井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)という本がある。
近藤先生との間で同書について話したことは懐かしいが、
(井筒俊彦氏の著作をかためて読んだ時期があったことについてはどこかで触れた)
そのとき、河合隼雄氏がサイコセラピストとして読むべき必読書として挙げていることを伺った。
確かに深い内容の本であるが、後になって、そこに意外な壁があることを知った。
この本を読んでみて「難しくて読めない。」という方が意外と多いのである。
そっかぁ。
一応「読んだ。」と言う方でもディスカッションしてみると、う~ん、と思うことが多い。
正直、そう来るとは思わなかった。
ここで立ち止まって、振り返ってみた。
こういう本が読めるというのは、そんなに大切なことなのか?
それは確かに、読めたら読めたで、知的に味わえるものがあるかもしれないが、私の心の隅にはいつも妙好人のことがある。
字も読めず、計算もできない貧しい人たちの中から、学僧や禅の師家たちが舌を巻くような宗教的体験と境地を持った人たちが出て来るのである。
やっぱりそっちが先だよな。
その体験と境地があった上で、たまたまこのような本や専門書などが読める人であれば、それはそれで味わえば良いのである。
中には『意識と本質』は読めるが、それについて知的遊戯的談議しかできない人もいる。
体験や境地がない。
それじゃあね。
どっちが本質かを間違えてはならない。
そこを踏まえた上で、関心のある方はどうぞチャレンジしてみて下され。