八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

感情についてはしばしば取り上げて来た。
通俗的には、人間が成長すると、感情的にならず、いつも冷静沈着、泰然自若としている、というような大変な誤解/曲解が横行している。
そんなことがあるはずはない。
それじゃあ、まるで不感症の、鈍感なバカである。

そうではなくて、むしろ喜怒哀楽の感情は豊かに、そして綺麗に現れるようになる。
しかし、未熟な頃と違うのは、その感情がサラサラと流転するようになるのである。
感情の本質として、感情は長引かない。
長引くときは、その感情の元となったもの/ことに対して固着/執着が起きているのである。
場合によっては、その固着/執着によって、元々の感情を増幅させたり、変質させたりしている。
それは感情本来の性質ではなく、人間が二次的に作り出したものである。
それが余計なのである。
人間が成長すれば、その余計なものがなくなる。
よって、感情は豊かに、しかしサラサラと流転して行くようになる。
それが感情本来の姿。

たとえそれがトラウマのような出来事に基づく感情であったとしても、思い出す度に、何らかの感情が起きるであろうが、それが段々とブツ切りのようになって来る。
つまり、思い出す度に、何らかの感情は起きるが、連想によって、または他の刺激によって、簡単に流転し、そこに留まらなくなって来るのである。
ネバネバしていたのがサラサラになって来る。
そうしてやがてトラウマ自体が瓦解して行く。

そんな感情の消息を、妙好人の吉兵衛さんがズバリと言い表している。

「俺(わし)も凡夫だから腹を立てる。しかし根が切ってあるので実がならぬのだ。」

「根が切ってある」の前に「阿弥陀さんのお蔭で」を入れると、より明確になる。
その方が、自力でなく他力で切っていただいている、という感じがはっきりする。

今日も明日も、相も変わらず、腹立ちは起きる。
しかし、我々が成長すればするほど、腹立ちもまたサラサラサラサラと流転して行くようになるのでありました

 

 

最近の知見では、円形脱毛症(AA:alopecia areata)は、心因性のもの(ストレスによるもの)ではなく、(成長期毛包組織に対する)自己免疫疾患と考えられている。
よって、その治療も局所的免疫療法、ステロイド療法、紫外線療法、免疫抑制剤療法などが行われている(詳細は専門的に過ぎるのでご関心のある方は、日本皮膚科学会 円形脱毛症診療ガイドライン2024 参照)。

しかし、ふと思う。
エビデンスに基づいたガイドラインであるから、その治療法で治癒している方々が実際におられるのであろう。
しかし、私が今まで心因性のものとして治療し、円形どころか、頭髪全体から眉毛まで抜けていた女性が、精神療法のみで全く完治してしまったのも事実である。
あれはどういうことだったのであろうか?
その治療には抗不安薬も使っていない。
まさかたまたま自然経過で生えて来ただけというわけでもあるまい。
少なくとも彼女の精神的成長は明らかであった。
(ちなみに先のガイドラインでは、抗不安薬の投与も心理療法も「推奨しない」となっている)

真実はどこに?

また、心的外傷後ストレス障害(PTSD:post traumatic stress disorder)の患者さんにおいては、海馬の萎縮があることが報告されている。
これまた、私が精神療法による治療を行なって来た方で、幸いにも、徐々に回復し、遂に完治した青年がいた(しかも私の行った精神療法は PTSD治療ガイドライン[第3版]で推奨されている精神療法ではない)。
ということは、その人の海馬は、治療によって体積を増したのか、それともたまたま海馬が委縮していないタイプの方だったのかしらん、と思う。
少なくとも彼の精神的成長は明らかであった。

真実はどこに?

最近はエビデンス流行りであるが、一理があってニ理がないエビデンス倒れも散見される。
あくまで臨床現場の実体験を大切にして、真実の居場所を観誤らないようにしたい。

 

 

「これは、女性の方が今日は多いから言いますが、あなた方の旦那さんとかね、いうものに対する考え方をひとつよく見て下さい。私があなた方に、旦那さんを愛してらっしゃいますか?と訊けば、皆さん、手を挙げられると思うんです、ね。しかし、本当に愛だけですか? どうでしょ? 甚(はなは)だこんなことは言いにくい話だけども、やっぱり憎んでいるところがあるはずです。これをはっきりさせないもんだから、だから、ものがはっきりしないところがあるわけです。癪(しゃく)に障(さわ)るけどしょうがない、まあ、食うね、素を持って来てくれるんだから、しょうがない。亭主と認めてやるわ。こういうところがあるわけですね。男性が今日は、一、二、三、四人だから、合計五人だから、思い切って言える。男性をイジメる会ってことじゃないかもしらんけども、けども、そういう男性がそこで、オレこうやって威張ってるけれども、威張ってる相手の奥さんのお腹の中に二つあるわけです、ね。つまり愛憎ということがあるわけです。
恋人に対してもそうですよ。愛人というけれども、愛しているけれども、それは必ずしも全てが愛ではないはずです。憎らしい。私をこんなに待たせて酷(ひど)い人。私はじっと待ってなくちゃいけない。私はコーヒーをもう何杯飲んだ、胃がお蔭で変になっちゃったってなことがある。それは腹が立ちますよね。なんで待たすの? でも私は愛するから仕方がない。こうなっちゃうでしょ。必ずそういう矛盾した気持ちがある。
日本の女性は、そういう点は、非常に、あの、なんていうか、よくできてるというか、大人しいというか、言わないから、その愛憎を二つ出ない。自分の中の憎しみに気がつかない。気がつかない結果、それがね、あんまり、あの、解決されない。そのままずるずるべったり行って、最後に腹が立ってね、六十ぐらいになって、これから離婚します、なんて言う。親父さんが弱くなっちゃって、今度はね、おまえ、頼むよ、頼むよっていうことになって来るとね、さあ、ご覧なさい、と言ってね、今度は、愛より憎しみが出て、私をどんなにイジメたでしょ。もうあなたなんかおっぽっちゃう、なんていうわけで、まあ、必ずしも言わないよ、そういうことになっちゃう。
そういうふうな愛憎というものが子どもにあるんですよ、良いですか。ここがね、今、あなた方が自分の旦那さんやお父さんを笑ったかもしれないけども、今やまさに子どもから見りゃあなた方がそうなんだ。母親に対する愛憎、それから父親に対する愛憎、父親はもっとひどいんだな。父親が、よく考えてみると、最初の敵意は母親がそうですが、同時に最も強力に侵入して来るのは父親です。お母さんの傍(そば)にゆっくりこうやって、乳房にくっついて傍にいたいときに、突然夜になってお母さんを奪って行くのは誰ですか? お父さんでしょ。そういうときに子どもは、おぎゃあおぎゃあと泣きながらですね、侵(おか)されてるんですね。
近頃は3LDKになると、子どもは別のところにおいて、お母さんとお父さんは別のところにいるだろう、ね。従って子どもは非常に孤独の中に残されるわけですよ、ね。お母さんとお父さんは楽しいかもしらん。そういうときにいつも自分の大事な大事な、子どもにとっては安心と、その、本当に安心感と、なんていうか、満足の元である、源であるお母さんを奪って行くのはお父さんでしょう。お父さんていうものはね、まず最初にはね、自分から自分の愛する者、自分の安心の元を奪って行く対象として見られるんですよ。ですから、子どもにとって最初はね、親父なんてちっとも有り難くない。
その証拠に、親父もまた子どもをあまり可愛がらない。うるせえな。少し黙らせたらどうだ、なんていうことになっちゃう、ね。おまえが悪いんだってなことになってね。うるさい。こういうことになる。
そういうふうに、父親と子どもってものは、最初は、最初の経験は、僕は愛ではないと思う。これは今まで見て来たように、そうではなくて、むしろ原本的に、あの、愛の経験は母親でしょ、恐らくね。父親は要するに、後は、今度はどうかっていうと、それは、父親の有り難みが少しわかって来るのは、もう少し後なんだ、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、アンビバレンス(『アンビバレンス(1)参照』)の対象となるのが、母親だけにとどまらないということ。
夫、恋人などさまざまな人がアンビバレンスの対象となり得る。
その中で、特に女性は、自分の「憎」の部分に気づきにくい。
しかし、気づかなくても実際にある「憎」が、後になって復讐を果たすこともあるのでご注意を。
そして、やはり子どもにとって、最初の愛の経験の対象は母親。
父親は自分から愛する人、安心の元を奪って行く存在でしかない。
父親の本当の出番はもう少し後になってから。
こんなことも、近藤先生の講演を機に、ちょっと知っておくとね、夫婦関係や親子関係において、不要な問題を引き起こさないで済むかもしれない。
良い悪いではなく、人間のこころの事実として、アンビバレンスというものがあることを知っておきましょ。

 

 

名もなき陶工がいた。
毎日毎日、日常雑器としての茶碗や皿を何百、何千と焼き続けていた。
そんな毎日の繰り返し。
そんな中で、ふと“できてしまう”器があった。
人間国宝でも作れない究極の名品が“なってしまう”ことがあった。
そして世に埋もれがちなそんな作品を“目利き”して取り上げたのが、柳宗悦の民藝運動であった。
無名の作り手がふと“作らされた”名品があるのである。
(そんなことにご関心のある方は、東京目黒の日本民藝館に行かれると良い)

それには遥か先駆がある。
茶道において、それまで城も買えるような高価な茶碗=“名物”志向であったものを、例えば、朝鮮半島の庶民が使っていた飯盛り茶碗などの日常雑器などの中から“目利き”して選び出し、茶碗として使ったのが千利休であった。
流石である。

そして、同じことが人間においても起こった。
浄土真宗の門徒のうち、字も読めない、計算もできない、貧しき庶民の中に、本願寺の法主や禅の老師も驚くような深い信仰の境地を持った人たちが現れて来たのである。
それを妙好人という。
妙好とは白い蓮の華のこと。
泥より咲いて 泥に染まらぬ 蓮の華 である。
そんな人が出て来る、泥=娑婆の中から。

だから、何も世俗的に、立派な人や偉い人を目指さなくていいんですよ。
繰り返される日常の中で、余計なはからいのない日常の中で、なんだか知らないけれど“できてしまう”“なってしまう”尊さがあるんです。

 

 

首都圏近郊の小さな都市に出かけることがあった。
所用のあった高台に建つビルの最上階レストランから、低い山に囲まれた市街地を見下ろすことができた。
山の緑に囲まれた中に、戸建て住宅やアパート、小さなマンションなどがたくさん建ち並んでいるのが見える。

ふと今まで出逢って来た、いろいろな人たちの暮らしが思い出された。

児童養護施設を十八歳で退所し、一人暮らしと仕事を始めたばかりの青年。
家事も仕事もまだ慣れないし、何にも自信はないけれど、一所懸命に生きている。

夫も娘も息子も発達障害という状況で、親の介護もしながら孤軍奮闘しているお母さん。
溜め息をついた後、
深夜自分のためだけに淹れる一杯のコーヒーがやすらぎ。

長年二人だけで生きて来た夫を七年前に亡くしたおばあちゃん。
気丈に生きているけれど、「昨日会いたくて涙が出ちゃった。」と微笑(わら)う。

そんな暮らしが、きっとこの眼下の街の中にもある。

そして
臨床で出逢って来た人たちにも
八雲で出逢って来た人たちにも
やはり誰とも違う、その人だけの人生と暮らしがあった。

これからも、まぎれもなくここに人間が生きている、という人たちと出逢いながら、私もまた生きて行きたいなぁ、と思う

 

 

来たる4月13日(日)開催の『陽春のハイブリッド勉強会04』の開催要項をアップしましたので、ご関心のある方はご参照下さい。

毎月開催している八雲勉強会のうち、ワンシーズンに1回=3カ月に1回を、ハイブリッド勉強会(会場での対面参加 あるいは Zoomによるリモート参加のどちらも可能)として、現在、八雲総合研究所に通っている方以外にもオープンに開催しています(詳細は開催要項参照)。

今回も、内容は2部構成で、

前半は、レクチャー&ディスカッション『体得ということについて』で、
これまでのハイブリッド勉強会では、
第1回01『はじめまして/ひさしぶりの真夏の勉強会』では、基本的「人間観」「世界観」「成長観(治療観)」「人生観」を
第2回02『仲秋のハイブリッド勉強会』では「人間の成長段階について」を
第3回目03『新春のハイブリッド勉強会』では、「人間の承認欲求について」を取り上げて参りました。
今回第4回04では、「体得ということについて」を取り上げます
講師からのレクチャーの後、気づいたこと、感じたことなどを自分自身の成長課題や問題に引き付けて、話し合い、深めて行きましょう。

そして後半は、ディスカッション『鉑言(はくげん)に深める』で、ここでは、所感日誌『塀の上の猫』の中の「金言を拾う」シリーズを読んで、自分が気づいたこと、感じたことなどを自部自身の成長課題や問題に引き付けて、話し合い、深めて行きましょう。
金言を鉑言鉑とは白金、プラチナのことです。金からさらにプラチナへ)にまで深めて行くのが『鉑言に深める』の目標です。

人間的成長を目指す“仲間”たちの参加を心からお待ちしています。

 

 

寒暖の差が激しいこの頃である。
風邪を引きやすく、コロナもインフルエンザもまだ収まってはいない。
花粉症も全盛で、鼻閉(鼻づまり)から口を開けて眠り、ノドをやられる人も多い。
そうでなくても、元々持病のある方、長く闘病中の方々もいらっしゃる。

このように体調が悪いことを、快か不快かと訊かれれば、間違いなく不快ではあるが、だからこそ気づける大切なこともある。
それは症状が重ければ重いほど、気力・体力を奪われて、却って自力が失せてしまうということである。
我の願いは、何事も自分の思い通りにしたいということだが、自力がなくなればなくなるほど、我は弱り、無我に近づいて行く。
そうなると最早、他力におまかせするしかなくなるのだ。
その境地が与えられるというのは、非常に有り難いことである。

人間、弱らないとわからないことがある。

いわゆる修行において、よく難行・苦行が行われるのは、人工的に弱らせておいて、自力を奪おうという作戦なのだ。

従って今、闘病中の方々よ、闘病は辛いが、今だからこそ授かりやすい体験がある。
丹田呼吸をして、祈って、深い境地に誘(いざな)っていただきましょう。

 

 

以下は、いわゆる神経症圏の方に対する薬物療法のお話。
しっかりとした薬物療法の継続が極めて重要な、いわゆる精神病圏の方には当てはまらないので、誤解なきように。

 

例えば、不安障害の患者さんがいらしたとする。
パニック発作などの不安にとても耐えられず、精神科を受診された。
そして処方された薬が著効し、不安が起きなくなった(あるいは、不安が起きてもすぐに服薬で対処できるようになった)。
大変喜ばしいことである。

しかし、ひとつ問題が起こる。
薬によって不安を解消できたのは良かったが、そのせいで、不安が起きる根本について自分の内面を見つめなくても済むようになってしまったのである。
そのため、ずーっと薬を飲み続けることになってしまうかもしれない。
実際、何十年も薬をもらいに通っている方々がいらっしゃる。
ご本人がそれで良いのなら良いのだけれど、完治への道もあることは御存知なのかしらんと思う。

反対に、敢えて薬物療法を使わず、薬を飲まないで、自分自身の内面を徹底的に見つめて行こうとする方も(稀に)いらっしゃる。
なるほど、そのやり方なら、根本的な完治に至る可能性がある。
しかし、その姿勢は立派ではあるけれど、鉄の意志と鬼の根性で耐えるには、不安が強烈過ぎる場合もある。
そういうときは、せめて薬物療法を併用して、薬でちょっと気持ちの余裕を作りながら、内省を進めて行くのが一番良いんじゃないかと私は思っている。

薬は使いようである。
折角、製薬会社の人も一所懸命に創って下さっているのだから、必要な方は賢明に活用するのが良いと思う。
しかし、使いようを間違えると、対症療法が成功して根本療法が行われなくなってしまう、という危険性があることを知っておきたい。

 

ちなみに今、八雲研究所に面談に来られている方は、治療対象の方ではないので、全員薬なしで、しんどいときもヒーヒー言いながら、自分と向き合って行きましょう。
 

 

『論語』里仁篇に
「子(し)曰(のたま)わく、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能(よ)く人を悪(にく)む。」
([現代語訳]孔子が言われた。「ただ仁の人だけが、本当に人を愛することができ、人を憎むことができる。)
とある。

昔は何度読んでみても、その真意がわからなかった。
能(よ)く好む? 能(よ)く悪(にく)む?
好んだり、嫌ったり?

それじゃあ、ただの我(が)の選り好みじゃん。
儒教の根本とする仁=愛の体現者であるはずの仁者が、相手を絶対的に愛することはあっても、そんな体たらくであるはずがない。
疑問に思って、さまざまな注解書を読んでみたが、どれも腑に落ちることが書いていない。

そうこうするうちに、ようやく感ずるところがあった、あの人間存在の二重構造がわかってから。
仁者たる者は、相手の中にある存在の絶対的尊さを感じている。
そしてその上で、その尊さの上を覆っている人間の、いかにも人間らしい、あるときは愛おしく、あるときは憎たらしい面を十二分に感じているのである。
よって、相手の存在の持つ絶対的な尊さに対して、畏敬の念を抱きながら、あるいは、抱いた上で、その上を覆う極めて人間的な面に対して、自由に、そして存分に、好み、あるいは、悪むことができるのである。
能(よ)く好み、能(よ)く悪(にく)む。
なるほど、良い得て妙である。
相手の存在の持つ絶対的な尊さを感じることが大前提。
それがわかって初めての「能(よ)く」となる。

それにしても、金言というものは、こちらが成長するにつれて、その真意を開示して来ると、つくづく思う。
私が聖なる古典の心読を皆さまにお勧めする所以(ゆえん)はそこにある。
読んでみての疑問や感想は、また面談のときに話しましょう。

 

 

「子どもにとって環境っていうことを段々と今、私は考えてみまして、環境ということ、親子ということが非常に大事で、つまり、最初の母親と子どもの触れ合いっていうものが一番最初の問題です。…
で今、母と子の問題を持ち出したわけです。母と子の問題は、同時に、母が単に一人じゃなくて、夫がある以上は、ここには夫婦の問題もあります。父親と子どもの問題も出て来ます。親子の問題と言っても良いだろうと思いますね。
さあ、そこでです。わかりやすくするために、そのね、お母さんと子どもの問題から出発しますと、あの、非常に、こう、なんと言いますか、単純なことですから、ひとつ、ご経験のある方はわかると思いますが、子どもが最初に、赤ん坊がですね、男の人は絶対にわからない、女の人しかわからないんだが、乳房をくわえます。自然にこう、あれは、あの、吸う本能がございましてね、それで自然に、こう、やるわけです。これは動物全部にあるわけですね。こうやる。そのときに、どうも、吸ってるうちに、それはまず胃に対して非常に良い、その、満腹感を与える、満足する。と同時に、唇ね、唇の中に含む、唇の触感、こうしたものが快感を与えます。
ですから、乳房は単に、二つの目的、一つは、ほんとは三つあるんですが、一つは、自分が飢えたとき、食べたいとき、その成長する欲望である食欲、それを満たしてくれる。喜びがある。第二には、そういう唇による触感によって快感がある。第三は何かというと、そこで実は、後に母の胸に抱かれるというふうな感じで、安心感があるんですね。この三つが、実は、あの、子どもが最初に感じる環境で、そういう三つが満たされたときに、赤ん坊は非常に満足するわけです。そういう意味で、大変簡単に言いましたけれど、それは基本ですから、ひとつね、ずっと覚えておいていただきたいです。
で、そういうものがですね、あって、のんびりしてますと、それにこう、例えば、お腹が空いていなくとも、お母さんの乳房をこう口で含んでいますね。お母さんがそれをこう取ろうとしますね、お母さんも仕事がありますから。そうするとね、イヤでしょ。その最初のね、ガチッとこう噛むんですね。そのとき歯が生え始めていると、お母さん、痛いでしょ。お母さんとしては、非常に、自分自身も、これは母親の方にもまたね、これは父親、男にまたわかんないことだけれども、乳房を含ますということは快感です、喜びです。我が子を育んで行くという最初の、この、気持ちですね。そういうものがね、あるわけですね。そういう気持ちでやってる。両方ともハッピーな、ハネムーン時代ですね、これはね。
だけども、それがね、ちょっとね、この、お母さんが外す、電話がかかってきた、ちょっと。そうすると、そういうことがあると、非常にね、自分の快楽を奪われるわけですね。そういう自分の安全感を奪われるわけでしょ。そこで子どもは、ギュッとそれに対して、自分に不安感を与え、不満を与える人間に対してね、最初の敵意というもの、その最初の敵意は、敵意っていうのは心理的にも今、大人にも言いますけども、どういうことか、具体的に表れて来るのは噛むことです。乳房を噛まれなかったお母さんはいらっしゃるかな? 人工哺乳をやらない限り、必ずこの経験はおありのはずだと思う。なんでもない、まあ、この子はってな調子でこう過ごしていらっしゃるかもしれんけれども、それはそういった心理的な状況を含んでるっていうことを考えておいて下さい。ていうのは、これが僕は、これくらいのときに起きる敵意という、非行だとか、いろんな問題の元になる敵意の、最初の表現だからです。
つまり、その場合に、非常に子どもはね、その、矛盾した気持ちになるわけですね。矛盾した状態に置かれるわけです。これは大人でもあるんですが、はっきり言うとね。矛盾した状態、どういうことか。片っ方でお母さんに頼り、お母さんが自分のいろんな安心感とか快楽とかいろんな欲望を満たしてくれる、その源ですね。ですから、それに対して依存するといいますね、頼りにするわけです。片っ方で頼りにし、それを必要とした。ところでお母さんは同時に、自分からその安心感とか楽しみとかを奪って行く人でもある。同じ人が、片っ方では快楽の源であり、安心感の源である。不安を感じない源であるのにも拘(かか)わらず、その同じ人が自分から安心感を奪って行く。ひとりの人に対して、愛と憎しみと、大人の表現を使うと、そういう形になるわけですね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

まず、母親が自らの乳房から子どもにお乳を与えることの三つの意味、これを押さえておきたいと思います。
ひとつは、空腹を満たしてくれる、満腹感を与えてくれる、食欲を満たしてくれる喜び。
ふたつには、母親の乳首を吸うという唇による触感、その快感の喜び。
みっつには、母の胸に抱かれるという安心感。
そして次に、そうは言っても、母親には母親の生活があるわけで、その三つの喜びをいつも子どもに与えていられるわけではない。
よって、子どもにしてみれば母親は、片方で、上記の三つを与えてくれる愛しい存在でありながらも、もう片方では、その三つを奪う憎らしい存在となるのである。
ひとつの対象に対して抱く相反するふたつの心的傾向。
それがアンビバレンス(ambivalence)(ドイツ語だと、アンビバレンツ(Ambivalenz))=両価性。
そしてこれは母子関係だけでなく、さまざまな(特に近くて大切な)人間関係において見られる現象なのである。
あなたには思い当たる人、いませんか?
そのことについてはまた次回に。

 

 

ああ、この人のためなら何でもしてあげたい、という愛情が燃え上がるときがある。
そして、尽くす、尽くす、尽くす。
それは愛「情」であるからこそ燃え上がるが、
「情」には常に「我」が付きまとう。
「我」 の反応こそが「情」なのである。
よって「我」は主観的満足を求める。
で、どうなるか。
その尽くした分だけの主観的満足=「我」の満足=見返りがないと、へこたれてしまうのである。
あんなにしてやったのに。
甲斐がない。
そうなると、あんなに尽くしていたのに、忽(たちま)ちに恩着せがましくなったり、恨みがましくなったりする。
はっきり言ってしまうと、セコいのである。
そんな愛憎事件、たくさんありますよね。
親子間でもよく起きている。

それに対して(「情」の付いていない)、「愛」は違う。
「愛」は人間によるものではない。
人間を通して働くものである。
よって、一方的である。
主観的満足=「我」の満足=見返りを必要としない。
これは尊い。

愛情はへこたれるが
愛はへこたれないのである。

我らは、残念ながら、愛情にとらわれる凡夫であるが、
時に愛に恵まれるところに救いがある。

だからね、今日もまた、祈るしかないのでありました。

 

 

公園で小さな子どもが遊んでいる。
まぁ、じっとしてないこと。
フツーに歩けば良いのに、走り出す、ジャンプする、回転するなど、やりたい放題である。
生命力が小さな体から溢れ出ている。
おまえら、生きてるの楽しいだろ、とつくづく思う。

と思っていたら、上には上がいるもので、あるテレビ番組で、子ヤギの様子を放映していた。
あいつらも、走る、ジャンプするなど、じっとしていない。
しかし、そのジャンプにはプラスαがあった。
あいつらはただジャンプせず、ジャンプしたと同時に体をツィストする(捻る)のである。
ただジャンプするだけでは、まだ足りないのだ。
クィッとツィストする、クィッと。
やるなぁ、子ヤギ。
生命力の溢れようが一段上を行く。
You Tube で探してみたが、そのときテレビで観たようなツィスト三昧の良い動画はなかった。
せめてこの動画だと少しは雰囲気が伝わるかもしれない。
ご関心のある方はご覧あれ。

 

そして今、まわりに人がいないのを確認してから、そっとジャンプして体をツィストしてみたあなた!
あなたはわたしの仲間です。
(ちなみにこ子ヤギのジャンプのエピソードは、先日の八雲勉強会でもご紹介したが、今の参加メンバーは皆、実際にジャンプしそうな人たちばかりである)
さ、ご一緒に、生命力の発露を体感しましょう。

 

 

今日は令和6年度最後、10回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目に続いて10回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

さて、先に述べた process によって定立した「仮幻の自己」の内容は、それぞれの個人によって自ら特異な様相をもち、それぞれの神経症的性格の差を形成して行くのであるが、Horney はこれを大別して三種の方に分ける。もとより、全ての類型学がそうである様に、あくまでもそれは、性格理解の為の一応の目安をつけるのにとどまる。人間の個性は色々な variation をもつものであるから、臨床に当っての観察は、患者に固有な心的現象を理解することが重要であるのは当然である。従って次の分類も、この様な前提のもとに理解されるべきであろう。

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

この型の傾向の人々は、自己を嘆賞の中心として(自己陶酔型)、或は道徳的知的に完璧優秀なるものとして(完全主義型)、或は全能な征服者(復讐型)として考える「仮幻の自己」を持つ。嘆賞と支配と優越に対する追求が、彼等の安全を守るのに必要不可欠なるものとして、行われるのである。
彼等に共通なのは、自分の優秀さに関する誇り pride である。何事も自分には可能であり、不可能なものはないと言う傲慢な自信である。現実や他人に対する要求 claims は、現実や他人が、自己のこの様な優越性を立証すべきものであり、他人は自分を嘆賞し、尊敬し、自分に屈従すべきものであり、自分は批判する権利はあっても、現実や他人が自分を批判することは許されないのである。
非はいつも他人にあり、正義は常に自分にあるのであるから、彼の価値を疑ったり、要求に従わない時は、当然、彼はそれに対して復讐し、攻撃してよいのである、そうすることは、彼の優越性をまた立証することにもなるのである。
もとより、自分の優越性に心酔している彼にとっては、他人が彼を嘆賞し、彼のまわりに集って来る場合には、それらの人々に対して寛大であり極めて愛想よく親切であることも多い。
しかし、この寛大さや親切はみせかけである。一人でも彼の意見と違ったり、彼に批判めいた事でも言えば、その人に対する今迄の寛大さや親切さは消え、軽蔑か、冷淡か、敵意か、更に残酷な計画的な復讐が取って代るのである。
他人は、彼の価値や野心や勝利の為の道具であり、材料に過ぎない。だから人間に取り巻かれながら、根本的に言って彼は孤独である。しかし、この孤独感を感じることは彼の自分自身に課する要求 shoulds によって抑圧、禁止される。
何故なら、孤独感は弱さであり、優越し、全能である彼は、弱くあってはならないからである。同じ理由の為に彼は自分の中に起きて来る自分の優越性や、完璧性、或は自分の野心的な態度等に関する不安や恐れを禁圧しなければならない。失敗はあってはならぬし、又同時に考えてはならぬのである。そして、考えない事によって失敗は主観的に抹殺されるのである。
この型の人間に於いては「仮幻の自己」に対する同一化の程度が高いので、「現実の自己」は深く省みられない。むしろ、彼の神経症的要求 shoulds が「現実の自己」を見ることを禁じているからである。
事実、それによって、彼の自己満足、全能感、完全性は保たれているのである。しかしそれにもかかわらず、取巻きや喝采がなくなった時、自己過信の余り、手を拡げ過ぎた事業が失敗した時、或は自分の知性や意志力をもってしても如何ともしがたい、子供の死や、事故や、妻の不貞や、更に彼の征服と復讐の衝動が、結果として破壊的になり、必然的に他からの強い反撃を呼び起こした場合、否応なしにそこに露呈される「現実の自己」の弱さと不完全さを見ざるを得ない。それは、彼に激しい自分に対する憎悪、軽蔑を感じさせずにはおかないのである。
この様な態度の結果として、彼は人間の生活を生き甲斐あらしめる、愛情とか、幸福、喜び、創造性や成長 ー 私達が「真の自己」の現れと解する種々なものから疎外されて来る。
この自己疎外すら彼は否定しようとするであろう。しかし分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである。

 

今回取り上げる「自己拡大的支配型」という神経症的性格の持ち主とは、あのエラソーで傲慢な、すぐマウントを取って君臨したがり、鬱陶しくも圧の強いアイツのことである。
対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」(次回取り上げる)にとっては最大の“天敵”であり、こういう人物が上司になれば、下は病むか辞めるかのどちらかになることが多い。
しかし、所詮は“張子の虎”であるため、どこかで躓(つまづ)き、しくじり、虐げていた人々からの総反発を招くと、その虚勢は瓦解し、一気に抑うつ状態に陥る。
問題はそのときで、散々迷惑を被(こうむ)って来た連中が、愚かにも「大丈夫だよ。」「あなたは優秀だよ。」「よくやってるよ。」などと慰めると、何の反省もなく簡単に復活する。
よって、「自己拡大的支配型」にとっては、その落ち込んでいるときが、数少ない成長のチャンスであり、どこが問題で、どのように変えていかなければならないか、をしっかりと詰めて教えなければならない。
しかし、そんな面倒臭くて嫌われ者の「自己拡大的支配型」の人間に対しても、「この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間である」と書いておられる近藤先生の姿勢には、返す言葉もなく頭が下がるばかりである。
その人を覆う闇がいかに深くても、その中にある「真の自己」という光は常に発現したがっている、という真実を忘れてはならない。

 


 

「所詮世の中そんなものさ。」
と嘯(うそぶ)く人がいる。

“世の中”のことをどれだけわかった人が言っているのかと思ったら、結構若い人だったりする。
また、ある程度年輩の人でも、その人の人生経験は、どこまで行ってもその人だけのもので、また、一生のうち、頑張ってたくさんの人に出逢ったとしても、100万人も行かないのではないか。
残念ながら、世界人口は八十億人以上なのですよ。

しかも、よく聴いてみると、そういう“思い込み”は、その人の人生の早いうちに形成されている場合が多い。
若いうちの“世界”=“世の中”というものは、家庭の中か、学校の中か、地域の中か、まだ勤務年数の少ない職場くらいのもので、そこで体験したことが、その人の世界観、人生観、人間観に色濃く影響を与えている。
そしてそれがもし否定的なものであったならば、その体験が“汎化”されて、「所詮世の中は…」ということになるのである。

そしてその後、身の回りやニュース上でさまざまな出来事に接したとき、その中から自分の世界観に合致したものだけを(無意識に)抽出して、「ほら、やっぱり、所詮世の中は…」と自らの思い込みを強化して行くのだ。

よって、まず気づきましょ、自分の“思い込み”に。
ひょっとしたら、そうじゃないんじゃないかと。
大疑ありて大悟あり。
大切な成長はいつも、今の自分を疑うことから始まります。

世の中は“そんなもの”ではありません。

 

 

皆さんは、十一面観音菩薩というのを御存知であろうか。
頭上に十の小面を付け、本面と合わせて十一面を持つ観音菩薩のことをいう。
今回は、その十一面の内訳のうち、正面三面の慈悲面と左三面の瞋怒(しんぬ)面の六面についてお話したい(他の五面についても話すと長くなるため、それはまたいつか別の機会に)。

まず正面三面の慈悲面。
慈悲のお顔が三つ並ぶ。
慈悲とは、抜苦与楽のこと。
苦しみを抜いて(抜苦=悲)、楽を与えて下さる(与楽=慈)。
深みを持った優しさのお顔立ちである。

次に左三面の瞋怒面。
瞋も怒りを表し、慈悲面と打って変わって、怒りのお顔が三つ並ぶ。
それも、あからさまな怒りというよりは、迫力を秘めた怒りを有しており、凡夫の迷いを断ち切るにはピッタリである。

そうなんです。
凡夫に光をもたらす慈悲面。
凡夫の闇を掃う瞋怒面。
どちらも観音菩薩の示す救いとして、十一面に含まれていることに意味があるのです。

慈悲面だけで、いつもよしよししてくれるのが、観音菩薩の働きではありません。
瞋怒面で、容赦なく闇を叩っ切るのも観音菩薩の救いであることを押さえておく必要があります。

人間の成長に関わるすべての人に慈悲面と瞋怒面を。
但しそれは、“あなた”の優しさや、“あなた”の怒りのことではないことをお忘れなく。

 

 

基本、我々は凡夫である。
それはポンコツでアンポンタンという意味である。

それなのに我々は、恐れ多くも、
親になったり、
先生になったり、
治療者になったり、
支援者になったりする。

とんでもない話である。
そもそもやれるはずがないのである。

それでも、どうしてもやるというのならば、その基本姿勢は、
「ポンコツでアンポンタンですけど、一所懸命やりますから勘弁して下さい。」
ということになる。

間違っても、自分が何かできるなどと思い上がってはならない。
何かできたように見えたときは、自分を通して働く力が何がしかのことをして下さっただけであり、
決して自分の手柄と思ってはならない。

凡夫は基本、無能・無力にしてしばしば(ほぼ)有害。

何もできないときや、相手に迷惑をかけそうなときは、天に向かって、
「助けて下さい。」
と祈りましょう。

それが、凡夫なりの精一杯+おまかせ、の生き方。
我々にはそれしかないのでありました。

 

 

そこでまあ、その安全ですけども、皆さん、どう考える? これはもう人間のね、子どものときに、僕は、そう思うんですね。子どものときに、母親のね、胸に抱かれて、こうやってるときにね、あれはね、なんとも言えない、安らかな感じがしますよね。あれは素晴らしい安全感だと思うんです。子どもにとって安全感ぐらいね、大事なものはない。このことを言い始めるときりがないですけどね、子どもの問題としてね。それがないためにどんなに、いろんな問題が起きてるかわからない。
そういうふうなことが、例えば、私の、ひとつの例を挙げれば、今、小学校の3年になる女の子が、登校拒否を始めた。何故か? それは、嫁と姑がいるんですね。その間がガッチャンガッチャンやったわけです。で、お母さんが、もうこんなところにはおれないから、私は出て行く、とこう言ったわけだね。それを子どもが聞いてたわけですね。そうするとね、すごく不安になるわけですよね。そのためにね、学校に行ってる間に、もしやお母さんがどっかに行っちゃうんじゃないか。それでね、学校に行かないでお母さんの傍にくっ付いたままでいるんですよ、こうやって。それが登校拒否の原因だと。つまり、自分にそういった安全がなくなるということ、お母さんについてね。まあ、そんなことを、まあ、ひとつの例で挙げますけどね。
そういう安全感というのは、子どものときから、そういうものがずっとあると思うんですよ。けどね、そのために、さっき言ったように、我々は大人になっても、自分の安全を守るためにいろんな方法をしてるわけなんですけどね。一体、安全というのは何のためにある。もう一遍考えてみる必要がある、と私は私のとこにいらっしゃる方に言うんですよ。僕はよくわかりますと。僕だって安全っていうことを考えますと。しかし、安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか、いうようなことを、まあ、訊いてみるわけです。これはまあ、いろいろ、皆さんも議論があると思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもにとっては、まず自分の心身の安全は最重要事だと思います。
そうでないと、小さくて弱い子どもは生きて行けません。
そしてそのときに覚えた自分の安全の守り方が、大人になってからも自分の安全の守り方のベースになって行きます。
その安全の守り方が、健全なものだと良いのですが、残念ながら多くの大人が身に付けているのは、前回取り上げた「神経症的人格構造」ということになります。
おかしなことをやらかしてでも、自分の安全を守りたい。
事程左様(ことほどさよう)に、人間というものは、自分の安全が大事というわけです。
そこで近藤先生は、疑問を提出します。
安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか。
まあ、すごい質問をさらっとおっしゃるもんだ、と初めてこの講演テープを聴いたとき、私は唸ったのを覚えています。
皆さん、答えられますか?
私はすぐにイエス・キリストのことが思い浮かびました。
吉田松陰のことが浮かびました。
坂本龍馬のことが浮かびました。
自分の安全よりも、殺されてもなお果たすべきミッションがある。
そもそもそのために授かった生命(いのち)であったと。
何も死ねば良いと申し上げているわけではありません。
いざとなったら、安全とミッションとどちらを取りますか、という問題であり、
そもそもあなたは自分のミッションが何かを見い出していますか?という問題です。

そういうことがわかって初めて、安全を守ることが第一の子どもの生き方から、ミッションに生きて死ぬ大人の生き方への成熟があるんじゃないか、と私は思っています。

 

 

相手の中に問題が観えたとき、その問題にどこまで斬り込んで行くか。

相手の芯まで斬り込んで行く。
これを「裁く」という。

それでは相手を殺してしまう。
斬り込み過ぎである。
表面の「闇」だけなら良いけれど、奥にある「光」まで斬ってしまってはならない。

しかし、だからかといって、何も斬らず=問題に触れず、調子の良いことばかり言っていては、何も変わらない。
そうなるのは結局、こちらの問題であり、自分が良い人でいたいのである。
つまりは、利己的で冷たいのだ。

そうではなくて、相手の「闇」の部分に斬り込んで行く。
それによって「光」の部分を出やすくする。
これを「育てる」という。
本当の意味で、相手を活かすことになる。

そもそもの人間存在の二重構造。
生まれたときに授かった「光」の部分=本来の自己を実現しようとする働きを活かし、
生育史の中で後から付いた「闇」の部分=本来の自己の実現を疎外し、ニセモノの自分を維持しようとする神経症的な部分を払って行く。
いつもこの基本構造をお忘れなく。

 

 

親と喧嘩して、仕送りも止められ、四畳半風呂なしアパートで暮らしていた頃、アルバイトで大学の授業料や生活費を稼いでいた。
仕事と学業との両立は大変で、収支やら国家試験やら、先のことを考えると、時に重苦しい気持ちになることもあった
そんなとき友人からビールの500ml缶を一本もらった。
飲むこともない生活だったが、夕食時に飲んでみると、気分に変化が起こった。
事態は何も変わっていないにもかかわらず、今後のことが何とかなりそうな気分になったのである。
我ながら、単純だなぁ、と思いつつ、これが“気分”というヤツだと思った。

我々は、理性的・合理的にものを考えているように見えて、実は悲観も楽観も“気分”に支配されていることが多い。
その証拠に“気分”は簡単に流転する。

認知症の妻を介護している高齢男性が、ある日介護に疲れ、将来を悲観して、心中でもしようかと思い悩んだ。
そんなとき、娘家族が二人の様子を見にやって来た。
すると、3歳の孫娘がおじいちゃんに抱きつき、「おじいちゃん、大好き!」と頬にキスをしてくれた。
事態は何も変わっていないにもかかわらず、今後のことが何とかなりそうな気分になった。
家の中が明るく見えた。
これも“気分”。

ある日、上司に怒られ、財布を落とし、犬のウンコを踏んでしまった女性がいた。
なんて日だ!としょげていたが、帰り道、前を歩く人が手袋の片方を落としたので、拾ってあげたら、韓流風イケメンお兄さんからテレビドラマの一シーンのような爽やかな笑顔で「ありがとう。」と言われた。
それまでの出来事がなくなったわけでもないにもかかわらず、今日もなんだか良い日のような気持ちになっていた。
これも“気分”。

よって、こういった“気分”の特性をとらえて、たとえ悪い“気分”にとらわれたとしても、ちょっとしたことで良い“気分”に転じられる、ということを覚えておきましょう。
そして、どうやっても“気分”が転じないことに関しては、腹を据えて見つめていきましょう。
それは“気分”の問題ではなく、しっかりと勝負すべきテーマです。

 

 

「内省」とは自分で自分のこころを見つめることを指す。
しかし、世の中には「内省」に乏しい人がいる。
しかも、厄介なのは、当の本人が、
「内省」など微塵もなく、そのまんまでいるのなら、それはそれで致し方ないのであるが、
中には「自分は内省できている」、下手をすると「自分は他人よりも内省できている」と思っている人がいたりして、事態はなかなかに複雑である。
それ故、自分が内省に乏しいということに気づく(そして認める)までに、結構な時間を要することになる。

ちなみに、八雲総合研究所の「人間的成長のための精神療法」は、「内省」を基軸として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を求めているため、「内省」に乏しい方はなかなかに苦労することになる。
「内省」が苦手な分だけ、私がそこを補って「内省」をガイドして行くことになるのだが、問題は、本人にとって重要であるがなかなか認め難い問題に直面したときに、
私を信頼し、そして厳しくとも真実と向き合おうとするか(痛いけれど松田先生がそう言うのならきっとそうなのだろう)、
私を信頼できず、また、その問題を認めることもできず、脱落して行くか、ということになる。

精神科臨床においても、脳の機能的に内省が乏しくなってしまう精神障害はいろいろあるが、いずれにしても内省に乏しい=自分一人では気づきにくいわけであるから、上記の私の場合と同じく、苦手な自分の代わりに、何に頼るか、誰に頼るか、ということになる。
現実には、自分の苦手なところを補完してくれる、信頼できる人間を見つけるのがベストである。
痛いけど、この人がそういうのならきっとそうなのだろう、と認められれば、開けて行く未来がある。
そういう人を見つけられなければ、自分が気づかないうちに、迷走、暴走し、他者を傷つけ、自己を貶(おとし)める危険性が高まる。
それでも自己流でやるのを選ぶのであれば、それに伴って生じる結果は、自己責任において引き受けていただく他ない。
あとは面々のおはからいである。

内省に限らず、自分ができないことは、信頼できる他人にお願いするのが、共に生きるこの世界の大事な原理であると私は思っている(私もいろいろお世話になります)。


 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。