八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

人間が本気で変わろうとするとき
変わるのは
今日から
今からでなければ意味がない。

しかし、アンポンタンな凡夫は
すぐにそのきっかけを逃してしまう。

そんなとき
大晦日から元日という大きな区切りがあることはとても有り難い。
元旦から!
と手をつけやすいのだ。
よしっ!
元日から変えて行くぞ!
新年から変えて行くぞ!

そして経験者は御存知の通り
これまたアンポンタンな凡夫は三日坊主に終わるのである。

ですから
いい加減、自力を当てにするのはあきらめて
おまかせしましょう、他力に。
あなたを通して働く
あなたをあなたさせてくれる力に。

おまかせします
おまかせします
おまかせします

そのことを
「南無阿弥陀仏」といい
「御心(みこころ)のままに」といい
「惟神(かんながら)」というのである。
宗教用語が嫌いな方は、ホーナイの精神分析の言葉を借りて
「わたしの無意識の底で働いている、わたしの『真の自己』を実現させる力におまかせします」
でも良い。

どうか
そんな想いを胸に
新たなるを迎えられますように。

 

合掌礼拝

 

 

時々、冠婚葬祭のマナー、テーブルマナー、さまざまな世事の付き合いごと、接遇などなど、いろいろなマナーや儀礼に関して、うるさいことを言う人がいる。
そんな話を聞く度に、マナー、儀礼の“根本”について、一度ちゃんと勉強された方が良いんじゃないかと思う。

言うまでもなく、我が国の「礼」に大きな影響を与えたのは、儒教、孔子である。
その孔子が最も嫌ったのが、形だけの「虚礼」であり、「相手を大切に思う気持ち」が先にあって、それをなんとかして表したくて、出来上がったのが「礼」という形である、という孔子の見解に私は大賛成である。

とすると、マナーや儀礼を知らない人を見下す人たちの姿勢には、そもそも「相手を大切に思う気持ち」がない。
これは致命的である。
むしろ最も「無礼」と言える。

さらに、「そんなことも知らないのは恥ずかしい。」と言って相手を責める人もいるが、“恥ずかしい”で相手をコントロールしようとすること自体、そう言っているその人自身が“他者評価の奴隷”であることを自ら露呈しているようなものである。

「恥ずかしくないように」世俗的なマナーと儀礼を完璧にマスターしているが、いちいち言うこと・なすことが慇懃無礼で、いちいち癇に障る人がいる。
また、世俗的なマナーや儀礼なんぞとんと御存知ないが、その溢れる愛と想いに胸を打たれる人もいる。
あなたはどちらになりたいか?

もちろん、まず愛と想いがあって、“ついでに”マナーと儀礼という形も知っているというのであれば、それはそれで苦しゅうない。

ですがやっぱり、「相手を大切に思う」という「気持ちの出どころ」こそが「礼」の“根本”です。
お心得、あるべし。


 

本日をもって、八雲総合研究所も仕事納めである。

今年、面談でお話して来た、あの人、この人の顔が浮かぶ。
勉強会でお話して来た、あの人、この人の顔も浮かぶ。

私にとって重要なのは、その人に対して私に与えられたミッションを果たして来れたかどうか、ということである。
元より、私の力でやっていることではないので、私を通して働く力を私が邪魔しなかったかどうかが問題、ということになる。

「仏法には無我にで候ふ」と蓮如上人がおっしゃる通り、私の我が働けば、それがパイプに詰まり、私を通して働く力が通りづらくなる。
だから、全てを投げ出して、我まで投げ出して、おまかせすることが必要になるのだ。

その上で、さくらがさくらであるように、すみれがすみれであるように、それぞれのカラー、芸風となって、その力が発揮されて行く。
私のカラー、芸風は、授かった持ち味なので、どうかご容赦いただきたい。

そうして、面談を通して働く、勉強会を通して働く、その力によって、少しでもあなたがあなたに近づくことができたのであれば幸いである。

来年またお逢いしましょうね。
来年またお話しましょうね。

あなたがあなたの顔になり、
あなたの生命(いのち)の輝きが増すのを感じる度に
私の凡情も喜ぶけれど
この世界が共に喜んでいるのを感じるのでありました。

 

 

 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と断定的なことを自信たっぷりに言う人がいるが、実際のところは、間違っていることも少なくない。

「それは本当にアンケートを取って調べたのか?」
「確かなエビデンス(証拠)があるのか?」
と詰めて行くと、甚だ怪しいこととなり、その人だけか、せいぜいその周囲の少数の人たちだけの思い込みだったりする。
精一杯
広く見ても、せいぜい、その地域、その時代だけの思い込みであることが多い。
それではとても「フツー」「みんな」などと言うことはできない。
それなのに、

フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と言うのは、十分に「独善的」である。

さらに
 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
という表現の裏には、
「だから、おまえもそうしろ!」
というメッセージも隠されている。
そうなると「支配的」でさえある。

皆さん、騙されないように。

健全な人間には、
フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と思いそうになっても、

「ひょっとしたら、これは自分だけの思い込みかもしれない。」
という謙虚な内省が生じるはずであり、

もし万が一、あなたが誰かに、あなたの意見を言いたいと思ったとしても、
「フツー」「みんな」というような、言わば、“ズルい”言い方を使わず、
「(他の人は違うかもしれないが)私はこう思う。」
とか
「だから(もし宜しければ)、あなたもそうした方が良いんじゃないかと思う。」
というような表現になるだろう。

そのときには、あなたにはあなたの人生を歩んで行ってほしい、という愛と願いがこもるはずである。
そうなると、あなたの存在は、世界に一人であり、人類史上初めての存在であるわけだから、
「フツー」も「みんな」も関係なく、あなたの選択が、世界に一人の、人類史上初めてのものであっても構わない、ということになる。

だから、やっぱり戻るところはここになる。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かった。
自分がどう生きて死ぬのかを見い出すのが、出生の本懐なのである。

 

 

 

以前、知人宅で家族一緒のカードゲームに誘われた。
家族みんなが好きなのだというが、私は苦手なので、と丁重にお断りした。

そう。
カードゲームは余り好きではない。
相手の心理を読んだ上の駆け引きとか、勝つためのフリに演技に嘘八百など、やろうと思えばいくらでもできるし、所詮遊びなのだからとテキトーなやり方もできないではないが。それでも面倒臭くてしょうがないのである。

それには私の生育史が絡んでいる。
相手の心理を読んだ上での駆け引きとか、なんとかその場を切り抜けるためのフリに演技に嘘八百など、そんなことは保身のためにイヤというほどやって来た。
もうたくさんなのだ。
そんなゲームをしなくても、本音から結論からコミュニケーションして行って、楽しい時間はいくらでも過ごせるということを、今の私は知っている。

だから、今の仕事も向いているのだろう。
相手の心理を読んだ上での駆け引きとか、なんとかその場を切り抜けるためのフリに演技に嘘八百に行き詰まったクライアントの方々が面談にいらっしゃる。
もっと人間を信じて、言葉を信じて、生きて行きたい人が面談にいらっしゃる。
私の通って来た道だ。
伝えられることは山ほどある。

そういう信頼と愛とに基づいた人間関係を構築できるようになった後で、やっぱりカードゲームを楽しみたいのであれば、それも「あり」だろうが、それでも私は「なし」だな。
可能ならば、いつでもどこでも誰とでも、正面からど真ん中の関係が私には心地よい。
 

 

今日、親族の逝去に立ち会った。
通常なら、そういう時間を持つことも難しいが、今回はたまたまが重なって立ち会うことになった。

地域のある大きな基幹病院での、本人と家族への医療と看護。
終末期の対応から、看取り後のエンゼルケア、エンゼルメイク、そして病棟からの送り出し。
事務方、葬儀社連携の霊安室から御見送りまでの流れ。

それが誰であろうと、ひとりの人間が生きて来た長い一生の最終の最後だもの。
どれも、いい加減に済ませたり、機械的に済ませたりできるものではない。
敬意を持って接したい。
その意味で、大規模病院ながら行き届いたものであった。

こうしたさまざまなハードとソフトも含め、故人のお蔭で、勉強になることが多かった。
やっぱり病院は“人の姿勢”で運営されているのだと思う。
少なくとも故人は、闘病はあったにしても、幸せな最後を迎えられたと確信した。

そしてここまでが“情”のお話。
究極のところは、何がどうなろうとおまかせなのであり、救いは万人に約束されている。

その想いを胸に
「一生のミッション、お疲れさまでした。」
と合掌礼拝して御見送りした。

 

 

「教育者全体にも言いたいことですが、人間関係にも言いたい。それはどういうことかと言いますと、よく私が言う、ひと言でいうと、水を流すためには溝を作れ、というんです。…水が来るように、そこに溝をね、掘らなくちゃいけない。溝を掘ると自然に水は流れる、通じて来る。それがだな、私はいつも思うんだけども、この家庭の問題で、あるいは人間関係で、教育で、足りないのがそれだと思うんです。…
やっぱり、その意味でね、平生(へいぜい)からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。だから、子どもでもそうですね。子どもでも、急にこうしたからといって、なんですか、お母さんは、『私はあなたの生命(いのち)を大切にしてんのよ、だから、こうしなくちゃ!』なんて、僕に聞いたようなことを言ったって、そりゃ、ダメですよ。本当に、毎日のおかずを作ること、御飯を作ることに心を込めた、そうした本当の、先ほど言ったように、ね、ニッコリ笑ってあげるとか、そういうことでね、溝を掘って行かないといかんのだな。溝を作っていかなくちゃいけない。そうしたときに、フッとこう、どうかしょうと思ったとき、お母さんの顔が浮かんだと、ね、それで思い直したと。何のことはない、ただもう無性に…うちに帰りたくなったと。こうしてお母さんにね、逢って、そうして人生の転機をね、迎えた人が何人か、たくさんあります。…
これも、普通の人間関係でもそうです。普通の人間関係でも、お互いにそうしたことを、上役が部下に対して、急に威張ろうとしてもダメなの。平生から部下との間の、いわゆる、そうした意味の、部下の生命(いのち)を観、その若々しい生命(いのち)をもう、じっとこう観て…若い人たちに僕は心から、本当に祝福を送りたい。そういう若者というものは、いつも、やはり、決してね、悪くなろうなんて思ってないの。いつもね、本当に自分の自分の生命(いのち)を輝かそう、本当に発揮しようと思ってる。そういうものを本当に認めてやるときに、生命(いのち)は伸びて行く、若者はね。だから、それをいつも、上役とか年寄りはね、考えるべきだと思うの。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

「溝を作る」ことについては、別の講演(「金言を拾う その9 溝をつける」)でも近藤先生は強調されていました。
改めてここで確認しておきましょう。
本当の挨拶(
=相手の生命(いのち)に対して合掌礼拝(らいはい)する姿勢)を毎日毎日続けること。
親が子どもの食事を作ってあげるときも、子どもの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って、毎回毎回心を込めて作ること。
上司が部下に、先輩が後輩に接するときも、毎日毎日その部下の、後輩の生命(いのち)を祝福する気持ちで接して行くこと。
大切なのは、毎日毎日、毎回毎回。
でも、我々は愚かな凡夫なので、つい忘れてしまうんです。
忘れたって構わない。
思い出す度、思い出す度、やっていると、いつの間にか、段々覚えていることが増えて行くんです。
それで結構。
それが凡夫の歩み。
でも凡夫なりの一所懸命。

そうなんです。
「溝を作る」とは、「私」と「あなた」の間に溝を作るということなんですが、それだけでなく、「大いなる力(あなたに生命(いのち)の礼拝をさせる力)」と「私」との間に溝を作るということにもなっていたのです。

 

 

今日はクリスマスイヴ。

釈尊もそうだけれど、キリストも、わざわざ人間という形を取って、この世に生まれて来て下さったということに、言葉に尽くせない感謝を感じます。
そういうふうにして示して下さらないと、この凡夫は、この迷える子羊は、いつまで経っても、仏の大悲に、神の愛に包まれていることに気がつけないもの
しかも、釈尊は釈尊で、キリストはキリストで、酷い酷い目にまで遭って下さるんです。

だから気づきましょう。
だから感じましょう。
キリストの降誕は、いつ・いずこにありやと。
それは2024年前(実はその数年前だとか諸説ありますが)のベツレヘムの馬小屋ではありません。

今ここに刻々と降誕し続けて下さっているのです。
生命(いのち)の降誕。
真実の降誕。
愛の降誕。
それが途切れるわけがないじゃないですか。
常に生まれ生まれて生まれ生まれて。
でも、それがわからないボンクラのために
わざわざ12月24日という一日を設定して
思い出させて下さっているのです。

どこまでも行き届いた設定に
どこまでもアンポンタンな迷える子羊は
ただ首(こうべ)を垂れて合掌し、感謝するしかないのでありました。

 

 

今日お話したいのは、今年流行ったこの曲『Bling-Bang-Bang-Born』のサビの部分を聴いたときに、あなたは思わず踊ったか踊らなかったか、ということである。

抑圧が強くて踊れない(踊らない)。

他者の目を気にして踊らない。

反対に、他者の目を気にして(ウケを狙って、すごいと言ってもらいたくて)踊る。

これ、みんな、邪道ズ!

リズムに体が共鳴し、勝手に動く、踊る、ワクワクする、嬉しくなる。
うまい?下手?合ってる?間違ってる?
そんなの知るかっ!

生命(いのち)の躍動こそがダンスの原点である。
それ、できますか?

ちっちゃい子どもたちなら、それが訳なくできるんだよね(子どもでも大きくなるにつれて段々他人の目を意識するようになってしまうのは悲しいけれど…)。

緑風苑ワークショップがあったら、これ、絶対やってるだろうな。

さぁ、レッツ・ダンス!
♪​Bling-Bang-Bang, Bling-Bang-Bang, Bling-Bang-Bang-Born!

 

 

私が定期的に受けている大腸内視鏡検査では、検査前に大腸内の便を除去してしまうために、検査前夜に下剤を飲み、検査当日に腸管洗浄剤を飲むという2段構えの前処置がある。
今回は、その検査前夜に服用する下剤の話であるが、精神科で私も処方し慣れた、アローゼン(センナ)やプルゼニド(センノシド)、ラキソベロン(ピコスルファート)などが使われることが多い(アローゼン、プルゼニド、ラキソベロンは商品名で()内は一般名である)。
もう何度も検査を受けている私は、
それまで、あるときはアローゼン顆粒(0.5g)2包を、またあるときはプルゼニド12mg錠 2錠を前夜に飲むように言われ、検査日を迎えていた。
これはいずれも成人が便秘のときに1回に服用する通常使用量である。
それで、今までの検査は、何の問題もなく、受けることができた。

それが、ある検査のとき、担当医師からラキソベロン内用液を出され、1本10mL全部を飲むように指示された。
えっ?
ラキソベロンも処方し慣れた薬であるが、成人の1回に服用する通常使用量は10~15滴である(これをコップの水の中に滴下して飲む)。15滴=1mLであるから、10mLはその10倍に当たるのだ。
それでも、“従順”な私は、まあ、その方が余計に出て良いか、くらいに思って、1本全部を服用し、地獄を見ることになる。

翌朝、腹痛によって目覚め、便が出るどころか、激痛は増すばかり。
既に尿路結石の疝痛発作を経験している私だが、その痛みはそれに勝るとも劣らない救急車級であった。
どれくらいのたうち回っただろうか、やがて鉄の意志と鬼の根性で痛みを乗り切った私であるが、もう2度とラキソベロン1本は飲まないと固く誓ったのであった。

医師の指示を鵜呑みにせず、自分の頭で考えること。
既にアローゼンやプルゼニドの通常使用量で検査が成功していたのだから、ラキソベロンも通常使用量にしておけば良かったのである。
(ちなみに、担当医師の名誉のために付け加えるならば、ラキソベロン1本服用の指示を出す医師は結構おり(中には某大学病院で2本!というのもあった)、現に服用してちゃんと検査を受けている人もいるので、これは個人差なのかもしれない。それにしても、私は私に合わせるべきであった)

その少し前、私の親友が、角膜移植手術を受けることになり、術前に球後麻酔として眼の周囲に局所麻酔注射を受けることになった。
申し遅れたが、彼には先端恐怖があった。
何でも先の尖ったものを見ると、自分の眼を突かれるんじゃないか、と思ってしまう恐怖である。
元々それがあるのに、実際に目の周囲に注射針を刺されるのである。
これほどの地獄があろうか。
しかし精神科医である彼は、術前に自分で高容量の抗不安薬を服用して行った。
そんなことは知らない眼科医は、術前投与として通常使用量の抗不安薬を出したが、彼はあっという間にフラフラになってしまった。
それを見た眼科医が「あ~ら。抗不安薬がよく効く方ですねぇ。」と。
よく効くはずである。既にしこたま飲んで来ているんだもの。
それで手術を乗り切った彼は流石であった。

私が従順に、自分で判断せず、担当医師が決めたラキソベロン1本を服用して地獄を見たのに対し、
親友は、自分で判断し、自分に必要な抗不安薬の量は自分で決めて服用して地獄を回避したのである。
やっぱり、ただ従順で良いのは子どもの頃までで、大人は自分の頭で考えて自分の責任で自分を守りましょうね。はい。

 

 

英語で「お先にどうぞ。」というのを“After you.”というそうだ。
わたしはあなたの後から行きます、という調子で、自我を主張しがちな英語文化圏としては、相手を先にし、自分を後にする美しい表現だと思う。

例えば、街を歩いていても、向こうから歩いて来た人とぶつかりそうになったとき、
また、車を運転する人なら、対向車とのやりとり、

さらに、電車やバスでの席の取り合い・譲り合いなどでも、
我の主張の有無がすぐに観て取れる。

但し、間違わないでいただきたいのは、そういうときにはこうすべきである、我の主張を抑えるべきである、というような超自我(見張り番)的な話をしているのではない。
超自我に頭を抑えられて、意図的努力でそうするのであれば、それは「偽善者」である。

そうではなくて、我々を通して働く力に導かれて、思わず知らず「お先にどうぞ。」“After you.”と出る境地を授かりたいのである。

そう思ってみると、“After you.”の“you”は、実は、目の前にいる「あなた」のことではなくて、“God”=神さまのことではないか、と今気がついた。
「あなたに導かれて、あなたの後に従っていきます。」

そんな気持ちで“After you.”「お先にどうぞ。」が出て来たら、わたしは合掌したくなるだろう。
そこには“you”への感謝しかない。

 

 

ある臨床心理士の書いた発達障害に関する文献を読んでいたら、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」として、子どもの「強み」として感じられることを「意識しながら伝え直して終了」すると書いてあった。
その理由として、親御さんの中には、子どもの発達歴を振り返ることで、自分の育て方に問題があったのではないか、本人の困り感にちゃんと気づいて対処してやれなかくて申し訳ない、と自責の念を抱いている人もいるからだという。
そして、そのような気持ちを払拭するために、面接の最後は、子どもの「強み」の話や、親御さんが感じている子どもの「肯定的な面」を「意識して」伝え直して、気持ちよく終了へと導いていくというのだ。

この文献は。そこまでは非常に優れた内容で、大変勉強になったのだが、この点だけはガックリと失望した。
発達障害の臨床的知見については優秀なのだが、サイコセラピー的な面となると、根本的な間違いを犯している。

まずひとつには、「強み」「肯定的な面」と称して、具体的には、お子さんはこういうところは苦手だけれど、こういうところは優れている、などと伝えていく点である。
その背景には、やっぱりできる方が良くて、できない方がダメだ、という能力主義的な発想がある。
そこが大問題なのだ。
例えば、一部の専門家が、「サヴァン症候群」と称して、自閉スペクトラム症の人たちが、一方で障害を抱えながら、他方で非常に優れた能力を発揮することを取り上げている。
その背景にも、こんな障害がありながらも、こんなことができるなんてすごい!という価値観が臭う。
やっぱり、できてなんぼ、なのである。
じゃあ、同じ自閉スペクトラム症の人たちで、サヴァン症候群でない人たちはダメなのか?
私はいつも重度心身障害児病棟で出逢った子どもたちのことを思い出す。
最重度の子どもたちのどこに、他の子どもたちよりも優れた「強み」や「肯定的な面」を見い出せというのか。
なんのことはない、この臨床心理士自身が、実は能力主義(=できる方が優れている)者だったのである。
何かが苦手な障害者の方々に接するのが我々の仕事である。
いい加減、能力主義というとらわれから脱しようよ。
息をして心臓が動いているだけで、どれだけ尊いか、人間の存在の絶対的価値を本気で体感しようよ。
まず能力主義へのとらわれが第一の問題。

そして次に、それが親御さんの自責の念を払拭するためであるのならば、そんな迂遠な、まわりくどいことをせず、はっきりと親御さんの眼を見て、「お母さんの育て方のせいではありません。ご自分を責めないで下さい。」「何も教わっていない非専門家がちゃんと気づいて対処することは不可能です。教わらない中で、支えられない中で、お母さんはお母さんなりの一所懸命でやって来ました。」と明確に告げるべきだと私は思う。
自責の念を払拭するために、子どもの「強み」や「肯定的な面」を挙げるのは、迂遠過ぎる、というのが第二の問題。

そして第三に、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」というのがどうしても引っかかる。
「方」かい!
やっぱり how to なのである。方法なのである。操作なのである。
そうじゃないでしょ。
そんなうすっぺらな「やり方」ではなく、目の前の親御さんに対する思いの出どころが、「ああ、このお母さんにも幸せな人生を歩んでもらいたい。」「母親である前に、一人の人間として自分を生きて行っていただきたい。」などという思いがあれば、言葉なんてもうどうでも良いのである。
近藤
先生の言葉を借りれば、親御さんの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って接することができれば、もうそれでいいのだ
肝心なそれがなく、「終わらせ方」という「操作的」な「やり方」に堕しているのが第三の問題である。

 

 

映画や舞台を観に行っているときに気がついた。
目の前で繰り広げられている話の展開が、いつの間にか、わからなくなっている。
より正確に言うならば、頭の中が目の前と全く別の連想や空想にどんどん逸れて行ってしまい、結果的に、話の展開が全くわからなくなってしまっているのだ。
あれ?これ、何の話だったっけ。
話が寸断され、わけがわからない。
そんなことがちょいちょいあった。

なんでこんなことになるのだろう。
しばし内省して思い当たった。
親からの一方的で強い感情に晒(さら)されていた幼少期。
逃げ場のない子どもは、目の前の世界から意識を外すことで、自分の心を守ったのである。
目の前で起きていることから意識を外す。
そして空想の世界に意識の重心を移す。
言わば、そこにいなくなるのだ。

さらに巧妙なのは、あからさまに見ていない、聞いていない態度を取れば、親からさらにひどい攻撃を受けるので、一応は見ている聞いている体(てい)は保っているのである。
我ながら、こりゃあ、なかなか厄介だ、と思った。

どこが厄介かというと、当時は精神的に自分を守るためには、そうせざるを得なかったのであるが、いつの間にか、習い性となり、大人になってからは最早必要のないそのパターンが残存してしまったのである。
心の生活習慣とは恐ろしいものである。
目の前のことから意識を飛ばすことが、習慣化してしまったのだ。
あのまま放置されていたら、本格的な解離症状に発展してしまっていたかもしれない。

そして幸いにも、近藤先生のお蔭で、自分であることを取り戻した私は、映画も舞台も、それだけじゃあない、生きている全ての場面で、自分でいられるようになることができた。
そう思って改めて娑婆の人たちを観ると、私ほどではないにしても、現実逃避で生きている人が、実はとても多いことに気がついた。
大多数の人は、その現実逃避の程度が軽いために、そんなに大きな支障に至らず、却ってその問題を解決できないまま人生を送ることになるのである。

だからこそ、私くらいか、私以上に現実逃避している人たちの方が、その問題と直面化でき、根本解決できるチャンスが与えられるということになる。
だからこそ私は思う。
悩める人たちよ、心配するな。
ちゃんと懊悩するからこそ与えられる根本解決の道があるのだ。
そこをちゃんとくぐって来た人は、目の前の現実とも、自分の現実とも、まっすぐに対峙して、成長することができるのである。

 

 

「例えば、教師はね、この前もちょっと言ったけど、どうしてあのは校長先生の言うことを聞いて、私の言うことを聞かないんでしょう、とこう言うわけですね。僕は別に何もしたわけじゃないんですよ、ね。ただ毎日、その子どもがやってくるときに、こうやって『おはよう!』とこうやるんです。ニッコリ笑って『おはよう!』と言ってる。すると向こうが『おはようございます!』とこう言います。それ以外、何もやったわけじゃない。けれども、僕はそのときに、『おはよう!』って言うときに、本当に『おはよう!』っていうのは、私は、実は、自分の気持ちで、まあ、あるとこにも書きましたけども、『おはよう!』という挨拶ね、あれは、どういう意味かというと、ああ、今日もあなたは健康に、早く目覚めて、生きていますね。おめでとう! こういうことが『おはよう!』ってことなんだ。だから英語では“Good morning”。Good なんだ、ね。おはようってのは、そういう気持ちで、つまり、あなたの生命(いのち)を私は礼讃(らいさん)します。あなたの生命(いのち)は活き活きと今、動いています。今日も溌溂(はつらつ)と動いていますね。おめでとう! それが『おはよう!』 それは相手の、生徒の持ってる、子どもの持ってる、その生命(いのち)に対する礼拝(らいはい)です。
僕はさっきあなた方に頭を下げました。この頭を下げたのは、なんでもないようですけども、僕はここに、あなた方がこうやってらっしゃる。全ての人の生命(いのち)に対して心から喜びを述べたんです。一人ひとりに花咲いているこの生命(いのち)、これに対して私はつくづくと頭を下げるわけです。挨拶ってそういうもんです。…
そういう意味で、いつも、この、挨拶ということをやる。それをやっていますと、自然に通じるんです、その気持ちがね。それから後で何か言うと、聞いてくれるんです。…
それをね、その、平生(へいぜい)のだ、毎日毎日のことをしないで、これを僕は触れ合いって言うんです、ね。心の触れ合い。生命(いのち)と生命(いのち)の触れ合いです。そういうものをしておかないとですね、私が校長訓話なんてやったってね、誰も聞いてくれないんですよ。何言ってやんでぇ、とこうなっちゃう、ね。
やっぱり、その意味でね、平生からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の生命(いのち)を通して働く力が、近藤先生にホンモノの挨拶をさせ、その力が生徒たちの生命(いのち)に届いて、その生命(いのち)が喜ぶ、ということになります。
そのとき、生徒たちの生命(いのち)が喜ぶのはもちろん、挨拶をしている近藤先生の生命(いのち)も喜んでいる、というところがとても大事なんです。
我々の生命(いのち)を通して、大いなる力が働くとき、まず我々の生命(いのち)が喜ぶ。
そして、それがホンモノの挨拶となって生徒たちに届く。
すると、その大いなる力が届いた生徒たちの生命(いのち)も喜ぶのです。
すから、このとき、近藤先生も生徒たちも笑顔になります。
昨日、お話したことですが、これはホンモノの笑顔ですね。
生命(いのち)が喜んだことから溢れて来る、最も深い笑顔です。

 

 

「笑顔で過ごしましょう」
「いつも笑顔で明るい毎日を」
「笑顔は人を元気にします」
などなど笑顔にまつわる標語は多い。

しかし私はそれらを耳にする度に何かが引っかかる。

中には、どんなに哀しいときでも笑顔にさえしていれば、哀しくなくなって来る、とまで言う人がいるが、それは抑圧であり、すり替えであり、無理な演技の臭いがして来る。

思えば、「作り笑顔」くらい哀しいものはない。
眼が笑ってない。
眼の奥が笑ってない。
心が笑ってない。
生命(いのち)が笑ってない。
余程、鈍感でない限り、その背後にある哀しみを観抜かれる。

笑顔はあくまで結果であり、
「感情」が喜んだ結果、笑顔になる。
また、「感情」よりもさらに深く、「生命(いのち)」が歓喜(よろこ)んだとき、即ち、「霊性」が喜んだとき、結果として笑顔になる。
笑顔に「なる」、それが本来の姿。

と思っていたら、ある居酒屋のアルバイトのお兄ちゃんがとってもイケメンで、お勘定のときに「ありがとうございました!」と笑顔で言われた瞬間、それだけでちょっと嬉しい気持ちになった。
また、コロナの予防接種を受けたとき、注射してくれた看護師さんが余りに美人で、注射後に「お疲れさまでした!」と笑顔で言われた瞬間、もうそれだけでちょっと幸せな気持ちになった。
つまり、何が言いたいかというと、作った「笑顔」でも「感情」までは操作できることがある、ということである。
それは認めよう。

それでも、「作り笑顔」では、「生命(いのち)」までは、「霊性」までは届かない。
そこまで深く到達しない。
だからやっぱり、「生命(いのち)」の喜び、「霊性」の喜びを目指しましょうよ。
それはあなたが紛れもなく本当のあなたを生きているときに与えられるものである。
そのときの笑顔は何よりも何よりも素晴らしいと断言できる。

 

 

たまにはお気楽なお話。

昨日・今日(12月15日(日)・16日(月))は「世田谷のボロ市」前半の開催日。
1578(天翔6)年から447年続く、骨董品や日用品の露店市であり、露店の数は600にのぼるという。
今夜は所用の帰りに、ちょっと足を伸ばして、ボロ市通りを散策してみた。
訪れるのは十年以上ぶりになる。

閉店近い時間帯だったせいもあり、人出でも落ち着き始め、ゆっくりと露店を見て回ることができた。
そうすると、真っ当そうなお店やお祭りでもよく見かける食べ物屋さん以外に、やっぱりいろいろありましたよ、怪しげな(失礼)お店が。
これだから、こういう露店市はたまらない。
夜の裸電球(今はLED?)の下で見る、わけのわからなそうな(また失礼)商品たちがとっても魅力的に見えるのであります。
みなさんよく御存知の通り、買い物の醍醐味は、無駄遣いと衝動買い。
それをそそるに十分な雰囲気である。
ああ、どうしてこの空気の中では、必要のないもの、しょーもない(またまた失礼)ものがこんなに買いたくなるのだろう。
おいおい、おじょうさん、それを買うと絶対に後悔しますよ?(またまたまた失礼)
ああ、お父さん、そんなものを持って帰ったら絶対に奥さんに怒られますよ(またまたまたまた失礼)。
でも、いいんです。
それがボロ市。
それでもね、間にコロナを挟んで、ボロ市の勢いがちょっと大人しくなった感がありました。

御関心とついでのある方は、年明けの「世田谷のボロ市」の後半へどうぞ。
2025(令和7)年1月15日(水)・16日(木)午前9時~午後8時の開催。
寒いときにやるのがボロ市です。
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通っていた学校が、旧藩校だったせいか、悩める中学生はまず『論語』を読み始めた。
その意味で私の求道歴は、儒教から始まったと言える。
以下、読んできた書籍を詳細に挙げればキリがないため、代表的なものに絞って書く。
続いて道教に興味が広がり、『老子』『荘子』なども読むようになった。
それら中国古典のお蔭で、その後、漢文が苦にならなくなったのは有り難いことであった。
そして精神科医になった頃から、本格的に仏典に手を伸ばすようになった。
まず『仏教辞典』を通読してみたのは、若者らしいチャレンジだったと思う。
そして浄土門や禅を中心に、唯識仏教や倶舎論から大乗経典を読んでみた。
私の本の読み方として、解説書を読むのは最低限に留め、可能な限り原典を読む、という姿勢は今も大切にしている(わかっていない人間の書く解説書は最悪であり、まだ純粋に学者の書く学術的注釈の付いた本の方が、余計なものが入っておらず、有り難い。しかしサンスクリット語からの現代語訳はどうもピンと来ないため、漢訳の方を読んでいる)。
その数少ないわかっている人間として、鈴木大拙と玉城康四郎の著作にはお世話になっていると思う。
そんな中で、近藤先生と一緒に『阿毘達磨倶舎論をレジュメを作りながら読んだのは、良い思い出である。
そしてまた先生から、「体験に基づいて読む」という姿勢を教わったのは、返す返すも有り難いことであった。
この姿勢により、単なる「読んだことがあるだけの受け売り・物知り人間」にならないで済んだ。

その後、キリスト教にちゃんと触れていないのは良くないと思い、聖書を読むようになったが、どうも口語訳(現代語訳)は軽い感じがするため、今日に至るまで『旧約聖書』も『新約聖書』も文語訳の方を読んでいる。
ここではエックハルトなどとの出逢いもあった。

そして神道にも興味が広がり、ここでもまず『神道事典』を通読してから、『古事記』『日本書紀』や古神道、復古神道などを読んだ。
今でも、霊性的には、神道が一番しっくりする気がしている。
もっと言えば、縄文かもしれないが。
そして最後にイスラム教。
これを知らないのは宜しくないと思い、まず『コーラン』(厳密に言えば、『コーラン』はアラビア語のみを『コーラン』とし、日本語訳は存在しないことになっている。岩波書店の『コーラン』も正確には日本語訳ではなく日本語の解説書ということになる)を読んだ。

そして、この分野では、その後、井筒俊彦の著作に大いに助けられた(イスラム思想だけではなかったが)。
このように、儒教→道教→仏教→キリスト教→神道→イスラム教が、私が触れて来た道筋である(今回は宗教分野についてご紹介した)。

いずれかの分野にご関心のある方は、面談時にでも訊いて下されば、お勧めの書籍をご紹介致しましょう。
但し、くれぐれも頭で読むのではなく、身読でね。

 

 

昨日に続いて、今日は「書類」についての話。

精神科分野で医師が記載する書類としては、①自立支援医療の診断書と②精神障害者保健福祉手帳の診断書、それから③障害年金の診断書を書く機会が多い。
そこに児童が入ると、④特別児童扶養手当が加わることになる。

これもまた前医が書いたコピーなどを見ると、これでホントに通ったのか!?と思うくらいスッカスカの内容の書類に出会うことがある。
実際、制度利用のためなのだから最低限を書いて通れば良いだろう、その方が効率が良いというものだ、とうそぶく医師もいた。

しかし、私はそうは思わない。
例えば、2年に1度更新して提出する書類であれば、その書類は、通れば良いというだけのものではなく、その人が2年間生きて来た証しを記(しる)すという面があるのだ。
その証しを少しでも書いておきたい、という思いが私にはある。

これまた、とても業務が忙しかったり、担当する患者さんの数が多く、書類を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も、いつもそんなに立派な書類を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、
1行でもいい、なんなら1語でもいいから何かキラッと光るもの、その人(患者さん)の存在が伝わるものがある書類を書いておこうとすることである。

先日、ある精神科医と話していたら、私と同じ気持ちで書類を書いている人であった。
そのやり方だと書類作成が遅くなるので、よく事務方に怒られますけどね、と笑っていた。
同志というのはいるものだ。
なんだか嬉しくなった。

よって、このことは精神科医の後輩たちにお勧めしておきたいと思う。

これは単なる書類書きではなく、主治医としての“姿勢”の問題なのである。

 

 

もう30年以上前のことになるが、私が研修医になった年の秋、初めて週1回の関連病院パート勤務が始まった。
行ってみると、超長期入院の患者さんばかりの担当になっていた。
思うに、新人には状態の安定している患者さんを、という配慮だったのであろう。
そしてカルテを見て驚いた。
とにかく書いてない。
それまでカルテ記載は、月に1回の診察で毎回ドイツ語で「stationär」(変わりなし)の1語(1行)のみ。
新人研修医でも流石に、それはおかしいだろう、と思った。
人間がひとり、1週間生きていれば、絶対に何かがあるに決まっている。
意地でもそれを見い出して、毎週カルテに書いてやろうと思った。
そしてそういう姿勢で診察に臨むと、最初は何も話してくれなかった患者さんたちも次第に思いの内を話して下さるようになった。
そうなると、さらにカルテに書くことが増えて行く。
そうこうしているうちに段々と、なんでこの人はこんなに長く入院しているのだろう、などと思うようにもなって行った。

当時の原点に始まって今日に至るまで、変わることなく思うのは、その記録が、その人がこの世に生きて来た証しとなる、ということである。
そう思うと、あんまりいい加減な記録で済ますわけにはいかなくなって来る。
それはカルテだけではない。看護記録、介護記録、訪問記録、面接記録、作業記録などなど、何でもそうである。
時々、なんとか空欄を埋めただけの空疎な記録、怒られない程度に何か書いたフリの記録、コピペで済ませた毎回ほぼおんなじ内容の記録などを見るとガッカリする。
そりゃあ、とても業務が忙しかったり、担当する患者さん、利用者さんが多く、記録を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も毎回そんなに立派な記録を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、1行でもいい、なんなら1語でもいい、何かキラッと光るもの、その人(患者さん、利用者さん)の存在が伝わるものがある記録を書こうとするということである。
それだけは対人援助職の後輩たちにお勧めしておきたい。
そしてそうすることで、有り難いことに、我々対人援助職者の“感性”も常に磨かれ続けて行くのである。

 

 

昔、外来に来ていた青年が村上春樹の小説をよく読んでいた。
よく話題に出るので、その人を理解するために、私も十数冊ほど読んでみたことがある。
それでも全著作を読んだわけではないので、話題に出て来た作品について、知っていれば知っていると言い、知らなければ知らないと言って話を続けていた。
ある日、彼がボソッと言った。
前に通っていた精神科の先生は、村上春樹のことを知っているというので話していたけど、実は解説記事を読んだことがあるくらいで、1冊も読んだことがなかったんだよね。
それがわかったときの彼の失望が目に浮かんだ。
読んだことがないなら、ただそう言えばいいのにね。

やっぱり、ウソはいかんです。
特に、面談という大事な場面でそれはいかんです。
知らないことは知らんでいいんです。
それよりも何よりも、大切な話をしている人に対しては誠実でなければいかんです。
クライアントよりも自分の虚栄心=知ったかぶりの方が大切なのはいかんです。

誤解のないように付け加えるならば、
クライアントが関心を持っていることを全部セラピストも知るべきだ、と私は思っていない。
また、クライアントが関心を持っていることをセラピストが知ろうとすることは、クライアントに媚びを売るためではない。
もしそれがクライアントの治療や成長に必要だと思ったならば、そうすればいいだけのことである

昔、児童専門外来をやっていた頃、スーパー戦隊ヒーローが好きな男の子が多かった。
ゴレンジャー以降のスーパー戦隊ヒーローを知らない私は、毎年のように名前が変わる〇〇レンジャーや〇〇マンなどに付いて行くのにヒーヒー言っていた。
そこで途中からは、「わからないから先生に教えて。」と子どもたちにご教示願うことにした。
流石に、スーパー戦隊ヒーローに子どもたちほどの関心を持てなかったわけであるが、子どもたちには大いに関心があった。
それで良かったのである。
それがあればウソも虚勢もない。

結局、真実は簡単なこと。 
人間として正直にいきましょ。

 

 

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