「いのちというものは、けっして私たちがつくり上げたものでない。…それはいただいたものなのです。与えられたものなのです。…子どもを産んだものと考えるか、授かったものと考えるか、大変な違いが生ずるので、よく聞いてくださいね。
子どものいのちを自分が産んだとなると、自分のものだという気がする。そうすると子どもが自分の思った通りにならないと、『なによ、あんた』とピシャンピシャンとこうなる。…
問題は、自分の思い通りにさせたいと思うところにある。いうことをきかない ー 親のいうことをきく子はよい子であって、きかない子は悪い子とするのはお母さんの考えです。親は、きっと偉いのでしょうね。自分のいうことをちゃんときいていれば、それはよいというのだから。そうすれば人間として立派になれると思っているのでしょうね。そうかしらねー。…
授かったいのちは、自分とつながりのあるいのちだけれども、自分と同じいのちではない。異なったひとつの独立したいのちであるということ。こういうことを考えてみると、お母さんは授かったいのちを大切にしていかなければならない。猫かわいがりすることでもなく、自分の思ったとおりにすることでもなく。
自分のものとして考えるからおかしなことになるのであって、授かったと考えるならば、もう少し落ち着いて、そのいのちに対する態度をとるだろうと思うのです。それは他人行儀に見えるかもしれない。正しく言えば、『他人』です。他人というのはどういうことかというと、自分のいのちと独立したいのちだということで、異なった特徴を持ったいのちです。そこのところについての認識をハッキリしておくということが大事だと思います。…
こういうことをあなた方の前でいったところで、他に何十億という人がいる。だから私のいうことはここだけの話にすぎないけれども、私は、ここの人だけにでもお願いしたい。
人のいのちを尊敬するためには、まず自分のいのちを尊敬しなければいけない。自分のいのちを尊敬できる人でなくてはならない。
自分のいのちを尊敬できる人は、自分のいのちのほんとうの声が聴こえる人でなければならない。自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じられる人にならなければいけない。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
だから、特に対人援助職の方々には申し上げたい。
あなたは自分のいのちを尊敬できていますか?
あなたは自分のいのちのほんとうの声が聴こえていますか?
あなたは自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じていますか?
自分においてそれができない人が、他人においてそれができるはずがないのです。
まずは自分のことから。
これが鉄則。
自分のことを後回しにして、他人のことを優先させるのは、美談でも何でもなく、自分との勝負を回避しているだけです。
あなた自身が自分と勝負して来た経験と実績があって初めて、自分以外の人の成長の役に立つことができるのです。
私もまた、ここの人だけにでもお伝えしたいと思います。