今日は令和6年度4回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目、2回目、3回目に続いて4回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析
2.神経症の生成と発展
c.理想像の定立とそれとの同一化による「仮幻の自己」ー 神経症的性格の完成
しかし、何れにもせよ、この様な傾向が、自分の安全を中心として発展したものであるだけに、自分の自然な感情や考えは、安全の必要の為に押し殺されることが多く、次第に自分らしい感情や考えが自分自身にも、はっきりしなくなって来る。
これは「真の自己」の成長から、次第に離れて行く過程であり、自己疎外と呼ばれる現象である。この結果として、不安は一応防衛されても、そこに何か、はっきりした自分の感じのない、自信のない態度が生じて来るのである。自分の感じがなく、自信がない時、自ら生きて行く為にそれに代って安心の得られるもの、あおれらの代用品を必要とすることになる。
この場合に、自己疎外にある人間にとって、その様な代用品の材料として持ち得るものは、不安防衛の為にとった先にあげた3種の態度と、それに関する価値観しかない。
例えば、自分の安全が強力なものに迎合し、依存して行くことによって防衛されるとして、そういう屈従的な態度をとるものは、自己の態度を、他の為に何ものをも犠牲にして止まない献身的な愛に満ちた態度であるとするし、反抗的、攻撃的な防衛方法をとるものは、自己の態度を悪に復讐する強大な力、指導性、正義を擁護する勇気の表現とするし、更に人から離れ、孤立的な態度によって不安を免れようとするものは、自分の態度を知性的とか、独立、自由、或は自足の表現であると価値づける。
その様に価値づけることによって、自分の自信のなさをするかえるわけである。この様に自己の態度を価値づけ、それを価値あるものと考える様になると、自らその価値を中心として自分のあるべき理想的な姿を画(えが)くことになる。
かくて自分の過去の生活の中で生れた夢想や、経験や、望みや、才能を材料としてそれぞれが特徴のある理想像が画かれる。それによって仮構された統一像を得るのである。この様な理想像の定立は確かにはっきりした目標を与える。その意味で、或る安心感の根拠になる。しかし、まだそれは充分ではない。何故なら、理想像はまだあるべき自分の姿であって、そこに自分との距離を感じる。到達すべきものとの間に空間があることは、まだ不安である。不安をなくする為には、この距離をなくさねばならない。一挙にこの空間を埋める方法は、その理想像に、想像の助けを借りて同一化する他ない。Salzburg(ザルツブルグ)の坑内の塩が ー Stendhal(スタンダール)の表現を借りれば ー つまらない枯枝を華麗な姿に変じる様に、その価値を核として、想像力が壮大な仮幻の自己を現出する。
「仮幻の自己」の完成は、一つの分水嶺を意味する。そこに立つ時、私達は一方に於て「基礎的不安」から出発する幼児期からの様々な傾向の展望を持ち得ると共に、他方に於て、ここから発して新たに展開する神経症的性格の構造に関して展望が得られるのである。
「基礎的不安(基本的不安)」を払拭するために、幼児は神経症的傾向を身に着けなければならなかった。しかしそれは「真の自己」から離れて行く道であり、やがて「自己疎外」に至ることになる。この心許ない状況を打開するためには、この神経症的傾向という代用品を理想像=「仮幻の自己」として完成させなければならず、その理想像との距離を一気に縮めるのに暗躍するのが我々の想像力なのである。
こうして、辛い環境の中に生きながら安心を得るために、おかしなまがい物であるこの理想像=「仮幻の自己」に人は酔いしれることになる。
尚、ザルツブルグの小枝の話は、流石の教養を思わせる文学的譬えである。関心のある方は、スタンダールの『恋愛論』をご覧あれ。