八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

大事な勘所を間違えないように。

当研究所の基本姿勢「情けなさの自覚」「成長への意欲」について、時々誤解がありますので、確認しておきましょう。

大前提として、我々は凡夫なので、問題山積みは最初から想定内です。
今さら隠したってしょうがない。
我々にはたくさんの神経症的問題があります。
それはまさしく“問題”ではあるけれど、事の本質から言えば、それは大した“問題”ではありません。

大切なのは、まずはそれをちゃんと見つめて、認められるか否か。
それがないことには話が始まりません。
それが「情けなさの自覚」です。

それなのに、散々やらかしておいて、それを認めない、隠蔽する、ちょろまかす、なかったことにしようとする御仁がいらっしゃる。
恐らく、子どもの頃から、やらかしたことを責められ、攻撃されて来た歴史があるのでしょう。
でも、それでは、少なくとも当研究所の対象ではありません。
やらかすのはしょうがない。
それを正面から認められるか否か。
そして、そのことを正面から話題にできるか否か。
どんなに恥ずかしい、なかったことにしたい内容でも。

私はやらかしたことは責めません、攻撃しません。
それを認めた上で、切実に超えて行こうとしようとする限り。
その姿勢を「成長への意欲」というのです。
それがあればなんとかなります。
必ず成長できます。

しかし、それをを認めない、隠蔽する、ちょろまかす、なかったことにしようとする、または、認めても、それを切実に超えて行こうとしないとき、私はそれを指摘します。
あるいは、面談をお断りします。
そんなことでは「情けなさの自覚」も「成長への意欲」もないわけですから、当研究所の対象外ということになります。

対象外なら、さようなら、です。それは致し方ない。
しかし、認めて超えて行こうとする人であれば、どこまでもどこまでも支え、応援して行きます。

それが八雲総合研究所の基本的スタンスです。
大事な勘所をどうぞ押さえておいて下さい。

 

 

「我々はいいとか、悪いとか、正しいとか、正しくないとか、人間のちっぽけな頭で考えたくだらない差別観で、お互いを見、自分のことを考えて、平気な顔をし、そして、他人のことをあげつらい、それが大事なことだと思ってるんですね。しかし一人ひとりのいのちが、一人ひとりの顔が違っているように、それぞれの意味を持ってこの世に生まれているということ、このいのちが与えられたたったひとつしかないいのちであるということを認識したとき、いったいこのいのちを我々は自己中心に生かしていいものかどうか。我々はいったい何のためにお互いにいのちを与えられたのか。この世界を支え、我々を動かし、我々を促しているものの、そういったものにおのずから、しからしめられる。そういうところに大きな生き方がある。そのときに、こだわりというものが我々から、はっきり離れていく。そして、いつかは知らないけれども、もっと大きな安定した、こだわろうとこだわるまいと、そこに安定した世界というものが開かれてくるのじゃないでしょうかね。…そこにはいろいろな自分の体験そのもの、人生の体験があります。そこに自分を超えた力、自分のはからいを超え、自分の計算を超え、自分の小知、そういったものを超えた力をあなた方は感じることが何度もあるだろうと思います。
それが、共感の世界です。共にそのなか生きる。共に同じようななかに生かされているということを感じ合う。これがほんとうの共感ということになります。人間対人間の共感であれば、そこには必ず打算があり、自己中心的なものがある。これをまず、はっきり認識することです。それを安易にいい加減に考え、感じたりすると、そこにいろんな問題が生じてくる。どのような人間の自己中心であろうと、自力主義であろうと、その最後において我々は行き詰る。そのなかにそれをも包含し、それさえも救ってくれるという大きな力があるということをお互いに知ること、そこにおいて大きな共感が成り立つことがはっきりわかる。…
すらりとして、安定して、こだわりというものに負けないというか、こだわらないで、こだわりにこだわらないで、さらさらと水のように流れて行くことができます。こだわってもいい。こだわってもいいのです。というのは、このね、大きな力を妨げるような、力強い、それほどの力強いこだわりはありません。そういうものに必ず乗っかる。ただ、それは、長い河のなかに、淵ができても、淀んだものは、必ず流れて行く。じっとそのなかで、その自分のこだわりを、じっと見つめ、はっきり認識するときに、おのずとそこで展開されるものが、おのずからしからしめられるものがあるというのです。そんなことを私は感じております。
」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず我々一人ひとりが何のために生命(いのち)を授かったのか、ということ。
その視点が持てただけでも、狭い私利私欲の視点から離れることができます。
そして、あなたもわたしも、それぞれに今回の人生において果たすべきミッションを与えられて、生かされているということ。
それを共に感じることを“共感”というのです。
失意の底にある人に向かって「お辛いですね。」などと言うのが“共感”ではないのです。
そんなペラッペラの情緒的同情ではなくて、あなたもわたしもそれぞれに与えらえたミッションを果たすために生かされているということを共に感じるのが“共感”なんです。
そうなれば、失意の底にある人を観ても、その人の存在の奥底に働いている生命(いのち)の力、そして自分の存在の奥底にも働いている生命(いのち)の力を感じることでしょう。
そして最後の「こだわらないで、こだわりにこだわらないでさらさらと水のように流れて行く」から「こだわってもいい。こだわってもいいのです。」というところは、まさに近藤先生の真骨頂でしょう。
それでも、おのずからしからしめられる力があるから心配するな、ということなのです。

「自然(じねん)」と書いて、「自(おの)ずから然(しか)らしめらるる」とよむ。

そのことに気がついて、近藤先生と歓談した日のことが、昨日のことのように思い出されます。

 

 

京都にある浄土宗のお寺、永観(えいかん)堂に「みかえり阿弥陀」という仏像があるのをご存知だろうか。

かつて寒さ厳しき2月、お堂の中で、僧・永観(ようかん:人名のときは「ようかん」、建物名のときは「えいかん」とよむそうです)が念仏しながら阿弥陀仏像のまわりをぐるぐると回る行道をしていたところ、突然、須弥壇(しゅみだん)に安置されていた阿弥陀仏像が壇を降り、永観を先導して、行道を始められたというのである。
呆気にとられていた永観に対し、阿弥陀仏が振り返って
「永観、遅し。(永観、遅いぞ)」
と声をかけられた。
そのお姿を現わしたのが「みかえり阿弥陀像」というわけで、これはなかなかユーモラスな仏像である。

しかし、私には些か異論がある。

阿弥陀さまが愚かな凡夫を一人残らず救い取って捨てない=「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」のイメージとして、親鸞が「摂」に訓をつけて「もののにぐるをおわえとる」と記している。
これは「
逃げる者を後ろから追いかけて捕まえる」という意味である。
即ち、どんなアンポンタンで、ろくでもない凡夫であっても、こっちから追いかけ回して捕まえて救ってやろうというのだから、阿弥陀さんの大悲の徹底ぶりには畏(おそ)れ入るばかりである。
そうなると、先行する阿弥陀さんが永観を振り返って“前から”「永観、遅いぞ。」と言うよりは、阿弥陀さんが“後ろから”「ほーら、永観、つかまえるぞー。」と永観を追い回している図の方がしっくり来る気がする。
そうなると、ちょっとホラーチックな仏像になるかもしれない。

…とここまで書いて来て、ふと気がついた。

ひょっとするとお茶目な阿弥陀さんが、永観をわざと追い越して、周回遅れの永観を振り勝って、「永観、遅いぞ。」と言ったのかもしれない。
そして永観が「なんでやねん!」
←よしもと祇園花月かいっ!
…阿弥陀はん、永観はん、堪忍しとぉくれやす。

しかし、どんな方法を使っても一人残らず凡夫を救おうという阿弥陀さんである。
ついつい視野狭窄になって悲愴な想いにとらわれがちな我々凡夫に対して、ちょっと肩の力の抜けるようなこともやって下さる阿弥陀さんに、改めて有り難いなぁ、と思うのでありました。

 

 

たまには、ぼーっとした時間を過ごしましょう。

そして、ただぼーっとするときに、お勧めなものがあります。
それは「火」と「水」。



まずは「火」。

焚き火の炎をずっと眺める。
キャンプで好きな方もいらっしゃるでしょう。
炎は常に燃えて燃えて燃えて、その構成要素=燃焼物質は一瞬たりとも留まっていないのに、炎は燃え続けている。

あなたの存在もそうなのです。
あなたを存在させている構成要素は刻々と入れ替わっているのだけれど、あなたという存在は継続して存在しているかのように見えている。
実は万物がそうなんです。
固定された存在なんてないんです。
それを感じること。

いくらでもぼーっとしていられます。

太い百目蝋燭の炎でもいいかもしれませんね。


次に「水」。

流れる川をずっと眺めている。
川もまた、その構成要素=水滴は刻々と入れ替わっているのに、ずっと川があるかのように見えている。
本質は「火」と同じ。

滝もいいかもしれません。 

寄せては返す海の波もいいでしょう。

ずっと眺めていると
その存在の中に動き続けるものがある。

それを感じる。

今の炎天下では勧めませんが、もう少し涼しくなった頃、是非是非「火」と「水」を感じてみて下さい。

それはとてもとても贅沢な時間になるでしょう。

 

 

面談をしていて、今が“勝負どき”の人が常に何人かおられる。

ある意味、今が“勝負どき”でない人は当研究所にひとりも来ておられないのだが、その中でも特に自分の中心的問題と真っ正面から勝負しなければいけないときがある。

私自身、何度も経験があるが、こればかりはどんなにしんどくても、勝負するより他、選択肢はない。
「選択肢はない」と申し上げたが、全員が全員、勝負するわけではなくて、中には、ちょろまかす人、逃げ出す人もいる。
いや、世の中にはそういう人たちの方が圧倒的に多いのだ。
そしてニセモノの自分を生きて行くことになるが、本人がそれを選ぶ以上、なんともしようがない。
当研究所とは縁がないか、もし来ておられれば脱落していくことになる。

そしてその勝負の持続期間についても、当面の問題を解決するのに、数回の面談で済む場合もあるが、1年~年単位かかることもフツーにある。
例えば、二十歳のときに面談に来られたとすれば、最大十七年間(三歳以降、ニセモノの自分を生きて来たと計算して)余計な塵埃や泥をかぶって生きて来たわけであるから。それを除去するのに十七年かかっても不思議はないわけである(実際にはそんなにかからないが)。
ここらも詰めが甘い人は、ちょっと楽になるとすぐに切迫さを失い、元の木阿弥と化することを繰り返す。
そういう人は、私の方からもう大丈夫でしょう、と言う前に自分の方から面談頻度を下げたりするのが特徴的である。
やはり問題は、情けなさの自覚の不足にあるのだ。

しかしね、本当の自分を生きるために生命(いのち)を授かったのに、ニセモノの自分を生きる人生があるはずはないのだ。
しんどくなったら、原点に戻って、根源的な問いを繰り返そう。

今回の人生、本当の自分を生きるの? それとも、ニセモノの自分を生きるの?

もし前者であれば、しんどいけれど一定期間の「辛抱」が必要である。
そしてその間、その人の問題に迫り続けるこちらにも「辛抱」が要る。

その人に向かって語り続けながら、その人の生命(いのち)に向かって祈り続ける、突破の門が開くまで。



ある人が父親の跡を継いで、家業の会社の社長になった。

やり手創業者の父親に比べ、「気ぃ遣いで気にしぃ」の息子は、古参の社員からも弱腰を批判されることが多かった。
彼としては面白くなかったが、どう頑張っても父親のようにグイグイと主導権を発揮することができるとは思えなかった。

そんな中で、幼馴染の親友一人だけは、彼を批判せず、
「それがおまえらしさなんだから、気ぃ遣いで気にしぃの社長でええやん。
と言ってくれた。
「流石、自分の理解者だ。」
と思い、
「ホッとした。」
という。

私はそうは思わない。

何故ならば、「気ぃ遣いで気にしぃ」の彼は、本当の彼ではないからである。
生まれつき「気ぃ遣いで気にしぃ」の子どもなんて存在しない。
恐らくは、会社でも家庭でも支配的な父親の下で、「気ぃ遣いで気にしぃ」の性格は後天的に作られたのであろう。
よって、これを引っぺがさなくては、本来の彼がどういう人なのか、わからないではないか。

かつて緩和ケアに関わっていた頃、「その人らしい最期を」ということがよく言われていた。
そこでも、ある配慮に富んだ高齢男性が緩和ケアを受けていた。
どっちがケアしてるんだかわからないくらい、その人は医師や看護師たちに対して行き届いた言動を繰り返し、スタッフたちも
「それが〇〇さんらしいよね~。」
と言っていた。
やがて病勢が進んで来ると、彼の言動は次第に喜怒哀楽に溢れ、いろんな要求もそのまま口にするようになった(念のために付け加えておくと、それは単なる脱抑制の反動ではない)。
いわゆる“良い患者”ではなくなったかももしれないが、そのままの“彼”になっていた。
とまどうスタッフに対し、
私は
「やっと〇〇さんが出ましたね。」
と言った。
こうなってこその「その人らしい最期」である。

人は自分自身を生きるために生れて来る。
後から身に付けたニセモノの自分のままでいいじゃないか、というわけにはいかない。
願わくば、死ぬまでに、できれば早いうちに、本来の自分で生きましょ。

 

 

近所のおばあさんから聞いた話。 

旦那さんが水虫になったそうな。
市販薬をつけてもなかなかよくならないので、近くの皮膚科を受診した。
すると、出て来た若くて綺麗な女医さんが、患部を素手で触って丁寧に診てくれ、薬を出してくれたのだという。
感激した旦那さんは、水虫はとうに治っているのに、何かとその皮膚科を受診するようになったそうだ。

これも何でも素手で触ればいいというものではなく(感染性のあるものに触ってしまうと自分が感染源になる恐れがある)、白癬菌は触っても洗えば大丈夫なので、その医学的知識があれば、触ることに何の支障もない。
それよりも、私に言わせれば、素手で触るということに精神療法的な意義があるのだと思う。
自分の一部を汚いものを見るかのように、エンガチョ扱いされるのは実に哀しいものである。
触れられるとそこに、現代風に言うならば、分断よりもつながりを感じる。

かつて精神科病院に勤めていたとき、その日不在の医師の患者さんの診察を頼まれたことがあった。
診ると、当時よく見られた接触性皮膚炎であったが、触診した後、手を洗って処方を出していたら、後ろに立っていた看護師さんが独り言のように言った。
「◯◯先生(主治医)は触らないのよね…。」

自慢話をしているのではない。
あなたの小さな子どもに何らかの皮膚疾患ができたら、きっとあなたは触るだろう。
やっぱり人と人とは、分断しているよりもつながってる方がいいんじゃないかな。

皮疹だけの話ではないのである。

 

 

ある東京ディズニーリゾート・ファンの人が
「ここにいるときだけ、イヤな現実を忘れられるんです。」
と言った。
それに対し、ある別のファンは
「東京ディズニーリゾートは逃げ場じゃないんです。」
と言った。
「私は東京ディズニーリゾートのお蔭で明日からの現実でも頑張れる。」
とも。

楽しみ方はそれぞれの自由だが、私は後者の発想は、東京ディズニーリゾートをそこだけのものにせず、日常に連れ帰っているようで、面白いと思った。

そしてそのとき私の頭の中には、神社の鳥居が浮かんだ。

一般に神社の鳥居は、神域と俗世を区切る結界としての意味を持っていると言われる。
従って、鳥居をくぐって神社に入るときは、神域に入るために一礼をする。
そこに異論はない。
しかし、反対に鳥居をくぐって神域から出るときのことは触れられていない。
俗世に向かって出るんだから、どうでもいい、というわけだろうか。

鳥居をくぐって神域に入り、拝殿で参拝して、また鳥居をくぐって俗世に帰る。
その間だけ清浄(しょうじょう)な心持ちになる=鳥居を出れば元の木阿弥であれば、それは先の東京ディズニーリゾートの前者の意見と同じである。
それではもったいなかろう。
そもそも参拝によって何を感じるのか。
折角、参拝によって「御霊(みたま)」の働き=あなたをあなたさせる大元の働きを感じたのであれば、その体験を鳥居の外へ、即ち、俗世へ、日常に持ち帰らなければもったいないではないか。
これは先の東京ディズニーリゾートの後者の意見をさらに徹底させたものとなる。
(空間的に)どこまでその体験を持ち帰れるか。
(時間的に)いつまでその体験を維持できるか。
つまり、本当のことを言えば、神社の帰りには鳥居がなくなる=俗世の全部が神域になっていくことが究極の目標である、と私は思っている。

もし次の機会がありましたら、そんなことを思いながら、神社に参拝したり(お寺や教会でも同じ)、東京ディズニーリゾートに行ってみることをお勧めしたいと思います。

 

 

「『こだわり』というテーマで話をすすめてきました。そこで何にこだわるかというと、男性も女性もそれぞれの価値があると思っている。価値は、自分自身を中心とする自己中心的なものです。その意味で、非常に傲慢なものです。傲慢なものであると同時に、傲慢に気づかない我々はおろか者であることもわかりますね。そうしたことを明確に認識することを私は自己認識と呼びたいんです。

それはどういうことかというと、我々は大部分の生活においていろんなものにこだわる。自分の価値に執着し、それを人に要求し、それがうまくいかなければ、恨み、憎む。そしてさらに自分の欲望の充足のためにすべての人がいるような感じを持ち、それを自分の知恵でもって、自分の頭でもってできるような妄想を抱く。そういう妄想だとか、その他もろもろの自分自身の僭越さに気がつかない、我々はそういう無知、おろかさというものを持っているということになります。
私は、いつも患者さんの訴えを聴いているときに、ちょうどそれは何か大きな音楽の流れを聴いてるような気がする。その人固有のシンフォニー。そこにはいろんな欲望の音がする。その音楽は必ずしも楽しく、美しいものではない。むしろ、どろんとした、ドロドロの泥のようなものを感じる。
そういうものをだれも持っている。もちろん私にもある。ああ人間なんて弱くておろかなのだ。そのおろかさをほんとうにわかったときに、お互いの共感の世界というものが開けてくる。人間が、きれいごとでお互いにわかりあうということは、僕には信じられないのです。

私に、昔、ひとりの少女がいいました。
『先生、私は十七のときに人工流産しました。これは、お父さんにも、お母さんにもいってないんです。彼はそのときに怖がっちゃって、どっかへ行ってしまいました。自分ひとりで私は産婦人科へ行きました。あのときの心細い思いはだれにもいえませんでした。子どもを堕ろしたあとで、こんなことですよ、と出されたものを見せられました。そのとき私は、なんという罪悪を犯したんだろうと思いました』きれいごとの告白ではありません。
けれどもそこには、ほんとうにひとりの少女が身をもってぶつかった悲しみと、苦しみと、苦悶と、はずかしさと、深い自分の罪の意識を、自分の汚さをそのまま出して、しかもはっきりそれに打ち勝っている少女の姿がありました。私はすばらしいと思います。十七歳の子どもがですよ。やったことはどうか、道義的になんとでも非難してよろしい。しかしその、起きたことをその子がひとりで背負ってるんです。人間が自分を、汚かろうが、どうであろうが、間違っていようが、悪であろうが、何であろうが、そのものをそのものとして見る勇気を持つとき、人間は気高い姿を見せます。そういうのを僕は、自分を見つめる、見るというんです。
私は、良かったね、いえて良かったね、といいました。その重荷はみんな僕がもらうよ、あなたはイヤなことはみんな忘れてね、と。たったひとりで彼女は耐えてきたんです。こういったことはね、男性にはわからないものなんです。男性にはわからないけど、しかし同じように、男にもだれにもいえないものがある。そうしたものをね、ほんとうに見つめて、そのまま聴く。正しく見る。その勇気、それが大事なんだな。
この少女の場合ね、私は勇気といいました。確かに勇気なんです。どうして与えられたのかというと、この少女は仕方がなかったんです。私が勇気といったのではじめて自分で、あっ、そうかと気がついたけれども、彼女はそのとき絶望の果て、やむをえないところにまで追いつめられていた。さっきいったように、自分の欲望は他の人がかなえてくれるんだとか、自分の頭でなんでもできるんだとか、そんな思いはどっかへ飛んじゃっていた。もう自分はほんとうに無力で、何にもできやしない、そういう状態で、心のやり場がなかったわけです。人間というものは、自分の知恵だとか、傲慢だとかが消え去ったときに、かえって強くなるんですね。そして、そのときの力は自分の力ではないんです。…
この少女は何もなくなったときに、自分自身の力がほんとうになくなったときに救われた。自分の力を捨てたときに、はじめて人間はほんとうに大きな力を感じることができる。これが私は一番大事だと思う。…

私たちが自分の悪智、悪いはからい、そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「おろかさ」の自覚が、自分がどんなに愚かであるかということを認めることが、決して自己バッシングに終わらない、終わらないどころか、時に「気高く」さえあり、また、他の多くの人を救うことにさえなる、ということをこの文章から学ぶことができます。
というのは、この「ひとりの少女」のエピソードを読んだ何人もの女性から、辛い体験の告白を伺いました。
そして、この少女の告白のお蔭で、またこのエピソードを書かれた近藤先生のお蔭で、何人もの人間が救われました。
いや、そこに働いたのは、この少女の力でもなく、近藤先生の力でもありませんでした。
まさに「
そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。
その「大きな力」を感じたとき、我々の生きる悲しみを超えた、救いの涙がありました。
近藤先生の著作の中でも、(「情緒的」感動を超えた「霊的」感動をもたらすという意味で)名文中の名文のひとつだと思います。

尚、この「ひとりの少女」のエピソードは、当ホームページの「近藤章久先生のこと」に引用しています。

 

 

「調子に乗る」という。
どうも「調子に乗る」というと、一般にネガティヴなイメージがあるようだが、私はそう思っていない。
内発的な発露のままに生きるということは、自然であり、美しいことですらあると思っている。
むしろ「調子に乗って」生きなくて何の人生か!と思っている。

それを「調子に乗らず」「抑制が効いた方が」あるいは「理性的にコントロールされた方が」、「上等」「上品」と勘違いしている方が実に多いのだ。
それは多くの場合、イソップ寓話の「すっぱい葡萄」のように、自分を抑圧されて生きて来た人間が=自分を自由に出せない人間が、その方が「上等」「上品」と負け惜しみを言っているに過ぎない。

幼児たちを観よ。
彼ら彼女らの「調子の乗り方」は、実に「天真爛漫」である。
「天真」=天の真実に沿うことがおかしいはずがない。

確かに、「調子に乗る」と似て非なるものとして「悪乗り」がある。
これは注意を要する。
「悪乗り」はむしろ抑圧の反動として起こることが多く、「調子に乗る」に比べて、過剰な「垂れ流し」の臭みがあり、不自然感を否めない。
この「不自然」というところが「天真」と決定的に異なるのである。

改めて問う。
「調子に乗る」とは、何の調子に乗るのか。
天の促しに乗り、生命(いのち)の促しに乗るのである。
そうこなくっちゃあ、あなたはあなたを生きていることになりませんよ、と申し上げたい。

 

 

小学校低学年の頃、家の裏に古い長屋があった。
その長屋の入り口に、一本の無花果(いちじく)の木があった。
そしてその長屋には小学校の上級生の男の子が住んでいた。
その頃、学校の砂場で遊ぶ走高跳びが流行っていて、彼もまた一緒に遊ぶメンバーの一人だった。
器用にジャンプするその子の両手は、サリドマイド禍のために20cmほどしかなかった。
その後、その長屋は取り壊され、その無花果の木だけが残った。

家人が小学校低学年の頃、時々預けられていた家の裏に、同級生の女の子の家があった。
見るとはなしに見えるその子の家の中はいつも暗かった。
その子の両親は二人とも全盲であった。
その子の視力に問題はなかった。
その家の庭には大きな無花果の木があった。
その後のことはわからない。

以来、無花果の木を観ると、私も家人も(感情的にではなく)霊的にやるせない気持ちになる。

いちじくを漢字で書くと無花果(花のない果実)となるが、実際には実の中に隠れて花を咲かせている。

花は見えぬが、花はある。
花はあるが、花が見えぬ。 

聖書やいろいろな国の神話に無花果が取り上げられるのには訳があったのである。

 

 

今日は令和7年度3回目の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目に続いて13回目となった。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※特に今回の「治療」についての内容は、人間の成長に関わる人すべてに読んでいただきたいと思う。やっぱり、この勉強会やってて良かったなぁ、としみじみ思いました。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

a.治療のはじまり……患者と治療者の信頼関係の発足

「患者が訪れて来た時治療は始まっている」と Horney は言う。患者が治療者を訪れる時、彼は症状を訴えそれを治癒してもらう為に来るのである。症状の種類は多様である。症状が語られるうちに患者の既往病歴、生活歴び記録がとられ、家庭環境、教育程度、結婚の有無、友人関係、趣味等から現在の状態に関しての資料が得られる。
一般的医学及び精神医学診断によって鑑別を行うのは当然のことである。しかし、かくして神経症と鑑別された場合でも、患者は症状だけを持って来て物語るばかりでない。彼は症状と共に自分を ー 自分の性格を持ちこんで、治療者にそれを無言のうちに物語る。このことは、今迄私達が理解したように、神経症の症状は、神経症的性格のもたらす諸矛盾の必然的結果であり、また、神経症的葛藤の解決の形相(けいそう)であり、神経症防衛の表現でもあるのであるから極めて当然の事なのである。
例えば症状を語る態度を取上げて見ても、「自己縮小的依存型」の患者は、如何に自分が症状によって苦しみ悩んでいるかを強調し、印象づけ、理解と愛情を暗黙のうちに執拗に要求し、分析者が魔術的に自分を救ってくれると期待する。
「自己拡大的征服型」の患者は、 症状を不満げに、自分の恥辱かの如くに語り、その原因を他人のせいにして、怒りや憎しみの口吻(こうふん)を現わし、分析に対して強い不信を示す。「自己限定的断念型」は極めて客観的に、感情を伴わない調子で、恰(あたか)も他人の事であるかの様に語り、分析治療に関しても一見冷静な良き理解を示すかの様な印象を与える。
このことは、治療家を訪れる動機についても、自分の過去の歴史を語る時にでも、或は家族や友人を語る時にでも、個人によって、もとより差があるが、問わず語りに現れて来るのである。だから、一面記録される事実の意味と共にそれを語る態度にも、治療家は注意を払うことが必要である。
しかし、大切なことは、その様な、様々な態度や動機にもかかわらず、ともかく患者が治療を求めて来たそのことに、無意識ではあるが、患者が自分自身を救わんとする意欲が存在していることを理解し留意しなければならないことだろう。
この点が実は治療の基本的な手がかりであり、治療家が患者に対して持つ信頼の拠点である。治療家の持つこの様な信頼と理解こそ、神経症的歪曲のため、様々に受け取られようとも、患者にとって暗黙のうちに感じられる治療家に対する信頼感の基礎となり、所謂(いわゆる)rapport(ラポール)を形作る要因となるのである。
治療契約の締結も、また同じ様に理解される。料金や時間の取決めに関しても、そこに様々な神経症的反応を観察し得る機会が存在する。「自己拡大型」は料金や時間について言いがかりを付けたり、懸引(かけひき)をしたりするし、「自己縮小型」はそんな料金では先生に悪いとか、料金を余計に払おうとしたり、また逆に自分の窮状を強調して時間を多く要求したりする。「自己限定型」は、定められた通りをそのまま、何の反応も示さずに受取り、どちらでも良いと言う風な態度を示す。
しかし、何れにもせよ、患者がこの様な契約を通じて、自分の決意により一定の関係に入ると言う点に契約をする意味が存在する。
この決意によって、どの様な神経症的着色をうけていようとも、好むと好まざるにかかわらず彼は責任を取らざるを得ないと言う状況に自分を置くのである。置いてしまってからの彼の反応は、彼の神経症的傾向によって様々に展開するであろう。しかし、ここに治療者と患者との全治療過程を通じて、互いにそこで出会うことの出来る第2の拠点が存在するのである。
しかし、分析治療関係は患者の一方的交通の関係でない。それは患者と治療者との相互に関係し合い、参加し合う、患者の自己実現と言う目的への協同関係である。相互に関係し参加し合うと言うことは、相互に影響し合うことを不可避的に意味する。このことは私達の注意を、患者のみならず治療者の personality に向けるのである。
もし治療者の持つ神経症的傾向が明確にされていないと、彼の患者に対する反応は、言語的と非言語的とを問わず、無意識に神経症的な反応となる危険がある。例えば、彼が「自己拡大的征服型」の治療家であるとすれば、同じ「自己拡大型」の患者に当面する時、そう言う患者のよく示す治療に対する傲慢さ、治療家の解釈や態度に対する疑いや、質問や、軽蔑的な感情に対して、たちまち不快になったり、怒ったりすることになる。そして結局分析状況は相互に優越を誇示しあう戦場と化する。
これに反して、彼が「自己縮小的依存型」の患者を取扱えば、患者が惨めな苦しみや、不幸をかこてbかっこつほど、彼は自分が高く、強者の位置にあるのを感じ、優越感を持ち、患者の依存的態度を利用して彼の意志と力のままに操縦し、その生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握ることに快感と満足を感じる。
かくて、患者の依存的傾向と治療家の制服的傾向とは、互にそれぞれの神経症的要求を満足し合うことによって益々増長し、所謂神経症的共生関係 neurotic symbiosis を生じ、分析状況はさながら神経症的傾向の培養基と化する。
もし又、「自己限定」的な患者に会えば、患者のもつ冷々(ひえびえ)とした無関心の態度は、彼には自己の権威と力とを認めない許すべからざる侮辱と感じられ、患者の進歩の緩慢さは自己の能力の無言の否定と受取られ、焦立(いらだ)ち怒り患者を責める。患者の沈黙の反抗を呼び起す。
これは一つの例であり、説明の為に単純化したが、この他、治療家の持つ「自己縮小型」「自己限定型」その他それぞれの神経症的傾向が、患者の持つ種々の種々の神経症的傾向と組合されることによって、分析治療関係は事実上神経症的関係に変質して行くのである。
更に、これと共に大切なのは、治療者自身が「真の自己」による成長を経験しているかどうかである。
単に神経症的傾向を自覚し認識したことだけでは、患者の神経症的傾向や患者への神経症的態度を認知し、理解することが出来ても、患者のもつ自己実現の傾向の徴候や萌(きざ)しを感じる感受性の鋭さが欠ける。自分自身が成長と変化を体験している場合には、そうでない場合に比べて、遥かに深く且つ敏感に患者の「真の自己」の表現を直感し、それを理解し解釈し明確化することが可能である。

身体的治療の場合に於いても、治療家は患者の健康な力の助力者である様、分析治療家も患者の健康な自己である「真の自己」の成長に助力するのである。そしてそれに助力出来るのは、分析者の中の神経症的な「仮幻の自己」ではなくて、分析者がそれによって根源的に生きている「真の自己」のみがなし得るところなのである。分析関係は相互的な関係と言ったが、根源的には患者の「真の自己」と分析者の「真の自己」との出会い ー 互いの呼びかけと応答の関係であると言える。
その意味で、分析関係の意味の真の実現のためにも治療関係に入る以前の段階に於ての、教育分析または自己分析その他による、治療家自身の神経症的傾向の分析と、「真の自己」の体験並に、それによる成長と変化の経験が望まれると共に、分析関係そのものに於いても、患者に対する自分の表現、態度を通じて絶えざる自己分析と成長が要請される訳である。この時、初めて分析関係が相互に参加し、互に呼びかけ応答し成長し合う自己実現の場となるのである。

 

この「ホーナイの精神分析」の勉強においては、毎回重要な内容を扱ってはいるが、今回はその中でも極めて重要な内容を含んでいる。
近藤先生がここまで明確に治療者/支援者に要求されることを述べられているのは珍しいことだ。
現に
「そこまでできないとやっちゃいけないんですか!」
という反発もあったそうであるが、私ならば、
「それでよくやってられるなぁ。」
と言いたいところである。
もちろんどこまで行っても、我々は凡夫。神経症的問題は数限りなくある。
それでもポンコツなりに、アンポンタンなりに、謙虚に、真摯に自分の問題を見つめて、一所懸命に乗り越えようとし続けることが、唯一の免罪符となって、治療者づら/支援者づらが許されるのである。
そして願わくば、凡夫の自覚だけでなく、自分を通して働く「真の自己」を実現させようとする力を体験することができれば、自分以外の人を通して働いている「真の自己」を実現させようとしている力も感じることができ、それが人間的成長への何よりの影響力を、相互影響力を発揮するに違いない。
そしてさらに、あなたとわたしの「真の自己」を実現させようとする力の出どころは、そもそもどこなのだろうか、というところにまで思いは深まっていくのでありました。
書きたいこと尽きないが、感想、所感のある方は是非、面談でお話しましょう。
 

 

 

町内会の掲示板。

いつもそんなにちゃんと見ているわけではないが、通りがかりに猫の写真が見え、気になって引き返した。
迷い猫探しの掲示かな。

…ではなかった。

 「7月23日 無事に見つかりました
 
たくさんの情報を寄せていただいたおかげで、みーちゃんを見つけることができました。
 
本当にありがとうございました。」

迷い猫が見つかったという御礼の貼紙だった。

わざわざこういう掲示を出すところからしても、飼い主の人柄が偲(しの)ばれるというものだ。

みーちゃん、そこのうちにずっといた方がいいと思うよ。

 

…と思ったら、脇を隣家のリクガメが散歩で通り過ぎていく。

盛夏の下でも、高齢の飼い主はリクガメの好む気温の時間帯を選んで、毎日散歩させている(リクガメも熱中症になるそうな)。

おまえのスピードだと逃げ出せないと思うけど、おまえもずっとそのうちにいた方がいいと思うよ。

 

でも、飼い主のこころ、ペット知らず。

それでもかわいいと思えるところに“愛”があるのである。

 

 

 

昔、ある連続研修(私が講師)に参加していた中年女性Aが、研修最終日の懇親会(酒席)で話しかけて来た。
先日、自宅の庭の剪定を業者に頼んだところ、職人が見習いのような若い青年を連れて来ていて、どこかで見たことがある顔だなと思っていたら、この研修にも参加している別の中年女性B(私にもわかる人)の息子さんだったという。
Bさんの息子さんは中学生頃から不登校やひどい家庭内暴力があって、ずっと引きこもっていると聞いていたから、ああ、働きだしたんだと思った、というのだ。
訊いてもいないのに、そこまでの内情話をしておいて、Aは「これ、誰にも言わないでね、先生。Bさんにも。」と付け加えた。
一気に吐き気がした。
聞きたくもない他人の秘密を一方的に垂れ流しておいて=相手に無理矢理秘密を共有させておいて、それをしゃべらせないように「誰にも言わないでね。」と最後に付け加える。
パーソナリティに問題のある人間が行う巻き込みの常套手段のひとつである。
こんなところでお目にかかるとは。
しかも、私に仕掛けて来るとは良い度胸である。
即座に(←ここが大事。沈黙すると暗黙の同意ということに持ち込まれる)
「私が何をしゃべるかしゃべらないかは私が決める。
と言って正面から睨めば、退散して行くしかなかった。
こういう悪意の巻き込みは実によく練られていて、つい術中にはまりそうになるのだが、実は対策は難しくない。
「誰にも言わないでね。」と言われた瞬間に多くの人は嫌悪感を覚えるはずである。
そのときに黙らない。
そして整然とした文章で反撃しようとしなくていい。

ただ相手の眼を見て、嫌悪と軽蔑を込めて「ゲッ。」と言えばいいのである。
思いの強さが勝負を決める。

帰り際、別のテーブルに行ったAがまた別の研修担当者と話している声が聴こえて来た。
「同居している舅がわたしのことを時々色目で見るんですよ。これ、誰にも言わないでね。」

「ゲッ。

何しに来てんだ、おまえ。
ダークサイドの世界に巻き込みに来ているのである。

闇は斬るべし。


 

内科の友人によれば、全国で高血圧症で治療を受けている人が約1,600万人いるという。
しかし、高血圧症の人自体は約4,300万人いると推計されているそうだ。
となると、差し引き約2,700万人の人が高血圧の診断基準を満たすのに治療を受けていないということになる。
大丈夫か?

精神科でいうと、全国で精神障害で治療を受けている人が約614.8万人。
しかし、なんらかの精神障害の診断基準を満たす人は約1,900万人いると推計されている。
となると、差し引き約1,285万人の人がなんらかの精神障害の診断基準を満たすのに治療を受けていないということになる。
大丈夫か?

でも、実はどちらも、なんとな~くはわかってるよね。
血圧は健康診断でも測っているし、今どき血圧計は行政機関などいろんなところに置いてあっていつでも測れる。
精神障害も、細かな診断基準など知らなくても、こころの不調が家庭生活や職業生活に支障を及ぼしていれば、なにかのこころの病気なんじゃないかな、とどこかで思っているはずである。

それでも受診しない=先延ばしし、回避し、逃避し、否認したくなる、そんな気持ちも、同じ凡夫としてわからないではない。
オレの/わたしのからだとこころだから、どうしようとオレの/わたしの勝手だと言われるかもしれないけれど、ちょっと視点を変えて、そのからだもこころも自分で作ったわけではなく、そもそもが授かりもの、天からの大切なレンタル品だと思えば、できるだけ、メンテして、リペアして、使い切ってからお返ししましょうよ。
そう思えば(「そう思うようにすれば」というやりくりではなく、私はそれが真実だと思っている)、ちょっと受診しやすくなるかもしれない。
せめてみすみす自分のからだとこころを壊すような自己破壊行為だけはやめときましょ。

 

 

「それでは、そういうこだわりというものを少なくし、我々の心を解放するにはどうしたらいいだろうかということを考えてみましょう。
それには、まず自分の心のなかの声をよく聴いてみる。何かが聴こえてきますね。自分のこだわってる声が聴こえてくる。そしてその次に、そのこだわっているのは何かとはっきり見るわけです。こだわっている状況を正しく見る。ふつう私たちはこだわりのままに引きずり回されて、悶々として苦悩してるわけです。…そういうなかで転々として、泣いたりわめいたり気が狂ったようになっている自分の姿をよく見るのです。これには、練習ということが大切であると思います。
というのは、我々はあまりにも自分のありのままの声を聴いたり、ありのままの姿を見たりするということを避けている。ご婦人の方におうかがいしたいんですけれども、メーキャップをほどこして美しくなった自分の顔。それは自分でしょうか? それとも、化粧を全部取っちゃった後の顔が自分でしょうか。どっちが自分のほんとうの顔なんでしょうか。自分を見ることは、自分の素顔を見ることです。つらいことに違いないと思います。けれども自分の姿をありのままにじっと見つめるとそのなかに、あなた方の英智が光っていることを感じます。自分の心の姿を、静かに正しく見る、正しく聴くときに、あなた方に落ち着きがわいてきます。…
さらに進みます。ほんとうの自分の姿を見、自分の声を聴くときに、どれだけ自分が自分の欲望を中心とし、自分の執着を中心として感じ、行動しているかということがわかると思います。そして、じつはこだわりということが、自己中心的な動きだということがおわかりになると思います。…
まったくみなさん、僕の話を不快に思われるかもしれないけれども、そういったことが私たちの現実ではないかと思うんですよ。つまり、私たちは、人間関係を形成するとき、このようなお互いのおろかさのなかで形成してるってことです。お互い、こういうことについての検討を加えないですね、お互いにそれぞれ自分自身に関する認識を持たないで人間関係というものを形成しようとしている。お互いの愚かさの上に形成された人間関係 ー そこにはどんなことが起こるんでしょうね。それはおそらく、自己中心的な人間同士の集まりだから、お互いにこうすべきである、ああすべきであるという、要求し合うような、そういう人間関係になってくるんじゃないでしょうかね。そこには、我、尊し、我、正しとするような一方的な自己主張の姿が見られるだけであると思います。関係し助け合うのではなくて、お互いに衝突し、攻撃し合い、闘争し合うという人間関係になるのです」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のありのままの姿をじっと見るということは、まず自分の欲望、執着、自己中心性、愚かさを観る、認めるということになりますから、それは愉快なことではありません。
だから、我々はそれを避けているのです。
しかし、自分を見つめるということの意味は、それだけではありません。
そういう心の闇を見つめる、認めた先に、それを超えた叡智の光が観えて来るのです。
光に至るために闇を観るのです。
そこが肝心。
実はその叡智の光が働いているからこそ、我々は、見たくもない、見るのもおぞましい、自分の心の闇を見つめ、認めることができるのです。
だから、自らの闇を観ることを恐れないで。
必ずその先に光がありますから。
これこそが「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の本質ということができるでしょう。

 

 

最高気温が35度のとき。

電車や街頭でヘソ出しファッションの女性を見かける。
ファッションなので、本人の好きにすれば良いのだけれど、
できれば、出ベソの方はご遠慮願いたい。
また、せめてヘソのゴマだけは綺麗にしてからにしていただきたい。
さらに、腹筋が割れてシックスパックの方は良いのだけれど、
ツーパック、即ち、「割れている」というよりは「重なっている」あるいは「のっかっている」二段重ねの方は、お出しにならない方が良いのでは、と思っていた。


そして本日、都内の最高気温が40度を超えた。

もうどうでもいい。
上記のことは、まだ余裕があるときの話だった。
こうなったら、何を出しても良い。
警察にさえ捕まらなければ。
本当にイチジクの葉っぱだけでも良いかもしれない(男性は1枚、女性は3枚)。
外から見えない室内では(同居人からのクレームがない限り)裸族でも良いかもしれない。



酷暑の今だけは、ファッションよりも生命(いのち)を大事にして下さい。

はい。

 

 

精神科医/精神療法家という仕事をしていると、自分の役目のひとつとして、クライアントが生きて来た/生きている/生きて行く人生を知るひとりの「証人」としての使命を感じるときがある。

ようやく酷い夫との離婚が成立し、これから二人の子どもと生きて行きます。
不安もあるけど頑張ります。

発達障害の子どもと夫の世話で生きて来ました。
子宮癌が見つかり、これから闘病です。

虐待を受けてずっと児童養護施設で育ちました。
来春、施設を退所し、ひとり暮らしと仕事が始まります。

みんながみんな、テレビのドキュメンタリー番組の主人公に取り上げられたり、自伝を出版できるわけではない。
また、そんな機会があったとしても、人さまには言えない
ような「秘密」の話もたくさんある。

それでもね、みんなにそれぞれの人生があり、今日までなんとか生きて来た。

せめて私ひとりでも、あなたが生きて来た/生きている/生きて行く人生の「証人」でいることはできる。
そして願わくば、いろんなことがありながらも、あなたがあなたとして成長して行く人生の物語の「証人」でいたいと思う。

たったひとりでも、いないよりはいいでしょ。
そしてどんな「秘密」の話でも聴きますよ。
それであなたが楽になり、あなたが本当のあなたになっていけるのならば。

 

 

バブルの頃、独自のファッション・ブランドのお店を展開し、ものすごく儲かったという話をしている経営者がいた。
しかし、バブルがはじけ、今は細々とネット通販を続けて、なんとか食べて行っているという。

「ファッションって生きて行くのに絶対必要なものじゃないから、景気が悪くなるとダメなんですよ。」

その言葉を聞いてふと、今、自分がやっていることは「生きて行くのに絶対必要」か、と思った。

少なくとも私にとってはそうであった。
出世の本懐(何のためにこの生命(いのち)を授かり、どう生きて死ぬのか)を求めていた私にとっては、いくら巨万の富があったとしても何の役にも立たなかっただろう。

実際、近藤先生がニューヨークでセラピーをされていた頃、クライアントの中にアメリカのビリオネアたちが何人もいたそうだ。

また、日本においても、古来、西行のように、何不自由ない生活からいきなり出家する人たちがいた。

少なくとも、古今東西を問わず、出世の本懐を体得することが「生きて行くのに絶対必要」な人たちがいらしたし、今もいらっしゃるのである。

その人たちのために当研究所はある。
そのためにこの形で開業している。

今日は、それを再確認した一日であった。

 

 

以前は、「人間的成長のための精神療法」の対象を精神科医療関係の国家資格者に限定していなかったので、いろいろな方が面談に来られていた。
(現在も、一般市民の方を対象とした「人間的成長のための精神療法」を再開したため、空き枠さえあれば、いろいろな方の面談をお受けしている)

その中でも、会社の経営者の方で、自分の人間的成長のために申し込んで来られる方が時々あり、奇特な方があるもんだ、と思ってお受けしていたが、結局のところ、職種などは全く関係なく、人間的成長はどれだけ真摯に「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持てるかにかかっている、ということが証明されたように思う(よって、経営者の方でも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が不十分な方はお受けしていない)。

但し、その経営者の方から、その会社の社員に対する講演や研修を依頼されたときは、今はお断りすることにしている。
経営者が社員のために良かれと思って企画しても、社員全員が「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持てるはずもなく、むしろ「経営者」と「社員」という権力構図や利害関係からイヤイヤ講演や研修に参加されても、得るものがあるはずもない。
社員の方が、一個人として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、自分の時間とエネルギーとお金を割いて面談を申し込まれるようでなければ、残念ながら、得るものは乏しいだろう。

従って、現在、私が講演、研修、講義などをお受けするのを、①大学生や大学院生などの学生(これは変な考えに“汚染”される前に初期教育として重要だと思っている。それに準じて、病院などの新人入職者研修をお受けする場合もある)、あるいは、②それ以外の集団として受けるならば、どんなに小集団であっても、全員が熱心な場合に限定しているのは、そのためである。

それでも
逢うべき人に逢い
その人の人間的成長に関わりたい
と死ぬまで願っているだろう。


 

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