八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「今は情報化の時代ですからね…沢山情報は何時でも、直ぐ、早く手に入るのですけれども…本当に何か自分自身の、何というか、自分の存在全体にグンとこたえるような感動、自分の心と身体全体をゆり動かすような、そういう種類の情報を我々は今日感じられるでしょうか。私はひとにこういう感動をもたらし、気づかせるのが本当の情報だと思うんです。…
情報がたとえ早く、しかも多くなっても、よほど、心を落ち着けて、どんな情報が自分にとって本当に必要か、よほどよく考えないと混乱してしまって、世界中にあふれるほどの沢山の情報があっても心の落ち着きは運んでくれないのではないでしょうか。いわんや本当の心の落ち着きのもとである安心はもたらされないのではないか、と思います。…
私は年を取ることはいいことだと思います。年を取らないと分からないことも沢山ありますし、つまらないこともあんまり感じなくて済みます。そこで『年を取らして頂いて有り難いなぁ』と思って頂きたい。若い時代は若い故に沢山の情報に敏感でつまらない事で悩んだり、苦しんだり、求めたりして、波にももまれるように暮らしているものです。それに比べれば年をとると、頑固になることに十分注意すれば、何か心が騒がず、落ち着いて来るものです。これは年寄りの有り難さなんですね。」(近藤章久講演『情報化社会は人間を救うか』より)

 

若い頃は、できるだけたくさんの情報を、できるだけ早く入手して、うまいこと立ち回りたいと思うものです。
それで、そのうまいこと立ち回って得た報酬はどれほどのものなのでしょうか。
たとえそれで天文学的な収入を得たとしても、世俗的な名声を得たとしても、それで本当の出生の本懐(自分が今回この人生に生れて来た意味)が得られるのか、ということとは別問題なわけです。
それならば、たくさんの情報を早く、というとらわれを脱して、本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報にのみ絞り込んで行くことが必要なのかもしれません。
特に若い方々にはそのことをお勧めします。
そして年輩の方々は、折角、意図的に頑張らなくても自然にガツガツ立ち回ることができなくなるようにしていただいているわけですから、
本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報だけを大事にして行くことがより容易に行いやすいわけです。
従って、老若男女を問わず、絞りましょ、ホンモノの情報に。
ホンモノの人生を生きていくために本当に必要な情報は、それほど多くないのかもしれません。

 

 

今日は令和6年度7回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目に続いて7回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

c.神経症的誇り neurotic pride

一方に於いて、「仮幻の自己」の高みに立つものにとって、あらゆる他のものは卑に見える。今や長い間の卑劣感や劣等感から免れて、他に優越、超出(ちょうしゅつ)し、栄光に包まれた存在としての自分を発見するのである。
優れて価値あるものとして自己を発見する時、おのずからそこに誇りを感じる。これが神経症的誇り neurotic pride と呼ばれるものであり、神経症的性格のすみずみに行き渡っている。だから見方によっては神経症的性格は誇りの体系とも見られる。それは神経症者の生きる様々な状況に於いて極めて敏感な、主観的な標尺(ひょうしゃく)として作用する。
彼の外に対する要求 claims に於いても、内に対する要求 shoulds に於いても、誇りの感情はいつも働き、よろこび、悲しみ、痛苦、快感等の烈しい感情的反応の源泉となる。誇りは一定の自己評価に基づいているから自信と同じ結果を与える。自信と同じ様に誇りは彼の生活を支持し、生甲斐(いきがい)を与える。
しかし、誇りは自信と違って、現実的な自己評価でなく、想像された自己の仮幻の価値にもとづいているから、当然現実に面する時傷つき易い弱点を蔵している。
この脆弱(ぜいじゃく)性を曝露(ばくろ)されることの危険を感じると、主観的な自分の価値を守る為に ー 神経症者は、その様な状況を回避したり、或は曝露され傷ついた時は、それによって生ずる屈辱感や怒りを、自分の面子(めんつ)が傷つけられたとか、正義の怒りだとか、愚なものの為に耐え忍ぶだとか、様々な口実を設けて合理化するのである。
しかし、この脆弱性は本質的なものであるから、これを守る為の様々な試みは、神経症的悪循環を増大するのみであって、解決にならないのは当然である。そして結局のところ、その様な脆弱性を持つ「現実の自己」を許し難いものとして非難し、それに対して軽蔑と憎悪を感じるのである。

 

自分が自分であることに寄り添われずに、そして、自分が自分であることを否定されて育った人間でも、やっぱり自分の存在には価値があると信じたい。
しかし、自分が自分であることに価値を認めてもらえないとなると、何でもいいから、価値がありそうなものをでっちあげて、それにすがるしかない。
それが「仮幻の自己」。
そして
そこに誇り=神経症的誇りを感じたいと願う。
しかし、「仮幻の自己」は余りにも理想的に過ぎるため、
[例]誰からも愛される、成績が誰よりも優れているなど。
満たされない度に傷つく脆(もろ)さを持っている。
そのため、その不満を他人のせいにしたり、理想の「仮幻の自己」を実現できていない「現実の自己」=今の自分のせいにして、責めたてるのである。
やっぱりそもそもの「仮幻の自己」に大きな問題があったのだ。
そして、小さい頃はしょうがなかったけれど、大人になった今は、そろそろ「仮幻の自己」じゃなくて「真の自己」を取り戻す方に舵を切りませんか、という話につながっていくのである。

 

 

子どもには、何かこう、愛を求め、愛というものを、本当にね、感じたい、幼い気持ちが、いや、子どもらしいというよりも、全人類に共通したそういうものが、心の中にあると思うんです。我々全人類っていうものはね、大人も子どももです、我々は愛というもの求め、それに渇(かわ)いている人間じゃないでしょうか。…
よく子どもは授かりものだと。そうなの。授かるって、何を授かる。自分がそれを本当に健やかに、幸せにするように、のびのびと成長さすように、そういう役割を自分は持ってる。母という役割を持ってる。そういう気持ちでね、見て下さい。だから、その生命(いのち)を汚しちゃいかん、その生命(いのち)を傷つけちゃいかん、その生命(いのち)を健やかに育てて行かなくちゃいけない。そのために私たちは、まず第一に大事なことは、自分自身の心を正直な、偽りない、偽善でなくて、本当の意味の愛というもの、正しい、本当の、正直な愛というものを子どもに対して持つ、その生命を育てて行く、ということが必要じゃないかと思う。
どうか、もう一遍繰り返しますけど、具体的にそれを言えば、子どもを認めてあげて下さい。旦那さんも認めてあげて下さい。自分を認めてあげて下さい。…
だから、結婚の愛というもの、夫は妻の生命がすくすくと育つようにするのが夫の愛です。妻は夫がすくすくと、その生命が伸びて行くようにする。これが妻の愛です。…
その根本的な愛があるならば、自分の子どもに、授かった子どもに対して、その生命を育てて行くために、一所懸命、どんない苦労しても、こんなにやりがいのあることはない、と私は思うんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

人間一人の一生の間で、まず自分一人の生命(いのち)を本当に愛し、本当に育てることができたならば、それは素晴らしいことだと思います。
そして、自分以外の生命(いのち)を一人でも、本当に愛し、本当に育てることができたならば、それはさらに素晴らしいことだと私は思っています。
ですから、
縁あって夫婦になることの本当の意義

縁あって子どもを授かることの本当の意義
縁あってわたしがあなたに出逢った本当の意義
を確かに掴み、

相手の生命(いのち)を本当に愛し、育てて行くことに、
あなたに与えられた深いミッションを感じていただきたい、と切に願うのであります。

 

 

「人間ってものは自分を認められたいという気持ちがあるんです。どんな小さな子どもでのね、認められたいんです。…
まず認めるということが、私、非常に大事だと思うんですよね。認めてもらえばね、なんとなく嬉しいんです。なんとなく嬉しい気持ちですね。それから聞くとね、悪口でも聞けるんですよ。…
認めてやる。これは甘やかすことじゃないんですよ。そこんところ、間違えずに。甘やかすというのはね、何でもかんでも賛成しちゃうことなんですよ。いいですか。…
ちょうど3歳くらいからね、5歳くらいまでの間っていうものはね、これは自律性のときなの。そのときにね、一番問題なのは、自分がそれまで思わなかった、いろんな欲望が出て来る、わかって来る、そういうときにそれをやろうとすると、なかなかそれがうまくできない場合がある、ね。そういうときに、これをですね、なんでもやらしちゃうとですね、それこそ、自分の思うことを何でもね、衝動的にやるというね、そういう人になりがちなんです。
この3歳から5歳を僕は非常に重要視するんですがね。その頃に、できないこととできること、こういうことは許されないことであり、こういうことは許されることである。それをはっきりお母さんがケジメをつけて言わないといけないと思います。…そのことがね、後に彼および彼女にとって非常な、僕は、幸せになると思うんです。つまり衝動的にならないんですね。…
けども、そのときにです、単にやかましいんでなくて、どうかね、あなた方の、これは本当に自分はいけないと思うんだと、心ね、自分の気持ち、そういうものがね、素直なね、本当に子どものためを思う愛情というものであるかどうかっていうことをまず吟味してね。…つまり、どういうことかと言えば、子どもにとって大事なことは、お母さんが本当に、正直に感じて、自分を愛して認めてくれているかどうかということが、正直にというポイントが要るわけ。口先でなくて。そういうことが一番子どもにとっては大事なことなんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

認めるということは、単に甘やかすことではない。
ケジメをつけて言うということは、単にやかましいことではない。
認めるときも、ケジメをつけて言うときも、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対する畏敬の念がなくちゃいけない。
そんな大切なものをこんなポンコツな親に託されたのだから、ポンコツなりの精一杯で、愛し、認め、ケジメをつけ、この子がこの子になりますようにと祈りながら育てなくてはいけない。
その祈る姿勢の中に、あなたの感情を超えた愛が、あなたを通して働くのである。
ですから、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対して、すべてを投げ出して合掌礼拝(らいはい)する(=手を合わせて頭を下げる)ことを強く強くお勧めします。

 

 

昨日の話をもう少し発展させたい。

昨日の説明では、
Aさんは、「超自我」(見張り番)による「強制(compulsion(コンパルジョン))」で動き、
Bさんは、「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」で動き、
Cさんは、「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」で動いた、
というように思えるが、実際はそう簡単ではない。

「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」の要素をα(アルファ)、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」の要素をβ(ベータ)、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」の要素をγ(ガンマ)
とするならば、
実際には(あくまで「例えば」の話であるが)、
Aさんは、αが7割、βが2割、γが1割で動き、
Bさんは、αが1割、βが7割、γが2割で動き、
Cさんは、αが1割、βが2割、γが7割で動いた、
という方が、より正確であると言えるのだ。

即ち、何が言いたいのかと言うと、
「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「自発的自由意志(ボランティア)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「自発的自由意思(ボランティア)」が混じっている、
ということである。

最初からこう言うと、話がややこしくなるため、まず最初に昨日のように単純化した話をしたのである。
しかし、上述の方が正確であることは間違いない。

そして、この中で特に重要なのが、すべての行動に「天命(ミッション)」が入っている可能性があるということである。
どんな行動にも、本人の「超自我」(見張り番)や「(自)我」を超えた「天命(ミッション)」が働いているかもしれないという事実には、希望と光がある。

そして同様に重要なのが、たとえ最初に「思わず」「天命(ミッション)」で行動した(させられた)人であっても、
ふと「この行動はすべきであったのか」と「考え込んで」しまったり(「超自我」(見張り番)の「侵入)、
つい支援活動を褒められて嬉しくなったり、批判されてガッカリしたりする(「(自)我」の侵入)
ことがあるかもしれないのである。
こう言うと、「天命(ミッション)」が100%でないことは残念なような気もするが、
そんな「超自我」(見張り番)や「(自)我」が混じっていることが、とても「人間的」あるいは「凡夫的」であるという気もして来る。

思えば、近藤先生は、天命(ミッション)に生かされる人でありながら、非常に情の厚い方であった。
いかに悟っていても、この人間臭がないと、地上に肉を持って生きている人間として、どこか豊かでない、彩りがない、瑞々しくない、と私は感じてしまう。
そして、いつも
「煩悩即菩提」

「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」
という言葉が浮かんで来るのであった。

 

 

ある3人が被災地支援に出かけて行った。

Aさんは、内なる見張り番から「支援に行くべきである」「支援に行かなければならない」と「強制」されて出かけて行った。
内なる見張り番とは、その人が生育史の中で環境(多くは親)から埋め込まれた「~べきだ」「~ねばならない」の主(あるじ)を指す。
被災者がいると聞いて何もしないでいると、内なる見張り番から責められ、罪悪感と自責の念に苛まれて、落ち着いていられないのである。
こういう人の第一の特徴は、見張り番が自分を締め上げるのと同時に、返す刀で、他人も裁くことである。
よって、自分はやるべきことをちゃんとやっているという「自負」があり、「どうしてみんな支援に行かないのか」と支援に行かない人たちを上から目線で「裁く」。
支援に行くことは、見張り番(超自我)からの「強制」である。

Bさんは、自分の自発的自由意志によって、支援に出かけて行った。
被災者が気の毒だ、という情緒的な理由が大半を占める。
語源的にもボランティア(=自発的自由意思によって動く)に最も合致する行動である。
しかし自発的自由意志とは「(自)我」を根源とする。
よって、支援したことが余り感謝されなかったり、ましてや不満をぶつけられたりすると、たちまち気持ちが萎える。時には怒りさえ覚える。
喜ばれたい、評価されたい、が付いて回るところが我の所業らしいことろである。
誤解のないように付け加えれば、ボランティアは一般市民の善良なる思いから出るものであり、現実に大きな貢献をしていることは事実である。
そこを踏まえた上で、その行動の出どころを観抜くのが私の仕事である。

Cさんは「思わず」出かけて行った。
Cさんを通して働く力に催されて、支援に出かけて行ったのである。
よって、「~べきだ」「~ねばならない」の重さはない。
喜ばれたい、評価されたい、の粘っこさもない。
たとえ全然評価されなくても、心ない批判を浴びても、芯は揺るがない。
それは一方的な行動なのである。
そこに働いているのはミッションなのだ。
実は、先に挙げたボランティアの方々の中にも、ミッションで行動している人たちが含まれる。

「超自我」による「強制(compulsion(コンパルジョン))」でもなく
「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」でもなく
言わば「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」があるということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

「私ね、一番嬉しいのは、こういう仕事をしながらね、子どもをやるでしょ。お母さんが良くなっちゃう。お母さんが良くなると、お父さんが良くなる、全体が良くなっちゃう。とてもそれが楽しいんですよ、ね。で、これはね、教育っていうのは、学校でもって教育するのが教育委員会みたいですけどね。でもね、こういうふうに言いますとね、僕は医者としての、こういう仕事をしながらね、一種の社会教育だと思ってんですよ。それでね、その方がまた他の方と付き合われるでしょ。他の方もまた、そういうことで感じますね。段々とこう広がって行くね。だから私は、とっても今、自分がやってる仕事がね、教育もね、だから医学もね、ちっとも矛盾しないもんだと、こんなふうに思うんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

こういう家族から家族への、人から人への波及効果とでも言うのでしょうか、家族については私も何度か経験があります。家族の順番がちょっと違いますが。
前、思春期の子どもたちの不登校に関わっていた頃、まず最初から本人は外来には来ません来られるのは大抵、お母さん一人です。
そして、お母さんと何回も話すうちに、少しずつ少しずつお母さんが変わって来ます。
するとある日、お母さんと一緒に、本人がふらっとやって来ます。
そして本人は余りしゃべらず、最初はちらちらとこちらをみているだけですが、お母さんによれば、お母さんの変化を見て、どんな医者か一遍見てみようと思って来たとのこと。
それがポツリポツリ通って来るようになり、段々話してくれるようになります。
そして段々元気になって、顔つきまで変わって来ます
これからのことも本音で話せるようになります。
…と、忘れた頃に、お父さんがやって来て、周回遅れ、かつ、カメの歩みで成長して行きます。
大抵、お父さんは最後です。

そんなことがありましたね。
確かに、成長の連鎖はとっても嬉しいです。

 

 

ちゃんと泣いてますか?
声を出しておいおい泣いてますか?
突っ伏してさめざめ泣いていますか?
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと泣いて、「悲しみ」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

ちゃんと悔いていますか?
ああすればよかった、ああしなければよかった、ああ言えばよかった、ああ言わなければよかった、と声に出して後悔していますか?
奥歯を噛みしめ、拳(こぶし)を握りしめて、悔やんでいますか?
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと悔いて、「後悔」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

そして、ちゃんと怒ってますか?
悲しみや後悔によって、怒りは押し込められているものです。
しかし、故人への怒りも恨み言もあるはずです。
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと怒って、「怒り」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

そしてちゃんと十分に感じてあげることで、これらの感情もまた成仏して行きます。

必要な時間は、何日でも、何週間でも、何カ月でも、場合によっては、何年かけてもいいのです。
そしてそれが終わってから、今回の人生で故人と出逢った本当の意味について、ゆっくりと振り返って行きましょう。
本当の「愛」と「感謝」が溢れて来るのは後からなんです。

 

 

特別養護老人ホームにて:
認知症の高齢女性の前で、ある職員がその女性を侮蔑したような悪口を言っている。
他の職員が諫(いさ)めると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

若い家族の自宅にて:
お昼寝している幼児の横で、お母さんがその子のダメなことろを数え上げている。
夫が注意すると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

観光地の飲食店で:
外国人観光客の前で、日本人の店員がその客たちの言動を笑いものにしている。
他の店員が指摘すると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

いいや、わかっています、 あなたの悪意が。

 

また、
ある病院で:
若いお母さんが重度心身障害児の我が子の背中をさすりながら、ずっと話しかけている。
やめさせようとする夫に
「わからなくてもいいのよ。」

認知症治療病棟で:
重度の認
知症の父親に娘さんがずっと子どもの頃の楽しい思い出話を聞かせている。
止めようとする母親に
「わからなくてもいいのよ。」

新宿駅で:
階段の途中で、大きな荷物を抱えて苦労しているアジア人観光客に、ほぼ日本語で話しかけて助けようとしている若い女性がいる。
日本語で言っているのをやめさせようとする彼氏(多分)に
「わからなくてもいいのよ。」

いいや、わかっています、 あなたの愛が。

 

我々は言葉だけでコミュニケーションしているわけではありません。
存在と存在でコミュニケーションしているところがあるのです。
それが伝わる、届く、響く。
ならば、悪意ではなく、愛を伝えましょ。

 

 

禅においては、経論や語録などの書物を読むばかりで、坐禅を徹底しない、存在をかけて公案に挑まない姿勢を「黒豆食い」と言って批判した。
墨蹟黒々とした漢字を黒豆に譬えたものである。
黒豆のような漢字ばっかり追いかけていて、真実の体験がない、ということだ。

また、心学においても、儒教や仏教、神道などの書物を読むばかりで、学んだことが体得されていない、生き方に現れていない人間のことを「文字芸者」と呼んで批判した。
文字を操るだけの芸者という意味であろう。
いわゆる「論語読みの論語知らず」などもその中に含まれる。

いずれにしても、知識や理解よりも、体験や体得でなければ意味がない、という立場である。

そういうと難しいことのように思われるかもしれないが、実際には意外と簡単である。
その人間に逢ってみればわかる。
日々の言動を見ていればわかる、のである。

体験がある者にだけ感じられるものがある。
存在から匂い立つものがある。
日常のささやかな言動の中に、その人間の本音の本音が現れる。

私はそうやって近藤章久を見つけ、
親しく接するようになっても、さらに信頼が深まった。

そして、そういう人を観る眼というのは、やっぱり自己責任なのだと思う
今までも申し上げて来たように、人を観る眼がないのは致命的である。
我々の生涯をかけて、「黒豆食い」でないホンモノを見つけ、
我々の生涯をかけて、我々自身もまた「黒豆食い」でないホンモノになって行きましょう。

 

 

あるフロイト派の精神分析家が言っていた話。
面倒臭い患者がいたとする。
できれば、こんなヤツは診たくない。
そんなときどうするかというと、わざとそのクライアントが怒るようなことを言うのだという。
そうすれば、こちらに愛想をつかして来なくなる。
それで厄介払いができてめでたしめでたしなのだと。
最初にこの話を聞いたときは、我が耳を疑った。
そもそも面倒臭いことをやるのが精神科臨床であり、その苦労が臨床家を育てるのである。
また、百歩譲って、どうしてもクライアントと合わない場合もあるかもしれない。
そうだとしたら、それを真正面からクライアントに言うことが、せめてもの誠実な姿勢であろう。
わざと怒らせて来ないようにするというやり方は、余りにも小汚い、ちょろまかしである。

一方で、そういうセラピストがいる。

昔日、近藤先生のところに、それこそ思い切り面倒臭い患者が通っていた。
たまたま私も面識のある人間である。
ひねくれて、意地が悪く、屁理屈をこねては抗弁し、虚栄心の強い、思い上がった人物であった。
それまでもいろいろなセラピストのところを転々とし、うまくいかないのはみなセラピストのせいにして来た。
そんなクライアントに対し、先生は非常に丁寧に面談を続けられていた。
クライアントの抱える問題は溢れ返り、ツッコミどころは満載であったが、そのクライアントが実は、心が傷だらけで非常に傷つきやすく無理に虚勢を張って生きて来たのを観抜いていた師は、その傷口に不用意に触れぬよう、丁寧に丁寧に扱った。
無造作に傷口に指を入れれば、彼はすぐに怒り出し、すぐに来なくなってしまうだろう。
師は、このクライアントが自分のところでないと良くならないだろう、ということを観抜き、悪態をつかれようが、無礼な態度を取られようが、通い続けられるようにと、辛抱強く付き合っておられたのである。
そこには確かに、面倒臭い愚かなクライアントへの愛があった。

他方で、そういうセラピストもいる。

臨床にいけるこの二極のセラピストを知ったことは、有り難い勉強となった。
そんなセラピストたちがいるということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

今日は、今まで度々触れて来た、人間の「承認欲求」について改めて振り返ってみようと思う。

(1)まず最初が「他人から認めてもらう」ということ。
まず、子どもの頃の我々は、親に認めてもらいたい。
それから、先生に認めてもらいたい。
それが長じて、自分以外の他人から認めてもらいたい、という欲求を持つ。
他者からの承認が、自己の存在意義の裏付けとなり、他者からの承認は素朴に嬉しいことでもあるが、そこにとらわれると「他者評価の奴隷」の人生が口を開けて待っていることになる。
しかしまだそれが子どもの頃ならいい。
自我の発達途上にある子どもたちは
「お母ちゃんに認めてもらいたい。」
「先生に認めてもらいたい。」
「友だちに認めてもらいたい。」
と確かに思っている。
それは絵に描いたような「小児的欲求」である。
しかし、それが大人になってからもまだあるようだと問題になってくる。
「おいおい、あんたはもう子どもじゃないよ。」
と言いたくなるが、あなたもよく御存知の通り、これがいい年をした大人に非常に多い。
名声、有名になることを求める気持ち、虚栄心などなど、かなり強いよね。
あのね、成人したらね、ちょっとは成長して次の段階に移って行きましょうよ、
他者評価の奴隷の自分に、そろそろ本気で情けなさの自覚を持たれてはいかが、と申し上げたい。

(2)そして次が「自分で自分を認める」ということ。
他者不在。いや、他者不要である。
自分の価値は自分で決める。
他人から褒められようと、けなされようと、関係ない。
こうなってようやく、ちょっと成長した匂いがして来る。
自立といっていい。
しかし、注意すべき点もある。
ただの、ひとりよがりの、思い上がりの「我立」に陥らないことである。
「聞く耳持たぬ」で突っ走るだけでは、他人から認めてもらいたい「小児的欲求」は脱していても、まだまだつっぱらかった思春期あたりのお兄ちゃんお姉ちゃんレベルである。
その自分が、あなたがそう思い込みたいだけの自分なのか、本当の自分なのか、がきちんと検討されていないのだ。

(3)そして最後が「この世界から認められる」ということ。
これも他者評価は必要としないが、
自分で自分を認めるという自己評価も必要としない。
その存在を通して働く力によって
サクラがサクラするように
スミレがスミレするように
あなたがあなたするように
わたしがわたししていくのである。
いわば、わたしをわたしさせる力が、わたしを通して働いていることを感じたとき、自分の存在がこの世界から証明された体験を授かるのである。
この体験は絶対的である。
他者評価や、自己評価によるような、不安定さがない。
それでいて、これには独善の怖れもない。
サクラはこれ見よがしにサクラせず、スミレは肩で風を切ってスミレしない。
淡々と、それでいて絶対的な安定感を持って、わたししているのである。

折角、生命(いのち)を授かってこの世に生まれて来たからには、この境地を目指して、生きて行きたいと私は願っている。

 

 

「子どもっていうものはね、母親と父親のですね、こころの中をね、鏡のように反映してるんですよ。これはね、うっかり、あなた方ね、子どもだからと思ってね、甘く見ると大変なことになるってことを一度申し上げておきたい。…
例えば、女の人は…男の人の気持ちというものをしょっちゅう、こういう具合にして、レーダーをやってですね、どんな気持ちであるか、主人は私のことをどう思ってるか、というようなことをですね、見てるんですよ。これは、正直言って、僕はいろいろ知ってるから、そう言うんでね。皆さん、そうじゃないなんて言わせません(笑)。それはそういうふうな、いつもデリケートな、『あの人、今日はどこへ行っちゃった?』なんていうんで、『どこへ行っちゃったんでしょ。』なんてね、レーダー、すごいんですよ。これね、それぐらいにね、自分が愛されたい。愛情の対象ってものに対しては、非常に人間っていうものはん、自分のレーダーを張るもんです。
同じようにね、子どもってのはそういうもんです。もうお母さんのちょっとした言い方でもね、お母さんの心がどこにあるか、すぐわかるんです、ね。この前も、子どもがね、何かな、プラモデルかなんか買ってくれないっていうんでね、死んじゃったっていうでしょ。あれだけ見たら、お母さんは、『私、なんだかわかりません。』とね。『いつでも買ってやると言ってたのに。』なんて。『どうしてかわかりません。』あれはね、あれだけ、新聞記事では読めませんよね。…相当お母さんに、僕は問題があったと思うんです。お母さんがきっとどこかね…自分の子どもに対してね、本当の意味のね、愛情をね、注いでいなかったと、注意していなかったということが僕はあると思うんです。人間、私は、そういう隙(すき)があるもんですよ、ね。
うっかりしているうちに、ホントに、例えば、旦那さんが、あなた、女性関係があってですね、そんなことばかり考えてたら、心が、あなた、子どもに行きませんよね。いいですか。なんかあっても、『ああ、お金あげるから買ってらっしゃい。』それでよそのことを考えてる。これはね、いかにも『私はお金をやったから。』とやるようなもんだけど、そうはいかないんですよ。子どもっていうのは非常に、そこ、敏感なんですよ。子どもは、だから、これはペアレンツばかりではない、ティーチャーズにもそうなんです。子どもはね、あの先生がね、どんなふうに自分を思っているかっていうことに、やっぱりレーダーかけてるんです。こうやって、ね。だから、そのね、先生が依怙贔屓(えこひいき)するかしないかってことに非常に鋭敏です。
ですから、子どもっていうものはね、その代わりですよ、逆に、愛情をかけてやれば、非常に、その、スッとわかるんです。もうひと言でそれを感じてしまって安心するんですね。そういうものなんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

小さくて弱い子どもは、愛情の対象である親に対して、それから、関心の対象である先生に対して、一所懸命にレーダーを張っています。
親には愛されたいし、先生からは認められたいもの。
だから、親や先生の(表面的言動ではなく)本音を非常に敏感に観抜いて来ます。
そしてその影響の大きさを侮(あなど)ってはいけません。
その子のそれからの一生を左右し、生き死ににさえ関わることもあるんです。
ですから、愛しましょう、認めましょう、その子がその子であることを。
(ここについては小欄『子ほめ』も参照)
その子が、間違いなく、その子の人生を生きることができるようになるために。

 

 

心学の書に
「草木(そうもく)は天にたがはざるも因(より)て、教(おしへ)は不入(いらず)。人は喜怒哀楽の情に因(より)て、天命にそむく。故に教をなして人の道に入れしむ。」(石田梅岩『都鄙問答』)
(草木は天に背(そむ)かないので、教えはいらない。人間は喜怒哀楽の情によって天に背くので、教えによって人の道に入れさせなければならない)
「赤子(せきし)の心を失はざる者は聖人なり。」(同上)
(赤ん坊の心を失わない者は聖人である)
とあった。
全くおっしゃる通りである。
ああ、それなのに、それなのに、我々はその後の生育環境の影響を受けて、赤心(せきしん:赤ん坊の心)の上に塵埃を積み重ねて、ろくでもない大人になって行く。

聖書に言う。
「もし汝(なんじ)ら飜(ひるが)へりて幼兒(おさなご)の如くならずば、天國に入(い)るを得(え)じ。」(『新約聖書』マタイ傳福音書)
(あなたたちはもし心を入れ替えて幼い子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない)

「天國はかくのごとき者(=幼兒(おさなご))の國なり。」(同上)
(天国はこのような者たち(=幼い子どもたち)の国である)
全く同じではないか。

また、禅でも
「赤心片片(せきしんへんぺん)」(『碧巌録』)
(赤ん坊のような純粋無垢な心が満ち満ちていること)
をよしとする。
かの良寛さんが小さな子どもたちと遊ぶのを好んだのもそのためであった。

しかし、失望する必要はない。
赤心はあなたの中にずっとある。
そして、いつでも出て来る、あなたが本当に安心さえすれば。

 

 

ある小学校1年生の男の子が絵を描きました。家庭に問題があり、困った行動を重ねる子でした。ひとつは首がちょん切られてる絵。次に骸骨の絵。これ、殺すでしょ。やってやるんだというときにね、敵意があるんです。こうしてやるんだ。こうしてこんなふうにしてやるんだと、これね。これが出て来たら、つまりこのの場合は、ひどい敵意があるんですね。これがわかる。子どもだから敵意がないなんて思ったら大間違いなんですよ。その敵意こそ重要なことなんです。…
フロイドという有名な、これは精神分析の、まあ、最初に作った人ですが、その人が最も悲観的な考え方を持ってるんですが、人間っていうものは敵意の動物ではないか。そして最後に皆殺しにしてお互いに死ぬんじゃないかっていうような、そういうことまで考えたぐらい、敵意っていうのは人間の深いところにあるんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

子どもは小さくて弱い存在です。
ですから、親や大人たちから理不尽なことをされ、本当は親や大人たちに対して敵意や怒りを持っていても、それを出すことができません。
特に親は、それがどんな親であっても、愛着の対象でもありますし、愛されたい。
となれば、余計に敵意や怒りを出すことが、いや、感じることさえ、できなくなってしまうかもしれません。
しかし、たとえ抑圧したとしても、子どもは敵意や怒りを持っています、確実に、こころの奥底に。
それが身体化症状になったり、さまざまな不適切行動や非行になったりします。
また、子どもが大きくなったときに、その敵意や怒りが、
あるときは、復讐の形で当の親に向けられ、
またあるときは、親に代わる対象にぶつけられたりすることもあります。
そうなんです。子どもたちは怒っています。
そのことを親は、大人たちは、知っておかなければなりません。
で、どうするか。
親や大人たちが子どもへの言動を気をつければ良いのか?
違います。そんな意図的・表面的配慮は要りません。
答えは決まっています。

子どもを愛して下さい、こころから。
それしかありません。

 

 

[次回の『金言を拾う その40』につづく]

 

 

「子どもって小学校1年、2年ていうのは…大人の人みたいに、言葉でうまく言えないんですよ。言葉っていうものは人間に、おかしなもんでね、自分を正しく表現する道であるけれど、また、嘘をつく道でもあるくわけですね。
言葉っていうのは、案外、信用できないんですけども、大人の場合は言葉で、まあ、ある程度、行きます。私は、仕事ですからね、大人の人の患者を診てるんですが、随分、大人って嘘をつくもんだと思いますよ、聴いてるとね。それはね、一遍くらい嘘をつくのはわかりますが、二遍も三遍も嘘をつく、十遍も十五遍も聴いてますとね、ああ、そこも忘れてる、前の嘘をね。こっちの方とね、矛盾してしまうわけですね。
『あなた、この前、こう言いましたけれど、どっちが本当ですか?』
と僕が訊くんですけどね。
『あ、先生、そう言いましたか?』
なんつってね、訂正なさるけど、最後まで嘘はつけないもんですね。私なんかの仕事をしてると、僕の前じゃあ、あんまり嘘はつけなくなっちゃうんです、そりゃあね。嘘をついたらちっとも良くならないんですもんね。」

 

私も仕事柄、クライアントの話を聴く場合、基本的には、その人の発言を全面的に信じるようにしている。
しかし、私もバカではないので、ああ、これはウソだな、ということは概ね(全部とは言わないが)観抜くことができる。
それは意図的なウソもあれば、
本人さえもそれと気づかず、、無意識についているウソもある。
大事なのは、それがウソかマコトかではなく、
それもこれもひっくるめて、こちらが(私が)、この人がまっすぐにこの人を生きて行けるようになると良いなぁ、と心から祈れるかどうかである。
騙されてもいい、観抜けてもいい、そこは事の核心ではないのである。
そうやっていると、不思議なことに、クライアントのウソは段々少なくなって来る。
近藤先生のおっしゃる通り、ウソをついているうちは、何も変わらないもんね。
そうして初めてクライアントは、どんな自分も、闇も光もさらけ出して、本当の自分に収束して行くのである。

 

 

都内世田谷区、東急大井町線「九品仏(くほんぶつ)駅」下車、徒歩5分のところに、「九品山 常在念佛院 浄眞寺(じょうしんじ)」というお寺がある。
浄土宗のお寺で、ここには元々近藤家のお墓があり、故近藤先生の遺骨は、このお寺と、後に縁のあった浄土真宗の東本願寺(浅草にある東本願寺、浄土真宗東本願寺派本山)と牛久アケイデイア(牛久大仏があるところ)の3カ所に分骨されている。

この浄眞寺には、九体の阿弥陀仏像があることで知られ、それは「往生者の機根の高低、信仰の浅深によって往生の仕方に九種ある」という観無量寿経の考えに基づいている。
つまり、我々は
上品上生(じょうぼんじょうしょう):上の上の人
上品中生(じょうぼんちゅうしょう):上の中の人
中品下生(じょうぼんげしょう)  :上の下の人

中品上生(ちゅうぼんじょうしょう):中の上の人
品中生(ちゅうぼんちゅうしょう):中の中の人
品下生(ちゅうぼんげしょう)  :中の下の人
下品上生(げぼんじょうしょう)  :下の上の人
下品中生(げぼんちゅうしょう)  :下の中の人
下品下生(げぼんげしょう)    :下の下の人
の九種に分けられ、それぞれがちゃんと漏れなく成仏できるように、なんと九体の阿弥陀仏像が用意されているのである。
なんとも行き届いた救いであり、大変に有り難い。
参拝者は自分がこの九種のどこにあてはまるかを考え、その阿弥陀仏像にお参りするのである。

で、あなただったら、どの阿弥陀仏にお参りします?
「ちょっと控えめに中品下生かなぁ。」
「もっと遠慮して下品上生か。」
きっといろいろ選ばれるであろう。
それでお参りされれば良い。

そして、ここからは私の個人的意見である。
こちら(参拝者)側から見れば,九種に分かれて九体の阿弥陀仏であるが、
阿弥陀さんの側から参拝者を見れば、全員が凡夫、残念ながら、全員下の下、下品下生に決まっているのである。
九体に分けたのは、阿弥陀さんの親切心であり、結局は九体全部が同じところ、下品下生の阿弥陀仏に繋がっているのだ。
親切心と言ったが、実は、そのこと(結局は全員下品下生である)に気づいてもらいたくて、敢えてまず九体に分けてから、我々を教導して下さっていると、私には思えてならない。
親切心と言うよりは遊び心に近いかもしれない。

では、私も浄眞寺の九品仏にお参りすることに致しましょう。
まっすぐに下品下生の阿弥陀仏に。

 

◆追伸 現在、九品仏は「九品佛大修繕事業」中とのことで、九体の阿弥陀仏全部が拝観ができるかどうかについては浄眞寺までお問合せ下さい。

 

 

「こうやって、皆さん、幸福でいらっしゃると思うんですけれども、それでも案外、一人ひとりの中に入っていくとですね、人には言われないような問題がおありになるだろうと思います。というのは、甚だ僭越な言い方ですけれども、どうしても人間てのは、そういう具合に、完全な幸福とか、完全な自信を持ってらしても…どこかに弱みがあったりね、そういうものが、弱いものが人間だと私は思います。つくづく、この何十年間、まあ、年の功ですけども、それで生きて来てつくづく思うことは、人間とはまことに弱い動物である…と思いますね。
で、それだけに、しかしまた人間には、弱いだけに、その弱さというものを自覚する力があるわけですね。その弱いことを自覚する力というものがあるためにですね、人間がその弱さを次第に自分でコントロールして、そして伸びて行くと思うんですね。…
で、その意味で、そのために、私が今、いろんなことを申し上げるわけですが、例として、あるいは、お聞き苦しいことがあるかもしれない。それはひとつ真実のために、ご容赦願いたいと思うんです。世の中は決して綺麗事ばかりでなくて、現実の人生ってものは、生きてるには、そこに生々しい、あるいは、目を背けたくなるようなこともあります。しかし、私たちがものを本当に考え、ものを本当に解決するためには、その真実に耐えなくてはならない。そういうことがございます。…
真実を観る眼、こういうものが私たちにどうしても必要なんですね。ですから、その意味で、私が申し上げる中に、あるいは、お聞き苦しい点があるかも存じませんけれども、どうか、そのために、あれは真実のために言っているんだと、そういうことをご了解になっていただきたいと思います。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

まず、弱いのが人間だということ。
皆さんはご自分の弱さに気づいておられますか?
弱さだけではない、自分のずるさ、卑怯さ、ひどさにどこまで気づいていますか?
どこまで認めることができますか?
そして、我々が人間として成長するためには、そんな綺麗事ではない、目を背けたくなるような真実と向き合わなければならない、ということ。
それを近藤先生は「真実に耐えなくてはならない」とおっしゃいました。
そして「真実を観る眼」が必要だ、とおっしゃいました。
すべてはそこからです。
「情けなさの自覚」からすべては始まります。
心配要りません。
情けないのはあなただけではありません。
すべての人間が情けない存在なんですから、そしてそのどん底から本当の成長の道が始まります。

 

 

児童専門外来をやっていた頃、母子手帳を拝見する機会が多かった。
それは医学的に生育経過を辿るためであったが、期せずして母親としての愛情溢れる文面に接して、胸が熱くなることが何度もあった。

そして、その後もお母さん方の気持ちに触れる度に思うのが、母子手帳は就学までのものではなく、子どもがもっと大きくなるまであっても良いんじゃないかということである。

で、何を書くのかって?
子どもに対して
怒り過ぎちゃたとき
間違ったことを言っちゃったりやっちゃったりしたとき
ひどいことをやらかしちまったとき
その後の気持ちを自分だけの胸に留めておかず、また、いつの間にか忘れてしまうことなく
ちゃんと書いておきましょうね、ということである。
その反省の中には、ただの反省だけでなく、子どもたちへの“愛”がある。
それを書いておいてほしいのだ。

そして、ただ書いたままにしておくのではなく
子どもが18歳/20歳になったとき
家を出て行くとき
社会人になったとき
結婚するとき
その書いたものを子どもに渡してほしいと思う。
それは、若い拙い親が、拙いなりに一所懸命に子どもを愛していた、ということの証しになるだろう。
そこに子どもにとっての意味がある。
(決して恩着せがましいこと/自己陶酔的なことを書かぬように。書くときは真心から書きましょう)

而(しこう)して、親が子どもに言いそびれていた大事なことを書いておく“そびれ帳”を推奨する次第である。

ちなみに、この“そびれ帳”は、親子だけでなく、夫婦でも、大切な人同士でも可能です。
そのときは、結婚〇周年や出逢って〇周年などの(1年や2年でなく)まとまった記念日にプレゼントするのがいいかもしれません。

 

 

「これはある人の詩ですが

  人によく思われたい
  変に思われたくない
  何時(いつ)の間にか見栄を張っていた私
  何時の間にか自分を無くしている私
  他人の眼が気になる
  どうしてこんなに他人の眼が気になるんだろう

しかし、これは日本にすむ我々の正直な心情ではないでしょうか。何時もそういう感じ、しょっちゅう他を気にしている。一体何処(どこ)に自分が生きているか。本当の自分はどこに生きているのだろうか、どうして何時も人のことばかり考えて人の顔色ばっかり窺(うかが)っているのだろう。これは何故でしょうか。本当に自分が大きな力で、自分も他人も超える大きな力で生かされていることを知らないからです。それに気が付かないからです。これではやがて死ぬ気配を見せずに一生懸命に鳴いて、鳴き止まぬ蝉の境地もわかるはずはありません。精一杯生きていれば、生かされているということを気付かされ感謝の心をもっているならば、我々はこんな詩のようなことにならないですよ。…
このような意味で日本人が今日もう一遍どうあるべきか考えるべき時だと思います。元来日本は明治以来かれこれ百何十年か、西洋の真似ばっかりしてやって来ましたけれども、そろそろ考えを変えて、もっと我々の…中にあるところの敏感さ、要するに我々を超えてあるもの、我々を超えて生かして下さっている力を感じる敏感さに気付き、世界中が乱れている今日この日本人の心の在り方を伝えて貰いたいと思うのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

この狭い地上の上で、せせこましく他人の思惑を気にしながら生きること、それをそろそろやめませんか、というお話です。
でも、ただやめませんか、と言ってもやめられませんよね。
かつてのあなたは、その生育環境の中で、他人(親) の思惑を気にしながら、孤独に、無力に、オドオドビクビクしながら生きて来たのですから。
でももうあなたは孤独でも無力でもない、いや元々あなたは孤独でも無力でもなかった。
もっと正確に言うならば、あなたは無力だけれども、あなたを生かして来た力は、いつもあなたに連なり、包み、あなたは孤独ではなかったし、その力は、いかなるものをも凌(しの)ぐ、広大無辺なものであったのです。
それを感じる、体験する。
そうすれば最早、他人の思惑など、どーでもいーことになるのです、あれこれ考えなくてもね、自然に。
だから、感じる力を磨きましょう、磨きましょう、磨きましょう。
そして、そのためのお話をするのが面談の場なんです。

 

 

 

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