八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

ランチ時に新宿の小さなお店に入った。
店内はまさに忙しさのピークで、お客さんでいっぱい。
水を運ぶ、オーダーを取る、料理を出す、レジを打つ、お皿を下げる、フロアを取り仕切っている一人の中年女性が忙(せわ)しげに店内を動き回っている。
その表情たるや、眉間に皺を寄せ、ピリピリした雰囲気が店内を支配している。
いつまで経っても席に案内されないので、勝手に空いている席を見つけて座る。
しかし、どれだけ待ってもオーダーを取りに来ない。
隣の席の客がシビレを切らせて、フロア係の女性に声をかける。
「お待ち下さいっ!」
イラついた声に怒気さえこもる。
これじゃあ、昼飯がまずくなると、私はそのまま席を立って店を出た。
そんな店もある。

また別の日、ランチ時に築地場外市場のある小さな店に入った。
これまた店内は忙しさのピークで、お客さんでいっぱいだ。
水を運ぶ、オーダーを取る、料理を出す、レジを打つ、お皿を下げる、フロアを取り仕切っている一人の中年女性が忙しげに店内を動き回っている。
ここまでの状況は前出の店とほぼ同じ。
しかし、ここからが違った。
どんなに忙しくても、この女性はにこやかなのだ。
さらにお客は、「御飯4分の3で。」「味噌汁、ネギ抜き。」「ソースだくだく。」など勝手な注文を次々つけて来る。
それに対して、「あんた、野菜喰わなきゃダメだよ。」「御飯、お代わり禁止だよ。」「昼からビール飲むんじゃない!」などと笑顔でジョークをかましながら、手と足を動かし続けている。
それなりの時間はかかったが、お蔭で非常に愉快な気持ちで昼食を取ることができた。

この二人を比べればわかる。
忙しさは気分とは関係ない。
1軒目の女性は、自分でイライラを作り出していたのであり(内なる“見張り番”に支配され、せっつかれている)、
2軒目の女性は、自分でイライラを作り出さなかったのである(内なる“見張り番”に支配されていない)。
状況はただ忙しいだけであり、やることは、その状況に対してただ一所懸命に働くだけのことである。
気分は関係ない。 

いや、どうにでもなる。

自分が忙しくなったとき、よくこのエピソードを思い出す。
市井(しせい)に師あり、である。
とても勉強になりました、はい。

 

 

「わたしたちは感じる力を持っているのですから、本当に心に響くもの、内から催すものに敏感に感じてほしいものです。私が『感じる力を育てる』という本を書いたのは、そういう微妙な、目に見えない催す力、とにかく我々を働かす大きなダイナミックな力が、この世の中に働いてこの世界が動いている。その力でこの宇宙で我々人間は生かされてる、という事をはっきりと考えていただきたかったからです。」(近藤章久講演『私達と世界のめざめ』より)

これはもう感じるか・感じないかのお話になるのですが、私が初めて近藤先生からこういうお話を伺ったとき、その頃はもちろんはっきりとそれを感じる体験などなかったにもかかわらず、それは絶対にそうだろうな、そういう力が働いているに決まっているだろうな、という“奇妙な確信”があったのです。
それは実は近藤先生にそう言われる前から私の中にあった“感覚”であり、近藤先生にはっきりと言語化していただいて初めて、そうそう、そうなんですよ、そうに決まってるんですよ、と私の意識上に上った気がします。
即ち、それもまた私を通して働く力によって、この世界を通して働く力によって、既に私の意識下にあったのであり、それがまた近藤先生を通して働く力によって、そしてこの世界を通して働く力によって、私の意識上に顕在化して来たと言えます。

このように書くと長々とした文章になってしまいますが、感じてしまえば一瞬なんです。
そしてそれが真実なんです、絶対に。
薄っぺらい科学的証明無用の、絶対的な体験の真実なのです。

そしてこういった体験もまた、「感じる力」が磨かれることによって、さらにまごうことなき強度の体験になって行くのだと私は確信しています。

 

 

かつて外来で診ていた若い女性。
しばらく受診が遠ざかってるな、と思ったら、ある日、不意にやって来た。
診察室に入って来た彼女の顔を見て、何か雰囲気変わったな、と思ったが、女性はちょっとしたメイクや髪形で雰囲気が変わることがよくあるので、さして気には留めていなかった。
しかし実際は、整形手術を受けて来たのだという。
眼と鼻と唇。
確かに綺麗に整っている(元々も美人なのだが)。
そして今一番の心配は、年を取ることだという。
今、二十代半ばだが、三十になるのが恐ろしい、年を取って醜くなるのが怖い、なんで皆平気で生きてられるのかわからない、三十歳を過ぎたら死のうかと思ってる。
私の眼を見ながら真顔で言うのである。

あのね、あなたは親に寄り添われずに育ったでしょ(実際にはひどい虐待を受けて育っていた)。
子どもは親に寄り添われないと、寄り添ってもらえないのは自分に価値がないからだと思うの。
そのままの自分に存在価値がなければ、整形手術でも受けて綺麗になって、せめて外面に存在価値を作るしかないじゃない。
でもそのやり方だと年を取って、美しさを失ったらおわりだよね。
運よく愛されて育つことのできた人は、自分の内面に、自分の存在に価値があると思えるの。
だから年を取って若い頃の美しさを失っても平気で生きて行ける。
あなたも自分の内面に、自分の存在に価値があると感じられるようになったら、年を取っても大丈夫だよ、と話した。

私は、例によって、何も考えずに話したのだが、驚くべきことに、その言葉が彼女の中にスッと入っって行った。
一瞬黙って俯(うつむ)いた彼女は、私の眼を見てこう言った。
「生きて行ける気がします。」
そして(そんなことをしたことのない彼女は)私に向かって合掌したのだ。
私に合掌をしてもらえるようなことは何もできないが、私を通して働いたものが彼女を救ってくれたのである。

そして水商売で働こうとしていた彼女に、
どこで働いても良いけど、私としては、あなたがあなたであることを大切に思ってくれる人たちの中で生きて行ってほしいと思う、と伝えた。

私は彼女を説得したわけじゃないんだよね。
理性的な説明だけで人は変わらないもの。
その証拠に、上記と同じセリフを言えば誰もが変わるわけじゃない。
そうでない何かが響いた、何かが届いたのである。
人が本当に変わるのはそんなときじゃないかと思う。

 

 

「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃(みの)の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰(もら)ってきて、山の炭焼き小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里(さと)へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小谷の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻(しき)りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢(ろう)に入れられた。
この親爺(おやじ)が六十近くになってから、特赦を受けて世の中に出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう。」
(柳田国男『山の人生』「山に埋もれたる人生あること」岩波文庫)

この文章は、昔、私のただ一人の畏友から教えられた。
そしてこの文章が、決して「気の毒」で「可哀想な」「悲しい」話ではないことを知った。
これが「美しい」話であることをあなたは感じたであろうか。
「くらくらとして」という言葉を選んだところに柳田国男の真骨頂がある。

後日、私はこの文章を近藤先生にお見せした。
師は黙って涙を流しておられた。
それが情緒的なべたべたした涙ではなく、霊的なさらさらとした涙であった。

情緒的には「悲しく」、霊的には「美しい」話である。

 

 

生きていればいろいろなことが起こる。
しかし時は常に流れ、「今ここ」のことが忽(たちま)ち「さっきあそこ」のことになって行く。
それでも物事に執着する我々の我は、いつまでも「さっきあそこ」のことにしがみつく。
それが「今ここ」を蝕(むしば)み、二度と返らぬ「今ここ」を刻々と台無しにして行く。

仏教では、摩拏羅(まぬら)尊者の言葉として
「心は万境に随(したが)って転ずるも、転ずる処(ところ)実に能(よ)く幽なり」
(心はあらゆる環境に随順して転変しながらも、その転変のしかたは何とも秘めやか)(入矢義高監修・古賀英彦編著『禅語辞典』思文閣出版)
が有名である(以前、引用した気がする)。
森田療法においてもしばしば引用される言葉である。

こんな難しい言葉を使わなくても、例えば、内田麟太郎の絵本『ともだちくるかな』(偕成社)の中でも、
オオカミによる
こころころころ、こころはころころかわるのだ
という名セリフがある。
DVD絵本も出ており、よくできている絵本なので、関心を持たれた方は読んで(観て)みていただきたい。

また、英語の諺(ことわざ)にも
A rolling stone gathers no moss.
(転石(てんせき)苔(こけ)むさず=転がる石に苔は生えない)
がある。
(御存知の通り、イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズの名前の出自である)
さまざまに解釈されているが、上記の意味に沿って考えると実に奥深い。
こころもまた常に転がっていないと苔が生えて来るのだ。

引用ついでに和歌をひとつ。
世の中を 何に譬(たと)へむ 朝ぼらけ 漕(こ)ぎ行く船の 跡の白波」(『拾遺和歌集』)(『万葉集』に本歌あり)
(世の中を何に譬えようか。夜明けに漕いで行く船跡の白波)
船が立てる白波が、立っては消え、立っては消えて行くわけである。
それが人生。

この真実は、身近な幼い子どもたちを見ていてもわかる。
健康な彼ら彼女らの心は実によく転じていて、後を引かない。
「今ここ」「今ここ」の連続である。

そういう心の本性を忘れてはならない。
心がよく転じないとき(過去にとらわれているとき、生育史にとらわれているとき)、それは心に苔がついているのかもしれない。

そしてまた、転じなくなった心を本来のありようにリセットするために、呼吸や祈りがある。
先人の智慧は、実に有り難いものだと思う。

 

 

「心が時々乱れるときがあるでしょう。そういうときには、ひとつ、自分の心を海の一番底だと思って下さい。で、あなたの上の方で、怒ったり、あるいは、イライラしたりするのは、風で波が騒いでいるようなイメージを持って下さい。だから、ああ、今、私の心は騒いでいる、それは事実なんです。騒いでいるのは騒いでいる。しかし、一番深いところに、私の、やっぱり、深いところでは、落ち着いたところがあるなってことが、自分で味わえるようになって下さい。そうなったら、とても楽になりますよ、と言います。」(近藤章久『心身平安への道』)

 

一番底。
それは我々の自我を超えた底。
そこから
自分の我を眺めるとき
相手の我を眺めるとき
ちょっと違って観えるんです。
ちょっと落ち着いて観えるんです。
そんな世界があるんです。
そんな境地があるんです。
こういうことをちょっと知っているかいないかで
対人援助の現場で働くとき
否、娑婆で働くとき
娑婆で生きるとき
何かがちょっと変わって来るんですよね。
なんだかちょっと楽になって
なんだかちょっと深くなって
なんだかちょっと大きくなって
あったかくなる。

そこに我々の我を超えた世界がある。
そのことを覚えておいて下さい。

 

 

昔、東京メトロ(地下鉄)の電車に乗車したら、男性の声で車内アナウンスが流れて来た
通常なら
「つぎは~、とらのもん(虎ノ門)~、とらのもん~。」
というところを
「あ、つぐぃはぁ~、は、とぅらぁのぅもぬぅ~、あ、とぅらぁのぅもぬぅぅぅ~。」(←精一杯表記してみたが実際はこんなもんではない)
というアナウンスが流れて、腰から崩れ落ちそうになった。
「何言ってんのか、全然わかんねーよ!
現在は、女性アナウンサーによる綺麗な録音音声になり、とても快適である。

そして先日、某電鉄の電車に乗車したら、男性の渋いバリトンの声で車内アナウンスが流れて来た。
今度はちゃんと聞き取れるのだが、完全に自分の声に酔いしれてしゃべっているのだ。
「つぎは~、〇〇~、〇〇~。」
と表記上は何の問題もないように見えるが、そのナルってる(=ナルシシストしてる)声の具合いが絶妙に気持ち悪く、思わず失禁しそうになった。
しかし事態はそれで終わらなかった。続いて英語アナウンスに入ったことで、これまた
「Next station is 〇〇~、〇〇~。」
と表記上は何の問題もないように見えるが、その独自の発音の上に、先のナルってる声の具合いが重なり、危うく脱糞しそうになった。
「フツーにしゃべれーっ!」

そして今日、某電鉄の電車に乗車したら、通常なら、
「間もなくドアが閉まります。閉まるドアにお気をつけ下さい。」
というところを
「間もなくドアが閉まります(←ここまでは良かった)。閉まるドアに…(段々声が小さくなる)……(おいっ!間が長いぞ!)……(急に聞き取れるかどうかの囁(ささや)き声になって)…気をつけて下しゃい。」
「車内アナウンスで囁くなっ! しかも何が『しゃい』だっ!」
お腹がヒクヒクして悶絶しそうになった。

鉄道勤務もいろいろあって大変なのかもしれないが、3人とも共通して言えるのは、自分の方を向いて(自分の世界で)仕事をしていることである。
乗客に貢献する仕事なのですから、聞かされるお客さんの身になって、お客さんの方を向いて仕事をしましょうね。
(尚、医療関係者における「どっち向いて、誰を向いて仕事してんだよ問題」についてはまたいつか触れるつもりである)

 

 

今日は新年度最初の「八雲勉強会」。
令和6年度4月から構成を変えて、(1)近藤先生の文献を使った精神療法に関するレクチャー(2)参加者による話題提供とディスカッションという(1)+(2)2本立てとした。
ついては(1)の内容として、まず「ホーナイ派の精神分析」を取り上げる。
今までもホーナイ全集をはじめ、いろいろな文献を取り上げて来たが、今回、折角よくまとまった文献を使うので、読者諸氏とも共有したいと思い、ここにその内容を掲載した。
非常に濃縮された文章であるが、ホーナイ派の精神分析に関心のある方々のご参考になれば幸いである。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)
 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

1.人間の成長 ー「真の自己」の実現

Freud(フロイド)正統派の伝統の中に育ち、褒貶(ほうへん)をものともせず心的現実への追求を果敢に行った Freud の態度に惜しみない尊敬をささげながら、Horney もまた Freud に劣らない厳正さで心的現実を直視し、患者との長い臨床経験と不断の自己分析の経験を検討することによって Freud と全く異った見解に到達した。
彼女の明るい洞察の眼は、人間の存在の中に、常に実現を求めて止まない成長と発展への衝動を発見し、その源泉として「真の自己(real self)の概念を定立(ていりつ)したのである。この様な成長と発展への能力は、あらゆる人間に存在し、その素質や環境に応じて、各々の独自性に輝きながら、各自の「真の自己」を実現して行くものなのである。
(あたか)も樫(かし)の実が大木に成長する可能性を何時もはらんでいる様に、人間は、常に「真の自己」を実現して行く能力を持っているのである。しかし、人間も生体として、他の生物がそうである様に、生長して行く為に良好な環境条件を必要とする。
人間は、自分の感情や考えを生かし、自分を表現し得る内的な自由と安全を与えてくれる、自己実現の為の暖い環境が必要なのである。人々も好意や、協力や、指導、忠告、激励等が、どんなに私達が成熟した安定した人間になる為に必要なことであろうか。
また私達には一方に、他の人々との意見の交換や競争やその他の健康な刺激が成長に必要でもある。この様な関係に於(おい)て、私達は相共に人間として共感し合いながら、それぞれ独自の成長を遂げる事が可能となるのである。

 

 

昨夜午後8時頃、路線バス内にスマホを落としてしまった。
あちゃー、やっちまった!と思っていたが、
朝一で路線担当の営業所に問い合わせてみたところ、お昼前には私の手元に戻って来た。
有り難や、有り難や。
紛失物をちゃんと届けて下さるこの国の倫理性の高さに感謝である。

思い起こせば、路線バス内にガラケーを落としたことは既に2回あったが(おいおい)、それはいずれも15年以上前のことであった。
その後、私のガラケー(その後スマホ)はチェーンでバッグに繋がれ、15年以上紛失はなかった。
しかし、落とし穴があった。
いつものバッグを持たずに外出するとき、スマホを上着のポケットに入れてしまったのである。
そこにチェーンはない!
従って、運転手さんの後ろのちょっと高い一人座席に座ったとき、いつの間にか、ポケットから擦り落ちてしまったのだ。
(ちなみにこれまでの携帯電話紛失3回は、いずれもこの同じ座席であった

例によって、私の『やらかし対策辞書』に「次から気をつけます」の文字はない。
気をつけてもヒューマンエラーは必ず起こる。
従って、気をつけなくてもエラーが起きないようなシステムを構築しなければ、万全の対策とは言えない。
よって今回を機に、スマホからスラックスのベルトにつながるチェーンを作成した。
これでいつものバッグを使わないときでも大丈夫である。
スマホは私のベルトから離れない。
(スマホポーチ(スマホショルダー、スマホポシェット)も考えたが、荷物はできるだけ増やしたくない)

そして、こういうエラー対策システム構築のアイデアは全て、自閉スペクトラム症や注意欠如多動性障害などの子どもたち・大人たちの臨床経験から学んだものである。
療育のアイデアはすべての人に応用できる。
やらかすときはやらかすが、タダでは起きない私であった。

お騒がせ致しました。

 

 

“治療”の面談場面においては
クライアントの「沈黙」には大きな意味がある。
それこそ、対人援助職に対するテスティングに使われることもあれば、
クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときである。
しかし「沈黙」に弱い対人援助職は、その「沈黙」に耐えられず、ついベラベラと薄っぺらなことをしゃべり、クライアントの不信と失望を招く。
対人援助職には、悠々と「沈黙」に付き合う力量が必要である。
但し、クライアントが何かこちら(対人援助職)から話して(声をかけて)もらいたくて「沈黙」しているときもある。それがわからずこちらも「沈黙」していれば、それはクライアントに苦痛しか与えない。

近藤先生のクライアントで、半年間ひと言もしゃべらなかった外国人女性がいた。
週1回50分の面談である。
師は全く困らず、クライアントを大きな気で包んで、スッとそこに座っていた。
そして半年後「ドクター近藤、おまえは信用できる。」と言って、彼女は話し始めた。
そんなことがある。

“成長”の面談場面においては
ほぼ「沈黙」は存在しない。
クライアントは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を持って来ているはずだもの、自分の成長課題や問題の話をするのに50分で足りるはずがない。
あれもこれも課題だらけ問題だらけのはずであるから。
私が近藤先生のところに通っていた頃もとても1回50分では足りなかった。
準備をしなくても話したいことが次から次へと出て来た。
(もし出て来ない人がいたら準備した方が良いかもしれない。時間がもったいない)

唯一の例外は、“治療”の面談場面と同じく、クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときであろうか。
そんなときは私もただ“沈黙”に付き合う。
こころの中で祈りながら。

 

 

「僕の、そのときの、聞き方、態度、そういうことで、ちゃんと患者はテストしてる、その間に。それで、この人は話してもいいかな、悪いかな、どの程度まで話すかな、というようなことを考えるんです。おかしいけどね、ここ(近藤クリニック)へ折角来てるんだから。だけども、そういうことが自然に起きちゃう、…そういうのを聞いてるうちに、ああ、これは安心できるな、と思ったら…話してくれます。」(近藤章久『心身平安への道』)

 

テスティング、試すこと、つまり、試されること。
サイコセラピーなんてやっていると、そんなことがしょっちゅう起こります。
でもね、そんなの今さら、取り繕ったって、演じたって、どうしてもバレちゃうんですよ、こっちの本音がね。
だから、どう思われるかに右往左往しないで、テストに合格するかしないかに一喜一憂しないで、ただこの自分で勝負するしかないんです。

本音が変わることを成長といいます。
自分が磨かれて行くんです。
そうなると本音がバレることが恐くなくなります。
なんたって、それが本音なんだもの。

そしてこれがサイコセラピー場面だけの話ではなく
あらゆる人間関係 ~ 親子、夫婦、恋人、友人、同僚、上司部下などなど ~ にも当てはまることがわかりますよね。
そうなんです。
いつもあなたの本音は、互いにそうとは知らないうちに、試されているのです。

 

 

ある和食店で食事をしていたとき、そこの板前さんが東南アジアの某国の日本料理店で働いていた頃のことをお客さんに話していた。
その店の厨房で洗い物をするために雇われていたのが中近東某国出身の若い女性たちであったが、これが全く仕事をしない。
ずっとしゃべっているか、スマホをいじっているのだという。
で、現地のシェフはどうするかというと、その子たちに向かって、耳をつんざくような声で怒鳴り倒し、恐怖によって仕事をさせていた。
それを見て、流石にそれはおかしいと思った板前さんは、できるだけ彼女らに優しく接してみたが、そうするとあからさまに舐めて来て、さらに仕事をしないのだという。
その態度に嫌気がさし、また彼女らに舐められている自分の姿を嘲笑的に眺めている周囲の視線も気になった板前さんは、意を決して大声で怒鳴り上げ、ゴミ箱を蹴りまくって威嚇したのだという。
そうすると確かに彼女たちは働いた。
しかし、そうこうするうちに、こんなことを続けていたら、人間が荒(すさ)んでしまう、と感じた板前さんは、早々に日本に帰国したのだそうだ。
聞くでもなく聞こえて来た話だが、この板前さんは人間として感覚がマトモな人だと思った。

しかし、宿題が残された。
そんなとき、あなたならどうするか。私ならどうするか。
優しくすれば舐められる。
かといって、恫喝するのは最も安易な方法である。

近藤先生の姿が浮かんだ。

「寛にして畏(おそ)れられ、厳にして愛せらる」(朱子『宋名臣言行録』)
 優しいのにおっかない。厳しいけれど皆から愛される。

極めて難しい道であり、到達するのに長い年月を要する道ではあるが、
それ以外に正解はないと思った。

 

 

 

皆さんは、「ニセ科学」というのを御存知だろうか?
「科学を装っているけれども、実は科学でないもの」
あるいは
「見かけは(科学に)よく似ていながら、内実は科学的でないもの」
を指し、「疑似科学」とか「トンデモ科学」とも呼ばれている。

最近では、新型コロナウイルス感染症について、ワクチンがどうの、マスクがどうのと、いろいろな「ニセ科学」が横行したことが記憶に新しい。

そしてもちろんこの「ニセ科学」に引っかからない=「真実」を掴むための対策としては、「ホンモノの科学」的検討が必要だ、ということで識者の意見は一致しているように見える。
(尚、「ニセ科学」について学びたい人には、この記事がよくまとまっていてわかりやすい)

今日私がお話したいのは、そこからの話で、その「真実」を掴むには「ホンモノの科学」しかないのかということである。

例えば、食べ物の〇〇が体に良い、という話がよくある。
食べ物の話は、ある意味、「ニセ科学」の宝庫であると言える。
〇〇は良い、□□が良い、という、ちょっと“怪しい”話は巷(ちまた)に溢れている。

私も昔、玄米菜食をやったことがあるが、その際、辟易したのが、「ニセ科学」で滔々と説明して来るその筋の人たちであった。
あるとき、有機栽培の蕎麦を使った手打ち蕎麦のイベントがあった。
参加した私はとても美味しい蕎麦を堪能し、非常に満足であったが、傍らで「ニセ科学」的効能を説く人たちには、新興宗教の説法を聞かされるようで、心底うんざりしていた。
すると、蕎麦を打ってくれたおじさんが(この人はただゲストで呼ばれた蕎麦打ちのおじさんである)
「難しいことはよくわかんないけど、この蕎麦、うまいよな。」
と言ったのが非常に明快であった。

その「ニセ科学」に対して「ホンモノの科学」のエヴィデンスを示して徹底的に論破しても良いのだけれど、
ただ、食べてうまいかどうか。
食べて体が喜んでいるかどうか。
それで決めれば良いじゃん、と私は思った。
いわば、「科学延々、直観一発」である。

もし体に悪いものを食べて 
美味しいと感じたり
体が喜んでいると感じたりしたら
その責任はあなたが取りなさいよ、というだけのことである。

または、
その話をしているその人自身が信頼できるかどうか
胡散(うさん)臭いかどうか
を直観で観抜いて決めるのもありかもしれない。

 

【例】コーヒーに利尿作用があると言われている。
暑い時期にコーヒーを飲むと却って利尿作用が進み脱水になりやすいから控えた方が良い、ということが言われる。
私は、例えば、通常1回150~200mlと言われる平均排尿量がコーヒー1杯を飲むことによって、どれくらい増えるのか、調べてみたくなった。
それが100ml増えるなら大変だが、10ml増しくらいなら大したことないじゃん、と思ったのである。
調べた結果見つけたのは、コーヒーを飲んだ前後での総体水分は、ただの水を飲んだ前後での総体水分と比べて差がない、ということが書かれた論文であった。

なんじゃ、そりゃ。
これもまた、関連論文を網羅して科学的に白黒つける「ホンモノの科学」的解決法もあるだろうが、どうも私には迂遠に思えてならない。
私としては、これからも自分の体に訊いてみて、飲むか飲まないかを決めてみようと思っている。
いやぁ、今日のコーヒーは格別に美味いなぁ。五臓六腑に染み渡るぜぇ。
それでもし自分の鈍感さのせいで脱水になったのだったら、自業自得で結構である。

 

 

「医学的に見ても、皮膚接触がない人間はダメなんです。人間の皮膚は神経と同じ細胞で形成されているのです。だから、皮膚感覚のことを触れ合いとも言うでしょう。皮膚感覚というのは非常にコンタクトなもので、心の触れ合いです。人間には触れ合いという感覚が大切なのです。」(近藤章久対談『人間を育む心』)

この文章を読んでいて、学生の頃習った発生学を思い出しました。
確かに、体の一番表面にある皮膚と体の一番奥にある脳神経系は、受精卵が細胞分裂することにによってできた胚の中の、同じ外胚葉から発生したものです。
そうすると皮膚感覚が特別な深さを持つのは当たり前ですね。

皆さんは普段からハグやタッチをしていますか?
親子はもちろん、パートナー同士でも、恋人同士でも、皮膚接触はとても大切です。
文化的に日本では皮膚接触する習慣がとても少ないように思います。

せめてあなたにとって大切な人とは、日常的に触れることをお勧めします。
(反対に、余り触れなくなったら(触れたくなくなったら)、それは心の距離が遠くなったのかもしれません)

以前、ある人が Phyllis K. Davis の絵本『Please Touch Me』を紹介してくれました。
(邦題『わたしにふれてください』訳:三砂ちづる 絵:葉祥明 大和出版)
触れることの大切さがそのまま描いてある本です。
関心のある方は読んでみて下さい。

(面談室の本棚にありますから、ご希望の方にはお見せしましょう)

そしてもし今、いろいろな事情から触れることのできる相手のいない方には、
可能ならば、ペットを撫でることもお勧めです。
勘の良い方なら、お気づきでしょう。
ペットの頭を撫でているあなたの手の平は、ペットの頭に撫でてもらっているのです。
また、泳いだり、温泉に入ったりすることもお勧めです。
肌を水やお湯で撫でられることは、脳を、いや、心を撫でられることでもありますから。

我々の五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の中では、触覚が一番深いところに届くものだと私は思っています。

 

 

最近、「人間の成長段階」には「四段階」あるんじゃないか、ということをつらつらと思っている。
と言っても、「成長段階」の切り口はさまざまあるので、以下はひとつの観方と思って読んでいただければと思う。

四段階の第一、
まず一番弱い人間というのは「服従」するしかない。
その背景に「恐怖」がある。
小さくて弱い子どもは、大きくて強い親に従うしかない。
いじめっ子にも、おっかない先生にも従うしかない。
権力を振るう上司、経営者にも従うしかないのである。
そうやってなんとかかんとか生き延びる。

四段階の第二、
これがもう少し強くなって来ると、「服従」するのがイヤで「逃避」するようになる。
「逃避」は不服従であり、「怒り」の芽でもある。
できるだけイヤなヤツに会わないようにする。
家出する。
不登校になる。
ひきこもる。
出社拒否する。休職、退職、転職する。
「逃避」する方が「服従」するよりはマシである。

四段階の第三、
そしてもう少し強くなって来ると、「反撃」に出るようになる。
そこには明らかな「怒り」がある。
口答えする。
押し返す。

必要とあらば、手が出る、足が出る(暴力は勧めないが)。
言わば、いつでも刀が抜ける、という状態になる。
「反撃」できる方が「逃避」するよりも強い。
その上さらに経済的、精神的に自立できるようになれば、完全自由は近い。

「服従」→「逃避」→「反撃」、通常はここまでで十分であり、外圧をブッ飛ばして自分を生きるこができるようになる。
しかし、これで終わりではない。
それから先もある。

四段階の第四、
それは敵対すべき相手を「愛する」あるいは「育てる」ことである。
これは並大抵のことではない。
そもそも人間業(わざ)では無理だと思う。
そういうミッションを与えられなければ無理だと思う。
人間を超えた働きがないと無理だと思う。
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(『新約聖書』)とは、やはり神業なのだ。
だからそれに続いて「これ天にいます汝らの父の子とならん為なり」となる。
「父の子」でないと無理なのだ。

それでも、「愛」という四段階目もあるのだな、ということを頭の隅に覚えておいていただきたい、と思う。
 


 

本日で松田精神療法事務所から八雲総合研究所に法人化して満13年になる。
ここまでお役目を務めさせていただいたのも、つくづく有り難いことだと思う。
振り返れば、私の人生にも何度かの大きな転機があったが、いつも絶対の自信や確信があって新たな道に踏み出したわけではない。
その度に、これがミッションであれば続くだろうし、ミッションでなければ続かないだろうな、と思いながらやって来た。
実際にピンチがなかったわけではないが、その度に、何とも言えない“救いの手”が予想外の方向から差し出されて、乗り越えることができた。
ミッションに沿ったことをやっていれば、守られるのかな、とも思った。
しかし、思い通りに行くことだけがミッションではないことも知っている。
私自身の成長のために、艱難辛苦が与えられることもあるであろう。
それも甘受するしかない。
それでも、もうしばらくは、縁ある“あなた”に出逢って面談できる歓喜(よろこび)を味あわせていただきたいと願う。
今面談している方々も、これから面談するであろう方々も、どうぞ宜しくお願い致します。
合掌礼拝

 

 

仕事の時間はできるだけ短く  
自分の時間はできるだけ長くしたいという。
しかも 
友だちは、いらない。 
恋人も、いらない。
パートナー、いらない。
ましてや、子どももいらない。
すべて面倒くさいのだそうだ。
最近そういう人が増えているのだという。

何のことはない、そういう人は利己的なのである。
自分だけの、小さな安心のテリトリーを確保して、自分のためだけに時間もお金もエネルギーも使いたいのである。

仕事をするのも
友だちと付き合うのも
恋人と付き合うのも
パートナーと暮らすのも
子どもを育てるのも
確かに面倒くさいことである。

しかし、その面倒くさいことを、利己的ではなく、利他的にやれるようになって初めて人間として成熟したと言える。
縁あって出逢った人の成長に貢献し、またそれが自分自身の成長にもつながる。
人類が二人以上いることの意味は、そういうところにある。

誤解しないでいただきたい。
「利他的にならなければいけない」と言っているのではない。
「いけない」のではなくて、人間が成熟すると、利他的に「なる」んだよね、あなたを通して働く力によって、自ずと。
そしてそこになんとも言えない、深い歓喜(よろこび)が生まれる。

そもそも我々人類に与えらえたミッションは何なのかについて、思いを致してみようよ。

 

 

「その成功というのは、数学で計算された企(たくら)みと謀略とか裏切りとかで成り立っているもので、いわば『後ろ暗い成功』なのです。」(近藤章久対談『人間を育む心』)

「私はよく『成功した神経症』という言葉を使います。現代は大人の世界を見ても自我中心主義で、自分本位、つまり簡単に言ってしまえば、我がままで、自分の思うがままに出来ればそれでいいのです。そうして、その目的は何かというと…政治的な権力もあれば、経済的な金力もあり、地位や名声という権威の力もある。そういうものに成功したとすると、自分では社会的にも人間として非常な成功をしたと思ってしまう。…しかしその成功というのは、数学で計算された企(たくら)みと謀略とか裏切りとかで成り立っているもので、いわば『後ろ暗い成功』なのです。昔は後ろ暗いという言葉を本人もある程度分かっていて通用しましたが、今ではそれが当たり前になってしまっていますね。逆の言い方をすると、陰のない人間は、薄っぺらな人間だとも言えます。そういう薄っぺらな人間が大人の世界で増え、全般的になった。…どうも人間が深くなるどころか浅くなって来ているように思えてならないのです。

この「後ろ暗さ」の自覚を決して否定的にのみとらえず、そこに人間としての「深さ」を見い出しているところは流石、近藤先生だと思います。
どこかで馬鹿らしい、くだらない、汚ならしいと思いながらも、権力や金や地位、名声を求め、それが手に入るとつい喜んでしまう自分というものに対しての偽らざる自覚。
それが人間としての「深さ」をもたらすことがあるということ。

だからこそ近藤先生は、同じ対談の中で子どもたちの「不登校」を取り上げた際に、子どもと父親との関係について、
「父親の場合には、会社や社会の価値観に屈しながら、いろいろなことをやらされていますね。その中で、いろんなことを見せられたり、苦しみもあるわけです。しかし、そのことを家族の前では普通は何一つ言いません。…父親も彼なりに必要悪の中で苦しんでいるんだ、社会の価値観の中で苦しんだり悩んだりしているんだということが、今度は子どもに通じますと、子どもとの関係でいろんなことに役立つと思うのです。そうすると、自分の父親に対して抱いていた反感もなくなってくるし、ああ父親も何も言わないけど苦しんでいるんだという気にもなってきて、子どもも今までとは別の見方が出来るようになりますよね。」

私が常々申し上げている「情けなさの自覚」は、もちろんそれを乗り超えて成長して行くためのものでありますが、
それは、それ以前に、人間の持つ「弱さ」「愚かさ」「ずるさ」をそのままに認める「後ろ暗さ、後ろめたさの自覚」でもあり、その自覚が人間に「深さ」や「陰」をもたらす、ということも知っておいていただきたいと思います。

 

 

「ひとり暮らしの人へ」と言っても、別に、結婚しろとか、同棲しろ、誰かと暮らせ、という話ではない。
同居によって、却って自分が自分でいにくくなるのであれば、ひとり暮らしの方が余程せいせいするというものである。
マイナスを逃れてゼロに至るためには、ひとり暮らしはとても良いものであると言える。

しかし、ひとり暮らしの短所としては、やはり「寂しさ」と「話し相手がいないために同じこと(悩み)が頭の中を何度もグルグル回ってしまうこと」であろうか。
中には、寂しさを紛らわせるために結婚や同棲を選ぶ人もいるが、その惨憺たる結果については、よく御存知の通りである。
結婚や同棲でなくても、趣味とか同好のことを通じて集うだけでも、寂しさはある程度、解消される。
また、ただ話すことで、ただ聞いてもらえることで、消えてなくなる悩みは確かに少なくない。
けれど、そのために同居までする必要はない。
そういうことを話せる相手を別に得れば良いというだけのことである。

私はゼロがプラスにならなければ同居の甲斐はない、と思っている。
一緒にいることで、私がより私でいられて、あなたがよりあなたでいられる。
そこに安心と愛と成長がある。
そういう場所を「ホーム」というのである。
そうであるならば、ふたり(
以上)暮らしは、とてもお勧めである。

え? 幸か不幸か、もうふたり(以上)暮らしをしてるって? しかも諸々の問題があると。
それならば、あなたが出て行くか、あなた以外の人に出て行ってもらい、ひとり暮らしにする方法もあるが、
今のその場所が、私がより私でいられて、あなたがよりあなたでいられる場所になるように努力してみるのも現実的な選択肢である。
縁は異なもの味なもの、実はそのための出逢いだったのかもしれないから。

結局のところ、ひとり暮らしか、ふたり(以上)暮らしかという話ではなく、ずべての人が今回の人生でちゃんと自分を生き、自分に与えられた意味と役割を果たすか否か、という話になるのであった。

 

 

基本的に人類全員に問題があると(「問題」と言って語弊があれば「成長課題」と言ってもいい)私は思っている。

臨床においては
彼ら彼女らは苦しんでいる。
だから、その問題/成長課題について真剣な話ができる。
ヒリヒリとしたやりとりにやりがいを感じる。

成長においては(八雲総合研究所においては)
彼ら彼女らは求めている。
だから、その問題/成長課題について本気の話ができる。 
真っ直ぐに向き合ったやりとりにミッションを感じる。

それ以外の場面で接するフツーの人は
すぐに彼ら彼女らの問題/成長課題、山積みなのが観通せてしまうのだが
その鈍感さ、独善性、厚顔無恥さに辟易(へきえき)して来る。
5分で疲れる。
やっぱり一番重いんだよな。
そしてまだ彼ら彼女らには余裕があるんだよね。
それでも少なくとも、老いる苦しみ、病気を与えられる苦しみ、死ぬ苦しみは、万人に与えられている。
本当に苦しんでから、本当に求めるようになってから、話しましょ、と言うしかない。

というようなわけで、フツーの人との交流が最も少ない私です。
人間好きなんだけどなぁ。
最低限の社交以外に噛み合う話題がないんだからしょうがないのでありました。

 

 

 

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医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。