八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

たまに一人で外食をすることがある。
食べるものにそんなにこだわりがある方ではないので、何が食べたいかというよりは一人で気軽に食べられる雰囲気の店を選ぶことが多い。

大抵は大丈夫なのだが、間違ってカウンターしか席が空いてない店に入ったりすると、マスターやら近くの席のひとり客から話しかけられることが多い。
なんだか知らないけれど、ちょいちょい話しかけられる。
職業柄、話しかけやすいというのは悪いことではないのだろうが、時と場合による。
特に孤独なお父さんや寂しいおばあさんから話しかけられることが多い気がする。
そして私の場合、仕事とプライベートでオンとオフを使い分けるような作為的な生き方をしていないので、そんなちょっとした雑談くらいでも、相手が観えてしまうから困ったことになる。
本人が気づいていないいろんな問題や生育史までもが観える。
観えてしまうものは仕方がない。
これが、昔だったら、筋金入りの聞き上手となり、相手が泣いて喜ぶくらいの相槌を打って差し上げることもできるのだが、とうに相手の主観的満足(我(神経症的自我)の満足)に沿う生き方はやめてしまったので、ご期待には沿えませぬ。
かといって、頼まれてもいないのに、相手の問題点を指摘するわけにもいかず、やがて会話は途切れ、沈黙が支配することになる。

やっぱり自分には、本気で自分と向き合って成長しようとする人以外とは話すことがないな、とつくづく思う。
そういう人は人類のほんの一部なのだけれど、私の毎日がそんな人たちとの面談で回っているという事実は、なんと幸せなのだろうと思わないではいられない。
まあまあ、八十億も人間がいるのだから、一人くらいこんな変わった人間がミッションを果たさせてもらっても良いだろうと思う。

だから
ヒマな人、話しかけないでね。
求めてる人、話しかけてね。
である。

 

 

時々講義の夢を見る。
講義の夢と言っても、なかなか講義する教室に辿り着けないという夢である。
駅に着けない、駅に着いても乗りたい電車が見つからない、乗ってもおかしなところに連れて行かれる、開講時間が刻々と迫って来る、という夢が多い。
私が私に与えられたミッションを果たして行くのに、なかなか望ましい環境が与えられない、いろいろと阻(はば)んで来るものがある、という私のこれまでの体験と実感を反映している夢だと自己分析している。

しかし、それだけだと悪夢の一種のようになってしまうが、その夢の中にも大きな希望がある。
というのは、夢の中で私の講義に向かう学生たちに出逢うと、みんな私の講義に対して大きな希望と期待を抱いていてくれているのだ。
そしてたまに教室に辿り着き、講義を始めることができると、教壇を見つめる学生たちの澄んだ眼差しがキラキラと輝いている。
これは私の現実体験と一致する。
そして、絶対にこの期待と信頼に応えなければならないという気持ちが湧き起こり、夢の中では不思議なことに、その期待と信頼に応える講義をする絶対の自信があるのだ。
これは全く揺るがない。
自分はそんなに自信家でも自我肥大的でもないと思うのだが、「私の」自信というより「天から授かる」自信であり、その意味ではこれは「自らを信じられる」という自信ではなく、「自ずから信じられる」という自信なのだ。

でもね、これはやっぱり「求める学生たち」がいてくれないと成立しないのだよ。
学生たちを貫いて働く「成長させようとする力」、そして、私を貫いて働く「成長させようとする力」、それが相俟って現成(げんじょう)する世界があるのだ。
それがたまらない。

そんな光景を、文字通り、夢見ながら、あの教え子たちの成長を、今も、これからも、ずっと願っている。
いつまでもあの眼差しでいてくれよ。
そうすれば成長の機会はこの世界に満ちている。

 

 

「男の人は、ふつう男は涙を流すものでは無いというところがありますが、しかしいったん涙を流すときは自分の腹から出たことを言います。だから男の涙は割合信頼できるけれども、女の涙はあまり信用できないときもあります。…
特に若い男性のセラピストなんか、女性のクライエントに泣かれちゃうとどうしていいかわからなくなっちゃって、つい相手の感情に巻かれて虜になります。そういう例が少なくない、若い男性の非常に弱い所だから、こういうときは距離を保つということに気を付けることです。それに対して女性のカウンセラーは、女性のクライエントが涙を流したときに割合だまされない、いわば距離が取れます。自分の経験からもわかっているのでしょう。しかし距離は取れるけれど扱いかねて、そこでただアアといって次に言う言葉を失ってしまうことがあります。そういうときにカウンセラーにお願いしたいのは『あなたの泣く気持ちはよくわかります。だけど今はどんな気持ちだったんですか、どんな感じだったので泣いたのですか』ともう一度クライエントを『認識する自我』に返してあげることが必要だと思います。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

私が八雲に通い始めた頃、近藤先生から直(じか)に「若い女性の涙には気をつけるんだよ、松田くん。」と言われたことがありますが、「何に気をつけるんだろう。」と思っていました。幸い私は女性の使う「可哀想な私」にまるっきり引っかからない性質(たち)でしたので、その後も事なきを得ました(←どういう“事”があるっちゅうんじゃ)。
今回の近藤先生の言葉は、「若手向け」のものですので、少し解説が必要でしょう。
きちんとしたトレーニングを受けた敏感なセラピストであれば、若い女性クライエントの涙の中に、依存や陽性転移や無意識の(時に意識的な)罠(巻き込み)があることをすぐに観抜ける、感じ取れるのですが、
まだ若い(特にまだなって十年未満の)男性セラピストですと、簡単に引っかかったり、混乱させられたりすることが起きがちです。
まだ感じ取れないのですから、まずは意識的に、物理的、心理的な「距離を取る」のが一番無難ということになるでしょう。
また、きちんとしたトレーニングを受けた敏感なセラピストであれば、クライエントの涙の出どころを観抜き、また、今このクライエントがどこまでそれを内省できるかを観抜く、感じ取ることも難しくないでしょうが、
まだ若いセラピストであれば、とてもそこまでは観抜けませんので、感情の表出を「『認識する自我』に返してあげる」という「やり方」を行うことが無難ということになると思います。

「距離を取る」「『認識する自我』に返してあげる」などという言葉は、近藤先生は通常おっしゃられない、若手向けのアドバイスですので、そこのところを誤解なきように汲み取っていただければと思います。
セラピストがきちんとしたトレーニングを受けて、「感じる力」が磨かれて来れば、「距離を取る」や「『認識する自我』に返してあげる」という「やり方」を離れて、もっと自由自在なセラピーになって行きます。
しかしそのためには、長年の(やっぱり十年はかかるでしょうか)トレーニングが必要なのです。

 

 

本年3月13日付けの小欄において『対面面談の際のマスク着用の自由化およびリモート面談の継続について[最新報]』をお知らせしました。
そして、2024(令和6)年4月1日から厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対応も新たなフェーズに入ったことに伴い、

【1】2024(令和6)年4月1日から
当研究所における入室時のアルコール手指消毒
当研究所における対面面談の際のマスク着用
来談者の自由(してもしなくてもOK)として来ました。
これらについては、2024(令和6)年7月2日以降も継続と致します。
但し、風邪などを引かれている場合、咳、くしゃみなどの症状がある場合には、コロナ前と同じく、マスクを着用されるか、病状により面談日時を変更されるかをお願い致します。
尚、私(松田)自身は、今しばらくマスク着用を継続するつもりです。
また、7月28日(日)開催予定の『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』におきましても同様に、マスク着用するか否かは、参加者の自由(してもしなくてもOK)と致します。

【2】現在、Skype、Zoom、Facetime などでリモート面談を行っている方々につきましては、2024(令和6)年7月2日以降も引き続き、Skype、Zoom、Facetime などのリモート面談の利用継続可能と致します。
新型コロナウイルス感染症拡大が落ち着けば、リモート面談の利用継続可能を続けながら、「1年に1回は八雲総合研究所に来所いただき、対面面談を行う」こととする予定ですが、
新型コロナウイルス感染症拡大状況は、残念ながら、現在も実質上、第11波(専門家によっては「夏の波」)の拡大に入っているようですので、これも延期とし、新型コロナウイルス感染症拡大状況の推移を見守りたいと思っています。

以上、どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

本年6月14日(金)付けの小欄で予告していたように、当研究所の「人間的成長のための精神療法」の「対象」を本日7月1日(月)付けで「一般市民」まで拡大することとした。
ようやくホームページおよびフォームなどの改訂が終了したので、ここにお伝えする。

 

変更点については、特に以下のホームページをご覧あれ。

「八雲総合研究所で行っていること」

「人間的成長のための精神療法のお申し込みを検討されている方」

 

ホームページ更新再開後、この1年のご要望に沿うため、約5年ぶりの「一般市民」対象の復活である。

従来の医療・福祉系国家資格者(精神科医、臨床心理士、正看護師、作業療法士、社会福祉士、精神保健福祉士)を「グループA」、一般市民を「グループX」にグループ分けし、「人間的成長のための精神療法」の申し込みを受け付ける。

 

先にも書いた通り、現在、当研究所の面談を受けている方々は、医療・福祉系国家資格者が約6割、それ以外の方が約4割を占める。
後者は約5年前に「対象」を「医療・福祉系国家資格者」に限定する前から面談を続けられている方々で、ということは、最低でも5年以上、面談に通われていることになる。
かように熱心な方々が多く、その「情けなさの自覚」や「成長への意欲」においては、医療・福祉系国家資格者と差はなく(元よりあるはずがない)、私としても非常に嬉しく、かつ、頼もしく思っている。

だからこそ、どこまでいっても、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」は絶対条件なのだ。

 

そしていつも原点に戻る。
そもそも何のために八雲総合研究所を作ったのか(その前身の松田精神療法事務所を作ったのか)。
私の今生でのミッションは何なのか。

何をやって生きて死ぬのか。

世俗的名利に踊る人生を送る気はない。

縁あって出逢った方々の人間的成長に関わることこそが私のミッションである。

いつもそこに戻って、目の前のやることを決めて行く。

 

さてこれから、どんなあなたに逢えるだろうか。

 

 

 

…と昨日で話は終わりではない。
長くなっても書かなければならない続きがある。

南無阿弥陀仏で「自我」を捨て、阿弥陀におまかせするところまでは書いた。
それで「山」を越えることについても書いた。

で、お気づきであろう。
それって、凡夫の方から「山」を越える話なのである。
改めて『山越阿弥陀図』を見る。
そうではなくて、阿弥陀の方から「山」を越えて来て下さっている。

ああ、そうだったのか、と嘆息する他ない。
自分から「山」を越えることのできない、「自我」を捨てることのできない、このバカのために、このクズのために、この凡夫のために、阿弥陀の方から「山」を越えてまで、迎えに来て下さっているのである。

我々の「自我」を超えた救いの働きを、一方的に、全く途切れることなく、永遠に与え続けていて下さっている、こっちがどんなにポンコツでアンポンタンであっても。

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
(親鸞『正像末浄土和讃』)

そのダイナミックな働きを表しているのが『山越阿弥陀図』の真意である(と私は思う)。

よって私は断言する。
『山越阿弥陀図』は静止画ではない。
動いて観えなければならないのである。

 

 

『山越阿弥陀図(やまごえ/やまごしあみだず)』を御存知だろうか。
凡夫が往生の際、阿弥陀仏が観音菩薩や勢至菩薩などを従え、極楽浄土から山を越えて往生者を迎えに来る、という場面を描いたものである。
(先日、東京国立博物館で開催された『法然と極楽浄土』でも『山越阿弥陀図』が展示されたが、検索されればいくつかの種類のものを見ることができる)。

で、まず、私が気になったのは、越えて来る「山」とは何かということである。
確かに、仏教伝来以前から山岳信仰のある我が国においては、「山上他界観」という伝統があり、阿弥陀が他界(極楽浄土)に向かう死者を待ち受けているという解釈は一理あると思う。
しかし、それはやはり「解釈」であり、「理」なのだ。
よくできているが、そこには、真に煩悩に苦しみ、念仏した者でなければわからない「体験」がない。

で、改めて、念仏して越える「山」とは一体何なのだろうか

念仏=南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に自分を投げ出すということである。
そこに越えるべき「山」がある。
即ち、自分を、「自我」を捨てなければ「山」は越えられないのだ。
「自我」という「山」がそこに立ちはだかっている。
従って、「自我」を捨てて初めて、自分を救う力=阿弥陀仏に包摂され、極楽浄土に迎え取られることになる。

いやいや、さらに言うならば、そのとき初めて、実は自分が無始以来既に救われており、極楽浄土にいたことに気づく。
越えてみれば、元々「山」はなかったのである。
これが「体験」によってわかる。
それが「山越阿弥陀図」の「山」の示すところなのだ(と私は思う)。

しかし残念ながら、凡夫の前には、高い高い「山」が現前する。
我々凡夫の「自我」は相当にしぶとい。
これをどないせえっちゅうんじゃ。
やっぱり凡夫のできることは、助けて下さい、と念仏するしかないのである。

 

 

認知症の中に、前頭側頭型認知症という疾患がある。
さまざまな症状があるが、特に抑制欠如(自制心や羞恥心を欠く言動、道徳感情の低下など)や反社会的行動(性的逸脱行動、万引きなど)を引き起こす人格変化で知られ、対応はなかなか大変である。
ある文献に「それでもどこか憎めないところがある」と書いてあったが、日々対応と謝罪に振り回されていたある妻は「憎めます。」とはっきりおっしゃった。

また、発達障害の中に、注意欠如多動症(AD/HD)という疾患がある。
その中でも、多動-衝動性が優勢なタイプは、離席、飛び出し、走り回り、高い所に上り、しゃべり続け、順番が待てないなど、じっとしていないため、目が離せず、対応はなかなか大変である。
これまたある文献に「それでも子どものやることなので憎めない」と書いてあったが、日々対応と謝罪に追われていたあるお母さんは「憎めます。」と涙ながらにおっしゃった。

これは障害のある大人/子どもについてだけの話ではない。
あなたの身近な大切な人のことを思い浮かべてみよう。
憎めるところは本当に皆無だろうか。
絶対に永遠に微塵もないと言えるだろうか。

ここでもう一度思い出してみよう、人間存在の二重構造を。
人間存在の表面を、このような症状、そして症状でなくてもその人が生育史の中で身に着けたろくでもない思考パターンや言動パターンが覆っている。
それらはなかなかに大変なものである。
よって、それらに基づく言動は、憎める。むかつく。十分に憎々しいと言える。
抑圧や偽善を使うか、あるいは、余程鈍感でない限り、憎めて当然である。

しかし、人間存在はそれだけではない。
二重構造の奥、人間存在の根底には、大切な生命(いのち)がある。
それは単なる生物学的な生命ではなく、その人を存在せしめる働きの源としての生命(いのち)である。
これは無条件に尊い。絶対的に尊い。とても憎めるものではない。
だから、前頭側頭型認知症の夫や注意欠如多動症の息子の寝顔を見たとき(寝ているときはその症状には苦しめられない)、あんなに怒った自分がイヤになり、ついその寝顔に手を合わせて謝ったりするのである。

つまり、人間存在の表面はどこまでも憎め、人間存在の根底はどこまでも尊い=憎めない、これが両立するのである。
ここを押さえておかないと、よく見かける負のループに陥る。
即ち、毎晩、寝顔を見ながら、ああ、明日こそは怒るまい、と誓いながら、やっぱり翌日も怒ってしまい、自責の念に苛まれる。
怒るまいと誓うことが無理なんです。
何故なら、存在の表面の問題はなくならないから、怒るネタは尽きません。
それよりも、怒ってかまわないから、憎んでかまわないから、ちゃんと存在の根底に対して、手を合わせて頭を下げましょう。
それしかないんです。

だから
憎めるけど憎めない。

むかつくけど尊い。
それが人間存在の実相。
だから(その存在の表面を)憎んでいいんですよ。
でも必ず(その存在の根底に対して)手を合わせて拝みましょうね。

 

 

三省」という言葉がある。
『論語』の中で、孔子の弟子の曾子(そうじ)が、一日のうちに三回反省した、という話から来ている。

「曾子曰(のたま)わく、吾(われ)、日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為めに謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。」
(曾先生がいわれた。「私は毎日三回、自己反省する。他人の相談に、まごころをこめて乗ってやらなかったのではないか。友だちとの交際に、約束をたがえたのではないか。先生に教わったことを、じゅうぶん復習せずに君たちに教えてしまったのではないか」)(貝塚茂樹訳注『論語』中公文庫)

前々から思っていたことであるが、『論語』の中に収められている言葉のうち、孔子の言葉と孔子の弟子たちの言葉とでは明らかな“格”の違いがある。
個人的には『論語』は、孔子の言葉だけで良いんじゃないかと思っている。
この「三省」などは、その良い例で、一日三回、意図的に、気をつけて、反省する、というのであるから、結局は、反省したいことしか反省せず、一番反省した方が良い“痛い”ところは、無意識に回避されることは、火を見るより明らかである。
その上に、自分は一日に三回も自らを反省=自省している、なんて謙虚なんだろう、という“不遜な”自負も生じやすい。

確かに、「三省」もしないよりはした方がマシであろうが、本当の自省はそんなものではない。
そもそも「自省」は、「自(みずか)らを省みる」のではなく、「自(おの)ずから省みる」と訓(よ)む。
自力で内省するのでなく、他力によって内省させられるのである。
そういう内省は深い。しかも的を射ている。
どんなに痛いところも、容赦なく内省させられることになる。
それこそが本当の内省である。
そして、成長することができる。
そう。
他力によって内省させられるということは、他力によって成長させていただけるということなのだ。
これを儒教風に言うと、他力ではなく、天の力と言えば良いのだろうか。

そして、自ずから内省させていただき、自ずから成長させていただくにはどうしたら良いのだろうか。
それは既にお伝えしているはずだ。

 

 

「頭で解釈して理論的にわかると、万事がわかったような感じになる。これはまあだいたいが日本の教育は頭でわかって答案を書けば、それで百点くれるんだから、それはそれでいいんでしょうけれど、分析だけはそうはいかない。カウンセリングも同じことだけれど、頭でわかってもうまくいかない。『わかっちゃいるけどやめられない』という言葉があります。たばこの悪いのはわかっているけどやめられない、ということがあるでしょう。理性によってそんなに自由に感情をコントロールできないものです。実は私は毎日タバコ6箱くらい吸っていたのですが、あるとき急に嫌になり止めてしまいました。皆私のことを意志が強いと言うのですけれど、実は意志なんかちっとも関係ないんです。ただ私の身体が嫌だと思っているのです。頭の方より、体の方が嫌だ嫌だって言っているのだから、どうしたってタバコを手に取る気がしないんです。つまりどういうことかと言うと、私たちの無意識はそれ程強いということです。むしろ私の場合は無意識で生きる方が大半なのです。そして一般的に分析では、無意識を意識によってコントロールして生きることが成熟した態度であると言うわけです。ただ無意識で生きるというのは大人らしくないということを言います。しかしタバコの例について言いますと、私はああ嫌だと強く感じた。たしかに無意識からの声ですが、これは私の正しい声だ、本当の声だと感じたからで、肺癌になったり体に悪いから止めなさいと言うのでは止めなかったのです。本当に止めたい、腹から止めたいと言うから止められたのです。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

昔、アロンアルファと屁理屈はどこへでもくっつく、と言ったことがあるが、少なくとも、人間のこころに関しては、頭や理屈はあまり当てにはならない。
昔から「理に落ちる」と言って、理性ではいくらでもそれらしいことを滔々(とうとう)と語れるが、実際に患者さんが治らない、症状が一向に良くならない、ということがよく起こって来る。
そんなんじゃあ、精神分析もカウンセリングも、屁のつっぱりにもならない。
人間の実相を掴み、その成長に資するためには、自他の体の声についても、無意識の声についても、それらをちゃんとキャッチする“感じる力”が必要なのだ。
近藤先生は自らの無意識の声を聴き、その働きに従ったからこそ、「喫煙をやめた」のではなく「喫煙がやんだ」のである。
先生が逝去された後、有り難いことに、私にも同じ体験が起こった。
私も喫煙歴が25年くらいあったが、ある日、ふっと喫煙がやんだのである。
私は自分の意志薄弱には自信があるので、自分の意志ではやめられないと確信していた。
それがある日、ふと吸いたくなくなったのである。
以来、1本も吸っていない。何の我慢もしていない。
そのとき、近藤先生に起きたことが、自分なんかにも起きるんだなぁ、と思ったのを覚えている。
今思えば、自分「なんか」は余計であった。
確かに私自身は、どうしようもないポンコツのアンポンタンだが、私の無意識を貫いて働く力は、近藤先生のそれと同じく、とてもとても尊く、勁いのであった。

 

 

まだ精神保健福祉士どころか、社会福祉士の国家資格もなかった頃、精神科病院でワーカーをやっている人たちと言えば、なかなかエッジの効いた“人物”が多かった。
資格もなく、診療報酬への直接貢献もなかったにもかかわらず、誰よりも患者さん、メンバーさんの方を向き、“志”と“誇り”を持って精力的に動いている人が多かった印象がある。

しかし時代は下り、精神医療福祉保健機関の中で、特に精神科病院の中では、医師を頂点としたヒエラルヒーができやすく、いつの間にか、医師以外のスタッフは para-medical と呼ばれて、その他大勢扱いになりがちであった。
そしてその傾向は、co-medical と呼ばれるようになっても(幾分薄まったかもしれないが)、まだ続いているように思う。
けれど実際には、いくら祭り上げられても医師というだけで全体をまとめ上げる力があるはずもなく(たまにはいたかもしれないが)、チーム全体が迷走状態に陥りがちであった。

しかし改めて、医療、福祉、保健分野の構造を見直してみると、中心となって働くべきは、車輪の軸となるべきは、ワーカーなんじゃないかと私は思っている。
あくまで患者さん、メンバーさんを中心に、あらゆる関連職種、あらゆる関連機関、社会資源の組み合わせを考え、コーディネートし、リードして行くには絶好の立ち位置にいると言える。
そうなって来ると、要求されるのは、それに相応しい“力量”と“人望”だ。
それがあれば、〇〇さんにひとつまかせてみよう、〇〇さんが言うんならそうだろう、という機運が生まれ、全体の力がひとつにまとまって行く。
(そうなって来ると、医師がチームの中心となってコケて来た歴史は、医師であったためではなく、その人に“力量”と“人望”がなかったせいかもしれない)

そして、“力量”と“人望”と言っても、“力量”の方は知識と技術と経験年数である程度はなんとかなるかもしれないが、“人望”となると求められるのはやはり人格である。
人格陶冶、即ち、人間としての成長、成熟がないと、なかなか周囲からの“人望”は得られない。
で、どうするか、となると、ここでもまた、ちゃんとした先達から、ちゃんとしたトレーニングを、知識・技術だけではない人間としての成長のトレーニングを受けることを大いに勧めたい、ということになる。

私も医師の端くれなので、〇〇さんなら全体の舵取りを安心してまかせられる、そんなワーカーと一緒に仕事がしてみたい、と切に希望している。
頼むぜっ!

 

 

クライアントと話していて時々出逢うのが、妙に“カウンセリング慣れ”した人たちがいることである。
そのカウンセリング歴について訊いてみると、なるほど小学校からスクールカウンセラーに相談して来たという。
スクールカウンセラー制度ができたのが 1995(平成7)年だから、小学校・中学校と相談し、その後、高校、大学でも相談して来たという人もいるわけだ。
その点を取り上げれば、カウンセリングを利用するということが一般的になって来たわけであるから、これは間違いなくスクールカウンセラー制度の功績であり、歓迎すべきことであろう。

しかし、“カウンセリング慣れ”ということからすると、抵抗なくカウンセリングを利用するようになったのは良いのだが、どうも話を聴いていると、カウンセリングをただの愚痴垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場と思っている人たちが少なくない印象がある。
そしてその理由も、すぐに想像がつく。
恐らく Rogers“的”な(本来 Rogers が言っているものとは異なる)形式的“傾聴”のカウンセリングを受けて来たのね。
それだと、カウンセリングが、愚痴の垂れ流しの場、何を言ってもただそれを聞いてもらえるだけの場だと思うようになっても致し方ない。
しかし、そ
れでは今の弱さ、ダメさの肯定に終わりやすく、未来の成長がない、どんな環境にあろうとも自分自身を生きて行こうとする“勁さ”が育たないことになる。

時にスクールカウンセラーは、確固たる“人間観”“成長観(治療観)”を持ってクライアントを導かなければならない。
それがあるだろうか。
あったとしても、それが一人の人間が自分の人生だけで考え出した(申し訳ないが)狭量で時に独善的な“人間観”“成長観(治療観)”であっては、却って有害である。
だからスクールカウンセラー自身も、ちゃんとした先達から、ちゃんとしたトレーニングを、知識・技術だけではない人間としての成長のトレーニングを受けることが必要だ、と私は思っている

それについては、関連の協会、協議会などの研修も行われているが、知識・技術的でしかも集団かつ座学のものが多く、わざわざ個別のスーパーヴィジョンや指導を受けている人は稀で、現在、当研究所で面談を受けている方々などは、かなり奇特な人たちと言えよう。
でも、それくらいやらないと、なかなか深まらないのだよ。
別に、みんなうちに来い、なんてそれこそ狭量で独善的なことは言わないから、自分に合ったところを見つけて、信頼できる先達を見つけて、もっと個別なスーパーヴィジョンや指導を受けた方が良いんじゃないかなぁ、と私は切に思っている。
それが、あなただけのことに留まらず、あなたのカウンセリングを受ける子どもたちの未来に直接、影響するからね。
スクールカウンセラーが担っているのは、尊き重責なのだ。

スクールカウンセリングがそんなに簡単に行かないことは私も知ってるけどさ、
それでも、折角の、子どもたちを救い、育てるためのスクールカウンセラーなんだもの。
せっせせっせと自分を磨いて行きましょ。


 

余談である。

ホームページの改訂で気になっていることに、私の掲載写真がある。
大したことではないと言えば大したことではない話なのだが、現在掲載中の写真に比して、私の頭髪が現在ほぼ真っ白になっているのである。
写真を変えなければ、と思いつつも、ちゃんと撮り直すための手間が億劫で、今日まで来てしまった。
別に、若く見せるための詐欺写真ではないので、どうぞご容赦いただきたい。
そのうち(いつか?)更新します。

で、白髪というと、いつも思い出す落語のフレーズがある。
ある大店(おおだな)のご主人が、外にお妾さんを作り、そこに足繁く通っている。
その頭に白髪が生えて来たのを見て、旦那が老けて見えるのがイヤなお妾さんは毛抜きでその白髪を抜いてしまう。
そしてうちに帰ると、うすうす旦那の浮気に気づいているお内儀(かみ)さんは、「まあ、黒々しちゃっていやらしい。商家の当主というものは、頭髪霜をいただくようになって初めて信用というものがつくものです。」と言って、今度は毛抜きで黒髪を抜いてしまう。
あっちで白髪を抜かれ、こっちで黒髪を抜かれているうちに、旦那の頭はとうとう禿になってしまいました、という噺である。

この「頭髪霜をいただくようになって」というフレーズが妙に耳に残っていて、若い頃は、そうなのかしらん、と漠然と思っていたが、いざ自分がそうなってみると、やっぱり「信用」というものは「白髪」じゃないなとつくづく思う。
白髪だけで信用がつくなら、皆さん、とっくにブリーチしてるわな。

「信用」はやっぱり「人格」です。

そのためには、地道に人間的成長を積み重ねて行くしかない、と改めて思う私なのでありました。

 

 

「これは私がホーナイから学んだことですけれど、「近藤、何時でも、とにかくチャンスがあったら “How do you feel right at this moment?”(今この瞬間に、あなたはどう感じますか?)と聞けと言われたのです。私はそれまで、“What do you think right at this moment?”(何を考えるか)とやっていたわけです。ホーナイがそう言った意味が、彼女の教えてくれたとおりに質問したとき、初めてわかりました。そのとき彼らの中には感情が非常に抑圧されていて、その正当な発揮をする場所を得ていない。むしろ理性が暴君になっていると痛感させられることが何度かありました。私の所へ来る人は、ニューヨークにいる頃はあまり経済的に恵まれぬ人は来なかったし、日本に帰って来てもあまり余裕のない人は来られないので、割合にインテリの方が多いのですが、インテリの特徴から、今言いましたような観念的な思考型が多いように思います。それだけにインテリの方にノイローゼが多いのでしょう。 」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

最近の精神療法事情からしても、アメリカ由来の認知行動療法や論理療法などにおいて、何が合理的(rational)で、何が非合理的(irrational)か、という考え方でセラピーを進めているところを見ますと、理性重視の傾向は現在もあるように思います。
しかし、我々人間にとって、感情の問題は非常に重要で、時に「理性に偽装した感情」が跳梁跋扈して悪さをしていることは、まわりを見れば、あるいは、ご自分のことを内省してみれば、容易にわかることでしょう。
まず掴むべきは、そして、表出すべきは、感情です。しかも本音の感情です。もっと言えば、本音の本音の感情です。
良いも悪いもない、感情は瞬時に起きていますから、今さらそれを抑圧したり、否定したりしてもしょうがないのです。
そうしてそれをちゃんと認めて初めて、次のより深い、より本質的なステップに進んで行けることになちます。
それは、「で、その感情がどこから来たのでしょうか?」「あなたの生育史上の何から来ているのでしょうか?」というステップです。
それが解決されて行けば自ずと、起きて来る感情が、抑圧ややりくりを使わなくても、変わって来る、場合によっては消えて行くことさえあります。
だからまず “How do you feel?” “How do I feel?”の把握が大切な一歩。

ちなみに、現在の日本では、たとえ生活保護を受けていても、必要を感じれば自費のカウンセリングを利用される時代になりました。
決して一部の富裕層のものではない、カウンセリングやサイコセラピーの重視は、とても良い傾向だと思っています。

 

 

あるサッカー選手がゴールを決めた。
この上なくドヤ顔のガッツポーズ。
俺が決めたのだ。

あるブラジルのサッカー選手がゴールを決めた。
空を仰いで両手で天を指さす。よく見る光景だ。
神さま、俺が決めるのを助けて下さってありがとうございます。
感謝の祈り。
さっきのよりマシだが、やっぱり決めたのは俺なのだ。

真の信仰を授かっているサッカー選手がゴールを決めた。
空を仰いで両手で天を指さす。アクションはさっきと同じだ。しかし中味が違う。
神さま、すごいですね、という讃美の祈り。
ゴールを決めたのは神さまであって、俺ではないのである。
神さまの力が自分を通して働いてゴールを決めた。
ほむべきものは、神の御名(みな)のみ、である。

だから、もし我々が何か優れたこと、すごいことをやったとき、達成したとき、それは我々の手柄ではなく、天の手柄である。
よって(天に感謝ではなく)天を讃美すべきである。

反対に、もし我々が何かひどいことをやらかしたとき、しでかしたとき、それは我々凡夫の失態なのであり、自分の非である。

つまり、
何かができたら、天の力。
何かをやらかしたら、自分のせい。

そう思えば我々はもうちょっと謙虚になれるかもしれない。

 

 

曹洞禅の開祖、道元が若くして入宋の折、船中で居合わせた老典座(てんぞ:禅寺において食を司る僧)から言われた言葉

「徧界(へんかい)曾(か)つて蔵(かく)さず」

遍(あまね)くこの世界は一度も真実を隠したことがない。
この言葉に打たれたのはもう三十年以上前であろうか。

そして同じ頃、真言密教にも

「衆生(しゅじょう)の自秘(じひ)」

という言葉があることを知った。
この世界は真実に溢れているのに、衆生の方が観える段階に至っていないため、自分で秘密にしているのである。
こちらが観えていないだけで真実はもうとっくの昔から示されていたのだ、と念押しされたような気がした。

そして近藤先生の著書も同じ頃に読んだ。

『その道は開けていた』

またもや、ああ、やられた、と思った。
こっちが気づかなかっただけで、真実への道は、救いへの道は、もうとっくの昔から開けていたのである。

近藤先生が亡くなられたとき、ああ、師を失って、これから私はどうしたらいいのか、という絶望は全くなかった。
真実は、救いは、この世界に溢れていることを私は既に知っていたからである。
近藤章久を近藤章久させていたものは、変わらず、今も、これからも、至るところに働いている

 

 

子どもがやらかすことに対して、こっぴどく怒ってしまう。
そして怒った後、子どもの寝顔を見て、涙ながらに反省するが、次の日また子どもがやらかすと、またこっぴどく怒ってしまう。
また、高齢の親がやらかすことに対して、こっぴどく怒ってしまう。
そして怒った後、しょぼくれた親の様子を見て、死ぬほど反省するが、次の日また親がやらかすと、またこっぴどく怒ってしまう。
あるあるの話である。
この負のループを抜け出すにはどうしたら良いのか。

そもそもの人間観に戻ろう。
我々は天より与えられた尊い生命(いのち)を持つ。
それが我々の存在の根底にある。
その生命(いのち)の力によって我々一人ひとりの「本来の自分」「真の自己」が発現して行く。
これがひとつ。
しかし、その後、我々の置かれた(我々が選べない)生育環境の影響によって、そこで生き残るために、後から身に付けざるを得なかった「ニセモノの自分」「仮幻の自己」が、その「本来の自分」「真の自己」のまわりを覆って行く。
これがふたつ。
この闇が光を覆うような二重構造が、我々の基本的な人間観である。

よって、子どもがやらかすこと、高齢の親がやらかすこと、それは概ね後者=「ニセモノの自分」「仮幻の自己」に基づいている(ただ幼いから、ただ高齢だからやらかすこともあるが、責めるときに火が付くのはそこに「ニセモノの自分」「仮幻の自分」のイヤ~な感じが臭ったときである)。実際、その言動の大体が可愛くないし、生意気だったりする。
となれば、それを突く、怒ることが、絶対的に悪いことだとは思えない。それを、いいよ、いいよ、で済ましてしまうことにも問題がある気がする。
事の本質はそこではないのだ。

その「ニセモノの自分」「仮幻の自分」を責めるとき、あなたは、そこ奥にある「本来の自分」「真の自己」、さらには相手の「生命(いのち)」に対する畏敬の念を忘れてはいませんか?ということが問題の核心である。
それが抜ける。となれば冷酷な滅多切りとなる。
そうではなくて、表面の闇を斬るが、中心の光は斬らない。
いやむしろ、表面の闇を斬って、中心の光を導き出す。
本当の叱責とは、そういうことをいうのだと思う。

従って、大切なことは、いつも相手の生命(いのち)に対して、存在の根底に対して、畏敬の念を持ち、手を合わせて頭を下げる=合掌礼拝する姿勢を忘れないことである。
その上で表面の闇を斬るとき、我々に、あのやるせない後悔の気持ちは起こらない。
また斬られた方も、斬られたのは表面の闇であって、中心の光に対してはちゃんと畏敬の念を持って接してくれていることを感じるので、斬られた方も深い傷を負うことがない。
ここが大切なところである。
(これは以前に書いた『金言を拾う その9  溝をつける』に通じる話である)

さぁ、今から実践しましょう。
1回、2回では変化を感じないかもしれませんが、何回も何回も積み重ねて行くうちに、感触がちょっとずつ変わって行くかもしれませんよ。

 

 

「…私がこうお話ししましたのは、西欧における精神分析の歴史についてだけなのですが、自然科学的なものが非常に価値づけられて、自然科学こそまさにすべての真実を探究していく方法であると信じられた中に、少なくとも精神の世界だけは科学的方法で、物として眺めて理解できるものではない、ということが認められて来たことを申し上げました。このことは皆さんにとって少しも不思議ではないと思います。毎日毎日の臨床経験において、あなたがたはそれを経験していらっしゃると思います。実際に臨床経験において、ただ患者を物として冷然と眺めて、観察して、それだけで治療できるでしょうか。どんないわゆる科学的な理論よりも、臨床におけるあなた方の経験、実際の体験が、それを実証するだろうと思います。患者あるいはクライエントが変化していく場に、ただ知的な観察だけの態度では変化は可能ではありません。
フロイトも最初の頃はそういう態度があったわけでしょう。有名な『分析の隠れ蓑』という言葉がありますが、これは観察を主とした態度です。今でもそれは重宝であり、意味のあるものですが、これをあまりやると治療は一向に発展しないで行き詰ってしまいます。これはご自分でやられたら一番よくわかるけれども、治療ということはそんなものではない。人間の精神は『もの』ではないところに立脚して治療は行われるものです。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

これは日本心理臨床学会での講演からの抜粋です。日々、臨床や福祉の現場において、患者さん、クライアント、メンバーさん、当事者さんと接している方はよくおわかりでしょう。
分析、結構。考察、結構。研究、結構。論文、結構。著作、結構。
で、その人はよくなりましたか?(何をもって「よくなる」というのかという問題もありますが)
その人は人間として成長しましたか?(何をもって「成長」というのかという問題もありますが)
そもそもあなた自身の人生はどうなんですか?
御託(ごたく)や能書きはもういいんです。
具体的に、実際に、健やかに自分を生きましょう。
そして自分以外の誰かが、具体的に、実際に、健やかに自分を生きることに貢献しましょう。
そこには、あなたの「生き方」「人格」「人間性」「存在」が大きく影響することを確認しておきましょう。
だから「現場」を持っている人は(大変だけれども)幸いなんです。
御託と能書きの隠れ蓑でチョロまかしできないからね。
 

 

 

年齢のせいか、役回りのせいか、カンファレンスやミーティングなどの場で、締めのコメントを求められることが多くなって来た。
そのとき思ったことをそのまま言うしかないのだが、振り返ってみれば、昔はそうではなかった。
「良いことを言わなければいけない」「ちょっとかっこいいことを言わなければならない」と思い、段々順番が近づいてくるにつれ、緊張していたのを思い出す。
即ち、「自分が」「まわりから」どう見られるかが気になったのである。
よって、そのコメントは、「自分向き」か「出席者向き」だったのだ。
そもそもが臨床や福祉の現場でのカンファレンスやミーティングでのコメントなのだから、それが患者さん、メンバーさんに資するものであるかどうかが一番重要なのに、かつての私のコメントは「患者さん向き」ではなかった。
「自分向き」の「保身」のコメントか、「出席者向き」の「評価目当て」のコメントだったのである

どっちを向いて、誰を向いて、仕事をするのか。
これは基本中の基本である。

そして改めて「患者さん向き」のコメントを心掛けるようにしたら、コメントすること自体が楽になった。
患者さん、メンバーさんにとって何が良いのかだけを考えれば良いのだから、することがシンプルである。
それでも、コメントの内容に出来・不出来があるかもしれないが、少なくともコメントする「姿勢」はしっかりと定まった。
これは是非みなさんにもお勧めしたい。
患者さんよりも「自分」の方が、「出席者からの評価」の方が大事になったら、支援者としておしまいである。
いつも原点に戻りましょ。

 

 

以前開業していた八雲は、自由が丘が近かった。
自由が丘と言えば、スウィーツの街としても有名だが、占いのメッカとしても知られている。
街を歩けば、あちらこちらに「占いの館」があり、路上に机を出しただけの占い師も見かける。
特に寒い季節の夜の路上占いには、何とも言えない風情(ふぜい)がある。
以前は、いつか歌舞伎町あたりで路上占いをやってみたい、と思っていたが、
最近は、見た目もいい年にもなって来たし、占いの館でも路上占いでもいいので、土地勘のある自由が丘あたりでやるのが面白そうだと思っている。
しかし、肝心の占いができない。
というか、そもそも占いがやりたいのかと言われると、そうでもない。
やるとすれば、「人生相談」をやってみたいのである。
そう言えば、昔、八雲の理容店に入ったとき、話の流れから「ああ、あの人生相談の先生のところに行ってるんですか。」とマスターに言われたことがあった。
そのときは「近藤先生が人生相談か。」と思ったが、確かに人生相談でもある。
となると、「占わない占い師」、いや、「占わない師」でやるのが良さそうだ、という結論に達した。
占いはしないで人生相談だけをやる。
お客に酔っ払いは要らないが、ふらっとやって来る不特定多数の人を相手にする人生相談は、武者修行でいうところの野試合のようで魅力的である。
市井(しせい)の人の中に入って行くというのは、ガッカリすることもあるけどさ、やっぱり成長を求めている人がどこにでもいるんじゃないかという期待と希望は捨てられないんだよね。
いつか将来、自由が丘で私によく似た「占わない師」を見かけることがあったら声をかけてみて下さい。
 

 

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。