八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えられるのは、あなた方だっていうことだ。…
是非、考えていただきたいのは、お母さん方に、そのね、自分の子どもに対するね、自分の態度です。お母さんが落ち着いているということが、どれくらい大事なことか。
誰でも、ここにいらっしゃる男の方でも、思い出すだろうと思うんです。自分がまだ幼い頃、どこかで膝を、ぶっ倒れて膝を擦り剝いたとか、あるいは、誰か友だちでもって殴られたとか、そういうときに、うちへダーッと帰ってって、『お母ちゃん!』とこう言ったわけです。そうして、自分の膝をね、擦り剝いた字座を、ああ、こうやってね、あるいは、ぶん殴られたコブをね、こうさすられて、そして慰められた記憶を持たない人間はないと思う。それで子どもは安心したの。…
けれども、子どもが本当に欲している、本当の慰め、安心感、そういうことを与えられなかったならば、私は、後にしっぺ返しを喰うものと思います。
あのときに母親にこうされたことが、僕に、私にとって大きな意味があったとかね、母親がこうしてくれたことがどんなに良かったかとか、そういうことが、なんかね、男の子、女の子に限らずね、そうした思い出を持たない人はないと思うんですよ。私は、最も偉大な教育者は、何も校長先生でもなく、担任の先生でもなく、それは母親だと思うの。母親がね、本当の意味で、自分がね、生命(いのち)を預かっているということ。
だから、大きくなってよく聞くんですが、本当に私の言うことを聞かないんです。思う通りにならないんです。当ったり前ですよ。始めっからね、あなた方の思う通りにできてないの! これをね、今度はこうやるとね、こうやってこう、こっちにやったりあっちにやったりできるもんだから、お人形だと思っちゃうんだね。どうにでもできるもんだと思っちゃう。それは誤りですよ、それは。お人形と違うの! 人間は生命(いのち)を、その生命(いのち)は、その人だけしか持たない独自性があるの。こうやって、皆さん、いらっしゃるけど、あなた方の一人ひとりが、輝くような、自分だけの持つ、その生命(いのち)を持ってるんですよ、あなた方は。隣の人と比べたら違うんだ。…
そんなやたらね、安っぽく扱ってもらいたくないんだ、自分の生命(いのち)を。良いですか。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

実際の講演の中で、(子どもは)始めっからね、あなた方の思う通りにできないの!と近藤先生がおっしゃったときは、かなりの迫力でした。
また、お人形と違うの!とおっしゃったときも。
子どもを自分の思い通りにしようとする親の
なんと多いことでしょう。
そしてそれが子どもの人生に少なからぬ禍根を残すことになります。
子どもの中には最初から自分自身を実現しようとする力が与えられています。
それを邪魔しなければ、それだけで大した親です。
大抵の場合は、善かれと思って、よってたかって邪魔をしています。
そしてもし、邪魔しないだけでなく、その子がその子になることを応援できたとしたら、それは最高の親と言えるでしょう。
そしてそれができる親は必ず、自分自身のことにおいても、本来の自分を実現する方向に生きているはずです(自分のことができなくて子どものことができるはずがありません)。
従って、まずは子どもの成長の邪魔をしないこと。
そして、自分自身の成長を
目指すこと。
それができれば、間違いなく、親子ともに素晴らしい人生になると思います。

 

 

 

自分も含めて、人間というものを見ていると、なんてバカなんだろうと思う。
本当にバカ。
どうしようもないバカである。
そもそもが凡夫なんだから、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど、やっぱりバカだなぁ、としみじみ思う。

以前、緑風苑ワークショップで『意気地なし』や『よせばいいのに』などというムード歌謡曲を取り上げたことがあった。
歌詞に「バカ…バカ…あなたほんとに意気地なし」「バカね バカね よせばいいのに」とバカのオンパレードである。
で、ふと思い立って、バカに関してどんな歌(歌謡曲)=♪曲名があるのか調べてみた。
これがまた実に多い!


まず
『♪馬鹿みたい』
『♪バカでしょ』
『♪バカね』『♪馬鹿ね。』『♪馬鹿やね』
「みたい」とか「でしょ」とか「(や)ね」なんて付けてるようじゃあ、まだ認識が甘い。

そして
『♪馬鹿』
『♪馬鹿な私』『♪僕はバカ』
と来ると段々ストレートになって来て、
さらに
『♪ばかやろう』『♪バカやろう』『♪バカ野郎』『♪バカヤロー』
果ては
『♪大バカ者』
『♪馬鹿は死んでも直らない』

にまで行けば大したものである。

また
『♪女って馬鹿なのね』『♪馬鹿な女』
というのもあるが、大丈夫です、男も十分にバカです。

しかし
『♪ばかだから…』『♪バカだから』
となると、ちょっと開き直りの臭いがして来るし、

『♪馬鹿よ貴方は』
『♪馬鹿野郎はおまえのほうだ』
『♪馬鹿たれあいつ』
『♪馬鹿ばっか』
となると、自分のことよりも他者攻撃に転じて来る。

番外としては
『♪馬鹿なくせして』
となると、ちょっと屈折した哀しみが入り、
最後に

『♪あなたに出会って馬鹿になりました』
となれば、これもひとつの境地である。
(実際には初音ミクの歌う切ないラブソングでした)

今度、ワークショップが復活したら、こんなバカの歌をみんなで歌ってみましょうかね。
 

 

奈良・東大寺の法華堂(三月堂)。
ここにはたくさんの仏像があるが、例えば、日光菩薩と月光(がっこう)菩薩(日光仏、月光仏ともいう)。
比べれば、やっぱり月光菩薩が良い。
霊性が違うんだよね。
(現在は東大寺ミュージアム所蔵。この二像を梵天、帝釈天とみる向きもあるが、造形の話ではなく、霊性の点からすれば、月光菩薩の霊性が高く、また我々の霊性にもしっくり来る)
かつて日本郵便から国宝シリーズの15円切手として発行されたのも、両者のうち月光菩薩だけであった。わかってるね、日本郵便。

雲ひとつない空に太陽がカーッと輝(かがや)いている、でも良いのだけれど、なんか違うんだよね。そうじゃないんだよね。
インド生まれの大日如来も良いけれど、
弥生生まれの(渡来系の影響を受けた)天照大御神も良いけれど、
やっぱり、遍く光り照らす力強き太陽、じゃあないんだよね。

(直接でなく)月に反射した光とか、
雲間から漏れ射すような一筋の光とか、
寒い冬のほんのりあったかい光とか、
そんなのが我々の霊性にはしっくり来る。
先の月光菩薩にもそんな佇(たたず)まいがある。

 

冬の陽を浴びながら、そんなことを思っていました。

 

体験に属することを文章で書くのは難しいけれど、もしご関心と機会がありましたら、東大寺ミュージアムで日光菩薩と月光菩薩を観比べてみて下さい。

 

 

仕舞っていたハイカットのスニーカーを出してみたら、ソールに穴が開いていた。
修復できそうにない大きさなので廃棄することにした。
これだけ何年も(五年以上?)履いて、履き潰したのだから、寿命だと思った。

冬物のセーターを出してみたら、経年劣化の上、ほつれだらけ、穴だらけになっていた。
繕いもして来たが、これはもう着れないと思い、廃棄することにした。
これだけ何年(十年?下手をすると二十年?)も着て、着倒したのだから、寿命だと思った。

このように使い尽くし、使い倒して、ようやくそれぞれの mission conpleted という気がして来る。

『中庸』の中に「能(よ)く物の性を尽くす」という言葉がある。

その物をちゃんと使い尽くす、使い切ることが、その物の性を尽くすことになる。

そう言えば、昔、どこかの博物館で、粗末に扱われて捨てられた物が妖怪になるという『付喪神(つくもがみ)絵巻』を観たことがある。
やはり物の性を尽くしともらわないと、物も恨めしいことになるらしい。

…などと思って、『中庸』を見返してみると
「能く物の性を尽くす」
の前に、人の性を尽くすことが書いてある

「能く人の性を尽くせば、能く物の性を尽くす」

失礼しました。

我ら人間も、折角、授かった生命(いのち)。
その本分をちゃんと使い尽くしましょう。

 

 

初めて「愛見煩悩」という言葉を聞いたときに驚いた。
そんな言葉が既にあったのか。
自分が長年考えていたことを、当たり前のように、ズバッと示された気がした。
特に仏教を学んでいるときに時々起こることであるが、驚くと同時に、そんな言葉を残した先人たちと何百年、千年、二千年の時を超えて、話をしているような気がして来て、有り難く、嬉しくなるのである。

で、「愛見煩悩」。
そもそも、我々の精神性を考える場合に
(1)理性(知性)
(2)感情
(3)霊性
の三層をもって考えていた。

それぞれにそれぞれの役目があるのだが、この世界の真実、人間の精神世界の真実を掴むには、理性(知性)で考えることや、感情で感じることでは、到達できないと思っていた。
そう。
思考では、絶対的真実は掴めない。
感情でも、絶対的真実は掴めない。
それは霊性的直観によらなければならない。
しかるに、思考や思索によって絶対的真実に到達したかのような思い上がりや、単なる情緒的体験を何か深い体験をしたかのように勘違いする輩が多過ぎるのである。

これはわかる人にはわかるが、わからない人にはわからない話であるが(従って、これを理性でもって皆さんに説明しようとは思わない。理性で説明できるはずがない)、
少なくとも「愛見煩悩」という言葉は、
「愛」=感情

「見」=思考
とが煩悩であると、ズバリと、そしてアッサリと、斬って捨てている。
即ち、理性と感情は真実に到達する道ではなく、むしろ障害になる。
これは気持ちが良い。
それでいて、「で、何が真実に到達する道なのか」は言っていない。
そこで出て来るのが「霊性的直観」なのである。

そういう意味では、「霊性的直観」と言ってみても、それだけでは単なる符牒に過ぎない。
あなたには本当に「霊性的直観」の“体験”がありますか?と迫って来るものがあるのである。
それがわからないと、その体験がないと、この世界は、人間の精神世界は、イリュージョンのままなのである。

少なくともあの妙好人たちは、愛見煩悩によらず、霊性的直観によって真実を体験している。
畏るべし。

 

 

今日11月22日は、世間では「いい夫婦の日」とのこと。

事情通によれば、そもそもは1988(昭和63)年、旧財団法人・余暇開発センター(現公益財団法人・日本生産性本部)が「夫婦で余暇を楽しむゆとりあるライフスタイルを提案する」ために制定したという。
悪くはないが、「いい夫婦」の「いい」が、「余暇を楽しむゆとり」というだけの意味ではちょっと物足りない気がする。

この広い世界の中で、折角二人が出逢って、一緒の人生を生きて行くのだから、
ラブラブでも、おもしろおかしくでも、金品豊かでもいいけれど、
やっぱり、お蔭さまで、わたしがわたしになれました、あなたがあなたになれました、わたしがわたしとして生まれて来た意味と役割を果たせました、あなたがあなたとして生まれて来た意味と役割を果たしました、という互いの人間的成長に資する関係でないとつまらない、もったいない、と私は思うのであります。

そして今どきで言うと、狭義の「夫婦」を超えて、「パートナー」でも「恋人」でもいいし、「縁あって一定以上深い関係にある二人」という意味に拡大しもいいんじゃないかと思っている。
結局、「人と人との出逢いの意味」ということにつながっていくのだと思う。

そして年に1回くらい、お互いがお互いのために、せめて心の中で、手を合わせて頭を下げ、こう祈ってみても、バチは当たらないんじゃないでしょうか。

いろいろごめんなさい。
いろいろありがとう。
あなたがあなたになりますように。
あなたがあなたとして生まれて来た意味と役割を果たせますように。

 

 

 

路線バスに乗っていた。
かなり混み合っている。
あるバス停に着く。
何人か下車して、もう一人若い女性が下車しようとしたところで、運転手はドアを閉めて発車しようした。
女性が「あ、降ります。」と言うも、声がか細くて運転手に届かない。
無情にもバスは発車してしまった。
気まずそうにしている女性。

ああ、昔の自分なら、あの女性と同じ顛末になっただろうな、と思う。
抑圧が働いて、十分な声が出なかったのだ
言うなら言う、言わないなら言わない、がはっきりしなかった。
今なら「降ります!」ても「降ろしてくれ!」でも、大声で何でも言えるのだが、かつての私も、言ってるんだか言ってないんだか、全てが半身であった。

そして、そこからさらに、「で、どーする。」という問題が起こって来る。
まず、乗客はみんな沈黙していた。
誰かが「あ、降りる人がいまーす!」
と言ってあげても良かった。
そう言えなかった人にも、五十歩百歩の抑圧が働いていたと言える(そうでなければ冷酷である)。

その上で、以前申し上げたことを思い出していただきたい。
彼女は大人である。
子どもでも認知症高齢者でも言えない障害がある人でもない。
となれば、やたらと手助けすることは、大人の彼女が持っている力(潜在能力も含めて)を侮(あなど)っていることになる。
彼女自身が自分ではっきりと言えるようになることこそが重要なのだ。

ここを踏まえた上で、
まあ、今回だけは助け舟を出してあげるとするか、ということで「降りる人がいまーす!」と言ってもいいし、
いつでも「降りる人がいまーす!」と言えるのだけれど、敢えて黙っていて(抑圧で言えないのではない)、彼女の未来の成長を願って言わないでいるのもいい、と私は思う。
そして、どっちを選ぶかは、“私”や“あなた”が考えて決めるのではなく、“おまかせ”である。
あなたを通して働く力が、「言え!」というなら言うし、「言うな!」というなら黙っている、のである。
どうせなら、その境地まで行きたいね。

 

 

「赤ん坊はまだはっきり、目、耳、鼻、いろんなことがはっきりしません。そのときに、一番最初にはっきりして感じるのは、この肌、接触、肌なの。だから、非常にその接触が大事なんです。
その接触が大事なんだけども、近頃はどうかというと…日本の女の人も…授乳をしますと…胸の…形が悪くなるわけ。だから、したくないでしょ。そうすると、授乳をしなくて人工栄養をやるわけね。子どもにとってはね、お母さんの肌というものを感じないわけ。まずお母さんの母乳を知らない、母乳を飲むことができない。どんなね、人工的な素晴らしい栄養ができても、母乳に勝るものはないです。…
大体ね、人間誰でも、赤ん坊でもそう、大きくなっても、あなた方、わかるでしょ。お腹が減ったときに一番イライラするね。…この飢えと渇きと、そういうものは、みんな人間をイライラさせるの。
そういうのと同じように、赤ちゃんも、本当の意味で、良い母乳を与えられると満足するんだけども、そういうものが与えられないとイライラするわけです、ね。…
それで、もうひとつ…こうやって今度は…肌に付いて、母親の肌をしたときに、母親の胸のあったかさを感じますね。ここらの男性に訊いてごらんなさい。奥さんの胸に、自分の顔を寄せたときに、なんとも言えない安心感を持つんだから。どんな禿げたお爺さんでも(笑)。…俺はそんなことないよ、なんて言うかもしれないけども、しかし、それはやはり、奥さんの温かいね、胸の中にこうやって、なんとも言えない、それは、安心感を持つの。良いですか。女性はそれに自信を持って下さいよ。良いですね。
その元はどこにあるかというと、赤ん坊のときにですね、お母さんの胸に抱かれて、ほの温かく、本当に、お腹の方もいっぱいになって、あったかくて、良いですか、気持ち良くフーッと眠った。この、なんとも言えない安心感、あったかさ、満足感。こうしたものが一番、この、基礎になってる。これが人間の安心感、ね。そういうものの元になってる。…

あなた方は若いから…第二次世界大戦っていうのを…ご存じないかもしれない。…あのときの若い、例えば、特攻兵とか、十八か十七の子どもも行きました。その子どもが出て行くときに、『お母さん。』と言って出て行ったもんです、ね。これから死ぬ前に、最後に言った言葉は、みんな『お母さん。』ですよ、ね。それぐらいね、子どもにとって母親っていうものはね、自分の本当の安心の源になるんです。…
で、良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えるのは、あなた方だっていうことだ。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

母乳が与えるもの。
ひとつには、飢えと渇きを満たす栄養。
そしてもうひとつが、触れる胸から感じる安心感。
これが我々の原体験にある。
世のお母さんたちは、どうぞどうぞ我が子たちにその体験をたっぷりさせてあげて下さい。
そして、本格的な寒さがやって来るこの季節。
あったかいものを食べて、肌触りの良い布団にくるまってぬくぬくと眠るときの、あの幸せな感じの中にも、そんな物理的なものだけじゃない、あのときの体験の名残りが含まれているかもしれませんね。

【追伸】それにしても「禿げたお爺さん」の「禿げた」は要らないと思います、近藤先生。
 

 

近所の居酒屋さんが明日で店を閉めるのだという。
コロナ禍も生き残って来た店であるのに非常に残念である。
年輩の大将一人とアルバイトの子二人くらいで切り盛りする小さなお店であるが、このお店の魚料理は抜群に美味しく、都心でもなかなか食べられないレベルの刺身、煮魚、焼魚が、徒歩圏内で気軽に食べられるというのは大変に有り難かった。
月曜定休の店であったが、月曜の夜に店の前を通ると、半開きのシャッターの奥の厨房に灯りがつき、大将が下ごしらえをしているのがわかる。
これじゃあ、休みがないでしょ、と思うのだが、果たして出て来た料理を見ると、いつもひと手間の仕事がしてあった。
また、料理が出るのが遅れると必ずお待たせして申し訳ないと言い、雨の日に伺うと、足元の悪い中ありがとうございます、と言う律儀な大将であった。
目立たない市井の中にも、良い仕事をする人はいるものである。
閉店の理由を訊くのも野暮なので、今夜はこの店ならではの肴を並べ、日本酒で最後の名残りを惜しんだ。
ああ、やっぱり美味い。
お勘定の後、わざわざ店の外まで見送ってくれ、
「コロナのときもお弁当を買いに来ていただいて。」
とこちらが忘れたことまで覚えている、やっぱり律儀な大将でした。

本当にごちそうさまでした。

 

魚難民としてしばらく流浪することになるだろうなぁ。

 

 

ある高名な経営者が「当座買い」ということを推奨されていた。
余計な在庫を持たず、必要なときに必要なだけ買えばいい、という考え方である。
主婦(主夫)の“お買い物”感覚では、確かに「まとめ買い」の方が“お得”なことが多く、市民生活においては。それで結構なのであるが、
会社経営においては、手元に1円でも多くの現金を残すことが何よりも重要とされる。
キャッシュがショートしたときに会社は倒産するからである。
よって、“お得”でも出費の多い「まとめ買い」よりも、“割高”でも出費の少ない=手元に残る現金が多い「当座買い」の方が推奨されるのである。
なるほどと“理性的に”合点がいった。

さらに、在庫が少ない方が物を大切に使うということも「当座買い」の利点として挙げられている。
これは“理性的に”ではなく、“感覚的に”、そうだよな、とわかる。
まだたくさんあるからいいや、と思うと、扱いがぞんざいになり、丁寧に使い切らずに捨ててしまったりする。
みなさんも思い当たる節があるだろう。

そんなことを考えながら、新しく購入した来年の手帳に予定と引き継ぎ事項を記入していたら、ふと気がついた。
この作業をあと何年やれるのだろうか。
この年になると“実感”を持って感じられる。
あと1年、あと1か月、あと1週間、あと1日、あと1時間、あと1分、あと1秒、生きている保証はどこにもない、だから与えられた時間は大切に、ということは“理性的に”は若い頃からわかっていたが、“実感”がなかった。
今は“実感”がある。
残りが少ない方が大切に扱うのだ、ここでも。
本当に「わかる」とは、こういうことをいうのだと思う。

 

 

政治家は自分が国民よりもわかっていると思っている。
教師は自分が生徒よりもわかっていると思っている。
親は自分が子どもよりもわかっていると思っている。
医者は自分が患者よりもわかっていると思っている。

敏感な人はお気づきでしょう。

それほど
政治家も
教師も
親も
医者も
偉くない。

政治家は国民から学び、
教師は生徒から学び、
親は子どもから学び、
医者は患者から学びながら、
成長して行くのである
一緒に。

 

 

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此(こ)の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業(たいぎょう)は成し得られぬなり。」(『西郷南洲遺訓』)

西郷南洲(隆盛)の残した有名な言葉である。
この言葉についてちょっと書いてみたくなった。

そもそも人間が執着しそうなものとして、金、社会的地位、名声があるが、最も執着するのが自分の命である。
それは生物学的な命であると共に、自我意識(自分が今ここに存在しているという意識)ということでもある。
従って、その命も自我意識も要らない、失って結構、投げ出して結構、となると、もうそれ以上に失うものはないので、恐いものは何もなくなる、ということになる。
よって、国家の大業でも果たすことができる。

それが何も国家の大業でなくともよい。
人それぞれに今回の命を与えられた意味と役割がある。
そのために授かった命であるから、そのために死ぬのであれば、それは元より本望であろう。
逆に天命を果たさずして、金を得ようと、社会的地位を得ようと、名声を得ようと、長生きしようと、その人生に何の意味があるというのか。

 

ところで

今回の人生における

あなたのミッションは何ですか?

 

小心翼々とうまいこと立ち回って、私利私欲に走るのが当たり前の現代。
この国にはそんな先人もいたのだ、ということを忘れないでいただきたいと願う。

 

 

私も生まれつきはバリバリのお調子者だったと思う。
幼少期のそんな写真がいくつも残っていた。
そのままに育てっていたら、随分と愉快で能天気な大人になっていたであろう。

しかし、あの劣悪な生育環境の中で生き残るために、止むを得ず、陰を薄くし、気配を消すことを覚えた。
目立てば、不意に酷い攻撃を浴びる危険性がある。
そして元気のない従順な子どもができあがった。
そうしてそのまま、気配を消す一辺倒で生きていくのであれば、それはそれで(幸せでがないが)簡単にやっていけたかもしれない。

しかし親からの要求はそこに留まらなかった。
一方で親に対する完全服従を要求しながら、他方、特に家庭外、学校で“できる”“目立つ”生徒になることを要求された(これは親の虚栄心を満たすためである)。

これには苦労した。
影の薄い人間と、存在の濃い人間の両方を演じ分けなければならなかった(いずれにしても演じていたのである)。
その結果、学業優秀、学級委員、運動部部長、生徒会長などをやりながら、今でも覚えているのは書道の先生からいつも「松田くんは元気のない字を書くなぁ。」と言われた。

それからの紆余曲折は、長くなるので省略するが、結局のところ、近藤先生との出逢いのお蔭で、自分を取り戻すことに成功したのである。
だからもう気配を消したり、存在を打ち出したりすることはなくなった。
今は今の自分の気でいられる。
しかもそこそこお調子者でもある。

普通ならこれでそれでめでたしめでたしなのであるが、そうはいかなかった。
近藤先生に接していると、存在の気迫が違うのである。オーラの強さが違うのである。
そしてそこに意図的なものは全くない。
近藤先生を近藤先生させている気が凄まじいのである。
自然体でこういう人もいるんだなぁ。
そしてそれが今の自分の目標となっている。
意図的な臭みや我の臭みなしで、確かに存在すること。確かに存在させられていること。
そのときにようやく松田仁雄は本当に松田仁雄になったと言えるのであろう。

 

 

夕暮れが早くなり、午後5時過ぎにはかなり暗くなって来た。
それでも近所の公園からは、遊ぶ子どもたちの大きな声が聞こえて来る。
近所の公園や保育所の子どもたちの声がうるさいと訴えた人がいたが、私には全くわからない反応である。
子どもたちの声をうるさいと思ったことがない。

子どもの頃育った地域は、水を張った蓮根畑に囲まれていたので、夏の夜になると蛙の大合唱であった。
相当な音量であったが、平気でグースカ寝ていた。
うるさいと思ったことがなかった。
先の人なら、これも訴えるのであろうか。

しかし、これが大人の会話の声なら十分にうるさいのである。
また、工事などの騒音であれば、言うまでもなく、うるさい。
この違いは一体どこから来るのであろうか。

子どもの声も、蛙の声も、それは生命(いのち)の声なのである。
ならば、うるさいはずがない。
いやむしろこちらの生命(いのち)も刺激されて、嬉しくなって来る。

それに対して、賢(さか)しらだって演技がましい大人の会話の声はうるさい。
工事などの騒音も、文字通り、騒音でうるさい。

残念ながら、それが感じ分けられない人にとっては、どちらもただの何デシベルの騒音にしか聞こえないだろう。

先日、近所の思春期のお兄ちゃんがシャウトする歌声が聞こえて来た。
またある日、近所の認知症のおじいちゃんの絶叫が聞こえて来た。
これもそんなにうるさくない。
その声の中にまだ、生命(いのち)の一部(全部じゃないけどね)が含まれているからであろう。

そいて、赤ちゃんの泣き声をうるさいと思うかどうか。
試されているのは私たちの方かもしれない。

 

 

「今は情報化の時代ですからね…沢山情報は何時でも、直ぐ、早く手に入るのですけれども…本当に何か自分自身の、何というか、自分の存在全体にグンとこたえるような感動、自分の心と身体全体をゆり動かすような、そういう種類の情報を我々は今日感じられるでしょうか。私はひとにこういう感動をもたらし、気づかせるのが本当の情報だと思うんです。…
情報がたとえ早く、しかも多くなっても、よほど、心を落ち着けて、どんな情報が自分にとって本当に必要か、よほどよく考えないと混乱してしまって、世界中にあふれるほどの沢山の情報があっても心の落ち着きは運んでくれないのではないでしょうか。いわんや本当の心の落ち着きのもとである安心はもたらされないのではないか、と思います。…
私は年を取ることはいいことだと思います。年を取らないと分からないことも沢山ありますし、つまらないこともあんまり感じなくて済みます。そこで『年を取らして頂いて有り難いなぁ』と思って頂きたい。若い時代は若い故に沢山の情報に敏感でつまらない事で悩んだり、苦しんだり、求めたりして、波にももまれるように暮らしているものです。それに比べれば年をとると、頑固になることに十分注意すれば、何か心が騒がず、落ち着いて来るものです。これは年寄りの有り難さなんですね。」(近藤章久講演『情報化社会は人間を救うか』より)

 

若い頃は、できるだけたくさんの情報を、できるだけ早く入手して、うまいこと立ち回りたいと思うものです。
それで、そのうまいこと立ち回って得た報酬はどれほどのものなのでしょうか。
たとえそれで天文学的な収入を得たとしても、世俗的な名声を得たとしても、それで本当の出生の本懐(自分が今回この人生に生れて来た意味)が得られるのか、ということとは別問題なわけです。
それならば、たくさんの情報を早く、というとらわれを脱して、本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報にのみ絞り込んで行くことが必要なのかもしれません。
特に若い方々にはそのことをお勧めします。
そして年輩の方々は、折角、意図的に頑張らなくても自然にガツガツ立ち回ることができなくなるようにしていただいているわけですから、
本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報だけを大事にして行くことがより容易に行いやすいわけです。
従って、老若男女を問わず、絞りましょ、ホンモノの情報に。
ホンモノの人生を生きていくために本当に必要な情報は、それほど多くないのかもしれません。

 

 

味方のいない家庭で育った子どもは、当然のことながら、全部を自分の小さな頭と心で考えて対処するしかなかった。
そうなると、元々が偏りのある家で育って来た上に、一人で考えて来たものだから、いろいろなことに間違い・勘違い・思い込みが入り込む。
そして、それは本人一人で気づけることではないし、そんなことについて深く話す相手もいないものだから、修正されないままに大人になることになる。
それじゃあ、社会生活で生きにくくなるに決まっているよね。

面談をしていると、よくそんな方にでくわす。
「おっと、そこは勘違いだね。実はこうなんだよ。」
「それが有効だったのはお母さんとお父さんに対してだけだね。健全な人間関係では…。」
「いやいや、あなたが本当に感じているのは…。」
時には、何重にも間違い・勘違い・思い込みが層をなして絡み合い、これはどこから手を付けたらいいのか、と途方に暮れそうになるときもあるが、信頼さえしてくれれば、それでも薄皮を剥がすように余計なものが取れて行き、その度に本人も生きることが楽になり、そして、どの方向を目指して生きて行けばいいかが見えて来て、安心を実感するようになる。
それが体験できれば、この道で間違いない、この世界で私も私を生きて行けるようになれるかもしれない、という希望が生まれる。
そしてその希望が、さらに次の一歩への原動力となる。

そういうことが起こるのは、決して私の“正解”にその人を導いているのではない。
その人の中にある“正解”にその人が導かれて行くのである。
導くのは“私”ではない。
私を通して働く力と、その人を通して働く力とが、導いてくれるのである。

 

 

子どもがおねしょをした。
お母さんはギャンギャンと怒った。
「何やってんの!」「本当にもうあんたは!」「お母さんがどれだけ大変かわかってんの!」
おねしょは本人がわざとやっていることではないため、怒られても途方に暮れるしかなく、あ~あ、自分はダメだなぁ、と子どもの自己評価を下げることになる。

子どもがおねしょをした。
お母さんは盛んに言った。
「大丈夫、大丈夫。」「おねしょなんてどうってことないから。」「気にしなくていいからね。」「大したことない、ない。」「心配いらないよ。」
子どもはポカンとした顔で聞いていたが、母親が余りに言うので却って、自分は大変なことをやってしまったのか、と気になってしまった。
演技的オーバーアクションは嘘くさくなる(実はお母さんが気にしていることがバレてしまう)のでしない方がいい。
子どもの直観は侮(あなど)れない。

子どもがおねしょをした。
お母さんはあっさりと
「大丈夫よ。」「さ、着替えて。」「お布団も洗って干しましょうね。」
と言っただけで終わり(本音でそれだけ)。
子どもの自己評価が下がることもなく、疑心暗鬼になることもない。
それよりも何よりも、子どものおねしょなんかで揺るがない母親の愛を感じる。

ちなみに、「おねしょ」が「夜尿症」になって「症」が付いて来ると、ちょっと意味が違って来る。
「夜尿症」の定義は、
1.年齢:5歳以上
2.頻度:1カ月に1回以上が、3カ月以上続く
であり、1週間に4回以上となると「重症度」が「頻回」となる。

そして、有病率は、5歳:15%、6歳:13%、7歳:10%、8歳:7%、10歳:5%、12~14歳:2~3%、15歳以上:1~2%、と少なくない。
いろいろな場合があるので、心配な親御さんは小児科医に相談しましょう。

で、最後に大事なことをひとつ。
上記のように、お母さんが子どもに愛情を持って接することができるようになるためには、お母さん自身もまた愛される必要がある。
お父さんはもちろん、(心理的に)お母さんの近くにいる人たちは、一所懸命に生きているお母さんを非難するのではなく、愛しましょう。

愛されて初めてその人は本来のその人を発揮します。

 

 

今日は令和6年度7回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目に続いて7回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

c.神経症的誇り neurotic pride

一方に於いて、「仮幻の自己」の高みに立つものにとって、あらゆる他のものは卑に見える。今や長い間の卑劣感や劣等感から免れて、他に優越、超出(ちょうしゅつ)し、栄光に包まれた存在としての自分を発見するのである。
優れて価値あるものとして自己を発見する時、おのずからそこに誇りを感じる。これが神経症的誇り neurotic pride と呼ばれるものであり、神経症的性格のすみずみに行き渡っている。だから見方によっては神経症的性格は誇りの体系とも見られる。それは神経症者の生きる様々な状況に於いて極めて敏感な、主観的な標尺(ひょうしゃく)として作用する。
彼の外に対する要求 claims に於いても、内に対する要求 shoulds に於いても、誇りの感情はいつも働き、よろこび、悲しみ、痛苦、快感等の烈しい感情的反応の源泉となる。誇りは一定の自己評価に基づいているから自信と同じ結果を与える。自信と同じ様に誇りは彼の生活を支持し、生甲斐(いきがい)を与える。
しかし、誇りは自信と違って、現実的な自己評価でなく、想像された自己の仮幻の価値にもとづいているから、当然現実に面する時傷つき易い弱点を蔵している。
この脆弱(ぜいじゃく)性を曝露(ばくろ)されることの危険を感じると、主観的な自分の価値を守る為に ー 神経症者は、その様な状況を回避したり、或は曝露され傷ついた時は、それによって生ずる屈辱感や怒りを、自分の面子(めんつ)が傷つけられたとか、正義の怒りだとか、愚なものの為に耐え忍ぶだとか、様々な口実を設けて合理化するのである。
しかし、この脆弱性は本質的なものであるから、これを守る為の様々な試みは、神経症的悪循環を増大するのみであって、解決にならないのは当然である。そして結局のところ、その様な脆弱性を持つ「現実の自己」を許し難いものとして非難し、それに対して軽蔑と憎悪を感じるのである。

 

自分が自分であることに寄り添われずに、そして、自分が自分であることを否定されて育った人間でも、やっぱり自分の存在には価値があると信じたい。
しかし、自分が自分であることに価値を認めてもらえないとなると、何でもいいから、価値がありそうなものをでっちあげて、それにすがるしかない。
それが「仮幻の自己」。
そして
そこに誇り=神経症的誇りを感じたいと願う。
しかし、「仮幻の自己」は余りにも理想的に過ぎるため、
[例]誰からも愛される、成績が誰よりも優れているなど。
満たされない度に傷つく脆(もろ)さを持っている。
そのため、その不満を他人のせいにしたり、理想の「仮幻の自己」を実現できていない「現実の自己」=今の自分のせいにして、責めたてるのである。
やっぱりそもそもの「仮幻の自己」に大きな問題があったのだ。
そして、小さい頃はしょうがなかったけれど、大人になった今は、そろそろ「仮幻の自己」じゃなくて「真の自己」を取り戻す方に舵を切りませんか、という話につながっていくのである。

 

 

電話に出られない、かけられない若者が増えているという。
その気持ちもわからないではない。
いやいや、わからないどころか、私も若者の頃にはその傾向があったと思う。
思えば、未知の相手とのコミュニケーションに不安があったのであろう。

相手はどんな人だろうか。
自分はちゃんとコミュニケーションを取れるだろうか。
相手の意を害さないであろうか。
相手の意に添わないと、非難され、攻撃されるのではなかろうか。
ああ、面倒くさい。
回避したい。

根底にはそんな不安と恐怖がある。

何故そうなるのか、そうなってしまったのか。
生まれつきのはずはない。
単なる経験不足なら、経験によって急速に改善するはずであるが、なかなかそうはならない。
それは、そのままの自分の不用意な言動を非難・攻撃されて来た歴史があるからである。
誰からか?
おわかりであろう。
それも多くは、すぐに児童相談所に通報されそうな虐待によってではない。
当人たちもそれと気づかないマルトリートメント(maltreatment)=子どもへの不適切な関わりは、日常生活の中で密(ひそ)やかに行われ、子どもは小さなパンチを受け続けて行く。

そうして、電話よりも安全距離があり、ダイレクトでない、LINEなどのSNSが選ばれるのである。
最近は、仕事の退職の申し出もLINEで済まされる。
退職代行サービスも、安全距離が保たれ、ダイレクトではない点では同様である。
恐くて直面化できない。

これまた子どもの頃ならそれもしょうがない。
しかし成人になってからは、自分の責任だからね。
相手の反応によらず、いつでも、どこでも、誰の前でも、自分でいられるようになることを目指すか・目指さないか、
それはあなた次第。
折角、世界に一人、一回だけの人生を授かったのだから、自分を生きて死にませんか?

ここでもまた、心からそうなろうとする人には応援団がいることを知っておいて下さい。

 

 

ダチョウは危険が迫ると、頭を砂の中に隠して危険をなかったことのようにする、という。
思い浮かべると滑稽な姿である。
そこから、都合の悪いことから目を背ける姿勢のことを「オーストリッチ(ダチョウ)効果(ostrich effect)」というそうな
精神分析的に言えば「否認(denial)」ということになる。

ダチョウの名誉のために言うならば、実際のダチョウはそんなことはしない。
ダチョウが聞いたら怒るだろう。

しかし、人間はやる。
都合の悪いことから目を背ける。

それも、小さくて弱い子どもは仕方がないと思う。
辛い
現実から目を背けて誤魔化さないとやってられないんだもの。

しかし、大人がやるのはいかがなものか。
そのときだけちょろまかしたところで、問題は全く解決していないし、
すぐその場で破綻しなければ、うやむやのうちに時は過ぎ、後で破綻することになる。
「オーストリッチ効果」は「先送り」とセットになりやすい。
不登校、引きこもり、8050問題。
健診や人間ドックを受けず(受けても結果を放置し)/体の不調も放っておき、気がついたら大変なことになっている。
などなど、例には事欠かない。

まず、せめて「情けなさの自覚」を持とうよ。
「オレって(ワタシって
)しんどいことが起こると目を背けて誤魔化すよな、逃げるよな。とほほ(あ~あ)。」と。
そして次に「成長への意欲」を持とうよ。
「誤魔化さないで、逃げないで、向き合えるようになりたい、直面化できるようになりたい。成長したい。」と。
そうなれば、やることがある、できることがある、いくらでもある。

そして最後は大人の責任。
まだ逃げます? 向き合います?
その結果は容赦なくあなたの人生に返って来る。
最早子どもではない大人のあなたの責任。

せめて向き合おうとする人には応援団がいることを知っておいて下さい。

 

 

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