八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

路線バスに乗っていた。
かなり混み合っている。
あるバス停に着く。
何人か下車して、もう一人若い女性が下車しようとしたところで、運転手はドアを閉めて発車しようした。
女性が「あ、降ります。」と言うも、声がか細くて運転手に届かない。
無情にもバスは発車してしまった。
気まずそうにしている女性。

ああ、昔の自分なら、あの女性と同じ顛末になっただろうな、と思う。
抑圧が働いて、十分な声が出なかったのだ
言うなら言う、言わないなら言わない、がはっきりしなかった。
今なら「降ります!」ても「降ろしてくれ!」でも、大声で何でも言えるのだが、かつての私も、言ってるんだか言ってないんだか、全てが半身であった。

そして、そこからさらに、「で、どーする。」という問題が起こって来る。
まず、乗客はみんな沈黙していた。
誰かが「あ、降りる人がいまーす!」
と言ってあげても良かった。
そう言えなかった人にも、五十歩百歩の抑圧が働いていたと言える(そうでなければ冷酷である)。

その上で、以前申し上げたことを思い出していただきたい。
彼女は大人である。
子どもでも認知症高齢者でも言えない障害がある人でもない。
となれば、やたらと手助けすることは、大人の彼女が持っている力(潜在能力も含めて)を侮(あなど)っていることになる。
彼女自身が自分ではっきりと言えるようになることこそが重要なのだ。

ここを踏まえた上で、
まあ、今回だけは助け舟を出してあげるとするか、ということで「降りる人がいまーす!」と言ってもいいし、
いつでも「降りる人がいまーす!」と言えるのだけれど、敢えて黙っていて(抑圧で言えないのではない)、彼女の未来の成長を願って言わないでいるのもいい、と私は思う。
そして、どっちを選ぶかは、“私”や“あなた”が考えて決めるのではなく、“おまかせ”である。
あなたを通して働く力が、「言え!」というなら言うし、「言うな!」というなら黙っている、のである。
どうせなら、その境地まで行きたいね。

 

 

「赤ん坊はまだはっきり、目、耳、鼻、いろんなことがはっきりしません。そのときに、一番最初にはっきりして感じるのは、この肌、接触、肌なの。だから、非常にその接触が大事なんです。
その接触が大事なんだけども、近頃はどうかというと…日本の女の人も…授乳をしますと…胸の…形が悪くなるわけ。だから、したくないでしょ。そうすると、授乳をしなくて人工栄養をやるわけね。子どもにとってはね、お母さんの肌というものを感じないわけ。まずお母さんの母乳を知らない、母乳を飲むことができない。どんなね、人工的な素晴らしい栄養ができても、母乳に勝るものはないです。…
大体ね、人間誰でも、赤ん坊でもそう、大きくなっても、あなた方、わかるでしょ。お腹が減ったときに一番イライラするね。…この飢えと渇きと、そういうものは、みんな人間をイライラさせるの。
そういうのと同じように、赤ちゃんも、本当の意味で、良い母乳を与えられると満足するんだけども、そういうものが与えられないとイライラするわけです、ね。…
それで、もうひとつ…こうやって今度は…肌に付いて、母親の肌をしたときに、母親の胸のあったかさを感じますね。ここらの男性に訊いてごらんなさい。奥さんの胸に、自分の顔を寄せたときに、なんとも言えない安心感を持つんだから。どんな禿げたお爺さんでも(笑)。…俺はそんなことないよ、なんて言うかもしれないけども、しかし、それはやはり、奥さんの温かいね、胸の中にこうやって、なんとも言えない、それは、安心感を持つの。良いですか。女性はそれに自信を持って下さいよ。良いですね。
その元はどこにあるかというと、赤ん坊のときにですね、お母さんの胸に抱かれて、ほの温かく、本当に、お腹の方もいっぱいになって、あったかくて、良いですか、気持ち良くフーッと眠った。この、なんとも言えない安心感、あったかさ、満足感。こうしたものが一番、この、基礎になってる。これが人間の安心感、ね。そういうものの元になってる。…

あなた方は若いから…第二次世界大戦っていうのを…ご存じないかもしれない。…あのときの若い、例えば、特攻兵とか、十八か十七の子どもも行きました。その子どもが出て行くときに、『お母さん。』と言って出て行ったもんです、ね。これから死ぬ前に、最後に言った言葉は、みんな『お母さん。』ですよ、ね。それぐらいね、子どもにとって母親っていうものはね、自分の本当の安心の源になるんです。…
で、良いですか。あなた方は、そういう生命(いのち)、新しい、若い、若々しい、生まれたばかりの、しかしながら弱い、その生命(いのち)に対して、本当に安心感を与えるのは、あなた方だっていうことだ。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

母乳が与えるもの。
ひとつには、飢えと渇きを満たす栄養。
そしてもうひとつが、触れる胸から感じる安心感。
これが我々の原体験にある。
世のお母さんたちは、どうぞどうぞ我が子たちにその体験をたっぷりさせてあげて下さい。
そして、本格的な寒さがやって来るこの季節。
あったかいものを食べて、肌触りの良い布団にくるまってぬくぬくと眠るときの、あの幸せな感じの中にも、そんな物理的なものだけじゃない、あのときの体験の名残りが含まれているかもしれませんね。

【追伸】それにしても「禿げたお爺さん」の「禿げた」は要らないと思います、近藤先生。
 

 

近所の居酒屋さんが明日で店を閉めるのだという。
コロナ禍も生き残って来た店であるのに非常に残念である。
年輩の大将一人とアルバイトの子二人くらいで切り盛りする小さなお店であるが、このお店の魚料理は抜群に美味しく、都心でもなかなか食べられないレベルの刺身、煮魚、焼魚が、徒歩圏内で気軽に食べられるというのは大変に有り難かった。
月曜定休の店であったが、月曜の夜に店の前を通ると、半開きのシャッターの奥の厨房に灯りがつき、大将が下ごしらえをしているのがわかる。
これじゃあ、休みがないでしょ、と思うのだが、果たして出て来た料理を見ると、いつもひと手間の仕事がしてあった。
また、料理が出るのが遅れると必ずお待たせして申し訳ないと言い、雨の日に伺うと、足元の悪い中ありがとうございます、と言う律儀な大将であった。
目立たない市井の中にも、良い仕事をする人はいるものである。
閉店の理由を訊くのも野暮なので、今夜はこの店ならではの肴を並べ、日本酒で最後の名残りを惜しんだ。
ああ、やっぱり美味い。
お勘定の後、わざわざ店の外まで見送ってくれ、
「コロナのときもお弁当を買いに来ていただいて。」
とこちらが忘れたことまで覚えている、やっぱり律儀な大将でした。

本当にごちそうさまでした。

 

魚難民としてしばらく流浪することになるだろうなぁ。

 

 

ある高名な経営者が「当座買い」ということを推奨されていた。
余計な在庫を持たず、必要なときに必要なだけ買えばいい、という考え方である。
主婦(主夫)の“お買い物”感覚では、確かに「まとめ買い」の方が“お得”なことが多く、市民生活においては。それで結構なのであるが、
会社経営においては、手元に1円でも多くの現金を残すことが何よりも重要とされる。
キャッシュがショートしたときに会社は倒産するからである。
よって、“お得”でも出費の多い「まとめ買い」よりも、“割高”でも出費の少ない=手元に残る現金が多い「当座買い」の方が推奨されるのである。
なるほどと“理性的に”合点がいった。

さらに、在庫が少ない方が物を大切に使うということも「当座買い」の利点として挙げられている。
これは“理性的に”ではなく、“感覚的に”、そうだよな、とわかる。
まだたくさんあるからいいや、と思うと、扱いがぞんざいになり、丁寧に使い切らずに捨ててしまったりする。
みなさんも思い当たる節があるだろう。

そんなことを考えながら、新しく購入した来年の手帳に予定と引き継ぎ事項を記入していたら、ふと気がついた。
この作業をあと何年やれるのだろうか。
この年になると“実感”を持って感じられる。
あと1年、あと1か月、あと1週間、あと1日、あと1時間、あと1分、あと1秒、生きている保証はどこにもない、だから与えられた時間は大切に、ということは“理性的に”は若い頃からわかっていたが、“実感”がなかった。
今は“実感”がある。
残りが少ない方が大切に扱うのだ、ここでも。
本当に「わかる」とは、こういうことをいうのだと思う。

 

 

政治家は自分が国民よりもわかっていると思っている。
教師は自分が生徒よりもわかっていると思っている。
親は自分が子どもよりもわかっていると思っている。
医者は自分が患者よりもわかっていると思っている。

敏感な人はお気づきでしょう。

それほど
政治家も
教師も
親も
医者も
偉くない。

政治家は国民から学び、
教師は生徒から学び、
親は子どもから学び、
医者は患者から学びながら、
成長して行くのである
一緒に。

 

 

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此(こ)の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業(たいぎょう)は成し得られぬなり。」(『西郷南洲遺訓』)

西郷南洲(隆盛)の残した有名な言葉である。
この言葉についてちょっと書いてみたくなった。

そもそも人間が執着しそうなものとして、金、社会的地位、名声があるが、最も執着するのが自分の命である。
それは生物学的な命であると共に、自我意識(自分が今ここに存在しているという意識)ということでもある。
従って、その命も自我意識も要らない、失って結構、投げ出して結構、となると、もうそれ以上に失うものはないので、恐いものは何もなくなる、ということになる。
よって、国家の大業でも果たすことができる。

それが何も国家の大業でなくともよい。
人それぞれに今回の命を与えられた意味と役割がある。
そのために授かった命であるから、そのために死ぬのであれば、それは元より本望であろう。
逆に天命を果たさずして、金を得ようと、社会的地位を得ようと、名声を得ようと、長生きしようと、その人生に何の意味があるというのか。

 

ところで

今回の人生における

あなたのミッションは何ですか?

 

小心翼々とうまいこと立ち回って、私利私欲に走るのが当たり前の現代。
この国にはそんな先人もいたのだ、ということを忘れないでいただきたいと願う。

 

 

私も生まれつきはバリバリのお調子者だったと思う。
幼少期のそんな写真がいくつも残っていた。
そのままに育てっていたら、随分と愉快で能天気な大人になっていたであろう。

しかし、あの劣悪な生育環境の中で生き残るために、止むを得ず、陰を薄くし、気配を消すことを覚えた。
目立てば、不意に酷い攻撃を浴びる危険性がある。
そして元気のない従順な子どもができあがった。
そうしてそのまま、気配を消す一辺倒で生きていくのであれば、それはそれで(幸せでがないが)簡単にやっていけたかもしれない。

しかし親からの要求はそこに留まらなかった。
一方で親に対する完全服従を要求しながら、他方、特に家庭外、学校で“できる”“目立つ”生徒になることを要求された(これは親の虚栄心を満たすためである)。

これには苦労した。
影の薄い人間と、存在の濃い人間の両方を演じ分けなければならなかった(いずれにしても演じていたのである)。
その結果、学業優秀、学級委員、運動部部長、生徒会長などをやりながら、今でも覚えているのは書道の先生からいつも「松田くんは元気のない字を書くなぁ。」と言われた。

それからの紆余曲折は、長くなるので省略するが、結局のところ、近藤先生との出逢いのお蔭で、自分を取り戻すことに成功したのである。
だからもう気配を消したり、存在を打ち出したりすることはなくなった。
今は今の自分の気でいられる。
しかもそこそこお調子者でもある。

普通ならこれでそれでめでたしめでたしなのであるが、そうはいかなかった。
近藤先生に接していると、存在の気迫が違うのである。オーラの強さが違うのである。
そしてそこに意図的なものは全くない。
近藤先生を近藤先生させている気が凄まじいのである。
自然体でこういう人もいるんだなぁ。
そしてそれが今の自分の目標となっている。
意図的な臭みや我の臭みなしで、確かに存在すること。確かに存在させられていること。
そのときにようやく松田仁雄は本当に松田仁雄になったと言えるのであろう。

 

 

夕暮れが早くなり、午後5時過ぎにはかなり暗くなって来た。
それでも近所の公園からは、遊ぶ子どもたちの大きな声が聞こえて来る。
近所の公園や保育所の子どもたちの声がうるさいと訴えた人がいたが、私には全くわからない反応である。
子どもたちの声をうるさいと思ったことがない。

子どもの頃育った地域は、水を張った蓮根畑に囲まれていたので、夏の夜になると蛙の大合唱であった。
相当な音量であったが、平気でグースカ寝ていた。
うるさいと思ったことがなかった。
先の人なら、これも訴えるのであろうか。

しかし、これが大人の会話の声なら十分にうるさいのである。
また、工事などの騒音であれば、言うまでもなく、うるさい。
この違いは一体どこから来るのであろうか。

子どもの声も、蛙の声も、それは生命(いのち)の声なのである。
ならば、うるさいはずがない。
いやむしろこちらの生命(いのち)も刺激されて、嬉しくなって来る。

それに対して、賢(さか)しらだって演技がましい大人の会話の声はうるさい。
工事などの騒音も、文字通り、騒音でうるさい。

残念ながら、それが感じ分けられない人にとっては、どちらもただの何デシベルの騒音にしか聞こえないだろう。

先日、近所の思春期のお兄ちゃんがシャウトする歌声が聞こえて来た。
またある日、近所の認知症のおじいちゃんの絶叫が聞こえて来た。
これもそんなにうるさくない。
その声の中にまだ、生命(いのち)の一部(全部じゃないけどね)が含まれているからであろう。

そいて、赤ちゃんの泣き声をうるさいと思うかどうか。
試されているのは私たちの方かもしれない。

 

 

「今は情報化の時代ですからね…沢山情報は何時でも、直ぐ、早く手に入るのですけれども…本当に何か自分自身の、何というか、自分の存在全体にグンとこたえるような感動、自分の心と身体全体をゆり動かすような、そういう種類の情報を我々は今日感じられるでしょうか。私はひとにこういう感動をもたらし、気づかせるのが本当の情報だと思うんです。…
情報がたとえ早く、しかも多くなっても、よほど、心を落ち着けて、どんな情報が自分にとって本当に必要か、よほどよく考えないと混乱してしまって、世界中にあふれるほどの沢山の情報があっても心の落ち着きは運んでくれないのではないでしょうか。いわんや本当の心の落ち着きのもとである安心はもたらされないのではないか、と思います。…
私は年を取ることはいいことだと思います。年を取らないと分からないことも沢山ありますし、つまらないこともあんまり感じなくて済みます。そこで『年を取らして頂いて有り難いなぁ』と思って頂きたい。若い時代は若い故に沢山の情報に敏感でつまらない事で悩んだり、苦しんだり、求めたりして、波にももまれるように暮らしているものです。それに比べれば年をとると、頑固になることに十分注意すれば、何か心が騒がず、落ち着いて来るものです。これは年寄りの有り難さなんですね。」(近藤章久講演『情報化社会は人間を救うか』より)

 

若い頃は、できるだけたくさんの情報を、できるだけ早く入手して、うまいこと立ち回りたいと思うものです。
それで、そのうまいこと立ち回って得た報酬はどれほどのものなのでしょうか。
たとえそれで天文学的な収入を得たとしても、世俗的な名声を得たとしても、それで本当の出生の本懐(自分が今回この人生に生れて来た意味)が得られるのか、ということとは別問題なわけです。
それならば、たくさんの情報を早く、というとらわれを脱して、本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報にのみ絞り込んで行くことが必要なのかもしれません。
特に若い方々にはそのことをお勧めします。
そして年輩の方々は、折角、意図的に頑張らなくても自然にガツガツ立ち回ることができなくなるようにしていただいているわけですから、
本当に重要な、深い感動や安心をもたらしてくれる情報だけを大事にして行くことがより容易に行いやすいわけです。
従って、老若男女を問わず、絞りましょ、ホンモノの情報に。
ホンモノの人生を生きていくために本当に必要な情報は、それほど多くないのかもしれません。

 

 

味方のいない家庭で育った子どもは、当然のことながら、全部を自分の小さな頭と心で考えて対処するしかなかった。
そうなると、元々が偏りのある家で育って来た上に、一人で考えて来たものだから、いろいろなことに間違い・勘違い・思い込みが入り込む。
そして、それは本人一人で気づけることではないし、そんなことについて深く話す相手もいないものだから、修正されないままに大人になることになる。
それじゃあ、社会生活で生きにくくなるに決まっているよね。

面談をしていると、よくそんな方にでくわす。
「おっと、そこは勘違いだね。実はこうなんだよ。」
「それが有効だったのはお母さんとお父さんに対してだけだね。健全な人間関係では…。」
「いやいや、あなたが本当に感じているのは…。」
時には、何重にも間違い・勘違い・思い込みが層をなして絡み合い、これはどこから手を付けたらいいのか、と途方に暮れそうになるときもあるが、信頼さえしてくれれば、それでも薄皮を剥がすように余計なものが取れて行き、その度に本人も生きることが楽になり、そして、どの方向を目指して生きて行けばいいかが見えて来て、安心を実感するようになる。
それが体験できれば、この道で間違いない、この世界で私も私を生きて行けるようになれるかもしれない、という希望が生まれる。
そしてその希望が、さらに次の一歩への原動力となる。

そういうことが起こるのは、決して私の“正解”にその人を導いているのではない。
その人の中にある“正解”にその人が導かれて行くのである。
導くのは“私”ではない。
私を通して働く力と、その人を通して働く力とが、導いてくれるのである。

 

 

子どもがおねしょをした。
お母さんはギャンギャンと怒った。
「何やってんの!」「本当にもうあんたは!」「お母さんがどれだけ大変かわかってんの!」
おねしょは本人がわざとやっていることではないため、怒られても途方に暮れるしかなく、あ~あ、自分はダメだなぁ、と子どもの自己評価を下げることになる。

子どもがおねしょをした。
お母さんは盛んに言った。
「大丈夫、大丈夫。」「おねしょなんてどうってことないから。」「気にしなくていいからね。」「大したことない、ない。」「心配いらないよ。」
子どもはポカンとした顔で聞いていたが、母親が余りに言うので却って、自分は大変なことをやってしまったのか、と気になってしまった。
演技的オーバーアクションは嘘くさくなる(実はお母さんが気にしていることがバレてしまう)のでしない方がいい。
子どもの直観は侮(あなど)れない。

子どもがおねしょをした。
お母さんはあっさりと
「大丈夫よ。」「さ、着替えて。」「お布団も洗って干しましょうね。」
と言っただけで終わり(本音でそれだけ)。
子どもの自己評価が下がることもなく、疑心暗鬼になることもない。
それよりも何よりも、子どものおねしょなんかで揺るがない母親の愛を感じる。

ちなみに、「おねしょ」が「夜尿症」になって「症」が付いて来ると、ちょっと意味が違って来る。
「夜尿症」の定義は、
1.年齢:5歳以上
2.頻度:1カ月に1回以上が、3カ月以上続く
であり、1週間に4回以上となると「重症度」が「頻回」となる。

そして、有病率は、5歳:15%、6歳:13%、7歳:10%、8歳:7%、10歳:5%、12~14歳:2~3%、15歳以上:1~2%、と少なくない。
いろいろな場合があるので、心配な親御さんは小児科医に相談しましょう。

で、最後に大事なことをひとつ。
上記のように、お母さんが子どもに愛情を持って接することができるようになるためには、お母さん自身もまた愛される必要がある。
お父さんはもちろん、(心理的に)お母さんの近くにいる人たちは、一所懸命に生きているお母さんを非難するのではなく、愛しましょう。

愛されて初めてその人は本来のその人を発揮します。

 

 

今日は令和6年度7回目の「八雲勉強会」。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も1回目2回目3回目4回目5回目6回目に続いて7回目である。
今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになります。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

2.神経症的性格の構造

c.神経症的誇り neurotic pride

一方に於いて、「仮幻の自己」の高みに立つものにとって、あらゆる他のものは卑に見える。今や長い間の卑劣感や劣等感から免れて、他に優越、超出(ちょうしゅつ)し、栄光に包まれた存在としての自分を発見するのである。
優れて価値あるものとして自己を発見する時、おのずからそこに誇りを感じる。これが神経症的誇り neurotic pride と呼ばれるものであり、神経症的性格のすみずみに行き渡っている。だから見方によっては神経症的性格は誇りの体系とも見られる。それは神経症者の生きる様々な状況に於いて極めて敏感な、主観的な標尺(ひょうしゃく)として作用する。
彼の外に対する要求 claims に於いても、内に対する要求 shoulds に於いても、誇りの感情はいつも働き、よろこび、悲しみ、痛苦、快感等の烈しい感情的反応の源泉となる。誇りは一定の自己評価に基づいているから自信と同じ結果を与える。自信と同じ様に誇りは彼の生活を支持し、生甲斐(いきがい)を与える。
しかし、誇りは自信と違って、現実的な自己評価でなく、想像された自己の仮幻の価値にもとづいているから、当然現実に面する時傷つき易い弱点を蔵している。
この脆弱(ぜいじゃく)性を曝露(ばくろ)されることの危険を感じると、主観的な自分の価値を守る為に ー 神経症者は、その様な状況を回避したり、或は曝露され傷ついた時は、それによって生ずる屈辱感や怒りを、自分の面子(めんつ)が傷つけられたとか、正義の怒りだとか、愚なものの為に耐え忍ぶだとか、様々な口実を設けて合理化するのである。
しかし、この脆弱性は本質的なものであるから、これを守る為の様々な試みは、神経症的悪循環を増大するのみであって、解決にならないのは当然である。そして結局のところ、その様な脆弱性を持つ「現実の自己」を許し難いものとして非難し、それに対して軽蔑と憎悪を感じるのである。

 

自分が自分であることに寄り添われずに、そして、自分が自分であることを否定されて育った人間でも、やっぱり自分の存在には価値があると信じたい。
しかし、自分が自分であることに価値を認めてもらえないとなると、何でもいいから、価値がありそうなものをでっちあげて、それにすがるしかない。
それが「仮幻の自己」。
そして
そこに誇り=神経症的誇りを感じたいと願う。
しかし、「仮幻の自己」は余りにも理想的に過ぎるため、
[例]誰からも愛される、成績が誰よりも優れているなど。
満たされない度に傷つく脆(もろ)さを持っている。
そのため、その不満を他人のせいにしたり、理想の「仮幻の自己」を実現できていない「現実の自己」=今の自分のせいにして、責めたてるのである。
やっぱりそもそもの「仮幻の自己」に大きな問題があったのだ。
そして、小さい頃はしょうがなかったけれど、大人になった今は、そろそろ「仮幻の自己」じゃなくて「真の自己」を取り戻す方に舵を切りませんか、という話につながっていくのである。

 

 

電話に出られない、かけられない若者が増えているという。
その気持ちもわからないではない。
いやいや、わからないどころか、私も若者の頃にはその傾向があったと思う。
思えば、未知の相手とのコミュニケーションに不安があったのであろう。

相手はどんな人だろうか。
自分はちゃんとコミュニケーションを取れるだろうか。
相手の意を害さないであろうか。
相手の意に添わないと、非難され、攻撃されるのではなかろうか。
ああ、面倒くさい。
回避したい。

根底にはそんな不安と恐怖がある。

何故そうなるのか、そうなってしまったのか。
生まれつきのはずはない。
単なる経験不足なら、経験によって急速に改善するはずであるが、なかなかそうはならない。
それは、そのままの自分の不用意な言動を非難・攻撃されて来た歴史があるからである。
誰からか?
おわかりであろう。
それも多くは、すぐに児童相談所に通報されそうな虐待によってではない。
当人たちもそれと気づかないマルトリートメント(maltreatment)=子どもへの不適切な関わりは、日常生活の中で密(ひそ)やかに行われ、子どもは小さなパンチを受け続けて行く。

そうして、電話よりも安全距離があり、ダイレクトでない、LINEなどのSNSが選ばれるのである。
最近は、仕事の退職の申し出もLINEで済まされる。
退職代行サービスも、安全距離が保たれ、ダイレクトではない点では同様である。
恐くて直面化できない。

これまた子どもの頃ならそれもしょうがない。
しかし成人になってからは、自分の責任だからね。
相手の反応によらず、いつでも、どこでも、誰の前でも、自分でいられるようになることを目指すか・目指さないか、
それはあなた次第。
折角、世界に一人、一回だけの人生を授かったのだから、自分を生きて死にませんか?

ここでもまた、心からそうなろうとする人には応援団がいることを知っておいて下さい。

 

 

ダチョウは危険が迫ると、頭を砂の中に隠して危険をなかったことのようにする、という。
思い浮かべると滑稽な姿である。
そこから、都合の悪いことから目を背ける姿勢のことを「オーストリッチ(ダチョウ)効果(ostrich effect)」というそうな
精神分析的に言えば「否認(denial)」ということになる。

ダチョウの名誉のために言うならば、実際のダチョウはそんなことはしない。
ダチョウが聞いたら怒るだろう。

しかし、人間はやる。
都合の悪いことから目を背ける。

それも、小さくて弱い子どもは仕方がないと思う。
辛い
現実から目を背けて誤魔化さないとやってられないんだもの。

しかし、大人がやるのはいかがなものか。
そのときだけちょろまかしたところで、問題は全く解決していないし、
すぐその場で破綻しなければ、うやむやのうちに時は過ぎ、後で破綻することになる。
「オーストリッチ効果」は「先送り」とセットになりやすい。
不登校、引きこもり、8050問題。
健診や人間ドックを受けず(受けても結果を放置し)/体の不調も放っておき、気がついたら大変なことになっている。
などなど、例には事欠かない。

まず、せめて「情けなさの自覚」を持とうよ。
「オレって(ワタシって
)しんどいことが起こると目を背けて誤魔化すよな、逃げるよな。とほほ(あ~あ)。」と。
そして次に「成長への意欲」を持とうよ。
「誤魔化さないで、逃げないで、向き合えるようになりたい、直面化できるようになりたい。成長したい。」と。
そうなれば、やることがある、できることがある、いくらでもある。

そして最後は大人の責任。
まだ逃げます? 向き合います?
その結果は容赦なくあなたの人生に返って来る。
最早子どもではない大人のあなたの責任。

せめて向き合おうとする人には応援団がいることを知っておいて下さい。

 

 

所用で立ち寄った郵便局に、ポスターが貼ってあった。
見ると、カスタマーハラスメントの掲示で、
「当グループではカスタマーハラスメントを『お客さま等による妥当性を欠いた要求や、社会通念上不相当な言動(暴言、暴行、脅迫等)により、役員、社員の就業環境を害されること』と定義」し、「対象となる行為があったと当グループが判断した場合、対応をお断りさせていただきます。また、悪質と判断した場合には、警察・弁護士等に相談のうえ、適切に対処いたします」
などと書いてある。
ごもっとも。
こういう姿勢は個人的には大歓迎である。

今まで、精神科臨床は大変だと思っていた面があったが、よく考えてみれば、こういった一般の接客の方が遥かに大変である。
コンビニ、スーパーなどの小売店、ファストフード店などの飲食店、衣料品店などなど、誰が来るかわからない。
あらゆるカスタマーに対応しなければならないのだ。

それをアルバイトの若いお兄ちゃん・お姉ちゃんが接客しているのかと思うと、何かと批判・非難されやすい“今どきの”若いお兄ちゃん・お姉ちゃんたちであるが、なかなか頑張ってるな、とちょっと見直したくなる。

昭和の頃、「お客さまは神さまです」と言った人もいたが、客全員を神さまと持ち上げる必要はないし、かと言って、客全員を鬼・悪魔と貶(おとし)める必要もない。
カスタマーといっても特別扱いはなし。

互いにただの人間同士がいるだけなのだから、当たり前の人間としてやっていいことはいいし、やっていけないことはダメ、というだけのことである。
いつもそこに戻ろう。
真実はいつもシンプルなところにある。

 

 

子どもには、何かこう、愛を求め、愛というものを、本当にね、感じたい、幼い気持ちが、いや、子どもらしいというよりも、全人類に共通したそういうものが、心の中にあると思うんです。我々全人類っていうものはね、大人も子どももです、我々は愛というもの求め、それに渇(かわ)いている人間じゃないでしょうか。…
よく子どもは授かりものだと。そうなの。授かるって、何を授かる。自分がそれを本当に健やかに、幸せにするように、のびのびと成長さすように、そういう役割を自分は持ってる。母という役割を持ってる。そういう気持ちでね、見て下さい。だから、その生命(いのち)を汚しちゃいかん、その生命(いのち)を傷つけちゃいかん、その生命(いのち)を健やかに育てて行かなくちゃいけない。そのために私たちは、まず第一に大事なことは、自分自身の心を正直な、偽りない、偽善でなくて、本当の意味の愛というもの、正しい、本当の、正直な愛というものを子どもに対して持つ、その生命を育てて行く、ということが必要じゃないかと思う。
どうか、もう一遍繰り返しますけど、具体的にそれを言えば、子どもを認めてあげて下さい。旦那さんも認めてあげて下さい。自分を認めてあげて下さい。…
だから、結婚の愛というもの、夫は妻の生命がすくすくと育つようにするのが夫の愛です。妻は夫がすくすくと、その生命が伸びて行くようにする。これが妻の愛です。…
その根本的な愛があるならば、自分の子どもに、授かった子どもに対して、その生命を育てて行くために、一所懸命、どんない苦労しても、こんなにやりがいのあることはない、と私は思うんです。」(近藤章久講演『子どもの自殺と非行に走る心理』より)

 

人間一人の一生の間で、まず自分一人の生命(いのち)を本当に愛し、本当に育てることができたならば、それは素晴らしいことだと思います。
そして、自分以外の生命(いのち)を一人でも、本当に愛し、本当に育てることができたならば、それはさらに素晴らしいことだと私は思っています。
ですから、
縁あって夫婦になることの本当の意義

縁あって子どもを授かることの本当の意義
縁あってわたしがあなたに出逢った本当の意義
を確かに掴み、

相手の生命(いのち)を本当に愛し、育てて行くことに、
あなたに与えられた深いミッションを感じていただきたい、と切に願うのであります。

 

 

ふと思う。
私が若い頃から得意だった、相手が何を望んでいるかを見抜き、それを率先して言ってあげるようなセラピーをやっていたら、どうなっていただろうかと。
恐らく、短期的には絶大な支持と人気とを博したかもしれない。
クライアントたちの実に嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。
しかし、大変申し訳ないが、それは各人の我(が)が喜んでいるだけの、薄っぺらい笑顔だ。
そうして必ず行き詰る、そんなやり方では。

甘い毒は後から効いてくる。
その間の貴重な人生の時間が無駄になり、
多くの成長のチャンスが失われる。
そんな共犯者に私はなりたくない。

だから、多少耳が痛くても、
心にチクチク刺さろうとも、
時に真実を申し上げる。
耳触りの良い、あなたの我が喜ぶような言葉だけをお聞きになりたいのであれば、他のセラピストのところへどうぞ。
成長のための真実の言葉がお聞きになりたいのであれば、こちらへどうぞ。

そして流石に私のところへ面談に来られる方たちは、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っておられる。
従って、私が申し上げるまでもなく、自分から果敢に自分の問題や成長課題について取り上げられる方も多い。
そうなると、私が何かを申し上げる必要もない。

そういう姿勢の違いが停滞か成長かの分かれ目になる。

苦い薬もまた後から効いてくる。
そしてそれはやがてあなたの人生の深い味わいとなる。

 

 

自分で言うのもなんだが、私は腹の底から納得しないと絶対に謝らない性質(たち)である。
寄ってたかってどんなに責められようとも、自分に非がないものは謝らない。
逆に、自分に非があると思ったら、求められなくてもこちらから謝る。
随分、頑固、強情だな、と自分でも思っていたが、そんな態度もまだまだだな、と思う経験が今までに二度あった。

ひとつ目は、以前、お茶の水の喫茶店で一人コーヒーを飲んでいたとき。
通路を挟んで隣のテーブルで、背広を着たサラリーマンらしきおじさん二人が何やらもめている。
聞くともなしに聞こえて来た内容からすると、営業マンと取引先の担当者らしく、担当者のおじさん(五十代くらいの細身で長身)が営業マンのおじさん(四十代くらいの太って中背)に向かって盛んに怒っている。
伝わって来る内容からして、結構、面倒臭そうなおじさんで、いちゃもんに近い御託を並べているように聞こえる。
それに対して、営業マンのおじさんはさっきから平身低頭で、ペコペコペコペコ謝っている。
ああ、気の毒に可哀想だな、と思って、営業マンのおじさんの方を見て驚いた。
それほど責め立てられているのに、その営業マンのおじさんは卑屈になるどころか、全く動じていないのである。
確かに表面的には、テーブルに額をぶつけそうな勢いで何度も頭を下げ、「申し訳ありません。」「すみません。」と連呼している。
しかし、気持ちが全く動じていないのが伝わって来るのだ。
こりゃあ、したたかだなぁ、と思った。
それまで私のまわりにはいなかったタイプの人間である。
これならどんなに謝り倒しても、なんだったら土下座しても、全く自尊心は傷つかず、屁の河童であろう。
こういう海千山千のしたたかな強さもあるのだ、と思った。
これなら平気で謝れる。

そうしてもうひとつは、近藤先生である。
あるクライアントがそれこそ、いちゃもんをつけてギャースカピースカ言って来た。
しばらく黙って聴いていた先生が、「それは悪かったね。ごめんなさい。」と静かに言われた。
先生、なんでそんなヤツに謝るんですか!?と私の気持ちはいきり立ったが、それを聞いたクライアントの熱がスッと冷めた。
そう。グズっている小さな子どもを、大きな大人が優しく抱きとめたように見えた。
そこに愛があったのである。
愛があるから理不尽なことに対しても謝れる。
なんだかとても深くてあったかいものを見せていただいた気がした。
(誤解のないように付け加えるならば、いちゃもんに対して近藤先生がいつもこのような対応をされていたわけではない。ド迫力の気合いでブッ飛ばされた場合もあった。それは臨機応変・自由自在である。しかし、いつもそこには愛があった)

海千山千のしたたかさで、理不尽なことでも平気で謝れるようになりたいとは思わないが、
本当の意味で相手を育てるためであるなら、理不尽なことでも謝れるようになりたいと願えるようになったことで、私のつまらない頑固さ、強情さを崩していただいたのは、実に有り難いことであった。

 

 

時々、三遊亭圓生(六代目)の落語を聴く。
事務作業をしながら、You Tube を流し聴きをしていることが多いのだが、
ふと不思議に思ったのが、江戸末期~明治初期の庶民に使われた「~でげす」「~でがす」という言葉を使い、また、噺の中でも「へへへ」と笑うような、言わば“下賤な”表現を多用しているにもかかわらず、その話しぶりが全く“下品”にならない、いやいや、それどころか非常に“品格がある”のである。
これは面白い。

そう思えば、その反対もある。
身なりから、立ち居振る舞いから、言葉遣いから、出自から、学歴から、非常に行き届いて、羨望されるべきものがありながら、どうやっても“下品”になる人がいる。
なんとも拭い難い、隠し難い“下品さ”が漏れ出て来る。

となるとやっぱり行き着くところは、“人格”、“人品”よるのであろう。

圓生も、余り褒められたものではない数々の行状も伝わってはいるが、特に年を取れば取るほど、紛れもなく圓生、どこを切っても圓生になっていく。
そこに、どんなにへりくだって下賤に見せようとも、その芯に己が己であることの矜持がある。

それに比べ、はからいがあると、どうも人間が浮いて来る、嘘臭くなる。
そのはからいに卑(いや)しみがある。

“人格”、“人品”の出どころ、いずこにありや、である。

よって、「圓生みたいになりたいなぁ。」と思うべからず。
「圓生が圓生であったように、私も私になりたいなぁ。」と思うべし。

 

 

先日ふと気がついたのだが、カウンターのある飲食店は2種類に分類されるような気がする。
(いつもそんなことばかり考えて店に行っているわけではないが、気づいてしまうものはしょうがない)

カウンターの中の大将(マスター)/女将さん/スタッフが一人客の話し相手をすることを前提に作られている店とそうでない店の2種類である。
そこを間違えるとちょっと哀しいことになる。

例えば、ある居酒屋では、一人客の話し相手前提、それのみならず、話し合相手を求める一人客(大抵は常連)同士が来る前提のスタイルとなっており、カウンターでいろいろな話に花が咲いている。
しかし、別の居酒屋では、そういうスタイルになっておらず、盛んに大将やアルバイトのお姉ちゃんに話しかける客は生返事と苦笑を返されることになる。

となると、客の方でも、自分は食事をしたくて/飲みたくて行くのか、話をしたくて行くのかを、よく自分に訊いてから、さらに店を選んでから、出かけた方が良いと思う。
でないと、余計に寂しい思いをすることになる。

そして、それ以上に気になるのは、この人は店のカウンターでしか寂しさを紛らわせられないのか、ということである。
以前に『寂しさ』で触れたが、情緒的な寂しさを抱えている人は、実は想像よりも随分多い気がしている(特に東京だからだろうか)。
そしてそれと共に、情緒的寂しさを解消する選択肢の数が相当乏しい気がしている。
大枚をはたいて綺麗なお姉さんやかっこいいおにいさんが話相手になってくれるお店もあるが、そうではなくて、趣味とか、運動とか、ボランティアとか、推し活とか、山のようにある選択肢の中からいろいろ選んで、どんどん打って出ましょうよ。

なんだか地域の民生委員の方の話みたいになって来た。

我々は凡夫ゆえに、老若男女を問わず、情緒的寂しさはあるものです。
それは健全に、積極的に、豊かに、はらしましょ。

 

 

 

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