今日は令和6年度7回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目、2回目、3回目、4回目、5回目、6回目に続いて7回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析
2.神経症的性格の構造
c.神経症的誇り neurotic pride
一方に於いて、「仮幻の自己」の高みに立つものにとって、あらゆる他のものは卑小に見える。今や長い間の卑劣感や劣等感から免れて、他に優越、超出(ちょうしゅつ)し、栄光に包まれた存在としての自分を発見するのである。
優れて価値あるものとして自己を発見する時、おのずからそこに誇りを感じる。これが神経症的誇り neurotic pride と呼ばれるものであり、神経症的性格のすみずみに行き渡っている。だから見方によっては神経症的性格は誇りの体系とも見られる。それは神経症者の生きる様々な状況に於いて極めて敏感な、主観的な標尺(ひょうしゃく)として作用する。
彼の外に対する要求 claims に於いても、内に対する要求 shoulds に於いても、誇りの感情はいつも働き、よろこび、悲しみ、痛苦、快感等の烈しい感情的反応の源泉となる。誇りは一定の自己評価に基づいているから自信と同じ結果を与える。自信と同じ様に誇りは彼の生活を支持し、生甲斐(いきがい)を与える。
しかし、誇りは自信と違って、現実的な自己評価でなく、想像された自己の仮幻の価値にもとづいているから、当然現実に面する時傷つき易い弱点を蔵している。
この脆弱(ぜいじゃく)性を曝露(ばくろ)されることの危険を感じると、主観的な自分の価値を守る為に ー 神経症者は、その様な状況を回避したり、或は曝露され傷ついた時は、それによって生ずる屈辱感や怒りを、自分の面子(めんつ)が傷つけられたとか、正義の怒りだとか、愚なものの為に耐え忍ぶだとか、様々な口実を設けて合理化するのである。
しかし、この脆弱性は本質的なものであるから、これを守る為の様々な試みは、神経症的悪循環を増大するのみであって、解決にならないのは当然である。そして結局のところ、その様な脆弱性を持つ「現実の自己」を許し難いものとして非難し、それに対して軽蔑と憎悪を感じるのである。
自分が自分であることに寄り添われずに、そして、自分が自分であることを否定されて育った人間でも、やっぱり自分の存在には価値があると信じたい。
しかし、自分が自分であることに価値を認めてもらえないとなると、何でもいいから、価値がありそうなものをでっちあげて、それにすがるしかない。
それが「仮幻の自己」。
そしてそこに誇り=神経症的誇りを感じたいと願う。
しかし、「仮幻の自己」は余りにも理想的に過ぎるため、
[例]誰からも愛される、成績が誰よりも優れているなど。
満たされない度に傷つく脆(もろ)さを持っている。
そのため、その不満を他人のせいにしたり、理想の「仮幻の自己」を実現できていない「現実の自己」=今の自分のせいにして、責めたてるのである。
やっぱりそもそもの「仮幻の自己」に大きな問題があったのだ。
そして、小さい頃はしょうがなかったけれど、大人になった今は、そろそろ「仮幻の自己」じゃなくて「真の自己」を取り戻す方に舵を切りませんか、という話につながっていくのである。