八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「自分でね、1分間でも2分間でも3分間でもいいから、静かに心を統一して瞑想することですね。これはできると思う。その瞬間、あなた方の心は洗われているわけです。何も考えない。何も思わない。滝に打たれたような感じ。そういう気持ちになる。行動です。こういうふうな感じでの行動をですね、少なくとも、最低ですよ、一番やりやすい2回ね、朝と寝る前の2回、静かに、我欲のない自分、我執にとらわれてない自分、そういうものに帰って、帰れます! 帰れますから、そうやれば、帰ってみたらどうかと思います。…ただ静かに息をして、そして自分の気持ちを、本当に清水に洗われたような思いにするんですよ。できます! できますよ、これは。気持ちが良いです。こういう気持ちになることがないんですよ、普通。だからそういうときを作ること。…これね、やってみなきゃ、わからないの。…短いけれど、3分間だけども、3分間の中に永遠がある。その中に浸っているときは、時を問わず、年を思わず、そうじゃなくて、ただ絶対の、本当に清らかな世界の中にあなた方は生きてるわけです。そのときに、体から全部洗われて行く感じです。心が全部洗われて行く感じです。この気持ちを感じたときに、あなた方は自ずから『本当の自分』になります。」(近藤章久講演『迷いのち晴れ』より(著書の『迷いのち晴れ』とは異なる))

 

これは是非、行動されることを、実践されることを強くお勧めします。
近藤先生がこの講演の中で言われている通り、もし瞑想よりも念仏の方がやりやすいという方は、もちろん念仏でかまいません。
とにかく実際にやってみること、そして、続けてみることが重要です。
本当に、1日朝と寝る前の2回、1回1分でも2分でも3分でも

続ける、続ける、続ける、そしてどうせ続けるなら年単位。
今日まで生きて来たあなたの人生の長さを思えば、1年くらい続けたってバチはあたらないでしょう。
そしてさらに2年でも、3年でも、5年でも、10年でも。
これからも「ニセモノの自分」で死ぬまで生きて行くのか、それとも「本当の自分」を実現して行く一瞬を、“永遠の今”を授かるのか。
最後はあなたの人生です。
あなたの責任で決めて下さい。

 

 

昨日に続いての話。
皆さんは「ラブゲロ」を御存知だろうか?
小鳥好きの人なら、知っておられるかもしれない。

親鳥が、自分が一旦食べた餌を吐き出し、消化しやすい状態にして雛鳥に口移しで食べさせることを指している。
これもまた自分の生命維持よりも、雛鳥の成長を優先させるのであるから、まさにラブ=「愛」の証しと言えよう。

これに対し、発情期のオスが、メスへの贈り物としてラブゲロをプレゼントしようとする場合がある。
これもまた自分の生命維持に必要なものをプレゼントするという点ではラブであるが、結局は自分の欲望を達成するためであるので、ラブはラブでも(「愛」ではなく)「愛情」の証しということになる(「情」が付くだけ我欲を伴うのだ)。

そして以下は、ある愛鳥家のブログに書いてあった話。
ある日、風邪で体調を崩してしんどい思いをしていたが、いつもの通り、放鳥してやろうと室内に小鳥を放ったところ、小鳥が不意に飼い主の肩に乗って来た。
そして何をするのかと思いきや、いきなり飼い主の耳の中にラブゲロして来たのだという。
そう。体調を心配した小鳥が、飼い主を元気にしようと、ゲロをプレゼントしたのである。
これも自分の生命維持よりも飼い主の回復を優先させるのであるから、間違いなくラブ=「愛」の証しである。
しかし、外耳道の中にゲロを入れられることは、どうしようもなく気持ち悪いので、以後はご遠慮願ったそうだ。

それにしても、あんなちいさな小鳥を通しても働く「愛」、やっぱり有り難いね。


 

ある職場の歓送迎会で出かけた居酒屋で、畳続きの隣の座敷から聞くでもなく聞こえて来た大学生たちのやりとり。
どうも福祉系の学生たちのクラスコンパらしい。
したたかに酔っ払った一人の女子大生がワインのおかわりを注文している。
心配した友だちらしき子が
「あなた、もう十杯目でしょ。いい加減にしなさいよ。」
と窘(たしな)めるが、そんな言葉はどこ吹く風。

深酔いをからかって来る男子学生に対して、
「あんた、私を狙ってるでしょ。」
と言いながら自分から抱きついてキスをする始末。
イヤな嬌声が聞こえて来る。

そうしながら、
「こんなことしてると、また彼氏に怒られるんだよねぇ。」
と溜め息をつく。
対人援助職関係の若い女性に偶(たま)に見る光景だ。
酩酊して女を安売りする女。

他人の援助などしている場合ではない(でも他人の援助はしたがる)。
もうこれだけで、この子の生育史が見えて来る。
寄り添われずに、あるいは、酷い目に会いながら(そこに性的エピソードがある場合が多い)育ち、
自己評価は限りなく低く、
その奥に秘めた攻撃性がある。
女を使えば馬鹿な男が引っかかることを知っており、
ほら、おまえもどうせヤリたいだけのクソ男だろうと思わしめ、
自分もまた、どうせ誰とでも寝るクソ女であることを確認する。
自分一人で苦しまず、男を巻き込むところにこの女の攻撃性がある。
気の毒なのは、こんな女を彼女にした彼氏であり(その彼氏がそんな彼女に惹かれるのにも理由がある)、
何度も何度も彼女を救い出そうとして踏ん張るが、
若い男性にとって、酩酊して誰とでも寝る彼女というのは、簡単に耐えられるものではない。
そして、頑張って頑張って頑張った挙句に、耐えきれなくなって放り出す。
最後に残るのは、自分一人を愛してもらえなかった無価値感と彼女を救えなかった無力感という苦々しい思いであり、
女の方も、今度もやっぱり見放された、やっぱり誰にも愛されない自分を確認できる。
こんな心理描写ならまだまだいくらでも書けるし、これに類するテーマを扱った小説は古今東西に存在する。
さて、どうしたものやら。
でもやっぱり行き着くところは、彼女が心の底から「情けなさの自覚」を持ち「成長への意欲」を持つようになるしかないのである。

そうでないと、これは止まない。
そして、女を使うのにも引っかからず、繰り返す自己破壊にも見放さず、この子の内なる成長の光を信じて、息長く付き合えるのは、“治療”の“プロ”しかいないんじゃないかと思う(他には余程の人格者か宗教者か)。
しかしそのためには、彼女が
“治療”の“プロ”のところに出かけて行く必要がある。
それは一体いつになるのだろうか。
実は、彼女だけではない、さまざまな問題を抱えた人間が数え切れないほどいて、右往左往しながら彷徨(さまよ)っているのが、この娑婆の実態なのである。
祈りながら待つ、祈りながら待つ、つながるその日を。
まだまだ続く酒宴を背に、まずくなった酒杯を置いて、ひと刹那(せつな)瞑目し、店を出る私であった。 

 

 

「僕の願いは、みんなが『本当の自分』、人間らしい自分を自覚して、そしてそれで生きてもらうことなんです。そんな難しいことじゃない。それは要するに、『本当の自分』っていうものは、いわゆる我欲だけで生きない、自分の中に、自分の生命を成長させ、そして本当に自分を生かして、その生命が生かされている本物、根拠、そういうものを感じてですね、そしてそれに生かされる喜びというものの中に生きがいを見い出す。そういうことを感じてもらいたいんです。そのときに百万円のネックレスも意味がなくなります。『本当の自分』を生きたときに、顔は本当に柔らかに優しく微笑み、豊かな気持ちになり、人を愛し、自分を愛し、そして常にみんなと一緒に和(なご)やかに生活して行く人になっていくだろうと思うんですね。」(近藤章久講演『迷いのち晴れ』より(著書の『迷いのち晴れ』とは異なる))

 

「本当の自分」って何ですか?
「真の自己」とは何ですか?
しばしば訊かれる。
言葉で説明しようとすると、これほど難しいことはない。
しかし、この師の講演を聴いていると、そうそう、そうなんだよな、あるに決まってるんだよ、と問答無用に「わかって」くるから不思議である。
そう。
こう語っている近藤先生の「本当の自分」が今、目の前でダイナミックに動いているのを感じ、
そしてまたそれによって、自分の「本当の自分」が刺激され、触発されて、ダイナミックに動き出すのを感じるのである。
そして、近藤先生の「本当の自分」と私の「本当の自分」が共に響き合い、一如となる、その体験によって初めて本当に「本当の自分」が「わかる」のである。
言語なんかで、言語ごときで、「わかる」ものじゃあないんだよね。
だから、言葉から入らないで、アタマから入らないで、感じましょう、体験しましょう、としか申し上げようがないのです。

 

 

長年、大企業の社長秘書を務めているAさんは、非常に優秀な方である。

社長のスケジュールを完璧に把握し、社内でこなすべき業務、会議などはもちろん、社外への移動手段、会議・折衝の段取り、食事・宴席、宿泊の手配などをも漏らすことなく準備し、さらにA案がダメなときはB案、それもダメなときはC案と代替策も何枚腰かで準備している。
そのため、“できる”秘書として、周囲から全幅の信頼と評価を得ている。

しかし、である。
一旦社を離れ、プライベートなことになると、彼女のやり方はガラリと変わる。

無計画、思いつき、行き当たりばったり、出たとこ勝負の連続なのである。
例えば、フレンチ料理を食べたいと思ったとする。
大して下調べもせず、大体こんなもんか、で出かけて行く。
案の定、お店は定休日だったり、満席だったりする。
そこで全く反省も後悔もなく、あたりの他の店を物色する。
あのイタリアンの店、良さそうじゃん。
ふらりと
入ってみると実に愉快なお店で、いつの間にやら会話が弾んで大盛り上がり。
最後はシェフまで出て来て、ワイン1本サービスしてくれた。

隣のテーブルの客たちとも仲良くなり、今度、ハンググライダーに連れてってもらうことになった。
そんな展開は“予定通り”の人生には起こらない。
もちろん、時には“壮絶な失敗”もあるが、それもまた人生の彩りとして面白がっている。

能率、効率を追求し、周到な準備によって全てをコントロール下において、予定通りの目標を達成する。
良いか悪いかは別にして、そんなことに価値を置く現代日本が存在する。
能率、効率を汲々と考えず、なるようにおまかせして、予想外の展開を楽しむ。
そんな生き方も存在する。

冒頭にAさんのことを「非常に優秀な方」と申し上げた。
それは現代に生きながら、前者の生き方に呑み込まれず、後者の生き方ができているからである。
人生の本当の“豊かさ”がどこにあるかを彼女は感じ取っている。

 

 

ある日、断りもなく「介護保険被保険者証」が送られて来た。
そして別の日には、私の許可もなく「年金請求書」関係の書類が送られて来た。
ああ、そうなんだ。
65歳になったんだ、高齢者になったんだ、と改めて思う。
しかし、そんなに老人になった自覚もない。
流石にこの仕事をしているので、年を取ることへの否認があるわけでもない。
年を取ることによって失っていくこともちゃんと感じているし、
年を取らなければわからなかったこともちゃんと感じている。

そんな法律や行政の決めたラインとは別に、私には私の目安がある。
私が近藤先生の教育分析を受け始めたのが、先生が77歳のときであり、それまでにまだ12年ある。
また、先生が亡くなられたのが87歳のときであり、それまでにはまだ22年ある。
それならまだもう少しはミッションを果たす時間がありそうだ、と思いそうになるが、

今年で近藤先生が亡くなってから25年になる=その時間は本当にあっという間だったことを思えば、
残された時間はそんなに長くないな、とも思う。
しかも、天災、人災、病災が起これば、そんな目安も一瞬で吹っ飛んでしまう。

そんなこともあってか、今回の人生において与えられたミッションを果たしたい、という思いは日に日に強まって来ている。
そのミッションとは、人の成長に関わる、ということである。
以前からあった感覚であるが、面談の予約が空いている時間があると、ちょっと落ち着かなくなる。
それはもちろん経営のためではなく、その1枠分、人間の成長に関われなかったという残念感である。
この世の中に私が出逢うべき人、その人の成長に関わるべき人が、まだまだたくさんいる気がしているし、
既に逢っている人、面談を行っている人に対しても、もっともっとその人の成長に関わりたい思いは湧き続けている。

そんな中で、もっと面談希望の人が始めやすいやり方はないか、さらなる成長につながりやすい企画はできないかなど、以前にも増して思案中である。
できれば早いうちに具体的な形にしてその案をお伝えしたいと思う。

生かされている時間は本当に短い。
年を重ねるにつれ、確かに、蓮如の『白骨の御文(おふみ)』が実感を持って迫って来る。

「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕には白骨となれる身なり」

許される限り、一人でも多くの“あなた”、一回でも多くの“あなた”の成長に関わって行きたいと心から願っている。

 

 

 

 

赤ちゃんが初めて立つ。
発達段階からすると生後9~10カ月頃である。
すると両親は喜ぶ。
なんだか知らないけれど、手を叩いて喜んだりする。
そして11~12カ月を過ぎる頃になると、初めて歩けるようになる。
これまた両親は喜ぶ。
まるで世紀の大偉業を達成したかのように喜ぶ。
そんなときに
「ちょっと立てたくらいで良い気になるなよ、おまえ。」
「歩けたぐらいで図に乗るな。お父さんは走れるんだぞ!」 
と言う親はいない。
また、幼い子どもの程度はこんなもんだから、これくらいのことでもちょっと褒めておいてやるか、と思ってやっているわけでもない。
そこに子どもへの愛があるから、そんなささやかなことでも心の底から本気で喜べるのだ。

翻(ひるがえ)って考えてみるに、私たちは大きくなった子どもたち、そして大人たちに対して、そのような姿勢で関われているだろうか。
裁いて、怒って、残酷に斬って捨ててはいないだろうか。
時に何らかの障害のある家族、認知症の親、伴侶に対してさえも、我々は容赦なかったりする。

そこで、大きくなった子どもたちや大人たちに対しても愛を持ちなさい、と言いたいわけではない。
実は、幼い子どもたちに対して愛が持てたのも、意図的努力の結果ではなかった。
なんだか知らないけれど愛が湧いて来てそうしていたのである。
私は、愛は人間業(わざ)ではない、と思っている。
我々を通して働くものだから、努力もなしに幼い子どもたちを愛することができたのだ。
だからね、愛がないなぁ、と思ったとき、反省会を開いて、次から愛そうと決意したところで何の役にも立たないのである。
人間の意図的努力では、舌の根の乾かぬうちに、またすぐに相手を裁いて、怒って、残酷に斬って捨てるに決まっている。
それは御存知の通り。
だから祈るのである。
私には無理ですからお願いします、おまかせしますと、繰り返し繰り返し。
そうしたら、もしかしたら、ひょっとしたら、あなたを通して愛が働くかもしれない。
どうやったって自力でできないんだから、そうするしか道はないのでありました。

 

、ゝ
 

ランチ時に新宿の小さなお店に入った。
店内はまさに忙しさのピークで、お客さんでいっぱい。
水を運ぶ、オーダーを取る、料理を出す、レジを打つ、お皿を下げる、フロアを取り仕切っている一人の中年女性が忙(せわ)しげに店内を動き回っている。
その表情たるや、眉間に皺を寄せ、ピリピリした雰囲気が店内を支配している。
いつまで経っても席に案内されないので、勝手に空いている席を見つけて座る。
しかし、どれだけ待ってもオーダーを取りに来ない。
隣の席の客がシビレを切らせて、フロア係の女性に声をかける。
「お待ち下さいっ!」
イラついた声に怒気さえこもる。
これじゃあ、昼飯がまずくなると、私はそのまま席を立って店を出た。
そんな店もある。

また別の日、ランチ時に築地場外市場のある小さな店に入った。
これまた店内は忙しさのピークで、お客さんでいっぱいだ。
水を運ぶ、オーダーを取る、料理を出す、レジを打つ、お皿を下げる、フロアを取り仕切っている一人の中年女性が忙しげに店内を動き回っている。
ここまでの状況は前出の店とほぼ同じ。
しかし、ここからが違った。
どんなに忙しくても、この女性はにこやかなのだ。
さらにお客は、「御飯4分の3で。」「味噌汁、ネギ抜き。」「ソースだくだく。」など勝手な注文を次々つけて来る。
それに対して、「あんた、野菜喰わなきゃダメだよ。」「御飯、お代わり禁止だよ。」「昼からビール飲むんじゃない!」などと笑顔でジョークをかましながら、手と足を動かし続けている。
それなりの時間はかかったが、お蔭で非常に愉快な気持ちで昼食を取ることができた。

この二人を比べればわかる。
忙しさは気分とは関係ない。
1軒目の女性は、自分でイライラを作り出していたのであり(内なる“見張り番”に支配され、せっつかれている)、
2軒目の女性は、自分でイライラを作り出さなかったのである(内なる“見張り番”に支配されていない)。
状況はただ忙しいだけであり、やることは、その状況に対してただ一所懸命に働くだけのことである。
気分は関係ない。 

いや、どうにでもなる。

自分が忙しくなったとき、よくこのエピソードを思い出す。
市井(しせい)に師あり、である。
とても勉強になりました、はい。

 

 

「わたしたちは感じる力を持っているのですから、本当に心に響くもの、内から催すものに敏感に感じてほしいものです。私が『感じる力を育てる』という本を書いたのは、そういう微妙な、目に見えない催す力、とにかく我々を働かす大きなダイナミックな力が、この世の中に働いてこの世界が動いている。その力でこの宇宙で我々人間は生かされてる、という事をはっきりと考えていただきたかったからです。」(近藤章久講演『私達と世界のめざめ』より)

これはもう感じるか・感じないかのお話になるのですが、私が初めて近藤先生からこういうお話を伺ったとき、その頃はもちろんはっきりとそれを感じる体験などなかったにもかかわらず、それは絶対にそうだろうな、そういう力が働いているに決まっているだろうな、という“奇妙な確信”があったのです。
それは実は近藤先生にそう言われる前から私の中にあった“感覚”であり、近藤先生にはっきりと言語化していただいて初めて、そうそう、そうなんですよ、そうに決まってるんですよ、と私の意識上に上った気がします。
即ち、それもまた私を通して働く力によって、この世界を通して働く力によって、既に私の意識下にあったのであり、それがまた近藤先生を通して働く力によって、そしてこの世界を通して働く力によって、私の意識上に顕在化して来たと言えます。

このように書くと長々とした文章になってしまいますが、感じてしまえば一瞬なんです。
そしてそれが真実なんです、絶対に。
薄っぺらい科学的証明無用の、絶対的な体験の真実なのです。

そしてこういった体験もまた、「感じる力」が磨かれることによって、さらにまごうことなき強度の体験になって行くのだと私は確信しています。

 

 

かつて外来で診ていた若い女性。
しばらく受診が遠ざかってるな、と思ったら、ある日、不意にやって来た。
診察室に入って来た彼女の顔を見て、何か雰囲気変わったな、と思ったが、女性はちょっとしたメイクや髪形で雰囲気が変わることがよくあるので、さして気には留めていなかった。
しかし実際は、整形手術を受けて来たのだという。
眼と鼻と唇。
確かに綺麗に整っている(元々も美人なのだが)。
そして今一番の心配は、年を取ることだという。
今、二十代半ばだが、三十になるのが恐ろしい、年を取って醜くなるのが怖い、なんで皆平気で生きてられるのかわからない、三十歳を過ぎたら死のうかと思ってる。
私の眼を見ながら真顔で言うのである。

あのね、あなたは親に寄り添われずに育ったでしょ(実際にはひどい虐待を受けて育っていた)。
子どもは親に寄り添われないと、寄り添ってもらえないのは自分に価値がないからだと思うの。
そのままの自分に存在価値がなければ、整形手術でも受けて綺麗になって、せめて外面に存在価値を作るしかないじゃない。
でもそのやり方だと年を取って、美しさを失ったらおわりだよね。
運よく愛されて育つことのできた人は、自分の内面に、自分の存在に価値があると思えるの。
だから年を取って若い頃の美しさを失っても平気で生きて行ける。
あなたも自分の内面に、自分の存在に価値があると感じられるようになったら、年を取っても大丈夫だよ、と話した。

私は、例によって、何も考えずに話したのだが、驚くべきことに、その言葉が彼女の中にスッと入っって行った。
一瞬黙って俯(うつむ)いた彼女は、私の眼を見てこう言った。
「生きて行ける気がします。」
そして(そんなことをしたことのない彼女は)私に向かって合掌したのだ。
私に合掌をしてもらえるようなことは何もできないが、私を通して働いたものが彼女を救ってくれたのである。

そして水商売で働こうとしていた彼女に、
どこで働いても良いけど、私としては、あなたがあなたであることを大切に思ってくれる人たちの中で生きて行ってほしいと思う、と伝えた。

私は彼女を説得したわけじゃないんだよね。
理性的な説明だけで人は変わらないもの。
その証拠に、上記と同じセリフを言えば誰もが変わるわけじゃない。
そうでない何かが響いた、何かが届いたのである。
人が本当に変わるのはそんなときじゃないかと思う。

 

 

「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃(みの)の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰(もら)ってきて、山の炭焼き小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里(さと)へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小谷の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻(しき)りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢(ろう)に入れられた。
この親爺(おやじ)が六十近くになってから、特赦を受けて世の中に出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう。」
(柳田国男『山の人生』「山に埋もれたる人生あること」岩波文庫)

この文章は、昔、私のただ一人の畏友から教えられた。
そしてこの文章が、決して「気の毒」で「可哀想な」「悲しい」話ではないことを知った。
これが「美しい」話であることをあなたは感じたであろうか。
「くらくらとして」という言葉を選んだところに柳田国男の真骨頂がある。

後日、私はこの文章を近藤先生にお見せした。
師は黙って涙を流しておられた。
それが情緒的なべたべたした涙ではなく、霊的なさらさらとした涙であった。

情緒的には「悲しく」、霊的には「美しい」話である。

 

 

生きていればいろいろなことが起こる。
しかし時は常に流れ、「今ここ」のことが忽(たちま)ち「さっきあそこ」のことになって行く。
それでも物事に執着する我々の我は、いつまでも「さっきあそこ」のことにしがみつく。
それが「今ここ」を蝕(むしば)み、二度と返らぬ「今ここ」を刻々と台無しにして行く。

仏教では、摩拏羅(まぬら)尊者の言葉として
「心は万境に随(したが)って転ずるも、転ずる処(ところ)実に能(よ)く幽なり」
(心はあらゆる環境に随順して転変しながらも、その転変のしかたは何とも秘めやか)(入矢義高監修・古賀英彦編著『禅語辞典』思文閣出版)
が有名である(以前、引用した気がする)。
森田療法においてもしばしば引用される言葉である。

こんな難しい言葉を使わなくても、例えば、内田麟太郎の絵本『ともだちくるかな』(偕成社)の中でも、
オオカミによる
こころころころ、こころはころころかわるのだ
という名セリフがある。
DVD絵本も出ており、よくできている絵本なので、関心を持たれた方は読んで(観て)みていただきたい。

また、英語の諺(ことわざ)にも
A rolling stone gathers no moss.
(転石(てんせき)苔(こけ)むさず=転がる石に苔は生えない)
がある。
(御存知の通り、イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズの名前の出自である)
さまざまに解釈されているが、上記の意味に沿って考えると実に奥深い。
こころもまた常に転がっていないと苔が生えて来るのだ。

引用ついでに和歌をひとつ。
世の中を 何に譬(たと)へむ 朝ぼらけ 漕(こ)ぎ行く船の 跡の白波」(『拾遺和歌集』)(『万葉集』に本歌あり)
(世の中を何に譬えようか。夜明けに漕いで行く船跡の白波)
船が立てる白波が、立っては消え、立っては消えて行くわけである。
それが人生。

この真実は、身近な幼い子どもたちを見ていてもわかる。
健康な彼ら彼女らの心は実によく転じていて、後を引かない。
「今ここ」「今ここ」の連続である。

そういう心の本性を忘れてはならない。
心がよく転じないとき(過去にとらわれているとき、生育史にとらわれているとき)、それは心に苔がついているのかもしれない。

そしてまた、転じなくなった心を本来のありようにリセットするために、呼吸や祈りがある。
先人の智慧は、実に有り難いものだと思う。

 

 

「心が時々乱れるときがあるでしょう。そういうときには、ひとつ、自分の心を海の一番底だと思って下さい。で、あなたの上の方で、怒ったり、あるいは、イライラしたりするのは、風で波が騒いでいるようなイメージを持って下さい。だから、ああ、今、私の心は騒いでいる、それは事実なんです。騒いでいるのは騒いでいる。しかし、一番深いところに、私の、やっぱり、深いところでは、落ち着いたところがあるなってことが、自分で味わえるようになって下さい。そうなったら、とても楽になりますよ、と言います。」(近藤章久『心身平安への道』)

 

一番底。
それは我々の自我を超えた底。
そこから
自分の我を眺めるとき
相手の我を眺めるとき
ちょっと違って観えるんです。
ちょっと落ち着いて観えるんです。
そんな世界があるんです。
そんな境地があるんです。
こういうことをちょっと知っているかいないかで
対人援助の現場で働くとき
否、娑婆で働くとき
娑婆で生きるとき
何かがちょっと変わって来るんですよね。
なんだかちょっと楽になって
なんだかちょっと深くなって
なんだかちょっと大きくなって
あったかくなる。

そこに我々の我を超えた世界がある。
そのことを覚えておいて下さい。

 

 

昔、東京メトロ(地下鉄)の電車に乗車したら、男性の声で車内アナウンスが流れて来た
通常なら
「つぎは~、とらのもん(虎ノ門)~、とらのもん~。」
というところを
「あ、つぐぃはぁ~、は、とぅらぁのぅもぬぅ~、あ、とぅらぁのぅもぬぅぅぅ~。」(←精一杯表記してみたが実際はこんなもんではない)
というアナウンスが流れて、腰から崩れ落ちそうになった。
「何言ってんのか、全然わかんねーよ!
現在は、女性アナウンサーによる綺麗な録音音声になり、とても快適である。

そして先日、某電鉄の電車に乗車したら、男性の渋いバリトンの声で車内アナウンスが流れて来た。
今度はちゃんと聞き取れるのだが、完全に自分の声に酔いしれてしゃべっているのだ。
「つぎは~、〇〇~、〇〇~。」
と表記上は何の問題もないように見えるが、そのナルってる(=ナルシシストしてる)声の具合いが絶妙に気持ち悪く、思わず失禁しそうになった。
しかし事態はそれで終わらなかった。続いて英語アナウンスに入ったことで、これまた
「Next station is 〇〇~、〇〇~。」
と表記上は何の問題もないように見えるが、その独自の発音の上に、先のナルってる声の具合いが重なり、危うく脱糞しそうになった。
「フツーにしゃべれーっ!」

そして今日、某電鉄の電車に乗車したら、通常なら、
「間もなくドアが閉まります。閉まるドアにお気をつけ下さい。」
というところを
「間もなくドアが閉まります(←ここまでは良かった)。閉まるドアに…(段々声が小さくなる)……(おいっ!間が長いぞ!)……(急に聞き取れるかどうかの囁(ささや)き声になって)…気をつけて下しゃい。」
「車内アナウンスで囁くなっ! しかも何が『しゃい』だっ!」
お腹がヒクヒクして悶絶しそうになった。

鉄道勤務もいろいろあって大変なのかもしれないが、3人とも共通して言えるのは、自分の方を向いて(自分の世界で)仕事をしていることである。
乗客に貢献する仕事なのですから、聞かされるお客さんの身になって、お客さんの方を向いて仕事をしましょうね。
(尚、医療関係者における「どっち向いて、誰を向いて仕事してんだよ問題」についてはまたいつか触れるつもりである)

 

 

今日は新年度最初の「八雲勉強会」。
令和6年度4月から構成を変えて、(1)近藤先生の文献を使った精神療法に関するレクチャー(2)参加者による話題提供とディスカッションという(1)+(2)2本立てとした。
ついては(1)の内容として、まず「ホーナイ派の精神分析」を取り上げる。
今までもホーナイ全集をはじめ、いろいろな文献を取り上げて来たが、今回、折角よくまとまった文献を使うので、読者諸氏とも共有したいと思い、ここにその内容を掲載した。
非常に濃縮された文章であるが、ホーナイ派の精神分析に関心のある方々のご参考になれば幸いである。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)
 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

1.人間の成長 ー「真の自己」の実現

Freud(フロイド)正統派の伝統の中に育ち、褒貶(ほうへん)をものともせず心的現実への追求を果敢に行った Freud の態度に惜しみない尊敬をささげながら、Horney もまた Freud に劣らない厳正さで心的現実を直視し、患者との長い臨床経験と不断の自己分析の経験を検討することによって Freud と全く異った見解に到達した。
彼女の明るい洞察の眼は、人間の存在の中に、常に実現を求めて止まない成長と発展への衝動を発見し、その源泉として「真の自己(real self)の概念を定立(ていりつ)したのである。この様な成長と発展への能力は、あらゆる人間に存在し、その素質や環境に応じて、各々の独自性に輝きながら、各自の「真の自己」を実現して行くものなのである。
(あたか)も樫(かし)の実が大木に成長する可能性を何時もはらんでいる様に、人間は、常に「真の自己」を実現して行く能力を持っているのである。しかし、人間も生体として、他の生物がそうである様に、生長して行く為に良好な環境条件を必要とする。
人間は、自分の感情や考えを生かし、自分を表現し得る内的な自由と安全を与えてくれる、自己実現の為の暖い環境が必要なのである。人々も好意や、協力や、指導、忠告、激励等が、どんなに私達が成熟した安定した人間になる為に必要なことであろうか。
また私達には一方に、他の人々との意見の交換や競争やその他の健康な刺激が成長に必要でもある。この様な関係に於(おい)て、私達は相共に人間として共感し合いながら、それぞれ独自の成長を遂げる事が可能となるのである。

 

 

昨夜午後8時頃、路線バス内にスマホを落としてしまった。
あちゃー、やっちまった!と思っていたが、
朝一で路線担当の営業所に問い合わせてみたところ、お昼前には私の手元に戻って来た。
有り難や、有り難や。
紛失物をちゃんと届けて下さるこの国の倫理性の高さに感謝である。

思い起こせば、路線バス内にガラケーを落としたことは既に2回あったが(おいおい)、それはいずれも15年以上前のことであった。
その後、私のガラケー(その後スマホ)はチェーンでバッグに繋がれ、15年以上紛失はなかった。
しかし、落とし穴があった。
いつものバッグを持たずに外出するとき、スマホを上着のポケットに入れてしまったのである。
そこにチェーンはない!
従って、運転手さんの後ろのちょっと高い一人座席に座ったとき、いつの間にか、ポケットから擦り落ちてしまったのだ。
(ちなみにこれまでの携帯電話紛失3回は、いずれもこの同じ座席であった

例によって、私の『やらかし対策辞書』に「次から気をつけます」の文字はない。
気をつけてもヒューマンエラーは必ず起こる。
従って、気をつけなくてもエラーが起きないようなシステムを構築しなければ、万全の対策とは言えない。
よって今回を機に、スマホからスラックスのベルトにつながるチェーンを作成した。
これでいつものバッグを使わないときでも大丈夫である。
スマホは私のベルトから離れない。
(スマホポーチ(スマホショルダー、スマホポシェット)も考えたが、荷物はできるだけ増やしたくない)

そして、こういうエラー対策システム構築のアイデアは全て、自閉スペクトラム症や注意欠如多動性障害などの子どもたち・大人たちの臨床経験から学んだものである。
療育のアイデアはすべての人に応用できる。
やらかすときはやらかすが、タダでは起きない私であった。

お騒がせ致しました。

 

 

“治療”の面談場面においては
クライアントの「沈黙」には大きな意味がある。
それこそ、対人援助職に対するテスティングに使われることもあれば、
クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときである。
しかし「沈黙」に弱い対人援助職は、その「沈黙」に耐えられず、ついベラベラと薄っぺらなことをしゃべり、クライアントの不信と失望を招く。
対人援助職には、悠々と「沈黙」に付き合う力量が必要である。
但し、クライアントが何かこちら(対人援助職)から話して(声をかけて)もらいたくて「沈黙」しているときもある。それがわからずこちらも「沈黙」していれば、それはクライアントに苦痛しか与えない。

近藤先生のクライアントで、半年間ひと言もしゃべらなかった外国人女性がいた。
週1回50分の面談である。
師は全く困らず、クライアントを大きな気で包んで、スッとそこに座っていた。
そして半年後「ドクター近藤、おまえは信用できる。」と言って、彼女は話し始めた。
そんなことがある。

“成長”の面談場面においては
ほぼ「沈黙」は存在しない。
クライアントは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を持って来ているはずだもの、自分の成長課題や問題の話をするのに50分で足りるはずがない。
あれもこれも課題だらけ問題だらけのはずであるから。
私が近藤先生のところに通っていた頃もとても1回50分では足りなかった。
準備をしなくても話したいことが次から次へと出て来た。
(もし出て来ない人がいたら準備した方が良いかもしれない。時間がもったいない)

唯一の例外は、“治療”の面談場面と同じく、クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときであろうか。
そんなときは私もただ“沈黙”に付き合う。
こころの中で祈りながら。

 

 

「僕の、そのときの、聞き方、態度、そういうことで、ちゃんと患者はテストしてる、その間に。それで、この人は話してもいいかな、悪いかな、どの程度まで話すかな、というようなことを考えるんです。おかしいけどね、ここ(近藤クリニック)へ折角来てるんだから。だけども、そういうことが自然に起きちゃう、…そういうのを聞いてるうちに、ああ、これは安心できるな、と思ったら…話してくれます。」(近藤章久『心身平安への道』)

 

テスティング、試すこと、つまり、試されること。
サイコセラピーなんてやっていると、そんなことがしょっちゅう起こります。
でもね、そんなの今さら、取り繕ったって、演じたって、どうしてもバレちゃうんですよ、こっちの本音がね。
だから、どう思われるかに右往左往しないで、テストに合格するかしないかに一喜一憂しないで、ただこの自分で勝負するしかないんです。

本音が変わることを成長といいます。
自分が磨かれて行くんです。
そうなると本音がバレることが恐くなくなります。
なんたって、それが本音なんだもの。

そしてこれがサイコセラピー場面だけの話ではなく
あらゆる人間関係 ~ 親子、夫婦、恋人、友人、同僚、上司部下などなど ~ にも当てはまることがわかりますよね。
そうなんです。
いつもあなたの本音は、互いにそうとは知らないうちに、試されているのです。

 

 

ある和食店で食事をしていたとき、そこの板前さんが東南アジアの某国の日本料理店で働いていた頃のことをお客さんに話していた。
その店の厨房で洗い物をするために雇われていたのが中近東某国出身の若い女性たちであったが、これが全く仕事をしない。
ずっとしゃべっているか、スマホをいじっているのだという。
で、現地のシェフはどうするかというと、その子たちに向かって、耳をつんざくような声で怒鳴り倒し、恐怖によって仕事をさせていた。
それを見て、流石にそれはおかしいと思った板前さんは、できるだけ彼女らに優しく接してみたが、そうするとあからさまに舐めて来て、さらに仕事をしないのだという。
その態度に嫌気がさし、また彼女らに舐められている自分の姿を嘲笑的に眺めている周囲の視線も気になった板前さんは、意を決して大声で怒鳴り上げ、ゴミ箱を蹴りまくって威嚇したのだという。
そうすると確かに彼女たちは働いた。
しかし、そうこうするうちに、こんなことを続けていたら、人間が荒(すさ)んでしまう、と感じた板前さんは、早々に日本に帰国したのだそうだ。
聞くでもなく聞こえて来た話だが、この板前さんは人間として感覚がマトモな人だと思った。

しかし、宿題が残された。
そんなとき、あなたならどうするか。私ならどうするか。
優しくすれば舐められる。
かといって、恫喝するのは最も安易な方法である。

近藤先生の姿が浮かんだ。

「寛にして畏(おそ)れられ、厳にして愛せらる」(朱子『宋名臣言行録』)
 優しいのにおっかない。厳しいけれど皆から愛される。

極めて難しい道であり、到達するのに長い年月を要する道ではあるが、
それ以外に正解はないと思った。

 

 

 

皆さんは、「ニセ科学」というのを御存知だろうか?
「科学を装っているけれども、実は科学でないもの」
あるいは
「見かけは(科学に)よく似ていながら、内実は科学的でないもの」
を指し、「疑似科学」とか「トンデモ科学」とも呼ばれている。

最近では、新型コロナウイルス感染症について、ワクチンがどうの、マスクがどうのと、いろいろな「ニセ科学」が横行したことが記憶に新しい。

そしてもちろんこの「ニセ科学」に引っかからない=「真実」を掴むための対策としては、「ホンモノの科学」的検討が必要だ、ということで識者の意見は一致しているように見える。
(尚、「ニセ科学」について学びたい人には、この記事がよくまとまっていてわかりやすい)

今日私がお話したいのは、そこからの話で、その「真実」を掴むには「ホンモノの科学」しかないのかということである。

例えば、食べ物の〇〇が体に良い、という話がよくある。
食べ物の話は、ある意味、「ニセ科学」の宝庫であると言える。
〇〇は良い、□□が良い、という、ちょっと“怪しい”話は巷(ちまた)に溢れている。

私も昔、玄米菜食をやったことがあるが、その際、辟易したのが、「ニセ科学」で滔々と説明して来るその筋の人たちであった。
あるとき、有機栽培の蕎麦を使った手打ち蕎麦のイベントがあった。
参加した私はとても美味しい蕎麦を堪能し、非常に満足であったが、傍らで「ニセ科学」的効能を説く人たちには、新興宗教の説法を聞かされるようで、心底うんざりしていた。
すると、蕎麦を打ってくれたおじさんが(この人はただゲストで呼ばれた蕎麦打ちのおじさんである)
「難しいことはよくわかんないけど、この蕎麦、うまいよな。」
と言ったのが非常に明快であった。

その「ニセ科学」に対して「ホンモノの科学」のエヴィデンスを示して徹底的に論破しても良いのだけれど、
ただ、食べてうまいかどうか。
食べて体が喜んでいるかどうか。
それで決めれば良いじゃん、と私は思った。
いわば、「科学延々、直観一発」である。

もし体に悪いものを食べて 
美味しいと感じたり
体が喜んでいると感じたりしたら
その責任はあなたが取りなさいよ、というだけのことである。

または、
その話をしているその人自身が信頼できるかどうか
胡散(うさん)臭いかどうか
を直観で観抜いて決めるのもありかもしれない。

 

【例】コーヒーに利尿作用があると言われている。
暑い時期にコーヒーを飲むと却って利尿作用が進み脱水になりやすいから控えた方が良い、ということが言われる。
私は、例えば、通常1回150~200mlと言われる平均排尿量がコーヒー1杯を飲むことによって、どれくらい増えるのか、調べてみたくなった。
それが100ml増えるなら大変だが、10ml増しくらいなら大したことないじゃん、と思ったのである。
調べた結果見つけたのは、コーヒーを飲んだ前後での総体水分は、ただの水を飲んだ前後での総体水分と比べて差がない、ということが書かれた論文であった。

なんじゃ、そりゃ。
これもまた、関連論文を網羅して科学的に白黒つける「ホンモノの科学」的解決法もあるだろうが、どうも私には迂遠に思えてならない。
私としては、これからも自分の体に訊いてみて、飲むか飲まないかを決めてみようと思っている。
いやぁ、今日のコーヒーは格別に美味いなぁ。五臓六腑に染み渡るぜぇ。
それでもし自分の鈍感さのせいで脱水になったのだったら、自業自得で結構である。

 

 

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