八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

先日、うな重をいただいた。
うなぎはもちろん美味しかったが、この猛暑期には、付け合わせの奈良漬けが妙に美味しかった。

別の日に、外食で卵かけ御飯を食べたが、これまた自慢の卵はもちろん美味しかったが、この猛暑期には、出汁醤油の味が妙に美味しかった。

で、汗をかきやすい猛暑期には、塩味(しおみ)が妙に美味しいのよね、と結論づけたかったのだが、
専門家によれば、日本人の塩分摂取量はそもそも男性で11g、女性で9.3gと多く(健康のために推奨されているのは男性7.5g未満、女性で8.5g未満とされる。しかしWHOの推奨はなんと5g未満である)、余程大量の汗をかかない限り、塩分の補給は必要ないのだそうだ(その際も塩分を単独で補充するのではなく、スポーツ飲料や経口補水液の利用が勧められている)。

どうもこの「美味しい。」「旨い。」という「感覚」は、時に当てにならないらしい。
「美味しい。」「旨い。」に釣られての飲み過ぎ、食べ過ぎは、いろいろな場面で既に経験済みですよね、みなさん。

で、「感覚」が当てにならないときは「理性」を使うのが上々。
塩分はもう十分に取っているので、さらに塩分を取る必要はないのである。

同じことが、水分摂取についても言える。
ある年齢を超えると、喉の渇きに鈍感になってくると言われている。
よって、猛暑の時期に、喉が渇いたと感じてから水分摂取をしていたら後手に回って、熱中症に陥ってしまう危険性がある。
そこで、高齢の方は喉が渇いても渇かなくても1日7回コップ一杯の水分を摂取しましょう、などと言われるのである。

普段は「理性」「知性」よりも「感性」「感覚」を重視している私だが、時には「理性」「知性」の出番があることも理解しているつもりだ。

ということで、みなさん、この夏は、上手に「頭」の方も使って健康に猛暑を乗り切るワークにしてみましょうぞ。
 


 

今後の「八雲勉強会」につきましては、7月13日(日)付けの本欄でもお話ししたように、2025(令和7)年8月からは、
[1]年10~11回の「八雲勉強会」(参加者全員リモート)

[2]年1~2回の「ワークショップ」(参加者全員対面)
の組み合わせにすることとなりました。

そうなりますと、「八雲総合研究所に面談には来ていないが、ハイブリッド勉強会に参加して来られた方々」は、「ワークショップ」にしか参加できず、「八雲勉強会」には参加できないことになります。

で、現時点では、「ワークショップ」の企画自体がまだまだ具体化しておりませんので、「八雲総合研究所に面談には来ていないが、ハイブリッド勉強会に参加して来られた方々」のうち、ご希望があれば、「八雲勉強会」への参加(全員リモート参加)を受け入れることと致しました。

もし「八雲総合研究所に面談には来ていないが、ハイブリッド勉強会に参加して来られた方々」で、今後の八雲勉強会に参加を希望される方は、「令和7年度八雲勉強会 年度参加のご案内」および「8月 第67回 八雲勉強会 by Zoom」をご参照の上、お申し込み下さい。
その際のお申し込みは ymatsuda@yakumo-institute.com 宛てにメールでお願い致します。

尚、「八雲勉強会」の参加対象を今後さらにどうするのか、につきましては、引き続き検討中ですので、また新たなことが決まり次第、本欄でお知らせ致します。

 

 

 

「男性においてのこだわりは、権力、金力、力ですね。優越するというようなこと。女性においては、愛情とか、愛情ということを基本にしたこだわりですね。…
両方に共通しているのは、人間というのは自己の保全・安全というものがいつも重要な価値のひとつになっている。だれでも自己防衛というか人に対してなんとなく心にもないことをいったり、偽りの微笑を浮かべたりします。これはたいがいの人は経験があると思うんです。これは人間関係における自分の保全、自分の防衛のためということですね。
小さな子どもでも安全ということを考えます。とくに男性においては自分の地位の保全、それは権力を意味する地位の保全。女性においては、愛情的な意味における安全…愛情を確保する安全さです。そういった自己の安全のための防衛ということを人間は行うものです。ところが多くの人が残念なことにこの法則が自分のなかで、はっきりしていない。自覚していない。そして自分のこだわりに執着している。それをどうしてもこうでなきゃイヤだと思っている。執着とはそういうことです。そうして最後にはこうであらねばならないというふうに思いこんでしまう。
こうであらねばならないということになりますと、ちょっとでもそうでないと気になるわけです。もう一回いいますよ。ある価値があって、それに無意識に執着する。執着すると、どうしてもそうありたい。ほしい。おれは偉くなりたい、とね。それがもっと強くなると、偉くならなければイヤだ。その次は偉くならなければいけない。ならなきゃならない。ねばならぬ。…
こだわりの源ってなんだろうということをここでいえば、自分の執着しているものを完全に現実化してなくてはやまないというこの欲望、それが私は、こだわりの源だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず「こだわり」には、「自己の保全・安全」ということが絡んでいるということ。
特に、男性には「権力を意味する地位の保全」、女性には「愛情を確保する安全」。
そしてそこには「自分が執着しているものを手に入れなければならない」という強い「欲望」が働いており、それが「こだわり」の源となる。
そして最大の問題は、自分でその「こだわり」について自覚していないということ。
自覚がないことには解決のしようがない。
私の表現で言えば、「こだわり」に呑み込まれていては何も始まらない。
そこで少しでも「ちょっと待てよ。」「わたしは/おれはこれにこだわってるぞ。」という自覚が出て来ると、流れが大きく変わって来る。
それが「情けなさの自覚」。
そこからなのだ、成長の道が始まるのは。
まさにそのために、今この文章を読まれた方々は、どうぞご自分の中にある「こだわり」について内省してみていただきたい。
ゆっくりと、そして、事あるごとに、そして、徹底的に。

 

 

 

スケートボードの国際大会、女子ストリートで、ある十代の選手がベストトリックの最後の試技に挑む。

有力選手たちは既に試技を終え、ここで無難にトリックを決めれば、優勝は確実である。
試合後のインタビューで、このときの気持ちを彼女は語っていた。

「ここで手堅く行けば、確実に優勝できるけど、それはかっこよくない、と思った。」

そして、この日最高難度のトリックに挑んで成功し、彼女は優勝したのであった。

かっこいいぞ。

優勝したからかっこいいのではない。
たとえトリックに失敗して優勝を逸したとても、彼女の姿勢、生きる姿がかっこいいのである。

武士道の精神を説いた書に
「勝ちたがりて、きたな勝ちすれば、負けたるに劣るなり。多分きたな負けになるものなり。」
(勝ちたがって、汚い勝ち方をすれば、それは負けることにも劣るのである。まず汚い負けになるのだ)
と書いてあったのを思い出した。

手堅くやって優勝しても、褒めてくれる人はたくさんいただろう。
(実際、ある別競技において、「どんな勝ち方をしても、みんなはすぐに忘れちゃって、金メダルの記録だけが残るから、無難にやっちゃいなよ。」とアスリートの耳元で囁くコーチがいた)
でもそれは自分の矜持(きょうじ)が許さない。
そんなことをすれば、私が私でなくなる。

彼女はそんな書の存在さえ知らないだろうが、武士道精神は、その十代の女の子の中にも脈々と生きていたのである。

 

 

面談を続けている面白いことが起こる。
ある女性が面談を続けるうちに、本来の自分を取り戻し、他者の思惑よりも自分が本当は何を感じているか、どうしたいのかしたくないのかを表出できるようになってきた。

面白いというのは、そうなったときの、まわりの人たちの反応である。

内省性がなく、以前の彼女の方が都合が良かった人は、その変化・成長に反発する。
「おかしくなった。」「生意気になった。」「言うことを聞かなくなった。」などなど。
中には怒り出す人もいる。

そして内省性があり、本当の意味で彼女を愛している人は、彼女の変化・成長を喜ぶ。
「表情が変わったね。」「生き生きして来た。」「良かったね、お母さん。」などなど。
中には泣き出す人もいた。

そして、家族や友人関係でも、本人の変化・成長について行ける人とついていけない人とに分かれて来る。

ついて行ける人は、彼女の変化を自分事として内省し、その人自身もまた変化・成長し始める。
ついて行けない人は、自分にこそ問題があることを内省できず、結局、彼女の変化・成長に置いて行かれることになる。

私がしていることは、クライアントをある特定の型に嵌(は)めていくことではなく、その人がその人になるように(本来のその人を取り戻せるように)(さくらはさくらに、すみれはすみれになるように)応援していくだけのことである。

願わくば、周囲の人も、その影響(=薫習(くんじゅう))を受けて、自分の花が本来何なのかに気づき、一緒に自分の花を咲かせて行ってほしいなぁ、と切に思う。
そういった連鎖反応もまた、人間的成長に関わる精神療法の醍醐味なのである。

 

 

連日、これでもかと猛暑が続く。
読者の方々の中には夏バテに陥っている方もいらっしゃるだろう。

私は基本的に、人生、無駄なことは起きない、と思っている。
というわけで、今日は、
夏バテのときだからこそ、
いや、夏バテだけではない、風邪やらコロナやらノロで、ぐったりへろへろになってしまったときだからこそ体験できるワークについてお話したい。

と言っても、何も目新しいことではない。
いつも申し上げている「丹田呼吸」のことである。
そのうち、今日は特に「吸気(息を吸う)」に着目したい。

「丹田呼吸」においては(詳細について知りたい方は松田まで)、
「呼気(息を吐く)」で、息を吐いて吐いて吐いて、吐き切る。
最後には、空気だけでなく、自分まで、自分の我まで吐いて吐いて吐いて、無我に向かっていく。
そして今度は「吸気」、息が体の中に入って来る。
そのときにあなたをあなたさせる力が体の中に入って来る。
そして自力ではなく、この他力によって生かされていくのである。
それを感じる、できるだけリアルに。

これが元気なときは、自力が強いため、
無我になるまで吐いて吐いて吐き切るのも大変である。
また折角、他力が入って来ても、既にある自力に紛れて、それを感じにくい。

しかし、ぐったりへろへろになっているときは、自力もぐったりへろへろである。
即ち、他力だけになりやすく、その他力を感じやすいのだ。
ぐったりへろへろの中で動いてみるとき、それがなけなしの自力を振り絞ってではなく、他力によって動かされていることを感じやすいのである。
これがぐったりへろへろのときでないとできない、「他力を感じるワーク」なのである。

人間、弱らないとわからないことがあるのだよ。

ちょっとやってみようかなと思った方は、どうぞお試し下さい。
そしてその体験を松田までお知らせ下さい。

 

 

Aさんが言うには、Bさんとは話が弾むが、Cさんと話すと話が弾まない、という。
だから、Cさんと話すのはやめて、Bさんと話すことにしたと。

誰とどう話そうとAさんの勝手だけれど、私が見る限り、Aさん自身も抑圧と緊張が強く、誰とでもオープンに人と話せる人だとは思えない。
Bさんと話が弾むのは大変結構であるが、軽口を叩くのが得意なBさん故、その内容は多分に噂話やら悪口・陰口やら、はっきり申し上げると、ゲスネタである。

秘めた攻撃性を一緒に垂れ流せる仲間との間で話が弾んでも、それが双方の人間的成長にとって役に立つとは思えない。却って一緒に堕ちていくことになるかもしれない。

Cさんは確かに能弁な人ではないが、そういったAさんの内面がわかっていて、話をゲスネタには持って行かなかったように私には見えた。
大切にすべきは、むしろCさんのような人じゃないかな。

本当の意味で「話が弾む」とは、表面的な言葉の上で話が弾むのではなくて、一緒にいて「本来の自分」が、「生命(いのち)」が弾むことなんじゃないか、と私は思っている。
そのためには一方だけじゃなくて、双方の開いた心が必要なのだ。

だから、AさんとCさんとで、時間をかけて、気負わないで、何だったら沈黙したままでも良いから、場を共にして行くことを、私としてはお勧めしたいと思う。

居酒屋の後ろの席で、さっきから大学生たちが盛んに歓声やら笑い声を上げている。
しかし、悲しいほど空疎な響きしかない。
ああ、ここでも“本当の”話は弾んでないな、と思うのでありました。


 

例えば、あなたが生活習慣病(高血圧、糖尿病、脂質異常症など)になったとする。
医者からは食事療法を勧められる。
さて、あなたはどうする?

真面目な患者さんは、食事療法を粛々と励行される。
大したものである。

しかし、そんな人ばかりではない。
大抵の人は続かない。

よくある方法としては、普段は摂生して、たまにチートデイを設ける人がいる。
このときとばかり、好きな焼き肉、うなぎ、魚卵、ケーキなどを食べて、憂さを晴らす。
その楽しみがあるから、普段の摂生も耐えられるという。
それが実行できるのであれば、これもなかなか大したものだと思う。

中には強者(つわもの)もいる。
「食事は制限したくないので、お薬をお願いします。」
と言い切る。
一切我慢する気がない上に、
薬だけでなんとかしてもらおうというのである。
これもこれで大したものかもしれない。

そういう人ばかりではなく、
食習慣は変えず、
受診や健康診断を回避し始める人もいる。
現実逃避である。
それだけでなく自己破壊的な臭いもしてくる。
こればかりは大したものとは言えないな。
陰に(身体的ではなく、実は)メンタルな問題が見えて来る。

食事療法は、内科医や臨床栄養士などによって行われることが多いが、実は精神療法的な要素も相当必要なんじゃないかな、と私は思っている。
理性と意志の力だけで行動変容できる人は、そんなに多くない。
私の経験からすれば、体の声、生命(いのち)の声が聴こえて来るようになれば、動き出すものがあるのではないか、と思う。
私も、今のところ、生活習慣病にはなっていないが、もし罹患する日が来れば、我が身をもって試したいと思っている。
実地でなければ、空論に終わるからね。

 

 

テレビでPICU(Pediatric Intensive Care Unit:小児集中治療室)のドキュメンタリーをやっていた。
小児外科のドキュメンタリーを観たときも同じことを思ったが、画面を見ながら、自分にはできないな、と思った。
自分が治療に関わった子どもが目の前で死んで行ったりしたら、とても耐えられないと思ったからである。
もちろんそういう反応が多分に私の個人的問題に由来しており、
そもそも人間の力で人を生かしたり殺したりできるものではない、ということは百も承知である。

自分が感情反応を起こしやすい人間であることはよくよく意識して来た。
喜怒哀楽が大きく、長引きやすいのである。
感情反応が豊かなことを“深情け”と称して、むしろ良いことのように言う向きもあるが、行き着くところ、それは我の反応に過ぎない。
思い通りになれば喜び、思い通りにならなければ怒るか悲しむのである。

誤解のないように付け加えておくと、その我の反応が起きること、喜怒哀楽が起きること自体に問題があるわけではない。
何が起きても感じないようでは、それは不感症かよくある似非(えせ)悟りである。
そうではなくて、起きた感情反応が過剰であったり、尾を引くことが問題なのである。
健康な我は、サラサラと消えて行く素直な感情反応を引き起こすだけであるが、
病んだ我は、ネバネバとした過剰で長引く感情反応を引き起こす。

そういう意味で、多くの面では、お蔭さまで、健康な我を味わえるようになって来たが、子どもの苦しみや死だけは、いまだに私の中に病んだ我の反応を引き起こすのだ。
それがどこから由来するかは既に分析済みである。
しかし、知的にわかっていても、まだ体験的に解決されていないのである。
それが私の成長課題だな。

課題は永遠にあり、成長もまた永遠に続く。
そしていつも、こんなところに留まっているつもりはない。

 

 

「女の人の例ばかりだしたから、女の人にばかりこだわっているように受けとられるかもしれませんけれど、男の人にも同じようにあるんですよね。男性というのは非常に優越感を欲しがる。世の中には勝ち負けがあるので、自分が負けると大変なんです。つまり優劣意識、競争意識、そういったもので、自分がちょっとでも偉くなりたい。さっきの『ウソでもいいから愛してくれりゃいい』というのに対していうと、『ウソでもいいから偉いといってもらいたい』。偉そうにしていたい。だから、旦那さんのもっともいい操縦術は、うんとほめ抜くことですよ。…そういうと、『そんなことないよ』というけれども、ほんとうのところ大変よろこぶんですね。人間なんて考えてみれば愚かなものですよ。情けないかなそういう存在なのです。ね、ほんのちょっとでも優越したいですよ。…
このように人間というものは本来非常にくだらない価値観を持っている。その価値観というものを信じて執着する。自分はこうだと、こういうものが大事だと、これをですね、いちいちですよ、一人ひとりについてよく吟味してみなくてはいけないんですよ。それが自分自身にとってどんな意味を持っているかということを考えてもらいたいんですよ。
我々は、ふっつうはこんなことは意識しません。それを無意識といいますが、知らないうちにそういうことを考えているのです。…
しかしながら、自分の中に、いつもそういった何か、我々を支配しているこだわりのあることを認めるのが大事なのです。その意味で私の話を参考に聞いてほしいのです。…
といっても、私は、人間はある程度競争がないと進歩していかないもんだと思っています。…もう少し自分の才能を伸ばそうとか、そういった意味で健康的な競争もあるんですね。健康な競争ならその人間の能力を伸ばし、能力ばかりでなくその人の生命力を伸ばし、その生命をまた強くし、もっともっと伸びていくことになるんですけれども。でも、こだわりがでてくると、その生命の流れを逆に阻止してしまう。自分が伸びない。…
健康な競争は、お互いに刺激しながらお互いに伸びていく。ところがひとつこだわってしまうと、なんとかあいつをやっつけたいという敵意とか憎悪に変わります。人を引っ張りおろす、足を引っ張るともいいますけれども、そういうことをやりはじめるのです。
これがね、人間のひとつのあり方であると思います。私は人間がそんなにね、きれいにいくもんじゃないと思うんです。…人間の嫉妬というのは、自分よりも相手が健康だったら、自分より偉かったら、尊敬するんじゃなくて、憎む。そういう悲しい性(さが)を我々は持ってる。しばられ、とらわれてね、そして自分自身も不幸になっていくという悲しい性格があるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まあ、女もアンポンタンなら、男もアンポンタン。
今日もまた、くっだらないことにこだわって不幸になっていくんです。
やっぱりね、転機はね、あ~あ、いつまでも何やってんだろ、わたし/おれ、と“心の底から”思えるかどうかなんですよ。
それがなきゃあ、いくら言ったって、こだわりから逃れられません。
「情けなさの自覚」、それがどれだけ徹底するかどうかにかかっています。
情けないなぁ、ダメだなぁ、バカだなぁ、トホホのホ。
徹底すれば、なんとしても今の自分を乗り超えて行きたい、という「成長への意欲」が(頑張ってでははなく)自ずと湧いて来ます。
そうなったら、相談にいらっしゃい。
代わりに乗り超えることはできないけれど、あくまで乗り超える主人公はあなただけれど、できる限りの支援を致します。

 

 

参院選が終わった。

ここで政治談議を始めるつもりはないが、参政権は国民の三大権利(他は生存権、教育権)のひとつでもあり、選挙権を正当に行使するためにも、それ相応の政治的見識と情報を見極める力(今どきのカタカナ文字は好きではないが「情報リテラシー」がそれに当たる)が重要な時代になったな、ということを痛感する機会となった。

見識に乏しく、情報を見極める能力がなければ、その結果として選ばれた政治家による悪政に支配されたとしても、それは自業自得というものである。

しかしここで「新聞を取りましょう」「ニュースを見ましょう」などと“オールドメディア”系の面倒臭いことを言い出すと、(特に若い人たちには)すぐに嫌厭(けんえん)されてしまうので、ごく簡単なことから申し上げれば、スマホで見られる情報で全然OKなので、複数の情報を比較してみましょう、ということである。SNSでも動画情報でも、とにかく最初から狭い特定情報に偏頗(へんぱ)しないこと。ちょっと比較してみることが、あなたの見識と情報を見極める力をちょっと高めてくれると思いますよ。

それでも、万が一おかしな情報に洗脳されて、まんまと良いように使われてしくじっちまったとしても、大けがさえしなければ、人生勉強になる。
気がついたら修正すれば良いのである。
とにかくあと一歩。

 

で、あなたの地域の次の選挙はいつでしょうか?

 

それが何だって構わない。
その機会もまた、あなたが人間として豊かになる好機にして行きましょうね。

 

 

 

しまくとぅば(島言葉)でいうところの
「なんくるないさー」
は有名であるが、その真意については諸説あるらしい。

ここでそれを一つひとつ挙げて比較検討する気はないが、ある八重山人(やいまんちゅ)が言われていたことが、自分にはしっくり来た(きっと地元の人々の中にもいろいろな意見があるのだろう)。

「なんくるないさー」
は、字義通りに解釈すれば、
「なんとかなるさ」
となるのだが、彼の感覚によれば、それよりも
「なるようになるさ」
の方が近いという。

また、そう言うと、最初からてーげー(テキトー)にやっておけばいい、というような、投げやりな感じに取られがちであるが、彼によると、それも間違いで、
「やるだけやってから初めて『なんくるないさー』と言う資格が生じる」
というのだ。

ほう。大分ニュアンスが変わってくる。

そういう意味になると、彼の言う「なんくるないさー」の真意は、一昨日、昨日と申し上げて来た

なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせする

と非常に近いことになってくる。
今は多くの人が知っている「なんくるないさー」という言葉の真意が、一段と深まった気がした。

今日までの三日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

自力を尽くして、あとはおまかせ。

まず、最初からいい加減ではなく、自力は尽くさねばならないが、自力で何でもできると思うなよ、思い上がるなよ、我を張るなよ、ということである。
そして最後は、何がどうなろうと(あれはいいけどこれはイヤだと言わず)、我を超えたところにおまかせするしかない、ということをよくよく思い知らなければならない。

 

 

テレビで若いお父さんが、子どもの運動会について 
「“万全の状態”で臨んでほしいですね。」 
語っていた。

ああ、若いな、と思う。
恐らく自分の仕事でも大事な商談には“万全の状態”で臨もうとするのであろう。
そういう私も受験前などは、どうやって受験当日を“万全の状態”で迎えるかと気をつけていたのを思い出す。

そんなことも、ほのぼのと「そうだったらいいな。」くらいに願うことは否定しないが、
それが「そうでなければならない。」に近づいて来ると、ちょっと神経症的な様相を帯びて来る。
実際、“万全の状態”でないと、イライラと不機嫌になってくる人も存在するのだ。

本当を言うと、“万全の状態”などというのは、「理想」、いや、限りなく「空想」の産物であって、現実にはなかなかあり得ない。

働くお母さん方はよくご存知であろう。
会社の大事なプレゼンがある前夜、子どもが熱を出して吐いた。
ああ、これで寝不足は決まりだ。
そうでなくても生理痛がひどい。
そんなことは日常茶飯事なのだ。

また、ある金メダリストが言っていた。
明日はオリンピックの決勝だ。
それこそ“万全の状態”で臨みたいのは山々だけれど、ここまで来るのに体に故障がないわけがない。
痛みのない日などないし、鎮痛剤の効果もないよりましくらいに過ぎない。
“万全の状態”どころか“不調を抱えながら”が当たり前なのである。

ここでも、
「思い通りに」“万全の状態”であることにこだわるのか、
「思い通りにならない」“不調込みの状態”を受け入れるのか、
昨日と同じ話になって来る。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

二日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

最後はおまかせ、ができるか否かで、人生の様相は大きく変わるのである。

 

 

ラグビーボールがどうしてあんな形をしているのかというと、元々が豚の膀胱を膨らませたものを使っていたから、というのは結構有名な話らしい。
それにしても扱いづらい形をしている。

あるイングランドのラグビー選手が、だからこそどうやってそのボールを自分の思い通りに操るかというのが大事なんだ、と言った。
彼はグラバーキック(地面を這うようにボールを転がすキック)を得意としていた。

それに対し、ある日本のラグビー選手は、思い通りにならないことこそ面白いんだ、人生と同じようにね、と言った。
彼は癌闘病を超えてプレーしていた。
(そう言えば、故平尾誠二氏も同じことを言われていた)

扱いづらいラグビーボールを前に
なんとかして思い通りに扱おうとする選手と
思い通りにならないことを受容する選手。

なんだかいつもお話しているのと近い話になって来た。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

「ラグビーは人生だ。」
と言う。
それは
ラグビーの学びを人生に活かし、人生の学びをラグビーに活かす
という意味なのかもしれない。

 

 

ニュースで「体感治安」という言葉を聞いた。

面白い言い方があるもんだと思って調べてみると、人々が主観的・感覚的に感じる治安の状態のことを指し、客観的・理性的なデータ(犯罪件数など)に基づく「指数治安」とは対をなしている言葉だそうな。

例えば、
「首都圏で闇バイトに関連した強盗事件が相次ぎ、国民の体感治安が著しく悪化している。」
などというふうに使われる。

ここで何が気になったかというと、こういう言葉があるということは、我々は客観的データに基づいて生きているわけではなくて、多分に主観に基づいて生きているということだ。
「指数治安」がどんなに改善しても、「体感治安」が改善されなくては、我々の日々の具体的な心持ちは安心できないのである。

これは私の専門分野にも直結した話である。
「体感不安」という言葉こそないが、
どんなにコロナの感染者数が減っても、コロナ恐怖の人は恐くてしょうがない。
どんなに大丈夫だと理論的に説得されたところで、予期不安の強い人の「ああなったらどうしよう「こうなったらどうしよう」という不安の先取りは払拭されない。

理性ではなく、まず感情が落ち着かなければならない。

従って、百の説得よりも、彼氏(彼女)にハグしてもらったら不安がなくなったり、
丹田呼吸をしたら不安が減ったりするのである。

「体感治安」という言葉は
「感情には(理性でなく)感情を」
という重要な原則を思い出させてくれた。

よって、頭記の問題に戻れば、「指数治安」を改善させる現実的治安対策を講じながら、例えば、颯爽たる(←これ、結構大事)地域警察官が(特に夜間)パトロールしてくれる露出が増えたら、「感じの良いおまわりさんを夜見かけると安心するよね~。」と「体感治安」が向上するかもしれないのである。

 

 

来たる8月10日(日)開催の「第67回 八雲勉強会 by Zoom」の前半において、いつも通り、近藤章久先生の文献資料「ホーナイ学派の精神分析」に基づいた勉強会を行っていきます。

その中で、今回取り上げる「治療」の資料内容が特に良いので、令和7年度会員の方々には是非楽しみにしておいていただきたいと思いますし、会員でなくても、精神療法/心理療法に関心のある方、対人援助職に就いておられる方には、この機会に是非参加をお勧めしておきたいと思います。

単発参加をご希望の方は、面談時、あるいは、メールにて松田までお申し出下さい。

少なくとも私は医学論文や文献を読んで、専門知識的に「勉強になった」「読んで良かった」と思う論文や文献にはたまに(それでも「たまに」ですが)出会ったことがありますが、まさか「感動する」論文や文献に出逢うことがあるとは思っていませんでした。
今回もそのひとつと言えるでしょう。

真夏のひととき、普段の生活や知識的な勉強の中ではなかなか感じられない感覚を共に味わえる機会になればと願っています

 

 

「『こだわり』といいますと、だいたい人間というもはだれでも、こだわりを持って生きていくのが人生。人生はむしろこだわりの連続みたいなところがあります。…私の患者さんに、女の方で、五十二、三歳…で、小さいときから、何をいっても認められないという状況を経てきたということですが、まあ、それでいろいろありました。…そこで私がいろいろとお話をしたり、うかがったりしてみますとね、心の奥にものすごい葛藤があることがわかりました。それは自分の母親に対する強い憎しみですね。なんとかして自分の子どものときにひどいめにあったことの仕返しをしたい。そういう気持ちが非常に強いわけですな。それが、いちばん深いところにある。しかしだれにも話していないのです。自分が五十いくつになっても、もうそろそろ耄碌(もうろく)しはじめている年とった母親に対して、憤り、憎しみを持っているわけです。…
しかし、ここでちょっといえることは、五十いくつになっても小さいときのそういう体験、母親が自分に対して行った不当な行為、ともかくそういうものに対して非情にこだわる。…なんでそんなことにいつまでもこだわるんだということになるかもしれませんけれども、子どものときに受けた心の傷というのは、いつまでも残る、そういうことがあるものです。…
女の人は、人の態度とか、それから相手の、まあ、相手といっても自分の好きな相手ですけどもね、その愛情、こと愛情に関して非常にこだわりがありますね。愛することもそうですが、愛されたいという気持ちが強い。愛されたいという気持ちが強いために、ある女の人が『ウソでもいいから愛してるといって』なんてことをいってる。『ウソとわかっていても、その言葉をいってほしいの』なんてことをいいます。これは、僕は非常に正直な女性心理だと思っています。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず大切なのは、何かにこだわっている自分に気づくこと、認めること。
それがないことには何も始まりません。
そして、どんなにこちらがこだわっても、それは相手があること、状況があることですので、残念ながら、なかなかこちらの思い通りにはなりません。
よってそこに、思い通りにならない「苦」が生じます。
そうすると、その「苦」を解決するための方法が二つあります。
ひとつは、相手や状況を思い通りにするために、さらに頑張ってなんとかしようとすること(しかしこれはなかなかうまくいきません)。
そしてもうひとつは、そんなことにこだわっている自分の方を消して(薄めて)行こうとすること。
後者のためには、そんなことにこだわっている自分が情けないなぁ、という自覚が必要です。
即ち、
自分が何かにこだわっていることに気づくこと、認めること。
そして、そんなことにこだわっている自分を心底情けないと思うこと。
そうして初めて、そのこだわりを乗り超えて行くにはどうしたらいいか、という道が開けて行きます。
そうして今回は、女性が陥りやすいこだわりのひとつとして、「愛されたい」が挙げられています。
さて、女性のあなたには「愛されたい」というこだわりがありますか?
それに気づいていますか?
そういう自分を心の底から情けないと思っていますか?
そしてそのこだわりを乗り超えて行きたいと本気で願っていますか?
そんなふうに見つめてみて下さい。

 

「モウムリ」と言っても、退職代行の話ではない(それは「モームリ」)。
先日、ある精神科医療保健福祉関係の会合で、ベテランの関係者たちが話しているのが聞こえて来た。
「60代になってまだ引きこもりやってるようだったら、もうそれでいいんじゃない。」とか、
「50代までそうやって演じて生きて来たんなら、そのまま行ってもらいましょうよ。」とか、
「気づかないんだったら、敢えて手をつけなくていいんじゃない。」などという発言が繰り返され、
それが私には、「もう無理」なんだからいいんじゃないの、と聞こえて来たのである。

しかし、それはその人たち自身の「敗北主義」的発想に過ぎない。
人間観、人生観が、根本的に否定的で貧しいのである。
それが自分の人生なら自業自得で仕方ないけれど、対人援助職者として当事者に関わるのであれば、大変な迷惑となる。
「もう無理」の烙印を押されて以降、ゾンビのような、生きてるんだか死んでるんだかわからないような人生に対して行う「支援」などというものはない。

以前にもお話したが、80代の女性で、3回の面談で劇的に変わった方がいた。
このままニセモノの自分で死んで行くのがイヤで、必死の覚悟を持って面談を申し込んで来られたのである。
その方に比べれば、50代、60代は、まだまだハナタレ小僧である。
「もう無理」なハズがない。

私は、死ぬ瞬間まで人間は成長する可能性を持っている、と信じている。
いや、信じているのではなく、それが絶対的な真実なのである。
苗木にも老木にも太陽の光は、分け隔てなく、降り注いでいる。
さらにさらに成長せよ、と降り注ぎ続けているのである。

 

 

昨日のハイブリッド勉強会の中で、ふとパソコンのモニターの Zoom 画面(ギャラリー設定)を見ると、参加者全員が笑顔でいる瞬間があった。
そんなシーンは、今までも数え切れないくらいあったはずなのだけれど、何故か昨日はとても印象に残った。
全員が(あたかも子どものように)すごく自然な笑顔だったのである。

参加者の方々にとっては、面談のように1対1で話しているわけではないし、参加者が多いほど、自分が見られている感が薄く、結果的に、参加者一人ひとりの気持ちがそのまま表情に出やすい環境にあったのかもしれない。
また、そもそもがあの勉強会であるから、参加者が本来の自分を出して来ることは、歓迎されることはあっても、非難・攻撃されることはない。
そこから来る安心感もあったかもしれない。

やっぱり人が集まる空間は、安心と成長の場であってほしいと思う(もちろん成長のための緊張感は必要であるが)。
残念ながら、現実の職場やら、学校やら、地域では、なかなかそうはいかない。
そこで、せめて、こういう勉強会やワークショップの場面では、本来のあなたが出て来ることを促し、歓迎したいと思う。
その意味で、あの笑顔は最高だったのである。

だけれども、そういう集団の場面は、私一人では作ることはできない。
参加者全員で作るものだ、ということを改めて共有しておきたいと思う。

ではまた次の勉強会で、本来のあなたと本来のわたしで出逢える場面を一緒に創って行きましょう。

 

 

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