八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

長年、子どもたちの問題に関わっていると、問題は子どもだけではない、背景にお母さんたちの問題が見えて来るときがある(あくまで「ときがある」である)。

しかし、お母さんたちを見ていると、それぞれに問題があるかもしれないが、それでもいっぱいいっぱいで一所懸命に生きている姿が見えて来るときがある(これもあくまで「ときがある」である)。

そしてさらに見て行くと、問題はお母さんだけではない、その背景に夫=お父さんの問題が見えて来るときがある(しつこいがこれもあくまで「ときがある」である)。

ラスボスは後から出て来るときがある(以下省略)。

では、解決法は如何。

なんのことはない。
お父さんが妻=お母さんを愛するだけで、お母さんの問題も、子どもの問題も解決してしまうときがある(以下省略)。

人間の生育史上の問題は、結局のところ、その人が愛されなかったことによって生じるのである。
よって、そのままを愛されれば、自分が自分であることを愛されれば、その人の生育史上の問題は薄まって行く。
そこが肝心。
まず、いろんな負担が集中しやすいお母さんが愛されないとね。

世のお父さん方よ、どうかあなたの妻を愛して下さい。

で、ここまで言うと、お父さん方から非難が飛んでくるかもしれない。
じゃあ、オレは誰から愛されるのか。」

これが昭和であれば、
大の男が泣きごと、言うな。
女ひとり愛せないなら、結婚なんかするな。
それぐらいの度量は自分でつけろ。
と言うところであるが、
令和だとそうはいかない。
お父さんがお父さんであることを愛してくれる、先輩、上司、セラピスト、アニキ、オヤジなどが必要となってくるのである。

…しかし、そう思うと、実は昭和でもそうではなかったか。
今から思えば、近藤先生も(私を含めて)むくつけ
き男どもを愛して下さっていたのである。

 

◆追伸◆
本当は、夫婦で互いに愛し合えたら一番良いんだけどね。
第三者からの愛は、夫婦が成長するまでの“つなぎ”と思っておくのが良いのかもしれない。

 

 

今宵は仲秋の名月。

満月は明日で一日ズレるそうだが、空気が澄んで月が見えやすいタイミングだから選ばれたという仲秋の名月を是非拝ませていただきたいものである。

以前から私は(まだ経験のない方には特に)天体望遠鏡での月面観測を強くお勧めしている。
観察は家庭用の天体望遠鏡で十分で、地球の空気の揺らぎの向こうに見える月面の神秘(と言う他ない)にきっと感動されるだろう。
但し、月面観測には、満月近く(見える月面全体が太陽光を反射している)の時期よりも、半月や三日月の頃の方が、太陽光が当たっている面と当たっていない面との境の月面の凹凸が際立ち、見ごたえがある。

また、今夜は月の近くに土星も見えるそうで、これも家庭用の天体望遠鏡で見ると、土星の環っかが土星の“耳”のように見え(期待したよりもかなりちっちゃく見える)、ガリレオ・ガリレイが土星には耳があると言った気持ちを追体験できる。

調べてみれば、あなたの近所でも天体観測会があるかもしれない。

で、今夜は、月が見えても見えなくても、心眼で観える月を愛でて、月見で一杯といきましょうか。
日本酒好きによれば、加越の「加賀ノ月」シリーズか、朝日酒造(「久保田」でお馴染み)の「得月」がお勧めとのこと。
甘党の方は「萩の月」か「月でひろった卵」あたりが良いかもしれない。こっちもいいな。

娑婆の目先の事に追い立てられがちな毎日。
ちょっと待て、一旦落ち着こう。
感性に戻る、こういう習慣はとても大切だと思う。

 

 

◆追伸◆
今回、愛で損ねた方は、11月2日(日)の十三夜で。

 

 

「至誠、天に通ず」

という言葉がある。
元々『孟子』にあった言葉であるが、孟子を愛する吉田松陰もこの言葉を大切にしていたという。
「誠を尽くせば、それが天に通じ、天をも動かす」という発想は、いかにも真面目で一所懸命な孟子や吉田松陰が取り上げそうな言葉である。
戦時教育を受けていた私の亡母でさえ、よくこの言葉を口にしていたのを思い出す。

しかしながら、私はそうは思わない。
何故ならば、これが「自力」の言葉だからである。
誠を尽くす、と口で言うのは簡単だが、一分(いちぶ)の隙もなく誠を尽くすなどということが凡夫に簡単にできるとは思えない。
徹底して厳密に観れば、誠を尽くしたつもりでどこかが漏れる、尽くしたつもりがすぐに毀(こぼ)れる。
「至誠」が可能だと思っていること自体に、人間の、凡夫の思い上がりが臭うのである。
ズバリ言ってしまえば、「至誠」を求める姿勢は「執念」「執着」に過ぎない、と私は思う。

そうではなくて、もし本当に「至誠」があるとすれば、それはむしろ天から与えられる、天から授かるものではなかろうか。
何故ならば、「至誠」ということ自体が人間業(わざ)ではないからである。
いや、そもそも「誠」(まこと=ほんとうのこと)という姿勢自体が人間業ではなく天の業である。

人間ごときが気をつけたやったことを「誠」と呼ぶのは、非常におこがましいことであると私は思う。
大いなるものはすべて天から。
これが「他力」の発想である。

「至誠、天より授く」
ならば、私も頷(うなづ)けるかもしれない。


 

出かける。
天気が変わり、雨が降り始めた。
そう言えば、天気予報で午後から雨になると言ってたな。
出かける前までは、傘を持って出るつもりだったが、忘れてしまった。
近くのコンビニで傘を買う。
そして傘をさして所用を済ませて帰る。
それだけのこと。 

これが神経症的な人だと、そうはいかない。
心の中の“見張り番”に責め苛まれる。
「何、やってんだ!」
「ちゃんと傘、持ってけよ。」
「気をつけてないから、そういうことになるんだ。」
「傘代が無駄な出費なんだよ。」
「家に余分な傘を置いておくスペースはないぞ。」
etc. etc.

何が一番まずいかというと、とにかく気分が悪くなること。
親に怒られた子ども、先生に叱られた生徒のような気分になる。 
よく考えてみれば、起きたことは、だからどうだってんだ!レベルに過ぎない。
傘一本の出費、傘一本のスペースで、地球最後の日は来ないし、市中引き回しの上、磔獄門にもならない。
(万が一傘が20本以上たまってしまった場合にはご相談下さい)
そんなことで大事(おおごと)をやらかしたような気分になる。

それが、あのとき、まだ小さくて弱かったあなたが、大人の親や先生から締め上げられたときに感じた失意と無価値感の気分なのだ。
その責め手が、今や良い年になったあなたの中に、まだ“見張り番”として残っていて、あなたを締め上げる。
そしてその“見張り番”のことを、もし親や先生が既に故人であれば“背後霊”と呼び、もしまだ存命中であれば“生霊(いきりょう)”と呼んでもいいかもしれない。
いずれにしても、そんなものは“お祓い”するに限る。
いらない、いらない。

いつまでも取り憑かせておくと、被害はあなただけに留まらず、あなたの子どもや部下・後輩たち(弱い立場にいる人)を締め上げて行く。
(上に挙げたようなセリフを子どもや部下・後輩たちに言うようになる)

“見張り番”の世代間連鎖、そりゃあ、大迷惑だわ。
それこそ“祟り”とか“呪い”と言える。

これは若い人だけでなく、年配の方々にも大いに当てはまる。
何故なら、年を重ねるほど物忘れなど、いろいろやらかしやすくなるからである。
そんなときにもし“見張り番”が残っていたら、やらかす度に無価値観と自責の念でうつっぽくなってくる。
特に若い頃からきっちりやってきた=“見張り番”に支配されてきた人ほど危ない。
だから、皆さん、今のうちに“お祓い”しておきましょうね。

そして次回、あなたが何かをやらかしたときが、絶好のワークのチャンスになるでしょう。

 

 

和太鼓を習っていた頃、例えば、新しいバチさばきを教えてもらったとする。
そして自分で実際にやってみる。
やって見せてもらった。
頭ではわかった。
しかし、やってみるとできない。
そして何度も何度も稽古する。
そして体得して初めて、実際にできるようになって初めて、その新しいバチさばきが自分のものになったと言える。
…と言えば、当たり前のことのように聞こえるかもしれない。

しかし、同じことを人間の生き方に置き換えると、なかなかそうはいかない。
例えば、私がある人のある神経症的な生き方を指摘したとする。
そうすると
「聞きました。」という。
「わかりました。」という。
しかし、また神経症的な生き方を繰り返す。
そこでまた私が指摘すると、
「前に聞きました。」という。
「わかってます。」という。
しかし、また神経症的な生き方を繰り返す。
そしてまた私が指摘すると…。

もうおわかりであろう。
「耳で聞いたことがあります。」

「頭の先でわかりました。」

「本当にわかりました。」=「体得しました。」=「生き方が変わりました。」
とは決定的に違うのである。

ですから、また私が指摘したときに、
「聞いただけで本当にわかってません。」
「頭の先でわかっただけで体得できてません。」
という返事が返って来るならば、正確である。

それくらい、「わかりました。」という言葉を使うのは、なかなか大変なのだ。

そしてその上で、
「本当にわかるまで、体得するまで、生き方が変わるまで、何度でも反復して実践します。」
と言って来る人がいれば、その人は「わかる」日が来るのが一番近い人であると言える。

 

 

 

仕事をしていて、ちょっと合間に一服したくなるときがある。

ヘロヘロになりながら無理矢理続けるより、その一服が自分をリフレッシュしてくれる。
F1レースで言えば、ピットインみたいなものかな…と思ったが、ピットインの場合は、ピットインした方が結局、最終的にタイムが早くなるという、効率主義的な、功利主義的な計算がある。

本当の“一服”は、そうではない。
結果的に、効率が悪くても、遅くなっても構わないのである。
そんな効率主義、功利主義よりももっと大切なものがある、もっと豊かなものがある、ということを体験するための一服でもあるのだ。
(但し、“逃避”としての“一服”には注意を要する。“逃避”の“一服”は、頻度が多く、だらだらと長い。それは“一服”ではない)

で、一服と言えば、喫煙で一服、喫茶で一服が一般的であろうか。
最近、喫煙は余り歓迎されなくなったが、喫茶の方は、緑茶にほうじ茶、抹茶に紅茶、そして各種フレーバーティーに珈琲などを楽しむ方は多いであろう。
そうなるとつい、和菓子やケーキなどのスウィーツもほしくなる。
それだったら折角なので、流し込むような飲み方、食べ方はしたくない。
ちゃんと味わうことをお勧めしたい。

非生産的な豊かな時間、非生産的だからこそ豊かな時間がある。

…と思っていたら、ある幼稚園児は、“お勉強”の合間に、歌って、踊って、一服するのだという。
その手があったか。
そうなると、丹田呼吸の一服、合掌礼拝(らいはい)の一服もあるかもしれない。

“一服”の世界も、なかなかに奥深いのである。

 

 

9月24日付け小欄の続き。

「自分の中にふっと、そういう気持ちがおきてくる。何か静かになってくると自分のしていることが何かおかしいとか、これは変だなとかいう気持ち、これはどんな場合でも、子どもでも感じています。もちろん大人でも感じていますが、大人のほうは理屈をいい、いろいろな疑問を合理化して、そうした気持ちを消してしまいますけれど、これは私は大事な鍵だと思うのです。その鍵を我々は与えられているのです。これは、自分の能力ではない。どう考えても自分はもっとラクなことをしたい、愉快なことをしたい、楽しいことをしたい、自分のいやなことはしたくない。自分自身を見るほどいやなことはない、けれども、それを否応なしに見せしめられるという、私は受身のかたちを使いますが、そういう感じです。これは大事なものだと思う。そこに自分にいちばん最初の救いの手が出されているのだということを感じる意味で大事だと思うのです。その声を聴き、それによって新しく変わる。そういう声を聴いて、はじめていままでは何の意味もなさなかったいろいろな先人の教えが、何かおぼろげにわかってくる。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この「受身のかたち」というところが非常に重要です。
逆に、受身でなく、受動でなく、というのは、即ち、能動ということ。
オレが、ワタシが、する、ということ。
つまり、主語が「我(が)」になるわけです。
そうではなくて、受身、受動であるということは、オレが、ワタシがするんじゃない、主語が「自分以外のもの」であるということです。
それを感じるから、表現が「見せしめられる」と受身にならざるを得ません。
かつて近藤先生のお宅の玄関に「自在」という額が飾られていました。
先生ご自身が書かれたものです。
皆さんはこれをどう解されますか?
「自在ですか。自由自在でのびのびしてていいですねぇ。」でも良いのですが、
私はそれを見て「あれは『自ずから在らしめらるる』とよむのですね。」と先生にお尋ねしたところ、
「その通りだ。」とおっしゃられました。
感じれば、どうしても表現は受身になるのです。
そして、その主語は何なのか、何がそうさせるのか、「自分以外のもの」とは何なのか。
ここで、西行と言われるあの和歌を思い出さないではいられません

 なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

何が働いていらっしゃるのかわからないけれど、ありがたくて涙がこぼれる。
それを感じることが、まさに救いの第二章への入り口となっていくわけです。

 

 

日頃、人間が気づかないこと、無意識のことなどを扱っていると、つくづく思うのは、我々がどんなに内省してみたところで、どんなに分析してみたところで、自分で自分ことを気づけるのは、意識できるのは、ほんの一部に過ぎない、という絶対的事実である。
必ず気づかないことがある。
必ず意識できないことがある。

特に自分の
ひどいところ
汚いところ
ずるいところ
については、本当に気づきにくい、意識しにくい。

どんなに懺悔してみたところで、それはほんの氷山の一角であり、我々が気づくよりも、我々が意識するよりも、我々は、
遥かにひどい
遥かに汚い
遥かにずるい
のである

だから、最近思うのは、それなら最初から、気づかないこと、意識できないこと、込みで、頭を下げておいた方が良い、ということである。
よって、皆さんにもお勧めしておきたい。
一日一回でいいから(一日の終わり、お風呂に入ったときや寝る前など、一人になったときがいい)、すべての人に対して、すべての存在に対して、手を合わせて頭を下げておこう。
「すいません」
「ごめんなさい」
「許して下さい」

その姿勢が、あなたの我を抑え、あなたを通して働く力を発揮しやすくしてくれる。
そうすれば、ひどいなりに、汚いなりに、ずるいなりに、それでもほんのささやかなミッションを果たさせていただけるかもしれないと思う。

 

 

最近、ニュースを見ていると、どうも“潔くない”事案が多過ぎる。

人間だからさ、間違いは起こすし、いろいろやらかすこともあるさ。
私も、間違いを起こさない自信はないし、やらかさない自信もない。

要は、その後で、間違いややらかしに気づいたら、ちゃんと“潔く”認めて、謝りましょう。

でも、実際には、そこでも、さらにウソをつく、言い訳する、一部しか認めない、などと、さらに“潔くない”の上塗りに走る場合も少なくない。

そう思うと、私が思っていた「凡夫」のレベルをもう一度引き下げる必要があるのかもしれない、と最近は思うようになった。

即ち、前述の
「人間だからさ、間違いは起こすし、いろいろやらかすこともあるさ。
が凡夫なのではなく、
「人間だからさ、間違いを起こしたり、やらかした上で、さらにウソをつき、言い訳し、一部しか認めないこともあるさ。」
が現実の凡夫のレベルなのだと。

でもね、そこまで落とすと、書きながら、なんだか寂しい気持ちになってくる。
人間て、どこまで情けなくて、卑怯で、汚いのだろう。

現実の凡夫は確かにそのレベルなのかもしれないけどさ、
それでも私は、間違いややらかしに気づいたら、ちゃんと“潔く”認めて、謝ることのできる、そしてさらに成長して行くことのできる人間の可能性というものを信じたいのである。

少なくとも、私の八雲の同志たちは、必死になってその可能性を示そうとしてくれているのだから。


 

ある報道から

沖縄の海で夫婦でシュノーケリング中、妻が沖に流されたため、夫は救助に向かい、抱きかかえて海岸のリーフエッジに到着し、妻は助かった。
しかし夫は、リーフに座った直後、仰向けに寝そべったまま意識を失い、すぐに病院に運ばれたが、死亡が確認された。
夫はライフジャケットを着用せず、顔全体を覆うタイプのシュノーケルマスクの中には海水が溜まっていたという。

 

あなたは愛する人のために死ねますか?
答えは即答で決まる。
今、「死ねる」と(一瞬の躊躇もなく)即答できた人以外は死ねないのだ。

別に、死ぬ方が良いとも言っていないし、死ぬべきだとも思っていない。
ただ普段から、この人がいない世界に生きていてもしょうがない、と思っている人は死ねるだろう。

もう一度訊く。
今、あなたの自宅が火事で燃えているとする。
あなたは自宅前に逃れたが、あなたの愛する人はまだその燃え上がる大火の中に取り残されている。
あなたはどうしますか?

 

これは「情愛」の話。

そして、見ず知らずの人のために死ねるか、という話になれば、それは人間の「情愛」では無理である。
人間を通して働く「愛」でないとね。
それについては既に述べた。

 

 

人生には勝負時ってあるんだよね
生き方が変わるかどうかの分岐点
今までのニセモノの自分を捨てられるかどうかの分かれ目
本当の自分を取り戻せるかどうかの転換点
そんなときに
逃げないで
誤魔化さないで
卑怯者にならないで
必死に
一所懸命に
ヒーヒー言いながら
挑む姿勢は

たとえ
動悸に襲われながらでも
震えながらでも
泣きながらでも
みっともなくない
かっこわるくない
情けなくない
いやむしろ十分に
立派で
勇敢で
気高いと思う
そんなとき
私は大いに
応援し
支持し
称賛する
そして何よりも
そんな人生の勝負時に立ち会わせてくれたことに感謝し
人間というものへの希望や無限の可能性をまた抱かせてくれたことに感謝する。

こんな生きることに真剣な感動があるから、この仕事はやめられないのである。

 

 

八雲総合研究所の「人間的成長のための精神療法」の「対象」とならない人たちに見られやすい共通の「特性」があります。

それは

「逃避」…逃げなくなってから来て下さい。ここは勝負するところです。

「誤魔化し」…誤魔化さず、痛いところ、恥ずかしいところ、情けないところと向き合えるようになってから来て下さい。

「抵抗」…変わりたくないのなら来ないで下さい。

「自分の生き方・やり方・考え方へのこだわり」「自説の主張」「わかったような顔をしていたい人」…そのまま生きて行って下さい。

「依存」…まず自分自身が必死になって変わろうとする覚悟が決まってから来て下さい。私がなんとかするところではありません。

もし上記の特性を持った方で精神療法を受けたい方がいらしたら、「成長」よりも「治療」の段階と思われます。
これらは、精神科外来では毎日のように出逢う「特性」です。
検索されれば、精神療法専門の精神科医療機関もありますので、そちらをご利用下さい(治療には治療のプロがいます)。

八雲総合研究所は、
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、
「素直」で
「謙虚」で

「一所懸命」な人が、一番向いているところです。
(「治療」を受けている方でもこういう方は改善がとても早いです)

私も全力で応援します。
そしてその準備ができているあなたであれば、きっと成長します。

 

 

精神科の外来に若い綺麗な女性たちがやってくる。

話を聴くうちに、その方々の一部に苛酷な生い立ちが観えて来る場合がある。
そしてまたその方々の一部は、性風俗で働いていることを話し始める。
「一部」と言いながら、その数が意外と少なくないのだ。

最初のうちは、
「なんでこんな綺麗な娘が?」
と思っていたが、虐待的生育史の影響で自己評価が極端に低い彼女たちは、それを証明するかのように、わざわざ自分の女性性を安売りする=自己破壊行動としての自己虐待が始まるのである。

自己評価の低い綺麗な女の子たちは、悪い男たちにとっては絶好の搾取対象であり、
彼女たちも、食べていくだけなら他の仕事で十分なのに、わざわざ体を売るような仕事を選ぶ。
そして、男の性欲処理のために物扱いされることで、彼女たちの自己評価はさらに落ちていく。

性風俗で働く。
体中のピアスの数が増える。
タトゥーが入り始める。
さらに重くなると、
ドラッグに手を出す。
綺麗になるためと言いながら、実は自己破壊のための美容整形手術を繰り返す子もいる。

タトゥーも美容整形もドラッグも、今だけでなく未来に向けて、取り返しのつかない痕を残すことに、より重い自己破壊としての意味がある(覚醒剤では使用をやめた後もフラッシュバッグが起こるようになる場合がある)。

それでもまだ、精神科の外来に来てくれているうちは、彼女たちの心の底に現状を脱したいという気持ちが働いている。
しかしそこにも自己破壊的な衝動が侵入すると、通院は不規則となり、中断や転院を繰り返す。そして通院をやめてしまう場合もあり、事はそんなに簡単ではない。

私の治療経験でも、通い続けてくれさえすれば(年単位はゆうにかかるが)なんとかなることが多い。
タトゥーも止まり、美容整形も止まり、ドラッグも止まり、性風俗で働くことも止まっていく場合がある。
そしてそれは、実はサイコセラピストの腕ではなく、彼女の中に働く、本来の自分を取り戻したい、本当の自分を生きて行きたいという力が、彼女たちを外来に通わせ、彼女を彼女をさせていくのである。
そのために、
操作的な方法を使って、うまいこと言い、彼女を変えようとする治療は大抵、失敗する。
それこそ近藤先生がおっしゃっていた通り、彼女に逢う度に、彼女の生命(いのち)に対して手を合わせて頭を下げる=合掌礼拝(らいはい)しながら、他者礼拝しながら接するということに尽きる。
それを繰り返しているうちに、少しずつ少しずつではあるけれど、こちらの言動の端々から、存在そのものから、彼女に伝わっていくものが変わってくる。
そしてどこかで彼女もそれをキャッチしている。

その積み重ねが、彼女の中に働く、本来の自分を取り戻したい、本当の自分を生きて行きたいという力を強めていく
れもまた簡単じゃないけどね。
それでも、彼女がこの世に生まれて来た尊厳に対する畏敬の念だけは失ってはいけないと思う。
表面の闇がどんなにやらかしても。
我々だけは、人のこころの(表面の闇ではなく)奥底の光を信じて生きていかなければならない。

 

 

「これは、私のいう救いの第一章的なことなのですが、つまりどういうことかというと、お互いに幼児性を認めるということは、弱さを認めるということです。やはりお互いが弱いというところで、共感できるものがあるのです。…
しかし、そういうお互いの弱さ、もろさにおける共感というものですごしているうちに、しだいにそれでは満足できなくなってくる。そういうものなのです。つまりそこでもっと高い、もうひとつ上の次元でお互いに共感を持ちたい、もっとほんとうに自分自身救われたい、こんな気持ちになってきます。そういう気持ちになってきますと、現在の自分のいろいろな悩み、苦しみ、もだえ、毎日ガタガタやってる自分の煩悩の存在、自分の煩悩はどういうものであるか、その性質をはっきりわからなくても少なくとも何か感じるわけです。そして、自分の弱さについてわかってくると、これをなんとかしたいという気持ちがおきてくる。その気持ちが最初に起きることが、次の段階にいくために必要なわけです。私たちは、これをなんでもないように思いますけれど、とても大切なことなのです。
だいたい、我々はもし煩悩だけ、欲望だけの器であるならば、永遠にその欲望を追求していっていいはずです。そういう人間であるならばね。けれども、その煩悩を追求していくうち、ふっと自分自身の煩悩の果てに虚無感が現れてきます。何かつまらないような、しらけた気分になったり、あるいは苦しくなったりします。そのとき、その苦しみをじっと見ているうちに、自分はこんな煩悩を持っているんだなーと、しみじみ感じさせられてくる、そう感じさせるものが我々のなかにある、それは私は不思議といいたい。それは私たちのなかに授けられた力であり、能力であります。私は自分自身の経験からいっても、他の人々の経験からいっても、このような力が人間のなかに深いところで働いているということを感じるのです。これを不思議といいたい。どうしても、なぜであるかわからない。そうしたものにどうして目が開くのでしょうか。
我々はほんとうは愛欲に狂い、金銭を追求し、営利を追求し、そうしたもので所有欲を満足するわけです。その人間がどうして自分自身を省みる、そうした力があるんでしょうか。…反省するとか、自分自身というものについて考えるとかいいますけれど、我々としては、こういうことは不快なことです。本来は楽しいことをやりたいと願う人間が、いやなこと、不快なことをなぜやるのでしょうか。これはたいしたことないようですが、出発点といいますか、その人間の精神の新しい次元に到達するために、ほんとうに救われるための次元に到達する最初の大事なところだと思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

(前回の「その22」からの続きです。)
お互いの弱さを認め、共感の世界にいる ー それだけでも大いに救われた気になります。
しかし、それは救いの第一章。
弱さに浸り、煩悩に浸り、ただ欲望を追求し、快楽に溺れていればいいものを、我々は何故かしら、そこに虚しさを感じて来る。いや、虚しさを感じさせられて来る。
それを内省せざるを得ない。見つめざるを得ない。それが不快な、時にしんどいことであるにもかかわらず。
そういう力が我々の中の深いところに働いている。
不思議ですね、本当に。
そしてそうなって初めてそこに救いの第二章の扉が開かれて来ます。
そうして、勘の良い方はお気づきでしょう。
本当の「情けなさの自覚」は、この力によるものだったのです。

 

 

近所に出かけた途中に、小さな店を見つけた。
「〇〇テーラー」と書かれた、いわゆる「洋服お直し」専門の店である。

間口(正面の幅)は一間(1.82m)ほど、店の中は2畳あるだろうか、という小さな店。
80歳を過ぎたご主人が一人でやっているというから驚いた。

外に料金表が書いてある。
ジーンズ丈 1,000円
丈直し   2.000円
胴まわり  2,500円
など、今どき、欲のない料金設定である。

でも良いよね。
腕に覚えのある職人のおじいさんが、自分の小さな店で、いくつになっても手仕事を続けているなんて。

私もあの年になっても、イス二つだけの小さな事務所で(やはり私には良寛さんの五合庵が理想である)、「洋服お直し」ならぬ「こころお直し」、いや、「こころお育て」の店を続けていたいと思った。

ロンドンのサヴィル・ロウ(Savile Row)に引けを取らない仕事の質への誇りを持ち、
それを果たさせてくれるミッションを感じながら。

あなたの仕事もそうでありますように。

 

 

ある匂いにずっと触れていると、嗅覚がその匂いに慣れてしまってわからなくなることを「嗅覚順応」というらしい。

自分の体臭や香水、自分の部屋の匂いなど、思い当たる経験がある方も多いのではなかろうか。
本人は気づかない(気づけない)ものなのだ。

先日のニュースでも、中学生以下の子どもたちを対象とした調査で、他者の柔軟剤や合成洗剤などの生活用品の人工的な香りによって、8.3%の子どもたち(未就学児2.1%、小学生8.9%、中学生12.9%)が吐き気や頭痛などの体調不良を感じたことがあるという。
もしそれを着ている当人が体調不良を感じたとしたら、すぐに脱いで着替え、親にクレームを言うだろう。
幸か不幸か体調不良を感じなかった本人は、着ているうちに嗅覚順応が起こり、わからなくなってしまっていたのである。

この順応って嗅覚だけの話じゃないよね、ということを今日は申し上げたい。

おかしな言動でも、ある一定期間以上行っていると、それが「おかしい」とわからなくなってくる。
自分では気づかない(気づけない)。
だからね、時々信頼できる第三者にチェックしてもらった方が良いのである。

「おれ/わたしの言動でおかしいとこはない?」

それによってあなたは自分自身の問題/課題に気づくことができる。
例えば、サイコセラピストはそのためにいるようなものだ。

かつて80代の近藤先生が当時30代の私に真顔でおっしゃった。

「松田くん、もし僕が間違っていたら教えてくれよ。」

流石である。

 

 

 

井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)という本がある。

近藤先生との間で同書について話したことは懐かしいが、
(井筒俊彦氏の著作をかためて読んだ時期があったことについてはどこかで触れた)
そのとき、河合隼雄氏がサイコセラピストとして読むべき必読書として挙げていることを伺った。
確かに深い内容の本であるが、後になって、そこに意外な壁があることを知った。

この本を読んでみて「難しくて読めない。」という方が意外と多いのである。

そっかぁ。

一応「読んだ。」と言う方でもディスカッションしてみると、う~ん、と思うことが多い。

正直、そう来るとは思わなかった。

ここで立ち止まって、振り返ってみた。
こういう本が読めるというのは、そんなに大切なことなのか?
それは確かに、読めたら読めたで、知的に味わえるものがあるかもしれないが、私の心の隅にはいつも妙好人のことがある。
字も読めず、計算もできない貧しい人たちの中から、学僧や禅の師家たちが舌を巻くような宗教的体験と境地を持った人たちが出て来るのである。

やっぱりそっちが先だよな。

その体験と境地があった上で、たまたまこのような本や専門書などが読める人であれば、それはそれで味わえば良いのである。

中には『意識と本質』は読めるが、それについて知的遊戯的談議しかできない人もいる。
体験や境地がない。
それじゃあね。

どっちが本質かを間違えてはならない。

そこを踏まえた上で、関心のある方はどうぞチャレンジしてみて下され。


 

ニュース記事をご覧になった方もあるだろう。
まだ幼い子どもが脳腫瘍で余命1年と宣告されたお母さんの言葉である。

「自分の子どもなんですけど、やっぱり大変なんです。介護というか、サポートが。イライラしちゃうときもあるし、投げ出したいときもある。いつまで一緒にいられるかわからなくて。本当だったらすごく大切にしてあげたいんだけど。その一方で、もう自分がすごくつらくて、1時間でもいいから離れて、どこかへ行きたい。そんな思いがあったりしました。」

あったり前ですよ。
健康で持続可能なやり方でなければ、続くわけがありません。
親御さんが疲弊して自責的になる。
そんな負のループに陥らないで済むように、医療・福祉がよってたかっての支援を行う必要があります。
また、親御さんたち自身も、遠慮しないで、抑圧しないで、自ら声を上げる必要があります。
それが似たような境遇にある他の親御さんたちを救うことにもなりますから。

今の日本、声を上げればなんとかなります。
例えば、親御さんが倒れたときに子どもさんをなんとかするくらいの力は日本にあります。
でも(倒れてからではなく)倒れる前に、親御さんの方をなんとかしなければなりません。

良いケアには良い健康が必要です。

声を上げて、休んで下さい。
大切な人のために。


 

ある発達障害を専門に診ているというクリニックの話を聞いて驚いた。
そのクリニックでは、思春期以上か、大人の患者さんしか診ていないというのだ。
それはあり得ないでしょ!

例えば、自閉スペクトラム症のお子さんがいたとして、まずその一次特性(=一次障害)に沿った療育を幼児期から始める必要があるのは当然である。
そうして将来の自立年齢に向かって、本人には徐々に、自分の特性を知り、自分の特性との付き合い方や、その特性を持った上での他人や社会との付き合い方を身に付けて行っていただくことになる。
また同時に、親御さんにも徐々に、我が子の特性を理解し、その特性との付き合い方やその特性を持った我が子が他人や社会とどう付き合って行けば良いかも学んでいただくことになる。
その過程で親御さんには、自身の今までの人間観、教育観、人生観、価値観などの見直しも必要になってくる。
そんなことを、子どもが幼児期、学童期、思春期、成人期と成長して行くにつれ、それぞれの成長段階に応じて行っていく必要があるのだ。
幼児期から成人期=自立するまで、継続的に(できれば中断なく)やることは山ほどある。

そういった適切な療育を幼児期から受けられなければ、いろいろな環境との間で不適応を生じて、幼児期から怒られ続ける、学校でも叱られ続ける、友だち、集団ともうまくいかない、いじめられる、不登校になるなどという体験から、さまざまな二次障害が生じて来るのは必定である。
そうなってからの受診や療育、思春期以降になってからの受診や療育では、一次障害、二次障害の両方にアプローチしなければならず、その間に誤った学習もしているため、それらを解除してから学び直すとなると、さらに大変である。

思春期以降の診断名としても、適応障害やうつ病とだけつけられている場合も多いが、それらは二次障害であって、その根底に一次障害としての発達障害があるかどうかを観抜かなければ、治療方針は大きく異なることになる。
一次障害の発達障害を放置しておいて、二次障害だけ治療することができるはずもない。
二次障害として起こり得る精神障害としては、適応障害やうつ病の他に、不安障害、解離性障害、摂食障害(食行動症)、強迫性障害、物質関連症および嗜癖症、パーソナリティ障害など、多岐に渡る。
それらについても、一次障害に発達障害があるのかないのかで治療のアプローチが変わって来るのは当然である。

それなのに、思春期以降になって、あるいは、大人になってから急に治療を始めようというのであれば、苦戦するのは当然である。
だから、とにかく早く専門外来を受診しましょう、できるだけ早い(幼い)うちに。
そして運悪く、思春期以降、大人になってから受診する場合には、医療機関を選んで、可能な限り、療育的アドバイスが充実したところにしましょう。

そして医療機関の医師、臨床心理士の方々に申し上げたいのは、もし発達障害の臨床に関わるのであれば、いきなり思春期以降や大人になってからの臨床は、二次障害などが重なって相当に応用編なのだな、という認識を持って、可能な限り、幼児の臨床からの勉強を、それも検査・診断だけでなく、療育についても是非学ばれることを強くお勧めしたい。

幼児期からちゃんとした療育を受けながら成育した場合はどうなるのか。
幼児期からちゃんとした療育を受けられずに二次障害(中には三次障害も)が重なって行ったらどうなるのか。
そこらを観通せると、現在の位置付けが観え、本人に合った治療・療育方針を立てやすくなる。

自閉スペクトラム症の診断基準を満たす方だけでなく、その傾向=自閉スペクトラムを持った方々も急速に増加している。
それが本当に実数が増えたのか、実は元々いた方々がちゃんとした眼で観られるようになっただけなのか、よくわからないが、とにかく、少しでも生きづらい人生を、しんどい人生を送らないで済むように、一日でも早く、そして、本人に合った治療・療育につながるような世界になることを願っている。

 

 

研修医1年目。
右も左もわからず、何でもかんでも先輩医師たちに訊きまくっていた。
知らなくて当たり前を盾に躊躇することなく訊けた。

しかし2年目になると、後輩が入って来た。
え、もう先輩ですか?
早くも後輩に教える側になった。
でもまだ研修医。
遠慮することなく先輩医師に訊きまくっていた。

それが3年目になり、5年目になり、10年目になるとどうだろう。
また、助教になり、医長になり、専門医になるとどうだろうか。
キャリアが長くなり、職位も上がって来るにつれ、なかなかあからさまには訊きにくくなって来る。
妙なメンツが邪魔をする。
何十年やっても、院長・教授になっても、本当は知らないことは山ほどあるのにね。
単なる知識面のことでもそうなのだから、これが人間的側面のことになると、さらに訊きにくくなる。
即ち、自分の内面を見つめ、プライベートな自分の未解決の問題を吐露し、それを相談しようとすることは、相当にハードルが高い。
だけれど、それをやってかないことには、人間として、本当の意味での成長がないのである。
キャリアと職位だけで人間性は成長しない。

今になって気がつくのだが、そんなとき、いつの間にか、私自身が年を取っていたことが役に立つことがある。
年上の人、特に相手が高齢者だと、どんなに世俗的にバリバリやっている人でも、なんだか不要なガードが下がって、弱みを話しやすくなるようだ。
近藤先生が「私がおじいさんだと思うと話しやすいんだろうね。」と言われていたのを思い出す。
でも本当は「おじいさんだから」ではなく「近藤先生だから」であることを私は知っている。
自分の成長を心から願ってくれている人に対してなら、人は何でも話せるのである。

だから、どんなにキャリアの長い人も、どんなに職位の高い人も、いつからでも遅くない、ひとりの素の人間、そしてひとりの凡夫として、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持てたら、どうぞ話しにいらっしゃい。

 

 

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