八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

2020(令和2)年10月20日(火)『TAKARAZUKA2! 〜 地上の華 〜』

こんにちは。

花組の柚香光(ゆずかれい)です。

 

…というわけで、また行ってきましたよ、奥さん。

宝塚ですよ、旦那さん。

花組公演ですよ、お姉さん。

あの『はいからさんが通る』ですよ、お兄さん。

今回もヘビーファンの方からチケットを分けていただきました。

コロナ下でも劇場内は劇団側もファン側も、なんとしても「観せたい」「観たい」が相俟っての感染防止体制が徹底している印象でした。

そして公演そのものは、原作マンガ、アニメ、実写版を踏まえた、歌と踊りとお芝居のクォリティの高さはもちろん、やっぱり生舞台の演じ手の熱意、これには今回も感動しました。

感動の根幹は、前回も今回も同じ。

さらに、いつもセラピー場面では、人間の「感情」を超えた世界に焦点を当てがちだけれど

この日の純然たるラブストーリーに、我々の「感情」「凡情」の豊かさを再認識した一日でした。

「恋しい」「愛しい」「憎らしい」「妬ましい」「寂しい」「嬉しい」「哀しい」「腹立たしい」などもまた、地上に肉を持つ我々凡夫の華。

豊かなもんだね。

マドモアゼールやマッダームたちが宝塚の世界に酔うのもわかるってもんだ。

 

「僕が選んだあなただから、あなたの受けた運命は、僕も一緒に生きて行くんです。」

 

あなたが大切な人に本気でそう言えれば、あなたもまたあなたの人生でトップスターになれるかもしれない。

そしてまた今回もしばらくは、『はいからさんが通る』を歌って踊っているであろう私でした。

2020(令和2)年10月11日(日)『泣くこと』

今日は「第13回 八雲勉強会 by Zoom」を開催。

近藤先生の『こだわりについてⅡ』の講演追加部分と質疑応答を聴く。

お腹いっぱい、胸いっぱいに感じるところがあったが、

その一端だけ、ここに引用すると

例えば、女の方で、女の方に言うんだけども、女の方が目についちゃうんで、つい言うんだけども、女の方で、例えば、とっても泣きたくなる、悲しくてね。そういうときは、僕はね、オンオン泣いてほしいと思うの、一人でいいから。オンオンオンオンね、涙が尽きるまで、涙が涸(か)れるまでね、泣いてほしいの。そういう泣くということが耐えることなの、そのときには、ね。何もそこで、やれ、どうだこうだとしないでね、ただ悲しいときはひたすらに悲しくね、ただオンオンオンオン泣いてほしいと思うんですよ、ね。男でもそうです。男でも格好(かっこう)つけないで、ね。泣きたいときには、オンオン大声出して泣いたらどうかと思う。そうやって初めて耐えることができる。人間にはそういう、だから、そういう道があると僕は言うんです、ね。いかにも格好から言えば、意気地(いくじ)がない、なんだかって言うかも知らんけれど、人間のね、正直な気持ちをね、出して、そこにね、そのままいることがね、耐えることなんだ。だから、それで、その、正直に、そのままに認めて行くという、このね、自分に対する柔軟な、従順な、正直な態度、こういうものが必要だと思うんです、ね。

 特に、あの、怒りを感じたり、いろんな侮辱を持ったりするようなときにでも、そういうときに、悔しいと思ったり、苦しいと思ったときに、そんとき、そのまま、悔しさをそのままに、悔しいなぁ、と思って、本当に、人に知られない涙を流すということも男だってあると思う。それでいい。そうやって耐えて行く。そして自分というものを、そのために、曲げないことだ。自分というものの成長が一番にやってくる。こういうことを私はちょっと付け加えておきたい。

何も付け加えることはない。

これをどう感じるかは面々のおはからいである。

でもやっぱりライヴで響くものは文面を超える。

機会がありましたら、また八雲勉強会で近藤先生の肉声に触れましょう。

 

 

2020(令和2)年9月22日(火)『On the Edge』

初回面談申し込みを受ける際、ちょっと悩むときがある。

一応「対象」は満たしているのであるが、その「一応」のところがどうも「気にかかる」方が時々いらっしゃる。

私がかつて近藤先生のところに通い始めたときは、それまでの生き方にどうにもこうにも行き詰まっていたため、全否定大歓迎、煮るなと焼くなと好きにしてくれ、屍(しかばね)の中から甦(よみがえ)って成長してやる、という覚悟があった。

しかし「一応」の彼ら彼女らはどこかまだ闇の裾(すそ)を握っているのである。

そこに「一応」情けなさを感じ、成長したいと思ってはいるが、まだ「本気で」「心底」情けなくなっていないし「何が何でも」成長したいと思ってはいないのである 

そして「気にかかる」という理由にもうひとつある。

それは開業以来の経験からして、そういう「対象」の際(きわ)にいる人たちの脱落率が非常に高いことである。

結局、逃げる。

闇の世界に舞い戻る。

例えば、この二十年余りを振り返ってみると、

やっぱり他人よりもちゃんとやってる自分、頑張ってる自分に存在意義を感じ続けたい人がいた。頑張り続けることをやめられず、それで得意になることをやめられなかった。それがどこから来るかという生育史の問題を本当には見つめたくなかった、解決したくなかった。そんな若い女性がいた。

また、

猜疑心に満ちた被害的世界観に呑み込まれながら、社会を疑い、幼児のように無意味な抵抗を続ける人もいた。抵抗するとき、嫌われる側に与(くみ)するとき、逸脱するとき(性的も含めて)、妙な力と快感があった。セラピーに通いながらも問題を指摘されることを恐れた。それをかつての脅される恐怖に結び付けた。それでは成長のしようがなかった。そんな年輩の男性がいた。

さらに、

いつまで経っても埋め込まれた見張り番に支配され、自分を縛り、子どもを締め上げ続ける人がいた。見張り番に従っているとき、恐怖感から解放される感覚があった。しかし、それがどれだけおぞましいことなのか、本当にはわかっていなかったし、わかりたくなかった。どこかでまだ自分は正しいと思っていた。そんな年輩の女性がいた。

そして三人とも勝負せずに脱落した。

どれもほんのちょっとはわかっている。

しかしいざとなると対決するより逃げる。

中には十年以上もずーっと逃げ回っていた人もいた。

その間、本質的な問題は何も解決せず、私が核心にちょっと触れた途端、逃げ出した。

そしてそれが医療福祉心理関係者だと、その後、患者さん、クライアント、利用者さんに対してどういう影響を与えるだろうか

それでも二十歳を超えた大人だもの。

起こる事態の責任を取ってもらうしかないだろう。

致し方なし。 

だけれども、だからと言って「際(きわ)にいる」と感じる人たちを最初から全員断るかというと、そういう気にもならない。

何故ならば、数は少ないが、そこから果敢に自分の問題を見つめ、ぐいぐいと成長して来る方が現にいらっしゃるからである。

そこに希望がある。

光がある。

その光の可能性を断つわけには行かない。

「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あればはなる」(親鸞)

それしかない。

実際には当研究所におけるクライアント全体の定着率は驚くほど高いけれど

それもまたひとつの結果であって、すべては縁で回るのみなのである。

そして大半の縁あるクライアントの方々は、自分自身の問題と誠実に向き合い、一所懸命に成長して行こうとしていらっしゃる。

その姿に私はただ礼拝合掌するばかりである。

操作的なセラピーなど死んでもやるつもりはない。

あなたを向き合わせ、あなたを成長させる力と共に

私のミッションを果たして行くだけなのである

 

2020(令和2)年8月25日(火)『変』

治療よりも成長に焦点を絞った私の開業形態を知った精神科医の後輩から

「先生は“変”な人は診ないんですね。」

と言われたことがある。

私は即座に

「君ほど“変”じゃないよ。」

と答えた。

彼の発言の中にある“差別観”(治療を受けている人間は“変”だ)

および“思い上がり”(自分は“変”じゃない側にいる)

を砕いておく必要があった。

少なくとも治療を受けている人たちは苦悩している。

そしてそれを乗り越えるべく、自分の意志で通院されている。

そういう意味では“変”どころか極めて“健全”である。

それに比べ、自分の“変”さにも気づかず、他人を見下し、自分は“健全”だと思っている方が遥かに“変”ではないか。

実は、私の開業形態は、最も“変”な人たちを対象としているのだ。

医療福祉関係者、対人援助職者という、最も“変”でありながら、最も自分の“変”さに自覚のない人たちに「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を求めるのたがら、“変”と言えば、これほど“変”な開業形態もない。

しかし、医療福祉関係者、対人援助職者でありながら、自分自身に対して「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を持てるというのであれば、これほど“健全”な人はいない、ということにもなる。

何が“変”で、何が“健全”か。

本当の意味での使い方と、世俗的な意味での使い方とを混同してはならない。

世俗的な意味で“変”な人たちで、かつ、本当の意味で“健全”な人たちは、大切な我が同朋である。

2020(令和2)年8月18日(火)『責任』

初めて処方箋を書いたとき、身震いするような緊張感があったのを覚えている。

自分が処方を間違ったら大変なことになる。

大きな責任を感じた。

そして病棟で実際に服用して下さっている患者さんの姿を見ながら

それがどれほど大きな信頼に基づいているのかを実感し、身の引き締まる思いがした。

信頼には応えなければならない。

児童専門外来をやっているときもそうであった。

子どもたちには長い未来がある。

家族も行く末を案じている。

発達障害分野においては、幸い熱心な療育スタッフに恵まれたが

相も変わらず、全くの不勉強で専門家顔をする教師、スクールカウンセラー、療育関係者、そして精神科医のいることに戦慄を覚える。

あなたの力量がこの子の一生を分けるのだよ。

親御さんはホンモノの療育者に巡り逢って初めて、その決定的な差に気づく。

それは今私が行っている精神療法やカウンセリングにおいても同じ。

クライアントの一生がかかっている。

信頼して心を預けて下さるからには、こちらも応えなければならない。

ならないものはならない。

不本意に誰かに押しつけられたような責任ならば、御免蒙りたいが

この人生において、天から与えられた責任なら、受けて立つしかない。

それでも、元より凡夫なれば、我々にそう大したことができるわけではないのだけれど

無能・無力・非力な凡夫が、その上にサボッちゃあ、被害甚大である。

ポンコツなりに、丹田呼吸しながら、祈りながら、一所懸命にやらせていただくしかないのである。

2020(令和2)年8月1日(土)『塀の上の猫について』

(1)まず第一に、『塀の上の猫』は、まだ出逢ったことのない “私が出逢うべき人たち”を思い浮かべながら書いている。

何よりも本欄は、今生で逢うべき人に逢うためにある。

(2)第二に、現在、面談に来られている方、勉強会やワークショップに参加された方を想定して『塀の上の猫』を書くこともある(連絡事項を含む)

しかし、面談に来ている方について暗喩的に何かメッセージを書くことはない。

必ず面談で直接に申し上げる。

稀に「あれは暗に私のことを書いておられましたね。」と言われることがあるが、それを自意識過剰、関係念慮というのである。

それ自体が解決すべきテーマである。

(3)現在、他所で精神科医や臨床心理士からサイコセラピー/カウンセリングを受けている方の閲覧はご遠慮願っている。

ダブル・セラピストで良いことは何もない。

目の前のサイコセラピー/カウンセリングに専念することを強くお勧めする。

一度に二つの道は登れない。

同様に、かつて当研究所に通われていた方にも閲覧をご遠慮願っている。

別れた前夫(前妻)のFACEBOOKをいつまでも覗いている前妻(前夫)のようで、やめた方がいい

前を向いて新しい道を進もう。

(4)尚、『塀の上の猫』の中に登場するセラピー例や個人の内面に関する記載は、守秘義務のため、特定の個人のものとならぬよう、他の多数の経験例も加えて編集・加工してあることをご了解下さい。

(5)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。

自分として完成度に納得しない場合は、何度も同じテーマで書き直すこともある。

これは自分自身のためである。

以上

2020(令和2)年6月18日(木)『Black Lives Matter』

白人警察官による黒人殺害事件を機に、世界中に

Black Lives Matter.

(黒人の生命(いのち)は大切だ)

という運動が高まった。

その運動の政治的意義などは別にして、黒人差別に対して多くの人が激しい違和感を感じているのは重要なことだと思う。

事情通の知人によれば

かつて

Black Lives Matter.

に対するカウンター運動として

All Lives Matter.

という運動が起こったそうだ。

なるほど、黒人の生命だけが大切なわけではなく、白人の生命も、黄色人種の生命も、ヒスパニックの生命も、先住民の生命も、ありとあらゆる全人類の生命が大切である、という主張が起こるのももっともだ。

しかし、この

All Lives Matter.

の運動は、元々がカウンター運動だったせいもあり

Black Lives Matter.

ほどの盛り上がりを見せずに今日に至っているという。

ほう。

その歴史的変遷よりも、私の関心は事の本質にある。

私が違和感を感じたのは、そこでいう

All Lives Matter.

All Human Lives Matter.

(全ての人類の生命は大切だ)

という意味ではないかということだ。

本当に

All Lives Matter.

と言うならば

人間以外の動物、植物、その他のあらゆる生命体、生きとし生けるもの全ての生命が大切だ、という意味でなければならない。

そうなって初めて

All Lives Matter.

(生命あるもの全てが大切である)

と言うことができる。

しかし、これで終わりかというと、まだお尻のあたりがムズムズして来る。

非生物の存在は重要ではないのか、ということだ。

我々には、森羅万象に八百万(やおよろず)の神を感じて来た伝統がある。

空にも滝にも石にも、尊いものが働いていることを感じて来たのである。

生物と非生物とに区別はない。

あなたはそれを感じませんか?

となると、生物、非生物をひっくるめて

All Lives & Non-Lives Matter.

(全ての生物・非生物は大切である)

と言いたくなる。

しかし、これではなんだか冗長だ。

もっとスッパリいかないか。

そこで

All Matters.

(全ての存在が大切だ)

となる。

うむ。

ここに行き着く。

行き着いて改めて

自己礼拝し、四方拝したくなるような心持ちになった。

2020(令和2)年5月5日(火)『ステイホーム』

以前、「ホームレス」について書いたことがあった。

「ホーム」がないのが「ホームレス」である。

決して「ハウスレス」ではないのである。

ここに妙味がある。

で、「ホーム」とは何かというと、「あなたが安心して本当のあなたでいられる場所」が「ホーム」である。

そういう場所がない。

それを「ホームレス」という。

となると、どんな大邸宅に住んでいても、どんな大家族と暮らしていても、「ホームレス」は存在することになる。

ふむ。

そして今回の新型コロナウイルス感染症対策としての「ステイホーム」である。

ただ「ハウス」にいればいいというものではない。

「ステイ」するのは「ホーム」でなければならない。

外出を控えているうちに、DVや虐待が増えたという。

それはひどい「ハウス」だ。

暴力や虐待を受ける場所は、断じて「ホーム」ではない。

だから、あなたにとっての「ホーム」を探そう。

今あなたがいる「ハウス」よりも、シェルターや児童相談所の方がずっとマシかもしれない。

そしてその先に、あなたにとっての本当の「ホーム」があってほしいと願う。

「あなたが安心して本当のあなたでいられる場所」を探そう。

それがなければ、変えて行こう、創って行こう。

 

「ステイホーム」。

実は、なかなかに深いテーマである。

2020(令和2)年4月20日(月)『もしも新型コロナウイルスに感染したら』

全国の新型コロナウイルス感染者数が1万人を超え、おおよそ日本国民1万人に1人が罹患した、という段階に入った。

地域差はあるものの、これからは我々にとって身近な人が感染者として報告され始め、我々自身もまた感染者となる可能性がずっと高まるだろう。

症状からの検査・受診の相談については、厚生労働省や地元自治体などの指針に沿って粛々と行っていく他なく、もし検査で陽性となれば、「無症状感染者」「軽症者」は「宿泊療養」「自宅療養」という流れになって来ている。

で、もし今、八雲に通われている方が検査陽性となり、「宿泊療養」「自宅療養」となった場合にはどうするのか。

もちろん、まずは必要な身体的治療をしっかり受けること。

そしてもし私の出番があるとすれば、電話やSkypeは使えるでしょうから、メンタルなサポートは十分可能です。

有事の仲間は支えます。

どうぞお申し出下さい。

と言いつつ、もし私の方が検査陽性となり、「宿泊療養」「自宅療養」となった場合にはどうするのか。

それでも、電話やSkypeは使えるでしょうから、しゃべりづらくなる症状が出ない限り、お話しすることはできるでしょう。

そしてもし万が一、あなたか私が重症化して入院となったら。

自力を尽くし、他力におまかせするのみです。

はい。

いつも有事はしんどいけれど、ギリギリのところで我々が試され、本質的な人間的成長の好機にできることは間違いない。

となれば

活かさないでおくべきか。

2020(令和2)年4月18日(土)『テレビ電話始めました』

Skype の設定が終了し、明日4月19日(日)より、いわゆるテレビ電話(ビデオ通話)の利用が可能となりました。

顔が見えて話せた方が良いという方はどうぞご利用下さい。

私のパソコンがちょっと古いため、カメラの画像が粗かったりぎこちなかったりしますが、何よりもマイクに不具合があったため、設定に手間取りました。

今後、「電話スーパーヴィジョン」や「電話カウンセリング」をご利用の際、

「通常の電話利用」か

Skype によるテレビ電話(ビデオ通話)利用」か

をお知らせ下さい。

また既に「通常の電話利用」で予約をされている方も、もし「Skype によるテレビ電話(ビデオ通話)」への変更をご希望でしたら、遠慮なくお申し出下さい。

 

 

以上、お知らせまで。

2020(令和2)年3月30日(月)『闇が来る前に』

仏教にジャータカという話がある。

本生譚(ほんじょうたん)ともいい、早い話が釈尊の前世の物語、即ち、こういう前世を輪廻してやがて釈尊に生まれたという話である。

有名なものでは「月のウサギの話」がある。

皆さんもどこかで聴かれたことがあるかもしれない。

昔、ウサギとサルとキツネがいた。

そこに空腹に窮した老人が通りかかった。

気の毒に思った動物たちは、それぞれに食べ物を集めた。

サルは木の実や穀物を採って来て捧げた。

キツネは魚を獲って来て捧げた。

しかしウサギは何も捧げるものを得ることができなかった。

そこでウサギは、サルに「柴を刈って来てほしい」と頼み、キツネに「それに火をつけてほしい」とお願いした。

準備が整うとウサギは老人に「私を食べて下さい」といい、火の中に身を投げた。

その瞬間、老人は帝釈天の正体を現し、このウサギの姿を月の中にこめ、一切衆生にその捨身(しゃしん)行を示したという。

そしてウサギは輪廻して、やがて釈尊となって生まれる。

そんな話がある。

そしてもうひとつは、法隆寺の玉虫の厨子(ずし)に描かれたジャータカの話。

昔、薩た(土扁に垂)(さった)王子が狩りに出かけたとき、飢えて死にかけている母子の虎に出逢った。 

母虎は、余りの飢えの辛さ故に自分の子虎さえも食べようとする。

その瞬間、王子は我が身を虎に差し出した。

しかも、衰えた虎が食べやすいように、自らの首を掻き切って、高所から身を投げたのである。

そして王子は輪廻して、やがて釈尊となって生まれる。

厨子に描かれた「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」。

そんな話がある。

輪廻が本当にあるのかどうか、まだ死んだことがないので私にはわからん。

しかし、現代においてもこんなことが起こる。

本欄でもかつて「薩た(土扁に垂)(さった)王子を想うとき」という拙文を書いた。

6歳の男の子が3歳の女の子を救うために「思わず」“鼻をつまんで”川に飛び込んで亡くなった事件である。

6歳の男の子が、である。

またかつて、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようとして、韓国人留学生の青年と日本人男性が「思わず」線路に降りて、3人が死亡した事故があった。

見ず知らずの誰かのために命を投じるのである。

捨身行という大悲行は、考えて行う人間業(わざ)ではない。

その人を通して「思わず」働く力によって行われるとしか言いようがない。

だから尊い。

我々はどこまで行っても、自分のことしか考えず、他人のことなどどうでもいい、神経症的不安と自己中心的欲求にまみれた凡夫である。

しかしその凡夫にこのようなことが起こる。

そういうことが現代でも起こることに、私は有り難さと希望を持つ。

 

どうして今回こんな話を書いたかというと

都内の新型コロナウイルス感染症の新感染患者数の大幅増加を聴いて

やがて感染爆発が起こるかもしれないと感じたからである。

そのときになってパニックに陥り、自己中心的行為に走る前に

一人でも多くの方々に知っておいていただきたいと思った。

助け合い、支え合う力が、我々を通して与えられている。

 

本当はね、ジャータカはかつての釈尊の話ではない。

今のあなたの話かもしれない。

2020(令和2)年3月1日(日)『利他行』

マスクに続いて、トイレットペーパーやティッシュなどの紙製品が軒並み売り切れになっているという。

政府やメーカーが、紙製品の在庫は十分にある、デマに流されないように、とアナウンスしているにもかかわらず、である。

人間、不安になって利己的に走る姿を見ていると、なんだか悲しくなって来る。

 

それは東日本大震災直後のことであった。

八雲の近くのコンビニに入ると、棚に残された食品はほとんどなかった。

私の後に杖をつきながら店に入って来た高齢男性は(見るからに単身生活者である)、棚からパンをひとつだけ持って、レジに向かった。

顔見知りらしいレジの年輩女性が

「もっと買って帰ったら。」

と言うと、男性は

「他の人が困るだろう。」

とだけ言った。

 

今、書いていて思い出した。

酷い虐待の中で育った若い女性であった。

当時、大学病院の私の外来に来ていた。

診察の後の昼休み、学内の生協の売店で彼女の後ろ姿を見かけた。

書籍コーナーで彼女は一冊の雑誌を手に取って買い求めていた。

平積みの一番上の、一番ヨレヨレになったヤツを。

彼女を見ている人間は私以外にいない。

もちろん彼女は気づいていない。

次の外来のときにそのことを話すと

彼女は恥ずかしそうに下を向いているだけだった。

 

一番守られるべき人たちが一番他者に優しかったりする。

 

あなたもそうするべきだ、という気はさらさらない。

先日触れた通り、「〜すべきだ」「〜しなければならない」で頑張ってやることではない。

頑張ってやれば、それは却って偽善的な、いやらしいことになる。

我々はどこまでいっても自己中心的な凡夫だけれども

そうでないものも我々を通して働いている。

その力が自然に発現するといいなぁ。

2020(令和2)年1月29日(水)『自分に引き付ける人たち』

当研究所の成長のための精神療法の「対象」は、ホームページに書いてある通りである。

面談を申し込んで来られる方の大半は、ちゃんと「対象」要件を確認して申し込まれ、すぐに日程が決まり、直ちに面談が始まる。

実にシンプルな話である。

「対象」を文字通り読まれて、そのまま満たしているならば、躊躇される必要はない。

同志は大いに歓迎する。

しかし、そうでない方も申し込んで来られる。

「対象」ではないのでお断りすることになる。

それが最近何名も続くため、ここに明記しておく。

まずホームページに挙げてある6つの国家資格取得者が対象である。

類似民間資格は対象ではない(臨床発達心理士、産業カウンセラー、心理カウンセラーなど)。

取得見込みは資格取得ではない。

自己判断の治療中断は、治療終了ではない。

(きちんと治療終結してから来ている人はたくさんおられる

服薬していなければ良いのではない。

(薬物療法を受けていなくても診断名が付くうちは治療対象である)

「対象」は最初から端的に示してある。

それなのに、「対象外」であることが明々白々であるにもかかわらず

都合の良いように解釈して

あるいは

強引に

自分に引き付けて申し込んで来る人がいる。

中には、面談を受けるために

本当は自分自身の「診断」に気づいているのに

「診断はつかない」と言ってもらえるまで何カ所も精神科受診を繰り返した人も

どこかで「心理検査」を受けて「大丈夫でした」と自称する人も

敢えて「未受診」で(受診しないで)回避して来た人もいた。

本当は自分自身の『診断』に気づいているのに」そういうことをする自分自身に対する「情けなさの自覚」がないのである。

完全に「対象外」である。

そして長年「治療」の方も「本気で」行って来た経験からすれば、そういう人たちを「対象」とする精神療法専門の精神科医療機関が存在する。

ちゃんと道はある。

餅は餅屋。

馬は馬方。

海のことは漁師に問え。

役割分担である。

当研究所は当研究所の役割を果たして行くのみだ。

2020(令和2)年1月20日(月)『自己分析』

私が初めて買った心理系の本が、ホーナイの『自己分析』であったことは、以前どこかに書いた。

当時、十八、九歳くらい。

お茶の水の丸善の心理学コーナーで、長時間読み比べて買ったのを今でも覚えている。

後に自分がホーナイ派の精神分析を学ぶことになろうとは夢にも思わなかった。

そして自己分析。

フロイトは自己分析を認めない立場を取った。

それもわかる。

我々は自分のことを見たいようにしか見ない。

相当に詰めて内省したつもりでも、一番重要なところ、痛いところは、無意識にあるいは巧妙に回避するか誤魔化す。

よって他人から、専門の精神分析医から分析してもらった方が良い、いや、してもらうしかない、ということになる。

ホーナイの立場は異なる。

自己分析は可能だとする。

我々の中にある「真の自己」(本来の自分)が働けば、「仮幻の自己」(後から身につけたニセモノの自分)に気づくことができる、感じ取れるはすだ、と考える。

それはそうだ。

しかし、ホーナイは条件を付ける。

最初から一人での自己分析は難しい。

やはりそれは浅いか、誤ったものになりやすい。

まず本物のセラピスト(自分自身が「真の自己」を実現して来た経験を持つセラピスト)から分析してもらう経験を持った方が良い。

その体験が基となって、自己分析が可能になって来る、という。

なるほど、まず穏当なところと言うべきか。

市井にも、対人援助職者の中にも、我流や聞きかじりの知識で自分や他人を分析したがる人が多いのはご存じの通り。

それはやっぱり浅いか、誤ったものになりやすい。

単なるおしゃべりや与太話でするなら良いけれど

人のこころの真実を求めるのであれば

信頼できるセラピストの許、まず自分が自分と勝負する機会を持った方が良いと私は思う。

ちなみに私は師が存命中の間は、せっせと教育分析に通い

(それも本当は「分析」などという狭い範囲を超えたものであったが)

通いながら自分で自分を感じ取る練習をし

師亡き後は、強制的に自分でやらざるを得なくなった。

それでもなんとか間に合って、今この仕事をやれているという次第である。

そして思う。

まだまだ師から聴いてなかった人間のこころの、そしてこの世界の真実の奥行きがある。

それは自分で開拓して行くしかないと覚悟している。

2020(令和2)年1月13日(月)『TAKARAZUKA!』

宝塚ーっ!

前から一度は観てみたいと思っていたが、チケット入手は困難を極め、半ば諦めていた。

そんなとき、ヘビーファンの方から運よくチケットを分けていただき、遂に初見参となった次第である。

で、出かけてみたら

ミュージカルもレビューも面白いっ!

生舞台しかも生オーケストラは良いっ!

トップスターの風格も良いっ!

クラクラして来た。

歌って踊ってが好きな私が、宝塚歌劇を好まないわけがない

フツーにしゃべれよ、というところを敢えて歌って踊る。

しかもたっぷりの振りを付けて。

いーじゃないの。

また、上演中に「客席降り」という、タカラジェンヌが客席まで降りて行って歌って踊ってくれる交流がある。

ファンは予めそのための準備をしっかりとして来るんだとさ。

そんなことされりゃあ、そりゃ、推しメンにもなるだろ。

そして折角観に行ったからには、宝塚の定番モノをしっかり味わいたい。

フィナーレが近づき、待ってましたの大階段登場!

おおーっ。

ああ、シャンシャンだっ!

(シャンシャンとは、公演のフィナーレでタカラジェンヌたちが手に持つ小道具のこと

持ってみたーい!

出ました、背負い羽根!

2番手スター、娘役トップ、トップスターになるほど巨大化して行く豪華絢爛な背負い羽根。

そこまでやるかー。

背負ってみたーい!

ほとんどお調子者の馬鹿である。

当然のことながら、観る方よりやる方がさらに好きなのだ。

近藤先生がニューヨークにおられた頃、ブロードウェイのミュージカルを観に行かれると、帰ってから必ず自宅で再演されていた、という話を奥さまから伺ったことがある。

この師にしてこの弟子あり、である。

私も当然、自宅で再演さ。

やるときにやらなくてどうする。

でもやっぱり、公演全般を通じて一番感動したのは、タカラジェンヌたちのひたむきな一所懸命さである。

宝塚音楽学校を目指したときからバレエやボイストレーニングなどの習い事に明け暮れ、運よく入学できたとしても、在学中は厳しい指導や競争が続き、卒業・入団してからもみんながトップスターになれるわけではない。

それでも一所懸命に自分に与えらえた役を歌って踊って演じて、この舞台を創り上げているんです、彼女たちは。

濃い人生の時間を過ごしていると思う。

そりゃあ、まだ若いからいろいろあるだろうけどさ。

さらに成長しろよ。

おまえもな。

はい。

初宝塚、満足である。

 

 

追伸

そう言えば、昔は竹の塚歌劇団が好きだったなぁ。

追伸2

「TAKARAZUKA2!」もあります。

2019(令和元)年12月20日(金)『面倒くさい人Ⅱ』

ややこしい問題を幾重にも抱えた面倒くさい人たちの中で、私が関わらざるを得ない、もうひとつの人たちがいる。

その人たちは、心からの「情けなさの自覚」も切実な「成長への意欲」も何もない。

よって通常ならば、私が関わることのない人たちである。

しかし関わらざるを得なくなる。

何故ならば、彼ら彼女らとの間に今生(こんじょう)の「縁」があるからである。

これは仕方がない。

私に選択肢はない。

その人たちを見ていると、見れば見るほどつくづくとバカチンである(失礼)。

本当に救いようがない(また失礼)。

それがまた事実なんだからしょうがない(またまた失礼)。

しかし「相手が死ぬか、俺が死ぬまで面倒見なきゃならんのだろうなぁ」と思わせる「縁」がある。

だから仕方がない。

私が決めることではない。

天が決めることなのだ。

これもまたミッションである。

覚悟を決めて付き合うしかない。

(ちなみにこういう「縁」は研究所外の関係で起きる。

 研究所では対象外となるからだ)

でも不思議なんだよなぁ。

そういう場合は苦にならないのである。

相当面倒くさいのに…。

天を仰ぐ。

2019(令和元)年12月19日(木)『面倒くさい人』

「あー、こいつ、面倒くせぇ!」

と感じる人がいる。

ややこしい問題を幾重にも抱えた人である。

しかし、そのことと、その人と付き合いたいと思うかどうか、とは全く別件である。

どんなに面倒くさくても

自分で自分の面倒くささを自覚している人がいる。

そしてその面倒くささを乗り越えようと死に物狂いになって取り組んでいる人がいる。

こういう人とは付き合ってみたい、いや、是非とも付き合いたいと思う。

今の面倒くささがどんなにひどくても、そんなことは問題ではない。

「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の有無が問題なのだ。

そうして実際にそういう人は変化・成長して行く。

これが素晴らしい。

反対に、中途半端程度の面倒くささを持っている人でも

それに対する心からの「情けなさの自覚」や切実な「成長への意欲」を持っていない人がいる。

そういう人と付き合いたいとは思わない、いや、付き合いたくない。

そうして実際にそういう人は成長しない。

信じて受け入れる「素直さ」も、藁をも掴む「切実さ」も持っていない。

かつて受験生の家庭教師をやっていた頃を思い出す。

どんなに成績が悪くても、例えば、数学20点なら20点の自分の実力を自覚し(誤魔化さず認め)、現状を乗り越えようと一所懸命に勉強する子は、どんどんと実力が伸び、実際に受験も合格して行った。

反対に、50点くらいの実力があったとしても、その実力を認めず、「僕の実力は80点くらいですかねぇ」などと言って、必死に勉強をしない子は残念ながら合格には至らないものだ。

私が家庭教師をした子が全員合格したのは、そのときの実力で引き受けるかどうかを決めず、「できない自覚」と「勉強する意欲」を持っているかどうかで引き受けて来たからである。

そういう子は、数学20点からでも、どんどんと実力が伸びる。

そう思うと、私が人に関わる基本的姿勢は、昔から変わらんなぁ、と思う。

面倒くさい人も大いに歓迎します。

但し、心からの「情けなさの自覚」と切実な「成長への意欲」は必要です。

2019(令和元)年12月10日(火)『哀しい噺』

落語が好きなことは何度か述べた。

贔屓は、故人なら、三遊亭圓生(六代目)、春風亭柳昇、存命中なら、柳家小三治、入船亭扇遊というところであろうか。

好きな噺家を聞けば、その人がわかるというが、私の場合はどうだろう。

また年を取れば変わるかもしれない。

しかしもう一人、入れたい噺家がいる。

上方の落語家・桂枝雀である。

うつ病で自殺された経緯から、彼の噺を聴くとどこか物悲しくなってしまう。

しかし実のところ、それは生前から感じていたことなのだ。

オーバーアクションの爆笑落語でありながら、どこかに「生きる哀しみ」が匂うのである。

笑いにはどこか哀しみが匂う、というのはどういうことであろうか。

ただおもしろおかしいだけのペラペラの笑いよりも、哀しみに裏打ちされた笑い、哀しみを通って来た笑いの方が深い、とも言えるのだ。

そう言えば、良い対人援助職者にも、そういう人が多いかもしれない。

いろんな顔が浮かぶ…。

但し、哀しみは超えなければならない。

時機が来たら、哀しみの根源とは向き合わなければならない、と私は思っている。

そうして初めてできる本当の援助がある。

枝雀は道半ばだったのだろうか。

その先の噺があったのではなかろうか。

今となっては知るべくもない。

残念である。

2019(令和元)年12月2日(月)『ダークサイド・イン・ザ・バックヤード』

Aくんは、ある精神科病院で働く若手精神保健福祉士である。

よく気がつき、頭も回り、マメに動く。

笑顔・冗談を連発し、上司・先輩に従順で

ちょっと過剰適応気味じゃないかと思うくらい、期待に応えてよく働く。

しかし、上司・先輩たち(特におっかない上司・先輩たち)の前では見せていないが

同僚・後輩たちが知っている、他の一面がある。

それは上司・先輩たちのいないバックヤードに入ると

愚痴、文句、すれっからし発言の垂れ流しが始まることだ。

この表裏(おもてうら)の二面性。

これだけで彼の生育史の想像がつく。

恐らくは支配的な親の許(もと)、その圧政の中で生き残るために、アンテナを張って、期待に応える自分を身につけたのであろう。

しかしそれは所詮、演技。

従順に服従しながらも、その底には反発がある。

よって「表」では勝手に過剰に服従しておいて、「裏」では反発を垂れ流す。

そしてやがて疲れて破綻する。

彼にとっての最大の問題は、そういう自分に対して「情けなさの自覚」がないことであった。

自分でその二面性に対して「いつまでも何やってんだ,オレは!」という情けなさの自覚がない。

情けなさの自覚がなければ、変化・成長へとつながらない。

そして案の定、彼はその精神科病院を辞めた。

またふりだしに戻る、である。

彼はまだ自分の二面性と向き合う気になっていない。

それならばまた別の所で働き、同じことを繰り返すであろう。

嗚呼(ああ)、已(や)んぬる哉(かな)。

表での過剰適応も、裏での反発もいらない。

いつでも、どこでも、誰の前でも、あなたはあなたでいようよ。

そこに着地しない限り、漂流の人生はいつまでも続いて行くのであった。

 

 

[補記]

バックヤードで後輩・同僚たちに向かってダークサイドを垂れ流すのには、もうひとつ、わけがある。

それは巻き込みだ。

「所詮、人間っていうのは、職場っていうのは、この世界っていうのはそんなもんでしょ。」

「ね。あなたもそう思うでしょ。」

と撒き散らして仲間を増やそうとする。

だから、トイレで一人で呟かないで、誰かがいるところで垂れ流すのである。

神経症的問題の持ち主は、仲間を増やそうとする。

引っ掛かることなきように。

2019(令和元)年11月25日(月)『自分探し 〜 同志の命日に 〜』

何歳になっても、いつまで経っても、同じところをグルグルグルグルと回り、「自分探し」を続けている人がいる。

精神科医にもいるし、臨床心理士にもいるし、ワーカーにもいるし、看護師にもいるし、作業療法士にもいる。

どうして「自分探し」が終わらないのか。

ひとつには、「自分」のありかを「どこか」に求めているからである。

もうひとつには、求める気持ちが切羽詰まっていないからである。

「自分」は「どこか」にはいない。

「自分」は「そこ」にいる。

あなたが生まれて来てからこの方、「真の自己」は一度もあなたから離れたことはない。

『華厳経』の善財童子もしかり、メーテルリンクの『青い鳥』もしかり、最後に見つけたのはいつも「そこ」であった。

「真の自己」はあなたの中に働いている。

そして、中途半端な「自分探し」では「自分」は見つからない。

ちょっと精神世界の本など読んでみる。

ちょっとその道の人に相談してみる。

ちょっとセミナーやワークショップに行ってみる。

ちょっと坐禅や瞑想に行ってみる。

もう「ちょっと」は良いでしょう。

人生は短い。

そろそろ勝負しなさい。

そろそろ徹底しなさい。

そして世間には「自分探し」を中学生の感傷のように笑う人もいる。

しかしその多くは、自分自身もまた「自分探し」に失敗した人たちである。

彼ら彼女らが「真の自己」を達成しているとはとても思えない。

せいぜい後から付いた「仮幻の自己」を自分だと思い込み、ニセモノの安定を得ているだけである。

だから「自分探し」を恥じる必要はないが

やるのであれば

他に求めず、自分の中に求めよ。

お茶を濁すような求め方をやめ、徹底的に勝負せよ。

「自己の本来の面目」を極めることは、人間の一生の大事である。

易行中の易行でありながら難行中の難行である。

しかし、やらないわけにはいかないのだ。

さぁ、どうする?
 

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