今日は令和6年度8回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目、2回目、3回目、4回目、5回目、6回目、7回目に続いて8回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析
2.神経症的性格の構造
d.「現実の自己」への態度 ー 自分への憎しみ self-hate
「仮幻の自己」に自分を見出す時に、それは大きな栄光と力と自信とを与えるかの様である。
しかし、その現実化に一歩ふみ出す時、他への要求 claims は容易に充足されることなく、その挫折の責めを他人や現実に帰して非難しても、非難は非難に止(とどま)るか、攻撃に変ずるか、あるいは他からの脅威と反撃にさらされるかに終って、結局現実の自己の無力さを責めねばならなくなるし、又一方、自らに対して「仮幻の自己」の要求に適合する様に命令しても(shoulds)、絶対的な完全性を要求するその標準を充足することは不可能である。
とすると、何れの場合でも、ここに「現実の自己」の劣弱と無力を認めねばならぬ。この様に「仮幻の自己」から見る時「現実の自己」は無力で卑小で軽蔑すべき存在である。ここに「現実の自己」に関する軽蔑 self-contempt が生じ、そてに伴って劣等感が生じて来るのである。
しかし、皮肉なことに、如何に軽蔑しても、「仮幻の自己」の要求完成の為には「現実の自己」に依存せざるを得ない。これは「仮幻の自己」にとっての大きな屈辱である。屈辱は転じて、「現実の自己」への敵意に化する。「現実の自己」の無力こそ正に非難さるべきものであり、憎むべきものである。
ここに自己に対する憎悪 self-hate が発生し、「現実の自己」を責める結果、自己を苛酷に切刻み、自己懲罰的、自虐的な傾向を生じるのである。神経症者に見る罪悪感はこの様な心的 process(プロセス)の結果であって、「仮幻の自己」が「現実の自己」に課する刑罰である。しかしこの process(プロセス)は単にこの様な結果をもたらすのに止(とどま)るのではない。この様な結果をもたらした跡を辿(たど)る時、それは本来「仮幻の自己」の負うべき責任なのであるし、それに由来する「誇り」の受ける屈辱感のすりかえに過ぎない。
それによって、実は全ての責任を「現実の自己」に転嫁し、すりかえることによって、「仮幻の自己」自身への批判をはぐらかし、その温存を計っている防衛の手段でもある。この様な胡麻化しは更にもっと大きな結果「真の自己」からの自己疎外の増大をもたらすのである。
「~であるべきだ」「~でなければならない」と理想化された「仮幻の自己」を実現するのは大変である。
しかし「仮幻の自己」によってしか自己の存在意義を感じられない人間にとっては他に選択肢はない。
例えば、必死になって「誰よりも優秀な私」「誰よりも気がつく私」「誰からも好かれる私」などを実現しようと頑張るが、そんな空想的理想が実現する日は来ない。
よって、そんな「現実の自己」は非難・攻撃の対象となり、そこから「自己軽蔑」や「自己憎悪」が生まれる。
徹底的に「現実の自己」を軽蔑し、憎悪する。
しかし、これは問題のすり替えである。
そもそもそんな「仮幻の自己」にすがろうとすることに問題があったのであり、「仮幻の自己」がまさに愚かな「仮」と「幻」の存在であったのだ。
それでも「仮幻の自己」を捨てては生きてはいけぬ、それ以外に頼るものを知らないとなれば、代わりに「現実の自己」を非難・攻撃するしかないではないか。
そうやってまた本質的問題の解決から遠ざかり、そんな生き方をしている限り、いつまで経っても「真の自己」の出番は来ないのである。