八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「そんなやたらにね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。この私はどうせダメなんだから。くだらんことを言わないでほしいんだ。その意味で、生命(いのち)を軽蔑しないでほしいの。…どうせ私ダメなんだからとか…どうせ俺はしょうがねぇよ…そういうのがだ、ね、これはみんな自分の生命(いのち)というものをね、粗末に考えている。…
英語でもドイツ語でも、産まれるという言葉は使わないの。受け身になる。I was born. こうなる、ね。ということを、もっと日本語的に言うと、授かったんだ。だから、あなたは自分自身の生命(いのち)をもっと考えてほしいんだ。私の生命(いのち)は、私は授かっているんだ。…このね、あなた方の、一人ひとりの生命(いのち)は、かけがえがないの。失ったらおしまい。これを不幸にするか、幸福にするか、健全にするか、病的にするか、これはあなた方の重要な責任ですぞ。これを、自分のことを思ってほしい。
それをよく考えたら、自分の目の前にある、自分の子どもというものを考えるだろう。この子どもの生命(いのち)を観るだろう。その子どもの光り輝いているところの独自の生命を観るだろう。これが母親が、その生命(いのち)を育てることが、その生命(いのち)を健やかに伸ばすことが、それが母親の意味だ。それを私は一番偉大な教育者と呼ぶものなの。どんな教育者よりも、それは素晴らしい教育を持っているものなの。
生命(いのち)のかけがえのない尊さを考えてもらいたい。そして、その生命(いのち)を自分が汚(けが)さないことなの。心配とか、不幸とか、不安だとか、そういうことで、自分の生命(いのち)を粗末にしてもらいたくない。自分の生命(いのち)を本当に大事にする人は、初めて他人(ひと)の生命(いのち)も大事にする。いわんや、自分の子どもの生命(いのち)を大事にするんじゃないかと思う。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の力のこもった講演が続く。
まず自分に与えられた生命(いのち)の尊さを(考えるのではなく)感じること。
そうして初めて自分以外の人間、特に目の前にいる自分の子どもの生命(いのち)の尊さも感じられて来る。
その生命(いのち)の尊さが感じられれば、自分の生命(いのち)、縁あって出逢った人の生命(いのち)、そして縁あって我が子として授かった子どもの生命(いのち)の成長を願わないではいられなくなる。
そうしてその生命(いのち)を育てること、健やかに伸ばすことこそが、我々のミッションであると、(頭の先ではなく)肚の底からわかってくるのである。
それがわからずして何の人生であろうか。
それを果たさずして何の人生であろうか。
もう世俗的な、些末な、表面的なことはどうでもいいから、生命(いのち)の尊厳について、その生命(いのち)の成長について感じましょう、ね。

 

 

履歴書(職務経歴書)を見ていて気づくことがある。
転職を繰り返している人の特徴として、一カ所に留まって働いている期間が、転職する度に段々短くなっている傾向があるのだ。

本質的には長かろうと短かろうと構わないのだが、その中身が二種類に分かれる。

ひとつは、段々にその人の弱さ(自分が自分であることの幹の細さ)が顕わになって来て、どこに勤めても、ちょっとイヤなヤツ、変なヤツ、特に恐いヤツがいると、すぐに逃げ出してしまうようになる。
それでも「服従」して魂を売って長く勤めるよりは、「逃避」する方がまだましなのであるが、転職する度に勤務期間はどんどん短くなって行く。
しかし幸か不幸か、
対人援助職の求人はいつもあるため、次の就職には困らない。
たとえ転職を繰り返しているうちに年を取ったとしても、なんとか老後資金があれば、それもありなのかと思うが、「逃避」だけの人生では自分に生れて来た甲斐があるとは思えない。

もうひとつは、転職を繰り返す度に、自分の弱さ、成長課題と真摯に向き合って、いつでもどこでも誰の前でも自分でいられるように、自分が自分であることの幹の太さを養っていく人たちもいる。
こういう人たちは、ある時機までは転職を繰り返す度に勤務期間が短くなっていくのだが、どこかで転機を迎え、攻勢に転じていく。
即ち、他者からの圧力や攻撃に対しても「反撃」できるようになり、最早転職せず会社の中で管理職としての地位を得て行く(他者に影響を与えていけるようになる)か、そうでなければ、自ら起業する場合も多い。
どちらにしても自分が自分でいる居場所を作れる“勁さ”を身に付けていくのである。
こうなれば、自分が自分に生れて来た甲斐があるというものだ。

よって、転職を繰り返している人たちには、是非とも後者をお勧めしたい。
要は、転職を繰り返しているかどうか、勤務期間が長いか短いか、が問題なのではなく、あなたがあなたを生きる勁さを身につけていっているかどうかが問題なのである。
この要点をくれぐれも間違えないように。


 

段々寒さが増して来るこの季節であるが、空だけは澄んで美しく見える。

そんな空も眺めていれば、感じることがあるもので、
天上は雲ひとつない快晴のように見えて、地平線に近づくにつれ、青がほのかになる。

それが夕焼けでもわかる。
西の空が茜色に染まる日暮れどき、この季節の夕暮れは、夏などに比べ、茜色がほのかになる。

そんなことにお気づきか。

そのほのかさにこちらのこころのほのかさが反応して感じるものがある。
それを感じるのが、
この繊細にして敏感な風土で長年暮らして来た人間の感性の伝統である。

「ほのか」を漢字で書くと、「仄」「側」「彿」「髣」「髴」などたくさんあり、「洸」も悪くないが、やっぱり「さんずい」よりも「りっしんべん」の「恍」が良い。

ほのかなるこころの光。

自然への感性と人間への感性とが別物であるはずがない。
ここを踏まえて初めて、あなたの目の前にいる人のこころの中にほのかに光るものも感じ取れるようになるのである。
 

 

 

来たる1月12日(日)、年が明けて間もないこの時機に『新春のハイブリッド勉強会』を開催します。
詳しい開催要項は昨日11月30日(土)にアップ致しました。

八雲総合研究所では、毎月1回定期的にリモート開催している「八雲勉強会」のうち、ワンシーズンに1回=3カ月に1回を、オープンでハイブリッド(会場での対面参加 あるいは Zoomによるリモート参加のどちらも可能)な勉強会の開催に置き換えて開催することにしています。

今回はそのハイブリッド開催の3回目。

今回も「現在、当研究所の『人間的成長のための精神療法』に通っておられない方」や6つの医療・福祉系国家資格者(精神科医、臨床心理士、正看護師、作業療法士、社会福祉士、精神保健福祉士)でない方も参加でき、開催要項にあります「参加対象」さえ満たせば、初めての方も大歓迎です。

ハイブリッド勉強会の構成は、以下の二部構成で、
[1]レクチャー&ディスカッション『人間の承認欲求について』

今回は、『人間の承認欲求について』お話したいと思っています。
これまでのハイブリッド勉強会では、第1回01『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』では、基本的「人間観」「世界観」「成長観(治療観)」「人生観」について取り上げました。また、第2回02『仲秋のハイブリッド勉強会』では「人間の成長段階について」取り上げました。そして今回第3回目03『新春のハイブリッド勉強会』では、「人間の承認欲求について」取り上げたいと思っています。まず最初に講師の方からその要点をレクチャーし、その上で、それぞれが気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて(←ここが重要)、話し合い、深めて行きたいと思っています。
[2]
ディスカッション『鉑言(はくげん)に深める』
ここでは、所感日誌『塀の上の猫』の中の「金言を拾う」シリーズを取り上げ、参加者とのディスカッションを通してさらにその真意を深めて行く展開にしたいと思っています。
参加者は予め「金言を拾う」の中から自分の心の琴線に触れるところに目を通して来ていただき、自分が気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて(←ここが重要)、語り合い、掘り下げ、金言を鉑言鉑とは白金、プラチナのことです。金からさらにプラチナへにまで深めて行く時間にしたいと思っています。

その上で、どうなるかは、その日の参加者次第。
新年を迎え、気持ちも新たに、深い人間的成長の場を一緒に創って行きましょう!

 

【注記】『新春のハイブリッド勉強会』の開催日(1月12日(日))は第2日曜日に当たります。
ハイブリッド勉強会を開催する日は、面談予約を入れることができません。
いつも第2日曜日に面談の予約を入れていた方は、お手数ながら、ハイブリッド勉強会を開催する月の第2日曜日だけは、他日に予約を入れて下さいますようお願い申し上げます。

 

 

認知症疑いの高齢者の方に検査を行う。
わからない問題に接したときに
「わかりません。」
とフツーに答えられる方がいる。
大したもんだと敬意を覚える。

高齢者だけではない。
例えば、注意欠如多動症疑いの方に検査を行う。
できないことに関して
「できません。」
とそのまま答えられる方がいる。
これまた大したもんだと敬意を覚える。

わからないこと、できないことが顕わになる検査を受けることは幸せな気分ではない。
きまり悪そうに、申し訳なさそうに返答される方も少なくない
高齢者の場合、振り返って同伴者に助けを求める方もいらっしゃる。
中には、できないと
キレ気味に怒り出す方もいらっしゃる。
そうはならず、自分にとって不利なことも、偽らず、飾らず、そのまま認められる方がいらっしゃる。
やっぱり
大したもんだと敬意を覚える。

お気づきの通り、これはできるかできないかという障害の問題ではなく、潔く認められるか認められないかというパーソナリティの問題である。

確かに、できないことを認めたくない(否認したくなる)のも、我々人間の、偽らざる見栄っ張りな一面である。
しかしその一方で、いつまでも事実を認めようとしない自分もなんだかなぁ、と思えるのも、我々人間の、有り難く尊い一面である。
その闇と光。
やはり、どうせ生きて行くなら、どうせ人と関わって行くなら、その光の部分に希望を持って生きて行きたいと思う。

 

 

尾籠な話題で恐縮です。

医療福祉関係者の間で時々話題になるテーマに
「あなたはお尻の穴を見せられますか?」
というのがあります(ひょっとしたら私の周りだけかもしれませんが…)。
これは露出癖的な話ではなく、あなたが利用者としてケアを受けるときに、そこまで自分をさらけ出して、支援者におまかせすることかできますか?という質問なのです。

で、あなたはいかがですか?

私はできます。
というか、もうやってます。
定期的に大腸内視鏡検査を受けているもので。
これも最近でこそ静脈鎮静法を使って、寝ている間に検査が済んでしまいますが、最初はそれもなく、意識清明下に検査を受けていました。

そうでなくても私たちもいつかケアを受ける日がやって来ます。
でも「いつか」でしょうか?
思い起こせば、生まれたときからそうでしたね。
乳児の頃、一から十まで何もかもやってもらっていました。
それがいつの間にか自分の力でやっているかのように思い上がってしまいました。
本当は、ずっと与えられた力でやらせていただいていただけなのに。
そう思うと、何を今さら「お尻の穴を見せられますか?」でしょう。

とっくの昔から、骨の髄まで、心の奥底まで見透かされています。
それを思えば
、元から私たちを生かしてくれている力に、何もかもおまかせするしかない人生なのでありました。

 

 

美味しい玄米御飯を食べさせる店がある。
店まで1時間近くかかるが、それでもこの店の玄米は滋味に溢れ、つい食べたくなって出かけてしまう。
おじさん二人でやっている店なのだが、メニューはなかなかにお洒落でヘルシー、女性客から男性客、カップルに家族連れと、なかなかの繁盛だ。

かし、私がこの店に行くにはもうひとつの楽しみがある。
御飯を食べている最中、ある時刻になると、入口のガラス戸に何やら大きな影が映る。
見れば、大型犬。
スタンダードプードルとゴールデンレトリバーのミックスのダイちゃんだ。
この店が散歩のコースに入っているそ
うで、大体決まった時間に現れる。
そして、店の中に向かって大アピールが始まる。
大きな尻尾を盛んに振り、おじさんが出て来てくれようものなら、さらにちぎれんばかりに振って喜んでいる。

なんてわかりやすいんだろう。
この本音いっぱいのダイちゃんに会うのが楽しみである。

そして私は思う。
人間にもこの尻尾をつけてみたらどうなるだろうか。

嬉しいくせに嬉しくないフリをする。
嬉しくないくせに嬉しいフリをする。
Aと思っているのにBと言う。
そんな面倒臭いことをするのは人間くらいである。
尻尾をつけたら。その人の本音がすごくわかりやすくなるだろう。

「僕と付き合ってくれませんか?」
「この私の手料理、美味しい?」
「あなた、お金好き?」

「わたしのことを本当に愛していますか?」

尻尾に全部出るだろう。

 

 

「良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えられるのは、あなた方だっていうことだ。…
是非、考えていただきたいのは、お母さん方に、そのね、自分の子どもに対するね、自分の態度です。お母さんが落ち着いているということが、どれくらい大事なことか。
誰でも、ここにいらっしゃる男の方でも、思い出すだろうと思うんです。自分がまだ幼い頃、どこかで膝を、ぶっ倒れて膝を擦り剝いたとか、あるいは、誰か友だちでもって殴られたとか、そういうときに、うちへダーッと帰ってって、『お母ちゃん!』とこう言ったわけです。そうして、自分の膝をね、擦り剝いた字座を、ああ、こうやってね、あるいは、ぶん殴られたコブをね、こうさすられて、そして慰められた記憶を持たない人間はないと思う。それで子どもは安心したの。…
けれども、子どもが本当に欲している、本当の慰め、安心感、そういうことを与えられなかったならば、私は、後にしっぺ返しを喰うものと思います。
あのときに母親にこうされたことが、僕に、私にとって大きな意味があったとかね、母親がこうしてくれたことがどんなに良かったかとか、そういうことが、なんかね、男の子、女の子に限らずね、そうした思い出を持たない人はないと思うんですよ。私は、最も偉大な教育者は、何も校長先生でもなく、担任の先生でもなく、それは母親だと思うの。母親がね、本当の意味で、自分がね、生命(いのち)を預かっているということ。
だから、大きくなってよく聞くんですが、本当に私の言うことを聞かないんです。思う通りにならないんです。当ったり前ですよ。始めっからね、あなた方の思う通りにできてないの! これをね、今度はこうやるとね、こうやってこう、こっちにやったりあっちにやったりできるもんだから、お人形だと思っちゃうんだね。どうにでもできるもんだと思っちゃう。それは誤りですよ、それは。お人形と違うの! 人間は生命(いのち)を、その生命(いのち)は、その人だけしか持たない独自性があるの。こうやって、皆さん、いらっしゃるけど、あなた方の一人ひとりが、輝くような、自分だけの持つ、その生命(いのち)を持ってるんですよ、あなた方は。隣の人と比べたら違うんだ。…
そんなやたらね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

実際の講演の中で、(子どもは)始めっからね、あなた方の思う通りにできないの!と近藤先生がおっしゃったときは、かなりの迫力でした。
また、お人形と違うの!とおっしゃったときも。
子どもを自分の思い通りにしようとする親の
なんと多いことでしょう。
そしてそれが子どもの人生に少なからぬ禍根を残すことになります。
子どもの中には最初から自分自身を実現しようとする力が与えられています。
それを邪魔しなければ、それだけで大した親です。
大抵の場合は、善かれと思って、よってたかって邪魔をしています。
そしてもし、邪魔しないだけでなく、その子がその子になることを応援できたとしたら、それは最高の親と言えるでしょう。
そしてそれができる親は必ず、自分自身のことにおいても、本来の自分を実現する方向に生きているはずです(自分のことができなくて子どものことができるはずがありません)。
従って、まずは子どもの成長の邪魔をしないこと。
そして、自分自身の成長を
目指すこと。
それができれば、間違いなく、親子ともに素晴らしい人生になると思います。

 

 

 

自分も含めて、人間というものを見ていると、なんてバカなんだろうと思う。
本当にバカ。
どうしようもないバカである。
そもそもが凡夫なんだから、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど、やっぱりバカだなぁ、としみじみ思う。

以前、緑風苑ワークショップで『意気地なし』や『よせばいいのに』などというムード歌謡曲を取り上げたことがあった。
歌詞に「バカ…バカ…あなたほんとに意気地なし」「バカね バカね よせばいいのに」とバカのオンパレードである。
で、ふと思い立って、バカに関してどんな歌(歌謡曲)=♪曲名があるのか調べてみた。
これがまた実に多い!


まず
『♪馬鹿みたい』
『♪バカでしょ』
『♪バカね』『♪馬鹿ね。』『♪馬鹿やね』
「みたい」とか「でしょ」とか「(や)ね」なんて付けてるようじゃあ、まだ認識が甘い。

そして
『♪馬鹿』
『♪馬鹿な私』『♪僕はバカ』
と来ると段々ストレートになって来て、
さらに
『♪ばかやろう』『♪バカやろう』『♪バカ野郎』『♪バカヤロー』
果ては
『♪大バカ者』
『♪馬鹿は死んでも直らない』

にまで行けば大したものである。

また
『♪女って馬鹿なのね』『♪馬鹿な女』
というのもあるが、大丈夫です、男も十分にバカです。

しかし
『♪ばかだから…』『♪バカだから』
となると、ちょっと開き直りの臭いがして来るし、

『♪馬鹿よ貴方は』
『♪馬鹿野郎はおまえのほうだ』
『♪馬鹿たれあいつ』
『♪馬鹿ばっか』
となると、自分のことよりも他者攻撃に転じて来る。

番外としては
『♪馬鹿なくせして』
となると、ちょっと屈折した哀しみが入り、
最後に

『♪あなたに出会って馬鹿になりました』
となれば、これもひとつの境地である。
(実際には初音ミクの歌う切ないラブソングでした)

今度、ワークショップが復活したら、こんなバカの歌をみんなで歌ってみましょうかね。
 

 

奈良・東大寺の法華堂(三月堂)。
ここにはたくさんの仏像があるが、例えば、日光菩薩と月光(がっこう)菩薩(日光仏、月光仏ともいう)。
比べれば、やっぱり月光菩薩が良い。
霊性が違うんだよね。
(現在は東大寺ミュージアム所蔵。この二像を梵天、帝釈天とみる向きもあるが、造形の話ではなく、霊性の点からすれば、月光菩薩の霊性が高く、また我々の霊性にもしっくり来る)
かつて日本郵便から国宝シリーズの15円切手として発行されたのも、両者のうち月光菩薩だけであった。わかってるね、日本郵便。

雲ひとつない空に太陽がカーッと輝(かがや)いている、でも良いのだけれど、なんか違うんだよね。そうじゃないんだよね。
インド生まれの大日如来も良いけれど、
弥生生まれの(渡来系の影響を受けた)天照大御神も良いけれど、
やっぱり、遍く光り照らす力強き太陽、じゃあないんだよね。

(直接でなく)月に反射した光とか、
雲間から漏れ射すような一筋の光とか、
寒い冬のほんのりあったかい光とか、
そんなのが我々の霊性にはしっくり来る。
先の月光菩薩にもそんな佇(たたず)まいがある。

 

冬の陽を浴びながら、そんなことを思っていました。

 

体験に属することを文章で書くのは難しいけれど、もしご関心と機会がありましたら、東大寺ミュージアムで日光菩薩と月光菩薩を観比べてみて下さい。

 

 

仕舞っていたハイカットのスニーカーを出してみたら、ソールに穴が開いていた。
修復できそうにない大きさなので廃棄することにした。
これだけ何年も(五年以上?)履いて、履き潰したのだから、寿命だと思った。

冬物のセーターを出してみたら、経年劣化の上、ほつれだらけ、穴だらけになっていた。
繕いもして来たが、これはもう着れないと思い、廃棄することにした。
これだけ何年(十年?下手をすると二十年?)も着て、着倒したのだから、寿命だと思った。

このように使い尽くし、使い倒して、ようやくそれぞれの mission conpleted という気がして来る。

『中庸』の中に「能(よ)く物の性を尽くす」という言葉がある。

その物をちゃんと使い尽くす、使い切ることが、その物の性を尽くすことになる。

そう言えば、昔、どこかの博物館で、粗末に扱われて捨てられた物が妖怪になるという『付喪神(つくもがみ)絵巻』を観たことがある。
やはり物の性を尽くしともらわないと、物も恨めしいことになるらしい。

…などと思って、『中庸』を見返してみると
「能く物の性を尽くす」
の前に、人の性を尽くすことが書いてある

「能く人の性を尽くせば、能く物の性を尽くす」

失礼しました。

我ら人間も、折角、授かった生命(いのち)。
その本分をちゃんと使い尽くしましょう。

 

 

初めて「愛見煩悩」という言葉を聞いたときに驚いた。
そんな言葉が既にあったのか。
自分が長年考えていたことを、当たり前のように、ズバッと示された気がした。
特に仏教を学んでいるときに時々起こることであるが、驚くと同時に、そんな言葉を残した先人たちと何百年、千年、二千年の時を超えて、話をしているような気がして来て、有り難く、嬉しくなるのである。

で、「愛見煩悩」。
そもそも、我々の精神性を考える場合に
(1)理性(知性)
(2)感情
(3)霊性
の三層をもって考えていた。

それぞれにそれぞれの役目があるのだが、この世界の真実、人間の精神世界の真実を掴むには、理性(知性)で考えることや、感情で感じることでは、到達できないと思っていた。
そう。
思考では、絶対的真実は掴めない。
感情でも、絶対的真実は掴めない。
それは霊性的直観によらなければならない。
しかるに、思考や思索によって絶対的真実に到達したかのような思い上がりや、単なる情緒的体験を何か深い体験をしたかのように勘違いする輩が多過ぎるのである。

これはわかる人にはわかるが、わからない人にはわからない話であるが(従って、これを理性でもって皆さんに説明しようとは思わない。理性で説明できるはずがない)、
少なくとも「愛見煩悩」という言葉は、
「愛」=感情

「見」=思考
とが煩悩であると、ズバリと、そしてアッサリと、斬って捨てている。
即ち、理性と感情は真実に到達する道ではなく、むしろ障害になる。
これは気持ちが良い。
それでいて、「で、何が真実に到達する道なのか」は言っていない。
そこで出て来るのが「霊性的直観」なのである。

そういう意味では、「霊性的直観」と言ってみても、それだけでは単なる符牒に過ぎない。
あなたには本当に「霊性的直観」の“体験”がありますか?と迫って来るものがあるのである。
それがわからないと、その体験がないと、この世界は、人間の精神世界は、イリュージョンのままなのである。

少なくともあの妙好人たちは、愛見煩悩によらず、霊性的直観によって真実を体験している。
畏るべし。

 

 

今日11月22日は、世間では「いい夫婦の日」とのこと。

事情通によれば、そもそもは1988(昭和63)年、旧財団法人・余暇開発センター(現公益財団法人・日本生産性本部)が「夫婦で余暇を楽しむゆとりあるライフスタイルを提案する」ために制定したという。
悪くはないが、「いい夫婦」の「いい」が、「余暇を楽しむゆとり」というだけの意味ではちょっと物足りない気がする。

この広い世界の中で、折角二人が出逢って、一緒の人生を生きて行くのだから、
ラブラブでも、おもしろおかしくでも、金品豊かでもいいけれど、
やっぱり、お蔭さまで、わたしがわたしになれました、あなたがあなたになれました、わたしがわたしとして生まれて来た意味と役割を果たせました、あなたがあなたとして生まれて来た意味と役割を果たしました、という互いの人間的成長に資する関係でないとつまらない、もったいない、と私は思うのであります。

そして今どきで言うと、狭義の「夫婦」を超えて、「パートナー」でも「恋人」でもいいし、「縁あって一定以上深い関係にある二人」という意味に拡大しもいいんじゃないかと思っている。
結局、「人と人との出逢いの意味」ということにつながっていくのだと思う。

そして年に1回くらい、お互いがお互いのために、せめて心の中で、手を合わせて頭を下げ、こう祈ってみても、バチは当たらないんじゃないでしょうか。

いろいろごめんなさい。
いろいろありがとう。
あなたがあなたになりますように。
あなたがあなたとして生まれて来た意味と役割を果たせますように。

 

 

 

路線バスに乗っていた。
かなり混み合っている。
あるバス停に着く。
何人か下車して、もう一人若い女性が下車しようとしたところで、運転手はドアを閉めて発車しようした。
女性が「あ、降ります。」と言うも、声がか細くて運転手に届かない。
無情にもバスは発車してしまった。
気まずそうにしている女性。

ああ、昔の自分なら、あの女性と同じ顛末になっただろうな、と思う。
抑圧が働いて、十分な声が出なかったのだ
言うなら言う、言わないなら言わない、がはっきりしなかった。
今なら「降ります!」ても「降ろしてくれ!」でも、大声で何でも言えるのだが、かつての私も、言ってるんだか言ってないんだか、全てが半身であった。

そして、そこからさらに、「で、どーする。」という問題が起こって来る。
まず、乗客はみんな沈黙していた。
誰かが「あ、降りる人がいまーす!」
と言ってあげても良かった。
そう言えなかった人にも、五十歩百歩の抑圧が働いていたと言える(そうでなければ冷酷である)。

その上で、以前申し上げたことを思い出していただきたい。
彼女は大人である。
子どもでも認知症高齢者でも言えない障害がある人でもない。
となれば、やたらと手助けすることは、大人の彼女が持っている力(潜在能力も含めて)を侮(あなど)っていることになる。
彼女自身が自分ではっきりと言えるようになることこそが重要なのだ。

ここを踏まえた上で、
まあ、今回だけは助け舟を出してあげるとするか、ということで「降りる人がいまーす!」と言ってもいいし、
いつでも「降りる人がいまーす!」と言えるのだけれど、敢えて黙っていて(抑圧で言えないのではない)、彼女の未来の成長を願って言わないでいるのもいい、と私は思う。
そして、どっちを選ぶかは、“私”や“あなた”が考えて決めるのではなく、“おまかせ”である。
あなたを通して働く力が、「言え!」というなら言うし、「言うな!」というなら黙っている、のである。
どうせなら、その境地まで行きたいね。

 

 

「赤ん坊はまだはっきり、目、耳、鼻、いろんなことがはっきりしません。そのときに、一番最初にはっきりして感じるのは、この肌、接触、肌なの。だから、非常にその接触が大事なんです。
その接触が大事なんだけども、近頃はどうかというと…日本の女の人も…授乳をしますと…胸の…形が悪くなるわけ。だから、したくないでしょ。そうすると、授乳をしなくて人工栄養をやるわけね。子どもにとってはね、お母さんの肌というものを感じないわけ。まずお母さんの母乳を知らない、母乳を飲むことができない。どんなね、人工的な素晴らしい栄養ができても、母乳に勝るものはないです。…
大体ね、人間誰でも、赤ん坊でもそう、大きくなっても、あなた方、わかるでしょ。お腹が減ったときに一番イライラするね。…この飢えと渇きと、そういうものは、みんな人間をイライラさせるの。
そういうのと同じように、赤ちゃんも、本当の意味で、良い母乳を与えられると満足するんだけども、そういうものが与えられないとイライラするわけです、ね。…
それで、もうひとつ…こうやって今度は…肌に付いて、母親の肌をしたときに、母親の胸のあったかさを感じますね。ここらの男性に訊いてごらんなさい。奥さんの胸に、自分の顔を寄せたときに、なんとも言えない安心感を持つんだから。どんな禿げたお爺さんでも(笑)。…俺はそんなことないよ、なんて言うかもしれないけども、しかし、それはやはり、奥さんの温かいね、胸の中にこうやって、なんとも言えない、それは、安心感を持つの。良いですか。女性はそれに自信を持って下さいよ。良いですね。
その元はどこにあるかというと、赤ん坊のときにですね、お母さんの胸に抱かれて、ほの温かく、本当に、お腹の方もいっぱいになって、あったかくて、良いですか、気持ち良くフーッと眠った。この、なんとも言えない安心感、あったかさ、満足感。こうしたものが一番、この、基礎になってる。これが人間の安心感、ね。そういうものの元になってる。…

あなた方は若いから…第二次世界大戦っていうのを…ご存じないかもしれない。…あのときの若い、例えば、特攻兵とか、十八か十七の子どもも行きました。その子どもが出て行くときに、『お母さん。』と言って出て行ったもんです、ね。これから死ぬ前に、最後に言った言葉は、みんな『お母さん。』ですよ、ね。それぐらいね、子どもにとって母親っていうものはね、自分の本当の安心の源になるんです。…
で、良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えるのは、あなた方だっていうことだ。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

母乳が与えるもの。
ひとつには、飢えと渇きを満たす栄養。
そしてもうひとつが、触れる胸から感じる安心感。
これが我々の原体験にある。
世のお母さんたちは、どうぞどうぞ我が子たちにその体験をたっぷりさせてあげて下さい。
そして、本格的な寒さがやって来るこの季節。
あったかいものを食べて、肌触りの良い布団にくるまってぬくぬくと眠るときの、あの幸せな感じの中にも、そんな物理的なものだけじゃない、あのときの体験の名残りが含まれているかもしれませんね。

【追伸】それにしても「禿げたお爺さん」の「禿げた」は要らないと思います、近藤先生。
 

 

近所の居酒屋さんが明日で店を閉めるのだという。
コロナ禍も生き残って来た店であるのに非常に残念である。
年輩の大将一人とアルバイトの子二人くらいで切り盛りする小さなお店であるが、このお店の魚料理は抜群に美味しく、都心でもなかなか食べられないレベルの刺身、煮魚、焼魚が、徒歩圏内で気軽に食べられるというのは大変に有り難かった。
月曜定休の店であったが、月曜の夜に店の前を通ると、半開きのシャッターの奥の厨房に灯りがつき、大将が下ごしらえをしているのがわかる。
これじゃあ、休みがないでしょ、と思うのだが、果たして出て来た料理を見ると、いつもひと手間の仕事がしてあった。
また、料理が出るのが遅れると必ずお待たせして申し訳ないと言い、雨の日に伺うと、足元の悪い中ありがとうございます、と言う律儀な大将であった。
目立たない市井の中にも、良い仕事をする人はいるものである。
閉店の理由を訊くのも野暮なので、今夜はこの店ならではの肴を並べ、日本酒で最後の名残りを惜しんだ。
ああ、やっぱり美味い。
お勘定の後、わざわざ店の外まで見送ってくれ、
「コロナのときもお弁当を買いに来ていただいて。」
とこちらが忘れたことまで覚えている、やっぱり律儀な大将でした。

本当にごちそうさまでした。

 

魚難民としてしばらく流浪することになるだろうなぁ。

 

 

ある高名な経営者が「当座買い」ということを推奨されていた。
余計な在庫を持たず、必要なときに必要なだけ買えばいい、という考え方である。
主婦(主夫)の“お買い物”感覚では、確かに「まとめ買い」の方が“お得”なことが多く、市民生活においては。それで結構なのであるが、
会社経営においては、手元に1円でも多くの現金を残すことが何よりも重要とされる。
キャッシュがショートしたときに会社は倒産するからである。
よって、“お得”でも出費の多い「まとめ買い」よりも、“割高”でも出費の少ない=手元に残る現金が多い「当座買い」の方が推奨されるのである。
なるほどと“理性的に”合点がいった。

さらに、在庫が少ない方が物を大切に使うということも「当座買い」の利点として挙げられている。
これは“理性的に”ではなく、“感覚的に”、そうだよな、とわかる。
まだたくさんあるからいいや、と思うと、扱いがぞんざいになり、丁寧に使い切らずに捨ててしまったりする。
みなさんも思い当たる節があるだろう。

そんなことを考えながら、新しく購入した来年の手帳に予定と引き継ぎ事項を記入していたら、ふと気がついた。
この作業をあと何年やれるのだろうか。
この年になると“実感”を持って感じられる。
あと1年、あと1か月、あと1週間、あと1日、あと1時間、あと1分、あと1秒、生きている保証はどこにもない、だから与えられた時間は大切に、ということは“理性的に”は若い頃からわかっていたが、“実感”がなかった。
今は“実感”がある。
残りが少ない方が大切に扱うのだ、ここでも。
本当に「わかる」とは、こういうことをいうのだと思う。

 

 

政治家は自分が国民よりもわかっていると思っている。
教師は自分が生徒よりもわかっていると思っている。
親は自分が子どもよりもわかっていると思っている。
医者は自分が患者よりもわかっていると思っている。

敏感な人はお気づきでしょう。

それほど
政治家も
教師も
親も
医者も
偉くない。

政治家は国民から学び、
教師は生徒から学び、
親は子どもから学び、
医者は患者から学びながら、
成長して行くのである
一緒に。

 

 

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此(こ)の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業(たいぎょう)は成し得られぬなり。」(『西郷南洲遺訓』)

西郷南洲(隆盛)の残した有名な言葉である。
この言葉についてちょっと書いてみたくなった。

そもそも人間が執着しそうなものとして、金、社会的地位、名声があるが、最も執着するのが自分の命である。
それは生物学的な命であると共に、自我意識(自分が今ここに存在しているという意識)ということでもある。
従って、その命も自我意識も要らない、失って結構、投げ出して結構、となると、もうそれ以上に失うものはないので、恐いものは何もなくなる、ということになる。
よって、国家の大業でも果たすことができる。

それが何も国家の大業でなくともよい。
人それぞれに今回の命を与えられた意味と役割がある。
そのために授かった命であるから、そのために死ぬのであれば、それは元より本望であろう。
逆に天命を果たさずして、金を得ようと、社会的地位を得ようと、名声を得ようと、長生きしようと、その人生に何の意味があるというのか。

 

ところで

今回の人生における

あなたのミッションは何ですか?

 

小心翼々とうまいこと立ち回って、私利私欲に走るのが当たり前の現代。
この国にはそんな先人もいたのだ、ということを忘れないでいただきたいと願う。

 

 

私も生まれつきはバリバリのお調子者だったと思う。
幼少期のそんな写真がいくつも残っていた。
そのままに育てっていたら、随分と愉快で能天気な大人になっていたであろう。

しかし、あの劣悪な生育環境の中で生き残るために、止むを得ず、陰を薄くし、気配を消すことを覚えた。
目立てば、不意に酷い攻撃を浴びる危険性がある。
そして元気のない従順な子どもができあがった。
そうしてそのまま、気配を消す一辺倒で生きていくのであれば、それはそれで(幸せでがないが)簡単にやっていけたかもしれない。

しかし親からの要求はそこに留まらなかった。
一方で親に対する完全服従を要求しながら、他方、特に家庭外、学校で“できる”“目立つ”生徒になることを要求された(これは親の虚栄心を満たすためである)。

これには苦労した。
影の薄い人間と、存在の濃い人間の両方を演じ分けなければならなかった(いずれにしても演じていたのである)。
その結果、学業優秀、学級委員、運動部部長、生徒会長などをやりながら、今でも覚えているのは書道の先生からいつも「松田くんは元気のない字を書くなぁ。」と言われた。

それからの紆余曲折は、長くなるので省略するが、結局のところ、近藤先生との出逢いのお蔭で、自分を取り戻すことに成功したのである。
だからもう気配を消したり、存在を打ち出したりすることはなくなった。
今は今の自分の気でいられる。
しかもそこそこお調子者でもある。

普通ならこれでそれでめでたしめでたしなのであるが、そうはいかなかった。
近藤先生に接していると、存在の気迫が違うのである。オーラの強さが違うのである。
そしてそこに意図的なものは全くない。
近藤先生を近藤先生させている気が凄まじいのである。
自然体でこういう人もいるんだなぁ。
そしてそれが今の自分の目標となっている。
意図的な臭みや我の臭みなしで、確かに存在すること。確かに存在させられていること。
そのときにようやく松田仁雄は本当に松田仁雄になったと言えるのであろう。

 

 

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