八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

つまり、日本人は、非常に人付き合いが良いんだけども、本当言うと、人付き合いが嫌いだな。できるだけ一人でいたいところがある、ね。だから、アメリカ人に言わせると、留学生が随分、私のところへいましたけど、どうして日本人ってのはパーティに出て来ないんだろう? 彼らはすごくね、寂しがり屋だから、人懐っこくて、みんな寄って来て、パーティをじゃんじゃんやって、何も知らない者にもこうやるわけですよ。ところが、日本人ってのはそうじゃないから、一人でいてね、よくあのアパートの寂しい、机とね、ベットしかないところにじっと一人でいるな、と感心してるんですよ。感心するわけなんでね、しょっちゅう人にばっかり気を遣ってるんだからね、せめて気を遣わないときがほしい、とこういうわけよ、ね。まあ、一杯飲み屋かなんかに行って、こうやって飲んでたら、とても良い気分になる、これね。一人でこう飲んだらなんとも言えない良い気持ちだ、とこういうわけですよ。
だから、withdrawal(ウィズドローワル)っていうか、人から逃避するという傾向に陥る、ね。そのくせ、普通には、社会的に言うと、なんか、人に向かってですね、ご機嫌を取る。相手に向かって相手のご機嫌を取って、相手の好意を得て、自分にね、そしてこの好意を利用してですね、自分の何か、自分の安全とか、自分の昇進とか、良いことを図ろうという、こういうふうな魂胆(こんたん)があるんですね。
相手の方もまたその魂胆を知って、あいつは俺に近づいて来たって言うけど、これはさっきの話で、そうやってやられると、人から良く思われると良い気持ちなもんだから、ああ、あいつは俺の手下だなっていうわけで、こう、非常に良い気持ちになっちゃう、ね。相互依存と私はこれを言うわけ。つまり、支配する者は支配される者がいなきゃ成り立たないんで、みんないなくなっちゃったら、ヒットラーでもね、支配する人間がいなくなったら、一人ぼっちになっちゃう。フワーッとしてることになっちゃう。ところがまた、支配される人間は、支配する人間がいると安心できる。あいつのせいだっていうことにできるからね。なんでもそう。
だから、日本では、面白いことは、これは徳川時代からそうですけどね、なんか議論やるでしょ。最後にね、ごちゃごちゃ、今の閣議でもそうですな。これは委員長に一任とか、任せちゃう。任せちゃうと、自分は責任を逃れちゃう、ね。あれがやったんだから、オレはまあ、任せたんだからしょうがない。あいつのせいだ、とこういうわけ。依存でしょ、これ。自分自身の意見とか、自分自身の責任において解決してるわけじゃない。だから、それは両方依存してるわけね、これね。そういう意味で、私は、日本の社会の特徴は、相互依存的な関係があって、お互いに利用し合ってる関係。まあ、それはそう言っても良い、ね。…
ところが、ご厚意に甘えまして、てなことになっちゃってね。甘え込んじゃって、宜しくお願いしますって、宜しくってのはどの程度だかわからない。そうすると、そのときの状況によって決定されるわけね。そうすると、私は折角あの人に頼んだのに、あれ程頼んだのに、あの人は私の期待を裏切って、やってくれなかった。そういう具合にブーブー言うことになっちゃう。また、片っ方は片っ方でどうかっていうと、自分でね、宜しくって言うから宜しくって僕はやってやったのに、なんであいつは御礼も言わない、なんてことになっちゃう。そういうふうな、妙ちきりんな、腹の探り合いってことになると、そこで益々ね、お互いの顔色をじっとこう、見ることが必要になって来る。あいつはどういうことを考えてるだろうかってことがね。これがね、私は、エネルギーの大変なロスになってると思うんですよ。このために頭がくしゃくしゃしちゃう。
全く対人関係でのね、そういう意味で、問題が多いんですよ。これもへちまの屋根ですよ。屋根みたいなもの、これね。私たちに何かね、そういうものがね、知らないうちに、平生(へいぜい)やってることだけどもね、のびのびとさせない。さっき言った、自然に人間として人を愛し、ね、人に本当に好意を持ち合ったり、あるいはそういうふうなことで、心と心が触れ合ったりすることを妨げてる、ひとつの材料になっていはしないかと、まあ、こんなふうに思いますね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちらを参照。

 

そうしますと、「服従と引き換えの責任逃れ」と「責任の引き受けと引き換えの君臨支配」という相互依存関係の成立と維持にも、腹の探り合い、気の遣い合いという、非常に面倒臭い手間がかかるということになります。
とにかく神経症的な人間関係というのは結局、エネルギーを使って疲弊することになるわけです。
先日テレビで、現代人の会社での昼休みや休憩時間の過ごし方調査というのをやっていました。
その中で一番多かったのが何かというと、個食や孤食、一人で過ごす、という選択でした。
ここでも、普段人に気を遣って生きているんだから、せめて休み時間くらい一人にさせてくれよ、という思いを感じます。
不登校、引きこもり、繰り返す離職といった現代の状況を含めて、この48年前の講演の頃と変わらぬ問題の根幹がそこにあります。
目指すべきは、そんな消耗と疲弊の関係ではなく、私が私でいて、あなたがあなたでいて、その二人が互いに愛し合い、互いの成長を促し合う関係なのです。
そして最終的には、一人でいても誰かといても、本来の自分でいることを目指しましょう。

 

 

ある若い女性が、小学校高学年から中学校の頃、不登校で病院の精神科に通い、カウンセリングを受けていたという。
いくら通っても学校に行けるようにならなかったので、親が怒り出し、自分も通うのをやめてしまったそうだ。

そもそも「不登校」は単なる現象名であって、その背景にはさまざまなが要因があり、ひと口で「不登校への対処の仕方」と言えるものなどあるわけがない。
ちょっと考えてみても、生物学的原因、性格因、環境因など、複数の要素が時に複雑に絡み合っている。
それでも言えることは、私だったらもう少し最初に本人や親に説明しておくことがあったろうな、ということである。

まず私ならば最初に「ここでの治療は学校に行けるようになることを目的としていませんが、それでもいいですか?」と申し上げる。
「お嬢さんがお嬢さんとして生きて行けるようになることを第一の目標としていますので、学校に行けるようになるかどうかはわかりません。今の学校に行けるようになることがお嬢さんの成長にとって良ければ行けるようになるでしょうし、そうでなければ行けるようにはならないでしょう。」

そう。
一番根底にある、これらの「人間観」「人生観」「治療観」がまず試されるのである。
ただ漫然と、学校に行ける方が良いんじゃね?世の中、長いものには巻かれて適応して生きて行けた方が良いんじゃね?と精神科医や臨床心理士が(そして親や本人さえもが)思っていれば、当然、治療もそういう方向性に行ってしまうに決まっているのだ。
そして、どうしてもそれがお望みならば、それに賛同する他の医療機関、関係機関に行ってただくしかない。

私がそういう話をすると、その女性は、
「へぇ~、そうだったんですね。」
と驚いた顔をしていた。

そして私は付け加えた。
「で、これからどうします? 今度こそ自分が自分として生きて行けるようになる道を目指しますか?」
今や大人になったあなたの人生ですから。

 

 

ある人がある人と結婚した。
ラブラブの間は良かったが、一緒に暮らすうちに、相手のいろいろな問題が見えて来た。
で、どうするか?である。
面倒臭いから斬って捨てるのか。
相手の問題も抱えて生きて行くのか。

相手にちょっとでも問題があると、容赦なく斬って行くのもいいけれど、みんな人間だもの、どこかにきっと問題がある。
斬っても斬っても、次の人次の人に問題が見つかって行くうちに、そして誰もいなくなった、になるかもしれない。

かといって、結婚した以上、相手にどんな問題があろうと添い遂げなければならない、というのも考えものである。
「ねばならない」で強要された「糟糠の妻」などは美しくない。

じゃあ、斬るのか、抱えるのか、どうするのか。

斬るも抱えるも、縁で決める、ミッションで決めるのである。
縁がなければ、ミッションがなければ、抱えたくても離れて行く。
縁があれば、ミッションがあれば、イヤでも抱えることになる。

そしてどちらかというと、各人の自我が強まり、斬る方が増えている現代、
後者の、縁があれば、ミッションがあれば、抱えることになる、ということを今日は強調しておきたいと思う。

本来、その必要はないのに、縁とミッションによって、相手の問題を一緒に引き受けて行く、相手の重荷を一緒に背負って行くこともあるのである。
例えば、
ある人は、待望の養子縁組を行ったが、成長するうちにその子どもに障害が見つかった。
ある女性は、大学教授と結婚したが、暮らすうちにその相手に末期癌が見つかった
面倒臭ければ斬るだろう。
しかし、そこに縁があれば、ミッションがあれば、即ち、私を通して働く大いなる愛(私の愛ではない)があれば、それはあなたの問題だから知らない、ではなく、手を差し伸べて、一緒に背負って行くことになるのである。

 

 

ネットに「結婚したい女性の『職業』ランキング」という記事が載っていた。
その調査の統計上の意義はともかく、ひとつの参考にはなる。

そのランキングを挙げると、
1位 看護師
2位 保育士
3位 薬剤師
という結果であった。

いずれも私にとっては知っている方の多い職業なので、「へ~、そうなんだぁ。」と想いながら、これらの職業が正当に評価されているようで、嬉しい気持ちになった。

しかし、その職業を選んだ理由を読んでいると、「んんん?」という気持ちになって来る。
いずれも、何かあったときに「助かる」「心強い」というコメントが並んでいたのである。
結局、自分にとっての“利用価値”なのか?
それはおかしいでしょ。
それじゃあ、私利私欲でしょ。

そう思って、上記の三つの職業を見直すと、薬剤師、看護師は医療職として“利用価値”がわかりやすいが、残る保育士は、子どもが生まれたときの“利用価値”か?ということになる。
しかし、実はそうではない。
世の既婚女性の方々はよく御存知であろうが、結婚してみてわかるのは、産んだ覚えのない(手のかかる)長男が一人、家庭内に増えた、ということである。
そう。
旦那が一番手のかかる子どもなのだ。
そうなると、保育士は確かに、大いに“利用価値”のある職業ということになる。

そんなことを考えていると、段々希望のない気持ちになって来るが、世の中、捨てたものではない。
コメントを書いている人の中に一人だけ、こう書いている男性がいた。

「支えてあげたくなりますね。」

そうこなくっちゃ。
利己的な、自分にとっての“利用価値”ではなく、自分よりもまず相手を大切に思うこころ。
パートナーは、互いに思い合う相互性で成立している。
上記三種の職業に就いている女性は、この評価に騙されず、そういう眼でしっかりと男を鑑別しましょうね。

 

 

「私は、実は、これは私たちの農耕社会と関係があるんじゃないかと思うんですがね。つまり、村でもって私たちは水田耕作をやりますね。で、農地っていうのはそこから、アメリカ人みたいにハンティングをやらないんだから、ここからここへこう行けないわけ。つまり、どこかへ移れない。そうすると、いつでも定住しなきゃいけない。そこを離れられない。…これはね、日本という限られた土地で、しかも村で、そこに住んでて、農耕やって、そこの田畑で食ってれば、田畑を離れられたら食っていけない。従って、そこにいなきゃいけない。これはもう絶対命令みたいなもの。
そうすると、そこでもってね、農耕耕作をやりますとね。やれ、その、種蒔きのときとか、借り入れのときだとか、あるいは苗をこうやるときとか、まあ、いろいろなことでもって共同的な作業をやるわけでしょ。そのときに、他人の好意によるわけだ、簡単に言えばね。そこでちょっと妙なことをしちゃうとね、感情を害しちゃったら、すぐ村八分にされちゃう。できるだけね、人をアレしないように、「…でございます。」とこういうわけでね、うまくやると。人の顔色を窺(うかが)って、どう考えてるか、いちいち顔を窺っているというような態度が、僕は、出て来ると思うんですよね。…
だから結局、そういう意味で、外からのね、いろんなもので、人の顔色を気にしたり、人の機嫌を伺ったり、ご機嫌を伺うなんてことは、我々、非常にアレですよ。例えばね、まあ、ひとつの例ですけど、これ、つくづく思うんですけど、向こうで、向こうでっていうのは、外国で、挨拶ね、普通の挨拶、挨拶は“How are you?”って言いますね。“How are you? っていうのは、“How is your health condition?” つまり、「あなたの健康状況はどうか?」と。これはまあ、はっきりしてますね。
ところが、日本では、「ご機嫌いかがですか?」とこう言う。ご機嫌ってのは、そのね、「感情はどうですか?」ていうこと。つまり、ご機嫌を伺っているわけですね、要するに、ご機嫌伺い。これが発展して中元になり、歳末の贈り物になって来るわけ。そういうことが我々の人間関係をですね、スムーズにしてる点もあります。しかし、我々が非常に、人のね、気配、人の感情とか、アレに対していつもビクビクビクビクしながら、こうやって生きてるっていうのも事実です、ね。まあ、こういうことも、特にまた、日本みたいな家族で、あんな狭いところで、こうやってしょっちゅう顔を見てやってればですね、お母さんがキャッとヒステリーになればね? あ、大変だ、とこう思うしね、それはもう、お母さんはお母さんで、お父さんのご機嫌はどう?とこうなっちゃうから、もうしょっちゅう、お互いにご機嫌伺いばっかりしてるような態度でしょ。まあ、僕はいつも思うんですが、患者さんでも、来てもね、僕の顔をじーっとこう見てるんですよね。それでね、「先生は今日、どういうふうな感情でしょう?」なんてことを言うんですよね。どっちがやられてるか、わからない、あなた(笑)。
そういうふうにね、もう非常にお互いにですね、そういったお互いの感情を考える、それがね、暗黙の裡(うち)に、腹の中でやってる。腹芸でね。顔はいい加減にしながら、今日はどんな感情か?、なんていうことをやってるわけですよね。これが上下関係にも、あるいは水平の関係にもね、私は、行われてるのが、我々の現代。そういうとこでね、我々、のびのびできないですね、これ。のびのびできないから、僕が言うのは、言うならば、そういうふうな意味で、へちまになっちゃうとこういうわけですよね。曲がったへちま、屋根の上のへちまになっちゃう。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちら参照。

 

そういう眼で振り返ってみれば、我々が日常生活において、いかに他人の感情、ご機嫌にアンテナを張って生きているかがわかります。
それはもう子どもの頃から積み重ねて来た涙ぐましい努力の結果なのです。
そしてその結果が、こんなに息苦しくて窮屈な毎日になってしまいました。
フォーカスすべきは、相手の感情やご機嫌ではなく、内なる本当の自分。
迷いそうになったら、そもそもの原点に戻りましょう。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かりました。
自分を生きずして何の人生でしょうか。
聴きましょう、生命(いのち)の声を。
感じましょう、生命(いのち)がどう生きたがっているかを。
へちまが本来のへちまするように
あなたもまたのびのびと本来のあなたしましょうね。

 

 

今日は令和6年度9回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目に続いて9回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

e.「真の自己」への態度 ー 自己疎外 self-alienation

「仮幻の自己」の生成過程に当って、最初から明らかなのは、「基礎的不安」に対処する為に、個体が「真の自己」の成長の方向に向うことが出来ず、次第に神経症的方法の様々な試みを経て、「真の自己」と対蹠的な「仮幻の自己」を定立し、その幻像によって生きるという事である。
この事自体、「真の自己」から離れ、それを疎外してゆく結果であるので、正しく自己疎外と呼ばれるものである。しかし「自己疎外」は、この様な「仮幻の自己」の定立の経過に於いて見られるばかりでなく、更に定立された「仮幻の自己」の自己実現の試みが、二次的に自己疎外を深め強化するのである。言いかえれば、先に述べた内外に対する神経症的要求 claims and shoulds、及び神経症的誇り  neurotic pride が益々「真の自己」の発展を阻止し、益々神経症的傾向を増長せしめて、「自己疎外」を深め、それが更に「真の自己」の発展を阻止すると言う悪循環によって、いわば「自己疎外」の拡大再生産が行われて行くのである。
しかも、それが自己を誤認している「仮幻の自己」の絶対的な要請に基づく為に、この再生産過程は強迫性を帯びるに至る。個体は自分の中の「真の自己」ー William James の言をかりれば、「脈動づる内的生命」によって自発的に感じ、考え、決意し行動するのでなく、偽りの自分である「仮幻の自己」の命ずる claims や shoulds や pride によって、感じ、考え、生きなくてはならないのである。
これは、彼自身が自分の人生を生きる主体でなくなることを意味し、「自己疎外」は更に自己喪失を産んで行くのである。その結果、自分が、何を真に願い、感じ、愛し、怒り、悲しむかに対する感覚  自分の感じ ー が喪われて行くのである。かくて、本当の自分が失われていることすら感じないまでの自己喪失 ー Kierkegaard が「死に至る病」と呼んだものが極端な場合には生じて来るのである。
しかし、この様な「仮幻の自己」の優勢にもかかわらず、人間の中の「真の自己」は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。
claims や shoulds や pride による防衛にもかかわらず、「仮幻の自己」は一面に於いて現実から、他面に於いて深く心内の「真の自己」によって、常にゆるがされている存在なのである。表面上の強固さにもかかわらず、内面的に脆弱なのは、一つにそれが非現実的な想像の所産であることと、二つには人間本来の姿である「真の自己」を抑圧しているからである。そしてこの脆弱さが、主観的には否定せんとしても否定出来ない不安として感じられ、様々な症状として表現される。
かくて一般的に神経症的葛藤は、一応表層的には優勢な一定の神経症的傾向と、他の抑圧された神経症的傾向との相剋の形をとり、又「現実の自己」との矛盾として在るが、更に深く心内に於いて「真の自己」との根本的な葛藤として存在するのである。

 

「基礎的不安」に対処するための方向性が、「真の自己」の成長へではなく、神経症的な方法による「仮幻の自己」の定立に進むことにより、まず「真の自己」の疎外=「自己疎外」が起こる。
そして「仮幻の自己」の実現がさらに、この「自己疎外」を拡大再生産して行き、やがて「自己喪失」にまで至る。
しかしこの「仮幻の自己」は、そもそも非現実的な想像の所産であることから、また、「真の自己」を抑圧していることから、脆弱な存在であり、それがまた不安を引き起こして行く。
「仮幻の自己」は、一方で思い通りにならない「現実の自己」との間で葛藤を起こし、他方で「真の自己」との間で根本的な葛藤を起こして行くのである。
それにしても、「しかし、この様な『仮幻の自己』の優勢にもかかわらず、人間の中の『真の自己』は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。」という文章には救われる思いがする。

 

 

いつから感情は不当に扱われるようになったのであろうか。

「感情的」という表現は、一種の蔑視のニュアンスをもって使われている。
実際には、理性と同じように、感情もまた人間に与えられた一側面に過ぎない。
喜怒哀楽が起こることは、人間として極めて自然な現象であるはずだ。

むしろ私の経験からすると、感情蔑視の考えを持つ方々には、感情を抑圧して来た人が多く、その生育史の中で、感情、特に怒りと悲しみの表出を親や大人たちから禁止されて来た(下手に怒りや悲しみを表出すると親や大人たちから攻撃されて来た)人が多い。
なんのことはない、自分が恐くて感情を出せないことを正当化するために、感情を出している人を「みっともない。」「恥ずかしい。」などと卑下するのである。
それはズルいでしょ。
それならば
「私はへタレで感情を出すことができないが、出せるあなたが羨ましい。」
と言う方が遥かに正直である。

確かに、病んだ感情表出であれば、それは願い下げてあるが、
素直な凡情としての感情表出は、豊かであり、時に美しくさえある。

かの孔子が、最愛の弟子顔回を亡くしたとき、人目も憚(はばか)らず、慟哭(どうこく)して泣いたという。
「先生が慟哭された。」と言った従者に対して孔子は、
「慟(どう)すること有るか。夫(か)の人の為(ため)に慟するに非(あら)ずして、誰(た)が為にかせん。」
(慟哭していたか。この人のために慟哭するのでなかったら、一体誰のためにするんだ!)

と言ったという。
形式的な虚礼を排し、想いの出どころを大切にするところが、流石、孔子であった。

 

 

医師法第十七条に
「医師でなければ、医業をなしてはならない。」
とある。
ここでいう「医業」とは、「医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(「医行為」)を、反復継続する意思をもって(=業として)行うこと」とされている。
例によって、法的に正確を期する文言にしようと思うと、段々何を言っているのか、わからなくなって来る。
不正確さは承知の上で、ざっくり言ってしまうと、
「医師でなければ、診断、処方、手術をしてはならない。」
ということらしい。

今回、何故またこんなことを言い出したかというと、
「医師でなければ、診断してはならない。」
とよく言われるが、その法的根拠を知りたかったのである。

そしてその根拠が頭記の医師法第十七条にあるとわかったとしても、やっぱり気になるのが、本当に医師にしか診断ができないのか、そして、医師の診断がいつも正しいのか、という問題である。

後者については、かつである東大教授が退官時の最終講義で、自身の誤診率(14.2%)を発表したのを思い出す。
当然のことながら、どんな医師でも誤診率0%というわけにはいかないだろう。
だからといって、誤診していいということにはならず、一所懸命に正確な診断を期する必要があるが、私として気になるのはむしろ前者、本当に医師にしかし診断できないのか、という問題である。

私個人の経験からいうと、少なくとも精神科分野に限ったことを言えば、下手な医師よりも的確な診断をつけることのできる臨床心理士/公認心理師、看護師/保健師、精神保健福祉士/社会福祉士、作業療法士はおられる気がする。中には受付を担当している医療事務の人の中にも。
流石に、薬の副作用で精神症状が現れている場合や他の身体疾患のせいで精神症状が現れている場合(いわゆる症状性あるいは器質性精神障害という場合)などは、医師としての知識が必要になるだろう。
私個人としては、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準ではなく、かつて「統合失調症くささ(
Praecoxgefühl)」と言われたような、直観診断はあり得ると思っている。
但し、これも私の個人的見解だが、非医師の場合、「自分は診断できる。」と自負している人の“診断”は大体当てにならず、素直で謙虚な人の“診断”が当てになる場合が多い。
結局のところ、自我肥大的な人間の直観は当てにならず、我の薄い人の直観の方が当てになる、というところに行き着く。

そういうわけで、少なくとも私の場合、もし診断に迷うときがあったならば、直観の優れたスタッフに意見を訊いてみることにしている。
直観で診断して、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準で裏を取る。
現時点での私の診断のスタンスはそんなところかもしれない。

 

 

「私たちは、最初に、おまえはダメだと、よく親が、おまえはダメな子だとか否定的な言葉を言いますね。子どものときはね、大人になったってそうでしょうなぁ、誰かから、上の上長の人とかね、あるいは同輩の人から、おまえはダメだってなことをやられるとですね、クシャンとなっちゃってね、オレはダメだ、と帰りにヤケ酒を飲んじゃったりなんかすると、いうふうなことになりがちですね。つまり、そういうふうな、何かね、人の言(げん)によってね、自分っていうものが上がったり下がったりする。バカだと言われるとバカだと思ったりね。オレはダメだと思ったり、とにかく人の言葉で非常に左右されるところがありますね。まあ、大人になってもそのぐらいです。子どものときはね、それを考える力ないでしょ。そうするとね、親が言った通りに自分も思うわけですね。
今でも、皆さん、どうでしょうか。自分でお考えになって、例えば、小さいときに自分が親に、おまえはとても算数が良いな。おまえはなかなか運動神経が、運神が発達しているな。こういうことを言われたら、なんとなくね、ポジティヴな、積極的なことを言われてですね、なんとなくそうだと思っちゃって、背負(しょ)ったりなんかしてね、大いにそのうちにやっちゃう。ところが、おまえは算数がダメだなって言うとね、俺は算数はダメなんだと決めちゃって、もう諦めちゃって勉強しない。勉強しないから益々ダメになっちゃう。まさにその証明しちゃうわけですね、自分で。そういうからくりが心の中にあるわけ。それはね、我々は、最初は、フロイドが言ったように、親の言ったことを飲み込む、インテイク(intake)言いますがね、飲み込む、ただ飲み込んじゃう。…
常に他と比べられたと、つまり、そこんときに親に、第二のアレは、人と比べて親が評価したでしょ。あれを見なさい、これを見なさい、そうすると、自分をね、評価する場合にね、自然に、無意識に、親の教えたやり方で、俺は、例えば、会社に勤めると、あいつに比べてどうだろう、今度は出世はどうだとかね、それから、あれはこうだか言ってね、そんなふうになっちゃうんですよ。おかしなもんでね。
いわんやね、そこで親ばかりじゃなくて、今度は先生がですね、教室に行くとね、こう、表かなんかやって大いにこう、教育的効果を上げている人がいるわけですよ。点数をやってね。試験いっぱいやって。こうやってるでしょ。しょっちゅう人に比べられてる。おまえは何番中の何番。これはもうね、人と比べてることですね。
これをですね、簡単に言えば、いつも我々の考え方の中に、大人になっても、そりゃあ、体は大人になりますよ、だけどその考え方たるや、子どものときのそのままでいることが多いわけです、ね。これを、ですから、ある人は小児的態度と言うわけですけどもね。我々は小児的態度でもって、小児的態度と思わないでね、やってるわけですよ。あいつはオレと一緒に入ったのに、近頃どんどんこう、うまく行ってると。だから、どうも、オレはダメだ、とかね。やっぱり、あの先生が小学校のときにダメだと言った。オレはダメなんだ、ダメだ、なんて考える。…
そこんところでね、我々の中に何かこう、社会全般に考えるのに、なんか人といつも比較してですよ、自分の価値を決める。そういうね、考え方が非常にあるんですよね。…
まあ、そういうね、言うならば、外からのね、つまり、我々の外側にあるものによるね、価値観によってですね、そのスタンダードで決められる。しかも、自分もですよ、大事なとこはそこなんだ、小さいときからそれを飲み込んでるから、自分自身も自分の価値に関して無知、無明(むみょう)、ね。要するに、そのね、やっぱり人の言うことで自分もそうだと思ってるわけ。
だから面白いことは、逆に行きますとね、人のことで行くと同じことなんで、悪いっていうかね、そういうね、ガッカリしたことばかり言いましたけどね、そればかりじゃなくてね、今度は人に褒(ほ)められる。君は偉いなぁ、なんとかって言うとね、急に偉くなったような気になっちまう、ね。本質は違わない。課長さんが部長さんに、これ、ちょっと差し支(つか)えがあるかもしらんけども、別に本質は変わりないわけ、その人はね。しかし、課長から部長になったら非常に偉くなって、手下が五人だったのが二十人になったっていうと、オレは二十人を、こうなっちゃう、ね。ところが、本質をよく見たらね、余り変わってない。ヒゲの本数も変わらないしね。少々白髪(しらが)が生えたくらいのもんでね。そう、そのね、本質は変わってないわけ。だけども、そういう具合に、他の評価によって変わる。つまり、これを我々が、地位とか、名誉とか、役付きとか、役付きじゃないとか、つまり、そういう価値観というものがたくさんあるわけね。こういうものが我々を支配しているっていうことを私は言いたいんですよね。人間の心はそういうものに支配されてる。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもの頃、親から先生から言われたことをインテイク(intake)=鵜呑みにしたのは仕方がなかったのです。
小さくて弱い子どもだもの、自分の幹は細いし、親からも先生からも愛されたい・評価されたいですから。
しかしそれがね、大人になってからもそのまま、小児的態度のままだと問題になるわけです。
驚くことに、実は大半の大人がそうなんですよ。
そういう意味では、まだ本当に大人になっていない人たちがほとんどなのです。
大人になりましょうよ。
自分を生きましょうよ。
そのために、まず他者評価の奴隷、比較評価の虜(とりこ)という悪しき習慣が暗躍していることに気づくのが第一歩。
そこから本来の自分を回復するという、大切な大切な闘いが始まります。

 

 

この仕事をしていると感じるのは、世間の人たちは、思っていたよりも、話をちゃんと聴いてもらっていない、ということである。

50分間話を伺っただけで
「聴いてもらってありがとうございます。」
と言われることがある。

中には、そう言われて
「仕事ですから。」
と答えるアンポンタンの専門職もいるそうだが、私は全くそう思わない。
確かに、相談援助技術やら、カウンセリング入門、精神療法の技法などといった文献には、職業的専門性としての「傾聴」について書いてあることが多いが、そんな小手先の技術でやれるほど、この世界は甘くない。

もうちょっとマシな文献には、相手の話を聴くこと=相手に関心を持ち、その人のために時間とエネルギーを割いて聴くことが、その人の存在を大切に思っていることになる、と書いてあり、それも「情緒的」には悪くないが、近藤門下の私にはそれでも物足りない。

まず「仕事」だからではなく「ミッション」だからである。
仏教風に言えば、「縁」だからである。
また、相手の存在を「大切」に思う、
でも悪くはないが、相手の存在の根底に対して「畏敬」の念を抱く、となると、さらに深くなる。

しかも、そう思おうとするのではなく、実際にそう感じることが重要である。
そのために何をするか。
それが「他者礼拝(らいはい)」である。
相手の存在の根底に向かって両手を合わせて頭を下げる。
実際にやってみるとわかる。
それだけでちょっと感覚が変わって来る。
もちろん相手の目の前でやれば、アブナイ奴と思われるので、面談前、誰からも見えない場所で礼拝してから面談場所に入るか、心の中で礼拝してから面談を始める。
こうなると「情緒的」から「霊的」になって来る。

すべての人の中に
あなたの中に
尊いものがあるんです
絶対に。

そこから始めないと、本当の意味で、人の話を聴くことはできないと私は思っている。

 

 

 

私は今、へちまを育ててるんですよね。へちまを育てるのが大好きなんでやってるんですけどね。へちまってのは、ぶらっとこう下がるもんですけどね、ところが、ぐんぐんぐんぐん上がっちゃってね、それでもう、ぽっぽっぽっぽ、あっという間に上がっちゃっいましてね、屋根の上に上がっちゃったんですよね。屋根の上に上がっちゃって、自分の目の前に、実は、僕としては、へちまがぶらっと下がっている姿を想像してたところが見えないんですよね。じゃあ、どこにいるんだろう、と思ったらね、今年はダメかな、と思ったら、屋根の上でね、こう、あるんですね。屋根の上に行きますとね、面白いんですよ、あのね、へちま、こんなになっちゃってるんですよ、曲がってね。それで、カッコ悪いんですよ、とてもね。これは随分カッコ悪いな、いつものへちまはスラッとしてる、どうしたんだろうと、こう思いましたら、やはりね、屋根の上に置いてることからね、そんなことが起きてるわけですよね。それでね、考えちゃって、ひとつは、自分の前の前にぶらさげてみたいっていう、こういう願望があるわけですね。ひとつは、なんだかこう曲がってるのがね、これがね、なんて言いますか、医者根性と申しましょうかね、なんか、これ、健康じゃない気がしたんですよね。そこでね、僕は、それをね、持って降りましてね、屋根に上って、もう年も年ですから、足が危ないですけど、でも、これを持って降りて、ぶらさげたんですよ。そうしたら面白いですね、段々段々まっすぐになって行くじゃありませんか。それでね、こうなってたのが段々ああやってね、カッコ良くなって来たんですよ。面白いなぁ、と僕はとっても、そこでね、感動しちゃったんですよね。やっぱり、そのね、本来、へちまはぶらっと飄逸(ひょういつ)なね、良い気持ちなもんですよ。あれ、私、大好きで、ああいうふうなの、大好きなんだけど。そういう自然にフワーッとなってる姿になるのが当たり前なのが、たまたまの環境でですね、屋根の上に上がっちゃうと曲がる。しかし、その屋根の上に上がったのをポッとやると、すぐに直って来る。はぁ、これは本来へちまっていうのはこうなるもんだ。
そうするとですね、むしろ人間っていうのは、老子じゃないけどもね、本来、自然にしておけばね、自然にしておけば、自(おの)ずからね、人間としてね、成長して行くんじゃないかと。そういうふうに思うんですね。…老子の思想なんかによくありますけども、自然という思想、これがまあ、日本に来ると、親鸞なんかの自然(じねん)いうことになりますわね。自ずから然(しか)らしむると。その自然な姿、そういったものがね、人間の中に自然に、つまり、成長して行けばね、環境さえ良ければと、言いますか、へちまと同じようなもんじゃないかとこう思うんです。
実際、私ね、治療してましてね、確かに環境が良くなった場合にね、いろんなことが良くなるんですよ。…
そういうもので観ますとね、まあ、随分、おまえはものを単純化して観てるなって言うけどね、翻(ひるがえ)ってそういうものでね、考えて、また、『老子』だとかなんか読んでみますとね、面白いんですね。「大国(たいこく)を治むるは小鮮(しょうせん)を烹(に)るが如(ごと)し」 つまり、おっきな国を、国ですな、それをね、取り扱うときはね、とにかく、ちっちゃな魚ね、魚を煮るようにする。ちっちゃな魚、これはまあ、あそこに女性の方がおられるから、小さな魚をごちゃごちゃ煮てるとき、あんまりひっくり返したりなんかしますと、身がボロボロに落っこちちゃうんですね。つまり、ああだこうだ、こうだああだってやってるとですね、結構ダメになっちゃうんですね。ところが、それから考えてみますとね、本来、自然にしておけば良いものを、なんかごちゃごちゃごちゃごちゃしてね、結果ね、妙なことに、それが悪い環境として働いてですな、なってしまう。そういうことがあると思うんですね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

人でも植物でも何かを育てるときには、余計なことをしないのが一番です。
私もよく近藤先生から「邪魔しなければ名医。」と言われました。
その人に/そのものに最初から与えられている本来の自己を実現しようとする力におまかせできるかどうか。
そこをどうも我々は、賢(さか)しらだって、あるいは、自分の思い通りにしたくて、手を出して失敗してしまうわけです。
答えは、そもそもその人/そのものの中にあり。
その成長を邪魔しない環境を提供することができれば、それは素晴らしい教育であり治療であると私は思っています。

 

 

あなたが何かをしくじって相手に迷惑をかけたとする。
あるいは、あなたの子どもが何かをやらかして相手の子どもに迷惑をかけたとする。
そんなときには、できるだけ早く、誠実に相手に謝る。
そして何らかの実害があった場合には、相応の補償も要るかもしれない。
それが当たり前のことである。

しかし、時として相手から執拗に攻撃され続ける場合がある。
また、非常識に大きな補償を求められる場合がある。
問題はそういったときである。
こちらがやらかした負い目があるために黙ったままでいると、サンドバック状態で殴られ続け、奪われ続けることになる。

こちらがやらかした過失については、誠実に「ごめんなさい」しながら、
相手の過剰な攻撃や要求に対しては「そこまで言われる筋合いはない!」で突っぱねるのが、適正な対応である。

特に、こちらがサービス提供者側で、相手が顧客側であるときなどは、不当な攻撃を受けやすい。
中にはそれで、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になったり、うつ病になったりする人までいる。
そういう攻撃は立派な暴力である。
どんな関係性であろうと、人間対人間という根本は変わらない。
人間としてならぬものはならぬものです。

 

 

大乗仏教においては、「一人残らず救う」ということが何よりも要(かなめ)となっている。
自分だけが救われる小乗(小さな乗り物)仏教に対して、わざわざみんなが救われる大乗(大きな乗り物、優れた乗り物)仏教と称しているのであるから、そこは譲れない。
中には、「一人残らず救う」と言いながら、「でも、流石にこんなヤツは救ってやんない。」と条件を付けて除外する教えもあるが、それは大乗仏教と呼ばず、権仏教(ごんぶっきょう)と称して区別している。

そんな大乗仏教の救いの代表が、まずは阿弥陀如来である。
その誓願によって、我々娑婆の凡夫を一人残らず救って下さるという、誠に有り難い話である。
ご苦労はんだす、阿弥陀はん。

それで話がすべて終わってしまうところであるが、中に気づいた人があった。
今、娑婆にいる人間はすべて救われるにしても、輪廻転生(りんねてんしょう)を称える仏教においては、今、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を輪廻している者については、人間道(=娑婆、人間界)以外の者が救われないではないか。
あとの五道に行っちゃってるものはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが地蔵菩薩である。
みなさんもどこかの辻で見かけたことがおありであろう、あの六地蔵を。
そう。
六地蔵とは、今、六道に輪廻している者たちを、一地蔵一道ずつ、漏れなく救いに行こうとされている御姿なのである。
だから、わざわざ手に錫杖(しゃくじょう)(=杖)を持って、六道どこへでも、こちらから救いに行きまっせ!ということになっている。
本当に有り難い話である。
ご苦労はんだす、地蔵はん。

で、それで終わりかと思ったら、また気づいた人がある。
それで今いるものは六道全部で救われたとしても、今から生まれて来るものたちはどうすんねん、救わんでもええのか、それじゃあ、一人残らず救う大乗仏教やあらへん、ということになる。
細かいなぁ。

しかしそこもちゃんと考えてある。
そこで登場して来るのが弥勒(みろく)菩薩である。
五十六億七千万年後に、兜率天(とそつてん)から降りて来て、それまでに救いそこなったもの全てを救うという。
未来のことまで準備済みである。
誠に行き届いて有り難い話である。
ご苦労はんだす、弥勒はん。

上記はあくまで私の解釈であるが、それでも話にはキリがなくて、じゃあ、五十六億七千万年後以降はどうすんねん、ということになって来るし、他にもツッコミどころが限りなくありそうである。
けれども、そろそろ勘の良い読者の方はお気づきであろう。
結局のところ、阿弥陀はんも、地蔵はんも、弥勒はんも、みんな方便なのである。
救いの力が、永遠の過去から永遠の未来まで、すべての世界を貫いて働いていることを示すための仮の名前なのでありました。

そういう眼であの曼荼羅をご覧になると、あらゆる力を結集して一人残らず救おうとされているのを感じて、有り難さがさらにさらに増して来るかもしれまへんなぁ。

 

 

「はっきり申しますと、医者というものの、あるいは、医師という、医学というもの、癒すということを中心とする仕事の中にはね、基本的な、これはもう、公理というか、疑うことのできない、それなくしては医療ということができない、ひとつの哲学と言いますか、考え方が、根本的な考え方があると思うんです。
それはどういうことかと言いますと、医者は神さまではありませんから、何か新しく生命を付与したり、新しく生命を作ったりすることはできないわけです。そうでなくて、結局、医者ができるのは、たかだかと言っても良いと思うんですけども、その人の持っている健康に生きる力、そういったものをヘルプして行く、助ける、これ以外にないと思うんです。…
つまり、そのね、人間にインヒアラント(inherent)に、実際、固有に備わっているところの、人間の生きる力、そういったものというものが根本的前提になっていると思うんです。で、その生きる力というものは、人間を通じて、人間自身がその生涯を通じながら、常に進展し、発展し、成長して行くもんだという、そういう根本的なテーゼ(These)というものが私になくしてはですね、結局、何事もできないわけです。
よく西洋の諺で、馬を水のそばに連れて行くことはできるけれども、水を飲ますことはできない、飲むのは馬である、とこう言いますが、結局、飢えだとか渇きだとか、その中にあって初めて、それは人間の、生物の健康な働きとして、そういうものがあって初めて水を飲み、食事を食べるもんだと思うんですね。その意味で、やはり、基本的に人間の中に、それなくしては考えられない、生きる、生きんとする力、そうしたものが基本的に動いているってことは、我々、医学をやる者について基本的に考えて行かなきゃいけない。それがもう無意識でありますけれども、我々の中にあるんだ、とこういう具合に思うんですね。…
そういうものが、私はもう少し、非常にこう、単直に行きますけども、私は、今の、例えば、教育なんかでですね、言わば、そういうふうな生命力、人間の成長して行く力というものを益々強め、そしてその方向を本当に自分自身がそれぞれ見定めて、例えば、杉が杉になるように、松が松になるように、その人それ自身が独自のものになって行く、その人間が本当に生まれて来たことの、ある意味で、意味をそこで完遂して行くことが、それが一生だと思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

我々がまず、本当の自分、真の自己というものを一人ひとりに授かっているということ。
そしてまた、真の自己を授かっただけではなく、それを実現して行く力というものもまた与えられているということ。
これが基本的人間観の大前提となります。
そして、それ故に、それをヘルプして行くのが、医師や教育者や親の重要な役割ということになります。
宜しいですか。
答えは、こちら側(癒す側、教える側、育てる側)にではなく、向こう側、人間存在一人ひとりの中にある、ということです。
従って、この人はそもそもサクラなのかスミレなのか、それを観通す、感じ取ることができなければ、治療も教育も養育も始まらない、それどころかミスリードしてしまう危険性もある、ということになります。
自分自身においても、他人においても、真の自己を観通す、感じ取ることは、必ずしも簡単なことではありませんが、少なくとも、それをなんとかして観い出そう、感じ取ろうという姿勢がとてもとても大切ということになりますね。

 

 

たまには硬派な文章を解説抜きでお示ししたい。

「傍観者になれない人生とは、公正な視線を貫くことである。そのためには、賭けた夢も潰(つい)え、もちろん出世も望むべくもない。しかし、この公正な視線が贏(か)ち得るものは、無償の行為である。そして、自分が成しとげたまことの…仕事が残るはずである。」
「俺は強いんだぞ、と誇示した者にかつて勁かった奴はいない。むしろ、名もない漁師や職人に勁直な人間が多い。かつて私は海のすぐそばに棲んでいたことが何年かある。私はそこでいろいろな漁師と知りあった。彼等はみんな貧しく正直な男達だった。海に舟をだしてたったいっぴきの魚しか釣れない日があっても、それが彼等の生活を支えていた。そこには胸に迫ってくる生活の現実感があった。こうした彼等の日常を支えていたものが何であったかというと、それは勁さであった。彼等は弱者でありながら勁さをそなえていた。」
「知識人とは何か。これにたいする明確な答は得られないと思う。はたして現代の日本にまことの知識人がいるのかどうか、いたとしたら、それはごくわずかな数ではないか、という気がする。知識人と自他ともに認めている人が、実は知識の仲買人にすぎなかった、というような場合が多いのは何故だろうか。仲買人の数は実に多い。いま数えただけでもたちどころにかなりの人の名前があがってくる。…彼はヨーロッパに知識を仕入れに行き、こんどはそれを日本で切りうりするわけである。…仲買人の知識に勁さが欠けていることは述べるまでもない。また、切りうりといっても、たいがいは水でうすめて売るのが仲買人の常套だから、勁さがともなうはずもない。」
「現代の知識階級に欠如している最大のものは勁さである。」
「勁さは悪に対してもっともつよい反応を示すはずである。」
「他者の反応がなくとも恥を正確に恥と感じる能力をそなえた人間もいる。」
「わが国では、武士の倫理思想のなかで自覚的に継承されてきた名誉のかたちがある。これは廉恥心(れんちしん)と表裏をなしている。廉恥とは、それを知らない人のたまにやさしく解釈すると、心が濁っておらず恥を知る心があることを言う。」

 

感想のある方はまた面談のときに。

 

 

ネットニュースに「女子高生のなりたい職業」のアンケート調査結果が載っていた。

高校生になれば、小学生や中学生と違い、ある程度の現実性を考えて、自分の進路を検討しているはずである。
その今どきの女子高生は一体何になりたいんだろう、と興味を持って読んでみると、

第1位 公務員(7.8%)
第2位 看護師(7.1%
第3位 教師(5.2%)
なのだそうだ。

公務員の第1位は、いかにも手堅いであろうから納得がいくが、現代になっても、第2位に看護師が入っていることに驚いた。
現代の女子高生たちも、自分以外の誰かの苦しみを救うために働きたいと思ってくれているのだ。
これには希望を感じる。

しかし私は知っている。
そういった希望に胸を膨らませて看護学校/看護学部/看護学科に入学したのは良いが、大体がまず「看護実習」あたりでダメージを受ける。
ある報告によると、「看護学生生活で『つらい』と感じたこと」のワースト1は「看護実習」なのだそうだ(なんと86.5%!)。

そして、なんとか看護実習を切り抜け、国家試験に合格し、病院に就職してから「新人看護職員研修」を受けることになる。
この「新人看護職員研修」がまた、学生時代の「看護実習」の再来に、いや、プロになってからであるので、さらに一層「つらい」ものとなりかねない。
これが2回目のダメージであり、これから休職や退職にまで発展することもある。
ある報告によれば、新人看護師の離職率は7.5~7.9%。
かなりの数値だ。

では、何がそんなに「つらい」のか。

私自身の病院勤務経験や、病院職員のメンタルヘルスに関わって来た経験からすると、まず一番辛いのは「働く環境」である。もっと言えば「人的環境」である。さらに言えば、「先輩・上司との人間関係」である。

さて、どうするか?

ここらが師長、看護部長の腕の見せどころだと私は思っている。
新人看護師を指導する人間を指導できるか否か。
結局、看護部長→師長→係長/主任(役職名は病院によって異なる)→先輩看護師(プリセプター、エルダー、メンターなども含む)→新人看護師の流れが、本当の意味で、人を育てるようになっているかどうかが問題なのである。

もちろん看護学生や新人看護師の側に、難しい問題がある場合もあることも私は知っている。
中には適性上、困難な子もいる(その場合は早くに他の道に方向転換した方が良いかもしれない)。
それでも、もし可能性があるのであれば、先輩職員たちが、この難しい新人をどう育てようかと、あーでもないこーでもないと、愛情を持って、智慧を寄せ合い、考えていただきたいと思う。

そう。やっぱり「裁くのか/育てるのか」「攻撃するのか/愛するのか」という問題に行き着く。

看護師が看護学生を愛して育ててくれると良いなぁ。
先輩看護師が新人看護師を愛して育ててくれると良いなぁ。

そうして、看護師になりたかった女子高生の夢が、やがて現実に、やりがいと喜びを持って、叶うと良いなぁ、と本気で願っているのでありました。

 

 

「生きている私達は、我々の知性だけでなくて、見るものだけでなく、見えないものをも直感、直覚して、私達にそれを感動を持って感じさせてくれる働きを持っているのです、それは自ずから我々を越えて働く大きな力であり…それがなかったら我々は決して安心することが出来ないのです。…
我々現代の人々は各種の教育が障害となって、どうしてもそういうことを感じられないのです。どんな秀才であっても、科学主義の洗礼を受けてそれに従うとき、実はその人の持っている人間として与えられた能力の僅かの部分しか使われていないわけです。我々に与えられている、もっと大きな、もっと素晴らしい、感じる力というものに気が付くことが出来ないのです。これが現代の科学主義の限界なのです。これを科学主義が非常な傲慢さを持って、自分たちの科学主義が最高の真実であると、堂々と主張して憚らなかったのが二十世紀なんです。私は来る二十一世紀はそうであってはならないと思うんです。…
私が今皆さんに申し上げたことが、少しでも皆さんの耳を通じて心に達したら、嬉しいと思います。私達は心があるということを忘れてはいけないのです。私達は頭だけではないんですよ。心は目で見えるもの以上のものを感じ、感覚するんです。感覚から感情になって行くのです。…私達は時々不安に陥ります。するとその不安を超えようとする願いが起きてきます。…この呼びかけに素直に耳を傾け、それを全身心を以て感じる時に、あなた方は苦しんでいる今までの自分と違った、自分自身を超える、大いな偉大なるものに触れて、自分が支えられている大きな喜びを感じるでしょう。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

まず、目に見えるものを考えるのではなく、目に見えないものを感じること。
そうして感じる力が敏感になって来ると、我々を不安や苦悩から救って下さる大いなる力を感じられうようになって来るということ。
その道筋を、近藤先生は何度も何度も、言葉を変え、表現を変えて、伝えようとして下さっています。
そして、この講演の現場にいた私にとっては、まさにこの近藤先生による講演自体が、我々を超えた大いなる力を感じさせていただけるものでありました。
しかし、現場にいなかった皆さんが失望する必要はありません。
あなたの感じる力が敏感になって行けば、この講演録からも、行間を通して働く大いなる力を感じられるようになるものと私は信じています。

(尚、この講演が、近藤先生の浄土真宗 東本願寺派本山 東本願寺(いわゆる浅草本願寺)における生前最後の講演となった)

 

 

ある女性が中学時代、部活でイジメを受けていた。
ようやく高校に進み、イジメた連中と縁が切れて清々していたが、そいつらから何度も「会おうよ。」と誘いの連絡が入って来る。
人の良い彼女は、渋々会いに行き、そいつらと話してみて、なんだかカラクリがわかったような気がした。
結局、イジメていた連中自身が健康な人間関係を築けないヤツらだったのである。
よって、高校になってもマトモな友だちが作れない。
それで遡って、中学時代の知り合いに声かけるのである。
通常なら、高校は高校で新しい友だちができて、その交友で忙しくなるはずである。
過去の友だちなんぞにかかずらわっているヒマはない。
彼女の読み通り、さらに大学に進学しても、就職しても、その連中からの誘いの連絡はなくならなかった。
もちろん、もう誘いに応えることはなかったので、段々に連絡は消滅して行ったが、大学に行っても、就職しても、そいつらは新たな交友関係が築けなかったと見える。
それがもし“生涯の親友”との運命的な出逢いがあったのであれば、時間的に後ろ向きの交友関係もあり得る。
文字通り、一生の付き合いとなるだろう。

しかし通常は、小学校→中学→高校→大学→社会人となって行くにつれ、交友は広がり、質的にも深まり、“今が一番充実した交友関係”になるはずである。
後ろを向いているヒマはない。向く必要もない。

だから私ももし「昔の知人に逢いたいか?」と訊かれれば、答えは「No。」である。
今の交友が忙しくて、充実していて、懐古的になるヒマがないのである。
もちろんその交友の“友”には、面談しているクライアントや勉強会参加者の方々も含まれる。
彼ら彼女らは大切な“同志”であり、ある意味、一般的な“友”よりもずっと深い関係かもしれない。

だからやっぱりどう考えてみても、後ろ向きの交友をしているヒマはないんだなぁ。

 

 

ある男子高校生が、
サッカー部に入れば、恐らく万年二軍選手だろうが、
陸上部に入れば、きっとすぐに全国大会で活躍できる、と言われて悩んでいた。
即ち、
本当に何をやりたいのかで選ぶのか、
どうやったらより評価されるのかで選ぶのか、ということである。

あなたならどちらを選びますか? 

かつて医学部に入学したとき、医学部に入ったらエラいと思ってもらえるから入った、医者になったらきっと儲かると思って入った、と思っている(はっきりそう口にするかどうか別にして)連中が余りに多いのに驚いた。
苦しむ患者さんに貢献するために、という言葉は建前でも聞いたことがなかった(実際には本気でそう思っていた人もいたと思うが…)。
その意味では、どうやったらより評価されるかで選ぶ、という方に著しく偏っていたと思う。

旧ソ連では、医者では喰えないので、タクシーの運転手をやっている、というテレビ報道を観たことがあった。
もし日本がそうなったら、どれくらいの人が医者になるだろうか。
私としては、それでも医者をやりたいという人に是非、医者になってもらいたいと思う。

どうすれば評価されるかを超えて
自分がやりたいかどうかも超えて
何をするのが自分のミッションなのかを掴み取れる感性を磨いて行ってほしいと願う。

 

 

「皆さんは一応安心していらっしゃるように見えますが、心の中ではやっぱり漠然たる不安を感じられているのではないかと思うのです。一体どうしたらいいでしょう。本当にこの何とも言えない不安を乗り超えることが出来るのでしょうか。ここで一つ深く考えて見ましょう。私たち日本人はもう少し、目に見えないものの持つ意味を感じられるのではないでしょうか。いや、我々にその力が自然に与えられているのではないでしょうか。あなた方は目に見えないもの、例えば自分の家族に対する愛、子供に対する愛、愛情、これは目に見えないですよ。それを私たちは信じているでしょう。私たちは自ずからそういうものを、感じる力を持っているのではないでしょうか。これは一体どんなことでしょうか。一体それはどこから来たのでしょうか。
近頃見ていると、男性も女性も若い人達、少なくとも私が接する限りには、そうしたことに関して非常に割り切っているというか、浅い考えしかもっていない感じがするのです。だからお互いの間に本当の信頼はないのではないでしょうか。本当の信頼がないくせに簡単に安っぽく信じてしまう。そういうイージーな信頼の結果裏切られることが多い。その上裏切られた時に傷つけられても、その意味を深く考えない。こんなこと大したことないと、打ち消してしまう。このような何か自分の生命とか、自分の生活に対する安易な態度、自分の生き方に対する浅薄な態度は非常に強くていい加減な生活をしているような気がするのです。
私達の祖先は、いろんな厳しい状態をずっと生き抜いてきました。その中で彼らはいろんな困難に面し、不安に直面して、真剣にどうしたら生きていけるかを考えました。そして何が本当にこうした不安を超えられるか、ということを真剣になって追求した人達がいるのです。…親鸞聖人はその一人でしょう。法然上人もそうですね。そしてこの方々が人間が本当に真の安定を得て、真の安心が得られるのは何かを教えて下さったと思うんです。ひるがえって今のインテリの方々に聞きたいのです。私にどうしたら安心が出来るのか教えてほしいのです。医学博士でも理学博士でも、どこのプロフェッサーでもいいけれど、それを聞いたときにハッキリ答えられる方はほとんどいないのではないかと思うのです。何故かと言うと、少なくとも学者達は科学的な考え方をしている限りは、この質問に関してはおそらく返事は出来ないと思います。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

この当たり前の生活の背後にある、漠然とした不安を、あなたは感じたことがありますか?
拭(ぬぐ)っても、誤魔化しても、逃げ出しても、消し切れない不安があることを、あなたは感じたことがありますか?
そしてその不安を本当に乗り超えたいと、心の底から願ったことがありますか?
またあなたは、目に見えるものだけでなく、目に見えないものの持つ意味を感じたことがありますか?
そこに本当の安心への道がある、本当の安心へと連れて行って下さる力があることを感じたことがありますか?
消し切れない不安をひしひしと感じ取り、それを乗り超える道を真剣になって追求し、目に見えない働きを見い出して来た歴史が、この国の先人たちにはある、ということを知っておいていただきたいと思います。

 

 

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