今日は令和7年度最初の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目、2回目、3回目、4回目、5回目、6回目、7回目、8回目、9回目、10回目に続いて11回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※尚、神経症的性格の3つの類型(①自己拡大的支配型、②自己縮小的依存型、③自己限定的断念型)についての説明は、他の文献では見られないほど詳細である。
A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析
4.神経症的性格の諸型
a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type
b.自己縮小的依存型 self-effasive dependent type
この型のもつ「仮幻の自己」像は、丁度、上述のタイプの陰画の様なものである。自己拡大的支配型の人間が、「仮幻の自己」との同一化に没入するのに対して、この型の人々はその様な「仮幻の自己」の輝かしい像に一致出来ない自分を見出し、そのことによって自分を責め、卑小に感じ、無力な存在とするのである。
そして、それ故に自らを他人の助力や保護、そして愛情を必要とする存在であるとする。見方を変えて言えば、先のタイプにおける「仮幻の自己」によって嫌悪され、憎悪され、軽蔑される、卑小、無力な「現実の自己」に自分を同一化しているとも言える。
この型の人は、他人に勝とうともせず、目立たぬ様にし、人に従順であり、感じよく思われる様に振舞い、自分も主張しない。勝負事をしても、勝つと悪いことをした様な気がし、指導的な地位のなると不安になり、当然の権利であっても主張するのに自信がなく、他人に何かを頼むにも弁解を長々としたり、逆に頼まれたら断るのが悪い様な気がして、心にもなく引受けたりする。
自分の欲望や願望や意見を持つのは、何時も僭越で、傲慢なことだから持つべきでないのである。彼にとって優越すること、自分の事を考えること、他人に対して主張をすることは、全て許されないことなのである。
こう言う彼の態度から、私達は「よい人だ」という感じをもつ。しかし、分析によって知ることは、この様な態度が彼の「真の自己」の発展を阻止し、縮小している事実なのである。そして、その原因として、彼の謙遜さにもかかわらず、それと反対なものがあることを発見するのである。
最初に私達が発見するものは、彼は上述の様な「現実の自己」と同一化することによって、その「現実の自己」を転じて新しい誇りに満ちた「仮幻の自己」を定立していることである。この「仮幻の自己」は絶対的な無私、同情、愛、犠牲的精神というものを内容としている。まさに自己をこの様な存在として見ることはそれ自身一つの傲慢であり、謙遜ではない。しかも、その反面に於いて、彼は果敢な自己主張や野心の追求、呵責ない制服や非情な態度という様な自己拡大的な態度に対して、ひそかな、しかし激しい嘆賞と渇望をもっていると言うことに気付かされる。
この事は、彼の「仮幻の自己」が、自己拡大的支配型の陰画から構成されていると言う事と共に、その乳児期に於ける状況と関係があるのである。自己縮小的依存型の人々は、その早期の問題 ー 基礎的不安 ー を「人に従って行く態度」で解決した人々である。
自己拡大的な型の人が幼児期に於いて、甘やかされたり、厳格に躾けられたり、或は残酷に取扱われた人々に多いのに対して、この型の人々は誰かの蔭で育った人に多いのである。
例えば、特に両親に愛された兄弟の蔭か、他人から始終尊敬されている親の蔭とか、美貌の母親とか、愛情はあるが独裁的な父親とかの蔭である。そこでは自分は何時も第二義的な存在であるが、しかし、何かの意味で愛情は得られないでもない。唯、そては服従と言う対価を払って得られるのである。
彼は妥協したり、屈従したりして ー 自分の感情を犠牲にしてしか、他人からの愛を得られないことを学ぶのである。一方に於いては、自己拡大的な人達への羨望とそれの抑圧、他方に於いて自己屈従的・自己犠牲的態度が取られて来るのである。
人に愛せられるためにとられる態度 ー 自己を主張しないこと、屈従的なこと ー これが利他的無私とか、惜しみなき愛とか、自己犠牲の高貴性とかに美化される。そして、そこに自己の存在理由と価値を発見し、それを内容とする「仮幻の自己」が完成されるのである。そして、ここに彼の「誇り」pride が宿る。
ところで、彼の「仮幻の自己」は、自己拡大型の人間がする様に誇ることを許されないと言う矛盾に面する。しかも、そこに誇りを感じざるを得ないために、彼は「仮幻の自己」の要求を充足し得ない無力な「現実の自己」を感じて、自己卑小感、自己嫌悪を抱くに至る。この事は、さらぬだに無力感に満ち、烈しい自己嫌悪を持っている彼に益々その感を深くさせ、自己を責め、自己を嫌悪する傾向を強めるのである。
彼の shoulds は、何時も、自己否定的に働き、彼の自己主張や心の中でひそかに熱望する攻撃性を抑圧するのであるが、そればかりでなく、他人に対する彼の評価を束縛する。彼は常に他人に好意を持たなくてはならないから、他人の善意を疑ったり、他人に悪意や心の狭さを見てはならないのである。
他人を少しでも疑う事は許されない結果として、結局彼は何時も他人の意のままになることになる。このことは又、彼の無力感や自己嫌悪を深くする。たまたま、他人によって利用されることに対して怒りや敵意を覚えても、それは shoulds の命ずるところに反するから、そういう事を感じることに罪悪感と自己に対する嫌悪を覚えざるを得ないし、抑圧しなくてはならない。
この型の「仮幻の自己」が、愛される必要から出たことは先に述べた。従って愛というものが、彼にとって一番重要な価値を意味する。「仮幻の自己」の種々な内容を貫くものは愛であると言える。他人に対する関係に於て、彼が最も関心するのは愛の様々な徴表である。
彼には、孤独は愛せられていないことを意味する。彼には他人の存在が自分の価値の確証として役立つから、屈従的な手段によっても他人のそばに自分を置くのに努力するのである。この事は彼の必要から出ているものだから、他人がどう感じるかは二義的になり、他人の都合もかまわず、哀訴し、嘆願し、まといつく。
しかし、この必要だという事が、必要なものは充足されて当然だと言う考え方に変容すると、それは他人に対する要求 claims に化して来る。
愛情や、理解や、同情や、援助を必要とすると言うことが、当然愛情や理解や同情や助けが与えられるべきだと言う要求になり権利に変じるのである。この変化は微妙であり、もとより無意識的であるが、しかし強力である。
この要求を支えるものとして、彼が如何に懸命に他人を理解し、同情的であり、犠牲的に他人の為に努力しているかと言う考えがある。これらの態度は実に彼の shoulds の結果として取られた態度なのであるが、それを彼は無意識に自分の要求を合理化する基礎とするのである。
つまり、彼が愛情的であり、同情的であるのだから、他人も同様でなくてはならないという要求に変じるのである。同様の感情論理が、彼の苦悩や、被害感に働くと ー 苦情や被害感が彼の shoulds から来ているのにもかかわらず ー 他人は自分を救うべきであり、損害を補償すべきであると言う要求に変じるのである。
一方すでに彼の shoulds によって招来されていた自己に対する憎しみ self-hate は、これらの他人に対する要求 claims が充足されない時、一層深刻となる。自己が益々無価値で、無力であると感じられ、苦しみが強くなり、益々自分を責める。
この様な自分に対する憎悪に苦しめられる時、それを免れる方法として、この型のものは、自己拡大型のものの様に、自己についての拡大された像に同一化する方法をとることが出来ない。従って彼のなし得ることは、先ず自分を他人の無理解、非情な仕打ちに迫害されて泣く、高貴な、気の毒な人間として劇化し(dramatization)、それに同情の涙をそそぐことである。こういう態度は更に進むと無意識に人を挑発して、自分を迫害する様にしむけ、それによって自分を惨めな状態にし、それに感動すると言う自虐的なこと(masochism)にもなる。
また、他の方法は、分析に於て明らかにされることであるが、「どうせ自分はつまらない人間なのですから」と言う様な表現で、表面、自分の無力で嫌悪すべき状態を、人が言う前に先に自分で承認して受け入れる態度を取ることにより、実はそれによって他人からの批判をそらし、又自分自身それを直接に感じることを避け、誤魔化すことである。
何れにもせよ、この様なことは、全てこの型のもつ自己の卑小化・縮小化の傾向を増しこそすれ減じはしない。それは益々、自己疎外の傾向を強めるのみである。ここにも又自分の真の感情や願い、また喜びや成長を知らない人間がいるのである。彼の感じるのは自己に対する嫌悪、無力感、不安であり、苦悩である。
しかし、私達はこの型の人に、前記の自己拡大型の人に比べて、何かしら柔らかな、愛情的な人間らしいものを感じる。それは恐らく愛が敵意よりも、例えそれが神経症的に追求されているにもせよ、もっと人間性に深い関係をもっていることを示す事かも知れない。
今回、取り上げるのは、我々対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」についてです。
これは「誰かの蔭で育って来た」人々であり、「低い自己評価」に基づく「基礎的不安」を「人に従って行く(toward people)態度」で解決して来た人々である。
人に愛されるために自己屈従的・自己犠牲的な態度を取り、それを利他的無私とか、惜しみなき愛とか、自己犠牲の高貴性に美化して、そこに自己の存在理由と価値を発見し、そういう「仮幻の自己」を作って来たのである。
つまり、本当はただのヘタレの他者評価の奴隷に過ぎないくせに、それを美化して生きている。
そしてその美化の中に、「自己縮小的依存型」に潜む、思い上がった「自己拡大的支配型」の臭いさえするのである。
しかし、そんな“闇”の中にも、自己屈従的・自己犠牲的とは異なる、非常に素朴な、人の良さや他人への愛情深さが感じるのもまた「自己縮小的依存型」の人々の特徴である。
そしてそこに、その人を通して働く本当の愛=“光”につながる可能性を指摘しているのも、流石、近藤先生であると言わざるを得ない。
ニセモノの愛の中に、ホンモノの愛の芽が潜んでいるのである。