「私たちは愛だ恋だと言葉でいっていますが、その言葉を知らないうちから愛を感じて生きています。赤ちゃんのときにお母さんに抱かれますね。そのときにお母さんの肌に触れて感じることが愛なんです。お母さんから伝わってくるものが愛なんです。つまり体で感じる。これは男であれ女であれ同じです。だからおもしろいことは、異性愛の場合に出てきますけれども、皮膚の接触、抱かれる感じ、それからくる安心感やよろこび、その気持ちよさ、快感、そうしたものは『言葉以前』の愛の形なんです。いわば、原型、つまり最初の人間が何もわからないときに感じる愛ということ。その原型をもう一度意識的に感じるのであります。結局、お互いの愛情というものをほんとうに表現するときには、我が身を持って身に感じていくのですね。そのときに、東洋であろうと西洋であろうと、お互いに抱き合うということで愛を表現するのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
「私たちは愛だ恋だと言葉でいっていますが、その言葉を知らないうちから愛を感じて生きています」
もうこのひと言でノックアウトですね。
なんでも言葉にすればわかったような気になる、これがそもそも大間違いです。
言語によって体験を切り取った瞬間に、あたかも空飛ぶ蝶を捕まえて標本箱にピンで刺したように、その体験が死んでしまうということを知らなければなりません。
手に取るな やはり野に置け 蓮華草 瓢水(ひょうすい)
元々は、遊女を身請けするな、という艶っぽい句だったそうですが、言語哲学的に解すると、別な妙味が出て来ます。
愛を愛として(言語を介さずに)直接に感じること。
その感じる力を磨かねばなりませんぞ。