先日、落語を聞きにあるホールに出掛けた。
階段状の広いホールの一番後ろの席であったが
私の真後ろの席(通路)には、高齢女性が車椅子で座り(聞こえて来る介助者との会話から軽度の認知症の方と思われる)
また私の後ろの席(通路)の端にはリクライニングの大型車椅子で酸素マスクを付けた年配の男性が来られ
階段を挟んだ右横の席には白杖を持った年配男性が来られていた。
いずれも介助者同伴で、当たり前に落語を楽しみに来られているということに、なんだか嬉しい気持ちになった。
しかし、すぐに問題が起きた。
私の真後ろのおばあさんが、落語家の噺に対していちいち相槌を打ち、しゃべり出したのである。
しかもその声が通る。
私の前の席の若い男性が何度も迷惑顔で振り返る。
かと思うと、大型車椅子の男性が何か不具合があったのか、噺の最中に介助者に対して何度か話しかける(男性の声は低く小さいので気にならない)。
しかしそれに応答する介助者の声が大きい(男性の声の大きさからしてこの男性が難聴とは思えない)。
これまた何人かが振り返る。
そして今度は、右横の白杖の男性が、噺の最中に隣席の介助者に大きな声で話しかける。
それに対してはかなりの人数の人が振り返るが、彼には自分が見られていることがわからない。
(そのときの何も知らない男性の笑顔が私には忘れられない)
この様子を見て、私かつての電車内・バス内での体験を思い出した(その一部は以前、拙誌で触れた)。
自閉症と思われる青年に介助者(家族か施設職員とおぼしき人)が付いて座席にすわっている。
青年が大きな声を挙げ始める。
すると隣の介助者が「シーッ!」と言う。
青年は一瞬黙るが、数秒でまた大きな声を挙げ始める。
介助者がまた注意する。
それに対し、青年本人が「うるさい」「静かにしなさい」などと言い始める。
それはいつも言われているセリフなのだ。
介助者には彼の発声の理由がわからないのであろうか。
青年はヒマなのである。
車内が苦痛なのである。
社会的に受け入れられる形で車内で楽しく過ごすスキルを教えてもらっていないのである。
ならば、声を挙げて自己刺激行動で時間を潰すか、声を挙げてヘルプサインを出すしかないではないか。
それで怒られるのでは割が合わない。
「だったら車内での充実した時間の過ごし方をわかりやすく教えてくれよ。」
と青年は言いたいだろう。
青年に何の罪もない。
それと同じ。
上掲の3人とも、本人たちには何の罪もない。
問題なのは介助者であると私は思う。
何故、認知症のおばあさんの隣にいる介助者は、本人にわかるようにルールとマナーを伝えないのか。
何故、大型車椅子の男性の隣にいる介助者は、密やかな声でコミュニケーションしないのか。
何故、目の不自由な男性の隣にいる介助者は、彼にすぐにアドバイスしないのか。
いずれも見かねたホールの係員が歩み寄り、申し訳なさそうに声をかけていた。
世の介助者の方々の名誉にかけて言うならば、そんな介助者ばかりではない。
当人たちの特性を熟知し、行き届いたケアをされている介助者のいることも私は承知している。
未熟な介助者のせいで当事者が排除されるようになってはならないと思う。
これからの時代、真に多様性が世に受け入れられるためには
当事者でなく周囲の人間への啓発・教育が必要であることを改めて実感した出来事であった。
そして、これは我々医療関係者も同じ。
殷鑑遠からず、である。
今度はあの人たちと楽しく落語を味わいたいと願う。