八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

2019(令和元)年11月8日(金)『Who is to blame?』

先日、落語を聞きにあるホールに出掛けた。

階段状の広いホールの一番後ろの席であったが

私の真後ろの席(通路)には、高齢女性が車椅子で座り(聞こえて来る介助者との会話から軽度の認知症の方と思われる)

また私の後ろの席(通路)の端にはリクライニングの大型車椅子で酸素マスクを付けた年配の男性が来られ

階段を挟んだ右横の席には白杖を持った年配男性が来られていた。

いずれも介助者同伴で、当たり前に落語を楽しみに来られているということに、なんだか嬉しい気持ちになった。

しかし、すぐに問題が起きた。

私の真後ろのおばあさんが、落語家の噺に対していちいち相槌を打ち、しゃべり出したのである。

しかもその声が通る。

私の前の席の若い男性が何度も迷惑顔で振り返る。

かと思うと、大型車椅子の男性が何か不具合があったのか、噺の最中に介助者に対して何度か話しかける(男性の声は低く小さいので気にならない)。

しかしそれに応答する介助者の声が大きい(男性の声の大きさからしてこの男性が難聴とは思えない)。

これまた何人かが振り返る。

そして今度は、右横の白杖の男性が、噺の最中に隣席の介助者に大きな声で話しかける。

それに対してはかなりの人数の人が振り返るが、彼には自分が見られていることがわからない。

(そのときの何も知らない男性の笑顔が私には忘れられない)

この様子を見て、私かつての電車内・バス内での体験を思い出した(その一部は以前、拙誌で触れた)。

自閉症と思われる青年に介助者(家族か施設職員とおぼしき人)が付いて座席にすわっている。

青年が大きな声を挙げ始める。

すると隣の介助者が「シーッ!」と言う。

青年は一瞬黙るが、数秒でまた大きな声を挙げ始める。

介助者がまた注意する。

それに対し、青年本人が「うるさい」「静かにしなさい」などと言い始める。

それはいつも言われているセリフなのだ。

介助者には彼の発声の理由がわからないのであろうか。

青年はヒマなのである。

車内が苦痛なのである。

社会的に受け入れられる形で車内で楽しく過ごすスキルを教えてもらっていないのである。

ならば、声を挙げて自己刺激行動で時間を潰すか、声を挙げてヘルプサインを出すしかないではないか。

それで怒られるのでは割が合わない。

「だったら車内での充実した時間の過ごし方をわかりやすく教えてくれよ。」

と青年は言いたいだろう。

青年に何の罪もない。

それと同じ。

上掲の3人とも、本人たちには何の罪もない。

問題なのは介助者であると私は思う。

何故、認知症のおばあさんの隣にいる介助者は、本人にわかるようにルールとマナーを伝えないのか。

何故、大型車椅子の男性の隣にいる介助者は、密やかな声でコミュニケーションしないのか。

何故、目の不自由な男性の隣にいる介助者は、彼にすぐにアドバイスしないのか。

いずれも見かねたホールの係員が歩み寄り、申し訳なさそうに声をかけていた。

世の介助者の方々の名誉にかけて言うならば、そんな介助者ばかりではない。

当人たちの特性を熟知し、行き届いたケアをされている介助者のいることも私は承知している。

未熟な介助者のせいで当事者が排除されるようになってはならないと思う。

これからの時代、真に多様性が世に受け入れられるためには

当事者でなく周囲の人間への啓発・教育が必要であることを改めて実感した出来事であった。

そして、これは我々医療関係者も同じ。

殷鑑遠からず、である。

今度はあの人たちと楽しく落語を味わいたいと願う。

2019(令和元)年10月27日(日)『ホワイトナイト』

ホワイトナイト(white knight)とは金融経済用語のひとつで、敵対的買収を仕掛けられた会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併してくれる会社のことを指す。

まさに「白馬の騎士」が窮地から救ってくれる、というイメージから来ている。

 

ある精神科通院中の二十代の女性が本当は家を出て一人暮らしをしたいのだけれど、お父さんが恐くて言い出せないという。

担当の男性ワーカーに懇願して言う。

「代わりに父にかけあってくれませんか?」

 

夜間、PHSで呼び出すと怒りだすバカ当直医がいた。

怒鳴られて何も言えなかった看護師は、翌日、懇意の医師に言った。

「先生から言って下さいよ。」

 

仕事でクライアントとトラブルを頻発している課長のクレームを受けてばかりの部下がいた。

恐くて課長に言えない部下は係長に泣きついた。

「係長からなんとか言ってくれませんか。」

 

懇願する人たちの姿を想像すると、私の頭の中には“涙目のとっとこハム太郎”が浮かぶ。

「こんな無力で可哀想な私にどうしろって言うんですか。」

「代わりになんとかしてくれたっていいでしょう。」

 

そうはいかない。

子どもや制限行為能力者など、自分で自分のことを打開する力が制限されている場合や、

犯罪に関する場合、特殊な専門性を要する場合などは仕方がない。

頼って良いし、頼るべきでもある。

しかし大の大人が、自分で受けて立つべきことを“可哀想な私”を使って他者になんとかしてもらおうとするような阿漕(あこぎ)な悪依存にまんまとハマるわけにはいかない。

 

Once upon a time、敵軍に攻め入られそうになっている領主が、隣国に援軍を求めた。

隣国の将の答えはこうだった。

「貴国の兵があなたを含めて全滅するまでまず自力で戦う気なら兵を出しましょう。

 そうでなければ、大事な兵士を一人も出すわけにはいきませぬ。」

当然である。

全滅するまで戦う気なら援軍は来るかもしれない。
 

まず、ホワイトナイトを当てにする前に、覚悟のウォリアー(warrier:戦士)はいませんか?

と私は問いたい。

そこにいるでしょ。

2019(令和元)年9月29日(日)『初秋の緑風苑ワークショップ』

昨日今日と福島県・磐梯熱海で初秋の緑風苑ワークショップを行って来た。

初めての9月開催で、天気も1日のうちにさまざまに変わったが、概ね暑いくらいの天候であった。

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そんな中、涙あり笑いあり再会ありアクシデントありの1泊2日。

そもそもワークショップは、自分が自分を取り戻そうとし

相手が相手になることを応援しようとする場である。

従って、参加者が参加者に与える影響には非常に大きいものがある。

誰かが真摯にそして果敢に自分自身に向き合おうとすれば、他の参加者に、グループ全体に大きなインパクトを与える。

その反面、もし誰かが神経症的言動をやめようとせず、無力感にとらわれるならば、その悪影響も甚大である(それでは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」の要件に反する)。

改めて各個人の人間力とグループの集団力によってワークショップが作られることを実感した時間であった。

それは到底私一人が操作的に作り出せるものではない。

今回も良き参加メンバーに恵まれたことに感謝したい。

そしてワークショップが終われば皆、日常に戻る。

日常こそが正念場だ。

ワークショップでの体験の感触を胸に、仕事でもプライベートでも自分して行こう。

いつでもどこでも誰の前でも、あなたはあなたなのだ。

 

2019(令和元)年8月29日(木)『成り下がる前に』

ある臨床心理系の大学院生が訪れた。

彼女の話を信じる限り、彼女が教官から受けている臨床指導は耳を疑うような内容であった。

自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けて、研究のようなものをしても教授や教官にはなれるのである。

少なくとも私は、本当のサイコセラピーを行うに当たって、致命的な“人格”的問題がそこにあると思う。

人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。

世界の大学院、教官の名誉にかけて、そうでない大学院もあるし、教官もいると私は信じている。

 

ある若手精神科医が訪れた。

彼の話を信じる限り、その大学の医局で行われている精神療法研究会の指導は目を覆うような内容であった。

自分自身の神経症的問題と向き合わず、受け売りの知識と小手先の技術だけを身に付けても、わかったようなことを言えるのである。

私は彼に尋ねた。

「あなた自身やあなたの大切な人が思い悩んだとき、その先輩から精神療法を受けたいと思う?」

もう一度言う。

人間として人格未熟な者にサイコセラピーはできない、できるはずがない。

世界の医局、精神療法専門医の名誉にかけて、そうでない医局、そうでない精神療法専門医がいると私は信じている。

 

ある精神保健福祉士が訪れた。

彼女の話を信じる限り、その就労支援施設の経営者や先輩たちの働く姿勢は、聞いていて眩暈がするほどひどいものであった。

安い給料、長い残業、名目上の就労率を上げるためのやりくり、利用者の利益よりも経営上の利益を上げるためのエセ福祉施設に成り下がっていた。

そういう話が多過ぎる。

「そんなことをするために苦労して精神保健福祉士の資格を取ったんだっけ?」

絶望してまた他の福祉施設に勤め、また絶望する。

そのうち、どこもこんなものかと思い始める。

世界の福祉施設やそこで働く精神保健福祉士の名誉にかけて、そうでない福祉施設があり、精神保健福祉士がいると私は信じている。

 

そしてこのような環境に出逢ったとき、各人の取る態度は二つに分かれる。

擦れて染まって魂売って、環境に支配される人間に成り下がるか、

擦れず染まらず魂売らず、どこまでもホンモノを追求する人間となるか。

八雲総合研究所は、後者に逞しきホンモノになってもらうための場所である。

2019(令和元)年8月16日(金)『直観鑑別』

外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「わ〜、これ、美味しい!」

「すっご〜い!」

「ははははは。」

などと何度も声を挙げている。

音量的に大きいは大きいのだが

大して気にならない。

何故ならば、発言に他意がないことがわかるからである。

本来特性である。

赤ちゃんが泣いているようなものだ。

(必要があれば淡々とマナーを教えてあげれば良い)

気持良く食事をいただいて店を後にする。

 

そして別の日、別の外食先で隣のテーブルに若いカップルが座った。

食事が始まると、女性の方が大きな声で

「あ〜、これ、何、何、何!?」

「美味し〜い!」

「〇〇〇(本人の名前)はねぇ。」

などと何度も声を挙げている。

音量的にも先の女性と同じくらいの大きさなのだが

その発言がいちいち癇(かん)に障(さわ)る。

発言の裏に動くものがある。

相手の男性はもちろん、音量が届く限りの人間を巻き込もうとする闇の意図が観える(本人が自覚しているか否かは別として)。

これは二次(後から身につけた)特性だ。

これに気づいてもらうのは、ひと仕事である。

この日居合わせた客にも料理人にも惨事であった。

 

もう何年も対人援助職として働いているのに、この両者の違いがわからない、という人がいた。

感度が鈍い。

余計な塵埃を払って、感度を磨き上げる必要がある。

 

またある人は、この女性両方に対して腹が立つ、と言った。

埋め込まれた「〇〇のときは〇〇すべきではない」に支配されているために、両者の表面的言動に反応し、その出所(でどころ)の違いがわからないのである。

これまた鈍い。

まず埋め込まれたものを除去する必要がある。

 

こういうことは、受け売りの知識をつけても、小手先の技術を学んでも、身につくものではない。

場を共にしたマンツーマンの指導、感化、薫習(くんじゅう)が必要である。

そして直観の精度は、この程度ではなく、無限に磨くことができる。

私が専門職に個人的な指導を行っている所以(ゆえん)である。

2019(令和元)年8月5日(月)『夫婦の温度差』

「夫婦の温度差」と言っても、夫婦仲がどうのという話ではない。

この夏の熱帯夜に、冷房をどこまでかけるか・かけないかの話である。

テレビで取り上げていたのを横目で観ていただけなので、その詳しい内容は理解していないが、気になる箇所が一点だけあった。

夫が暑がりのため夜間冷房をガンガンにかけて、寒がりの妻は寝袋で寝ているという話である。

うーん。

妻が夫に合わせるんだ。

まさか、オレさまにおまえが合わせて当たり前、と思ってはいないよね。

せめて妻が愛する夫のために自ら望んでしていると信じたい。

そうなると、夫婦の温度差の話は、冷房の話ではなく、やっぱり夫婦仲の話になって来る。

愛する相手であれば、相手にしんどい思いをさせたくないと思うよね。

例えば、小さな子どもと寝るとすれば、自分と子どもとどちらに合わせるかは明白だ。

それが妻でも子どもでも、少なくとも私には、相手に合わせさせておいて平気で眠れる神経はない。

などと思っていたら、うちはとっくに夫婦別々の部屋で寝ています、という方がおられた。

合理的ではあるが、夫婦仲としてはちょっと寒い。

少しでも傍にいたかったあの頃は今どこに…。

なんだかきみまろのようになって来た。

ちなみに最近のエアコンは、同じ部屋でも場所により別々の温度設定できるそうだ。

それが現代の無難な解決法なのかもしれない。

2019(令和元)年7月9日(火)『正しい地口(じぐち)の使い方Ⅱ』

拙欄にも人気ページがある。

例えば、2013(平成25)年12月27日付『正しい地口の使い方』は、いまだに閲覧者数がトップ3内にある。

「そうは烏賊(いか)の〇玉…」の話であるが、読者の方々はこんな話題が好きなのかしらん、と不思議な気持ちになる。

などと思っていたら、たまたま聞いていた三遊亭圓生の落語の中に、面白い地口のセリフが出て来たのでご紹介する。

「下衆(げす)の考えと猫の金玉は後から出て来る」

また「〇玉」の話ですいません。

これはまた変わった地口だ、というわけで由来を調べてみた。

どうやら、子猫においては生まれたときの性別がわかりにくく、オスの場合は、生後カ月経ってから睾丸が下降して体外に出、いわゆる〇玉となってオスであることがわかるようになるのだという。

猫の金玉は後から出て来る、というのは獣医学的事実であったのだ。

そして下衆の考えの方は、下衆=お馬鹿さんなわけであるから、すぐに考えが思い浮かばず、後になってから間の抜けた考えが出て来ても役に立たない、ということであろう。

こんなことを書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを何度も書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、

ここまで読んで来て今ごろになってそう言うのが遅いんだよ!

だから、下衆の考えと猫の金玉は後から出て来るってんだ! 二度と読むな! このバーカ!

…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

2019(令和元)年6月26日(水)『拾得物』

駅の構内でお金を拾った。

一万円札で二枚。

二つ折りの剥き出しで落ちていた。

駅員さんに届ける。

「拾得物の届け出、書かれますか?」

と訊かれたが、次の仕事の時間が迫っていたため

「ああ、いいです。」

と答える。

「拾得者のものになるかもしれませんよ。」

「いいです。いいです。」

そんな降って湧いたお金はいただかなくて結構。

今は働いて食べて行けるので十分だ。

急ぎ足で次の仕事に向かう。

そしてその日の仕事が無事終わった。

さて、宝くじ売り場に行くか。

おいっ!

2019(令和元)年6月23日(日)『表札』

「松田」の表札をつけている。

何でもないことのようだが、私には少しばかり意味がある。

かつて近藤先生から墨書の巻紙の手紙を戴いた。

その手紙そのものも有り難かったが、そこに込められたものが私にとってとてもとても有り難かった。

その文字にこもるものがある。

その封書に表書きされた「松田」の二文字を取った。

肉筆をスキャンし、檜の表札に焼き付けてもらったのである。

その表札は

大寺の門の金剛力士(仁王)像のように

悪しきものを退け

善きものを招き入れるのか。

いやいや、求める者を招き入れるという方がその役割らしい。

私を招き入れてくれたものがその文字の中に働いているのである。

しかしどこまでいっても、表札そのものは目印に過ぎない。

やがてその表札がなくても、今ここであなたにわたしに働いているものを感じよう。

そして初めて表札はなくなり、至るところ是れ法門となるのである。

2019(令和元)年6月9日(日)『八雲勉強会』

今日は新しく発足した八雲勉強会の第1回目。

4月までの二つの勉強会を統合し、新たな参加者を得、会場いっぱいのメンバーの顔を見たとき、ようやくここまで来た、と私的に感慨深いものがあった。

参加者は皆、面談で話をして来た人たちであるが、この集団にはかつてない「集団力」の兆しを感じたのである。

私が主宰して来た勉強会の歴史は結構長い。

形を変え、テーマを変え、名前を変え、二十五年以上になろう。

当初は私も若く、自分の問題に無自覚な参加者も多かった。

若いからそれもこれも引きずりながら突っ走れたが、まだ集団が成熟していなかった。

「集団力」とは、集団の参加者一人ひとりが成長することによって(私が介入しなくても)新たな参加者に対して、そして参加者相互に、感化力を持つようになることをいう。

集団が集団を育てて行けるようになるのである。

そうなれば理想的だ。

今はまだ「兆し」だけれど、ここに来てようやく「集団力」の芽生えを感じ、長くやっていると良いこともあるんだなぁ、という思いを強くした。

もちろんその力はあなたの力ではない。

あなたを通して働く力だ。

そこのところはしっかり押さえておこう。

それも踏まえて、さて、面白くなるのはこれからだ。

来月からも近藤先生の講演に刺激され、共に成長して行きましょう。

2019(令和元)年5月19日(日)『新緑の緑風苑ワークショップ in 磐梯熱海』

5月18日(土)19日(日)と福島県・磐梯熱海にて『新緑の緑風苑ワークショップ』を開催した。

天気にも恵まれ、気温は暑いほどで、冠名に相応しく、何よりも新緑が圧倒的であった。

ワークでは、前々回のワークショップではミュージカル映画、前回はムード歌謡と来て、今回は落語を素材として取り入れた。

私にとっても毎回がチャレンジである。

楽しみながら、体験を深めていただけたのであれば幸いである。

そもそも参加者は、ワークショップに参加するくらいだから問題を抱えているに決まっている。

しかし問題があるのは、あなたに後から付いた(身に付けざるを得なかった)神経症的な部分であって、本来のあなたには何の問題もない。

私が指摘するのも、あなたに後から付いた塵埃の部分なのである。

そこを自分本体が否定されたかのように誤解・曲解されませんように。

そこさえ押さえてしまえば、自分にはこんな問題あるよね、と正面から見つめ認めることが非常にやりやすくなり、それは成長への大きな武器となる。

今回も参加者によって作られたワークショップとなった。

各人が今なりの自分なりの精一杯で誠実に参加されたことに感謝したい。

そして最後にいつも思う。

面白くなるのはまだまだこれからだ。

また緑風苑で逢いましょう。

2019(令和元)年5月13日(月)『勁いのび太』

かの聖徳太子が『十七条憲法』の中で

「共(とも)に是(こ)れ凡夫(ただひと)あらくのみ」

と言われている。

要は、人間全員が凡夫(ぼんぷ)だ、ポンコツだけだ、と千四百年前に言われているのである。

前回の拙欄を読まれて

「本当に自分は凡夫だなぁ。」

と(ポーズでなく)心の底から思われた方は幸いである。

それを私は「情けなさの自覚」という。

そういう方々には大いに成長の可能性がある。

しかし

「そういう人いるよね。」

「自分は違う。」

と思われた方もいる。

中には“反応”した方もいるかもしれない。

そういう方々は今後、拙欄を読まれない方が良いだろう。

「情けなさの自覚」のないところに成長はなく、私との縁もない。

そしてその成長であるが、我々は元々が凡夫なのであるから、自分の意図的努力=自力で成長できるなどと思わない方が良い。

凡夫にできることなどたかがしれている。

頑張ってなまじっか少しでもできたりすると、すぐに増長する。

我は肥大しやすいのだ。

欧米の精神療法が自我の強化を目指して来たことに私は強い違和感を覚える。

のび太をジャイアンにしてどうする。

のび太はのび太のままで勁くなれる。

正確に言えば、のび太はどこまでいっても弱いのだけれど、弱いままで勁くさせていただける道があるのである。

それが他力。

その道はいくつもあるが

例えば、丹田呼吸。

最近になってアメリカで境界性パーソナリティ障害や心的外傷後ストレス障害の治療法の中に呼吸法が取り入れられ、日本に逆輸入されている。

日本人が言い出せば胡散臭がられるかもしれないものが、舶来になると重宝がられるというのも情けない話である。

しかし残念ながら、厳密には、深呼吸や腹式呼吸と丹田呼吸の違いがわかっておられない。

肚が据わらなければ意味がない。

呼吸によって肚を据わらさせていただけるのが丹田呼吸。

出る息で我が吐き出され

入る息で大きな力をいただく。

それは自分の力ではない。

しかし勁くなる。

勁いのび太になる。

Yes, I can なんて有り得ない。

凡夫は全員 No,we can't である。

そして有り難いことに Yes, he can なのだ。

He が I して世界は踊る。

今回はこれくらいで。

2019(令和元)年5月7日(火)『凡夫悲歎述懐』

“私”は本来

無力である

無能である

非力である

ヘタレである

ビビリである

見栄っ張りである

虎の威を借る狐である

卑怯である

しかしそれを認めない

ほんのわずかに認めたとしても

自分がこうなったのは他人のせいである

子どもがこうなったのも他人のせいである

独善他罰である

責任をなすりつけるのは大得意である

自分は被害者である

自分は悪くない

自分は正しい

それどころか

自分も未熟ですから、と謙虚なフリすらして見せる

偽善的である

狡猾である

虚栄心の塊である

ポーズはあっても本質的には何の反省もない

 

さぁ、みんなで唱えましょう

これが“私”の実相です。

 

でもね

全部バレてる

漏れてる

丸見えである

気づいてないのは自分だけ

愛想笑いのその裏で

世人から軽蔑と嘲笑に包まれていることさえ

気がつかない鈍感さ 

そして馬鹿は今日も踊る

 

それが“我々”凡夫の実相です

2019(令和元)年5月5日(日)『その人を観よ』

前評判というものがある。

噂話というものがある。

あの患者は面倒くさい。

あの親の方が重病だ。

などなど臨床場面でも、受診前に関係者からそんな情報が入って来ることがある。

しかし、経験的に言うならば、余り当たったことがない。

火のないところに煙は立たず、というが

現実には、尾ひれが付くどころか、羽根まで生えて飛んでいくようなガセネタも多い。

よって私は信じない。

むしろ自分の眼でその人を観、その人を感じるまでは、鵜呑みにしない。

情報過多の現代だからこそ、決して騙されてはならないと思う。

自分が近藤先生に出逢うまでも、近藤先生についていろんなことを言う人がいた。

しかし私はそう言っている人たち自身の人格を信じられなかったので

他者情報を排除し、自分で文献を読み、直接に近藤先生に逢って自分の感覚で師と決めた。

自分で決めたことなら自分で責任が取れる。

間違いはなかった。

そして自分の観る眼に自信をつけた。

騙されるな。

あなたもまたあなたの眼でその人を観よ。

2019(令和元)年5月4日(土)『Xさんへ』

「他者評価の奴隷」ということは度々申し上げて来た。

我が国においても、時代が令和になっても、他者評価を気にする方々がまだまだ多いように感ずる。

いつも先聖たちのことを思う。

イエス・キリストがどうであったか。

釈尊がどうであったか。

孔子がどうであったか。

彼らでさえ、酷い他者評価どころか、生死に関わる迫害まで受けて来た。

人格が高邁であれば、言動に気をつけていれば、誰からも評価されるというのは、残念ながら幻想である。

だとすれば、三聖に遠く及ばない我々が、悪意の攻撃や、病的非難に晒されることなどは当たり前なのである。

娑婆には、常に悪意の人、病的攻撃性の人間が存在する。

それは私の臨床経験からも断言できる。

それはカスタマーレビューや書き込みやクレームや苦情SNSなどを見れば、あなたにもおわかりでしょう。

だから振り回されることなかれ。

基本は、自分の評価は自分で決めることだ。

自分自身が一番厳しい自分の評価者であれば良い、本質的な意味で。

そしてもし他者の評価を採用するのであれば

その評価者を選ぶべし。

信頼する人以外は、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、即ゴミ箱行きであるし

反対に、信頼する人であれば、その評価がどんなに高くても、どんなに低くても、真摯に検討するべきである。

そしてその結果がどうであっても、人生単位でその責任を取れば良い。

あなたの人生の主人公があなたであることを忘れてはならない。

他者評価の奴隷、排すべし。

2019(令和元)年5月1日(水)『令和元年』

令和である。

だからなんだってんだ、と言われると、何とも言いようがない。

それでも少なくとも、改元、新年、誕生日、何周年、アニバーサリーデイなどというものは、心機一転のきっかけになる。

当研究所も、令和元年5月1日、本日をもって組織の大きな変更を行った。

昨秋ホームページ上で告知して以来、8カ月の移行期間を置いたので、今のところ、大きな混乱もなく経過している。

もし8カ月間も当ホームページをご覧になっていなかったというのであれば、それはもう縁が切れたということであり、

稀に、新たに決めた「対象」でないのに、自分だけは例外であろうと一人決めして、久しぶりに面談を申し込んで来られる方がいらっしゃる。

残念ながらお断りすることになる。

これから当研究所が何をするか、旗色は鮮明に示した。

極めてシンプルに、本気で「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、月1回以上通って来られる方たちとだけ面談して行くつもりである。

より明確に与えられた天命を果たす日々としたい。

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。