八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

1989(平成元年)、国連総会で「子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)」が採択され、翌1990(平成2)年に発効された。日本がこの条約を批准したのは1994(平成6)年である。
その主な内容としては、以下の四つ。
(1)生きる権利 …すべての子どもの命が守られる権利。
(2)育つ権利  …自分らしく健やかに育つことができる権利。
(3)守られる権利…あらゆる暴力や搾取、有害な労働などから守られる権利。
(4)参加する権利…自分の意見を言ったり活動したりできる権利。

その内容に関して異論はないが、どうも「権利」という考え方自体が私にはしっくり来ない。
今さらここで「そもそも『権利』とは…」「そもそも『人権』とは…」という観念的議論を始めるつもりもない。
関心のある方は、その筋の文献に当たってみることをお勧めする。
そうではなくて、本当に子どもたちを守り、育てようとした場合、「権利」という概念を啓発し、教育し、流布し、理解してもらうことで、現実にどれだけ人間の行動変容が起こるのか、ということが私の最大の関心事なのである。
確かに、「無知」や「誤解」によって起こった問題ならば、正しい「知識」と「理解」によってその問題は解決されるかもしれない。
その意味では、「子どもの権利条約」が採択され、批准されることには大きな意味がある。
「子どもの権利」意識は高まるかもしれない。

しかし、私はそれよりも、人間としての当たり前の“感覚”の方を遥かに重視している。
目の前の子どもたちを見て、この生命(いのち)を守りたいと感じ、健やかに育って行ってほしいと願い、あらゆる被害から守りたいと思い、のびのびと生きられるようになってほしいと祈ることは、「子どもの権利」意識の知的理解から来るのであろうか。
私はそうは思わない。

悲しいことに、「子どもの権利」については知的に熟知していながら、実際に、我が子を、生徒を、子どもたちを「権利侵害」をしてしまっている人たちがいることを私は知っている。
「権利」意識は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは些か弱いと私は思う。
言い方を変えれば、「権利」の「知識」や「理解」は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは十分でないと私は思う。

反対に、「子どもの権利」という概念を知らなくても、人間としての当たり前の“感覚”から、子どもたちを愛している人たちがいる。
なんらかの理由でつい子どもたちに辛く当たってしまった場合にも、人間としての当たり前の“感覚”から、すぐに後悔し、懺悔する人たちがいる。
私は、そんな人間としての当たり前の“感覚”の方が、気をつけなくても、考えなくても出て来るので、余程信頼できると思っている。

但し、この“感覚”は、教わらなくても人間に最初から与えられているものなのだが、その後の生育史の影響によって、その“感覚”が塵埃に覆われて、鈍くなっている人たちが少なからず存在する。
よって、その塵埃を掃う作業が必要になって来る。
そうでないと、“感覚”というものは、“敏感”であれば絶対的な確かさを伴うが、“鈍感”になると曖昧模糊として非常に頼りないものになり下がってしまうのである。
但し、その作業は、「知識」や「理解」では無理である。
それは「内省」と「体験」によってしか行われない。
詳細は長くなるので割愛するが、当研究所で行っている「人間的成長のための精神療法」も、人間としての当たり前の“感覚”を磨くためのひとつの道である、ということは、手前味噌でなく、付け加えておきたいと思う。

ちなみに、「子どもの権利条約」と同様のことが、「障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)」(2006(平成18)年国連総会で採択。2014(平成26)年に日本も批准)についても言える。
障害があろうとなかろうと、人間同士が互いにその存在に畏敬の念を抱き、愛し合うことは、人間としての当たり前の“感覚”によるものであると私は思っている。

 

 

テレビでやっていたあるドキュメンタリー。
舞台が我が故郷・広島であることもあって、見入っってしまった。
貧困と育児放棄の下で居場所がなく食事も摂れない子どもたちのために、話を聞き、説教もし、手作りの食事を提供し続けているばっちゃんがいた。
いろいろ“事件”(万引きなどの非行)をやらかしてくれる子も多く、来る日も来る日も、朝から晩まで夜中に起こされても、ばっちゃんは子どもたちを支え続ける。
急に電話をかけて来て、御飯を食べに来る子がたくさんいた。

ディレクターの質問に答えて言う。
「こがいに大変なのに、なぜ続けるん?って、それ、みんなが聞くんよ。」
当人は本気でこう答える。

「私にもよう分からんのよ。」

しんどいことが続くと
「『もうせーん!』
 なんでここまでせんじゃいけんの!』ちゅうて、
 しょっちゅうヒス起こすことが多いよね。」
とあからさまで、このばっちゃんは全く良い格好をしようとしない。

〈それでも続くのは〇〇さんにも喜びが?〉
とディレクターがばっちゃんに“よくある答え”を言わせようとして誘導尋問するが、
ばっちゃんは質問にかぶせるように
「ありゃせん!」
と即答し、
「つらいばっかり!」

そうなのだ。
すぐにヒスを起こし、イヤになってしまう凡夫のばっちゃんである。
しかしそのばっちゃんを通して働く力が、この人に尊い菩薩行をおこなわせているのである。
本人の意志でやっているわけではないので、
「私にもよう分からんのよ。」と言うのも当然である。
本人の意志を超えたものが本人を突き動かしている。

ここに“凡夫の菩薩行”がある。

感動してしまった。

少年院帰りの男の子にディレクターが尋ねる。
ばっちゃんに電話をかけては御飯を食べに行っていた彼は
「前は食堂みたいな感じだったんですけど。」
と言い、それを聞いたディレクターがまた誘導尋問をする。

〈ばっちゃんに言ったら何て言うかね?〉
「食堂」なんて言ったらばっちゃんに怒られる、みたいな答えを想定していたのだろう。
しかし、彼の答えは違った、
「『悪さするより電話してきてえらかった、えらかった。』と言うと思う。」

ばっちゃんを通して働く愛は、ちゃんと彼に届いていた。

 

 

「利益相反」とは一般に、「ある行為により、一方の利益になると同時に、他方への不利益になる行為のこと」をいう。

私が関わるカウンセリングやサイコセラピー、精神科医療の分野では、「利益相反」ということに余り関係がないように見えるが、実は絡んで来ることがちょくちょくある。

例えば以下は、学校とスクールカウンセラーが関係して来る場合である(学校とスクールカウンセラーの名誉のために断っておくと、子どもの成長のために誠実な努力を続けている学校やスクールカウンセラーが存在することを私はよく知っている)。

時にスクールカウンセラーが、学校側から直接に、あるいは、暗黙裡に不登校の子どもを学校に登校できるようにしてくれ、という要望を受けることがある。
そして、スクールカウンセラーの雇用は実質上、学校側に握られている。
そうなると
、スクールカウンセラーが自分の雇用を守り、学校側からの自分の評価を上げようと思えば、子どもに対して登校を促す関わりをすることになる。
しかし、当の子どもの成長にとって、少なくとも当面の間は、今の学校に登校しない方が良いと思われた場合、スクールカウンセラーは板挟みの立場に立たされる。
つまり、登校促進が、学校にとって利益となる(不登校を減らす)と同時に、子どもとスクールカウンセラーにとって不利益となり(子どもの成長を阻害することになりかねない/スクールカウンセラーとして魂を売ることになる)、
反対に、不登校容認が、子どもとスクールカウンセラーにとって利益となる(今の子どもの成長を守ることができる/スクールカウンセラーとしての矜持を守ることができる)と同時に、学校とスクールカウンセラーにとって不利益となる(不登校者数が増える/スクールカウンセラーとして次年度の契約はなくなるかもしれない)。

こういうときにスクールカウンセラーの姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、スクールカウンセラーをやっているのか?
それが子どものため、子どもの成長のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

似たようなことが、病院職員のメンタルヘルスのために精神科医が一般病院に勤務している場合にも起きて来る(病院と精神科医の名誉のために断っておくが、職員の幸福を真に考え、誠実な努力を続けている病院や精神科医も存在する)

例えば、看護師不足の折、病院としては看護師に辞めてほしくない。
しかし、その看護師の人生単位の幸福を考えると、
退職することが正しい選択の場合もあり得る。
そこで精神科医は板挟みの立場に立たされる。
つまり、看護師に勤務継続を促すことが、病院にとって利益となる(看護師の数が減らない)と同時に、看護師と精神科医にとって不利益となる(看護師の人生を不本意なものにすることになりかねない/精神科医として魂を売ることになる)。
大体、“体制派の犬”のような精神科医のところに誰が相談に行こうと思うだろうか。慰留されるとわかっている相談に出かけて行くはずがない。
反対に、看護師の退職容認が、看護師と精神科医にとって利益となる(看護師の人生の意味と役割を守ることができる/精神科医としての矜持を守ることができる)と同時に、病院と精神科医にとって不利益となる(看護師が減る/精神科医の今後の契約更新はなくなるかもしれない)。

こういうときに精神科医の姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、病院職員のためのメンタルヘルスに携わっているのか?
それが職員のため、職員の人生単位の幸福のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

それでもし私がスクールカウンセラーやメンタルヘルス担当の精神科医として雇われ、なんでもいいから、子どもたちが登校するようにしてくれ、看護師が辞めないようにしてくれ、と頼まれたならどうするか。
私が一番最初に辞表を書くであろう。

(但しもし私にその学校や病院の体質を少しでも改善・改革して行くミッションが下っていたとしたら、そこまでの縁があったとすれば、悪戦苦闘しながらでも改善・改革に取り組んで行くかもしれない)
 


 

つまり、日本人は、非常に人付き合いが良いんだけども、本当言うと、人付き合いが嫌いだな。できるだけ一人でいたいところがある、ね。だから、アメリカ人に言わせると、留学生が随分、私のところへいましたけど、どうして日本人ってのはパーティに出て来ないんだろう? 彼らはすごくね、寂しがり屋だから、人懐っこくて、みんな寄って来て、パーティをじゃんじゃんやって、何も知らない者にもこうやるわけですよ。ところが、日本人ってのはそうじゃないから、一人でいてね、よくあのアパートの寂しい、机とね、ベットしかないところにじっと一人でいるな、と感心してるんですよ。感心するわけなんでね、しょっちゅう人にばっかり気を遣ってるんだからね、せめて気を遣わないときがほしい、とこういうわけよ、ね。まあ、一杯飲み屋かなんかに行って、こうやって飲んでたら、とても良い気分になる、これね。一人でこう飲んだらなんとも言えない良い気持ちだ、とこういうわけですよ。
だから、withdrawal(ウィズドローワル)っていうか、人から逃避するという傾向に陥る、ね。そのくせ、普通には、社会的に言うと、なんか、人に向かってですね、ご機嫌を取る。相手に向かって相手のご機嫌を取って、相手の好意を得て、自分にね、そしてこの好意を利用してですね、自分の何か、自分の安全とか、自分の昇進とか、良いことを図ろうという、こういうふうな魂胆(こんたん)があるんですね。
相手の方もまたその魂胆を知って、あいつは俺に近づいて来たって言うけど、これはさっきの話で、そうやってやられると、人から良く思われると良い気持ちなもんだから、ああ、あいつは俺の手下だなっていうわけで、こう、非常に良い気持ちになっちゃう、ね。相互依存と私はこれを言うわけ。つまり、支配する者は支配される者がいなきゃ成り立たないんで、みんないなくなっちゃったら、ヒットラーでもね、支配する人間がいなくなったら、一人ぼっちになっちゃう。フワーッとしてることになっちゃう。ところがまた、支配される人間は、支配する人間がいると安心できる。あいつのせいだっていうことにできるからね。なんでもそう。
だから、日本では、面白いことは、これは徳川時代からそうですけどね、なんか議論やるでしょ。最後にね、ごちゃごちゃ、今の閣議でもそうですな。これは委員長に一任とか、任せちゃう。任せちゃうと、自分は責任を逃れちゃう、ね。あれがやったんだから、オレはまあ、任せたんだからしょうがない。あいつのせいだ、とこういうわけ。依存でしょ、これ。自分自身の意見とか、自分自身の責任において解決してるわけじゃない。だから、それは両方依存してるわけね、これね。そういう意味で、私は、日本の社会の特徴は、相互依存的な関係があって、お互いに利用し合ってる関係。まあ、それはそう言っても良い、ね。…
ところが、ご厚意に甘えまして、てなことになっちゃってね。甘え込んじゃって、宜しくお願いしますって、宜しくってのはどの程度だかわからない。そうすると、そのときの状況によって決定されるわけね。そうすると、私は折角あの人に頼んだのに、あれ程頼んだのに、あの人は私の期待を裏切って、やってくれなかった。そういう具合にブーブー言うことになっちゃう。また、片っ方は片っ方でどうかっていうと、自分でね、宜しくって言うから宜しくって僕はやってやったのに、なんであいつは御礼も言わない、なんてことになっちゃう。そういうふうな、妙ちきりんな、腹の探り合いってことになると、そこで益々ね、お互いの顔色をじっとこう、見ることが必要になって来る。あいつはどういうことを考えてるだろうかってことがね。これがね、私は、エネルギーの大変なロスになってると思うんですよ。このために頭がくしゃくしゃしちゃう。
全く対人関係でのね、そういう意味で、問題が多いんですよ。これもへちまの屋根ですよ。屋根みたいなもの、これね。私たちに何かね、そういうものがね、知らないうちに、平生(へいぜい)やってることだけどもね、のびのびとさせない。さっき言った、自然に人間として人を愛し、ね、人に本当に好意を持ち合ったり、あるいはそういうふうなことで、心と心が触れ合ったりすることを妨げてる、ひとつの材料になっていはしないかと、まあ、こんなふうに思いますね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちらを参照。

 

そうしますと、「服従と引き換えの責任逃れ」と「責任の引き受けと引き換えの君臨支配」という相互依存関係の成立と維持にも、腹の探り合い、気の遣い合いという、非常に面倒臭い手間がかかるということになります。
とにかく神経症的な人間関係というのは結局、エネルギーを使って疲弊することになるわけです。
先日テレビで、現代人の会社での昼休みや休憩時間の過ごし方調査というのをやっていました。
その中で一番多かったのが何かというと、個食や孤食、一人で過ごす、という選択でした。
ここでも、普段人に気を遣って生きているんだから、せめて休み時間くらい一人にさせてくれよ、という思いを感じます。
不登校、引きこもり、繰り返す離職といった現代の状況を含めて、この48年前の講演の頃と変わらぬ問題の根幹がそこにあります。
目指すべきは、そんな消耗と疲弊の関係ではなく、私が私でいて、あなたがあなたでいて、その二人が互いに愛し合い、互いの成長を促し合う関係なのです。
そして最終的には、一人でいても誰かといても、本来の自分でいることを目指しましょう。

 

 

ある若い女性が、小学校高学年から中学校の頃、不登校で病院の精神科に通い、カウンセリングを受けていたという。
長く通っても学校に行けるようにならなかったので、親が怒り出し、自分も通うのをやめてしまったそうだ。

そもそも「不登校」は単なる現象名であって、その背景にはさまざまなが要因があり、ひと口で「不登校への対処の仕方」と言えるものなどあるわけがない。
ちょっと考えてみても、生物学的原因、性格因、環境因など、複数の要素が時に複雑に絡み合っている。
それでも言えることは、私だったらもう少し最初に本人や親に説明しておくことがあったろうな、ということである。

まず私ならば最初に「ここでの治療は学校に行けるようになることを目的としていませんが、それでもいいですか?」と申し上げる。
「お嬢さんがお嬢さんとして生きて行けるようになることを第一の目標としていますので、学校に行けるようになるかどうかはわかりません。今の学校に行けるようになることがお嬢さんの成長にとって良ければ行けるようになるでしょうし、そうでなければ行けるようにはならないでしょう。」

そう。
一番根底にある、これらの「人間観」「人生観」「治療観」がまず試されるのである。
ただ漫然と、学校に行ける方が良いんじゃね?世の中、長いものには巻かれて適応して生きて行けた方が良いんじゃね?と精神科医や臨床心理士が(そして親や本人さえもが)思っていれば、当然、治療もそういう方向性に行ってしまうに決まっているのだ。
そして、どうしてもそれがお望みならば、それに賛同する他の医療機関、関係機関に行ってただくしかない。

私がそういう話をすると、その女性は、
「へぇ~、そうだったんですね。」
と驚いた顔をしていた。

そして私は付け加えた。
「で、これからどうします? 今度こそ自分が自分として生きて行けるようになる道を目指しますか?」
あとは、今や大人になったあなた次第です。

 

 

ある人がある人と結婚した。
ラブラブの間は良かったが、一緒に暮らすうちに、相手のいろいろな問題が見えて来た。
で、どうするか?である。
面倒臭いから斬って捨てるのか。
相手の問題も抱えて生きて行くのか。

相手にちょっとでも問題があると、容赦なく斬って行くのもいいけれど、みんな人間だもの、どこかにきっと問題がある。
斬っても斬っても、次の人次の人に問題が見つかって行くうちに、そして誰もいなくなった、になるかもしれない。

かといって、結婚した以上、相手にどんな問題があろうと添い遂げなければならない、というのも考えものである。
「ねばならない」で強要された「糟糠の妻」などは美しくない。

じゃあ、斬るのか、抱えるのか、どうするのか。

斬るも抱えるも、縁で決める、ミッションで決めるのである。
縁がなければ、ミッションがなければ、抱えたくても離れて行く。
縁があれば、ミッションがあれば、イヤでも抱えることになる。

そしてどちらかというと、各人の自我が強まり、斬る方が増えている現代、
後者の、縁があれば、ミッションがあれば、抱えることになる、ということを今日は強調しておきたいと思う。

本来、その必要はないのに、縁とミッションによって、相手の問題を一緒に引き受けて行く、相手の重荷を一緒に背負って行くこともあるのである。
例えば、
ある人は、待望の養子縁組を行ったが、成長するうちにその子どもに障害が見つかった。
ある女性は、大学教授と結婚したが、暮らすうちにその相手に末期癌が見つかった
面倒臭ければ斬るだろう。
しかし、そこに縁があれば、ミッションがあれば、即ち、私を通して働く大いなる愛(私の愛ではない)があれば、それはあなたの問題だから知らない、ではなく、手を差し伸べて、一緒に背負って行くことになるのである。

 

 

初対面の人に逢うとき、初めての場に行くとき、あなたはどういう気持ちになりますか?

私は今でも、ワクワクする気持ちを禁じ得ません。
そこにどんな深い出逢いが待ち受けているのかと思うと、期待の気持ちで胸がいっぱいになります。

もちろん私も何十年も生きて来ましたから、逢ってみてガッカリしたり、ムカついたりしたことは数え切れないくらいあります。
しかし、それでもまた新たな出逢いに期待しています。
何故そうなるか。
幼少期から現在までの出逢いを振り返ってみても、明らかにガッカリしたり、ムカついたりした経験の方が多かったので、これは私の生育史の影響ではありますまい。

となると、そういう気持ちになるようになったのは、やはりアフター近藤(近藤先生に出逢ってから)の結果であると思います。
即ち、人間存在の二重構造からしますと、
その人の生育史の中で、二次的に着いた塵埃、泥、闇の部分に対しては、いくらでもガッカリし、ムカつきもしますが、
その人の中核に最初から働いている、その人をその人させようとうする働き=光の部分に対しては、期待しないではいられません。
(但し、後者の光が、前者の闇を凌駕するかどうかは、寿命との競争ということになりますが。即ち、生きているうちに間に合うかどうかの競争です。)

やっぱり自分として生命(いのち)を授かったからには、ニセモノの自分でなく、ホンモノの自分を実現して生きて行きたいじゃないですか。

そんなことを思いながら、たとえ裏切られても裏切られても、今日もまた人間に期待しないではいられないのでありました。

 

 

ネットに「結婚したい女性の『職業』ランキング」という記事が載っていた。
その調査の統計上の意義はともかく、ひとつの参考にはなる。

そのランキングを挙げると、
3位 薬剤師
2位 保育士
1位 看護師
という結果であった。

いずれも私にとっては知っている方の多い職業なので、「へ~、そうなんだぁ。」と想いながら、これらの職業が正当に評価されているようで、嬉しい気持ちになった。

しかし、その職業を選んだ理由を読んでいると、「んんん?」という気持ちになって来る。
いずれも、何かあったときに「助かる」「心強い」というコメントが並んでいたのである。
結局、自分にとっての“利用価値”なのか?
それはおかしいでしょ。
それじゃあ、私利私欲でしょ。

そう思って、上記の三つの職業を見直すと、薬剤師、看護師は医療職として“利用価値”がわかりやすいが、残る保育士は、子どもが生まれたときの“利用価値”か?ということになる。
しかし、実はそうではない。
世の既婚女性の方々はよく御存知であろうが、結婚してみてわかるのは、産んだ覚えのない(手のかかる)長男が一人、家庭内に増えた、ということである。
そう。
旦那が一番手のかかる子どもなのだ。
そうなると、保育士は確かに、大いに“利用価値”のある職業ということになる。

そんなことを考えていると、段々希望のない気持ちになって来るが、世の中、捨てたものではない。
コメントを書いている人の中に一人だけ、こう書いている男性がいた。

「支えてあげたくなりますね。」

そうこなくっちゃ。
利己的な、自分にとっての“利用価値”ではなく、自分よりもまず相手を大切に思うこころ。
パートナーは、互いに思い合う相互性で成立している。
上記三種の職業に就いている女性は、この評価に騙されず、そういう眼でしっかりと男を鑑別しましょうね。

 

 

虚々実々の情報が巷(ちまた)に溢れかえり、情報源も数限りなく増えた世の中である。
その氾濫する情報の中で求められているのは、「情報を読む力」である。
どの情報が、真実で、信頼できるか、
どの情報が、ニセ、ガセネタ、フェイクで、信頼できないか。

例えば、ニュースソースを絞ってみるのもひとつの方法である。
具体的には、NHKニュースしか信じない、〇〇新聞しか読まない、大学病院や正規の学会発の医療情報しか信頼しない、と言った具合。
また、□□さんの言うことなら信用できる、と個人を絞る手もある。

情報源としての鑑別が難しいのが、さまざまなニュースに関するSNSなどの書き込み情報、そして店舗や商品については顧客レビュー情報である。
こいつの言っていることが本当に信じられるか否か。

私は情報内容そのものよりも、その情報を書いている人間のパーソナリティが漏れ出ているところを感じ取るようにしている。
特にネガティブな書き込み、煽情的な書き込みには注意を要する。
どこかに悪意やら、常軌を逸した攻撃性やら、傲慢さやら、思い上がりやら、イヤな臭いがする。
そういうヤツからの情報は即却下である。

反対に過度にヨイショする情報にも注意を要する。
そこにもまた読者をどこかバカにした(こんなもんで引っかかるだろうという)ようなイヤな臭いがする。
これまた即却下である。

そして最後は、読者の責任である。
基本的な他者への信頼感、この世界への信頼感を持っていない人間(そうなるにはそうなるようなその人の生育史がある)が引っかかりやすいデマ情報(特に陰謀説系の情報)がある。
それは信じたあなたが自ら堕ちた罠なのよ。
それによって生じる不利益は、自分で責任を取るしかない。

「情報を読む力」は、結局、あなた自身の人間としての健全度、成熟度につながって行くのである。

 

 

イヤなことがあったときどうするか。
自らを振り返ってみたり、周囲に訊いてみれば、よくわかることである。
家族や友だちに話す。
酒を飲む。
美味しいものを食べる。
買い物をする。
カラオケに行く。
などなど。
これらの方法を否定するつもりはない。
これらの、いわゆる気分の“紛らわし”は確かに有効であろう。
それで気持ちがスッキリと晴れるときもある。
しかし、それはあくまで「イヤなこと」の程度が浅いときに限られる。
ある程度以上深い「イヤなこと」があったときには、こんなことで紛らわすことができない。
紛らわしても紛らわしても「イヤなこと」が何度も浮上し、我々は繰り返し繰り返し懊悩することになる。
これではたまらない。

しかし、心配することなかれ、それでも賢明なる先人たちは、そんなときの救いの道も用意しておいてくれている。
それが「無我」への道ということである。
即ち、気にしている私=「我」がなくなれば、懊悩することがなくなる。
イヤな思いをする主体、懊悩する主体がなくなってしまうのだから。

かの心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療においても一時、“紛らわし”のちょろまかし療法が流行ったことがあったが、それではやはり根本的解決にはならなかった。
そうではなくて、トラウマ(心的外傷)を感じている私、傷つく私=「我」がなくなれば、すべての懊悩から解放されることになる。

傷つく私=「我」をなくすといっても、もちろん、自殺してしまっては元も子もない。
実際にも、辛くて辛くて自殺を図る人もいるが、それは真の解決にはならない。
生きながらにして、気にしている私=「我」がなくなる道はないか、というのが事の核心なのである。

それが呼吸による「無我」の道なのだ。
そんなことで、と軽んずることなかれ。
必死にやってみればわかる。
まず呼気において、息を吐いて吐いて吐いて、吐き尽くす。
これはやってみればわかるが、いくらでも出る、驚くほど出る。
我々の通常の呼吸がいかに浅いかがわかる。
そして、吐いて吐いて吐いて、吐き尽くした最後に、自分=「我」まで吐いてしまうのである。
そのとき、ほんの一瞬かもしれないが「無我」の瞬間がある。
これは体験してみるしかないが、確かにその一瞬は、あらゆる苦しみから解放された瞬間がある。
この“体験”が重要。
体験しなければ意味がない。
体験しなければわからない。
もちろん、ちょっとやってみてすぐに得られるような体験ではない。
繰り返しやってやってやって、ようやく授かる体験である。
しかし、この体験があるとないとでは大違いなのである。
そこに間違いなく救いがある。

そしてすべてを、「我」を含めて、吐き切った後に、その真空に吸気が入って来る。
それは過去の繋縛(けばく)から離れ、自分を新たに再生させ、蘇らせる吸気なのだ。
ひと息ごとの死と再生。

だから、たかが呼吸と侮ることなかれ。
深まれば深めるほど、そこに生かされていることの本質があるのである。

 

 

「私は、実は、これは私たちの農耕社会と関係があるんじゃないかと思うんですがね。つまり、村でもって私たちは水田耕作をやりますね。で、農地っていうのはそこから、アメリカ人みたいにハンティングをやらないんだから、ここからここへこう行けないわけ。つまり、どこかへ移れない。そうすると、いつでも定住しなきゃいけない。そこを離れられない。…これはね、日本という限られた土地で、しかも村で、そこに住んでて、農耕やって、そこの田畑で食ってれば、田畑を離れられたら食っていけない。従って、そこにいなきゃいけない。これはもう絶対命令みたいなもの。
そうすると、そこでもってね、農耕耕作をやりますとね。やれ、その、種蒔きのときとか、借り入れのときだとか、あるいは苗をこうやるときとか、まあ、いろいろなことでもって共同的な作業をやるわけでしょ。そのときに、他人の好意によるわけだ、簡単に言えばね。そこでちょっと妙なことをしちゃうとね、感情を害しちゃったら、すぐ村八分にされちゃう。できるだけね、人をアレしないように、「…でございます。」とこういうわけでね、うまくやると。人の顔色を窺(うかが)って、どう考えてるか、いちいち顔を窺っているというような態度が、僕は、出て来ると思うんですよね。…
だから結局、そういう意味で、外からのね、いろんなもので、人の顔色を気にしたり、人の機嫌を伺ったり、ご機嫌を伺うなんてことは、我々、非常にアレですよ。例えばね、まあ、ひとつの例ですけど、これ、つくづく思うんですけど、向こうで、向こうでっていうのは、外国で、挨拶ね、普通の挨拶、挨拶は“How are you?”って言いますね。“How are you? っていうのは、“How is your health condition?” つまり、「あなたの健康状況はどうか?」と。これはまあ、はっきりしてますね。
ところが、日本では、「ご機嫌いかがですか?」とこう言う。ご機嫌ってのは、そのね、「感情はどうですか?」ていうこと。つまり、ご機嫌を伺っているわけですね、要するに、ご機嫌伺い。これが発展して中元になり、歳末の贈り物になって来るわけ。そういうことが我々の人間関係をですね、スムーズにしてる点もあります。しかし、我々が非常に、人のね、気配、人の感情とか、アレに対していつもビクビクビクビクしながら、こうやって生きてるっていうのも事実です、ね。まあ、こういうことも、特にまた、日本みたいな家族で、あんな狭いところで、こうやってしょっちゅう顔を見てやってればですね、お母さんがキャッとヒステリーになればね? あ、大変だ、とこう思うしね、それはもう、お母さんはお母さんで、お父さんのご機嫌はどう?とこうなっちゃうから、もうしょっちゅう、お互いにご機嫌伺いばっかりしてるような態度でしょ。まあ、僕はいつも思うんですが、患者さんでも、来てもね、僕の顔をじーっとこう見てるんですよね。それでね、「先生は今日、どういうふうな感情でしょう?」なんてことを言うんですよね。どっちがやられてるか、わからない、あなた(笑)。
そういうふうにね、もう非常にお互いにですね、そういったお互いの感情を考える、それがね、暗黙の裡(うち)に、腹の中でやってる。腹芸でね。顔はいい加減にしながら、今日はどんな感情か?、なんていうことをやってるわけですよね。これが上下関係にも、あるいは水平の関係にもね、私は、行われてるのが、我々の現代。そういうとこでね、我々、のびのびできないですね、これ。のびのびできないから、僕が言うのは、言うならば、そういうふうな意味で、へちまになっちゃうとこういうわけですよね。曲がったへちま、屋根の上のへちまになっちゃう。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちら参照。

 

そういう眼で振り返ってみれば、我々が日常生活において、いかに他人の感情、ご機嫌にアンテナを張って生きているかがわかります。
それはもう子どもの頃から積み重ねて来た涙ぐましい努力の結果なのです。
そしてその結果が、こんなに息苦しくて窮屈な毎日になってしまいました。
フォーカスすべきは、相手の感情やご機嫌ではなく、内なる本当の自分。
迷いそうになったら、そもそもの原点に戻りましょう。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かりました。
自分を生きずして何の人生でしょうか。
聴きましょう、生命(いのち)の声を。
感じましょう、生命(いのち)がどう生きたがっているかを。
へちまが本来のへちまするように
あなたもまたのびのびと本来のあなたしましょうね。

 

 

お殿さまというのも辛いもので、少しも気を遣わないで、万事思い通りになるわけでもない。
却って、殿さまだからこその気遣いが要求されることもある。
例えば、食事ひとつを取ってもそうである。
好物のごちそうばかり食べ放題で「重畳(ちょうじょう)、重畳。かっかっか。」と言ってばかりはいられない。
たまに何かの手違いで、不味いものが出たり、辛かったり、甘かったりすることもある。
そんなとき、「これは不味い!」などと言った日には、膳奉行や御膳番が腹を切ることになるかもしれないのである。
きっと不味い料理を笑顔で食べたお殿さまもいたであろう。
何をどこまでどう言うのか言わないのか、は時に殿さまにとって大問題であった。

そしてそれは江戸時代のお殿さまだけの話ではない。
現代でも、社長が社員に、上司が部下に、何をどこまでどう言うのか言わないのか、は変わらず大きな問題なのだ。
ただの垂れ流し、言いっ放しで言って良いのであれば、事は簡単である。
しかし、今どきの社員はすぐに辞めてしまう。
いや、それこそ今どきなら、パワハラで訴えられるかもしれない。
社員や部下を育てるつもりなら、当然、伝え方が変わって来る。

結局、「裁くのか、育てるのか」ということになる。

裁くつもりなら、全部言って、斬って捨ててしまえばいい。
しかし、育てるつもりなら、むしろ何を言わないかが重要となってくる。

こういうことは、特にカウンセリングやサイコセラピーの分野において、一層重要となる。
気づいた問題点を全部指摘してしまえば、クライアントは怒り出すか、壊れてしまう。
かといって、何も言わず、よしよしを続けていれば、クライアントは成長しないままに終わる。
何をどこまでどうどのタイミングで言うのか言わないのか。
これも、「頭で考えてやる派」と「直観でやる派」に分かれるが、「はからい」と「操作」を嫌う私は後者である。
​但し、何をどこまでどうどのタイミングで言うのか言わないのか、において、どうしても譲れない一点がある。

それはやっぱり「そこに愛があるんか」ということである。

不味い料理を笑顔で食べたお殿さまの胸の内にも家臣への愛があったのだと思う。

 

 

 

最近、勉強会を開催する度に思う。
手前味噌を承知の上で申し上げるならば、とても“良い”会になったと思う。

“良い”会というのは、参加者が、自分のことにおいても、他の参加者においても、人間というものを信頼でき、人間の成長というものを信じられる集まりになったということであり、
その“感覚”の下に、集団の中で「情けなさの自覚」を深め、「成長への意欲」を発揮できるようになったということである。

もちろん最初からそうだったわけではなく、勉強会の内容および形態から、参加者の対象から、紆余曲折、試行錯誤を繰り返しながら、今の形に辿り着いた。
振り返れば、初めて勉強会というものを開催してから、30年以上が経っていた。
それでも、倦(う)まず、弛(たゆ)まずやっていれば、こんな景色が観えるところにまで来れたのである。

しかし残念ながら、娑婆の集団ではこうはいかない。
必ず問題山積みでありながら、無自覚でのさばっている連中がいて、集団は重く暗く面倒臭いものとなる。
そんな集団では人は成長しにくい。
だからこそ、この勉強会を始めたのであり、そこでまず人間が成長し、自分が自分であることの幹を太くし、娑婆の中でおかしなヤツらを押し返し、自分でいられる力をつけたいものである。

少なくとも今言えるのは、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った人にとっては、この勉強会はとても居心地の良い場所であり、時に自分の情けなさと向き合い、それを乗り超えて成長して行く過程はしんどいものであるが、心から自分の成長を願い、祈ってくれている仲間の存在を感じ、立ち向かって行けるベースになっているものと信じている。

一度しかない短い人生だもの、
身構えてニセモノの自分の面(つら)の皮が厚くなる娑婆の集団ではなく
安心してのびのびと本来の自分を発揮できる本当の集団の中で
一緒に成長して行きましょう、ね。

 

 

今日は令和6年度9回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目に続いて9回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

e.「真の自己」への態度 ー 自己疎外 self-alienation

「仮幻の自己」の生成過程に当って、最初から明らかなのは、「基礎的不安」に対処する為に、個体が「真の自己」の成長の方向に向うことが出来ず、次第に神経症的方法の様々な試みを経て、「真の自己」と対蹠的な「仮幻の自己」を定立し、その幻像によって生きるという事である。
この事自体、「真の自己」から離れ、それを疎外してゆく結果であるので、正しく自己疎外と呼ばれるものである。しかし「自己疎外」は、この様な「仮幻の自己」の定立の経過に於いて見られるばかりでなく、更に定立された「仮幻の自己」の自己実現の試みが、二次的に自己疎外を深め強化するのである。言いかえれば、先に述べた内外に対する神経症的要求 claims and shoulds、及び神経症的誇り  neurotic pride が益々「真の自己」の発展を阻止し、益々神経症的傾向を増長せしめて、「自己疎外」を深め、それが更に「真の自己」の発展を阻止すると言う悪循環によって、いわば「自己疎外」の拡大再生産が行われて行くのである。
しかも、それが自己を誤認している「仮幻の自己」の絶対的な要請に基づく為に、この再生産過程は強迫性を帯びるに至る。個体は自分の中の「真の自己」ー William James の言をかりれば、「脈動づる内的生命」によって自発的に感じ、考え、決意し行動するのでなく、偽りの自分である「仮幻の自己」の命ずる claims や shoulds や pride によって、感じ、考え、生きなくてはならないのである。
これは、彼自身が自分の人生を生きる主体でなくなることを意味し、「自己疎外」は更に自己喪失を産んで行くのである。その結果、自分が、何を真に願い、感じ、愛し、怒り、悲しむかに対する感覚  自分の感じ ー が喪われて行くのである。かくて、本当の自分が失われていることすら感じないまでの自己喪失 ー Kierkegaard が「死に至る病」と呼んだものが極端な場合には生じて来るのである。
しかし、この様な「仮幻の自己」の優勢にもかかわらず、人間の中の「真の自己」は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。
claims や shoulds や pride による防衛にもかかわらず、「仮幻の自己」は一面に於いて現実から、他面に於いて深く心内の「真の自己」によって、常にゆるがされている存在なのである。表面上の強固さにもかかわらず、内面的に脆弱なのは、一つにそれが非現実的な想像の所産であることと、二つには人間本来の姿である「真の自己」を抑圧しているからである。そしてこの脆弱さが、主観的には否定せんとしても否定出来ない不安として感じられ、様々な症状として表現される。
かくて一般的に神経症的葛藤は、一応表層的には優勢な一定の神経症的傾向と、他の抑圧された神経症的傾向との相剋の形をとり、又「現実の自己」との矛盾として在るが、更に深く心内に於いて「真の自己」との根本的な葛藤として存在するのである。

 

「基礎的不安」に対処するための方向性が、「真の自己」の成長へではなく、神経症的な方法による「仮幻の自己」の定立に進むことにより、まず「真の自己」の疎外=「自己疎外」が起こる。
そして「仮幻の自己」の実現がさらに、この「自己疎外」を拡大再生産して行き、やがて「自己喪失」にまで至る。
しかしこの「仮幻の自己」は、そもそも非現実的な想像の所産であることから、また、「真の自己」を抑圧していることから、脆弱な存在であり、それがまた不安を引き起こして行く。
「仮幻の自己」は、一方で思い通りにならない「現実の自己」との間で葛藤を起こし、他方で「真の自己」との間で根本的な葛藤を起こして行くのである。
それにしても、「しかし、この様な『仮幻の自己』の優勢にもかかわらず、人間の中の『真の自己』は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。」という文章には救われる思いがする。

 

 

いつから感情は不当に扱われるようになったのであろうか。

「感情的」という表現は、一種の蔑視のニュアンスをもって使われている。
実際には、理性と同じように、感情もまた人間に与えられた一側面に過ぎない。
喜怒哀楽が起こることは、人間として極めて自然な現象であるはずだ。

むしろ私の経験からすると、感情蔑視の考えを持つ方々には、感情を抑圧して来た人が多く、その生育史の中で、感情、特に怒りと悲しみの表出を親や大人たちから禁止されて来た(下手に怒りや悲しみを表出すると親や大人たちから攻撃されて来た)人が多い。
なんのことはない、自分が恐くて感情を出せないことを正当化するために、感情を出している人を「みっともない。」「恥ずかしい。」などと卑下するのである。
それはズルいでしょ。
それならば
「私はへタレで感情を出すことができないが、出せるあなたが羨ましい。」
と言う方が遥かに正直である。

確かに、病んだ感情表出であれば、それは願い下げてあるが、
素直な凡情としての感情表出は、豊かであり、時に美しくさえある。

かの孔子が、最愛の弟子顔回を亡くしたとき、人目も憚(はばか)らず、慟哭(どうこく)して泣いたという。
「先生が慟哭された!」と言った従者に対して孔子は、
「慟(どう)すること有るか。夫(か)の人の為(ため)に慟するに非(あら)ずして、誰(た)が為にかせん。」
(慟哭していたか。この人のために慟哭するのでなかったら、一体誰のためにするんだ!)

と言ったという。
形式的な虚礼を排し、想いの出どころを大切にする、孔子らしい姿であった。

 

 

医師法第十七条に
「医師でなければ、医業をなしてはならない。」
とある。
ここでいう「医業」とは、「医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(「医行為」)を、反復継続する意思をもって(=業として)行うこと」とされている。
例によって、法的に正確を期する文言にしようと思うと、段々何を言っているのか、わからなくなって来る。
不正確さは承知の上で、ざっくり言ってしまうと、
「医師でなければ、診断、処方、手術をしてはならない。」
ということらしい。

今回、何故またこんなことを言い出したかというと、
「医師でなければ、診断してはならない。」
とよく言われるが、その法的根拠を知りたかったのである。

そしてその根拠が頭記の医師法第十七条にあるとわかったとしても、やっぱり気になるのが、本当に医師にしか診断ができないのか、そして、医師の診断がいつも正しいのか、という問題である。

後者については、かつである東大教授が退官時の最終講義で、自身の誤診率(14.2%)を発表したのを思い出す。
当然のことながら、どんな医師でも誤診率0%というわけにはいかないだろう。
だからといって、誤診していいということにはならず、一所懸命に正確な診断を期する必要があるが、私として気になるのはむしろ前者、本当に医師にしかし診断できないのか、という問題である。

私個人の経験からいうと、少なくとも精神科分野に限ったことを言えば、下手な医師よりも的確な診断をつけることのできる臨床心理士/公認心理師、看護師/保健師、精神保健福祉士/社会福祉士、作業療法士はおられる気がする。中には受付を担当している医療事務の人の中にも。
流石に、薬の副作用で精神症状が現れている場合や他の身体疾患のせいで精神症状が現れている場合(いわゆる症状性あるいは器質性精神障害という場合)などは、医師としての知識が必要になるだろう。
私個人としては、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準ではなく、かつて「統合失調症くささ(
Praecoxgefühl)」と言われたような、直観診断はあり得ると思っている。
但し、これも私の個人的見解だが、非医師の場合、「自分は診断できる。」と自負している人の“診断”は大体当てにならず、素直で謙虚な人の“診断”が当てになる場合が多い。
結局のところ、自我肥大的な人間の直観は当てにならず、我の薄い人の直観の方が当てになる、というところに行き着く。

そういうわけで、少なくとも私の場合、もし診断に迷うときがあったならば、直観の優れたスタッフに意見を訊いてみることにしている。
直観で診断して、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準で裏を取る。
現時点での私の診断のスタンスはそんなところかもしれない。

 

 

文明の進歩はそのまま、思い通りにならなかったことを思い通りにして来た歴史でもある。
医学の進歩により、治らなかった病気が治るようになったり、
交通機関の進歩により、飛行機や新幹線で遥かに早く移動できるようになったり、
家電の進歩により、冷蔵庫で食料を保存し、エアコンで暑さ・寒さをコントロールし、電子レンジであっという間に温めることができるようになったりなど、
挙げればキリがなく、我々が受けて来た恩恵は計り知れない。
例えば、私が尿路結石の疝痛発作に七転八倒するとき、これでもし鎮痛剤の坐薬がなかったらと思うとゾッとする。
また、小児がんで苦しむ子どもたちが、最新の治療で完治したなどという話を聞くと、本当に有り難いと思う。
研究者・開発者の方々には深く感謝したい。

先に、思い通りにならないことを抱えながら生きて行けるようになることが大人の成熟であると申し上げたが、それは、何でもかんでも思い通りにならないことはさっさと諦めて我慢しなさい、という意味ではない。
最初に申し上げた通り、思い通りにならなかったことを思い通りにして来たのが文明の進歩である。
その恩恵は享受して良いし、さらに、思い通りにならなかったことを思い通りにして行くという文明進化の未来は、きっと続くであろう。

ただし、それでも、である。
どんなに文明が進歩しても、やっぱり思い通りにならないことは、残念ながら、残る。
必ず残るんですよ。

だからこそ、思い通りにならないことを受け入れるという大人としての成熟は、永遠に求められるのだと思う。

 

 

「私たちは、最初に、おまえはダメだと、よく親が、おまえはダメな子だとか否定的な言葉を言いますね。子どものときはね、大人になったってそうでしょうなぁ、誰かから、上の上長の人とかね、あるいは同輩の人から、おまえはダメだってなことをやられるとですね、クシャンとなっちゃってね、オレはダメだ、と帰りにヤケ酒を飲んじゃったりなんかすると、いうふうなことになりがちですね。つまり、そういうふうな、何かね、人の言(げん)によってね、自分っていうものが上がったり下がったりする。バカだと言われるとバカだと思ったりね。オレはダメだと思ったり、とにかく人の言葉で非常に左右されるところがありますね。まあ、大人になってもそのぐらいです。子どものときはね、それを考える力ないでしょ。そうするとね、親が言った通りに自分も思うわけですね。
今でも、皆さん、どうでしょうか。自分でお考えになって、例えば、小さいときに自分が親に、おまえはとても算数が良いな。おまえはなかなか運動神経が、運神が発達しているな。こういうことを言われたら、なんとなくね、ポジティヴな、積極的なことを言われてですね、なんとなくそうだと思っちゃって、背負(しょ)ったりなんかしてね、大いにそのうちにやっちゃう。ところが、おまえは算数がダメだなって言うとね、俺は算数はダメなんだと決めちゃって、もう諦めちゃって勉強しない。勉強しないから益々ダメになっちゃう。まさにその証明しちゃうわけですね、自分で。そういうからくりが心の中にあるわけ。それはね、我々は、最初は、フロイドが言ったように、親の言ったことを飲み込む、インテイク(intake)言いますがね、飲み込む、ただ飲み込んじゃう。…
常に他と比べられたと、つまり、そこんときに親に、第二のアレは、人と比べて親が評価したでしょ。あれを見なさい、これを見なさい、そうすると、自分をね、評価する場合にね、自然に、無意識に、親の教えたやり方で、俺は、例えば、会社に勤めると、あいつに比べてどうだろう、今度は出世はどうだとかね、それから、あれはこうだか言ってね、そんなふうになっちゃうんですよ。おかしなもんでね。
いわんやね、そこで親ばかりじゃなくて、今度は先生がですね、教室に行くとね、こう、表かなんかやって大いにこう、教育的効果を上げている人がいるわけですよ。点数をやってね。試験いっぱいやって。こうやってるでしょ。しょっちゅう人に比べられてる。おまえは何番中の何番。これはもうね、人と比べてることですね。
これをですね、簡単に言えば、いつも我々の考え方の中に、大人になっても、そりゃあ、体は大人になりますよ、だけどその考え方たるや、子どものときのそのままでいることが多いわけです、ね。これを、ですから、ある人は小児的態度と言うわけですけどもね。我々は小児的態度でもって、小児的態度と思わないでね、やってるわけですよ。あいつはオレと一緒に入ったのに、近頃どんどんこう、うまく行ってると。だから、どうも、オレはダメだ、とかね。やっぱり、あの先生が小学校のときにダメだと言った。オレはダメなんだ、ダメだ、なんて考える。…
そこんところでね、我々の中に何かこう、社会全般に考えるのに、なんか人といつも比較してですよ、自分の価値を決める。そういうね、考え方が非常にあるんですよね。…
まあ、そういうね、言うならば、外からのね、つまり、我々の外側にあるものによるね、価値観によってですね、そのスタンダードで決められる。しかも、自分もですよ、大事なとこはそこなんだ、小さいときからそれを飲み込んでるから、自分自身も自分の価値に関して無知、無明(むみょう)、ね。要するに、そのね、やっぱり人の言うことで自分もそうだと思ってるわけ。
だから面白いことは、逆に行きますとね、人のことで行くと同じことなんで、悪いっていうかね、そういうね、ガッカリしたことばかり言いましたけどね、そればかりじゃなくてね、今度は人に褒(ほ)められる。君は偉いなぁ、なんとかって言うとね、急に偉くなったような気になっちまう、ね。本質は違わない。課長さんが部長さんに、これ、ちょっと差し支(つか)えがあるかもしらんけども、別に本質は変わりないわけ、その人はね。しかし、課長から部長になったら非常に偉くなって、手下が五人だったのが二十人になったっていうと、オレは二十人を、こうなっちゃう、ね。ところが、本質をよく見たらね、余り変わってない。ヒゲの本数も変わらないしね。少々白髪(しらが)が生えたくらいのもんでね。そう、そのね、本質は変わってないわけ。だけども、そういう具合に、他の評価によって変わる。つまり、これを我々が、地位とか、名誉とか、役付きとか、役付きじゃないとか、つまり、そういう価値観というものがたくさんあるわけね。こういうものが我々を支配しているっていうことを私は言いたいんですよね。人間の心はそういうものに支配されてる。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもの頃、親から先生から言われたことをインテイク(intake)=鵜呑みにしたのは仕方がなかったのです。
小さくて弱い子どもだもの、自分の幹は細いし、親からも先生からも愛されたい・評価されたいですから。
しかしそれがね、大人になってからもそのまま、小児的態度のままだと問題になるわけです。
驚くことに、実は大半の大人がそうなんですよ。
そういう意味では、まだ本当に大人になっていない人たちがほとんどなのです。
大人になりましょうよ。
自分を生きましょうよ。
そのために、まず他者評価の奴隷、比較評価の虜(とりこ)という悪しき習慣が暗躍していることに気づくのが第一歩。
そこから本来の自分を回復するという、大切な大切な闘いが始まります。

 

 

子どもの頃、夕飯がすき焼きだったとする。
男ばかりの四人兄弟であったが、野菜が先になくなり、いつも最後に牛肉が残った。
また、別の夜、夕飯がコロッケだったとする。
大皿に盛られたコロッケをそれぞれの皿に取って食べるのだが、いつも最後にコロッケがひとつ残った。
ある日、母親が親戚のおばさんに“自慢げに”話していた。
「いつも最後に牛肉やコロッケが残るのよ。うちの子は誰も取らないの。」
それは、うちの子どもたちがどれほど謙譲の美徳に優れているか(ガツガツと取り合ったりしないこと)を誇りたかったのである。
母親のその考えを感じ取っているからこそ、子どもたちは残った牛肉やコロッケに手を出さなかっだ。
手を出せば、さもしいと見下される。
紛れもなく、偽善の謙譲であった。

その後、実家を離れて一人暮らしを始めた四人兄弟各人は、それぞれ食べたいだけ食べられる自由を謳歌したが、人前に出ると、まだその偽善の謙譲は力を持っていた。

そしてようやくその呪縛から脱したのは、本当に人を愛するということを知ってからであろう。
どんなものでも、たとえそれが大好物であっても、自分が空腹であっても、”自然に”差し出せて、相手の喜んでいる顔を見て、こちらも心から嬉しくなる。
それはもちろん食べ物だけの話ではない。
そんな世界がある。
偽善の謙譲ではなく、本当の愛は自ずと我欲を薄めてくれることを知ったのでありました。

 

 

昔、精神科外来にある若い男性がやってきた。
聞けば、子どもの頃からてんかんの治療を受けているが、なかなか発作が収まらないのだという。
また、障害に理解のある職場に一般雇用で勤めているが、その給料が少ないという。
さらに、障害年金ももらっているが、支給額が少ないという。
それでもうなんだかイヤになっちゃったというのだ。

私は答えた。
私には、てんかん発作を抑えることも、給料を上げることも、年金支給額を上げることもできない。
もし思い通りにならないことを、思い通りにしたいのであれば、それぞれ相談先が違う。
そうではなくて、もしあなたが、思い通りにならないことも受け入れて生きて行けるようになりたい、と言うのであれば、ここで力になれることがあるかもしれない。

長年、彼の置かれた状況が辛いものであることは想像に難くない。
思い通りにしたい、思い通りにならないと気に入らない、というのも、人情としてはよくわかる。
しかし、世の中は思い通りにならないことに満ちている。
それなのに、思い通りにならないとイヤだ、というのを、やっぱり小児的欲求というのである。
そうではなくて、思い通りにならないことを抱えながら生きて行く、それができることを大人の成熟というのだ。 

それでも人間だから、凡夫だから、たまには誰かに思い通りにならない愚痴を誰かに聞いてもらうのもいいけどさ、二十歳を超えたら、一歩ずつでも大人になって行こうね。

 

 

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