八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

昨日に続いて、今日は「書類」についての話。

精神科分野で医師が記載する書類としては、①自立支援医療の診断書と②精神障害者保健福祉手帳の診断書、それから③障害年金の診断書を書く機会が多い。
そこに児童が入ると、④特別児童扶養手当が加わることになる。

これもまた前医が書いたコピーなどを見ると、これでホントに通ったのか!?と思うくらいスッカスカの内容の書類に出会うことがある。
実際、制度利用のためなのだから最低限を書いて通れば良いだろう、その方が効率が良いというものだ、とうそぶく医師もいた。

しかし、私はそうは思わない。
例えば、2年に1度更新して提出する書類であれば、その書類は、通れば良いというだけのものではなく、その人が2年間生きて来た証しを記(しる)すという面があるのだ。
その証しを少しでも書いておきたい、という思いが私にはある。

これまた、とても業務が忙しかったり、担当する患者さんの数が多く、書類を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も、いつもそんなに立派な書類を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、
1行でもいい、なんなら1語でもいいから何かキラッと光るもの、その人(患者さん)の存在が伝わるものがある書類を書いておこうとすることである。

先日、ある精神科医と話していたら、私と同じ気持ちで書類を書いている人であった。
そのやり方だと書類作成が遅くなるので、よく事務方に怒られますけどね、と笑っていた。
同志というのはいるものだ。
なんだか嬉しくなった。

よって、このことは精神科医の後輩たちにお勧めしておきたいと思う。

これは単なる書類書きではなく、主治医としての“姿勢”の問題なのである。

 

 

もう30年以上前のことになるが、私が研修医になった年の秋、初めて週1回の関連病院パート勤務が始まった。
行ってみると、超長期入院の患者さんばかりの担当になっていた。
思うに、新人には状態の安定している患者さんを、という配慮だったのであろう。
そしてカルテを見て驚いた。
とにかく書いてない。
それまでカルテ記載は、月に1回の診察で毎回ドイツ語で「stationär」(変わりなし)の1語(1行)のみ。
新人研修医でも流石に、それはおかしいだろう、と思った。
人間がひとり、1週間生きていれば、絶対に何かがあるに決まっている。
意地でもそれを見い出して、毎週カルテに書いてやろうと思った。
そしてそういう姿勢で診察に臨むと、最初は何も話してくれなかった患者さんたちも次第に思いの内を話して下さるようになった。
そうなると、さらにカルテに書くことが増えて行く。
そうこうしているうちに段々と、なんでこの人はこんなに長く入院しているのだろう、などと思うようにもなって行った。

当時の原点に始まって今日に至るまで、変わることなく思うのは、その記録が、その人がこの世に生きて来た証しとなる、ということである。
そう思うと、あんまりいい加減な記録で済ますわけにはいかなくなって来る。
それはカルテだけではない。看護記録、介護記録、訪問記録、面接記録、作業記録などなど、何でもそうである。
時々、なんとか空欄を埋めただけの空疎な記録、怒られない程度に何か書いたフリの記録、コピペで済ませた毎回ほぼおんなじ内容の記録などを見るとガッカリする。
そりゃあ、とても業務が忙しかったり、担当する患者さん、利用者さんが多く、記録を書くのもいっぱいいっぱいということもあるだろう。
かく言う私も毎回そんなに立派な記録を書いて来たわけではない(実際、書けていないだろう)。
しかし、唯一心がけているのは、1行でもいい、なんなら1語でもいい、何かキラッと光るもの、その人(患者さん、利用者さん)の存在が伝わるものがある記録を書こうとするということである。
それだけは対人援助職の後輩たちにお勧めしておきたい。
そしてそうすることで、有り難いことに、我々対人援助職者の“感性”も常に磨かれ続けて行くのである。

 

 

昔、外来に来ていた青年が村上春樹の小説をよく読んでいた。
よく話題に出るので、その人を理解するために、私も十数冊ほど読んでみたことがある。
それでも全著作を読んだわけではないので、話題に出て来た作品について、知っていれば知っていると言い、知らなければ知らないと言って話を続けていた。
ある日、彼がボソッと言った。
前に通っていた精神科の先生は、村上春樹のことを知っているというので話していたけど、実は解説記事を読んだことがあるくらいで、1冊も読んだことがなかったんだよね。
それがわかったときの彼の失望が目に浮かんだ。
読んだことがないなら、ただそう言えばいいのにね。

やっぱり、ウソはいかんです。
特に、面談という大事な場面でそれはいかんです。
知らないことは知らんでいいんです。
それよりも何よりも、大切な話をしている人に対しては誠実でなければいかんです。
クライアントよりも自分の虚栄心=知ったかぶりの方が大切なのはいかんです。

誤解のないように付け加えるならば、
クライアントが関心を持っていることを全部セラピストも知るべきだ、と私は思っていない。
また、クライアントが関心を持っていることをセラピストが知ろうとすることは、クライアントに媚びを売るためではない。
もしそれがクライアントの治療や成長に必要だと思ったならば、そうすればいいだけのことである

昔、児童専門外来をやっていた頃、スーパー戦隊ヒーローが好きな男の子が多かった。
ゴレンジャー以降のスーパー戦隊ヒーローを知らない私は、毎年のように名前が変わる〇〇レンジャーや〇〇マンなどに付いて行くのにヒーヒー言っていた。
そこで途中からは、「わからないから先生に教えて。」と子どもたちにご教示願うことにした。
流石に、スーパー戦隊ヒーローに子どもたちほどの関心を持てなかったわけであるが、子どもたちには大いに関心があった。
それで良かったのである。
それがあればウソも虚勢もない。

結局、真実は簡単なこと。 
人間として正直にいきましょ。

 

 

「女性っていうものは…生命(いのち)を作り、生命(いのち)を本当に育てて行く、素晴らしい役目を持ってるんじゃないかな。下手な男女同権論よりも、私は、この、女性の持ってるね、独自性を考えた方が良いと思う、ね。
よく私は言います。女性っていうものは、海徳(かいとく)を持っている。あるいは、土徳(どとく)を持っている。これは別に…中国の本に書いてあったわけでもなければ、西洋の本に書いてあったわけではない。私が創った言葉です。
どういう意味かと言いますと、海というものを考えてみましょうね。海は洋々として広いです。大きいですね。豊かな水でもって、こう、溢れるばかりです。…
海はね、いろんな川が行きます。鬼怒川も入るね、那珂川も入るな。いろいろな川が入ります。汚い墨田川も入りますの。…荒川も入る。江戸川も入る、みんなね。汚いもの入れるけれど、海はそれを、全てを入れますね。違うかな? そしてそれは自然な浄化作用。その汚いものを綺麗にして行く作用がある、ね。そういう素晴らしい作用があるんですよ。
しかも、面白いことは…初めてこの地球に生物ができたのは、海の中なんですよ、ね。海の中にできたの。海の中で初めて生物の形成ができたの。段々段々、だから、お魚になったり、両生動物になったり、それから陸上動物になって来てるわけ。そして人間も生まれるわけ、ね。そのね、そういう生命の、生命(いのち)の素なの。
で、面白いことに…人間はです、その生物ができたのと同じようなことを繰り返している。例えばね、今のこの精子とね、卵子の結合にしてもそうなの。あれは、ひからびたところでできるんじゃないの。卵管の中はね、非情に潤ってるわけ。その中で、成分的に言えば、非常に海の水に近い、その成分の中で結合してる。そしてさらに、その結合ができますと、自ずから、一番小さいね、子どもですね。子どもの素みたいなもんだけど、それがね、お魚そっくりなの。そうしてね、羊水と言いましてね、その成分は海の水とほとんど同じような、その成分の中でそれが育って行くの、ね。あなた方は、だから、自分のお腹の中に海を持ってる。その海が生命を育てたように、あなた方はその生命(いのち)を育てているわけ。面白いんですよね。その生命(いのち)を育てるということ、その意味で、海(かい)、海と同じだと。それから、いろいろなね、その、汚いもの、いろんなものを、全てべ、入れてると、こういうとこで、私は女性に素晴らしさがあると思う。
だから、良いですか、自分の…子どもだとか、ね、夫にしてもそうなの。そりゃあ、イヤなとこ、あるでしょう。私、ああいうところ、嫌い!大っ嫌い!なんてことをね、あんまり言わないでほしいんですよ、ね。それはあなた方の海を、海徳を汚すことになるの、ね。良いことも悪いことも全て無条件に受け入れる。そういう態度であってほしいと思うんです、ね。これができますとね、あなた方の家庭は、素晴らしくね、なるんですよ。憎しみとか、差別、この子どもは可愛くて、この子どもはいけない、そういう差別、そうしたことを、海のように全てを無条件に、差別することなく、汚い墨田川も、綺麗な鬼怒川も、全てを受け入れて行く。この広さを持っていただけたらと思うんです、ね。…
では、土徳とは何でしょう、ということになる。そうしますと、それは土を観ましょう、大地を。大地はいろいろなものに踏んづけられますね、こう、ね。あなた方の足でも踏み付けられるし、猫はおしっこするし、いろんなことしますね。それだけれども、この大きな建物が、しっかりした建物が建つっていうのは、どこの上なんでしょうね。大地の上じゃないですか。もし大地がなかったら、この建物ができますか。そうして、しかもその大地は、今言ったように、いろんな汚いものも入れるんです。唾(つば)を吐く人もいるし、いろいろある。けれどもそれを全部ね、肥料に変えて、そこで木だとか、お米だとか、いろんなものを育てるでしょ。全てのものをやはり差別しない。じっと耐える、全てを背負って。そしてその上に大きな生命を、建物を創る。これを私は土徳という。それをあなた方は持ってるっていうことを忘れないでほしいと思います、ね。」(近藤章久講演『心を育てる』)

 

母なる海、母なる大地。
これを「父なる」とは言わないんです。
だから、我々はどこかでわかっているんです、女性に与えられた大いなる特性のことを。
それを是非とも発揮していただきたいと思う。
「海徳」「土徳」の「徳」というのは「働き」という意味です。
さらに言えば、「その人(物)を通して働く力」のことを「徳」と言うのです。
ですから、「海徳」「土徳」を発揮するには「自力」ではダメなんです。
女性を通して働く力=「他力」によって発揮させていただく。
そうなるとやっぱり、自力でウンウン頑張るのではなく、祈っておまかせするしかありません。
そうして初めてあなたを通して海と大地の働きが現れて来ることになるのです。

 

 

今度こそ子どもに優しくしよう。
今度こそ夫/妻に優しくしよう。
今度こそ親に優しくしよう。

何度そう誓ったことだろう。
しかし長く続いたためしがない。
すぐにまたきつく当たってしまう。

そりゃそうだろう。
そんなのは一時的な気分=感情なんだもの。
感情はすぐに流転する。
我々の感情は、この人のためなら死んでもいい、と思った直後に、こいつなんか死んじまえ、と思えるのだ。
人間の感情はそのときだけのものである。
そもそもそんな人間が頭記のような誓いを立てること自体が無理なのだ。

じゃあ、どうするか。

人間が当てにならない以上、人間を超えたものにおまかせするしかない。

キリスト教ふうにいくとしたら

「御心ならば
子どもに優しくできますように。
夫/妻に優しくできますように。
親に優しくできますように。」

あるいは
仏教風にいくとしたら

「南無阿弥陀仏」

阿弥陀仏(=人間を超えた力)に南無(=おまかせ)します。

既成宗教臭さがイヤならば、どんな用語を使っても良い。
能書きに陥らず、人間を超えた働きが感じられるか否かが肝心なのである。

 


 

今日は令和6年度8回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目に続いて8回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

d.「現実の自己」への態度 ー 自分への憎しみ self-hate

「仮幻の自己」に自分を見出す時に、それは大きな栄光と力と自信とを与えるかの様である。
しかし、その現実化に一歩ふみ出す時、他への要求 claims は容易に充足されることなく、その挫折の責めを他人や現実に帰して非難しても、非難は非難に止(とどま)るか、攻撃に変ずるか、あるいは他からの脅威と反撃にさらされるかに終って、結局現実の自己の無力さを責めねばならなくなるし、又一方、自らに対して「仮幻の自己」の要求に適合する様に命令しても(shoulds)、絶対的な完全性を要求するその標準を充足することは不可能である。
とすると、何れの場合でも、ここに「現実の自己」の劣弱と無力を認めねばならぬ。この様に「仮幻の自己」から見る時「現実の自己」は無力で卑で軽蔑すべき存在である。ここに「現実の自己」に関する軽蔑 self-contempt が生じ、そてに伴って劣等感が生じて来るのである。
しかし、皮肉なことに、如何に軽蔑しても、「仮幻の自己」の要求完成の為には「現実の自己」に依存せざるを得ない。これは「仮幻の自己」にとっての大きな屈辱である。屈辱は転じて、「現実の自己」への敵意に化する。「現実の自己」の無力こそ正に非難さるべきものであり、憎むべきものである。
ここに自己に対する憎悪 self-hate が発生し、「現実の自己」を責める結果、自己を苛酷に切刻み、自己懲罰的、自虐的な傾向を生じるのである。神経症者に見る罪悪感はこの様な心的 process(プロセス)の結果であって、「仮幻の自己」が「現実の自己」に課する刑罰である。しかしこの process(プロセス)は単にこの様な結果をもたらすのに止(とどま)るのではない。この様な結果をもたらした跡を辿(たど)る時、それは本来「仮幻の自己」の負うべき責任なのであるし、それに由来する「誇り」の受ける屈辱感のすりかえに過ぎない。
それによって、実は全ての責任を「現実の自己」に転嫁し、すりかえることによって、「仮幻の自己」自身への批判をはぐらかし、その温存を計っている防衛の手段でもある。この様な胡麻化しは更にもっと大きな結果「真の自己」からの自己疎外の増大をもたらすのである。

 

「~であるべきだ」「~でなければならない」と理想化された「仮幻の自己」を実現するのは大変である。
しかし「仮幻の自己」によってしか自己の存在意義を感じられない人間にとっては他に選択肢はない。
例えば、必死になって「誰よりも優秀な私」「誰よりも気がつく私」「誰からも好かれる私」などを実現しようと頑張るが、そんな空想的理想が実現する日は来ない。
よって、そんな「現実の自己」は非難・攻撃の対象となり、そこから「自己軽蔑」や「自己憎悪」が生まれる。
徹底的に「現実の自己」を軽蔑し、憎悪する。
しかし、これは問題のすり替えである。
そもそもそんな「仮幻の自己」にすがろうとすることに問題があったのであり、「仮幻の自己」がまさに愚かな「仮」と「幻」の存在
であったのだ。
それでも「仮幻の自己」を捨てては生きてはいけぬ、それ以外に頼るものを知らないとなれば、代わりに「現実の自己」を非難・攻撃するしかないではないか。
そうやってまた本質的問題の解決から遠ざかり、そんな生き方をしている限り、いつまで経っても「真の自己」の出番は来ないのである。

 

 

「そんなやたらにね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。この私はどうせダメなんだから。くだらんことを言わないでほしいんだ。その意味で、生命(いのち)を軽蔑しないでほしいの。…どうせ私ダメなんだからとか…どうせ俺はしょうがねぇよ…そういうのがだ、ね、これはみんな自分の生命(いのち)というものをね、粗末に考えている。…
英語でもドイツ語でも、産まれるという言葉は使わないの。受け身になる。I was born. こうなる、ね。ということを、もっと日本語的に言うと、授かったんだ。だから、あなたは自分自身の生命(いのち)をもっと考えてほしいんだ。私の生命(いのち)は、私は授かっているんだ。…このね、あなた方の、一人ひとりの生命(いのち)は、かけがえがないの。失ったらおしまい。これを不幸にするか、幸福にするか、健全にするか、病的にするか、これはあなた方の重要な責任ですぞ。これを、自分のことを思ってほしい。
それをよく考えたら、自分の目の前にある、自分の子どもというものを考えるだろう。この子どもの生命(いのち)を観るだろう。その子どもの光り輝いているところの独自の生命を観るだろう。これが母親が、その生命(いのち)を育てることが、その生命(いのち)を健やかに伸ばすことが、それが母親の意味だ。それを私は一番偉大な教育者と呼ぶものなの。どんな教育者よりも、それは素晴らしい教育を持っているものなの。
生命(いのち)のかけがえのない尊さを考えてもらいたい。そして、その生命(いのち)を自分が汚(けが)さないことなの。心配とか、不幸とか、不安だとか、そういうことで、自分の生命(いのち)を粗末にしてもらいたくない。自分の生命(いのち)を本当に大事にする人は、初めて他人(ひと)の生命(いのち)も大事にする。いわんや、自分の子どもの生命(いのち)を大事にするんじゃないかと思う。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の力のこもった講演が続く。
まず自分に与えられた生命(いのち)の尊さを(考えるのではなく)感じること。
そうして初めて自分以外の人間、特に目の前にいる自分の子どもの生命(いのち)の尊さも感じられて来る。
その生命(いのち)の尊さが感じられれば、自分の生命(いのち)、縁あって出逢った人の生命(いのち)、そして縁あって我が子として授かった子どもの生命(いのち)の成長を願わないではいられなくなる。
そうしてその生命(いのち)を育てること、健やかに伸ばすことこそが、我々のミッションであると、(頭の先ではなく)肚の底からわかってくるのである。
それがわからずして何の人生であろうか。
それを果たさずして何の人生であろうか。
もう世俗的な、些末な、表面的なことはどうでもいいから、生命(いのち)の尊厳について、その生命(いのち)の成長について感じましょう、ね。

 

 

尾籠(びろう)な話題で恐縮です。

医療福祉関係者の間で時々話題になるテーマに
「あなたはお尻の穴を見せられますか?」
というのがあります(ひょっとしたら私の周りだけかもしれませんが…)。
これは露出癖的な話ではなく、あなたが利用者としてケアを受けるときに、そこまで自分をさらけ出して、支援者におまかせすることかできますか?という質問なのです。

で、あなたはいかがですか?

私はできます。
というか、もうやってます。
定期的に大腸内視鏡検査を受けているもので。
これも最近でこそ静脈鎮静法を使って、寝ている間に検査が済んでしまいますが、最初はそれもなく、意識清明下に検査を受けていました。

そうでなくても私たちもいつかケアを受ける日がやって来ます。
でも「いつか」でしょうか?
思い起こせば、生まれたときからそうでしたね。
乳児の頃、一から十まで何もかもやってもらっていました。
それがいつの間にか自分の力でやっているかのように思い上がってしまいました。
本当は、ずっと与えられた力でやらせていただいていただけなのに。
そう思うと、何を今さら「お尻の穴を見せられますか?」でしょう。

とっくの昔から、骨の髄まで、心の奥底まで見透かされています。
それを思えば
、元から私たちを生かしてくれている力に、何もかもおまかせするしかない人生なのでありました。

 

 

「良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えられるのは、あなた方だっていうことだ。…
是非、考えていただきたいのは、お母さん方に、そのね、自分の子どもに対するね、自分の態度です。お母さんが落ち着いているということが、どれくらい大事なことか。
誰でも、ここにいらっしゃる男の方でも、思い出すだろうと思うんです。自分がまだ幼い頃、どこかで膝を、ぶっ倒れて膝を擦り剝いたとか、あるいは、誰か友だちでもって殴られたとか、そういうときに、うちへダーッと帰ってって、『お母ちゃん!』とこう言ったわけです。そうして、自分の膝をね、擦り剝いた字座を、ああ、こうやってね、あるいは、ぶん殴られたコブをね、こうさすられて、そして慰められた記憶を持たない人間はないと思う。それで子どもは安心したの。…
けれども、子どもが本当に欲している、本当の慰め、安心感、そういうことを与えられなかったならば、私は、後にしっぺ返しを喰うものと思います。
あのときに母親にこうされたことが、僕に、私にとって大きな意味があったとかね、母親がこうしてくれたことがどんなに良かったかとか、そういうことが、なんかね、男の子、女の子に限らずね、そうした思い出を持たない人はないと思うんですよ。私は、最も偉大な教育者は、何も校長先生でもなく、担任の先生でもなく、それは母親だと思うの。母親がね、本当の意味で、自分がね、生命(いのち)を預かっているということ。
だから、大きくなってよく聞くんですが、本当に私の言うことを聞かないんです。思う通りにならないんです。当ったり前ですよ。始めっからね、あなた方の思う通りにできてないの! これをね、今度はこうやるとね、こうやってこう、こっちにやったりあっちにやったりできるもんだから、お人形だと思っちゃうんだね。どうにでもできるもんだと思っちゃう。それは誤りですよ、それは。お人形と違うの! 人間は生命(いのち)を、その生命(いのち)は、その人だけしか持たない独自性があるの。こうやって、皆さん、いらっしゃるけど、あなた方の一人ひとりが、輝くような、自分だけの持つ、その生命(いのち)を持ってるんですよ、あなた方は。隣の人と比べたら違うんだ。…
そんなやたらね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

実際の講演の中で、(子どもは)始めっからね、あなた方の思う通りにできないの!と近藤先生がおっしゃったときは、かなりの迫力でした。
また、お人形と違うの!とおっしゃったときも。
子どもを自分の思い通りにしようとする親の
なんと多いことでしょう。
そしてそれが子どもの人生に少なからぬ禍根を残すことになります。
子どもの中には最初から自分自身を実現しようとする力が与えられています。
それを邪魔しなければ、それだけで大した親です。
大抵の場合は、善かれと思って、よってたかって邪魔をしています。
そしてもし、邪魔しないだけでなく、その子がその子になることを応援できたとしたら、それは最高の親と言えるでしょう。
そしてそれができる親は必ず、自分自身のことにおいても、本来の自分を実現する方向に生きているはずです(自分のことができなくて子どものことができるはずがありません)。
従って、まずは子どもの成長の邪魔をしないこと。
そして、自分自身の成長を
目指すこと。
それができれば、間違いなく、親子ともに素晴らしい人生になると思います。

 

 

 

初めて「愛見煩悩」という言葉を聞いたときに驚いた。
そんな言葉が既にあったのか。
自分が長年考えていたことを、当たり前のように、ズバッと示された気がした。
特に仏教を学んでいるときに時々起こることであるが、驚くと同時に、そんな言葉を残した先人たちと何百年、千年、二千年の時を超えて、話をしているような気がして来て、有り難く、嬉しくなるのである。

で、「愛見煩悩」。
そもそも、我々の精神性を考える場合に
(1)理性(知性)
(2)感情
(3)霊性
の三層をもって考えていた。

それぞれにそれぞれの役目があるのだが、この世界の真実、人間の精神世界の真実を掴むには、理性(知性)で考えることや、感情で感じることでは、到達できないと思っていた。
そう。
思考では、絶対的真実は掴めない。
感情でも、絶対的真実は掴めない。
それは霊性的直観によらなければならない。
しかるに、思考や思索によって絶対的真実に到達したかのような思い上がりや、単なる情緒的体験を何か深い体験をしたかのように勘違いする輩が多過ぎるのである。

これはわかる人にはわかるが、わからない人にはわからない話であるが(従って、これを理性でもって皆さんに説明しようとは思わない。理性で説明できるはずがない)、
少なくとも「愛見煩悩」という言葉は、
「愛」=感情

「見」=思考
とが煩悩であると、ズバリと、そしてアッサリと、斬って捨てている。
即ち、理性と感情は真実に到達する道ではなく、むしろ障害になる。
これは気持ちが良い。
それでいて、「で、何が真実に到達する道なのか」は言っていない。
そこで出て来るのが「霊性的直観」なのである。

そういう意味では、「霊性的直観」と言ってみても、それだけでは単なる符牒に過ぎない。
あなたには本当に「霊性的直観」の“体験”がありますか?と迫って来るものがあるのである。
それがわからないと、その体験がないと、この世界は、人間の精神世界は、イリュージョンのままなのである。

少なくともあの妙好人たちは、愛見煩悩によらず、霊性的直観によって真実を体験している。
畏るべし。

 

 

「赤ん坊はまだはっきり、目、耳、鼻、いろんなことがはっきりしません。そのときに、一番最初にはっきりして感じるのは、この肌、接触、肌なの。だから、非常にその接触が大事なんです。
その接触が大事なんだけども、近頃はどうかというと…日本の女の人も…授乳をしますと…胸の…形が悪くなるわけ。だから、したくないでしょ。そうすると、授乳をしなくて人工栄養をやるわけね。子どもにとってはね、お母さんの肌というものを感じないわけ。まずお母さんの母乳を知らない、母乳を飲むことができない。どんなね、人工的な素晴らしい栄養ができても、母乳に勝るものはないです。…
大体ね、人間誰でも、赤ん坊でもそう、大きくなっても、あなた方、わかるでしょ。お腹が減ったときに一番イライラするね。…この飢えと渇きと、そういうものは、みんな人間をイライラさせるの。
そういうのと同じように、赤ちゃんも、本当の意味で、良い母乳を与えられると満足するんだけども、そういうものが与えられないとイライラするわけです、ね。…
それで、もうひとつ…こうやって今度は…肌に付いて、母親の肌をしたときに、母親の胸のあったかさを感じますね。ここらの男性に訊いてごらんなさい。奥さんの胸に、自分の顔を寄せたときに、なんとも言えない安心感を持つんだから。どんな禿げたお爺さんでも(笑)。…俺はそんなことないよ、なんて言うかもしれないけども、しかし、それはやはり、奥さんの温かいね、胸の中にこうやって、なんとも言えない、それは、安心感を持つの。良いですか。女性はそれに自信を持って下さいよ。良いですね。
その元はどこにあるかというと、赤ん坊のときにですね、お母さんの胸に抱かれて、ほの温かく、本当に、お腹の方もいっぱいになって、あったかくて、良いですか、気持ち良くフーッと眠った。この、なんとも言えない安心感、あったかさ、満足感。こうしたものが一番、この、基礎になってる。これが人間の安心感、ね。そういうものの元になってる。…

あなた方は若いから…第二次世界大戦っていうのを…ご存じないかもしれない。…あのときの若い、例えば、特攻兵とか、十八か十七の子どもも行きました。その子どもが出て行くときに、『お母さん。』と言って出て行ったもんです、ね。これから死ぬ前に、最後に言った言葉は、みんな『お母さん。』ですよ、ね。それぐらいね、子どもにとって母親っていうものはね、自分の本当の安心の源になるんです。…
で、良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えるのは、あなた方だっていうことだ。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

母乳が与えるもの。
ひとつには、飢えと渇きを満たす栄養。
そしてもうひとつが、触れる胸から感じる安心感。
これが我々の原体験にある。
世のお母さんたちは、どうぞどうぞ我が子たちにその体験をたっぷりさせてあげて下さい。
そして、本格的な寒さがやって来るこの季節。
あったかいものを食べて、肌触りの良い布団にくるまってぬくぬくと眠るときの、あの幸せな感じの中にも、そんな物理的なものだけじゃない、あのときの体験の名残りが含まれているかもしれませんね。

【追伸】それにしても「禿げたお爺さん」の「禿げた」は要らないと思います、近藤先生。
 

 

夕暮れが早くなり、午後5時過ぎにはかなり暗くなって来た。
それでも近所の公園からは、遊ぶ子どもたちの大きな声が聞こえて来る。
近所の公園や保育所の子どもたちの声がうるさいと訴えた人がいたが、私には全くわからない反応である。
子どもたちの声をうるさいと思ったことがない。

子どもの頃育った地域は、水を張った蓮根畑に囲まれていたので、夏の夜になると蛙の大合唱であった。
相当な音量であったが、平気でグースカ寝ていた。
うるさいと思ったことがなかった。
先の人なら、これも訴えるのであろうか。

しかし、これが大人の会話の声なら十分にうるさいのである。
また、工事などの騒音であれば、言うまでもなく、うるさい。
この違いは一体どこから来るのであろうか。

子どもの声も、蛙の声も、それは生命(いのち)の声なのである。
ならば、うるさいはずがない。
いやむしろこちらの生命(いのち)も刺激されて、嬉しくなって来る。

それに対して、賢(さか)しらだって演技がましい大人の会話の声はうるさい。
工事などの騒音も、文字通り、騒音でうるさい。

残念ながら、それが感じ分けられない人にとっては、どちらもただの何デシベルの騒音にしか聞こえないだろう。

先日、近所の思春期のお兄ちゃんがシャウトする歌声が聞こえて来た。
またある日、近所の認知症のおじいちゃんの絶叫が聞こえて来た。
これもそんなにうるさくない。
その声の中にまだ、生命(いのち)の一部(全部じゃないけどね)が含まれているからであろう。

そいて、赤ちゃんの泣き声をうるさいと思うかどうか。
試されているのは私たちの方かもしれない。

 

 

「今は情報化の時代ですからね…沢山情報は何時でも、直ぐ、早く手に入るのですけれども…本当に何か自分自身の、何というか、自分の存在全体にグンとこたえるような感動、自分の心と身体全体をゆり動かすような、そういう種類の情報を我々は今日感じられるでしょうか。私はひとにこういう感動をもたらし、気づかせるのが本当の情報だと思うんです。…
情報がたとえ早く、しかも多くなっても、よほど、心を落ち着けて、どんな情報が自分にとって本当に必要か、よほどよく考えないと混乱してしまって、世界中にあふれるほどの沢山の情報があっても心の落ち着きは運んでくれないのではないでしょうか。いわんや本当の心の落ち着きのもとである安心はもたらされないのではないか、と思います。…
私は年を取ることはいいことだと思います。年を取らないと分からないことも沢山ありますし、つまらないこともあんまり感じなくて済みます。そこで『年を取らして頂いて有り難いなぁ』と思って頂きたい。若い時代は若い故に沢山の情報に敏感でつまらない事で悩んだり、苦しんだり、求めたりして、波にももまれるように暮らしているものです。それに比べれば年をとると、頑固になることに十分注意すれば、何か心が騒がず、落ち着いて来るものです。これは年寄りの有り難さなんですね。」(近藤章久講演『情報化社会は人間を救うか』より)

 

若い頃は、できるだけたくさんの情報を、できるだけ早く入手して、うまいこと立ち回りたいと思うものです。
それで、そのうまいこと立ち回って得た報酬はどれほどのものなのでしょうか。
たとえそれで天文学的な収入を得たとしても、世俗的な名声を得たとしても、それで本当の出生の本懐(自分が今回この人生に生れて来た意味)が得られるのか、ということとは別問題なわけです。
それならば、たくさんの情報を早く、というとらわれを脱して、本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報にのみ絞り込んで行くことが必要なのかもしれません。
特に若い方々にはそのことをお勧めします。
そして年輩の方々は、折角、意図的に頑張らなくても自然にガツガツ立ち回ることができなくなるようにしていただいているわけですから、
本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報だけを大事にして行くことがより容易に行いやすいわけです。
従って、老若男女を問わず、絞りましょ、ホンモノの情報に。
ホンモノの人生を生きていくために本当に必要な情報は、それほど多くないのかもしれません。

 

 

今日は令和6年度7回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目に続いて7回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

c.神経症的誇り neurotic pride

一方に於いて、「仮幻の自己」の高みに立つものにとって、あらゆる他のものは卑に見える。今や長い間の卑劣感や劣等感から免れて、他に優越、超出(ちょうしゅつ)し、栄光に包まれた存在としての自分を発見するのである。
優れて価値あるものとして自己を発見する時、おのずからそこに誇りを感じる。これが神経症的誇り neurotic pride と呼ばれるものであり、神経症的性格のすみずみに行き渡っている。だから見方によっては神経症的性格は誇りの体系とも見られる。それは神経症者の生きる様々な状況に於いて極めて敏感な、主観的な標尺(ひょうしゃく)として作用する。
彼の外に対する要求 claims に於いても、内に対する要求 shoulds に於いても、誇りの感情はいつも働き、よろこび、悲しみ、痛苦、快感等の烈しい感情的反応の源泉となる。誇りは一定の自己評価に基づいているから自信と同じ結果を与える。自信と同じ様に誇りは彼の生活を支持し、生甲斐(いきがい)を与える。
しかし、誇りは自信と違って、現実的な自己評価でなく、想像された自己の仮幻の価値にもとづいているから、当然現実に面する時傷つき易い弱点を蔵している。
この脆弱(ぜいじゃく)性を曝露(ばくろ)されることの危険を感じると、主観的な自分の価値を守る為に ー 神経症者は、その様な状況を回避したり、或は曝露され傷ついた時は、それによって生ずる屈辱感や怒りを、自分の面子(めんつ)が傷つけられたとか、正義の怒りだとか、愚なものの為に耐え忍ぶだとか、様々な口実を設けて合理化するのである。
しかし、この脆弱性は本質的なものであるから、これを守る為の様々な試みは、神経症的悪循環を増大するのみであって、解決にならないのは当然である。そして結局のところ、その様な脆弱性を持つ「現実の自己」を許し難いものとして非難し、それに対して軽蔑と憎悪を感じるのである。

 

自分が自分であることに寄り添われずに、そして、自分が自分であることを否定されて育った人間でも、やっぱり自分の存在には価値があると信じたい。
しかし、自分が自分であることに価値を認めてもらえないとなると、何でもいいから、価値がありそうなものをでっちあげて、それにすがるしかない。
それが「仮幻の自己」。
そして
そこに誇り=神経症的誇りを感じたいと願う。
しかし、「仮幻の自己」は余りにも理想的に過ぎるため、
[例]誰からも愛される、成績が誰よりも優れているなど。
満たされない度に傷つく脆(もろ)さを持っている。
そのため、その不満を他人のせいにしたり、理想の「仮幻の自己」を実現できていない「現実の自己」=今の自分のせいにして、責めたてるのである。
やっぱりそもそもの「仮幻の自己」に大きな問題があったのだ。
そして、小さい頃はしょうがなかったけれど、大人になった今は、そろそろ「仮幻の自己」じゃなくて「真の自己」を取り戻す方に舵を切りませんか、という話につながっていくのである。

 

 

子どもには、何かこう、愛を求め、愛というものを、本当にね、感じたい、幼い気持ちが、いや、子どもらしいというよりも、全人類に共通したそういうものが、心の中にあると思うんです。我々全人類っていうものはね、大人も子どももです、我々は愛というもの求め、それに渇(かわ)いている人間じゃないでしょうか。…
よく子どもは授かりものだと。そうなの。授かるって、何を授かる。自分がそれを本当に健やかに、幸せにするように、のびのびと成長さすように、そういう役割を自分は持ってる。母という役割を持ってる。そういう気持ちでね、見て下さい。だから、その生命(いのち)を汚しちゃいかん、その生命(いのち)を傷つけちゃいかん、その生命(いのち)を健やかに育てて行かなくちゃいけない。そのために私たちは、まず第一に大事なことは、自分自身の心を正直な、偽りない、偽善でなくて、本当の意味の愛というもの、正しい、本当の、正直な愛というものを子どもに対して持つ、その生命を育てて行く、ということが必要じゃないかと思う。
どうか、もう一遍繰り返しますけど、具体的にそれを言えば、子どもを認めてあげて下さい。旦那さんも認めてあげて下さい。自分を認めてあげて下さい。…
だから、結婚の愛というもの、夫は妻の生命がすくすくと育つようにするのが夫の愛です。妻は夫がすくすくと、その生命が伸びて行くようにする。これが妻の愛です。…
その根本的な愛があるならば、自分の子どもに、授かった子どもに対して、その生命を育てて行くために、一所懸命、どんない苦労しても、こんなにやりがいのあることはない、と私は思うんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

人間一人の一生の間で、まず自分一人の生命(いのち)を本当に愛し、本当に育てることができたならば、それは素晴らしいことだと思います。
そして、自分以外の生命(いのち)を一人でも、本当に愛し、本当に育てることができたならば、それはさらに素晴らしいことだと私は思っています。
ですから、
縁あって夫婦になることの本当の意義

縁あって子どもを授かることの本当の意義
縁あってわたしがあなたに出逢った本当の意義
を確かに掴み、

相手の生命(いのち)を本当に愛し、育てて行くことに、
あなたに与えられた深いミッションを感じていただきたい、と切に願うのであります。

 

 

「人間ってものは自分を認められたいという気持ちがあるんです。どんな小さな子どもでのね、認められたいんです。…
まず認めるということが、私、非常に大事だと思うんですよね。認めてもらえばね、なんとなく嬉しいんです。なんとなく嬉しい気持ちですね。それから聞くとね、悪口でも聞けるんですよ。…
認めてやる。これは甘やかすことじゃないんですよ。そこんところ、間違えずに。甘やかすというのはね、何でもかんでも賛成しちゃうことなんですよ。いいですか。…
ちょうど3歳くらいからね、5歳くらいまでの間っていうものはね、これは自律性のときなの。そのときにね、一番問題なのは、自分がそれまで思わなかった、いろんな欲望が出て来る、わかって来る、そういうときにそれをやろうとすると、なかなかそれがうまくできない場合がある、ね。そういうときに、これをですね、なんでもやらしちゃうとですね、それこそ、自分の思うことを何でもね、衝動的にやるというね、そういう人になりがちなんです。
この3歳から5歳を僕は非常に重要視するんですがね。その頃に、できないこととできること、こういうことは許されないことであり、こういうことは許されることである。それをはっきりお母さんがケジメをつけて言わないといけないと思います。…そのことがね、後に彼および彼女にとって非常な、僕は、幸せになると思うんです。つまり衝動的にならないんですね。…
けども、そのときにです、単にやかましいんでなくて、どうかね、あなた方の、これは本当に自分はいけないと思うんだと、心ね、自分の気持ち、そういうものがね、素直なね、本当に子どものためを思う愛情というものであるかどうかっていうことをまず吟味してね。…つまり、どういうことかと言えば、子どもにとって大事なことは、お母さんが本当に、正直に感じて、自分を愛して認めてくれているかどうかということが、正直にというポイントが要るわけ。口先でなくて。そういうことが一番子どもにとっては大事なことなんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

認めるということは、単に甘やかすことではない。
ケジメをつけて言うということは、単にやかましいことではない。
認めるときも、ケジメをつけて言うときも、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対する畏敬の念がなくちゃいけない。
そんな大切なものをこんなポンコツな親に託されたのだから、ポンコツなりの精一杯で、愛し、認め、ケジメをつけ、この子がこの子になりますようにと祈りながら育てなくてはいけない。
その祈る姿勢の中に、あなたの感情を超えた愛が、あなたを通して働くのである。
ですから、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対して、すべてを投げ出して合掌礼拝(らいはい)する(=手を合わせて頭を下げる)ことを強く強くお勧めします。

 

 

昨日の話をもう少し発展させたい。

昨日の説明では、
Aさんは、「超自我」(見張り番)による「強制(compulsion(コンパルジョン))」で動き、
Bさんは、「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」で動き、
Cさんは、「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」で動いた、
というように思えるが、実際はそう簡単ではない。

「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」の要素をα(アルファ)、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」の要素をβ(ベータ)、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」の要素をγ(ガンマ)
とするならば、
実際には(あくまで「例えば」の話であるが)、
Aさんは、αが7割、βが2割、γが1割で動き、
Bさんは、αが1割、βが7割、γが2割で動き、
Cさんは、αが1割、βが2割、γが7割で動いた、
という方が、より正確であると言えるのだ。

即ち、何が言いたいのかと言うと、
「超自我」(見張り番)による「強制(コンパルジョン)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「自発的自由意志(ボランティア)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「(自)我」による「自発的自由意志(ボランティア)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「天命(ミッション)」が混じっており、
「無我」ゆえに働く「天命(ミッション)」で動いたように見える人にも、それだけでなく「強制(コンパルジョン)」と「自発的自由意思(ボランティア)」が混じっている、
ということである。

最初からこう言うと、話がややこしくなるため、まず最初に昨日のように単純化した話をしたのである。
しかし、上述の方が正確であることは間違いない。

そして、この中で特に重要なのが、すべての行動に「天命(ミッション)」が入っている可能性があるということである。
どんな行動にも、本人の「超自我」(見張り番)や「(自)我」を超えた「天命(ミッション)」が働いているかもしれないという事実には、希望と光がある。

そして同様に重要なのが、たとえ最初に「思わず」「天命(ミッション)」で行動した(させられた)人であっても、
ふと「この行動はすべきであったのか」と「考え込んで」しまったり(「超自我」(見張り番)の「侵入)、
つい支援活動を褒められて嬉しくなったり、批判されてガッカリしたりする(「(自)我」の侵入)
ことがあるかもしれないのである。
こう言うと、「天命(ミッション)」が100%でないことは残念なような気もするが、
そんな「超自我」(見張り番)や「(自)我」が混じっていることが、とても「人間的」あるいは「凡夫的」であるという気もして来る。

思えば、近藤先生は、天命(ミッション)に生かされる人でありながら、非常に情の厚い方であった。
いかに悟っていても、この人間臭がないと、地上に肉を持って生きている人間として、どこか豊かでない、彩りがない、瑞々しくない、と私は感じてしまう。
そして、いつも
「煩悩即菩提」

「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」
という言葉が浮かんで来るのであった。

 

 

ある3人が被災地支援に出かけて行った。

Aさんは、内なる見張り番から「支援に行くべきである」「支援に行かなければならない」と「強制」されて出かけて行った。
内なる見張り番とは、その人が生育史の中で環境(多くは親)から埋め込まれた「~べきだ」「~ねばならない」の主(あるじ)を指す。
被災者がいると聞いて何もしないでいると、内なる見張り番から責められ、罪悪感と自責の念に苛まれて、落ち着いていられないのである。
こういう人の第一の特徴は、見張り番が自分を締め上げるのと同時に、返す刀で、他人も裁くことである。
よって、自分はやるべきことをちゃんとやっているという「自負」があり、「どうしてみんな支援に行かないのか」と支援に行かない人たちを上から目線で「裁く」。
支援に行くことは、見張り番(超自我)からの「強制」である。

Bさんは、自分の自発的自由意志によって、支援に出かけて行った。
被災者が気の毒だ、という情緒的な理由が大半を占める。
語源的にもボランティア(=自発的自由意思によって動く)に最も合致する行動である。
しかし自発的自由意志とは「(自)我」を根源とする。
よって、支援したことが余り感謝されなかったり、ましてや不満をぶつけられたりすると、たちまち気持ちが萎える。時には怒りさえ覚える。
喜ばれたい、評価されたい、が付いて回るところが我の所業らしいことろである。
誤解のないように付け加えれば、ボランティアは一般市民の善良なる思いから出るものであり、現実に大きな貢献をしていることは事実である。
そこを踏まえた上で、その行動の出どころを観抜くのが私の仕事である。

Cさんは「思わず」出かけて行った。
Cさんを通して働く力に催されて、支援に出かけて行ったのである。
よって、「~べきだ」「~ねばならない」の重さはない。
喜ばれたい、評価されたい、の粘っこさもない。
たとえ全然評価されなくても、心ない批判を浴びても、芯は揺るがない。
それは一方的な行動なのである。
そこに働いているのはミッションなのだ。
実は、先に挙げたボランティアの方々の中にも、ミッションで行動している人たちが含まれる。

「超自我」による「強制(compulsion(コンパルジョン))」でもなく
「(自)我」による「自発的自由意志(volunteer(ボランティア))」でもなく
言わば「無我」ゆえに働く「天命(mission(ミッション)」があるということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

「私ね、一番嬉しいのは、こういう仕事をしながらね、子どもをやるでしょ。お母さんが良くなっちゃう。お母さんが良くなると、お父さんが良くなる、全体が良くなっちゃう。とてもそれが楽しいんですよ、ね。で、これはね、教育っていうのは、学校でもって教育するのが教育委員会みたいですけどね。でもね、こういうふうに言いますとね、僕は医者としての、こういう仕事をしながらね、一種の社会教育だと思ってんですよ。それでね、その方がまた他の方と付き合われるでしょ。他の方もまた、そういうことで感じますね。段々とこう広がって行くね。だから私は、とっても今、自分がやってる仕事がね、教育もね、だから医学もね、ちっとも矛盾しないもんだと、こんなふうに思うんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

こういう家族から家族への、人から人への波及効果とでも言うのでしょうか、家族については私も何度か経験があります。家族の順番がちょっと違いますが。
前、思春期の子どもたちの不登校に関わっていた頃、まず最初から本人は外来には来ません来られるのは大抵、お母さん一人です。
そして、お母さんと何回も話すうちに、少しずつ少しずつお母さんが変わって来ます。
するとある日、お母さんと一緒に、本人がふらっとやって来ます。
そして本人は余りしゃべらず、最初はちらちらとこちらをみているだけですが、お母さんによれば、お母さんの変化を見て、どんな医者か一遍見てみようと思って来たとのこと。
それがポツリポツリ通って来るようになり、段々話してくれるようになります。
そして段々元気になって、顔つきまで変わって来ます
これからのことも本音で話せるようになります。
…と、忘れた頃に、お父さんがやって来て、周回遅れ、かつ、カメの歩みで成長して行きます。
大抵、お父さんは最後です。

そんなことがありましたね。
確かに、成長の連鎖はとっても嬉しいです。

 

 

ちゃんと泣いてますか?
声を出しておいおい泣いてますか?
突っ伏してさめざめ泣いていますか?
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと泣いて、「悲しみ」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

ちゃんと悔いていますか?
ああすればよかった、ああしなければよかった、ああ言えばよかった、ああ言わなければよかった、と声に出して後悔していますか?
奥歯を噛みしめ、拳(こぶし)を握りしめて、悔やんでいますか?
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと悔いて、「後悔」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

そして、ちゃんと怒ってますか?
悲しみや後悔によって、怒りは押し込められているものです。
しかし、故人への怒りも恨み言もあるはずです。
抑圧やちょろまかしもなく、ちゃんと怒って、「怒り」があなたの心から流れ出して行けば、それでいいんです。

そしてちゃんと十分に感じてあげることで、これらの感情もまた成仏して行きます。

必要な時間は、何日でも、何週間でも、何カ月でも、場合によっては、何年かけてもいいのです。
そしてそれが終わってから、今回の人生で故人と出逢った本当の意味について、ゆっくりと振り返って行きましょう。
本当の「愛」と「感謝」が溢れて来るのは後からなんです。

 

 

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