八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「よく、日本人は母性原理に立っている民族であり母性崇拝的である、その点、文化的に父性原理に立っているヨーロッパ人と大きな違いがあるなどと言われます。
一般に母性とは、すべてのものを育み包み込む、愛情にみちたものであるという、一種のロマンチックな考え方があります。そうした考えを裏付けるように、いままでの日本の母親は特に、自己犠牲的なところがありました。そういう点でたしかに、ほんとうに子どもだけに尽くしていたというところがありま
ところで最近は、自己を犠牲にして子どもに尽くす母親もありますが、自分の欲望や考えを子どもを通して実現しようという、少し男性的なところも大分出てきました。一般的に昔の母親は自己犠牲が普通だったのですが、近年は男並みに自己中心的になってきたと言えましょう。
男性は元来が自己中心的ですから、その反対のものを見て非常に賛嘆し、嘆美してきました。上記のロマンチシズムもこうした男性の感情の反映とも考えられます。ところが女性の側も、負けずに自己中心的になってきましたので、表面的にみると女性は意欲的になった、強くなってきたという印象を与え、いままでの母性像から大分変わってきた感があります。この、自己中心的になり、自分の欲望を子どもを通して実現させようという考えが端的に表れているのが教育ママです。…
それは要するに、親の管理のもとに世間並みの、あるいは世間よりすぐれたコースを歩ませようという、功利的な打算に基づいた自己中心的な考え方です。
これは決して、ほんとうに子どもの成長をねがうところの愛情ではありません。世間の価値観を無批判に受け入れ、自分の虚栄心や支配欲を満足させようという態度に他なりません。…
母の愛というものは、子どもの側で感じ、言うことはよいのですが、これを母親が自分の方から、これが母の愛よ、と言うと間違ってきます。…
愛情というのは、子どもなりに第三者からみて、『お母さんはやさしい』と感じられるものです。そのような愛情は、見ていて静かに深い感じがします。母親の知恵がふくまれているのです。
知恵というのは、おのずからその子どもの生命を生かすような知恵ですから、自己中心的な、あるいは功利的な感情によごされたものではない。静かに子どもの成長をみて、わが子の独自の生命を感じとって育てていく、このような知恵をさします。…

よく、子どもは親の言葉でなく親の行動をみて学んでいくとか、親の後姿をみて育つとかいいますが、子どもにとって直感的に感じられる親の落ち着いた生き方、つまり親の内面的な心と外側の行動に矛盾のない姿が、子どもに信頼感を与えるのです。
とかく教育者や宗教家の家庭に非行少年が出ることがありますが、これはその人たちが、倫理とか道徳とか、言葉や概念の世界に住んでいて、言っていることと行動とが矛盾し、自分の正直な姿を出していない場合に起こりがちなことなのです。
『正直にしなさい』と言われて、もしそう言っている当のその人が嘘つきだったらどうでしょう。子どもはものすごい不信感におちいります。そんな父親を持ったら、たまったものではありません。自分のいちばん信じたい人が信じられないくらいつらいことはないのです。
むしろ、ぐうたらおやじでも酒飲みであっても、その自分の姿を認識して、正直な姿を示した方がよおいと思います。
」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

またもや、深いことをさらっとおっしゃる近藤先生です。
男性は元来が自己中心的ですから」…あいたたた。
とかく教育者や宗教家の家庭に非行少年が出ることがあります」…教育者や宗教家だけでなく、精神科医や臨床心理士/公認心理師などの精神科医療関係者を加えてもいいでしょう。
自分のいちばん信じたい人が信じられないくらいつらいことはないのです」…そうだよね。親を信じたいよね。先生も信じたいよね。
そして今日のお話の一番の眼目。
知恵というのは、おのずからその子どもの生命を生かすような知恵です
世俗的な、表面的なことはどうでもいいのです。
「子どもの生命(いのち)を生かす」、この視点があるかないかがすべてです。
本当の意味で、その視点に立ち戻ることができたならば、子どもにどうかかわったらいいか、という答えは自ずと見えて来ることでしょう。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目に続いて17回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、かなり最終コーナーを回ってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(4)

ここまで、分析過程を極めて簡略化して述べた為に、何か分析が易々(やすやす)として行われるかの如き感じを与えるかもしれない。しかし、それは実際に於て痛苦と困難に満ちたものである。と言うのは、その行程が第1に患者の無意識にあるものを意識化すると言うことと第2には神経症的態度が、少なくとも、患者がそれによって安全感を得ている態度であり、自らの価値を置き、無意識に同一化している、「仮幻の自己」を中心とする神経症的体系の防衛のための方法でもあるからである。
治療者を訪れる患者の意識には、症状から免(まぬが)れたい気持はあっても、その為に彼の生活態度の根幹である神経症的構造の変革を考えているものではない。従って、症状から出発して、分析が彼の神経症的傾向の露呈を招来する時に、確かに一方に於て、先述した様に洞察のもたらす効果があるが、他方に於て、自分が無意識裡(り)に当然とし、維持せんとする神経症的体系の構造が露呈され、問われ、その価値が批判されると感じるのである。
このことによって、彼の安全感を防衛するための抵抗が無意識裡に生じる。そして、これこそ分析を困難に陥(おちい)らしめるものなのである。この様な抵抗は分析時の遅刻、様々な積極的、消極的表現をとって現われる。これを取り扱う時に重要なのは恐らく次の様なことであろう。
それには第1に、出来るだけ初期に於いて、抵抗がまだ比較的弱い形を取っている時に、分析者が早く initiative を取り、患者に抵抗の存在を気付かしめ、抵抗の内容と意味を患者と協力して吟味し、分析して明確にすることによって乗りこえて行くと共に、抵抗一般に関する患者の理解を高め、それによって、後に起るべき大きな抵抗に対処する態度を準備することである。
第2に抵抗のもとであるところの不安や安全感の脅威を取扱うに当って、それが何の不安であり、何の安全感の脅威となっているかを問い、それが神経症的な自我の感じる不安であり、脅威であることを明らかにして行くことである。
第3に患者が誤って分析者からの批判としてとっているものが、実は他ならぬ患者自身の健康な自己 ー 治療的な力の源泉である ー「真の自己」の発する批判であること、そのもたらす現実認識に基づくものであることを明らかにして行くことが重要である。

 

近藤先生が示されている通り、クライアントは一方で症状を取ってもらいたいと思ってセラピストの許(もと)にやってくるのであるが、他方では自分を守るために身に付けた神経症的人格構造にはしがみついていたいのである。
ここに困難が生じる。
この二つを両立させる道はない。
従って、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことをクライアントは思い知る必要がある。
本当の「治療」はそこから始まるのであるが、そこまでに非常に長い道程(みちのり)を要するのが「臨床」の実際である。
また、八雲総合研究所のように「成長」を目指す場合においても、「症状」こそ存在しないが(存在すれば「治療」対象となる)、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことを思い知る必要があるのは全く同じである。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」とは、そういう意味なのである

 

「父親は子どもにとって、手本ともなり鑑ともなる、一つのしっかりした像でありたいと思います。…
父親が社会の現実について、子どもにしっかりした情報を与えることができる。また人生の生きる上で、どうしたらよいかの信念を持っている。こうした父親に子どもは信頼感を持ちます。…
第二次大戦のあと…制度上も観念的にも、尊敬の対象としても父親像が一ぺんに失われてしまいました。父親の権威と権力が一ぺんになくなってしまったわけです。
それでは、いまの父親に権力意識がないかというと、ストレートには出ませんが、隠れた形であるわけです。昔はどうかというと、私の父などは、二言目には『何だお前、俺の言うことがきけないのか!』と権力意識丸出しでした。けれどもいまの親は、自分はまるで権力意識がないような言葉遣いをして、しかも裏に権力欲を持ちながら接するからおかしなことになります。
子どもは虚偽というのが嫌いです。これはほんとうは、大人でも嫌いでしょう。たとえ使っている言葉は丁寧でも、底に親の権力欲がみえ、結局自分の考えを強制的に押しつける時、子どもはそこに虚偽を感じとってしまうのです。…
男の子は男の親とほんとうに人間として真剣に対決する時があります。そうしてほんとうの男性になり、人間になっていくものです。理解だとか相互の対話なども大切なことですが、こうした対決も成長の上で必然的なことであり、それを通じて父親は子どもを鍛え、成長させていくものです。…
最近、特に親子の理解とか、人間どうしの理解が叫ばれ、たやすく『理解』という言葉を使いますが、理解などということは決して簡単なことではありません。自分の子どもですら、公平無私な愛情をもって理解するなどということはなかなかできません。…理解できないというのは互いに悲しいことであり、つらいことではありますが、理解できないことは、理解できないという事実として認めなければなりません。お互いに事実を認めることにおいて、そこに共感が成り立つのです。その時には、理解できなかった。それでは理解するために何が解決になるかというと、簡単に言えば、よく言うところの時間が解決することが少なくないものです。時間が解決するとはどういうことかというと、時間をかけてお互にいろんなことを経験し合うことによって、理解に近づいていくということです。いわゆる時熟とか時節因縁ということでしょう。
私は職業がら、親子関係がうまくゆく方法をよく聞かれます。ところが、うまくいかないのが親子関係なのです。それをうまくやろうというのは不自然なことです。うなくいかない、そこにほんとうの真剣さを要求されるものがあるのです。…
子どもが成長して、ある時期、親に刃向かってくる時があります。このような時、親はその攻撃から逃避したり、妥協してうまくやろうというのではなく、子どものために、剣道で言えばけいこ台になってやるくらいの気持がなければなりません。けいこ台であっても、いい加減に相手をすることはできません。時には激しく打ち込む場合もあるでしょう。
その時すぐには、子どもはその一撃を、親の愛情として受けとめることができないかもしれません。しかし、親にほんとうの愛情があれば、あとになって必ずわかってもらえるものです。
底流、アンダートーンという言葉がありますが、深い愛は底流のようなものです。
浅い愛は目に立つが、すべて深いものはかくれてわからないもので、あとになってからほんとうに深くわかるものです。その意味でも待つことが必要であります。はげしい対立のあとに感じられる理解のうれしさは、深く流れる底流があったればこそ味わえるものでしょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「子どもは虚偽というのが嫌いです。
またもや近藤先生は大事な真理をあっさりとおっしゃるものです。
だからこそ大人が子どもに接するとき、嘘偽りのない姿勢が要求されます。
そして、親子の相互理解の難しさ。
時には激しく対立するときもあります。
そのときも親は真剣に誠実に子どもと向き合うということ。
そしてすぐに安易な解決を求めず、時熟を待つ、必要な時間をかけて本当の相互理解が深まっていくのを待つ姿勢が必要となります。
ここでもまた、思い通りにならないことを抱える力、(小児的態度ではなく)成熟した大人の力が要求され、さらに、子どもへの、心の深いところを流れるような、深い愛が要求されるわけです。
そういう時を経て、相互理解できないことに本気で苦しみ、真剣に対立した後だからこそ、味わえる深い喜びと相互信頼があるわけです。
そしてこのことは、親子関係においてだけではなく、すべての深い人間関係において共通の真実と言うことができるでしょう。

 

 

前回の『葉隠(1)』『葉隠(2)』に続いて『葉隠(3)』(上・聞書第二・八四)。

 

「正徳三年十二月二十八日夜夢の事。志強くなる程夢の様子段々變(=変(かわ))り申し候(そうろう)。有體(ありてい)の例は夢にて候。夢を相手にして、精を出し候がよきなり。」
(志が強くなるほど、夢の様子が段々変わって行きます。ありのままに出るのが夢です。夢を相手にして精を出すのが良いでしょう)

 

最初の「志が強くなるほど」というときの「志」の意味は、自分の主観的な思いのことではありません。
「志」という漢字は「心」が「士」を下から支えています。
つまり、その人を下から支えている力が働いているものが「志」であり、「志が強くなるほど」とは、その人をその人させる力が強くなるほど、という意味になります。
そうなってくると、夢が変わってくる。

そもそも(余程浅い夢を除いて)「ありのままに出るのが夢」であり、夢にはその人の今の本音=今の問題や成長課題、そして成長段階がよく現れます。

そして、「夢を相手にして精を出す」というのは、何も夢を相手にして、ああいう夢を見ますように、こういう夢を見ますようにと頑張ることではなく(そんな意識的なものは夢に反映されません)、夢が変わっていくかどうかを目安にしながら、自分自身の問題や成長課題と向き合って行きましょう、ということを言っているのです。

本音が変わると夢が変わる、というのは実は、自分の真の成長度を測る上で非常に役に立つ現象なのです。

 

 

前回の『葉隠(1)』に続いて、『葉隠(2)』(上・聞書第一・五十)。

ある武士が酒席で失態を演じた。
この者の処遇をどうするかが議論されたとき、大方は「立身無用」、即ち、こんなヤツに今後出世の機会はないようにするべきだ、と決しかけたが、ひとりの武士が、一度間違いを犯したの方が後悔し、お役に立つようになる、むしろ出世させるべきだ、自分が請け合う、と申し出た。
何故そこまで請け合うのか、と訊かれたその武士の答え。

「誤(あやまり)一度もなきものはあぶなく候(そうろう)。」
(過ちを一度も犯していない者は危のうございます

先日拙欄で取り上げた『新約聖書』の

「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)

を連想する。

過ちを犯したことのある者、そういう人間の弱さを知っている者こそが、
過ちを犯したことのない者、正確に言えば、過ちを犯したことがあるくせにそれに気づいてない者よりも、
はるかに信用できるのである。

 

 

「父親が、子どもとできるだけ行動を共にすることが非常に大切だと思います。…そういうふうな触れ合いをとおして、お父さんはこんなことを感じているんだとか、考えているんだとかいうようなことが自然に耳に触れる。お父さんの行動や考え方が、以心伝心で膚(はだ)で触れるというふうな感じ、そういうようなものがやはり子どもにとって、子どもの実感をつくっていくのに役に立つのではないかと思うのです。…
私はどうしても教育の本来の形は、はじめは親子の間にあったと思います。これは私の持論です。教育とは親子の間の関係にできるだけ近いものにすることが大切ではないかと思うのです。実感ということも、共感の中の実感というか、実感を共感するというか、そういう関係の中で経験することができます。…
実感を分かち合うことがコミュニケーションなのです。コミュニケーションの『コム』というのは『共に』という意味です。実感を共にすることです。私はそれが親子関係では、いちばん大事なことではないかと思います。…
お義理の家族サービスではない、父親自身がそのことを楽しんでいる姿が、子どもと行動を共にしながら喜んでいるその姿が、子どもにおのずからよい影響を与えることになるのです。
次に父親にとって大切なことは、やはり時々、自分のための暇を作るということでしょう。…
それは自分の内部感覚、自分の生命の呼び声、深い所からの促しを聞くために必要なのです。…
例えば、庭いじりでも日曜大工でも、音楽をきくことでも静かに瞑想することでも、ゆっくりくつろぐことでも何でもいいのです。その中で、一個の人間として自分の命を感じてほしいのです。自分の命が息づいているのを感じる、内部感覚の実感が非常に大切です。
こうした自分自身になった父親の姿を子どもは敏感に感じとります。『何だかお父さんは楽しそうだなぁ』と、それだけでも子どもは安心感と信頼感をもって受けとめるのです。
ところで、自分自身の声をきき、内部感覚を感じ、自分自身になるために、いつでもどこでもできるいちばん簡単な方法は、肩の力を抜いて、ゆっくりとすわってみることです。
ゆったりとしながら…自分の中に湧き起こってくるいろいろな気持を、『ああ、なるほど』と、静かに感じ、見ていく余裕をもつことです。…
自分の声を聞いている。自分の中に起こる状態の在りのままの姿を素直に見ているのですから、いちばん正直であり、最も倫理的な姿であると言えます。倫理の根本は自らを欺かないことです。自らの内なる声に、内部感覚に素直に耳を傾ける、ここからほんとうに自分にとっての正直な行動、落ち着いた態度が生まれてきます。…
自分の内部感覚を尊重し、生命の声に気づいて、その上で自分自身の眼をとおして社会や文化を眺め、人間の生命をほんとうに生かすものかどうか判断し、感じとっていかなければ「ならないと思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

順番としては、まずお父さん自身が、自分の時間を持ち、内部感覚を磨いて、自分の中の生命(いのち) の声を聴けるようになること。それがあってはじめて、自分の生命(いのち)を本当にいかすことができるようになります。
「倫理の根本は自らを欺かないことです。
なんと深いことをさらりとおっしゃるのでしょう。
倫理=ひとの道とは、自らを欺かないで生きること=自分の生命(いのち)を本当にいかして生きることなのです。

そしてそういう「感じる力」を持って、今度は、子どもと「行動を共にする」時間を持つこと。
そうすると、ひとつには、子どもはこのお父さんの内面の変化・成長を感じ取ります。それが子どもに影響を与えることは間違いありません。
そしてふたつには、お父さんは、自分の中の生命(いのち)の声を聴けるようになるだけでなく、子どもの中の生命(いのち)の声も聴くことができるようになります。そうして子どもの生命(いのち)を本当にいかすことも可能になってくるわけです。
やはり親子の成長は同時なのです。

 

 

ある日、面談の申し込みが届く。

「予約フォーム」の「あなたはセラピストの松田と面識がありますか?」の欄を見ると、
「ああ、あのときの教え子の〇〇さん。」
とか
「ああ、そのときのワークショップ/勉強会に参加していた□□さん。」
とか
「ああ、あのときの講演に来ておられたのね。」
と懐かしく思い出すことがしばしばある。

私の中では、それが何年前でも何十年前でも、一度でも教えたことがある相手は永遠に教え子だ、と思っているところがあり、その意味では、ワークショップや勉強会の参加者や講演の聴き手もそれに準ずる出逢いだと思っている。
そのとき何か心に響いたものがなければ、私に関する記憶などとっくの昔に消えてしまっただろう。
そこに縁の分かれ目がある。
「その後」も、このホームページを見てみようという気持ちになるところに、何かが働いている気がする。

かねがね申し上げてきた通り、一生のうちに、ある程度以上深い話をすることのできる相手は限られている。
1億人も2億人も相手に話してはいられない。
しかも当研究所の「対象」を満たす人に限られている。
そんな中で、縁ある人、それは即ち、私がその人の成長に関わることになっている人からの面談申し込みがある度、私の中では、なんとも言えない、ミッション遂行の機会が与えられた気持ちになるのである。

これからも今回の人生で授かったミッションを果たして、生きて死にたいと思っている。

 

 

五カ月ほどかけて、岩波文庫の『葉隠(はがくれ)』(上)(中)(下)三冊を少しずつ少しずつ読み進め、ようやく昨晩読了した。

『葉隠』は、江戸時代、鍋島藩士であった山本常朝(つねとも)の話を聞き書きした田代陣基(つらもと)が編集したもので、武士道の精神的要諦を示す一書である。

『葉隠』と言えば
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
という一文が有名であるが、今回、本書を読もうと思ったきっかけも、まさにその真意を見い出すためであった。
その結果は後日示すとして、折角読了した『葉隠』の内容を私の胸の内に留めておくのももったいないと思い、心に響いたものを何回かに渡って記すこととした。

 

まずは今日の一節(上・聞書第一・四七)。

「物識りの道に疎(うと)き事は、東に行く筈(はず)の者が西へ行くがごとくにて候(そうろう)。物を知るほど道には遠ざかり候。その仔細(しさい)は、古(いにしえ)の聖賢の言行(げんこう)を書物にて見覚え、咄(はなし)にて聞き覚え、見解高くなり、はや我が身も聖賢の様に思ひて、平人は蟲(むし)の様に見なすなり。これ道に疎き所にて候。道と云(い)ふは、我が非を知る事なり。念々に非を知って一生打ち置かざるを道と云ふなり。聖の字をヒジリと訓(よ)むは、非を知り給(たま)ふ故(ゆえ)にて候。佛は知非便捨の四字を以(もっ)て我が道を成就すると説き給ふなり。心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數(=数(かず))限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈なり。」(江南和尚)

まず物知り=受け売り知識の思い上がりを戒め、「道と云ふは、我が非を知る事なり」(道というのは自分がダメだということを知ることである)、「聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふ故なり」(聖という字をヒジリとよむのは、自分の非を知っている(自分がどれだけダメかを知っている)からである)、「心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數限りなく候」(ちゃんと気をつけてみれば、一日のうちに悪しき心が起こるのは数え切れないほどである)。
即ち、私が常々申し上げている「凡夫の自覚」(自分がどれだけポンコツでアンポンタンかの自覚)のことを指摘しているのである。
時代を超えて、我が意を得たり、という言葉に出逢うのは嬉しいものである。

 

 

「母親になることは女の人にとって、すばらしい経験だと思います。私も医師として、何べんか分娩の際に立ち会ったことがありますが、そんな時いつも感じるのは、赤ちゃんを生んだときの女の人の顔くらい輝かしいものはないということです。夫が側にくると、『あなた』と言いながら夫を見つめるその顔は輝いて、ほんとうに大きな仕事をなしとげたという、満足感と歓びを感じているように見えます。それにつけてもあとになって、子どものことについていろいろと思い悩む時に、この時の心からの歓びを思い出してほしいと思います。
子どもにとって、特に幼児にとって母親は絶対のものです。母親の胸の中で膝の上で、お母さんの肌に触れつつ安心感を覚え、情緒的にも安定した子どもとして育っていくのです。…
人間がこの世に生まれてきて、はじめに母の懐に抱きとられた時のあの安心感と喜びは、いつまでも懐かしいふるさとであり、心のよりどころです。大きくなって世の中に出て、苦しいことにあった場合でも、もう一ぺんこの気持に帰って、また出直すことができます。このいちばんのもとになるものは、この頃の実感が基礎になっているのです。…
子どもを育てることに歓びを持つ母親の許で、はじめて子どもは安定感を持ち、それこそ伸びやかに育っていくわけです。そうやっていると、子どもと母親との関係は非常に安定したものになります。こうした安定感はまず何よりも、人間の一生の中でのいちばん基本的な財産だと思います。
それではこの時代に父親はどんなふうな協力ができるでしょうか。…幼児は母親とはもう一心同体のような感じですから、母親の感じるものを全部感じとるのです。ですから父親が ー 父というよりもこの時代はむしろ若い夫と言った方がいいでしょうが ー 喧嘩したり心配させたり、
焦々させたりすると、それがたちまち子どもに影響します。子どもが不安になり泣きわめいたりして、その安定感、安心感にに影響します。ですからその時期の男性の役割は、母親が子どもに安心感を与えられるように、夫として自分の妻に安心感を与えることが大事なのです。まずこれが、若い夫が父親としてしなければならない第一のことです。まあ、二歳から三歳までに「それが果されていれば、まず、建築でいえば、需要な礎石が造られたと言えましょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』より)

 

実際の子育ての中で思い悩むことは多々あるものです。
そんなときいつも、近藤先生のおっしゃっている通り、その子が生まれたときの体験、感覚を是非思い出していただきたいと思います。
生命(いのち)を授かること、出産することは、一種の神事であり、神業(かみわざ)だと私は思っています。
その大きな働きの中にお母さんがいる。
だから出産のときのお母さんの顔はあんなに神々(こうごう)しいのです。
あのときの体験を感覚をどうか大切にして下さいね。
そうして、お父さん。
ここで近藤先生は、夫が妻に安心感を与えることの重要性を強調しておられます。
その言葉を変えますと、それは妻を愛してほしい、ということに他なりません。
夫は妻を愛し、子どもを愛する。
そして妻は夫を愛し、子どもを愛する。
それさえあれば大丈夫です。

 

 

ある浄土真宗のお寺のご住職。
普段からお念仏をこころがけて生きて来た真面目なお坊さんであった。
坊守さん(住職の妻)との関係も睦まじく、愛妻家としても知られていた。
それが妻を癌で亡くされ、後期高齢者になった頃から認知症症状が目立つようになり、遂に施設に入所された。
グループホームでは、妻が亡くなったことも忘れて、朝起きてから夜寝るまで奥さんを探し、「さっちゃん(奥さんの愛称)、さっちゃん。」と繰り返し繰り返し呼んでいた。

たまたまお寺の檀家であった人が職員としては働いていて、
「あんなに信心の篤(あつ)かったご住職が念仏を称(とな)えるでもなく、奥さんの名前ばかり呼ぶようになっちゃって…。」
と嘆いていたが、その話を聞いて、私はそうは思わなかった。

「そのご住職にとっては、奥さんの名前を呼ぶことが念仏なんですよ。」

南無阿弥陀仏と称えることだけが念仏ではない。
一遍上人のおっしゃる通り、

「よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」(『一遍上人語録』)
(ありとあらゆる生き物、山や川や草や木、吹く風・立つ波の音までも、念仏でないものはない)

私には、その「さっちゃん、さっちゃん。」が「寂しい」「辛い」「助けて下さい」と聴こえ、そのまま「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に、人間を超えた力におすがりします、おまかせします)」と聴こえて来るのである。

 

 

『新約聖書』の中に、姦通罪で捕らえられた女が律法に従って石打ちの死刑に処せられそうになったとき、学者やパリサイ人から意見を求められ、イエスはこう答えている。
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)
これを聴いた彼らは良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれて、一人また一人と立ち去っていき、イエスと女だけになったという。

この有名な話を思い出す度、私にはこのイエスの言葉が
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ人を咎(とが)め諭(さと)せ」
(おまえたちの中でやらかしたことのない者がまず他人のことを(上から目線で)非難し、(偉そうに)教え諭しなさい)
と聴こえて来る。

そもそも我々迷える仔羊は、相当にひどい存在である。
無数の悪行・罪過・背徳・裏切り・虚言・増長・傲慢などの罪を犯しながら、自分で気づいている/覚えているのはほんの氷山の一角に過ぎず(しかもそのほんの一部を認めて自分はなんと謙虚なのだろうと思い上がったりするくらいひどい)、
そのくせ自分のことは棚に上げて、
上から目線で他人のことをを非難したり、偉そうに他人を教え諭したりする。
他人を非難したり、他人を教え諭す資格が我々にあるかと問われれば、そのやらかしてきた行状を振り返る限り、
ないっ! 絶対にないっ! 微塵もないっ!
それが我々の偽らざる実態である。

それなのに思い上がって、勘違いして、
「先生」をやったり
「親」をやったり
「経営者/上司/先輩」をやったり
「専門職/専門家」をやったり
「権力者」をやったりしている。

ダメでしょ、それ。

しかし、じゃあ、全員がただ黙って他人に関わらないようにすれば良いのかというと、そうもいかない。
それだと誰もが成長しないままに終わる。

よって、こういうことになる。
我々凡夫には、間違っても、他人を非難したり、他人を教え諭したりする資格はないけれど、
我々を通して働く力にはその資格がある。
即ち、もし我々を通して神の御業(みわざ)が行われるならば、人を非難し、人を教え諭す資格が発生するのである。

即ち、わたしには資格がないけれど
わたしのこころの奥底に働く聖霊(仏教なら仏性、神道なら分御霊、精神分析なら宇宙的無意識)にはその資格がある。

そのときは、そのときだけは、言って(言わされて)良いのである。

 


 

最近、いろいろなところで「利他」という仏教由来の言葉が取り上げられているが、その内容が余りにお粗末であるため、ここで気がついたことを記しておきたい。
尚、拙欄で「利他」の本質を系統的に取り上げていく余裕はないので、気がついたところから記しておく。

[1]「利他」は一方的行為である。
時に「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」的な解釈を散見する。
これは「利他」とは言わない。
それは“Give and take”と言う。
どこかで見返りを要求(計算)しているのである。
それはセコい。
全く何も返って来ない、場合によってはものすごく手を尽くし思いを尽くしたのに逆恨みされたりすることもある。
それでも一方的に行う行為を「利他」という。 
だから尊い。

[2]「利他」を行う主体は「私」ではない。
「利他」は人間の意図的・主体的行為ではない。
「人間を通して働く力」によって「思わず」行ってしまう、いわば、させられる行為である。
その「人間を通して働く力」のことを仏教では「仏力」とか「妙用(みょうゆう)」という。
「利他」の主語は「私」でも「人」でもない。「仏」であり「天」である。
だから尊い。
宗教用語がイヤな方は、敢えて精神分析的用語を使って「宇宙的無意識」でもよい。
そして、「私」が行っているのではないから、[1]に記したような見返りは求めない。
(「私」がやると、間違いなく、恩着せがましくなる)

[3]「自利利他」について
従って、「自利利他」という言葉を「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」と解するのは全く間違っている。
「私」を通して「利他」が行われるとき、「人間を通して働く力」が「私」を貫く。
その力に「私」自身が満たされ、潤されているということになる。
それが有り難い。
これ以上の「自利」があるだろうか。
「利他」が行われるとき同時に「私」もまた恩恵を受けている。
「利他」が巡り巡って自分の利益になるのではなく、
「利他」が行われることが同時に「自利」なのである。

そしてさらに深めれば、「自他の区別を超える」というもう一段深遠な世界も開けて行くが、ここでは触れない。

まずは、こういう「利他」の基本を是非押さえておいていただきたいと思う。

 

 

あなたは、何かを「行うか行わないか」迷ったとき、それを決める自分独自の基準をお持ちだろうか?

今日はそのお話。

[1]まずそれを「行うべきか行うべきでないか」で決める場合がある。
その「行うべきか行うべきでないか」あるいは「行わなければならないか行ってはならないか」という基準は、あなたがいつの間にか親から/時代・文化・所属集団から/他者から埋め込まれた価値観によって決められていることが多い。
これを「埋め込まれた見張り番」による選択という。
よって、決める主体があなた以外にある、いわば、「他律的な選択」ということもできよう。
具体的に、あなたが自分以外の誰かの顔を思い浮かべながら決めるときは、この基準が使われている場合が多い。

[2]次に「行いたいか行いたくないか」で決める場合がある。
このとき、決める主体はあなた自身にある、いわば、「自律的/自立的な選択」ということができよう。
いわゆる「自己決定の原則」はここに属し、自分以外の誰かの影響によらない「主体的な選択」ということもできる。
欧米由来の個人主義的な選択基準ということになる。
これは現代日本においては優勢な基準ではなかろうか。
誰が何と言おうと我が道を行く、というわけである。

[3]そして最後に、「それを行うことがミッションかミッションでないか」で決める場合がある。
これが最も深いが、最も難しい。
このとき、決める主体は、あなた自身でも、あなた以外の人たちでもない。
あなたが「行いたいか行いたくないか」も、「行うべきか行うべきでないか」も、関係ないのである。
誤解を恐れずに申し上げるならば、それは、天が決める、あなたを通して働く力が決める、ということができる。
そしてそういうときに人は祈るしかない。
どこに天意があるのかを感じ取るために。

そしてそこにミッションがあれば、どんなにやりたくなくても、やらなければならない。やらない選択肢はない。
また逆に、ミッションがなければ、どんなにやりたくても、やってはならない。やる選択肢はない、ということになる。

いつも原点に戻る。そもそもに戻る。
我々が何のために生命(いのち)を授かったかというと、
自分以外の誰かから見て「生きるべき人生」を生きるためではなく、
自分が「生きたい人生」を生きるためでもなく、
ミッションを果たすためである、と私は思っている。

「天巧(てんこう)を亮(あき)らかにせよ」(『書経』)
((自らを通して働く)天の働きを明らかにしなさい)

とはそういうことである。

それを一生をかけて(試行錯誤しながら)実現していくのが我々の人生なのである。


 

「子どもは自分が生んだのだ、自分たちがつくったものだと考えるところから、いろいろと間違いが発生してきます。私の子ども、“私たちのもの”だから私たちの自由に育てよう、私の自由にしてもよい、と自然に、気がつかぬうちに物と同じように所有し支配する考えが生じてきます。恋人や夫婦の場合でも、『あなたは私のものよ』とか、『もうお前は俺のものだ』とか、普通の男女関係でも言うことがありますが、その途端に愛は転落します。愛が所有欲に変化するのです。自分が愛した者(人間)が物になってしまう。者が物になってしまいます。…
ノイローゼというのはいろいろ言われますが一言で言えば、子どもを自分の物だから大切にしたいと物扱いにしてしまって、人間としての能力を伸ばすことを忘れてしまうことから起こってくることが多いのです。子どもにとっては非常に不幸なことです。別に人間として発達しなくても、お父さん、お母さんにとってよい子であればよい。つまり親がある独断的なイメージを持って子どもをこういう人間にしようと強制し、押しつけようとすることから起こっているのです。…
しかし、もし親が、生命の不可思議なことをほんとうに感じ、子どもの生命は自分にたまたま授かったものと考えていれば、こんなふうに言えるでしょう、『私たちはお前を、こんな人間に生もうとか…性格をどうしようとか、前もって考えて自分勝手に生んだのではないのです。お前という生命を授けられて、それで責任をもって育てることになったんです。だからこそお前を大事にもするし、お前の生命が健やかに成長するようにいろいろと考えもするのです』という具合に落ち着いて話してやることもできます。…
そこでいろいろなことを言う子どもの外形にとらわれず、子どもの中に潜む生命に語りかけるつもりで正直に、誠実に話し合っていけばいのです。親がそういう態度であくまで子どもの中の生命を信じて、それをみつめて語るうちに、おのずから子どもは、そうした親の態度に信頼感を持つようになるものです。
ここにあるのは自分の子どもという一つの大切な生命であります。世界の中で、ただ一つの独自な生命を持っている者がわが子としてここに存在しているという、混じり気のない透徹した眼で子どもを見たいものです。これは英知の眼であると同時に、愛情の眼であり、生命に対する知恵と愛がそこにあるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

小さい子どももダダこねをし、言うことをききません。
もう少し大きくなると、さらに主張は強くなり、なにかと反発して来ます。
思春期になると、体も大きくなり、口も立ち、その生意気さはピークに達して来ます。
生活全般を親に依存しているくせに、その態度にはチョーむかつきます。
しかし、それだけなら、子どもと子どもの喧嘩です。
それで終わりではなくて、本当の大人には、成熟した大人には、智慧と愛があります。

子どもの外側を覆っている我(が)は生意気で腹も立ちますが、それだけではない、子どもの存在の奥底にある生命(いのち)に対して畏敬の念を感じます。
それが生命(いのち)に対する智慧と愛なのです。
親も凡夫なので、相変わらずチョーむかついて、ドッカンドッカン怒りながらも、ふと感情が過ぎ去った後に、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対して、手を合わせて頭を下げたいと思います。
そして、そんなことを続けていると、最初の「チョーむかつき」も、何のやりくりも抑圧も使っていないのに、少しずつ少しずつ小さくなってくるかもしれませんよ。

 

第一生命経済研究所によれば、いわゆる「ママ友」が一人もいない「ママ友ゼロ」の人は、20年前に約6%であったのが、最近は約半数にまで増加しているという。

皆さんはこれを聞いて、どんな想いを抱かれるであろうか。

そもそも何をもって「友だち」というか、という問題については、以前にも触れたことがある。
「どうでもいい話をしながらお茶かランチ、たまに飲みに行くだけの女子仲間」「仮面と仮面レベルでの演技的お付き合いの相手」「園や学校の情報源として活用するための顔見知り」などのことを「友だち」と言っている方が多いような気がする。
私に言わせれば、それは「友だち」ではなく「知り合い」である。

少なくとも私は、演技でなく本音で、仮面でなく直面(ひためん)で深い話をすることができ、大事な価値観が一致し、相互に信頼できる相手でなければ「友だち」とは呼ばない。
そうなると、そういうレベルの「友だち」がたくさんできるとも思えない。
子どもの園や学校を通じて一人できれば、むしろ上々であろう。
そう思うと、「ママ友ゼロ」が約半数というのは当然、いや、もうちょっと多くてもいいのではなかろうか。

時に「ママ友」に関して、子どものために園や学校の情報から切り離されることを心配するお母さん方がいらっしゃるが(そのために本当はくっだらないと思っている関係性を維持している場合もある)、そういう場合は、忙しいお母さん仲間たちに声をかけ、最初から「園/学校の情報共有のためだけのネットワーク」を作りましょう、と動い方がいた。
賢明な戦略だと思う。
「情報共有のためだけ」というところがポイントであり、最初から「知り合い」レベルの付き合いとわかっている。

そして最後に、心からの期待を持って付け加えるならば、「ママ友」レベルを超えて、世界中の人に否定されても自分たちだけは信頼し合え、支え合えるような「親友」レベル(=「ママ親友(まぶだち)」)の出逢いがあれば、これ以上の僥倖はないと言えよう。

 

 

「無気力、無感動と言われる若者たちがいます多くの場合、こうした若者たちは…知能は発達しているにもかかわらず、勉強にも遊びにもその他の生活にも、打ちこんだり感動することがないのです。感動がないというのは、人と会っても自然や物に触れても、自分の実感が湧かないということです。このような青少年は…まるで心の成長しない幼児のような感じを与えます。幼児的段階というのはいわば自分が未発達な状態のことで、赤ん坊のような非常に発達段階の低い状態です。赤ちゃんには、オギャオギャとただ生存しているだけという時期がありますが、あの赤ちゃんの心の中にはまだ挫折がありません。
ところがこの無気力、無感動には挫折があるわけです。つまり、自分がせっかく伸びようとする時にブツッと芽をつまれる。また伸びると鋏(はさみ)を入れられる。まるで盆栽のようにされている状態です。極端に言えば無気力、無感動は親や社会が寄ってたかって、パチン、パチンと鋏を入れてきたことの結果、出てきている状態と言ってよいでしょう。長い間、親の満足のための功利的な考え方や知識だけを詰め込む教育を受けた結果、次第に子ども自身が、いまここに生きている、生かされているという喜び、実感を失っている姿なのです。
つまり、成長する過程で周囲の事情でじかに物にふれて感じる ー 直接感覚の世界を知らなかったことから、結局感覚というものを発達させていないわけです。しかし人間は本来、深い心の内部で直接感覚を求めています。たとえどんなに抑圧されても求め続けているわけです。…
内部感覚というのは、自分の外側のものを直接に感覚する時に体の内に湧き起こっている感覚で、私は生命の感覚であると思っています。…ところがいまの若者のように平和で保護されて…何の危険もなく暮らしていると、危機感がないので自分の中の生命の動きというものの促しを感じること、言いかえれば内部感覚を感じる機会がない。要するに危機が全くないところに内部感覚の動きがなく、必然的にアパシーが生じます。…
苦を避け楽だけを望むということは誰しも持つ願望ですが、実際は到底できない相談なのです。苦も楽も共に人生の実相であり、その両面であります。苦があって楽を感じるのが現実です。そういう人生の現実を知らせることが大事だと思います。苦労があってはじめて本気になる、苦しんで考える、真剣になる。精神が集中できる。そのあとで苦悩を突破していく喜びが生まれる。生きてゆく自信が持てるのです。…
いずれにしても、これらの若者は『自分らしい自分』『ほんとうの自分』のもととなる内部感覚が触発されていなにので、アパシー状態になっているのです。しかしその心の中には『自分らしい自分』『本当の自分』を発見しようとする欲求が深く存在しているのです。…
さまざまな例からわかりますように、青少年の苦悩や無気力、いろいろな現象は、ひとつの危機の知らせというか、自分がほんとうに生きていないということを知らせている信号なのです。
こうした青年の姿は、本人ばかりでなく、同時に両親や社会に対してその価値観に反省を求め、危機を告げている姿と言ってもよいでしょう。ともあれ青少年の苦悶する姿の中には、ほんとうの自分を知ろうという内部感覚の促しによって生きようとする、痛切な願いがかくされているのです。
根本的に…親として、一個の生命にどう関わっていくのか、その生命力の活動を親の意志のもとに妨害するのか、あるいは真にわが子の内部感覚を呼びさまし、生命の活動する力を促すように関わっていくのか、親であることの責任をもう一度しっかりと腹を据えて考えてみる必要があります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「内部感覚」を発達させるためには、残念ながら、挫折や苦が必要である、思い通りにならないことが必要であるということ。
そして、そのような危機があって初めて「内部感覚」が発達し、その「内部感覚」によって「真の自己」を感じ取ることができるようになるということがまずひとつ。

そして、無気力、無感動は確かに問題ではあるけれど、それは単なる問題でなく、生命(いのち)からの信号、メッセージでもあるということ。
内部感覚を発達させ、「真の自己」を生きてくれ、という重要なメッセージ性があるのだ、ということを観抜かなければなりません。
無気力、無感動で満足している若者の生命(いのち)などあるはずがないのです。
そしてそういう若者に関わっていくためには、親にも大人にも、
「で、あなたの内部感覚は敏感に発達していますか?」
「あなたは『真の自己』を生きていますか?」
と問われることになります。
そうなるともう大人も子どもも一緒に成長していくしかありませんね。

 

 

根幹に関わる大事なことを端的に述べておきたい。

「『生の目的』は何か?」
と問われれば、
「生命(いのち)を育てることである。」
と即答する。

「では、『生命(いのち)を育てる』とはどういうことか?」
と問われれば、
「本来の自己を実現していくことを助けることである。」
と答える。

そして
「誰の、何の、生命(いのち)を育てるのか?」
と問われれば、
「まず第一に、自分自身の生命(いのち)を育てる。
 第二に、子どもの生命(いのち)を育てる。
 第三に、縁あって出逢った人の生命(いのち)を育てる。』
と答える。

まず自分自身の生命(いのち)を育てられなければ話にならない。
次に伸びて行こうとしつつもまだ弱い子どもたちの生命(いのち)を守り育てなければならない。
そして、パートナーとして、親友として、後輩・部下として、患者さんとして、利用者さんとして、クライアントとしてなど、縁あって出逢った生命(いのち)を育てなければならない。

そして、「本来の自己を実現する」とは、「今回の生において与えられたミッションを果たして行く」ということと同義なのである。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目に続いて16回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、段々最終コーナーにさしかかってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(3)

さてこの様にして神経症的傾向は次第に理解されるが、通常最初に明らかになるのは、患者がそれでもって一応の葛藤を解決している方法であるところの神経症的傾向であろう。仮に自己拡大的方法を以て解決している場合は、彼の自由連想や、夢や、対人関係に、彼の自己拡大的な shoulds や claims を発見し、あとづけ、連関を考えて、次第に彼の神経症的構造の中核をなす「仮幻の自己」の明確化に迫って行くのである。
これらに関する理解が一応成熟して来た時、患者に対して、患者の意識に近い面から、適当な時期に ー この時期の判断が重要であるが ー 解釈を試みるのである。解釈は断言的でなくて、出来るだけ「でしょうか?」等の疑問の形をとって、患者自身による思考と省察に訴えたい。
と言うのは、解釈は分析者からの患者への呼びかけであり、その注意の喚起であり、自己認識への促しであり、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与える方法であるからである。
と同時に又、疑問の形に応えて、決定し判断するのは患者であって、分析者は助力者であることを次第に明らかにして行く為でもある。
解釈が幸にも受入れられ、理解されると、それは、患者の自己認識への大きな照明となり、新しい分析への通路を開くことになる。
しかし、必ずしも受入れられない場合でも、分析者は、患者のそれに対する表現や反応によって、更に深い理解への手引きを得ることが出来る。
ともかく、この様なことを繰返しているうちに、患者は次第に過去の回想や現在の感動的な経験を再体験することによって、自分のとっている神経症的態度との連関を見出して行く。
もとより、始めのうちは、たとえ見出すにせよ、狭い特殊な状態との関係のみにとどまるか、或は漠然として一般的な形でしか見られないだろう。しかし、その様な関係を理解出来る事は洞察の一種である。その様な洞察は、回を重ねるにつれ遅かれ早かれ、現在の状況に於て自分の内に作用している色々な要素が、自分の場合に於て具体的にどの様な現象として現われ、どの様な結果をもたらしているかの現実的な洞察に導き、更にそこに動いている自分に固有な shoulds や claims を理解するに至るであろう。
そして更に自分の神経症的な pride に気付き、様々な曲折を経ながら、その背後にある「仮幻の自己」の存在を感じ始めるだろう。それと共に、一方に於て、前景にあって強く動いている。重要な解決方法としての神経症的態度の下に、抑圧された他の要求や誇りが存在する事実に面する様になる。例えば自己拡大的な主傾向の下に、依存的傾向や自己限定的傾向が抑圧否定されて存在することに気付くであろう。
そして、それらの諸傾向の間の矛盾や葛藤が露呈せられ、自分の神経症的性格の構造連関と、その間の力動関係が認識され洞察されるに至る。洞察は広く解すれば知的認識から情動的認識を含む(但し、オブザーバー的知的認識を除外する)。そして知的認識自体は必ずしも直ちに神経症的なものからの解放 ー 性格的変化 ー をもたらすとは言えないが、それは治療的な価値を持っている。
自分の悩んでいる症状に、はっきりした原因があると言うことを発見することは、少なくとも処置しようとすれば取扱える対象があると言う気持を与え、今迄の様に訳のわからないままに苦しんでいた状態にいなくてすむと言う希望を与えるのである。この意味で知識はやはり力である。そして、洞察が重なるにつれ、分析に対する信頼、積極的な態度が増大して来ると言う大きな効果がある。

 

クライアントの神経症的な問題を「解釈」して行くとき、どうしてもセラピストが一方的な、あるいは独断的な解釈をしがちである。そうではなくて、セラピーの過程においては、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与えることが非常に重要であり、あくまでセラピストは助力者であることを忘れてはならない。
また、自己縮小的依存型の傾向、自己拡大的支配型の傾向、自己限定的断念型の傾向は、前景に出てわかりやすい一つの傾向の下に、他の二つが抑圧されて存在するという事実は、時にショッキングでありながらも、洞察を深めるためには避けて通れないプロセスである。
さて、今これを読まれているあなたは、自分自身においてお気づきでしょうか?
そして、洞察が、知的認識だけの話ではなく、深い洞察ほど実は情動的認識を含む、ということも見過ごせない事実である。
ただの冷静な「ああ、そうか。」ではなく、「ああ!そうだったのか!」という情動を伴うところに、その後の認知の変容や行動の変容がより強く期待できるのである。
いくら頭の先で「わかった」って、日々の具体的な「生き方」が変わらなければ意味はない。


 

過日、電車に乗ると、80代と思(おぼ)しきおじいさんが車椅子で優先スペースに乗車していた。
杖を持ち、キャップをかぶっているが、そのキャップに刺繍文字で何やら英語が書いてある。
私が立っている角度からは文末しか見えず、“… not alone.と読める。

それじゃあ、全文は
I am not alone.

We are not alone.
だろう。
そうだよ、じいさん。あんたは一人じゃないよ。

…と思っていたら、なんと全文は、
You are not alone.
であった。
孤独な立場に見えるじいさんが、自分以外の人にメッセージを発していたのである。

昔、子ども専門病院で研修を受けて来た知り合いの医師が、そこに入院していたアメリカ人少年の話を聞かせてくれた。
重体で余命幾ばくもない少年は、研修が終わり、別れを告げに行った知人に、声にならない声で何かを言ったそうだ。
傍らの看護師さんに訊くと、少年は
May God bless you.(あなたに神の祝福がありますように)
と絞り出すように言ったのだという。
涙目で「自分は祝福されていないのに、オレに向かってそう言ったんだよ。」と言う彼に私は反論した。
その少年を通して働く力がそう言わせたんだから、そのとき彼も祝福されたんだよ。

翻って、あのおじいさんはどうだろうか。
あのおじいさんもまた、自分を通して働く力によって“You are not alone.というキャップをかぶったとき、同時に自分はひとりではないことを感じたのだと思う。

時にそんな力が働くことがあると私は思っている。

 

 

「一般に本能というものは食欲にしろ、睡眠にしろ、あるいは性欲にしろ、あるのが健康ではありますが、その欲求を充足する場合には、おのずから社会的なきまりというか、マナーがあります。…そして、食欲とか睡眠欲の場合は、小さいときから訓練を受けています。…ところが性に関してだけは、性の欲求がかなりあとの思春期になって出てくるものですから、それに関するしつけは全然できてないわけです。…言いかえれば、子どもたちは自分一人で、この問題についていろいろな試行錯誤をしなくてはならないのです。…
女の子の場合は、女性ホルモンが活発に出てきますと月経という現象がありますが、この頃から女の子は変わってきます。急にふっくらとして女らしく、なめらかな曲線が出てきます。…つまり女の子にとっては一般的に、成熟していくことが喜びなのです。性ホルモンの作用は、女性がもっぱら美しくやさしくなるように出てきます。
ところが男の子の場合には、極めて現実的には性欲としてはっきり出てきます。自分の体の中に、何だかわからないが、つき上げる衝動として荒々しく突然出てくるのです。
このような差異を頭に置いて…この時期によくある恋愛感情についてふれてみますと…恋愛を、心理的な側面と肉体的な側面とに分ければ、一般的には、女の子の方には心理的な面が強く、男の子には肉体的欲求の面が強いと言うことができます。このために、よく…行きちがいが起きるのですが…大人たちは、男の子と女の子の思春期におけるこうした点をよく認識した上で、それに対する教育的な準備を…するべきではないでしょうか。
もとより、若い生命ですから、男の子も女の子も…経験を通じて学び、成長していくことと思いますが、時として女の子には肉体的にも精神的にも大きな打撃となることが多いのです。…
また、この時代の男の子の問題に対して、母親だけではどうにもならないことがあるわけで、とかく、叱責するとか、見て見ぬ振りをするとかに終りがちですが、ここは一つ、父親が男性の先輩として暖かく、明るい態度で、誰しも青春の日に陥り易い傾向であること、それに耽りすぎないようにすること、エネルギーが余ったら体を動かして発散したらどうかなど、大らかに話して頂けたらどうかと思います。…
そして、この時代を乗りきって成長していくために…何よりも、自分の目標や中心をはっきりと持っていることが…必要だと思われます。…自分の生活に目標があり、中心がある時は、性の問題は少なくとも第一次の問題でなくて、第二次、第三次の問題となっていきます。もちろん、その目標や中心となっているものは、自分がほんとうに必要と認め、自分の内部感覚がほんとうに求め、興味を持っているものです。こうした目標や中心があると、それに対してエネルギーが向けられ、狭い意味での性的対象に向けられるエネルギーが少なくなります。…
いずれにせよ自分が本気で取り組めるものあれば、それはそれぞれの生命を生かし、成長させるものです。そればかりでなく、同じ目標や同じ興味を持つ仲間を次第に発見して、お互に刺激し合い、はげまし合い、楽しみ合っていく友情を発展させることができて、人間関係の上からも、場合によっては各人の生涯にわたる大きな収穫を得ることができるのです。
もとより、こうした中でも性的な衝動は自然にありますが、自分の生活に目標や中心がある場合、それと性の衝動とのはげしい葛藤の中で努力し苦闘することで、次第に鍛えられ、たくましく成長し、やがてこれが自分なのだ、自分はこう生きて行くのだという自覚が生まれて、ほんとうの大人として生きていくことになります。
このように性の問題は、青春期をゆるがす大きな問題でありますが、同時にそれは、若い生命の発展と成長のための機会となり、自己形成への飛躍台にもなる積極的意味を持っているものです。この時代の苦しみを通じて、本気に自分の取り組める興味や関心の対象を発見させる方向へ助力することに、この時代の親の役割があると思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

男女における性の発現の仕方の違いは、近藤先生が度々強調されて来たことです。
現代の性教育においても、医学的なことは説明されていても、男女が自分の性の発現の仕方の特徴、異性の性の発現の仕方の特徴、さらにその心理的特徴について、ちゃんと教育されているとは言い難いと思います。
そこを是非、お父さん・お母さん方、先生方、あるいは、年長の先輩方から思春期の子どもたちに教え伝える機会を設けていただきたいと思います(そのためにはもちろんお父さん・お母さん方、そして、年長の先輩方が真実をしっかり理解している必要があります)。
そしてその上で、性の問題をただの問題として扱うのではなく、性欲に支配されることなく、本来の自分を逞しく生きて行けるようになるための踏み台として活用して行くところに、事の本筋があるように思います。
そうすれば、この性欲を、名誉欲や金銭欲など他の欲望に置き換えても、当てはまる、即ち、どのような欲望にも支配されず、この人生において本来の自分を生きて行けるようになる、という大切な教えとなるのではないでしょうか。

 

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