八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

あけましておめでとうございます

今年の元旦の言葉は

「明浄正直(めいじょうせいちょく)」

を挙げたいと思います。

「明(あか)き浄(きよ)き正しき直(なお)き心」は、古くから神道で理想とされたこころの有り様であり、それは特別な努力を経て獲得されるものではなく、最初から我々に与えられたこころの有り様なのでありました。

後から付いた余計なものを取り去って、戻りたいなぁ。

自ずと我々にそう思わせるものが、この世界に働いているのであります。

 

令和八年 元旦

 

 

 

「要するに、それだけ人間というものはふんぎりが悪いのです。親自身がそういう自覚を持っていれば…我が子がそういうことをやっている時にわかるわけです。ですから人間の心理には、大人も子どももないということが言えます。つまり大人がちょっと自分でふり返って自分のことを考えれば、子どもの心理も言うこともすぐわかるわけです。大人と子ども、善人も悪人も、人間の心理としてはみな共通なのです。
私はもとより自分が、特にすぐれた人間でないことを知っています。私なりの精一杯の知恵で考えてゆきたいと思っています。愚かな者もまた生きていけますし、また生かされていくのです。愚かな者も賢い者と同様に生かされていくものだ、ということを私は感じます。それだからこそ、ありがたい。善人だけが生かされるのだったら、とてもたまったものではありません。悪人もまた生かされるところがすばらしいと思います。
人間は苦悩や欲望を持った存在、煩悩を持ちながら生きている存在ですが、それこそそういう人間が、やはり自分の中にかかえている煩悩によって教えられるのです。煩悩を経験することによって『ああ、これはつらいなあ』と苦悩を知るわけです。苦悩を知ってはじめて助けを求めるわけです。助けを求めて、助けとられる歓びを知り、そこではじめて素直になるわけです。ほんとうに愚者にかえるのです。愚かさそのものに素直になる。それまでは愚者のくせに多少は賢いつもりで、あちこちとごちゃごちゃやっているのです。…やはり己を知るということは、自分が感じるということしかないわけです。素直になってはじめて自分の愚かなることを悟り、その結果、愚かなままに救われて、ひとつの自由な境地を得られるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

近藤先生は私の前でも「私はもとより自分が、特にすぐれた人間でないことを知っています。」と同趣旨のことを何度もおっしゃっていました。
それが形だけの謙遜ではなく、本気の言葉であることが毎回伝わって来ました。
その徹底した凡夫の自覚。
そしてその上での「
愚かな者もまた生きていけますし、また生かされていくのです。愚かな者も賢い者と同様に生かされていくものだ、ということを私は感じます。」という言葉は、本当に私の生命(いのち)に響きました。
こんなクズでも生きていける、生かされていけるのだと。
もう手を合わせて生かされて行くしかないと思いました。
素直になってはじめて自分の愚かなることを悟り、その結果、愚かなままに救われて、ひとつの自由な境地を得られるのです。」

 

そんな気持ちで来年もまた共に生かされて行きましょうね。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」に続いて、今日は『葉隠(6)』(中・聞書第五・四七)。

ある姫さまが外出時に見かけた他家の家臣たちに比べ、当家の家臣たちはいかにも見劣りすると、殿さまに訴えた。
それに対する殿さまの答え。
「他方の供の者は見掛(みかけ)よき男を選(えら)み、寸尺(すんしゃく)に合はせ、見場(みば)一篇に取り集めたる抱者(かかえもの)にて候(そうろう)。それ故何事と云(い)ふ時は、主(あるじ)をも見捨て迯(に)ぐる者共なり。我等が家中は譜代(ふだい)相伝の者共ばかり故、
見掛の善悪も構はず、在り合はせ候者を供に連れ候故、見物所はこれなく候へども、自然の時は一歩も引かず、主の為に命を捨つる者ばかりにて候。此方(こなた)の家は不男(ぶおとこ)が名物にて候。」
(他家の供の者たちは見かけの良い男たちを選び、背格好に合わせて、外見だけで集めたお抱え者たちである。だから、いざというときには主君さえも見捨てて逃げるヤツらだ。我々の家臣は代々仕えて来た者たちばかりである。見かけの良い悪いに関係なく、そこにいた者たちを供に連れて行ったので、見栄えのするところはなくても、万一のときには一歩も引かず、主君のために命を捨てる者ばかりである。当家は醜男(ぶおとこ)が名物である。

 

余計な解説は不要でしょう。
武士の外見でなく内面の矜持(きょうじ)を表わした逸話だと思います。

「此方(こなた)の家は不男(ぶおとこ)が名物にて候
当家は醜男(ぶおとこ)が名物である

とは、いかにもいかにもかっこいいセリフです。

 

 

八雲総合研究所は、今日で「仕事納め」である。

「仕事納め」と言っても、面談がなくなるだけで、デスクワークはほぼ三百六十五日続く。
この「塀の上の猫」ですら、休みの日はない。

いやいや、そもそも「仕事」という感覚が非常に希薄である。

世の中は「ワークライフバランス」と言うが、それは「ワーク」と「ライフ」が分かれていて初めて成立することである。
「ワーク」は、お金を得るために仕方なく働く、世を忍ぶ仮の姿。だから、できるだけ短い方が良い。
「ライフ」こそが、好きにプライベートを楽しむ本当の姿。だから、できるだけ長い方が良い。
そう嘯(うそぶ)く人もいた。

私に言わせれば、「ワーク」も「ライフ」も「ミッション」なので、両者の区別はない。

いつも原点に戻る。
この人生、何のために生命(いのち)を授かったのか。
何をやって生きて死ぬのか。
私に与えられた「ミッション」は何か。

毎年末の「仕事諫め」を、どうぞその振り返りの機会としてご活用下さい。

 

 

問題はいつも、自分が思っているよりも深いところにある。

問題はいつも、自分が思っているよりも重い。

問題はいつも、あなたが解決したいと思っているよりも、実は解決したくないと思っており、さらに実は解決したいと思っている(表現がややこしいがこれが事実である)。

 

よって、大体こんなものだろうと思って本格的なサイコセラピーを受けると、思ってもいなかった深いところをえぐられることになる。
従って、本格的なサイコセラピーを受けるときは、全く想像を絶するものが出て来たとしても向き合うしかない、という覚悟が要る。

私が近藤先生の門を叩いたときは、気づかないところも含めて自分は問題だらけに決まっているから、もうどうにでもしてちょうだい、という思いであった。
そう。
その大前提として、講演で一度しかお逢いしたことはなかったが、近藤先生への信頼があった。
大手術あるいは長い長い手術になるかもしれないが、この先生は救おうとしてくれるだろう。
何故だか知らないが、そう直観していた、そう確信していた。

優し~く、柔らか~く、傾聴して、当たり障りのないことや、いかにもクライアントが言ってほしそうなことを言うカウンセリングやサイコセラピーの方が、主観的には遥かに安心かもしれない。
でも、問題は本質的に何も解決されない。
時間だけが去り、年を取り、本格的な成長はない。
そんなことを受けるのも、するのも、私のミッションじゃないんです。
はい、

 

 

 

自験例。

クリスマスとその翌日、2日間で6号のケーキをホールの半分食べた。
美味しくいただいた。

どうってことないと思っていたが、お腹が下った。
8回トイレに行った後、今度は吐き気がして来た。
下痢と悪心、糖質と脂質の摂り過ぎによる症状であることは明らかであった

人間、一度やらかすのはしょうがない。
問題はその後。
その経験をどう未来に活かすか、が勝負である。
経験から学ばず、対策を立てず、二度目をやらかすことを本当の「愚か」と言う。

来年はクリスマス・ケーキをワン・ピースに留めることにした(やっぱり食べるんかい!)。

 

実際には、世の中に何度も繰り返す「愚か」者が(自分も含めて)たくさんいることは十分承知している。
しかし、最初からそれでいいと言えば、繰り返す回数はさらに倍増~〇倍増する。
いかに「愚か」者でも、まずは、なけなしの自力を尽くして、とめて、とめようとしてみましょう。
自分を超えた他力におまかせするのは、それからである。

 

 

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を再読した。
実に40~50年ぶりである。

読後感が全然違うのは、こちらが年を取ったからでもあるが、
今回読んだのがドイツ語の「初版」を翻訳した酒寄進一訳・光文社古典新訳文庫版であり、
昔読んだのはドイツ語の「改訂版」を翻訳した竹山道雄訳・岩波文庫版であったことも影響していると思う。

というのも、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』は、18世紀後半のドイツを席巻したシュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang)(疾風怒濤)文学の代表作と言われ、理性重視の啓蒙主義に反発し、感情や人間の解放を重視した活動を代表するものであった。
特にその「初版」は、その傾向を色濃く示しており、「改訂版」になると、その過激さがいくらか穏当なものになっているのだ。

しかしそれよりも感じるのは、自分がこういった作品を落ち着いて俯瞰できるようになったことである。
道ならぬ恋に悩んだ、我の強い青年が、やがて自殺を選ぶという悲劇的な展開も、その巧みな文学的表現に惑わされず、読むことができる。
どこが問題で、誰がどこに嵌(はま)っているか
落ち着いて観通せるのである。
ああ、昔よりは人間を観る軸ができて来たのだな、と本書を読んで、改めて実感することができた。
かつての「疾風怒濤(しっぷうどとう)」は今や「微風細波(そよかぜさざなみ)」となった。

当時のヨーロッパでは本書を読んで自殺する若者が続出し、いまだに有名人の自殺に続く後追い自殺のことを「ウェルテル効果」と呼んでいるほどである。
その影響に驚いたゲーテは「わたしにつづくのではない」との警告を付けたほどだ。

しかし、自分のこころの中に起きていることを観通せるようになれば、心配はいらない。
感情に翻弄されず、自分が何のために生れて、今回の人生、何をやって生きて死ぬのかを感じ取れるようになるのである。

感情の解放は、人間の解放のまだ前座に過ぎない。
 

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』に続いて、今日は『葉隠(5)』(上・聞書第二・一一一)。

「何某(なにがし)は御家中(ごかちゅう)一番のたはけなるが、たはけに自慢して『我はたはけなるが故(ゆえ)身上恙(つつが)なし。』と申したるとなり。奉公の志と云ふは別の事なし。當介(とうかい)を思ひ、自慢を捨て、我が非を知り、何とすればよきものかと探促(たんそく)して、一生成就せず、探促し死に極るなり。非を知って探促するが、則ち取りも直さず道なり
(誰々は家臣の中で一番のアンポンタンであるが、アンポンタンであることを自慢して「自分はアンポンタンであるから身の回りに問題なし。」と言っているという。主君に仕える心構えというのは特別なことではない。主君を大切に思い、思い上がる心を捨て、自分のダメさ加減を知り、どうすればよいかと追い求めて、一生答えに辿り着くことなく、追い求め続けて死んでいくことに極まるのである。自分のダメさ加減を知ってそれでも追い求め続けるのが、取りも直さず、武士の道というものである。)

 

「たはけ」を「アンポンタン」と訳してみましたが、「ポンコツ」でも「愚か者」でも「凡夫」でもよいでしょう。
そういう自分の愚かさを自覚した上で=情けなさの自覚を持った上で、たとえ死ぬまで成長し切れなかったとしても、成長しようとし続けて行くこと=成長への意欲を持ち続けて行くこと、が武士(もののふ)の道であると言っています。
なんだかいつも私が申し上げていることと同じことを言って下さっているようで非常に面白く読みました。
唯一の違いは、これが『葉隠』の場合は、「當介」=忠=主君に仕える武士の道であるということであり、私の場合は、私を私させてくれる生命(いのち)の働きに応えて行く人間の道であるということでしょう。

 

「父親だって昔は子どもだったのです。母親も娘の頃がありました、その頃の気持を思い起こしてみましょう。大人は若い者に対して自分を抜きにして、つい評価したり、判断したりしがちなものです。ためしに子どもを批判する評価の基準を、そのまま自分たちに向けてごらんなさい。それに耐えられますか。そんな無理なことを子どもに言ってもできるわけはありません。…
八雲学園の高校生がある校則違反をしました。あのくらいの年頃の高校生は、自分でしていることがどんなことか、ちゃんとわかっているのです。悪いとわかるけれどやめられない、という気持なのです。こういう気持は大人にもあります。するとその子が一度くらい過ちを犯しても、とがめだてするようなことは私にはできません。互いにそのような気持があるという共感の世界に立ち、しかしやっぱりやってはいけないことはやらないことだとわかり合えば、子どもも納得します。
教育ということを考える場合、教えるということは、こういうことをすればこういうことになるということを教える、つまり知識や情報を与えるということです。しかし育てるということ、教育の育の方は共感の世界でなければ育ちません。どこかに、『先生は、わかってくれる』というところがないといけません。…
少なくともひとたび信頼感を持ったら、どんなに叱っても、こちらの気持を理解してくれます。信頼や共感がないところにきつく叱っては、ただ怖いだけです。『あの先生はわかってくれる。わかった上で言ってくれてるんだ』ということが伝わらなくては、どんな言葉も役に立ちません。…
とにかく、親でも子でも、みんな同じ人間であるという気持、そして人間というものは自分も含めて完全でないということ、完全でないという悲しみを互いに感じるところから出発せざるを得ないのです。…
普通、人は大てい自分を棚上げして言っています。相手に共感する、あるいは相手を認めるということは、その人にいいところがあるから共感したり評価するというようなことではありません。そのような善悪の評価では決してありません。一般に世の中では善いことをすすめ、悪いことを罰するとよくなるという錯覚があります。人間は、他人に注意されたり教えられたりして、そう簡単に変わるものではありません。自分でいろいろ体験して、つまりいろいろな試行錯誤があって、あの人が言ったのはほんとうだと感じた時、初めて自分から変わるのです。それをしっかり感じないと、また誤りを犯してしまいます。何回か失敗して『あ、やっぱりそうですね。わかりました』とほんとうに気づいて変わるものです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

まずは「教育」の「教」と「育」の違い。
「教」は、知識や情報を与えるということ。
それに対し、「育」は、いわば、あなたもわたしも共に凡夫(ポンコツでアンポンタン)であるという「共感」のベースの上に、相手の成長を育んで行くということ。
次に、人間の変化・成長について、「
人間は、他人に注意されたり教えられたりして、そう簡単に変わるものではありません。自分でいろいろ体験して、つまりいろいろな試行錯誤があって、あの人が言ったのはほんとうだと感じた時、初めて自分から変わるのです。
頭でわかっても人間は変わりません。体でわかって、体験的にわかって初めて人間は変わるのです。
従って、それまでいろいろな試行錯誤をするのを待つ、見守るということも必要になってきます。
今回もまた近藤先生は、我々がわかっているようで実はわかっていなかったことを、明確に、かつ、わかりやすく、説いて下さっています。
この姿勢こそが、まさに私たち読者に対する(文章を通してさえ伝わって来る)「共感」の上に立った、私たちの成長を育む「愛」の実例なのでありました。

 

 

面談に来られている人が、早めに着いたので、近くの公園のベンチに座って、時間調整をしていたという。
すると、公園の端っこで、小学校低学年くらいの女の子と若いお父さんとがバトミントンをしているのが目に入った。
小さな女の子の打つシャトルは不安定で、どこに飛ぶかわからず、その度にお父さんは大忙しで飛び回る。
しかし毎回、子どもが打ちやすいところに優しくシャトルを返していた。
それでもお父さんがシャトルを取りそこなうと
「パパ、ちゃんと取ってよぅ。」
と女の子が文句を言う。
「ごめん、ごめん。」
と笑いながら答えるお父さん。
とんでもないところに打った娘が悪いはずなのだけれど、自分の非として受け入れるお父さんの笑顔に愛がある。

それを見ていて涙が出ました。
小さい頃から、私の方がいつも親の不安定な言動に合わせて、カバーして、フォローしていました。
まともな親子はそうじゃないんですね。
あのお父さんのように、親は、子どもが気づかなくても、子どもに合わせ、子どもの非まで引き受け、子どもが楽しく過ごせるようにしてあげるんですね。
うちの家庭は逆でした。
親の失態まで私のせいにさせられていました。

もちろん親は親で、働いてお金を稼いだり、御飯を作ったり、着るもの、寝るところを用意したりと、何もしなかったわけではない。
いや、むしろ相当に頑張ったかもしれない。
しかし、金銭的なもの、物質的なものだけでは、子どもは満たされないのである。

あなたの存在を大切に思っている。

衷心からそう思い、それが具体的言動の端々(はしばし)に現れて、相手に沁みるような関係性でないとね。

折角そのことに気づいたんだから
もうそろそろ自分以外の誰かに合わせ過ぎる生活はやめて
せめて自分だけは自分に寄り添う生活を始めて行きましょうね。

 

 

ある精神科特化型訪問看護ステーションでは、時にメンバーさんと一緒にランチ外食を行っている。
もちろんランチ外食は“形”のひとつであって、その本質は「医療者vs患者」「支援者vs利用者」を超えた「人間&人間」の体験を共にするところにある。
そこでのスローガンは
「何を食べるかよりも、誰と食べるかだ。」
そしてそれは我々にとっても、すべての人にとっても同じである。

「一緒に食べると美味しいね。」

クリスマスが近い。
大晦日が近い。
正月が近い。

本当に過ごしたい人と過ごしましょう。

しかし相手のある話なので、止むを得ず「ぼっち」で過ごすこともあるだろう。
だからといって、埋め草のような相手と過ごすわけにもいかないし、目の奥が笑ってない人たちのパーリーに交じっても余計に寂しくなる。

そんなときは「人間」だけが共に過ごす相手ではない、ということもお勧めしておきたい。
道端の山茶花(さざんか)を手折(たお)って持ち帰り、コップに水を入れてさしても良い。
カーテンを空けて窓越しに月を見上げても良い。
少なくとも、山茶花は山茶花し、月は月しており、自分していない不純な人間よりも時に良き相棒となる。

「一緒に食べると美味しいね。」

 生命(いのち)と一緒に食べる。

 

 

古谷光敏の漫画に『ダメおやじ』という作品がある。

その題名の通り、全く冴えないサラリーマンおやじの話である。
会社でも見下され、蔑(さげす)まれるだけでなく、家でも妻・冬子(通称オニババ)からひどい虐待を受け(今なら間違いなくDVである)、娘(雪子)や息子(タコ坊)からもバカにされている。
余りの辛さから帰宅する度に「神さま、お願いです。この戸のむこうに平和がありますように」と祈るありさまであった。

漫画はその後、12年にも渡る長期連載となり(アニメ化もされた)、ダメおやじも大出世を果たしたりするのだが、私にとっては、初期の虐(しいた)げられていた頃のダメおやじの話が好きである。
その中でも、スズメの涙のようなお小遣いを貯め、ダメおやじが念願の中古車を買う話があった。
朝早くに車で出勤し、出社前のひととき、車内で魔法瓶に入れたインスタントコーヒーをコポコポと魔法瓶の蓋に注いで飲む。
そのときのダメおやじの表情と「ふう。」というひと言が今でも脳裏に焼き付いている。

誰からも非難・攻撃されず、安心して自分が自分でいられる場所。
やっぱりそれは、すべての人にとって必要なのである。
そりゃあ、欲を言えば、自分が自分であることが受け入れられ、大切にされる場所があれば、それに越したことはないけれど、それを望むのは夢のまた夢。
肯定されなくても良いから、せめて否定されない場所がほしいのである。

当時、小学生~中学生であった私が、そんなダメおやじの話に共感するのには、それだけの訳があったのだ、と今になってわかるのでありました。

 

 

十代の頃から蔵書は多かったと思う。
大学がお茶の水にあったこともあり、神田の書店、古書店を巡るとワクワクして、あれこれ買い求めていた。

第一の転機が訪れたのは、大学時代、親と喧嘩し、元麻布のマンションを出て、梅ケ丘の四畳半一間の風呂なしアパートに越さなくてはならなくなったことである。
本棚を置くスペースもなければ、お金もなかった。
古書店に本を買い取ってもらって、なんとかしのいだ。

しかしまた、近藤先生のところに通い始めた頃からだろうか、いろいろなことに興味が膨らみ、蔵書は再び増殖し始めた。
そしてまたもや転居を機に、第二の転機が訪れた。
今度は自分の意志で、蔵書を絞り込もうと決断した。
本当に必要な本、何度でも読み込みたいと思う本以外は持っていてもしょうがないと思ったのである。
近藤先生逝去後のことである。
これまた古書店に買い取ってもらった。

今度こそかなりスリム化できた。
しかしいろいろなことが起きるもので、仕事の関係上、今まで全く接点のなかった分野の本を読むことになり、その本が今、増殖中である。
しかし、今まで二度の経験は生きているわけで、どこまでが一時的に必要な本で、どこからがこれからも必要な本かはわかっている。

よく言うところの、1冊だけ本を持って無人島に行くとしたら、どの本を持って行くか、という問題がある。
あなたなら、どの本にしますか?

私の1冊はとうに決まっている。
…が、最近はその1冊も怪しくなって来た。

本よりも、活字よりも、私の胸の中に、私の生き方の中に、何があるかが重要なのである。

 

 

(以前にも本文の一部を取り上げたが、今回正式に全文を取り上げる)

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』に続いて、今日は『葉隠(4)』(上・聞書第二・一〇七)。

「公事沙汰(くじざた)(=裁判や訴訟)、又は言い募(つの)ること(=主張)などに、早く負けて見事な負けがあるものなり。相撲の様なるものなり。勝ちたがりて、きたな勝ちすれば、負けたるに劣るなり。多分きたな負けになるものなりと。」

 

「勝ちたがって汚い勝ち方をすれば、それは負けるのにも劣ることです。それはきっと汚い負けということになるでしょう。」
勝負としての勝ち負けがあります。
しかし、それだけではなく、勝負の仕方、人間の生き方としての勝ち負けがあるわけです。
たとえ勝負に勝ったとしても、それが“汚い”勝ち方であったならば、それは人間として“汚い”負けになります。
人間の生き方として“汚い”ということは、武士(もののふ)としては万死に値します。
それが『葉隠』の道なのです。


 

ジェームズ・ディーンを扱った作品を観た。

観ているうちに段々気が重くなって来た。
どう観ても、今まで何人も出逢って来た、境界性パーソナリティ障害(BPD:borderline personality disorder)の青年なのである。

現実の彼は、いろいろなトラブルを起こしながら、『エデンの東』『理由なき反抗』(なんという良い題名だろう)そして『ジャイアンツ』の三作を作り、24歳で亡くなった。
スピード超過の交通事故であった。

9歳のときに母親と死に別れると、父親に捨てられ、自分か誰かわからず、演劇にすがった。
自分がなくても、台本があれば生きて行ける。そして、うまくやれば評価された。
BPDの演劇好きはよく知られるところだ。
しかし、演じても演じてもそれは自分ではない。
そして自分が拡散したまま、さして死ぬつもりでもないのに、はかなく死んで行く。
どうせやっぱり生きていてもしょうがない自分の実現の匂いがする。

条件付きで愛された我々は、生きて行くためにとりすがる仮面を容易に手に入れることができた。
しかし、何をしても愛されなかった彼は、安定した仮面すらも手に入れられなかった。
それでも、持って行き場のない寂しさと怒りだけは渦巻いている。
それで安定した人間関係が築けるわけがなかった。

それにしても、精神医学の専門家でもないのに、見事にディーンを演じている俳優には驚いた。
いや、精神医学の専門家でないからできたのかもしれない。
下手な専門家たちよりも、小説家、脚本家、俳優たちの方が、遥かに人間の真実をとらえていることは多い。

そして、その不安定極まりないBPDの彼ら彼女らが(折角そこまで苦しんだのだから、多数派の人たちが腰を落ち着けている「仮幻の自己」ではなく)「真の自己」に着地するためには…。

そのテーマは、彼の作品を涙ながらに観る若者たちが多かったということからして、彼だけのテーマではない、自分を生きることの本質を含んでいると私は思っている。

 

 

「よく、日本人は母性原理に立っている民族であり母性崇拝的である、その点、文化的に父性原理に立っているヨーロッパ人と大きな違いがあるなどと言われます。
一般に母性とは、すべてのものを育み包み込む、愛情にみちたものであるという、一種のロマンチックな考え方があります。そうした考えを裏付けるように、いままでの日本の母親は特に、自己犠牲的なところがありました。そういう点でたしかに、ほんとうに子どもだけに尽くしていたというところがありま
ところで最近は、自己を犠牲にして子どもに尽くす母親もありますが、自分の欲望や考えを子どもを通して実現しようという、少し男性的なところも大分出てきました。一般的に昔の母親は自己犠牲が普通だったのですが、近年は男並みに自己中心的になってきたと言えましょう。
男性は元来が自己中心的ですから、その反対のものを見て非常に賛嘆し、嘆美してきました。上記のロマンチシズムもこうした男性の感情の反映とも考えられます。ところが女性の側も、負けずに自己中心的になってきましたので、表面的にみると女性は意欲的になった、強くなってきたという印象を与え、いままでの母性像から大分変わってきた感があります。この、自己中心的になり、自分の欲望を子どもを通して実現させようという考えが端的に表れているのが教育ママです。…
それは要するに、親の管理のもとに世間並みの、あるいは世間よりすぐれたコースを歩ませようという、功利的な打算に基づいた自己中心的な考え方です。
これは決して、ほんとうに子どもの成長をねがうところの愛情ではありません。世間の価値観を無批判に受け入れ、自分の虚栄心や支配欲を満足させようという態度に他なりません。…
母の愛というものは、子どもの側で感じ、言うことはよいのですが、これを母親が自分の方から、これが母の愛よ、と言うと間違ってきます。…
愛情というのは、子どもなりに第三者からみて、『お母さんはやさしい』と感じられるものです。そのような愛情は、見ていて静かに深い感じがします。母親の知恵がふくまれているのです。
知恵というのは、おのずからその子どもの生命を生かすような知恵ですから、自己中心的な、あるいは功利的な感情によごされたものではない。静かに子どもの成長をみて、わが子の独自の生命を感じとって育てていく、このような知恵をさします。…

よく、子どもは親の言葉でなく親の行動をみて学んでいくとか、親の後姿をみて育つとかいいますが、子どもにとって直感的に感じられる親の落ち着いた生き方、つまり親の内面的な心と外側の行動に矛盾のない姿が、子どもに信頼感を与えるのです。
とかく教育者や宗教家の家庭に非行少年が出ることがありますが、これはその人たちが、倫理とか道徳とか、言葉や概念の世界に住んでいて、言っていることと行動とが矛盾し、自分の正直な姿を出していない場合に起こりがちなことなのです。
『正直にしなさい』と言われて、もしそう言っている当のその人が嘘つきだったらどうでしょう。子どもはものすごい不信感におちいります。そんな父親を持ったら、たまったものではありません。自分のいちばん信じたい人が信じられないくらいつらいことはないのです。
むしろ、ぐうたらおやじでも酒飲みであっても、その自分の姿を認識して、正直な姿を示した方がよおいと思います。
」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

またもや、深いことをさらっとおっしゃる近藤先生です。
男性は元来が自己中心的ですから」…あいたたた。
とかく教育者や宗教家の家庭に非行少年が出ることがあります」…教育者や宗教家だけでなく、精神科医や臨床心理士/公認心理師などの精神科医療関係者を加えてもいいでしょう。
自分のいちばん信じたい人が信じられないくらいつらいことはないのです」…そうだよね。親を信じたいよね。先生も信じたいよね。
そして今日のお話の一番の眼目。
知恵というのは、おのずからその子どもの生命を生かすような知恵です
世俗的な、表面的なことはどうでもいいのです。
「子どもの生命(いのち)を生かす」、この視点があるかないかがすべてです。
本当の意味で、その視点に立ち戻ることができたならば、子どもにどうかかわったらいいか、という答えは自ずと見えて来ることでしょう。

 

 

例えば、依存的な人がいたとする。
そういう人に対して、ベッタベタの依存に応えて、よしよししてあげる。

例えば、回避的な人がいたとする。
そういう人に対して、それでいいよ、無理しなくていいよ、と非直面化と先送りを手伝ってあげる。

そうすれば、本人は喜び、時に感謝され、自分は“良い人”になれる。
しかし、本人の中にある自立する力、勝負する力は阻害され、何もできない人間に仕立て上げられて行く。

これ、一種の“虐待”でしょ。

相手のためと言いながら、自分のために、自分が“良い人”になるために、患者さん/利用者さん/メンバーさんを出汁(だし)に使っているのである。
こういう人たちが対人援助職(看護師、精神保健福祉士/社会福祉士、臨床心理士、作業療法士、精神科医)に多いというのは、非常に大きな問題だと思っている。

本当に患者さん/利用者さん/メンバーさんのためを思うならば、
本当に患者さん/利用者さん/メンバーさんが自立し、勝負できる人間になってくれることを願うならば、
イヤなことも言い、怒ることも言い、泣くことも言わなければならない。

それができない対人援助職者が多いんだよね。

他者の満足、特に他者の主観的満足のために、いかにも相手が言ってもらいたそうなことを言い、してもらいたそうなことをするのは、結局は他者評価の奴隷であり、それによって自分の存在意義を感じるためなのである。
本当に
患者さん/利用者さん/メンバーさんの方を向いて仕事をしていない。

優しい“虐待”は、すぐにそれとわかりにくいため、激しい“虐待”よりも時に罪が重いのだ。


 

ある人が、その不幸な生育史のせいで「他者評価の奴隷」になっていたとする。

褒められれば、嬉しくなり、
貶(けな)されれば、落ち込むのである。

残念ながら、そんな人間はゴロゴロいる。
世の中の人々の大半は「他者評価の奴隷」であると言って良いかもしれない。

しかし、そこからがふたつに分かれる。

「他者評価の奴隷」の波に呑み込まれて、いつまでも一喜一憂を繰り返し続ける人間と、
(ただ「褒めて下さい。」「認めて下さい。」の「他者評価乞食」を続ける人間、と言っても良いかもしれない)
自分がそんな「他者評価の奴隷」であることに気づき、心底情けないと思い、そこから脱したいと必死に願う人とに。

即ち、「他者評価の奴隷」であることが問題なのではなく、自分が「他者評価の奴隷」であることに気づいていないこと、そして、そこから脱したいと切実に願っていないことが問題なのである。
それでは伸びしろがない。

(ちなみに、後者のように、何かにとらわれている自分を、より高次の立場から認知することを「メタ心理学」とか「メタ認知」と呼ぶ人がいるが、私が話しているのは、そんなちょっとわかったような言葉遊びではない。その認知している“当体”は何者なのか、ということが「メタ心理学」や「メタ認知」という言葉を使う人たちにはわかっていないのである。それは“私”ではない。)

上記をお読みになれば、当研究所が「人間的成長のための精神療法」の「対象」として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の両者を(「情けなさの自覚」だけでは、ただの「反省会」「お通夜」「無力感ごっこ」に陥るので不十分である)求めている意味がおわかりになるだろう。

いつまでもこんなくっだらないことにとらわれている自分をつくづくと「なっさけないなぁ。」と思い、「そんな泥沼から必ず脱っしてやる。」と願う人が、我が同志なのだ。

私も人間をそこそこ長くやっているので、そういう人が、世の中にそんなに多くないことはもちろん承知している。
しかし、そういう人がゼロではないことも私は知っているのである。
そこに大いなる希望がある。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目に続いて17回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、あなり最終コーナーを回ってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(4)

ここまで、分析過程を極めて簡略化して述べた為に、何か分析が易々(やすやす)として行われるかの如き感じを与えるかもしれない。しかし、それは実際に於て痛苦と困難に満ちたものである。と言うのは、その行程が第1に患者の無意識にあるものを意識化すると言うことと第2には神経症的態度が、少なくとも、患者がそれによって安全感を得ている態度であり、自らの価値を置き、無意識に同一化している、「仮幻の自己」を中心とする神経症的体系の防衛のための方法でもあるからである。
治療者を訪れる患者の意識には、症状から免(まぬが)れたい気持はあっても、その為に彼の生活態度の根幹である神経症的構造の変革を考えているものではない。従って、症状から出発して、分析が彼の神経症的傾向の露呈を招来する時に、確かに一方に於て、先述した様に洞察のもたらす効果があるが、他方に於て、自分が無意識裡(り)に当然とし、維持せんとする神経症的体系の構造が露呈され、問われ、その価値が批判されると感じるのである。
このことによって、彼の安全感を防衛するための抵抗が無意識裡に生じる。そして、これこそ分析を困難に陥(おちい)らしめるものなのである。この様な抵抗は分析時の遅刻、様々な積極的、消極的表現をとって現われる。これを取り扱う時に重要なのは恐らく次の様なことであろう。
それには第1に、出来るだけ初期に於いて、抵抗がまだ比較的弱い形を取っている時に、分析者が早く initiative を取り、患者に抵抗の存在を気付かしめ、抵抗の内容と意味を患者と協力して吟味し、分析して明確にすることによって乗りこえて行くと共に、抵抗一般に関する患者の理解を高め、それによって、後に起るべき大きな抵抗に対処する態度を準備することである。
第2に抵抗のもとであるところの不安や安全感の脅威を取扱うに当って、それが何の不安であり、何の安全感の脅威となっているかを問い、それが神経症的な自我の感じる不安であり、脅威であることを明らかにして行くことである。
第3に患者が誤って分析者からの批判としてとっているものが、実は他ならぬ患者自身の健康な自己 ー 治療的な力の源泉である ー「真の自己」の発する批判であること、そのもたらす現実認識に基づくものであることを明らかにして行くことが重要である。

 

近藤先生が示されている通り、クライアントは一方で症状を取ってもらいたいと思ってセラピストの許(もと)にやってくるのであるが、他方では自分を守るために身に付けた神経症的人格構造にはしがみついていたいのである。
ここに困難が生じる。
この二つを両立させる道はない。
従って、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことをクライアントは思い知る必要がある。
本当の「治療」はそこから始まるのであるが、そこまでに非常に長い道程(みちのり)を要するのが「臨床」の実際である。
また、八雲総合研究所のように「成長」を目指す場合においても、「症状」こそ存在しないが(存在すれば「治療」対象となる)、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことを思い知る必要があるのは全く同じである。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」とは、そういう意味なのである

 

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