近藤先生が時々「彼は学者だな。」と言われることがあった。
それは知識はあるが“体験”がない、という意味であり、
そこには、残念ながら本当のことがわかっていない、というニュアンスがあった。
鈴木大拙がアメリカで大乗仏教について英語で講義した記録がある。
それを日本語に訳した学者が、この内容はいろいろその成立に問題があると言われる『大乗起信論』に拠っているから真に大乗仏教について語ったものではない、という趣旨のことを書いている。
こいつも学者だな、と思った。
知識はあっても“体験”がないのである。
“体験”があればわかる。
『大乗起信論』を誰が書いたか知らないが、馬鳴(めみょう)に仮託して間違いなく“体験”がある人物が書いている。
それは釈尊に連なる“体験”なのだ。
よってこれは真実の書である。
それをまた“体験”のある大拙が説いている。
それがわからないか。
それを読めないのか。
『大乗起信論』がヒンドゥー教の影響を受けていようといまいと、どうってことはない。
そこに書かれていることが「一人残らず必ず救う」という本質を伝えているかどうかが問題なのである。
他にも例がある。
『法華経』という仏典がある。
亀茲(きじ)国の僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマ―ラジーヴァ)によって漢訳された仏典が広く使われてきたが、サンスクリット語で書かれた経典が見つかり、学者たちが翻訳してみると、漢訳には随分と訳者の手が入っていることが明らかになった。
問題はそこからである。
学者たちは鬼の首を取ったように、その漢訳の問題点を指摘した。
やっぱり学者なのだ。
よくその漢訳を読むべし。
鳩摩羅什には“体験”があるではないか。
それもまた釈尊に連なる“体験”である。
だからその翻訳もまた“仏説”と言って良いのである。
それがわからないか。
それが読めないのか。
従って、読む人が読めば、そのサンスクリット版よりも漢訳の方が宜しいのがわかる。
“体験”がないというのは、とてもとても悲しいことなのである。
確実に道に迷う。
学者というのは、一度も海に入ったことがないのに、研究室で海水の分析をして海について語っている連中という気がして来る。
入ったことがないんじゃあ、わかんないよ。
いいから、一度海に入ってみなよ。
そして海のなんたるかを全身で“体験”せよ。
かつて近藤先生がホーナイのもと、禅に関する講演を行ったのを聞いた鈴木大拙は自宅に近藤先生を呼んで、本物かどうか確かめようとした。
そのときの言葉は
「で、君は何か“体験”があるのかな?」
であった。
もちろん大拙は近藤先生が入室した瞬間に、この男に“体験”があることは見抜いているのである。
こうでなくっちゃあ、面白くない。
尚、学者の名誉のために言うならば、学者の中にも稀に“体験”がある人もいる。
井筒俊彦、玉城康四郎などはその例である。
近世には香樹院徳龍のような稀有な学僧もいた。
私が寡聞なだけで他にもいらっしゃるだろう。
「理性は霊性の僕(しもべ)」であるが
僕(しもべ)を上手に活用している人たちもいるのである。
(但し、その“体験”に浅深があることは否めない)
しかしどこまでいっても、“体験”なき知識は、受け売りのゴミであるということを忘れてはならない。
妙好人を思い出せ。
彼ら彼女らに知識はない。
しかし本物の“体験”がある。
“体験”のみが真実に導いてくれるという絶対事実は揺らぎはしないのである。
◆追伸
我らが北勝旺、初場所、見事に3連敗からの4連勝で勝ち越しを決めた。毎場所、毎場所、一番、一番、決して諦めない姿勢は立派である。元より諦める選択肢はないのだけれど、それを口先でなく実践してみせるところが立派なのである。お疲れさまでした。