八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

こう暑い日が続くと、冷たいアイスクリームを食べたくなるのが人情というものである。

初めて Lady Borden のアイスクリームを食べたときは、子ども心に
「人間が堕落してしまう…。」
と、その余りの美味しさに打ちのめされたのを覚えている。

その後、Lady Borden は一時店頭から姿を消し、Häagen-Dazs や 31icecream に取って代わられた観があったが、現在は Lotte がライセンス生産する形で復活を遂げている。

Lady Borden の食べ方としては、やはり一度は大容量のカップを大人買いして、小脇に抱え、もういいと言うまで、スプーンですくって食べてみたいものである。
実際にやってみると、そんなに食べられるものではないが、精神的達成感は大きい(しかし、しばらくは見たくもなくなるという副作用が出ることあり)。

そしてカップで購入した場合、アイスクリームをすくいとる道具の工夫をお勧めしたい。
お店などでは、綺麗な球形にすくいとるために、お馴染みのアイスクリームディッシャーが使われているが、自宅の冷凍庫でアイスクリームが硬くなっていると、それでもなかなかすくいとりにくい。

そういう場合には、熱伝導率の高い素材で作られた、スプーン型のアイスクリームスクープをお勧めする。
亜鉛合金製や、中にはハンドル内に特殊な解凍液が封入され、手の温もりに敏感に反応して、アイスクリームをすくいとりやすくする優れものもある。
カチカチのアイスクリームが、思いの外、スッと取れると、なんだか嬉しい。

で、野暮な注意点としては、ご存知の通りである。
アイスクリームは、乳脂肪分が高い方が美味しいのよね。
どうして体に悪いものほど美味しいのであろうか。
あとは自己責任でお願いします。

 

 

なつかない(なつきにくい)ペットというのがいる。

シマリスがなつきにくいという話はよく聞く。
テレビの動物番組では、シマウマがなつきにくいと言っていた。
また、カブトムシやクワガタといった昆虫類というのもなつきそうにない。
昔、“謎の生物”シーモンキーの飼育が流行ったことがあるが、本名はアルテミアという甲殻類の一種で、こういうものもなつかないであろう。

なんでこういう話をするかというと、なつかない(なつきにくい)ペットを飼うということは、なついてくれるという報酬は得られない、ということを意味するからだ。
そうすると、手間がかかるだけになる。
つまり、そのお世話には、一方的な、無償の愛が要求されることになるのだ。
ならば、そういうペットを飼うということは、ひとつの修行になり得る。

但し、例外が三つ。
ひとつは、ブリーダーとして飼って、繁殖させて儲ける、という場合。
ふたつめは、研究・観察対象として飼う場合。
こういう場合はペットではないな。
そしてみっつめは、そのなつかない(媚びない)姿に、孤高の自分を重ねて悦に入っている人の場合。
そこにあるのは自分の投影であって、ペットへの愛ではない。

そうして、人間はペットではないが、反抗期に入って何かと逆らって来る子どもや、治療者にテスティングを仕掛けて来る(わざと面倒臭い言動で試して来る)患者においても、これは近似性がある話だと思えて来る。
それでも愛せるか。
凡夫には無理そうだな。
よって祈ることになるのである。

ペットを超えた話になった。

 

 

たまに、私が精神科医とわかると、いろいろ話したそうにする人がいる。
さらに私が精神療法家や精神分析医であることを知ると、余計に何かを訊きたそうにする人がいる。
こころの健康に関する国民の啓蒙・啓発という点からすれば、別にいろいろ訊いてもらって構わないし、お答えできることはお話するが、困るのが個人的なプチ相談である。
これはそう簡単に応じることができない。
ちょっと、軽く、気になってたことを相談する ー そういう相談はやってないのである。
当ホームページをご覧になればおわかりの通り、当研究所では、自分自身に対して本気で「情けなさの自覚」を持ち、真剣に「成長への意欲」を抱いている人を対象とし、その人の生き方自体を根本的に変えて行こうというのであるから、残念ながら、ちょっと、軽く、とはいかないのだ。
しかし現代では、ちょっと、軽く、に応じてくれる相談先もたくさんあるようであるから、それで良い方にはそちらへどうぞ。

先日も、「松田先生ところは、『対象』をそんなに絞って、よく来る人がいますね。」と言われたが、有り難いことに、世の中にはそういう奇特な方々もいらっしゃるのである。
確かに、
希望者が怒涛のように押し寄せて来ることはないが、よくまあ、ここに申し込んで来られましたね、というような方々との出逢いが、私の確信(私が逢うべき人には逢えるようになっている)をさらに深めてくれている。

中には、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が甘く、残念ながら、途中で脱落して行く人もいなくはないが、それも年に一人いるかいないかであり、結果的に、深く、根本的に、というのが、当研究所におけるセラピストとクライアントとの関係になっているようだ。

それでも生かされている時間は決して長くない。
私の中で、一人でも多く、逢うべき人に逢いたい、その人の本質的な成長に関わりたい、という想いは、開業当初から今日まで些かも変わっていないどころか、さらに強くなっているような気がする。

「ちょっと、軽く」が「深く、根本的に」になったら、どうぞ八雲の門を叩き下さい。
「そのとき」が、あなたの転機です。

 

 

「精神療法(心理療法)は、十年はやらないと何もわからないよ。」と近藤先生はよく言われていた。

その十年でも、毎週近藤先生の指導を受けながらの十年と、全くの我流か、せいぜいたまに研修を受けるくらいの十年とでは雲泥の差があろう。

また、面談頻度においても、以前「松田先生に10年間ご指導いただきました。」と言う人がいたが、その人は2〜3カ月に一度、気が向いたときにしか来られなかったので(昔は1カ月に1度以上面談に通うという決まりはなかった)「君は実質、1年くらいだね。」と伝えた。

そもそも、人間というものは非常に思い上がりやすいものであるから、ちょっとやったくらいで、なんだかできそうな気にすぐになってしまう。
しかし、はっきり申し上げて、実力はない。
そして、患者さんやクライアントに迷惑をかける。
「精神療法/心理療法って、こんなものなのか。」
失望(場合によっては絶望)を与えるのだ。
その罪は深い。

よって、精神科医や臨床心理士が本格的な精神療法/心理療法ができるようになるための教育は非常に重要である。
中でも、学生(大学院生)〜精神科医/臨床心理士になって最初の十年は、とても大切だと思っている。
どこで誰からどんな教育を受けるかで、その後のセラピストとしての力量に大きな差が生じる。

中には、かなりベテランの域に達しても、それまでの自分の精神療法/心理療法に疑問を持ち続け、意を決して、根本から学び直す人もいる。
その姿勢は大したものである。

いずれにしても、精神科医や臨床心理士が本格的な精神療法/心理療法を行えるようになるには、それ相応の修練と年月がかかることを肝に銘じておいていただきたいと思う。

 

結局ここにおいても、謙虚な人間ほど成長し、思い上がる人間ほど成長しない、という原則は、あてはまるのであった。

 

「私は、職業柄、いつも悩みを持ち、問題を持った人たちのご相談を受けているえあけなんですけれども、いのち、その方のいのちが病んでいると思ったことは一度もないのです。いのちがただ迷っているのだと思うのです。いのちが本質的には輝いてその人の中にある。しかしながら、その人がほんとうの自分のいのちを生かすということに目覚めていないために、他のつまらぬものを生かそうとしているためにとでもいいましょうか、自分のいのちよりも大事なものと考えるものがあって、それを生かすためにじつは問題が生じているということなんですね。…
いろいろな人がいます。愛人に裏切られちゃったから、もう私は人生に何の希望もありません。そういうような女の人 ー カミソリの刃でもって手首をパッと切ってね、自殺を図ったというふうな女性もいました。…『そう、その人はどういう人なの?』と聞くと、いいところを話す。好きなんだからいいところばかりいうのは決まっている。けれども、だんだん話していくうちに『でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね』と私はいった。そうすると妙な顔をしておられる。『その人は一時あなたを愛していたのでしょう? 少なくとも愛するという言葉は使われたのです。しかし、愛するということはどういうことかというと、私にいわせれば、相手のいのちを育てることではないでしょうか』と、いってみた。そうするとね、なるほどと、なんとなくぼんやりとわかったような感じをなさるのですね。愛というものは、うっかり間違うと自分のいのちを育てるどころか、腕を切って死んじゃうというような、自分のいのちを傷害するほうにも働きますね。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね」
あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたのいのちが育つことに役立っていますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.のいのちが育つことに役立っていますか?
「愛するということは…相手のいのちを育てることではないでしょうか」

あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたを愛していますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.を愛していますか?
この世の中で縁あっての出逢いです。
ただの出会いじゃあ、しょうがない。
表面を撫でたような出会いじゃあ、もったいない。
情にまみれた出会いじゃあ、気持ち悪い。
互いのいのちを育て合う、育み合う出逢いにして行きたいじゃあ、ありませんか。
そうして初めて、この世界にあなたとわたしが生まれて来て、そして、あなたとわたしが出逢った本当の意味が、成就するのだと思います。

 

 

厚生労働省の施策に「精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築について」(略称:にも包括)というものがある(概要を知りたい方はリンク参照)。
この施策名を初めて見たとき、「精神障害『にもかい! ついでかい!」とガックリ来たのを覚えている(説明文では「精神障害の有無や程度にかかわらず」と言い訳しているが)。

共生社会を目指すことに何の異論もないが、この娑婆は(昨日触れたように)能力主義、効率主義、功利主義などが蔓延(はびこ)っている。
自分は「できる」と思い上がり、おまえは「できない」と見下す連中がウヨウヨいる。
そんな価値観に基づいて生きている地域住民の中で、どうやって障害者と共生して行けば良いのか。

かつて私はアプノーマライゼイションについて述べた。
世に言われるノーマライゼイションに対して、みんながノーマルなんぞと思い上がらず、みんなアプノーマルと認め合った方が良いんじゃないか、という提言である。

その発想を仏教的に言うならば、いつも申し上げている、「凡夫の自覚」ということになる。
厩戸皇子(聖徳太子)のおっしゃる通り、世の中にいるのは「凡夫」のみ。
「できる」などと思い上がらない。
「てきない」などと見下さない。
所詮、ドングリの背比べ。
ノーベリストも認知症になれるし、金メダリストも寝たきりになれる。
そもそもが大したことないし、ちょっとできるかのように思い上がってみても、みんな、すぐにできなくなれるのである。
そんな五十歩百歩のポンコツ同士が、この世界の中で、支え合って、助け合って、生きて行けば良いじゃないの、というわけである。

ポンコツだらけの住民を抱えられる力を持つのが、本当の意味で、健全な地域であり、そのありようはまさに“ポンコツランド”であろう。

地域を支える諸制度、諸施設、諸機関などの整備は、これからも大いに有り難いが、
形の前に気持ち、住民同士がポンコツ同士という自覚を本音で持ち、思い上がらず見下さず、一緒に暮らせる地域に、私は住みたいと思う。

 

 

精神科医療福祉関係者で、自分が仕事が“できる”ことを“誇る”人がいる。
また、自分のことでなくても、ある人が仕事が“できる”ことを“賞讃”する人がいる。
大抵は、仕事を計画的に、効率的に、うまいことこなせることをもって、“できる”と自負し、“使える”などと評価されているようだ。
いかにも資本主義下の現代社会で評価されやすい功利的な価値観と言える。

しかし、私はいつも違和感を抱いて来た。

で、あなた方が関わっているのは、どういう人たちでしたっけ?
障害の種類にもよるが、それこそ、計画的に、効率的に、うまいことこなすことが得意でない人たちが多いのではありませんか?
それなのに上記のような価値観を持っているということは、患者さん、利用者さん、メンバーさんに対して、実は密やかな差別観を抱いていることになりませんか?(そしてそれはバレている)

それ故、“できる”職員という表現を簡単に使う神経に私は違和感を覚えるのである。

そりゃあ、たまたま“能力”として「計画的に、効率的に、うまいことこなす」力を授かっている人がいて、それを発揮することには何の問題もないと思う。
それは、大喰いができるとか、鼻が利くというような“能力”と同じである。
問題はそこではなくて、「計画的に、効率的に、うまいことこなす」ことを“誇る”あるいは“賞讃”する価値観にあるのである。

患者さんに向かって、学歴なんてどうでもいいじゃないですか、と言いながら、家庭では、子どもの有名校受験にプレッシャーをかけている精神科医療福祉関係者がいる。
それもその子どもがその子の本来の自分を発揮するのに、その学校の校風がたまたま合っているのであれば、何の問題もない。
しかし、その有名校に行っていることを“誇る”あるいは“賞讃”するとなると、一気に生臭い話になって来る。

もう一度申し上げる。
たまたま“能力”として「計画的に、効率的に、うまいことこなす」力を授かっている職員がいて、それを発揮することには何の問題もない。

しかし、“誇る”あるいは“賞讃する”価値観による汚染を許してはならない。

我らが仲間たちには、二枚舌の偽善者に堕していただきたくないからね。

 

 

 

世の中に「背徳グルメ」というものがあるそうな。

食べると背徳感や罪悪感を感じる料理のことで、高カロリーのものと脂っぽいものが双璧であるが、他にプリン体の多いものや悪玉コレステロールが跳ね上がるものなどさまざまだ。
具体的には、山盛りの唐揚げ、背脂ラーメン(ニンニク増し増し)、焼き肉食べ放題、トンカツ&エビフライなんならメンチカツものせカレー、炭水化物×炭水化物、スウィーツビュッフェ、チーズケーキやアイスクリームケーキのホール食い、痛風鍋、魚卵攻めなどなど、いくらでも挙げられる。

そうすると思い出すのが、19世紀スウェーデンの、敬虔なクリスチャンにして菜食主義者であったエリク・ヤンソンである。
彼が、余りにも美味しそうな見た目と香りに誘惑され、つい口にしてしまった料理が「ヤンソンの誘惑」(アンチョビとジャガイモのグラタン)である(以前にも少し触れた。由来には諸説あり)。

(昔、勉強会の後の懇親会でスウェーデン料理を食べに行きましたね)
ヤンソンが食したときの、その苦悩に満ちた悦楽の笑顔が想像できる。

嗚呼、食べてはいけない、と思うほど、食べたくなり、
食べてはいけないものほど、美味しいと感じるのは何故でしょうか。
(酒とタバコも同じようなものであるが、両者には依存性があるので事情がちょっと異なる)

その背景が解明されない限り、肥満や糖尿病、脂質異常症、痛風などの食事療法は、これからも苦戦することになるだろうと思う。

ちなみに、あなたの「背徳グルメ」は何ですか?
他で言わないから、そっと教えて下さい。

 

 

最近のデータによれば、日本の自殺死亡率は16.4(人口10万人あたり)だという。
他方、ある研究者が、精神科医の自殺率は約0.5%に上ると報告していた。
これを人口10万人あたりに換算すると、約500になる。
すると、精神科医の自殺死亡率は、日本人全体の約30倍に匹敵することになるのだ。

この数字をどう見るか。

よく言われることであるが、もともと心の病気に親和性を持った人間が精神科医になりたがるという背景がある。
なりたがること自体を止める理由はない。

しかし、ここからがいつも申し上げている話になる。
自分の心の問題とちゃんと向き合って、それを解決する(あるいは、それを抱えながら逞しく生きて行く)ことに成功した人は、臨床の現場に出ても、その経験を活かして、患者さんに貢献できる精神科医になれる可能性が高い。
しかし、自分の心の問題と向き合わず、未解決の問題を抱えたまま臨床の現場に突入すれば、自分の問題に加え、患者さんの問題も抱えるようになり、事態は一層深刻になる危険性が高い。そこで誰にもつながらない、誰にもすがらないのであれば、自殺の危険性が高まってもおかしくはない。

だから、同業者の方々に言っておきたい。
あなたの主治医を持った方が良い。
「主治医」という表現に抵抗があるのであれば「指導医」でもいい。本当は「人生の師」と言いたいところだ。
そういう存在は、「治療」という狭い意味ばかりではなく、人間的な「成長」という広い意味で、非常に重要である。
私自身も、もし近藤先生がいらっしゃらなかったならば、と思うとぞっとする。
少なくとも私は、近藤章久を得て、出世の本懐を感じることができた、と本気で思っている。

精神科医が自殺すると、患者さんへの影響は甚大である。
人生は生きるに値しないということを示すことになるから。
そうではなくて、精神科医は生を授かった意味と役割を果たす喜びを患者さんに示さなければならない、と私は思っている。

 

 

 

親が全員愚かというわけではない。
親は時に愚かになってしまうという話である。

身近なことで言えば
精神科医として
臨床心理士として
精神保健福祉士として
看護師として
作業療法士として
散々、不登校や引きこもりの当事者・家族に関わって来たにもかかわらず、
いざ、自分の子どもが不登校や引きこもりになってしまうと、一気に愚かな親に堕してしまう場合がある。

抱え過ぎる、甘やかし過ぎる、恐れ過ぎる、イジリ過ぎる、放っておき過ぎる、などなど。
その挙げ句に
「他人のことだと言えるけど、いざ自分の子どもとなると、できないものよね〜。」
「そうよね〜。」
などと、愚かな親同士で、自分のダメさ加減を正当化・一般化して慰め合う者たちさえいる。
そうではなくて、それまで行って来た支援の中味もまた、大いに反省しなければならない、ということだ。

かつて「子育ては難しい。」と連呼するお母さんがいた。確かに子育ては簡単ではないが、その人の場合は、子育て一般の難しさのせいにすり替えて、「私の子育てがダメでした。」「私が愚かでした。」とは言わなかった
また、子どもにあれこれ過保護に手を出すことに「まだあれがこれで必要なんです。」「折角ここまで来たので、それ以上、追い詰めたくないんです。」と合理化=屁理屈をつけるのがうまい親がいる。
れは親の方の不安であり、つまりは、子どもの中にある生命(いのち)の力を信じていないのである。これは8050予備軍に多い。

し自分の子どもがそうなったら、
まず自分の非を、自分の親としての足りなさを謙虚に、そして徹底的に認めて、
その上で、改めてその子が生まれたときのことを思い出し、この子の生命(いのち)がどうか健やかに成長して行きますように、と合掌礼拝するような気持ちで接することから始めれば、何かが変わっていくかもしれない。

伸び行く生命(いのち)を止めてはならない。
伸び行く生命(いのち)を曲げてはならない。
伸び行く生命(いのち)を感じなければならない。

親から自分の生命(いのち)が伸び行くことを感じてもらい、尊い存在として合掌礼拝され続けた子どもが成長しないわけがないのである。

 

 

なかなかの問題がある両親の許で育った私は、自分の安心・安全のために、常にアンテナを張って、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読む力を身につける必要があった。
そのお蔭と言って良いのかどうかわからないが、後に精神科医になっても、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読むことは人一倍得意であり、それが役に立つ場面もあった。

しかし、医者になったばかりの頃は、境界性パーソナリティ障害が一気に増えて来た時代で、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読むということにおいては、そのクライアントの一部に自分と同類のものを感じていた。
但し、彼ら彼女らは、その力を使ってこちらを巻き込み、共に破壊する方向に持ち込もうとするため、こちらとしても、そんなおまえらの巻き込みなんぞに引っかかってたまるか、こっちはその一枚も二枚も上を行ってやる、と対抗心を燃やし、面談場面はさながら“神経戦”の様相を呈していた。
なんのことはない、それは“我”と“我”の戦いに他ならなったのである。
そこには、子どもの頃と同じく、強烈な相手に対し、自分の安心・安全を得ようとする“保身”の姿勢があった。

やがて私は気がついた。
そこに、相手の成長を願う“愛”がなかった。
それでは“治療”になるはずがない。

そして、相手のこころの奥底にある、健康な、本来の自分を実現しようとする力を感じられるようになって初めて、診察の場は“神経戦”から“相手の成長を願う場”に変わって行くことを知ったのである。

“愛”なきところに“治療”なし。
“愛”なきところに“成長”なし。

これは治療場面だけではなく、家族でも、友人でも、職場でも、どこでも同じであった。

 

 

「私は現在女子教育にたずさわっておりますが、日頃つくづく思うのですけれど、入学してくる生徒さんたちが挨拶するということがとても少ないと思うのです。…挨拶とはそもそも何かというと、頭を下げて『おはよう』という。おはようということは、私が早く起きたよと威張っているわけではない。相手に対して『おはやいですね、早く起きて健康ですね、健康だから早起きなのです。すばらしいですね』と、このような気持ちで『おはよう』というのです。同じような意味で『グッドモーニング』と、そういうわけですね。『グッドモーニング・フォー・ユー』ー あなたにとって良き朝でありますように、という言葉ですね。…
私のようにだんだんと年をとってきますと、人生が単純に見えてくる。人生というのは、何かこう余計なコチョコチョしたもの、ムダなものをいっぱい持っている。『オギャー』と生まれるときには何もつけてない。にもかかわらず、それからいっぱいいろいろなものをくっつけて生きて、自縄自縛(じじょうじばく)といいますが、自分を縄で縛って自分で窮屈になって、自分で悲しんだり、苦しんだりする人が多い。これが人生みたいなもの。年をとってくるとそういうのが、自分のつくるすべて幻想みたいなものであるとわかってくる。そうするとできるだけ自分のいのちを大事にして限られたいのちを生かしていきたいと思うのです。
そこで、さきほどの挨拶ですが、英語でいえば、God bless you - 神様があなたに祝福を与えてくださいますように。日本語でいえば、おはようございます。お互いに早く起きられて健康で、今日もこのいのちを持てるということはどんなにありがたいことでしょうと、そういう気持ちなんですね。つまりそれは、相手のいのちに対する祝福なんです。挨拶というのは、そういうものなんです。お互いのいのちを祝福するのはどういう意味かといえば、これこそ、私がいいたいことなんですけれども、いのちというものが私たちに一回しか与えられていないということからくるのです。そして、そのいのちは他の人と替えることができないものです。私が長生きをしたいというので、私のいのちをどこかで、若い人のいのちと取り替えるわけにはいかない。
このことは、みなさん、神秘的なことですが、わかりやすい事実でしょう。わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この一番最後のところが大事。
いのちの大切さについては、いろいろな人がいろいろなことを言っています。
近藤先生の言葉も、中には、そんなこと、わかってるよ、当たり前だろ、と思う人がいるかもしれません。
しかし、そうじゃないんですね。
「わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです」
理屈ではない。頭でわかる話ではない。
感じること。あなたの存在を通して体験すること。
そうして初めて、相手の生命(いのち)を感じて、毎日の挨拶がこころからの相手への祝福になるのです。

 

 

殿さまはちょっとバカな方がいいという。

トップに立つ人間が、余り細かいところにまで気がつくと、下がやりにくい。
細かいところに眼を光らせるのは、家老/番頭/重役格の人の役目であって、殿さま/店の主人/社長は、本当に大事なところだけを押さえておいて、他のことについてはちょっと抜けているくらいの方がいいのである。
その方が組織の中が窮屈でないし
、むしろ下が「自分がしっかりしなきゃ。」と思って自律的に働くようになる。

私が知っている教授の面々でも、いわゆる名教授と言われる人はみんな愛すべきバカ(失礼)であった。
(念のためにフォローしておくと、研究においてはみんな優秀な方々です)
計算高く、如才なく、細かい教授ばかりでは息が詰まる。

しかし最近は番頭さんのまま店の主人になるような場合が増えているようで、働きにくいという話をよく聞く。
そこらも実は先人たちの智慧があり、昔は番頭さんが自分で店を構えて独立する(暖簾分けする)ときには、お世話になった店の主人から「主人というものの心構え」について諭されることがあったという。
おまえは今まで番頭として非常によくやってくれたけども、この度、店の主人になるにあたっては、ちょっとバカにならなきゃいけない。
そして番頭の役目は別の人にやってもらうんだよ。

そんな智慧の伝達が途絶えてしまった現代、ちょっとここに書いておこうと思った。
今日これを読んでいる方の中に、トップの立場の方がいらしたら、ちょっと知っておいて下さいな。
主人は主人の役を、番頭は番頭の役をちゃんと果たして行きましょうね。

 

 

時に講義の依頼を受けることがある。
ホームページにある通り、対象は学生が多いが、私としては毎回楽しみである。

それも昔っから楽しみだったわけではない。
気持ちが、聴講生ではなく、自分の方に向いていたときは、講義の目的が、自分が受ける評価の方に偏っていたため、余計な緊張や身構えがあったと思う。
それが、ある時から、「一生のうちで出逢える人の数は限られている。ならば、その限られた出逢いの中で、一歩でも半歩でも人間として成長するきっかけになってほしい。」と願いながら聴講生の方を向いて講義するようになってからは、不要な緊張や身構えもなくなったように思う。

そして、そういう気持ちで聴講生を観ていると、その一人ひとりの中に、伸び行こうとする生命(いのち)の力を感じるときがある。
そんなとき、聴講生の顔が、その生物学的年齢とは別に、皆、子どものような顔に見えて来る。
ああ、折角、生命(いのち)を授かって“自分”に生れて来たのだから、本来の“自分”を実現して生きて行ってほしいなぁ、と親心のように願う。

そのためかどうかわからないが、講義きっかけで、今も当研究所に面談に来られている方は多い。
私としては“営業”のために講義をやっているわけではないので、講義中に当研究所の“宣伝”をすることはないが、数少ない講義きっかけで、長く、深い付き合いに至ることもまた、天のお導きという他ない。

私のところでなくてもいい、誰のところでもいい、どこでもいい、やはり行き着くところは、たった一度の人生、自分以外を生きているヒマはない、ちゃんと自分を生きて死にましょうね、ということに尽きるのである。
講義は、そのメッセージを伝える小さな端緒となる。

 

 

“You raise me up”という曲がある。
なかなか良い曲であるが、今日はその曲の話ではなくて、ギリギリのところにいる対人援助職者の話である。

昔、近藤先生のところに通って来ている一人の精神科医がいた。
わざわざ新幹線に乗って遠方から通われていたが、珍しい経歴の人で、ろくに初期研修を受けず(昔は初期研修を受けることは義務ではなかった!)、しかも早々に開業し(おいおい)、近藤先生のところに通って来ていた。
ありがちな話であるが、その人自身、かなりのこころの問題を抱えていて、もし近藤先生のところに通って来ていなければ、開業できないどころか、本格的に発症し、かなりの治療を受けなければならないことになったであろう。
それが近藤先生の支えがあったお蔭で、本格的な発症もせず、それどころか、開業して診療までできていたのである。

そんな話が今も時々ある。

以前、当研究所に通って来ていた方でも、年輩になってから大学院に行き、臨床心理士の資格を取って、いきなり開業した人がいた。
昔は臨床心理士も、通常5年間くらいは精神科病院などの常勤で臨床経験を積まなければ、一人前とはみなされなかった(どの職種でも、いっちょまえになるには、修行5年は最低ラインであろう)が、今も臨床心理士には(公認心理師にも)資格取得後の研修義務がないため、開業はいつでも可能なのである。
しかしそれよりも、その人自身、かなりのこころの問題を抱えていて、もし当研究所に通って来ていなければ、開業できないどころか、本格的に発症し、かなりの治療を受けなければならないことになったであろう。
それが当研究所に通っていたために、本格的な発症もせず、開業して心理療法までできていたのである。

こういう場合も、現時点では発症していないため、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」があれば、当研究所の「人間的成長のための精神療法」を受けることができる。
そしてその後、文字通り、成長して発症の危険性を脱し、クライアントに貢献できるセラピーができるようになれば、それに越したことはない。
私もそれを応援している。
しかし、中には途中で自分の問題と向き合うことから逃げ、面談から脱落してしまう場合がある。
その場合が最も危惧される。
そのままでは本格的に発症する危険性があり、開業を続けるのも困難になる恐れがあるが、その時点では発症していないため、その人を止めるものはなにもない。
よって、私としても今後もどこかの精神科医につながるように忠告はしておくが、そうするかどうかは本人次第となる。

で、何故、掲題が“You raise me up”かというと、そういう人たちは raise up して(高めて)もらって、ようやく発症もせず、開業もできていたということである。
そのことを忘れないように。
Raise up がなければ、ゼロではなく、マイナスに転落する危険性がある。
そして誤解のないように最後に付け加えておくならば、その人を支えていた力は、決して“I raise you up”(「私」があなたを高めた)のではなくて、“He raises you up”(「私を超えた力」があなたを高めていた)のである。
私自身が私の力でその人を raise up していたと思うほど、私は思い上がってはいない。

そして私もまた raise up してもらって、今の仕事ができて来たのである、ずっと、ずっと、ずーっと。

 

 

【附言】“You raise me up”の曲は、Celtic woman のものが有名であるが、タレント発掘番組により失業中のパン職人から歌手となった高齢男性 Martin Hurkens のものが今はお勧めである。

 

 

私は、学校に行くこと自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その子がその子に生れて来た以上、その子に与えられた意味と役割を果たしているか、果たせるように成長できているのか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その子がその子に生れて来た意味と役割を果たせるようになるために、その学校に行った方が良ければ行けばいいし、行かない方が良ければ行かかなければいい(あるいは、他の学校や他の学ぶ道を探した方がいいかもしれない)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、学校と関係なく、必要不可欠だと思う。

同じことが就労についても言える。
私は、就労すること自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その人がその人に生れて来た以上、その人に与えられた意味と役割を果たしているか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その人がその人に生れて来た意味と役割を果たすために、その仕事をした方が良ければすればいいし、しない方が良ければしなければいい(あるいは、他の仕事や他の働き方を探した方がいい)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、職場と関係なく、必要不可欠だと思う。

世の中には、そういう「基本中の基本」、明確な「教育観」「仕事観(労働観)」「人生観」を押さえずに、なんとなく不登校児の支援や就労支援をしている人たちがいる。
ただ、学校に行くことや、働くことが、良いことでしょ、当たり前でしょ、と思って支援をしている人たちがいる。
それじゃあね、支援をしているようで、進む道を間違えるわな。
実際に、学校に行ったり行かなかったり、転職と離職を繰り返すのが関の山である。
まず試されるのは、支援者の方なのである。

で、あなたは、あなたに生れて来た意味と役割を果たしていますか?
少なくとも、それを一所懸命に目指していますか?

 

 

例えば、ある人について、あれがひどい、これがダメだ、と否定的発言をする。
そこで、こちらが、それは問題ですね、と言うと、
でも、こういうところは良い人なんです、と肯定的な発言に変わり、その人をフォローする。

おいおい、否定するのか、肯定するのか、どっちなんだよ、と思うが、こういう面倒臭い発言パターンを身に付けるには、それなりの歴史がある。

一番多いのが、親に対する怒りや攻撃性を抑圧して来た場合で、一方的に怒りや攻撃性だけを表出すると、愛されない、あるいは、反撃される不安と恐怖が走るため、フォローしないではいられなくなる。
それじゃあ、最初から怒りや攻撃性も出すなよ、と言いたいところであるが、それも押し留めていると息が詰まってしまうので、言わないではいられない。
よって、否定しといて肯定する、という、なんともおかしな落としどころができあがるのである。

そして、どうしてもそれをやりたいのであれば、一人で勝手にやってろ、というところであるが、迷惑なことに、表出する相手を欲して来る。
神経症的コミュニケーションは、常に巻き込みを伴う、という典型のひとつである。

そしてこの神経症的パターンに本人がどれくらい呑み込まれているかいないのかは、その神経症的パターンを内省できるか否かによって判定できる。
さっきからあなたは、自分が否定しておいて肯定する、という発言パターンを行っていることに気づいていますか?
ここで、はい…そうなんですよ、と内省できれば、近々突破の可能性がある。
しかし、人間にはダメな面と良い面とがあるもんじゃないですか、などと自分の言動を正当化し、抗弁して来るようであれば、道程は遠い。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っている人は、内省できるが。
神経症的パターンに呑み込まれている人は、内省できない、ということで、
前者は成長へ、後者は治療へ、となる。
但し、後者のような神経症的問題を抱えながら、自分は精神的に健康だと思って暮らしている人が実はとても多い。
中には、それで精神科医などの対人援助職をやっている人もいる(気づいてないからやれる、とも言える)。
人間の闇は深いなぁ、と思いつつ、八雲総合研究所のミッションは前者の段階に来た人たちなので、そういう問題と向き合って行くことになる。

さて、今、これを読んでみて、自分の問題と向き合うことが、イヤだなぁ、恐いなぁ、と思った人は、まだ当研究所向きではない。
待ってました、成長したいのでどんどんやって下さい、と思った人は、もう十分に当研究所向きである。
というのも、当研究所の目的は、後からあなたに付いた余計なものを祓い、本来のあなたを取り戻すことにあるからである。
ニセモノのあなたは否定しにかかるが、本来のあなたを否定することは絶対にない。

 

 

「免疫負債」とは、感染対策として、感染しないようにあの手この手を打つのは良いが、感染しなくなったことで、却って免疫力が落ちてしまうことをいうらしい。

事の真偽は、その分野の専門家に任せるとして、少なくとも私には思い当たることがある。
例えば、両親に愛され、良い先生、友だちに恵まれて、すくすくと成長できるとすれば、それは大変結構なことであるが、

社会に出た後、イヤな上司、意地の悪い先輩、面倒臭い取引先などに出会ってしまうと、忽ちにやられてしまう場合がある。

やっぱり感染して苦労しないと免疫力はつかないし、
イヤなヤツ、変なヤツのいる娑婆で揉まれないと、自分が自分として生きる幹が太くならないのである。

但し、余りにも状態が重症化したり、心が折れるまでやられてしまうと、再起が大変になってしまうので、そこそこの苦労=今耐えられるギリギリのところの苦労が、人を育てるには一番良いのだと思う。
その“ギリギリの感覚”はとても重要で、過剰なストレスのときには、一人でなんとかしようとせず、援軍を頼んだ方が良いし、ノーストレス〜軽微なストレスばかりのときは、安逸に流れないで、何か自分に負荷をかけた方が良い。

やっぱり“ギリギリ”のときが一番成長するんだよね。

すべては、あなたがあなたに生まれて来た以上、ヘタレないで、幹太く、逞しく、あなたに与えられたミッションを果たしながら生きて行くための成長なのである。

 

 

「母は子のいのちがのびやかにいきいきと育つことを願うでしょう。よく考えてみると自分自身に対してはどうですか? あなた方は、自分自身のいのちがいきいきと、のびのびと溌溂と成長していくことを願っていらっしゃいますか? 願っていますよね?
なのになぜうまくいかないのか。それはいのちを生かすほんとうの願望をとり違えて、別次元の願望を追求することが大事だと思っているところに問題があるのではないでしょうか。いのちは大事なものです。ただ、大事にする仕方が違う。子どもでも、大事にするといって、やたら猫かわいがりすることが大事にすることだと思っている人がいる。利己主義というのはいわば、自分を猫かわいがりするということなのです。自分をほんとうに愛するということは何か? それは、苦しみや悲しみやいろんなことがあっても、それをよろこびに変え、自分を常に人間として成長させるようにつとめるということ、そういうことです。それがたったひとつしかない自分のいのちに対する尊敬であり、愛です。
いのちをほんとうに尊び、成長させるということが大事だということを、まず銘記してください。
とにかく、自分のいのちを気持ちよく、清らかに生かしていくということ。溌溂と生かしていくことが大事なのではないでしょうか。
そして、自分のいのちがたったひとつしかない大事な存在だと思えば、相手のいのちもたったひとつしかないいのちです。その人にも一回しかそのいのちは与えられていない。そのいのちを育て、そのいのちを成長させていくことが、その人に対する愛ではないでしょうか。…
僕は、あなた方の一人ひとりのなかにある、あなたでなくては持てない、独自の、あなたのいのち、あなたに与えられたいのち、それこそ文字どおりほんとうに自分に一回しかないいのちの貴重性を感じ、そして尊ばなければならないと思います。そうして、それをほんとうにすこやかに、いきいきと、溌溂と、建前によるウソでなくて、ほんとうの意味での愛することのできるいのちとして育てていってもらいたいと思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

是非とも、この近藤先生の言葉の字面の意味ではなく、近藤先生をして、この言葉を語らしめている、その働きを、その力を感じていただきたいと思います。
そうでないと、近藤章久と出逢ったことにはならないんです。
「ああ、そうなんだ。自分のいのちも相手のいのちも大切なんですね。」
では上っ面を撫でただけ。
そうではなく、なんだか知らないけれど、
胸が熱くなる、体温が上がる、背骨がゾクゾクずる、存在が揺さぶられる、そんな体験があって初めて、近藤章久と出逢ったことに、近藤章久を通して働く力に出逢ったことになるんです。

それが「身読」。
身体(からだ)で、存在で読むということ。
読んだ後、言葉の記憶なんて、何にもなくていいんです。
だけれども、なんとも言えない体験の記憶がこの体の中に残っている。
それこそがまさに、あなたのいのちを成長させいく元となるでしょう。

 

 

自分が「社長」だから、社員が頭を下げていることを知らずに、みんな自分に頭を下げているものと思っていた。
退職後、誰も相手にしてくれなくなった。

自分が「教授」だから、教室員が頭を下げていることを知らずに、みんな自分に謝を下げているものと思っていた。
退官後、誰も相手にしてくれなくなった。

自分が「校長」だから、生徒や教師が頭を下げていることを知らずに、みんな自分に頭を下げているものと思っていた。
退職後、誰も相手にしてくれなくなった。

利害関係の絡む「肩書き」によってじゃなくてさ、たとえ無位無官であっても、「裸の自分」で他者からの信頼と尊敬を得られないようじゃあ、まだまだ人間としてニセモノだったということだ。

昔、外来に受診した男性で、変わったおじさんがいた。
やたらめったら女性に手を出すので、妻から「あんた一遍診てもらいないさい。」と言われて来たのだという(たまにこんな変わった理由で受診して来る方がいる)。
結局、病的なところはなく、ただの好色かつ本当に女性を愛するということを知らないおじさんだったのであるが、一点だけ見どころがあった。
彼が女性をナンパするとき、自分が三つの会社の社長であることも、フェラーリに乗っていることも、金満家であることも隠して、一人の男としての魅力だけで勝負するのだという。
「裸の自分」で勝負していることだけは私も褒めた。
そして妻を含めて、本当に女性を愛するということの本質について説諭し、1回だけで通院は終了とした

社長/教授/校長の中にも、その「裸の自分」に対する信頼と尊敬を得て、退職後/退官後も、元部下/元教え子たちに慕われている人たちも(少ないけど)いるのである。

どうせなら、そっちを目指したいよね。
だから、人間としてホンモノを目指す人は、「裸の自分」を磨いて行くしかないのである。

 

 

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