八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

時々「〇〇っていう人は先生のお弟子さんですか?」と訊かれる。

訊かれる度、以下の2通りでお答えしている。

[1]そもそも人間と人間との間に「師匠」-「弟子」という関係があると思っていない。
一人ひとりを通して働いている力が、その人の「本来の自分」を実現させて行くと私は思っている。
敢えて言うなら、その力が「師」なのかもしれない。

「親鸞は弟子一人ももたず候。」とは流石である。

すべては真実の弟子であり、人間親鸞個人の弟子ではないのである。

[2]しかし、上記のようなことを言っても、現実には話がややこしくなるので、“世俗的・形式的“な意味で「師匠」「弟子」という言葉を使うことは否定しない。

私も近藤先生の生前から「近藤先生は私の師である。」「私は近藤先生の弟子である。」と公言して来た。
しかし、近藤先生と私の間では、頭記の意味はとうにわかっている。
「師匠」-「弟子」というのは“世俗的・形式的“な符牒(ふちょう)に過ぎない。

それにしても、私の方から「〇〇は私の弟子だ。」というのは、蕁麻疹が出そうなので行っていない。

また、かつて私となんらかの出逢いがあったとしても、少なくとも今現在、八雲総合研究所に通っていない方々については、“世俗的・形式的“な意味でも「弟子」とは言えない。
今のあなたを私は知らない。

中でも、過去の経歴をわざわざ書いて弟子弟子詐欺をするのはやめていただきたいと思う。

行き着くところ、そんな呼称はどうでもいいから、各人、自分の未解決の問題や成長課題と向き合い、無限の成長あるべし、と願うばかりである。

 

最終講義を行って来た。

年度の最終講義であり、十四年間の最終講義である。

そもそもが、伝えたいことがあって引き受けた仕事である。

可愛い教え子たちのうち、一体何人に伝わっただろうか。

毎年毎年、この中の一人にでも伝わればと思い、講義をして来た。

とにもかくにも種は蒔いた。

あとはおまかせするのみである。

講義を終えて、玄関を出、校舎に向かって合掌礼拝する。

長々お世話になりました。

そして、たまたま午後の仕事はオフになっていた。

さて、どうするか。

昼も食べていない。

このまま帰宅しようかと思ったが、ふと駅の近くに寿司屋があったことを思い出した。

ひとり“お疲れさま会”をやるか。

店に入り、寿司と昼間から純米大吟醸を1合たのむ。

店のおばちゃんが怪訝な顔をして見ている。

いーじゃないの、今日くらい。

最早、勤務時間ではない、私の時間だ。

盃を掲げ、

学生たちにありがとう。(国試、頑張れよ。)

先生たちにありがとう。

この縁にありがとう。

オレ、お疲れさま。

 

大変、美味しゅうございました。

 

2022(令和4)年8月22日(月)『臨床心理士の心理療法のトレーニング』

医師の研修に比して、臨床心理士の資格取得後の研修は、法的に義務付けられていない。

従って、場合によっては、即日開業し、その日から「専門家」と称して心理療法を行うこともできる。

これは一面、自由であるが、他面、恐ろしいことでもある。

資格取得前の臨床心理士養成大学院のカリキュラムでは、座学も実習も時間が限られているため、どうしても広く浅く触れるだけ、ということになってしまうのは避けられない。

それだけでは、全くトレーニングが足りないのである、心理検査でも心理療法でも。

特に社会人になってから臨床心理士になった人は、年齢的に最初からベテランに見えたりする。だが、中身は新人、青葉マークなのだ。

気をつけないと、初心者レベルのまま、我流のままで、固まってしまう恐れがある。

よって、日本臨床心理士資格認定協会でも、臨床心理士の資格更新制度を作ったり、臨床心理士の資質向上事業を行ったりして、資格取得後の生涯学習を強調しているのは、とても重要なことである。

しかし、そういった研修でも、特に心理療法においては、座学やケースカンファレンス、1対多のワークショップでは限界がある。

それだけでは、自分個人の「未解決の問題」や「成長課題」と詰めて向き合って行く場がない。

個人的には、本当に心理療法を行いたいのであれば、1対1のスーパーヴィジョンあるいは教育分析に匹敵するものが必要だと思っている。

それもやっぱり、いっちょ前になるには、毎週トレーニングを受けても、5年、10年の長い時間がかかる。

そしてそもそもが、心理療法の知識や技術だけでない、その人自身の「人格陶冶」「人間としての成長」なくして、心理療法はあり得ない、というのが私の立場なのである。

それには余計な知識や技術、そして我流の心理療法と言った手垢が染み付く前の、資格取得後の早いうちが良いんじゃないかなぁ、と思いつつ、

キャリアのある方でも、自分の心理療法に疑問を抱き続け、自分の「未解決の問題」や「成長課題」と向き合って行く姿勢のある方であれば、問題はない(現にキャリアのある方も来ておられる)。

要は、現行教育制度下では、私の言う、ちゃんとした心理療法のトレーニングは行われておらず、志のある方はどうぞ自ら道を求めるべし、ということである。

2022(令和4)年8月21日(日)『精神科医の精神療法のトレーニング』

現在の医学部卒業後の医師の研修制度では、まず2年間、臨床研修病院などで「研修医」として所定の「臨床研修」を受けることになっており、その中身は、内科、救急、外科、小児科、産婦人科、精神科、地域医療の研修からなっている。

目指すところとして、確かに「医師としての人格の涵養」と大上段に書かれてはいるが、現実には、各科の基本的な診療知識・技術の修得に明け暮れるのが実態であろう。

そしてそれが終わると、「専門研修」に進むか、大学院や医療行政分野などに進むことになる。

「専門研修」では、目指す診療科(内科、外科、精神科など)の「専門医」になることを目指して「専攻医」として3〜5年、研鑽を積んで行く。

よって、一人前の医者になるのに医学部卒業後、「臨床研修」+「専門研修」=計5〜7年を要することになり、医者でなくても、どの道でもいっちょ前になるには5〜10年かかるというのは妥当なところであろう。

そしてその「専門研修」の中でも、今回話題としたい精神科医の「精神療法」については、「専門技能」として「患者の心理を把握するとともに、治療者と患者の間に起る心理的相互関係を理解し、適切な治療を行い、家族との協力関係を構築して家族の潜在能力を大事にできる。支持的精神療法を施行でき、認知行動療法や力動的精神療法を上級者の指導のもとに実践する」(日本精神神経学会、専門医制度 研修プログラム整備基準)とあり、いかにも「技能」のトレーニングとして書かれている。

精神科なのに最初の「人格」の話はどこに行ったのかと思うが、ここからが本題。

その「人格陶冶」「人間としての成長」なくして、精神療法はあり得ない、というのが私の立場なのである。

「技能」は二の次、「人間」が第一。

そうなれば当然、自分の中の「未解決の問題」や「成長課題」と向き合って行くことになる。

それには、余計な専門的「知識」「技能」や我流の精神療法といった手垢がつく前の、研修医や専攻医などの早いうちが良いんじゃないかなぁ、と思いつつ、

キャリアのある方でも、知識・技術の精神療法に疑問を抱き続け、自分の「未解決の問題」や「成長課題」と向き合って行く姿勢のある方であれば、全く問題はない(現にベテランの方も来ておられる)。

要は、現行研修制度下では、私の言う、ちゃんとした精神療法のトレーニングは行われておらず、志のある方はどうぞ自ら道を求めるべし、ということである。

2022(令和4)年8月13日(土)『ホッキョクジリス』

ホッキョクジリスという動物がいる。 

名前の通り、北極地方に棲息するリス科の動物である。 

この動物が面白いのは、年間約8カ月も冬眠していることである。 

そして残りの約4カ月だけ起きて、そのときは結構動くらしい。 

じゃあ、冬眠していない期間は寝ないでいるのかというと、毎日ちゃんと寝ている(おいっ!)。 

それがこのホッキョクジリスのちょうどの生き方なのである。 

ホッキョクジリスは、それが怠惰とも勤勉とも思っていない。 

 

うつ病の患者さんをみていると、このホッキョクジリスのことを思い出す。 

折角休職し、服薬しながら必要な休息を取っているのに 

「ダラダラして過ごしてます。」 

などと否定的表現を使う人が多い。 

そして、ちょっとエネルギーが溜まって来ると、何やらすぐに動き出す。 

なけなしのエネルギーでまた自転車操業を始めてどうするというのか。

生産的、他者貢献的、功利的でないと、自己の存在意義が揺さぶられ、不安になり、それでまた動き過ぎては疲弊して、再燃を繰り返す。

服薬して休息すればエネルギーは回復するが、生き方が変わらない限り、完治はない。

 

ホッキョクジリスは、あるべき自分ではなく、そのままの自分を生きている。

人間が学ぶべきことが大いにあるかもしれないね。

2022(令和4)年8月7日(日)『ホンモノの対人援助職者になるには修行が要るのだよ』

高校生の頃から、将来、精神科医になって精神療法を専門にしようと決めていた。

その背景に、自分の生育環境および生育史から来る自分のパーソナリティの問題があることについては、どこかで述べた。

メンタルに問題のある人間が、メンタルな仕事や対人援助職に就きたがることについても、以前、触れた。

そして志望通り、医学部に入学したのだが、はたと困った。

このまま卒業して、精神科臨床に出るのはマズい。

こんな問題山積み、アンポンタンでポンコツな自分では、患者さんを巻き込み、彼ら彼女らに迷惑をかけるに違いない、と思った。

そして自分の問題解決のために、(今から思えば)危なそうな自己啓発セミナーから、国内外の専門セラピストによるグループサイコセラピーのワークショップまで、片っ端から受けてみた。

多少の役には立ったが、問題の表面を撫でただけで、それだけでは本質的な問題解決と人間的成長には至らなかった。

そして精神科に入局し、思い切って先輩医師に訊いてみた。

「みなさん、自分の問題と向き合って解決して、臨床に出ているんですよね?」

先輩は即答した。

「そんなヤツはいねぇよ。」

声を失った。

その先輩は、後に某大学の教授になった。

それが精神科臨床の現場の実態であった。

ここらの経緯もかつてどこかに書いた気がする。

そして後に、ある男性患者さんを精神科クリニック併設の心理相談室に紹介したことがあった。

最初は若手の臨床心理士が担当したが、信じられないことに、クライアントの気持ちに寄り添うことのできない、鈍感な人間であった。

彼は担当を変えてくれと言った。

次に中堅の臨床心理士が出て来た。

これまた信じられないことに、受け売りの知識と技術を教えるだけの、底の浅い人間であった。

彼はまた担当を変えてくれと言った。

三番目にベテランの臨床心理士が出て来た。

しかし、さらにまた信じられないことに、ちょろまかしの勉強をしながら年数を重ねただけの、上から目線の自我肥大的な人間であった。

彼はその心理相談室に見切りをつけた。

野良犬は、子犬の頃に自分よりも強い犬に出逢わないと、自分が世界で一番強いと思い込む、という話をどこかで聞いたことがある。

そんな危険な野良犬のようなセラピストたちが蔓延(はびこ)っている。

後にわかることであるが、こういった“惨状”は、精神科医や臨床心理士だけでなく、精神保健福祉士においても、社会福祉士においても、作業療法士においても、精神科看護師においても、同様に起こっていた。

自分に解決すべき未解決の問題があることにすら気づいていないのか!

そして、それを解決していないのに臨床現場に出ようというのか!

私には恐くてできなかった。

幸い、私はその後、近藤章久という、この上ない精神医に出逢い、その指導を受けることができた。

師に逢えたかどうか、その薫習を受けられたかどうかで、私の人生は大違いであった。

もちろん凡夫である限り、解決すべき問題はエンドレスにある。

しかし一歩一歩進むごとに解放と喜びがあり、その体験がそのまま、対人援助の現場に直結して役に立つものとなった。

ここまで書いて来て、そこまでやって対人援助職をやろうという人間は、とっても少ないんだろうなぁ、と改めて思う。

しかし、いかに少なかろうとも、ホンモノを求める道を捨てるわけにはいかないし、

少ないと言っても、現に今、八雲総合研究所に通っている人たちが、これだけいらっしゃるのである。

私も段々年を取って来たが、これからの人生も、ホンモノの対人援助職者を目指し、自分の問題解決と人間的成長のための修行を厭わない人たちと歩んで行ければ良い、と心から思っている。

そして私には、自分自身にいただいたものを、次の世代に送らなければならないミッションがある。

私自身の成長も永遠に続く。

今の自分に「情けなさの自覚」を持ち、「成長への意欲」を持つ同志の方々よ、どうか今生で逢って、一緒に進んで行きましょう。

2022(令和4)年4月21日(木)『引退』

北勝旺から葉書が届いた。

 

「このたび令和四年三月場所をもちまして引退することになりました」

 

入門したときから、いつか来る日ではあると思ってはいたが、とうとうその日が現実に来てしまった。

 

あのこと、このこと、あの人のこと、この人のこと、などなど、いろいろな想いが胸の中を去来する。

 

中学を出てから、29歳になるまでよく頑張りました。

 

まずはゆっくり休んで

それからまだ前途洋々の未来について考えれば良いと思う。

 

お疲れさまでした。

2022(令和4)年1月19日(水)『未熟・過熟・熟し頃』

ある人と話していて、その人の抱える問題点が観えるときがある。

そのことにちょっと触れてみる。

「そうなんですよ!」

と目を輝かせて喰いついて来れば、“熟し頃”である。

既に「情けなさの自覚」がある。

そして「成長への意欲」もある。

話が深まる。

内省が進む。

成長の可能性が高まる。

少なくとも今、八雲で面談している方々は、そういう方々(のはず)である。

それに対して

「そうなんですか?」

と来る人がいる。

この「か?」が出るようじゃあ、まだ“未熟”である。

話が深まらない。

内省の準備ができていない。

成長はまだ先である。

まだ「情けなさの自覚」に乏しいのである。

八雲に来る時機ではないな。

良い・悪いの問題ではない。

まだ果実が青いのであるから熟すまで待つしかないのである。

そして三番目。

そう言われて

「わかってるんですけどね。」

と来る人がいる。

この「けどね」が来るようじゃあ、“過熟”である。

薄らわかっただけで、もう諦めてしまっている。

訳知り顔の分だけ質(たち)が悪い。

「情けなさの自覚」も中途半端(心底情けなくはない)、「成長への意欲」も中途半端(なんとしても超えようとはしていない)なのである。

このまま果実が腐って落ちて来世を待つか(来世があるのかないのか知らないが)、

奇蹟的に踏ん張り直して、精一杯向き合い、改めて戦う気になれば、再生できるかもしれない。

これもまた本人次第である。

ちょっとした日々の会話から、そんなことが観えるときがある。

2021(令和3)年8月3日(火)『法灯』

自由が丘に行く所用があったため

足を延ばして

約4年ぶりに八雲を訪れてみた。

かつての近藤邸(近藤先生のご自宅、そして近藤クリニックのあった場所)。

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そして私が面談していた部屋(左が私の椅子)。

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それが今、こうなっていた。

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この光景を目の当たりにして

情緒的にセンチメンタルにならなくもないが

私が引き継いだのは、元々場所などではない。

法灯、真実の灯である。

前を向いて進む。

2021(令和3)年4月19日(月)『来るべき人』

当研究所において行われる「人間的成長のための精神療法」の「対象」については当ホームページに書いてある通りだが、現実に当研究所に「来るべき人」については、その経験年数によって大きく以下の二つに分かれる。

(1)ひとつは、新卒の人、入職してまだ年数の浅い人。

「鉄は熱いうちに打て」で、自分自身に対して、精神医療福祉というものに対して、素朴かもしれないが重要な問題、課題、テーマを感じている初期のうちに、本当の自分というものを、ホンモノの人間観、世界観、成長観、治療観を明確にして行く必要がある。

れらをちゃんと掴めているか否かは、その人の人間としての、あるいは、対人援助職としての一生を左右する。

泥に染まる前に自分自身と方向性を掴んでおくことができれば、迷わないで進んで行ける。

そんな人はできるだけ早いうちに話しにいらっしゃい。

(2)そしてもうひとつが、対人援助職としての経験年数はあるが、ずっと自分自身について、あるいは、精神医療福祉というものについて、根本的な疑問や違和感を抱き続けて来た人。

こういう人にも大いに可能性がある。

泥に浸かっていても染まらなかった人である。

この機会に改めて、本来の自分というものを、ホンモノの人間観、世界観、成長観、治療観について見直してみよう。

話してみて

「やっぱりそうですよね。」

「自分の方がおかしいのかと思ってました。」

という人は多い。

そういう人は、これ以上まわりに騙されないため、振り回されないために、自分が自分であることの幹を太くして行かなければならない。

そんな人はどうぞ早めに話しにいらっしゃい。

職業人生も一生もそんなに長くないから早い方が良いと思いますよ。

そして(1)(2)どちらも私のミッションである。

今生で出逢うべき人を待っている。

2021(令和3)年3月22日(月)『人あかり』

春は進み、サクラだけでなく、コブシやモクレンも花期を迎えている。

夜道でそういった白系の花々を見上げるとき、「花あかり」という言葉を思い出す。

花自体が光るわけではないが、まるで灯りをともしたように明るく見えるのは不思議である。

そんなことを思っていたら、昔読んだサマーセット・モームの小説の中に「interior light」(内なる光)という言葉があったのを思い出した(以前どこかで書いた気がする)。

花だけでなく、人にもまた光がある。

そんな「人あかり」はきっと、その人がその人であるときに、その人を通して放たれる光なのであろう。

いや、そうではないな。

その人を通して働いている光こそが、その人をその人させているのかもしれない。

2021(令和3)年2月18日(木)『肛門を締める』

変な題だが、なんのことはない、丹田呼吸の話である。

深呼吸でもなく、腹式呼吸でもない、丹田呼吸については、ご希望があれば、面談のときに一人ひとりご説明しているが、今回はその要点のひとつ、「肛門を締める」ことについてお話したい。

丹田呼吸において、肛門を締めることは非常に重要である。 

中でも、肛門を締めるポイントに二つある。

ひとつは「呼気」、息を吐くとき。

もうひとつは「吸気」、息を吸うとき。

呼気・吸気の両方で肛門を締めて良いのだけれど、その人その人によってまずどちらに重点を置くかが違って来る。 

近藤先生も、講演によって、人によって、時機によって、力点を変えておられた。

一般の講演などでは、呼気のときに肛門を締めることに力点をおいて話されることが多かったが、

例えば、私の場合には、吸気のときに肛門を締めることから教えて下さった。

では、両者の違いは何か。

(1)呼気、息を吐くとき、肛門を締めながら、どこまでも息を吐き出して行く。

息を吐くことの徹底のために肛門を締める。

そのとき吐き出して行くものは何なのか。

我々のとらわれや執着や我(神経症的自己中心性)を吐いて行くのである。

よって、とらわれや執着や我の強い人は、まず呼気中心に肛門を締めて行けば良い。

肛門を締めて締めて締めて徹底的に吐いて行く。

(2)もうひとつは、吸気、息を吸うとき。

呼気で息を吐き切れば、吸わずとも吸気は自然に入って来る。

ゆ〜っくり深く大きくどこまでも入って来る。

そして全身に入り切ったときに、全ての気を丹田に圧縮して行く。

このときに肛門を締める(吸気の最初から締めるのではない)。

締めながら圧縮して行くと、丹田(下腹部)に気の塊が感じられて来る。

その実感が重要なポイント。

よって、肚が据わること、ブレないこと、揺さぶられないことを養うには、まず吸気中心に肛門を締めることを練習されれば良い。

私のところに個人面談で来られている方たちの経験では、こちらから入った方が良い方たちが多いため、私は吸気のときに肛門を締めることからお勧めしている。

…と書きながら、体験に属することを文章では伝えるにはどうしても限界があるため、不明な点があれば、面談の際に直接、お尋ねあれ。

2021(令和3)年1月25日(月)『体験』

近藤先生が時々「彼は学者だな。」と言われることがあった。

それは知識はあるが“体験”がない、という意味であり、

そこには、残念ながら本当のことがわかっていない、というニュアンスがあった。

 

鈴木大拙がアメリカで大乗仏教について英語で講義した記録がある。

それを日本語に訳した学者が、この内容はいろいろその成立に問題があると言われる『大乗起信論』に拠っているから真に大乗仏教について語ったものではない、という趣旨のことを書いている。

こいつも学者だな、と思った。

知識はあっても“体験”がないのである。

“体験”があればわかる。

『大乗起信論』を誰が書いたか知らないが、馬鳴(めみょう)に仮託して間違いなく“体験”がある人物が書いている。

それは釈尊に連なる“体験”なのだ。

よってこれは真実の書である。

それをまた“体験”のある大拙が説いている。

それがわからないか。

それを読めないのか。

『大乗起信論』がヒンドゥー教の影響を受けていようといまいと、どうってことはない。

そこに書かれていることが「一人残らず必ず救う」という本質を伝えているかどうかが問題なのである。

 

他にも例がある。

『法華経』という仏典がある。

亀茲(きじ)国の僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマ―ラジーヴァ)によって漢訳された仏典が広く使われてきたが、サンスクリット語で書かれた経典が見つかり、学者たちが翻訳してみると、漢訳には随分と訳者の手が入っていることが明らかになった。

問題はそこからである。

学者たちは鬼の首を取ったように、その漢訳の問題点を指摘した。

やっぱり学者なのだ。

よくその漢訳を読むべし。

鳩摩羅什には“体験”があるではないか。

それもまた釈尊に連なる“体験”である。

だからその翻訳もまた“仏説”と言って良いのである。

それがわからないか。

それが読めないのか。

従って、読む人が読めば、そのサンスクリット版よりも漢訳の方が宜しいのがわかる。

 

“体験”がないというのは、とてもとても悲しいことなのである。

確実に道に迷う。

学者というのは、一度も海に入ったことがないのに、研究室で海水の分析をして海について語っている連中という気がして来る。

入ったことがないんじゃあ、わかんないよ。

いいから、一度海に入ってみなよ。

そして海のなんたるかを全身で“体験”せよ。

 

かつて近藤先生がホーナイのもと、禅に関する講演を行ったのを聞いた鈴木大拙は自宅に近藤先生を呼んで、本物かどうか確かめようとした。

そのときの言葉は

「で、君は何か“体験”があるのかな?」

であった。

もちろん大拙は近藤先生が入室した瞬間に、この男に“体験”があることは見抜いているのである。

こうでなくっちゃあ、面白くない。

 

尚、学者の名誉のために言うならば、学者の中にも稀に“体験”がある人もいる。

井筒俊彦、玉城康四郎などはその例である。

近世には香樹院徳龍のような稀有な学僧もいた。

私が寡聞なだけで他にもいらっしゃるだろう。

「理性は霊性の僕(しもべ)」であるが

僕(しもべ)を上手に活用している人たちもいるのである。

(但し、その“体験”に浅深があることは否めない)

しかしどこまでいっても、“体験”なき知識は、受け売りのゴミであるということを忘れてはならない。

妙好人を思い出せ。

彼ら彼女らに知識はない。

しかし本物の“体験”がある。

“体験”のみが真実に導いてくれるという絶対事実は揺らぎはしないのである。

 

 

◆追伸

我らが北勝旺、初場所、見事に3連敗からの4連勝で勝ち越しを決めた。毎場所、毎場所、一番、一番、決して諦めない姿勢は立派である。元より諦める選択肢はないのだけれど、それを口先でなく実践してみせるところが立派なのである。お疲れさまでした。

2020(令和2)年12月18日(金)『湯たんぽ』

いよいよ本格的な冬の到来である。

寒い季節は余り得意ではないが、暖かさの有り難さを実感するという意味では、それもまた四季の豊かさのひとつと言えるのかもしれない。

ある人が子どもの頃に母親が湯たんぽを布団の足元に入れてくれるのが嬉しかったと言っていた。

そしてその人は、湯たんぽの温かさよりも、自分のことを思って湯たんぽを用意してくれる母の気持ちが嬉しかったんですね、と述懐していた。

最近、湯たんぽも復活して来ていると聞くが、誰かが誰かを思う気持ちは、湯たんぽだけでなく、いろいろな物や形に込もっている。

不思議なのは、誰かのことを大切に思うとき、思われている人だけでなく、思っている人自身も温かくなるということである。

やはり愛することは愛されることなのだ。

そして、愛が発するのは「愛する人」からではない。

人間を超えた大いなる愛が「愛する人」を通して「愛される人」に働くのである。

そのとき間違いなく「愛する人」も愛されている。

湯たんぽ母さんのこころもまたあったかかったに違いない。

2020(令和2)年11月29日(日)『無差別という差別』

一時期、面識のある精神科医のクリニックに通っていたクライアントの方々からの面談申込が続いたことがあった。

申込内容を伺うと、どの方も精神科的診断がつき、本格的な治療が必要な方々で、当研究所の対象ではないため、説明してお断りしたところ、抵抗される方々が少なくなかった。

異口同音に言われるのは、前の医師のところでは、病気であるか病気でないかを区別しないと言われてセラピーを受けていた、あなたは違うのか、というのである。

ああ、そういうことか、と内幕が観えた。

つまり、この方たちは障害受容ができていないのである。

可能ならば、統合失調症とも、双極性感情障害とも、うつ病とも、パーソナリティ障害とも、自閉スペクトラム症とも、思いたくない、認めたくない。

そういう人にとって、病気であるか病気でないかを区別しないやり方というのは魅力的であり、障害受容をせずにセラピーを受けることができる。

かつて家族療法でシステム論が登場したときに、その本来の意義とは別に、受け入れたがる家族、特に親が少なからずいた。

それは、子どもに生じた問題が(家族というシステムのせいだということができ、)自分のせいだと追及されるのを回避できると思ったからである。

話を本筋に戻すと、病気だと認めたくない、否認したい、ということは、取りも直さず、その人が病気を差別しているということになる。

これが本音である。

その内なる差別観を、病気であるか病気でないかを区別しない、という無差別的美言のもとに隠蔽しようとしているのだ。

これはずるい。

「病気だと認めたくないよー!(病気だけど。)」

と言う方がよっぽど正直で人間的である。

そして散々あがいた後で、本当の意味で自分を救い、活かすために、ちゃんと治療を受けなきゃしょーがないじゃん。

事の本質を言えば、病気であるか病気でないかどころか、人間を超えて、犬も猫も花も木もすべての生物を差別せず、さらに岩も大地も太陽も月も空もすべての無生物さえも差別しない、一切無差別(仏教では「しゃべつ」とよむ)の境地こそが真実である。

無差別を言うならば、そこまで徹底しなければならない。

そして、病気であるかないかを区別しない境地でさえ、その医師には無理であった。

よって、その医師ができないことを言ったところから無理と背伸びが始まり、そこに障害を認めたくないクライアントが飛びつき、ならば、それで治療が進展すれば良かったのだが、残念ながら行き詰ったから、私のところに変わろうとして来たわけである。

しかし、そんな奇妙な舞踏会に付き合うわけにはいかない。

そこに切実な「情けなさの自覚」と「成長の意欲」がないんだもの。

私は当研究所に与えられたミッションを果たして行くのみである。

 

2020(令和2)年10月22日(木)『向き合うこと』

辛いときがある。

しんどいときがある。

そういうとき、できる限り、逃げず、誤魔化さず

自分の内的問題の核心と向き合って勝負することをお勧めしている。

そうすれば、楽ではないけれど

辛いこと、しんどいことが

確実に人間的成長の糧となって行く。

そうしないで

一杯やって誤魔化す

ゲームに溺れて逃げる

色恋沙汰に依存する

など、飲む・打つ・買うなど、面白おかしく過ごすことは、人間の伝統的なちょろまかし法である。

そうやって先延ばしにしたところで

未解決の問題は必ずあなたに降り掛かって来る。

逃げられはしない。

唯一の例外は

その人のキャパシティを超えて

治療を要するまで辛くなったときである。

そのときは無理して向き合わなくても良い。

その辛さを軽減するために向精神薬も開発されている。

きちんと用法・用量を守れば、アルコールよりも遥かに安全で有効である。

心を楽にする薬が開発されているというのは、実に有り難いことである。

そして薬を使うときも

言わば、薬の作用のお蔭で、向き合うべき問題のハードルを下げることができれば

可能なところから問題と向き合って行けるかもしれない。

そうすれば、やがて薬の用量を減らせられるかもしれないし

ひょっとしたら、薬が要らなくなるかもしれない。

(ここらは疾患の種類によるので主治医とよく相談されたし)

結局のところ、治療の要否によらず、自分を見つめ、自分を知り、

自分の未解決の問題と向き合って行くことは、あなたの人生を真に豊かなものにして行くに違いない。

 

ある青年が述懐した。

辛くなったら、いつも痛飲して誤魔化してました。

そうしたら辛くないから、内省も丹田呼吸もろくにやりませんでした。

そのことに気づいて、飲むのをやめたら

てきめんに辛くなったので

今の方が自分の問題と向き合い、一所懸命に呼吸も練っています。

中途半端に楽になるのも考えものですね。

 

You're right.

そしてそういうあなただから、私は万難を排して応援して行くのです。

2020(令和2)年10月20日(火)『TAKARAZUKA2! 〜 地上の華 〜』

こんにちは。

花組の柚香光(ゆずかれい)です。

 

…というわけで、また行ってきましたよ、奥さん。

宝塚ですよ、旦那さん。

花組公演ですよ、お姉さん。

あの『はいからさんが通る』ですよ、お兄さん。

今回もヘビーファンの方からチケットを分けていただきました。

コロナ下でも劇場内は劇団側もファン側も、なんとしても「観せたい」「観たい」が相俟っての感染防止体制が徹底している印象でした。

そして公演そのものは、原作マンガ、アニメ、実写版を踏まえた、歌と踊りとお芝居のクォリティの高さはもちろん、やっぱり生舞台の演じ手の熱意、これには今回も感動しました。

感動の根幹は、前回も今回も同じ。

さらに、いつもセラピー場面では、人間の「感情」を超えた世界に焦点を当てがちだけれど

この日の純然たるラブストーリーに、我々の「感情」「凡情」の豊かさを再認識した一日でした。

「恋しい」「愛しい」「憎らしい」「妬ましい」「寂しい」「嬉しい」「哀しい」「腹立たしい」などもまた、地上に肉を持つ我々凡夫の華。

豊かなもんだね。

マドモアゼールやマッダームたちが宝塚の世界に酔うのもわかるってもんだ。

 

「僕が選んだあなただから、あなたの受けた運命は、僕も一緒に生きて行くんです。」

 

あなたが大切な人に本気でそう言えれば、あなたもまたあなたの人生でトップスターになれるかもしれない。

そしてまた今回もしばらくは、『はいからさんが通る』を歌って踊っているであろう私でした。

2020(令和2)年10月11日(日)『泣くこと』

今日は「第13回 八雲勉強会 by Zoom」を開催。

近藤先生の『こだわりについてⅡ』の講演追加部分と質疑応答を聴く。

お腹いっぱい、胸いっぱいに感じるところがあったが、

その一端だけ、ここに引用すると

例えば、女の方で、女の方に言うんだけども、女の方が目についちゃうんで、つい言うんだけども、女の方で、例えば、とっても泣きたくなる、悲しくてね。そういうときは、僕はね、オンオン泣いてほしいと思うの、一人でいいから。オンオンオンオンね、涙が尽きるまで、涙が涸(か)れるまでね、泣いてほしいの。そういう泣くということが耐えることなの、そのときには、ね。何もそこで、やれ、どうだこうだとしないでね、ただ悲しいときはひたすらに悲しくね、ただオンオンオンオン泣いてほしいと思うんですよ、ね。男でもそうです。男でも格好(かっこう)つけないで、ね。泣きたいときには、オンオン大声出して泣いたらどうかと思う。そうやって初めて耐えることができる。人間にはそういう、だから、そういう道があると僕は言うんです、ね。いかにも格好から言えば、意気地(いくじ)がない、なんだかって言うかも知らんけれど、人間のね、正直な気持ちをね、出して、そこにね、そのままいることがね、耐えることなんだ。だから、それで、その、正直に、そのままに認めて行くという、このね、自分に対する柔軟な、従順な、正直な態度、こういうものが必要だと思うんです、ね。

 特に、あの、怒りを感じたり、いろんな侮辱を持ったりするようなときにでも、そういうときに、悔しいと思ったり、苦しいと思ったときに、そんとき、そのまま、悔しさをそのままに、悔しいなぁ、と思って、本当に、人に知られない涙を流すということも男だってあると思う。それでいい。そうやって耐えて行く。そして自分というものを、そのために、曲げないことだ。自分というものの成長が一番にやってくる。こういうことを私はちょっと付け加えておきたい。

何も付け加えることはない。

これをどう感じるかは面々のおはからいである。

でもやっぱりライヴで響くものは文面を超える。

機会がありましたら、また八雲勉強会で近藤先生の肉声に触れましょう。

 

 

2020(令和2)年9月22日(火)『On the Edge』

初回面談申し込みを受ける際、ちょっと悩むときがある。

一応「対象」は満たしているのであるが、その「一応」のところがどうも「気にかかる」方が時々いらっしゃる。

私がかつて近藤先生のところに通い始めたときは、それまでの生き方にどうにもこうにも行き詰まっていたため、全否定大歓迎、煮るなと焼くなと好きにしてくれ、屍(しかばね)の中から甦(よみがえ)って成長してやる、という覚悟があった。

しかし「一応」の彼ら彼女らはどこかまだ闇の裾(すそ)を握っているのである。

そこに「一応」情けなさを感じ、成長したいと思ってはいるが、まだ「本気で」「心底」情けなくなっていないし「何が何でも」成長したいと思ってはいないのである 

そして「気にかかる」という理由にもうひとつある。

それは開業以来の経験からして、そういう「対象」の際(きわ)にいる人たちの脱落率が非常に高いことである。

結局、逃げる。

闇の世界に舞い戻る。

例えば、この二十年余りを振り返ってみると、

やっぱり他人よりもちゃんとやってる自分、頑張ってる自分に存在意義を感じ続けたい人がいた。頑張り続けることをやめられず、それで得意になることをやめられなかった。それがどこから来るかという生育史の問題を本当には見つめたくなかった、解決したくなかった。そんな若い女性がいた。

また、

猜疑心に満ちた被害的世界観に呑み込まれながら、社会を疑い、幼児のように無意味な抵抗を続ける人もいた。抵抗するとき、嫌われる側に与(くみ)するとき、逸脱するとき(性的も含めて)、妙な力と快感があった。セラピーに通いながらも問題を指摘されることを恐れた。それをかつての脅される恐怖に結び付けた。それでは成長のしようがなかった。そんな年輩の男性がいた。

さらに、

いつまで経っても埋め込まれた見張り番に支配され、自分を縛り、子どもを締め上げ続ける人がいた。見張り番に従っているとき、恐怖感から解放される感覚があった。しかし、それがどれだけおぞましいことなのか、本当にはわかっていなかったし、わかりたくなかった。どこかでまだ自分は正しいと思っていた。そんな年輩の女性がいた。

そして三人とも勝負せずに脱落した。

どれもほんのちょっとはわかっている。

しかしいざとなると対決するより逃げる。

中には十年以上もずーっと逃げ回っていた人もいた。

その間、本質的な問題は何も解決せず、私が核心にちょっと触れた途端、逃げ出した。

そしてそれが医療福祉心理関係者だと、その後、患者さん、クライアント、利用者さんに対してどういう影響を与えるだろうか

それでも二十歳を超えた大人だもの。

起こる事態の責任を取ってもらうしかないだろう。

致し方なし。 

だけれども、だからと言って「際(きわ)にいる」と感じる人たちを最初から全員断るかというと、そういう気にもならない。

何故ならば、数は少ないが、そこから果敢に自分の問題を見つめ、ぐいぐいと成長して来る方が現にいらっしゃるからである。

そこに希望がある。

光がある。

その光の可能性を断つわけには行かない。

「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あればはなる」(親鸞)

それしかない。

実際には当研究所におけるクライアント全体の定着率は驚くほど高いけれど

それもまたひとつの結果であって、すべては縁で回るのみなのである。

そして大半の縁あるクライアントの方々は、自分自身の問題と誠実に向き合い、一所懸命に成長して行こうとしていらっしゃる。

その姿に私はただ礼拝合掌するばかりである。

操作的なセラピーなど死んでもやるつもりはない。

あなたを向き合わせ、あなたを成長させる力と共に

私のミッションを果たして行くだけなのである

 

2020(令和2)年8月25日(火)『変』

治療よりも成長に焦点を絞った私の開業形態を知った精神科医の後輩から

「先生は“変”な人は診ないんですね。」

と言われたことがある。

私は即座に

「君ほど“変”じゃないよ。」

と答えた。

彼の発言の中にある“差別観”(治療を受けている人間は“変”だ)

および“思い上がり”(自分は“変”じゃない側にいる)

を砕いておく必要があった。

少なくとも治療を受けている人たちは苦悩している。

そしてそれを乗り越えるべく、自分の意志で通院されている。

そういう意味では“変”どころか極めて“健全”である。

それに比べ、自分の“変”さにも気づかず、他人を見下し、自分は“健全”だと思っている方が遥かに“変”ではないか。

実は、私の開業形態は、最も“変”な人たちを対象としているのだ。

医療福祉関係者、対人援助職者という、最も“変”でありながら、最も自分の“変”さに自覚のない人たちに「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を求めるのたがら、“変”と言えば、これほど“変”な開業形態もない。

しかし、医療福祉関係者、対人援助職者でありながら、自分自身に対して「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を持てるというのであれば、これほど“健全”な人はいない、ということにもなる。

何が“変”で、何が“健全”か。

本当の意味での使い方と、世俗的な意味での使い方とを混同してはならない。

世俗的な意味で“変”な人たちで、かつ、本当の意味で“健全”な人たちは、大切な我が同朋である。

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。