前々から体調の悪さを自覚しながら、なかなか医療機関を受診しなかった。
いよいよもう我慢も限界となって受信したら、既に手遅れとなっていた。
子どもの不登校、ひきこもりがありながらも、お茶を濁す程度にしか相談機関を利用せず、子どもとは、何度かの大喧嘩はあったが、徹底的には勝負しなかった。
そして気がついたら、8050問題になっていた。
思春期頃から生きる辛さを感じていたが、ちゃんと医療機関や相談機関を利用したことがなかった。
そしてなんとなく対人援助職に就いたが、そこで却って自分の問題が先鋭化して来ることになった。
そして、これからも誤魔化し誤魔化しやり続けて行くのか、ここらで自分と勝負するのかという分岐点に追い詰められているという自覚はあるが、次の一歩が出ず、今も時間だけが過ぎ去っている。
大事なことを何故先送りにするのか、直面化しないのか。
ひとつには、本音を表出することを阻害されて来た歴史がある。
本当の思いを、特に怒りや悲しみを、そのまま出して、親から掬(すく)い取ってもらった経験に乏しかった。
むしろそのまま出すと潰された、否定された、無視された。
小さくて弱い子どもがそんなことをされれば、なかったことにして、もうそれ以上向き合わないようにして、先送りする方法を身につけるしかないだろう。
だから、直面化するには、相応の勇気とエネルギーが必要となる。
そしてもうひとつには、そうやって寄り添われずに育った人間の持つ、否定的なセルフイメージがある。
先送りして先送りして遂に先送りできなくなったときに陥る、その惨憺(さんたん)たる結末の自分こそが、“どうせやっぱりダメな自分”には相応(ふさわ)しいと思ってしまうのだ。
それは慢性的自己破壊行為とも言えるだろう。
でも、時計の針が止まることはない。
あたかも、座して死を待つ、ように時間が経って行く。
その他にも、見栄だとか、虚栄心だとか、いろいろなものが絡むこともあるだろう。
しかし、それが何であろうと、最後にはいつも
で、どーする?
に行き着く。
まだ先送りするのか?
今度こそ直面化するのか?
どちらを選んでもその責任を取るのはあなただが、
少なくともあなたが徹底的に直面化する方を選んだとき、あなたは決して一人ではないということだけは保証できる。