八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

特別養護老人ホームにて:
認知症の高齢女性の前で、ある職員がその女性を侮蔑したような悪口を言っている。
他の職員が諫(いさ)めると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

若い家族の自宅にて:
お昼寝している幼児の横で、お母さんがその子のダメなことろを数え上げている。
夫が注意すると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

観光地の飲食店で:
外国人観光客の前で、日本人の店員がその客たちの言動を笑いものにしている。
他の店員が指摘すると、
「どうせわかんないからいいのよ。」

いいや、わかっています、 あなたの悪意が。

 

また、
ある病院で:
若いお母さんが重度心身障害児の我が子の背中をさすりながら、ずっと話しかけている。
やめさせようとする夫に
「わからなくてもいいのよ。」

認知症治療病棟で:
重度の認
知症の父親に娘さんがずっと子どもの頃の楽しい思い出話を聞かせている。
止めようとする母親に
「わからなくてもいいのよ。」

新宿駅で:
階段の途中で、大きな荷物を抱えて苦労しているアジア人観光客に、ほぼ日本語で話しかけて助けようとしている若い女性がいる。
日本語で言っているのをやめさせようとする彼氏(多分)に
「わからなくてもいいのよ。」

いいや、わかっています、 あなたの愛が。

 

我々は言葉だけでコミュニケーションしているわけではありません。
存在と存在でコミュニケーションしているところがあるのです。
それが伝わる、届く、響く。
ならば、悪意ではなく、愛を伝えましょ。

 

 

禅においては、経論や語録などの書物を読むばかりで、坐禅を徹底しない、存在をかけて公案に挑まない姿勢を「黒豆食い」と言って批判した。
墨蹟黒々とした漢字を黒豆に譬えたものである。
黒豆のような漢字ばっかり追いかけていて、真実の体験がない、ということだ。

また、心学においても、儒教や仏教、神道などの書物を読むばかりで、学んだことが体得されていない、生き方に現れていない人間のことを「文字芸者」と呼んで批判した。
文字を操るだけの芸者という意味であろう。
いわゆる「論語読みの論語知らず」などもその中に含まれる。

いずれにしても、知識や理解よりも、体験や体得でなければ意味がない、という立場である。

そういうと難しいことのように思われるかもしれないが、実際には意外と簡単である。
その人間に逢ってみればわかる。
日々の言動を見ていればわかる、のである。

体験がある者にだけ感じられるものがある。
存在から匂い立つものがある。
日常のささやかな言動の中に、その人間の本音の本音が現れる。

私はそうやって近藤章久を見つけ、
親しく接するようになっても、さらに信頼が深まった。

そして、そういう人を観る眼というのは、やっぱり自己責任なのだと思う
今までも申し上げて来たように、人を観る眼がないのは致命的である。
我々の生涯をかけて、「黒豆食い」でないホンモノを見つけ、
我々の生涯をかけて、我々自身もまた「黒豆食い」でないホンモノになって行きましょう。

 

 

あるフロイト派の精神分析家が言っていた話。
面倒臭い患者がいたとする。
できれば、こんなヤツは診たくない。
そんなときどうするかというと、わざとそのクライアントが怒るようなことを言うのだという。
そうすれば、こちらに愛想をつかして来なくなる。
それで厄介払いができてめでたしめでたしなのだと。
最初にこの話を聞いたときは、我が耳を疑った。
そもそも面倒臭いことをやるのが精神科臨床であり、その苦労が臨床家を育てるのである。
また、百歩譲って、どうしてもクライアントと合わない場合もあるかもしれない。
そうだとしたら、それを真正面からクライアントに言うことが、せめてもの誠実な姿勢であろう。
わざと怒らせて来ないようにするというやり方は、余りにも小汚い、ちょろまかしである。

一方で、そういうセラピストがいる。

昔日、近藤先生のところに、それこそ思い切り面倒臭い患者が通っていた。
たまたま私も面識のある人間である。
ひねくれて、意地が悪く、屁理屈をこねては抗弁し、虚栄心の強い、思い上がった人物であった。
それまでもいろいろなセラピストのところを転々とし、うまくいかないのはみなセラピストのせいにして来た。
そんなクライアントに対し、先生は非常に丁寧に面談を続けられていた。
クライアントの抱える問題は溢れ返り、ツッコミどころは満載であったが、そのクライアントが実は、心が傷だらけで非常に傷つきやすく無理に虚勢を張って生きて来たのを観抜いていた師は、その傷口に不用意に触れぬよう、丁寧に丁寧に扱った。
無造作に傷口に指を入れれば、彼はすぐに怒り出し、すぐに来なくなってしまうだろう。
師は、このクライアントが自分のところでないと良くならないだろう、ということを観抜き、悪態をつかれようが、無礼な態度を取られようが、通い続けられるようにと、辛抱強く付き合っておられたのである。
そこには確かに、面倒臭い愚かなクライアントへの愛があった。

他方で、そういうセラピストもいる。

臨床にいけるこの二極のセラピストを知ったことは、有り難い勉強となった。
そんなセラピストたちがいるということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

今日は、今まで度々触れて来た、人間の「承認欲求」について改めて振り返ってみようと思う。

(1)まず最初が「他人から認めてもらう」ということ。
まず、子どもの頃の我々は、親に認めてもらいたい。
それから、先生に認めてもらいたい。
それが長じて、自分以外の他人から認めてもらいたい、という欲求を持つ。
他者からの承認が、自己の存在意義の裏付けとなり、他者からの承認は素朴に嬉しいことでもあるが、そこにとらわれると「他者評価の奴隷」の人生が口を開けて待っていることになる。
しかしまだそれが子どもの頃ならいい。
自我の発達途上にある子どもたちは
「お母ちゃんに認めてもらいたい。」
「先生に認めてもらいたい。」
「友だちに認めてもらいたい。」
と確かに思っている。
それは絵に描いたような「小児的欲求」である。
しかし、それが大人になってからもまだあるようだと問題になってくる。
「おいおい、あんたはもう子どもじゃないよ。」
と言いたくなるが、あなたもよく御存知の通り、これがいい年をした大人に非常に多い。
名声、有名になることを求める気持ち、虚栄心などなど、かなり強いよね。
あのね、成人したらね、ちょっとは成長して次の段階に移って行きましょうよ、
他者評価の奴隷の自分に、そろそろ本気で情けなさの自覚を持たれてはいかが、と申し上げたい。

(2)そして次が「自分で自分を認める」ということ。
他者不在。いや、他者不要である。
自分の価値は自分で決める。
他人から褒められようと、けなされようと、関係ない。
こうなってようやく、ちょっと成長した匂いがして来る。
自立といっていい。
しかし、注意すべき点もある。
ただの、ひとりよがりの、思い上がりの「我立」に陥らないことである。
「聞く耳持たぬ」で突っ走るだけでは、他人から認めてもらいたい「小児的欲求」は脱していても、まだまだつっぱらかった思春期あたりのお兄ちゃんお姉ちゃんレベルである。
その自分が、あなたがそう思い込みたいだけの自分なのか、本当の自分なのか、がきちんと検討されていないのだ。

(3)そして最後が「この世界から認められる」ということ。
これも他者評価は必要としないが、
自分で自分を認めるという自己評価も必要としない。
その存在を通して働く力によって
サクラがサクラするように
スミレがスミレするように
あなたがあなたするように
わたしがわたししていくのである。
いわば、わたしをわたしさせる力が、わたしを通して働いていることを感じたとき、自分の存在がこの世界から証明された体験を授かるのである。
この体験は絶対的である。
他者評価や、自己評価によるような、不安定さがない。
それでいて、これには独善の怖れもない。
サクラはこれ見よがしにサクラせず、スミレは肩で風を切ってスミレしない。
淡々と、それでいて絶対的な安定感を持って、わたししているのである。

折角、生命(いのち)を授かってこの世に生まれて来たからには、この境地を目指して、生きて行きたいと私は願っている。

 

 

「子どもっていうものはね、母親と父親のですね、こころの中をね、鏡のように反映してるんですよ。これはね、うっかり、あなた方ね、子どもだからと思ってね、甘く見ると大変なことになるってことを一度申し上げておきたい。…
例えば、女の人は…男の人の気持ちというものをしょっちゅう、こういう具合にして、レーダーをやってですね、どんな気持ちであるか、主人は私のことをどう思ってるか、というようなことをですね、見てるんですよ。これは、正直言って、僕はいろいろ知ってるから、そう言うんでね。皆さん、そうじゃないなんて言わせません(笑)。それはそういうふうな、いつもデリケートな、『あの人、今日はどこへ行っちゃった?』なんていうんで、『どこへ行っちゃったんでしょ。』なんてね、レーダー、すごいんですよ。これね、それぐらいにね、自分が愛されたい。愛情の対象ってものに対しては、非常に人間っていうものはん、自分のレーダーを張るもんです。
同じようにね、子どもってのはそういうもんです。もうお母さんのちょっとした言い方でもね、お母さんの心がどこにあるか、すぐわかるんです、ね。この前も、子どもがね、何かな、プラモデルかなんか買ってくれないっていうんでね、死んじゃったっていうでしょ。あれだけ見たら、お母さんは、『私、なんだかわかりません。』とね。『いつでも買ってやると言ってたのに。』なんて。『どうしてかわかりません。』あれはね、あれだけ、新聞記事では読めませんよね。…相当お母さんに、僕は問題があったと思うんです。お母さんがきっとどこかね…自分の子どもに対してね、本当の意味のね、愛情をね、注いでいなかったと、注意していなかったということが僕はあると思うんです。人間、私は、そういう隙(すき)があるもんですよ、ね。
うっかりしているうちに、ホントに、例えば、旦那さんが、あなた、女性関係があってですね、そんなことばかり考えてたら、心が、あなた、子どもに行きませんよね。いいですか。なんかあっても、『ああ、お金あげるから買ってらっしゃい。』それでよそのことを考えてる。これはね、いかにも『私はお金をやったから。』とやるようなもんだけど、そうはいかないんですよ。子どもっていうのは非常に、そこ、敏感なんですよ。子どもは、だから、これはペアレンツばかりではない、ティーチャーズにもそうなんです。子どもはね、あの先生がね、どんなふうに自分を思っているかっていうことに、やっぱりレーダーかけてるんです。こうやって、ね。だから、そのね、先生が依怙贔屓(えこひいき)するかしないかってことに非常に鋭敏です。
ですから、子どもっていうものはね、その代わりですよ、逆に、愛情をかけてやれば、非常に、その、スッとわかるんです。もうひと言でそれを感じてしまって安心するんですね。そういうものなんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

小さくて弱い子どもは、愛情の対象である親に対して、それから、関心の対象である先生に対して、一所懸命にレーダーを張っています。
親には愛されたいし、先生からは認められたいもの。
だから、親や先生の(表面的言動ではなく)本音を非常に敏感に観抜いて来ます。
そしてその影響の大きさを侮(あなど)ってはいけません。
その子のそれからの一生を左右し、生き死ににさえ関わることもあるんです。
ですから、愛しましょう、認めましょう、その子がその子であることを。
(ここについては小欄『子ほめ』も参照)
その子が、間違いなく、その子の人生を生きることができるようになるために。

 

 

心学の書に
「草木(そうもく)は天にたがはざるも因(より)て、教(おしへ)は不入(いらず)。人は喜怒哀楽の情に因(より)て、天命にそむく。故に教をなして人の道に入れしむ。」(石田梅岩『都鄙問答』)
(草木は天に背(そむ)かないので、教えはいらない。人間は喜怒哀楽の情によって天に背くので、教えによって人の道に入れさせなければならない)
「赤子(せきし)の心を失はざる者は聖人なり。」(同上)
(赤ん坊の心を失わない者は聖人である)
とあった。
全くおっしゃる通りである。
ああ、それなのに、それなのに、我々はその後の生育環境の影響を受けて、赤心(せきしん:赤ん坊の心)の上に塵埃を積み重ねて、ろくでもない大人になって行く。

聖書に言う。
「もし汝(なんじ)ら飜(ひるが)へりて幼兒(おさなご)の如くならずば、天國に入(い)るを得(え)じ。」(『新約聖書』マタイ傳福音書)
(あなたたちはもし心を入れ替えて幼い子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない)

「天國はかくのごとき者(=幼兒(おさなご))の國なり。」(同上)
(天国はこのような者たち(=幼い子どもたち)の国である)
全く同じではないか。

また、禅でも
「赤心片片(せきしんへんぺん)」(『碧巌録』)
(赤ん坊のような純粋無垢な心が満ち満ちていること)
をよしとする。
かの良寛さんが小さな子どもたちと遊ぶのを好んだのもそのためであった。

しかし、失望する必要はない。
赤心はあなたの中にずっとある。
そして、いつでも出て来る、あなたが本当に安心さえすれば。

 

 

ある小学校1年生の男の子が絵を描きました。家庭に問題があり、困った行動を重ねる子でした。ひとつは首がちょん切られてる絵。次に骸骨の絵。これ、殺すでしょ。やってやるんだというときにね、敵意があるんです。こうしてやるんだ。こうしてこんなふうにしてやるんだと、これね。これが出て来たら、つまりこのの場合は、ひどい敵意があるんですね。これがわかる。子どもだから敵意がないなんて思ったら大間違いなんですよ。その敵意こそ重要なことなんです。…
フロイドという有名な、これは精神分析の、まあ、最初に作った人ですが、その人が最も悲観的な考え方を持ってるんですが、人間っていうものは敵意の動物ではないか。そして最後に皆殺しにしてお互いに死ぬんじゃないかっていうような、そういうことまで考えたぐらい、敵意っていうのは人間の深いところにあるんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

子どもは小さくて弱い存在です。
ですから、親や大人たちから理不尽なことをされ、本当は親や大人たちに対して敵意や怒りを持っていても、それを出すことができません。
特に親は、それがどんな親であっても、愛着の対象でもありますし、愛されたい。
となれば、余計に敵意や怒りを出すことが、いや、感じることさえ、できなくなってしまうかもしれません。
しかし、たとえ抑圧したとしても、子どもは敵意や怒りを持っています、確実に、こころの奥底に。
それが身体化症状になったり、さまざまな不適切行動や非行になったりします。
また、子どもが大きくなったときに、その敵意や怒りが、
あるときは、復讐の形で当の親に向けられ、
またあるときは、親に代わる対象にぶつけられたりすることもあります。
そうなんです。子どもたちは怒っています。
そのことを親は、大人たちは、知っておかなければなりません。
で、どうするか。
親や大人たちが子どもへの言動を気をつければ良いのか?
違います。そんな意図的・表面的配慮は要りません。
答えは決まっています。

子どもを愛して下さい、こころから。
それしかありません。

 

 

[次回の『金言を拾う その40』につづく]

 

 

「子どもって小学校1年、2年ていうのは…大人の人みたいに、言葉でうまく言えないんですよ。言葉っていうものは人間に、おかしなもんでね、自分を正しく表現する道であるけれど、また、嘘をつく道でもあるくわけですね。
言葉っていうのは、案外、信用できないんですけども、大人の場合は言葉で、まあ、ある程度、行きます。私は、仕事ですからね、大人の人の患者を診てるんですが、随分、大人って嘘をつくもんだと思いますよ、聴いてるとね。それはね、一遍くらい嘘をつくのはわかりますが、二遍も三遍も嘘をつく、十遍も十五遍も聴いてますとね、ああ、そこも忘れてる、前の嘘をね。こっちの方とね、矛盾してしまうわけですね。
『あなた、この前、こう言いましたけれど、どっちが本当ですか?』
と僕が訊くんですけどね。
『あ、先生、そう言いましたか?』
なんつってね、訂正なさるけど、最後まで嘘はつけないもんですね。私なんかの仕事をしてると、僕の前じゃあ、あんまり嘘はつけなくなっちゃうんです、そりゃあね。嘘をついたらちっとも良くならないんですもんね。」

 

私も仕事柄、クライアントの話を聴く場合、基本的には、その人の発言を全面的に信じるようにしている。
しかし、私もバカではないので、ああ、これはウソだな、ということは概ね(全部とは言わないが)観抜くことができる。
それは意図的なウソもあれば、
本人さえもそれと気づかず、、無意識についているウソもある。
大事なのは、それがウソかマコトかではなく、
それもこれもひっくるめて、こちらが(私が)、この人がまっすぐにこの人を生きて行けるようになると良いなぁ、と心から祈れるかどうかである。
騙されてもいい、観抜けてもいい、そこは事の核心ではないのである。
そうやっていると、不思議なことに、クライアントのウソは段々少なくなって来る。
近藤先生のおっしゃる通り、ウソをついているうちは、何も変わらないもんね。
そうして初めてクライアントは、どんな自分も、闇も光もさらけ出して、本当の自分に収束して行くのである。

 

 

都内世田谷区、東急大井町線「九品仏(くほんぶつ)駅」下車、徒歩5分のところに、「九品山 常在念佛院 浄眞寺(じょうしんじ)」というお寺がある。
浄土宗のお寺で、ここには元々近藤家のお墓があり、故近藤先生の遺骨は、このお寺と、後に縁のあった浄土真宗の東本願寺(浅草にある東本願寺、浄土真宗東本願寺派本山)と牛久アケイデイア(牛久大仏があるところ)の3カ所に分骨されている。

この浄眞寺には、九体の阿弥陀仏像があることで知られ、それは「往生者の機根の高低、信仰の浅深によって往生の仕方に九種ある」という観無量寿経の考えに基づいている。
つまり、我々は
上品上生(じょうぼんじょうしょう):上の上の人
上品中生(じょうぼんちゅうしょう):上の中の人
中品下生(じょうぼんげしょう)  :上の下の人

中品上生(ちゅうぼんじょうしょう):中の上の人
品中生(ちゅうぼんちゅうしょう):中の中の人
品下生(ちゅうぼんげしょう)  :中の下の人
下品上生(げぼんじょうしょう)  :下の上の人
下品中生(げぼんちゅうしょう)  :下の中の人
下品下生(げぼんげしょう)    :下の下の人
の九種に分けられ、それぞれがちゃんと漏れなく成仏できるように、なんと九体の阿弥陀仏像が用意されているのである。
なんとも行き届いた救いであり、大変に有り難い。
参拝者は自分がこの九種のどこにあてはまるかを考え、その阿弥陀仏像にお参りするのである。

で、あなただったら、どの阿弥陀仏にお参りします?
「ちょっと控えめに中品下生かなぁ。」
「もっと遠慮して下品上生か。」
きっといろいろ選ばれるであろう。
それでお参りされれば良い。

そして、ここからは私の個人的意見である。
こちら(参拝者)側から見れば,九種に分かれて九体の阿弥陀仏であるが、
阿弥陀さんの側から参拝者を見れば、全員が凡夫、残念ながら、全員下の下、下品下生に決まっているのである。
九体に分けたのは、阿弥陀さんの親切心であり、結局は九体全部が同じところ、下品下生の阿弥陀仏に繋がっているのだ。
親切心と言ったが、実は、そのこと(結局は全員下品下生である)に気づいてもらいたくて、敢えてまず九体に分けてから、我々を教導して下さっていると、私には思えてならない。
親切心と言うよりは遊び心に近いかもしれない。

では、私も浄眞寺の九品仏にお参りすることに致しましょう。
まっすぐに下品下生の阿弥陀仏に。

 

◆追伸 現在、九品仏は「九品佛大修繕事業」中とのことで、九体の阿弥陀仏全部が拝観ができるかどうかについては浄眞寺までお問合せ下さい。

 

 

「こうやって、皆さん、幸福でいらっしゃると思うんですけれども、それでも案外、一人ひとりの中に入っていくとですね、人には言われないような問題がおありになるだろうと思います。というのは、甚だ僭越な言い方ですけれども、どうしても人間てのは、そういう具合に、完全な幸福とか、完全な自信を持ってらしても…どこかに弱みがあったりね、そういうものが、弱いものが人間だと私は思います。つくづく、この何十年間、まあ、年の功ですけども、それで生きて来てつくづく思うことは、人間とはまことに弱い動物である…と思いますね。
で、それだけに、しかしまた人間には、弱いだけに、その弱さというものを自覚する力があるわけですね。その弱いことを自覚する力というものがあるためにですね、人間がその弱さを次第に自分でコントロールして、そして伸びて行くと思うんですね。…
で、その意味で、そのために、私が今、いろんなことを申し上げるわけですが、例として、あるいは、お聞き苦しいことがあるかもしれない。それはひとつ真実のために、ご容赦願いたいと思うんです。世の中は決して綺麗事ばかりでなくて、現実の人生ってものは、生きてるには、そこに生々しい、あるいは、目を背けたくなるようなこともあります。しかし、私たちがものを本当に考え、ものを本当に解決するためには、その真実に耐えなくてはならない。そういうことがございます。…
真実を観る眼、こういうものが私たちにどうしても必要なんですね。ですから、その意味で、私が申し上げる中に、あるいは、お聞き苦しい点があるかも存じませんけれども、どうか、そのために、あれは真実のために言っているんだと、そういうことをご了解になっていただきたいと思います。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

まず、弱いのが人間だということ。
皆さんはご自分の弱さに気づいておられますか?
弱さだけではない、自分のずるさ、卑怯さ、ひどさにどこまで気づいていますか?
どこまで認めることができますか?
そして、我々が人間として成長するためには、そんな綺麗事ではない、目を背けたくなるような真実と向き合わなければならない、ということ。
それを近藤先生は「真実に耐えなくてはならない」とおっしゃいました。
そして「真実を観る眼」が必要だ、とおっしゃいました。
すべてはそこからです。
「情けなさの自覚」からすべては始まります。
心配要りません。
情けないのはあなただけではありません。
すべての人間が情けない存在なんですから、そしてそのどん底から本当の成長の道が始まります。

 

 

児童専門外来をやっていた頃、母子手帳を拝見する機会が多かった。
それは医学的に生育経過を辿るためであったが、期せずして母親としての愛情溢れる文面に接して、胸が熱くなることが何度もあった。

そして、その後もお母さん方の気持ちに触れる度に思うのが、母子手帳は就学までのものではなく、子どもがもっと大きくなるまであっても良いんじゃないかということである。

で、何を書くのかって?
子どもに対して
怒り過ぎちゃたとき
間違ったことを言っちゃったりやっちゃったりしたとき
ひどいことをやらかしちまったとき
その後の気持ちを自分だけの胸に留めておかず、また、いつの間にか忘れてしまうことなく
ちゃんと書いておきましょうね、ということである。
その反省の中には、ただの反省だけでなく、子どもたちへの“愛”がある。
それを書いておいてほしいのだ。

そして、ただ書いたままにしておくのではなく
子どもが18歳/20歳になったとき
家を出て行くとき
社会人になったとき
結婚するとき
その書いたものを子どもに渡してほしいと思う。
それは、若い拙い親が、拙いなりに一所懸命に子どもを愛していた、ということの証しになるだろう。
そこに子どもにとっての意味がある。
(決して恩着せがましいこと/自己陶酔的なことを書かぬように。書くときは真心から書きましょう)

而(しこう)して、親が子どもに言いそびれていた大事なことを書いておく“そびれ帳”を推奨する次第である。

ちなみに、この“そびれ帳”は、親子だけでなく、夫婦でも、大切な人同士でも可能です。
そのときは、結婚〇周年や出逢って〇周年などの(1年や2年でなく)まとまった記念日にプレゼントするのがいいかもしれません。

 

 

「これはある人の詩ですが

  人によく思われたい
  変に思われたくない
  何時(いつ)の間にか見栄を張っていた私
  何時の間にか自分を無くしている私
  他人の眼が気になる
  どうしてこんなに他人の眼が気になるんだろう

しかし、これは日本にすむ我々の正直な心情ではないでしょうか。何時もそういう感じ、しょっちゅう他を気にしている。一体何処(どこ)に自分が生きているか。本当の自分はどこに生きているのだろうか、どうして何時も人のことばかり考えて人の顔色ばっかり窺(うかが)っているのだろう。これは何故でしょうか。本当に自分が大きな力で、自分も他人も超える大きな力で生かされていることを知らないからです。それに気が付かないからです。これではやがて死ぬ気配を見せずに一生懸命に鳴いて、鳴き止まぬ蝉の境地もわかるはずはありません。精一杯生きていれば、生かされているということを気付かされ感謝の心をもっているならば、我々はこんな詩のようなことにならないですよ。…
このような意味で日本人が今日もう一遍どうあるべきか考えるべき時だと思います。元来日本は明治以来かれこれ百何十年か、西洋の真似ばっかりしてやって来ましたけれども、そろそろ考えを変えて、もっと我々の…中にあるところの敏感さ、要するに我々を超えてあるもの、我々を超えて生かして下さっている力を感じる敏感さに気付き、世界中が乱れている今日この日本人の心の在り方を伝えて貰いたいと思うのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

この狭い地上の上で、せせこましく他人の思惑を気にしながら生きること、それをそろそろやめませんか、というお話です。
でも、ただやめませんか、と言ってもやめられませんよね。
かつてのあなたは、その生育環境の中で、他人(親) の思惑を気にしながら、孤独に、無力に、オドオドビクビクしながら生きて来たのですから。
でももうあなたは孤独でも無力でもない、いや元々あなたは孤独でも無力でもなかった。
もっと正確に言うならば、あなたは無力だけれども、あなたを生かして来た力は、いつもあなたに連なり、包み、あなたは孤独ではなかったし、その力は、いかなるものをも凌(しの)ぐ、広大無辺なものであったのです。
それを感じる、体験する。
そうすれば最早、他人の思惑など、どーでもいーことになるのです、あれこれ考えなくてもね、自然に。
だから、感じる力を磨きましょう、磨きましょう、磨きましょう。
そして、そのためのお話をするのが面談の場なんです。

 

 

 

「松尾芭蕉が

『よく見れば 薺(なずな)花咲く 垣根かな』

と歌っています。ここで一番大事なのは、いつも何気なく見過ごしているのに、ふと気が付いてよく見ると、今まで気がつかなかったのにそこの垣根になずなが咲いていたという驚き。これはこの人の有名な

『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』

とも同じです。蛙が池にポンと飛び込んだ時に、これが実に深く、ピィーンと自分の胸に深く染み渡るその感動、それはこれまでは全く気がつかなかった気持ちでしょう。同じくよく挙げられる句ですけれども、

『山路来て 何やらゆかし すみれ草(ぐさ)』

山道をどんどん歩いて来て、くたびれてほっとひと休みした時に、ふっと見るとそこにすみれが咲いている。思いもかけない発見です。ただすみれと言えばすみれですが。そんなところにもすみれをすみれとして生き生きと活かしている力が私達の胸に伝わって来るのではないでしょうか。それに芭蕉は感動したと思うのです。これら全て素晴らしく元気に生き生きと活かされているものに、我々すべてを生かして下さる自然の大きな力を感じるのであります。これを仏と言い神と言い、何と言っても良いのです。概念なんかどうでもよろしい。問題は私達が活かされている有り難さを感じるかどうかです。この感じる力があれば、必ず、あなた方は何かぐぅっと本当に腹に落ちる、腑に落ちるものを感じることが出来るでしょう。頭でもなく理屈を言うのでもないのです。自分で『本当にこうだ』と感じるものがあるはずだと思うのです。
最後に、又一つ芭蕉の句、

『やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の聲(こえ)

蝉は何十年も地中に沈潜して出て来る時を待っています。しかし一度出て来ても、その命は僅かなものです。人間の命と比べれば非常に僅かなものです。僅かだけれども、それを本当に『やがて死ぬ景色も見えず蝉の聲』でミーンミーンとないて、本当に精一杯生きている。それこそ本当に素晴らしい姿ではないでしょうか。そこに蝉の全存在を生かしている大きな力を感じるのです。蝉を生かして居る大きな力、そしてそれと同様に我々も生かされている大きな力、それをあなた方が自分も共感して自分も有り難く生かされていると感じたときに、初めてあなた方は宗教といわれているものに初めて目覚める、気が付くことになるのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

その一生が長かろうと短かろうと関係ない。
自分を超えた大きな力によって自分の全存在を精一杯に生かされている瞬間の体験があるかないか、これがすべてなのです。
その体験がない一生であるならば、3万年生きても仕方がない。
その体験が一瞬でもあれば、もういつ死んでもいい。
だから、「やがて死ぬ景色」などどうでもいいのです。
これはかつての『不惜身命の世界』と同じ話になるのです。
ある辛い境遇にある方が念仏をして「本当に有り難いんです。」と二度繰り返しておっしゃいました。
そうです。その方には“本当に有り難い”体験の瞬間があったのです。
私たちはその体験をするために生命(いのち)を授かりました。その体験をするために生れて来たのです。

そして、その体験を授かって初めてあなたもアンパンマンに答えることができることになりますね。


 

ルッキズム(lookism)、外見主義という言葉がある。
我々が他者からどう見えるか(見られるか)、あるいは、他者にどう見せたいか、ということに価値を置いていることは、紛れもない事実である。
そうでなければ、化粧品は売れないし、美容整形も流行らない。
雑誌の表紙は概ね、美男美女であり、わざわざブランド物を着て、スーパーカーに乗るのも他者に見せるためである。
ある女性は、新型コロナウイルス感染症の予防接種に行ったとき、注射をしてくれた女性看護師が、同性の眼から見ても美人であったために、痛さが半減したと言っていた。
そういう姿勢を軽佻浮薄と非難する人もいるが、そんな人でも桜は美しいと愛でるであろう。
外見的美観(何が外見上美しいと思うか)に個人差はあるが、外見上美しいと感じることに価値を置くのは、そんなにおかしいこととは思えない。

要は、外見主義が、外見至上主義になって来るか否かである。
至上では困る。
外見(looking)は、たくさんある要素のひとつに過ぎない。
例の「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌詞がある。
観ている(「見ている」ではない)のは外見ではない。
ドブネズミを純度100%のドブネズミさせているものを感じて「美しい」と言っているのである。
そういう感性を持っていれば、巷のルッキズムにそれほど目くじらを立てなくてもいいのではなかろうか。
それはそれとしてのルッキズムに付き合いながら、外見を引っぺがしたものを感じていればいいのである。

 

 

今日は令和6年度6回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目に続いて6回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたい。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

b.自らに対する神経症的要求 neurotic shoulds

「仮幻の自己」の実現に対する試みは、又自分自身に対して、「汝かくあらざるべからず(shoulds)」も形を取って要求を提出する。その要求は厳格且つ無慈悲である。それは絶対命令であり、その意味で強迫的である。彼の全ての行動はこの要求に応えねばならない。それは可能か不能かを問わない。勿論、彼の現実の心的状況も、感情も顧慮に値しない。それは寧(むし)ろこの要求の前に無視され、抑圧されねばならない。
 この shoulds の命令に対して、攻撃的な拡大的タイプの人間は、一切のそれに反する要素を抑圧して、全能的な存在そのものであることを確信せねばならぬし、依存的な縮小的タイプの人間は自分を常に完全な愛の具現者として、他人の犠牲となり、しかも常に卑下して卑小なものとして自分を感じなくてはならないのであり、更に、孤立的な限定的タイプの人間は、あらゆる外界からの圧迫に対して、独立と自由を守る人間として抵抗し、反抗し、しかも自己内界の平静を持する人間として自己を表現しなくてはならないのである。
 この要求のもたらす結果は、次第に彼は自分自身の自然な感情や考えを抑圧し、最後に自分らしい感情や思考をもつ能力を麻痺させると言う、恐るべき状態をもたらすと共に、逆に shoulds の命令によって形作られる仮構された感情や思考を、自分の自然なものと考える様になるのである。かくて患者の言を借りれば「自分は何を本当に感じているか判らない。まあ感じなくてはならないから感じているのですよ」と言うことになるのである。

 

「ニセモノの自分」「仮幻の自己」は、自分自身に対して「~であるべき」「~でなければならない」の形を取って、さまざまな要求をして来る。
これもすべては「仮幻の自己」を実現するためである。
「真の自己」の実現を許されなかった人間にとっては、「仮幻の自己」を実現するしか生き残る道はなかったのだ。
自己拡大的支配型の人間は、全能的な存在でなければならないし、
自己縮小的依存型の人間は、完全な愛の具現者として犠牲的でなければならないし、
自己限定的断念型の人間は、あらゆる圧迫から独立と自由と守る人間でなければならない。
そして、その shoulds が進めば進むほど、自分がどう感じるべきかはわかっても、自分が本当は何を感じているかがわからなくなってしまい、自らに対する神経症的要求(neurotic shooulds)は、「真の自己」を闇の底に葬り去ろうとして行くのである。

 

 

「そういう意味でこの『なにごとの おはしますかは 知らねども』という気持ちが素直に有るのが田舎だと思います。古い大木にはしめ縄を張り、お賽銭箱があってお花を供えたりしてあります。皆さん御存知の例えば有名な華厳の滝、華厳というのは仏教の『華厳経』からきたのだと思いますが、仏教から頂いた有り難い名前を付けているのは、そこに神聖なものを感じるからなのです。これは日本人としては当たり前の話ですね。そういう意味で、東洋人はこの宇宙や、その中の一つである地球上にある全てのものがみんなそれぞれが或る何か目に見えない、頭では解らないものを持っているのを感じるのです。それを魂と呼べば、そういう何かのものを持っている、木でいえば木魂(こだま)とかですね。水は水の神様、火は火で荒神(こうじん)さま、今まではこういう木魂とか水神さまや荒神さまは日本の至るところにありました。なにか日本の国はそういうものを持っているわけです。つまり本来的に日本人と言うのは、すべてに、火にも石にも木にも、そこらの中にある万物、草木植物、全てに何か大きな精神性、を感じてるのだと思うのです。あなた方がそういう眼で見られると、例えば自分の庭に咲いた一つの菊の花でも、その生きている姿から、そこに籠っている何かを感じられると思います。そうしますと、あなた方は何か、自分も生かされ、又自分も生かし、又その花も活かしている、そういったものを必ず感じられます。じっとその花を見つめてホッとする心、それが本当に花を愛し、花を愛(め)でる気持ちだと私は思うのです。
我々が自分がそういう気持ちを持っていることを感じ、ハッと気が付く時があるんですね。これが敏感さです。今まで何十年連れ添っていた女房が、何か言った時、それまで気が付かなかったことにふっと気が付かされ、あぁこれは不可思議な縁だなぁと思う時もあるのです。そろそろ私のようにこの世におさらばしようとする歳になると、そんなことを感じます。年寄りだから鈍感になるかと言いますとそうじゃなくて、逆にそういうものに対して敏感になるものなんです。若い方だけが異性に対しては敏感なわけじゃないんですよ。長い間連れ添っているとやっぱり違います。何でもない一寸(ちょっと)したことにもパッと感じるものなんです。そうした感じることが大事なんですね。ふっと気が付く。今まで気が付かなかったことにふっと気が付く。その時、ときには感動して涙が滂沱(ぼうだ)として流れる時があります。このように心から感動する気持ちを持つことこそ、正に生きているということではないでしょうか。この生かされている喜びを心から有り難く感じられるのはそういう時だと思います。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

感じるか感じないかによって、敏感さがあるかないかによって、この世界に生きることの豊かさがこんなにも違って来るのかと思います。
皆さん、最近、そんな瞬間がありましたか?  今まで気づかなかったことにふっと気が付いて、心からの感動に包まれるような瞬間が。
そんな瞬間のない人生は寂しいですよ。
だから、深く丹田呼吸をして、あなたのまわりにいる人に対して、そして、あなたのまわりにある万物に対して、まずは手を合わせて頭を下げてみましょうよ。
その丹田呼吸と合掌礼拝(らいはい)が、いつの間にか鈍化していた、あなたの「感じる力」をリセットし、必ずや敏感にして行ってくれると思います。
但し、1回や2回ではなくて、繰り返し繰り返し、何回も何回も、ね。
そうして、それが
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
の世界に、敏感さと霊的感動の世界に、あなたを連れて行ってくれるでしょう。

 

 

 

就職活動をしている青年から、進路選択について訊かれた。

仕事ということについて核となるところは既に『仕事観』に書いたので、今回は少し切り口を変えて彼に話してみた。

まず「収入のために働く」という観点からの選択がある。
それならば、働く時間はできるだけ短く、あるいは楽で、給料はできるだけ多いところを探せば良い。
最近は、「最低限食べて行ければ良いです。」「できるだけ働きたくないです。」という人たちも増えていると聞く。
あなたの人生だ。
あなたがそれで良ければ、
自己責任において、その観点で探せば良いと思う。

二番目に「やりたいことをやるために働く」という観点からの選択がある。
日本も欧米並みに個人主義的となり、「なりたい自分になる」「生きたい人生を生きる」という自我中心的な生き方が市民権を得て来たように思う。
それはそれで、自分以外の誰かに隷属したり、他者評価に支配されたままで生きるよりは結構である。
自分が本当は何がしたいのか、を見つめてみれば良いと思う。
ただ現実には、やりたい求人がないときもある。
また、あっても採用されない場合もある。
一旦勤めてみたが違っていた、ということもある。
あなたが本当にやりたい仕事を求めるならば、自己責任において、これがやりたかったんだ、と感じるまで探し続ければ良いと思う。

そして三番目に、「自分の生れて来た意味と役割、ミッションは何か」という観点からの選択がある。
「自分がやりたいこと」と「ミッション」とは必ずしも一致しない。
そこが二番目の観点との決定的な違いである。
例えば、サイコセラピストになることがミッションの人がいる。サイコセラピストになることがミッションでない人もいる、どんなに本人がなりたくても。しかしその人には国際公務員や実業家やパティシエになるミッションがあるかもしれない。
そもそも最初から自分の「ミッション」がわかっている人はほとんどいない。
働いてみながら、そして「本来の自分とはなんぞや」「自分のミッションはどこにあるのか」を求め続けながら、試行錯誤して行くことになる。
これは多数派の人が歩む人生とは違う人生になるかもしれない。
それでも、あなたがミッションに生きることを求めるならば、自己責任において、自分に与えられたミッションを見い出すまで求め続ければ良いと思う。

そう答えて、あとは二十歳を過ぎた彼にまかせることにした。

 

 

「私は最近アメリカから帰って地方に行きましたが、面白いことに立派な木や石に縄をめぐらし、手で作った白い紙が付いています。しめなわですね。これはつまり神聖なものの印です。日光の中禅寺湖の付近に行かれた方は御存知でしょうけれども、立木(たちき)観音が彫られておるのですね。木の幹と観音様、日本人にとって何の矛盾もないんですね。木が観音様、木に観音様がいらっしゃる、木と観音様が一体になっているのです。同じ意味で、石や岩が、なんかとっても有り難いものとして祭られているところもあります。そういう場所に行きますと誰が上げるのかお賽銭やお花が上げてあるのです。そこにお賽銭が上げてあるというのは、やっぱり人々が手を合わせているのでしょう。そういう意味で、日本人には何というのか、自然に対して、つまりその中にある力、そこに潜んでいる大きな力、そういうものに自ずから頭を下げ祈る気持ちがあるのだと思います。
皆さんに、年を取った方ぐらいしか覚えていないような歌がありますから、紹介いたします。若い人は覚えておいてくださいね。そういうものは我々の祖先がやっぱり感じたことなのです。こういう歌があります。

なにごとの おしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

実はこれには、その瞬間に感じた素直な、そして非常に純真な気持ちがすっと出ていると思います。これが日本人の気持ち、本音なんです。そこには肉眼では見えないもの、しかし何か感じられるものに対する率直な素直な敏感さ、そしてそういうものに対する自然は礼拝の気持ち、それに対して自ずから頭を下げる、これが日本人の真骨頂だと思うんですね。殆どの日本人はそういうことを自然に行います。欧米人は大体理屈ぽくて、これはこういう訳でこうなんだと、理屈で攻めて頭でちゃんと納得しないと、絶対に認めないのです。「なにごとの おしますかは 知らねども」ではいけないんです。それは一体何だと言うわけです。日本料理を食べるとき、これは一体何を使っているのかと必ずきます。つまり、必ず理屈がともなわないといけないのです。私に言わせれば、直感力が不足なんです。物をスカッと見る、スーッと感じることが出来ない、感受性の不足ということですよ。もとより例外もありますが、私は、何時も外国の方々とお話をしていて強く感じます。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

西行が伊勢神宮に参拝したときに詠んだのではないか、と言われる上掲歌は、何度読んでも心に深く響くものがあります。
別に伊勢神宮でなくてもいいんです。
本当は、いつでも、どこでも、誰に対しても、何に対しても感じられるはずのことですから。
でも、特に感じやすい人や物、そして場は、あるかもしれませんね。
それがわかる。
なんとなくわかる。
頭や理屈でわかるのとは違うんです。
それが日本人の、正確に言えば、日本の風土で育った者に授かった“感じる力”なのです。
外国人の中にも、ホーナイのように敏感な人もいますが、近藤先生のおっしゃる通り、これはやはり日本人の真骨頂だと思います。
ですから、例えば、サイコセラピーに携わるとき、セラピストにこの敏感さがあるかないかで、全く違う展開になるであろうことは容易に想像できると思います。
だから、絶対に必要なんです、セラピストが“感じる力”を磨くことが。
そうは思いませんか?
いやいや、セラピストだけじゃない、親にも、教師にも、社長にも、すべての人にこの“感じる力”は必要だと思いますね。

 

 

労働の対価としての報酬を受け取るために働いている、という人がいる。
全くもって正論である。
それで結構な人は結構である。

しかし、私はそれではとても寂しく、全然物足りない気持ちになってしまう。
貴重な人生の時間を切り売りして対価を得るというのであれば、働いている時間はどうしても「世を忍ぶ仮の姿」、「死に体(たい)」の時間、「ゾンビ」の時間と化してしまう。
だからこそ、ワークライフバランスなどと言うのである。
収入のためにイヤなことをやっているワークはできるだけ短く、好きなことをのびのびとやれるライフはできるだけ長くと願うに決まっているのだ。
私は、一回しかない人生の貴重な時間を1秒たりとも、そんな仮死状態のような時間にしたくない。

そもそも仕事をするということは、今回の人生において自分に与えられた意味と役割を、ミッションを果たすためにある。
そしてまた、この娑婆の中で働くということは、漏れなくイヤなヤツと変なヤツに出会わざるを得ないであろうから、いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいられるという“勁さ”を養うため、自分が自分でいるという幹を太くして行くためにあるのだ、と私は思っている。

わかりやすいリトマス試験紙がある。
その人の仕事観をみるには、こう尋ねてみれば良い。
「あなたは10億円の宝くじが当たっても今の仕事を続けますか?」

私は10億円が100回当たっても、この仕事を辞めたくないし、絶対に辞めない。
いや、それだけのお金が転がり込んでくるということは、またどんなミッションがあるのだろうと思って、さらに打って出るかもしれない。

あなたがこの世に生を受けた以上、絶対に意味と役割が、ミッションがあるんです。
(意外なところに、意外な形で、あったりもしますが)
それを忘れないでいただきたいと強く強く思います。

 

 

ドブネズミみたいに美しくなりたい

という歌があった。
これが

サクラみたいに美しくなりたい

だったらどうだろうか。
サクラは元々誰もが美しいと思っているので、一気に歌詞のインパクトはなくなってしまうだろう。

しかし、その深意には
サクラがサクラしているときが最も美しく
ドブネズミがドブネズミしているときが最も美しい
という美観がある。

これは
サクラは美しく
ドブネズミは醜い
とは異なる美観である。

サクラがサクラして美しく
ドブネズミがドブネズミして美しいのに
我々は人間は、自分しておらず、なんと醜いのだろう。
だから
ドブネズミがドブネズミして美しいように
私も私して美しくなりたい
という歌詞なのだ。

だから
ドブネズミがドブネズミしているとき
ドブネズミがドブネズミさせられているとき
ドブネズミを通して現れるやさしさもあたたかさも、この上なく純なものだから(そこに意識も努力もはからいもない)

ドブネズミみたいに誰よりもやさしく
ドブネズミみたいに何よりもあたたかく

という歌詞になるのである。

敢えてそこに、一般には醜いと思われているドブネズミを出して来る。
敢えて非常識を打ち出して、常識を打ち破り、真理に迫る。
ここらはかの一休宗純さんが得意とした表現である。

だから、周囲から否定され、顧みられず、蔑(さげす)まれている人たちがこの歌を好み、ドブネズミに自分を投影して、オレたちだって/ワタシたちだって美しいんだよっ!と主張するというのとは本質が異なる。

あなたがあなたしているとき
あなた絶対的に!美しいんです、ドブネズミのように。

 

 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。