『論語』里仁篇に
「子(し)曰(のたま)わく、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能(よ)く人を悪(にく)む。」
([現代語訳]孔子が言われた。「ただ仁の人だけが、本当に人を愛することができ、人を憎むことができる。)
とある。

昔は何度読んでみても、その真意がわからなかった。
能(よ)く好む? 能(よ)く悪(にく)む?
好んだり、嫌ったり?

それじゃあ、ただの我(が)の選り好みじゃん。
儒教の根本とする仁=愛の体現者であるはずの仁者が、相手を絶対的に愛することはあっても、そんな体たらくであるはずがない。
疑問に思って、さまざまな注解書を読んでみたが、どれも腑に落ちることが書いていない。

そうこうするうちに、ようやく感ずるところがあった、あの人間存在の二重構造がわかってから。
仁者たる者は、相手の中にある存在の絶対的尊さを感じている。
そしてその上で、その尊さの上を覆っている人間の、いかにも人間らしい、あるときは愛おしく、あるときは憎たらしい面を十二分に感じているのである。
よって、相手の存在の持つ絶対的な尊さに対して、畏敬の念を抱きながら、あるいは、抱いた上で、その上を覆う極めて人間的な面に対して、自由に、そして存分に、好み、あるいは、悪むことができるのである。
能(よ)く好み、能(よ)く悪(にく)む。
なるほど、良い得て妙である。
相手の存在の持つ絶対的な尊さを感じることが大前提。
それがわかって初めての「能(よ)く」となる。

それにしても、金言というものは、こちらが成長するにつれて、その真意を開示して来ると、つくづく思う。
私が聖なる古典の心読を皆さまにお勧めする所以(ゆえん)はそこにある。
読んでみての疑問や感想は、また面談のときに話しましょう。

 

 

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