「至誠、天に通ず」

という言葉がある。
元々『孟子』にあった言葉であるが、孟子を愛する吉田松陰もこの言葉を大切にしていたという。
「誠を尽くせば、それが天に通じ、天をも動かす」という発想は、いかにも真面目で一所懸命な孟子や吉田松陰が取り上げそうな言葉である。
戦時教育を受けていた私の亡母でさえ、よくこの言葉を口にしていたのを思い出す。

しかしながら、私はそうは思わない。
何故ならば、これが「自力」の言葉だからである。
誠を尽くす、と口で言うのは簡単だが、一分(いちぶ)の隙もなく誠を尽くすなどということが凡夫に簡単にできるとは思えない。
徹底して厳密に観れば、誠を尽くしたつもりでどこかが漏れる、尽くしたつもりがすぐに毀(こぼ)れる。
「至誠」が可能だと思っていること自体に、人間の、凡夫の思い上がりが臭うのである。
ズバリ言ってしまえば、「至誠」を求める姿勢は「執念」「執着」に過ぎない、と私は思う。

そうではなくて、もし本当に「至誠」があるとすれば、それはむしろ天から与えられる、天から授かるものではなかろうか。
何故ならば、「至誠」ということ自体が人間業(わざ)ではないからである。
いや、そもそも「誠」(まこと=ほんとうのこと)という姿勢自体が人間業ではなく天の業である。

人間ごときが気をつけたやったことを「誠」と呼ぶのは、非常におこがましいことであると私は思う。
大いなるものはすべて天から。
これが「他力」の発想である。

「至誠、天より授く」
ならば、私も頷(うなづ)けるかもしれない。


 

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