八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「いのちというものは、けっして私たちがつくり上げたものでない。…それはいただいたものなのです。与えられたものなのです。…子どもを産んだものと考えるか、授かったものと考えるか、大変な違いが生ずるので、よく聞いてくださいね。
子どものいのちを自分が産んだとなると、自分のものだという気がする。そうすると子どもが自分の思った通りにならないと、『なによ、あんた』とピシャンピシャンとこうなる。…
問題は、自分の思い通りにさせたいと思うところにある。いうことをきかない ー 親のいうことをきく子はよい子であって、きかない子は悪い子とするのはお母さんの考えです。親は、きっと偉いのでしょうね。自分のいうことをちゃんときいていれば、それはよいというのだから。そうすれば人間として立派になれると思っているのでしょうね。そうかしらねー。…
授かったいのちは、自分とつながりのあるいのちだけれども、自分と同じいのちではない。異なったひとつの独立したいのちであるということ。こういうことを考えてみると、お母さんは授かったいのちを大切にしていかなければならない。猫かわいがりすることでもなく、自分の思ったとおりにすることでもなく。
自分のものとして考えるからおかしなことになるのであって、授かったと考えるならば、もう少し落ち着いて、そのいのちに対する態度をとるだろうと思うのです。それは他人行儀に見えるかもしれない。正しく言えば、『他人』です。他人というのはどういうことかというと、自分のいのちと独立したいのちだということで、異なった特徴を持ったいのちです。そこのところについての認識をハッキリしておくということが大事だと思います。…
こういうことをあなた方の前でいったところで、他に何十億という人がいる。だから私のいうことはここだけの話にすぎないけれども、私は、ここの人だけにでもお願いしたい。
人のいのちを尊敬するためには、まず自分のいのちを尊敬しなければいけない。自分のいのちを尊敬できる人でなくてはならない。
自分のいのちを尊敬できる人は、自分のいのちのほんとうの声が聴こえる人でなければならない。自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じられる人にならなければいけない。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

だから、特に対人援助職の方々には申し上げたい。
あなたは自分のいのちを尊敬できていますか?
あなたは自分のいのちのほんとうの声が聴こえていますか?
あなたは自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じていますか?
自分においてそれができない人が、他人においてそれができるはずがないのです。
まずは自分のことから。
これが鉄則。
自分のことを後回しにして、他人のことを優先させるのは、美談でも何でもなく、自分との勝負を回避しているだけです。
あなた自身が自分と勝負して来た経験と実績があって初めて、自分以外の人の成長の役に立つことができるのです。

私もまた、ここの人だけにでもお伝えしたいと思います。

 

 

今はどうか知らないが、昔は駅からがんセンターに向かう道すがら、怪しい新興宗教の案内やら、胡散臭い民間療法のポスターなどがいくつも貼ってあったという。
当事者や家族の不安な心理につけこんだ、阿漕(あこぎ)なやりくちである。

昔、面談を申し込んで来た男性で、ある難治疾患の民間療法を生業(なりわい)としている人がいた。
その民間療法には、科学的に治療効果を示せるエビデンスがなく、高額で、メンタルに問題があるクライアントの心理につけこんでいるのは明白であった。
弱い心理へのつけこみ、そしてぼったくり価格には、悪質ホストクラブ問題に近いものを感じた。
それがわかった途端、面談はお断りした。

そこに「情けなさの自覚」を感じないようでは、成長どころじゃないでしょ。
そういう生業を続けられていること自体に、その人の大きな問題が存在する。
どうしても当研究所に面談に来たいのであれば、まずその商売を廃業して、真っ当な仕事に就いてからいらっしゃい、と告げた。
そうでなければ、他のセラピスト/カウンセラーのところへどうぞ。
その後、連絡がないところをみると、どうなったことやら。

今となっては何を相談したかったのかわからないが、人間が精神的に成長するときには、後から付いた心理的な塵埃を掃うことがとても重要である。
まず生業的にも、塵埃を掃って身綺麗にしてからだね。
少なくとも他者から搾取を続けながら、自分だけ成長することは絶対にあり得ないのだ。

 

 

「私は、職業柄、いつも悩みを持ち、問題を持った人たちのご相談を受けているえあけなんですけれども、いのち、その方のいのちが病んでいると思ったことは一度もないのです。いのちがただ迷っているのだと思うのです。いのちが本質的には輝いてその人の中にある。しかしながら、その人がほんとうの自分のいのちを生かすということに目覚めていないために、他のつまらぬものを生かそうとしているためにとでもいいましょうか、自分のいのちよりも大事なものと考えるものがあって、それを生かすためにじつは問題が生じているということなんですね。…
いろいろな人がいます。愛人に裏切られちゃったから、もう私は人生に何の希望もありません。そういうような女の人 ー カミソリの刃でもって手首をパッと切ってね、自殺を図ったというふうな女性もいました。…『そう、その人はどういう人なの?』と聞くと、いいところを話す。好きなんだからいいところばかりいうのは決まっている。けれども、だんだん話していくうちに『でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね』と私はいった。そうすると妙な顔をしておられる。『その人は一時あなたを愛していたのでしょう? 少なくとも愛するという言葉は使われたのです。しかし、愛するということはどういうことかというと、私にいわせれば、相手のいのちを育てることではないでしょうか』と、いってみた。そうするとね、なるほどと、なんとなくぼんやりとわかったような感じをなさるのですね。愛というものは、うっかり間違うと自分のいのちを育てるどころか、腕を切って死んじゃうというような、自分のいのちを傷害するほうにも働きますね。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね」
あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたのいのちが育つことに役立っていますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.のいのちが育つことに役立っていますか?
「愛するということは…相手のいのちを育てることではないでしょうか」

あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたを愛していますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.を愛していますか?
この世の中で縁あっての出逢いです。
ただの出会いじゃあ、しょうがない。
表面を撫でたような出会いじゃあ、もったいない。
情にまみれた出会いじゃあ、気持ち悪い。
互いのいのちを育て合う、育み合う出逢いにして行きたいじゃあ、ありませんか。
そうして初めて、この世界にあなたとわたしが生まれて来て、そして、あなたとわたしが出逢った本当の意味が、成就するのだと思います。

 

 

厚生労働省の施策に「精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築について」(略称:にも包括)というものがある(概要を知りたい方はリンク参照)。
この施策名を初めて見たとき、「精神障害『にもかい! ついでかい!」とガックリ来たのを覚えている(説明文では「精神障害の有無や程度にかかわらず」と言い訳しているが)。

共生社会を目指すことに何の異論もないが、この娑婆は能力主義、効率主義、功利主義などが蔓延(はびこ)っている。
自分は「できる」と思い上がり、おまえは「できない」と見下す連中がウヨウヨいる。
そんな価値観に基づいて生きている地域住民の中で、どうやって障害者と共生して行けば良いのか。

かつて私はアプノーマライゼイションについて述べた。
世に言われるノーマライゼイションに対して、みんながノーマルなんぞと思い上がらず、みんなアプノーマルと認め合った方が良いんじゃないか、という提言である。

その発想を仏教的に言うならば、いつも申し上げている、「凡夫の自覚」ということになる。
厩戸皇子(聖徳太子)のおっしゃる通り、世の中にいるのは「凡夫」のみ。
「できる」などと思い上がらない。
「てきない」などと見下さない。
所詮、ドングリの背比べ。
ノーベリストも認知症になれるし、金メダリストも寝たきりになれる。
そもそもが大したことないし、ちょっとできるかのように思い上がってみても、みんな、すぐにできなくなれるのである。
そんな五十歩百歩のポンコツ同士が、この世界の中で、支え合って、助け合って、生きて行けば良いじゃないの、というわけである。

ポンコツだらけの住民を抱えられる力を持つのが、本当の意味で、健全な地域であり、そのありようはまさに“ポンコツランド”であろう。

地域を支える諸制度、諸施設、諸機関などの整備は、これからも大いに有り難いが、
形の前に気持ち、住民同士がポンコツ同士という自覚を本音で持ち、思い上がらず見下さず、一緒に暮らせる地域に、私は住みたいと思う。

 

 

「私は現在女子教育にたずさわっておりますが、日頃つくづく思うのですけれど、入学してくる生徒さんたちが挨拶するということがとても少ないと思うのです。…挨拶とはそもそも何かというと、頭を下げて『おはよう』という。おはようということは、私が早く起きたよと威張っているわけではない。相手に対して『おはやいですね、早く起きて健康ですね、健康だから早起きなのです。すばらしいですね』と、このような気持ちで『おはよう』というのです。同じような意味で『グッドモーニング』と、そういうわけですね。『グッドモーニング・フォー・ユー』ー あなたにとって良き朝でありますように、という言葉ですね。…
私のようにだんだんと年をとってきますと、人生が単純に見えてくる。人生というのは、何かこう余計なコチョコチョしたもの、ムダなものをいっぱい持っている。『オギャー』と生まれるときには何もつけてない。にもかかわらず、それからいっぱいいろいろなものをくっつけて生きて、自縄自縛(じじょうじばく)といいますが、自分を縄で縛って自分で窮屈になって、自分で悲しんだり、苦しんだりする人が多い。これが人生みたいなもの。年をとってくるとそういうのが、自分のつくるすべて幻想みたいなものであるとわかってくる。そうするとできるだけ自分のいのちを大事にして限られたいのちを生かしていきたいと思うのです。
そこで、さきほどの挨拶ですが、英語でいえば、God bless you - 神様があなたに祝福を与えてくださいますように。日本語でいえば、おはようございます。お互いに早く起きられて健康で、今日もこのいのちを持てるということはどんなにありがたいことでしょうと、そういう気持ちなんですね。つまりそれは、相手のいのちに対する祝福なんです。挨拶というのは、そういうものなんです。お互いのいのちを祝福するのはどういう意味かといえば、これこそ、私がいいたいことなんですけれども、いのちというものが私たちに一回しか与えられていないということからくるのです。そして、そのいのちは他の人と替えることができないものです。私が長生きをしたいというので、私のいのちをどこかで、若い人のいのちと取り替えるわけにはいかない。
このことは、みなさん、神秘的なことですが、わかりやすい事実でしょう。わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この一番最後のところが大事。
いのちの大切さについては、いろいろな人がいろいろなことを言っています。
近藤先生の言葉も、中には、そんなこと、わかってるよ、当たり前だろ、と思う人がいるかもしれません。
しかし、そうじゃないんですね。
「わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです」
理屈ではない。頭でわかる話ではない。
感じること。あなたの存在を通して体験すること。
そうして初めて、相手の生命(いのち)を感じて、毎日の挨拶がこころからの相手への祝福になるのです。

 

 

私は、学校に行くこと自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その子がその子に生れて来た以上、その子に与えられた意味と役割を果たしているか、果たせるように成長できているのか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その子がその子に生れて来た意味と役割を果たせるようになるために、その学校に行った方が良ければ行けばいいし、行かない方が良ければ行かかなければいい(あるいは、他の学校や他の学ぶ道を探した方がいいかもしれない)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、学校と関係なく、必要不可欠だと思う。

同じことが就労についても言える。
私は、就労すること自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その人がその人に生れて来た以上、その人に与えられた意味と役割を果たしているか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その人がその人に生れて来た意味と役割を果たすために、その仕事をした方が良ければすればいいし、しない方が良ければしなければいい(あるいは、他の仕事や他の働き方を探した方がいい)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、職場と関係なく、必要不可欠だと思う。

世の中には、そういう「基本中の基本」、明確な「教育観」「仕事観(労働観)」「人生観」を押さえずに、なんとなく不登校児の支援や就労支援をしている人たちがいる。
ただ、学校に行くことや、働くことが、良いことでしょ、当たり前でしょ、と思って支援をしている人たちがいる。
それじゃあね、支援をしているようで、進む道を間違えるわな。
実際に、学校に行ったり行かなかったり、転職と離職を繰り返すのが関の山である。
まず試されるのは、支援者の方なのである。

で、あなたは、あなたに生れて来た意味と役割を果たしていますか?
少なくとも、それを一所懸命に目指していますか?

 

 

「母は子のいのちがのびやかにいきいきと育つことを願うでしょう。よく考えてみると自分自身に対してはどうですか? あなた方は、自分自身のいのちがいきいきと、のびのびと溌溂と成長していくことを願っていらっしゃいますか? 願っていますよね?
なのになぜうまくいかないのか。それはいのちを生かすほんとうの願望をとり違えて、別次元の願望を追求することが大事だと思っているところに問題があるのではないでしょうか。いのちは大事なものです。ただ、大事にする仕方が違う。子どもでも、大事にするといって、やたら猫かわいがりすることが大事にすることだと思っている人がいる。利己主義というのはいわば、自分を猫かわいがりするということなのです。自分をほんとうに愛するということは何か? それは、苦しみや悲しみやいろんなことがあっても、それをよろこびに変え、自分を常に人間として成長させるようにつとめるということ、そういうことです。それがたったひとつしかない自分のいのちに対する尊敬であり、愛です。
いのちをほんとうに尊び、成長させるということが大事だということを、まず銘記してください。
とにかく、自分のいのちを気持ちよく、清らかに生かしていくということ。溌溂と生かしていくことが大事なのではないでしょうか。
そして、自分のいのちがたったひとつしかない大事な存在だと思えば、相手のいのちもたったひとつしかないいのちです。その人にも一回しかそのいのちは与えられていない。そのいのちを育て、そのいのちを成長させていくことが、その人に対する愛ではないでしょうか。…
僕は、あなた方の一人ひとりのなかにある、あなたでなくては持てない、独自の、あなたのいのち、あなたに与えられたいのち、それこそ文字どおりほんとうに自分に一回しかないいのちの貴重性を感じ、そして尊ばなければならないと思います。そうして、それをほんとうにすこやかに、いきいきと、溌溂と、建前によるウソでなくて、ほんとうの意味での愛することのできるいのちとして育てていってもらいたいと思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

是非とも、この近藤先生の言葉の字面の意味ではなく、近藤先生をして、この言葉を語らしめている、その働きを、その力を感じていただきたいと思います。
そうでないと、近藤章久と出逢ったことにはならないんです。
「ああ、そうなんだ。自分のいのちも相手のいのちも大切なんですね。」
では上っ面を撫でただけ。
そうではなく、なんだか知らないけれど、
胸が熱くなる、体温が上がる、背骨がゾクゾクずる、存在が揺さぶられる、そんな体験があって初めて、近藤章久と出逢ったことに、近藤章久を通して働く力に出逢ったことになるんです。

それが「身読」。
身体(からだ)で、存在で読むということ。
読んだ後、言葉の記憶なんて、何にもなくていいんです。
だけれども、なんとも言えない体験の記憶がこの体の中に残っている。
それこそがまさに、あなたのいのちを成長させいく元となるでしょう。

 

 

今日は令和7年度2回目の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目に続いて12回目となった。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※尚、神経症的性格の3つの類型(①自己拡大的支配型、②自己縮小的依存型、③自己限定的断念型)についての説明は、他の文献では見られないほど詳細である。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

b.自己縮小的依存型 self-effasive dependent type

c.自己限定的断念型 self-restricting resignation type

前記の二つの型が、それぞれ征服とか、愛情への渇望を中心としているのに、この型に於いて顕著なのは、それらの渇望の欠除である。野心とか、何かを得ると言う様な事への熱情とか、努力とかがなく、そこには、何か冷ややかな人生に対する無関心が感じられる。
彼は恰(あたか)も、人生の傍観者である。又自分自身に対してもそうである。自分の人生に対する野心的な目標とか、それを達成する計画を得ると言う様なことは彼には無縁である。寧(むし)ろ彼は自分の願いや欲望を制限して、何かを期待することは失望のもとであるから、願望を持たないに越したことはないと言う態度である。願望を始めから持たず、感じない様にするという点で断念的である。
対人関係に於いても彼は立ち入らない。時に深い関係があっても、何時もそこには精神的距離がある。この様な一見、何ものにも関心をもたず、関係をもたない冷たい安全な地帯にある様な彼に、更に一歩近づくと、意外なことに彼の中に、他からの影響、圧力、強制束縛に対する異常な敏感さがあることに気付かされる。
他人からの期待、約束、待合わせ、誕生日の御祝に至るまで、彼には自分を束縛するものとして感じる。他人からの期待ばかりでなく、自分の計画すら、それが自分に行為を期待することによって強制と受けとられる。そこで彼は惰性で生きる。それは現状維持を意味する。従って発展とか変化は考えられない。その意味で自己限定的な生活態度である。
同様に責任のある地位とか、指導的な役割を彼は避ける。その様な地位や役割りが要求する責任や任務が彼にとって束縛と感じられるからである。彼は、だから如何にも自分の地位に満足し自足的に見える。しかし、それは本当の意味での安定でもなく自足でもない。彼は又、人に対して協調的で、場合によれば屈従的でもある。しかし、これは彼が人との軋轢(あつれき)を避け安全を守るための防衛手段である。人々との真の交わりではない。
この様な態度は、この型の人の幼児環境を顧みることによってよりよく理解される。環境 ー 人的環境 ー が非常に強力であるか、或は野放図に放任されている場合、何れにしても彼は公然と反抗することが出来ない。或は家庭が厳しい雰囲気で、感情的に一体感がなく疎隔されていた場合、彼は自分の個性を主張することが許されないし、そうしても自分が潰されてしまう。
場合によって愛情が与えられても、その与えられ方がひも付きでうるさく感じられるとか、親が自分は理解がないくせに、過大な理解や助けを彼に要求したり、又は親の愛情の与え方が気分的で、気紛(まぐ)れで当てにならない場合とか、とにかく、陰に陽に、子供の気持を無視した過大な要求をもつとか、或は失望させる様な場合が多いのである。
はじめのうちはこれに対して、何とか適応する試みをするだろうが、それが不可能だとか裏切られると、出来るだけ要求を与えられない様に、失望させられない様に、出来るだけ人と離れて関係しないようになる。人と感情的距離を置くことによって、子供は葛藤や問題から身を遠ざける。そうすることが自分の中の小さな平和を保つ為に必要な方法となる。
しかし、彼が何かを願望し要求する限り、彼は他人の存在と援助を必要とする。だが他人と関係する事は、彼に厄介なことを呼び起す。そこで子供は自分の欲望や願望をできるだけ感じない様にする。オモチャや仔犬を欲しいと思うかもしれない。しかし、彼は諦めた方がいい。失望させられるか、何か代償に要求されるからである。こうして彼は自分の欲望を断念する。そして断念の態度が確立し、発展して行くのである。
こう言った経過から、先に述べた二つの型と異なる彼の「仮幻の自己」が次第に定着して来る。それは、独立し、自足した静かな心境、欲望や激情からの自由、禁欲、中立、公平、超越、脱俗と言う様な要素を含んだ自画像である。
ここに彼の価値があり、誇りがある。他人が野心に燃え立ち、愛に駆られ、闘争と執着に終始している時、彼は群衆の流れから離れ、ひとり自分の静かな自由と独立の状態にあることを誇るのである。
しかし、ここには本当の安心の代りに傷つき易い心があり、孤立でしかない独立があり、消極的な、現実からの逃避としての自由はあっても、真に自分を生かして行く、積極的建設的な自由はない。
この様な「仮幻の自己」から発する他人に対する要求 claims は、前二者の積極的な要求と異なり、「自分に干渉するな」と言う要求であり、又、現実に対しては、現状維持的な意味で、変化のない平和な円滑な状態を要求するのである。
人間の好意も、それに報いる面倒を予想させて避けられ、地位の昇進も新しい責任を意味して、煩わしいものとなり、迷惑なこととなる。そしてこの様な要求の挫折は、沈黙による反抗として表現されることとなる。
「仮幻の自己」は、又彼に対して、自由の為にあらゆる欲求にしばられないことを要求する(shoulds)。従って彼の願望や欲求は禁圧されなければならない。
しかし生きる以上、彼の「現実の自己」は欲求を持たざるを得ない。これは葛藤を意味する。しかし、彼は葛藤を経験してはならない。そこで欲求は生きる為にやむを得ず充たさなくてはならないものとしてひとつの義務に化する。しかし、再びこれは彼にとって束縛である。
かくて、極端な場合、食事すら彼にとっては一つ義務になり、重苦しい気のすすまないものになる。こうした意味で、彼の生活は悪循環に満ちた義務的行為に変化して来る。彼は、その様に生きなければならぬ「現実の自己」を嫌悪し、憎悪しながら(self-hate)生きるわけであるが、この自己嫌悪が又 shoulds によって抑圧されると、感じられる場合には漠然とした物憂い、無気力な気分として経験される。
先に述べたこの型の人間の示す種々な態度は、この様な機制の結果であるが、この様な心的機制はもっと重大な結果をもたらすことになる。この型の人間は、自分の外側に対して精神的距離を置き、それに極力関係しない事によって、自分の自由と安全を保つが、そのことは、彼を本当の打解けた気持の交流から遠ざけ、現実に対しても積極的な計画や努力をすることを断念させ、安易で無気力な惰性的な生活に止まらしめる。
一方、彼の内部に於いても自分の欲求や願望を抑圧し、回避することによって、次第に自分の本当の感情や新鮮な感受性を失い、精神的な麻痺状態に陥らしめる。時として鈍感になった感情への刺激を求めて、突発的に活動を試みるとしても、それは長く続かない。
かくして、他の二つの型に於けると同様に自己疎外が現れて来るのである。この型の人は分析に於て取扱いにくい。何故なら分析に際しても、いつも局外者として、自分を分析的な状況から分離しようとするからである。分析を一つの自由の侵犯、干渉として感じ、自分の狭い限界を頑強に防御するからである。又、他の一面に於いて、自分の感情や欲求を恰(あたか)も存在しない様に感じ、自分の葛藤に対する感覚が不確かであるからである。
しかし、私達が呼びかけ得るものは確かにある。それは彼の中に存在する、彼の最初の動機であった、彼の内的自由への欲求である。その自由は消極的な干渉や圧迫から(from)の自由と受けとれているけれども、それは実は彼の「真の自己」の成長と発展への(to)自由の歪曲された表現であると言うことである。彼の様々な神経症的傾向の底にある、この様な「真の自己」の自由への欲求こそ、分析に於いて追求せられるものであり、彼を真の自由と独立へ解放して行くものなのである。

 

今回、取り上げるのは、「自己限定的断念型」についてである。
現状維持を望み=自己限定的、願望を始めから持たない=断念型、その生き方は、まさに「人生の傍観者」と言える。
もちろん、そんな生きてるんだか死んでるだかわからないような、影の薄い人間になるには、それだけの理由がある。
他(親)からの強力な影響、圧力、強制、束縛から逃れ、また、これ以上失望を味わないようにするためには、自分の中の小さな安全地帯に逃げ込むしかなかったのである。
最初から何も望まず、何の変化も起こさない
そうやって、“脱力系”でとも言うべき「人生の傍観者」ができあがる。

しかし、である。
何故か彼ら彼女らは、絶海の孤島や深山幽谷にひとり暮らすわけではない。
文字通り、“傍観”して生きている。
そう。
人の“傍”にはいたがるのである、無関心な顔をしながら!
そこに彼ら彼女らの中に息づく「真の自己」の願い(本当の意味で、自分をちゃんと生きたいし、人とも深く交わりたい!)がわずかに漏れ出ている。
これを観抜く眼、そして掬(すく)い取ろうとする愛が、セラピストや、彼や彼女を大切に想う人に求められるのである。

 

 

このままAIが進化して行けば、人間の仕事が次々とAIに奪われてしまうのではないか、と危惧されている。
そんな中で、幸いにもカウンセリングやサイコセラピーの分野は、AIがどんなに進化しても、人間でないとできない分野、と言われて来た。

しかし、現状を見ると、そうでもない動きがある。
AIにメンタルな相談をし始めている人たちが、思いの外、多いのだ。
もちろん最初から“眉唾物”として、遊び感覚で利用している人たちもいるが、中にはかなり本気で頻繁に相談している人たちもいて、臨床の現場では、「AIに相談したら、こうでした!」と患者さんに言われて苦笑せざるを得ない精神科医や臨床心理士が増えていることも事実である。

そんな話をあれやこれや聞いていると、AIに簡単に相談し、影響を受ける人たちに、ある程度、共通の傾向があることが見えて来た。
詳しく言うと専門的に過ぎるので、ここで深入りはしないが、結局のところ、AIの言うことを信じようと信じまいと、結局、利用した人の自己責任という大原則は変わらない。

ちなみに、私は「AIによる相談」を「博識のど素人による相談」とみなしている。
猛烈にいろんなことを知っていたりするが、申し訳ないけれど、やはり“ど素人”なのだ。

そうは言いながらも、知識と技術でカウンセリングやサイコセラピーをやっている人たちは、ちょっと心配をした方が良いかもしれない。
ある程度、“パターン”の対応や考え方、使われがちな“決めゼリフ”などは、AIに簡単に持って行かれてしまうだろう。

相手の表に表れている言動。
相手が意識的/無意識的に隠している本音。
そして、本人も全く気づいていない本音の本音=生命(いのち)の声。
それを観抜かなければ、本当のカウンセリングやサイコセラピーを行うことはできない。
そしてそれは、AIと鈍感な人間には不可能なことであった。

それ故、ホンモノのカウンセリングやサイコセラピーを目指すならば、やはり、AIには無理な、感じる力を磨くしかないのである。

 

 

「私は、女の人だけが母親的になるのではないと思います。男性も母親的でありうると思うのです。男性、女性なんては仮の姿でね、ちょっとついてるものが違うだけで、たいして違わない。まあ、母親的なもの、男親的なものがあるから、それぞれお互いに尊重しなければいけませんが。
愛という面で、僕は母親的なものを主張しているわけですけれども、男性的に、スパッと切っていくことも必要であるということを女性にも知っていただきたいと思うのです。その切ること、そこで切り離すことが自分を自由にするからです。相手をしばっているつもりだけれど、じつは自分もしばられているのと同じなのです、実質的にね。そういう意味で、男性的なものを必要とする場合もあると思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「母親的」「男親的(男性的)」というのも、現代においては生物学的性別属性に基づいた表現となり、今風に言うとすれば、何と言ったら良いのだろうか、と思う。
例えば、「生命(いのち)を生み、育む働き」のうち、「包摂的で、ソフトで、温かいもの」と「力強く、剛にして、怜悧なもの」とがあるとか、いくらでも別表現がありそうだ。
そしてそれがいかなるものであったとしても、その両方が我々の中にある=我々を通して働き得るということ。
どっちかだけじゃなくってね。
それが大事。
特に、この、人間が優しくなっていると言えば聞こえは良いが、弱々しく、下手をするとヘタレッてる現代に、「ズバッと切る(斬る)愛」というのも時に必要なんじゃないかと思う。
「相手をしばっているつもりだけれど、じつは自分もしばられているのと同じなのです」という近藤先生のひと言に、またやられた、と思ってしまった。

 

 

未熟な母親/父親だけれど、一所懸命に子育てするから勘弁してね。
一緒に成長するから勘弁してね。

未熟な教師/幼稚園教諭/保育士だけれど、一所懸命に君たちに関わるから勘弁してね。
一緒に成長するから勘弁してね。

未熟な精神科医/臨床心理士/精神保健福祉士/社会福祉士/看護師/作業療法士だけれど、一所懸命にあなた方の力になれるように関わるから勘弁してね。
一緒に成長するから勘弁してね。

未熟でやらかしまくっている凡夫のくせに、エラソーに親面(づら)、先生面、専門職面するのは、無量阿僧祇劫早いです。
(阿僧祇劫(あそうぎこう:仏教でいう途方もない時間の長さ))

謙虚に、誠実に、一所懸命に、なけなしの微力を尽くし、あとは祈りながらやるしかありません。
それが基本姿勢。

そうして祈っていれば、『論語』に言う「一(いつ)以(もっ)てこれを貫く」(ひとつの働きがあなたを貫く)が与えられるかもしれません。
それは、あなたの自力や自負や思い上がりとは全く別のものです。
その貫くものが、大きく、深く、勁く、温かく、あなたも相手も育ててくれるでしょう。

 

 

誕生日に「おめでとう!」とお祝いしてもらう。
自分の存在を祝われたようで、嬉しいものである。

ある人は、誕生日は生まれて来た本人ではなく、産んでくれたお母さんに感謝する日だと言う人もいる。
自分の存在を評価されたようで、母親も嬉しかろう。

それでよい。
それが俗諦(世俗的、世間的な真実)の話。

で、ちょっと真諦(絶対的な、出世間的な真実)の話を付け加える。

誕生日に「おめでとう!」と言われて嬉しいのは私の「我」である。
子どもの誕生日に「ありがとう!」と感謝されて嬉しいのは母親の「我」である。
しかし、この世に生まれて来たのは自分の力ではない。
産んだのも自分の力ではない。
となると、誕生日には、自分を存在させてくれた大元に
子どもを産ませてくれた大元に感謝するのが真実ではなかろうか。
ということは、感謝する先はひとつということになる。

よって
誕生日に「おめでとう!」と言われて嬉しいとき
子どもの誕生日に「ありがとう!」と感謝されて嬉しいとき
ちょっと天を仰いで「ありがとうございます」と祈ってみてもいいんじゃないかな。

そして誕生日だけでなく、こうやって存在させてもらっていること全てに毎日感謝してもいいんじゃないかと思う。

 

 

「思いやりというときに、そもそも人間のいちばん最初にあるところの自己主義、自分のことしか考えない、他人のことは考えないというようなところから一歩進んでいるわけです。少なくとも恋愛している人は、相手のことを自分のことのように感じるわけですね。そういうことを感じることで自分中心の考えを立ち越えるということになります。しかし、それはまだ特定の人しか案じていない。いわば二人だけの自己主義かもしれない。…
どうか、二人の愛に満足したならば、それを立ち越えて、もっと他の者に対する思いやりを広げていってもらいたいと思うのです。小さな自分に対する愛、それが相手を愛する愛まで自分を越えていく。さらに自分と相手を越えたものに立ち上がっていく。一つひとつ広がっていくことが自分の世界の広がり、心の広がり、心の深さになっていくだろうと思うのですね。…
よく考えてください。私たちの考えるのはたしかに自分中心、自我中心ですが、それでもほんのわずかな自我を越えた経験を持っています。自分の子どもの病気を、一生懸命になって介抱したとき。そのとき、自分は死んでもいい、私のいのちはどうなってもよいから子どものいのちを助けてください。…そういう気持ちで自分というものを越えるときがあるのです。
そういうときにほんとうの一心で、純粋で、何かほんとうに生きている意味が感じとれるときですね。そこまではあなた方が体験できることだと思います。そこまでが人間界で、人間がふつうに感じることであるといえましょう。子ども…はまだ自分の延長ともいえますからね。
私は、あなた方に、それ以上のものを望みたいのです。人間はそれだけのものではないということを知ってもらいたいと思います。
 もっと普遍的な愛。
 もっと無差別な愛。
 もっと無条件な愛。
そういう愛する力を我々はっ持っているのです。そうした力があるということを、この一回しかない人生のなかで、どうか体験してもらいたいと思うのです。これが人間が持っているすばらしい可能性だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のことしか考えない人間の中に、せいぜい自分の子どもや身近な人のことしか考えない人間の中に、それを越えた、もっと普遍的な愛が、もっと無差別な愛が、もっと無条件な愛が働く可能性があるということ。
そう思うと、なんだかね、自然に手が合わさって頭が下がるんです。
あなたの中に、わたしの中に、わたしたちは所詮つまらない自己中心的な人間だけれど、その中に、あなたを通して、わたしを通して、それを越えた広大無辺な愛の働きがあるということを感じていきたいですね。
そしてそれをわかりやすく表して下さったのが、昨日ご紹介した宝誌和尚立像であり、羅怙羅尊者像だったのです。

 

 

我ら凡夫の中にも、仏性(ぶっしょう)という尊い働きがあることは、本当に有り難いことである。
凡夫を覆う煩悩は、全くどうしようもないけれど、その仏性の働きによって、我々には救われる道が開けている。

それを端的に表した仏像として、以前、勉強会の中でも「宝誌和尚立像」をご紹介した。
宝誌和尚の顔面が割れて、十一面観音菩薩が顔を出している仏像である。
これまた視覚的にわかりやすく表して下さることが、凡夫にとっては有り難い。
西往寺から京都国立博物館に寄託されているので(但し、展示されている期間をご確認のこと)、ご関心のある方は是非、実物をご覧になると良い。

あなたの中にも仏性はある。
 

   [宝誌和尚立像(クリック)]


で、今回は、もうひとつの仏像をご紹介しようと、この欄を設けた。
それが、釈尊の弟子であり、実の息子でもある「羅怙羅(らごら)尊者像」である。
羅怙羅尊者が自らの胸を開くと、そこに釈尊の顔が出現している。
これを親子の情でベッタベタに解釈している文章もあったが、それでは地獄に落ちる。
釈尊の本体は久遠仏であり、仏性の働きそのものである。
禅の黄檗宗の大本山、京都・萬福寺で拝観できる。

あなたの中にも仏性はある。
 

   [羅怙羅尊者像(クリック)


別に、グロテスクで奇っ怪な仏像を選んでお勧めしているわけではない。
その造形を手掛かりに、造形で表せない仏性の働きそのものを感じ取っていただきたいと思う。

 

 

近頃の人は教養がない、とよく言われる。

確かに
漢字が読めない。
一般常識がない。
社会情勢も知らない。
そんな人たちには、以前よりもよく遭遇するようになった気がする。

しかし
だからどうだってんだ、という気もして来る。
どんなに博覧強記であっても
イヤなヤツ
くだらないヤツ
はごろごろいる。
所詮は、受け売りの知識ではないか。

それに私などは、職業上
重度心身障害の子どもたちや
認知症の大人たち
に接して来たため、彼ら彼女らを見下すような価値観には同意できない。

しかし、である。
上記のことを踏まえて、であるが
教養の中でも
古典(古文、漢文)を読む力だけは、それが可能な方たちには、お勧めしておきたい。
外国語も良いのだが、外国語をマスターするには大いに時間がかかる。
それに比べ、古文、漢文(書き下し文)は、古い言葉とは言え、どこまでいっても日本語である。
外国語ほど習得に時間がかからない。
それに
古文、漢文は、その内容が、東洋文化、日本文化のルーツに連なるため、親和性がある。
そして何よりも私は、日本の精神性は世界に冠たるものである、と思っている。
よって、古文、漢文が読めるとね、時空を超えて、過去の賢者たちと直接に話ができるのだよ。
(ちなみに現代語訳では、本来の語感やニュアンスが死んでしまうのでダメです)

でも、やっぱり、できれば、なんです。
字も読めない妙好人が、禅の老師が舌を巻くような境地を示したように、最後は知識ではなく体験なんです。
そしてさらに言えば、体験よりも存在がすべて、なのでありました。

 

 

先日「囁き通り魔(基礎編)」ついて書いた。
今日は応用編。

どこらへんが応用編かというと、囁き方がさらに巧妙かつ狡猾なのである。
すれ違いざまに囁くというようなわかりやすいやり方ではなく、
会話の中にスッと仕込んで来る。
特に終わり際あたりにさりげなく入れて来るところは、昨日・今日始めたのではない年季を感じさせる。
しかし囁かれた方は確実に、巧妙なやり方で刺された、あるいは、狡猾なやり方で巻き込まれたことに気づく(気づくのが即座か、後になってからかは、こちらの感情抑圧の程度によって差がある)。

[例1]ある人は、ごく普通の会話の中に、時々見下したような目つきと、フンという鼻息をからめて来る。これが(ずっとではなく)「時々」のためこちらは反応しにくく、「目つき」と「鼻息」という言質を取れない表現のため、確実にこちらをバカにしている心証はあっても、客観性をもって追及しにくい。
これは非言語的な“攻撃性”の例。

[例2]私の後輩が外来で経験した例。外来で電子カルテのキーボードを打ちながら診察をしていると、面談と全く関係ないところで、「先生はブラインドタッチじゃないんですね。」と言って来る。表面的な会話は「そうだよ。」で終わるだけだが、裏の会話では「ブラインドタッチもできないのか、おまえは。」「うるせー。」のやりとりがある。これもまた確実にこちらを攻撃している心証はあっても、それを客観的に証明しにくい。
これは(表の会話に現れてない)裏の会話による“攻撃性”の例。

[例3]
ある女性は(圧倒的に女性に多い)、自分の神経症的問題を解決しようと真剣に通院している最中であるにもかかわらず、ふと話がホストに入れあげている友人のことになった後、帰り際になって「先生がホストだったら行くんだけどなぁ。」というような言葉をボソッと放り込んで来る。実は、自分の神経症的問題を解決したいというのは通って来るためのフリであって、本当はベッタベタに依存したくて来ているのである。
(治療場面ではよくある話だ。八雲なら即面談お断りである。そういう自分への「情けなさの自覚」がないからね)
これはベッタベタ依存の“巻き込み”の例。

その他、いくらでも例を挙げることができ、「囁き通り魔(応用編)」の体系がまとめられそうであるが、そんな気持ちの悪い分析をやりたいとは思わない。

書いていて思うのは、やはり「囁き通り魔」は、基礎編であろうと、応用編であろうと、その質(たち)の悪さと有害性から「要治療レベル」だということだ。
しかし、当人たちの多くは自覚がないので受診しない。

となると、こちらで精神的に武装して防衛する他ないのである。

敏感に観抜いて、そして、悪業はバッサリ斬り捨てましょう。
愛のある話はそれからだ。

 

 

 

ちょうど“Silent majority”に関する記事を読んだ。
前々から考えていたテーマなので、これは書かずばなるまい、と思って今日の話題に取り上げた。

まずは言葉の説明から。
そもそも“Silent majority(静かな多数派)”や“noisy minority(うるさい少数派)”という言葉がある。

“Silent majority”というのは、実は集団の意見の多数派を占めているのだが、積極的に発言をしないため、あたかもその意見がないように扱われてしまう多数派のことをいう。
それに対し、“noisy majority”というのは、実は集団音中では少数派に過ぎないのだが、積極的に(うるさく)発言をするため、あたかもそれが多数派の意見であるかのように受け取られてしまう少数派のことをいう。

みなさんもすぐに具体的な場面を思い浮かべることができるだろう。

PTAの会合でもいい、マンションの管理組合や町内会の集まりでもいい、会社の会議でもいい、それが実はかなり偏った独善的な意見であるにもかかわらず、特定の個人あるいは少数派の人々が、声高に、圧強く発言するため(これが noisy minority)、他の多数派の人々はおかしいと思いながらも、ビビってしまい(ヘタレってしまい)、発言することができず(これが silent majority)、noisy minority の意見に押し切られてしまう場合があるのである。
そして後になってコソコソと、silent majority 同士でLINEなどで愚痴を言い合ったりしている。

しかし、そこで意見を言わなかったのも、(たとえ消極的であっても)minority の意見に賛同したのも、大人の自己責任であるから、どんな酷い結果になったとしても同情には値しない。
自業自得である。
そして、そこで黙る(本音を言えない)ようになるのには、その人の生育史からの哀しき影響がある。

ちなみに私のところに面談に来ているような人たちは、生育史の影響で一旦ヘタレな silent majority になったとしても、本来の自分を取り戻すにつれ、silent ではなくなり、かといって noisy ではなく、steadfast に(毅然と)物が言えるようになる人が多い。
従って、そういう会合の場でも決して黙ってはいない。

で、そういう人たちからよく聞くのは、例えば、先に挙げたPTAの会合でも、マンションの管理組合や町内会の集まりでも、会社の会議でも、毅然と発言し、noisy minority の人たちと、場合によっては、バチバチとやりあうこともあるが、silent majority の人たちはそれでも傍観しており、なんだか孤立しているような気分にさせられることがあるそうだ。
いかにもありそうである。
それで、後になって、silent majority の人たちから(noisy minority の人たちがいなくなったところで)「よくぞ言ってくれました。」「もっといけ、いけ、と思ってました。」などと言われることがある。
これでは情けなさ過ぎる。
おまえも会合の最中に声をあげろよ!

その他にも、ネット上のいろんな「書き込み」においても、社会の中でのいろんな「活動」「運動」などの場においても、類似のことが起きていることもあるんじゃないかな、と思う。

今すぐできなくてもいいけどさ(私も100%の自信はないけどさ)、せめて目指しましょうよ、“steadfast majority(毅然とした多数派)”になることを。
それは間違いなく、あなた自身を、そして世界を、健全にして行く道につながっていると思う。

 

 

「人間くらい残酷なことに頭脳を使っている生きものもいないなと思う。…
だいたい人間というのは自分の利益を考えている動物です。…自分のことを考えることがいちばん先です。…しょせん弱肉強食。強いのが勝つ。けれども、僕みたいな変な人間でも、どうやら生きているところをみると、必ずしも弱肉強食でなくても生きられるということの証明かもしれないから、まあ、そういうことをしなくても人間はちゃんと生きられるということも、ひとつみなさんにいっておきたいと思います。…
私はみなさんに豊かな道を歩いていただきたい。豊かとは何かというと、悲しいときには悲しみ、よろこばしいときにはよろこび、苦しいときは苦しみ、ほんとうに人間として、本音で感じた生活を『豊かな生活』と私はいいたいと思います。そこに自分が生きてることだと思います。…
人を裏切る苦しみ、また自分が信じた人に裏切られる悲しみも、じっと心で味わってもらいたいものだと思うのです。…
私の経験でいうと、愛情に恵まれなかった人がほんとうに自分に愛情を持ってくれる人に出会ったときに、そこで感じる感動というものはすばらしいものであり、深いものであることも事実です。ですから、自分が不幸であったことをくよくよと考えないことです。苦しみを通り、悲しみを通って、そしてほんとうの愛情に接した場合にやはりそこには、いうにいわれぬ深く身に感じる愛情の、深さというもの、ありがたさというものがあるように思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より

 

嬉しいこと、楽しいことけじゃなく、悲しいこと、苦しいことを感じて生きて行くことも、人生の豊かさであるということ。
特に、人を裏切る苦しみ、人に裏切られる悲しみについて取り上げているのは、やはり流石、近藤先生だと思う。
闇を経験したからこそ感じる光の明るさ、温かさがある。
愛されずして、苦しみ・悲しみを通って来たからこそ感じる、本当の愛の深さ、有り難さがある。
そしていつか、凡夫の自力では不可能だけれど、自分を通して働く他力によって、誰かを愛することができたならば、それもまた人間として生れて来た本懐と言えるんじゃないかと思います。


 

すれ違いざまに、小声で「ばか」とか「死ね」「ブス」などの悪口を相手にぶつけることを“囁き通り魔”というらしい。

パブリックスペースで全く見知らぬ人から言われる場合と
自分の職場や学校で既知の人物から言われる場合とがあるようである。

いずれにしても“悪意”と“攻撃性”の垂れ流しであり、“通り魔”と言われる通り、すれ違いざまに殴られたのと同じ「心理的暴力」である。

基本的に全くの被害案件であるが、これはこちらにとってワークにすることができる
それが今日言いたいこと。
即ち、即座に反応できるかどうか。
普段から感情的抑圧の強い人は、反応できない、または反応が遅れる。
ということは、やられっぱなしにならないために、“囁き通り魔”を感情解放の練習台に活用することができる、というわけだ。

こういった場合、よく「驚いてしまって」とか「呆気に取られて」何もできなかった、という人がいるが、それは事実ではない(言い訳である)。
例えば、あなたが突然誰かに足を踏まれたとする。
痛覚があれば、その瞬間、痛いに決まっている。痛くないことはあり得ない。
そして感情が出る。
「痛っ!」「何すんだっ!」となるのが普通である。
犬なら、瞬時に咬むかもしれない。
しかし黙る人がいる(それが結構多い)。
瞬時に自分の感情に抑圧をかけ、結果として感覚麻痺に陥っているのである。
しかし怒りは消えていないので、時間が経ってから次第に怒りを自覚するようになる。

そもそも生まれつき感情を抑圧するような幼児はいない。幼児はすぐに反応する。
しかしやがて反応しなくなる、反応が遅れるようになる。
それにはそれ相応の感情抑圧の歴史があるのである。

よって、抑圧が取れ、感情が解放されるにつれ、反応が早くなって来る。
最初、その日の夜、布団に入ってからようやくムカムカしていた人は、
その事件が起きてから数時間後にムカムカするようになるかもしれない。
またさらに相手が立ち去ってしばらくしてからムカムカするようになるかもしれない。
そしてやられた直後にムカムカするようになり、
最後に、言われた瞬間に反応が出るようになる。
「うるせっ!」「黙れっ!」

残念ながら、世の中には抑圧の強い人が、思いの外、多いので、実は通り魔側も瞬時に反撃されたことがない(それで調子に乗って繰り返している)。
よって、この瞬時の反撃ができたならば非常に有効であり、今度は通り魔が黙ることになる。
さらにダメ押しとしては、反撃をその一の矢でおしまいにせず、二の矢、三の矢を繰り出しておくと一層有効である。
「通りすがりに『バカ』と言うんじゃねぇ!」
「あったま、おかしいのか、おまえは!」
万が一相手が何かを言おうとしたならば、それに被せるように、これを大きな声で(まわりに聞こえるように)言うことはさらに効果的である(相手はそこまでやると思っていない)。
しかも感情が解放されて来ると、その表出に自然と“圧”(気迫)が加わって来る。
よく「そんな反撃をしたら、またさらに何をされるかわからない。」とビビる人がいる。
残念ながら、そう思った時点で既に勝負は負けなのである。

少々話が長くなったが、細かいことはどうでもよい。
要するに、こいつに“囁き通り魔”をやるとどんな即時反撃を喰らうかわからない、と思わせれば良いのである。
感情が解放されて来れば、それが準備なしに、身構えなしに、できるようになって来る(いつもシミュレーションして準備し、人がすれ違う度に身構えていたら大変である)。

“囁き通り魔”から始まった話であるが、結局は「抑圧からの解放」こそが、あなたを守り、生かすことにつながるのである。

 

 

ある女子大生。
先日、不運にも、夜道を一人で歩いていてひったくりに遭った。
後ろから来たバイクの男にバッグを奪われそうになり、必死にしがみついてバッグは奪われなかったが、転倒して手のひらと膝を擦り剝いた。
警察にも届けたが、しばらくの間、恐くて夜道を歩けなくなった。
そりゃあ、そうだろう、と思う。

しかし、ある日、彼女は思い直した。
あの犯人のせいで、人間というものへの基本的な信頼感まで奪われては癪(しゃく)に障(さわ)る、自分の自由な行動に制限を加えられるのも癪に障る。
もちろん、世の中良い人ばかりではないことは知っている。
また犯罪被害に遭うかもしれない可能性があることもわかっている。
それでも彼女は、敢えて以前と同じように、歩きたいときに夜道を歩くことにした。

もちろん最初は恐かった。
足も震えた。
しかし、新しく買ったショルダーバッグを斜め掛けにして体の前に持ち、バッグのファスナーもしっかり閉め、防犯ブザーをバッグの外側に付けて、外に出た。
当初は、バイクや自転車が近づいて来る度に緊張したが、彼女は夜間外出をやめなかった(もちろん必要があるときだけだったが)。
そして段々と平気で外出できるようになった。

その話を聴いたとき、思わず
「やるねぇ、姐さん。」
と言葉が出た。
遥か年下だが、その姿勢に敬意を表して「姐さん」と呼んだのである。

不幸な事件に遭っても、自分は人間というものを信じて生きる方を選ぶ。
広い世間を自分で狭くしないように生きる。

“今どきの若い者”にも、大いに期待あり、である。
そしてまた私も、人間というものに期待する方を選ぶのである。

 

 

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