縁あって出会った人たちを見ていると、親からちゃんと寄り添われなかっただけでなく、ひどい扱いを受けて育って来たために(時にそこに学校時代のイジメ体験が加わることもある)、他人のことなどどうでもよく、とにかく自分第一、そんな保身の生き方を身に付けている人が意外といることに気がつく。
そんな人にとっては、他人は自分の安心のための道具であり、保身のために卑怯かつ狡猾に立ち回ることが板に付いてしまい、それが人間として恥ずかしいことだという意識にも乏しい場合がしばしば見受けられる。
しかし、哀しいかな、保身に走る自己中人間は必ず、誰からも疎(うと)まれ、嫌われることになる。
確かに、そんな人間が愛されるわけがない。
そして結局は、誰からも顧みられず孤独の中で生き、やがて死んで行くことになる。
勘の良い方はお気づきであろう、それは子ども時代の見事なまでの再現なのだ。
つまり、幼少期に親からかけられた呪い=結局おまえは誰からも愛されない、が見事に成就するのである。
そんな哀れな人生もある。
しかし、救いのチャンスもある。
本人が、幸いにも(と敢えて申し上げるが)、誰からも疎まれ、嫌われることによって、なんでいつもこうなるのだろう、と自分の問題に気づき(気がつくだけでは何も変わらないが)、さらに覚悟を持って自分の保身の姿勢を変えて行きたいと心から願う場合もある。
しかし、そこまで来ても、生きる姿勢を変えることは至難の業(わざ)である。
何故ならば、保身のための卑怯・狡猾な生き方がこころにこびりついてしまっているため、その言動を一から十まで徹底的に洗い出さなければならなくなるからである。
即ち、本気でやろうと思えば、朝から晩まで、その言動にダメ出しされ続け、また自分でもダメ出しし続けることになる。
しかもそれが、場合によっては、年単位で続く。
これは相当に厳しい。
その全否定の嵐に耐えられるか。
私が現実に関わった中では、その全否定の嵐と向き合い、保身を突破し、本来の自分を取り戻した方が若干名いらっしゃる(それ以外は残念ながら脱落された)。
しかも、その行程は平均で十年。
よくまあ、その間、毎回毎回面談の度にほぼ50分間ダメ出しを受け続けるのに、通って来られたと思う。
その姿勢には心から敬意を表する。
そして何よりも、その人の人生が根本から変わった、ということに心からの喜びを覚える。
人間の人生が変わるんですよ、根底から。
そして、あれほど自分の事しか考えなかった人たちが、
自分の愛する人のためなら死ねる
自分の生きる信条のためなら死ねる
という境地にまで到達するのである(但し、一時の感情から口先だけでそう言う人と、実際に行動に移せる人の間にはかなりの差がある)。
これはね、いわゆるフツーに生きてる人たちの中にも、そこまでの境地の人はなかなかいませんよ、実際。
いざとなったら、愛する人も放り出し、信条も投げ捨て、保身に走るんじゃないでしょうかね。
そういう意味では、常に保身に走っていた人間が、愛する人と信条のために死ねるようになったということは、本当に稀有なことなのだと思う。
元より、人間の成長を真に促すのは人の力ではないけれど、私も微力ながら苦労しましたよ、はい。
人間の成長の可能性という意味において、そんな十年に一人の人も確かにいるということをお知らせしておきたいと思う。