通っていた学校が、旧藩校だったせいか、悩める中学生はまず『論語』を読み始めた。
その意味で私の求道歴は、儒教から始まったと言える。
以下、読んできた書籍を詳細に挙げればキリがないため、代表的なものに絞って書く。
続いて道教に興味が広がり、『老子』『荘子』なども読むようになった。
それら中国古典のお蔭で、その後、漢文が苦にならなくなったのは有り難いことであった。
そして精神科医になった頃から、本格的に仏典に手を伸ばすようになった。
まず『仏教辞典』を通読してみたのは、若者らしいチャレンジだったと思う。
そして浄土門や禅を中心に、唯識仏教や倶舎論から大乗経典を読んでみた。
私の本の読み方として、解説書を読むのは最低限に留め、可能な限り原典を読む、という姿勢は今も大切にしている(わかっていない人間の書く解説書は最悪であり、まだ純粋に学者の書く学術的注釈の付いた本の方が、余計なものが入っておらず、有り難い。しかしサンスクリット語からの現代語訳はどうもピンと来ないため、漢訳の方を読んでいる)。
その数少ないわかっている人間として、鈴木大拙と玉城康四郎の著作にはお世話になっていると思う。
そんな中で、近藤先生と一緒に『阿毘達磨倶舎論』をレジュメを作りながら読んだのは、良い思い出である。
そしてまた先生から、「体験に基づいて読む」という姿勢を教わったのは、返す返すも有り難いことであった。
この姿勢により、単なる「読んだことがあるだけの受け売り・物知り人間」にならないで済んだ。
その後、キリスト教にちゃんと触れていないのは良くないと思い、聖書を読むようになったが、どうも口語訳(現代語訳)は軽い感じがするため、今日に至るまで『旧約聖書』も『新約聖書』も文語訳の方を読んでいる。
ここではエックハルトなどとの出逢いもあった。
そして神道にも興味が広がり、ここでもまず『神道事典』を通読してから、『古事記』『日本書紀』や古神道、復古神道などを読んだ。
今でも、霊性的には、神道が一番しっくりする気がしている。
もっと言えば、縄文かもしれないが。
そして最後にイスラム教。
これを知らないのは宜しくないと思い、まず『コーラン』(厳密に言えば、『コーラン』はアラビア語のみを『コーラン』とし、日本語訳は存在しないことになっている。岩波書店の『コーラン』も正確には日本語訳ではなく日本語の解説書ということになる)を読んだ。
そして、この分野では、その後、井筒俊彦の著作に大いに助けられた(イスラム思想だけではなかったが)。
このように、儒教→道教→仏教→キリスト教→神道→イスラム教が、私が触れて来た道筋である(今回は宗教分野についてご紹介した)。
いずれかの分野にご関心のある方は、面談時にでも訊いて下されば、お勧めの書籍をご紹介致しましょう。
但し、くれぐれも頭で読むのではなく、身読でね。