八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「男性においてのこだわりは、権力、金力、力ですね。優越するというようなこと。女性においては、愛情とか、愛情ということを基本にしたこだわりですね。…
両方に共通しているのは、人間というのは自己の保全・安全というものがいつも重要な価値のひとつになっている。だれでも自己防衛というか人に対してなんとなく心にもないことをいったり、偽りの微笑を浮かべたりします。これはたいがいの人は経験があると思うんです。これは人間関係における自分の保全、自分の防衛のためということですね。
小さな子どもでも安全ということを考えます。とくに男性においては自分の地位の保全、それは権力を意味する地位の保全。女性においては、愛情的な意味における安全…愛情を確保する安全さです。そういった自己の安全のための防衛ということを人間は行うものです。ところが多くの人が残念なことにこの法則が自分のなかで、はっきりしていない。自覚していない。そして自分のこだわりに執着している。それをどうしてもこうでなきゃイヤだと思っている。執着とはそういうことです。そうして最後にはこうであらねばならないというふうに思いこんでしまう。
こうであらねばならないということになりますと、ちょっとでもそうでないと気になるわけです。もう一回いいますよ。ある価値があって、それに無意識に執着する。執着すると、どうしてもそうありたい。ほしい。おれは偉くなりたい、とね。それがもっと強くなると、偉くならなければイヤだ。その次は偉くならなければいけない。ならなきゃならない。ねばならぬ。…
こだわりの源ってなんだろうということをここでいえば、自分の執着しているものを完全に現実化してなくてはやまないというこの欲望、それが私は、こだわりの源だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず「こだわり」には、「自己の保全・安全」ということが絡んでいるということ。
特に、男性には「権力を意味する地位の保全」、女性には「愛情を確保する安全」。
そしてそこには「自分が執着しているものを手に入れなければならない」という強い「欲望」が働いており、それが「こだわり」の源となる。
そして最大の問題は、自分でその「こだわり」について自覚していないということ。
自覚がないことには解決のしようがない。
私の表現で言えば、「こだわり」に呑み込まれていては何も始まらない。
そこで少しでも「ちょっと待てよ。」「わたしは/おれはこれにこだわってるぞ。」という自覚が出て来ると、流れが大きく変わって来る。
それが「情けなさの自覚」。
そこからなのだ、成長の道が始まるのは。
まさにそのために、今この文章を読まれた方々は、どうぞご自分の中にある「こだわり」について内省してみていただきたい。
ゆっくりと、そして、事あるごとに、そして、徹底的に。

 

 

 

面談を続けている面白いことが起こる。
ある女性が面談を続けるうちに、本来の自分を取り戻し、他者の思惑よりも自分が本当は何を感じているか、どうしたいのかしたくないのかを表出できるようになってきた。

面白いというのは、そうなったときの、まわりの人たちの反応である。

内省性がなく、以前の彼女の方が都合が良かった人は、その変化・成長に反発する。
「おかしくなった。」「生意気になった。」「言うことを聞かなくなった。」などなど。
中には怒り出す人もいる。

そして内省性があり、本当の意味で彼女を愛している人は、彼女の変化・成長を喜ぶ。
「表情が変わったね。」「生き生きして来た。」「良かったね。」などなど。
中には泣き出す人もいた。

そして、家族や友人関係でも、本人の変化・成長について行ける人とついていけない人とに分かれて来る。

ついて行ける人は、彼女の変化を自分事として内省し、その人自身もまた変化・成長し始める。
ついて行けない人は、自分にこそ問題があることを内省できず、結局、彼女の変化・成長に置いて行かれることになる。

私がしていることは、クライアントをある特定の型に嵌(は)めていくことではなく、その人がその人になるように(本来のその人を取り戻せるように)(さくらはさくらに、すみれはすみれになるように)応援していくだけのことである。

願わくば、周囲の人も、その影響(=薫習(くんじゅう))を受けて、自分の花が本来何なのかに気づき、一緒に自分の花を咲かせて行ってほしいなぁ、と切に思う。
そういった連鎖反応もまた、人間的成長に関わる精神療法の醍醐味なのである。

 

 

Aさんが言うには、Bさんとは話が弾むが、Cさんと話すと話が弾まない、という。
だから、Cさんと話すのはやめて、Bさんと話すことにしたと。

誰とどう話そうとAさんの勝手だけれど、私が見る限り、Aさん自身も抑圧と緊張が強く、誰とでもオープンに人と話せる人だとは思えない。
Bさんと話が弾むのは大変結構であるが、軽口を叩くのが得意なBさん故、その内容は多分に噂話やら悪口・陰口やら、はっきり申し上げると、ゲスネタである。

秘めた攻撃性を一緒に垂れ流せる仲間との間で話が弾んでも、それが双方の人間的成長にとって役に立つとは思えない。却って一緒に堕ちていくことになるかもしれない。

Cさんは確かに能弁な人ではないが、そういったAさんの内面がわかっていて、話をゲスネタには持って行かなかったように私には見えた。
大切にすべきは、むしろCさんのような人じゃないかな。

本当の意味で「話が弾む」とは、表面的な言葉の上で話が弾むのではなくて、一緒にいて「本来の自分」が、「生命(いのち)」が弾むことなんじゃないか、と私は思っている。
そのためには一方だけじゃなくて、双方の開いた心が必要なのだ。

だから、AさんとCさんとで、時間をかけて、気負わないで、何だったら沈黙したままでも良いから、場を共にして行くことを、私としてはお勧めしたいと思う。

居酒屋の後ろの席で、さっきから大学生たちが盛んに歓声やら笑い声を上げている。
しかし、悲しいほど空疎な響きしかない。
ああ、ここでも“本当の”話は弾んでないな、と思うのでありました。


 

「女の人の例ばかりだしたから、女の人にばかりこだわっているように受けとられるかもしれませんけれど、男の人にも同じようにあるんですよね。男性というのは非常に優越感を欲しがる。世の中には勝ち負けがあるので、自分が負けると大変なんです。つまり優劣意識、競争意識、そういったもので、自分がちょっとでも偉くなりたい。さっきの『ウソでもいいから愛してくれりゃいい』というのに対していうと、『ウソでもいいから偉いといってもらいたい』。偉そうにしていたい。だから、旦那さんのもっともいい操縦術は、うんとほめ抜くことですよ。…そういうと、『そんなことないよ』というけれども、ほんとうのところ大変よろこぶんですね。人間なんて考えてみれば愚かなものですよ。情けないかなそういう存在なのです。ね、ほんのちょっとでも優越したいですよ。…
このように人間というものは本来非常にくだらない価値観を持っている。その価値観というものを信じて執着する。自分はこうだと、こういうものが大事だと、これをですね、いちいちですよ、一人ひとりについてよく吟味してみなくてはいけないんですよ。それが自分自身にとってどんな意味を持っているかということを考えてもらいたいんですよ。
我々は、ふっつうはこんなことは意識しません。それを無意識といいますが、知らないうちにそういうことを考えているのです。…
しかしながら、自分の中に、いつもそういった何か、我々を支配しているこだわりのあることを認めるのが大事なのです。その意味で私の話を参考に聞いてほしいのです。…
といっても、私は、人間はある程度競争がないと進歩していかないもんだと思っています。…もう少し自分の才能を伸ばそうとか、そういった意味で健康的な競争もあるんですね。健康な競争ならその人間の能力を伸ばし、能力ばかりでなくその人の生命力を伸ばし、その生命をまた強くし、もっともっと伸びていくことになるんですけれども。でも、こだわりがでてくると、その生命の流れを逆に阻止してしまう。自分が伸びない。…
健康な競争は、お互いに刺激しながらお互いに伸びていく。ところがひとつこだわってしまうと、なんとかあいつをやっつけたいという敵意とか憎悪に変わります。人を引っ張りおろす、足を引っ張るともいいますけれども、そういうことをやりはじめるのです。
これがね、人間のひとつのあり方であると思います。私は人間がそんなにね、きれいにいくもんじゃないと思うんです。…人間の嫉妬というのは、自分よりも相手が健康だったら、自分より偉かったら、尊敬するんじゃなくて、憎む。そういう悲しい性(さが)を我々は持ってる。しばられ、とらわれてね、そして自分自身も不幸になっていくという悲しい性格があるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まあ、女もアンポンタンなら、男もアンポンタン。
今日もまた、くっだらないことにこだわって不幸になっていくんです。
やっぱりね、転機はね、あ~あ、いつまでも何やってんだろ、わたし/おれ、と“心の底から”思えるかどうかなんですよ。
それがなきゃあ、いくら言ったって、こだわりから逃れられません。
「情けなさの自覚」、それがどれだけ徹底するかどうかにかかっています。
情けないなぁ、ダメだなぁ、バカだなぁ、トホホのホ。
徹底すれば、なんとしても今の自分を乗り超えて行きたい、という「成長への意欲」が(頑張ってでははなく)自ずと湧いて来ます。
そうなったら、相談にいらっしゃい。
代わりに乗り超えることはできないけれど、あくまで乗り超える主人公はあなただけれど、できる限りの支援を致します。

 

 

しまくとぅば(島言葉)でいうところの
「なんくるないさー」
は有名であるが、その真意については諸説あるらしい。

ここでそれを一つひとつ挙げて比較検討する気はないが、ある八重山人(やいまんちゅ)が言われていたことが、自分にはしっくり来た(きっと地元の人々の中にもいろいろな意見があるのだろう)。

「なんくるないさー」
は、字義通りに解釈すれば、
「なんとかなるさ」
となるのだが、彼の感覚によれば、それよりも
「なるようになるさ」
の方が近いという。

また、そう言うと、最初からてーげー(テキトー)にやっておけばいい、というような、投げやりな感じに取られがちであるが、彼によると、それも間違いで、
「やるだけやってから初めて『なんくるないさー』と言う資格が生じる」
というのだ。

ほう。大分ニュアンスが変わってくる。

そういう意味になると、彼の言う「なんくるないさー」の真意は、一昨日、昨日と申し上げて来た

なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせする

と非常に近いことになってくる。
今は多くの人が知っている「なんくるないさー」という言葉の真意が、一段と深まった気がした。

今日までの三日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

自力を尽くして、あとはおまかせ。

まず、最初からいい加減ではなく、自力は尽くさねばならないが、自力で何でもできると思うなよ、思い上がるなよ、我を張るなよ、ということである。
そして最後は、何がどうなろうと(あれはいいけどこれはイヤだと言わず)、我を超えたところにおまかせするしかない、ということをよくよく思い知らなければならない。

 

 

テレビで若いお父さんが、子どもの運動会について 
「“万全の状態”で臨んでほしいですね。」 
語っていた。

ああ、若いな、と思う。
恐らく自分の仕事でも大事な商談には“万全の状態”で臨もうとするのであろう。
そういう私も受験前などは、どうやって受験当日を“万全の状態”で迎えるかと気をつけていたのを思い出す。

そんなことも、ほのぼのと「そうだったらいいな。」くらいに願うことは否定しないが、
それが「そうでなければならない。」に近づいて来ると、ちょっと神経症的な様相を帯びて来る。
実際、“万全の状態”でないと、イライラと不機嫌になってくる人も存在するのだ。

本当を言うと、“万全の状態”などというのは、「理想」、いや、限りなく「空想」の産物であって、現実にはなかなかあり得ない。

働くお母さん方はよくご存知であろう。
会社の大事なプレゼンがある前夜、子どもが熱を出して吐いた。
ああ、これで寝不足は決まりだ。
そうでなくても生理痛がひどい。
そんなことは日常茶飯事なのだ。

また、ある金メダリストが言っていた。
明日はオリンピックの決勝だ。
それこそ“万全の状態”で臨みたいのは山々だけれど、ここまで来るのに体に故障がないわけがない。
痛みのない日などないし、鎮痛剤の効果もないよりましくらいに過ぎない。
“万全の状態”どころか“不調を抱えながら”が当たり前なのである。

ここでも、
「思い通りに」“万全の状態”であることにこだわるのか、
「思い通りにならない」“不調込みの状態”を受け入れるのか、
昨日と同じ話になって来る。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

二日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

最後はおまかせ、ができるか否かで、人生の様相は大きく変わるのである。

 

 

ラグビーボールがどうしてあんな形をしているのかというと、元々が豚の膀胱を膨らませたものを使っていたから、というのは結構有名な話らしい。
それにしても扱いづらい形をしている。

あるイングランドのラグビー選手が、だからこそどうやってそのボールを自分の思い通りに操るかというのが大事なんだ、と言った。
彼はグラバーキック(地面を這うようにボールを転がすキック)を得意としていた。

それに対し、ある日本のラグビー選手は、思い通りにならないことこそ面白いんだ、人生と同じようにね、と言った。
彼は癌闘病を超えてプレーしていた。
(そう言えば、故平尾誠二氏も同じことを言われていた)

扱いづらいラグビーボールを前に
なんとかして思い通りに扱おうとする選手と
思い通りにならないことを受容する選手。

なんだかいつもお話しているのと近い話になって来た。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

「ラグビーは人生だ。」
と言う。
それは
ラグビーの学びを人生に活かし、人生の学びをラグビーに活かす
という意味なのかもしれない。

 

 

「『こだわり』といいますと、だいたい人間というもはだれでも、こだわりを持って生きていくのが人生。人生はむしろこだわりの連続みたいなところがあります。…私の患者さんに、女の方で、五十二、三歳…で、小さいときから、何をいっても認められないという状況を経てきたということですが、まあ、それでいろいろありました。…そこで私がいろいろとお話をしたり、うかがったりしてみますとね、心の奥にものすごい葛藤があることがわかりました。それは自分の母親に対する強い憎しみですね。なんとかして自分の子どものときにひどいめにあったことの仕返しをしたい。そういう気持ちが非常に強いわけですな。それが、いちばん深いところにある。しかしだれにも話していないのです。自分が五十いくつになっても、もうそろそろ耄碌(もうろく)しはじめている年とった母親に対して、憤り、憎しみを持っているわけです。…
しかし、ここでちょっといえることは、五十いくつになっても小さいときのそういう体験、母親が自分に対して行った不当な行為、ともかくそういうものに対して非情にこだわる。…なんでそんなことにいつまでもこだわるんだということになるかもしれませんけれども、子どものときに受けた心の傷というのは、いつまでも残る、そういうことがあるものです。…
女の人は、人の態度とか、それから相手の、まあ、相手といっても自分の好きな相手ですけどもね、その愛情、こと愛情に関して非常にこだわりがありますね。愛することもそうですが、愛されたいという気持ちが強い。愛されたいという気持ちが強いために、ある女の人が『ウソでもいいから愛してるといって』なんてことをいってる。『ウソとわかっていても、その言葉をいってほしいの』なんてことをいいます。これは、僕は非常に正直な女性心理だと思っています。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず大切なのは、何かにこだわっている自分に気づくこと、認めること。
それがないことには何も始まりません。
そして、どんなにこちらがこだわっても、それは相手があること、状況があることですので、残念ながら、なかなかこちらの思い通りにはなりません。
よってそこに、思い通りにならない「苦」が生じます。
そうすると、その「苦」を解決するための方法が二つあります。
ひとつは、相手や状況を思い通りにするために、さらに頑張ってなんとかしようとすること(しかしこれはなかなかうまくいきません)。
そしてもうひとつは、そんなことにこだわっている自分の方を消して(薄めて)行こうとすること。
後者のためには、そんなことにこだわっている自分が情けないなぁ、という自覚が必要です。
即ち、
自分が何かにこだわっていることに気づくこと、認めること。
そして、そんなことにこだわっている自分を心底情けないと思うこと。
そうして初めて、そのこだわりを乗り超えて行くにはどうしたらいいか、という道が開けて行きます。
そうして今回は、女性が陥りやすいこだわりのひとつとして、「愛されたい」が挙げられています。
さて、女性のあなたには「愛されたい」というこだわりがありますか?
それに気づいていますか?
そういう自分を心の底から情けないと思っていますか?
そしてそのこだわりを乗り超えて行きたいと本気で願っていますか?
そんなふうに見つめてみて下さい。

 

「モウムリ」と言っても、退職代行の話ではない(それは「モームリ」)。
先日、ある精神科医療保健福祉関係の会合で、ベテランの関係者たちが話しているのが聞こえて来た。
「60代になってまだ引きこもりやってるようだったら、もうそれでいいんじゃない。」とか、
「50代までそうやって演じて生きて来たんなら、そのまま行ってもらいましょうよ。」とか、
「気づかないんだったら、敢えて手をつけなくていいんじゃない。」などという発言が繰り返され、
それが私には、「もう無理」なんだからいいんじゃないの、と聞こえて来たのである。

しかし、それはその人たち自身の「敗北主義」的発想に過ぎない。
人間観、人生観が、根本的に否定的で貧しいのである。
それが自分の人生なら自業自得で仕方ないけれど、対人援助職者として当事者に関わるのであれば、大変な迷惑となる。
「もう無理」の烙印を押されて以降、ゾンビのような、生きてるんだか死んでるんだかわからないような人生に対して行う「支援」などというものはない。

以前にもお話したが、80代の女性で、3回の面談で劇的に変わった方がいた。
このままニセモノの自分で死んで行くのがイヤで、必死の覚悟を持って面談を申し込んで来られたのである。
その方に比べれば、50代、60代は、まだまだハナタレ小僧である。
「もう無理」なハズがない。

私は、死ぬ瞬間まで人間は成長する可能性を持っている、と信じている。
いや、信じているのではなく、それが絶対的な真実なのである。
苗木にも老木にも太陽の光は、分け隔てなく、降り注いでいる。
さらにさらに成長せよ、と降り注ぎ続けているのである。

 

 

『論語』の中に、孔子の弟子である子路の学ぶ姿勢について書かれた件がある。

「子路、聞くこと有りて、未(いま)だこれを行うこと能(あた)わざれば、唯(た)だ聞くこと有らんことを恐る」
(子路は、孔子から教えを聞いて、まだそれを実践できないうちは、新しい教えを聞くことを恐れた)

やんちゃなことをやらかしては師に諫められることの多い子路であるが、人間が一本気であるため、愛すべきところも多い人物である。

師の教えを聞いただけで、すぐにわかったような気になる弟子が多い中で、子路は、聞いたことを実践できないうちは、即ち、それが体得できないうちは、次の教えを聞くことを恐れたのである。
実に立派な姿勢だと思う。

また、同じ『論語』の中に

「君子は其(そ)の言(げん)の其(そ)の行(こう)に過ぐるを恥ず」
(君子は、自分の発言が実際に行えている以上になることを恥じる)

という言葉もある。

小人は「言」の方が「行」よりも先行しやすい。
実践できていない、体得できていないくせに、できているかのように言うことを戒めたのである。

これらの言葉が胸のうちにあった私は、近藤先生の面談を受けていた頃、あのこと、このこと、訊きたいことは山ほどあったが、「ああ、それについては、まだ頭の先で知っているだけで、体得できていない。私に訊く資格はない。」と思い、口にしなかったことがたくさんあった。

今も、その姿勢が間違っていたとは思っていないが、少しばかり後悔がある。
思い上がって、できてもいないくせにわかったようなことを言う口先男、背伸び男に堕したくないのは同じであるが、

思い上がりではなく、将来、自分が成長したときのために、より深遠な境地についてもっといろいろ伺っておけば良かった、という後悔があるのである。

師が亡くなられてから二十六年経つ今、流石に私の境地も当時よりは成長している。
ああ、あの時、今のためにあれを訊いておけば良かった、と思うことがしばしばある。
たとえ当時、その真意がわからなくても、今の自分(未来の自分)ならわかるかもしれない、と思うからだ。

そして後悔しつつも

「遍界(へんかい)曾(かつ)て蔵(かく)さず」(『景徳伝灯録』)
この世界は真実を隠したことはない)

という禅語にある通り、近藤先生はいらっしゃらなくても、真実はこの世界に満ちている。
後悔はやめて、この世界から今ほしい真実を見い出す眼を養わなければならない、と思っている。

 

 

「私は海が好きです。そこで、ちょっと疲れたとき、車を運転して海岸のほうをドライブするのです。そうしてずっと海のそばへ行ってね、じーっと海を見つめる。夜ですけれど、波の音を聴いているのですね。静かに聴いていると、生きている海のいのちの音が聴こえてくる。海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。
また、私は山へ行くのも好きなんですね。山でひとりで、それこそ松籟(しょうらい)の音といいますか、森にいますと松をサーッと風が吹き渡る。これが松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。…
みなさんにすすめたいのは、なかなか自分の心の響きが聴こえなかったら、できるだけそうした自然のなかに自分をもっていってみる。そこには何の脅威もない。そこには何の嘘もない。欲も、得もない。。金欲の世界も、名誉の世界も、嫉妬の世界も何もない。そこでは、すばらしい自然が、すばらしい交響楽のように大きい響きを伝えてくる。その響きに自分の体をさらし、それに共鳴する自分のいのちの響きを聴いてみる。ことに若いときからこれをやっていると、一生そのよろこびを持てるような生活に入れると思うのです。
しかし、若い人ばかりじゃあない。あなた方ご自身、こうやって現実の生活のなかで一生懸命奮闘しておられる方々にこそ、これは必要じゃないでしょうか。最近は、中年以上の人たちは、たいてい仕事でストレスを感じています。解消法といえば、お酒。一杯飲むと、いい気分になる。ウフンとなる。でも毎日やってはダメです。どうしても胃腸と肝臓にくる。四十から越して五十過ぎになるとたいてい肝臓をやられますね。胃か肝臓、あるいは高血圧症かどっちかである。男は十八が絶頂であると思えばよいので、十八以後はみな頽齢(たいれい)、老齢にどんどん進むのです。だから、俺はまだ大丈夫と、徹マンなんかやっているのは、自分のいのちを尊敬することにはならないと思う。そういうことよりも、お互いにハッキリ自分のいのちの翳(かげ)りを感じて、お互いがお互いのいのちを尊敬し合うときに、ほんとうにお互いを害することのない、争いのない、真に平和の時代がくると私は思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のこころの響きが聴こえないとき、自分自身を自然の中に連れて行ってみる。
そうして、
海では「海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。」
山では「松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。
飲む(アルコール)・打つ(ギャンブル)・買う(性的快感)でちょろまかすのも、もうやめにしませんか。
金銭欲、物欲、名誉欲、権力欲を満たすことによって得られるペラッペラの自我満足に浸るのも、もうやめにしませんか。
そんな浅薄なものを超えて、あなたが、わたしが、縁あって出逢う人たちすべてが、自分に与えられたいのちの響きを、そして相手に与えられたいのちの響きを、共に感じるとき=共鳴するとき、あらゆる存在が揺さぶられ、この世界全体が、とても大きくて豊かな
交響楽として感じられることになるでしょう。

 

 

診断基準を満たさないものの自閉スペクトラム(AS:Autism Spectrum)や注意欠如・多動症(AD/HD:Attention-deficiet Hyperactivity Disorder)の“傾向”を持つ方は、思いの外、多くいらっしゃる。

ある男性は、小さい頃から、忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
結婚し、子どもができてからも、
忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、さまざまなことで妻からも怒られて来た。
特に彼の妻は、神経症的に几帳面で気を遣い過ぎる方であったために、細かいことまで注意・叱責される日々が続いた。

その妻が、ある日、珍しく大きなミスをした。
そういう性格の人なので、自分でもガッカリしてうなだれていたが、それを見た夫は、ここぞとばかりに、日頃の恨みを晴らそうと、そのミスについてしつこく責めた。

だからあなたは嫌われる。

この夫が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)その態度によって、彼の妻は、今度夫がミスしたときには今まで以上に徹底的に責めてやろうと心に誓い、
本気で、この人と一緒にいて意味があるのだろうか、と考えるようになった。

妻がミスしたときこそ、優しく接してあげることができれば、夫婦仲は大きく変わったかもしれない。

別の男性もまた、同様の特性を持ち、周囲から怒られ、注意されることが多く、悔しい思いを重ねて来た。
しかし、彼の場合は、鉄の意志と鬼の努力でガリ勉し、医学部に入って、医者になった。
それでもまだ忘れたり抜けたりしがちで、その場の空気や相手の気持ちがうまく読めないために、医局の中では先輩医師から注意・叱責されることが多かった。
そして彼はクリニック開業の道を選んだ。

自分が院長になってしまえば、誰かに責められることがない(少なくとも大幅に減る)。
その思い通り、彼は雇用した看護師や医療事務などの職員の上に“君臨”し、今までの憂さを晴らすかのように、実にエラソーな院長になってしまったのである。

だからあなたは嫌われる。

この男性が愚かなのは明らかである。
(そしてそれは発達障害の名誉にかけて、発達障害特性によるものではなく、人格によるものである)
自分のミスは棚に上げたそのエラソーな態度によって、退職者は後を絶たず、慢性的に人手不足・求人しっ放しの状態に悩むことになった。

のび太がジャイアンになってどうするんだよ。
自分の特性を認めて謙虚になり、職員に助けてもらいながら、患者さんのために誠実に働く院長になりましょうよ。

結局、起こる問題の本質はいつも、特性によるのではなく、人格によるのである。
特性は変えられないが、人格は変えられる=人間として成長できることを忘れてはならない。

 

 

「カウンセリングで良くなった人を見たことがない。」
と時々言われる。
残念ながら、返す言葉がない。

知人の精神科医が精神科病院で臨床心理士/公認心理師の求人を行ったところ、面接に来る人、来る人、病んだ人が多くて困った、と言っていた。
私見では、精神科医も五十歩百歩なので、偉そうなことは言えないが、
カウンセリング/サイコセラピーを行おうとする本人が、
メンタルな問題を抱えているだけでなく、
その問題と向き合って勝負しようとしないのは極めて問題であると思う。
そんな人がカウンセリング/サイコセラピーを行っても、確かに良くなるはずがない。
そしてもしクライアント/患者さんに「カウンセリング/サイコセラピーってこの程度のものか。」と失望させたら、その罪はさらに重いと思う。

まず自分の問題と向き合って勝負しましょうよ。
そして自分の問題を解決した経験があればあるほど、それはクライアント/患者さんにとって役に立つ経験智にもなっていくと思う。
しかも、人間の成長は無限である。
言い方を変えれば、人間の抱える問題/成長課題も無数にあると言える。
従って、ひとつやふたつ問題解決したくらいで慢心しないで、次々と自分の問題と果敢に向き合って行くことをお勧めしたい。
それによって、あなたの中の智慧の引き出しもまた無限に増えて行く。
ひょっとしたら、引き出しなんていう小さなものを超えた次元に発展していくかもしれない。

初めてカウンセリング/サイコセラピーを受けるとき、面談室/診察室のドアを開けた瞬間、いかにも病んだ/擦れたカウンセラー/サイコセラピスト登場でガッカリ、という惨事だけはなくしたいと思う。

まず汝自身を癒しなさい。

そこからすべては始まるのである。

 

 

「いのちというものは、けっして私たちがつくり上げたものでない。…それはいただいたものなのです。与えられたものなのです。…子どもを産んだものと考えるか、授かったものと考えるか、大変な違いが生ずるので、よく聞いてくださいね。
子どものいのちを自分が産んだとなると、自分のものだという気がする。そうすると子どもが自分の思った通りにならないと、『なによ、あんた』とピシャンピシャンとこうなる。…
問題は、自分の思い通りにさせたいと思うところにある。いうことをきかない ー 親のいうことをきく子はよい子であって、きかない子は悪い子とするのはお母さんの考えです。親は、きっと偉いのでしょうね。自分のいうことをちゃんときいていれば、それはよいというのだから。そうすれば人間として立派になれると思っているのでしょうね。そうかしらねー。…
授かったいのちは、自分とつながりのあるいのちだけれども、自分と同じいのちではない。異なったひとつの独立したいのちであるということ。こういうことを考えてみると、お母さんは授かったいのちを大切にしていかなければならない。猫かわいがりすることでもなく、自分の思ったとおりにすることでもなく。
自分のものとして考えるからおかしなことになるのであって、授かったと考えるならば、もう少し落ち着いて、そのいのちに対する態度をとるだろうと思うのです。それは他人行儀に見えるかもしれない。正しく言えば、『他人』です。他人というのはどういうことかというと、自分のいのちと独立したいのちだということで、異なった特徴を持ったいのちです。そこのところについての認識をハッキリしておくということが大事だと思います。…
こういうことをあなた方の前でいったところで、他に何十億という人がいる。だから私のいうことはここだけの話にすぎないけれども、私は、ここの人だけにでもお願いしたい。
人のいのちを尊敬するためには、まず自分のいのちを尊敬しなければいけない。自分のいのちを尊敬できる人でなくてはならない。
自分のいのちを尊敬できる人は、自分のいのちのほんとうの声が聴こえる人でなければならない。自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じられる人にならなければいけない。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

だから、特に対人援助職の方々には申し上げたい。
あなたは自分のいのちを尊敬できていますか?
あなたは自分のいのちのほんとうの声が聴こえていますか?
あなたは自分のいのちの叫びを、言葉にならない響きを感じていますか?
自分においてそれができない人が、他人においてそれができるはずがないのです。
まずは自分のことから。
これが鉄則。
自分のことを後回しにして、他人のことを優先させるのは、美談でも何でもなく、自分との勝負を回避しているだけです。
あなた自身が自分と勝負して来た経験と実績があって初めて、自分以外の人の成長の役に立つことができるのです。

私もまた、ここの人だけにでもお伝えしたいと思います。

 

 

今はどうか知らないが、昔は駅からがんセンターに向かう道すがら、怪しい新興宗教の案内やら、胡散臭い民間療法のポスターなどがいくつも貼ってあったという。
当事者や家族の不安な心理につけこんだ、阿漕(あこぎ)なやりくちである。

昔、面談を申し込んで来た男性で、ある難治疾患の民間療法を生業(なりわい)としている人がいた。
その民間療法には、科学的に治療効果を示せるエビデンスがなく、高額で、メンタルに問題があるクライアントの心理につけこんでいるのは明白であった。
弱い心理へのつけこみ、そしてぼったくり価格には、悪質ホストクラブ問題に近いものを感じた。
それがわかった途端、面談はお断りした。

そこに「情けなさの自覚」を感じないようでは、成長どころじゃないでしょ。
そういう生業を続けられていること自体に、その人の大きな問題が存在する。
どうしても当研究所に面談に来たいのであれば、まずその商売を廃業して、真っ当な仕事に就いてからいらっしゃい、と告げた。
そうでなければ、他のセラピスト/カウンセラーのところへどうぞ。
その後、連絡がないところをみると、どうなったことやら。

今となっては何を相談したかったのかわからないが、人間が精神的に成長するときには、後から付いた心理的な塵埃を掃うことがとても重要である。
まず生業的にも、塵埃を掃って身綺麗にしてからだね。
少なくとも他者から搾取を続けながら、自分だけ成長することは絶対にあり得ないのだ。

 

 

「私は、職業柄、いつも悩みを持ち、問題を持った人たちのご相談を受けているえあけなんですけれども、いのち、その方のいのちが病んでいると思ったことは一度もないのです。いのちがただ迷っているのだと思うのです。いのちが本質的には輝いてその人の中にある。しかしながら、その人がほんとうの自分のいのちを生かすということに目覚めていないために、他のつまらぬものを生かそうとしているためにとでもいいましょうか、自分のいのちよりも大事なものと考えるものがあって、それを生かすためにじつは問題が生じているということなんですね。…
いろいろな人がいます。愛人に裏切られちゃったから、もう私は人生に何の希望もありません。そういうような女の人 ー カミソリの刃でもって手首をパッと切ってね、自殺を図ったというふうな女性もいました。…『そう、その人はどういう人なの?』と聞くと、いいところを話す。好きなんだからいいところばかりいうのは決まっている。けれども、だんだん話していくうちに『でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね』と私はいった。そうすると妙な顔をしておられる。『その人は一時あなたを愛していたのでしょう? 少なくとも愛するという言葉は使われたのです。しかし、愛するということはどういうことかというと、私にいわせれば、相手のいのちを育てることではないでしょうか』と、いってみた。そうするとね、なるほどと、なんとなくぼんやりとわかったような感じをなさるのですね。愛というものは、うっかり間違うと自分のいのちを育てるどころか、腕を切って死んじゃうというような、自分のいのちを傷害するほうにも働きますね。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「でもその人はあなたのいのちが育つことにはあまり役に立っていないみたいですね」
あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたのいのちが育つことに役立っていますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.のいのちが育つことに役立っていますか?
「愛するということは…相手のいのちを育てることではないでしょうか」

あなたの親/夫/妻/パートナー/恋人/親友/上司/先輩/先生 etc.は、あなたを愛していますか?
また、あなたはあなたの子ども/夫/妻/パートナー/恋人/親友/部下/後輩/教え子 etc.を愛していますか?
この世の中で縁あっての出逢いです。
ただの出会いじゃあ、しょうがない。
表面を撫でたような出会いじゃあ、もったいない。
情にまみれた出会いじゃあ、気持ち悪い。
互いのいのちを育て合う、育み合う出逢いにして行きたいじゃあ、ありませんか。
そうして初めて、この世界にあなたとわたしが生まれて来て、そして、あなたとわたしが出逢った本当の意味が、成就するのだと思います。

 

 

厚生労働省の施策に「精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築について」(略称:にも包括)というものがある(概要を知りたい方はリンク参照)。
この施策名を初めて見たとき、「精神障害『にもかい! ついでかい!」とガックリ来たのを覚えている(説明文では「精神障害の有無や程度にかかわらず」と言い訳しているが)。

共生社会を目指すことに何の異論もないが、この娑婆は能力主義、効率主義、功利主義などが蔓延(はびこ)っている。
自分は「できる」と思い上がり、おまえは「できない」と見下す連中がウヨウヨいる。
そんな価値観に基づいて生きている地域住民の中で、どうやって障害者と共生して行けば良いのか。

かつて私はアプノーマライゼイションについて述べた。
世に言われるノーマライゼイションに対して、みんながノーマルなんぞと思い上がらず、みんなアプノーマルと認め合った方が良いんじゃないか、という提言である。

その発想を仏教的に言うならば、いつも申し上げている、「凡夫の自覚」ということになる。
厩戸皇子(聖徳太子)のおっしゃる通り、世の中にいるのは「凡夫」のみ。
「できる」などと思い上がらない。
「てきない」などと見下さない。
所詮、ドングリの背比べ。
ノーベリストも認知症になれるし、金メダリストも寝たきりになれる。
そもそもが大したことないし、ちょっとできるかのように思い上がってみても、みんな、すぐにできなくなれるのである。
そんな五十歩百歩のポンコツ同士が、この世界の中で、支え合って、助け合って、生きて行けば良いじゃないの、というわけである。

ポンコツだらけの住民を抱えられる力を持つのが、本当の意味で、健全な地域であり、そのありようはまさに“ポンコツランド”であろう。

地域を支える諸制度、諸施設、諸機関などの整備は、これからも大いに有り難いが、
形の前に気持ち、住民同士がポンコツ同士という自覚を本音で持ち、思い上がらず見下さず、一緒に暮らせる地域に、私は住みたいと思う。

 

 

「私は現在女子教育にたずさわっておりますが、日頃つくづく思うのですけれど、入学してくる生徒さんたちが挨拶するということがとても少ないと思うのです。…挨拶とはそもそも何かというと、頭を下げて『おはよう』という。おはようということは、私が早く起きたよと威張っているわけではない。相手に対して『おはやいですね、早く起きて健康ですね、健康だから早起きなのです。すばらしいですね』と、このような気持ちで『おはよう』というのです。同じような意味で『グッドモーニング』と、そういうわけですね。『グッドモーニング・フォー・ユー』ー あなたにとって良き朝でありますように、という言葉ですね。…
私のようにだんだんと年をとってきますと、人生が単純に見えてくる。人生というのは、何かこう余計なコチョコチョしたもの、ムダなものをいっぱい持っている。『オギャー』と生まれるときには何もつけてない。にもかかわらず、それからいっぱいいろいろなものをくっつけて生きて、自縄自縛(じじょうじばく)といいますが、自分を縄で縛って自分で窮屈になって、自分で悲しんだり、苦しんだりする人が多い。これが人生みたいなもの。年をとってくるとそういうのが、自分のつくるすべて幻想みたいなものであるとわかってくる。そうするとできるだけ自分のいのちを大事にして限られたいのちを生かしていきたいと思うのです。
そこで、さきほどの挨拶ですが、英語でいえば、God bless you - 神様があなたに祝福を与えてくださいますように。日本語でいえば、おはようございます。お互いに早く起きられて健康で、今日もこのいのちを持てるということはどんなにありがたいことでしょうと、そういう気持ちなんですね。つまりそれは、相手のいのちに対する祝福なんです。挨拶というのは、そういうものなんです。お互いのいのちを祝福するのはどういう意味かといえば、これこそ、私がいいたいことなんですけれども、いのちというものが私たちに一回しか与えられていないということからくるのです。そして、そのいのちは他の人と替えることができないものです。私が長生きをしたいというので、私のいのちをどこかで、若い人のいのちと取り替えるわけにはいかない。
このことは、みなさん、神秘的なことですが、わかりやすい事実でしょう。わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この一番最後のところが大事。
いのちの大切さについては、いろいろな人がいろいろなことを言っています。
近藤先生の言葉も、中には、そんなこと、わかってるよ、当たり前だろ、と思う人がいるかもしれません。
しかし、そうじゃないんですね。
「わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです」
理屈ではない。頭でわかる話ではない。
感じること。あなたの存在を通して体験すること。
そうして初めて、相手の生命(いのち)を感じて、毎日の挨拶がこころからの相手への祝福になるのです。

 

 

私は、学校に行くこと自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その子がその子に生れて来た以上、その子に与えられた意味と役割を果たしているか、果たせるように成長できているのか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その子がその子に生れて来た意味と役割を果たせるようになるために、その学校に行った方が良ければ行けばいいし、行かない方が良ければ行かかなければいい(あるいは、他の学校や他の学ぶ道を探した方がいいかもしれない)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、学校と関係なく、必要不可欠だと思う。

同じことが就労についても言える。
私は、就労すること自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その人がその人に生れて来た以上、その人に与えられた意味と役割を果たしているか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その人がその人に生れて来た意味と役割を果たすために、その仕事をした方が良ければすればいいし、しない方が良ければしなければいい(あるいは、他の仕事や他の働き方を探した方がいい)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、職場と関係なく、必要不可欠だと思う。

世の中には、そういう「基本中の基本」、明確な「教育観」「仕事観(労働観)」「人生観」を押さえずに、なんとなく不登校児の支援や就労支援をしている人たちがいる。
ただ、学校に行くことや、働くことが、良いことでしょ、当たり前でしょ、と思って支援をしている人たちがいる。
それじゃあね、支援をしているようで、進む道を間違えるわな。
実際に、学校に行ったり行かなかったり、転職と離職を繰り返すのが関の山である。
まず試されるのは、支援者の方なのである。

で、あなたは、あなたに生れて来た意味と役割を果たしていますか?
少なくとも、それを一所懸命に目指していますか?

 

 

「母は子のいのちがのびやかにいきいきと育つことを願うでしょう。よく考えてみると自分自身に対してはどうですか? あなた方は、自分自身のいのちがいきいきと、のびのびと溌溂と成長していくことを願っていらっしゃいますか? 願っていますよね?
なのになぜうまくいかないのか。それはいのちを生かすほんとうの願望をとり違えて、別次元の願望を追求することが大事だと思っているところに問題があるのではないでしょうか。いのちは大事なものです。ただ、大事にする仕方が違う。子どもでも、大事にするといって、やたら猫かわいがりすることが大事にすることだと思っている人がいる。利己主義というのはいわば、自分を猫かわいがりするということなのです。自分をほんとうに愛するということは何か? それは、苦しみや悲しみやいろんなことがあっても、それをよろこびに変え、自分を常に人間として成長させるようにつとめるということ、そういうことです。それがたったひとつしかない自分のいのちに対する尊敬であり、愛です。
いのちをほんとうに尊び、成長させるということが大事だということを、まず銘記してください。
とにかく、自分のいのちを気持ちよく、清らかに生かしていくということ。溌溂と生かしていくことが大事なのではないでしょうか。
そして、自分のいのちがたったひとつしかない大事な存在だと思えば、相手のいのちもたったひとつしかないいのちです。その人にも一回しかそのいのちは与えられていない。そのいのちを育て、そのいのちを成長させていくことが、その人に対する愛ではないでしょうか。…
僕は、あなた方の一人ひとりのなかにある、あなたでなくては持てない、独自の、あなたのいのち、あなたに与えられたいのち、それこそ文字どおりほんとうに自分に一回しかないいのちの貴重性を感じ、そして尊ばなければならないと思います。そうして、それをほんとうにすこやかに、いきいきと、溌溂と、建前によるウソでなくて、ほんとうの意味での愛することのできるいのちとして育てていってもらいたいと思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

是非とも、この近藤先生の言葉の字面の意味ではなく、近藤先生をして、この言葉を語らしめている、その働きを、その力を感じていただきたいと思います。
そうでないと、近藤章久と出逢ったことにはならないんです。
「ああ、そうなんだ。自分のいのちも相手のいのちも大切なんですね。」
では上っ面を撫でただけ。
そうではなく、なんだか知らないけれど、
胸が熱くなる、体温が上がる、背骨がゾクゾクずる、存在が揺さぶられる、そんな体験があって初めて、近藤章久と出逢ったことに、近藤章久を通して働く力に出逢ったことになるんです。

それが「身読」。
身体(からだ)で、存在で読むということ。
読んだ後、言葉の記憶なんて、何にもなくていいんです。
だけれども、なんとも言えない体験の記憶がこの体の中に残っている。
それこそがまさに、あなたのいのちを成長させいく元となるでしょう。

 

 

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