八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

サイコセラピーにおいて、ズバリと核心を言わなければならないときがある。
そんなとき、少しでも、曖昧だったり、中途半端だったり、婉曲な言い方をしてはならない。
逃れる隙を作ってはならない。
ズバリと核心を突く。
それができなければホンモノのサイコセラピストとは言えない。

しかしまた、サイコセラピーにおいて、ズバリと核心を言ってはならないときがある。
むしろ黙す。
余計なことは一切言わない。
紆余曲折も、まわり道も、試行錯誤も、ただ黙って見守る。
それができなければホンモノのサイコセラピストとは言えない。

では、両者の区別はどうするのか。
どういうときに核心を突き、どういうときに黙って見守るのか。
知識と技術のサイコセラピーをやる連中は、その操作的な考え方に基づいて、長々と語ることだろう。
しかし、私は立場を異にする。
直観
で判断する。
思いつきではない。
自分を通して働くものによって
言うのではなく、言わせられる。
黙るのではなく、黙らせられる。

その消息がわからなければホンモノのサイコセラピストとは言えない

おして、ホンモノのサイコセラピストを目指して進み続けるのみである。

 

 

うろ覚えの記憶である。
確か、何かのマンガの一シーンだったと思う。
どなたか正確な情報をお持ちの方がいらしたら、お知らせ願いたい。

暗黒の宇宙の中、たくさんの小惑星が並んでいる。
小惑星は内部をくりぬかれ、ひとつずつが鉄格付き子の牢獄の形になっており、その中で人間が一人ずつ眠っている。
そしてその中で永遠に夢を見続ける。
しかもその夢の中身は
その人がそれまでの人生で体験した中で
最も辛い体験
最も哀しい体験
最も情けない体験
最も恥ずかしい体験
そんな体験を、リアルに何度も何度も夢に見続けるのである。

思うに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の患者さんが、フラッシュバックや悪夢を体験しても、あれだけ辛いのに、それが永遠に続くとなると、とても正気ではいられまい。
これは
凄まじい拷問に匹敵する。

改めて思う。
我々は過去を無意識に沈めてしまえるから、今を生きていけるのだ。
我々は過去を忘却して行けるから、今を生きていけるのだ。

ひょっとしたら上記は、私がいつの間にか脚色したか創作した話かもしれない。
それならそれで非常に示唆的であると言える。

そしてもし、無意識に沈めることも、忘却することもできない過去があったとしたら、我々を超えた力によって持って行ってもらうしかない。
祈って 祈って 祈って。
そしてようやく今を生きていける。

 

 

脇を通る車から古い曲が聞こえて来た。

♪Everybody loves somebody sometime

聞くともなしに聞きながら

「誰かが誰かをじゃダメなんだよな。」

と呟(つぶや)いていた。

そう呟きながら、ある自殺予防の動画のセリフを思い出していた。

 

「命は大切だ

 命を大切に

 そんなこと 何千 何万回 言われるより

 あなたが大切だ

 誰かがそう言ってくれたら

 それだけで

 生きていける」

 

一般論の話ではなく

世界に一人の「私」を限定して大切だと言ってくれた方が嬉しい。

だけど、「誰かが」そう言ってくれたら、と言っているところが、まだちょっと哀しい。

世界に一人の具体的な〇〇が、世界に一人の具体的な〇〇(=私)を確かに愛してくれているという実感。

それがあれば生きていける。

 

あなたが子どもの頃、上記の〇〇は埋まりましたか?

そして今のあなたは、上記の〇〇は埋まりますか?

そして今度は、愛されるばかりでなく、世界に一人の具体的な〇〇を愛する側に回りたいですね。

 

 

 

先日お知らせしていた『講義・講演のご依頼』の内容が、ようやくホームページのサイドメニューからも閲覧できるようになったため、お知らせする。

講演の依頼があった場合、いつも悩ましいのが、それを受けるか受けないかということで、
私を本当に必要として下さるところであれば、どんなところへでもどんどんと出かけて行くことを厭わないが、
ゆる~い動機づけで、内省もあさ~い人たちに呼ばれても、これが本当に私のミッションなのかしらん、と思ってしまう。

思うに、講演には、「耕す講演」と「育てる講演」があり、
前者は、文字通り、荒れた畑を耕し、種を蒔くように、対象を限定せず、聴衆の百人に一人でも芽を出す人がいれば幸いという講演であり、声がかかれば出かけて行くというものである。
それに対して後者は、動機づけが強く内省の深い人たちに対象を絞った講演であり、ほとんどが既に芽を出しており、後はそれをどれだけ大きく育てるかということを目標とした講演となる。

それぞれに役目があるため、どっちが良い悪いというものでもないが、少なくとも今現在、私は、「育てる講演」の方にミッションを感じている。
最近、「八雲勉強会」や「ハイブリッド勉強会」に力を入れているのも、同じ理由からである。
それでもたまに「耕す講演」をすることもあるが、それは元々職場単位で普段からメンタルヘルス研修や職員研修を頼まれている場合にほぼ限られる。

やっぱりここでも、今生で私が出逢うべき人に出逢えますように、私に与えられたミッションを果たせますように、と祈りながらやるしかないのである。

それでは、もし「育てる講演」の御要望がありましたら、どうぞお声かけ下さい。
詳しくは
『講義・講演のご依頼』を。

 

 

「松尾芭蕉が

『よく見れば 薺(なずな)花咲く 垣根かな』

と歌っています。ここで一番大事なのは、いつも何気なく見過ごしているのに、ふと気が付いてよく見ると、今まで気がつかなかったのにそこの垣根になずなが咲いていたという驚き。これはこの人の有名な

『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』

とも同じです。蛙が池にポンと飛び込んだ時に、これが実に深く、ピィーンと自分の胸に深く染み渡るその感動、それはこれまでは全く気がつかなかった気持ちでしょう。同じくよく挙げられる句ですけれども、

『山路来て 何やらゆかし すみれ草(ぐさ)』

山道をどんどん歩いて来て、くたびれてほっとひと休みした時に、ふっと見るとそこにすみれが咲いている。思いもかけない発見です。ただすみれと言えばすみれですが。そんなところにもすみれをすみれとして生き生きと活かしている力が私達の胸に伝わって来るのではないでしょうか。それに芭蕉は感動したと思うのです。これら全て素晴らしく元気に生き生きと活かされているものに、我々すべてを生かして下さる自然の大きな力を感じるのであります。これを仏と言い神と言い、何と言っても良いのです。概念なんかどうでもよろしい。問題は私達が活かされている有り難さを感じるかどうかです。この感じる力があれば、必ず、あなた方は何かぐぅっと本当に腹に落ちる、腑に落ちるものを感じることが出来るでしょう。頭でもなく理屈を言うのでもないのです。自分で『本当にこうだ』と感じるものがあるはずだと思うのです。
最後に、又一つ芭蕉の句、

『やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の聲(こえ)

蝉は何十年も地中に沈潜して出て来る時を待っています。しかし一度出て来ても、その命は僅かなものです。人間の命と比べれば非常に僅かなものです。僅かだけれども、それを本当に『やがて死ぬ景色も見えず蝉の聲』でミーンミーンとないて、本当に精一杯生きている。それこそ本当に素晴らしい姿ではないでしょうか。そこに蝉の全存在を生かしている大きな力を感じるのです。蝉を生かして居る大きな力、そしてそれと同様に我々も生かされている大きな力、それをあなた方が自分も共感して自分も有り難く生かされていると感じたときに、初めてあなた方は宗教といわれているものに初めて目覚める、気が付くことになるのです。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

その一生が長かろうと短かろうと関係ない。
自分を超えた大きな力によって自分の全存在を精一杯に生かされている瞬間の体験があるかないか、これがすべてなのです。
その体験がない一生であるならば、3万年生きても仕方がない。
その体験が一瞬でもあれば、もういつ死んでもいい。
だから、「やがて死ぬ景色」などどうでもいいのです。
これはかつての『不惜身命の世界』と同じ話になるのです。
ある辛い境遇にある方が念仏をして「本当に有り難いんです。」と二度繰り返しておっしゃいました。
そうです。その方には“本当に有り難い”体験の瞬間があったのです。
私たちはその体験をするために生命(いのち)を授かりました。その体験をするために生れて来たのです。

そして、その体験を授かって初めてあなたもアンパンマンに答えることができることになりますね。


 

テレビで海外の獣医番組をやっていた。

ある牧場に呼ばれて馬の治療にやって来た女性獣医師について、牧場主が「お昼休みに連絡したら、お昼抜きですぐに来てくれたんです。」と感謝していた。
これが臨床現場における当たり前の“感覚”だと思う。

かつて精神科病院に勤務していた頃、まさに昼休みに、病棟から、私の受け持ち患者さんが発熱してノドも痛そうだから診察してほしい、と連絡があった。
気を遣った看護師さんは「先生の食事が済んでからで良いですよ。」と付け加えた。
今この瞬間、ノドが痛くてしんどい思いをしている患者さんがいるのに、のうのうと食事を摂っていられる神経は私にはない。
すぐに病棟に行って診察して薬を出した。

誤解のないように。
自慢話をしているのではない。
また、全ての医師、獣医師がそうすべきである、という“べき論”を言っているのでもない。
人間としての、当たり前の、フツーの“感覚”の話をしているのである。

そういう感覚があれば、例えば、受け持ち患者さんが多く忙しくヒーヒー言っている医師であれば、しっかり食べて栄養を付けてから診察した方が良い。ゼリー飲料をチューッと吸いながら、バナナをもぐもぐ食べながら病棟に駆けつけてもいい(感染注意)。
ただ気持ちの中で、一刻も早く楽にしてあげたいな、という素朴な思いがあるかないかが重要なのである。
すべては“気持ち”の問題、“姿勢”の問題。
そもそも医者が低血糖や脱水で倒れたら洒落にならないからね。

テレビ番組でそのシーンは放映されなかったが、診察後にその女性獣医師がちゃんと昼食が摂れたことを願った。

 

 

ルッキズム(lookism)、外見主義という言葉がある。
我々が他者からどう見えるか(見られるか)、あるいは、他者にどう見せたいか、ということに価値を置いていることは、紛れもない事実である。
そうでなければ、化粧品は売れないし、美容整形も流行らない。
雑誌の表紙は概ね、美男美女であり、わざわざブランド物を着て、スーパーカーに乗るのも他者に見せるためである。
ある女性は、新型コロナウイルス感染症の予防接種に行ったとき、注射をしてくれた女性看護師が、同性の眼から見ても美人であったために、痛さが半減したと言っていた。
そういう姿勢を軽佻浮薄と非難する人もいるが、そんな人でも桜は美しいと愛でるであろう。
外見的美観(何が外見上美しいと思うか)に個人差はあるが、外見上美しいと感じることに価値を置くのは、そんなにおかしいこととは思えない。

要は、外見主義が、外見至上主義になって来るか否かである。
至上では困る。
外見(looking)は、たくさんある要素(factors)のひとつに過ぎない。
例の「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌詞がある。
観ている(「見ている」ではない)のは外見ではない。
ドブネズミを純度100%のドブネズミさせているものを感じて「美しい」と言っているのである。
そういう感性を持っていれば、巷のルッキズムにそれほど目くじらを立てなくてもいいのではなかろうか。
それはそれとしてのルッキズムに付き合いながら、外見を引っぺがしたものを感じていればいいのである。

 

 

今日は令和6年度6回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目に続いて6回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたい。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

b.自らに対する神経症的要求 neurotic shoulds

「仮幻の自己」の実現に対する試みは、又自分自身に対して、「汝かくあらざるべからず(shoulds)」も形を取って要求を提出する。その要求は厳格且つ無慈悲である。それは絶対命令であり、その意味で強迫的である。彼の全ての行動はこの要求に応えねばならない。それは可能か不能かを問わない。勿論、彼の現実の心的状況も、感情も顧慮に値しない。それは寧(むし)ろこの要求の前に無視され、抑圧されねばならない。
 この shoulds の命令に対して、攻撃的な拡大的タイプの人間は、一切のそれに反する要素を抑圧して、全能的な存在そのものであることを確信せねばならぬし、依存的な縮小的タイプの人間は自分を常に完全な愛の具現者として、他人の犠牲となり、しかも常に卑下して卑小なものとして自分を感じなくてはならないのであり、更に、孤立的な限定的タイプの人間は、あらゆる外界からの圧迫に対して、独立と自由を守る人間として抵抗し、反抗し、しかも自己内界の平静を持する人間として自己を表現しなくてはならないのである。
 この要求のもたらす結果は、次第に彼は自分自身の自然な感情や考えを抑圧し、最後に自分らしい感情や思考をもつ能力を麻痺させると言う、恐るべき状態をもたらすと共に、逆に shoulds の命令によって形作られる仮構された感情や思考を、自分の自然なものと考える様になるのである。かくて患者の言を借りれば「自分は何を本当に感じているか判らない。まあ感じなくてはならないから感じているのですよ」と言うことになるのである。

 

「ニセモノの自分」「仮幻の自己」は、自分自身に対して「~であるべき」「~でなければならない」の形を取って、さまざまな要求をして来る。
これもすべては「仮幻の自己」を実現するためである。
「真の自己」の実現を許されなかった人間にとっては、「仮幻の自己」を実現するしか生き残る道はなかったのだ。
自己拡大的支配型の人間は、全能的な存在でなければならないし、
自己縮小的依存型の人間は、完全な愛の具現者として犠牲的でなければならないし、
自己限定的断念型の人間は、あらゆる圧迫から独立と自由と守る人間でなければならない。
そして、その shoulds が進めば進むほど、自分がどう感じるべきかはわかっても、自分が本当は何を感じているかがわからなくなってしまい、自らに対する神経症的要求(neurotic shooulds)は、「真の自己」を闇の底に葬り去ろうとして行くのである。

 

 

今日も神社仏閣で、善男善女が「ああして下さい」「こうして下さい」と手を合わせて祈っている。
奉納された絵馬などを見ていると、「商売繁盛」「合格祈願」「恋愛成就」などなど、はっきり申し上げて、実に手前勝手な願いがいろいろと書かれている。
神さん、仏さんも、そんな人間の我欲にいちいち付き合っていたら、とっても大変であろう。
しかし、神社やお寺もしたたかなもので、そんな我欲を満たす御守りなどのラインアップを充実させ、参拝者を引き付けている。
個人的には、そういった御守りなどのグッズは、人寄せのための撒き餌みたいなもので、人々が集まって来たところで、やおらお坊さんや神主さんが出て来て、有り難い話をし、真実の世界へと導いて下さるというのが、本来の神社仏閣の姿ではないか、と思っている。

つまり、神社仏閣は、愚かな人間の我欲を満たすためにあるのではなく、
何がどうなろうとも、人間を超えた大きな力におまかせします、という姿勢を身に付けさせるためにあるのである。
だから
神社では「惟神(かむながら)」
仏閣では「南無」
という祈りになる。
どちらも、人間を超えた力のままにおまかせします、という意味だ。
そうし
て人間は、ただ大きな力に導かれるままに、催されるままに生きて行くしかない、ということを体感するのが神社仏閣参拝の意義だと私は思っている。

 心だに 誠の道にかなひなば いのらずとても 神やまもらむ   菅原道真

(心さえ真実の道に叶っているならば、祈らなくても神さまが守って下さる)

我欲よりも真実の道が先にある。
まことに天神さまのおっしゃる通りである。

 

 

人間というものは全員、凡夫だと思っている。
一人残らず、ポンコツのアンポンタンである。ヘッポコのスットコドッコイともいう。
だから、やらかしまくる。
それは凡夫だからしょうがないのである。
でも、そのままでいるわけにはいかない。

要点は二つだけ。

ひとつは、自分がやらかしたときに、それに気づけるか否か、それを認められるか否か。
気づかない、認めないでは、話が始まらない。
気づかない、認めない人には、それなりの人生を生きて行っていただくしかない。
自分がやらかしたときに、気づくことができ、認めることができること、それを「情けなさの自覚」という。

もうひとつは、ただ気づくだけに留まらず、現状を変えて行くために、成長して行くために、「で、どーする」と、真剣に自分の考えや言動を変えて行こうとするか否か。
中には、気づくこと、認めることはできるのだが、体育座りで俯(うつむ)いてしまい、ただ自虐ワールドに浸っている人もいる。
これでは変わらないし、変える気もない。これまた、それなりの人生を生きて行っていただくしかないことになる。
「情けなさの自覚」に留まらず、あーでもない、こーでもないと、何度も何度も、どこまでも、真剣に自分の考えや言動を変えようと挑み続けること、それを「成長への意欲」という。

この二つ、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が揃ったときに、人は変わる。
その確信があるから、私は八雲総合研究所を開業しているのである。
自分の足で成長の山に登る準備ができたならば、シェルパはまかせとけ、である。

 

 

 

「そういう意味でこの『なにごとの おはしますかは 知らねども』という気持ちが素直に有るのが田舎だと思います。古い大木にはしめ縄を張り、お賽銭箱があってお花を供えたりしてあります。皆さん御存知の例えば有名な華厳の滝、華厳というのは仏教の『華厳経』からきたのだと思いますが、仏教から頂いた有り難い名前を付けているのは、そこに神聖なものを感じるからなのです。これは日本人としては当たり前の話ですね。そういう意味で、東洋人はこの宇宙や、その中の一つである地球上にある全てのものがみんなそれぞれが或る何か目に見えない、頭では解らないものを持っているのを感じるのです。それを魂と呼べば、そういう何かのものを持っている、木でいえば木魂(こだま)とかですね。水は水の神様、火は火で荒神(こうじん)さま、今まではこういう木魂とか水神さまや荒神さまは日本の至るところにありました。なにか日本の国はそういうものを持っているわけです。つまり本来的に日本人と言うのは、すべてに、火にも石にも木にも、そこらの中にある万物、草木植物、全てに何か大きな精神性、を感じてるのだと思うのです。あなた方がそういう眼で見られると、例えば自分の庭に咲いた一つの菊の花でも、その生きている姿から、そこに籠っている何かを感じられると思います。そうしますと、あなた方は何か、自分も生かされ、又自分も生かし、又その花も活かしている、そういったものを必ず感じられます。じっとその花を見つめてホッとする心、それが本当に花を愛し、花を愛(め)でる気持ちだと私は思うのです。
我々が自分がそういう気持ちを持っていることを感じ、ハッと気が付く時があるんですね。これが敏感さです。今まで何十年連れ添っていた女房が、何か言った時、それまで気が付かなかったことにふっと気が付かされ、あぁこれは不可思議な縁だなぁと思う時もあるのです。そろそろ私のようにこの世におさらばしようとする歳になると、そんなことを感じます。年寄りだから鈍感になるかと言いますとそうじゃなくて、逆にそういうものに対して敏感になるものなんです。若い方だけが異性に対しては敏感なわけじゃないんですよ。長い間連れ添っているとやっぱり違います。何でもない一寸(ちょっと)したことにもパッと感じるものなんです。そうした感じることが大事なんですね。ふっと気が付く。今まで気が付かなかったことにふっと気が付く。その時、ときには感動して涙が滂沱(ぼうだ)として流れる時があります。このように心から感動する気持ちを持つことこそ、正に生きているということではないでしょうか。この生かされている喜びを心から有り難く感じられるのはそういう時だと思います。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

感じるか感じないかによって、敏感さがあるかないかによって、この世界に生きることの豊かさがこんなにも違って来るのかと思います。
皆さん、最近、そんな瞬間がありましたか?  今まで気づかなかったことにふっと気が付いて、心からの感動に包まれるような瞬間が。
そんな瞬間のない人生は寂しいですよ。
だから、深く丹田呼吸をして、あなたのまわりにいる人に対して、そして、あなたのまわりにある万物に対して、まずは手を合わせて頭を下げてみましょうよ。
その丹田呼吸と合掌礼拝(らいはい)が、いつの間にか鈍化していた、あなたの「感じる力」をリセットし、必ずや敏感にして行ってくれると思います。
但し、1回や2回ではなくて、繰り返し繰り返し、何回も何回も、ね。
そうして、それが
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
の世界に、敏感さと霊的感動の世界に、あなたを連れて行ってくれるでしょう。

 

 

 

加齢によって起こる難聴では、高音域から聞こえにくくなって来ることが知られている。

若い人には必要ないが、中高年の方に下の「◆ 聞こえチェック ◆」を試していただきたいと思う(厳密な医学的検査ではないので、お気楽にお試し下さい)。

 ◆ 聞こえチェック ◆

ちなみに私も試してみた。
「60代の目安」の10,000Hzは聞こえたが、「50代の目安」の12,000Hzは聞こえなかった。
ただそれだけのことであるが、私の連想は他に広がって行った。
自分が聞こえてないことが、他の人たちには聞こえているのである。
つまり、自分だけが聞こえていない。

これって自閉スペクトラム(AS:Autism Spectrum)や自閉スペクトラム症(ASD:Autism Spectrum Disorder)の人たちが、周りの人は皆、他人の気持ちやその場の空気、全体の中での自分の立ち位置が読めているのにもかかわらず、自分だけが読めていないということに共通しているな、と思った。

自分だけでは、自分がわからない(わかっていない)ことがわからないのである。
しかしこうやって検査を受けてみたり、専門家や信頼できる人から指摘してもらえれば、わからない(わかっていない)ことがわかるようになって来る。
しかし、ここからが二つに分かれる。
自分がわかっていないことを認める人たちと
自分がわかっていないことを認めない人たちである。
これは、加齢性難聴の場合も、自閉スペクトラム(AS)/自閉スペクトラム症(ASD)の場合も同じなのだ。

否認する人たちは「自分には聞こえている、大丈夫だ。」と言い、「自分だって読めている、バカにするな。」と主張する。
即ち、認めるか認めないかは、能力の問題ではなく、パーソナリティの問題なのである。

認めましょう、たとえそれが“不都合な真実”であっても。真実は、事実は、変わらないんだからさ。
認めた上で、じゃあ、どうやって生きて行くか、を模索して行けば良いだけの話なんです。

例えば、私なら、こう言えば済むことだ。
「高音が聞こえていないことで何か不都合なことがあったら、教えて下さいね。」
苦手なことは助け合えば良いのである。
ただそれだけのこと。

 

 

人間、勝負するときには徹底的に勝負した方が良い。
自分の問題、親子の問題、夫婦の問題、家族の問題、仕事の問題、職場の問題などなど。
直面化しないで先延ばしするテキトーな理由(言い訳)はいくらでも思い付ける。
ちょっと何かやったようなフリだけして、お茶を濁す場合もある。
しかし、そんなことをしているうちに時間だけは確実に経って行く。
若い頃は時間が無限にあるくらいに思っているかもしれないが、現実はそうはいかない
8050問題を見てもわかるように、ツケは必ず回って来る、しかも容赦ない形で。
そのまま死んでいいの?
そんな人生でいいの?
だから、自分の問題と徹底的に「直面化」するということはいつも意識しておいた方が良い。
それでも、いつも詰めが甘く、予想以上の時間を要するのが常であるからだ。

そして、いつでも問題を誤魔化さず、正面から直視し、直面化できるようになった後に、それだけではない世界が開けて行く。
いくら徹底的に直面化しても、ならぬものはならぬことがある。
それを悟り、自分を超えた時と力におまかせしなければならないときがある。
但し、そう言えるのは、徹底的に直面化できるようになった人だけである。
それは剣術において、どのような強敵に対してもいつでも刀を抜けるようになって初めて、敢えて刀を抜かないでいられるようになるのと同じである。
(本当はヘタレで刀が抜けなかったのを、抜かないでおいてやった、というような卑怯な言い訳とは異なる)
自力を尽くした者だけが他力におまかせすることができるのだ。

直面化とおまかせ。
やっぱりこの順番だな、と思う。

 

 

就職活動をしている青年から、進路選択について訊かれた。

仕事ということについて核となるところは既に『仕事観』に書いたので、今回は少し切り口を変えて彼に話してみた。

まず「収入のために働く」という観点からの選択がある。
それならば、働く時間はできるだけ短く、あるいは楽で、給料はできるだけ多いところを探せば良い。
最近は、「最低限食べて行ければ良いです。」「できるだけ働きたくないです。」という人たちも増えていると聞く。
あなたの人生だ。
あなたがそれで良ければ、
自己責任において、その観点で探せば良いと思う。

二番目に「やりたいことをやるために働く」という観点からの選択がある。
日本も欧米並みに個人主義的となり、「なりたい自分になる」「生きたい人生を生きる」という自我中心的な生き方が市民権を得て来たように思う。
それはそれで、自分以外の誰かに隷属したり、他者評価に支配されたままで生きるよりは結構である。
自分が本当は何がしたいのか、を見つめてみれば良いと思う。
ただ現実には、やりたい求人がないときもある。
また、あっても採用されない場合もある。
一旦勤めてみたが違っていた、ということもある。
あなたが本当にやりたい仕事を求めるならば、自己責任において、これがやりたかったんだ、と感じるまで探し続ければ良いと思う。

そして三番目に、「自分の生れて来た意味と役割、ミッションは何か」という観点からの選択がある。
「自分がやりたいこと」と「ミッション」とは必ずしも一致しない。
そこが二番目の観点との決定的な違いである。
例えば、サイコセラピストになることがミッションの人がいる。サイコセラピストになることがミッションでない人もいる、どんなに本人がなりたくても。しかしその人には国際公務員や実業家やパティシエになるミッションがあるかもしれない。
そもそも最初から自分の「ミッション」がわかっている人はほとんどいない。
働いてみながら、そして「本来の自分とはなんぞや」「自分のミッションはどこにあるのか」を求め続けながら、試行錯誤して行くことになる。
これは多数派の人が歩む人生とは違う人生になるかもしれない。
それでも、あなたがミッションに生きることを求めるならば、自己責任において、自分に与えられたミッションを見い出すまで求め続ければ良いと思う。

そう答えて、あとは二十歳を過ぎた彼にまかせることにした。

 

 

悪性(あくしょう)さらにやめがたし

 

八月は 原爆忌があり 終戦記念日があるためか 戦争に関するドキュメンタリー番組が多い。

略奪 拷問 殺戮 ホロコースト 観ていて こんなにも人間は残忍なものかと思う。

昔話ではない。

今も ウクライナで ガザで 地球上で 同じことが繰り返されている。

そしてその残忍さは 特別なことではない と私は思っている。

臨床を通じて 私はそのことを知っている。

いや 臨床以前に あなたの中に わたしの中に その残忍さがあることを私は知っている。

そして 生活の中でも その残忍さは そうではないような顔をして 繰り返されている。

それくらい人間は悪い。

誰もが心の奥底にそんな闇を持っている。

 

あたしの心の深い闇の中から
おいで おいで
おいでをする人 あんた 誰

 

そんな曲を聴いていたら 頭記の親鸞の言葉が出て来た。

 

あのね われわれの闇の認識は 浅過ぎるのだよ。

あなたは わたしは 人間は もっと もっと もっと 悪い。

存在の奥底から 震えるほど悪い。

人間というものを 本当に理解するためには そのことを知っておいた方が良いかもしれない と思う。

そうして初めて それでもその闇を晴らす光がある という話をすることができるからだ。

闇が浅ければ それを晴らす光の話も浅くなる。

それでは 弱い 薄っぺらい 有り難くない。

あなたの持つ わたしの持つ 人間の持つ 
自我中心性に基づく 残忍さ 非道さ 冷酷さ 攻撃性 破壊性 悪魔性 
を徹底的に 知った上で 見据えた上で

それでも 怖れず 諦めず 呑み込まれず 
求める者に 求めさせられる者に 
その闇を破る光が与えられるのである。
いや 無始よりこの方 その光が与えられていたことに 気づかせていただけるのである。

深い深い闇に気づかなければ 深い深い光に気づけないのだ。

それがわれわれの宿命なのである。

 

 

 

「私は最近アメリカから帰って地方に行きましたが、面白いことに立派な木や石に縄をめぐらし、手で作った白い紙が付いています。しめなわですね。これはつまり神聖なものの印です。日光の中禅寺湖の付近に行かれた方は御存知でしょうけれども、立木(たちき)観音が彫られておるのですね。木の幹と観音様、日本人にとって何の矛盾もないんですね。木が観音様、木に観音様がいらっしゃる、木と観音様が一体になっているのです。同じ意味で、石や岩が、なんかとっても有り難いものとして祭られているところもあります。そういう場所に行きますと誰が上げるのかお賽銭やお花が上げてあるのです。そこにお賽銭が上げてあるというのは、やっぱり人々が手を合わせているのでしょう。そういう意味で、日本人には何というのか、自然に対して、つまりその中にある力、そこに潜んでいる大きな力、そういうものに自ずから頭を下げ祈る気持ちがあるのだと思います。
皆さんに、年を取った方ぐらいしか覚えていないような歌がありますから、紹介いたします。若い人は覚えておいてくださいね。そういうものは我々の祖先がやっぱり感じたことなのです。こういう歌があります。

なにごとの おしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

実はこれには、その瞬間に感じた素直な、そして非常に純真な気持ちがすっと出ていると思います。これが日本人の気持ち、本音なんです。そこには肉眼では見えないもの、しかし何か感じられるものに対する率直な素直な敏感さ、そしてそういうものに対する自然は礼拝の気持ち、それに対して自ずから頭を下げる、これが日本人の真骨頂だと思うんですね。殆どの日本人はそういうことを自然に行います。欧米人は大体理屈ぽくて、これはこういう訳でこうなんだと、理屈で攻めて頭でちゃんと納得しないと、絶対に認めないのです。「なにごとの おしますかは 知らねども」ではいけないんです。それは一体何だと言うわけです。日本料理を食べるとき、これは一体何を使っているのかと必ずきます。つまり、必ず理屈がともなわないといけないのです。私に言わせれば、直感力が不足なんです。物をスカッと見る、スーッと感じることが出来ない、感受性の不足ということですよ。もとより例外もありますが、私は、何時も外国の方々とお話をしていて強く感じます。」(近藤章久講演『日本人と宗教』より)

 

西行が伊勢神宮に参拝したときに詠んだのではないか、と言われる上掲歌は、何度読んでも心に深く響くものがあります。
別に伊勢神宮でなくてもいいんです。
本当は、いつでも、どこでも、誰に対しても、何に対しても感じられるはずのことですから。
でも、特に感じやすい人や物、そして場は、あるかもしれませんね。
それがわかる。
なんとなくわかる。
頭や理屈でわかるのとは違うんです。
それが日本人の、正確に言えば、日本の風土で育った者に授かった“感じる力”なのです。
外国人の中にも、ホーナイのように敏感な人もいますが、近藤先生のおっしゃる通り、これはやはり日本人の真骨頂だと思います。
ですから、例えば、サイコセラピーに携わるとき、セラピストにこの敏感さがあるかないかで、全く違う展開になるであろうことは容易に想像できると思います。
だから、絶対に必要なんです、セラピストが“感じる力”を磨くことが。
そうは思いませんか?
いやいや、セラピストだけじゃない、親にも、教師にも、社長にも、すべての人にこの“感じる力”は必要だと思いますね。

 

 

労働の対価としての報酬を受け取るために働いている、という人がいる。
全くもって正論である。
それで結構な人は結構である。

しかし、私はそれではとても寂しく、全然物足りない気持ちになってしまう。
貴重な人生の時間を切り売りして対価を得るというのであれば、働いている時間はどうしても「世を忍ぶ仮の姿」、「死に体(たい)」の時間、「ゾンビ」の時間と化してしまう。
だからこそ、ワークライフバランスなどと言うのである。
収入のためにイヤなことをやっているワークはできるだけ短く、好きなことをのびのびとやれるライフはできるだけ長くと願うに決まっているのだ。
私は、一回しかない人生の貴重な時間を1秒たりとも、そんな仮死状態のような時間にしたくない。

そもそも仕事をするということは、今回の人生において自分に与えられた意味と役割を、ミッションを果たすためにある。
そしてまた、この娑婆の中で働くということは、漏れなくイヤなヤツと変なヤツに出会わざるを得ないであろうから、いつでもどこでも誰の前でも本来の自分でいられるという“勁さ”を養うため、自分が自分でいるという幹を太くして行くためにあるのだ、と私は思っている。

わかりやすいリトマス試験紙がある。
その人の仕事観をみるには、こう尋ねてみれば良い。
「あなたは10億円の宝くじが当たっても今の仕事を続けますか?」

私は10億円が100回当たっても、この仕事を辞めたくないし、絶対に辞めない。
いや、それだけのお金が転がり込んでくるということは、またどんなミッションがあるのだろうと思って、さらに打って出るかもしれない。

あなたがこの世に生を受けた以上、絶対に意味と役割が、ミッションがあるんです。
(意外なところに、意外な形で、あったりもしますが)
それを忘れないでいただきたいと強く強く思います。

 

 

(以上は、先日の「はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会」でお話した「仕事観」の内容をさらに発展させてここに示した)

 

 

最近は、日本的な庭のある家が少なくなった。

「日本庭園」と大袈裟に言うほどのものでなくても、昔の家には小さな庭があり、それを眺めているとき、娑婆の雑事を離れて、自分をリセットできる瞬間があった。
その庭を庭させているものと、私を私させているものとの共鳴の瞬間があったのである。

そう思うと、どんなに立派な日本庭園であっても、作庭者のはからいを感じるものは、眺めていてどこか鬱陶しくなって来るが、
名もなき民家の坪庭でも、作庭者がいつの間にか作らされた庭は、眺めていて大いに浄化されるものがある。

ここらは仏像の事情と大いに通じるところで、仏師のはからいを感じる仏像は、それが有名な大仏師によるものであっても、眺めていてゲンナリして来るが
作者も知れぬ仏像でも、仏師が作らされた仏像には、大いに霊性を刺激される。

そう。蘊蓄的ではなく、また情緒的でもなく、霊性的に庭を味わいたいのである。

 

ここらの事情にご関心のある方には、立原正秋の『日本の庭』をお勧めする。

但し、所収の庭は当時のものであって、今は変わってしまったかもしれない。

庭もまた“生き物”なのである。

 

 

ドブネズミみたいに美しくなりたい

という歌があった。
これが

サクラみたいに美しくなりたい

だったらどうだろうか。
サクラは元々誰もが美しいと思っているので、一気に歌詞のインパクトはなくなってしまうだろう。

しかし、その深意には
サクラがサクラしているときが最も美しく
ドブネズミがドブネズミしているときが最も美しい
という美観がある。

これは
サクラは美しく
ドブネズミは醜い
とは異なる美観である。

サクラがサクラして美しく
ドブネズミがドブネズミして美しいのに
我々は人間は、自分しておらず、なんと醜いのだろう。
だから
ドブネズミがドブネズミして美しいように
私も私して美しくなりたい
という歌詞なのだ。

だから
ドブネズミがドブネズミしているとき
ドブネズミがドブネズミさせられているとき
ドブネズミを通して現れるやさしさもあたたかさも、この上なく純なものだから(そこに意識も努力もはからいもない)

ドブネズミみたいに誰よりもやさしく
ドブネズミみたいに何よりもあたたかく

という歌詞になるのである。

敢えてそこに、一般には醜いと思われているドブネズミを出して来る。
敢えて非常識を打ち出して、常識を打ち破り、真理に迫る。
ここらはかの一休宗純さんが得意とした表現である。

だから、周囲から否定され、顧みられず、蔑(さげす)まれている人たちがこの歌を好み、ドブネズミに自分を投影して、オレたちだって/ワタシたちだって美しいんだよっ!と主張するというのとは本質が異なる。

あなたがあなたしているとき
あなた絶対的に!美しいんです、ドブネズミのように。

 

 

だから、死ということは、人間がもし本当に自分を充実させて、そして、自分を充実させるっていうことは、どういうことかっていうと…僕はこう言いましたね、自分の生命を尊重するのと一緒に他人の生命も尊重する、と言いましたね。他人の生命の尊重ということ、それから尊敬と、そういうものが僕は愛だと思う。だから、つまり、そしてお互いに尊敬し、mutual(ミューチュアル)に尊敬し合うということ、そういうことがね、人間と人間の本当の交わりの元になると思うんです。そういうものがね、例えば、僕は、結婚でも、恋愛でも、お互いの間の尊敬がない関係っていうものは崩れて行く関係だと思う。お互いの生命に対する本当の尊敬があって、そこに何かお互いに頭を下げ、合掌し合うような、そういうものがあったときに、それは永続性を持つと僕は思う。
だけども、そういう意味で、この、人間は一人で生きるわけじゃなくて、共に生きるということを…人間っていうものは、本当に人間として生きる場合に、人間というように、日本語が言っている、人の間です。つまり、人と人と、お互いにですね、間柄を持って生きるということ。そういうときに初めて生きるということになる。ですから、今言ったように、本当に自分の一生を生きるというときには、人をお互いに愛し合って、愛情を持ち、愛し合ったところの、愛する関係っていうものがなきゃいけないと思う。これはやっぱり人間として非常に大事なことじゃないか、基本なことじゃないか。だから、それは生命を愛することから出発して、それを基礎とした愛するということですね。そういうものが、僕は、あって初めて、それを本当に生きたときに、死ぬるということは、本当は、そんなに恐ろしくなくなると。
つまり、もうひとつ言い換えてみましょう。仏教的に言えば、この生命は与えられたものです。与えられたものだから、我々の、つまり、勝手に殺したり、処分できない。与えられたその定めに従って、与えられた意味に従って、その意味を充足さすことによって、そして終わるべきときに終わると、いうことが、私は、死だと思う。だから、はっきり言えば、本当に、その意味では、自分の与えられた生命を与えられたものに返して行くわけで、だから、自分はそんなことについて余りこだわらなくていいと思うんですよ。ただ、自分に与えられた責任、与えられたものを尊敬し、それを尊重し、大事にして行く。たったひとつしかないこの生命(いのち)の機会を大事にして行くということが、そういうことが大事だと私、思うんですね。まあ、私は、そういうことをちょっと補う意味で、あの、補足致します。最後のは、あなた方に対する問いかけであるし、それに対するいろんな、僕は、考え方がある思いますが、率直に私の気持ちを申しあげておきます。」(近藤章久講演『こだわりについてⅡ』より)

 

前回(金言を拾う その33)で、「そもそも何のために授かった生命かがわかり、その生命を生きたとき、我々の生命は永遠のものとなる」ということを書きました。
それだけでも大変有り難いことではあるのだけれど、それでは自分だけしか救われない。
厳しく言えば、甚(はなは)だ利己的な結論と言わざるを得ない。
よって、そこに留まらず、縁あって出逢った他人の生命への尊重、尊敬が溢れ出す、我々を通して湧き出して来る、そういう展開になら
なければ、利他的にはならないのである。
そしてさらに、その利他と利他とが出逢うとき、それは相互的となる。

「お互いの生命に対する本当の尊敬があって、そこに何かお互いに頭を下げ、合掌し合うような、そういうものがあったときに、それは永続性を持つ」
そうなって初めて、人間と人間との本来の世界=唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)が転法輪する世界が顕(あきら)かになるのではないか、と私は思っている。

 

 

 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。