テレビでPICU(Pediatric Intensive Care Unit:小児集中治療室)のドキュメンタリーをやっていた。
小児外科のドキュメンタリーを観たときも同じことを思ったが、画面を見ながら、自分にはできないな、と思った。
自分が治療に関わった子どもが目の前で死んで行ったりしたら、とても耐えられないと思ったからである。
もちろんそういう反応が多分に私の個人的問題に由来しており、
そもそも人間の力で人を生かしたり殺したりできるものではない、ということは百も承知である。
自分が感情反応を起こしやすい人間であることはよくよく意識して来た。
喜怒哀楽が大きく、長引きやすいのである。
感情反応が豊かなことを“深情け”と称して、むしろ良いことのように言う向きもあるが、行き着くところ、それは我の反応に過ぎない。
思い通りになれば喜び、思い通りにならなければ怒るか悲しむのである。
誤解のないように付け加えておくと、その我の反応が起きること、喜怒哀楽が起きること自体に問題があるわけではない。
何が起きても感じないようでは、それは不感症かよくある似非(えせ)悟りである。
そうではなくて、起きた感情反応が過剰であったり、尾を引くことが問題なのである。
健康な我は、サラサラと消えて行く素直な感情反応を引き起こすだけであるが、
病んだ我は、ネバネバとした過剰で長引く感情反応を引き起こす。
そういう意味で、多くの面では、お蔭さまで、健康な我を味わえるようになって来たが、子どもの苦しみや死だけは、いまだに私の中に病んだ我の反応を引き起こすのだ。
それがどこから由来するかは既に分析済みである。
しかし、知的にわかっていても、まだ体験的に解決されていないのである。
それが私の成長課題だな。
課題は永遠にあり、成長もまた永遠に続く。
そしていつも、こんなところに留まっているつもりはない。