今日は令和7年度3回目の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目に続いて13回目となった。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※特に今回の「治療」についての内容は、人間の成長に関わる人すべてに読んでいただきたいと思う。やっぱり、この勉強会やってて良かったなぁ、としみじみ思いました。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

a.治療のはじまり……患者と治療者の信頼関係の発足

「患者が訪れて来た時治療は始まっている」と Horney は言う。患者が治療者を訪れる時、彼は症状を訴えそれを治癒してもらう為に来るのである。症状の種類は多様である。症状が語られるうちに患者の既往病歴、生活歴び記録がとられ、家庭環境、教育程度、結婚の有無、友人関係、趣味等から現在の状態に関しての資料が得られる。
一般的医学及び精神医学診断によって鑑別を行うのは当然のことである。しかし、かくして神経症と鑑別された場合でも、患者は症状だけを持って来て物語るばかりでない。彼は症状と共に自分を ー 自分の性格を持ちこんで、治療者にそれを無言のうちに物語る。このことは、今迄私達が理解したように、神経症の症状は、神経症的性格のもたらす諸矛盾の必然的結果であり、また、神経症的葛藤の解決の形相(けいそう)であり、神経症防衛の表現でもあるのであるから極めて当然の事なのである。
例えば症状を語る態度を取上げて見ても、「自己縮小的依存型」の患者は、如何に自分が症状によって苦しみ悩んでいるかを強調し、印象づけ、理解と愛情を暗黙のうちに執拗に要求し、分析者が魔術的に自分を救ってくれると期待する。
「自己拡大的征服型」の患者は、 症状を不満げに、自分の恥辱かの如くに語り、その原因を他人のせいにして、怒りや憎しみの口吻(こうふん)を現わし、分析に対して強い不信を示す。「自己限定的断念型」は極めて客観的に、感情を伴わない調子で、恰(あたか)も他人の事であるかの様に語り、分析治療に関しても一見冷静な良き理解を示すかの様な印象を与える。
このことは、治療家を訪れる動機についても、自分の過去の歴史を語る時にでも、或は家族や友人を語る時にでも、個人によって、もとより差があるが、問わず語りに現れて来るのである。だから、一面記録される事実の意味と共にそれを語る態度にも、治療家は注意を払うことが必要である。
しかし、大切なことは、その様な、様々な態度や動機にもかかわらず、ともかく患者が治療を求めて来たそのことに、無意識ではあるが、患者が自分自身を救わんとする意欲が存在していることを理解し留意しなければならないことだろう。
この点が実は治療の基本的な手がかりであり、治療家が患者に対して持つ信頼の拠点である。治療家の持つこの様な信頼と理解こそ、神経症的歪曲のため、様々に受け取られようとも、患者にとって暗黙のうちに感じられる治療家に対する信頼感の基礎となり、所謂(いわゆる)rapport(ラポール)を形作る要因となるのである。
治療契約の締結も、また同じ様に理解される。料金や時間の取決めに関しても、そこに様々な神経症的反応を観察し得る機会が存在する。「自己拡大型」は料金や時間について言いがかりを付けたり、懸引(かけひき)をしたりするし、「自己縮小型」はそんな料金では先生に悪いとか、料金を余計に払おうとしたり、また逆に自分の窮状を強調して時間を多く要求したりする。「自己限定型」は、定められた通りをそのまま、何の反応も示さずに受取り、どちらでも良いと言う風な態度を示す。
しかし、何れにもせよ、患者がこの様な契約を通じて、自分の決意により一定の関係に入ると言う点に契約をする意味が存在する。
この決意によって、どの様な神経症的着色をうけていようとも、好むと好まざるにかかわらず彼は責任を取らざるを得ないと言う状況に自分を置くのである。置いてしまってからの彼の反応は、彼の神経症的傾向によって様々に展開するであろう。しかし、ここに治療者と患者との全治療過程を通じて、互いにそこで出会うことの出来る第2の拠点が存在するのである。
しかし、分析治療関係は患者の一方的交通の関係でない。それは患者と治療者との相互に関係し合い、参加し合う、患者の自己実現と言う目的への協同関係である。相互に関係し参加し合うと言うことは、相互に影響し合うことを不可避的に意味する。このことは私達の注意を、患者のみならず治療者の personality に向けるのである。
もし治療者の持つ神経症的傾向が明確にされていないと、彼の患者に対する反応は、言語的と非言語的とを問わず、無意識に神経症的な反応となる危険がある。例えば、彼が「自己拡大的征服型」の治療家であるとすれば、同じ「自己拡大型」の患者に当面する時、そう言う患者のよく示す治療に対する傲慢さ、治療家の解釈や態度に対する疑いや、質問や、軽蔑的な感情に対して、たちまち不快になったり、怒ったりすることになる。そして結局分析状況は相互に優越を誇示しあう戦場と化する。
これに反して、彼が「自己縮小的依存型」の患者を取扱えば、患者が惨めな苦しみや、不幸をかこてbかっこつほど、彼は自分が高く、強者の位置にあるのを感じ、優越感を持ち、患者の依存的態度を利用して彼の意志と力のままに操縦し、その生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握ることに快感と満足を感じる。
かくて、患者の依存的傾向と治療家の制服的傾向とは、互にそれぞれの神経症的要求を満足し合うことによって益々増長し、所謂神経症的共生関係 neurotic symbiosis を生じ、分析状況はさながら神経症的傾向の培養基と化する。
もし又、「自己限定」的な患者に会えば、患者のもつ冷々(ひえびえ)とした無関心の態度は、彼には自己の権威と力とを認めない許すべからざる侮辱と感じられ、患者の進歩の緩慢さは自己の能力の無言の否定と受取られ、焦立(いらだ)ち怒り患者を責める。患者の沈黙の反抗を呼び起す。
これは一つの例であり、説明の為に単純化したが、この他、治療家の持つ「自己縮小型」「自己限定型」その他それぞれの神経症的傾向が、患者の持つ種々の種々の神経症的傾向と組合されることによって、分析治療関係は事実上神経症的関係に変質して行くのである。
更に、これと共に大切なのは、治療者自身が「真の自己」による成長を経験しているかどうかである。
単に神経症的傾向を自覚し認識したことだけでは、患者の神経症的傾向や患者への神経症的態度を認知し、理解することが出来ても、患者のもつ自己実現の傾向の徴候や萌(きざ)しを感じる感受性の鋭さが欠ける。自分自身が成長と変化を体験している場合には、そうでない場合に比べて、遥かに深く且つ敏感に患者の「真の自己」の表現を直感し、それを理解し解釈し明確化することが可能である。

身体的治療の場合に於いても、治療家は患者の健康な力の助力者である様、分析治療家も患者の健康な自己である「真の自己」の成長に助力するのである。そしてそれに助力出来るのは、分析者の中の神経症的な「仮幻の自己」ではなくて、分析者がそれによって根源的に生きている「真の自己」のみがなし得るところなのである。分析関係は相互的な関係と言ったが、根源的には患者の「真の自己」と分析者の「真の自己」との出会い ー 互いの呼びかけと応答の関係であると言える。
その意味で、分析関係の意味の真の実現のためにも治療関係に入る以前の段階に於ての、教育分析または自己分析その他による、治療家自身の神経症的傾向の分析と、「真の自己」の体験並に、それによる成長と変化の経験が望まれると共に、分析関係そのものに於いても、患者に対する自分の表現、態度を通じて絶えざる自己分析と成長が要請される訳である。この時、初めて分析関係が相互に参加し、互に呼びかけ応答し成長し合う自己実現の場となるのである。

 

この「ホーナイの精神分析」の勉強においては、毎回重要な内容を扱ってはいるが、今回はその中でも極めて重要な内容を含んでいる。
近藤先生がここまで明確に治療者/支援者に要求されることを述べられているのは珍しいことだ。
現に
「そこまでできないとやっちゃいけないんですか!」
という反発もあったそうであるが、私ならば、
「それでよくやってられるなぁ。」
と言いたいところである。
もちろんどこまで行っても、我々は凡夫。神経症的問題は数限りなくある。
それでもポンコツなりに、アンポンタンなりに、謙虚に、真摯に自分の問題を見つめて、一所懸命に乗り越えようとし続けることが、唯一の免罪符となって、治療者づら/支援者づらが許されるのである。
そして願わくば、凡夫の自覚だけでなく、自分を通して働く「真の自己」を実現させようとする力を体験することができれば、自分以外の人を通して働いている「真の自己」を実現させようとしている力も感じることができ、それが人間的成長への何よりの影響力を、相互影響力を発揮するに違いない。
そしてさらに、あなたとわたしの「真の自己」を実現させようとする力の出どころは、そもそもどこなのだろうか、というところにまで思いは深まっていくのでありました。
書きたいこと尽きないが、感想、所感のある方は是非、面談でお話しましょう。
 

 

 

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