名もなき陶工がいた。
毎日毎日、日常雑器としての茶碗や皿を何百、何千と焼き続けていた。
そんな毎日の繰り返し。
そんな中で、ふと“できてしまう”器があった。
人間国宝でも作れない究極の名品が“なってしまう”ことがあった。
そして世に埋もれがちなそんな作品を“目利き”して取り上げたのが、柳宗悦の民藝運動であった。
無名の作り手がふと“作らされた”名品があるのである。
(そんなことにご関心のある方は、東京目黒の日本民藝館に行かれると良い)

それには遥か先駆がある。
茶道において、それまで城も買えるような高価な茶碗=“名物”志向であったものを、例えば、朝鮮半島の庶民が使っていた飯盛り茶碗などの日常雑器などの中から“目利き”して選び出し、茶碗として使ったのが千利休であった。
流石である。

そして、同じことが人間においても起こった。
浄土真宗の門徒のうち、字も読めない、計算もできない、貧しき庶民の中に、本願寺の法主や禅の老師も驚くような深い信仰の境地を持った人たちが現れて来たのである。
それを妙好人という。
妙好とは白い蓮の華のこと。
泥より咲いて 泥に染まらぬ 蓮の華 である。
そんな人が出て来る、泥=娑婆の中から。

だから、何も世俗的に、立派な人や偉い人を目指さなくていいんですよ。
繰り返される日常の中で、余計なはからいのない日常の中で、なんだか知らないけれど“できてしまう”“なってしまう”尊さがあるんです。

 

 

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