八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

2022(令和4)年7月16日(土)『不運』

時々運の悪いことが起こる。

一つひとつは大したことでなくても、一日に何度も起きて来ると、ちょっと気持ちが凹んで来る。

若い頃、不運は一日に三回起こるまでは気にしないようにしよう、と思っていたことがあった。

そう思うと、三回起こることはまずなく、ちょろまかしのやりくりではあるが、めげないで済んでいたように思う。

その後、上には上がいるもので、桂米朝の落語を聴いていたら、

弱り目に祟(たた)り目、泣き面に蜂、貧すりゃ鈍する、ワラ打ちゃ手ェ打つ、便所へ行たら先ィ誰か入っとる」

という件(くだり)が出て来た。

五回までは笑い飛ばす勢いだ。

しかし考えてみれば、それでもまだ回数の話であり、

「不運なこと」=「思い通りにならないこと」が気に入らない、という根本姿勢は何も変わってはいなかった。

思い通りにならないことが気に入らない、というのを、古来「我(が)」という。

「我」は思い通りにならないのがイヤなのである。

やはり良寛さんのあの言葉が浮かんで来る。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候(さふらふ)
 死ぬ時節には死ぬがよく候
 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

選り好みして、イヤがる「我」がなくなれば、何が起ころうとも「災難」「不運」はなくなる。

仏法には無我

蓮如さんもまた同じであった。

そして我らアンポンタンの凡夫の身としては、

思い通りにならないことにちょっとガッカリしながら

それでもそれを超えた世界に向けて、そっと手を合わせるのであった。

2022(令和4)年6月27日(月)『テープ起こし』

八雲勉強会のために近藤先生の講演記録をテープ起こししている。

テープ起こしという作業を行う度に思い出すエピソードがある。

近藤先生のところへ毎週面談に通っていた頃、師からテープ起こしを頼まれたことがあった。

某大学の方々と近藤先生との間の対話のテープなのだが、不思議なことに、既にその人たちによってテープ起こしされているという。

では何故、私が?

渡されたテープ起こし原稿に目を通してみて、すぐに理由がわかった。

テープ起こしになっていないのである。

ひとつ目には、知識、教養のなさが余りに酷い。

先生のお話は、精神分析、精神療法、心理学はもとより、仏教、キリスト教、儒教、神道、古文、漢文、歴史、哲学、文学、政治、英語、ドイツ語などの言葉が縦横無尽に出て来るのだが、それがまるで空耳アワーのように誤って書き取られている。

今だに覚えているものだけでも、「キルケゴール」が「キュエルゴール」、「フルブライト」が「フルグライト」、「Kondorieren」が「近藤リネン」などなど。

これは酷い。

誰か一人でやってこうなのか、グループでチェックしてもこうなのか。

誤解のないように付け加えるならば、私個人は知識や教養にそれほど価値があるとは思っていない。

それらは所詮、受け売りのデータベースのようなものである。

本質は、体験と人格。

ここで何が問題なのかというと、自分に知識や教養がないことを自覚せずに、テープ起こしをしてしまったことが問題なのである。

例えば、私はスペイン語の仕事は受けない。自分はスペイン語ができないという自覚があるからだよ、セニョリータ。

できないことは(できない自覚を持って)できる人にお願いした方が良い。

しかし、二つ目の問題の方が重篤である。

そのテープ起こしされた文章は、文章としては整然と整理されていて、上記の問題を除けば、一応の意味は通るのである。

だが、近藤先生の息づかいというか、躍動感が死んでいるのである。

これでは先生のミイラである。

理性的にはわかるが、情緒的に、霊的に響いて来ないのだ。

所詮は、読む文章なので、テープを生で聴くのとに差があるのは当然だ。

しかし、それでも表せるニュアンスがある。

例えば、

「私はそのとき非常に感動した。」

でも良いのだが、テープを聴けば、

「私は、まぁ、そのときにね、非常にもう感動したんだよねぇ、う。」

となる。

そして、できたテープ起こしの原稿を先生のもとにお届けしたとき、一つ目の問題点よりも二つ目の問題点を指して、「僕の感じがよく出ている。」と笑って喜ばれた。

以後、その原稿は私と先生との二人だけのものとなった。

25年以上も前のエピソードである。

そして私は、今日もそんな調子でテープ起こしをしている。

2022(令和4)年6月26日(日)『読者』

私がこの『塀の上の猫』を書くとき

志を同じくする方々には是非読んでいただきたいと思い

志が同じでない方々には一行も読んでいただきたくないと思っている。

私のミッションは前者にある。

2022(令和4)年6月18日(土)『何のための八雲総合研究所か』

そもそも、何のために今の形で八雲総合研究所を開業しているのか、つらつらと振り返ってみた。

それはホンモノの対人援助職者を育てるために他ならない。

日本全国(世界中?)に見られる、自身の問題山積みで、同僚や当事者までにも迷惑と悪影響をかけ通しの似非対人援助職者の跳梁跋扈にはもううんざりなのである。

ホンモノの対人援助職者となるためには、いわゆる専門的な知識や技術だけでは全然足りないのだ。

いや、ホンモノの対人援助職者にとって知識や技術は本質的なものではない。

むしろ二次的なものに過ぎない。

場合によっては、自分の問題をちょろまかすための隠れ蓑にすらなる。

であるから、文献上の勉強はもちろん、浅薄な研修やスーパーヴィジョンではお話にならない。

ホンモノの対人援助職者の本質はズバリ、その人の人間性、人格である。

絶対にそうである。

それ以外にない。

その人間性や人格を磨くために、自分の内面と真剣に向き合い、自分の成長課題や問題を乗り越え、人間的成長を図る場所が、八雲総合研究所なのである。

八雲総合研究所が対人援助職者だけを対象とした機関に改組される前から通っておられる一般市民の方々も少なからずいらっしゃるが、人間的成長のための通っておられるという点では、基本的に違いはない。

ただ、対人援助職者がホンモノになれば、その良き影響は甚大である。

その人の人間的成長によって、救われる当事者が飛躍的に増えることになる。

そのために私は今の形の八雲総合研究所を開業しているのである。

本気の方はどうぞ申し込まれたし。

「対象」はホームページに書いた通り。

厳密にその通りで、例外はない。

私も段々いい年になって来た。

出逢いの縁は永遠ではない。

つくべき縁はつくべし。

そして他ならぬ私自身の成長も皆さんと共にある。

我々の人間的成長は死ぬまで続くのである。

2022(令和4)年4月21日(木)『引退』

北勝旺から葉書が届いた。

 

「このたび令和四年三月場所をもちまして引退することになりました」

 

入門したときから、いつか来る日ではあると思ってはいたが、とうとうその日が現実に来てしまった。

 

あのこと、このこと、あの人のこと、この人のこと、などなど、いろいろな想いが胸の中を去来する。

 

中学を出てから、29歳になるまでよく頑張りました。

 

まずはゆっくり休んで

それからまだ前途洋々の未来について考えれば良いと思う。

 

お疲れさまでした。

2022(令和4)年1月19日(水)『未熟・過熟・熟し頃』

ある人と話していて、その人の抱える問題点が観えるときがある。

そのことにちょっと触れてみる。

「そうなんですよ!」

と目を輝かせて喰いついて来れば、“熟し頃”である。

既に「情けなさの自覚」がある。

そして「成長への意欲」もある。

話が深まる。

内省が進む。

成長の可能性が高まる。

少なくとも今、八雲で面談している方々は、そういう方々(のはず)である。

それに対して

「そうなんですか?」

と来る人がいる。

この「か?」が出るようじゃあ、まだ“未熟”である。

話が深まらない。

内省の準備ができていない。

成長はまだ先である。

まだ「情けなさの自覚」に乏しいのである。

八雲に来る時機ではないな。

良い・悪いの問題ではない。

まだ果実が青いのであるから熟すまで待つしかないのである。

そして三番目。

そう言われて

「わかってるんですけどね。」

と来る人がいる。

この「けどね」が来るようじゃあ、“過熟”である。

薄らわかっただけで、もう諦めてしまっている。

訳知り顔の分だけ質(たち)が悪い。

「情けなさの自覚」も中途半端(心底情けなくはない)、「成長への意欲」も中途半端(なんとしても超えようとはしていない)なのである。

このまま果実が腐って落ちて来世を待つか(来世があるのかないのか知らないが)、

奇蹟的に踏ん張り直して、精一杯向き合い、改めて戦う気になれば、再生できるかもしれない。

これもまた本人次第である。

ちょっとした日々の会話から、そんなことが観えるときがある。

2022(令和4)年1月18日(火)『14年』

毎年、単発講義、集中講義、連続講義などいろいろ頼まれるが、先日、ある学校での今年度の講義が終了した。

今回も新型コロナウイルス感染症の影響は大きく、終わってみれば全体の半分くらいがリモート講義で、対面になるはずだった最終講義も急遽リモートに変わった。

それでも今年度の学生たちの積極的な姿勢のお蔭で、講義は毎回やりがいのあるものであった。

ありがとうと御礼を言いたい。

もっと対面で一人ひとりと話したかったが、こればかりは致し方ない。

以前は最後に話せるチャンスとして謝恩会があったが、謝恩会自体、この3年間、開かれていない。

ここまで来たら、国家試験の合格と未来の活躍を祈るばかりである。

 

そしてこの学校での講義は、次年度(令和4年度)で最後となる。

科の学生募集を行わなくなるそうで、学生数は増えていたが、何らかの判断があったのであろう。

それもまた縁。

ここでもまた、付くべき縁は付き、離るべき縁は離る、である。

振り返れば、この科を教え始めて13年になっていた。

卒業生は数百人になろう。

最初は夜間の開講だったなぁ。

これまでのあの顔この顔が浮かぶ。

今となっては、各人がそれぞれの人生で自分を生きていることを願うだけだ。

そして次年度14年目でいよいよ終わる。

全部が最終講義だと思う。

いやいや、もとより一期一会。

講義でも、精神療法でも、今ここにいる私が、今ここにいるあなたと出逢って行くだけであった。

2021(令和3)年8月3日(火)『法灯』

自由が丘に行く所用があったため

足を延ばして

約4年ぶりに八雲を訪れてみた。

かつての近藤邸(近藤先生のご自宅、そして近藤クリニックのあった場所)。

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そして私が面談していた部屋(左が私の椅子)。

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それが今、こうなっていた。

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この光景を目の当たりにして

情緒的にセンチメンタルにならなくもないが

私が引き継いだのは、元々場所などではない。

法灯、真実の灯である。

前を向いて進む。

2021(令和3)年5月23日(日)『ね。』

精神医療福祉関係の対人援助職者からよく聞く言葉に

「患者さん(メンバーさん)と話しているときが一番楽。」

というのがある。

誤解のないように付け加えると、対人援助自体が楽なはずはなく、患者さん(メンバーさん)一人ひとりによって、さまざまな苦労を伴うが、

「患者さん(メンバーさん)と話している方が、同じ対人援助職者と話しているよりも楽。」

というのが正確な意味である。

これって、どゆこと?

それだけ

病識がなく

問題がある

対人援助職者が多いということである。

おいっ!

それなのに

いや、それどころか

自分は健康だと思い

さらには

自分が支援する側にいる

なんて思い上がるのは

やめた方が良い。

凡夫なんです

ポンコツなんです

問題だらけなんです。

だからこそ

対人援助職者は

成長しましょ

自分の問題を見つめて

成長しなければならないんです

凡夫なりに

ポンコツなりに

牛歩でも

蟻の歩みでもね。

一緒に働いていて

共に支え合い

共に成長できる

気持ちの良い職場にしましょうよ。

ね。

2021(令和3)年4月19日(月)『来るべき人』

当研究所において行われる「人間的成長のための精神療法」の「対象」については当ホームページに書いてある通りだが、現実に当研究所に「来るべき人」については、その経験年数によって大きく以下の二つに分かれる。

(1)ひとつは、新卒の人、入職してまだ年数の浅い人。

「鉄は熱いうちに打て」で、自分自身に対して、精神医療福祉というものに対して、素朴かもしれないが重要な問題、課題、テーマを感じている初期のうちに、本当の自分というものを、ホンモノの人間観、世界観、成長観、治療観を明確にして行く必要がある。

れらをちゃんと掴めているか否かは、その人の人間としての、あるいは、対人援助職としての一生を左右する。

泥に染まる前に自分自身と方向性を掴んでおくことができれば、迷わないで進んで行ける。

そんな人はできるだけ早いうちに話しにいらっしゃい。

(2)そしてもうひとつが、対人援助職としての経験年数はあるが、ずっと自分自身について、あるいは、精神医療福祉というものについて、根本的な疑問や違和感を抱き続けて来た人。

こういう人にも大いに可能性がある。

泥に浸かっていても染まらなかった人である。

この機会に改めて、本来の自分というものを、ホンモノの人間観、世界観、成長観、治療観について見直してみよう。

話してみて

「やっぱりそうですよね。」

「自分の方がおかしいのかと思ってました。」

という人は多い。

そういう人は、これ以上まわりに騙されないため、振り回されないために、自分が自分であることの幹を太くして行かなければならない。

そんな人はどうぞ早めに話しにいらっしゃい。

職業人生も一生もそんなに長くないから早い方が良いと思いますよ。

そして(1)(2)どちらも私のミッションである。

今生で出逢うべき人を待っている。

2021(令和3)年3月22日(月)『花あかり』

春は進み、サクラだけでなく、コブシやモクレンも花期を迎えている。

夜道でそういった白系の花々を見上げるとき、「花あかり」という言葉を思い出す。

花自体が光るわけではないが、まるで灯りをともしたように明るく見えるのは不思議である。

そんなことを思っていたら、昔読んだサマーセット・モームの小説の中に「interior light」(内なる光)という言葉があったのを思い出した(以前どこかで書いた気がする)。

花だけでなく、人にもまた光がある。

そんな「人あかり」はきっと、その人がその人であるときに、その人を通して放たれる光なのであろう。

いや、そうではないな。

その人を通して働いている光こそが、その人をその人させているのかもしれない。

2021(令和3)年2月18日(木)『肛門を締める』

変な題だが、なんのことはない、丹田呼吸の話である。

深呼吸でもなく、腹式呼吸でもない、丹田呼吸については、ご希望があれば、面談のときに一人ひとりご説明しているが、今回はその要点のひとつ、「肛門を締める」ことについてお話したい。

丹田呼吸において、肛門を締めることは非常に重要である。 

中でも、肛門を締めるポイントに二つある。

ひとつは「呼気」、息を吐くとき。

もうひとつは「吸気」、息を吸うとき。

呼気・吸気の両方で肛門を締めて良いのだけれど、その人その人によってまずどちらに重点を置くかが違って来る。 

近藤先生も、講演によって、人によって、時機によって、力点を変えておられた。

一般の講演などでは、呼気のときに肛門を締めることに力点をおいて話されることが多かったが、

例えば、私の場合には、吸気のときに肛門を締めることから教えて下さった。

では、両者の違いは何か。

(1)呼気、息を吐くとき、肛門を締めながら、どこまでも息を吐き出して行く。

息を吐くことの徹底のために肛門を締める。

そのとき吐き出して行くものは何なのか。

我々のとらわれや執着や我(神経症的自己中心性)を吐いて行くのである。

よって、とらわれや執着や我の強い人は、まず呼気中心に肛門を締めて行けば良い。

肛門を締めて締めて締めて徹底的に吐いて行く。

(2)もうひとつは、吸気、息を吸うとき。

呼気で息を吐き切れば、吸わずとも吸気は自然に入って来る。

ゆ〜っくり深く大きくどこまでも入って来る。

そして全身に入り切ったときに、全ての気を丹田に圧縮して行く。

このときに肛門を締める(吸気の最初から締めるのではない)。

締めながら圧縮して行くと、丹田(下腹部)に気の塊が感じられて来る。

その実感が重要なポイント。

よって、肚が据わること、ブレないこと、揺さぶられないことを養うには、まず吸気中心に肛門を締めることを練習されれば良い。

私のところに個人面談で来られている方たちの経験では、こちらから入った方が良い方たちが多いため、私は吸気のときに肛門を締めることからお勧めしている。

…と書きながら、体験に属することを文章では伝えるにはどうしても限界があるため、不明な点があれば、面談の際に直接、お尋ねあれ。

2021(令和3)年2月15日(月)『面談頻度についての確認』

当研究所における面談頻度は「月1回以上」ということを原則としています。

これは、今までも書いて来た通り、月1回以上の頻度でなければ、実質的な人間的成長には結びつかないという経験に基づいています。

(さらに「本格的な『精神療法』のトレーニング」を希望される方は、週1回以上の頻度ということになります)

また、どうしても予約を入れられない月がある場合には、前月か翌月に月2回以上の予約を入れることでカバーすることも可としていますが

これは救済措置であり、面談のない月が繰り返されたり(年3回以上)、2カ月連続で面談のない月が生じた場合には、自動的に面談終了となります。

(こちらから「もしもしそろそろ危ないですよ」とお知らせすることはありません)

そしてセラピストとの間で、将来、面談に復帰する約束がない限り、一旦、面談終了になった方の面談再開はありません。

「義務」でも「強制」でも「縛り」でもなく、自分の「情けなさの自覚」と「成長への意欲」のために、月1回以上は面談に通わないではいられない、という心的状況になければ、当研究所で面談を受ける意味はありません。

これは、食べないと、飲まないと、息をしないと生きて行けないように、毎週面談に通わないではいられなかった私自身の体験に基づいて決めた当研究所の鉄則です。

元より、名利のためではなく、私に与えられたミッションを果たすために始めた研究所です。

求めて来る人は来る、来ない人は来ない、どちらかで良いのです。

そして今になって、私の思い、いや、私を通して働く願いが形になり始め

求めて来続ける人たちの確かな成長と集団力の手応えを感じ

ますますこの道で間違いなしとの確信を得ています。

来るべき人よ、来るべし。

ただそれだけ。

2021(令和3)年1月25日(月)『体験』

近藤先生が時々「彼は学者だな。」と言われることがあった。

それは知識はあるが“体験”がない、という意味であり、

そこには、残念ながら本当のことがわかっていない、というニュアンスがあった。

 

鈴木大拙がアメリカで大乗仏教について英語で講義した記録がある。

それを日本語に訳した学者が、この内容はいろいろその成立に問題があると言われる『大乗起信論』に拠っているから真に大乗仏教について語ったものではない、という趣旨のことを書いている。

こいつも学者だな、と思った。

知識はあっても“体験”がないのである。

“体験”があればわかる。

『大乗起信論』を誰が書いたか知らないが、馬鳴(めみょう)に仮託して間違いなく“体験”がある人物が書いている。

それは釈尊に連なる“体験”なのだ。

よってこれは真実の書である。

それをまた“体験”のある大拙が説いている。

それがわからないか。

それを読めないのか。

『大乗起信論』がヒンドゥー教の影響を受けていようといまいと、どうってことはない。

そこに書かれていることが「一人残らず必ず救う」という本質を伝えているかどうかが問題なのである。

 

他にも例がある。

『法華経』という仏典がある。

亀茲(きじ)国の僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマ―ラジーヴァ)によって漢訳された仏典が広く使われてきたが、サンスクリット語で書かれた経典が見つかり、学者たちが翻訳してみると、漢訳には随分と訳者の手が入っていることが明らかになった。

問題はそこからである。

学者たちは鬼の首を取ったように、その漢訳の問題点を指摘した。

やっぱり学者なのだ。

よくその漢訳を読むべし。

鳩摩羅什には“体験”があるではないか。

それもまた釈尊に連なる“体験”である。

だからその翻訳もまた“仏説”と言って良いのである。

それがわからないか。

それが読めないのか。

従って、読む人が読めば、そのサンスクリット版よりも漢訳の方が宜しいのがわかる。

 

“体験”がないというのは、とてもとても悲しいことなのである。

確実に道に迷う。

学者というのは、一度も海に入ったことがないのに、研究室で海水の分析をして海について語っている連中という気がして来る。

入ったことがないんじゃあ、わかんないよ。

いいから、一度海に入ってみなよ。

そして海のなんたるかを全身で“体験”せよ。

 

かつて近藤先生がホーナイのもと、禅に関する講演を行ったのを聞いた鈴木大拙は自宅に近藤先生を呼んで、本物かどうか確かめようとした。

そのときの言葉は

「で、君は何か“体験”があるのかな?」

であった。

もちろん大拙は近藤先生が入室した瞬間に、この男に“体験”があることは見抜いているのである。

こうでなくっちゃあ、面白くない。

 

尚、学者の名誉のために言うならば、学者の中にも稀に“体験”がある人もいる。

井筒俊彦、玉城康四郎などはその例である。

近世には香樹院徳龍のような稀有な学僧もいた。

私が寡聞なだけで他にもいらっしゃるだろう。

「理性は霊性の僕(しもべ)」であるが

僕(しもべ)を上手に活用している人たちもいるのである。

(但し、その“体験”に浅深があることは否めない)

しかしどこまでいっても、“体験”なき知識は、受け売りのゴミであるということを忘れてはならない。

妙好人を思い出せ。

彼ら彼女らに知識はない。

しかし本物の“体験”がある。

“体験”のみが真実に導いてくれるという絶対事実は揺らぎはしないのである。

 

 

◆追伸

我らが北勝旺、初場所、見事に3連敗からの4連勝で勝ち越しを決めた。毎場所、毎場所、一番、一番、決して諦めない姿勢は立派である。元より諦める選択肢はないのだけれど、それを口先でなく実践してみせるところが立派なのである。お疲れさまでした。

2021(令和3)年1月1日(金)『元旦』

ずっと傷つけられ、苦しめられて来た人がいる。

そして今も、傷つけられ、裏切られ、苦しめられている人がいる。

そんな人に私は

相手を赦(ゆる)せ

相手を愛せ

とは言えないよ。

そしてこれからもずっと

甲斐のない

報われることのない

気づかれることのない

奉仕を一方的に続けろとは

私には言えないよ。

でも時々

何かが

そうしろと言うんだよね。

そして時々

何かが

何ものをも上回る

量(はか)りしれない歓喜(よろこび)をくれるんだよね。

私には言えないけれど

“何か”だったら言えるかもしれない。

“あの人”だったら言えるかもしれない。

 

そんなことを思わせる

元旦の青い空でした。

2020(令和2)年12月18日(金)『湯たんぽ』

いよいよ本格的な冬の到来である。

寒い季節は余り得意ではないが、暖かさの有り難さを実感するという意味では、それもまた四季の豊かさのひとつと言えるのかもしれない。

ある人が子どもの頃に母親が湯たんぽを布団の足元に入れてくれるのが嬉しかったと言っていた。

そしてその人は、湯たんぽの温かさよりも、自分のことを思って湯たんぽを用意してくれる母の気持ちが嬉しかったんですね、と述懐していた。

最近、湯たんぽも復活して来ていると聞くが、誰かが誰かを思う気持ちは、湯たんぽだけでなく、いろいろな物や形に込もっている。

不思議なのは、誰かのことを大切に思うとき、思われている人だけでなく、思っている人自身も温かくなるということである。

やはり愛することは愛されることなのだ。

そして、愛が発するのは「愛する人」からではない。

人間を超えた大いなる愛が「愛する人」を通して「愛される人」に働くのである。

そのとき間違いなく「愛する人」も愛されている。

湯たんぽ母さんのこころもまたあったかかったに違いない。

2020(令和2)年12月17日(木)『自粛警察』

新型コロナウイルス感染症、第3波の急速拡大に伴い、またぞろ自粛警察が蠢(うごめ)き始めている。

もしそういう第三者からの意見が、専門家による純粋理性的なアドバイスであれば、役に立つこともあるだろう。

また、もしそれが愛あるアドバイスであれば、心に沁みることもあるだろう。

しかし、自粛警察にはそれがない。

感じるのは、上から目線のエラソーさ(謙虚さを装いながらのエラソーさもあるから質(たち)が悪い)と

理性的意見に偽装した(大半が自分の発言を正当化するための受け売り知識に過ぎない)自己中心性の臭み(自分の利益しか考えていない)だけである。

あちこちの自粛警察の言動を聞いていると、その背景に2種類のものを感じる。

ひとつは強烈な超自我、いわゆる見張り番に支配されているタイプ。

その生育史において埋め込まれて来た「〜でなければならない」「〜であるべきだ」に完全に呑み込まれて(支配されて)いる本人は、かつて自分が締め上げられて来たように、独善的に他人を「〜しなければならない」「〜するべきだ」と締め上げる。

これがひとつ。

そしてもうひとつが、自己愛性パーソナリティのタイプ。

何をやっても評価されず認めてもらえずに育った人間は、やがて自分の凄さを自分で喧伝(けんでん)するようになる。

自己評価の低さと中身の空ろさが深刻なほど、張り子の虎は大きくなり、虚勢の鎧は厚くなって行く。

身の程をわきまえず、思い上がる、思い上がる、思い上がる。

だからいずれも

頼まれてもいないのにしゃべる。

発言する立場にないのにしゃべる。

ろくな知識も愛も人望もないのにしゃべる。

要は、増長人間の他者巻き込みなのである。

そして、この巻き込みを斬り捨てるためのアドバイスをひとつ。

超自我にしても自己愛性パーソナリティにしても、鬱陶しい圧力を持って迫って来る場合が少なくない。

そこに押されないこと、怯(ひる)まないことが、何よりも肝要である。

そこで、ああ言えばこう言うというセリフを磨くだけでは、キリのない泥仕合になるのがオチだ。

破邪顕正は、結局のところ、気迫勝負であることを忘れてはならない。

2020(令和2)年11月30日(月)『秋宵想』

新型コロナウイルス感染症の拡大が続いている。

面談を継続している方々においては、地域および公共交通機関とその沿線の感染状況、持病、年齢、家族、職務、その他諸般の事情により判断され、必要であれば遠慮なく、電話カウンセリング、Skypeによるテレビ電話(ビデオ通話)を活用していただきたい。

今日の面談は全員Skypeだった、という日も珍しくなくなって来た。

そう言えば、最近、今日の面談は全員男性だった、という日も出て来た。

開業当初、9割以上が女性だったことを思うと隔世の感がある。

まだ、八雲勉強会やワークショップなどは女性が圧倒的だが、これもまた移ろって行くであろう。

来る人、去る人、常にある中で、今一番悩ましいのが初回面談申込である。

「初回面談のお申し込み」にも書いておいたが、

既に私と面識のある方は、初回からSkypeによるテレビ電話の利用が可能であり、

面識のない方には、来所の上での対面面談が必須なため、感染拡大状況を見極めながら、無理のない時期に来所いただくことにしている。

結局のところ、コロナがあろうとなかろうと、つながる縁はつながり、つながらない縁はつながらないように思う。

しかし、この世の中には、まだ見ぬ、逢うべき人がたくさんいるような気がする。

かつては逢ったが、もっと深く逢い直すべき人もたくさんいるような気がする。

今も逢ってはいるが、さらにさらに深く逢うべき人もたくさんいるような気がする。

こんなことを思うのは年末だからかもしれない。

また一年が暮れて行く。

私は私が生まれて来た役割を、出逢うべきあなたに対して、そしてこの世界に対して、果たしているだろうか。

そして、あなたもまた今生で私と出逢うべきならば、その今生の約束を果たしているだろうか、その出逢いを深めているだろうか。

寒月を見上げながら、そんなことを思う夜でした。

2020(令和2)年11月29日(日)『無差別という差別』

一時期、面識のある精神科医のクリニックに通っていたクライアントの方々からの面談申込が続いたことがあった。

申込内容を伺うと、どの方も精神科的診断がつき、本格的な治療が必要な方々で、当研究所の対象ではないため、説明してお断りしたところ、抵抗される方々が少なくなかった。

異口同音に言われるのは、前の医師のところでは、病気であるか病気でないかを区別しないと言われてセラピーを受けていた、あなたは違うのか、というのである。

ああ、そういうことか、と内幕が観えた。

つまり、この方たちは障害受容ができていないのである。

可能ならば、統合失調症とも、双極性感情障害とも、うつ病とも、パーソナリティ障害とも、自閉スペクトラム症とも、思いたくない、認めたくない。

そういう人にとって、病気であるか病気でないかを区別しないやり方というのは魅力的であり、障害受容をせずにセラピーを受けることができる。

かつて家族療法でシステム論が登場したときに、その本来の意義とは別に、受け入れたがる家族、特に親が少なからずいた。

それは、子どもに生じた問題が(家族というシステムのせいだということができ、)自分のせいだと追及されるのを回避できると思ったからである。

話を本筋に戻すと、病気だと認めたくない、否認したい、ということは、取りも直さず、その人が病気を差別しているということになる。

これが本音である。

その内なる差別観を、病気であるか病気でないかを区別しない、という無差別的美言のもとに隠蔽しようとしているのだ。

これはずるい。

「病気だと認めたくないよー!(病気だけど。)」

と言う方がよっぽど正直で人間的である。

そして散々あがいた後で、本当の意味で自分を救い、活かすために、ちゃんと治療を受けなきゃしょーがないじゃん。

事の本質を言えば、病気であるか病気でないかどころか、人間を超えて、犬も猫も花も木もすべての生物を差別せず、さらに岩も大地も太陽も月も空もすべての無生物さえも差別しない、一切無差別(仏教では「しゃべつ」とよむ)の境地こそが真実である。

無差別を言うならば、そこまで徹底しなければならない。

そして、病気であるかないかを区別しない境地でさえ、その医師には無理であった。

よって、その医師ができないことを言ったところから無理と背伸びが始まり、そこに障害を認めたくないクライアントが飛びつき、ならば、それで治療が進展すれば良かったのだが、残念ながら行き詰ったから、私のところに変わろうとして来たわけである。

しかし、そんな奇妙な舞踏会に付き合うわけにはいかない。

そこに切実な「情けなさの自覚」と「成長の意欲」がないんだもの。

私は当研究所に与えられたミッションを果たして行くのみである。

 

2020(令和2)年10月22日(木)『向き合うこと』

辛いときがある。

しんどいときがある。

そういうとき、できる限り、逃げず、誤魔化さず

自分の内的問題の核心と向き合って勝負することをお勧めしている。

そうすれば、楽ではないけれど

辛いこと、しんどいことが

確実に人間的成長の糧となって行く。

そうしないで

一杯やって誤魔化す

ゲームに溺れて逃げる

色恋沙汰に依存する

など、飲む・打つ・買うなど、面白おかしく過ごすことは、人間の伝統的なちょろまかし法である。

そうやって先延ばしにしたところで

未解決の問題は必ずあなたに降り掛かって来る。

逃げられはしない。

唯一の例外は

その人のキャパシティを超えて

治療を要するまで辛くなったときである。

そのときは無理して向き合わなくても良い。

その辛さを軽減するために向精神薬も開発されている。

きちんと用法・用量を守れば、アルコールよりも遥かに安全で有効である。

心を楽にする薬が開発されているというのは、実に有り難いことである。

そして薬を使うときも

言わば、薬の作用のお蔭で、向き合うべき問題のハードルを下げることができれば

可能なところから問題と向き合って行けるかもしれない。

そうすれば、やがて薬の用量を減らせられるかもしれないし

ひょっとしたら、薬が要らなくなるかもしれない。

(ここらは疾患の種類によるので主治医とよく相談されたし)

結局のところ、治療の要否によらず、自分を見つめ、自分を知り、

自分の未解決の問題と向き合って行くことは、あなたの人生を真に豊かなものにして行くに違いない。

 

ある青年が述懐した。

辛くなったら、いつも痛飲して誤魔化してました。

そうしたら辛くないから、内省も丹田呼吸もろくにやりませんでした。

そのことに気づいて、飲むのをやめたら

てきめんに辛くなったので

今の方が自分の問題と向き合い、一所懸命に呼吸も練っています。

中途半端に楽になるのも考えものですね。

 

You're right.

そしてそういうあなただから、私は万難を排して応援して行くのです。

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