仕事をしていて、ちょっと合間に一服したくなるときがある。
ヘロヘロになりながら無理矢理続けるより、その一服が自分をリフレッシュしてくれる。
F1レースで言えば、ピットインみたいなものかな…と思ったが、ピットインの場合は、ピットインした方が結局、最終的にタイムが早くなるという、効率主義的な、功利主義的な計算がある。
本当の“一服”は、そうではない。
結果的に、効率が悪くても、遅くなっても構わないのである。
そんな効率主義、功利主義よりももっと大切なものがある、もっと豊かなものがある、ということを体験するための一服でもあるのだ。
(但し、“逃避”としての“一服”には注意を要する。“逃避”の“一服”は、頻度が多く、だらだらと長い。それは“一服”ではない)
で、一服と言えば、喫煙で一服、喫茶で一服が一般的であろうか。
最近、喫煙は余り歓迎されなくなったが、喫茶の方は、緑茶にほうじ茶、抹茶に紅茶、そして各種フレーバーティーに珈琲などを楽しむ方は多いであろう。
そうなるとつい、和菓子やケーキなどのスウィーツもほしくなる。
それだったら折角なので、流し込むような飲み方、食べ方はしたくない。
ちゃんと味わうことをお勧めしたい。
非生産的な豊かな時間、非生産的だからこそ豊かな時間がある。
…と思っていたら、ある幼稚園児は、“お勉強”の合間に、歌って、踊って、一服するのだという。
その手があったか。
そうなると、丹田呼吸の一服、合掌礼拝(らいはい)の一服もあるかもしれない。
“一服”の世界も、なかなかに奥深いのである。