八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

拙文の中で再三申し上げている「凡夫」という言葉。
私にとっては「凡夫」そのままでしっくり来るのだが、今どきの若い人たちや仏教語に縁のない人たちにとってはそうではないらしい。
【注】「凡夫」(ぼんぷ)愚かな人。凡庸な人。愚か者。愚かな一般の人たち。無知なありふれた人たち。…迷える者。中村元『佛教語大辞典』

そこで最近では「アンポンタン(安本丹)」とか「ポンコツ」とも言うようにしているが、ふと他にバリエーションがないかと考えてみた。

もちろん類語なら何でも良いというわけにもいかない。

例えば「馬鹿」や「くず(屑)」「ぐず(愚図)」「まぬけ(間抜け)」ではちょっと語感がきつ過ぎる(「凡夫」の本義から言うと、それでも全然甘いんだけどね)。

「アホ(阿呆)」はマイルドだが、含むところが広過ぎる。

「たわけ(戯け)」「うつけ(虚け)」となると、信長が出て来そうだ。

では、「とんま(頓馬)」「とんちき(頓痴気)」「とんちんかん(頓珍漢)」はどうだ。 
段々良い感じになって来た。

この勢いに乗って、「ぽんつく」「へっぽこ(屁鉾)」「すかたん」「いかれぽんち」の「すっとこどっこい」!

なんで今、私は立ち上がってるんでしょうか!

う~む、個人的には「アンポンタン」「ポンコツ」に加えて、この「へっぽこ」と「すっとこどっこい」を採用したいと思います。

まだまだ他にも良い表現がありそうだ。 
どうぞ皆さんも何か思いつきましたら、面談のときにでも教えて下され。
どう表現しても、我々は間違いなく「凡夫」なのですから。

 

 

「私、患者さんから『先生直してくれ』っていわれて、私は直せません、あなたの中にあるものが直すんですよ。ただ出来るだけのお手助けはしますがとそう言うんですよ。」(近藤章久座談会『欲望と人間』より)

そして、
「もうひとつ付け加えさせてもらえば、人間が煩悩を持っているからこそ、苦しみ悩みを種にし、縁にして何か自分の中に、自分を越えたもっと大きな力、それで本当に支えられ、生かされている自分を感じることが出来るとすればね、私は人間煩悩喜ぶべしと思うんですがね。」

人間は本当に苦しまないと深まらないんです。
まだちょろまかせているうちは大して苦しんではいないんです。
本人は大袈裟に言いますけどね。
死ぬもできず、狂うもできず、生きるもできず、となったとき、開けて来る世界があります。

禅ではよく「頭燃を払うが如く」と言います(髪の毛に火が燃え移ってそれを必死に払うように)。
私は「鉄板で下からあぶられるように」と感じましたし(あちちあちちあちちで足をつけていられません)、
「釣り天井が下がって来るように」とも思いました(無数の槍が天井から迫って来てもうすぐブスブスと体に刺さります(時代劇で時々見ます))。

だから今まさに苦しんでいる人は、悲観しないで下さい。
「絶後再び蘇(よみがえ)る」
逃げないで誤魔化さないで真正面から苦しむからこそ与えられる本当の救いがあります。

 

 

ある精神保健福祉士志望の女子学生がいた。
就活時期になっても、自己評価が低くて、自分がなくて、他者の評価が気になって、どうしようどうしようといつもフラフラフラフラしていた、
その後、
なんとかある精神科病院に就職したが、毎日が不安で不安でしょうがない。
そんな彼女であったが、偉いのは、そういう自分を誤魔化さず、逃げず、面談を申し込んで来たことである。

就職から逃げる手もあった。
病院から逃げる手もあった。
そして自分の問題から逃げる手もあった。
しかし彼女は逃げなかった。
ドキドキしながらも、情けなさの自覚と成長への意欲を持って、自分自身との勝負に出た。
そこは十分に褒めて良いと思う。

そして5年。
いやいやいや、なんとか一人前の精神保健福祉士ができました。
もちろん、この世界、成長は無限だが、こんなに自分に着地して落ち着いた自分になることは彼女自身も想像していなかっただろう。
おお、勁(つよ)くものを言うこともできるじゃないの。

5年かけて、妙に場数(ばかず)を踏んだだけで変な自信だけつけ、わかったようなことを言う、張子の虎を育てて来たわけではない。
自分の軸で考え、メンバーさんの方を向いて考え、他者評価に翻弄されない、自分が自分あることの幹を着実に太くして来た女性がそこにいた。
その5年間のこともまた十分に褒めて良いだろう。

しかし経験5年くらいでは、まだ一人前の一番下っ端くらいである。
ピヨピヨがピーピーになったくらい。
より骨太の一人前への道はまだまだ続く。

それでも、このように一人の人間が変化・成長して行く場面に立ち会えるということは、私自身にこの上ない喜びを与えてくれる。
その人が本当のその人になっていくプロセスに関わる仕事は、だからやめられないのだ。
あなたがあなたのミッションを果たせるようになることで
私もまた私のミッションを果たしていると言えるのである。

そして遥か青い空を見上げれば、彼女だけでなく、私だけでなく、なんだかこの世界も彼女の成長を喜んでいる気がするのである。

 

 

「大体、人間っていうのは、ゴタゴタしているのが普通ですね。」(近藤章久座談会『人間の欲望』より)

頭文に続いて
「私はいろんな症状、いろんな苦しみに接して、患者さんの話を聞いていると、自分の中にも思い当たり、やっぱり同じようにも感じるものがある訳です。ああ、この人も私とおなじようなんだな~と。そうすると患者さんの方も『先生もそうなんですか』と、感じてくださる訳ですね。そこに共に、人間としての、ありのままの ー あんまりみっともいい姿じゃないですが ー その姿を一応、お互いに認めていくひとつの状況が生まれるわけです。それこそ、お互いに無知なくせに、そうした姿を一緒に見られる。そこに、なるほど俺はこうなんだな~、ああそうか、というような安堵感というものが出てくる。そして、同時に、しみじみと『情けないですね』という感慨が湧いてくるのです。
分かっちゃいるけどやめられないというような、本当にゴタゴタしている自分の姿というものが見えますとね、それは悲しみを持ったもんですけれどね『お互いに感じ合い、人間ってそうなんですね~』という風な共感というものがあるわけなんですね。そして自分ひとりだけが、ゴチャゴチャゴチャゴチャやっていたのが、そうでないっていう感じがする訳ですよ。

人間っていうのは相当見栄っ張り(精神分析的に言うと自己愛的)なものですから、なかなか自分の「情けなさ」を認められないわけですよ。
それが認められるというのは
ひとつには、いよいよ誤魔化し切れないほど行き詰った場合と
もうひとつには、その弱みを吐露し共有できる相手との出逢いがあった場合ですね。

やはりここでも共に是(こ)れ凡夫(ただひと)ならくのみ」ですから。
あなたも凡夫、わたしも凡夫、だからこそ始まるものがあるわけです。
それを相手に感じてもらえるか否か。
“仲間の匂い”がするか否か。
ここらがね、難しいけれど勝負どころなんです、特に対人援助職ではね。
あんまり“偉い”“ご立派な”“専門職”にならないで下さいよ。
まずは、共に愚かな隣人でいましょ。


 

 

 

『古事記』において語られる「天地初発の時」(世界が生まれたとき)の話。

「天地初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)。次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。…(中略)…次に国稚(くにわか)くして脂(あぶら)の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物に因(よ)りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。…(後略)」

これを読んで、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天之常立神といった神々はみんな抽象神だ、ということを観抜き、
これら抽象観念をその名とする神々は後代の挿入であって、
宇摩志阿斯訶備比古遅神こそが最初の神だ、
と断じたのは益田勝美氏(『火山列島の思想』)だという(唐木順三氏の著書『日本人の心の歴史』によって教えられた)。

天地最初の神を、何も考えず原文通りに受け取って抽象神としてしまうのか、この国の霊性の伝統を考えて具象神に違いないと観抜くのか、には決定的な違いがある。
『古事記』と言ったって、原文を鵜呑みにすれば良いというわけにはいかないのだよ。
益田氏とそれを取り上げた唐木氏の炯眼(けいがん)に胸が震えた。

益田氏は言う、
「ウマシは賛美のことば、ヒコヂは男性の長老への敬称である彦舅(ひこぢ)、だから最初のウマシアシカビヒコヂの神にしても…(中略)…実は角(つの)ぐむ(角のように芽を出す)葦の芽、アシカビそのものの神格化以外のなにものでもないことがわかる。ー 天地のはじめ、陸地がまだ若く、くらげのやうに漂つてゐた時、一本の葦の芽の神が頭をもたげたよ ー さういふ原始の自然物に神を見る心…(後略)」

日々みるみる芽を出して伸びて行く葦の姿に神を観る、神の働きを観る。
それこそが、頭の先でこねくり回してでっちあげたような抽象神ではなく
“具体的なものの中に神を観る”、これこそがこの国の人間の霊性の伝統なのである。

この素晴らしい伝統を受け継いで行きましょうよ、皆さん。
この国に生まれて良かったと、今日もまたしみじみと思うのでありました。
(この感動がどのくらい伝わっているかしらん)

 

 

昨日、「新人の利点」について書いた。
今日は、非新人、即ち、経験者、中堅、ベテランの話。
既に新人の頃を過ぎてしまった人には、成長の可能性はないのか、ということ。

もちろんあるに決まっている。
但し、経験年数を積んでも、自分自身に、そして自分のまわりの環境や同僚のおかしさに疑問や違和感を持ち続けられた人に限る。

それだけ、擦れず、流されず、誤魔化さず、思い上がらず、最初の感覚を持ち続けるというのは難しいのだ。

「そういうもんか?」がいつの間にか「そういうもんだ」になり「そんなもんだ」になる。
「知りません、わかりません、できません」がいつの間にか「知ってます、わかってます、できます(できてます)」になる。
何年経っても、自分の根本的な“問題”は未解決のままであるにもかかわらず、である。

それでも、例えば対人援助職の世界に限って言えば、経験者、中堅、ベテランになっても、私のところに面談を申し込んで来られる方々は後を絶たない。
中には、その世界で既に指導的な立場を確立している方もおられる。
そのままおさまっていれば、大した問題もなく、いや、むしろ世俗的には権威者としてのうのうと過ごせるにもかかわらずである。

そこに経験のあるなしを超えた、人間としての矜持(きょうじ)を感じる。
本当の自分をちゃんと生きたい。
本当の仕事をちゃんとしたい。
それは人間として、健全かつ立派な姿勢である。
そしてそういう方たちは、新人に負けず劣らず成長して行かれるから素晴らしい。

八雲総合研究所の前身、松田精神療法事務所を開業してからもうすぐ25年になる。
面談に来られている方で二十代の方も珍しくないが、65歳以上の方も珍しくなくなった。
これまた、みんな私のところへ来い、というようなセコいは言わないから
どこでも良いから、誰の許でも良いから、あなたが信頼できる人のところで、自分自身と向き合ってみよう。
少なくとも、素直に成長しようとし続ける魂は、いつまでも少年少女のように初々しい、と言っておきたい。


 

どの社会でも“新人の利点”というものが存在する。
中でも一番に強調したいのは、新人だからこそ、わかりません、知りません、できません、が言いやすいというところである。
これは大きな強みだ。
いろんな問題が山積みでも許される。
だって右も左もわからない新人なんだもの。
ならばそれを活用しない手はない。

私が近藤先生の許(もと)を訪れたのは、精神科医として初期研修2年目が終わる頃であった。
文字通り、個人として抱える問題は山積みで、自分としてもアップアップであった。
だから却って、勝負に出やすかった。
もう先生、全否定でもなんでもして下さい。
何もわかっていない、それだけじゃない、ろくでもないことばかり身に着けている私です。
だから、どんな恥ずかしい話も、どんな情けない話も、どんどんすることができた。
良いように解するならば、これより下はない、後は伸びしろだけ、だったのである
そんな中でも、このままでいたくない、いられない、這(は)ってでも成長したい、という気持ちだけはあった。

だから新人の方々にはお勧めしたい。
自分自身と勝負するなら今だよ。
別に、私のところへ来い、というようなセコいは言わないから
どこでも良いから、誰の許でも良いから、あなたが信頼できる人のところで、自分自身と向き合ってみよう。

時間はあっという間に経ってしまう。
何もわかっていないくせに、わかったような顔をし始める前に
未解決の山積みの問題のせいで、クライアントや同僚に害毒を流し始める前に
新人たちよ、勇気を振り絞って、踏み出すのは、今だっ!


 

 

「過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです。自分が甘えられない欲望をですね、それを子どもに転嫁して、自分は無意識に、ホントはとっても甘えたいの。」(近藤章久講演『親と子』より)

これは世のお母さんだけではない、過保護のお父さんにも当てはまる。
そして過保護の教師や上司にも当てはまる。
さらに過剰に支援したがる対人援助職者にも当てはまる問題である。

相手のためと言いながら、実は自分のためなんだもの。
自分がかつてしてほしかったこと、してほしいことを相手にする。
そんな子育てがうまくいくわけはない。
部下や生徒の教育や指導も、対人援助もまたうまくいくわけがないのである。

だからまず自分の問題を解決しておかなければならないのです、自分以外の人に関わる前に。

でも勘違いしないで下さい。
じゃあ、いい年をした今から、改めて誰かに甘え倒せば良いのかというと、そんなことをしてたら埒(らち)が明かない。
気持ちの悪い“幼児大人”を作り出すだけである。
それこそかつて多くのサイコセラピーやカウンセリングで失敗して来たやり方でしょ。

じゃあ、どうするのか。
それはこんな紙面ではとても書き尽くせないので、面談でお話しましょう。

少なくとも、その答えも知らないで、未解決の問題を抱えたままのサイコセラピストやカウンセラーは危険であり(あなたの未解決の問題が相手の人生に影響を与えるのですから)、本物を目指す人は、ちゃんとしたトレーニングを受けた方が良いと私は思っています。

もちろんトレーニングと言っても、小手先の知識や技術のトレーニングではなく、自分自身の問題と向き合って、解決して行く体験を積み重ねて行くという意味でのトレーニングですよ。

そしてそれは人間的「成長」という意味で、とてもとてもやりがいのあることだと私は確信しています。


 

「不思議に人間っていうものは、お互いにね、共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすいんですね。」(近藤章久講演『親と子』より)

確かに。
自信満々のヤツやエラソーなヤツらは、あんまり集いそうにない。
人間は、傷を抱えたヤツ、痛みを抱えたヤツ、弱さを抱えたヤツ同士の方が話しやすいし、結ばれやすいよね。

しかし、その関係性が、ただ傷口をなめ合って、一緒にさらに暗い深みに落ちて行く闇の仲になってしまうのか、
それとも、一緒に支え合い助け合って成長して行ける光の仲になって行けるのかでは大きな違いがある。

実は対人援助職の重要な役割が後者の中にある。
対人援助に関わろうというのだもの、あなたの心の中にも恐らく何某(なにがし)かの傷や弱さがあるよね。
だから患者さんや利用者さんの心の傷や弱さに寄り添いやすいし
患者さんや利用者さんもあなたに話しやすいというところがある。
これもまた“仲間の匂い”というヤツだ。

そして問題はそれから。

あなた自身がその問題を解決しようとして来たか否か。
解決していなければ、一緒になってさらに暗い深みに落ちて行く危険性があり
もし解決していれば(少なくとも一所懸命に解決しようとしていれば)、一緒になって成長して行ける可能性が開ける。

私としては、折角、心の傷や弱さを知っているんだもの、後者になることを強く強く願いたい。
結局のところ、私はそのために。この八雲総合研究所を開業しているのである。

 

 

 

若き男性として性欲に苦しむ親鸞が救世(くせ)観音によって救われる話として「六角夢想」が知られる。
ちょうど今日八雲勉強会で取り上げたことを機にここにご紹介しておきたい。
もちろん以下は、私見に基づくものであることをお断りしておく。

鎌倉時代、比叡山で修業をしていた二十九歳の親鸞は、尊敬する聖徳太子創建で知られる京都の六角堂に百日参籠するという誓いを立てた。
当時の参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠り、朝になると比叡山に戻ることの繰り返しだったという。
そして
その参籠の九十五日目の暁に、親鸞の夢に救世観音が現われた。
ちなみに、聖徳太子は救世観音の垂迹(すいじゃく:本地としての仏や菩薩が衆生を救済(くさい)するために人間などさまざまな形を取って現れること)と言われている。
そして救世観音は親鸞に以下の四句の偈文、いわゆる『女犯偈(にょぼんげ)』を授ける。

行者宿報設女犯(ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん) 
我成玉女身被犯(がじょうぎょくにょしんぴぼん) 
一生之間能荘厳(いっしょうしけんのうしょうごん)
臨終引導生極楽(りんじゅういんどうしょうごくらく)」

意訳すると、
僧侶の妻帯は今まで禁止されて来ましたが、もしあなたが宿業によって妻帯を許されるならば、私(救世観音)は玉のような美しい女性になって、あなたの妻となりましょう。そして一生の間、あなたが念仏の教えを広めることを助け、あなたが臨終のときには極楽浄土に導きましょう。
ということになる。

初めてこの「女犯偈」を読んだとき、若い男性の煩悩の代表である性欲を、このような形で受け入れ、包み、救ってくださるのか、と強く胸を打たれたのを思い出す。
そもそも人間に生まれて、性欲を抑圧することによる弊害は、医学的に見ても、そして精神分析的に見ても、甚大なものがある。
ご立派に禁欲を達成してみたところで、肉体がそのように作られていない以上、その達成を上回るおかしな皺(しわ)寄せが起こって来る危険性が高い。
そして、ならば、どうする、となれば、このように救っていただくしかないのである。

やはり凡夫、我らはどこまで行っても凡夫、それこそ聖徳太子が『十七条憲法』に示された通り、

「我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず、彼必ず愚かに非す、共に是(こ)れ凡夫(ただひと)ならくのみ。」

私は必ずしも聖者ではありません、彼は必ずしも愚かではありません、共に凡夫であるだけです。

やっぱり凡夫の煩悩を救っていただくしかないのである。

そしてまた、親鸞の妻・恵信尼(えしんに)もまた、親鸞を阿弥陀如来の応現として仰いだという。

ここに互いに礼拝(らいはい)し、包摂し、救い合い、育み合う、夫婦(パートナー)というものの根本的な姿がある。
そこに至る縁があるのが夫婦(パートナー)なのだ。

よくよく思いを致していただきたいと思う。

 

最後に、救世観音については、これまた聖徳太子ゆかりの法隆寺・夢殿の救世観音菩薩立像の拝観を強くお勧めしたい(特別開帳期間があるのでご注意を)。

 

 

 

某大企業の部長職の男性。
大企業の部長をやってるなら羽振りも良いだろうと思われるかもしれないが
仕事では、人一倍働いて来たにもかかわらず、方針の変わった会社から冷遇され、窓際部署に島流し(本人談)。
さらにプライベートでは、長く付き合っていた彼女から、今になってあのことこのことをなじられ、裏切られた感いっぱいの別離。
そんなひどい失意のうちに眠れなく食べられなくなり、精神科外来受診となった。
訊けば、受験も就職も周囲にどう思われるかで決めて来たという。
相手からの評価によって右往左往する、そんな典型的な他者評価の奴隷の男性であった。
そこを根本的に超えて行くチャンスにできるか否か。

わずかな薬と精神療法で治療を始めたが、なかなか本音のところで他者評価の奴隷を脱し切れない(他者評価に依存している自分を本音のところで情けないと思っていない。やっぱり他者評価してもらいたい)。
来院される度に愚痴と溜め息と不定愁訴の雨霰(あられ)。
それがある日、意気揚々としてやって来られた。
別の大企業にヘッドハンティングされて、働くことになりました。好待遇です。
すべての症状はたちどころに消え、見たことのない笑顔。
ないがしろにされて落ち込んでいたのが、今度は評価されて大喜びだ。

それが今のあなたの本音なのね。
この人が自分に埋め込まれた他者評価の奴隷の問題と向き合うのは、また先に延びてしまった。
喜ぶあなたに今野暮なことを言うのはやめておこう。
「終診」と打ち込んだ電子カルテを閉じながら、ちょっと残念な気持ちになった私です

これが日々の臨床である。
どちらが良いも悪いもない、そんなところが「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を求める八雲総合研究所との違いなのであります。

 

 

ノーベル賞受賞者がいる。
金メダル獲得者がいる。
彼ら・彼女らはすごいのかもしれない。

重度心身障害児がいる。
寝たきりの認知症高齢者がいる。
じゃあ、彼ら・彼女らはダメなのかしらんと思う。

一方から見れば、人類は皆、凡夫。
差があるように見えて所詮は、どんぐりの背比べ。
どんぐりが誤差を争ってどうする。

また他方から見れば、人類には皆、仏性あり。
何ができるかできないか以前に
比較を超え、存在自体に絶対的な尊さを授かる。

そろそろ優劣、やめませんか。
凡夫の自覚を持って、思い上がらず
仏性の自覚を持って、卑下せず
生かされて行きたいと思います。
 

 

 

歯の定期健診に行って来た。
同時に歯のクリーニングもしていただいている。

しかし、これが痛い。

歯周ポケットのチェックも
歯石除去も
みんな痛い。

そんなに痛いなら、静脈内鎮静法(俗称:点滴麻酔)でやってもらう手だってあるのだが(それができる歯医者さんを選んである)、そこに私の意地がある。

この痛みに煩悶し、不安に恐れ慄(おのの)き、過緊張に陥ることが、私自身のワークになるのだ。
いつまで経っても自分が凡夫であること(トホホな存在であること)をイヤというほど思い知ることができるのである。
心頭滅却すれば火もまた涼し、などという境地には程遠いぞ。

そうなると念仏するしかない。
必死になると、念仏も深まる。
それが行になる。

しかし、齲(う歯の治療をせざるを得なくなったときは
静脈内鎮静法でお願いします(キッパリ)。
やっぱりヘタレである。
はい。

 

 

「一人のときに、一人でありながらですね、一人を本当に突き詰めて、その奥の底を突き詰めて行きますと、人間存在の一番深いところに、自分という個を超えてあると言いますか、体験される、普遍的ななものと言いますか、すべての存在がそこにおいて立っているような、そういうものに触れるという体験も、人間として可能なんじゃないかと思います。」(近藤章久講演『孤独からの解放』より)

今まさに孤独の淵にいる人がいるかもしれない。

それは時に大変辛いことであるが
どうか孤独を簡単にちょろまかさないで
徹底的に向き合ってみるときに
いや、徹底的に向き合わされるとき、と言った方が良いかもしれない。
絶対孤独を経た者にしか味わえない深い体験がある、ということも知っておいていただきたいと思う。

そして絶対孤独を突破して来た者には必ず“仲間の匂い”がするのである。

 

 

降る雪を観ていると感じるものがある。

恩師がふと
「雪が降ると生きている気がするんだよね。」
と呟(つぶや)かれたことがあった。

この言葉は、知的に受け取るべきものではない。
また、情緒的に受け取るべきものではない。
霊的に受け取るべきものである。

私も黙って面談室の外に降る雪を観ていた。

存在の根底に響くものを共に感じる至福のときが流れた

いつまでも。いつまでも。

 

 

「本当に自分の尊敬する人から学ぶんです、人間は。」(近藤章久講演『親と子』より)

本当にそうだと思う。

若い頃、親と口喧嘩になり、押し付けて来る屁理屈を容赦なく論破すると、
おまえは生意気だ。人生経験もないくせにわかったようなことを言うな。
とよく言われた。
そう言われても私は、
おまえが五十年かかってわかったことなら、俺は三日でわかってやるわ。
と嘯(うそぶ)いていた。

我ながら本当に生意気である。

しかし後年、近藤先生から
年を取らないとわからないことがあるんだよ、松田くん。
と言われると、
本当にそうですね、先生。
と心から頷(うまづ)いて納得していた。

これが尊敬の差。
信頼の差と言っても良いのかもしれない。

尊敬と信頼がないのに、あいつはオレの言うことを聞かない、と言うのは無理というもの。
まずはそこから始めましょ。
 

 

 

先日、岩波文庫の『日本書紀』全5巻を読み終えた。
就寝前に少しずつ読み進めたのだが、思いの外、時間がかかってしまい、全巻通読に5年以上も要してしまった。
原文にこだわったために時間がかかった面もあるが(日本古典は原文ならではの語感が大事だと思っているので現代語訳だけを読むことはない)、なんのことはない(あくまで私見)『日本書紀』はつまらなかったのである。
『古事記』でさえも、編纂の際に体裁を整えるためにまとめたようなところは面白くなかったが、『古事記』には古い故事がそのまま伝わっているようなところがたくさんあり、時に「魂振り」が起きてるんじゃないかと思うほど感動する箇所がいくつもあった。
しかし『日本書紀』は、大和朝廷としての体裁を整えるためにまとめられたものという印象が強く、面白いと感じるところに乏しかった(ないわけではないが…)。
そもそも日本人なんだから記紀(『古事記』と『日本書紀』)くらいは読まなくっちゃ、と始めたチャレンジであったが、他の人に『日本書紀』を勧めるかと問われれば、やっぱり勧めないな。

他方、『古事記』となると、現代語訳でもマンガでも構わないから、一度は読んでみては、とお勧めしたくなる。
そしてもし気に入ったならば、是非原文にも当たってみてほしい。
原文で読まなければ味わえない感触があるのよ。
それに上古文とは言え、どこまでいっても日本語だから、繰り返し読むうちに、なんだか知らないけれど、わかって来るものがある。

記紀どちらにせよ、もし贔屓(ひいき)の神さまが見つかったならば、その神さまを祀った神社に出かけてお参りしてみることもお勧めしたい。
これまた得(え)も言えない体験を授かるかもしれない。

やはり行き着くところ、神道は理屈でなく体験だな、と改めて思うのでありました。

 

 

来週の八雲勉強会に向け、近藤先生の対談資料の注解作成作業をしていた。
作業に没頭するうちに、生き生きと語る近藤先生の姿が、まるでライブのような存在感を持って迫って来た。
思わずキーボードから手を離し、小さな溜め息をついて虚空を見つめたとき、ああ、今日は近藤先生の命日だったと気がついた。
逝去されてもう二十五年になる。
しかし私の中では、明日あの八雲の邸宅に伺えば、あの部屋で三十代の私と七十代の近藤先生が話しているであろう光景が、何の違和感もなく湧き上がって来る。
それは単なる情緒的懐古趣味ではない。
あれは生命(いのち)が愛され、育まれている体験であり、瞬間であった。
Eternal now. 

永遠の今。
だから、二十五年経っても“今ここ”でのこととして感じられる。
そしてそれは近藤先生からではなく、近藤先生を通して働くものから、この世界から、私は愛され、育まれているのだ。

だからこそ今日、私は、死なず、壊れず、生きていられる。
それどころか、今度は私を通して働く力によって、縁ある方々を愛し、育むことさえもできているのだ(愛し育む主語は決して「私」ではない。「私」にその能力はない)。
もう一度溜め息をつき、天を仰ぐ。

娑婆ではまた二十五年と一日目が始まる。
しかし私には“今”しかない。

 


 


 

敬愛してやまないアホの坂田師匠が亡くなった。

はからったアホ、意識したアホ、計算したアホほど醜いものはないが
師匠はそのままでアホだった。

こういう人はなかなかいない。

ああ、あんな綺麗なアホになりたいなぁ。

さ、皆さん、

あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ

で追悼しましょ。

これがまた綺麗なアホでないとなかなかできないんだ。

あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ

あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ

あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ

あ~りが~とさ~ん。

 

寂しい年の瀬である。

 

 

「気づいてあげられなくてごめんなさい。」

気持ちの悪い言葉である。

これを子どもに対して言うのだったら良い。
自分の気持ちをうまく言葉で言い表せない子どもはたくさんいる。
大人が気づいてあげる必要がある。

これを発声や表出に問題がある人に対して言うのだったら良い。
例えば、寝たきりの認知症のおじいちゃんにいつの間にか褥瘡ができていた。
こちらが気づいてあげる必要がある。

しかし、健全な大人に対して
「気づいてあげられなくてごめんなさい。」
と言うのは失礼である。

あなたには自分の気持ちを表出する力がない、と言っているのと同じだからである

そう言う人自身が、相手の言えない気持ちを察してあげることが良いことだと思っている臭いがする。
そして間違いなく、その人自身が、自分の言えない気持ちを相手に察してもらいたがる人なのである。
面倒くさい。

健全な大人は自分の気持ちを表出することができる。
万が一、何らかの生育史のせいで、自分の気持ちを表出することに難しさを感じるならば、
本人は、自分の気持ちを自ら表出できるように努力した方が良いし、
周りは、その人が自分の気持ちを表出するように応援する方が親切というものである。

「あなたの成長できる力をみくびってごめんなさい。」

どうしても謝りたいなら、そう言った方が適切かもしれない。

 

 

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医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。