八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

二十代の頃だったろうか。
知人が
「まっちゃん、話を聴いてくれよ。」
と言って来た。
格段親しい男ではなかったが、伏し目がちにそう言う彼には、ただならぬ雰囲気があった。
「いいよ。」

そうして彼は話し始めた。
彼にはずっと片思いの女性がいたそうである。
悩み抜いた末に、思い切って彼女に声をかけ、今日、喫茶店で逢って来たのだと言う。
結局、踏み込んだ話はできないままに終わり、アパートに帰って来たのだが、洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、ハッとした。

「どうしたんだ?」
という私の問いに、彼は自嘲気味に答えた。
「ブレザーの左襟が立ってたんだよ。」

一瞬にして彼の言いたいことがわかった。

彼が彼女と逢っていた間、ずっとその襟は立っていたわけだ。
彼女はそれを直さなかった。
少なくとも指摘もしてくれなかった。
それが彼女の彼に対する関心の度合いであった。
彼がそんな格好で街を歩いていようと、どうでも良かったのである。

それが答えだった。

当時の私がうまいこと言えるわけもなく
ただ
「辛いな。」
と言うと、
彼はしばらく黙ったあと
「ありがとう。」
と言って、席を立って行った。

 

ブストーリーの映画を観ていて、何十年ぶりかでそんな話を思い出した。
胸の中がチクチクする話だった。


 

 

「大巧(たいこう)は為(な)さざる所(ところ)に在(あ)り」(『荀子』)

こんな言葉に触れると、ああ、東洋だな、と思う。

例えば、精神療法において、ああ分析して、こう戦略を立てて、こういうセリフを使って、あっちに持ってって、こう気づかせて、こんなふうに変わらせる、そんな手練手管(てれんてくだ)の、テクニック(技術)とスキル(手法)の精神療法が行われている。

いかにも自我の立った、「私」が「あなた」を操作する、「私」が「あなた」を治す、やり方である。
その点で、西洋の自我中心主義の臭いがプンプンする。
実際、そんな精神療法が多い。
それで本当に人間が変わったり、成長したり、救われたりするのであろうか。

それに対し、「自我の強化」どころか「無我」を志向する東洋では、そういう「自我」の「はからい」を嫌う。

「大功」の「大」は「人間を超えた力、働き」を表す。

「大功は為さざる所にあり」
人間を超えた力が働き、大いなる巧みさが実現するのは、人間が何もしないところにおいてである、というのだ。

人間が何もしない=「私」が何もしない=「自我」が余計なことをしないときに、人間を超えた力が働く。
そうして、何かを言う、言わされるときがある。
それで、人が変わる、成長する、救われるのである。

例えば、良き仏像を観ていても思う。
ああ、これは仏師が作ったのではなく、仏師が作らされた仏像だなと。

そして、西洋の名誉のために付け加えるならば、
『新約聖書』において

「何を言はんと思ひ煩(わずら)ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん」
(何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる)

とある。
やはりわかってらっしゃる方はわかってらっしゃる。

大功(大いなる巧みさ)は、そういうところで実現されるものではなかろうか。

 

ある海外ドキュメンタリー番組の中で、女性獣医がポツリと

「人間は他の種(species)と関係を持ちたがる動物だ。」

と言った。
このひと言が妙にこころに残った。

「確かに。」

ペットのことを思い浮かべればわかるように、人間はいろいろな他の種の動物と関係を持ちたがる。

そして、気がついた。

「おいおい、動物ばかりじゃないぞ。」

下手をすると、鉢植えや庭の木々などの植物とも関係を持ちたがっている。
少なくとも日本人はよく話しかけ、場合によっては木の幹に抱きついたりもする。

さらに、思い当たった。

「そう言えば、あのじいさんは庭石とよく話していたな。」

無生物まで行くか。
山や海や夕陽や月と話す人もいるぞ。

「関係を持つ」とは、どういうことか。

その存在と存在との根底において、ぶっつづきのものを感じるということである。

話が禅的になってきた。
いや、神道的か。

そんなものが感じられれば、世界の分断や対立もちょっとは少なくなるかもしれない。

まずは、動物でも植物でも無生物でもいいから、表面的な“隔て”を超えて「関係を持つ」ことから始めましょ。

 

 

時間と関心のある方には「書き初め」をお勧めする。

「書き初め」と言ってもただの「書き初め」ではない。
私のお勧めするものは、まず「お題」が変わっている。
まず黙って
『計画性がない』
と書いていただきたい。

書き初めに使う半紙のサイズは、よく使われる「半切」というもので、34.5cm×136cmの縦長サイズである。
これに縦書きで書く。

さて、実際に書いてみてどうなるか。
その結果は三つに分かれる。

(1)まずは、書いているうちに紙が足りなくなり、最後の「がない」あたりが立て込んで窮屈になるもの。
(2)次に、今度は紙が余って、「がない」の下に余白ができてしまうもの。
(3)三番目に、きっちり「半切」のサイズにバランスよく「計画性がない」の六文字がおさまるもの。

お気づきの通り、(1)と(2)には、いかにも計画性がない。
行き当たりバッタリに書き始めて、こういう結末になったことがわかる。
それに対して(3)は、計画性がある。
中には、予め「半切」の半紙を六つに折って、折り目を付けてから書き始める方もおられる。
何だったら「計画性がある」と書き直しても良い。

そして、である(これで終わりではない)。
ちょっと見直してみよう(ここからが本番)。

(1)の方は、「あれ、紙の残りが少なくなったぞ。」と気づいた時点で、今度は紙を下に継ぎ足しても良かったのである。
誰もそうしてはいけない、と言っていない。
そうすれば、「計画性がない」の六文字が問題なくおさまる。
(2)の方は、「あれ、紙が余っちゃうぞ。」と気がついた時点で、今度は余白部分を切り取っても良かったのである。
これまた誰もそうしてはいけない、と言っていない。

そうすれば、「計画性がない」の六文字が綺麗におさまる。
(3)の方は、半紙にきっちり六文字がおさまって大変結構であるが、ひょっとしたらその中に(全員ではないが)、内なる“見張り番”から「失敗してはならない」に脅されて、計画性にとらわれた人がいたかもしれない。
そういう人は、さっき申し上げた「計画性がある」ではなく、「計画性にとらわれる」という九文字で書き直した方が良いかもしれない。
もちろん半紙を九つに折って、折り目を付けてからきちんと書きあげることであろう。

で、何が言いたいのか。
この書き初めを通して
「靴に足を合わせる生き方」と
「足に靴を合わせる生き方」の
違いに気が付いていただければ、それで十分である。

そんな変わった「書き初め」。
おヒマな方はどうぞお試しあれ。

 

 

 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と断定的なことを自信たっぷりに言う人がいるが、実際のところは、間違っていることも少なくない。

「それは本当にアンケートを取って調べたのか?」
「確かなエビデンス(証拠)があるのか?」
と詰めて行くと、甚だ怪しいこととなり、その人だけか、せいぜいその周囲の少数の人たちだけの思い込みだったりする。
精一杯
広く見ても、せいぜい、その地域、その時代だけの思い込みであることが多い。
それではとても「フツー」「みんな」などと言うことはできない。
それなのに、

フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と言うのは、十分に「独善的」である。

さらに
 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
という表現の裏には、
「だから、おまえもそうしろ!」
というメッセージも隠されている。
そうなると「支配的」でさえある。

皆さん、騙されないように。

健全な人間には、
フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と思いそうになっても、

「ひょっとしたら、これは自分だけの思い込みかもしれない。」
という謙虚な内省が生じるはずであり、

もし万が一、あなたが誰かに、あなたの意見を言いたいと思ったとしても、
「フツー」「みんな」というような、言わば、“ズルい”言い方を使わず、
「(他の人は違うかもしれないが)私はこう思う。」
とか
「だから(もし宜しければ)、あなたもそうした方が良いんじゃないかと思う。」
というような表現になるだろう。

そのときには、あなたにはあなたの人生を歩んで行ってほしい、という愛と願いがこもるはずである。
そうなると、あなたの存在は、世界に一人であり、人類史上初めての存在であるわけだから、
「フツー」も「みんな」も関係なく、あなたの選択が、世界に一人の、人類史上初めてのものであっても構わない、ということになる。

だから、やっぱり戻るところはここになる。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かった。
自分がどう生きて死ぬのかを見い出すのが、出生の本懐なのである。

 

 

 

「教育者全体にも言いたいことですが、人間関係にも言いたい。それはどういうことかと言いますと、よく私が言う、ひと言でいうと、水を流すためには溝を作れ、というんです。…水が来るように、そこに溝をね、掘らなくちゃいけない。溝を掘ると自然に水は流れる、通じて来る。それがだな、私はいつも思うんだけども、この家庭の問題で、あるいは人間関係で、教育で、足りないのがそれだと思うんです。…
やっぱり、その意味でね、平生(へいぜい)からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。だから、子どもでもそうですね。子どもでも、急にこうしたからといって、なんですか、お母さんは、『私はあなたの生命(いのち)を大切にしてんのよ、だから、こうしなくちゃ!』なんて、僕に聞いたようなことを言ったって、そりゃ、ダメですよ。本当に、毎日のおかずを作ること、御飯を作ることに心を込めた、そうした本当の、先ほど言ったように、ね、ニッコリ笑ってあげるとか、そういうことでね、溝を掘って行かないといかんのだな。溝を作っていかなくちゃいけない。そうしたときに、フッとこう、どうかしょうと思ったとき、お母さんの顔が浮かんだと、ね、それで思い直したと。何のことはない、ただもう無性に…うちに帰りたくなったと。こうしてお母さんにね、逢って、そうして人生の転機をね、迎えた人が何人か、たくさんあります。…
これも、普通の人間関係でもそうです。普通の人間関係でも、お互いにそうしたことを、上役が部下に対して、急に威張ろうとしてもダメなの。平生から部下との間の、いわゆる、そうした意味の、部下の生命(いのち)を観、その若々しい生命(いのち)をもう、じっとこう観て…若い人たちに僕は心から、本当に祝福を送りたい。そういう若者というものは、いつも、やはり、決してね、悪くなろうなんて思ってないの。いつもね、本当に自分の自分の生命(いのち)を輝かそう、本当に発揮しようと思ってる。そういうものを本当に認めてやるときに、生命(いのち)は伸びて行く、若者はね。だから、それをいつも、上役とか年寄りはね、考えるべきだと思うの。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

「溝を作る」ことについては、別の講演(「金言を拾う その9 溝をつける」)でも近藤先生は強調されていました。
改めてここで確認しておきましょう。
本当の挨拶(
=相手の生命(いのち)に対して合掌礼拝(らいはい)する姿勢)を毎日毎日続けること。
親が子どもの食事を作ってあげるときも、子どもの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って、毎回毎回心を込めて作ること。
上司が部下に、先輩が後輩に接するときも、毎日毎日その部下の、後輩の生命(いのち)を祝福する気持ちで接して行くこと。
大切なのは、毎日毎日、毎回毎回。
でも、我々は愚かな凡夫なので、つい忘れてしまうんです。
忘れたって構わない。
思い出す度、思い出す度、やっていると、いつの間にか、段々覚えていることが増えて行くんです。
それで結構。
それが凡夫の歩み。
でも凡夫なりの一所懸命。

そうなんです。
「溝を作る」とは、「私」と「あなた」の間に溝を作るということなんですが、それだけでなく、「大いなる力(あなたに生命(いのち)の礼拝をさせる力)」と「私」との間に溝を作るということにもなっていたのです。

 

 

ある臨床心理士の書いた発達障害に関する文献を読んでいたら、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」として、子どもの「強み」として感じられることを「意識しながら伝え直して終了」すると書いてあった。
その理由として、親御さんの中には、子どもの発達歴を振り返ることで、自分の育て方に問題があったのではないか、本人の困り感にちゃんと気づいて対処してやれなかくて申し訳ない、と自責の念を抱いている人もいるからだという。
そして、そのような気持ちを払拭するために、面接の最後は、子どもの「強み」の話や、親御さんが感じている子どもの「肯定的な面」を「意識して」伝え直して、気持ちよく終了へと導いていくというのだ。

この文献は。そこまでは非常に優れた内容で、大変勉強になったのだが、この点だけはガックリと失望した。
発達障害の臨床的知見については優秀なのだが、サイコセラピー的な面となると、根本的な間違いを犯している。

まずひとつには、「強み」「肯定的な面」と称して、具体的には、お子さんはこういうところは苦手だけれど、こういうところは優れている、などと伝えていく点である。
その背景には、やっぱりできる方が良くて、できない方がダメだ、という能力主義的な発想がある。
そこが大問題なのだ。
例えば、一部の専門家が、「サヴァン症候群」と称して、自閉スペクトラム症の人たちが、一方で障害を抱えながら、他方で非常に優れた能力を発揮することを取り上げている。
その背景にも、こんな障害がありながらも、こんなことができるなんてすごい!という価値観が臭う。
やっぱり、できてなんぼ、なのである。
じゃあ、同じ自閉スペクトラム症の人たちで、サヴァン症候群でない人たちはダメなのか?
私はいつも重度心身障害児病棟で出逢った子どもたちのことを思い出す。
最重度の子どもたちのどこに、他の子どもたちよりも優れた「強み」や「肯定的な面」を見い出せというのか。
なんのことはない、この臨床心理士自身が、実は能力主義(=できる方が優れている)者だったのである。
何かが苦手な障害者の方々に接するのが我々の仕事である。
いい加減、能力主義というとらわれから脱しようよ。
息をして心臓が動いているだけで、どれだけ尊いか、人間の存在の絶対的価値を本気で体感しようよ。
まず能力主義へのとらわれが第一の問題。

そして次に、それが親御さんの自責の念を払拭するためであるのならば、そんな迂遠な、まわりくどいことをせず、はっきりと親御さんの眼を見て、「お母さんの育て方のせいではありません。ご自分を責めないで下さい。」「何も教わっていない非専門家がちゃんと気づいて対処することは不可能です。教わらない中で、支えられない中で、お母さんはお母さんなりの一所懸命でやって来ました。」と明確に告げるべきだと私は思う。
自責の念を払拭するために、子どもの「強み」や「肯定的な面」を挙げるのは、迂遠過ぎる、というのが第二の問題。

そして第三に、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」というのがどうしても引っかかる。
「方」かい!
やっぱり how to なのである。方法なのである。操作なのである。
そうじゃないでしょ。
そんなうすっぺらな「やり方」ではなく、目の前の親御さんに対する思いの出どころが、「ああ、このお母さんにも幸せな人生を歩んでもらいたい。」「母親である前に、一人の人間として自分を生きて行っていただきたい。」などという思いがあれば、言葉なんてもうどうでも良いのである。
近藤
先生の言葉を借りれば、親御さんの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って接することができれば、もうそれでいいのだ
肝心なそれがなく、「終わらせ方」という「操作的」な「やり方」に堕しているのが第三の問題である。

 

 

「例えば、教師はね、この前もちょっと言ったけど、どうしてあのは校長先生の言うことを聞いて、私の言うことを聞かないんでしょう、とこう言うわけですね。僕は別に何もしたわけじゃないんですよ、ね。ただ毎日、その子どもがやってくるときに、こうやって『おはよう!』とこうやるんです。ニッコリ笑って『おはよう!』と言ってる。すると向こうが『おはようございます!』とこう言います。それ以外、何もやったわけじゃない。けれども、僕はそのときに、『おはよう!』って言うときに、本当に『おはよう!』っていうのは、私は、実は、自分の気持ちで、まあ、あるとこにも書きましたけども、『おはよう!』という挨拶ね、あれは、どういう意味かというと、ああ、今日もあなたは健康に、早く目覚めて、生きていますね。おめでとう! こういうことが『おはよう!』ってことなんだ。だから英語では“Good morning”。Good なんだ、ね。おはようってのは、そういう気持ちで、つまり、あなたの生命(いのち)を私は礼讃(らいさん)します。あなたの生命(いのち)は活き活きと今、動いています。今日も溌溂(はつらつ)と動いていますね。おめでとう! それが『おはよう!』 それは相手の、生徒の持ってる、子どもの持ってる、その生命(いのち)に対する礼拝(らいはい)です。
僕はさっきあなた方に頭を下げました。この頭を下げたのは、なんでもないようですけども、僕はここに、あなた方がこうやってらっしゃる。全ての人の生命(いのち)に対して心から喜びを述べたんです。一人ひとりに花咲いているこの生命(いのち)、これに対して私はつくづくと頭を下げるわけです。挨拶ってそういうもんです。…
そういう意味で、いつも、この、挨拶ということをやる。それをやっていますと、自然に通じるんです、その気持ちがね。それから後で何か言うと、聞いてくれるんです。…
それをね、その、平生(へいぜい)のだ、毎日毎日のことをしないで、これを僕は触れ合いって言うんです、ね。心の触れ合い。生命(いのち)と生命(いのち)の触れ合いです。そういうものをしておかないとですね、私が校長訓話なんてやったってね、誰も聞いてくれないんですよ。何言ってやんでぇ、とこうなっちゃう、ね。
やっぱり、その意味でね、平生からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の生命(いのち)を通して働く力が、近藤先生にホンモノの挨拶をさせ、その力が生徒たちの生命(いのち)に届いて、その生命(いのち)が喜ぶ、ということになります。
そのとき、生徒たちの生命(いのち)が喜ぶのはもちろん、挨拶をしている近藤先生の生命(いのち)も喜んでいる、というところがとても大事なんです。
我々の生命(いのち)を通して、大いなる力が働くとき、まず我々の生命(いのち)が喜ぶ。
そして、それがホンモノの挨拶となって生徒たちに届く。
すると、その大いなる力が届いた生徒たちの生命(いのち)も喜ぶのです。
すから、このとき、近藤先生も生徒たちも笑顔になります。
昨日、お話したことですが、これはホンモノの笑顔ですね。
生命(いのち)が喜んだことから溢れて来る、最も深い笑顔です。

 

 

昨日に続いて、今日は「書類」についての話。

精神科分野で医師が記載する書類としては、①自立支援医療の診断書と②精神障害者保健福祉手帳の診断書、それから③障害年金の診断書を書く機会が多い。
そこに児童が入ると、④特別児童扶養手当が加わることになる。

これもまた前医が書いたコピーなどを見ると、これでホントに通ったのか!?と思うくらいスッカスカの内容の書類に出会うことがある。
実際、制度利用のためなのだから最低限を書いて通れば良いだろう、その方が効率が良いというものだ、とうそぶく医師もいた。

しかし、私はそうは思わない。
例えば、2年に1度更新して提出する書類であれば、その書類は、通れば良いというだけのものではなく、その人が2年間生きて来た証しを記(しる)すという面があるのだ。
その証しを少しでも書いておきたい、という思いが私にはある。

これまた、とても業務が忙しかったり、担当する患者さんの数が多く、書類を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も、いつもそんなに立派な書類を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、
1行でもいい、なんなら1語でもいいから何かキラッと光るもの、その人(患者さん)の存在が伝わるものがある書類を書いておこうとすることである。

先日、ある精神科医と話していたら、私と同じ気持ちで書類を書いている人であった。
そのやり方だと書類作成が遅くなるので、よく事務方に怒られますけどね、と笑っていた。
同志というのはいるものだ。
なんだか嬉しくなった。

よって、このことは精神科医の後輩たちにお勧めしておきたいと思う。

これは単なる書類書きではなく、主治医としての“姿勢”の問題なのである。

 

 

もう30年以上前のことになるが、私が研修医になった年の秋、初めて週1回の関連病院パート勤務が始まった。
行ってみると、超長期入院の患者さんばかりの担当になっていた。
思うに、新人には状態の安定している患者さんを、という配慮だったのであろう。
そしてカルテを見て驚いた。
とにかく書いてない。
それまでカルテ記載は、月に1回の診察で毎回ドイツ語で「stationär」(変わりなし)の1語(1行)のみ。
新人研修医でも流石に、それはおかしいだろう、と思った。
人間がひとり、1週間生きていれば、絶対に何かがあるに決まっている。
意地でもそれを見い出して、毎週カルテに書いてやろうと思った。
そしてそういう姿勢で診察に臨むと、最初は何も話してくれなかった患者さんたちも次第に思いの内を話して下さるようになった。
そうなると、さらにカルテに書くことが増えて行く。
そうこうしているうちに段々と、なんでこの人はこんなに長く入院しているのだろう、などと思うようにもなって行った。

当時の原点に始まって今日に至るまで、変わることなく思うのは、その記録が、その人がこの世に生きて来た証しとなる、ということである。
そう思うと、あんまりいい加減な記録で済ますわけにはいかなくなって来る。
それはカルテだけではない。看護記録、介護記録、訪問記録、面接記録、作業記録などなど、何でもそうである。
時々、なんとか空欄を埋めただけの空疎な記録、怒られない程度に何か書いたフリの記録、コピペで済ませた毎回ほぼおんなじ内容の記録などを見るとガッカリする。
そりゃあ、とても業務が忙しかったり、担当する患者さん、利用者さんが多く、記録を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も毎回そんなに立派な記録を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、1行でもいい、なんなら1語でもいい、何かキラッと光るもの、その人(患者さん、利用者さん)の存在が伝わるものがある記録を書こうとするということである。
それだけは対人援助職の後輩たちにお勧めしておきたい。
そしてそうすることで、有り難いことに、我々対人援助職者の“感性”も常に磨かれ続けて行くのである。

 

 

昔、外来に来ていた青年が村上春樹の小説をよく読んでいた。
よく話題に出るので、その人を理解するために、私も十数冊ほど読んでみたことがある。
それでも全著作を読んだわけではないので、話題に出て来た作品について、知っていれば知っていると言い、知らなければ知らないと言って話を続けていた。
ある日、彼がボソッと言った。
前に通っていた精神科の先生は、村上春樹のことを知っているというので話していたけど、実は解説記事を読んだことがあるくらいで、1冊も読んだことがなかったんだよね。
それがわかったときの彼の失望が目に浮かんだ。
読んだことがないなら、ただそう言えばいいのにね。

やっぱり、ウソはいかんです。
特に、面談という大事な場面でそれはいかんです。
知らないことは知らんでいいんです。
それよりも何よりも、大切な話をしている人に対しては誠実でなければいかんです。
クライアントよりも自分の虚栄心=知ったかぶりの方が大切なのはいかんです。

誤解のないように付け加えるならば、
クライアントが関心を持っていることを全部セラピストも知るべきだ、と私は思っていない。
また、クライアントが関心を持っていることをセラピストが知ろうとすることは、クライアントに媚びを売るためではない。
もしそれがクライアントの治療や成長に必要だと思ったならば、そうすればいいだけのことである

昔、児童専門外来をやっていた頃、スーパー戦隊ヒーローが好きな男の子が多かった。
ゴレンジャー以降のスーパー戦隊ヒーローを知らない私は、毎年のように名前が変わる〇〇レンジャーや〇〇マンなどに付いて行くのにヒーヒー言っていた。
そこで途中からは、「わからないから先生に教えて。」と子どもたちにご教示願うことにした。
流石に、スーパー戦隊ヒーローに子どもたちほどの関心を持てなかったわけであるが、子どもたちには大いに関心があった。
それで良かったのである。
それがあればウソも虚勢もない。

結局、真実は簡単なこと。 
人間として正直にいきましょ。

 

 

「女性っていうものは…生命(いのち)を作り、生命(いのち)を本当に育てて行く、素晴らしい役目を持ってるんじゃないかな。下手な男女同権論よりも、私は、この、女性の持ってるね、独自性を考えた方が良いと思う、ね。
よく私は言います。女性っていうものは、海徳(かいとく)を持っている。あるいは、土徳(どとく)を持っている。これは別に…中国の本に書いてあったわけでもなければ、西洋の本に書いてあったわけではない。私が創った言葉です。
どういう意味かと言いますと、海というものを考えてみましょうね。海は洋々として広いです。大きいですね。豊かな水でもって、こう、溢れるばかりです。…
海はね、いろんな川が行きます。鬼怒川も入るね、那珂川も入るな。いろいろな川が入ります。汚い墨田川も入りますの。…荒川も入る。江戸川も入る、みんなね。汚いもの入れるけれど、海はそれを、全てを入れますね。違うかな? そしてそれは自然な浄化作用。その汚いものを綺麗にして行く作用がある、ね。そういう素晴らしい作用があるんですよ。
しかも、面白いことは…初めてこの地球に生物ができたのは、海の中なんですよ、ね。海の中にできたの。海の中で初めて生物の形成ができたの。段々段々、だから、お魚になったり、両生動物になったり、それから陸上動物になって来てるわけ。そして人間も生まれるわけ、ね。そのね、そういう生命の、生命(いのち)の素なの。
で、面白いことに…人間はです、その生物ができたのと同じようなことを繰り返している。例えばね、今のこの精子とね、卵子の結合にしてもそうなの。あれは、ひからびたところでできるんじゃないの。卵管の中はね、非情に潤ってるわけ。その中で、成分的に言えば、非常に海の水に近い、その成分の中で結合してる。そしてさらに、その結合ができますと、自ずから、一番小さいね、子どもですね。子どもの素みたいなもんだけど、それがね、お魚そっくりなの。そうしてね、羊水と言いましてね、その成分は海の水とほとんど同じような、その成分の中でそれが育って行くの、ね。あなた方は、だから、自分のお腹の中に海を持ってる。その海が生命を育てたように、あなた方はその生命(いのち)を育てているわけ。面白いんですよね。その生命(いのち)を育てるということ、その意味で、海(かい)、海と同じだと。それから、いろいろなね、その、汚いもの、いろんなものを、全てべ、入れてると、こういうとこで、私は女性に素晴らしさがあると思う。
だから、良いですか、自分の…子どもだとか、ね、夫にしてもそうなの。そりゃあ、イヤなとこ、あるでしょう。私、ああいうところ、嫌い!大っ嫌い!なんてことをね、あんまり言わないでほしいんですよ、ね。それはあなた方の海を、海徳を汚すことになるの、ね。良いことも悪いことも全て無条件に受け入れる。そういう態度であってほしいと思うんです、ね。これができますとね、あなた方の家庭は、素晴らしくね、なるんですよ。憎しみとか、差別、この子どもは可愛くて、この子どもはいけない、そういう差別、そうしたことを、海のように全てを無条件に、差別することなく、汚い墨田川も、綺麗な鬼怒川も、全てを受け入れて行く。この広さを持っていただけたらと思うんです、ね。…
では、土徳とは何でしょう、ということになる。そうしますと、それは土を観ましょう、大地を。大地はいろいろなものに踏んづけられますね、こう、ね。あなた方の足でも踏み付けられるし、猫はおしっこするし、いろんなことしますね。それだけれども、この大きな建物が、しっかりした建物が建つっていうのは、どこの上なんでしょうね。大地の上じゃないですか。もし大地がなかったら、この建物ができますか。そうして、しかもその大地は、今言ったように、いろんな汚いものも入れるんです。唾(つば)を吐く人もいるし、いろいろある。けれどもそれを全部ね、肥料に変えて、そこで木だとか、お米だとか、いろんなものを育てるでしょ。全てのものをやはり差別しない。じっと耐える、全てを背負って。そしてその上に大きな生命を、建物を創る。これを私は土徳という。それをあなた方は持ってるっていうことを忘れないでほしいと思います、ね。」(近藤章久講演『心を育てる』)

 

母なる海、母なる大地。
これを「父なる」とは言わないんです。
だから、我々はどこかでわかっているんです、女性に与えられた大いなる特性のことを。
それを是非とも発揮していただきたいと思う。
「海徳」「土徳」の「徳」というのは「働き」という意味です。
さらに言えば、「その人(物)を通して働く力」のことを「徳」と言うのです。
ですから、「海徳」「土徳」を発揮するには「自力」ではダメなんです。
女性を通して働く力=「他力」によって発揮させていただく。
そうなるとやっぱり、自力でウンウン頑張るのではなく、祈っておまかせするしかありません。
そうして初めてあなたを通して海と大地の働きが現れて来ることになるのです。

 

 

今度こそ子どもに優しくしよう。
今度こそ夫/妻に優しくしよう。
今度こそ親に優しくしよう。

何度そう誓ったことだろう。
しかし長く続いたためしがない。
すぐにまたきつく当たってしまう。

そりゃそうだろう。
そんなのは一時的な気分=感情なんだもの。
感情はすぐに流転する。
我々の感情は、この人のためなら死んでもいい、と思った直後に、こいつなんか死んじまえ、と思えるのだ。
人間の感情はそのときだけのものである。
そもそもそんな人間が頭記のような誓いを立てること自体が無理なのだ。

じゃあ、どうするか。

人間が当てにならない以上、人間を超えたものにおまかせするしかない。

キリスト教ふうにいくとしたら

「御心ならば
子どもに優しくできますように。
夫/妻に優しくできますように。
親に優しくできますように。」

あるいは
仏教風にいくとしたら

「南無阿弥陀仏」

阿弥陀仏(=人間を超えた力)に南無(=おまかせ)します。

既成宗教臭さがイヤならば、どんな用語を使っても良い。
能書きに陥らず、人間を超えた働きが感じられるか否かが肝心なのである。

 


 

今日は令和6年度8回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目に続いて8回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

d.「現実の自己」への態度 ー 自分への憎しみ self-hate

「仮幻の自己」に自分を見出す時に、それは大きな栄光と力と自信とを与えるかの様である。
しかし、その現実化に一歩ふみ出す時、他への要求 claims は容易に充足されることなく、その挫折の責めを他人や現実に帰して非難しても、非難は非難に止(とどま)るか、攻撃に変ずるか、あるいは他からの脅威と反撃にさらされるかに終って、結局現実の自己の無力さを責めねばならなくなるし、又一方、自らに対して「仮幻の自己」の要求に適合する様に命令しても(shoulds)、絶対的な完全性を要求するその標準を充足することは不可能である。
とすると、何れの場合でも、ここに「現実の自己」の劣弱と無力を認めねばならぬ。この様に「仮幻の自己」から見る時「現実の自己」は無力で卑で軽蔑すべき存在である。ここに「現実の自己」に関する軽蔑 self-contempt が生じ、そてに伴って劣等感が生じて来るのである。
しかし、皮肉なことに、如何に軽蔑しても、「仮幻の自己」の要求完成の為には「現実の自己」に依存せざるを得ない。これは「仮幻の自己」にとっての大きな屈辱である。屈辱は転じて、「現実の自己」への敵意に化する。「現実の自己」の無力こそ正に非難さるべきものであり、憎むべきものである。
ここに自己に対する憎悪 self-hate が発生し、「現実の自己」を責める結果、自己を苛酷に切刻み、自己懲罰的、自虐的な傾向を生じるのである。神経症者に見る罪悪感はこの様な心的 process(プロセス)の結果であって、「仮幻の自己」が「現実の自己」に課する刑罰である。しかしこの process(プロセス)は単にこの様な結果をもたらすのに止(とどま)るのではない。この様な結果をもたらした跡を辿(たど)る時、それは本来「仮幻の自己」の負うべき責任なのであるし、それに由来する「誇り」の受ける屈辱感のすりかえに過ぎない。
それによって、実は全ての責任を「現実の自己」に転嫁し、すりかえることによって、「仮幻の自己」自身への批判をはぐらかし、その温存を計っている防衛の手段でもある。この様な胡麻化しは更にもっと大きな結果「真の自己」からの自己疎外の増大をもたらすのである。

 

「~であるべきだ」「~でなければならない」と理想化された「仮幻の自己」を実現するのは大変である。
しかし「仮幻の自己」によってしか自己の存在意義を感じられない人間にとっては他に選択肢はない。
例えば、必死になって「誰よりも優秀な私」「誰よりも気がつく私」「誰からも好かれる私」などを実現しようと頑張るが、そんな空想的理想が実現する日は来ない。
よって、そんな「現実の自己」は非難・攻撃の対象となり、そこから「自己軽蔑」や「自己憎悪」が生まれる。
徹底的に「現実の自己」を軽蔑し、憎悪する。
しかし、これは問題のすり替えである。
そもそもそんな「仮幻の自己」にすがろうとすることに問題があったのであり、「仮幻の自己」がまさに愚かな「仮」と「幻」の存在
であったのだ。
それでも「仮幻の自己」を捨てては生きてはいけぬ、それ以外に頼るものを知らないとなれば、代わりに「現実の自己」を非難・攻撃するしかないではないか。
そうやってまた本質的問題の解決から遠ざかり、そんな生き方をしている限り、いつまで経っても「真の自己」の出番は来ないのである。

 

 

「そんなやたらにね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。この私はどうせダメなんだから。くだらんことを言わないでほしいんだ。その意味で、生命(いのち)を軽蔑しないでほしいの。…どうせ私ダメなんだからとか…どうせ俺はしょうがねぇよ…そういうのがだ、ね、これはみんな自分の生命(いのち)というものをね、粗末に考えている。…
英語でもドイツ語でも、産まれるという言葉は使わないの。受け身になる。I was born. こうなる、ね。ということを、もっと日本語的に言うと、授かったんだ。だから、あなたは自分自身の生命(いのち)をもっと考えてほしいんだ。私の生命(いのち)は、私は授かっているんだ。…このね、あなた方の、一人ひとりの生命(いのち)は、かけがえがないの。失ったらおしまい。これを不幸にするか、幸福にするか、健全にするか、病的にするか、これはあなた方の重要な責任ですぞ。これを、自分のことを思ってほしい。
それをよく考えたら、自分の目の前にある、自分の子どもというものを考えるだろう。この子どもの生命(いのち)を観るだろう。その子どもの光り輝いているところの独自の生命を観るだろう。これが母親が、その生命(いのち)を育てることが、その生命(いのち)を健やかに伸ばすことが、それが母親の意味だ。それを私は一番偉大な教育者と呼ぶものなの。どんな教育者よりも、それは素晴らしい教育を持っているものなの。
生命(いのち)のかけがえのない尊さを考えてもらいたい。そして、その生命(いのち)を自分が汚(けが)さないことなの。心配とか、不幸とか、不安だとか、そういうことで、自分の生命(いのち)を粗末にしてもらいたくない。自分の生命(いのち)を本当に大事にする人は、初めて他人(ひと)の生命(いのち)も大事にする。いわんや、自分の子どもの生命(いのち)を大事にするんじゃないかと思う。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の力のこもった講演が続く。
まず自分に与えられた生命(いのち)の尊さを(考えるのではなく)感じること。
そうして初めて自分以外の人間、特に目の前にいる自分の子どもの生命(いのち)の尊さも感じられて来る。
その生命(いのち)の尊さが感じられれば、自分の生命(いのち)、縁あって出逢った人の生命(いのち)、そして縁あって我が子として授かった子どもの生命(いのち)の成長を願わないではいられなくなる。
そうしてその生命(いのち)を育てること、健やかに伸ばすことこそが、我々のミッションであると、(頭の先ではなく)肚の底からわかってくるのである。
それがわからずして何の人生であろうか。
それを果たさずして何の人生であろうか。
もう世俗的な、些末な、表面的なことはどうでもいいから、生命(いのち)の尊厳について、その生命(いのち)の成長について感じましょう、ね。

 

 

尾籠(びろう)な話題で恐縮です。

医療福祉関係者の間で時々話題になるテーマに
「あなたはお尻の穴を見せられますか?」
というのがあります(ひょっとしたら私の周りだけかもしれませんが…)。
これは露出癖的な話ではなく、あなたが利用者としてケアを受けるときに、そこまで自分をさらけ出して、支援者におまかせすることかできますか?という質問なのです。

で、あなたはいかがですか?

私はできます。
というか、もうやってます。
定期的に大腸内視鏡検査を受けているもので。
これも最近でこそ静脈鎮静法を使って、寝ている間に検査が済んでしまいますが、最初はそれもなく、意識清明下に検査を受けていました。

そうでなくても私たちもいつかケアを受ける日がやって来ます。
でも「いつか」でしょうか?
思い起こせば、生まれたときからそうでしたね。
乳児の頃、一から十まで何もかもやってもらっていました。
それがいつの間にか自分の力でやっているかのように思い上がってしまいました。
本当は、ずっと与えられた力でやらせていただいていただけなのに。
そう思うと、何を今さら「お尻の穴を見せられますか?」でしょう。

とっくの昔から、骨の髄まで、心の奥底まで見透かされています。
それを思えば
、元から私たちを生かしてくれている力に、何もかもおまかせするしかない人生なのでありました。

 

 

「良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えられるのは、あなた方だっていうことだ。…
是非、考えていただきたいのは、お母さん方に、そのね、自分の子どもに対するね、自分の態度です。お母さんが落ち着いているということが、どれくらい大事なことか。
誰でも、ここにいらっしゃる男の方でも、思い出すだろうと思うんです。自分がまだ幼い頃、どこかで膝を、ぶっ倒れて膝を擦り剝いたとか、あるいは、誰か友だちでもって殴られたとか、そういうときに、うちへダーッと帰ってって、『お母ちゃん!』とこう言ったわけです。そうして、自分の膝をね、擦り剝いた字座を、ああ、こうやってね、あるいは、ぶん殴られたコブをね、こうさすられて、そして慰められた記憶を持たない人間はないと思う。それで子どもは安心したの。…
けれども、子どもが本当に欲している、本当の慰め、安心感、そういうことを与えられなかったならば、私は、後にしっぺ返しを喰うものと思います。
あのときに母親にこうされたことが、僕に、私にとって大きな意味があったとかね、母親がこうしてくれたことがどんなに良かったかとか、そういうことが、なんかね、男の子、女の子に限らずね、そうした思い出を持たない人はないと思うんですよ。私は、最も偉大な教育者は、何も校長先生でもなく、担任の先生でもなく、それは母親だと思うの。母親がね、本当の意味で、自分がね、生命(いのち)を預かっているということ。
だから、大きくなってよく聞くんですが、本当に私の言うことを聞かないんです。思う通りにならないんです。当ったり前ですよ。始めっからね、あなた方の思う通りにできてないの! これをね、今度はこうやるとね、こうやってこう、こっちにやったりあっちにやったりできるもんだから、お人形だと思っちゃうんだね。どうにでもできるもんだと思っちゃう。それは誤りですよ、それは。お人形と違うの! 人間は生命(いのち)を、その生命(いのち)は、その人だけしか持たない独自性があるの。こうやって、皆さん、いらっしゃるけど、あなた方の一人ひとりが、輝くような、自分だけの持つ、その生命(いのち)を持ってるんですよ、あなた方は。隣の人と比べたら違うんだ。…
そんなやたらね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

実際の講演の中で、(子どもは)始めっからね、あなた方の思う通りにできないの!と近藤先生がおっしゃったときは、かなりの迫力でした。
また、お人形と違うの!とおっしゃったときも。
子どもを自分の思い通りにしようとする親の
なんと多いことでしょう。
そしてそれが子どもの人生に少なからぬ禍根を残すことになります。
子どもの中には最初から自分自身を実現しようとする力が与えられています。
それを邪魔しなければ、それだけで大した親です。
大抵の場合は、善かれと思って、よってたかって邪魔をしています。
そしてもし、邪魔しないだけでなく、その子がその子になることを応援できたとしたら、それは最高の親と言えるでしょう。
そしてそれができる親は必ず、自分自身のことにおいても、本来の自分を実現する方向に生きているはずです(自分のことができなくて子どものことができるはずがありません)。
従って、まずは子どもの成長の邪魔をしないこと。
そして、自分自身の成長を
目指すこと。
それができれば、間違いなく、親子ともに素晴らしい人生になると思います。

 

 

 

初めて「愛見煩悩」という言葉を聞いたときに驚いた。
そんな言葉が既にあったのか。
自分が長年考えていたことを、当たり前のように、ズバッと示された気がした。
特に仏教を学んでいるときに時々起こることであるが、驚くと同時に、そんな言葉を残した先人たちと何百年、千年、二千年の時を超えて、話をしているような気がして来て、有り難く、嬉しくなるのである。

で、「愛見煩悩」。
そもそも、我々の精神性を考える場合に
(1)理性(知性)
(2)感情
(3)霊性
の三層をもって考えていた。

それぞれにそれぞれの役目があるのだが、この世界の真実、人間の精神世界の真実を掴むには、理性(知性)で考えることや、感情で感じることでは、到達できないと思っていた。
そう。
思考では、絶対的真実は掴めない。
感情でも、絶対的真実は掴めない。
それは霊性的直観によらなければならない。
しかるに、思考や思索によって絶対的真実に到達したかのような思い上がりや、単なる情緒的体験を何か深い体験をしたかのように勘違いする輩が多過ぎるのである。

これはわかる人にはわかるが、わからない人にはわからない話であるが(従って、これを理性でもって皆さんに説明しようとは思わない。理性で説明できるはずがない)、
少なくとも「愛見煩悩」という言葉は、
「愛」=感情

「見」=思考
とが煩悩であると、ズバリと、そしてアッサリと、斬って捨てている。
即ち、理性と感情は真実に到達する道ではなく、むしろ障害になる。
これは気持ちが良い。
それでいて、「で、何が真実に到達する道なのか」は言っていない。
そこで出て来るのが「霊性的直観」なのである。

そういう意味では、「霊性的直観」と言ってみても、それだけでは単なる符牒に過ぎない。
あなたには本当に「霊性的直観」の“体験”がありますか?と迫って来るものがあるのである。
それがわからないと、その体験がないと、この世界は、人間の精神世界は、イリュージョンのままなのである。

少なくともあの妙好人たちは、愛見煩悩によらず、霊性的直観によって真実を体験している。
畏るべし。

 

 

「赤ん坊はまだはっきり、目、耳、鼻、いろんなことがはっきりしません。そのときに、一番最初にはっきりして感じるのは、この肌、接触、肌なの。だから、非常にその接触が大事なんです。
その接触が大事なんだけども、近頃はどうかというと…日本の女の人も…授乳をしますと…胸の…形が悪くなるわけ。だから、したくないでしょ。そうすると、授乳をしなくて人工栄養をやるわけね。子どもにとってはね、お母さんの肌というものを感じないわけ。まずお母さんの母乳を知らない、母乳を飲むことができない。どんなね、人工的な素晴らしい栄養ができても、母乳に勝るものはないです。…
大体ね、人間誰でも、赤ん坊でもそう、大きくなっても、あなた方、わかるでしょ。お腹が減ったときに一番イライラするね。…この飢えと渇きと、そういうものは、みんな人間をイライラさせるの。
そういうのと同じように、赤ちゃんも、本当の意味で、良い母乳を与えられると満足するんだけども、そういうものが与えられないとイライラするわけです、ね。…
それで、もうひとつ…こうやって今度は…肌に付いて、母親の肌をしたときに、母親の胸のあったかさを感じますね。ここらの男性に訊いてごらんなさい。奥さんの胸に、自分の顔を寄せたときに、なんとも言えない安心感を持つんだから。どんな禿げたお爺さんでも(笑)。…俺はそんなことないよ、なんて言うかもしれないけども、しかし、それはやはり、奥さんの温かいね、胸の中にこうやって、なんとも言えない、それは、安心感を持つの。良いですか。女性はそれに自信を持って下さいよ。良いですね。
その元はどこにあるかというと、赤ん坊のときにですね、お母さんの胸に抱かれて、ほの温かく、本当に、お腹の方もいっぱいになって、あったかくて、良いですか、気持ち良くフーッと眠った。この、なんとも言えない安心感、あったかさ、満足感。こうしたものが一番、この、基礎になってる。これが人間の安心感、ね。そういうものの元になってる。…

あなた方は若いから…第二次世界大戦っていうのを…ご存じないかもしれない。…あのときの若い、例えば、特攻兵とか、十八か十七の子どもも行きました。その子どもが出て行くときに、『お母さん。』と言って出て行ったもんです、ね。これから死ぬ前に、最後に言った言葉は、みんな『お母さん。』ですよ、ね。それぐらいね、子どもにとって母親っていうものはね、自分の本当の安心の源になるんです。…
で、良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えるのは、あなた方だっていうことだ。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

母乳が与えるもの。
ひとつには、飢えと渇きを満たす栄養。
そしてもうひとつが、触れる胸から感じる安心感。
これが我々の原体験にある。
世のお母さんたちは、どうぞどうぞ我が子たちにその体験をたっぷりさせてあげて下さい。
そして、本格的な寒さがやって来るこの季節。
あったかいものを食べて、肌触りの良い布団にくるまってぬくぬくと眠るときの、あの幸せな感じの中にも、そんな物理的なものだけじゃない、あのときの体験の名残りが含まれているかもしれませんね。

【追伸】それにしても「禿げたお爺さん」の「禿げた」は要らないと思います、近藤先生。
 

 

夕暮れが早くなり、午後5時過ぎにはかなり暗くなって来た。
それでも近所の公園からは、遊ぶ子どもたちの大きな声が聞こえて来る。
近所の公園や保育所の子どもたちの声がうるさいと訴えた人がいたが、私には全くわからない反応である。
子どもたちの声をうるさいと思ったことがない。

子どもの頃育った地域は、水を張った蓮根畑に囲まれていたので、夏の夜になると蛙の大合唱であった。
相当な音量であったが、平気でグースカ寝ていた。
うるさいと思ったことがなかった。
先の人なら、これも訴えるのであろうか。

しかし、これが大人の会話の声なら十分にうるさいのである。
また、工事などの騒音であれば、言うまでもなく、うるさい。
この違いは一体どこから来るのであろうか。

子どもの声も、蛙の声も、それは生命(いのち)の声なのである。
ならば、うるさいはずがない。
いやむしろこちらの生命(いのち)も刺激されて、嬉しくなって来る。

それに対して、賢(さか)しらだって演技がましい大人の会話の声はうるさい。
工事などの騒音も、文字通り、騒音でうるさい。

残念ながら、それが感じ分けられない人にとっては、どちらもただの何デシベルの騒音にしか聞こえないだろう。

先日、近所の思春期のお兄ちゃんがシャウトする歌声が聞こえて来た。
またある日、近所の認知症のおじいちゃんの絶叫が聞こえて来た。
これもそんなにうるさくない。
その声の中にまだ、生命(いのち)の一部(全部じゃないけどね)が含まれているからであろう。

そいて、赤ちゃんの泣き声をうるさいと思うかどうか。
試されているのは私たちの方かもしれない。

 

 

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