八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

東京・丸の内の公園。
インタビューされた高3男子が将来の夢を語る。
「ああいうところ(丸の内の高層オフィスビル)で働けるようになりたいですね。
そうしたら人生変わるんじゃないかな。」
私にとっては一度も思ったことのない発想なので驚いた。

彼は、高校では「いじられキャラ」なのだという。
きっといじってくるヤツらを見返してやりたいのだろう。
丸の内の高層オフィスビルで働けるようになることが一発逆転であり、自分の存在価値を高めることになるのだと思う

「それ、相変わらず、他者評価の奴隷だよ。」
と言うのは、まだ高3の少年には酷だろうか。
せめて二十歳になるまで、もう少し猶予をあげることとしよう。

「少年よ、大志を抱け。」
という。 
しかしその「大志」が、承認欲求や世俗的成功の追求ではね。
確かに英語でも
Boys, be ambitious
という。
Ambitionなら野心か俗欲か。
ならば、訳としては
「少年よ、野心を抱け。」
の方が正しい。

そうではなくて、本当の「大志」とは、「自分が生まれて来た意味と役割を果たすこと」に他ならない。
それを間違えないように。

少年少女よ、あなたがこの世に生を受けたからには、あなたにはあなたの大志が与えられているのだぞ。
それを見い出して生きよ。

 

 

これまでの『五輪書(1)』『五輪書(2)』『五輪書(3)』に続いて、『五輪書(4)』をお届けする。

「一 敵を打つに、一拍子(ひとつひょうし)の打(うち)の事
敵を打つ拍子に、一拍子といひて、敵我あたるほどのくらいを得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身(わがみ)もうごかさず、心も付けず、いかにもはやく、直(すぐ)に打つ拍子也(なり)。敵の太刀、ひかん、はづさん、うたんと思ふ心のなきうちを打つ拍子、是(これ)一拍子也。此(この)拍子能(よ)くならひ得て、間(ま)の拍子をはやく打つ事鍛錬すべし。」

(一 敵を打つときに、ひとつ拍子で打つということ
敵を打つ際の拍子(タイミング、勢い)として、「ひとつ拍子」といって、敵と自分の間合いが刀が届くほどになったとき、敵がまだ(置かれた状況が)わかっていないことを感じ取り、(意図的に
)自分の体を動かすのではなく、気をつけるのでもなく、素早くすぐに打つ拍子がある。敵が、引こう、外そう、打とうと思う心が動く前に打つ拍子、それが「ひとつ拍子」である。この拍子をよく習得して、そのときの拍子を感じて早く打つことを鍛錬しなさい。)

 

難しいことを言っているようで、面談に来られている方にとっては、実はお馴染みの話である。
即ち、誰かに何かを(特に悪意のことを)言われたとき、されたとき、瞬時に自分の感情を抑圧してしまい、何も言えず、後になってむかむかしてくる人のなんと多いことか。
そして、たとえ何かを言えたにしても、身構えて、考えてから、反撃していたのでは遅過ぎるのである。
そうではなくて、「ひとつ拍子」に、思わず、知らず、考えずに、相手に対してズバッと言葉や行動が出るときがある。
この「ひとつ」というところが肝要で、「来た」「返した」では「ふたつ拍子」となる。
そうではなくて、「来る」と「返す」がひとつの拍子でパパン!と行くのである。
それが「ひとつ拍子」。
この「ひとつ拍子」は、剣がなくとも、我々の日々の生活の中で、職場の中で、実践できる、体験できることなのである。


 

「母親が子供に乳房を与えているときに、急に何か用事ができて、途中で乳房を離そうとする。歯が少しはえてきている赤ん坊なら、離されまいとして乳房をきゅっとかむ。これは、子供にとっては、乳房を取られて、快適な状況から追い出されるということはいやなことですから、それをあえてしようとする母親に対して起こす反応です。
いままでの母親は、いつも自分に楽しいもの、気持ちのいいものを与えてくれた、ところが今度は、自分の大好きな気持ちのよいものを奪っていこうとする。それを奪われるのはいやだという反応として、乳房をかむということがよく起こります。この反応は私たち人間の最初の憎しみの現われではないかと思います。愛と憎しみという言葉の響きからは、何か調子の高い、むずかしいものであるという感じがしますが、ほんとうは子供のそうした反応の中にも、すでに出ているものなのです。
もし、その母親が非常に不安な気持ちの人であるとか、わがままな人で、子供のことをあまり考えず、自分の感情を中心とした態度をとる人であるときは、自分の気分のまま、乳房を与えたり、与えなかったり、抱いてやったり、抱いてやらなかったりするでしょうから、赤ん坊は抱いてくれるときは、母親に愛されていると思うし、抱いてくれないときは、愛されていない、憎まれていると思うということで、次第に愛と憎しみという両方の感情を感じるようになります。しかし、気分によって子供に対する態度がゆれ動くと、子供のほうでは母親はいったい自分を愛してくれているのか、愛してくれていないのかわからない、そういった不安をいだきます。
憎しみはそれだけではありません。自分が寂しい孤独な状況に置かれたことに対して、子供は『わあわあ』と泣くことによって、あるいはいうことを聞かないことによって、その気持ちをあらわすと、母親はおこります。すると子供はおこられたことに対して非常に不快な感じとか、怒りとか憎しみをおぼえます。
しかし一方、子供がそれをあまり表に出しますと、母親はさいを投げてしまい、置いてきぼりにしますから、子供のほうでは、そんなことをすると自分はまた孤独な状態に追いやられるという不安な気持ちになりますし、またそうなっては困ると思うから、できるだけ怒りや憎しみを表に出さないようにしようとします。いわゆるいい子になるわけです。しかしそこには、母親に対して、自分の気持ちをほんとうにわかってくれないとか、自分をほんとうに愛してくれないという、不信と疑念と憎しみが残ります。…

このように子供は、こういった怒りや憎しみの気持ちを表に表してはまずいから、自分の中に抑圧して、表面上はたいへんいい子になっているようにつくろいます。しかしこのような状態が続きますと、子供はだんだん他人の機嫌をうかがうようになり、顔色を見て、他人が自分にどういうふうな感じを持っているだろうか、また自分は他人にどういう感じを与えているだろうかという、対人関係の問題にいつも気をつかう神経質的傾向をやしなっていくことになります。
日本人は一般に、多少の差はあってもこの傾向があるわけですが、とくに神経質の人は強いものです。こういった他人の顔色をうかがったり、他人の意をうかがい、どういう気持ちを持っているだろうかということに心を配るということは、子供のときに母親の顔色をうかがい、その気分をしょっちゅう気にしているときから、まう発生することが多いのです。とくに先ほどのように母親が非常に不安定な気持ちの人である場合には、子供はよけい神経質になってきます。」(近藤章久『人間の愛と真実』ナツメ社より)

 

子どもが母親に対して愛と憎しみを抱くようになるプロセスを、近藤先生が非常にわかりやすく説明して下さっています。
いくら読んでもピンと来ない「アンビバレンス(両価性)」に関する観念的な説明よりも遥かにわかりやすいのは、その知識が受け売りではなく、本当に自分のものとなっているからでしょう。
そしてさらに、どうして我々が自分の感情を抑圧してしまうのか、他人の機嫌を窺い、顔色を見るようになってしまうのか、よい子になってしまうのか、そして私が言うところの他者評価の奴隷になってしまうのかが、導き出されています。

では、どう育てれば良かったのか。
母親もまたどう救われるべきであったのか。
子どもがそうなってしまった後、一体何ができるのか。
人は果たして生育史の呪縛から逃れられるのか。
そしてそして、子どもは、あなたは、わたしは、この一回しかない人生をどう生きて死ぬのか。
その(観念的でない生命(いのち)に響く)本当の答えを求めて、今回から『人間の愛と真実』を一緒に読んで行きましょう。

 

 

来たる7月は、
7月12日(日)に八雲勉強会があり、
翌週の7月18日(土)19日(日)がワークショップ開催の予定となっている。

7月の八雲勉強会はお休みも考えたが、想像以上に参加希望者がいらしたので、開催することとした。いつもより少人数になっても、参加のお気持ちには応えたい。

但し、娑婆に生きていれば、諸般の都合、大人の事情があるものなので、
7月の八雲勉強会とワークショップ、
両方とも参加されるか、
片方だけ参加されるか、
両方ともお休みされるか、
どうぞ慮(おもんぱか)り不要で、ご自由にお選び下さい。

八雲勉強会は、規定上、個人の判断で、年度内4分の1まで=3回までは休めますので、大丈夫です。

それもまたワーク。

 

以上、ご連絡まで。

 

 

先日、経営の本を読んでいたら、「(人間的)成長」とか「自己実現」という言葉がたくさん出て来た。
へぇ、経営の分野でも、そういう言葉を使うんだ、と思ったが、何をもって「(人間的)成長」というのか、「自己実現」が何を意味するのかについて読み込んで行くと、残念ながら、その中味は、非常に曖昧なもので、一般で言うところの世俗的成功を意味するあたりに留まったいた。
それでは人生を生きる方向性として、なんとも心許ない。

経営どころではない、心理学の分野でも、アブラハム・マズローの「自己実現」やカール・ロジャースの「自己実現」がよく取り上げられるが、大抵はただ“権威者”の意見として重用(ちょうよう)されているだけで、引用している人自身もその意味が本当にわかっているとは言い難く、それもそのはず、率直に申し上げて、マズローやロジャース自身が「自己実現」を本当にわかっているか、あるいは、「自己実現」を実践できているかとなると、極めて怪しいと私は思っている。
それでは人生を生きる方向性として、なんとも心許ない。

そもそも「自己」とは何か、「実現」とは何か、「成長」とは何かについて、観念的思索や議論ではなく、自分自身において「体験」がなくてはならないと私は思っている。
理屈はいいから、実際に「生きてみろよ」「見せてみろよ」ということである。
これは、私自身もこう書きながら、こりゃあ、自分に返って来る厳しい道だなぁ、と思う。
それでもやっぱりそこを目指さないと、(知識と技術による表面的なサイコセラピーやカウンセリングはできるかもしれないが)本物のサイコセラピーもカウンセリングもできないのよ。

もちろん真の意味での「(人間的)成長」や「自己実現」は、エンドレスの道程であり、「もう成長しました」「実現できました」などと簡単に言えるわけがない。
よって、せめてクライアントの半歩でも一歩でも前を進むことが、サイコセラピストやカウンセラーに最低限求められる「(人間的)成長」と「自己実現」なのだと私は思っている。

 

 

私が、サイコセラピストやカウンセラー、あるいは、サイコセラピストやカウンセラーを目指す学生たちに講演・講義をするときに、伝えているメッセージがいくつかある。

その中のひとつに

「もしあなたが誰かに関わることによって、たったひとりでも、その人の人生が変わるとしたら、それはすごいことなんですよ。」

がある。

もちろん、ここで言う「変わる」とは、「その人が本来の自分を生きることができるようになる」という意味である。
表面的に「適応」して生きて行けるようになるという意味ではないし、世俗的に「成功」して生きて行けるようになるという意味でもない。
また「ちょっと楽になりました」というようなレベルではなく、「生き方が変わりました」というようなレベルの話である。

そしてこれは、狭くサイコセラピーやカウンセリングに限ったことではない。
親が子に対して、パートナーがパートナーに対して、親友が親友に対して、もし関わることによって、その人ひとりの人生が変わる=その人が本来の自分を生きることができるようになったならば、それはすごいことなのである。

ある「ひとり」が自分以外の誰か「ひとり」に対して、そんな関わりができたとすれば、もうそれで mission conmpleted なのかもしれない。

そしてもし「ひとり」が(「ひとり」を超えて「ふたり」に対して、そんな関わりができたとすれば、それはもう“おつり”が来るのである。

私は、サイコセラピーを、カウンセリングを、本当の意味での人と人との出逢いと関わりを、そんなふうに考えている。
「ひとり」に対してで、もう十分な大!事業なのである。
 

 

 

 

 

「男を惚れさす 男でなけりゃ 粋な年増は 惚れはせぬ」

 

 

都都逸(どどいつ)である。
都都逸は、江戸時代末期に成立した七七七五を基本とする定型詩であり、情歌として三味線の伴奏で歌われた。
この都都逸の音律は伝統的に好まれ、
戦前昭和の歌謡曲、東海林太郎『名月赤城山』でも、
「男ごころに 男が惚れて 意気がとけ合う 赤城山」
とあり、
サザンオールスターズ『東京シャッフル』の
「恋の花咲く ロマンの都 女ばかりに 気もそぞろ 夢もほころぶ 小意気なジルバ 君と銀座の キャフェテラス」
も同じ音律である。

ちなみに、江戸期でいう「年増(としま)」とは、数えで二十歳を指した。「数え」=「数え年」とは、生まれた日を一歳とし、元旦(一月一日)を迎えるごとに年齢を一つ加える年齢の数え方である。従って、数えで二十歳とは、今の年齢の数え方=満年齢でいうと、十八歳あるいは十九歳となり、かなり若い。江戸時代では、十六歳~十七歳が結婚適齢期(←今は死語)であった。

ああ、それにしても、男女を超えて、LGBTQ+も超えて、人間が人間に惚れるとは、なんと豊かな出逢いであることか。
こういうとき、近藤先生の顔が浮かぶのである。

 

 

 

 

「ポンコツがさらにポンコツになることを加齢という。」

 

 

 

65歳以上の場合は
「ポンコツがさらにポンコツになることを老化という。」

 

 

加齢/老化というのは実に有り難いもので、若い頃、どんなに自分の有能さを誇っていても、やがて年を取れば、誤魔化しようのないポンコツさを露呈せざるを得なくなる。
そして虚勢の薄まった眼で過去を振り返ってみれば、若い頃、自分が“有能”だと思っていたことも、実は大したことなかった=元々ポンコツであったことに気づく。
それが加齢/老化の一番の効能である。
(但し、
頑迷固陋な人はそれさえも認めなかったりするが、それがさらにポンコツの証明となる

 

 

これまでの『五輪書(1)』『五輪書(2)』に続いて、『五輪書(3)』をお届けする。

「一 有構無構(うこうむこう)のおしへの事
有構無構といふは、太刀(たち)をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。され共(ども)、五方に置く事あれば、かまへともなるべし。太刀は、敵の縁により、所により、けいきにしたがい、何(いず)れの方に置きたりとも、其(その)敵きりよきやうに持つ心也(なり)。」

(一 有構無構(構えがあって構えがない)の教えのこと
有構無構という教えにおいては、太刀を(
意図的/意識的に)構えるということがあってはならない。けれども、(形の上では)太刀を五方(上段・中段・下段・右脇構え・左脇構えのいずれか)に置くことになるので、構えとなるであろう。太刀は敵との関係性により、場所により、気配に従って、どこに太刀を置いても、目の前の敵を斬りやすいようになる心持ちを有構無構というのである。

こちらが意図的/意識的にこういう構えをするというような構えではなく、相手に応じて、状況に応じて、相手を斬りやすいように、「自ずと」太刀の構えが決まっていくことを有構無構の構え(構えがあって構えがない構え)というのである。
これはサイコセラピー場面においても全く同じである。
意図的/意識的に面談を持って行きたい方向へ操作/リード/誘導したがるセラピストがいるが、そんな“構え”がうまくいった試しがない。
「縁により、所により、けいきにしたがい」しゃべりながら、クライアントが一歩でも半歩でも成長して行けるように「自ずと」サイコセラピーが展開されて行けば、それを有構無構ということができよう。

尚、このことについては、『五輪書』の四年前に宮本武蔵が書いた『兵法三十五箇条』においても、
「かまゆると思ふ心なく、敵に相応の太刀なれば」
とある。

 

 

今回が『感じる力を育てる』の最終回です。

「内部感覚とはどんな感じがするものか、それを味わうには、近くの神社か仏閣に詣でられるのをおすすめしたいと思います。普通、神社や仏閣には、長い参道や階段があります。これも、私たちの祖先の深い知恵と思いますが、この長い参道や階段を木立の間を抜けて歩いて行きますと、知らず知らずのうちにいままでのごたごたした頭の中の損得の世界を考えなくなり、歩いたり登ったりすることだけに心が集中していきます。
そして本殿や本堂に着いた時は、ホッとして立ち止まります。涼しい風に肌の汗も引き、何となくさわやかな感じになり、おのずから礼拝して柏手をうち、あるいは合掌する時、自分の体の内部に何ともいえないすがすがしさと落ち着きとを感じられると思います。その時の感じをよく味わっていただければ、私の言う内部感覚の一端がおわかりになると思います。…
内部感覚を育てる方法…として、いちばん簡単なのは呼吸を感じ、味わうことです。ゆっくりと息を吐き出して、息の出る感じをじっと体で味わいます。そして吐ききったところで、ゆっくりと息が体に入ってくる感じを味わいます。ここで大切なのは、息の出入に注意することではなく、体の中で味わうことなのです。
注意するのは頭の働きです。味わうのは、内部感覚ですから、無理に気張らないで、自然に体が気持よく感じるように行うことです。無理に気張るのは意識的になっているので、これも頭の作用です。気持よく感じるのは、内部感覚の働きです。…
そのほかに、自然にふれることによっても内部感覚は成長します。自然によって内部感覚が触発され発達するのは、内部感覚の性質上極めて当然のことです。なぜなら、ここで内部感覚というのは、自然の植物や動物の中に、自然全体の中に、生き生きと働いているものだからです。植物や動物は、言葉には出しませんが、全く内部感覚によって、そのままに、自然に生きているのです。ですから、しばらく打算や功利の思いを忘れて、自然の中に無心に身をひたし、心をゆだねましょう。その時、おのずから自然の中に働く生命のリズムによって、自分の中の内部感覚が触発され、その生き生きとした実感を感じることができるようになられるでしょう。
こうして親御さん自身が、自分で内部感覚がわかり、感じ、生きるようになりますと、子どもの中にある内部感覚の働きをすぐ感じとることができるようになり、子どもとのほんとうの共感ができるようになります。…
子どもの生命は、いつも伸びよう、伸びようとして、親の生命からの呼びかけを待っています。その呼びかけは、親の内部感覚で実感するものが、子どもの内部感覚に感じられることによって行われるのです。親は自分の内部感覚の声に耳を傾け、子どもの中に宿る生命を直視し、実感し、子どもの内部感覚に訴えることが望まれます。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

自分の内部感覚を育てるための三つの方法。
ひとつは、神社仏閣への参詣。
ふたつめは、呼吸、私的にはできれば丹田呼吸。
みっつめが、自然に触れること。
このどれも皆さんに強くお勧めしたいと思います。
そしてまず親が、あるいは、対人援助職者が、自らの内部感覚を発達させて行くことが、やがて子どもの、あるいは、患者さん/利用者さんの内部感覚を発達させて行くことにもつながっていくことになります。
知識・技術偏重の時代、改めて、感じることの大切さを、それも内部感覚を感じることの大切さを再認識していただき、「感じる力を育てる」「子どもの生命(いのち)に呼びかける」「患者さん/利用者さんの生命(いのち)に呼びかける」という大事なミッションを実践していただきたいと心から願っています。
それが本書に込められた近藤先生からのメッセージでした。

 

 

昨日、ワークショップ開催のお知らせを行った。
そう。
ワークショップ再開」も、八雲総合研究所の企画部門における変革のひとつである。
今後も、年1~2回くらいのペースで(「1対1の個人面談」以外の)「集団で成長を体験して行く場」=「グループサイコセラピーの場」を継続して作って行きたいと思っている。

それに対し、八雲勉強会は、コロナ中も開催を継続し、(一時ハイブリッド(対面+リモート)開催も行って来たが)ベースはリモート開催となっている。
こちらはこれ以上頻度を増やす予定はないが、希望者があれば、参加定員を増やすことはあるかもしれない。
それもまた、出逢うべき人と出逢う機会を増やすためである。

そう思うと、悩ましいのが講演・講義等の開催で、基本は当ホームページ『講義・講演等のご依頼』に書いた通りであり、今のところ、これを変える予定はない。
以前は時々行っていた、対象をさらに広くした講演([例]一般市民を対象とした講演など)開催のご依頼やご要望も時々いただくのであるが、上記の八雲勉強会やワークショップ、そして熱心な小集団への講演・講義と比較すると、どうしても敢えてやってみようという気持ちにならない。
やはり求めている人に語りたいという思いがあるため、今しばらくは、このスタイルのままで行こうと思っている。

その一方で、先にも書いた通り、「新たな出逢いの場」を作りたいという思いもある。
もう何年も対象人数の多い講演や講義をしていないために、明らかに新たな対面の出逢いの機会は減っている。
しかし、不特定多数で誰でも良いかというとなぁ。
ここらが難しいところであるが、もう少し考えさせて下され/何か良いアイデアがあったら面談のときにでも教えて下され。
要は、成長を求める人たちともっと出逢うためにはどういう機会や場があるか、ということである。
いつかどこかで(私の意図とは関係なく)ミッションが降りて来るかもしれない。

 

 

ワークショップ開催のお知らせ。

本当に久しぶりの開催です!
(前回開催は(記憶が間違ってなければ)コロナ前の2019(令和元)年9月28日(土)29日(日)『初秋の緑風苑ワークショップ』でした)
開催日程は、2026(令和8)年7月18日(土)19日(日)の2日間(泊りでも通いでも可)。
ということは、6年9カ月ぶりの開催となります。
場所は、福島県東白川郡鮫川村の農家民宿(詳細は次報以降に)。
車で
来られる方のアクセスはこちら参照。
東北新幹線利用の方は
新白河駅」下車。駅からのアクセスは、車で来られる参加者の方々の有志に協力していただきたいと思っています(ご協力お願い致します <(_ _)> )。

今決まっているのは、ここまで。
ワークショップ参加を心待ちにして来られた方々に、5月中に日程をお知らせしておいた方が良いと考え、取り急ぎ「予報」として掲載致しました。
もちろん、ワークショップに参加するかしないかはあなた次第。
あなたが決めることも大切なワークです。

詳細についてはまた次報で。

 

 

子どもが選ぶことのできなかった生育環境の中で生き残るために、身につけざるを得なかったものがある。
それを身につけざるを得なかったのは小さくて弱い子どもには仕方のないことであるが、最早大人になって、そんなものは必要がなくなったにもかかわらず、いや、それどころか、その人が「真の自己」を生きるにはむしろ邪魔になっているにもかかわらず、なかなか手放せない場合がある。
子どもの頃は、それがないと不安だったんだろうね。寂しかったんだろうね。辛かったんだろうね。
逆に言えば、それがあると安心だったんだろうね、支えられたんだろうね、なんとか生きられたんだろうね。

だから、手放さそうとすると、あのときの不安や寂しさや辛さがよみがえる、亡霊のように。
そして、手放せない、手放さない、しがみつく、大人になっても。
これを「抵抗」という。

で、重要なのはそれから。
自分が「抵抗」している、そしてそれが問題である、ということに本当に気づいているか否か。
そして、その「抵抗」を超えて行きたい、と本気で思っているか否か。

「抵抗」があることが問題なのではない。
「抵抗」は起きるときには起きる。
私にも経験がある。

そうではなくて、「抵抗」していることを認めない、また、「抵抗」を乗り越えて行こうとしないことが問題なのである。

そしてそれは八雲総合研究所で重視する「情けなさの自覚」と「成長への意欲」という2点に直(じか)に関わって来る。
「抵抗」している自分を心底情けないと思っているか否か。
そして、「抵抗」を乗り越えて成長して行きたいと心底願っているか否か。

その二つを満たせば、人間的「成長」のための精神療法の対象となる。
おかしな生き方に、一方では苦しみながら、他方ではそれを手放せず、「抵抗」を続けている人は「治療」の対象となる。
そして「治療」にも踏み出さず、このままでいいかという人生を選ぶのであれば、そのまま生きて行っていただくしかない。

もう大人だからね。
そしてその人の人生は、その人が選んだようになる。


 

 

2026(令和8)年5月22日(金)『潮目が変わるとき』においてお伝えした変革内容につき、少しずつお伝えして行こうと思う。

まず一番の本丸は、八雲総合研究所における個人面談にさらに力を入れて行くということである。
いろいろな潮目の変わりようがすべて、そうせざるを得ないように進んでいる。
改めて思う。
私にとってこれ以上のミッションはない。

具体的変革内容の第一弾としては、「対象」の拡大である。
今までは、対象となる医療福祉系国家資格として、
①精神科医(心療内科医は除く)
②臨床心理士(公認心理師であっても臨床心理士でないものは除く)
③正看護師
④作業療法士
⑤社会福祉士
⑥精神保健福祉士
の6つを挙げていたが、それを
①精神科医(心療内科医は除く)
②臨床心理士(公認心理師であっても臨床心理士でないものは除く
③正看護師
保健師
⑤社会福祉士
⑥精神保健福祉士
⑦介護福祉士
⑧作業療法士
理学療法士
に拡大し、全体で9つとなる

そして、「現在、医療・福祉・保健・教育・保育・産業分野の現場で実際に働いている方に限る」というところは変わらない。

しかし、最も重要なところは、資格よりも何よりもやはり「情けなさの自覚」「成長への意欲」である。
これは当研究所の「人間的成長のための精神療法」を受けるための絶対条件である。
「対象」ページをご参照されたい。

 

 

人生において「潮目が変わる」転機がある。

例えば、私にとっては
大学に入学したとき
結婚を決意したとき
近藤章久の面談を受けるようになったとき
開業したとき
など
そのときなりの自分の考えもあるにはあったが、そんなものを遥かに超えて、どうしようもなくそうなるようになっていた(それ以外はあり得なかった)感がある。
それも当初は、後から振り返ってみて、そうだったんだな、と感じる程度であったが、体験を重ねるにつれ、
ひとつには、間違いなくこっちの潮目に変わって来たな、と確信的に感じるようになり、
もうひとつには、感じる時期も、後からでなく、潮目が変わりつつある時にライブで感じられるようになって来た。

たまたま海流になぞらえて「潮目」と言っているが、風になぞらえて「風向き」として感じるときもある。
というのも、実際に背中に「風圧」を感じるのである、こっちに進め、と。
もちろん背中に風速計を付けてみても、そんな「風」は吹いていないんだけれども、精神的な「風圧」を本当に、リアルに背中に感じるのだからしょうがない。
しかしながら、「潮目が変わる」に比べて「風向きが変わる」と言うと、なんだか自分が風見鶏になったような気がして実際の体感と異なるため、敢えて「潮目が変わる」という表現を用いているに過ぎない。

そして今回、何を申し上げたいかと言うと、その「潮目が変わる」転機が今まさに来ているということである。
今年になってから、特にこの春から、如実にその「風圧」を感じる。
ここまではっきりと感じるのは、我が人生上でも珍しいことである。

その具体的内容は、八雲総合研究所を含めた私の活動全体の動きとして、これから来春にかけて、徐々にお知らせして行きたいと思う。

いずれにしてもそれは、私が自分の未来を“計算”して“私利私欲”で行うことではないため、たとえどんな苦労をする羽目になろうと、世俗的に大成功を収めることになろうと(←これはないと思う)、それがミッションであれば、随う以外に私に選択肢はないのである。

 

 

前回の『五輪書(1)』に続いて、『五輪書(2)』をお届けする。

「一 兵法の目付(めつけ)といふ事
目の付けやうは、大きに広く付くる目也(なり)。観見(かんけん)二つの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専(せん)也。」(水之巻)

(一 兵法において目を付けるということ
目の付けようは、大きく広く付ける目を持つことが重要である。観と見の二つの目付においては、観の目を強く持ち、見の目は弱く持ち、遠いところを近く見、近いところを遠く見ることが、兵法において専(もっぱ)ら努めるべきことである)

目付=目の付けよう=相手の見方においては、目で見るのではなく、心で観る、存在で感じる、ということである。
そうすれば、目の前のことにとらわれず、大きく広く感じることができ、物理的な近い・遠いにもとらわれないで感じ取ることができる。
そしてこれは剣術や兵法だけの話ではなく、我々がクライアントに接する際にも、「観の目つよく、見の目よはく」は極意である。
見=相手(クライアント)を対象物として目で見て観察するだけでは、相手の中で起きていることは深く感じ取れない。
観=心で観る、存在で感じれば、相手の中で起きていることも深く感じ取ることができるのである。
私も「観る」と「見る」を使い分けていたが、この記述に触れて、我が意を得たりであった。

尚、このことについては、『五輪書』の四年前に宮本武蔵が書いた『兵法三十五箇条』においても、
「観見二ツの見様(みやう)、観の目つよく、見の目よはく見るべし」
とあり、武蔵の弟子が書いた『二刀一流極意条々』にも
「見ト云(いふ)ハ、目許(めもと)ニテ見ル事也。観ト云ハ、心ニテ観ル観智ノ事也」
とある。

 

 

「私は、患者さん方とお話しする時に、できるだけいままで得た知識や頭だけによる判断を避け、私の内から湧いてくる心の声にたよります。私自身の内部感覚で、相手の人を感じようとします。そうして私自身の内部感覚が感じたことを患者さんに伝えるのです。
頭で、こう言おうか、ああ言おうかと考えるのではありません。患者さんの言葉を、じーっと、体の内の感覚で受けとめて、感じたことを話し、相手の問に応じるのです。…
私の経験から言いますと、患者さんの訴えや問いを聞く場合に、どう答えようかと頭で考えず、自分の中の素直な内部感覚の促しのままに答えますと、相手の方に、素直に通じることが多いようです。これはどうも、内部感覚から出た私の言葉が、相手の方の頭でなく、その方の内部感覚にふれるからだと感じます。…
ところで…内部感覚によって決める時に特徴的なことは、そこに何にも疑いがないことです。みんな、それで安心して決めています。
普通、頭の判断で決める場合には大てい、そこに何か不安が残ったり、無理があったりするものです。それというのも、損得の計算があったりするからです。その点、内部感覚は生命と直結していますから、純粋で矛盾がなく、自然で統一しています。ですから、それにしたがって決めると安心して確信が持てますので、悔いが残りません。その結果日常生活ものびのびと安心して、しかも生き生きと生きられるのです。…
さて、みなさんの子どもの中には生命があり、その生命には…少なく見積もっても私たち人類の発生以来の長い経験に基づく知恵が宿っているのです。さらにもっと深く考えて、生物以前の無生物の発生にまでさかのぼれば、宇宙的なものともつながりがあるのです。
その生命を感じるのが内部感覚ですから、子どもの生命をほんとうに育てるには、この内部感覚を尊重してあげることが必要で、その子をたくましく、生き生きと育てる上で大切なことになります。そのためには…親御さん自身が自分で、自分の内部感覚を感じられる人でなくてはならないのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

最後のところは「子ども」→「患者さん」「利用者さん」、「親御さん」→「対人援助職」と置き換えることができるでしょう。
まず対人援助職者が自部自身の内部感覚を感じられるようになるということ。
それは、宇宙的な生命(いのち)があなたにどう生きよと言っているかを感じられるようになる、ということです。
そうして初めて、目の前にいる相手においても、宇宙的な生命(いのち)がその人にどう生きよと言っているかを感じられるようになるわけです。
そして内部感覚に沿って生きるとき、生かされるときと言った方がいいでしょうか、間違いなく、何の疑いも迷いもなく、さくらがさくらするように、すみれがすみれするように、生き生きと、のびのびと生きられるはずなのです。
それを親子共に、そして対人援助職者と患者さん/利用者さんが共に体験して行くとき、そこに、なんとも言えない、この世界に共に生かされている妙味といいますか、醍醐味があると私は確信しています。
ねぇ、折角この世に生まれて来たからには、そんな堪(こた)えられない体験をしながら生きて行きましょうよ。

 

さて、次回はいよいよ『感じる力を育てる』も最終回を迎えます。

 

 

親鸞の残した和讃などを読むと、この人の凡夫の自覚はどこまで徹底しているのだろう、と舌を巻くことがある。
そのことをある念仏者と話していたら、その人は笑いながら、「ですから、私なんかはいつも余計に念仏しています。」と言われた。

念仏とは、南無阿弥陀仏と称えること。
阿弥陀仏におまかせする。即ち、愚かな人間は自力では救われようがないため、人間を超えた救いの力=他力におまかせします、ということである。
そうでもしていただかないと、我々、罪業深重の凡夫は救われないのだ。

そして、先の方は「余計に」念仏すると言われた。
自分で自分のことを振り返って、どんなにひどい凡夫だと気づいてみたところで、我々が気づけるのは、ほんの氷山の一角であり、気づくことも、認めることもできない、もっとひどい、もっと重い、もっと病的なところが常に存在するのである。
だから、自分が気づいている凡夫としてのひどさの自覚では、きっと全然足りないであろうから、足りない分も含めて「余計に」念仏しているというのである。

八雲総合研究所において「人間的成長のための精神療法」を受ける「対象」の条件として、「情けなさの自覚」ということを申し上げている。
実は、この「情けなさの自覚」において、上記と同じことが生じて来る。
それは何かというと、クライアントの皆さんは自分なりに、自分の問題や成長課題について内省し、自覚して、その解決と成長のために、八雲総合研究所にいらっしゃる。
しかし、「人間的成長のための精神療法」が始まってみると、遅かれ早かれ、自分で自覚していた問題や成長課題は、ほんの氷山の一角であり、もっと大きな、もっと深い、もっと本質的な問題がその背後に潜んでいたことが顕わになって来る。
勝負はそのときである。
それを改めて自分の「問題」として認められるか否か。
実は、そういう姿勢のことを「情けなさの自覚」というのである。
当初の「情けなさの自覚」などは、ほんの前座に過ぎない。

まさにそのとき、それまでの自分を全否定し、しがみついていたものを全部投げ出す覚悟がないと、ラスボスの登場までは耐えられす、闇の支配に舞い戻る。
それじゃあ、もったいない。

もう一歩でも、二歩でも、何歩でも踏み込んで、親鸞さんのように、光溢れる世界にまで到達させていただきましょうよ、ね。

 

 

『葉隠』『兵法家伝書』の連載が終わり、ぽかんと時間が空いた。
いつの間にやら、本棚から宮本武蔵『五輪書(ごりんのしょ)』を取り出し、手に取っていた。
こりゃあ、取り上げるしかないな。
というわけで今回からは、武士道精神を扱ったものの三冊目、柳生宗矩『兵法家伝書』と並び、近代武芸書の双璧とされる、宮本武蔵『五輪書』を取り上げる。

まずは引用・解説を始めるに先立ち、本書の背景について触れておきたい。

宮本武蔵は、二天一流を創始した江戸時代の剣術家であり、十三歳で初めて決闘に勝利して以来、数々の合戦に参陣したり、京都の吉岡一門や巌流島での佐々木小次郎などとの決闘(生涯で六十余回の決闘)を制したという。
晩年は熊本藩・細川氏に招かれ、当地で没した。
『五輪書』は最晩年に執筆され、武蔵自身は『地水火風空之五巻』『五巻』と呼んでいたという。
また、彼の才能は剣だけでなく、水墨画や工芸品においても発揮された。
武蔵の生涯は、映画やテレビ、舞台などで繰り返し取り上げられてきたが、現代人の武蔵に対するイメージは吉川英治の小説『宮本武蔵』によるところが大きい。

 

では、『五輪書』に入る。
まず「地之巻」から。

「道理を得ては道理をはなれ、兵法の道に、おのれと自由あり。おのれと奇特(きどく)を得、時にあいてはひやうしを知り、おのづから打ち、おのづからあたる、是(これ)みな空(くう)の道理也(なり)。」(地之巻)

(真実を得たならば、(その得た)真実を離れ、兵法の道には自然と自由がある。自然と特別な力を授かり、その時々に当たっては(絶妙の)タイミングがわかり、自然に剣を打ち込んで、自然とそれが当たるのである。これはすべて空の真実である)

道理を得るとは、頭でわかることではなくて、真実を体得するということである。
そうなると、考えて気をつけてやっていることではないため、考えて気をつけてやることから離れて、自分を通して働く力のままにおまかせとなり、そこに自ずとなるようになっていく絶対自由がある。
そうなれば、自分個人を超えた力も与えられるであろうし、その時々において斬り込むタイミングも自ずとわかり、自然に斬り込み、自然にそれが入るようになる。
ここでは「空(くう)」と書いて「働き」と読むということをお伝えしておきたい。
「色即是空、空即是色」(『般若心経』)の「空」もまた同じ。
(形あるものは働きの表れであり、働きが形となって表れる)
アインシュタインの「E=mc2 」もまたその消息を表わしているのである。
地水火風はいずれも空の展開なのである。

 

 

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