八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

たまには、ぼーっとした時間を過ごしましょう。

そして、ただぼーっとするときに、お勧めなものがあります。
それは「火」と「水」。



まずは「火」。

焚き火の炎をずっと眺める。
キャンプで好きな方もいらっしゃるでしょう。
炎は常に燃えて燃えて燃えて、その構成要素=燃焼物質は一瞬たりとも留まっていないのに、炎は燃え続けている。

あなたの存在もそうなのです。
あなたを存在させている構成要素は刻々と入れ替わっているのだけれど、あなたという存在は継続して存在しているかのように見えている。
実は万物がそうなんです。
固定された存在なんてないんです。
それを感じること。

いくらでもぼーっとしていられます。

太い百目蝋燭の炎でもいいかもしれませんね。


次に「水」。

流れる川をずっと眺めている。
川もまた、その構成要素=水滴は刻々と入れ替わっているのに、ずっと川があるかのように見えている。
本質は「火」と同じ。

滝もいいかもしれません。 

寄せては返す海の波もいいでしょう。

ずっと眺めていると
その存在の中に動き続けるものがある。

それを感じる。

今の炎天下では勧めませんが、もう少し涼しくなった頃、是非是非「火」と「水」を感じてみて下さい。

それはとてもとても贅沢な時間になるでしょう。

 

 

ある人が父親の跡を継いで、家業の会社の社長になった。

やり手創業者の父親に比べ、「気ぃ遣いで気にしぃ」の息子は、古参の社員からも弱腰を批判されることが多かった。
彼としては面白くなかったが、どう頑張っても父親のようにグイグイと主導権を発揮することができるとは思えなかった。

そんな中で、幼馴染の親友一人だけは、彼を批判せず、
「それがおまえらしさなんだから、気ぃ遣いで気にしぃの社長でええやん。
と言ってくれた。
「流石、自分の理解者だ。」
と思い、
「ホッとした。」
という。

私はそうは思わない。

何故ならば、「気ぃ遣いで気にしぃ」の彼は、本当の彼ではないからである。
生まれつき「気ぃ遣いで気にしぃ」の子どもなんて存在しない。
恐らくは、会社でも家庭でも支配的な父親の下で、「気ぃ遣いで気にしぃ」の性格は後天的に作られたのであろう。
よって、これを引っぺがさなくては、本来の彼がどういう人なのか、わからないではないか。

かつて緩和ケアに関わっていた頃、「その人らしい最期を」ということがよく言われていた。
そこでも、ある配慮に富んだ高齢男性が緩和ケアを受けていた。
どっちがケアしてるんだかわからないくらい、その人は医師や看護師たちに対して行き届いた言動を繰り返し、スタッフたちも
「それが〇〇さんらしいよね~。」
と言っていた。
やがて病勢が進んで来ると、彼の言動は次第に喜怒哀楽に溢れ、いろんな要求もそのまま口にするようになった(念のために付け加えておくと、それは単なる脱抑制の反動ではない)。
いわゆる“良い患者”ではなくなったかももしれないが、そのままの“彼”になっていた。
とまどうスタッフに対し、
私は
「やっと〇〇さんが出ましたね。」
と言った。
こうなってこその「その人らしい最期」である。

人は自分自身を生きるために生れて来る。
後から身に付けたニセモノの自分のままでいいじゃないか、というわけにはいかない。
願わくば、死ぬまでに、できれば早いうちに、本来の自分で生きましょ。

 

 

「『こだわり』というテーマで話をすすめてきました。そこで何にこだわるかというと、男性も女性もそれぞれの価値があると思っている。価値は、自分自身を中心とする自己中心的なものです。その意味で、非常に傲慢なものです。傲慢なものであると同時に、傲慢に気づかない我々はおろか者であることもわかりますね。そうしたことを明確に認識することを私は自己認識と呼びたいんです。

それはどういうことかというと、我々は大部分の生活においていろんなものにこだわる。自分の価値に執着し、それを人に要求し、それがうまくいかなければ、恨み、憎む。そしてさらに自分の欲望の充足のためにすべての人がいるような感じを持ち、それを自分の知恵でもって、自分の頭でもってできるような妄想を抱く。そういう妄想だとか、その他もろもろの自分自身の僭越さに気がつかない、我々はそういう無知、おろかさというものを持っているということになります。
私は、いつも患者さんの訴えを聴いているときに、ちょうどそれは何か大きな音楽の流れを聴いてるような気がする。その人固有のシンフォニー。そこにはいろんな欲望の音がする。その音楽は必ずしも楽しく、美しいものではない。むしろ、どろんとした、ドロドロの泥のようなものを感じる。
そういうものをだれも持っている。もちろん私にもある。ああ人間なんて弱くておろかなのだ。そのおろかさをほんとうにわかったときに、お互いの共感の世界というものが開けてくる。人間が、きれいごとでお互いにわかりあうということは、僕には信じられないのです。

私に、昔、ひとりの少女がいいました。
『先生、私は十七のときに人工流産しました。これは、お父さんにも、お母さんにもいってないんです。彼はそのときに怖がっちゃって、どっかへ行ってしまいました。自分ひとりで私は産婦人科へ行きました。あのときの心細い思いはだれにもいえませんでした。子どもを堕ろしたあとで、こんなことですよ、と出されたものを見せられました。そのとき私は、なんという罪悪を犯したんだろうと思いました』きれいごとの告白ではありません。
けれどもそこには、ほんとうにひとりの少女が身をもってぶつかった悲しみと、苦しみと、苦悶と、はずかしさと、深い自分の罪の意識を、自分の汚さをそのまま出して、しかもはっきりそれに打ち勝っている少女の姿がありました。私はすばらしいと思います。十七歳の子どもがですよ。やったことはどうか、道義的になんとでも非難してよろしい。しかしその、起きたことをその子がひとりで背負ってるんです。人間が自分を、汚かろうが、どうであろうが、間違っていようが、悪であろうが、何であろうが、そのものをそのものとして見る勇気を持つとき、人間は気高い姿を見せます。そういうのを僕は、自分を見つめる、見るというんです。
私は、良かったね、いえて良かったね、といいました。その重荷はみんな僕がもらうよ、あなたはイヤなことはみんな忘れてね、と。たったひとりで彼女は耐えてきたんです。こういったことはね、男性にはわからないものなんです。男性にはわからないけど、しかし同じように、男にもだれにもいえないものがある。そうしたものをね、ほんとうに見つめて、そのまま聴く。正しく見る。その勇気、それが大事なんだな。
この少女の場合ね、私は勇気といいました。確かに勇気なんです。どうして与えられたのかというと、この少女は仕方がなかったんです。私が勇気といったのではじめて自分で、あっ、そうかと気がついたけれども、彼女はそのとき絶望の果て、やむをえないところにまで追いつめられていた。さっきいったように、自分の欲望は他の人がかなえてくれるんだとか、自分の頭でなんでもできるんだとか、そんな思いはどっかへ飛んじゃっていた。もう自分はほんとうに無力で、何にもできやしない、そういう状態で、心のやり場がなかったわけです。人間というものは、自分の知恵だとか、傲慢だとかが消え去ったときに、かえって強くなるんですね。そして、そのときの力は自分の力ではないんです。…
この少女は何もなくなったときに、自分自身の力がほんとうになくなったときに救われた。自分の力を捨てたときに、はじめて人間はほんとうに大きな力を感じることができる。これが私は一番大事だと思う。…

私たちが自分の悪智、悪いはからい、そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「おろかさ」の自覚が、自分がどんなに愚かであるかということを認めることが、決して自己バッシングに終わらない、終わらないどころか、時に「気高く」さえあり、また、他の多くの人を救うことにさえなる、ということをこの文章から学ぶことができます。
というのは、この「ひとりの少女」のエピソードを読んだ何人もの女性から、辛い体験の告白を伺いました。
そして、この少女の告白のお蔭で、またこのエピソードを書かれた近藤先生のお蔭で、何人もの人間が救われました。
いや、そこに働いたのは、この少女の力でもなく、近藤先生の力でもありませんでした。
まさに「
そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。
その「大きな力」を感じたとき、我々の生きる悲しみを超えた、救いの涙がありました。
近藤先生の著作の中でも、(「情緒的」感動を超えた「霊的」感動をもたらすという意味で)名文中の名文のひとつだと思います。

尚、この「ひとりの少女」のエピソードは、当ホームページの「近藤章久先生のこと」に引用しています。

 

 

小学校低学年の頃、家の裏に古い長屋があった。
その長屋の入り口に、一本の無花果(いちじく)の木があった。
そしてその長屋には小学校の上級生の男の子が住んでいた。
その頃、学校の砂場で遊ぶ走高跳びが流行っていて、彼もまた一緒に遊ぶメンバーの一人だった。
器用にジャンプするその子の両手は、サリドマイド禍のために20cmほどしかなかった。
その後、その長屋は取り壊され、その無花果の木だけが残った。

家人が小学校低学年の頃、時々預けられていた家の裏に、同級生の女の子の家があった。
見るとはなしに見えるその子の家の中はいつも暗かった。
その子の両親は二人とも全盲であった。
その子の視力に問題はなかった。
その家の庭には大きな無花果の木があった。
その後のことはわからない。

以来、無花果の木を観ると、私も家人も(感情的にではなく)霊的にやるせない気持ちになる。

いちじくを漢字で書くと無花果(花のない果実)となるが、実際には実の中に隠れて花を咲かせている。

花は見えぬが、花はある。
花はあるが、花が見えぬ。 

聖書やいろいろな国の神話に無花果が取り上げられるのには訳があったのである。

 

 

今日は令和7年度3回目の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目に続いて13回目となった。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※特に今回の「治療」についての内容は、人間の成長に関わる人すべてに読んでいただきたいと思う。やっぱり、この勉強会やってて良かったなぁ、としみじみ思いました。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

a.治療のはじまり……患者と治療者の信頼関係の発足

「患者が訪れて来た時治療は始まっている」と Horney は言う。患者が治療者を訪れる時、彼は症状を訴えそれを治癒してもらう為に来るのである。症状の種類は多様である。症状が語られるうちに患者の既往病歴、生活歴び記録がとられ、家庭環境、教育程度、結婚の有無、友人関係、趣味等から現在の状態に関しての資料が得られる。
一般的医学及び精神医学診断によって鑑別を行うのは当然のことである。しかし、かくして神経症と鑑別された場合でも、患者は症状だけを持って来て物語るばかりでない。彼は症状と共に自分を ー 自分の性格を持ちこんで、治療者にそれを無言のうちに物語る。このことは、今迄私達が理解したように、神経症の症状は、神経症的性格のもたらす諸矛盾の必然的結果であり、また、神経症的葛藤の解決の形相(けいそう)であり、神経症防衛の表現でもあるのであるから極めて当然の事なのである。
例えば症状を語る態度を取上げて見ても、「自己縮小的依存型」の患者は、如何に自分が症状によって苦しみ悩んでいるかを強調し、印象づけ、理解と愛情を暗黙のうちに執拗に要求し、分析者が魔術的に自分を救ってくれると期待する。
「自己拡大的征服型」の患者は、 症状を不満げに、自分の恥辱かの如くに語り、その原因を他人のせいにして、怒りや憎しみの口吻(こうふん)を現わし、分析に対して強い不信を示す。「自己限定的断念型」は極めて客観的に、感情を伴わない調子で、恰(あたか)も他人の事であるかの様に語り、分析治療に関しても一見冷静な良き理解を示すかの様な印象を与える。
このことは、治療家を訪れる動機についても、自分の過去の歴史を語る時にでも、或は家族や友人を語る時にでも、個人によって、もとより差があるが、問わず語りに現れて来るのである。だから、一面記録される事実の意味と共にそれを語る態度にも、治療家は注意を払うことが必要である。
しかし、大切なことは、その様な、様々な態度や動機にもかかわらず、ともかく患者が治療を求めて来たそのことに、無意識ではあるが、患者が自分自身を救わんとする意欲が存在していることを理解し留意しなければならないことだろう。
この点が実は治療の基本的な手がかりであり、治療家が患者に対して持つ信頼の拠点である。治療家の持つこの様な信頼と理解こそ、神経症的歪曲のため、様々に受け取られようとも、患者にとって暗黙のうちに感じられる治療家に対する信頼感の基礎となり、所謂(いわゆる)rapport(ラポール)を形作る要因となるのである。
治療契約の締結も、また同じ様に理解される。料金や時間の取決めに関しても、そこに様々な神経症的反応を観察し得る機会が存在する。「自己拡大型」は料金や時間について言いがかりを付けたり、懸引(かけひき)をしたりするし、「自己縮小型」はそんな料金では先生に悪いとか、料金を余計に払おうとしたり、また逆に自分の窮状を強調して時間を多く要求したりする。「自己限定型」は、定められた通りをそのまま、何の反応も示さずに受取り、どちらでも良いと言う風な態度を示す。
しかし、何れにもせよ、患者がこの様な契約を通じて、自分の決意により一定の関係に入ると言う点に契約をする意味が存在する。
この決意によって、どの様な神経症的着色をうけていようとも、好むと好まざるにかかわらず彼は責任を取らざるを得ないと言う状況に自分を置くのである。置いてしまってからの彼の反応は、彼の神経症的傾向によって様々に展開するであろう。しかし、ここに治療者と患者との全治療過程を通じて、互いにそこで出会うことの出来る第2の拠点が存在するのである。
しかし、分析治療関係は患者の一方的交通の関係でない。それは患者と治療者との相互に関係し合い、参加し合う、患者の自己実現と言う目的への協同関係である。相互に関係し参加し合うと言うことは、相互に影響し合うことを不可避的に意味する。このことは私達の注意を、患者のみならず治療者の personality に向けるのである。
もし治療者の持つ神経症的傾向が明確にされていないと、彼の患者に対する反応は、言語的と非言語的とを問わず、無意識に神経症的な反応となる危険がある。例えば、彼が「自己拡大的征服型」の治療家であるとすれば、同じ「自己拡大型」の患者に当面する時、そう言う患者のよく示す治療に対する傲慢さ、治療家の解釈や態度に対する疑いや、質問や、軽蔑的な感情に対して、たちまち不快になったり、怒ったりすることになる。そして結局分析状況は相互に優越を誇示しあう戦場と化する。
これに反して、彼が「自己縮小的依存型」の患者を取扱えば、患者が惨めな苦しみや、不幸をかこてbかっこつほど、彼は自分が高く、強者の位置にあるのを感じ、優越感を持ち、患者の依存的態度を利用して彼の意志と力のままに操縦し、その生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握ることに快感と満足を感じる。
かくて、患者の依存的傾向と治療家の制服的傾向とは、互にそれぞれの神経症的要求を満足し合うことによって益々増長し、所謂神経症的共生関係 neurotic symbiosis を生じ、分析状況はさながら神経症的傾向の培養基と化する。
もし又、「自己限定」的な患者に会えば、患者のもつ冷々(ひえびえ)とした無関心の態度は、彼には自己の権威と力とを認めない許すべからざる侮辱と感じられ、患者の進歩の緩慢さは自己の能力の無言の否定と受取られ、焦立(いらだ)ち怒り患者を責める。患者の沈黙の反抗を呼び起す。
これは一つの例であり、説明の為に単純化したが、この他、治療家の持つ「自己縮小型」「自己限定型」その他それぞれの神経症的傾向が、患者の持つ種々の種々の神経症的傾向と組合されることによって、分析治療関係は事実上神経症的関係に変質して行くのである。
更に、これと共に大切なのは、治療者自身が「真の自己」による成長を経験しているかどうかである。
単に神経症的傾向を自覚し認識したことだけでは、患者の神経症的傾向や患者への神経症的態度を認知し、理解することが出来ても、患者のもつ自己実現の傾向の徴候や萌(きざ)しを感じる感受性の鋭さが欠ける。自分自身が成長と変化を体験している場合には、そうでない場合に比べて、遥かに深く且つ敏感に患者の「真の自己」の表現を直感し、それを理解し解釈し明確化することが可能である。

身体的治療の場合に於いても、治療家は患者の健康な力の助力者である様、分析治療家も患者の健康な自己である「真の自己」の成長に助力するのである。そしてそれに助力出来るのは、分析者の中の神経症的な「仮幻の自己」ではなくて、分析者がそれによって根源的に生きている「真の自己」のみがなし得るところなのである。分析関係は相互的な関係と言ったが、根源的には患者の「真の自己」と分析者の「真の自己」との出会い ー 互いの呼びかけと応答の関係であると言える。
その意味で、分析関係の意味の真の実現のためにも治療関係に入る以前の段階に於ての、教育分析または自己分析その他による、治療家自身の神経症的傾向の分析と、「真の自己」の体験並に、それによる成長と変化の経験が望まれると共に、分析関係そのものに於いても、患者に対する自分の表現、態度を通じて絶えざる自己分析と成長が要請される訳である。この時、初めて分析関係が相互に参加し、互に呼びかけ応答し成長し合う自己実現の場となるのである。

 

この「ホーナイの精神分析」の勉強においては、毎回重要な内容を扱ってはいるが、今回はその中でも極めて重要な内容を含んでいる。
近藤先生がここまで明確に治療者/支援者に要求されることを述べられているのは珍しいことだ。
現に
「そこまでできないとやっちゃいけないんですか!」
という反発もあったそうであるが、私ならば、
「それでよくやってられるなぁ。」
と言いたいところである。
もちろんどこまで行っても、我々は凡夫。神経症的問題は数限りなくある。
それでもポンコツなりに、アンポンタンなりに、謙虚に、真摯に自分の問題を見つめて、一所懸命に乗り越えようとし続けることが、唯一の免罪符となって、治療者づら/支援者づらが許されるのである。
そして願わくば、凡夫の自覚だけでなく、自分を通して働く「真の自己」を実現させようとする力を体験することができれば、自分以外の人を通して働いている「真の自己」を実現させようとしている力も感じることができ、それが人間的成長への何よりの影響力を、相互影響力を発揮するに違いない。
そしてさらに、あなたとわたしの「真の自己」を実現させようとする力の出どころは、そもそもどこなのだろうか、というところにまで思いは深まっていくのでありました。
書きたいこと尽きないが、感想、所感のある方は是非、面談でお話しましょう。
 

 

 

昔、ある連続研修(私が講師)に参加していた中年女性Aが、研修最終日の懇親会(酒席)で話しかけて来た。
先日、自宅の庭の剪定を業者に頼んだところ、職人が見習いのような若い青年を連れて来ていて、どこかで見たことがある顔だなと思っていたら、この研修にも参加している別の中年女性B(私にもわかる人)の息子さんだったという。
Bさんの息子さんは中学生頃から不登校やひどい家庭内暴力があって、ずっと引きこもっていると聞いていたから、ああ、働きだしたんだと思った、というのだ。
訊いてもいないのに、そこまでの内情話をしておいて、Aは「これ、誰にも言わないでね、先生。Bさんにも。」と付け加えた。
一気に吐き気がした。
聞きたくもない他人の秘密を一方的に垂れ流しておいて=相手に無理矢理秘密を共有させておいて、それをしゃべらせないように「誰にも言わないでね。」と最後に付け加える。
パーソナリティに問題のある人間が行う巻き込みの常套手段のひとつである。
こんなところでお目にかかるとは。
しかも、私に仕掛けて来るとは良い度胸である。
即座に(←ここが大事。沈黙すると暗黙の同意ということに持ち込まれる)
「私が何をしゃべるかしゃべらないかは私が決める。
と言って正面から睨めば、退散して行くしかなかった。
こういう悪意の巻き込みは実によく練られていて、つい術中にはまりそうになるのだが、実は対策は難しくない。
「誰にも言わないでね。」と言われた瞬間に多くの人は嫌悪感を覚えるはずである。
そのときに黙らない。
そして整然とした文章で反撃しようとしなくていい。

ただ相手の眼を見て、嫌悪と軽蔑を込めて「ゲッ。」と言えばいいのである。
思いの強さが勝負を決める。

帰り際、別のテーブルに行ったAがまた別の研修担当者と話している声が聴こえて来た。
「同居している舅がわたしのことを時々色目で見るんですよ。これ、誰にも言わないでね。」

「ゲッ。

何しに来てんだ、おまえ。
ダークサイドの世界に巻き込みに来ているのである。

闇は斬るべし。


 

「それでは、そういうこだわりというものを少なくし、我々の心を解放するにはどうしたらいいだろうかということを考えてみましょう。
それには、まず自分の心のなかの声をよく聴いてみる。何かが聴こえてきますね。自分のこだわってる声が聴こえてくる。そしてその次に、そのこだわっているのは何かとはっきり見るわけです。こだわっている状況を正しく見る。ふつう私たちはこだわりのままに引きずり回されて、悶々として苦悩してるわけです。…そういうなかで転々として、泣いたりわめいたり気が狂ったようになっている自分の姿をよく見るのです。これには、練習ということが大切であると思います。
というのは、我々はあまりにも自分のありのままの声を聴いたり、ありのままの姿を見たりするということを避けている。ご婦人の方におうかがいしたいんですけれども、メーキャップをほどこして美しくなった自分の顔。それは自分でしょうか? それとも、化粧を全部取っちゃった後の顔が自分でしょうか。どっちが自分のほんとうの顔なんでしょうか。自分を見ることは、自分の素顔を見ることです。つらいことに違いないと思います。けれども自分の姿をありのままにじっと見つめるとそのなかに、あなた方の英智が光っていることを感じます。自分の心の姿を、静かに正しく見る、正しく聴くときに、あなた方に落ち着きがわいてきます。…
さらに進みます。ほんとうの自分の姿を見、自分の声を聴くときに、どれだけ自分が自分の欲望を中心とし、自分の執着を中心として感じ、行動しているかということがわかると思います。そして、じつはこだわりということが、自己中心的な動きだということがおわかりになると思います。…
まったくみなさん、僕の話を不快に思われるかもしれないけれども、そういったことが私たちの現実ではないかと思うんですよ。つまり、私たちは、人間関係を形成するとき、このようなお互いのおろかさのなかで形成してるってことです。お互い、こういうことについての検討を加えないですね、お互いにそれぞれ自分自身に関する認識を持たないで人間関係というものを形成しようとしている。お互いの愚かさの上に形成された人間関係 ー そこにはどんなことが起こるんでしょうね。それはおそらく、自己中心的な人間同士の集まりだから、お互いにこうすべきである、ああすべきであるという、要求し合うような、そういう人間関係になってくるんじゃないでしょうかね。そこには、我、尊し、我、正しとするような一方的な自己主張の姿が見られるだけであると思います。関係し助け合うのではなくて、お互いに衝突し、攻撃し合い、闘争し合うという人間関係になるのです」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のありのままの姿をじっと見るということは、まず自分の欲望、執着、自己中心性、愚かさを観る、認めるということになりますから、それは愉快なことではありません。
だから、我々はそれを避けているのです。
しかし、自分を見つめるということの意味は、それだけではありません。
そういう心の闇を見つめる、認めた先に、それを超えた叡智の光が観えて来るのです。
光に至るために闇を観るのです。
そこが肝心。
実はその叡智の光が働いているからこそ、我々は、見たくもない、見るのもおぞましい、自分の心の闇を見つめ、認めることができるのです。
だから、自らの闇を観ることを恐れないで。
必ずその先に光がありますから。
これこそが「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の本質ということができるでしょう。

 

 

「男性においてのこだわりは、権力、金力、力ですね。優越するというようなこと。女性においては、愛情とか、愛情ということを基本にしたこだわりですね。…
両方に共通しているのは、人間というのは自己の保全・安全というものがいつも重要な価値のひとつになっている。だれでも自己防衛というか人に対してなんとなく心にもないことをいったり、偽りの微笑を浮かべたりします。これはたいがいの人は経験があると思うんです。これは人間関係における自分の保全、自分の防衛のためということですね。
小さな子どもでも安全ということを考えます。とくに男性においては自分の地位の保全、それは権力を意味する地位の保全。女性においては、愛情的な意味における安全…愛情を確保する安全さです。そういった自己の安全のための防衛ということを人間は行うものです。ところが多くの人が残念なことにこの法則が自分のなかで、はっきりしていない。自覚していない。そして自分のこだわりに執着している。それをどうしてもこうでなきゃイヤだと思っている。執着とはそういうことです。そうして最後にはこうであらねばならないというふうに思いこんでしまう。
こうであらねばならないということになりますと、ちょっとでもそうでないと気になるわけです。もう一回いいますよ。ある価値があって、それに無意識に執着する。執着すると、どうしてもそうありたい。ほしい。おれは偉くなりたい、とね。それがもっと強くなると、偉くならなければイヤだ。その次は偉くならなければいけない。ならなきゃならない。ねばならぬ。…
こだわりの源ってなんだろうということをここでいえば、自分の執着しているものを完全に現実化してなくてはやまないというこの欲望、それが私は、こだわりの源だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず「こだわり」には、「自己の保全・安全」ということが絡んでいるということ。
特に、男性には「権力を意味する地位の保全」、女性には「愛情を確保する安全」。
そしてそこには「自分が執着しているものを手に入れなければならない」という強い「欲望」が働いており、それが「こだわり」の源となる。
そして最大の問題は、自分でその「こだわり」について自覚していないということ。
自覚がないことには解決のしようがない。
私の表現で言えば、「こだわり」に呑み込まれていては何も始まらない。
そこで少しでも「ちょっと待てよ。」「わたしは/おれはこれにこだわってるぞ。」という自覚が出て来ると、流れが大きく変わって来る。
それが「情けなさの自覚」。
そこからなのだ、成長の道が始まるのは。
まさにそのために、今この文章を読まれた方々は、どうぞご自分の中にある「こだわり」について内省してみていただきたい。
ゆっくりと、そして、事あるごとに、そして、徹底的に。

 

 

 

面談を続けている面白いことが起こる。
ある女性が面談を続けるうちに、本来の自分を取り戻し、他者の思惑よりも自分が本当は何を感じているか、どうしたいのかしたくないのかを表出できるようになってきた。

面白いというのは、そうなったときの、まわりの人たちの反応である。

内省性がなく、以前の彼女の方が都合が良かった人は、その変化・成長に反発する。
「おかしくなった。」「生意気になった。」「言うことを聞かなくなった。」などなど。
中には怒り出す人もいる。

そして内省性があり、本当の意味で彼女を愛している人は、彼女の変化・成長を喜ぶ。
「表情が変わったね。」「生き生きして来た。」「良かったね。」などなど。
中には泣き出す人もいた。

そして、家族や友人関係でも、本人の変化・成長について行ける人とついていけない人とに分かれて来る。

ついて行ける人は、彼女の変化を自分事として内省し、その人自身もまた変化・成長し始める。
ついて行けない人は、自分にこそ問題があることを内省できず、結局、彼女の変化・成長に置いて行かれることになる。

私がしていることは、クライアントをある特定の型に嵌(は)めていくことではなく、その人がその人になるように(本来のその人を取り戻せるように)(さくらはさくらに、すみれはすみれになるように)応援していくだけのことである。

願わくば、周囲の人も、その影響(=薫習(くんじゅう))を受けて、自分の花が本来何なのかに気づき、一緒に自分の花を咲かせて行ってほしいなぁ、と切に思う。
そういった連鎖反応もまた、人間的成長に関わる精神療法の醍醐味なのである。

 

 

Aさんが言うには、Bさんとは話が弾むが、Cさんと話すと話が弾まない、という。
だから、Cさんと話すのはやめて、Bさんと話すことにしたと。

誰とどう話そうとAさんの勝手だけれど、私が見る限り、Aさん自身も抑圧と緊張が強く、誰とでもオープンに人と話せる人だとは思えない。
Bさんと話が弾むのは大変結構であるが、軽口を叩くのが得意なBさん故、その内容は多分に噂話やら悪口・陰口やら、はっきり申し上げると、ゲスネタである。

秘めた攻撃性を一緒に垂れ流せる仲間との間で話が弾んでも、それが双方の人間的成長にとって役に立つとは思えない。却って一緒に堕ちていくことになるかもしれない。

Cさんは確かに能弁な人ではないが、そういったAさんの内面がわかっていて、話をゲスネタには持って行かなかったように私には見えた。
大切にすべきは、むしろCさんのような人じゃないかな。

本当の意味で「話が弾む」とは、表面的な言葉の上で話が弾むのではなくて、一緒にいて「本来の自分」が、「生命(いのち)」が弾むことなんじゃないか、と私は思っている。
そのためには一方だけじゃなくて、双方の開いた心が必要なのだ。

だから、AさんとCさんとで、時間をかけて、気負わないで、何だったら沈黙したままでも良いから、場を共にして行くことを、私としてはお勧めしたいと思う。

居酒屋の後ろの席で、さっきから大学生たちが盛んに歓声やら笑い声を上げている。
しかし、悲しいほど空疎な響きしかない。
ああ、ここでも“本当の”話は弾んでないな、と思うのでありました。


 

「女の人の例ばかりだしたから、女の人にばかりこだわっているように受けとられるかもしれませんけれど、男の人にも同じようにあるんですよね。男性というのは非常に優越感を欲しがる。世の中には勝ち負けがあるので、自分が負けると大変なんです。つまり優劣意識、競争意識、そういったもので、自分がちょっとでも偉くなりたい。さっきの『ウソでもいいから愛してくれりゃいい』というのに対していうと、『ウソでもいいから偉いといってもらいたい』。偉そうにしていたい。だから、旦那さんのもっともいい操縦術は、うんとほめ抜くことですよ。…そういうと、『そんなことないよ』というけれども、ほんとうのところ大変よろこぶんですね。人間なんて考えてみれば愚かなものですよ。情けないかなそういう存在なのです。ね、ほんのちょっとでも優越したいですよ。…
このように人間というものは本来非常にくだらない価値観を持っている。その価値観というものを信じて執着する。自分はこうだと、こういうものが大事だと、これをですね、いちいちですよ、一人ひとりについてよく吟味してみなくてはいけないんですよ。それが自分自身にとってどんな意味を持っているかということを考えてもらいたいんですよ。
我々は、ふっつうはこんなことは意識しません。それを無意識といいますが、知らないうちにそういうことを考えているのです。…
しかしながら、自分の中に、いつもそういった何か、我々を支配しているこだわりのあることを認めるのが大事なのです。その意味で私の話を参考に聞いてほしいのです。…
といっても、私は、人間はある程度競争がないと進歩していかないもんだと思っています。…もう少し自分の才能を伸ばそうとか、そういった意味で健康的な競争もあるんですね。健康な競争ならその人間の能力を伸ばし、能力ばかりでなくその人の生命力を伸ばし、その生命をまた強くし、もっともっと伸びていくことになるんですけれども。でも、こだわりがでてくると、その生命の流れを逆に阻止してしまう。自分が伸びない。…
健康な競争は、お互いに刺激しながらお互いに伸びていく。ところがひとつこだわってしまうと、なんとかあいつをやっつけたいという敵意とか憎悪に変わります。人を引っ張りおろす、足を引っ張るともいいますけれども、そういうことをやりはじめるのです。
これがね、人間のひとつのあり方であると思います。私は人間がそんなにね、きれいにいくもんじゃないと思うんです。…人間の嫉妬というのは、自分よりも相手が健康だったら、自分より偉かったら、尊敬するんじゃなくて、憎む。そういう悲しい性(さが)を我々は持ってる。しばられ、とらわれてね、そして自分自身も不幸になっていくという悲しい性格があるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まあ、女もアンポンタンなら、男もアンポンタン。
今日もまた、くっだらないことにこだわって不幸になっていくんです。
やっぱりね、転機はね、あ~あ、いつまでも何やってんだろ、わたし/おれ、と“心の底から”思えるかどうかなんですよ。
それがなきゃあ、いくら言ったって、こだわりから逃れられません。
「情けなさの自覚」、それがどれだけ徹底するかどうかにかかっています。
情けないなぁ、ダメだなぁ、バカだなぁ、トホホのホ。
徹底すれば、なんとしても今の自分を乗り超えて行きたい、という「成長への意欲」が(頑張ってでははなく)自ずと湧いて来ます。
そうなったら、相談にいらっしゃい。
代わりに乗り超えることはできないけれど、あくまで乗り超える主人公はあなただけれど、できる限りの支援を致します。

 

 

しまくとぅば(島言葉)でいうところの
「なんくるないさー」
は有名であるが、その真意については諸説あるらしい。

ここでそれを一つひとつ挙げて比較検討する気はないが、ある八重山人(やいまんちゅ)が言われていたことが、自分にはしっくり来た(きっと地元の人々の中にもいろいろな意見があるのだろう)。

「なんくるないさー」
は、字義通りに解釈すれば、
「なんとかなるさ」
となるのだが、彼の感覚によれば、それよりも
「なるようになるさ」
の方が近いという。

また、そう言うと、最初からてーげー(テキトー)にやっておけばいい、というような、投げやりな感じに取られがちであるが、彼によると、それも間違いで、
「やるだけやってから初めて『なんくるないさー』と言う資格が生じる」
というのだ。

ほう。大分ニュアンスが変わってくる。

そういう意味になると、彼の言う「なんくるないさー」の真意は、一昨日、昨日と申し上げて来た

なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせする

と非常に近いことになってくる。
今は多くの人が知っている「なんくるないさー」という言葉の真意が、一段と深まった気がした。

今日までの三日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

自力を尽くして、あとはおまかせ。

まず、最初からいい加減ではなく、自力は尽くさねばならないが、自力で何でもできると思うなよ、思い上がるなよ、我を張るなよ、ということである。
そして最後は、何がどうなろうと(あれはいいけどこれはイヤだと言わず)、我を超えたところにおまかせするしかない、ということをよくよく思い知らなければならない。

 

 

テレビで若いお父さんが、子どもの運動会について 
「“万全の状態”で臨んでほしいですね。」 
語っていた。

ああ、若いな、と思う。
恐らく自分の仕事でも大事な商談には“万全の状態”で臨もうとするのであろう。
そういう私も受験前などは、どうやって受験当日を“万全の状態”で迎えるかと気をつけていたのを思い出す。

そんなことも、ほのぼのと「そうだったらいいな。」くらいに願うことは否定しないが、
それが「そうでなければならない。」に近づいて来ると、ちょっと神経症的な様相を帯びて来る。
実際、“万全の状態”でないと、イライラと不機嫌になってくる人も存在するのだ。

本当を言うと、“万全の状態”などというのは、「理想」、いや、限りなく「空想」の産物であって、現実にはなかなかあり得ない。

働くお母さん方はよくご存知であろう。
会社の大事なプレゼンがある前夜、子どもが熱を出して吐いた。
ああ、これで寝不足は決まりだ。
そうでなくても生理痛がひどい。
そんなことは日常茶飯事なのだ。

また、ある金メダリストが言っていた。
明日はオリンピックの決勝だ。
それこそ“万全の状態”で臨みたいのは山々だけれど、ここまで来るのに体に故障がないわけがない。
痛みのない日などないし、鎮痛剤の効果もないよりましくらいに過ぎない。
“万全の状態”どころか“不調を抱えながら”が当たり前なのである。

ここでも、
「思い通りに」“万全の状態”であることにこだわるのか、
「思い通りにならない」“不調込みの状態”を受け入れるのか、
昨日と同じ話になって来る。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

二日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

最後はおまかせ、ができるか否かで、人生の様相は大きく変わるのである。

 

 

ラグビーボールがどうしてあんな形をしているのかというと、元々が豚の膀胱を膨らませたものを使っていたから、というのは結構有名な話らしい。
それにしても扱いづらい形をしている。

あるイングランドのラグビー選手が、だからこそどうやってそのボールを自分の思い通りに操るかというのが大事なんだ、と言った。
彼はグラバーキック(地面を這うようにボールを転がすキック)を得意としていた。

それに対し、ある日本のラグビー選手は、思い通りにならないことこそ面白いんだ、人生と同じようにね、と言った。
彼は癌闘病を超えてプレーしていた。
(そう言えば、故平尾誠二氏も同じことを言われていた)

扱いづらいラグビーボールを前に
なんとかして思い通りに扱おうとする選手と
思い通りにならないことを受容する選手。

なんだかいつもお話しているのと近い話になって来た。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

「ラグビーは人生だ。」
と言う。
それは
ラグビーの学びを人生に活かし、人生の学びをラグビーに活かす
という意味なのかもしれない。

 

 

「『こだわり』といいますと、だいたい人間というもはだれでも、こだわりを持って生きていくのが人生。人生はむしろこだわりの連続みたいなところがあります。…私の患者さんに、女の方で、五十二、三歳…で、小さいときから、何をいっても認められないという状況を経てきたということですが、まあ、それでいろいろありました。…そこで私がいろいろとお話をしたり、うかがったりしてみますとね、心の奥にものすごい葛藤があることがわかりました。それは自分の母親に対する強い憎しみですね。なんとかして自分の子どものときにひどいめにあったことの仕返しをしたい。そういう気持ちが非常に強いわけですな。それが、いちばん深いところにある。しかしだれにも話していないのです。自分が五十いくつになっても、もうそろそろ耄碌(もうろく)しはじめている年とった母親に対して、憤り、憎しみを持っているわけです。…
しかし、ここでちょっといえることは、五十いくつになっても小さいときのそういう体験、母親が自分に対して行った不当な行為、ともかくそういうものに対して非情にこだわる。…なんでそんなことにいつまでもこだわるんだということになるかもしれませんけれども、子どものときに受けた心の傷というのは、いつまでも残る、そういうことがあるものです。…
女の人は、人の態度とか、それから相手の、まあ、相手といっても自分の好きな相手ですけどもね、その愛情、こと愛情に関して非常にこだわりがありますね。愛することもそうですが、愛されたいという気持ちが強い。愛されたいという気持ちが強いために、ある女の人が『ウソでもいいから愛してるといって』なんてことをいってる。『ウソとわかっていても、その言葉をいってほしいの』なんてことをいいます。これは、僕は非常に正直な女性心理だと思っています。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず大切なのは、何かにこだわっている自分に気づくこと、認めること。
それがないことには何も始まりません。
そして、どんなにこちらがこだわっても、それは相手があること、状況があることですので、残念ながら、なかなかこちらの思い通りにはなりません。
よってそこに、思い通りにならない「苦」が生じます。
そうすると、その「苦」を解決するための方法が二つあります。
ひとつは、相手や状況を思い通りにするために、さらに頑張ってなんとかしようとすること(しかしこれはなかなかうまくいきません)。
そしてもうひとつは、そんなことにこだわっている自分の方を消して(薄めて)行こうとすること。
後者のためには、そんなことにこだわっている自分が情けないなぁ、という自覚が必要です。
即ち、
自分が何かにこだわっていることに気づくこと、認めること。
そして、そんなことにこだわっている自分を心底情けないと思うこと。
そうして初めて、そのこだわりを乗り超えて行くにはどうしたらいいか、という道が開けて行きます。
そうして今回は、女性が陥りやすいこだわりのひとつとして、「愛されたい」が挙げられています。
さて、女性のあなたには「愛されたい」というこだわりがありますか?
それに気づいていますか?
そういう自分を心の底から情けないと思っていますか?
そしてそのこだわりを乗り超えて行きたいと本気で願っていますか?
そんなふうに見つめてみて下さい。

 

「モウムリ」と言っても、退職代行の話ではない(それは「モームリ」)。
先日、ある精神科医療保健福祉関係の会合で、ベテランの関係者たちが話しているのが聞こえて来た。
「60代になってまだ引きこもりやってるようだったら、もうそれでいいんじゃない。」とか、
「50代までそうやって演じて生きて来たんなら、そのまま行ってもらいましょうよ。」とか、
「気づかないんだったら、敢えて手をつけなくていいんじゃない。」などという発言が繰り返され、
それが私には、「もう無理」なんだからいいんじゃないの、と聞こえて来たのである。

しかし、それはその人たち自身の「敗北主義」的発想に過ぎない。
人間観、人生観が、根本的に否定的で貧しいのである。
それが自分の人生なら自業自得で仕方ないけれど、対人援助職者として当事者に関わるのであれば、大変な迷惑となる。
「もう無理」の烙印を押されて以降、ゾンビのような、生きてるんだか死んでるんだかわからないような人生に対して行う「支援」などというものはない。

以前にもお話したが、80代の女性で、3回の面談で劇的に変わった方がいた。
このままニセモノの自分で死んで行くのがイヤで、必死の覚悟を持って面談を申し込んで来られたのである。
その方に比べれば、50代、60代は、まだまだハナタレ小僧である。
「もう無理」なハズがない。

私は、死ぬ瞬間まで人間は成長する可能性を持っている、と信じている。
いや、信じているのではなく、それが絶対的な真実なのである。
苗木にも老木にも太陽の光は、分け隔てなく、降り注いでいる。
さらにさらに成長せよ、と降り注ぎ続けているのである。

 

 

『論語』の中に、孔子の弟子である子路の学ぶ姿勢について書かれた件がある。

「子路、聞くこと有りて、未(いま)だこれを行うこと能(あた)わざれば、唯(た)だ聞くこと有らんことを恐る」
(子路は、孔子から教えを聞いて、まだそれを実践できないうちは、新しい教えを聞くことを恐れた)

やんちゃなことをやらかしては師に諫められることの多い子路であるが、人間が一本気であるため、愛すべきところも多い人物である。

師の教えを聞いただけで、すぐにわかったような気になる弟子が多い中で、子路は、聞いたことを実践できないうちは、即ち、それが体得できないうちは、次の教えを聞くことを恐れたのである。
実に立派な姿勢だと思う。

また、同じ『論語』の中に

「君子は其(そ)の言(げん)の其(そ)の行(こう)に過ぐるを恥ず」
(君子は、自分の発言が実際に行えている以上になることを恥じる)

という言葉もある。

小人は「言」の方が「行」よりも先行しやすい。
実践できていない、体得できていないくせに、できているかのように言うことを戒めたのである。

これらの言葉が胸のうちにあった私は、近藤先生の面談を受けていた頃、あのこと、このこと、訊きたいことは山ほどあったが、「ああ、それについては、まだ頭の先で知っているだけで、体得できていない。私に訊く資格はない。」と思い、口にしなかったことがたくさんあった。

今も、その姿勢が間違っていたとは思っていないが、少しばかり後悔がある。
思い上がって、できてもいないくせにわかったようなことを言う口先男、背伸び男に堕したくないのは同じであるが、

思い上がりではなく、将来、自分が成長したときのために、より深遠な境地についてもっといろいろ伺っておけば良かった、という後悔があるのである。

師が亡くなられてから二十六年経つ今、流石に私の境地も当時よりは成長している。
ああ、あの時、今のためにあれを訊いておけば良かった、と思うことがしばしばある。
たとえ当時、その真意がわからなくても、今の自分(未来の自分)ならわかるかもしれない、と思うからだ。

そして後悔しつつも

「遍界(へんかい)曾(かつ)て蔵(かく)さず」(『景徳伝灯録』)
この世界は真実を隠したことはない)

という禅語にある通り、近藤先生はいらっしゃらなくても、真実はこの世界に満ちている。
後悔はやめて、この世界から今ほしい真実を見い出す眼を養わなければならない、と思っている。

 

 

「私は海が好きです。そこで、ちょっと疲れたとき、車を運転して海岸のほうをドライブするのです。そうしてずっと海のそばへ行ってね、じーっと海を見つめる。夜ですけれど、波の音を聴いているのですね。静かに聴いていると、生きている海のいのちの音が聴こえてくる。海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。
また、私は山へ行くのも好きなんですね。山でひとりで、それこそ松籟(しょうらい)の音といいますか、森にいますと松をサーッと風が吹き渡る。これが松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。…
みなさんにすすめたいのは、なかなか自分の心の響きが聴こえなかったら、できるだけそうした自然のなかに自分をもっていってみる。そこには何の脅威もない。そこには何の嘘もない。欲も、得もない。。金欲の世界も、名誉の世界も、嫉妬の世界も何もない。そこでは、すばらしい自然が、すばらしい交響楽のように大きい響きを伝えてくる。その響きに自分の体をさらし、それに共鳴する自分のいのちの響きを聴いてみる。ことに若いときからこれをやっていると、一生そのよろこびを持てるような生活に入れると思うのです。
しかし、若い人ばかりじゃあない。あなた方ご自身、こうやって現実の生活のなかで一生懸命奮闘しておられる方々にこそ、これは必要じゃないでしょうか。最近は、中年以上の人たちは、たいてい仕事でストレスを感じています。解消法といえば、お酒。一杯飲むと、いい気分になる。ウフンとなる。でも毎日やってはダメです。どうしても胃腸と肝臓にくる。四十から越して五十過ぎになるとたいてい肝臓をやられますね。胃か肝臓、あるいは高血圧症かどっちかである。男は十八が絶頂であると思えばよいので、十八以後はみな頽齢(たいれい)、老齢にどんどん進むのです。だから、俺はまだ大丈夫と、徹マンなんかやっているのは、自分のいのちを尊敬することにはならないと思う。そういうことよりも、お互いにハッキリ自分のいのちの翳(かげ)りを感じて、お互いがお互いのいのちを尊敬し合うときに、ほんとうにお互いを害することのない、争いのない、真に平和の時代がくると私は思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のこころの響きが聴こえないとき、自分自身を自然の中に連れて行ってみる。
そうして、
海では「海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。」
山では「松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。
飲む(アルコール)・打つ(ギャンブル)・買う(性的快感)でちょろまかすのも、もうやめにしませんか。
金銭欲、物欲、名誉欲、権力欲を満たすことによって得られるペラッペラの自我満足に浸るのも、もうやめにしませんか。
そんな浅薄なものを超えて、あなたが、わたしが、縁あって出逢う人たちすべてが、自分に与えられたいのちの響きを、そして相手に与えられたいのちの響きを、共に感じるとき=共鳴するとき、あらゆる存在が揺さぶられ、この世界全体が、とても大きくて豊かな
交響楽として感じられることになるでしょう。

 

 

診断基準を満たさないものの自閉スペクトラム(AS:Autism Spectrum)や注意欠如・多動症(AD/HD:Attention-deficiet Hyperactivity Disorder)の“傾向”を持つ方は、思いの外、多くいらっしゃる。

ある男性は、小さい頃から、忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
結婚し、子どもができてからも、
忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、さまざまなことで妻からも怒られて来た。
特に彼の妻は、神経症的に几帳面で気を遣い過ぎる方であったために、細かいことまで注意・叱責される日々が続いた。

その妻が、ある日、珍しく大きなミスをした。
そういう性格の人なので、自分でもガッカリしてうなだれていたが、それを見た夫は、ここぞとばかりに、日頃の恨みを晴らそうと、そのミスについてしつこく責めた。

だからあなたは嫌われる。

この夫が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)その態度によって、彼の妻は、今度夫がミスしたときには今まで以上に徹底的に責めてやろうと心に誓い、
本気で、この人と一緒にいて意味があるのだろうか、と考えるようになった。

妻がミスしたときこそ、優しく接してあげることができれば、夫婦仲は大きく変わったかもしれない。

別の男性もまた、同様の特性を持ち、周囲から怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
しかし、彼の場合は、鉄の意志と鬼の努力でガリ勉し、医学部に入って、医者になった。
それでもまだ忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、医局の中では先輩医師から注意・叱責されることが多かった。
そして彼はクリニック開業の道を選んだ。

自分が院長になってしまえば、誰かに責められることがない(少なくとも大幅に減る)。
その思い通り、彼は雇用した看護師や医療事務などの職員の上に“君臨”し、今までの憂さを晴らすかのように、実にエラソーな院長になってしまったのである。

だからあなたは嫌われる。

この男性が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)
自分のミスは棚に上げたそのエラソーな態度によって、退職者は後を絶たず、慢性的に人手不足・求人しっ放しの状態に悩むことになった。

のび太がジャイアンになってどうするんだよ。
自分の特性を認めて謙虚になり、職員に助けてもらいながら、患者さんのために誠実に働く院長になりましょうよ。

結局、起こる問題の本質はいつも、特性によるのではなく、人格によるのである。
特性は変えられないが、人格は変えられる=人間として成長できることを忘れてはならない。

 

 

「カウンセリングで良くなった人を見たことがない。」
と時々言われる。
残念ながら、返す言葉がない。

知人の精神科医が精神科病院で臨床心理士/公認心理師の求人を行ったところ、面接に来る人、来る人、病んだ人が多くて困った、と言っていた。
私見では、精神科医も五十歩百歩なので、偉そうなことは言えないが、
カウンセリング/サイコセラピーを行おうとする本人が、
メンタルな問題を抱えているだけでなく、
その問題と向き合って勝負しようとしないのは極めて問題であると思う。
そんな人がカウンセリング/サイコセラピーを行っても、確かに良くなるはずがない。
そしてもしクライアント/患者さんに「カウンセリング/サイコセラピーってこの程度のものか。」と失望させたら、その罪はさらに重いと思う。

まず自分の問題と向き合って勝負しましょうよ。
そして自分の問題を解決した経験があればあるほど、それはクライアント/患者さんにとって役に立つ経験智にもなっていくと思う。
しかも、人間の成長は無限である。
言い方を変えれば、人間の抱える問題/成長課題も無数にあると言える。
従って、ひとつやふたつ問題解決したくらいで慢心しないで、次々と自分の問題と果敢に向き合って行くことをお勧めしたい。
それによって、あなたの中の智慧の引き出しもまた無限に増えて行く。
ひょっとしたら、引き出しなんていう小さなものを超えた次元に発展していくかもしれない。

初めてカウンセリング/サイコセラピーを受けるとき、面談室/診察室のドアを開けた瞬間、いかにも病んだ/擦れたカウンセラー/サイコセラピスト登場でガッカリ、という惨事だけはなくしたいと思う。

まず汝自身を癒しなさい。

そこからすべては始まるのである。

 

 

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