「頭で解釈して理論的にわかると、万事がわかったような感じになる。これはまあだいたいが日本の教育は頭でわかって答案を書けば、それで百点くれるんだから、それはそれでいいんでしょうけれど、分析だけはそうはいかない。カウンセリングも同じことだけれど、頭でわかってもうまくいかない。『わかっちゃいるけどやめられない』という言葉があります。たばこの悪いのはわかっているけどやめられない、ということがあるでしょう。理性によってそんなに自由に感情をコントロールできないものです。実は私は毎日タバコ6箱くらい吸っていたのですが、あるとき急に嫌になり止めてしまいました。皆私のことを意志が強いと言うのですけれど、実は意志なんかちっとも関係ないんです。ただ私の身体が嫌だと思っているのです。頭の方より、体の方が嫌だ嫌だって言っているのだから、どうしたってタバコを手に取る気がしないんです。つまりどういうことかと言うと、私たちの無意識はそれ程強いということです。むしろ私の場合は無意識で生きる方が大半なのです。そして一般的に分析では、無意識を意識によってコントロールして生きることが成熟した態度であると言うわけです。ただ無意識で生きるというのは大人らしくないということを言います。しかしタバコの例について言いますと、私はああ嫌だと強く感じた。たしかに無意識からの声ですが、これは私の正しい声だ、本当の声だと感じたからで、肺癌になったり体に悪いから止めなさいと言うのでは止めなかったのです。本当に止めたい、腹から止めたいと言うから止められたのです。」(近藤章久講演『文化と精神療法』より)

 

昔、アロンアルファと屁理屈はどこへでもくっつく、と言ったことがあるが、少なくとも、人間のこころに関しては、頭や理屈はあまり当てにはならない。
昔から「理に落ちる」と言って、理性ではいくらでもそれらしいことを滔々(とうとう)と語れるが、実際に患者さんが治らない、症状が一向に良くならない、ということがよく起こって来る。
そんなんじゃあ、精神分析もカウンセリングも、屁のつっぱりにもならない。
人間の実相を掴み、その成長に資するためには、自他の体の声についても、無意識の声についても、それらをちゃんとキャッチする“感じる力”が必要なのだ。
近藤先生は自らの無意識の声を聴き、その働きに従ったからこそ、「喫煙をやめた」のではなく「喫煙がやんだ」のである。
先生が逝去された後、有り難いことに、私にも同じ体験が起こった。
私も喫煙歴が25年くらいあったが、ある日、ふっと喫煙がやんだのである。
私は自分の意志薄弱には自信があるので、自分の意志ではやめられないと確信していた。
それがある日、ふと吸いたくなくなったのである。
以来、1本も吸っていない。何の我慢もしていない。
そのとき、近藤先生に起きたことが、自分なんかにも起きるんだなぁ、と思ったのを覚えている。
今思えば、自分「なんか」は余計であった。
確かに私自身は、どうしようもないポンコツのアンポンタンだが、私の無意識を貫いて働く力は、近藤先生のそれと同じく、とてもとても尊く、勁いのであった。

 

 

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