今日はクリスマスイヴ。
釈尊もそうだけれど、キリストも、わざわざ人間という形を取って、この世に生まれて来て下さったということに、言葉に尽くせない感謝を感じます。
そういうふうにして示して下さらないと、この凡夫は、この迷える子羊は、いつまで経っても、仏の大悲に、神の愛に包まれていることに気がつけないもの。
しかも、釈尊は釈尊で、キリストはキリストで、酷い酷い目にまで遭って下さるんです。
だから気づきましょう。
だから感じましょう。
キリストの降誕は、いつ・いずこにありやと。
それは2024年前(実はその数年前だとか諸説ありますが)のベツレヘムの馬小屋ではありません。
今ここに刻々と降誕し続けて下さっているのです。
生命(いのち)の降誕。
真実の降誕。
愛の降誕。
それが途切れるわけがないじゃないですか。
常に生まれ生まれて生まれ生まれて。
でも、それがわからないボンクラのために
わざわざ12月24日という一日を設定して
思い出させて下さっているのです。
どこまでも行き届いた設定に
どこまでもアンポンタンな迷える子羊は
ただ首(こうべ)を垂れて合掌し、感謝するしかないのでありました。