八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

明日、あいつに会う。
明日、あいつが来る。
明日、あいつと話さなきゃならない。

イヤだなぁ。
休もうかなぁ。
逃げたいなぁ。

もうこの時点で
押されている
呑まれている
負けている。
言わば、“位負け”しているのである。

まずは
自分がビビって
ヘタレってることを
ちょろまかさないで

うやむやにしないで
認めましょ。
意外とそれすらも誤魔化してる人が多いのよ。
弱いんです。

「情けなさの自覚」がないことには話が始まらないからね。

そしてその上で
肚を据えて

毅然と
対峙できる
ブッ飛ばせる
ようになることを本気で目指しましょ。
それが「成長への意欲」。
ここらもちゃんと勝負しないで、事を荒立てず、うまいこと立ち回れるようになるくらいのことを目指しているビビりやヘタレも結構多いのよ。
それじゃあ、まだまだズルくて弱いでしょ。
本当の成長じゃないよね。
本当の成長のためには直面化しかありません。

もちろん、自分がビビりでヘタレであることを認めることも、
正面から相手と勝負できるようになることも、現実にはとっても大変です。
残念ながら、すぐにそうなれるわけではありません。
しかし!絶対に!そのときなりの自分なりの精一杯で奮闘し続けるんです。
その「姿勢」があることが、「今すぐ全部できなくて大丈夫」という免罪符を得る唯一の条件です。

かくいう私も間違いなくビビりでヘタレです。
でもその「姿勢」だけは絶対に守ろうと思っています。

 

 

ある若手の精神科医が外来で受け持ち患者さんの診察をしていた。
診察後、隣の診察室にいたベテラン先輩医師が、若手の精神科医に声をかけて来た。
二人のやりとりが隣の診察室に聞こえていたのであろう。
性格優しめの若手医師に対して、アク強めの先輩医師はこう言った。
「正しいことでも、押し気味に言わないと、相手に伝わらないぞ。」

後輩にアドバイスしようと思った善意は多としたいが、内容に問題がないわけではない。
即ち、これでは、「押し気味に言えば、多少間違っていても、相手に伝わる」というニュアンスになりかねず、“ハッタリの勧め”になってしまうではないか。
いかにもその先輩医師自身がそういうタイプであった。

そうではなくて、いかに性格優しめであったとしても、その発言に“勁さ”や“押し”がないのは、実は、自分の考えに“確信”がなかったのである。
“確信”がないと、声も小さくなるし、押しも弱くなる。
従って、若手医師が学ぶべきことは、まず自分自身の人間観、治療観、人生観、世界観をしっかりと(腹の底からそう思えるように)持つことなのだ。
そうなれば、自ずからその発言は、力のあるものになって来る。
そして当然、相手にも伝わりやすい。

だから、私ならば若手医師にこう言うだろう。

「まず自分の軸を持とう。」

そしてそのためには、自らの内省と人間的成長が必要なのである。

ハッタリ屋になるなよ。

 

 

今日は令和7年度最初の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目に続いて11回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※尚、神経症的性格の3つの類型(①自己拡大的支配型、②自己縮小的依存型、③自己限定的断念型)についての説明は、他の文献では見られないほど詳細である。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

b.自己縮小的依存型 self-effasive dependent type

この型のもつ「仮幻の自己」像は、丁度、上述のタイプの陰画の様なものである。自己拡大的支配型の人間が、「仮幻の自己」との同一化に没入するのに対して、この型の人々はその様な「仮幻の自己」の輝かしい像に一致出来ない自分を見出し、そのことによって自分を責め、卑小に感じ、無力な存在とするのである。
そして、それ故に自らを他人の助力や保護、そして愛情を必要とする存在であるとする。見方を変えて言えば、先のタイプにおける「仮幻の自己」によって嫌悪され、憎悪され、軽蔑される、卑小、無力な「現実の自己」に自分を同一化しているとも言える。
この型の人は、他人に勝とうともせず、目立たぬ様にし、人に従順であり、感じよく思われる様に振舞い、自分も主張しない。勝負事をしても、勝つと悪いことをした様な気がし、指導的な地位のなると不安になり、当然の権利であっても主張するのに自信がなく、他人に何かを頼むにも弁解を長々としたり、逆に頼まれたら断るのが悪い様な気がして、心にもなく引受けたりする。
自分の欲望や願望や意見を持つのは、何時も僭越で、傲慢なことだから持つべきでないのである。彼にとって優越すること、自分の事を考えること、他人に対して主張をすることは、全て許されないことなのである。
こう言う彼の態度から、私達は「よい人だ」という感じをもつ。しかし、分析によって知ることは、この様な態度が彼の「真の自己」の発展を阻止し、縮小している事実なのである。そして、その原因として、彼の謙遜さにもかかわらず、それと反対なものがあることを発見するのである。
最初に私達が発見するものは、彼は上述の様な「現実の自己」と同一化することによって、その「現実の自己」を転じて新しい誇りに満ちた「仮幻の自己」を定立していることである。この「仮幻の自己」は絶対的な無私、同情、愛、犠牲的精神というものを内容としている。まさに自己をこの様な存在として見ることはそれ自身一つの傲慢であり、謙遜ではない。しかも、その反面に於いて、彼は果敢な自己主張や野心の追求、呵責ない制服や非情な態度という様な自己拡大的な態度に対して、ひそかな、しかし激しい嘆賞と渇望をもっていると言うことに気付かされる。
この事は、彼の「仮幻の自己」が、自己拡大的支配型の陰画から構成されていると言う事と共に、その乳児期に於ける状況と関係があるのである。自己縮小的依存型の人々は、その早期の問題 ー 基礎的不安 ー を「人に従って行く態度」で解決した人々である。
自己拡大的な型の人が幼児期に於いて、甘やかされたり、厳格に躾けられたり、或は残酷に取扱われた人々に多いのに対して、この型の人々は誰かの蔭で育った人に多いのである。
例えば、特に両親に愛された兄弟の蔭か、他人から始終尊敬されている親の蔭とか、美貌の母親とか、愛情はあるが独裁的な父親とかの蔭である。そこでは自分は何時も第二義的な存在であるが、しかし、何かの意味で愛情は得られないでもない。唯、そては服従と言う対価を払って得られるのである。
彼は妥協したり、屈従したりして ー 自分の感情を犠牲にしてしか、他人からの愛を得られないことを学ぶのである。一方に於いては、自己拡大的な人達への羨望とそれの抑圧、他方に於いて自己屈従的・自己犠牲的態度が取られて来るのである。
人に愛せられるためにとられる態度 ー 自己を主張しないこと、屈従的なこと ー これが利他的無私とか、惜しみなき愛とか、自己犠牲の高貴性とかに美化される。そして、そこに自己の存在理由と価値を発見し、それを内容とする「仮幻の自己」が完成されるのである。そして、ここに彼の「誇り」pride が宿る。
ところで、彼の「仮幻の自己」は、自己拡大型の人間がする様に誇ることを許されないと言う矛盾に面する。しかも、そこに誇りを感じざるを得ないために、彼は「仮幻の自己」の要求を充足し得ない無力な「現実の自己」を感じて、自己卑小感、自己嫌悪を抱くに至る。この事は、さらぬだに無力感に満ち、烈しい自己嫌悪を持っている彼に益々その感を深くさせ、自己を責め、自己を嫌悪する傾向を強めるのである。
彼の shoulds は、何時も、自己否定的に働き、彼の自己主張や心の中でひそかに熱望する攻撃性を抑圧するのであるが、そればかりでなく、他人に対する彼の評価を束縛する。彼は常に他人に好意を持たなくてはならないから、他人の善意を疑ったり、他人に悪意や心の狭さを見てはならないのである。
他人を少しでも疑う事は許されない結果として、結局彼は何時も他人の意のままになることになる。このことは又、彼の無力感や自己嫌悪を深くする。たまたま、他人によって利用されることに対して怒りや敵意を覚えても、それは shoulds の命ずるところに反するから、そういう事を感じることに罪悪感と自己に対する嫌悪を覚えざるを得ないし、抑圧しなくてはならない。
この型の「仮幻の自己」が、愛される必要から出たことは先に述べた。従って愛というものが、彼にとって一番重要な価値を意味する。「仮幻の自己」の種々な内容を貫くものは愛であると言える。他人に対する関係に於て、彼が最も関心するのは愛の様々な徴表である。
彼には、孤独は愛せられていないことを意味する。彼には他人の存在が自分の価値の確証として役立つから、屈従的な手段によっても他人のそばに自分を置くのに努力するのである。この事は彼の必要から出ているものだから、他人がどう感じるかは二義的になり、他人の都合もかまわず、哀訴し、嘆
願し、まといつく。
しかし、この必要だという事が、必要なものは充足されて当然だと言う考え方に変容すると、それは他人に対する要求 claims に化して来る。
愛情や、理解や、同情や、援助を必要とすると言うことが、当然愛情や理解や同情や助けが与えられるべきだと言う要求になり権利に変じるのである。この変化は微妙であり、もとより無意識的であるが、しかし強力である。
この要求を支えるものとして、彼が如何に懸命に他人を理解し、同情的であり、犠牲的に他人の為に努力しているかと言う考えがある。これらの態度は実に彼の shoulds の結果として取られた態度なのであるが、それを彼は無意識に自分の要求を合理化する基礎とするのである。
つまり、彼が愛情的であり、同情的であるのだから、他人も同様でなくてはならないという要求に変じるのである。同様の感情論理が、彼の苦悩や、被害感に働くと ー 苦情や被害感が彼の shoulds から来ているのにもかかわらず ー 他人は自分を救うべきであり、損害を補償すべきであると言う要求に変じるのである。
一方すでに彼の shoulds によって招来されていた自己に対する憎しみ self-hate は、これらの他人に対する要求 claims が充足されない時、一層深刻となる。自己が益々無価値で、無力であると感じられ、苦しみが強くなり、益々自分を責める。
この様な自分に対する憎悪に苦しめられる時、それを免れる方法として、この型のものは、自己拡大型のものの様に、自己についての拡大された像に同一化する方法をとることが出来ない。従って彼のなし得ることは、先ず自分を他人の無理解、非情な仕打ちに迫害されて泣く、高貴な、気の毒な人間として劇化し(dramatization)、それに同情の涙をそそぐことである。こういう態度は更に進むと無意識に人を挑発して、自分を迫害する様にしむけ、それによって自分を惨めな状態にし、それに感動すると言う自虐的なこと(masochism)にもなる。
また、他の方法は、分析に於て明らかにされることであるが、「どうせ自分はつまらない人間なのですから」と言う様な表現で、表面、自分の無力で嫌悪すべき状態を、人が言う前に先に自分で承認して受け入れる態度を取ることにより、実はそれによって他人からの批判をそらし、又自分自身それを直接に感じることを避け、誤魔化すことである。

何れにもせよ、この様なことは、全てこの型のもつ自己の卑小化・縮小化の傾向を増しこそすれ減じはしない。それは益々、自己疎外の傾向を強めるのみである。ここにも又自分の真の感情や願い、また喜びや成長を知らない人間がいるのである。彼の感じるのは自己に対する嫌悪、無力感、不安であり、苦悩である。
しかし、私達はこの型の人に、前記の自己拡大型の人に比べて、何かしら柔らかな、愛情的な人間らしいものを感じる。それは恐らく愛が敵意よりも、例えそれが神経症的に追求されているにもせよ、もっと人間性に深い関係をもっていることを示す事かも知れない。



今回、取り上げるのは、我々対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」についてです。
これは「誰かの蔭で育って来た」人々であり、「低い自己評価」に基づく「基礎的不安」を「人に従って行く(toward people)態度」で解決して来た人々である。
人に愛されるために自己屈従的・自己犠牲的な態度を取り、それを利他的無私とか、惜しみなき愛とか、自己犠牲の高貴性に美化して、そこに自己の存在理由と価値を発見し、そういう「仮幻の自己」を作って来たのである。
つまり、本当はただのヘタレの他者評価の奴隷に過ぎないくせに、それを美化して生きている。
そしてその美化の中に、「自己縮小的依存型」に潜む、思い上がった「自己拡大的支配型」の臭いさえするのである。
しかし、そんな“闇”の中にも、自己屈従的・自己犠牲的とは異なる、非常に素朴な、人の良さや他人への愛情深さが感じるのもまた「自己縮小的依存型」の人々の特徴である。
そしてそこに、その人を通して働く本当の愛=“光”につながる可能性を指摘しているのも、流石、近藤先生であると言わざるを得ない。
ニセモノの愛の中に、ホンモノの愛の芽が潜んでいるのである。

 

 

「謙虚さ」という言葉がある。
古今東西、その態度はひとつの徳目として取り上げられることが多い。

しかし私としては、どうしても徳目とは思えない。
何故ならば、「謙虚さ」というとき、私には、無理をして、頭を抑えている、あるいは、腰を低くしている姿しか思い浮かばないのである。
そう。
「謙虚さ」の前提として、人間の「傲慢さ」や「思い上がり」が臭う。
人間に「傲慢さ」や「思い上がり」があるからこそ、それを抑えることが徳目とされるのである。

よくハリウッド映画などで、謙虚に謙虚に生きて来た主人公が、侮辱され、蔑(さげす)まれ、遂には堪忍袋の緒が切れて爆発し、バカにして来た連中をブッ飛ばすという展開がよく出て来る。
本人も観客も、それで大いに溜飲を下げ、拍手喝采を送るのだ。
「おまえなんかに負けるもんか。」
「オレはこんなに強いんだ。」
それが本音である。
そんな人間の「傲慢さ」や「思い上がり」を抑えるのが「謙虚さ」なのである。
抑える手が緩めば、「傲慢さ」や「思い上がり」は簡単に顔を出す。
よくビジネス誌などで、「経営者には謙虚さが必要。」などと書いてある。
社長室に「謙虚」などと大書して飾っている人もいる。
しかしその実状はどうかというと、皆さん、よく御存知の通り。
偽善である。

それに比べ、「凡夫」の自覚となると、「謙虚さ」とはちょっと違って来る。
「凡夫」というのは、そもそもが本気で「バカ」で「クズ」で「愚か」なのである。
何も引いていない。
何も抑えていない。
ただその事実を認めるだけだ。
そしてその「凡夫」の自覚も、「他者」からの評価によるのではなく、内なる「霊性」によるものであり、自ずからそう思う、否応なしにそう感じるのである。
本当は「傲慢」で「思い上がっている」のに、そう思っていないようなフリをする「謙虚さ」とは根本的に異なる。

注意すべきは、「凡夫」の自覚のポーズのみ。
それだと、「謙虚さ」と同じ、偽善になっちゃうからね。
ただ素直に、自分が「凡夫」であることを認めてしまえば、小賢(こざか)しいことをしなくても、生きることはずっと楽になるんじゃないかな、と私は思っている。

 

 

話していて、その人本来の姿が観えるときがある。
幻視でもなく
錯視でもなく
目で見ているのでもなく
とにかく観えるのである。
これは体験してみないとわからないが
観えるものはしょうがないのである。
しかも、私の意図で観えているわけではないので
それがいつ観えるのかも私にはわからない。
しかし、それが観えないことにはセラピーが始まらない。
何故ならば、私のセラピーは、私がクライアントを意図的にどこかへ連れて行くわけではなく
クライアントの中に本来のその人がいるのであるから
クライアントが本来のその人を取り戻せるように応援して行くだけなのである。
答えが観えている
進む方向が観えている
というのは実に有り難いことである。
それが目標であるから
ただ適応させるだの
学校に行かせるだの
会社に行かせるだの
うまいこと生きて行けるようにするだの
そんなことのためにセラピーを行っているわけではない。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かったのだから
真の自己が観えないセラピーが成立するはずはないのである。
近藤先生と話して来たことの真意が、今になってわかってくるのである。

 

 

獣医のドキュメンタリー番組を見ていると、よく家畜の去勢シーンが出て来る。
メスを過剰に妊娠させないためという理由もあるが、乱暴で困るという理由で馬や牛などのオスが去勢されている。
気の毒に、と思いながら見ているが、そもそも我々ヒトの男性において、男性ホルモン=テストステロンがどういう作用を及ぼしているのか、が気になって、改めて調べてみた。

そうすると、
身体的には、筋肉や骨格の増強、性欲や性衝動の亢進など
精神的には、競争心の亢進、積極的で前向き、短気で易怒的など
がもたらされるという。

医学的には、へぇ、そうなんだ、で終わるところだが、これをの視点から見てみると、別の様相が観えて来て、実に興味深い
即ち、我欲(性欲、物欲、金銭欲、名誉欲など)を満たすために、即ち、思い通りにするために、腕力、権力、財力などを使って、競争相手をブッ飛ばして行く。
いわゆる“我”を男性ホルモンが強化しているフシがあるのである。

正直、ろくてもないな、と思った。
かと言って、男性ホルモンを止めるために、片っ端から去勢していけば良い、というものでもなかろう。
それじゃあ、人類が絶滅してしまう。
そんな安易な解決法ではなくて、男性ホルモン=テストステロンという生物学的影響を受けながらも、それに支配されず、つまり、我欲の塊に堕さず、我々を通して働く、もっと高次な力に導かれて生きて行きたいものだと思う。

それができない大人の男どもは…(あとは想像して下さい)。


 

「私たちは愛だ恋だと言葉でいっていますが、その言葉を知らないうちから愛を感じて生きています。赤ちゃんのときにお母さんに抱かれますね。そのときにお母さんの肌に触れて感じることが愛なんです。お母さんから伝わってくるものが愛なんです。つまり体で感じる。これは男であれ女であれ同じです。だからおもしろいことは、異性愛の場合に出てきますけれども、皮膚の接触、抱かれる感じ、それからくる安心感やよろこび、その気持ちよさ、快感、そうしたものは『言葉以前』の愛の形なんです。いわば、原型、つまり最初の人間が何もわからないときに感じる愛ということ。その原型をもう一度意識的に感じるのであります。結局、お互いの愛情というものをほんとうに表現するときには、我が身を持って身に感じていくのですね。そのときに、東洋であろうと西洋であろうと、お互いに抱き合うということで愛を表現するのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「私たちは愛だ恋だと言葉でいっていますが、その言葉を知らないうちから愛を感じて生きています」
もうこのひと言でノックアウトですね。
なんでも言葉にすればわかったような気になる、これがそもそも大間違いです。
言語によって体験を切り取った瞬間に、あたかも空飛ぶ蝶を捕まえて標本箱にピンで刺したように、その体験が死んでしまうということを知らなければなりません。

 手に取るな やはり野に置け 蓮華草    瓢水(ひょうすい)

元々は、遊女を身請けするな、という艶っぽい句だったそうですが、言語哲学的に解すると、別な妙味が出て来ます。
愛を愛として(言語を介さずに)直接に感じること。
その感じる力を磨かねばなりませんぞ。


 

前漢時代、淮南王・劉安(りゅうあん)が編纂させた思想書『淮南子(えなんじ/わいなんし)』に

「夫(そ)れ陰徳ある者は必ず陽報有り」

とある。
一般に「目に見えないところで良い行いをしている者には、必ず目に見えるところで良い報いを受けることができる」と解されているが、私に言わせれば、これは誤った人生訓の代表みたいな言葉である。

たまたまこの言葉を礼讃するような記事を読んだので、ここで触れておく気になった。
誤った格言は正しておかなければ、後世の者が迷うことになる。

まず、「わざと」人の目につかないところで良い行いをするのである。
この意図的に「わざと」というところが気持ちが悪い。
所詮は、「自力」であり、はからいなのである。
意図的にやった善行は、必ず、隙があったら、他人に言いたくてたまらなくなる。
そして、そっと、遠慮しぃしぃ、謙遜しながら、周囲に漏らして行く。
私はこんなに良いことをしたのだと。
ここに偽善性と虚栄心が臭う。
それに対し、その人を通して働く力によって「思わず」誰かのために何かをしている人は、人目に立つか立たないかも関係ないし、そもそも自分がやっているという意識がない。
意識がないため記憶に残らない場合もある。
よって自ら他人に話すことはまずない。
そこに「他力」の尊さがある。

そして、「自力」で頑張ってやった人は、陽報を求めるのである。
どうしても報いがほしいなら、せめて人目に立たない陰報でいいのに、人目に立つ陽報の方を求めるのだ。
それは称賛ですか?名声ですか?金ですか?地位ですか?
ここがまた強欲で虚栄心に満ちたところである。
それに対し、「他力」でやった人、やらされた人は、まず自分がやったという意識がないため、何の報いも求めない。
もし何かを感じるとすれば、自分を通して働く力によってその行為をさせられたこと、それ自体が有り難いことであるため、「他力」によってさせていただけたこと、それ自体が既に報いになっているとも言えるのだ。

というわけで、誤った人生訓にご注意を。
それを観破る眼も育てて行きましょう。

 

 

 

久しぶりに近藤先生をよく知る方とお逢いして、ゆっくり話す機会があった。
16歳から近藤家に住み込みとして働き、近藤先生が亡くなった後、家を出られてからも、奥さまが亡くなるまで計60年以上、近藤家に尽くして来た方である。
この方の波乱万丈の人生を記すだけでも本が書けそうだが、ここでは敢えて触れないでおく。
私にとっても旧知の方なので、気兼ねなく、近藤先生の昔話に花が咲いた。

通常、長年“偉い人”の身近にいた人の話となると、あんな立派そうに見える人も、実は裏ではこんなだった、というようなガッカリばらし話になることが多いが、
その人は、先生が亡くなって26年以上経つ今も、近藤先生を心から尊敬していた。

私は、セラピストとしての力量を知りたいと思ったならば、そのセラピストの身近な人に訊け、と言うことにしている。
家族や同居人など、その人の日常の言動、即ち、本音の人格を知っている人に訊けば、その人のセラピストとしての本当の力量がわかるのだ。
(世の中には、その人の本音の人格がたとえ劣悪であったとしても、専門的な知識と技術があればサイコセラピーはできる、と思っている人もいるが、私はそうは思わない)
身近に生活を共にしている人から見ても、尊敬と信頼が揺るがない。それでこそホンモノである。

かつて奥さまが亡くなられた後、慰労の想いもあって、その人に近藤先生の講演テープを何本かダビングしてプレゼントしたことがあったが、今も折に触れて、その録音テープを聴くと、近藤先生の言葉にこころが洗われて涙が出てくる、と言っておられた。
(本当は「言葉」でも「声」でもなく、そこにこめられたものが働いているのであろう)

そんな話を伺いながら、
「近藤先生、まだセラピーをしてらっしゃるのですね。」
と心中で思いながら、杯を重ねる良い時間であった。

よそ向きにカッコつけているときでなく、肩の力が抜けた日常の中に、その人の本当の力量が現れるのである。


 

Skype の利用終了について、改めて周知徹底を図ります。

明日2025(令和7)年5月5日(月)をもって、Microsoft による Skype のサービス終了となり、Skype の機能は Microsoft の Teams に集約されます。

つきましては、当研究所のリモート面談を Skype で行っている方は、2025(令和7)年5月6日(火)以降のリモート面談を Zoom あるいは Facetime に移行することと致します

[1]Zoom への移行を希望される方は、
(1)予め2025(令和7)年5月6日(火)以降のリモート面談当日までに、当日使用するスマホかタブレットかパソコンにZoomをダウンロードしておいて下さい。
(2)当日の面談予約時刻の5分前~定時に、招待メールをお送りしますので、招待メールを送ってほしいメールアドレスを予め主宰者
までメールで知らせておいて下さい。

[2]iPhone や iPad をお持ちの方は、Facetime への移行も可能ですので、ご希望の方は予め2025(令和7)年5月6日(火)以降のリモート面談予約前日までに主宰者までメールなどでお申し出下さい。

Skype からのスムーズな移行のために、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

 

皆さんは「ボンタンアメ」というお菓子を御存知であろうか。
世代的には私よりもずっと上の世代で発売されたお菓子で、水飴や麦芽糖などを練り込み、もちもちした食感で、文旦(ボンタン)(柑橘類の一種)の風味のするレトロなお菓子であった。
「アメ」と言いながら実際には飴ではなく、1個ずつオブラートに包まれているのも特徴的である。
個人的には、子どもたちが好むお菓子というよりは、年輩の方がノスタルジックに楽しむお菓子というイメージがある。

私が子どもの頃暮らしていた広島の実家の近くに、国鉄の宇品線が走っていた。
宇品線は、広島駅と宇品駅を結ぶ短い路線(全長5.9km)で、瀬戸内海に面する宇品港(現・広島港)は軍港として栄え、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦では、兵士や物資の戦地への輸送を担った重要な港であった。
戦後も、国内ではかなり遅くまで(1975(昭和50年)まで)SL(蒸気機関車)が走った路線のひとつであったが、やがて国鉄赤字ワースト1の路線にもなり、1986(昭和61)年には完全に廃線となった。

よって、私が小学校低学年の頃はまだSLも現役で、双子の弟と線路脇の叢(くさむら)まで入り込み(当時は柵などなく、いい加減であった)、SLが汽笛を鳴らして通るのを間近で眺めては手を振っていた。

すると、ある日、SLに向かって手を振っている私と弟の近くにボタボタとお菓子が落ちて来るではないか。
驚いてSLの方を見ると、制服の乗務員のおじさんがこっちを向いて手を振っている。
なんと、乗務員のおじさんが私と弟に向かって、チョコレートやキャラメルなどを投げてくれたのである。
なんと優しい御方であろうかっ!
そしてそれ以降、私と弟はSLが通る時刻になると線路脇に立ち、お菓子が降って来るのを待つようになったのである(餌付けかいっ!)。
そして投げてもらったお菓子を拾っては、乗務員のおじさんに向かって「ありがとーっ!」と二人で叫んでいた。

そしてその日がやってきた。
いつものように線路脇に立っていると、SLがやって来て、またもやお菓子が降って来た。
「ありがとーっ!」
と叫んで、いそいそとお菓子を拾うと、それがボンタンアメであった。
二人とも言葉を失った。
「これ…美味しくないんだよね。」(二人の心の声)
そして二度と宇品線脇には行かなくなった二人でした。

それ以降、たまにボンタンアメを見かけると、あのときのことを思い出す。

「乗務員のおじさん、セイカ食品さん、ごめんなさい。」

子どもは時に、超利己的であり、残酷なのであった。

 

 

生きていれば、なんだか知らないけれど、“潮目”が変わるときがある。

ここのところ感じていた潮目の変化が、今日、面談でお話していて、余計に明確になった。

去る2020(令和2)年1月に、我が国においてコロナ禍が始まって以降、いつの間にか徐々に引き気味になっていた講演・講義・ワークショップなどの活動をぼちぼち再開しようと思う。

その間も、八雲勉強会やハイブリッド勉強会だけは、なんとか続けて来たが、それ以外の機会も、特に新しい出逢いの機会もさらに作って行きたいと思う。

だからといって、むやみやたらに対象を拡大する気はさらさらなく、本当に今回の人生でお逢いするべき人にお逢いしたいし、その時機も、気が熟したちょうどのところで、あなたにお逢いしたいと思う。
但し、私の寿命も永遠ではないので、逢うべき人に届くように、ここに記した次第である。

詳しくは、改訂した『講演・講義等のご依頼』や、新たな企画情報については、順次、『企画部門からのお知らせ』などに掲載して行く予定である。
急にドカンと変わるわけではないが、思い出したときに、のぞいてみて下され。

 

 

念仏を「易行」(易しい行)という。
ただ「南無阿弥陀仏」の六文字を称えれば救われるのだから、易しいと言えば、とても易しいということになる。
しかし実際にやってみた方はおわかりであろうが、この念仏が意外と難しい。
念仏にどうしても行者(念仏を称える人)の我が入ってしまい、すぐに空念仏、口先念仏、はからい念仏になってしまう。
やってみてわかるのは、易行どころか、『正信偈(しょうしんげ)』(門徒の毎日の勤行に用いられる偈文)にある通り、
「難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)」(難の中の難、これに過ぎたるはなし)
これ以上難しいことはない、というのが真実であろう。

「ただ念仏する」ということのいかに難しいことか。
この「ただ」がなかなかできないのである。

そう言えば、禅の曹洞宗でも
「只管打座(しかんたざ)」(ただひたすら坐禅する)
という。
この「只管」がなかなかできない。

そんなことを思っていたら
4月19日付け本欄で取り上げた

「よろずのこと みなもて そらごと たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ まことにて おはします」(『歎異鈔』)

を思い出した。
「ただ念仏のみぞまことにておはします」の読み方を間違っていたことに気づいたのである。

これを
「ただ『念仏』のみぞまことにておはします」
と読んでは間違いであった。 
「『ただ念仏』のみぞまことにておはします」
と読んで初めて真意に通じることに気がついた。

「ただ念仏」することができるかどうかが問題だったのである

 

 

「人間というものは大事なことはなかなかいわない。大事なことはいちばんおしまいにとっておくのですね。非常に長いことかかっていろいろ話して、時間が終わって『さよなら』といったあとでチョコッというのですね。それも、そのものズバリではなくて、はしっこの部分をね。そういうことが多い。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

これは私が今の仕事をしていても実感することである。
その瞬間、「おいっ!」と思うが、時、既に遅し。スーッと去って行かれる。
考えてみれば、私自身が昔、近藤先生のところに通っていたときも、最初はそうだったかもしれない。

でも心配は要らない。
人間が成長すると、問題のはしっこではなく、全貌を話せるようになる、核心を話せるようになってくる。
しかも、面談の最後ではなく、面談の最中に、中には面談の冒頭で「今日はこれについて話します。」と宣言する方までいらっしゃる。
そうなってくること自体が、その人の確かな成長を示しており、問題と向き合えるということ、即ち、その問題が解決される準備が整っているということなのだ。

そう思うと、冒頭のような展開はむしろ、治療場面や、一般ピーポーとの会話場面で起こりやすいと言える。
八雲総合研究所での面談においては、既に「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っておられるため、果敢にご自分の問題を取り上げて来られる。
改めてそれが稀有な、そして一所懸命な姿勢であることを、今日これを書いていてまた実感するのであります。


 

弟は自閉スペクトラム症だった。
小学校から不登校、やがて引きこもりとなったが、親が精神科を受診させることはなかった。
通信制高校からなんとか大学を卒業して就職したが、そこでうつ病になり、自ら精神科を受診して、うつ病は2次障害で、1次障害が自閉スペクトラム症であることが判明した。
振り返ってみれば、父親も自閉スペクトラムで、会社員としてなんとか働いていたが、特性のために、社内での人間関係がうまくいかず、妻子の気持ちにも十分に寄り添うことができなかった。
母親は、厳しい両親に育てられ、実家を脱出することができた結婚後は自由な生活を夢見たが、結局は、子どものことも、夫のことも、自分が頑張るしかない状況に追い込まれた。
そんな中、長女であり、話の通じる娘は、何かにつけ、当てにされた。
そして娘の方も、せめて母親からは愛され、認められたかったので、「お姉ちゃん。」と呼ばれる度に、文字通り、その役割を演じた。
そして、気がつけば、自らも対人援助職に就いていた。
相手のしてほしいことに気づくのはお手のものだったし、他者貢献度=自分の存在意義という構図は変わっていなかった。
そうしてある日気がつけば、自分もそこそこいい年になっていた。
今まで通り過ぎて行った男がいないわけではないが、基本的な他者(特に男性)への信頼感が育っておらず、自分に子育てができるとも思えなかった。
これでは結婚・出産はできない。
(誤解のないように付け加えるならば、女性は結婚し、子どもを産むために生きているわけではない。「できない」のと「できるがしない」のとでは大違いだ。)
なんだか急に寂しくなって来た。
それはセンチメンタルな(情緒的な)寂しさでもあったが、それだけではない、霊的な寂しさもあった。
私が私を生きていない、
自分に生れて来た意味と役割を果たしていない、
ミッションを果たしていない、
それが霊的な寂しさを引き起こす。

で、どーするか。
ようやく今、お姉ちゃんの、いや、〇〇さん(←本名)の人生が始まろうとしている。
いつもそこからが私の出番なのであった。

 

 

テレビである獣医が、モルモットの癌の手術を終えた後に
「モルモットとカメレオンって、生きようという意欲があまりないのよ。」
と言って、術後の経過を心配していた。
「ウサギは生きる意欲が強いんだけど、モルモットとカメレオンにはその気概がないというか、諦めるのが早いのよね。」
と言う。
それらのセリフがこころに残った。

そもそも“長寿”は、俗諦(世俗的な真実)的には、めでたいこと、誰もが望んでいることとして扱われて来たが、真諦(絶対的な真実)的に言ってしまうと、それは生への執着=我執に過ぎない。
真諦的には、寿命が長いか短いかよりも、生かされているうちに、生を授かった意味と役割を果たしたかどうか、ミッションを果たしたかどうかの方が重要であり、ただ長く生きれば良いというものでもない。
例えば、31歳で暗殺された坂本龍馬は立派に今生のミッションを果たしたと思うし、
流産で亡くなった赤ちゃんにも、その子が生かされていた間の、そして亡くなったことも含めて、周囲の人たちにいろいろな大切なことを教える意味と役割があると私は思っている。

そして人間においては、大きな手術などの後に、医療スタッフから、生きる意欲を持って頑張れ!と励まされるのは当たり前のことであり、精神免疫学的にも、その方が快方には向かいやすいんだろうと思う。
生への執着が強い方が、確かに長生きしやすいのだ。

それで冒頭の話に戻る。
では、ウサギの方がモルモットやカメレオンよりも、生への執着=我執が強いのか、ということになると、決してそうではないと思う。
ウサギもそのままで、モルモットやカメレオンもそのままで、生かされるままに、生きているだけのことだ。
たまたまウサギの方が生命力が強いように見えるかもしれないが、それは我執によるものではなく、それがウサギのそのまま、催されるままなのであり、
モルモットやカメレオンが生きることに淡白なように見えるかもしれないが、それがモルモットやカメレオンのそのまま、催されるままなのである。
それはウサギの足が“脱兎”のごとく速く、カメレオンの動きがゆっくりなのと同じようなものだ。

冒頭の言葉はアメリカ人の獣医の言葉であった。
「生きる意欲」「気概」「諦める」など、いかにも自我中心の発想で動物のことを解釈しようとしている。
少なくとも動物の生命は、必ずしも人間のように我執で生きているわけではなく、おまかせで生きているのではないかと私は思っている。

お伝えしたいことは伝わったかな?


 

当研究所のホームページに書いてある通り、私自身は、対人援助職者は、自分の精神的な未解決の問題や成長課題と向き合って成長して行かなければ、本当の対人援助はできない、という立場を取っている。
そのため、日々の面談で出逢う人たちも、一緒に働く人たちも、私のまわりにいる人たちは、有り難いことに、みんな同じ姿勢の人たちばかりなので、接していて頗(すこぶ)る気持ちが良い。

しかし時に、他の“一般の”対人援助職者に接するときがあると、「ああ、こっちの方が多数派だった。」「私のまわりにいる人たちの方が奇特な人たちだったのだ。」ということを思い知らされる。
自分に精神的な未解決の問題がある、成長課題があるということにすら気づいていない人たちである。
自分に精神的な未解決の問題がある、成長課題があるということを認めたがらない人たちである。
自分に未解決の問題がある、成長課題があるということに薄ら気づいていながら、誤魔化し、先延ばし、逃げ回り続けている人たちである。
そういう人たちが、残念ながら、娑婆では多数派なのだ。

んー、話が通じんな。
一向に話が深まらんな。
まるっきり異星人との会話だな。

そんな異星人とはどう話せばいいかは、昔取った杵柄(きねづか)で、十分に心得ているが、もうそんなことはしたくない。
こっちから異星には行きたくない。

君たちが戻っておいで、地球に、君たちの母星に。
元々が異星人ではないでしょ。

そう願いながら、最低限の社交と必要な情報交換だけを済ませて、早々に話を切り上げるのでありました。

 

 

基本的に、前情報は鵜呑みにしない。
ひとつの情報として参考にさせていただいている。

児童専門外来をやっていたとき、その子どものお母さんについての情報が入る。
「難しいお母さんですよ。」と。
しかし、実際にお逢いしてみると、哀しみと孤立と疲れの中で一所懸命に生きて来たお母さんに出逢うことがある。
「どこが難しいんだよ。」
確かに、実際に難しいお母さんに出逢うこともある。
しかし、それは難しい精神科医や、難しい臨床心理士や、難しい看護師や、難しい精神保健福祉士や、難しい作業療法士と出逢う確率と余り変わらないと思う。

実際にお逢いしてみなければわからない。

精神科外来で紹介状(診療情報提供書)をいただくことがあった。
中にはなかなかの内容のものがある。
「会話が成立しない。」「一方的。」「わがまま。」「思い込みが激しい。」「頑な。」
たくさんの否定的ワードが並んでいる。
しかし、実際にお逢いしてみると、例えば、特性による生きづらさの中で拙くも一所懸命に生きて来た青年に出逢うことがある。
「どこが難しいんだよ。」
フツーに話を聴いただけで、
「初めて話を聴いてもらえた。」
と泣き出してしまった。
確かに、実際に難しい当事者に出逢うこともある。
しかし、それはやっぱり難しい精神科医や、難しい臨床心理士や、難しい看護師や、難しい精神保健福祉士や、難しい作業療法士と出逢う確率と余り変わらないと思う。

実際にお逢いしてみなければわからない。

勿論、非常に参考になり、有り難い前情報に助けられることもある。
しかし最終的には、自分の眼で耳の五感で、さらには六感で、感じてみなければわからない。
それがもし私からの前情報だったとしても、どうぞそうして下さいな

 

 

テレビをつけると、あるドラマをやっていた、
少し前のことなので、題名もあらすじも忘れてしまったが、今でも覚えている設定がある。
主人公の女性は、人生の多数派の流れにうまく乗れず、自己評価が低く、うつむきがちで、声も小さく、自己主張(自我主張)も弱く、生活できる最低限を細々と働いて、ひっそりと生きている、といった調子の設定であった。
私として気になったのは、そのドラマの脚本が、そんな生き方もありだよね、そんな生き方も良いよね、という、こんな生き方の本人寄り添いの描き方だったことである。

違うってば。
それは良くないよ。

もちろん、人生の多数派の流れに乗る必要もないし、細々と働いて、ひっそりと生きていて行くことに何も問題はない。
バカみたいに元気に生きる必要もないし、ガンガン自己主張(自我主張)する必要もない。
そうではなくて、
問題は、この人がこの人を生きている気がしない、というところにある。
これは致命的だ。
この人の本来の生命(いのち)が生きていない。
これでは立派な神経症(的パーソナリティ)である。
これをあたかも“健全な”生き方の選択肢のひとつであるかのように肯定するわけにはいかない。

かつての、あるべき生き方に対して、アンチあるべき生き方が出て来たことに、私は反対どころか、大賛成である。
しかし、だからといって、アンチ多数派、アンチ主流派がすべて正しいというわけにはいかない。

本来自分は何者なのか。
一回しかない人生を、何をして生きて死ぬのか。
自分が生まれて来た意味と役割は何なのか。
そこに着地しなければ、自分に生まれて来た甲斐がない。

先のドラマの女性は、ただ弱々しく、逃げて、隠れて、溜め息ついて、本来の自己を生きていないのである。
そして、それをよしよししてあげることは、この人を殺すことになる。
そしてドラマの中では、優しき“理解者”たちによしよしされていた…。
おいおい。

ドラマの話なんだけどね。
ドラマでだけだよね?

 

 

我々は一生のうちに、自分の本当の本音を話せる相手に何人出逢えるだろうか。

「本音」という字が「本当の音」となっている通り、「本当の音」でないと、鳴らした方も話した気にはならないし、受け取った方も聴いた気にはならないだろう。
そうでないと、人と人とが本当には出逢ったことにはならないと思う。

もし自分がこんなことを言ったらどう思われるだろうか、軽蔑されはしないだろうか、忌み嫌われるのではなかろうか。
そんな話をたくさん聴いて来た私としては、
大丈夫です。
人の悪性(あくしょう)、いや、凡夫の悪性がどれくらい酷いかは、大体わかっていますから、男を十人騙して殺して床下に埋めてあります、と聴いても別に驚きはしません。
その事実よりも本質的に大事なのは、そういう自分と向き合う気があるかどうか、そういう自分を超えて成長して行きたいと心の底から思っているかどうか、ということです。
ですから、そういう思いで、本音の本音を話すというのであれば、それだけで、今までの、そして今の自分を超えて行きたい、という大切な宣言になるんです。

となれば、誰がそんな尊い宣言を疎(おろそ)かに扱いましょうか。
共に超えて行きましょう、どんな問題も。
そんな思いで、私は面談を行なって来ましたし、これからも行っていくのです。

 

 

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