八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

ラグビーボールがどうしてあんな形をしているのかというと、元々が豚の膀胱を膨らませたものを使っていたから、というのは結構有名な話らしい。
それにしても扱いづらい形をしている。

あるイングランドのラグビー選手が、だからこそどうやってそのボールを自分の思い通りに操るかというのが大事なんだ、と言った。
彼はグラバーキック(地面を這うようにボールを転がすキック)を得意としていた。

それに対し、ある日本のラグビー選手は、思い通りにならないことこそ面白いんだ、人生と同じようにね、と言った。
彼は癌闘病を超えてプレーしていた。
(そう言えば、故平尾誠二氏も同じことを言われていた)

扱いづらいラグビーボールを前に
なんとかして思い通りに扱おうとする選手と
思い通りにならないことを受容する選手。

なんだかいつもお話しているのと近い話になって来た。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

「ラグビーは人生だ。」
と言う。
それは
ラグビーの学びを人生に活かし、人生の学びをラグビーに活かす
という意味なのかもしれない。

 

 

ニュースで「体感治安」という言葉を聞いた。

面白い言い方があるもんだと思って調べてみると、人々が主観的・感覚的に感じる治安の状態のことを指し、客観的・理性的なデータ(犯罪件数など)に基づく「指数治安」とは対をなしている言葉だそうな。

例えば、
「首都圏で闇バイトに関連した強盗事件が相次ぎ、国民の体感治安が著しく悪化している。」
などというふうに使われる。

ここで何が気になったかというと、こういう言葉があるということは、我々は客観的データに基づいて生きているわけではなくて、多分に主観に基づいて生きているということだ。
「指数治安」がどんなに改善しても、「体感治安」が改善されなくては、我々の日々の具体的な心持ちは安心できないのである。

これは私の専門分野にも直結した話である。
「体感不安」という言葉こそないが、
どんなにコロナの感染者数が減っても、コロナ恐怖の人は恐くてしょうがない。
どんなに大丈夫だと理論的に説得されたところで、予期不安の強い人の「ああなったらどうしよう「こうなったらどうしよう」という不安の先取りは払拭されない。

理性ではなく、まず感情が落ち着かなければならない。

従って、百の説得よりも、彼氏(彼女)にハグしてもらったら不安がなくなったり、
丹田呼吸をしたら不安が減ったりするのである。

「体感治安」という言葉は
「感情には(理性でなく)感情を」
という重要な原則を思い出させてくれた。

よって、頭記の問題に戻れば、「指数治安」を改善させる現実的治安対策を講じながら、例えば、颯爽たる(←これ、結構大事)地域警察官が(特に夜間)パトロールしてくれる露出が増えたら、「感じの良いおまわりさんを夜見かけると安心するよね~。」と「体感治安」が向上するかもしれないのである。

 

 

来たる8月10日(日)開催の「第67回 八雲勉強会 by Zoom」の前半において、いつも通り、近藤章久先生の文献資料「ホーナイ学派の精神分析」に基づいた勉強会を行っていきます。

その中で、今回取り上げる「治療」の資料内容が特に良いので、令和7年度会員の方々には是非楽しみにしておいていただきたいと思いますし、会員でなくても、精神療法/心理療法に関心のある方、対人援助職に就いておられる方には、この機会に是非参加をお勧めしておきたいと思います。

単発参加をご希望の方は、面談時、あるいは、メールにて松田までお申し出下さい。

少なくとも私は医学論文や文献を読んで、専門知識的に「勉強になった」「読んで良かった」と思う論文や文献にはたまに(それでも「たまに」ですが)出会ったことがありますが、まさか「感動する」論文や文献に出逢うことがあるとは思っていませんでした。
今回もそのひとつと言えるでしょう。

真夏のひととき、普段の生活や知識的な勉強の中ではなかなか感じられない感覚を共に味わえる機会になればと願っています

 

 

「『こだわり』といいますと、だいたい人間というもはだれでも、こだわりを持って生きていくのが人生。人生はむしろこだわりの連続みたいなところがあります。…私の患者さんに、女の方で、五十二、三歳…で、小さいときから、何をいっても認められないという状況を経てきたということですが、まあ、それでいろいろありました。…そこで私がいろいろとお話をしたり、うかがったりしてみますとね、心の奥にものすごい葛藤があることがわかりました。それは自分の母親に対する強い憎しみですね。なんとかして自分の子どものときにひどいめにあったことの仕返しをしたい。そういう気持ちが非常に強いわけですな。それが、いちばん深いところにある。しかしだれにも話していないのです。自分が五十いくつになっても、もうそろそろ耄碌(もうろく)しはじめている年とった母親に対して、憤り、憎しみを持っているわけです。…
しかし、ここでちょっといえることは、五十いくつになっても小さいときのそういう体験、母親が自分に対して行った不当な行為、ともかくそういうものに対して非情にこだわる。…なんでそんなことにいつまでもこだわるんだということになるかもしれませんけれども、子どものときに受けた心の傷というのは、いつまでも残る、そういうことがあるものです。…
女の人は、人の態度とか、それから相手の、まあ、相手といっても自分の好きな相手ですけどもね、その愛情、こと愛情に関して非常にこだわりがありますね。愛することもそうですが、愛されたいという気持ちが強い。愛されたいという気持ちが強いために、ある女の人が『ウソでもいいから愛してるといって』なんてことをいってる。『ウソとわかっていても、その言葉をいってほしいの』なんてことをいいます。これは、僕は非常に正直な女性心理だと思っています。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず大切なのは、何かにこだわっている自分に気づくこと、認めること。
それがないことには何も始まりません。
そして、どんなにこちらがこだわっても、それは相手があること、状況があることですので、残念ながら、なかなかこちらの思い通りにはなりません。
よってそこに、思い通りにならない「苦」が生じます。
そうすると、その「苦」を解決するための方法が二つあります。
ひとつは、相手や状況を思い通りにするために、さらに頑張ってなんとかしようとすること(しかしこれはなかなかうまくいきません)。
そしてもうひとつは、そんなことにこだわっている自分の方を消して(薄めて)行こうとすること。
後者のためには、そんなことにこだわっている自分が情けないなぁ、という自覚が必要です。
即ち、
自分が何かにこだわっていることに気づくこと、認めること。
そして、そんなことにこだわっている自分を心底情けないと思うこと。
そうして初めて、そのこだわりを乗り超えて行くにはどうしたらいいか、という道が開けて行きます。
そうして今回は、女性が陥りやすいこだわりのひとつとして、「愛されたい」が挙げられています。
さて、女性のあなたには「愛されたい」というこだわりがありますか?
それに気づいていますか?
そういう自分を心の底から情けないと思っていますか?
そしてそのこだわりを乗り超えて行きたいと本気で願っていますか?
そんなふうに見つめてみて下さい。

 

「モウムリ」と言っても、退職代行の話ではない(それは「モームリ」)。
先日、ある精神科医療保健福祉関係の会合で、ベテランの関係者たちが話しているのが聞こえて来た。
「60代になってまだ引きこもりやってるようだったら、もうそれでいいんじゃない。」とか、
「50代までそうやって演じて生きて来たんなら、そのまま行ってもらいましょうよ。」とか、
「気づかないんだったら、敢えて手をつけなくていいんじゃない。」などという発言が繰り返され、
それが私には、「もう無理」なんだからいいんじゃないの、と聞こえて来たのである。

しかし、それはその人たち自身の「敗北主義」的発想に過ぎない。
人間観、人生観が、根本的に否定的で貧しいのである。
それが自分の人生なら自業自得で仕方ないけれど、対人援助職者として当事者に関わるのであれば、大変な迷惑となる。
「もう無理」の烙印を押されて以降、ゾンビのような、生きてるんだか死んでるんだかわからないような人生に対して行う「支援」などというものはない。

以前にもお話したが、80代の女性で、3回の面談で劇的に変わった方がいた。
このままニセモノの自分で死んで行くのがイヤで、必死の覚悟を持って面談を申し込んで来られたのである。
その方に比べれば、50代、60代は、まだまだハナタレ小僧である。
「もう無理」なハズがない。

私は、死ぬ瞬間まで人間は成長する可能性を持っている、と信じている。
いや、信じているのではなく、それが絶対的な真実なのである。
苗木にも老木にも太陽の光は、分け隔てなく、降り注いでいる。
さらにさらに成長せよ、と降り注ぎ続けているのである。

 

 

昨日のハイブリッド勉強会の中で、ふとパソコンのモニターの Zoom 画面(ギャラリー設定)を見ると、参加者全員が笑顔でいる瞬間があった。
そんなシーンは、今までも数え切れないくらいあったはずなのだけれど、何故か昨日はとても印象に残った。
全員が(あたかも子どものように)すごく自然な笑顔だったのである。

参加者の方々にとっては、面談のように1対1で話しているわけではないし、参加者が多いほど、自分が見られている感が薄く、結果的に、参加者一人ひとりの気持ちがそのまま表情に出やすい環境にあったのかもしれない。
また、そもそもがあの勉強会であるから、参加者が本来の自分を出して来ることは、歓迎されることはあっても、非難・攻撃されることはない。
そこから来る安心感もあったかもしれない。

やっぱり人が集まる空間は、安心と成長の場であってほしいと思う(もちろん成長のための緊張感は必要であるが)。
残念ながら、現実の職場やら、学校やら、地域では、なかなかそうはいかない。
そこで、せめて、こういう勉強会やワークショップの場面では、本来のあなたが出て来ることを促し、歓迎したいと思う。
その意味で、あの笑顔は最高だったのである。

だけれども、そういう集団の場面は、私一人では作ることはできない。
参加者全員で作るものだ、ということを改めて共有しておきたいと思う。

ではまた次の勉強会で、本来のあなたと本来のわたしで出逢える場面を一緒に創って行きましょう。

 

 

今日は、ワンシーズン=3か月に一度のハイブリッド勉強会。
今回のテーマは、『丹田呼吸について』

丹田呼吸。
なんとなくわかっている、のをもう一歩
なんとなくできている、のをもう一歩
進むために、このとても重要なテーマを取り上げた。

詳細は割愛するが、
呼気(吐く息)で、無我を感じ、
吸気(入る生き)で、他力を感じ、
丹田に肚が据われば、私が私を生きることができる。

かつて小さくて弱かった我々は、親や大人たちから感じる不安と恐怖によって魂を売って来た。
それが大の大人になっても、いまだにやめられない他者評価の奴隷。
いつまで、うわぁ、やられる、責められる、怒られると、ビビる、ヘタレる、怯(ひる)むのか。
あなたはあなたを生きるために生れて来たのだから、肚の据わった自分を生きるしかないのだ。

というわけで、今回参加された皆さんは、今後折に触れ、丹田呼吸によって何を感じたのか、何を体験したのかを教えて下され。
さらにさらにホンモノの丹田呼吸に近づいて行こう。
これはやるしかないんです。

 

◆今後について
今日、参加者の希望を伺って、今後は、年10~11回の八雲勉強会(参加者全員リモート)と年1~2回のワークショップ(参加者全員対面)の組み合わせにすることに致しました。

希望者が一番多かった年2回のワークショップ開催は多いかな、と思いましたが、思い出してみれば、コロナ前はそれが“普通”でした。そうだった、そうだった。恐るべし、コロナの影響。
ワークショップ開催についての詳細はまた後日お知らせ致します。

 

 

後輩精神科医のところに不安障害の患者さんが受診されたという。

不安で不安でしょうがない、と言われるので、後輩は、まずお薬を使って気持ちに余裕を作り、それからゆっくりお話しませんか、と提案した。
薬物療法で余裕を作り、精神療法で問題の本丸に迫る、というのは、治療のスタンダードである。
(もちろん薬を使わなくても内省できる余裕があれば薬は使わないし、ただ薬を使うだけで精神療法を行わなければ問題の根本解決にはならない)

しかし、その患者さんが、メンタルの薬を飲むのは恐いから飲みたくない、と言われたという。
まだ若い後輩は、えっ、そんな人がいるのか、と驚いたそうだが、精神科外来ではままある話である。
じゃあ、お薬なしで我慢するしからありませんね、と言うと、患者さんは不満げで、薬なしですぐに楽にしてほしいという。

ここまでだけでも、いろんなことがわかる。
この患者さんが持つ、他者に対する(この世界に対する)基本的不信感(だから薬なんて恐ろしくて飲めない)、望んだことがすぐに全部思い通りにならなければイヤだ、という自己中心性。
これだけでも相当なテーマになる。

まずは、世の中は全てが思い通りにならず、思い通りにならないことを抱えて生きて行けるようになることが、治療の第一歩である。
そして、他者への(この世界)への信頼を取り戻すのが第二歩。
そうでない限り、この人の不安は続くだろう。

「それ以前にまず、自分にそういった解決すべき問題があると認められるかどうか。そして認めた上でその問題と向き合い、解決して行く気があるかどうかですね。」

後輩くんの言う通りである。

「情けなさの自覚」と「成長への意欲」というのは、「成長」においてだけでなく、「治療」においても大原則なのであった。


 

 

面談に来ている臨床心理士の人から、先生にところに通っていると、心理療法の個別指導を受けているみたいですね、と言われたことがある。

確かに、その人がセラピーを行っているクライアントのことを具体的に伺って、私がコメントするという、その形態は、先生一人対生徒一人の個別指導塾に似ているかもしれない。
決して集団指導ではない。

しかし、個別指導塾と決定的に違うのは、そこで問題を解くためのノウハウ=クライアントの問題を解決するためのノウハウを教えているのではなく、セラピーを通じてその人自身の人間としての成長を個別に求めて行くところにある。
数学の問題を解くのに、生徒に人格を求めることはないが、
本物のサイコセラピーを行うためには、セラピストに人格的に求められることは甚大である。
果たしてそこを求めて、いや、そこまで求めて来られるかどうか、それが当研究所の(他と違う)最大の特徴と言える。

そんなことまで求めている人が、果たしてこの精神科医療保健福祉の世界にいるのか、と心配になったこともあったが、いざ開業してみると、有り難いことに(決して圧倒的多数ではないが)、いらした、いらした、奇特な方が。

まさに頭記の人も、そう言いながら、自分自身の成長課題や問題とよく向き合っておられる。
ならば、それは「個別指導」というより(大時代的ではあるが)「嗣子相伝(ししそうでん)」(継ぐべき人に継いで行く)という表現の方が近いかもしれない。

同じことを大切だと思う人に、人間の成長の真実を伝えて行く。

まだまだ私も伝えて行く気満々である。
あとは求めるあなたにお逢いしていくだけだ。

 

 

『論語』の中に、孔子の弟子である子路の学ぶ姿勢について書かれた件がある。

「子路、聞くこと有りて、未(いま)だこれを行うこと能(あた)わざれば、唯(た)だ聞くこと有らんことを恐る」
(子路は、孔子から教えを聞いて、まだそれを実践できないうちは、新しい教えを聞くことを恐れた)

やんちゃなことをやらかしては師に諫められることの多い子路であるが、人間が一本気であるため、愛すべきところも多い人物である。

師の教えを聞いただけで、すぐにわかったような気になる弟子が多い中で、子路は、聞いたことを実践できないうちは、即ち、それが体得できないうちは、次の教えを聞くことを恐れたのである。
実に立派な姿勢だと思う。

また、同じ『論語』の中に

「君子は其(そ)の言(げん)の其(そ)の行(こう)に過ぐるを恥ず」
(君子は、自分の発言が実際に行えている以上になることを恥じる)

という言葉もある。

小人は「言」の方が「行」よりも先行しやすい。
実践できていない、体得できていないくせに、できているかのように言うことを戒めたのである。

これらの言葉が胸のうちにあった私は、近藤先生の面談を受けていた頃、あのこと、このこと、訊きたいことは山ほどあったが、「ああ、それについては、まだ頭の先で知っているだけで、体得できていない。私に訊く資格はない。」と思い、口にしなかったことがたくさんあった。

今も、その姿勢が間違っていたとは思っていないが、少しばかり後悔がある。
思い上がって、できてもいないくせにわかったようなことを言う口先男、背伸び男に堕したくないのは同じであるが、

思い上がりではなく、将来、自分が成長したときのために、より深遠な境地についてもっといろいろ伺っておけば良かった、という後悔があるのである。

師が亡くなられてから二十六年経つ今、流石に私の境地も当時よりは成長している。
ああ、あの時、今のためにあれを訊いておけば良かった、と思うことがしばしばある。
たとえ当時、その真意がわからなくても、今の自分(未来の自分)ならわかるかもしれない、と思うからだ。

そして後悔しつつも

「遍界(へんかい)曾(かつ)て蔵(かく)さず」(『景徳伝灯録』)
この世界は真実を隠したことはない)

という禅語にある通り、近藤先生はいらっしゃらなくても、真実はこの世界に満ちている。
後悔はやめて、この世界から今ほしい真実を見い出す眼を養わなければならない、と思っている。

 

 

「私は海が好きです。そこで、ちょっと疲れたとき、車を運転して海岸のほうをドライブするのです。そうしてずっと海のそばへ行ってね、じーっと海を見つめる。夜ですけれど、波の音を聴いているのですね。静かに聴いていると、生きている海のいのちの音が聴こえてくる。海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。
また、私は山へ行くのも好きなんですね。山でひとりで、それこそ松籟(しょうらい)の音といいますか、森にいますと松をサーッと風が吹き渡る。これが松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。…
みなさんにすすめたいのは、なかなか自分の心の響きが聴こえなかったら、できるだけそうした自然のなかに自分をもっていってみる。そこには何の脅威もない。そこには何の嘘もない。欲も、得もない。。金欲の世界も、名誉の世界も、嫉妬の世界も何もない。そこでは、すばらしい自然が、すばらしい交響楽のように大きい響きを伝えてくる。その響きに自分の体をさらし、それに共鳴する自分のいのちの響きを聴いてみる。ことに若いときからこれをやっていると、一生そのよろこびを持てるような生活に入れると思うのです。
しかし、若い人ばかりじゃあない。あなた方ご自身、こうやって現実の生活のなかで一生懸命奮闘しておられる方々にこそ、これは必要じゃないでしょうか。最近は、中年以上の人たちは、たいてい仕事でストレスを感じています。解消法といえば、お酒。一杯飲むと、いい気分になる。ウフンとなる。でも毎日やってはダメです。どうしても胃腸と肝臓にくる。四十から越して五十過ぎになるとたいてい肝臓をやられますね。胃か肝臓、あるいは高血圧症かどっちかである。男は十八が絶頂であると思えばよいので、十八以後はみな頽齢(たいれい)、老齢にどんどん進むのです。だから、俺はまだ大丈夫と、徹マンなんかやっているのは、自分のいのちを尊敬することにはならないと思う。そういうことよりも、お互いにハッキリ自分のいのちの翳(かげ)りを感じて、お互いがお互いのいのちを尊敬し合うときに、ほんとうにお互いを害することのない、争いのない、真に平和の時代がくると私は思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のこころの響きが聴こえないとき、自分自身を自然の中に連れて行ってみる。
そうして、
海では「海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。」
山では「松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。
飲む(アルコール)・打つ(ギャンブル)・買う(性的快感)でちょろまかすのも、もうやめにしませんか。
金銭欲、物欲、名誉欲、権力欲を満たすことによって得られるペラッペラの自我満足に浸るのも、もうやめにしませんか。
そんな浅薄なものを超えて、あなたが、わたしが、縁あって出逢う人たちすべてが、自分に与えられたいのちの響きを、そして相手に与えられたいのちの響きを、共に感じるとき=共鳴するとき、あらゆる存在が揺さぶられ、この世界全体が、とても大きくて豊かな
交響楽として感じられることになるでしょう。

 

 

道の角に小さな石仏があった。

今は住宅地の世田谷も、かつて田畑や林に覆われていた名残であろう、散策していて不意に道端の石仏に出逢うことがある。
大体は四角柱の一面に仏像がレリーフ状に彫られた小さなもので、その何とも言えない拙さから、専門の仏師の手によるものではなく、名もなき農民が彫ったものであることが容易に察せられる。
たとえ技術的に拙いものでも、長い間多くの人に拝まれて来た仏像には、独特の霊的風格が宿ってくる。

そしてある日、その角にさしかかったところで、3歳前くらいの女の子がその石仏に手を合わせている姿が見えた。
親に教わったのか、たまたまそうしたい衝動に駆られたのか、しかし、一心に拝んでいるその姿は、あたかも仏が仏を拝んでいるように観えた。

ふと気がつくと、その女の子の斜め後ろ数メートルのところに、80代と思しきおじいさんが立っている。
そしてそのおじいさんもまた手を合わせて拝んでいた。
その角度から、そのおじいさんが手を合わせているのは、石仏に対してではなく、その石仏と女の子の両方であることが見て取れた。
ああ、私と同じことを感じているんだな。

そしてそういう私もまた、その石仏と女の子とおじいさんに対して手を合わせていた、というより、自ずと手が合わさった。
さらにこの一仏と三者の姿に気がついた四番目の人がいるかもしれない…キリがないな。

「唯佛与佛乃能窮盡(ゆいぶつよぶつないのうぐうじん)」(『法華経』)

ただ仏のみが真実を究め尽くすことができ、凡夫にはできないというけれど、
ふと凡夫が仏になる瞬間があることを、そして本来仏であったということを、忘れてはならないと思う。

 


 

ある青年が受診して来た。

虐待親の許を脱出し、一人で踏ん張って生きて来た。
生育環境のせいもあって人間関係がうまくいかず、就職しては退職し、生活保護になったり脱したりを繰り返していたが、働くことへのチャレンジはやめなかった。
また、母親からの連絡もすべてシャットアウトし、辛くても弱みは見せなかった。
そういう彼の姿勢を私は買い、いつも応援していた。

それが、である。
ある受診の日、母親同伴で外来に現れたのである。
一方的に勝手なことをしゃべり続ける母親の横でうなだれている彼に、あんなに頑張っていたのに、どうしてこんなことになったのか、と訊くと、
「しんどかったです。」
と消え入りそうな声で言った。

そうか。
魂を売ったのね。
服従と引き換えに保護してもらう道を選んだのである。
しかし、この母親の支配の下で、どんな未来が描けるというのだろうか。

八雲総合研究所では絶対に起こらないことであるが(対象外であるため)、
臨床ではいろんなことが起こる。

お蔭さまで、私も気が長~く、タフになってきた。
果たして彼に再チャレンジの日が、自立の日が、来るのか来ないのか。
それでも、死ぬまで、彼の可能性を信じないわけにはいかないのである、死ぬまでは。

 

 

自分で言うのもなんだが、対人援助職者には変わった人が多い。
普段から、その人のまわりに人の輪ができるような、健康な魅力のある人は少なくて(失礼)、
医療、保健、福祉、教育、保育など、その職業に就いたならば、他者から必要としてもらえて、それで孤独にならないで済んでいる人も結構いるのではなかろうか。
むしろ、個人的魅力では人にかまってもらえず(また失礼)、他者にかまってもらうために、そのような対人援助職に就いているんじゃないかと思う場合さえある。
それじゃあ、結局のところ、対人援助のためではなくて、自分のさみしさを紛らわすために、その仕事をやっているようなものだよね。
だから、その職業的役割が済んだ途端、スッと人がいなくなる。
なんだか悲しい話になって来た。

近所の居酒屋にカウンターがあって、そこに高齢のお客さんが一人で来ている場合がちょくちょくある。
時に、この人、本当に話し相手がいないんだなぁ、と思うくらい、店のマスターや女将さんを捕まえて、延々と話をしている人がいる。
マスターや女将さんがちょっと困っている様子もわからないようだ(というより、多少気がついていても、しゃべりたいのをやめられないのかもしれない)。
これもまたお金を払って客になることで、相手をしてもらうのであれば、ちょっと悲しい話になってくる(ホストのお兄さんやホステスのお姉さん相手の場合も五十歩百歩か)。

でもね、職務上のつながり、接待的な対応、枯れ木も山のにぎわい、いないよりまし、くらいの交流だったら、それもまた薄っぺらいんだよね。
本当にほしいのはさ、紛れもなくあなたがいて、紛れもなく私がいて、本音と本音とでがっちりかみ合うような交流なんじゃないかな。
そのために、あなたが、わたしが、今からできることは何かというと、まず自分自身が本当は何者かということをしっかり掴んで、それを表現していくことだよね。
そうすれば、出逢うべき相手も、きっとあなたを見つけやすくなるだろうと思う。

埋め草やちょろまかしは、余計にさみしくなるから、やめませんか。
本当の関係で初めて、さみしさは埋まるのだと思う。

 

 

診断基準を満たさないものの自閉スペクトラム(AS:Autism Spectrum)や注意欠如・多動症(AD/HD:Attention-deficiet Hyperactivity Disorder)の“傾向”を持つ方は、思いの外、多くいらっしゃる。

ある男性は、小さい頃から、忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
結婚し、子どもができてからも、
忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、さまざまなことで妻からも怒られて来た。
特に彼の妻は、神経症的に几帳面で気を遣い過ぎる方であったために、細かいことまで注意・叱責される日々が続いた。

その妻が、ある日、珍しく大きなミスをした。
そういう性格の人なので、自分でもガッカリしてうなだれていたが、それを見た夫は、ここぞとばかりに、日頃の恨みを晴らそうと、そのミスについてしつこく責めた。

だからあなたは嫌われる。

この夫が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)その態度によって、彼の妻は、今度夫がミスしたときには今まで以上に徹底的に責めてやろうと心に誓い、
本気で、この人と一緒にいて意味があるのだろうか、と考えるようになった。

「己(おのれ)の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ」(『論語』)
という通り、自分がされてイヤなことは相手にはしない。
妻がミスしたときこそ、優しく接してあげることができれば、夫婦仲は大きく変わったかもしれない。

別の男性もまた、同様の特性を持ち、周囲から怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
しかし、彼の場合は、鉄の意志と鬼の努力でガリ勉し、医学部に入って、医者になった。
それでもまだ忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、医局の中では先輩医師から注意・叱責されることが多かった。
そして彼はクリニック開業の道を選んだ。

自分が院長になってしまえば、誰かに責められることがない(少なくとも大幅に減る)。
その思い通り、彼は雇用した看護師や医療事務などの職員の上に“君臨”し、今までの憂さを晴らすかのように、実にエラソーな院長になってしまったのである。

だからあなたは嫌われる。

この男性が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)
自分のミスは棚に上げたそのエラソーな態度によって、退職者は後を絶たず、慢性的に人手不足・求人しっ放しの状態に悩むことになった。

のび太がジャイアンになってどうするんだよ。
自分の特性を認めて謙虚になり、職員に助けてもらいながら、患者さんのために誠実に働く院長になりましょうよ。

結局、起こる問題の本質はいつも、特性によるのではなく、人格によるのである。
特性は変えられないが、人格は変えられる=人間として成長できることを忘れてはならない。

 

 

日本の厚生労働省が採用している診断基準と言えば、WHO の作成した ICD(International Statistical Classifiction of Diseases and Related Health Problem)(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)である。
現在、『ICD-10』(第10版(Tenth Revision)という意味)が使われているが、往時、その精神科領域の日本語版作成を私の出身大学が担当し、研修医だった私もその翻訳に参画したのを覚えている。
そう思うと、随分古い話になる。

WHO では既に第11版の『ICD-11』が刊行されているが、その日本語版がなかなか出版されず、そのブランクを埋めるかのように作成・翻訳・出版されているのが、アメリカ精神医学会が作成した DSM(Diagnostic and Stastistical Manual of Mental Disorders)(精神疾患の分類と診断の手引)、現在は『DSM-5-TR 』(第5版の改訂版(Fifth Edition Text Revision)という意味)の日本語版が出版である。

それで仕方なく、『DSM-5-TR』を拾い読みしていたが、余りにも『ICD-11』日本語版の出版が遅いので、この機会に『DSM-5-TR』を通読してみることにした。
そもそもが Desk Reference とあるように、小さな冊子なので、毎日、数項目ずつ読み進めても、そのうち読了できる
『ICD-11』日本語版も出版されれば、きっと同じやり方で通読するだろう。

ICD も DSM も、精神科医による診断一致率を高めるため、例えば、「最近6カ月以内に、以下の10項目の症状のうち、7つ以上が認められれば、〇〇症と診断してよい」というような「操作的診断基準」の立場を取っているので、表面的と言えば表面的、奥行きがないと言えばない、のだけれど、それでも「へぇ、今はそう考えるんだぁ。」と勉強になる場面がいくつもあった。
純粋に精神科医としての知識獲得には役立ったと思う。

しかし、私は精神科医よりも精神療法家になりたいし、精神療法家よりも人間的にさらにさらに成長したい。
そして、クライアント/患者さんがどのような精神疾患の診断基準を満たそうとも、人間対人間という根本的スタンスは(考えて、気をつけて、そうするのではなく)自然にそう感じていられる人間でいたいと思う。
 

 

「カウンセリングで良くなった人を見たことがない。」
と時々言われる。
残念ながら、返す言葉がない。

知人の精神科医が精神科病院で臨床心理士/公認心理師の求人を行ったところ、面接に来る人、来る人、病んだ人が多くて困った、と言っていた。
私見では、精神科医も五十歩百歩なので、偉そうなことは言えないが、
カウンセリング/サイコセラピーを行おうとする本人が、
メンタルな問題を抱えているだけでなく、
その問題と向き合って勝負しようとしないのは極めて問題であると思う。
そんな人がカウンセリング/サイコセラピーを行っても、確かに良くなるはずがない。
そしてもしクライアント/患者さんに「カウンセリング/サイコセラピーってこの程度のものか。」と失望させたら、その罪はさらに重いと思う。

まず自分の問題と向き合って勝負しましょうよ。
そして自分の問題を解決した経験があればあるほど、それはクライアント/患者さんにとって役に立つ経験智にもなっていくと思う。
しかも、人間の成長は無限である。
言い方を変えれば、人間の抱える問題/成長課題も無数にあると言える。
従って、ひとつやふたつ問題解決したくらいで慢心しないで、次々と自分の問題と果敢に向き合って行くことをお勧めしたい。
それによって、あなたの中の智慧の引き出しもまた無限に増えて行く。
ひょっとしたら、引き出しなんていう小さなものを超えた次元に発展していくかもしれない。

初めてカウンセリング/サイコセラピーを受けるとき、面談室/診察室のドアを開けた瞬間、いかにも病んだ/擦れたカウンセラー/サイコセラピスト登場でガッカリ、という惨事だけはなくしたいと思う。

まず汝自身を癒しなさい。

そこからすべては始まるのである。

 

 

「いのちというものは、けっして私たちがつくり上げたものでない。…それはいただいたものなのです。与えられたものなのです。…子どもを産んだものと考えるか、授かったものと考えるか、大変な違いが生ずるので、よく聞いてくださいね。
子どものいのちを自分が産んだとなると、自分のものだという気がする。そうすると子どもが自分の思った通りにならないと、『なによ、あんた』とピシャンピシャンとこうなる。…
問題は、自分の思い通りにさせたいと思うところにある。いうことをきかない ー 親のいうことをきく子はよい子であって、きかない子は悪い子とするのはお母さんの考えです。親は、きっと偉いのでしょうね。自分のいうことをちゃんときいていれば、それはよいというのだから。そうすれば人間として立派になれると思っているのでしょうね。そうかしらねー。…
授かったいのちは、自分とつながりのあるいのちだけれども、自分と同じいのちではない。異なったひとつの独立したいのちであるということ。こういうことを考えてみると、お母さんは授かったいのちを大切にしていかなければならない。猫かわいがりすることでもなく、自分の思ったとおりにすることでもなく。
自分のものとして考えるからおかしなことになるのであって、授かったと考えるならば、もう少し落ち着いて、そのいのちに対する態度をとるだろうと思うのです。それは他人行儀に見えるかもしれない。正しく言えば、『他人』です。他人というのはどういうことかというと、自分のいのちと独立したいのちだということで、異なった特徴を持ったいのちです。そこのところについての認識をハッキリしておくということが大事だと思います。…
こういうことをあなた方の前でいったところで、他に何十億という人がいる。だから私のいうことはここだけの話にすぎないけれども、私は、ここの人だけにでもお願いしたい。
人のいのちを尊敬するためには、まず自分のいのちを尊敬しなければいけない。自分のいのちを尊敬できる人でなくてはならない。
自分のいのちを尊敬できる人は、自分のいのちのほんとうの声が聴こえる人でなければならない。自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じられる人にならなければいけない。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

だから、特に対人援助職の方々には申し上げたい。
あなたは自分のいのちを尊敬できていますか?
あなたは自分のいのちのほんとうの声が聴こえていますか?
あなたは自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じていますか?
自分においてそれができない人が、他人においてそれができるはずがないのです。
まずは自分のことから。
これが鉄則。
自分のことを後回しにして、他人のことを優先させるのは、美談でも何でもなく、自分との勝負を回避しているだけです。
あなた自身が自分と勝負して来た経験と実績があって初めて、自分以外の人の成長の役に立つことができるのです。

私もまた、ここの人だけにでもお伝えしたいと思います。

 

 

クライアントが、神経症的に、ずるいやりくち、汚いやりくち、依存的なやりくち、思い上がったやりくちで、何かをやらかしたとする。
当研究所に通っているからには、その問題点をズバリと指摘する。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」がなければ、当研究所に来る縁はないので、それは致し方ない。

しかし、私からの指摘を「怒られちゃった。」と解する人たちがいる。
残念ながら、そういう人たちは伸びない。

特に発達障害ベース(特に「自閉スペクトラム」の方。「自閉スペクトラム症」の「診断」がつく人は当研究所の対象外となるが、「自閉スペクトラム」という傾向を持った方は世間にたくさんいらっしゃる)の人に多いが、幼少期から怒られ続けて来たため、どうしても「怒られちゃった」という“形式”に反応するようになってしまい、具体的に何が問題で次はどうしたらいいか、という“中身”を詰めることが二の次になり、そのため、何度も同じ失敗を繰り返すことになる。

もう一度言う。
私から問題点を指摘されて、「怒られちゃった。」と言う“形式”に反応する人は伸びない。
何が問題で、次どうしたらいいか、
という“中身”を詰めて行く人は伸びる。

中身を詰めれば、具体的な言動を変えざるを得ず、それを実践すれば、当然、結果が変わって来る。
私はその姿勢=何が問題で、次どうしたらいいか、という“中身”を詰めて、実践するという姿勢を褒めて、本人も段々にその姿勢に自信を深めて行く。
そうなれば、成長の波に乗り、未来が開けてくる。
一度しかない人生、そうこなくっちゃ、である。

だからこそ、“形式”反応の「怒られちゃった。」に注意すべし。

 

 

今はどうか知らないが、昔は駅からがんセンターに向かう道すがら、怪しい新興宗教の案内やら、胡散臭い民間療法のポスターなどがいくつも貼ってあったという。
当事者や家族の不安な心理につけこんだ、阿漕(あこぎ)なやりくちである。

昔、面談を申し込んで来た男性で、ある難治疾患の民間療法を生業(なりわい)としている人がいた。
その民間療法には、科学的に治療効果を示せるエビデンスがなく、高額で、メンタルに問題があるクライアントの心理につけこんでいるのは明白であった。
弱い心理へのつけこみ、そしてぼったくり価格には、悪質ホストクラブ問題に近いものを感じた。
それがわかった途端、面談はお断りした。

そこに「情けなさの自覚」を感じないようでは、成長どころじゃないでしょ。
そういう生業を続けられていること自体に、その人の大きな問題が存在する。
どうしても当研究所に面談に来たいのであれば、まずその商売を廃業して、真っ当な仕事に就いてからいらっしゃい、と告げた。
そうでなければ、他のセラピスト/カウンセラーのところへどうぞ。
その後、連絡がないところをみると、どうなったことやら。

今となっては何を相談したかったのかわからないが、人間が精神的に成長するときには、後から付いた心理的な塵埃を掃うことがとても重要である。
まず生業的にも、塵埃を掃って身綺麗にしてからだね。
少なくとも他者から搾取を続けながら、自分だけ成長することは絶対にあり得ないのだ。

 

 

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