弟は自閉スペクトラム症だった。
小学校から不登校、やがて引きこもりとなったが、親が精神科を受診させることはなかった。
通信制高校からなんとか大学を卒業して就職したが、そこでうつ病になり、自ら精神科を受診して、うつ病は2次障害で、1次障害が自閉スペクトラム症であることが判明した。
振り返ってみれば、父親も自閉スペクトラムで、会社員としてなんとか働いていたが、特性のために、社内での人間関係がうまくいかず、妻子の気持ちにも十分に寄り添うことができなかった。
母親は、厳しい両親に育てられ、実家を脱出することができた結婚後は自由な生活を夢見たが、結局は、子どものことも、夫のことも、自分が頑張るしかない状況に追い込まれた。
そんな中、長女であり、話の通じる娘は、何かにつけ、当てにされた。
そして娘の方も、せめて母親からは愛され、認められたかったので、「お姉ちゃん。」と呼ばれる度に、文字通り、その役割を演じた。
そして、気がつけば、対人援助職に就いていた。
相手のしてほしいことに気づくのはお手のものだったし、他者貢献度=自分の存在意義という構図は変わっていなかった。
そうしてある日気がつけば、自分もそこそこいい年になっていた。
今まで通り過ぎて行った男がいないわけではないが、基本的な他者(特に男性)への信頼感が育っておらず、自分に子育てができるとも思えなかった。
これでは結婚・出産はできない。
(誤解のないように付け加えるならば、女性は結婚し、子どもを産むために生きているわけではない。「できない」のと「できるがしない」のとでは大違いだ。)
なんだか急に寂しくなって来た。
それはセンチメンタルな(情緒的な)寂しさでもあったが、それだけではない、霊的な寂しさもあった。
私が私を生きていない、
自分に生れて来た意味と役割を果たしていない、
ミッションを果たしていない、
それが霊的な寂しさを引き起こす。
で、どーするか。
ようやく今、お姉ちゃんの、いや、〇〇さん(←本名)の人生が始まろうとしている。
いつもそこからが私の出番なのであった。
テレビである獣医が、モルモットの癌の手術を終えた後に
「モルモットとカメレオンって、生きようという意欲があまりないのよ。」
と言って、術後の経過を心配していた。
「ウサギは生きる意欲が強いんだけど、モルモットとカメレオンにはその気概がないというか、諦めるのが早いのよね。」
と言う。
それらのセリフがこころに残った。
そもそも“長寿”は、俗諦(世俗的な真実)的には、めでたいこと、誰もが望んでいることとして扱われて来たが、真諦(絶対的な真実)的に言ってしまうと、それは生への執着=我執に過ぎない。
真諦的には、寿命が長いか短いかよりも、生かされているうちに、生を授かった意味と役割を果たしたかどうか、ミッションを果たしたかどうかの方が重要であり、ただ長く生きれば良いというものでもない。
例えば、31歳で暗殺された坂本龍馬は立派に今生のミッションを果たしたと思うし、
流産で亡くなった赤ちゃんにも、その子が生かされていた間の、そして亡くなったことも含めて、周囲の人たちにいろいろな大切なことを教える意味と役割があると私は思っている。
そして人間においては、大きな手術などの後に、医療スタッフから、生きる意欲を持って頑張れ!と励まされるのは当たり前のことであり、精神免疫学的にも、その方が快方には向かいやすいんだろうと思う。
生への執着が強い方が、確かに長生きしやすいのだ。
それで冒頭の話に戻る。
では、ウサギの方がモルモットやカメレオンよりも、生への執着=我執が強いのか、ということになると、決してそうではないと思う。
ウサギもそのままで、モルモットやカメレオンもそのままで、生かされるままに、生きているだけのことだ。
たまたまウサギの方が生命力が強いように見えるかもしれないが、それは我執によるものではなく、それがウサギのそのまま、催されるままなのであり、
モルモットやカメレオンが生きることに淡白なように見えるかもしれないが、それがモルモットやカメレオンのそのまま、催されるままなのである。
それはウサギの足が“脱兎”のごとく速く、カメレオンの動きがゆっくりなのと同じようなものだ。
冒頭の言葉はアメリカ人の獣医の言葉であった。
「生きる意欲」「気概」「諦める」など、いかにも自我中心の発想で動物のことを解釈しようとしている。
少なくとも動物の生命は、必ずしも人間のように我執で生きているわけではなく、おまかせで生きているのではないかと私は思っている。
お伝えしたいことは伝わったかな?
当研究所のホームページに書いてある通り、私自身は、対人援助職者は、自分の精神的な未解決の問題や成長課題と向き合って成長して行かなければ、本当の対人援助はできない、という立場を取っている。
そのため、日々の面談で出逢う人たちも、一緒に働く人たちも、私のまわりにいる人たちは、有り難いことに、みんな同じ姿勢の人たちばかりなので、接していて頗(すこぶ)る気持ちが良い。
しかし時に、他の“一般の”対人援助職者に接するときがあると、「ああ、こっちの方が多数派だった。」「私のまわりにいる人たちの方が奇特な人たちだったのだ。」ということを思い知らされる。
自分に精神的な未解決の問題がある、成長課題があるということにすら気づいていない人たちである。
自分に精神的な未解決の問題がある、成長課題があるということを認めたがらない人たちである。
自分に未解決の問題がある、成長課題があるということに薄ら気づいていながら、誤魔化し、先延ばし、逃げ回り続けている人たちである。
そういう人たちが、残念ながら、娑婆では多数派なのだ。
んー、話が通じんな。
一向に話が深まらんな。
まるっきり異星人との会話だな。
そんな異星人とはどう話せばいいかは、昔取った杵柄(きねづか)で、十分に心得ているが、もうそんなことはしたくない。
こっちから異星には行きたくない。
君たちが戻っておいで、地球に、君たちの母星に。
元々が異星人ではないでしょ。
そう願いながら、最低限の社交と必要な情報交換だけを済ませて、早々に話を切り上げるのでありました。
基本的に、前情報は鵜呑みにしない。
ひとつの情報として参考にさせていただいている。
児童専門外来をやっていたとき、その子どものお母さんについての情報が入る。
「難しいお母さんですよ。」と。
しかし、実際にお逢いしてみると、哀しみと孤立と疲れの中で一所懸命に生きて来たお母さんに出逢うことがある。
「どこが難しいんだよ。」
確かに、実際に難しいお母さんに出逢うこともある。
しかし、それは難しい精神科医や、難しい臨床心理士や、難しい看護師や、難しい精神保健福祉士や、難しい作業療法士と出逢う確率と余り変わらないと思う。
実際にお逢いしてみなければわからない。
精神科外来で紹介状(診療情報提供書)をいただくことがあった。
中にはなかなかの内容のものがある。
「会話が成立しない。」「一方的。」「わがまま。」「思い込みが激しい。」「頑な。」
たくさんの否定的ワードが並んでいる。
しかし、実際にお逢いしてみると、例えば、特性による生きづらさの中で拙くも一所懸命に生きて来た青年に出逢うことがある。
「どこが難しいんだよ。」
フツーに話を聴いただけで、
「初めて話を聴いてもらえた。」
と泣き出してしまった。
確かに、実際に難しい当事者に出逢うこともある。
しかし、それはやっぱり難しい精神科医や、難しい臨床心理士や、難しい看護師や、難しい精神保健福祉士や、難しい作業療法士と出逢う確率と余り変わらないと思う。
実際にお逢いしてみなければわからない。
勿論、非常に参考になり、有り難い前情報に助けられることもある。
しかし最終的には、自分の眼で耳の五感で、さらには六感で、感じてみなければわからない。
それがもし私からの前情報だったとしても、どうぞそうして下さいな。
テレビをつけると、あるドラマをやっていた、
少し前のことなので、題名もあらすじも忘れてしまったが、今でも覚えている設定がある。
主人公の女性は、人生の多数派の流れにうまく乗れず、自己評価が低く、うつむきがちで、声も小さく、自己主張(自我主張)も弱く、生活できる最低限を細々と働いて、ひっそりと生きている、といった調子の設定であった。
私として気になったのは、そのドラマの脚本が、そんな生き方もありだよね、そんな生き方も良いよね、という、こんな生き方の本人寄り添いの描き方だったことである。
違うってば。
それは良くないよ。
もちろん、人生の多数派の流れに乗る必要もないし、細々と働いて、ひっそりと生きていて行くことに何も問題はない。
バカみたいに元気に生きる必要もないし、ガンガン自己主張(自我主張)する必要もない。
そうではなくて、問題は、この人がこの人を生きている気がしない、というところにある。
これは致命的だ。
この人の本来の生命(いのち)が生きていない。
これでは立派な神経症(的パーソナリティ)である。
これをあたかも“健全な”生き方の選択肢のひとつであるかのように肯定するわけにはいかない。
かつての、あるべき生き方に対して、アンチあるべき生き方が出て来たことに、私は反対どころか、大賛成である。
しかし、だからといって、アンチ多数派、アンチ主流派がすべて正しいというわけにはいかない。
本来自分は何者なのか。
一回しかない人生を、何をして生きて死ぬのか。
自分が生まれて来た意味と役割は何なのか。
そこに着地しなければ、自分に生まれて来た甲斐がない。
先のドラマの女性は、ただ弱々しく、逃げて、隠れて、溜め息ついて、本来の自己を生きていないのである。
そして、それをよしよししてあげることは、この人を殺すことになる。
そしてドラマの中では、優しき“理解者”たちによしよしされていた…。
おいおい。
ドラマの話なんだけどね。
ドラマでだけだよね?
我々は一生のうちに、自分の本当の本音を話せる相手に何人出逢えるだろうか。
「本音」という字が「本当の音」となっている通り、「本当の音」でないと、鳴らした方も話した気にはならないし、受け取った方も聴いた気にはならないだろう。
そうでないと、人と人とが本当には出逢ったことにはならないと思う。
もし自分がこんなことを言ったらどう思われるだろうか、軽蔑されはしないだろうか、忌み嫌われるのではなかろうか。
そんな話をたくさん聴いて来た私としては、
大丈夫です。
人の悪性(あくしょう)、いや、凡夫の悪性がどれくらい酷いかは、大体わかっていますから、男を十人騙して殺して床下に埋めてあります、と聴いても別に驚きはしません。
その事実よりも本質的に大事なのは、そういう自分と向き合う気があるかどうか、そういう自分を超えて成長して行きたいと心の底から思っているかどうか、ということです。
ですから、そういう思いで、本音の本音を話すというのであれば、それだけで、今までの、そして今の自分を超えて行きたい、という大切な宣言になるんです。
となれば、誰がそんな尊い宣言を疎(おろそ)かに扱いましょうか。
共に超えて行きましょう、どんな問題も。
そんな思いで、私は面談を行なって来ましたし、これからも行っていくのです。
「大体のところの…母親の、親の態度というものが、どのぐらい子どもに対して影響するかということを述べました。結局ね、親と子というものは、そこに最初において、愛憎の問題が最初からあるということをまず認識してほしいんです。決して、だから、愛が全てではないわけです。その憎しみを解決するのは何かというならば、私は敢えて言うならば、それは、その、親の、お母さんの、特に、あんまり感情的にならない、落ち着いた態度だと思うのです。
やっぱり、なんといっても、それは、そういう愛憎と言いますけど、その基本は、憎の生まれるのも愛するからです。だから、その愛が、本当にまっすぐに、真っ当に、お互いに通じるような、そういうふうな態度というものが求められるわけです。
私はね、その、子どもを育てるという場合に、一番大事なことは、この子どもの持っているものは、自分の産んだものではあるけれども、それは独立した生命を持ったものである、独立した価値を持ったものであるというものを、ま、預けられて育てているんだという態度を持つとですね、そうすると、ある程度、このね、距離が持てると思うんです、子どもに対して。いいですか。自分のもんだと思うと、自分の思う通りに行かないから腹が立つ、感情的になりますね。
しかし、自分のものだったら、全部自分の思う通りになるかっていうと、私はあなた方にお伺いしたいのは、自分の心は自分の思った通りになりますか? 自分の感情は思った通りになりますか? 自分の心が自分の思った通りにならないのに、どうして人の心が自分の思った通りにできるんですか。こんなこと、できっこないと僕は思う。そのできないことをできるような顔をしてやるから妙なことになっちゃう、ね。
そこで面白いことは、そこで、お母さんがもし落ち着くと、これはお父さん自身に、今日はお父さんがいらしゃらないから、あんまりお父さんのことは言わないけども、お父さんも考えなくちゃいけないことがある。それは別として、お母さんの場合の、そこで僕はひとつの尊厳という、そういうものが必要だと思う。教師においてもそうなの。教師においても、その尊厳ということがなかったならば、我々はここに教育が行われない。尊敬ということがあって初めてね、そこに教育というものが行われるのです。本当に自分の尊敬する人からだけ学ぶんです、人間は。
だから、あの、よくお母さんは、女性は、愛、愛とおっしゃる。愛があれば全て。愛が私の全て、二人だけの世界なんていうことを言ってるけども、愛だけが全てではないのです。愛にプラス叡智ということが必要なの。智慧が必要なの。愛を活かすためには智慧が必要なんですよね。」(近藤章久『親と子』より)
講演『親と子』の最終回。
親の養育態度というものがいかに大きく子どもに影響するか。
そのために、親は子どもの尊い生命(いのち)を預かって育ててるんだという自覚を持つこと。
子どもの生命(いのち)に対して畏敬の念を持たなければならない。
そして親や大人もまた、子どもから尊敬されないと、子どもは親や大人の言うことを聞かないのである。
「本当に自分の尊敬する人からだけ学ぶんです、人間は。」という言葉が胸に刺さる。
これは親だけの話ではない。
対人援助職者全般について言えることではないだろうか。
そして、愛「情」は常に「情」に落ちる危険性を持っている。
愛「情」+叡智/智慧となって初めて本当の「愛」になるのである。
生命(いのち)を育てるには、叡智/智慧が必要なのだ。
これもまたしっかりと認識して子育てにあたられることを望みたい。
◆講演『親と子』に関する内容は、『金言を拾う その1~その4』にかぶる内容でしたが、敢えて引用部分を大幅に増やして掲載致しました。ご了承下さい。
そして、近藤章久先生の講演から正に「金言」を抽出して来た『金言を拾う』シリーズは、今回で一旦終了となります。
他にも近藤先生の講演録としては、本願寺関係のものや専門的なものもありますが、一般的内容ではないため、本欄では取り上げないことに致しました。
そして次回からは、『金言を拾うⅡ』として、絶版となっている近藤先生の著作から金言を抽出して行く予定です。
縁あって出逢った亡師の金言を後世に伝えて行くこともまた、私のミッションのひとつだと思っています。
精神医学的エビデンスは見たことがないが(もしあったら教えてほしい)、
昔から関係者の間では、春~新緑の季節=「木の芽どき」は精神的に調子を崩す人が多い、と言われて来た。
そこでいう不調の中味は、その人が元々抱えていた精神的問題が先鋭化するということであり、必ずしも新しい問題が出て来るということではない。
例えば、うつ病や統合失調症で闘病中の人ならば、その時期に病状が再燃しやすかったり、神経症の人では、いつも以上に、その人に生育史上付いたテーマ(例えば、他者評価が気になったり、ねばならない・べきだ)などにとらわれたりする。
まさに持っていたものが芽を吹くのである。
ちなみに「木の芽どき」というとき、それは新年度やゴールデンウィークといった社会的要因によるものではなく、季節の変わり目といったむしろ気象的な要因によるもの、というニュアンスがある。
人間もまた気象の中で生きている存在なのである。
そうなると、ここでもまた、「で、どーする」という問題が出て来る。
気象は変えられない以上、こちらで調節するしかない。
ひとつは、ただでさえ不調に陥りやすいこの時期は、無理をせず、よく休み、よく寝て、ストレスは可能な限り少なくし、エネルギーもできるだけ温存する策に出た方がいいということだ。
治療中の方は、早め早めの薬物調整が有効な場合もある。
そしてもうひとつ、神経症的テーマについては、逆にその問題と向き合うチャンスにできるかもしれない。
即ち、「ああ、まだこんなことが気になるんだ。」「この問題が未解決で残っていたんだ。」と気づき、木の芽どきになっても、そういう神経症的テーマに翻弄されなくなるような境地を目指したい。
そしてもし神経症的テーマと向き合うのがしんどければ、呼吸や祈りを深める機会にできるかもしれない。
自力でダメなときこそ、他力におまかせすることを体験する好機になるのである。
前々から体調の悪さを自覚しながら、なかなか医療機関を受診しなかった。
いよいよもう我慢も限界となって受信したら、既に手遅れとなっていた。
子どもの不登校、ひきこもりがありながらも、お茶を濁す程度にしか相談機関を利用せず、子どもとは、何度かの大喧嘩はあったが、徹底的には勝負しなかった。
そして気がついたら、8050問題になっていた。
思春期頃から生きる辛さを感じていたが、ちゃんと医療機関や相談機関を利用したことがなかった。
そしてなんとなく対人援助職に就いたが、そこで却って自分の問題が先鋭化して来ることになった。
そして、これからも誤魔化し誤魔化しやり続けて行くのか、ここらで自分と勝負するのかという分岐点に追い詰められているという自覚はあるが、次の一歩が出ず、今も時間だけが過ぎ去っている。
大事なことを何故先送りにするのか、直面化しないのか。
ひとつには、本音を表出することを阻害されて来た歴史がある。
本当の思いを、特に怒りや悲しみを、そのまま出して、親から掬(すく)い取ってもらった経験に乏しかった。
むしろそのまま出すと潰された、否定された、無視された。
小さくて弱い子どもがそんなことをされれば、なかったことにして、もうそれ以上向き合わないようにして、先送りする方法を身につけるしかないだろう。
だから、直面化するには、相応の勇気とエネルギーが必要となる。
そしてもうひとつには、そうやって寄り添われずに育った人間の持つ、否定的なセルフイメージがある。
先送りして先送りして遂に先送りできなくなったときに陥る、その惨憺(さんたん)たる結末の自分こそが、“どうせやっぱりダメな自分”には相応(ふさわ)しいと思ってしまうのだ。
それは慢性的自己破壊行為とも言えるだろう。
でも、時計の針が止まることはない。
あたかも、座して死を待つ、ように時間が経って行く。
その他にも、見栄だとか、虚栄心だとか、いろいろなものが絡むこともあるだろう。
しかし、それが何であろうと、最後にはいつも
で、どーする?
に行き着く。
まだ先送りするのか?
今度こそ直面化するのか?
どちらを選んでもその責任を取るのはあなただが、
少なくともあなたが徹底的に直面化する方を選んだとき、あなたは決して一人ではないということだけは保証できる。
あるジャーナリストの本を読んだ。
異端の新聞記者たちの意地と矜持をまとめた本である。
「従来の取材や編集の在り方を覆(くつがえ)し、かくあるべきとされてきたしきたりを破る。地域の有力者の声に反し、社上層部の意向に従わない。業界内の評判や立身出世に関心を寄せない。…
彼らは…ある一点について忠実だったからこそ『正統』を外れたのではなかったか。…
それは…世の中や読者が新聞に何を求めているかが行動原理のど真ん中にあったということだ。」
彼らはあくまで「どこを向いて仕事をするのか」という「意地」を見せる。
医療や福祉の分野でも事情は全く同じである。
誰を向いて、どこを向いて、仕事をするのか。
何故か私のまわりには、愛すべき「異端」の人たちが多い。
そして著者は言う。
「世の中は新聞に何を求めているのか。新聞にしかできないことは何なのか…。彼らのような異端者が異端でなくなったときに、新聞ははまたよみがえるのではないだろうか。」
上記の「新聞」を「医療」や「福祉」あるいは「精神療法」に置き換えても、そのまま当てはまる。
異端だろうが正統だろうが、少数派だろうが多数派だろうが、関係ない。
人間として真っ当に、与えらえたミッションを果たして行くのみである。
『一遍上人語録』にある
「独(ひとり)むまれて 独(ひとり)死す 生死(しょうじ)の道こそかなしけれ」
の言葉がずっとこころに残っている。
また、一遍は別のところで
「生ぜしもひとりなり。死するも独(ひとり)なり。されば人と共に住するも独(ひとり)なり」
とも言っている。
この「人と共に住するも独なり」は、体験したことのある人には身に沁みてわかることであろう。
それは絶対孤独の地獄である。
ちょろまかしの嘘事(うそごと)、戯言(たわごと)では、この地獄は誤魔化せない。
そこに本当の救いはないのか。
そして親鸞の言葉が届く。
「よろずのこと みなもて そらごと たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ まことにて おはします」(『歎異鈔』)
そこまでいって初めて、念仏のもたらす「まこと」がわかるのである、この存在の根底に響くのである。
そして、そこに
「俱會一処」(『阿弥陀経』) 俱(とも)に一処(いっしょ)に會(かい)する(一緒に浄土で出逢う)
という絶対孤独を超えた、一如の世界が開けていく。
「独(ひとり)」であったのが、「一(ひとつ)」に突き抜けていくのである。
「念仏をすると本当に救われるんですよ、先生。」
体験に裏打ちされた彼女の言葉の重みが私の胸に甦(よみがえ)る。
緑風苑ワークショップや八雲勉強会で長年共に学んで来た、我らが盟友Aさんが今朝逝去されたとの連絡をいただいた。
長い闘病をよく頑張られた。
そして最後までこころを深められ、多くのミッションを果たされた。
我々には、Aさんの生を踏まえて、一人ひとりがどう生きるのかという課題が残された。
“盟友”の残してくれた課題だ。
こころして応えましょうぞ。
合掌礼拝
あるスーパーで売っていたほうれん草のパッケージに
「ぼくはあなたにほうれん草」
というキャッチコピーが書いてあるのを見て、全身の力が抜けた。
「ほうれん草」と「惚れている」のシャレなんだろうが、何故か猛烈に何かを言い返したくなった。
そして考えること1時間。
思い付いたキャッチコピーが
「そんなあなたをズッキーニ」
である。
「ズッキーニ」と「好き」のシャレである。
こんなことを思い付くのに1時間も費やすのは実にアンポンタンだが、まだ気持ちがおさまらない。
さらに1時間かけて思い付いたのが、
チョレギサラダのキャッチコピー
「こんなチョレギにサランヘヨ」
「サランヘヨ」(ハングルで I love you)と「サラダ」をかけたのであるが、こんなことに何時間もかけるのは本当にアンポンタンである。
プロのコピーライターや放送作家なら、何時間かけても良いだろうが、フツーはそうはいかない。
しかし、もしこれがワークショップの場だったら、私は参加者に1日目と2日目の間の宿題として、このような食品に関するキャッチコピーを作って来るように告げるかもしれない。
読者の中で、もし名作を思い付いた方がいらしたら、面談のときにでも教えて下され。
豊かな発想は、自由なこころから生まれます、はい。
「それともうひとつ。まだいろいろ分け方はあるんですけど、重要な、今、大分多い傾向だけを挙げておきますと…よく見るのは、今のが過保護型、あるいは過干渉型と、結果においてはね。そういうことになるんですが、第三にはね、なんかっていうと、つまらないことでギャアギャア怒るお母さんね。感情的瑣末(さまつ)主義という(笑)。これは瑣末的感情主義。大事なことはね、甘くって、つまらないことでギャアギャア言う。ギャアギャア言うってのは感情的ってことですね。それはいろいろ、そのお母さん自身に問題が実は多い場合が多いんです。自分の旦那さんとうまく行かないとかね、お姑(しゅうとめ)さんがどうだとかね、それからもういろいろ忙しいとかね、隣近所との付き合いがどうだとか、お母さん自身がこんなになって、ハチの巣になってるわけですよ、頭の中がね。心の中が安定してない。そういうことが多いんです。本当にお母さんが安定していればこういうことは別にないの。だけど、大抵そういうことが多いんですよ、聴いてみるとね。でね、ですから、お母さんの問題のことが多い。
それは、そういうふうなね、感情的瑣末主義と言ったのは、つまり、つまらないことで、くだらないことで怒るんです。これはね、男の子を持ったら、一番先に、その、馬鹿にされる元だと思うんですよね。男の子はね、そういうね、「なんだこの馬鹿野郎め!」とこう腹の先で思っちゃうんですよ。女に対する軽蔑感が最初にそこで目立つんですよ。母親を見ててね、女の代表ですからね、母親は、男の子にとっては。最初の女のアレですもん、しかも自分が愛着を感じ、憎しみも感じるけど愛着を感じるもの。それが女の代表。だから、昔は、我々の時代は、ね、初恋の人っていうと大抵ね、母親に似た人でしたよ、ね。近頃は違うんじゃないかな。母親と違う、母親と最も違うヤツを選ぶんじゃないかな。そういうことは、これ、皮肉なことですけど。まあ、アレですが。
そういう意味で、その最初のね、非常に感情的なものに行きますとね、これに対してね、ちょうど、特にそれは中学校の高学年から高等学校に入りまして、あの、男の子の中で、理性的に思考する論理性というものが出て来ます。非常に、そのね、これは女性がですね、非常にそのときに同時に感情的なものがね、豊かさが出て来るのと同じように、そのね、筋肉の発達と共に論理的にものを考える、そういうものが出て来るんです。
その頃から母親は、子どもっていうのは、男の子の場合に、どうもわからないと。私のところに来られる母親、お母さんたち、皆そう言われる。男の子の気持ち、私わかりませんわ、とこうおっしゃるんです。わからないはずですね。これはわからないです。けれども、そこにおける、その、普通だったらば、お母さん、これこれなんとかと言って親しく言うのがね、段々軽蔑して、うるせぇ!なんてこと言われる。何言ってやんでぇ!とかなんとか。黙れ!なんていう具合に言うわけだ。そういうのがね、もう恐ろしいとかっていうことになっちゃってね。戦々兢々(きょうきょう)として、どうしていいかわかりませんということになるでしょ。
これはどういうことかというとね、知らないうちにお母さんがね、つまんないことでね、その、くだらないね、感情的爆発をやってる場合が多いわけですよ、ね。自分でちょっとね、省(かえり)みて下さいね。それをやってるとね、馬鹿だな、阿呆だなっていうことになってね、そりゃあね。
それが旦那さんからそう言われたれら、あなた方は、「何よ!私の気持ちもわかんないで!」とこういう具合にこう来るんだ、ね。けれども、自分の我が子から言われたらね、あなた方は堪(こた)えるはずですよ、ね。どうしたんだろう、と思ってね。私はこんなに愛しているのにってなことになっちゃうんだけどね。
そこいらがね、やはりね、非常に大事なとこなんで、そこで、そういうことをやってると、これが内向性になって、何遍もやってるとね、これをやってると、それがね、本当にね、今度は、お母さんが強い人だとしますね、感情的に。この内の方があるかどうかわかりませんが、非常に強くてね、自分の感情を絶対に押し付ける。そうなって来るとね、あの、男の子の場合はね、特にそりゃあ、育たないです。さっき言ったように、非常に女に対して、女性に対して敵意が出て来ますね。内向的になりますよ。その結果ね、その、ま、いろんな意味でね、もう、非常にうちを早く、家出したりね。そんな問題も男の子の場合は起きて来ます。それからさらに、これが敵意でもって、お母さんをぶん殴ったりね。もう、その、まあ、暴力に訴える。そういうふうなことが多いわけですね。
で、そうした結果、結局、そういうことがみんな認められないようになるとですね、あの、みんなおんなじような、類は友を呼ぶと言いまして、おんなじような人と一緒になって、ま、非行に走るというふうなことが多いわけです。」(近藤章久講演『親と子』より)
女性が感情的になりやすいということは、男性が論理的になりやすいのと同じように、ひとつの特性に過ぎないわけですが(これらはあくまでひとつの傾向であって、もちろん感情的な男性も、論理的な女性もいらっしゃいます)、それが感情的な豊かさに発展して行くのか、どうでもいいことにただギャアギャア反応するだけの感情的瑣末主義に陥るか、で雲泥の差が生じて来るわけです。
後者の場合、母親の感情がそれほど強くない場合には、男の子は母親を軽蔑するようになり、母親の感情が強烈な場合には、敵意を示して暴力的になったり、内向的になって来ます。
従って、世のお母さん方は、自分が感情的になりやすいという特性に自覚を持つと共に、それが深く豊かな方に発展して行くことを目指し、浅く瑣末なことに反応しないように戒めて行く必要があります。
そのためにはまず、人間として肚が据わる必要がありますね。
敏感でありながら簡単に動じない。
そよ風にも枝葉が揺れる敏感さを持ちながらも、太い根幹は簡単に揺さぶられない。
そのためにはやはり丹田呼吸が役に立つのではないかと思っています。
本当は怒っているのに、怒っていないようなフリをする人がいる。
いわゆる本音と表出が一致していない人である。
生まれつきそんな子どもはいないので、生育史のどこかでこの面倒臭い生き方を身に付けたのであろう。
しかし、残念ながら、怒っていることは周囲にバレている。
バレてないと思っているのは当人だけである。
眼に出ている、顔に出ている、オーラに出ている。
しかし周囲は気づきながらも、何も言わないものである。
こういう人でも、もし人間的に成長することができたならば、怒っているときにちゃんと「私は今怒っています。」と言えるようになる。
これは正直である。
本音と表出が一致している。
但し、これが過ぎて、思い通りにならないことがある度にいちいち怒りを出すようになる人がいる。
こうなって来ると、ただの垂れ流しである。
正直ではあるが、わがままなのである。
これはこれで面倒臭い。
これがさらに人間的に成長して来ると、怒りはちゃんと出るんだけど、キレがよくなって来る。
長続きしないで、サラサラと流れて行く。
幼児の機嫌がすぐ変わるようなものである。
こうなれば、面倒臭さは随分改善される。
凡夫が目指すのは、こんなところがいい。
そして、ここらあたりまで成長して来ると、抑圧もやりくりも使っていないのに、以前ほど怒らなくなる、腹が立たなくなる、ということも起きて来る。
偽善的に怒らないようにするのではない、腹を立てないように気をつけるのでもない、自ずから、自然に、怒ることが減る、腹が立たなくなるのである。
但し、怒ることがなくなりはしませんよ、凡夫ですから。
凡夫が現実的に目指せる人間的成長は、ここらあたりなのかもしれない。
しかし、ここまで来るだけでも、相当に大したものだと思う。
昨日お話した勉強会に参加されている方々だけでなく、ある期間以上、面談を続けておられる方々を見ていると、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っておられる限り、その before-afterで確実な変化・成長を続けておられることが感じられる。
開業当初は、その変化・成長は、年月が経てば、「人間的成長のための精神療法」など受けなくても、誰でも起こることなのだろうか、と思ったこともあった。
しかし、実際に世の中の、特にある年齢以上の方々を見ていると、残念ながら、子どもの頃からの神経症的問題が全く解決されていないどころか、却ってこじらせて悪化している場合も少なくない。
ご本人に「情けなさの自覚」と「成長への意欲」がない以上、残念ながら、いかんともし難いが、少なくとも片方で、そういう方々と接しながら、もう片方で、面談を続けて来られた方々と接していると、歴然とした違いが感じられる。
そして、その変化・成長した姿に接する度に、よかったなぁ、と心の底から嬉しくなる。
大袈裟な表現でなく、その人の一生が変わったのであるから、こんな深い喜びはない。
ここにサイコセラピストとしての醍醐味がある。
流石に私もバカではないので、それが自分の手柄だとは思っていない。
その人を通して働く、その人を本当のその人させようとする力と、
私を通して働く、その人を本当のその人させようとする力と、
この世界を通して働く、その人を本当のその人させようとする力が相俟って、起こって来る奇跡としか言いようがない。
それにしても、人間が目の前で本来の自分を取り戻し、本来の自分を実現して行く場面に立ち会えるという感動はたまらないですよ。
それは情緒的感動を超えて、霊的感動と言ってよいものだと思う。
しかし、私に与えられた時間は永遠ではないし、お逢いできる方々の数も無限ではない。
むしろそれは、人類全体の数からすれば、微々たるものであろう。
それでも、一人の人生が変わるということは、すごいことなんですよ、ホントに。
それ故に、今回の人生において許される限り、縁あるあなたの変化・成長の瞬間に立ち会いたいと、あなたの人生が変わる瞬間に立ち会いたいと、心の底から願っている次第である。
今日は、ワンシーズン=3か月に一度のハイブリッド勉強会。
今回は[対面参加]が私を入れて3人、[リモート参加]が16人と、会場内は寂しかったけれど、話し始めてしまえば、そんなことはどこへやら。
特に、かつて緑風苑ワークショップなどで深い体験を共にして来た人間にとっては、すぐにあのときの感覚に戻り、まるで目の前で語り合っているような感覚に陥るのである。
そして今回も、レクチャー&ディスカッションの『体得ということについて』で、3時間すべてを使ったが、参加者の成長のための時間であって、予定消化のための時間ではないので、それで無問題(モーマンタイ)である。
詳しい内容については割愛するが、特に、参加者が人間的な成長過程の中で体得して来たこと、例えば、物事の受け取り方が変わった、感じ方が変わった、何かが楽になった、人間の観え方が変わった、世界の観え方が変わった、生き方が変わった、言動が変わった、などについての参加者からの発言が面白く、あんな私が、気がついてみればこうなっていた、あんなあの人が、気がついてみればこうなっていたには、実に、隔世の感がある。
逃げず、誤魔化さず、自分と向き合い続けて来た日々の積み重ねは決して裏切らない。
みんな、成長して来たんです、確実に。
選べなかった生育環境のせいで、後から付けられた神経症的な部分=ニセモノの自分は、いずれも重く、暗く、固く、窮屈であるけれども、それが払い除けられるにつれて出て来る本来の部分=ホントウの自分は、なんと面白く、おかしく、魅力的なことであろうか。
こうして確かに、本当のあなたに、本当のわたしに、逢えている時間は、貴重に過ぎて行くのでありました。
世知辛い娑婆の日々の中で、本当の自分でいられる、こういう時間はあった方がいいなぁ。
それではまた、次回7月のハイブリッド勉強会でお逢いしましょう。
社交不安症(社会恐怖)というこころの病気がある。
古くは対人恐怖とも言った。
その症状をざっくりと申し上げると、注目を浴びるような社交場面にいると、自分が変に思われるんじゃないか、ダメだと思われるんしゃないか、ということが気にかかり、不安でいっぱいになってしまうのである。
これもまた、ある意味、自分が他者からどう思われるかということ=他者評価にとらわれているのであるが、決して高い評価がほしいわけではなく、低い評価だけは喰らいたくないのである。
厳密に診断基準を満たさなくても、こういう傾向を持っている人は、かなり多いのではなかろうか。
そのように、自分がどう見られるか、自分がどう思われるか、自分がどう評価されるか、そういう思いにとらわれているとき、意識は常に“自分”に向いている。
その典型的場面を挙げるならば、人前で発言するとき、発表するとき、プレゼンするときなどに、動悸がしたり、冷や汗が流れたり、声や体が震えて来るのである。
そこで今回は、ちょっとその“向き”を変えてみることをお勧めしたい。
“自分が”“自分が”ではなく、何のため、誰のための発言か、発表か、プレゼンかという、そもそもの原点に立ち戻り、
相手にとって、聴衆にとって、伝えたい内容が、役立つ内容が、少しでもわかりやすく、的確に、伝われば良いな、というスタンスで取り組んでみるのである。
即ち、“自分向き”から“相手向き”“目的向き”に姿勢を変えてみるのだ。
そして、そうやってやってみると、大切な相手に伝えたいことがちゃんと伝わりさえすれば、自分個人の評価なんかどうでも良い、という気持ちにさえなってくる場合もある。
少なくとも、あれほど支配されていた不安がなくなっている、あるいは、格段に減っていることに気がつくだろう。
現実社会には、試す場面はいろいろある。
そのスピーチは、誰のため、何のため。
その講演は、誰のため、何のため。
その学会発表は、誰のため、何のため。
自分が否定的評価を喰らわないためではなく、本来の、誰のため、何のため、に立ち戻って、チャレンジを。
今、ちょっとやってみようかと思ったあなたの中には、少なくとも、今までのあなたを超えて、あなたを成長させようとする力が動き始めているのですよ。
これが今回の自分の人生のミッションではないかと思ってやっていても、現実にはなかなかうまくいかないことがある。
そんなときには、まずそれが本当に自分に与えられたミッションなのか、
それともミッションと思い込んでいるだけで実は自分の我欲からそれをやりたいだけの勘違いなのか、
を見つめ直してみる必要がある。
もちろん後者ならば、もう一度一から、何が自分に与えられたミッションなのかを問い直してみる必要があるし、
もし前者ならば、現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けなければならない。
仏教において菩薩に課せられる修行として、六波羅蜜(はらみつ)=六つの実践徳目があるが、その中のひとつに忍辱(にんにく)がある。
忍耐すること、耐え忍ぶことを指すが、上記の「現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けること」も、立派に忍辱のひとつと言える。
その途中で、いろんな迷いが生じる、不安にもなる、これでいいのか、と思う。
それでも、自らの魂に訊いて間違いなければ、どんな逆境の中にいても耐え忍ばなければならない。
生前全く評価もされず売れもしなかった芸術家なんていうのは、その典型的な例かもしれない。
それでも創作をやめてはならない。
何故ならば、それがミッション=今回の人生で生を受けた理由であるからである。
しかし、基本的には大丈夫なのである。
それが本当にミッションであれば、なんだか知らないけれど、支えられる、持ちこたえられるようになっている。
そう。
忍辱する主語は「私」ではない。「私」=凡夫なんぞに忍辱する力はない。忍辱する力もまた「私」に与えられるから忍辱できるのである。
六波羅蜜はすべて、他力によって行われるということを知らなければならない。