八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「大体のところの…母親の、親の態度というものが、どのぐらい子どもに対して影響するかということを述べました。結局ね、親と子というものは、そこに最初において、愛憎の問題が最初からあるということをまず認識してほしいんです。決して、だから、愛が全てではないわけです。その憎しみを解決するのは何かというならば、私は敢えて言うならば、それは、その、親の、お母さんの、特に、あんまり感情的にならない、落ち着いた態度だと思うのです。
やっぱり、なんといっても、それは、そういう愛憎と言いますけど、その基本は、憎の生まれるのも愛するからです。だから、その愛が、本当にまっすぐに、真っ当に、お互いに通じるような、そういうふうな態度というものが求められるわけです。
私はね、その、子どもを育てるという場合に、一番大事なことは、この子どもの持っているものは、自分の産んだものではあるけれども、それは独立した生命を持ったものである、独立した価値を持ったものであるというものを、ま、預けられて育てているんだという態度を持つとですね、そうすると、ある程度、このね、距離が持てると思うんです、子どもに対して。いいですか。自分のもんだと思うと、自分の思う通りに行かないから腹が立つ、感情的になりますね。
しかし、自分のものだったら、全部自分の思う通りになるかっていうと、私はあなた方にお伺いしたいのは、自分の心は自分の思った通りになりますか? 自分の感情は思った通りになりますか? 自分の心が自分の思った通りにならないのに、どうして人の心が自分の思った通りにできるんですか。こんなこと、できっこないと僕は思う。そのできないことをできるような顔をしてやるから妙なことになっちゃう、ね。
そこで面白いことは、そこで、お母さんがもし落ち着くと、これはお父さん自身に、今日はお父さんがいらしゃらないから、あんまりお父さんのことは言わないけども、お父さんも考えなくちゃいけないことがある。それは別として、お母さんの場合の、そこで僕はひとつの尊厳という、そういうものが必要だと思う。教師においてもそうなの。教師においても、その尊厳ということがなかったならば、我々はここに教育が行われない。尊敬ということがあって初めてね、そこに教育というものが行われるのです。本当に自分の尊敬する人からだけ学ぶんです、人間は。
だから、あの、よくお母さんは、女性は、愛、愛とおっしゃる。愛があれば全て。愛が私の全て、二人だけの世界なんていうことを言ってるけども、愛だけが全てではないのです。愛にプラス叡智ということが必要なの。智慧が必要なの。愛を活かすためには智慧が必要なんですよね。」(近藤章久『親と子』より)

 

講演『親と子』の最終回。
親の養育態度というものがいかに大きく子どもに影響するか。
そのために、親は子どもの尊い生命(いのち)を預かって育ててるんだという自覚を持つこと。
子どもの生命(いのち)に対して畏敬の念を持たなければならない。
そして親や大人もまた、子どもから尊敬されないと、子どもは親や大人の言うことを聞かないのである。
「本当に自分の尊敬する人からだけ学ぶんです、人間は。」という言葉が胸に刺さる。
これは親だけの話ではない。
対人援助職者全般について言えることではないだろうか。
そして、愛「情」は常に「情」に落ちる危険性を持っている。
愛「情」+叡智/智慧となって初めて本当の「愛」になるのである。
生命(いのち)を育てるには、叡智/智慧が必要なのだ。
これもまたしっかりと認識して子育てにあたられることを望みたい。

 

◆講演『親と子』に関する内容は、『金言を拾う その1~その4』にかぶる内容でしたが、敢えて引用部分を大幅に増やして掲載致しました。ご了承下さい。
そして、近藤章久先生の講演から正に「金言」を抽出して来た『金言を拾う』シリーズは、今回で一旦終了となります。
他にも近藤先生の講演録としては、本願寺関係のものや専門的なものもありますが、一般的内容ではないため、本欄では取り上げないことに致しました。
そして次回からは、『金言を拾うⅡ』として、絶版となっている近藤先生の著作から金言を抽出して行く予定です。
縁あって出逢った亡師の金言を後世に伝えて行くこともまた、私のミッションのひとつだと思っています。

 

 

『一遍上人語録』にある

「独(ひとり)むまれて 独(ひとり)死す 生死(しょうじ)の道こそかなしけれ

の言葉がずっとこころに残っている。
また、一遍は別のところで

「生ぜしもひとりなり。死するも独(ひとり)なり。されば人と共に住するも独(ひとり)なり」

とも言っている。
の「人と共に住するも独なり」は、体験したことのある人には身に沁みてわかることであろう。
それは絶対孤独の地獄である。
ちょろまかしの嘘事(うそごと)、戯言(たわごと)では、この地獄は誤魔化せない。
そこに本当の救いはないのか。

そして親鸞の言葉が届く。

「よろずのこと みなもて そらごと たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ まことにて おはします」(『歎異鈔』)

そこまでいって初めて、念仏のもたらす「まこと」がわかるのである、この存在の根底に響くのである。
そして、そこに

「俱會一処」(『阿弥陀経』) 俱(とも)に一処(いっしょ)に會(かい)する(一緒に浄土で出逢う)

という絶対孤独を超えた、一如の世界が開けていく。
「独(ひとり)」であったのが、「一(ひとつ)」に突き抜けていくのである。

「念仏をすると本当に救われるんですよ、先生。」

体験に裏打ちされた彼女の言葉の重みが私の胸に甦(よみがえ)る。


 

 

「それともうひとつ。まだいろいろ分け方はあるんですけど、重要な、今、大分多い傾向だけを挙げておきますと…よく見るのは、今のが過保護型、あるいは過干渉型と、結果においてはね。そういうことになるんですが、第三にはね、なんかっていうと、つまらないことでギャアギャア怒るお母さんね。感情的瑣末(さまつ)主義という(笑)。これは瑣末的感情主義。大事なことはね、甘くって、つまらないことでギャアギャア言う。ギャアギャア言うってのは感情的ってことですね。それはいろいろ、そのお母さん自身に問題が実は多い場合が多いんです。自分の旦那さんとうまく行かないとかね、お姑(しゅうとめ)さんがどうだとかね、それからもういろいろ忙しいとかね、隣近所との付き合いがどうだとか、お母さん自身がこんなになって、ハチの巣になってるわけですよ、頭の中がね。心の中が安定してない。そういうことが多いんです。本当にお母さんが安定していればこういうことは別にないの。だけど、大抵そういうことが多いんですよ、聴いてみるとね。でね、ですから、お母さんの問題のことが多い。
それは、そういうふうなね、感情的瑣末主義と言ったのは、つまり、つまらないことで、くだらないことで怒るんです。これはね、男の子を持ったら、一番先に、その、馬鹿にされる元だと思うんですよね。男の子はね、そういうね、「なんだこの馬鹿野郎め!」とこう腹の先で思っちゃうんですよ。女に対する軽蔑感が最初にそこで目立つんですよ。母親を見ててね、女の代表ですからね、母親は、男の子にとっては。最初の女のアレですもん、しかも自分が愛着を感じ、憎しみも感じるけど愛着を感じるもの。それが女の代表。だから、昔は、我々の時代は、ね、初恋の人っていうと大抵ね、母親に似た人でしたよ、ね。近頃は違うんじゃないかな。母親と違う、母親と最も違うヤツを選ぶんじゃないかな。そういうことは、これ、皮肉なことですけど。まあ、アレですが。
そういう意味で、その最初のね、非常に感情的なものに行きますとね、これに対してね、ちょうど、特にそれは中学校の高学年から高等学校に入りまして、あの、男の子の中で、理性的に思考する論理性というものが出て来ます。非常に、そのね、これは女性がですね、非常にそのときに同時に感情的なものがね、豊かさが出て来るのと同じように、そのね、筋肉の発達と共に論理的にものを考える、そういうものが出て来るんです。
その頃から母親は、子どもっていうのは、男の子の場合に、どうもわからないと。私のところに来られる母親、お母さんたち、皆そう言われる。男の子の気持ち、私わかりませんわ、とこうおっしゃるんです。わからないはずですね。これはわからないです。けれども、そこにおける、その、普通だったらば、お母さん、これこれなんとかと言って親しく言うのがね、段々軽蔑して、うるせぇ!なんてこと言われる。何言ってやんでぇ!とかなんとか。黙れ!なんていう具合に言うわけだ。そういうのがね、もう恐ろしいとかっていうことになっちゃってね。戦々兢々(きょうきょう)として、どうしていいかわかりませんということになるでしょ。
これはどういうことかというとね、知らないうちにお母さんがね、つまんないことでね、その、くだらないね、感情的爆発をやってる場合が多いわけですよ、ね。自分でちょっとね、省(かえり)みて下さいね。それをやってるとね、馬鹿だな、阿呆だなっていうことになってね、そりゃあね。
それが旦那さんからそう言われたれら、あなた方は、「何よ!私の気持ちもわかんないで!」とこういう具合にこう来るんだ、ね。けれども、自分の我が子から言われたらね、あなた方は堪(こた)えるはずですよ、ね。どうしたんだろう、と思ってね。私はこんなに愛しているのにってなことになっちゃうんだけどね。
そこいらがね、やはりね、非常に大事なとこなんで、そこで、そういうことをやってると、これが内向性になって、何遍もやってるとね、これをやってると、それがね、本当にね、今度は、お母さんが強い人だとしますね、感情的に。この内の方があるかどうかわかりませんが、非常に強くてね、自分の感情を絶対に押し付ける。そうなって来るとね、あの、男の子の場合はね、特にそりゃあ、育たないです。さっき言ったように、非常に女に対して、女性に対して敵意が出て来ますね。内向的になりますよ。その結果ね、その、ま、いろんな意味でね、もう、非常にうちを早く、家出したりね。そんな問題も男の子の場合は起きて来ます。それからさらに、これが敵意でもって、お母さんをぶん殴ったりね。もう、その、まあ、暴力に訴える。そういうふうなことが多いわけですね。
で、そうした結果、結局、そういうことがみんな認められないようになるとですね、あの、みんなおんなじような、類は友を呼ぶと言いまして、おんなじような人と一緒になって、ま、非行に走るというふうなことが多いわけです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

女性が感情的になりやすいということは、男性が論理的になりやすいのと同じように、ひとつの特性に過ぎないわけですが(これらはあくまでひとつの傾向であって、もちろん感情的な男性も、論理的な女性もいらっしゃいます、それが感情的な豊かさに発展して行くのか、どうでもいいことにただギャアギャア反応するだけの感情的瑣末主義に陥るか、で雲泥の差が生じて来るわけです。

後者の場合、母親の感情がそれほど強くない場合には、男の子は母親を軽蔑するようになり、母親の感情が強烈な場合には、敵意を示して暴力的になったり、内向的になって来ます。
従って、世のお母さん方は、自分が感情的になりやすいという特性に自覚を持つと共に、それが深く豊かな方に発展して行くことを目指し、浅く瑣末なことに反応しないように戒めて行く必要があります。
そのためにはまず、人間として肚が据わる必要がありますね。
敏感でありながら簡単に動じない。
そよ風にも枝葉が揺れる敏感さを持ちながらも、太い根幹は簡単に揺さぶられない。
そのためにはやはり丹田呼吸が役に立つのではないかと思っています。

 

 

本当は怒っているのに、怒っていないようなフリをする人がいる。
いわゆる本音と表出が一致していない人である。
生まれつきそんな子どもはいないので、生育史のどこかでこの面倒臭い生き方を身に付けたのであろう。
しかし、残念ながら、怒っていることは周囲にバレている。
バレてないと思っているのは当人だけである。
眼に出ている、顔に出ている、オーラに出ている。
しかし周囲は気づきながらも、何も言わないものである。

こういう人でも、もし人間的に成長することができたならば、怒っているときにちゃんと「私は今怒っています。」と言えるようになる。
これは正直である。
本音と表出が一致している。
但し、これが過ぎて、思い通りにならないことがある度にいちいち怒りを出すようになる人がいる。
こうなって来ると、ただの垂れ流しである。
正直ではあるが、わがままなのである。
これはこれで面倒臭い。

これがさらに人間的に成長して来ると、怒りはちゃんと出るんだけど、キレがよくなって来る。
長続きしないで、サラサラと流れて行く。
幼児の機嫌がすぐ変わるようなものである。
こうなれば、面倒臭さは随分改善される。
凡夫が目指すのは、こんなところがいい。
そして、ここらあたりまで成長して来ると、抑圧もやりくりも使っていないのに、以前ほど怒らなくなる、腹が立たなくなる、ということも起きて来る。
偽善的に怒らないようにするのではない、腹を立てないように気をつけるのでもない、自ずから、自然に、怒ることが減る、腹が立たなくなるのである。
但し、怒ることがなくなりはしませんよ、凡夫ですから。
凡夫が現実的に目指せる人間的成長は、ここらあたりなのかもしれない。
しかし、ここまで来るだけでも、相当に大したものだと思う。

 

 

これが今回の自分の人生のミッションではないかと思ってやっていても、現実にはなかなかうまくいかないことがある。

そんなときには、まずそれが本当に自分に与えられたミッションなのか、
それともミッションと思い込んでいるだけで実は自分の我欲からそれをやりたいだけの勘違いなのか、
を見つめ直してみる必要がある。

もちろん後者ならば、もう一度一から、何が自分に与えられたミッションなのかを問い直してみる必要があるし、
もし前者ならば、現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けなければならない。

仏教において菩薩に課せられる修行として、六波羅蜜(はらみつ)=六つの実践徳目があるが、その中のひとつに忍辱(にんにく)がある。
忍耐すること、耐え忍ぶことを指すが、上記の「現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けること」も、立派に忍辱のひとつと言える。

その途中で、いろんな迷いが生じる、不安にもなる、これでいいのか、と思う。
それでも、自らの魂に訊いて間違いなければ、どんな逆境の中にいても耐え忍ばなければならない。
生前全く評価もされず売れもしなかった芸術家なんていうのは、その典型的な例かもしれない。
それでも創作をやめてはならない。
何故ならば、それがミッション=今回の人生で生を受けた理由であるからである。

しかし、基本的には大丈夫なのである。
それが本当にミッションであれば、なんだか知らないけれど、支えられる、持ちこたえられるようになっている。
そう。
忍辱する主語は「私」ではない。「私」=凡夫なんぞに忍辱する力はない。忍辱する力もまた「私」に与えられるから忍辱できるのである。
六波羅蜜はすべて、他力によって行われるということを知らなければならない。

 

 

時々
「性格は変えられますか?」
と訊かれることがある。
すると私は
「今のニセモノの性格が本来の性格に変わることならあり得ますよ。」
と答える。
自分で勝手に選んで、こんな性格になりたい、あんな性格になりたい、というふうには変えられない。
また、“変える”のではなく“変わる”のだ、とお伝えしている。
いや、“変わる”というより“戻る”と言えば、さらに正確かもしれない。
そして、今のニセモノの性格ができあがるには、それ相応の年月(大人になるまでとすれば最低でも18年〜20年)がかかっていますから、本来の性格に戻るのにもそれなりの時間がかかりますよ、と付け加える。

ちなみに、もし私が悪意の人間であれば、今までの経験と知識と技術を駆使して、ある人の性格を別の性格に変えることも可能かもしれない。
しかし、その別の性格というのもまた(その人の本来の性格ではなく)ニセモノの性格であるため、時間の問題でメッキが剥がれることになるだろう。
“洗脳”というのは、一時的にしか成功しないのだ。
考えてみれば、ニセモノの自分というもの自体が、一種の“洗脳”の産物なのである。
但し、年季が入っているために、下手をすると、そのまま死ぬまで行けてしまうかもしれない。

そもそも人間は本来の自分を生きるために生命(いのち)を授かった、と私は思っている。
残念ながら、多くの方々が寿命が永遠にあるかのように悠長に過ごしておられるけれども、そろそろ本気で、本来の自分に戻ることに取り組んでおかないと、今回の人生では間に合わないかもしれませんぞ。

 

 

その次に、それじゃあ、そんなことは私はありませんと。私は子どもに対して、非常にもう、なんかっていうともう、なんでも言うことは聞いて、傍(そば)にいてやって、なんでもかんでも言うことを聞いてますと。子どもが欲しいものは全部与えていますと。こういう具合に、まあ、おっしゃる方もあるだろうと思います。で、これはですね、ある意味で言いますと、まあ、その、いわゆる、近頃もう、誰でも使いますからね、皆さん、わかり切ったように思ってらっしゃるけれど、過保護型っていうことになるんですね。
過保護っていうのはね、過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです、ね。自分がね、そのね、甘えられない欲望をですね、あってね、それを子どもに転嫁(てんか)して、自分はさぞかし、こんなにホントに、無意識にね、ホントはとっても甘えたいの。それがなかなか甘えられない。そうするとね、幸福なのは、甘えられることが幸福だと思うからね。だから、自分の子どもにですよ、甘えられるように、どんどこどんどこ与えてやる、ね。いいですか。そうするとね、子どもはね、非常に喜びます、ある意味でね。しょっちゅう一緒にいて、甘えられて、そうするとね、これは、ものすごくお母さんに対してね、しょっちゅうお母さんがいないと大変なんだな。もうしょっちゅういなくちゃいけないからね、もうお母さん、お母さんと、お母さんの袖(そで)にぶらさがってね。今、袖がないんだけど何? スカートか(笑)。ぶらさがっているというふうな形になるわけですね。
でね、そういうことが重なって来ますとね、面白いことに、面白いっていうのは、これがね、幼稚園なんかに出て行きますとね、大変問題が起こるんです。ていうのは、お母さんがいないと安心感がないでしょ。一遍もひとりで独立してただっていうのがないから、だから今度は、その、幼稚園に行きますとね、いわゆる乳離れが悪いといいますか、幼稚園に行くと、幼稚園に行くのがイヤなんですね、うちにいたい。お母さん、何よ、そんな! 向こうへ行くとね、泣き虫になってね。すぐもうね、何かっていうと帰って来て、おかあちゃん、とこういうことになるわけですね。…
それでね、どうなるかっていうとね、これがね、まあ、その、幼稚園時代は、甘えたりなんかして、まあ、そういうふうに、泣いたりなんかして、やっとこさっとこやる。そのうちに慣れるでしょう。慣れるけれどもね、しばらくこう行っても、なんとなくね、この、弱々しい子になっちゃうんですね。弱々しい子になって、まあ、いわゆる、なんていいますかな、泣かされる、イジメられっ子になっちゃう。イジメっ子じゃなくてね、イジメられっ子になっちゃう、ね。そうしてね、そのくせ、うちではね、ものすごく、あの、甘ったれになっちゃうんです、ね。
だから、どういうふうな形になる、まあ、いろんなことが起きて来ますが、その、いろんな形と言いますと、ひとつだけ言いますと、例えば、それが、ある思春期になりましてね、その人が思春期になって、まあ、高等学校に行くんですね。そうすると、面白いことはね、女の子であればね、例えば、学校に行きますね。学校に行くと言って出て、行かない。あるいは、放課後ね、どこかに行っちゃう、ね。面白いですよね。今まであれほどお母さんの傍にいたわけだから、いつまでもそうかというと、その頃になるとね、自分の今に干渉されたくない、人間としての、ひとつのね、ある意味で自然なね、ことだとも思うんですけど、表れ方が、いわゆる非行になっちまうんだな。自分が今まであんまり束縛され、お母さんによってアレされたのがイヤになっちゃってね、それで今度は、逆にですよ、その間に自分の自由を楽しもうというようなことになって、まあ、ロッカーの中へね、入れといて、服装を替えて行ったりしますね。
それからまた、男の子であれば、例えば、同じようなね、お母さんに頼んで、250だか、ホンダのなんとかっていうのを買ってもらってね、そうしてね、どうかっていうと、友だちとね、おんなじようなね、やっぱり一緒になってね、それから、なんかね、ああいうふうなね、ものに乗って行くと、こういうことになるんです。
あの、暴走族なんかの気持ちの中にはね、本当は暴走族の連中ってのは、個人的に言いますと、非常に気の弱い人が多いんですよ、どっちかと言いますとね。自分自身の力、腕力に対してはね、そんなにね、自信がないんですよ。だからこそね、ああいうね、馬力の強いね、ああいう、この、まあ、なんていうんですかね、オートバイをね、ブルブルブルとこうやるとね、もう自分がすごく力強くなった気がするんですよね、途端に変身しちゃう、ね。
これは大人にもありましてね、あの、自動車に、平生(へいぜい)、すごくね、謙遜でね、内気なようなね、男性がですよ、一度(ひとたび)ね、オーナードライバーになると飛ばして、ブーンブーンブーンとやってね、ものすごいんですよ、ね。へ~んし~んて言うんでしょうね(笑)、この頃にしたらね。それは要するに、今までの抑圧されたものが全部、出ちゃう、ね。自分自身が本当はね、そういうことがしたいわけ。だけど、自分に自信がない。ところが、物を借りてね、自動車とか、そういうものを借りてね、やると自分のような気がする。そこでそういうようなことを主張する、というようなことがあります。
だから、今言ったように、あんまり過保護にするとね、そういうことになっちゃう。そうして結局、困っちゃう、とかなんとかいうことになるわけですがね。それからまたね、ですから、過干渉ということがある。
それからさらにこれが、まだ良いんですけどね、これが無力感になって、しょっちゅうイジメられっ子になる。学校の成績も良くない。そういうことになりますとね、自分でものすごくね、あの、悲観しちゃうんですね。だからね、この人はね、ものすごく内気になって、内向的になってですよ、その結果ね、もう何ものも失敗しちゃってね。そうした、まあ、結果、自殺するという場合もあります、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

今回は、母親が子どもに対して非常に過保護な場合。
お母さんがいないと不安になってしまい、甘ったれで、自立できない、弱弱しい子、ひいてはイジメられっ子になってしまう。
それが思春期以降になると、母親の過干渉に反発したくなって、非行に走ったり、また、バイクや車の力を借りて、抑圧した思いを発散するようになったりする。
しかし実際には、非常に気の弱い、自信のない子であることには変わりがない。
それが無力感にまで行ってしまうと、内向的になって、自殺の危険性すら出て来ることになる。
やっぱり、自分が自分であることの幹を太くして行くためには、過保護・過干渉ではなく、試行錯誤をやらせてみて、手痛い失敗からも学ばせて、自力で切り拓いて行く力を養う必要があるわけです。
それにしても、今回も近藤先生の発言の中で、
「過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです。」
のひと言は、流石に鋭い。
これはね、対人援助職の人にも当てはまりますよ。
患者さん、利用者さん、メンバーさんにサービス過剰な人はご注意を。
それは相手のためではありません、自分のためですから。

 

 

年を取ると、その人のパーソナリティ上の問題点が先鋭化する、という。
段々に抑圧が外れて来る(脱抑制)ため、その人の隠していた本性がダダ漏れになってくるのである。
恥ずかしきエロ爺(じぃ)と化してしまった元校長先生がいる。
人を口汚く罵(ののし)り、裁きまくるようになった元教会長老の女性がいる。
哀しいかな、それが本音だったのだから、今さら抑えようがない。

ですから、私は講義や講演などで、繰り返し若い人にお話している。
いいですか、今のうちから、本音と建て前を一致させておくんですよ。
年を取ったら、隠していた本音が露呈しちゃいますからね。
そして、建て前じゃなくって、その本音が変わることを本当の成長というんですよ、と。

しかし、年の取り方は、そんなトホホな展開ばかりではない。
いい感じにエネルギーが落ちてくる場合もある。
それまでこころの“見張り番(超自我)”に備給されていたエネルギーが加齢で段々減少してくる。
そうすると、以前は「~しなければならない」「~するべきだ」で、自分を締め上げ、返す刀で相手も締め上げていた“見張り番”が弱体化する。
また、“(自)我”に備給されていたエネルギーも加齢によって段々減少してくる。
そうなると、「何がなんでもああしたい、こうしたい」「絶対にあれもほしい、これもほしい」と思っていた“我欲”が弱体化する。
そうして、いずれの場合も、まあ、これでもいいんじゃないかな、と鷹揚(おうよう)な気持ちになってくる。
こういった変化は大歓迎である。
自然に肩の力が抜けるというか、自ずとおまかせの境地に近づいていく。
これは加齢の賜物(たまもの)といっていいだろう。

さて、あなたの加齢が、前者になるか、後者になるか。
それは神のみぞ知る、であるが、せめてできることとして、先に挙げた「本音の成長」だけは取り組んでおかれることをお勧めしたい。

そして、かくいう私がもし前者になったとしたら、すいません、優しくして下さい。

 

 

アンポンタンなことに、昔の私は、人間が成長すれば、感情を克服できるものだと思っていた。

例えば、怒り。
これもまた、人間が成長すれば、何があっても腹が立たなくなるんじゃないか、と素朴に思っていた。
確かに、成長すれば成長するほど、ちょっとしたことで腹が立ちにくくなる、ということはあるかもしれない。
しかし、何があっても全く腹が立たなくなったとしたら、それは人間としておかしいんじゃないかと思う。
喜怒哀楽すべてがあって初めて人間の感情として健全なのではなかろうか。
よって、感情の超え方として、その感情、例えば怒りなら、怒りがなくなる、怒りをなくす、という方向性にはどうも賛同できない。
無理にそちらに進もうとすれば、ただ怒りを抑圧するだけの偽善的な誤魔化し方に陥ることになると思う(事実、そういう偽善者は多い)。
(以前にも触れたが、もし「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」というようなことができるとすれば、それは人間業ではない。神の御業だからできるのである)

そうではなくて、人間が成長すれば、感情はどうなるかというと、なくなりはしないが、以前に比べ、サラサラと流転するようになるのである。
例えば、腹が立ったとする。しかし、すぐ次に別の出来事が起きたとすると、怒りはすぐに流れてしまい、他のことを思っている。
ニワトリが三歩歩いたらすぐに忘れてしまうようなものである。
腹が立つことはなくならないが、キレが良くなる。
つまり、執着、固着の「着」が段々と薄まり、ネバネバしなくなり、サラサラと流れるようになるのである。
場合によっては、人間には記憶力があるので、またその腹が立ったエピソードを思い出すことがあるかもしれない。
そして思い出してまた腹が立つ。
しかし、それもまたサラサラと流転して行く。
これは経験してみればわかるが、非常に楽である。
恐らく、幼い子どもたちはこうやって生きているのだと思う。

よって、人間の成長としての感情の超え方は、
感情をなくす方向ではなくて
感情が起きてもサラサラと流転するようになる方向が正解であると私は思っている。

 

 

「私思うのは、いわゆる、子どもに対して、そういった意味で、母親とか、重要なんですが、その母親が、例えば…子どもを置きっぱなしに置いて、いろんなことをやりに行くというふうなことが起きますと、そういうことが非常に子どもに孤独感、寂しい感じを与えますね。不安感を与えます。そうしたものが、しかし、さっき言ったように、そこでもって敵意を母親に対して、イヤなお母さんだと思うけど、悪いお母さんだと思うけど、それを抑えてる。
抑えてることがずっと続きますと、そうしますと、その抑えられた敵意というものはどこかに出すもんなんです。あなた方が、例えば、夫婦喧嘩をして我慢をした。あるいは、上役にはっきり反抗できなくて我慢したと。そういうときにどうしたかというと、奥さんであれば、それは、あるいは猫に当たるとか、ね。そういうふうなことになるだろうし、また、普通の男の人であれば、さらに自分の下役を怒鳴るとか、ね。あるいは、まあ、せいぜいバーかどっかに寄って、ガーガー怒鳴って憂さを晴らすとか。どっかでそれを出して来ますね。
同じように、抑えられたものというのは、どこかで出して来ますから、子どもの場合に、それはどこに出るかというと、この例のように、例えば、この人は、お父さんとお母さんがですね、夜、飲み屋をやってるわけですよ、ね。それで、うちへね、学校から帰って、ずーっとね…たった一人で…小さな四畳半ぐらいの部屋でね、アレなんですよ、テレビを一人で観てるんです。そういうことを長いことやってる。そうやって、まあ、見捨てられた子どもですね。
そういうのが、こういうふうなものになって来て、それでどうしたかっていうと…学校に行きましてね、人の物をね、人がみんなこう、ちゃんとしてるでしょ、子どもたち。そうするとね、子どもたちの上にある本やなんか全部、うわーっと気違いみたいに、みんなね、メッチャクチャにしちゃう。それからね、人の物をね、どんどん自分で使っちゃう。つまり、敵意をそういう形で表してる。
これは大人から見ますとね、非行ですね、良くない態度でしょ。けれども、それはね、どこから出るか、よ~く考えてみるとね、そういったね、基本的にね、基本的に不安があるわけです。不安をね、それを癒してくれない親に対する敵意ね。そういうものが全部そこに来ているわけですね。…
例えば、あなた方は、あなた方の旦那さんの、ね、傍にいるだけで満足すること、ありませんか? 彼氏がどこかへ行っちゃって、寂しくてしょうがない、ね。だけど彼氏の傍が、彼氏が別にどうってことない。おお、おまえ、それじゃあ、なんてなことを考えても、そんなことじゃない、私はあなたの傍にいればいいんだと。こういうふうなことで満足することありませんか? ね。つまり、傍におられるということが、つまり、夫が傍にいるってことが安心感の素でしょ?
同じように、子どもにとってはもっともっと親の傍にいるってことは安心感の素なんですよ。その安心感を与えてくれない親に対する敵意ってのは当然でしょ。しかし、親に対する敵意は、さっき言ったように、下役の人間が上役に敵意を出せないのと同じように、出せるもんじゃないんですよ。出せないから抑圧する。抑圧したものをどこかへ持ってく。それが結局、いろんな問題が起きて来てるわけですね。
ですから、私は、無関心が、つまり、ある意味で、決して意図的には無関心じゃないけれども、子どもとの、子どもの傍にいない親、父親、母親、そういうものが、親ってものは、ひとつの問題を作る原因を僕は持ってると思います。これは、ひとつ、考えていただきたいと思います。
そこで、この人たちはどうするかって言うと、敵意をどこかで出す。そうすると一番始めのうちは、どういうことかというと、自分と同じような種類の友だちと結び合って、そして、この、そういったものをね、お互いに一緒にやろうと、こういうことになるわけです。類は友を呼ぶと言いますけども、不思議に、人間っていうものは、あの、お互いにね、共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすいんですね。偉いとこで、人間同士の友情と言った場合に、大変偉いところで結ぶ、素晴らしい性質を持ってるというところで結ぶことがあります。けれども、それよりも、お互いにこうだよね、というところで、言わば、連帯感を持つことが大変多いのです。
で、子どもの場合もそうなんです。だから結局ね、子どもの場合は、やっぱりね、自分と、類は友を呼ぶで、同じような人とね、結びやすくなる。そうすると、あんな子と遊んで!というふうにお母さんは言われるかもしれないけども、そりゃあ、子どもにとっちゃあしょうがない。そんなことだったら、お母さんよ、あなたが私に欲するものを与えて下さい、ということになるわけですね。
そういう意味で、私は、ひとつの、これを無関心、放棄タイプっていうかね、置き去りタイプ、そういうものになる。これ、旦那にもいるんですよ。無関心、置き去りタイプの旦那、いるんですよ。それを、だから、お母さんたちはご覧になって、自分がもしそうだったら、どうだろうか考えて下さい。無関心、置き去りで、仕事が大事なんだ、なんとかっていうんで、大変もう仕事ばっかりになっちゃって、うちへは帰って来ない。そういうときにあなた方はどんな感じがします?
これはね、あなた方の中にも、幼児性といいましてね、いいですか、子どもと同じものがあなた方にあるんですよ、みんなね、いいですか。だから、それだけにお母さんの方が子どもをわかりやすいの。それだから、僕はあなた方に余計、僕はアピールしたいんです、それをね。
そういう具合に、この、無関心、放棄型、あるいは、置き去り型というものが、という親があります。これはひとつの問題児を作って行く、ひとつのタイプであります。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

現代なら、働いているお母さん方も多いことでしょう。
近藤先生のお話を現代風にアレンジするとすれば、ただ親が子どもの傍にいれば良い、という話でもないのです。
っぱり重要なのは、そこに愛はあるんか、ということです。
例えば、諸般の事情からシングルマザーとして働いて、子どもと接する時間を持ちたくても、なかなか持てないお母さんもいらっしゃることでしょう。
じゃあ、その子どもたちが全員、敵意に満ちて非行に走るのかというと、そうではありません。
たとえ時間は短くても深い愛で子どもに接しているお母さんがいらっしゃいます。
愛は深さ×時間で、時間が短くても深さで勝負すれば良いのです。
そしてもうひとつ、近藤先生がさりげなくおっしゃったひとこと。
「人間っていうものは、お互いに共通の弱さを持ってる人間の方が結ばれやすい」
がこころに残りました。
だから私は、思い悩んだ経験のある人の方が、今苦しむ人のこころに寄り添いやすい、と思っています。
但し、その思い悩んだ問題を今は突破していることも要求したいと思います。
今もまだ問題が未解決のままだと、一緒に漂流するだけになっちゃいますからね。
だから私は、苦しんで突破して来た人こそが良い支援者になれる、と確信しているのです。

 

 

前回、2024(令和6)年7月2日付けの小欄において『『対面面談の際のマスク着用の自由化およびリモート面談の継続について[最新報]』をお知らせしました。
今回はその続報です。

新型コロナウイルス感染症につきましては、世間では最早、「今、コロナ、第何派だっけ?」「まだ第何派って言ってるんだっけ?」というような状況ですが、私の周囲でも新型コロナウイルスに感染する方はゼロにはなっておりませんし、まだ厚生労働省から終息宣言も出ておりませんので、今は“第12派”としてカウントされているようです。

【1】そのような状況下における当研究所における感染対策としましては、引き続き、
当研究所入室時のアルコール手指消毒
当研究所対面面談時のマスク着用
しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。
但し、風邪などを引かれている場合、咳、くしゃみなどの症状がある場合には、コロナ前と同じく、マスクを着用されるか、病状により面談日時を変更されるかをお願い致します。
尚、私(松田)自身は、今しばらくマスク着用を継続するつもりです。
また、ハイブリッド勉強会対面参加される場合につきましても、引き続き、マスク着用しなくてもOK(したい方は、もちろん、していただいてOK)と致します。

【2】また、現在、Zoom、Facetime などでリモート面談を行っている方々につきましては、今後も引き続き、Zoom、Facetime などのリモート面談の利用継続可能と致します。
新型コロナウイルス感染症拡大が落ち着けば、リモート面談の利用継続可能を続けながら、「1年に1回は八雲総合研究所に来所いただき、対面面談を行う」こととする予定ですが、新型コロナウイルス感染症拡大状況がまだ第12波にある以上、これも延期とし、厚生労働省による終息宣言が出るまでは現状維持と致します。

以上、どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

思春期の子どもを持つ親御さんの偉いところは、親に依存しないと生きて行けないくせに、生意気にも反抗・反発・ブータレてくる子どもの世話を、それでもちゃんと焼いていることである。
もっと幼い頃は可愛いかったが、この年頃になると段々可愛くなくなってくる。
かといって、自分たちが成した子である以上、扶養義務がある。
思い通りにならなければ捨てる、というわけにはいかない。
よって、どんなに生意気な子どもでも、生活させ、学費を払い、小遣いまで与えるというのは、義務と言えば義務であるが、親として大したものだと思う。

しかしながら、扶養義務がかかるのは20歳まで。
それを過ぎれば、あるいは、遅くとも大学や専門学校卒業後には、特別な事情がない限り、とっとと自立してもらった方が良い、できれば、家を出るという形で。
どうしても同居を続けるというのであれば、せめて別居に等しい経済的および家事の負担を担わせた方が良いと私は思う。
そこらを心しておかないと、いい年になっても、依存しながら文句をタレる、気持ちの悪い大人子どもを作り上げてしまうことになる。
8050問題は、特別な親子関係においてだけ起こる事態ではない。
そうではなくて、
大人になったら、文句があるなら出てけ、が当たり前である。
上等じゃないか、こんな家出てってやる、と来て、初めて子別れ、親別れが成立するのだ。

悪依存するんじゃないよ。
悪抱えするんじゃないよ。

互いの生命(いのち)の成長のために。

不安だけど夢がある。
心配だけど期待がある。

そんな子と親双方の自立を期待したい。

 

 

 

近藤先生が非常に難しい患者さんの治療に取り組み、ようやく治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。 
「ありがとうございます。ありがとうございます。」と近藤先生に三拝九拝して感謝されたそうだ。

またある時、別の非常に難しい患者さんの治療に取り組み、紆余曲折を経て治療に成功し、遂に患者さんは本来の自分を取り戻した。
その経過を聴いて喜ばれた鈴木大拙は、近藤先生の両手を握り、涙を流して「ありがとう、ありがとう。」と感謝されたという。

普通ならば、相手に感謝されたとき、人間はちょっと遠慮して「いやいや。」「とんでもない。」と謙遜してみせることが多い。
しかし、近藤先生はそうしなかった。
これらの感謝の言葉に対して「ありがたいですね。」と応じたのである。

即ち、自分が治したのであれば、「オレが治した。」と誇ることもできるし、そう思いながらもちょっと謙遜して「いやいや。」「とんでもない。」と言うこともできる。
しかし、近藤先生の場合は、自分が治したという自覚はまるでなかった。
自分を通して働く力が、そして、その人を通して働く力が、治すのである。
だからどうしても返事は「有り難いね。」となる。

そして話を戻せば、鈴木大拙の「ありがとう、ありがとう。」という言葉も、実は近藤先生に対して言った言葉ではなかったことがわかる。
鈴木大拙が近藤先生に対して言った言葉は、実は、近藤先生に対してではなくて、近藤先生を通して働く力に対して言ったのである。

おわかりか?

よって、全ての手柄は、人間にはなく、あなたを通して、私を通して、この世界を通して働く力にこそあるのである。
褒めるべきは、讃嘆すべきは、この力だけである。
よって、キリスト教では「褒むべきものは神の御名のみ(褒められるべきは神さまの名前だけである)」という。
神の御名を唱えながら、これが仏教ならば、仏の御名を称えながら、というわけで、南無阿弥陀仏に落ち着くのである。

ありがとう/ありがたいね。

 

 

「そこで、基本的に幼児時代というものは、母親の問題が非常に大きい。そのときに母親がです、その、もし不安だけ与える、不安だけ与えて、不安と、つまり愛と、愛憎がありますと言いましたけれども、愛が少なくて、あるいは、愛より、愛してはくれるけど憎が多いというふうな状況を作って、憎しみが大きい状況を子どもに作ったら、どういうことになる。そうしますと、この憎しみを主張しようとしますね。そうすると、それは母親に、ところが、幼児の立場から言やぁ、お母さんはもし自分が主張したら、自分を見捨てるかもしれないでしょ、ね。
あなた方もそうですね。旦那さんに対する憎しみがあっても、それをあんまり主張しちゃったら、旦那に捨てられちゃうでしょ。捨てられちゃうと自分の安全がなくなりますね。三食昼寝付きでテレビ観てるってわけにいかないでしょ。だから、結局ね、そうすると自分の敵意はこう抑えちゃってね。我慢するでしょ。我慢したけれども腹が立つ、我慢したものっていうものは、それを抑えなくちゃいけない、抑圧しなくちゃいけない。これは術語で言いますとね。抑圧するといつも敵意があります。
これ、男性で言いますと、上役がいますね。上役が怒鳴ると。そうすると、それに対して、この野郎!とこう敵意が起こる、ね。そうすると、この野郎!と思うけども、これを、しかし、あいつにやるとクビになっちゃうとかね、昇進が遅れるとか、やれどうだとかで、ここで我慢。忍耐、これね。忍耐する。忍耐っていうのは日本の美徳です、これね。我慢に我慢を重ねて行く。その結果、どうかっていうと、心の中に、この野郎!っていう気持ちがある。その気持ちは、忍耐の下にこう抑えられている。沢庵石(たくわんいし)の下の漬物みたいになってる、こうやってね。そういうものが爆発するとね。例えば、前の校長がどっかに行っちゃう。もう大丈夫だ。あいつはもうアレだっていうんで、グーッと出て来てね。前の校長に対してそういう気持ちを思っていたと仮定しますよ、そうすると、今度なった校長先生と、あるいは教頭に対して、もうその先生は文句だらけだな。
そういう具合に、人間っていうのはね、非常によく見ますとね、この、愛憎というものの不思議なね、絡み合いの中で生きてるようなもんです。で、私はこんなことを言うのは、大人のことを言ってるのは、これが子どものことにも関わって来る。子どもの問題っていう場合に、やっぱりね、そういうものをね、見逃してはならないということです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

愛憎のアンビバレンスの中でも特に、憎、憎しみの抑圧ということが問題になって来ます。
愛憎のうち、愛の表出は一般に歓迎されますが、憎の表現は抑圧されやすいのです。
そうなりますと、表出されない憎は、いつもその人の中にあることになります。
子どもでも大人でも、我々の中に抑圧されいる感情で、最も大きいものは、憎=怒りなんじゃないでしょうか。
虐待された子どもも、マルトリートメント(不適切な関わり)された子どもも、そのときは、親は恐いし、しかも愛着の相手でもあるし、憎=怒りは抑圧されてばかりとなります。
また、夫や上司にひどい扱いを受けた大人も、利害関係や恐怖から、その憎=怒りは抑圧され続けています。
けれども、その憎=怒りはなくなってはいません。
よって、それが後になって、適当な機会をとらえて噴出して来るわけです。
このからくりをよく知っておく必要があります。
そして、できるだけ早いうちに、その憎=怒りを健全な形で発散できないか、解消できないか、ということが重要な問題になってくるわけです。
とにかく
子どもは憎んでいる、怒っているということを
大人は憎んでいる、怒っているということを
自分は実は憎んでいる、怒っているということを
よくよくわきまえておきましょう。
やっぱり感情はね、成仏させてあげないといけないのです。

 

 

一時「親ガチャ」という言葉が流行った。
「ガチャ」(カプセルトイの販売機=ガチャポンによる)のように、どういう親の元に生れるか、それがどんな酷い親であろうと、子どもは親を選べないという意味だったように思う。

そうしたら、今度は「医者ガチャ」という言葉に出くわした。
医療機関を初めて受診した際、どんな医者が出て来るか、それがどんな酷い医者であろうと、患者は医者を選べないという意味らしい。
厳密に言うと、今はSNS上の書き込み情報などを読むことができ、或る程度の下調べも可能になって来ているし、その医者と合わなければ病院を変えれば良いので、まだ「選べる」方かもしれない。
また、医者の方からすれば、「患者ガチャ」もあり、一方だけの問題でもない。

そこからさらに眼を大きく転ずれば、多少の程度の差はあれ、この世には、「親ガチャ」「患者ガチャ」どころか、「入学ガチャ」「進級ガチャ」「クラスメートガチャ」「担任ガチャ」「入社ガチャ」「異動ガチャ」「上司ガチャ」「部下ガチャ」「転職ガチャ」「引っ越しガチャ」「結婚ガチャ」「入店ガチャ」などなど、「ガチャ」が数限りなくあることが観えて来る。

そう。
察しの良い方はお気づきであろう。
「ガチャ」には、思い通り、希望通りにならないもの/人に当ったらイヤだなという、はっきり申し上げて、自己中心的願望のニュアンスがあるのであるが、
本来は、出逢うべくして出逢う「縁」という意味なのである。
それを選り好みする(これはイイけど、あれはイヤ)観点からすれば、「ガチャ」という表現になる。

この世の中は、残念ながら、思い通りにならないようにできている。
その思い通りにならないところから
そこをまた思い通りにするために頑張りに頑張るのか
思い通りにならないことが気に入らない自分(自我)というものを超えて行こうとするのか
で、その後の展開は、天と地ほど違って来るのである。

そう思うと、「ガチャ」から学べることは、実はたくさんありそうだ。

 

 

酷い上司、先輩、同僚、部下、あるいは、酷い家族に囲まれて、苦しい環境で生きている人たちがいる。
そうなると人間は弱いもので、
「こういうときはこうやっときゃいいんだよ。」
「そういうときはそう言っときゃいいんだよ。」
「テキトーにヨイショしといて、裏で舌を出しときゃいいのさ。」
などと、いわゆる世俗的な処世術を教えられると、ついそっちに走りたくもなる。
そういうことを、頼んでもいないのに言って来る人たちは、自分自身が使っているちょろまかし方を教えて来るのであり、(自分だけが負け犬のすれっからしになりたくないので、)一緒に泥沼に沈んでいく道連れを増やそうとしているとも言える。

しかしながら、そこで踏みとどまって、自分だけは易(やす)きに流れずに、ど真ん中を歩いて行くことは、実にしんどい。
しんどいけれど、それでもやっぱり私としては、その道をお勧めしたい。

私もそこそこ長く生きているので、濁世(じょくせ)の大変さを知らないわけでもないし、そんなに簡単にど真ん中を歩いて行けないこともよく知っている。
私自身も、アンポンタンでポンコツの立派な凡夫である。
しかし、それでも最初から諦めていてはダメだと申し上げたい。
現実には、ひーひー言いながら踏ん張って踏ん張って踏ん張って、実際に達成できるのは目標の6割くらいかもしれない。だからこそ最初は100を目指すのである。最初から60じゃあ、現実にはその6割、36くらいになってしまう
そうやって、無能、無力、非力の凡夫の自力を尽くしながら、自分を超えた他力を祈ってやっていくしかないのである、ひーひー言いながら。

そうするとね、1年や2年では変わらないけどさ、何年も何年もそうやっているうちに、
「ああ、やっぱり、魂を売らないで、ど真ん中を歩いて来て良かったな。」
「昔の私に、それでいい、と言ってやりたい。」
「こんなに自分が自分でいてのびのびできる時間が来るとは思わなかった。」
と心底思える日が来るのである。
これらはあなた方の先輩たちの言葉である。

だから、それでもど真ん中を歩いて行きましょうよ。
少なくとも、歩いて行こうとしましょうよ、ひーひー言いながら。

その甲斐はきっとありますよ。

 

 

最近の知見では、円形脱毛症(AA:alopecia areata)は、心因性のもの(ストレスによるもの)ではなく、(成長期毛包組織に対する)自己免疫疾患と考えられている。
よって、その治療も局所的免疫療法、ステロイド療法、紫外線療法、免疫抑制剤療法などが行われている(詳細は専門的に過ぎるのでご関心のある方は、日本皮膚科学会 円形脱毛症診療ガイドライン2024 参照)。

しかし、ふと思う。
エビデンスに基づいたガイドラインであるから、その治療法で治癒している方々が実際におられるのであろう。
しかし、私が今まで心因性のものとして治療し、円形どころか、頭髪全体から眉毛まで抜けていた女性が、精神療法のみで全く完治してしまったのも事実である。
あれはどういうことだったのであろうか?
その治療には抗不安薬も使っていない。
まさかたまたま自然経過で生えて来ただけというわけでもあるまい。
少なくとも彼女の精神的成長は明らかであった。
(ちなみに先のガイドラインでは、抗不安薬の投与も心理療法も「推奨しない」となっている)

真実はどこに?

また、心的外傷後ストレス障害(PTSD:post traumatic stress disorder)の患者さんにおいては、海馬の萎縮があることが報告されている。
これまた、私が精神療法による治療を行なって来た方で、幸いにも、徐々に回復し、遂に完治した青年がいた(しかも私の行った精神療法は PTSD治療ガイドライン[第3版]で推奨されている精神療法ではない)。
ということは、その人の海馬は、治療によって体積を増したのか、それともたまたま海馬が委縮していないタイプの方だったのかしらん、と思う。
少なくとも彼の精神的成長は明らかであった。

真実はどこに?

最近はエビデンス流行りであるが、一理があってニ理がないエビデンス倒れも散見される。
あくまで臨床現場の実体験を大切にして、真実の居場所を観誤らないようにしたい。

 

 

「これは、女性の方が今日は多いから言いますが、あなた方の旦那さんとかね、いうものに対する考え方をひとつよく見て下さい。私があなた方に、旦那さんを愛してらっしゃいますか?と訊けば、皆さん、手を挙げられると思うんです、ね。しかし、本当に愛だけですか? どうでしょ? 甚(はなは)だこんなことは言いにくい話だけども、やっぱり憎んでいるところがあるはずです。これをはっきりさせないもんだから、だから、ものがはっきりしないところがあるわけです。癪(しゃく)に障(さわ)るけどしょうがない、まあ、食うね、素を持って来てくれるんだから、しょうがない。亭主と認めてやるわ。こういうところがあるわけですね。男性が今日は、一、二、三、四人だから、合計五人だから、思い切って言える。男性をイジメる会ってことじゃないかもしらんけども、けども、そういう男性がそこで、オレこうやって威張ってるけれども、威張ってる相手の奥さんのお腹の中に二つあるわけです、ね。つまり愛憎ということがあるわけです。
恋人に対してもそうですよ。愛人というけれども、愛しているけれども、それは必ずしも全てが愛ではないはずです。憎らしい。私をこんなに待たせて酷(ひど)い人。私はじっと待ってなくちゃいけない。私はコーヒーをもう何杯飲んだ、胃がお蔭で変になっちゃったってなことがある。それは腹が立ちますよね。なんで待たすの? でも私は愛するから仕方がない。こうなっちゃうでしょ。必ずそういう矛盾した気持ちがある。
日本の女性は、そういう点は、非常に、あの、なんていうか、よくできてるというか、大人しいというか、言わないから、その愛憎を二つ出ない。自分の中の憎しみに気がつかない。気がつかない結果、それがね、あんまり、あの、解決されない。そのままずるずるべったり行って、最後に腹が立ってね、六十ぐらいになって、これから離婚します、なんて言う。親父さんが弱くなっちゃって、今度はね、おまえ、頼むよ、頼むよっていうことになって来るとね、さあ、ご覧なさい、と言ってね、今度は、愛より憎しみが出て、私をどんなにイジメたでしょ。もうあなたなんかおっぽっちゃう、なんていうわけで、まあ、必ずしも言わないよ、そういうことになっちゃう。
そういうふうな愛憎というものが子どもにあるんですよ、良いですか。ここがね、今、あなた方が自分の旦那さんやお父さんを笑ったかもしれないけども、今やまさに子どもから見りゃあなた方がそうなんだ。母親に対する愛憎、それから父親に対する愛憎、父親はもっとひどいんだな。父親が、よく考えてみると、最初の敵意は母親がそうですが、同時に最も強力に侵入して来るのは父親です。お母さんの傍(そば)にゆっくりこうやって、乳房にくっついて傍にいたいときに、突然夜になってお母さんを奪って行くのは誰ですか? お父さんでしょ。そういうときに子どもは、おぎゃあおぎゃあと泣きながらですね、侵(おか)されてるんですね。
近頃は3LDKになると、子どもは別のところにおいて、お母さんとお父さんは別のところにいるだろう、ね。従って子どもは非常に孤独の中に残されるわけですよ、ね。お母さんとお父さんは楽しいかもしらん。そういうときにいつも自分の大事な大事な、子どもにとっては安心と、その、本当に安心感と、なんていうか、満足の元である、源であるお母さんを奪って行くのはお父さんでしょう。お父さんていうものはね、まず最初にはね、自分から自分の愛する者、自分の安心の元を奪って行く対象として見られるんですよ。ですから、子どもにとって最初はね、親父なんてちっとも有り難くない。
その証拠に、親父もまた子どもをあまり可愛がらない。うるせえな。少し黙らせたらどうだ、なんていうことになっちゃう、ね。おまえが悪いんだってなことになってね。うるさい。こういうことになる。
そういうふうに、父親と子どもってものは、最初は、最初の経験は、僕は愛ではないと思う。これは今まで見て来たように、そうではなくて、むしろ原本的に、あの、愛の経験は母親でしょ、恐らくね。父親は要するに、後は、今度はどうかっていうと、それは、父親の有り難みが少しわかって来るのは、もう少し後なんだ、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、アンビバレンス(『アンビバレンス(1)参照』)の対象となるのが、母親だけにとどまらないということ。
夫、恋人などさまざまな人がアンビバレンスの対象となり得る。
その中で、特に女性は、自分の「憎」の部分に気づきにくい。
しかし、気づかなくても実際にある「憎」が、後になって復讐を果たすこともあるのでご注意を。
そして、やはり子どもにとって、最初の愛の経験の対象は母親。
父親は自分から愛する人、安心の元を奪って行く存在でしかない。
父親の本当の出番はもう少し後になってから。
こんなことも、近藤先生の講演を機に、ちょっと知っておくとね、夫婦関係や親子関係において、不要な問題を引き起こさないで済むかもしれない。
良い悪いではなく、人間のこころの事実として、アンビバレンスというものがあることを知っておきましょ。

 

 

『論語』里仁篇に
「子(し)曰(のたま)わく、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能(よ)く人を悪(にく)む。」
([現代語訳]孔子が言われた。「ただ仁の人だけが、本当に人を愛することができ、人を憎むことができる。)
とある。

昔は何度読んでみても、その真意がわからなかった。
能(よ)く好む? 能(よ)く悪(にく)む?
好んだり、嫌ったり?

それじゃあ、ただの我(が)の選り好みじゃん。
儒教の根本とする仁=愛の体現者であるはずの仁者が、相手を絶対的に愛することはあっても、そんな体たらくであるはずがない。
疑問に思って、さまざまな注解書を読んでみたが、どれも腑に落ちることが書いていない。

そうこうするうちに、ようやく感ずるところがあった、あの人間存在の二重構造がわかってから。
仁者たる者は、相手の中にある存在の絶対的尊さを感じている。
そしてその上で、その尊さの上を覆っている人間の、いかにも人間らしい、あるときは愛おしく、あるときは憎たらしい面を十二分に感じているのである。
よって、相手の存在の持つ絶対的な尊さに対して、畏敬の念を抱きながら、あるいは、抱いた上で、その上を覆う極めて人間的な面に対して、自由に、そして存分に、好み、あるいは、悪むことができるのである。
能(よ)く好み、能(よ)く悪(にく)む。
なるほど、良い得て妙である。
相手の存在の持つ絶対的な尊さを感じることが大前提。
それがわかって初めての「能(よ)く」となる。

それにしても、金言というものは、こちらが成長するにつれて、その真意を開示して来ると、つくづく思う。
私が聖なる古典の心読を皆さまにお勧めする所以(ゆえん)はそこにある。
読んでみての疑問や感想は、また面談のときに話しましょう。

 

 

「子どもにとって環境っていうことを段々と今、私は考えてみまして、環境ということ、親子ということが非常に大事で、つまり、最初の母親と子どもの触れ合いっていうものが一番最初の問題です。…
で今、母と子の問題を持ち出したわけです。母と子の問題は、同時に、母が単に一人じゃなくて、夫がある以上は、ここには夫婦の問題もあります。父親と子どもの問題も出て来ます。親子の問題と言っても良いだろうと思いますね。
さあ、そこでです。わかりやすくするために、そのね、お母さんと子どもの問題から出発しますと、あの、非常に、こう、なんと言いますか、単純なことですから、ひとつ、ご経験のある方はわかると思いますが、子どもが最初に、赤ん坊がですね、男の人は絶対にわからない、女の人しかわからないんだが、乳房をくわえます。自然にこう、あれは、あの、吸う本能がございましてね、それで自然に、こう、やるわけです。これは動物全部にあるわけですね。こうやる。そのときに、どうも、吸ってるうちに、それはまず胃に対して非常に良い、その、満腹感を与える、満足する。と同時に、唇ね、唇の中に含む、唇の触感、こうしたものが快感を与えます。
ですから、乳房は単に、二つの目的、一つは、ほんとは三つあるんですが、一つは、自分が飢えたとき、食べたいとき、その成長する欲望である食欲、それを満たしてくれる。喜びがある。第二には、そういう唇による触感によって快感がある。第三は何かというと、そこで実は、後に母の胸に抱かれるというふうな感じで、安心感があるんですね。この三つが、実は、あの、子どもが最初に感じる環境で、そういう三つが満たされたときに、赤ん坊は非常に満足するわけです。そういう意味で、大変簡単に言いましたけれど、それは基本ですから、ひとつね、ずっと覚えておいていただきたいです。
で、そういうものがですね、あって、のんびりしてますと、それにこう、例えば、お腹が空いていなくとも、お母さんの乳房をこう口で含んでいますね。お母さんがそれをこう取ろうとしますね、お母さんも仕事がありますから。そうするとね、イヤでしょ。その最初のね、ガチッとこう噛むんですね。そのとき歯が生え始めていると、お母さん、痛いでしょ。お母さんとしては、非常に、自分自身も、これは母親の方にもまたね、これは父親、男にまたわかんないことだけれども、乳房を含ますということは快感です、喜びです。我が子を育んで行くという最初の、この、気持ちですね。そういうものがね、あるわけですね。そういう気持ちでやってる。両方ともハッピーな、ハネムーン時代ですね、これはね。
だけども、それがね、ちょっとね、この、お母さんが外す、電話がかかってきた、ちょっと。そうすると、そういうことがあると、非常にね、自分の快楽を奪われるわけですね。そういう自分の安全感を奪われるわけでしょ。そこで子どもは、ギュッとそれに対して、自分に不安感を与え、不満を与える人間に対してね、最初の敵意というもの、その最初の敵意は、敵意っていうのは心理的にも今、大人にも言いますけども、どういうことか、具体的に表れて来るのは噛むことです。乳房を噛まれなかったお母さんはいらっしゃるかな? 人工哺乳をやらない限り、必ずこの経験はおありのはずだと思う。なんでもない、まあ、この子はってな調子でこう過ごしていらっしゃるかもしれんけれども、それはそういった心理的な状況を含んでるっていうことを考えておいて下さい。ていうのは、これが僕は、これくらいのときに起きる敵意という、非行だとか、いろんな問題の元になる敵意の、最初の表現だからです。
つまり、その場合に、非常に子どもはね、その、矛盾した気持ちになるわけですね。矛盾した状態に置かれるわけです。これは大人でもあるんですが、はっきり言うとね。矛盾した状態、どういうことか。片っ方でお母さんに頼り、お母さんが自分のいろんな安心感とか快楽とかいろんな欲望を満たしてくれる、その源ですね。ですから、それに対して依存するといいますね、頼りにするわけです。片っ方で頼りにし、それを必要とした。ところでお母さんは同時に、自分からその安心感とか楽しみとかを奪って行く人でもある。同じ人が、片っ方では快楽の源であり、安心感の源である。不安を感じない源であるのにも拘(かか)わらず、その同じ人が自分から安心感を奪って行く。ひとりの人に対して、愛と憎しみと、大人の表現を使うと、そういう形になるわけですね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、母親が自らの乳房から子どもにお乳を与えることの三つの意味、これを押さえておきたいと思います。
ひとつは、空腹を満たしてくれる、満腹感を与えてくれる、食欲を満たしてくれる喜び。
ふたつには、母親の乳首を吸うという唇による触感、その快感の喜び。
みっつには、母の胸に抱かれるという安心感。
そして次に、そうは言っても、母親には母親の生活があるわけで、その三つの喜びをいつも子どもに与えていられるわけではない。
よって、子どもにしてみれば母親は、片方で、上記の三つを与えてくれる愛しい存在でありながらも、もう片方では、その三つを奪う憎らしい存在となるのである。
ひとつの対象に対して抱く相反するふたつの心的傾向。
それがアンビバレンス(ambivalence)(ドイツ語だと、アンビバレンツ(Ambivalenz))=両価性。
そしてこれは母子関係だけでなく、さまざまな(特に近くて大切な)人間関係において見られる現象なのである。
あなたには思い当たる人、いませんか?
そのことについてはまた次回に。

 

 

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