八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

以下は、いわゆる神経症圏の方に対する薬物療法のお話。
しっかりとした薬物療法の継続が極めて重要な、いわゆる精神病圏の方には当てはまらないので、誤解なきように。

 

例えば、不安障害の患者さんがいらしたとする。
パニック発作などの不安にとても耐えられず、精神科を受診された。
そして処方された薬が著効し、不安が起きなくなった(あるいは、不安が起きてもすぐに服薬で対処できるようになった)。
大変喜ばしいことである。

しかし、ひとつ問題が起こる。
薬によって不安を解消できたのは良かったが、そのせいで、不安が起きる根本について自分の内面を見つめなくても済むようになってしまったのである。
そのため、ずーっと薬を飲み続けることになってしまうかもしれない。
実際、何十年も薬をもらいに通っている方々がいらっしゃる。
ご本人がそれで良いのなら良いのだけれど、完治への道もあることは御存知なのかしらんと思う。

反対に、敢えて薬物療法を使わず、薬を飲まないで、自分自身の内面を徹底的に見つめて行こうとする方も(稀に)いらっしゃる。
なるほど、そのやり方なら、根本的な完治に至る可能性がある。
しかし、その姿勢は立派ではあるけれど、鉄の意志と鬼の根性で耐えるには、不安が強烈過ぎる場合もある。
そういうときは、せめて薬物療法を併用して、薬でちょっと気持ちの余裕を作りながら、内省を進めて行くのが一番良いんじゃないかと私は思っている。

薬は使いようである。
折角、製薬会社の人も一所懸命に創って下さっているのだから、必要な方は賢明に活用するのが良いと思う。
しかし、使いようを間違えると、対症療法が成功して根本療法が行われなくなってしまう、という危険性があることを知っておきたい。

 

ちなみに今、八雲研究所に面談に来られている方は、治療対象の方ではないので、全員薬なしで、しんどいときもヒーヒー言いながら、自分と向き合って行きましょう。
 

 

『論語』里仁篇に
「子(し)曰(のたま)わく、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能(よ)く人を悪(にく)む。」
([現代語訳]孔子が言われた。「ただ仁の人だけが、本当に人を愛することができ、人を憎むことができる。)
とある。

昔は何度読んでみても、その真意がわからなかった。
能(よ)く好む? 能(よ)く悪(にく)む?
好んだり、嫌ったり?

それじゃあ、ただの我(が)の選り好みじゃん。
儒教の根本とする仁=愛の体現者であるはずの仁者が、相手を絶対的に愛することはあっても、そんな体たらくであるはずがない。
疑問に思って、さまざまな注解書を読んでみたが、どれも腑に落ちることが書いていない。

そうこうするうちに、ようやく感ずるところがあった、あの人間存在の二重構造がわかってから。
仁者たる者は、相手の中にある存在の絶対的尊さを感じている。
そしてその上で、その尊さの上を覆っている人間の、いかにも人間らしい、あるときは愛おしく、あるときは憎たらしい面を十二分に感じているのである。
よって、相手の存在の持つ絶対的な尊さに対して、畏敬の念を抱きながら、あるいは、抱いた上で、その上を覆う極めて人間的な面に対して、自由に、そして存分に、好み、あるいは、悪むことができるのである。
能(よ)く好み、能(よ)く悪(にく)む。
なるほど、良い得て妙である。
相手の存在の持つ絶対的な尊さを感じることが大前提。
それがわかって初めての「能(よ)く」となる。

それにしても、金言というものは、こちらが成長するにつれて、その真意を開示して来ると、つくづく思う。
私が聖なる古典の心読を皆さまにお勧めする所以(ゆえん)はそこにある。
読んでみての疑問や感想は、また面談のときに話しましょう。

 

 

「子どもにとって環境っていうことを段々と今、私は考えてみまして、環境ということ、親子ということが非常に大事で、つまり、最初の母親と子どもの触れ合いっていうものが一番最初の問題です。…
で今、母と子の問題を持ち出したわけです。母と子の問題は、同時に、母が単に一人じゃなくて、夫がある以上は、ここには夫婦の問題もあります。父親と子どもの問題も出て来ます。親子の問題と言っても良いだろうと思いますね。
さあ、そこでです。わかりやすくするために、そのね、お母さんと子どもの問題から出発しますと、あの、非常に、こう、なんと言いますか、単純なことですから、ひとつ、ご経験のある方はわかると思いますが、子どもが最初に、赤ん坊がですね、男の人は絶対にわからない、女の人しかわからないんだが、乳房をくわえます。自然にこう、あれは、あの、吸う本能がございましてね、それで自然に、こう、やるわけです。これは動物全部にあるわけですね。こうやる。そのときに、どうも、吸ってるうちに、それはまず胃に対して非常に良い、その、満腹感を与える、満足する。と同時に、唇ね、唇の中に含む、唇の触感、こうしたものが快感を与えます。
ですから、乳房は単に、二つの目的、一つは、ほんとは三つあるんですが、一つは、自分が飢えたとき、食べたいとき、その成長する欲望である食欲、それを満たしてくれる。喜びがある。第二には、そういう唇による触感によって快感がある。第三は何かというと、そこで実は、後に母の胸に抱かれるというふうな感じで、安心感があるんですね。この三つが、実は、あの、子どもが最初に感じる環境で、そういう三つが満たされたときに、赤ん坊は非常に満足するわけです。そういう意味で、大変簡単に言いましたけれど、それは基本ですから、ひとつね、ずっと覚えておいていただきたいです。
で、そういうものがですね、あって、のんびりしてますと、それにこう、例えば、お腹が空いていなくとも、お母さんの乳房をこう口で含んでいますね。お母さんがそれをこう取ろうとしますね、お母さんも仕事がありますから。そうするとね、イヤでしょ。その最初のね、ガチッとこう噛むんですね。そのとき歯が生え始めていると、お母さん、痛いでしょ。お母さんとしては、非常に、自分自身も、これは母親の方にもまたね、これは父親、男にまたわかんないことだけれども、乳房を含ますということは快感です、喜びです。我が子を育んで行くという最初の、この、気持ちですね。そういうものがね、あるわけですね。そういう気持ちでやってる。両方ともハッピーな、ハネムーン時代ですね、これはね。
だけども、それがね、ちょっとね、この、お母さんが外す、電話がかかってきた、ちょっと。そうすると、そういうことがあると、非常にね、自分の快楽を奪われるわけですね。そういう自分の安全感を奪われるわけでしょ。そこで子どもは、ギュッとそれに対して、自分に不安感を与え、不満を与える人間に対してね、最初の敵意というもの、その最初の敵意は、敵意っていうのは心理的にも今、大人にも言いますけども、どういうことか、具体的に表れて来るのは噛むことです。乳房を噛まれなかったお母さんはいらっしゃるかな? 人工哺乳をやらない限り、必ずこの経験はおありのはずだと思う。なんでもない、まあ、この子はってな調子でこう過ごしていらっしゃるかもしれんけれども、それはそういった心理的な状況を含んでるっていうことを考えておいて下さい。ていうのは、これが僕は、これくらいのときに起きる敵意という、非行だとか、いろんな問題の元になる敵意の、最初の表現だからです。
つまり、その場合に、非常に子どもはね、その、矛盾した気持ちになるわけですね。矛盾した状態に置かれるわけです。これは大人でもあるんですが、はっきり言うとね。矛盾した状態、どういうことか。片っ方でお母さんに頼り、お母さんが自分のいろんな安心感とか快楽とかいろんな欲望を満たしてくれる、その源ですね。ですから、それに対して依存するといいますね、頼りにするわけです。片っ方で頼りにし、それを必要とした。ところでお母さんは同時に、自分からその安心感とか楽しみとかを奪って行く人でもある。同じ人が、片っ方では快楽の源であり、安心感の源である。不安を感じない源であるのにも拘(かか)わらず、その同じ人が自分から安心感を奪って行く。ひとりの人に対して、愛と憎しみと、大人の表現を使うと、そういう形になるわけですね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、母親が自らの乳房から子どもにお乳を与えることの三つの意味、これを押さえておきたいと思います。
ひとつは、空腹を満たしてくれる、満腹感を与えてくれる、食欲を満たしてくれる喜び。
ふたつには、母親の乳首を吸うという唇による触感、その快感の喜び。
みっつには、母の胸に抱かれるという安心感。
そして次に、そうは言っても、母親には母親の生活があるわけで、その三つの喜びをいつも子どもに与えていられるわけではない。
よって、子どもにしてみれば母親は、片方で、上記の三つを与えてくれる愛しい存在でありながらも、もう片方では、その三つを奪う憎らしい存在となるのである。
ひとつの対象に対して抱く相反するふたつの心的傾向。
それがアンビバレンス(ambivalence)(ドイツ語だと、アンビバレンツ(Ambivalenz))=両価性。
そしてこれは母子関係だけでなく、さまざまな(特に近くて大切な)人間関係において見られる現象なのである。
あなたには思い当たる人、いませんか?
そのことについてはまた次回に。

 

 

ああ、この人のためなら何でもしてあげたい、という愛情が燃え上がるときがある。
そして、尽くす、尽くす、尽くす。
それは愛「情」であるからこそ燃え上がるが、
「情」には常に「我」が付きまとう。
「我」 の反応こそが「情」なのである。
よって「我」は主観的満足を求める。
で、どうなるか。
その尽くした分だけの主観的満足=「我」の満足=見返りがないと、へこたれてしまうのである。
あんなにしてやったのに。
甲斐がない。
そうなると、あんなに尽くしていたのに、忽(たちま)ちに恩着せがましくなったり、恨みがましくなったりする。
はっきり言ってしまうと、セコいのである。
そんな愛憎事件、たくさんありますよね。
親子間でもよく起きている。

それに対して(「情」の付いていない)、「愛」は違う。
「愛」は人間によるものではない。
人間を通して働くものである。
よって、一方的である。
主観的満足=「我」の満足=見返りを必要としない。
これは尊い。

愛情はへこたれるが
愛はへこたれないのである。

我らは、残念ながら、愛情にとらわれる凡夫であるが、
時に愛に恵まれるところに救いがある。

だからね、今日もまた、祈るしかないのでありました。

 

 

公園で小さな子どもが遊んでいる。
まぁ、じっとしてないこと。
フツーに歩けば良いのに、走り出す、ジャンプする、回転するなど、やりたい放題である。
生命力が小さな体から溢れ出ている。
おまえら、生きてるの楽しいだろ、とつくづく思う。

と思っていたら、上には上がいるもので、あるテレビ番組で、子ヤギの様子を放映していた。
あいつらも、走る、ジャンプするなど、じっとしていない。
しかし、そのジャンプにはプラスαがあった。
あいつらはただジャンプせず、ジャンプしたと同時に体をツィストする(捻る)のである。
ただジャンプするだけでは、まだ足りないのだ。
クィッとツィストする、クィッと。
やるなぁ、子ヤギ。
生命力の溢れようが一段上を行く。
You Tube で探してみたが、そのときテレビで観たようなツィスト三昧の良い動画はなかった。
せめてこの動画だと少しは雰囲気が伝わるかもしれない。
ご関心のある方はご覧あれ。

 

そして今、まわりに人がいないのを確認してから、そっとジャンプして体をツィストしてみたあなた!
あなたはわたしの仲間です。
(ちなみにこ子ヤギのジャンプのエピソードは、先日の八雲勉強会でもご紹介したが、今の参加メンバーは皆、実際にジャンプしそうな人たちばかりである)
さ、ご一緒に、生命力の発露を体感しましょう。

 

 

今日は令和6年度最後、10回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目に続いて10回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

さて、先に述べた process によって定立した「仮幻の自己」の内容は、それぞれの個人によって自ら特異な様相をもち、それぞれの神経症的性格の差を形成して行くのであるが、Horney はこれを大別して三種の方に分ける。もとより、全ての類型学がそうである様に、あくまでもそれは、性格理解の為の一応の目安をつけるのにとどまる。人間の個性は色々な variation をもつものであるから、臨床に当っての観察は、患者に固有な心的現象を理解することが重要であるのは当然である。従って次の分類も、この様な前提のもとに理解されるべきであろう。

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

この型の傾向の人々は、自己を嘆賞の中心として(自己陶酔型)、或は道徳的知的に完璧優秀なるものとして(完全主義型)、或は全能な征服者(復讐型)として考える「仮幻の自己」を持つ。嘆賞と支配と優越に対する追求が、彼等の安全を守るのに必要不可欠なるものとして、行われるのである。
彼等に共通なのは、自分の優秀さに関する誇り pride である。何事も自分には可能であり、不可能なものはないと言う傲慢な自信である。現実や他人に対する要求 claims は、現実や他人が、自己のこの様な優越性を立証すべきものであり、他人は自分を嘆賞し、尊敬し、自分に屈従すべきものであり、自分は批判する権利はあっても、現実や他人が自分を批判することは許されないのである。
非はいつも他人にあり、正義は常に自分にあるのであるから、彼の価値を疑ったり、要求に従わない時は、当然、彼はそれに対して復讐し、攻撃してよいのである、そうすることは、彼の優越性をまた立証することにもなるのである。
もとより、自分の優越性に心酔している彼にとっては、他人が彼を嘆賞し、彼のまわりに集って来る場合には、それらの人々に対して寛大であり極めて愛想よく親切であることも多い。
しかし、この寛大さや親切はみせかけである。一人でも彼の意見と違ったり、彼に批判めいた事でも言えば、その人に対する今迄の寛大さや親切さは消え、軽蔑か、冷淡か、敵意か、更に残酷な計画的な復讐が取って代るのである。
他人は、彼の価値や野心や勝利の為の道具であり、材料に過ぎない。だから人間に取り巻かれながら、根本的に言って彼は孤独である。しかし、この孤独感を感じることは彼の自分自身に課する要求 shoulds によって抑圧、禁止される。
何故なら、孤独感は弱さであり、優越し、全能である彼は、弱くあってはならないからである。同じ理由の為に彼は自分の中に起きて来る自分の優越性や、完璧性、或は自分の野心的な態度等に関する不安や恐れを禁圧しなければならない。失敗はあってはならぬし、又同時に考えてはならぬのである。そして、考えない事によって失敗は主観的に抹殺されるのである。
この型の人間に於いては「仮幻の自己」に対する同一化の程度が高いので、「現実の自己」は深く省みられない。むしろ、彼の神経症的要求 shoulds が「現実の自己」を見ることを禁じているからである。
事実、それによって、彼の自己満足、全能感、完全性は保たれているのである。しかしそれにもかかわらず、取巻きや喝采がなくなった時、自己過信の余り、手を拡げ過ぎた事業が失敗した時、或は自分の知性や意志力をもってしても如何ともしがたい、子供の死や、事故や、妻の不貞や、更に彼の征服と復讐の衝動が、結果として破壊的になり、必然的に他からの強い反撃を呼び起こした場合、否応なしにそこに露呈される「現実の自己」の弱さと不完全さを見ざるを得ない。それは、彼に激しい自分に対する憎悪、軽蔑を感じさせずにはおかないのである。
この様な態度の結果として、彼は人間の生活を生き甲斐あらしめる、愛情とか、幸福、喜び、創造性や成長 ー 私達が「真の自己」の現れと解する種々なものから疎外されて来る。
この自己疎外すら彼は否定しようとするであろう。しかし分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである。

 

今回取り上げる「自己拡大的支配型」という神経症的性格の持ち主とは、あのエラソーで傲慢な、すぐマウントを取って君臨したがり、鬱陶しくも圧の強いアイツのことである。
対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」(次回取り上げる)にとっては最大の“天敵”であり、こういう人物が上司になれば、下は病むか辞めるかのどちらかになることが多い。
しかし、所詮は“張子の虎”であるため、どこかで躓(つまづ)き、しくじり、虐げていた人々からの総反発を招くと、その虚勢は瓦解し、一気に抑うつ状態に陥る。
問題はそのときで、散々迷惑を被(こうむ)って来た連中が、愚かにも「大丈夫だよ。」「あなたは優秀だよ。」「よくやってるよ。」などと慰めると、何の反省もなく簡単に復活する。
よって、「自己拡大的支配型」にとっては、その落ち込んでいるときが、数少ない成長のチャンスであり、どこが問題で、どのように変えていかなければならないか、をしっかりと詰めて教えなければならない。
しかし、そんな面倒臭くて嫌われ者の「自己拡大的支配型」の人間に対しても、「この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間である」と書いておられる近藤先生の姿勢には、返す言葉もなく頭が下がるばかりである。
その人を覆う闇がいかに深くても、その中にある「真の自己」という光は常に発現したがっている、という真実を忘れてはならない。

 


 

「所詮世の中そんなものさ。」
と嘯(うそぶ)く人がいる。

“世の中”のことをどれだけわかった人が言っているのかと思ったら、結構若い人だったりする。
また、ある程度年輩の人でも、その人の人生経験は、どこまで行ってもその人だけのもので、また、一生のうち、頑張ってたくさんの人に出逢ったとしても、100万人も行かないのではないか。
残念ながら、世界人口は八十億人以上なのですよ。

しかも、よく聴いてみると、そういう“思い込み”は、その人の人生の早いうちに形成されている場合が多い。
若いうちの“世界”=“世の中”というものは、家庭の中か、学校の中か、地域の中か、まだ勤務年数の少ない職場くらいのもので、そこで体験したことが、その人の世界観、人生観、人間観に色濃く影響を与えている。
そしてそれがもし否定的なものであったならば、その体験が“汎化”されて、「所詮世の中は…」ということになるのである。

そしてその後、身の回りやニュース上でさまざまな出来事に接したとき、その中から自分の世界観に合致したものだけを(無意識に)抽出して、「ほら、やっぱり、所詮世の中は…」と自らの思い込みを強化して行くのだ。

よって、まず気づきましょ、自分の“思い込み”に。
ひょっとしたら、そうじゃないんじゃないかと。
大疑ありて大悟あり。
大切な成長はいつも、今の自分を疑うことから始まります。

世の中は“そんなもの”ではありません。

 

 

皆さんは、十一面観音菩薩というのを御存知であろうか。
頭上に十の小面を付け、本面と合わせて十一面を持つ観音菩薩のことをいう。
今回は、その十一面の内訳のうち、正面三面の慈悲面と左三面の瞋怒(しんぬ)面の六面についてお話したい(他の五面についても話すと長くなるため、それはまたいつか別の機会に)。

まず正面三面の慈悲面。
慈悲のお顔が三つ並ぶ。
慈悲とは、抜苦与楽のこと。
苦しみを抜いて(抜苦=悲)、楽を与えて下さる(与楽=慈)。
深みを持った優しさのお顔立ちである。

次に左三面の瞋怒面。
瞋も怒りを表し、慈悲面と打って変わって、怒りのお顔が三つ並ぶ。
それも、あからさまな怒りというよりは、迫力を秘めた怒りを有しており、凡夫の迷いを断ち切るにはピッタリである。

そうなんです。
凡夫に光をもたらす慈悲面。
凡夫の闇を掃う瞋怒面。
どちらも観音菩薩の示す救いとして、十一面に含まれていることに意味があるのです。

慈悲面だけで、いつもよしよししてくれるのが、観音菩薩の働きではありません。
瞋怒面で、容赦なく闇を叩っ切るのも観音菩薩の救いであることを押さえておく必要があります。

人間の成長に関わるすべての人に慈悲面と瞋怒面を。
但しそれは、“あなた”の優しさや、“あなた”の怒りのことではないことをお忘れなく。

 

 

基本、我々は凡夫である。
それはポンコツでアンポンタンという意味である。

それなのに我々は、恐れ多くも、
親になったり、
先生になったり、
治療者になったり、
支援者になったりする。

とんでもない話である。
そもそもやれるはずがないのである。

それでも、どうしてもやるというのならば、その基本姿勢は、
「ポンコツでアンポンタンですけど、一所懸命やりますから勘弁して下さい。」
ということになる。

間違っても、自分が何かできるなどと思い上がってはならない。
何かできたように見えたときは、自分を通して働く力が何がしかのことをして下さっただけであり、
決して自分の手柄と思ってはならない。

凡夫は基本、無能・無力にしてしばしば(ほぼ)有害。

何もできないときや、相手に迷惑をかけそうなときは、天に向かって、
「助けて下さい。」
と祈りましょう。

それが、凡夫なりの精一杯+おまかせ、の生き方。
我々にはそれしかないのでありました。

 

 

そこでまあ、その安全ですけども、皆さん、どう考える? これはもう人間のね、子どものときに、僕は、そう思うんですね。子どものときに、母親のね、胸に抱かれて、こうやってるときにね、あれはね、なんとも言えない、安らかな感じがしますよね。あれは素晴らしい安全感だと思うんです。子どもにとって安全感ぐらいね、大事なものはない。このことを言い始めるときりがないですけどね、子どもの問題としてね。それがないためにどんなに、いろんな問題が起きてるかわからない。
そういうふうなことが、例えば、私の、ひとつの例を挙げれば、今、小学校の3年になる女の子が、登校拒否を始めた。何故か? それは、嫁と姑がいるんですね。その間がガッチャンガッチャンやったわけです。で、お母さんが、もうこんなところにはおれないから、私は出て行く、とこう言ったわけだね。それを子どもが聞いてたわけですね。そうするとね、すごく不安になるわけですよね。そのためにね、学校に行ってる間に、もしやお母さんがどっかに行っちゃうんじゃないか。それでね、学校に行かないでお母さんの傍にくっ付いたままでいるんですよ、こうやって。それが登校拒否の原因だと。つまり、自分にそういった安全がなくなるということ、お母さんについてね。まあ、そんなことを、まあ、ひとつの例で挙げますけどね。
そういう安全感というのは、子どものときから、そういうものがずっとあると思うんですよ。けどね、そのために、さっき言ったように、我々は大人になっても、自分の安全を守るためにいろんな方法をしてるわけなんですけどね。一体、安全というのは何のためにある。もう一遍考えてみる必要がある、と私は私のとこにいらっしゃる方に言うんですよ。僕はよくわかりますと。僕だって安全っていうことを考えますと。しかし、安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか、いうようなことを、まあ、訊いてみるわけです。これはまあ、いろいろ、皆さんも議論があると思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもにとっては、まず自分の心身の安全は最重要事だと思います。
そうでないと、小さくて弱い子どもは生きて行けません。
そしてそのときに覚えた自分の安全の守り方が、大人になってからも自分の安全の守り方のベースになって行きます。
その安全の守り方が、健全なものだと良いのですが、残念ながら多くの大人が身に付けているのは、前回取り上げた「神経症的人格構造」ということになります。
おかしなことをやらかしてでも、自分の安全を守りたい。
事程左様(ことほどさよう)に、人間というものは、自分の安全が大事というわけです。
そこで近藤先生は、疑問を提出します。
安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか。
まあ、すごい質問をさらっとおっしゃるもんだ、と初めてこの講演テープを聴いたとき、私は唸ったのを覚えています。
皆さん、答えられますか?
私はすぐにイエス・キリストのことが思い浮かびました。
吉田松陰のことが浮かびました。
坂本龍馬のことが浮かびました。
自分の安全よりも、殺されてもなお果たすべきミッションがある。
そもそもそのために授かった生命(いのち)であったと。
何も死ねば良いと申し上げているわけではありません。
いざとなったら、安全とミッションとどちらを取りますか、という問題であり、
そもそもあなたは自分のミッションが何かを見い出していますか?という問題です。

そういうことがわかって初めて、安全を守ることが第一の子どもの生き方から、ミッションに生きて死ぬ大人の生き方への成熟があるんじゃないか、と私は思っています。

 

 

相手の中に問題が観えたとき、その問題にどこまで斬り込んで行くか。

相手の芯まで斬り込んで行く。
これを「裁く」という。

それでは相手を殺してしまう。
斬り込み過ぎである。
表面の「闇」だけなら良いけれど、奥にある「光」まで斬ってしまってはならない。

しかし、だからかといって、何も斬らず=問題に触れず、調子の良いことばかり言っていては、何も変わらない。
そうなるのは結局、こちらの問題であり、自分が良い人でいたいのである。
つまりは、利己的で冷たいのだ。

そうではなくて、相手の「闇」の部分に斬り込んで行く。
それによって「光」の部分を出やすくする。
これを「育てる」という。
本当の意味で、相手を活かすことになる。

そもそもの人間存在の二重構造。
生まれたときに授かった「光」の部分=本来の自己を実現しようとする働きを活かし、
生育史の中で後から付いた「闇」の部分=本来の自己の実現を疎外し、ニセモノの自分を維持しようとする神経症的な部分を払って行く。
いつもこの基本構造をお忘れなく。

 

 

親と喧嘩して、仕送りも止められ、四畳半風呂なしアパートで暮らしていた頃、アルバイトで大学の授業料や生活費を稼いでいた。
仕事と学業との両立は大変で、収支やら国家試験やら、先のことを考えると、時に重苦しい気持ちになることもあった
そんなとき友人からビールの500ml缶を一本もらった。
飲むこともない生活だったが、夕食時に飲んでみると、気分に変化が起こった。
事態は何も変わっていないにもかかわらず、今後のことが何とかなりそうな気分になったのである。
我ながら、単純だなぁ、と思いつつ、これが“気分”というヤツだと思った。

我々は、理性的・合理的にものを考えているように見えて、実は悲観も楽観も“気分”に支配されていることが多い。
その証拠に“気分”は簡単に流転する。

認知症の妻を介護している高齢男性が、ある日介護に疲れ、将来を悲観して、心中でもしようかと思い悩んだ。
そんなとき、娘家族が二人の様子を見にやって来た。
すると、3歳の孫娘がおじいちゃんに抱きつき、「おじいちゃん、大好き!」と頬にキスをしてくれた。
事態は何も変わっていないにもかかわらず、今後のことが何とかなりそうな気分になった。
家の中が明るく見えた。
これも“気分”。

ある日、上司に怒られ、財布を落とし、犬のウンコを踏んでしまった女性がいた。
なんて日だ!としょげていたが、帰り道、前を歩く人が手袋の片方を落としたので、拾ってあげたら、韓流風イケメンお兄さんからテレビドラマの一シーンのような爽やかな笑顔で「ありがとう。」と言われた。
それまでの出来事がなくなったわけでもないにもかかわらず、今日もなんだか良い日のような気持ちになっていた。
これも“気分”。

よって、こういった“気分”の特性をとらえて、たとえ悪い“気分”にとらわれたとしても、ちょっとしたことで良い“気分”に転じられる、ということを覚えておきましょう。
そして、どうやっても“気分”が転じないことに関しては、腹を据えて見つめていきましょう。
それは“気分”の問題ではなく、しっかりと勝負すべきテーマです。

 

 

「内省」とは自分で自分のこころを見つめることを指す。
しかし、世の中には「内省」に乏しい人がいる。
しかも、厄介なのは、当の本人が、
「内省」など微塵もなく、そのまんまでいるのなら、それはそれで致し方ないのであるが、
中には「自分は内省できている」、下手をすると「自分は他人よりも内省できている」と思っている人がいたりして、事態はなかなかに複雑である。
それ故、自分が内省に乏しいということに気づく(そして認める)までに、結構な時間を要することになる。

ちなみに、八雲総合研究所の「人間的成長のための精神療法」は、「内省」を基軸として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を求めているため、「内省」に乏しい方はなかなかに苦労することになる。
「内省」が苦手な分だけ、私がそこを補って「内省」をガイドして行くことになるのだが、問題は、本人にとって重要であるがなかなか認め難い問題に直面したときに、
私を信頼し、そして厳しくとも真実と向き合おうとするか(痛いけれど松田先生がそう言うのならきっとそうなのだろう)、
私を信頼できず、また、その問題を認めることもできず、脱落して行くか、ということになる。

精神科臨床においても、脳の機能的に内省が乏しくなってしまう精神障害はいろいろあるが、いずれにしても内省に乏しい=自分一人では気づきにくいわけであるから、上記の私の場合と同じく、苦手な自分の代わりに、何に頼るか、誰に頼るか、ということになる。
現実には、自分の苦手なところを補完してくれる、信頼できる人間を見つけるのがベストである。
痛いけど、この人がそういうのならきっとそうなのだろう、と認められれば、開けて行く未来がある。
そういう人を見つけられなければ、自分が気づかないうちに、迷走、暴走し、他者を傷つけ、自己を貶(おとし)める危険性が高まる。
それでも自己流でやるのを選ぶのであれば、それに伴って生じる結果は、自己責任において引き受けていただく他ない。
あとは面々のおはからいである。

内省に限らず、自分ができないことは、信頼できる他人にお願いするのが、共に生きるこの世界の大事な原理であると私は思っている(私もいろいろお世話になります)。


 

縁あって出会った人たちを見ていると、親からちゃんと寄り添われなかっただけでなく、ひどい扱いを受けて育って来たために(時にそこに学校時代のイジメ体験が加わることもある)、他人のことなどどうでもよく、とにかく自分第一、そんな保身の生き方を身に付けている人が意外といることに気がつく
そんな人にとっては、
他人は自分の安心のための道具であり、保身のために卑怯かつ狡猾に立ち回ることが板に付いてしまい、それが人間として恥ずかしいことだという意識にも乏しい場合がしばしば見受けられる。
しかし、哀しいかな、保身に走る自己中人間は必ず、誰からも疎(うと)まれ、嫌われることになる。
確かに、そんな人間が愛されるわけがない。
そして結局は、誰からも顧みられず孤独の中で生き、やがて死んで行くことになる。
勘の良い方はお気づきであろう、それは子ども時代の見事なまでの再現なのだ。
つまり、幼少期に親からかけられた呪い=結局おまえは誰からも愛されない、が見事に成就するのである。
そんな哀れな人生もある。

しかし、救いのチャンスもある。
本人が、幸いにも(と敢えて申し上げるが)、誰からも疎まれ、嫌われることによって、なんでいつもこうなるのだろう、と自分の問題に気づき(
気がつくだけでは何も変わらないが)、さらに覚悟を持って自分の保身の姿勢を変えて行きたいと心から願う場合もある。

しかし、そこまで来ても、生きる姿勢を変えることは至難の業(わざ)である。
何故ならば、保身のための卑怯・狡猾な生き方がこころにこびりついてしまっているため、その言動を一から十まで徹底的に洗い出さなければならなくなるからである。
即ち、本気でやろうと思えば、朝から晩まで、その言動にダメ出しされ続け、また自分でもダメ出しし続けることになる。
しかもそれが、場合によっては、年単位で続く。
これは相当に厳しい。
その全否定の嵐に耐えられるか。

私が現実に関わった中では、その全否定の嵐と向き合い、保身を突破し、本来の自分を取り戻した方が若干名いらっしゃる(それ以外は残念ながら脱落された)。
しかも、その行程は平均で十年。
よくまあ、その間、毎回毎回面談の度にほぼ50分間ダメ出しを受け続けるのに、通って来られたと思う。
その姿勢には心から敬意を表する。
そして何よりも、その人の人生が根本から変わった、ということに心からの喜びを覚える。
人間の人生が変わるんですよ、根底から。

そして、あれほど自分の事しか考えなかった人たちが、
自分の愛する人のためなら死ねる
自分の生きる信条のためなら死ねる
という境地にまで到達するのである(但し、一時の感情から口先だけでそう言う人と、実際に行動に移せる人の間にはかなりの差がある)。

これはね、いわゆるフツーに生きてる人たちの中にも、そこまでの境地の人はなかなかいませんよ、実際。
いざとなったら、愛する人も放り出し、信条も投げ捨て、保身に走るんじゃないでしょうかね。
そういう意味では、常に保身に走っていた人間が、愛する人と信条のために死ねるようになったということは、本当に稀有なことなのだと思う。
元より、人間の成長を真に促すのは人の力ではないけれど、私も微力ながら苦労しましたよ、はい。

人間の成長の可能性という意味において、そんな十年に一人の人も確かにいるということをお知らせしておきたいと思う。

 

 

以下、「治療」と「成長」の違いをイメージしていただくための例示である。

例えば、親から厳しく締め上げられて来た人に共通の弱点として、大人になってからも同様に強面(こわおもて)の上司、先輩に対して非常に弱い人がいたとする。
目が合っただけでドキドキする。

傍に行くとすくんでしまう。
その人の一挙手一投足にアンテナを張ってしまう。
また明日会うかと思うと前の晩の寝つきが悪くなる。
などなど。
かつて恐かった親と共通の要素を持つ人間が、その人の“天敵”となる。

しかし、小さくて弱かった子どもの頃はしょうがなかったにしても、大人になってからも恐れ慄(おのの)くようでは大きな問題となる。

そして、その後の展開は二つに分かれる。
その分かれ目のポイントは二つ。
一つは、それによって、実生活に支障が出るか否か。
二つは、そういう自分と勝負して変えて行きたいと心の底から思えるか否か。

まず前者は、そのために出勤できなくなるとか、仕事のパフォーマンスが落ちるなどといった「実害」が出るようになれば、受診するなどの「治療」が必要となる。
それでもなんとか仕事に支障をもたらさないように踏みとどまれているのであれば、「成長」によって乗り切れるかもしれない。

次に後者は、「恐い、恐い。」「どうしよう、どうしよう。」となって、恐怖や不安に呑み込まれ、とても内省したり、現状を打開するために勝負して行こうという気持ちになれないときは、これまた受診するなどの「治療」が必要となる。
そこまで行かず、起きていることを内省でき、現状と向き合って乗り越えてやるという決意が持てるのであれば、「成長」の道が開ける。
両者とも「治療」となると、例えば、環境調整を行ったり、薬物療法を使ったりして、まず気持ちに余裕を作って行く必要がある。それからでないと内省も勝負もできない。
(念のために申し添えておくと、「治療」するのが良い・悪いという問題ではない。当人にとってどちらの道を選ぶことが適切なのかを判断することが重要なのである)

当研究所で面談をお受けできるかどうか、という際にも、上記の2点がポイントとなる。
「治療」が必要な人には、中途半端なところでお茶を濁さず、しっかり「治療」を受けることをお勧めする。
そして、「成長」でやっていける人には、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を要求する。
自分と向き合って内省するのも、現状と勝負して具体的に言動を変えて行くのも楽なことではないが、それができる人が、当研究所の「人間的成長のための精神療法」向きということになる。

 

 

そもそも
集団の中に身を置くということの意義はどこにあるのか?
他の人と交わるということの意義はどこにあるのか?
結婚するということの意義はどこにあるのか?
誰かと一緒に暮らすということの意義はどこにあるのか?
子どもを授かるということの意義はどこにあるのか?
子どもを育てるということの意義はどこにあるのか?
学校に行くことの意義はどこにあるのか?
教育ということの意義はどこにあるのか?
会社に行くということの意義はどこにあるのか?
働くということの意義はどこにあるのか?
会社を経営するということの意義はどこにあるのか?
人に働いてもらうということの意義はどこにあるのか?
自分が自分とし生まれて来た意義はどこにあるのか?
生きるということの意義はどこにあるのか?

但し
建前の見解は要らない。
七面倒臭い観念的な見解も要らない。
うまいことまとめただけの合理化の見解も要らない。
本当に
腹落ちする
心の奥底でしっかりと噛み合う
そんな答でなければ意味がない。

そんなこともわからずして
不登校の子どもたち
引きこもりの子どもたち
出社拒否の大人たち
就労支援やリワーク対象の大人たち
会社経営に悩む経営者たち

人生に悩む人たち
生れて来た意義や生きることの意義を見失っている人たち
の力になれるわけがないのである。

自分が答えを持っていないんだもの。
その答えを突き詰めることなく、ただ上っ面だけ適応して生きて来た人間に、真に悩める人たちの応援ができるとは思えない。
それに引き換え、
今、行き詰っている人たちは切実に悩んでいる。
よって、真実の答えでないと納得しないに決まっている。
結局、そこに小手先の〇〇療法やハウツーで解決しない人間の問題があるのだと思う。

真実の答えを持った人間になろう。
その答えと合致した生き方のできる人間になろう。
それが自分自身が成長する道であり、
それと同時に、自分以外の人間を応援できるようになる道なのである。

 

 

「私がもうひとつ言いたいのは…さっき言ったように、日本において特に出てますものは、
[1]相手の好意とか、愛情とか、それによる保護によってですね、それを得て、自分の安全を確保しようという傾向。そういうものが非常にはっきりしてる。

[2]第二には、今度は、権力とか、地位を得て、それによって、あるいは富を得て、それで自分が安心しようとする考え方。
[3]第三には、そういうものから、あの、できるだけね、もう人とも、ね、それから何でも、自分はこれだけの、こういうのを作っちゃって、箱みたいなものを作って、それの中でもう、知りません、存じません、ありません、干渉しません、私は関係しません、私はこうです、とこういう具合にパッとこう決まっちゃってね、中にピシャッと入っちゃう。こういう安全。
そういうね、ざっと言って、三つのね、型が、私は、あるように思うんですよ。それぞれね、面白いけれども、私のところにいらっしゃる、いろいろ悩んでる方は、そういうことでね、結局ね、自縄自縛(じじょうじばく)になってる人が多いんだ。
[1]まあ、安全っていうこともね、最初から言うと、人の好意に頼り、人の善意に頼り、人の保護に頼ってるとね、確かにそれが得られれば安全ですね。ところが、我々個人、自分自身の感情を考えてみてもね、感情なんて、こんな頼りにならないものはないですね。愛情とか何とかいうんだってね、好意だって。愛情だって、あなた、恋愛でお互いに、好きだわよ、永遠に好きだわよってなことを言っててもね、それだって3年したら離婚したりするなんかするんですからね。これ、非常に頼りにならないですよ、はっきり言うとね。そういうふうなね、この、安全っていうふうなことを考えていてもね、人の好意だとか愛情ってのは、本当、よっぽどやってないと、努力しないとね、続かない、大変です。そういうことでね、基本的には、そういうものがいつも不安な状態にありますね。不定(ふじょう)と言いますかね。そういうもんなんですよ。
[2]二番目にね、権力ってことを言いますね、地位。ところが、その、我々が考える権力とか地位とかっていうものね、考えますとね、富でも良いですよ、それもひっくるめて良いですけど、それも一体いつまでもパーマネント(permanent)に、永久にあるものかどうかですよ。…
[3]それからまた、最後はこういうふうな、こう、中に入っちゃって、もう関係しない、私は、俺はもうこれで良いとこうなる。こうやってるとね、僕に言わせれば、これは実に安全なの。人に関係しない、影響を受けない。安全なんだけれどもね、私に言わせたらね、これは一番牢屋の安全と同じだと思うんですね。牢屋の中に入ってね、こう、四面全部コンクリートかなんかでやって、こうやってね、安全だっていう。
で、昔、私は古いですからね、明治の人間だから、アレだけども、教科書があったんですね。それの中に、今の、子ども心に覚えてるのはね、サザエのことなんですよね。サザエがね、そこにいたら、ワーッとこう、変なふうにごちゃごちゃして来たと。あ、大変だっていうんだね。自分は、しかし、こういう城があるから大丈夫。ピシャッと中に入っちゃってね、中でこうやってたというんですよね。それで、他のタイだとかヒラメだとか、みんな、慌ててる。ああ、可哀想なもんだ、私はこうだ、と。そうしたらね、しばらくしたらね、フッとこう開けてみたらね、3銭で、3銭なんて今頃ないけど、3銭で売られてたって話なんですよね。私やっぱり、そういうもんだと思う、つくづくね。そのことを、私、小さいときに教科書で読んですごく印象を受けてね。どうして印象を受けたかよくわからないけどね、すごく印象を受けちゃった、ね。今頃、私、こういう仕事をしてね、ああ、なるほどね、こういう具合に セルフ・リミティング(self-limiting)、自分を制限し、自分の成長を制限してる人はね、そういうことになっちゃうんだっていうことが、今さらわかったんです。ただ、これをね、みんなわかるんですよ。
例えば、これ、一番深いところに何があるかっていうと、人間っていうのは自分の安全ということをものすごく感じるんですよ。こういうことを言ったら、上役に言ったら、機嫌が悪くなって、悪く思われて損だ。損だというのは自分が安全じゃない、ということ、ね。あるいはまた、こういうことを下の部下に言ったら、みんな、気を悪くして思うだろう。自分の、やっぱり、安全なのね。この中に何があるって、つまり、さっき僕は環境って言ったけどね、環境にさらにプラス、我々の心の中にある問題があると思うんですよ。それはね、自分の安全っていうことをものすごく考えてる。サザエ。サザエも自分の安全を考えてるわけ。
その安全の方法は、
[1]人にこう取り入って、人に甘えて、人のこう関心を得て、安全を得ようっていうのと、
[2]人に優(まさ)って、優越して、支配して安全を得ようっていうのと、
[3]それからもう、人からもう全部逃げ出しちゃってね、自分はこうやってやってると、いうふうなことで安全を得ようと、
いろいろあるんですけどね。動機はいろいろあるけれど、我々の心の中に、安全っていうものに対するものがある。」(近藤章久講演『人間の可能性について』)

 

今回は、近藤先生がカレン・ホーナイの「神経症的人格構造」の種類について、わかりやすく説明して下さっている。
(これについては、『塀の上の猫』の「ホーナイ派の精神分析」の中で、今後説明して行く予定なので、関心のある方はご参照あれ)
整理しやすくするために、かつて小さくて弱かった子どもたちが、自らのこころのの安全を確保するために身につけざるを得なかった「神経症的人格構造neurotic personality structure」の三つの種類の名称を挙げておくと、
[1]自己縮小的依存型(self-effasive dependent type)…Toward people
[2]自己拡大的支配型(self-expansive domineering type)…Against people
[3]自己限定的断念型(self-restricting resignation type)…Away from people
となる。
(それぞれについて、上記の本文の中の[1][2][3]に対応させてある)
いずれにしても、我々が自らのこころの“安全”を求めて、誤った神経症的人格構造を身につけ、そのまま大人になってしまった、ということを押さえておいていただきたいと思う。

 

 

当研究所の「人間的成長のための精神療法」を受ける要件として、「情けなさの自覚」ということを挙げている。
即ち、面談希望者に、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、という自覚を要求しているのであるが、何故これを求めているかというと、それがないことには、人間が成長しない、伸びしろがないからである。
言い換えれば、自分には問題がない、解決すべき成長課題がない、と思っている人が、真摯に自分と向き合えるわけがない。
その能天気さというか、思い上がりというか、そういう自己認識でいたいのであれば、痛くない腹を探られたくはないだろう。
そう。
そもそも痛くないのである。

そして、我々がある程度の自覚を持って、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、と思ったとしても、それはまだ氷山の一角に過ぎない。
自分が気づいているよりも、遥かに多くの、そして、遥かにひどい問題が存在する。
それこそ、ラスボスが出て来るまでには、たくさんのステージをクリアして行かなければならないのだ。
そうすると、自分が気づけているよりも自分は遥かにひどいらしい、という自覚を持った方が良い、ということになる。
それが「情けなさの自覚」よりも、ちょっと深い「凡夫の自覚」である。
基本的に我々は、愚かなくせに愚かだと気づいていない。
ちょっと気づいたくらいで、すぐに自分の愚かさをわきまえているようなフリをするが、その実態は、本人が気づいているよりも何倍、何十倍、何百倍、…何億倍、何兆倍もひどいのである。

かつて近藤先生は
「自分のような者が…」
という表現をしばしば使われたが、それはよくある謙遜のポーズではなく、本気で言っておられることが伝わって来た。
また、八十代になられてからも、当時三十代の私に
「もし僕が間違っていたら、教えてくれよ、松田くん。」
とこれまた、本気でおっしゃっていた。
そこに「罪業深重、底下の凡夫」という自覚がある。

だから、永遠に成長できる。
成長させていただける。
救っていただける世界が展開して行く。

だから、誤解なきように。
「凡夫の自覚」の行き着くところは、地獄のような自己卑下の世界ではなく、浄土のような成長と救いに満ちた世界なのである。

 

 

人間、自分の問題と向き合うのは、なかなかしんどいものである。
しかし、本気で向き合わない限り、本当の自分の人生はやって来ないので、そこは覚悟を決めて勝負するしかない。

だけれども、そもそも自分に問題があると思っていない、気づいていない、気づきたくない人たちがいる。
中には、はっきりと「自分と向き合いたくありません。」と明言した人もいた。
もしその人が大人であれば、それもまた大人の選択であり、自己責任において、それなりの人生を歩んでいただくしかない。
私とは縁のない人たちである。

そして、自分の問題に行き詰ったり、誤魔化し切れなくなったり、心底うんざりして来た人たちがいる。
苦しい状況ではあるが、人間はそうならないと、なかなか自分の問題と本気で向き合わないものである。
そういう人が意を決し、覚悟を持って、面談を申し込んで来られる。
そうなれば大歓迎である。
間違いなく私と縁のある人たちである。

難しいのが、その間の人たちである。
自分に何らかの問題があることには薄ら気づいているが、まだ覚悟を決めて、正面から勝負する気になれない人たちがいる。
こういう人たちは意外に多い。
こっちもね、つい手を差し伸べてくなるんだけど、やっぱり準備ができていないと、時間の問題で逃げるか、脱落して行くんだよね。
深まる人、そうでない人、過去の面談記録を整理しているうちに改めてそう思った。

ひとつの目安として、それまでの自分を全否定しても成長して行きたい、と思えたら、準備はできていると思う。

焦らなくていい(時熟を待とう)、しかし、待ち過ぎなくていい(年を取っちゃうからね)、ちょうどのところでいらっしゃい。
 

 

ある発達障害の中学生の男の子がいた。
相手の気持ちが読めない、空気が読めない、暗黙の了解がわからないなどの特性を持つ彼は、クラスメートとのコミュニケーションがうまくいかず、いつもクラスの中で浮いた存在となっていた。
彼としても、ただ無策にその状況に甘んじていたわけではなく、その状況を打開すべく彼が始めた作戦は、いろいろな“情報”という“貢ぎ物”をクラスメートに提供することで、その関心を得ることであった。
“情報”と言っても、その中味は、ゴシップネタや噂ネタ、三面記事ネタという、いわゆるゲスネタである。
そのモデルとしては、見栄っ張りでいながら、実は裏でゲスネタ好きの母親の影響があった。
みんな、ゲスネタが好きに違いない。
「〇組の△△くんと□□さん、付き合ってたけどもう別れたみたいよ。」
「××くんのお父さん、実はズラなんだって。
「◎◎さんのお母さんて、再婚でフィリピンの人らしいよ。」
どうでもいい“情報”提供が続く。
そんな話をすると笑いながら聞いてくれるクラスメートの顔を見て、彼は自分の作戦が成功していると思っていた。
しかし事実は真逆で、クラスメートは彼のいないところで、
「あの、おしゃべり、誰か黙らせろ。」
「ホントにバカだな、あいつ。」
「ニヤニヤしながらくっだらないことを話すあいつの顔を見てると反吐が出る。」
などと言って嘲笑の的になっていた。
そしてそういったクラスメートの声に気づいた担任教師が彼を読んで話をした。
「君の話は全く受けてないよ。」
「それどころか、君は、君のいないところで、散々バカにされ、嘲笑の的になってるよ。」
「ゲスネタは貢ぎ物にはならないんだよ。」
最初、驚いた顔をしていたが、担任の先生による行き届いた説明で、ようやく起こっていることを理解することができた。
じゃあ、これからどうしたら良いのか、途方に暮れる彼に、先生はアドバイスを続けた。
「まずゲスネタは収集するのも話すのも一切やめた方がいい。知ればしゃべりたくなるから、最初から何も知らないのが一番だ。」
「ゲスネタの代わりに、クラスメートの誰かのいいところを見つけて、褒める話をするといい。」
「但し、面と向かって言うのはTPOを間違えると却って逆効果になるから、本人のいないところで、別のクラスメートたちに話すのがいい。」
「その頻度は、週に一回までね。たくさん言うとこれまた嘘っぽくなるから。」
「本当にいいと思ったことだけ言うんだよ。」
などなど、具体的かつ懇切丁寧なアドバイスが続く。
そして特筆すべきは、やっぱり彼が素直だったことである。
彼は一所懸命にそれを実践した。
中には、彼にゲスネタを言わせようと、わざと話を振って来るクラスメートもいたが、彼は一切それに乗らなかった。
そして半年。
クラスの中での彼の立場は変化していた。
確かに特性のせいで、うまくいかないことも相変わらずあったが、まわりが話していても一切ゲスネタを口にせず、クラスメートのいいところを陰で言う彼の姿勢は、それなりの信頼を得ていた。

いい先生との出逢いを得たことももちろん大きいが、
時に「人間としての素直さは特性を上回る」ことを強調しておきたいと思う。
やっぱり人格は人間の一番の宝である。
 

 

 

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