八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

ああ、この人のためなら何でもしてあげたい、という愛情が燃え上がるときがある。
そして、尽くす、尽くす、尽くす。
それは愛「情」であるからこそ燃え上がるが、
「情」には常に「我」が付きまとう。
「我」 の反応こそが「情」なのである。
よって「我」は主観的満足を求める。
で、どうなるか。
その尽くした分だけの主観的満足=「我」の満足=見返りがないと、へこたれてしまうのである。
あんなにしてやったのに。
甲斐がない。
そうなると、あんなに尽くしていたのに、忽(たちま)ちに恩着せがましくなったり、恨みがましくなったりする。
はっきり言ってしまうと、セコいのである。
そんな愛憎事件、たくさんありますよね。
親子間でもよく起きている。

それに対して(「情」の付いていない)、「愛」は違う。
「愛」は人間によるものではない。
人間を通して働くものである。
よって、一方的である。
主観的満足=「我」の満足=見返りを必要としない。
これは尊い。

愛情はへこたれるが
愛はへこたれないのである。

我らは、残念ながら、愛情にとらわれる凡夫であるが、
時に愛に恵まれるところに救いがある。

だからね、今日もまた、祈るしかないのでありました。

 

 

今日は令和6年度最後、10回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目に続いて10回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

さて、先に述べた process によって定立した「仮幻の自己」の内容は、それぞれの個人によって自ら特異な様相をもち、それぞれの神経症的性格の差を形成して行くのであるが、Horney はこれを大別して三種の方に分ける。もとより、全ての類型学がそうである様に、あくまでもそれは、性格理解の為の一応の目安をつけるのにとどまる。人間の個性は色々な variation をもつものであるから、臨床に当っての観察は、患者に固有な心的現象を理解することが重要であるのは当然である。従って次の分類も、この様な前提のもとに理解されるべきであろう。

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

この型の傾向の人々は、自己を嘆賞の中心として(自己陶酔型)、或は道徳的知的に完璧優秀なるものとして(完全主義型)、或は全能な征服者(復讐型)として考える「仮幻の自己」を持つ。嘆賞と支配と優越に対する追求が、彼等の安全を守るのに必要不可欠なるものとして、行われるのである。
彼等に共通なのは、自分の優秀さに関する誇り pride である。何事も自分には可能であり、不可能なものはないと言う傲慢な自信である。現実や他人に対する要求 claims は、現実や他人が、自己のこの様な優越性を立証すべきものであり、他人は自分を嘆賞し、尊敬し、自分に屈従すべきものであり、自分は批判する権利はあっても、現実や他人が自分を批判することは許されないのである。
非はいつも他人にあり、正義は常に自分にあるのであるから、彼の価値を疑ったり、要求に従わない時は、当然、彼はそれに対して復讐し、攻撃してよいのである、そうすることは、彼の優越性をまた立証することにもなるのである。
もとより、自分の優越性に心酔している彼にとっては、他人が彼を嘆賞し、彼のまわりに集って来る場合には、それらの人々に対して寛大であり極めて愛想よく親切であることも多い。
しかし、この寛大さや親切はみせかけである。一人でも彼の意見と違ったり、彼に批判めいた事でも言えば、その人に対する今迄の寛大さや親切さは消え、軽蔑か、冷淡か、敵意か、更に残酷な計画的な復讐が取って代るのである。
他人は、彼の価値や野心や勝利の為の道具であり、材料に過ぎない。だから人間に取り巻かれながら、根本的に言って彼は孤独である。しかし、この孤独感を感じることは彼の自分自身に課する要求 shoulds によって抑圧、禁止される。
何故なら、孤独感は弱さであり、優越し、全能である彼は、弱くあってはならないからである。同じ理由の為に彼は自分の中に起きて来る自分の優越性や、完璧性、或は自分の野心的な態度等に関する不安や恐れを禁圧しなければならない。失敗はあってはならぬし、又同時に考えてはならぬのである。そして、考えない事によって失敗は主観的に抹殺されるのである。
この型の人間に於いては「仮幻の自己」に対する同一化の程度が高いので、「現実の自己」は深く省みられない。むしろ、彼の神経症的要求 shoulds が「現実の自己」を見ることを禁じているからである。
事実、それによって、彼の自己満足、全能感、完全性は保たれているのである。しかしそれにもかかわらず、取巻きや喝采がなくなった時、自己過信の余り、手を拡げ過ぎた事業が失敗した時、或は自分の知性や意志力をもってしても如何ともしがたい、子供の死や、事故や、妻の不貞や、更に彼の征服と復讐の衝動が、結果として破壊的になり、必然的に他からの強い反撃を呼び起こした場合、否応なしにそこに露呈される「現実の自己」の弱さと不完全さを見ざるを得ない。それは、彼に激しい自分に対する憎悪、軽蔑を感じさせずにはおかないのである。
この様な態度の結果として、彼は人間の生活を生き甲斐あらしめる、愛情とか、幸福、喜び、創造性や成長 ー 私達が「真の自己」の現れと解する種々なものから疎外されて来る。
この自己疎外すら彼は否定しようとするであろう。しかし分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである。

 

今回取り上げる「自己拡大的支配型」という神経症的性格の持ち主とは、あのエラソーで傲慢な、すぐマウントを取って君臨したがり、鬱陶しくも圧の強いアイツのことである。
対人援助職者に多い「自己縮小的依存型」(次回取り上げる)にとっては最大の“天敵”であり、こういう人物が上司になれば、下は病むか辞めるかのどちらかになることが多い。
しかし、所詮は“張子の虎”であるため、どこかで躓(つまづ)き、しくじり、虐げていた人々からの総反発を招くと、その虚勢は瓦解し、一気に抑うつ状態に陥る。
問題はそのときで、散々迷惑を被(こうむ)って来た連中が、愚かにも「大丈夫だよ。」「あなたは優秀だよ。」「よくやってるよ。」などと慰めると、何の反省もなく簡単に復活する。
よって、「自己拡大的支配型」にとっては、その落ち込んでいるときが、数少ない成長のチャンスであり、どこが問題で、どのように変えていかなければならないか、をしっかりと詰めて教えなければならない。
しかし、そんな面倒臭くて嫌われ者の「自己拡大的支配型」の人間に対しても、「この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間である」と書いておられる近藤先生の姿勢には、返す言葉もなく頭が下がるばかりである。
その人を覆う闇がいかに深くても、その中にある「真の自己」という光は常に発現したがっている、という真実を忘れてはならない。

 


 

皆さんは、十一面観音菩薩というのを御存知であろうか。
頭上に十の小面を付け、本面と合わせて十一面を持つ観音菩薩のことをいう。
今回は、その十一面の内訳のうち、正面三面の慈悲面と左三面の瞋怒(しんぬ)面の六面についてお話したい(他の五面についても話すと長くなるため、それはまたいつか別の機会に)。

まず正面三面の慈悲面。
慈悲のお顔が三つ並ぶ。
慈悲とは、抜苦与楽のこと。
苦しみを抜いて(抜苦=悲)、楽を与えて下さる(与楽=慈)。
深みを持った優しさのお顔立ちである。

次に左三面の瞋怒面。
瞋も怒りを表し、慈悲面と打って変わって、怒りのお顔が三つ並ぶ。
それも、あからさまな怒りというよりは、迫力を秘めた怒りを有しており、凡夫の迷いを断ち切るにはピッタリである。

そうなんです。
凡夫に光をもたらす慈悲面。
凡夫の闇を掃う瞋怒面。
どちらも観音菩薩の示す救いとして、十一面に含まれていることに意味があるのです。

慈悲面だけで、いつもよしよししてくれるのが、観音菩薩の働きではありません。
瞋怒面で、容赦なく闇を叩っ切るのも観音菩薩の救いであることを押さえておく必要があります。

人間の成長に関わるすべての人に慈悲面と瞋怒面を。
但しそれは、“あなた”の優しさや、“あなた”の怒りのことではないことをお忘れなく。

 

 

基本、我々は凡夫である。
それはポンコツでアンポンタンという意味である。

それなのに我々は、恐れ多くも、
親になったり、
先生になったり、
治療者になったり、
支援者になったりする。

とんでもない話である。
そもそもやれるはずがないのである。

それでも、どうしてもやるというのならば、その基本姿勢は、
「ポンコツでアンポンタンですけど、一所懸命やりますから勘弁して下さい。」
ということになる。

間違っても、自分が何かできるなどと思い上がってはならない。
何かできたように見えたときは、自分を通して働く力が何がしかのことをして下さっただけであり、
決して自分の手柄と思ってはならない。

凡夫は基本、無能・無力にしてしばしば(ほぼ)有害。

何もできないときや、相手に迷惑をかけそうなときは、天に向かって、
「助けて下さい。」
と祈りましょう。

それが、凡夫なりの精一杯+おまかせ、の生き方。
我々にはそれしかないのでありました。

 

 

そこでまあ、その安全ですけども、皆さん、どう考える? これはもう人間のね、子どものときに、僕は、そう思うんですね。子どものときに、母親のね、胸に抱かれて、こうやってるときにね、あれはね、なんとも言えない、安らかな感じがしますよね。あれは素晴らしい安全感だと思うんです。子どもにとって安全感ぐらいね、大事なものはない。このことを言い始めるときりがないですけどね、子どもの問題としてね。それがないためにどんなに、いろんな問題が起きてるかわからない。
そういうふうなことが、例えば、私の、ひとつの例を挙げれば、今、小学校の3年になる女の子が、登校拒否を始めた。何故か? それは、嫁と姑がいるんですね。その間がガッチャンガッチャンやったわけです。で、お母さんが、もうこんなところにはおれないから、私は出て行く、とこう言ったわけだね。それを子どもが聞いてたわけですね。そうするとね、すごく不安になるわけですよね。そのためにね、学校に行ってる間に、もしやお母さんがどっかに行っちゃうんじゃないか。それでね、学校に行かないでお母さんの傍にくっ付いたままでいるんですよ、こうやって。それが登校拒否の原因だと。つまり、自分にそういった安全がなくなるということ、お母さんについてね。まあ、そんなことを、まあ、ひとつの例で挙げますけどね。
そういう安全感というのは、子どものときから、そういうものがずっとあると思うんですよ。けどね、そのために、さっき言ったように、我々は大人になっても、自分の安全を守るためにいろんな方法をしてるわけなんですけどね。一体、安全というのは何のためにある。もう一遍考えてみる必要がある、と私は私のとこにいらっしゃる方に言うんですよ。僕はよくわかりますと。僕だって安全っていうことを考えますと。しかし、安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか、いうようなことを、まあ、訊いてみるわけです。これはまあ、いろいろ、皆さんも議論があると思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもにとっては、まず自分の心身の安全は最重要事だと思います。
そうでないと、小さくて弱い子どもは生きて行けません。
そしてそのときに覚えた自分の安全の守り方が、大人になってからも自分の安全の守り方のベースになって行きます。
その安全の守り方が、健全なものだと良いのですが、残念ながら多くの大人が身に付けているのは、前回取り上げた「神経症的人格構造」ということになります。
おかしなことをやらかしてでも、自分の安全を守りたい。
事程左様(ことほどさよう)に、人間というものは、自分の安全が大事というわけです。
そこで近藤先生は、疑問を提出します。
安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか。
まあ、すごい質問をさらっとおっしゃるもんだ、と初めてこの講演テープを聴いたとき、私は唸ったのを覚えています。
皆さん、答えられますか?
私はすぐにイエス・キリストのことが思い浮かびました。
吉田松陰のことが浮かびました。
坂本龍馬のことが浮かびました。
自分の安全よりも、殺されてもなお果たすべきミッションがある。
そもそもそのために授かった生命(いのち)であったと。
何も死ねば良いと申し上げているわけではありません。
いざとなったら、安全とミッションとどちらを取りますか、という問題であり、
そもそもあなたは自分のミッションが何かを見い出していますか?という問題です。

そういうことがわかって初めて、安全を守ることが第一の子どもの生き方から、ミッションに生きて死ぬ大人の生き方への成熟があるんじゃないか、と私は思っています。

 

 

相手の中に問題が観えたとき、その問題にどこまで斬り込んで行くか。

相手の芯まで斬り込んで行く。
これを「裁く」という。

それでは相手を殺してしまう。
斬り込み過ぎである。
表面の「闇」だけなら良いけれど、奥にある「光」まで斬ってしまってはならない。

しかし、だからかといって、何も斬らず=問題に触れず、調子の良いことばかり言っていては、何も変わらない。
そうなるのは結局、こちらの問題であり、自分が良い人でいたいのである。
つまりは、利己的で冷たいのだ。

そうではなくて、相手の「闇」の部分に斬り込んで行く。
それによって「光」の部分を出やすくする。
これを「育てる」という。
本当の意味で、相手を活かすことになる。

そもそもの人間存在の二重構造。
生まれたときに授かった「光」の部分=本来の自己を実現しようとする働きを活かし、
生育史の中で後から付いた「闇」の部分=本来の自己の実現を疎外し、ニセモノの自分を維持しようとする神経症的な部分を払って行く。
いつもこの基本構造をお忘れなく。

 

 

以下、「治療」と「成長」の違いをイメージしていただくための例示である。

例えば、親から厳しく締め上げられて来た人に共通の弱点として、大人になってからも同様に強面(こわおもて)の上司、先輩に対して非常に弱い人がいたとする。
目が合っただけでドキドキする。

傍に行くとすくんでしまう。
その人の一挙手一投足にアンテナを張ってしまう。
また明日会うかと思うと前の晩の寝つきが悪くなる。
などなど。
かつて恐かった親と共通の要素を持つ人間が、その人の“天敵”となる。

しかし、小さくて弱かった子どもの頃はしょうがなかったにしても、大人になってからも恐れ慄(おのの)くようでは大きな問題となる。

そして、その後の展開は二つに分かれる。
その分かれ目のポイントは二つ。
一つは、それによって、実生活に支障が出るか否か。
二つは、そういう自分と勝負して変えて行きたいと心の底から思えるか否か。

まず前者は、そのために出勤できなくなるとか、仕事のパフォーマンスが落ちるなどといった「実害」が出るようになれば、受診するなどの「治療」が必要となる。
それでもなんとか仕事に支障をもたらさないように踏みとどまれているのであれば、「成長」によって乗り切れるかもしれない。

次に後者は、「恐い、恐い。」「どうしよう、どうしよう。」となって、恐怖や不安に呑み込まれ、とても内省したり、現状を打開するために勝負して行こうという気持ちになれないときは、これまた受診するなどの「治療」が必要となる。
そこまで行かず、起きていることを内省でき、現状と向き合って乗り越えてやるという決意が持てるのであれば、「成長」の道が開ける。
両者とも「治療」となると、例えば、環境調整を行ったり、薬物療法を使ったりして、まず気持ちに余裕を作って行く必要がある。それからでないと内省も勝負もできない。
(念のために申し添えておくと、「治療」するのが良い・悪いという問題ではない。当人にとってどちらの道を選ぶことが適切なのかを判断することが重要なのである)

当研究所で面談をお受けできるかどうか、という際にも、上記の2点がポイントとなる。
「治療」が必要な人には、中途半端なところでお茶を濁さず、しっかり「治療」を受けることをお勧めする。
そして、「成長」でやっていける人には、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を要求する。
自分と向き合って内省するのも、現状と勝負して具体的に言動を変えて行くのも楽なことではないが、それができる人が、当研究所の「人間的成長のための精神療法」向きということになる。

 

 

そもそも
集団の中に身を置くということの意義はどこにあるのか?
他の人と交わるということの意義はどこにあるのか?
結婚するということの意義はどこにあるのか?
誰かと一緒に暮らすということの意義はどこにあるのか?
子どもを授かるということの意義はどこにあるのか?
子どもを育てるということの意義はどこにあるのか?
学校に行くことの意義はどこにあるのか?
教育ということの意義はどこにあるのか?
会社に行くということの意義はどこにあるのか?
働くということの意義はどこにあるのか?
会社を経営するということの意義はどこにあるのか?
人に働いてもらうということの意義はどこにあるのか?
自分が自分とし生まれて来た意義はどこにあるのか?
生きるということの意義はどこにあるのか?

但し
建前の見解は要らない。
七面倒臭い観念的な見解も要らない。
うまいことまとめただけの合理化の見解も要らない。
本当に
腹落ちする
心の奥底でしっかりと噛み合う
そんな答でなければ意味がない。

そんなこともわからずして
不登校の子どもたち
引きこもりの子どもたち
出社拒否の大人たち
就労支援やリワーク対象の大人たち
会社経営に悩む経営者たち

人生に悩む人たち
生れて来た意義や生きることの意義を見失っている人たち
の力になれるわけがないのである。

自分が答えを持っていないんだもの。
その答えを突き詰めることなく、ただ上っ面だけ適応して生きて来た人間に、真に悩める人たちの応援ができるとは思えない。
それに引き換え、
今、行き詰っている人たちは切実に悩んでいる。
よって、真実の答えでないと納得しないに決まっている。
結局、そこに小手先の〇〇療法やハウツーで解決しない人間の問題があるのだと思う。

真実の答えを持った人間になろう。
その答えと合致した生き方のできる人間になろう。
それが自分自身が成長する道であり、
それと同時に、自分以外の人間を応援できるようになる道なのである。

 

 

「私がもうひとつ言いたいのは…さっき言ったように、日本において特に出てますものは、
[1]相手の好意とか、愛情とか、それによる保護によってですね、それを得て、自分の安全を確保しようという傾向。そういうものが非常にはっきりしてる。

[2]第二には、今度は、権力とか、地位を得て、それによって、あるいは富を得て、それで自分が安心しようとする考え方。
[3]第三には、そういうものから、あの、できるだけね、もう人とも、ね、それから何でも、自分はこれだけの、こういうのを作っちゃって、箱みたいなものを作って、それの中でもう、知りません、存じません、ありません、干渉しません、私は関係しません、私はこうです、とこういう具合にパッとこう決まっちゃってね、中にピシャッと入っちゃう。こういう安全。
そういうね、ざっと言って、三つのね、型が、私は、あるように思うんですよ。それぞれね、面白いけれども、私のところにいらっしゃる、いろいろ悩んでる方は、そういうことでね、結局ね、自縄自縛(じじょうじばく)になってる人が多いんだ。
[1]まあ、安全っていうこともね、最初から言うと、人の好意に頼り、人の善意に頼り、人の保護に頼ってるとね、確かにそれが得られれば安全ですね。ところが、我々個人、自分自身の感情を考えてみてもね、感情なんて、こんな頼りにならないものはないですね。愛情とか何とかいうんだってね、好意だって。愛情だって、あなた、恋愛でお互いに、好きだわよ、永遠に好きだわよってなことを言っててもね、それだって3年したら離婚したりするなんかするんですからね。これ、非常に頼りにならないですよ、はっきり言うとね。そういうふうなね、この、安全っていうふうなことを考えていてもね、人の好意だとか愛情ってのは、本当、よっぽどやってないと、努力しないとね、続かない、大変です。そういうことでね、基本的には、そういうものがいつも不安な状態にありますね。不定(ふじょう)と言いますかね。そういうもんなんですよ。
[2]二番目にね、権力ってことを言いますね、地位。ところが、その、我々が考える権力とか地位とかっていうものね、考えますとね、富でも良いですよ、それもひっくるめて良いですけど、それも一体いつまでもパーマネント(permanent)に、永久にあるものかどうかですよ。…
[3]それからまた、最後はこういうふうな、こう、中に入っちゃって、もう関係しない、私は、俺はもうこれで良いとこうなる。こうやってるとね、僕に言わせれば、これは実に安全なの。人に関係しない、影響を受けない。安全なんだけれどもね、私に言わせたらね、これは一番牢屋の安全と同じだと思うんですね。牢屋の中に入ってね、こう、四面全部コンクリートかなんかでやって、こうやってね、安全だっていう。
で、昔、私は古いですからね、明治の人間だから、アレだけども、教科書があったんですね。それの中に、今の、子ども心に覚えてるのはね、サザエのことなんですよね。サザエがね、そこにいたら、ワーッとこう、変なふうにごちゃごちゃして来たと。あ、大変だっていうんだね。自分は、しかし、こういう城があるから大丈夫。ピシャッと中に入っちゃってね、中でこうやってたというんですよね。それで、他のタイだとかヒラメだとか、みんな、慌ててる。ああ、可哀想なもんだ、私はこうだ、と。そうしたらね、しばらくしたらね、フッとこう開けてみたらね、3銭で、3銭なんて今頃ないけど、3銭で売られてたって話なんですよね。私やっぱり、そういうもんだと思う、つくづくね。そのことを、私、小さいときに教科書で読んですごく印象を受けてね。どうして印象を受けたかよくわからないけどね、すごく印象を受けちゃった、ね。今頃、私、こういう仕事をしてね、ああ、なるほどね、こういう具合に セルフ・リミティング(self-limiting)、自分を制限し、自分の成長を制限してる人はね、そういうことになっちゃうんだっていうことが、今さらわかったんです。ただ、これをね、みんなわかるんですよ。
例えば、これ、一番深いところに何があるかっていうと、人間っていうのは自分の安全ということをものすごく感じるんですよ。こういうことを言ったら、上役に言ったら、機嫌が悪くなって、悪く思われて損だ。損だというのは自分が安全じゃない、ということ、ね。あるいはまた、こういうことを下の部下に言ったら、みんな、気を悪くして思うだろう。自分の、やっぱり、安全なのね。この中に何があるって、つまり、さっき僕は環境って言ったけどね、環境にさらにプラス、我々の心の中にある問題があると思うんですよ。それはね、自分の安全っていうことをものすごく考えてる。サザエ。サザエも自分の安全を考えてるわけ。
その安全の方法は、
[1]人にこう取り入って、人に甘えて、人のこう関心を得て、安全を得ようっていうのと、
[2]人に優(まさ)って、優越して、支配して安全を得ようっていうのと、
[3]それからもう、人からもう全部逃げ出しちゃってね、自分はこうやってやってると、いうふうなことで安全を得ようと、
いろいろあるんですけどね。動機はいろいろあるけれど、我々の心の中に、安全っていうものに対するものがある。」(近藤章久講演『人間の可能性について』)

 

今回は、近藤先生がカレン・ホーナイの「神経症的人格構造」の種類について、わかりやすく説明して下さっている。
(これについては、『塀の上の猫』の「ホーナイ派の精神分析」の中で、今後説明して行く予定なので、関心のある方はご参照あれ)
整理しやすくするために、かつて小さくて弱かった子どもたちが、自らのこころのの安全を確保するために身につけざるを得なかった「神経症的人格構造neurotic personality structure」の三つの種類の名称を挙げておくと、
[1]自己縮小的依存型(self-effasive dependent type)…Toward people
[2]自己拡大的支配型(self-expansive domineering type)…Against people
[3]自己限定的断念型(self-restricting resignation type)…Away from people
となる。
(それぞれについて、上記の本文の中の[1][2][3]に対応させてある)
いずれにしても、我々が自らのこころの“安全”を求めて、誤った神経症的人格構造を身につけ、そのまま大人になってしまった、ということを押さえておいていただきたいと思う。

 

 

1989(平成元年)、国連総会で「子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)」が採択され、翌1990(平成2)年に発効された。日本がこの条約を批准したのは1994(平成6)年である。
その主な内容としては、以下の四つ。
(1)生きる権利 …すべての子どもの命が守られる権利。
(2)育つ権利  …自分らしく健やかに育つことができる権利。
(3)守られる権利…あらゆる暴力や搾取、有害な労働などから守られる権利。
(4)参加する権利…自分の意見を言ったり活動したりできる権利。

その内容に関して異論はないが、どうも「権利」という考え方自体が私にはしっくり来ない。
今さらここで「そもそも『権利』とは…」「そもそも『人権』とは…」という観念的議論を始めるつもりもない。
関心のある方は、その筋の文献に当たってみることをお勧めする。
そうではなくて、本当に子どもたちを守り、育てようとした場合、「権利」という概念を啓発し、教育し、流布し、理解してもらうことで、現実にどれだけ人間の行動変容が起こるのか、ということが私の最大の関心事なのである。
確かに、「無知」や「誤解」によって起こった問題ならば、正しい「知識」と「理解」によってその問題は解決されるかもしれない。
その意味では、「子どもの権利条約」が採択され、批准されることには大きな意味がある。
「子どもの権利」意識は高まるかもしれない。

しかし、私はそれよりも、人間としての当たり前の“感覚”の方を遥かに重視している。
目の前の子どもたちを見て、この生命(いのち)を守りたいと感じ、健やかに育って行ってほしいと願い、あらゆる被害から守りたいと思い、のびのびと生きられるようになってほしいと祈ることは、「子どもの権利」意識の知的理解から来るのであろうか。
私はそうは思わない。

悲しいことに、「子どもの権利」については知的に熟知していながら、実際に、我が子を、生徒を、子どもたちを「権利侵害」をしてしまっている人たちがいることを私は知っている。
「権利」意識は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは些か弱いと私は思う。
言い方を変えれば、「権利」の「知識」や「理解」は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは十分でないと私は思う。

反対に、「子どもの権利」という概念を知らなくても、人間としての当たり前の“感覚”から、子どもたちを愛している人たちがいる。
なんらかの理由でつい子どもたちに辛く当たってしまった場合にも、人間としての当たり前の“感覚”から、すぐに後悔し、懺悔する人たちがいる。
私は、そんな人間としての当たり前の“感覚”の方が、気をつけなくても、考えなくても出て来るので、余程信頼できると思っている。

但し、この“感覚”は、教わらなくても人間に最初から与えられているものなのだが、その後の生育史の影響によって、その“感覚”が塵埃に覆われて、鈍くなっている人たちが少なからず存在する。
よって、その塵埃を掃う作業が必要になって来る。
そうでないと、“感覚”というものは、“敏感”であれば絶対的な確かさを伴うが、“鈍感”になると曖昧模糊として非常に頼りないものになり下がってしまうのである。
但し、その作業は、「知識」や「理解」では無理である。
それは「内省」と「体験」によってしか行われない。
詳細は長くなるので割愛するが、当研究所で行っている「人間的成長のための精神療法」も、人間としての当たり前の“感覚”を磨くためのひとつの道である、ということは、手前味噌でなく、付け加えておきたいと思う。

ちなみに、「子どもの権利条約」と同様のことが、「障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)」(2006(平成18)年国連総会で採択。2014(平成26)年に日本も批准)についても言える。
障害があろうとなかろうと、人間同士が互いにその存在に畏敬の念を抱き、愛し合うことは、人間としての当たり前の“感覚”によるものであると私は思っている。

 

 

テレビでやっていたあるドキュメンタリー。
舞台が我が故郷・広島であることもあって、見入っってしまった。
貧困と育児放棄の下で居場所がなく食事も摂れない子どもたちのために、話を聞き、説教もし、手作りの食事を提供し続けているばっちゃんがいた。
いろいろ“事件”(万引きなどの非行)をやらかしてくれる子も多く、来る日も来る日も、朝から晩まで夜中に起こされても、ばっちゃんは子どもたちを支え続ける。
急に電話をかけて来て、御飯を食べに来る子がたくさんいた。

ディレクターの質問に答えて言う。
「こがいに大変なのに、なぜ続けるん?って、それ、みんなが聞くんよ。」
当人は本気でこう答える。

「私にもよう分からんのよ。」

しんどいことが続くと
「『もうせーん!』
 なんでここまでせんじゃいけんの!』ちゅうて、
 しょっちゅうヒス起こすことが多いよね。」
とあからさまで、このばっちゃんは全く良い格好をしようとしない。

〈それでも続くのは〇〇さんにも喜びが?〉
とディレクターがばっちゃんに“よくある答え”を言わせようとして誘導尋問するが、
ばっちゃんは質問にかぶせるように
「ありゃせん!」
と即答し、
「つらいばっかり!」

そうなのだ。
すぐにヒスを起こし、イヤになってしまう凡夫のばっちゃんである。
しかしそのばっちゃんを通して働く力が、この人に尊い菩薩行をおこなわせているのである。
本人の意志でやっているわけではないので、
「私にもよう分からんのよ。」と言うのも当然である。
本人の意志を超えたものが本人を突き動かしている。

ここに“凡夫の菩薩行”がある。

感動してしまった。

少年院帰りの男の子にディレクターが尋ねる。
ばっちゃんに電話をかけては御飯を食べに行っていた彼は
「前は食堂みたいな感じだったんですけど。」
と言い、それを聞いたディレクターがまた誘導尋問をする。

〈ばっちゃんに言ったら何て言うかね?〉
「食堂」なんて言ったらばっちゃんに怒られる、みたいな答えを想定していたのだろう。
しかし、彼の答えは違った、
「『悪さするより電話してきてえらかった、えらかった。』と言うと思う。」

ばっちゃんを通して働く愛は、ちゃんと彼に届いていた。

 

 

「利益相反」とは一般に、「ある行為により、一方の利益になると同時に、他方への不利益になる行為のこと」をいう。

私が関わるカウンセリングやサイコセラピー、精神科医療の分野では、「利益相反」ということに余り関係がないように見えるが、実は絡んで来ることがちょくちょくある。

例えば以下は、学校とスクールカウンセラーが関係して来る場合である(学校とスクールカウンセラーの名誉のために断っておくと、子どもの成長のために誠実な努力を続けている学校やスクールカウンセラーが存在することを私はよく知っている)。

時にスクールカウンセラーが、学校側から直接に、あるいは、暗黙裡に不登校の子どもを学校に登校できるようにしてくれ、という要望を受けることがある。
そして、スクールカウンセラーの雇用は実質上、学校側に握られている。
そうなると
、スクールカウンセラーが自分の雇用を守り、学校側からの自分の評価を上げようと思えば、子どもに対して登校を促す関わりをすることになる。
しかし、当の子どもの成長にとって、少なくとも当面の間は、今の学校に登校しない方が良いと思われた場合、スクールカウンセラーは板挟みの立場に立たされる。
つまり、登校促進が、学校にとって利益となる(不登校を減らす)と同時に、子どもとスクールカウンセラーにとって不利益となり(子どもの成長を阻害することになりかねない/スクールカウンセラーとして魂を売ることになる)、
反対に、不登校容認が、子どもとスクールカウンセラーにとって利益となる(今の子どもの成長を守ることができる/スクールカウンセラーとしての矜持を守ることができる)と同時に、学校とスクールカウンセラーにとって不利益となる(不登校者数が増える/スクールカウンセラーとして次年度の契約はなくなるかもしれない)。

こういうときにスクールカウンセラーの姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、スクールカウンセラーをやっているのか?
それが子どものため、子どもの成長のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

似たようなことが、病院職員のメンタルヘルスのために精神科医が一般病院に勤務している場合にも起きて来る(病院と精神科医の名誉のために断っておくが、職員の幸福を真に考え、誠実な努力を続けている病院や精神科医も存在する)

例えば、看護師不足の折、病院としては看護師に辞めてほしくない。
しかし、その看護師の人生単位の幸福を考えると、
退職することが正しい選択の場合もあり得る。
そこで精神科医は板挟みの立場に立たされる。
つまり、看護師に勤務継続を促すことが、病院にとって利益となる(看護師の数が減らない)と同時に、看護師と精神科医にとって不利益となる(看護師の人生を不本意なものにすることになりかねない/精神科医として魂を売ることになる)。
大体、“体制派の犬”のような精神科医のところに誰が相談に行こうと思うだろうか。慰留されるとわかっている相談に出かけて行くはずがない。
反対に、看護師の退職容認が、看護師と精神科医にとって利益となる(看護師の人生の意味と役割を守ることができる/精神科医としての矜持を守ることができる)と同時に、病院と精神科医にとって不利益となる(看護師が減る/精神科医の今後の契約更新はなくなるかもしれない)。

こういうときに精神科医の姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、病院職員のためのメンタルヘルスに携わっているのか?
それが職員のため、職員の人生単位の幸福のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

それでもし私がスクールカウンセラーやメンタルヘルス担当の精神科医として雇われ、なんでもいいから、子どもたちが登校するようにしてくれ、看護師が辞めないようにしてくれ、と頼まれたならどうするか。
私が一番最初に辞表を書くであろう。

(但しもし私にその学校や病院の体質を少しでも改善・改革して行くミッションが下っていたとしたら、そこまでの縁があったとすれば、悪戦苦闘しながらでも改善・改革に取り組んで行くかもしれない)
 


 

つまり、日本人は、非常に人付き合いが良いんだけども、本当言うと、人付き合いが嫌いだな。できるだけ一人でいたいところがある、ね。だから、アメリカ人に言わせると、留学生が随分、私のところへいましたけど、どうして日本人ってのはパーティに出て来ないんだろう? 彼らはすごくね、寂しがり屋だから、人懐っこくて、みんな寄って来て、パーティをじゃんじゃんやって、何も知らない者にもこうやるわけですよ。ところが、日本人ってのはそうじゃないから、一人でいてね、よくあのアパートの寂しい、机とね、ベットしかないところにじっと一人でいるな、と感心してるんですよ。感心するわけなんでね、しょっちゅう人にばっかり気を遣ってるんだからね、せめて気を遣わないときがほしい、とこういうわけよ、ね。まあ、一杯飲み屋かなんかに行って、こうやって飲んでたら、とても良い気分になる、これね。一人でこう飲んだらなんとも言えない良い気持ちだ、とこういうわけですよ。
だから、withdrawal(ウィズドローワル)っていうか、人から逃避するという傾向に陥る、ね。そのくせ、普通には、社会的に言うと、なんか、人に向かってですね、ご機嫌を取る。相手に向かって相手のご機嫌を取って、相手の好意を得て、自分にね、そしてこの好意を利用してですね、自分の何か、自分の安全とか、自分の昇進とか、良いことを図ろうという、こういうふうな魂胆(こんたん)があるんですね。
相手の方もまたその魂胆を知って、あいつは俺に近づいて来たって言うけど、これはさっきの話で、そうやってやられると、人から良く思われると良い気持ちなもんだから、ああ、あいつは俺の手下だなっていうわけで、こう、非常に良い気持ちになっちゃう、ね。相互依存と私はこれを言うわけ。つまり、支配する者は支配される者がいなきゃ成り立たないんで、みんないなくなっちゃったら、ヒットラーでもね、支配する人間がいなくなったら、一人ぼっちになっちゃう。フワーッとしてることになっちゃう。ところがまた、支配される人間は、支配する人間がいると安心できる。あいつのせいだっていうことにできるからね。なんでもそう。
だから、日本では、面白いことは、これは徳川時代からそうですけどね、なんか議論やるでしょ。最後にね、ごちゃごちゃ、今の閣議でもそうですな。これは委員長に一任とか、任せちゃう。任せちゃうと、自分は責任を逃れちゃう、ね。あれがやったんだから、オレはまあ、任せたんだからしょうがない。あいつのせいだ、とこういうわけ。依存でしょ、これ。自分自身の意見とか、自分自身の責任において解決してるわけじゃない。だから、それは両方依存してるわけね、これね。そういう意味で、私は、日本の社会の特徴は、相互依存的な関係があって、お互いに利用し合ってる関係。まあ、それはそう言っても良い、ね。…
ところが、ご厚意に甘えまして、てなことになっちゃってね。甘え込んじゃって、宜しくお願いしますって、宜しくってのはどの程度だかわからない。そうすると、そのときの状況によって決定されるわけね。そうすると、私は折角あの人に頼んだのに、あれ程頼んだのに、あの人は私の期待を裏切って、やってくれなかった。そういう具合にブーブー言うことになっちゃう。また、片っ方は片っ方でどうかっていうと、自分でね、宜しくって言うから宜しくって僕はやってやったのに、なんであいつは御礼も言わない、なんてことになっちゃう。そういうふうな、妙ちきりんな、腹の探り合いってことになると、そこで益々ね、お互いの顔色をじっとこう、見ることが必要になって来る。あいつはどういうことを考えてるだろうかってことがね。これがね、私は、エネルギーの大変なロスになってると思うんですよ。このために頭がくしゃくしゃしちゃう。
全く対人関係でのね、そういう意味で、問題が多いんですよ。これもへちまの屋根ですよ。屋根みたいなもの、これね。私たちに何かね、そういうものがね、知らないうちに、平生(へいぜい)やってることだけどもね、のびのびとさせない。さっき言った、自然に人間として人を愛し、ね、人に本当に好意を持ち合ったり、あるいはそういうふうなことで、心と心が触れ合ったりすることを妨げてる、ひとつの材料になっていはしないかと、まあ、こんなふうに思いますね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちらを参照。

 

そうしますと、「服従と引き換えの責任逃れ」と「責任の引き受けと引き換えの君臨支配」という相互依存関係の成立と維持にも、腹の探り合い、気の遣い合いという、非常に面倒臭い手間がかかるということになります。
とにかく神経症的な人間関係というのは結局、エネルギーを使って疲弊することになるわけです。
先日テレビで、現代人の会社での昼休みや休憩時間の過ごし方調査というのをやっていました。
その中で一番多かったのが何かというと、個食や孤食、一人で過ごす、という選択でした。
ここでも、普段人に気を遣って生きているんだから、せめて休み時間くらい一人にさせてくれよ、という思いを感じます。
不登校、引きこもり、繰り返す離職といった現代の状況を含めて、この48年前の講演の頃と変わらぬ問題の根幹がそこにあります。
目指すべきは、そんな消耗と疲弊の関係ではなく、私が私でいて、あなたがあなたでいて、その二人が互いに愛し合い、互いの成長を促し合う関係なのです。
そして最終的には、一人でいても誰かといても、本来の自分でいることを目指しましょう。

 

 

ある若い女性が、小学校高学年から中学校の頃、不登校で病院の精神科に通い、カウンセリングを受けていたという。
いくら通っても学校に行けるようにならなかったので、親が怒り出し、自分も通うのをやめてしまったそうだ。

そもそも「不登校」は単なる現象名であって、その背景にはさまざまなが要因があり、ひと口で「不登校への対処の仕方」と言えるものなどあるわけがない。
ちょっと考えてみても、生物学的原因、性格因、環境因など、複数の要素が時に複雑に絡み合っている。
それでも言えることは、私だったらもう少し最初に本人や親に説明しておくことがあったろうな、ということである。

まず私ならば最初に「ここでの治療は学校に行けるようになることを目的としていませんが、それでもいいですか?」と申し上げる。
「お嬢さんがお嬢さんとして生きて行けるようになることを第一の目標としていますので、学校に行けるようになるかどうかはわかりません。今の学校に行けるようになることがお嬢さんの成長にとって良ければ行けるようになるでしょうし、そうでなければ行けるようにはならないでしょう。」

そう。
一番根底にある、これらの「人間観」「人生観」「治療観」がまず試されるのである。
ただ漫然と、学校に行ける方が良いんじゃね?世の中、長いものには巻かれて適応して生きて行けた方が良いんじゃね?と精神科医や臨床心理士が(そして親や本人さえもが)思っていれば、当然、治療もそういう方向性に行ってしまうに決まっているのだ。
そして、どうしてもそれがお望みならば、それに賛同する他の医療機関、関係機関に行ってただくしかない。

私がそういう話をすると、その女性は、
「へぇ~、そうだったんですね。」
と驚いた顔をしていた。

そして私は付け加えた。
「で、これからどうします? 今度こそ自分が自分として生きて行けるようになる道を目指しますか?」
今や大人になったあなたの人生ですから。

 

 

ある人がある人と結婚した。
ラブラブの間は良かったが、一緒に暮らすうちに、相手のいろいろな問題が見えて来た。
で、どうするか?である。
面倒臭いから斬って捨てるのか。
相手の問題も抱えて生きて行くのか。

相手にちょっとでも問題があると、容赦なく斬って行くのもいいけれど、みんな人間だもの、どこかにきっと問題がある。
斬っても斬っても、次の人次の人に問題が見つかって行くうちに、そして誰もいなくなった、になるかもしれない。

かといって、結婚した以上、相手にどんな問題があろうと添い遂げなければならない、というのも考えものである。
「ねばならない」で強要された「糟糠の妻」などは美しくない。

じゃあ、斬るのか、抱えるのか、どうするのか。

斬るも抱えるも、縁で決める、ミッションで決めるのである。
縁がなければ、ミッションがなければ、抱えたくても離れて行く。
縁があれば、ミッションがあれば、イヤでも抱えることになる。

そしてどちらかというと、各人の自我が強まり、斬る方が増えている現代、
後者の、縁があれば、ミッションがあれば、抱えることになる、ということを今日は強調しておきたいと思う。

本来、その必要はないのに、縁とミッションによって、相手の問題を一緒に引き受けて行く、相手の重荷を一緒に背負って行くこともあるのである。
例えば、
ある人は、待望の養子縁組を行ったが、成長するうちにその子どもに障害が見つかった。
ある女性は、大学教授と結婚したが、暮らすうちにその相手に末期癌が見つかった
面倒臭ければ斬るだろう。
しかし、そこに縁があれば、ミッションがあれば、即ち、私を通して働く大いなる愛(私の愛ではない)があれば、それはあなたの問題だから知らない、ではなく、手を差し伸べて、一緒に背負って行くことになるのである。

 

 

ネットに「結婚したい女性の『職業』ランキング」という記事が載っていた。
その調査の統計上の意義はともかく、ひとつの参考にはなる。

そのランキングを挙げると、
1位 看護師
2位 保育士
3位 薬剤師
という結果であった。

いずれも私にとっては知っている方の多い職業なので、「へ~、そうなんだぁ。」と想いながら、これらの職業が正当に評価されているようで、嬉しい気持ちになった。

しかし、その職業を選んだ理由を読んでいると、「んんん?」という気持ちになって来る。
いずれも、何かあったときに「助かる」「心強い」というコメントが並んでいたのである。
結局、自分にとっての“利用価値”なのか?
それはおかしいでしょ。
それじゃあ、私利私欲でしょ。

そう思って、上記の三つの職業を見直すと、薬剤師、看護師は医療職として“利用価値”がわかりやすいが、残る保育士は、子どもが生まれたときの“利用価値”か?ということになる。
しかし、実はそうではない。
世の既婚女性の方々はよく御存知であろうが、結婚してみてわかるのは、産んだ覚えのない(手のかかる)長男が一人、家庭内に増えた、ということである。
そう。
旦那が一番手のかかる子どもなのだ。
そうなると、保育士は確かに、大いに“利用価値”のある職業ということになる。

そんなことを考えていると、段々希望のない気持ちになって来るが、世の中、捨てたものではない。
コメントを書いている人の中に一人だけ、こう書いている男性がいた。

「支えてあげたくなりますね。」

そうこなくっちゃ。
利己的な、自分にとっての“利用価値”ではなく、自分よりもまず相手を大切に思うこころ。
パートナーは、互いに思い合う相互性で成立している。
上記三種の職業に就いている女性は、この評価に騙されず、そういう眼でしっかりと男を鑑別しましょうね。

 

 

「私は、実は、これは私たちの農耕社会と関係があるんじゃないかと思うんですがね。つまり、村でもって私たちは水田耕作をやりますね。で、農地っていうのはそこから、アメリカ人みたいにハンティングをやらないんだから、ここからここへこう行けないわけ。つまり、どこかへ移れない。そうすると、いつでも定住しなきゃいけない。そこを離れられない。…これはね、日本という限られた土地で、しかも村で、そこに住んでて、農耕やって、そこの田畑で食ってれば、田畑を離れられたら食っていけない。従って、そこにいなきゃいけない。これはもう絶対命令みたいなもの。
そうすると、そこでもってね、農耕耕作をやりますとね。やれ、その、種蒔きのときとか、借り入れのときだとか、あるいは苗をこうやるときとか、まあ、いろいろなことでもって共同的な作業をやるわけでしょ。そのときに、他人の好意によるわけだ、簡単に言えばね。そこでちょっと妙なことをしちゃうとね、感情を害しちゃったら、すぐ村八分にされちゃう。できるだけね、人をアレしないように、「…でございます。」とこういうわけでね、うまくやると。人の顔色を窺(うかが)って、どう考えてるか、いちいち顔を窺っているというような態度が、僕は、出て来ると思うんですよね。…
だから結局、そういう意味で、外からのね、いろんなもので、人の顔色を気にしたり、人の機嫌を伺ったり、ご機嫌を伺うなんてことは、我々、非常にアレですよ。例えばね、まあ、ひとつの例ですけど、これ、つくづく思うんですけど、向こうで、向こうでっていうのは、外国で、挨拶ね、普通の挨拶、挨拶は“How are you?”って言いますね。“How are you? っていうのは、“How is your health condition?” つまり、「あなたの健康状況はどうか?」と。これはまあ、はっきりしてますね。
ところが、日本では、「ご機嫌いかがですか?」とこう言う。ご機嫌ってのは、そのね、「感情はどうですか?」ていうこと。つまり、ご機嫌を伺っているわけですね、要するに、ご機嫌伺い。これが発展して中元になり、歳末の贈り物になって来るわけ。そういうことが我々の人間関係をですね、スムーズにしてる点もあります。しかし、我々が非常に、人のね、気配、人の感情とか、アレに対していつもビクビクビクビクしながら、こうやって生きてるっていうのも事実です、ね。まあ、こういうことも、特にまた、日本みたいな家族で、あんな狭いところで、こうやってしょっちゅう顔を見てやってればですね、お母さんがキャッとヒステリーになればね? あ、大変だ、とこう思うしね、それはもう、お母さんはお母さんで、お父さんのご機嫌はどう?とこうなっちゃうから、もうしょっちゅう、お互いにご機嫌伺いばっかりしてるような態度でしょ。まあ、僕はいつも思うんですが、患者さんでも、来てもね、僕の顔をじーっとこう見てるんですよね。それでね、「先生は今日、どういうふうな感情でしょう?」なんてことを言うんですよね。どっちがやられてるか、わからない、あなた(笑)。
そういうふうにね、もう非常にお互いにですね、そういったお互いの感情を考える、それがね、暗黙の裡(うち)に、腹の中でやってる。腹芸でね。顔はいい加減にしながら、今日はどんな感情か?、なんていうことをやってるわけですよね。これが上下関係にも、あるいは水平の関係にもね、私は、行われてるのが、我々の現代。そういうとこでね、我々、のびのびできないですね、これ。のびのびできないから、僕が言うのは、言うならば、そういうふうな意味で、へちまになっちゃうとこういうわけですよね。曲がったへちま、屋根の上のへちまになっちゃう。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちら参照。

 

そういう眼で振り返ってみれば、我々が日常生活において、いかに他人の感情、ご機嫌にアンテナを張って生きているかがわかります。
それはもう子どもの頃から積み重ねて来た涙ぐましい努力の結果なのです。
そしてその結果が、こんなに息苦しくて窮屈な毎日になってしまいました。
フォーカスすべきは、相手の感情やご機嫌ではなく、内なる本当の自分。
迷いそうになったら、そもそもの原点に戻りましょう。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かりました。
自分を生きずして何の人生でしょうか。
聴きましょう、生命(いのち)の声を。
感じましょう、生命(いのち)がどう生きたがっているかを。
へちまが本来のへちまするように
あなたもまたのびのびと本来のあなたしましょうね。

 

 

今日は令和6年度9回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目に続いて9回目である。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

e.「真の自己」への態度 ー 自己疎外 self-alienation

「仮幻の自己」の生成過程に当って、最初から明らかなのは、「基礎的不安」に対処する為に、個体が「真の自己」の成長の方向に向うことが出来ず、次第に神経症的方法の様々な試みを経て、「真の自己」と対蹠的な「仮幻の自己」を定立し、その幻像によって生きるという事である。
この事自体、「真の自己」から離れ、それを疎外してゆく結果であるので、正しく自己疎外と呼ばれるものである。しかし「自己疎外」は、この様な「仮幻の自己」の定立の経過に於いて見られるばかりでなく、更に定立された「仮幻の自己」の自己実現の試みが、二次的に自己疎外を深め強化するのである。言いかえれば、先に述べた内外に対する神経症的要求 claims and shoulds、及び神経症的誇り  neurotic pride が益々「真の自己」の発展を阻止し、益々神経症的傾向を増長せしめて、「自己疎外」を深め、それが更に「真の自己」の発展を阻止すると言う悪循環によって、いわば「自己疎外」の拡大再生産が行われて行くのである。
しかも、それが自己を誤認している「仮幻の自己」の絶対的な要請に基づく為に、この再生産過程は強迫性を帯びるに至る。個体は自分の中の「真の自己」ー William James の言をかりれば、「脈動づる内的生命」によって自発的に感じ、考え、決意し行動するのでなく、偽りの自分である「仮幻の自己」の命ずる claims や shoulds や pride によって、感じ、考え、生きなくてはならないのである。
これは、彼自身が自分の人生を生きる主体でなくなることを意味し、「自己疎外」は更に自己喪失を産んで行くのである。その結果、自分が、何を真に願い、感じ、愛し、怒り、悲しむかに対する感覚  自分の感じ ー が喪われて行くのである。かくて、本当の自分が失われていることすら感じないまでの自己喪失 ー Kierkegaard が「死に至る病」と呼んだものが極端な場合には生じて来るのである。
しかし、この様な「仮幻の自己」の優勢にもかかわらず、人間の中の「真の自己」は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。
claims や shoulds や pride による防衛にもかかわらず、「仮幻の自己」は一面に於いて現実から、他面に於いて深く心内の「真の自己」によって、常にゆるがされている存在なのである。表面上の強固さにもかかわらず、内面的に脆弱なのは、一つにそれが非現実的な想像の所産であることと、二つには人間本来の姿である「真の自己」を抑圧しているからである。そしてこの脆弱さが、主観的には否定せんとしても否定出来ない不安として感じられ、様々な症状として表現される。
かくて一般的に神経症的葛藤は、一応表層的には優勢な一定の神経症的傾向と、他の抑圧された神経症的傾向との相剋の形をとり、又「現実の自己」との矛盾として在るが、更に深く心内に於いて「真の自己」との根本的な葛藤として存在するのである。

 

「基礎的不安」に対処するための方向性が、「真の自己」の成長へではなく、神経症的な方法による「仮幻の自己」の定立に進むことにより、まず「真の自己」の疎外=「自己疎外」が起こる。
そして「仮幻の自己」の実現がさらに、この「自己疎外」を拡大再生産して行き、やがて「自己喪失」にまで至る。
しかしこの「仮幻の自己」は、そもそも非現実的な想像の所産であることから、また、「真の自己」を抑圧していることから、脆弱な存在であり、それがまた不安を引き起こして行く。
「仮幻の自己」は、一方で思い通りにならない「現実の自己」との間で葛藤を起こし、他方で「真の自己」との間で根本的な葛藤を起こして行くのである。
それにしても、「しかし、この様な『仮幻の自己』の優勢にもかかわらず、人間の中の『真の自己』は死んではいないのである。それは前者によって抑圧されながら、常に成長を求めているのである。」という文章には救われる思いがする。

 

 

いつから感情は不当に扱われるようになったのであろうか。

「感情的」という表現は、一種の蔑視のニュアンスをもって使われている。
実際には、理性と同じように、感情もまた人間に与えられた一側面に過ぎない。
喜怒哀楽が起こることは、人間として極めて自然な現象であるはずだ。

むしろ私の経験からすると、感情蔑視の考えを持つ方々には、感情を抑圧して来た人が多く、その生育史の中で、感情、特に怒りと悲しみの表出を親や大人たちから禁止されて来た(下手に怒りや悲しみを表出すると親や大人たちから攻撃されて来た)人が多い。
なんのことはない、自分が恐くて感情を出せないことを正当化するために、感情を出している人を「みっともない。」「恥ずかしい。」などと卑下するのである。
それはズルいでしょ。
それならば
「私はへタレで感情を出すことができないが、出せるあなたが羨ましい。」
と言う方が遥かに正直である。

確かに、病んだ感情表出であれば、それは願い下げてあるが、
素直な凡情としての感情表出は、豊かであり、時に美しくさえある。

かの孔子が、最愛の弟子顔回を亡くしたとき、人目も憚(はばか)らず、慟哭(どうこく)して泣いたという。
「先生が慟哭された。」と言った従者に対して孔子は、
「慟(どう)すること有るか。夫(か)の人の為(ため)に慟するに非(あら)ずして、誰(た)が為にかせん。」
(慟哭していたか。この人のために慟哭するのでなかったら、一体誰のためにするんだ!)

と言ったという。
形式的な虚礼を排し、想いの出どころを大切にするところが、流石、孔子であった。

 

 

医師法第十七条に
「医師でなければ、医業をなしてはならない。」
とある。
ここでいう「医業」とは、「医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(「医行為」)を、反復継続する意思をもって(=業として)行うこと」とされている。
例によって、法的に正確を期する文言にしようと思うと、段々何を言っているのか、わからなくなって来る。
不正確さは承知の上で、ざっくり言ってしまうと、
「医師でなければ、診断、処方、手術をしてはならない。」
ということらしい。

今回、何故またこんなことを言い出したかというと、
「医師でなければ、診断してはならない。」
とよく言われるが、その法的根拠を知りたかったのである。

そしてその根拠が頭記の医師法第十七条にあるとわかったとしても、やっぱり気になるのが、本当に医師にしか診断ができないのか、そして、医師の診断がいつも正しいのか、という問題である。

後者については、かつである東大教授が退官時の最終講義で、自身の誤診率(14.2%)を発表したのを思い出す。
当然のことながら、どんな医師でも誤診率0%というわけにはいかないだろう。
だからといって、誤診していいということにはならず、一所懸命に正確な診断を期する必要があるが、私として気になるのはむしろ前者、本当に医師にしかし診断できないのか、という問題である。

私個人の経験からいうと、少なくとも精神科分野に限ったことを言えば、下手な医師よりも的確な診断をつけることのできる臨床心理士/公認心理師、看護師/保健師、精神保健福祉士/社会福祉士、作業療法士はおられる気がする。中には受付を担当している医療事務の人の中にも。
流石に、薬の副作用で精神症状が現れている場合や他の身体疾患のせいで精神症状が現れている場合(いわゆる症状性あるいは器質性精神障害という場合)などは、医師としての知識が必要になるだろう。
私個人としては、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準ではなく、かつて「統合失調症くささ(
Praecoxgefühl)」と言われたような、直観診断はあり得ると思っている。
但し、これも私の個人的見解だが、非医師の場合、「自分は診断できる。」と自負している人の“診断”は大体当てにならず、素直で謙虚な人の“診断”が当てになる場合が多い。
結局のところ、自我肥大的な人間の直観は当てにならず、我の薄い人の直観の方が当てになる、というところに行き着く。

そういうわけで、少なくとも私の場合、もし診断に迷うときがあったならば、直観の優れたスタッフに意見を訊いてみることにしている。
直観で診断して、客観的エヴィデンス・ベースの診断基準で裏を取る。
現時点での私の診断のスタンスはそんなところかもしれない。

 

 

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