『論語』の中に、孔子の弟子である子路の学ぶ姿勢について書かれた件がある。

「子路、聞くこと有りて、未(いま)だこれを行うこと能(あた)わざれば、唯(た)だ聞くこと有らんことを恐る」
(子路は、孔子から教えを聞いて、まだそれを実践できないうちは、新しい教えを聞くことを恐れた)

やんちゃなことをやらかしては師に諫められることの多い子路であるが、人間が一本気であるため、愛すべきところも多い人物である。

師の教えを聞いただけで、すぐにわかったような気になる弟子が多い中で、子路は、聞いたことを実践できないうちは、即ち、それが体得できないうちは、次の教えを聞くことを恐れたのである。
実に立派な姿勢だと思う。

また、同じ『論語』の中に

「君子は其(そ)の言(げん)の其(そ)の行(こう)に過ぐるを恥ず」
(君子は、自分の発言が実際に行えている以上になることを恥じる)

という言葉もある。

小人は「言」の方が「行」よりも先行しやすい。
実践できていない、体得できていないくせに、できているかのように言うことを戒めたのである。

これらの言葉が胸のうちにあった私は、近藤先生の面談を受けていた頃、あのこと、このこと、訊きたいことは山ほどあったが、「ああ、それについては、まだ頭の先で知っているだけで、体得できていない。私に訊く資格はない。」と思い、口にしなかったことがたくさんあった。

今も、その姿勢が間違っていたとは思っていないが、少しばかり後悔がある。
思い上がって、できてもいないくせにわかったようなことを言う口先男、背伸び男に堕したくないのは同じであるが、

思い上がりではなく、将来、自分が成長したときのために、より深遠な境地についてもっといろいろ伺っておけば良かった、という後悔があるのである。

師が亡くなられてから二十六年経つ今、流石に私の境地も当時よりは成長している。
ああ、あの時、今のためにあれを訊いておけば良かった、と思うことがしばしばある。
たとえ当時、その真意がわからなくても、今の自分(未来の自分)ならわかるかもしれない、と思うからだ。

そして後悔しつつも

「遍界(へんかい)曾(かつ)て蔵(かく)さず」(『景徳伝灯録』)
この世界は真実を隠したことはない)

という禅語にある通り、近藤先生はいらっしゃらなくても、真実はこの世界に満ちている。
後悔はやめて、この世界から今ほしい真実を見い出す眼を養わなければならない、と思っている。

 

 

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