体験があるとないとでは大違いなのである。
そこに間違いなく救いがある。

そしてすべてを、「我」を含めて、吐き切った後に、その真空に吸気が入って来る。
それは過去の繋縛(けばく)から離れ、自分を新たに再生させ、蘇らせる吸気なのだ。
ひと息ごとの死と再生。

だから、たかが呼吸と侮ることなかれ。
深まれば深めるほど、そこに生かされていることの本質があるのである。

 

 

「私は、実は、これは私たちの農耕社会と関係があるんじゃないかと思うんですがね。つまり、村でもって私たちは水田耕作をやりますね。で、農地っていうのはそこから、アメリカ人みたいにハンティングをやらないんだから、ここからここへこう行けないわけ。つまり、どこかへ移れない。そうすると、いつでも定住しなきゃいけない。そこを離れられない。…これはね、日本という限られた土地で、しかも村で、そこに住んでて、農耕やって、そこの田畑で食ってれば、田畑を離れられたら食っていけない。従って、そこにいなきゃいけない。これはもう絶対命令みたいなもの。
そうすると、そこでもってね、農耕耕作をやりますとね。やれ、その、種蒔きのときとか、借り入れのときだとか、あるいは苗をこうやるときとか、まあ、いろいろなことでもって共同的な作業をやるわけでしょ。そのときに、他人の好意によるわけだ、簡単に言えばね。そこでちょっと妙なことをしちゃうとね、感情を害しちゃったら、すぐ村八分にされちゃう。できるだけね、人をアレしないように、「…でございます。」とこういうわけでね、うまくやると。人の顔色を窺(うかが)って、どう考えてるか、いちいち顔を窺っているというような態度が、僕は、出て来ると思うんですよね。…
だから結局、そういう意味で、外からのね、いろんなもので、人の顔色を気にしたり、人の機嫌を伺ったり、ご機嫌を伺うなんてことは、我々、非常にアレですよ。例えばね、まあ、ひとつの例ですけど、これ、つくづく思うんですけど、向こうで、向こうでっていうのは、外国で、挨拶ね、普通の挨拶、挨拶は“How are you?”って言いますね。“How are you? っていうのは、“How is your health condition?” つまり、「あなたの健康状況はどうか?」と。これはまあ、はっきりしてますね。
ところが、日本では、「ご機嫌いかがですか?」とこう言う。ご機嫌ってのは、そのね、「感情はどうですか?」ていうこと。つまり、ご機嫌を伺っているわけですね、要するに、ご機嫌伺い。これが発展して中元になり、歳末の贈り物になって来るわけ。そういうことが我々の人間関係をですね、スムーズにしてる点もあります。しかし、我々が非常に、人のね、気配、人の感情とか、アレに対していつもビクビクビクビクしながら、こうやって生きてるっていうのも事実です、ね。まあ、こういうことも、特にまた、日本みたいな家族で、あんな狭いところで、こうやってしょっちゅう顔を見てやってればですね、お母さんがキャッとヒステリーになればね? あ、大変だ、とこう思うしね、それはもう、お母さんはお母さんで、お父さんのご機嫌はどう?とこうなっちゃうから、もうしょっちゅう、お互いにご機嫌伺いばっかりしてるような態度でしょ。まあ、僕はいつも思うんですが、患者さんでも、来てもね、僕の顔をじーっとこう見てるんですよね。それでね、「先生は今日、どういうふうな感情でしょう?」なんてことを言うんですよね。どっちがやられてるか、わからない、あなた(笑)。
そういうふうにね、もう非常にお互いにですね、そういったお互いの感情を考える、それがね、暗黙の裡(うち)に、腹の中でやってる。腹芸でね。顔はいい加減にしながら、今日はどんな感情か?、なんていうことをやってるわけですよね。これが上下関係にも、あるいは水平の関係にもね、私は、行われてるのが、我々の現代。そういうとこでね、我々、のびのびできないですね、これ。のびのびできないから、僕が言うのは、言うならば、そういうふうな意味で、へちまになっちゃうとこういうわけですよね。曲がったへちま、屋根の上のへちまになっちゃう。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちら参照。

 

そういう眼で振り返ってみれば、我々が日常生活において、いかに他人の感情、ご機嫌にアンテナを張って生きているかがわかります。
それはもう子どもの頃から積み重ねて来た涙ぐましい努力の結果なのです。
そしてその結果が、こんなに息苦しくて窮屈な毎日になってしまいました。
フォーカスすべきは、相手の感情やご機嫌ではなく、内なる本当の自分。
迷いそうになったら、そもそもの原点に戻りましょう。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かりました。
自分を生きずして何の人生でしょうか。
聴きましょう、生命(いのち)の声を。
感じましょう、生命(いのち)がどう生きたがっているかを。
へちまが本来のへちまするように
あなたもまたのびのびと本来のあなたしましょうね。

 

 

お殿さまというのも辛いもので、少しも気を遣わないで、万事思い通りになるわけでもない。
却って、殿さまだからこその気遣いが要求されることもある。
例えば、食事ひとつを取ってもそうである。
好物のごちそうばかり食べ放題で「重畳(ちょうじょう)、重畳。かっかっか。」と言ってばかりはいられない。
たまに何かの手違いで、不味いものが出たり、辛かったり、甘かったりすることもある。
そんなとき、「これは不味い!」などと言った日には、膳奉行や御膳番が腹を切ることになるかもしれないのである。
きっと不味い料理を笑顔で食べたお殿さまもいたであろう。
何をどこまでどう言うのか言わないのか、は時に殿さまにとって大問題であった。

そしてそれは江戸時代のお殿さまだけの話ではない。
現代でも、社長が社員に、上司が部下に、何をどこまでどう言うのか言わないのか、は変わらず大きな問題なのだ。
ただの垂れ流し、言いっ放しで言って良いのであれば、事は簡単である。
しかし、今どきの社員はすぐに辞めてしまう。
いや、それこそ今どきなら、パワハラで訴えられるかもしれない。
社員や部下を育てるつもりなら、当然、伝え方が変わって来る。

結局、「裁くのか、育てるのか」ということになる。

裁くつもりなら、全部言って、斬って捨ててしまえばいい。
しかし、育てるつもりなら、むしろ何を言わないかが重要となってくる。

こういうことは、特にカウンセリングやサイコセラピーの分野において、一層重要となる。
気づいた問題点を全部指摘してしまえば、クライアントは怒り出すか、壊れてしまう。
かといって、何も言わず、よしよしを続けていれば、クライアントは成長しないままに終わる。
何をどこまでどうどのタイミングで言うのか言わないのか。
これも、「頭で考えてやる派」と「直観でやる派」に分かれるが、「はからい」と「操作」を嫌う私は後者である。
​但し、何をどこまでどうどのタイミングで言うのか言わないのか、において、どうしても譲れない一点がある。

それはやっぱり「そこに愛があるんか」ということである。

不味い料理を笑顔で食べたお殿さまの胸の内にも家臣への愛があったのだと思う。

 

 

 

最近、勉強会を開催する度に思う。
手前味噌を承知の上で申し上げるならば、とても“良い”会になったと思う。

“良い”会というのは、参加者が、自分のことにおいても、他の参加者においても、人間というものを信頼でき、人間の成長というものを信じられる集まりになったということであり、
その“感覚”の下に、集団の中で「情けなさの自覚」を深め、「成長への意欲」を発揮できるようになったということである。

もちろん最初からそうだったわけではなく、勉強会の内容および形態から、参加者の対象から、紆余曲折、試行錯誤を繰り返しながら、今の形に辿り着いた。
振り返れば、初めて勉強会というものを開催してから、30年以上が経っていた。
それでも、倦(う)まず、弛(たゆ)まずやっていれば、こんな景色が観えるところにまで来れたのである。

しかし残念ながら、娑婆の集団ではこうはいかない。
必ず問題山積みでありながら、無自覚でのさばっている連中がいて、集団は重く暗く面倒臭いものとなる。
そんな集団では人は成長しにくい。
だからこそ、この勉強会を始めたのであり、そこでまず人間が成長し、自分が自分であることの幹を太くし、娑婆の中でおかしなヤツらを押し返し、自分でいられる力をつけたいものである。

少なくとも今言えるのは、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った人にとっては、この勉強会はとても居心地の良い場所であり、時に自分の情けなさと向き合い、それを乗り超えて成長して行く過程はしんどいものであるが、心から自分の成長を願い、祈ってくれている仲間の存在を感じ、立ち向かって行けるベースになっているものと信じている。

一度しかない短い人生だもの、
身構えてニセモノの自分の面(つら)の皮が厚くなる娑婆の集団ではなく
安心してのびのびと本来の自分を発揮できる本当の集団の中で
一緒に成長して行きましょう、ね。

 

 

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