テレビをつけると、あるドラマをやっていた、
少し前のことなので、題名もあらすじも忘れてしまったが、今でも覚えている設定がある。
主人公の女性は、人生の多数派の流れにうまく乗れず、自己評価が低く、うつむきがちで、声も小さく、自己主張(自我主張)も弱く、生活できる最低限を細々と働いて、ひっそりと生きている、といった調子の設定であった。
私として気になったのは、そのドラマの脚本が、そんな生き方もありだよね、そんな生き方も良いよね、という、こんな生き方の本人寄り添いの描き方だったことである。

違うってば。
それは良くないよ。

もちろん、人生の多数派の流れに乗る必要もないし、細々と働いて、ひっそりと生きていて行くことに何も問題はない。
バカみたいに元気に生きる必要もないし、ガンガン自己主張(自我主張)する必要もない。
そうではなくて、
問題は、この人がこの人を生きている気がしない、というところにある。
これは致命的だ。
この人の本来の生命(いのち)が生きていない。
これでは立派な神経症(的パーソナリティ)である。
これをあたかも“健全な”生き方の選択肢のひとつであるかのように肯定するわけにはいかない。

かつての、あるべき生き方に対して、アンチあるべき生き方が出て来たことに、私は反対どころか、大賛成である。
しかし、だからといって、アンチ多数派、アンチ主流派がすべて正しいというわけにはいかない。

本来自分は何者なのか。
一回しかない人生を、何をして生きて死ぬのか。
自分が生まれて来た意味と役割は何なのか。
そこに着地しなければ、自分に生まれて来た甲斐がない。

先のドラマの女性は、ただ弱々しく、逃げて、隠れて、溜め息ついて、本来の自己を生きていないのである。
そして、それをよしよししてあげることは、この人を殺すことになる。
そしてドラマの中では、優しき“理解者”たちによしよしされていた…。
おいおい。

ドラマの話なんだけどね。
ドラマでだけだよね?

 

 

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