八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

例えば、あなたが生活習慣病(高血圧、糖尿病、脂質異常症など)になったとする。
医者からは食事療法を勧められる。
さて、あなたはどうする?

真面目な患者さんは、食事療法を粛々と励行される。
大したものである。

しかし、そんな人ばかりではない。
大抵の人は続かない。

よくある方法としては、普段は摂生して、たまにチートデイを設ける人がいる。
このときとばかり、好きな焼き肉、うなぎ、魚卵、ケーキなどを食べて、憂さを晴らす。
その楽しみがあるから、普段の摂生も耐えられるという。
それが実行できるのであれば、これもなかなか大したものだと思う。

中には強者(つわもの)もいる。
「食事は制限したくないので、お薬をお願いします。」
と言い切る。
一切我慢する気がない上に、
薬だけでなんとかしてもらおうというのである。
これもこれで大したものかもしれない。

そういう人ばかりではなく、
食習慣は変えず、
受診や健康診断を回避し始める人もいる。
現実逃避である。
それだけでなく自己破壊的な臭いもしてくる。
こればかりは大したものとは言えないな。
陰に(身体的ではなく、実は)メンタルな問題が見えて来る。

食事療法は、内科医や臨床栄養士などによって行われることが多いが、実は精神療法的な要素も相当必要なんじゃないかな、と私は思っている。
理性と意志の力だけで行動変容できる人は、そんなに多くない。
私の経験からすれば、体の声、生命(いのち)の声が聴こえて来るようになれば、動き出すものがあるのではないか、と思う。
私も、今のところ、生活習慣病にはなっていないが、もし罹患する日が来れば、我が身をもって試したいと思っている。
実地でなければ、空論に終わるからね。

 

 

テレビでPICU(Pediatric Intensive Care Unit:小児集中治療室)のドキュメンタリーをやっていた。
小児外科のドキュメンタリーを観たときも同じことを思ったが、画面を見ながら、自分にはできないな、と思った。
自分が治療に関わった子どもが目の前で死んで行ったりしたら、とても耐えられないと思ったからである。
もちろんそういう反応が多分に私の個人的問題に由来しており、
そもそも人間の力で人を生かしたり殺したりできるものではない、ということは百も承知である。

自分が感情反応を起こしやすい人間であることはよくよく意識して来た。
喜怒哀楽が大きく、長引きやすいのである。
感情反応が豊かなことを“深情け”と称して、むしろ良いことのように言う向きもあるが、行き着くところ、それは我の反応に過ぎない。
思い通りになれば喜び、思い通りにならなければ怒るか悲しむのである。

誤解のないように付け加えておくと、その我の反応が起きること、喜怒哀楽が起きること自体に問題があるわけではない。
何が起きても感じないようでは、それは不感症かよくある似非(えせ)悟りである。
そうではなくて、起きた感情反応が過剰であったり、尾を引くことが問題なのである。
健康な我は、サラサラと消えて行く素直な感情反応を引き起こすだけであるが、
病んだ我は、ネバネバとした過剰で長引く感情反応を引き起こす。

そういう意味で、多くの面では、お蔭さまで、健康な我を味わえるようになって来たが、子どもの苦しみや死だけは、いまだに私の中に病んだ我の反応を引き起こすのだ。
それがどこから由来するかは既に分析済みである。
しかし、知的にわかっていても、まだ体験的に解決されていないのである。
それが私の成長課題だな。

課題は永遠にあり、成長もまた永遠に続く。
そしていつも、こんなところに留まっているつもりはない。

 

 

「女の人の例ばかりだしたから、女の人にばかりこだわっているように受けとられるかもしれませんけれど、男の人にも同じようにあるんですよね。男性というのは非常に優越感を欲しがる。世の中には勝ち負けがあるので、自分が負けると大変なんです。つまり優劣意識、競争意識、そういったもので、自分がちょっとでも偉くなりたい。さっきの『ウソでもいいから愛してくれりゃいい』というのに対していうと、『ウソでもいいから偉いといってもらいたい』。偉そうにしていたい。だから、旦那さんのもっともいい操縦術は、うんとほめ抜くことですよ。…そういうと、『そんなことないよ』というけれども、ほんとうのところ大変よろこぶんですね。人間なんて考えてみれば愚かなものですよ。情けないかなそういう存在なのです。ね、ほんのちょっとでも優越したいですよ。…
このように人間というものは本来非常にくだらない価値観を持っている。その価値観というものを信じて執着する。自分はこうだと、こういうものが大事だと、これをですね、いちいちですよ、一人ひとりについてよく吟味してみなくてはいけないんですよ。それが自分自身にとってどんな意味を持っているかということを考えてもらいたいんですよ。
我々は、ふっつうはこんなことは意識しません。それを無意識といいますが、知らないうちにそういうことを考えているのです。…
しかしながら、自分の中に、いつもそういった何か、我々を支配しているこだわりのあることを認めるのが大事なのです。その意味で私の話を参考に聞いてほしいのです。…
といっても、私は、人間はある程度競争がないと進歩していかないもんだと思っています。…もう少し自分の才能を伸ばそうとか、そういった意味で健康的な競争もあるんですね。健康な競争ならその人間の能力を伸ばし、能力ばかりでなくその人の生命力を伸ばし、その生命をまた強くし、もっともっと伸びていくことになるんですけれども。でも、こだわりがでてくると、その生命の流れを逆に阻止してしまう。自分が伸びない。…
健康な競争は、お互いに刺激しながらお互いに伸びていく。ところがひとつこだわってしまうと、なんとかあいつをやっつけたいという敵意とか憎悪に変わります。人を引っ張りおろす、足を引っ張るともいいますけれども、そういうことをやりはじめるのです。
これがね、人間のひとつのあり方であると思います。私は人間がそんなにね、きれいにいくもんじゃないと思うんです。…人間の嫉妬というのは、自分よりも相手が健康だったら、自分より偉かったら、尊敬するんじゃなくて、憎む。そういう悲しい性(さが)を我々は持ってる。しばられ、とらわれてね、そして自分自身も不幸になっていくという悲しい性格があるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まあ、女もアンポンタンなら、男もアンポンタン。
今日もまた、くっだらないことにこだわって不幸になっていくんです。
やっぱりね、転機はね、あ~あ、いつまでも何やってんだろ、わたし/おれ、と“心の底から”思えるかどうかなんですよ。
それがなきゃあ、いくら言ったって、こだわりから逃れられません。
「情けなさの自覚」、それがどれだけ徹底するかどうかにかかっています。
情けないなぁ、ダメだなぁ、バカだなぁ、トホホのホ。
徹底すれば、なんとしても今の自分を乗り超えて行きたい、という「成長への意欲」が(頑張ってでははなく)自ずと湧いて来ます。
そうなったら、相談にいらっしゃい。
代わりに乗り超えることはできないけれど、あくまで乗り超える主人公はあなただけれど、できる限りの支援を致します。

 

 

参院選が終わった。

ここで政治談議を始めるつもりはないが、参政権は国民の三大権利(他は生存権、教育権)のひとつでもあり、選挙権を正当に行使するためにも、それ相応の政治的見識と情報を見極める力(今どきのカタカナ文字は好きではないが「情報リテラシー」がそれに当たる)が重要な時代になったな、ということを痛感する機会となった。

見識に乏しく、情報を見極める能力がなければ、その結果として選ばれた政治家による悪政に支配されたとしても、それは自業自得というものである。

しかしここで「新聞を取りましょう」「ニュースを見ましょう」などと“オールドメディア”系の面倒臭いことを言い出すと、(特に若い人たちには)すぐに嫌厭(けんえん)されてしまうので、ごく簡単なことから申し上げれば、スマホで見られる情報で全然OKなので、複数の情報を比較してみましょう、ということである。SNSでも動画情報でも、とにかく最初から狭い特定情報に偏頗(へんぱ)しないこと。ちょっと比較してみることが、あなたの見識と情報を見極める力をちょっと高めてくれると思いますよ。

それでも、万が一おかしな情報に洗脳されて、まんまと良いように使われてしくじっちまったとしても、大けがさえしなければ、人生勉強になる。
気がついたら修正すれば良いのである。
とにかくあと一歩。

 

で、あなたの地域の次の選挙はいつでしょうか?

 

それが何だって構わない。
その機会もまた、あなたが人間として豊かになる好機にして行きましょうね。

 

 

 

しまくとぅば(島言葉)でいうところの
「なんくるないさー」
は有名であるが、その真意については諸説あるらしい。

ここでそれを一つひとつ挙げて比較検討する気はないが、ある八重山人(やいまんちゅ)が言われていたことが、自分にはしっくり来た(きっと地元の人々の中にもいろいろな意見があるのだろう)。

「なんくるないさー」
は、字義通りに解釈すれば、
「なんとかなるさ」
となるのだが、彼の感覚によれば、それよりも
「なるようになるさ」
の方が近いという。

また、そう言うと、最初からてーげー(テキトー)にやっておけばいい、というような、投げやりな感じに取られがちであるが、彼によると、それも間違いで、
「やるだけやってから初めて『なんくるないさー』と言う資格が生じる」
というのだ。

ほう。大分ニュアンスが変わってくる。

そういう意味になると、彼の言う「なんくるないさー」の真意は、一昨日、昨日と申し上げて来た

なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせする

と非常に近いことになってくる。
今は多くの人が知っている「なんくるないさー」という言葉の真意が、一段と深まった気がした。

今日までの三日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

自力を尽くして、あとはおまかせ。

まず、最初からいい加減ではなく、自力は尽くさねばならないが、自力で何でもできると思うなよ、思い上がるなよ、我を張るなよ、ということである。
そして最後は、何がどうなろうと(あれはいいけどこれはイヤだと言わず)、我を超えたところにおまかせするしかない、ということをよくよく思い知らなければならない。

 

 

テレビで若いお父さんが、子どもの運動会について 
「“万全の状態”で臨んでほしいですね。」 
語っていた。

ああ、若いな、と思う。
恐らく自分の仕事でも大事な商談には“万全の状態”で臨もうとするのであろう。
そういう私も受験前などは、どうやって受験当日を“万全の状態”で迎えるかと気をつけていたのを思い出す。

そんなことも、ほのぼのと「そうだったらいいな。」くらいに願うことは否定しないが、
それが「そうでなければならない。」に近づいて来ると、ちょっと神経症的な様相を帯びて来る。
実際、“万全の状態”でないと、イライラと不機嫌になってくる人も存在するのだ。

本当を言うと、“万全の状態”などというのは、「理想」、いや、限りなく「空想」の産物であって、現実にはなかなかあり得ない。

働くお母さん方はよくご存知であろう。
会社の大事なプレゼンがある前夜、子どもが熱を出して吐いた。
ああ、これで寝不足は決まりだ。
そうでなくても生理痛がひどい。
そんなことは日常茶飯事なのだ。

また、ある金メダリストが言っていた。
明日はオリンピックの決勝だ。
それこそ“万全の状態”で臨みたいのは山々だけれど、ここまで来るのに体に故障がないわけがない。
痛みのない日などないし、鎮痛剤の効果もないよりましくらいに過ぎない。
“万全の状態”どころか“不調を抱えながら”が当たり前なのである。

ここでも、
「思い通りに」“万全の状態”であることにこだわるのか、
「思い通りにならない」“不調込みの状態”を受け入れるのか、
昨日と同じ話になって来る。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

二日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

最後はおまかせ、ができるか否かで、人生の様相は大きく変わるのである。

 

 

ラグビーボールがどうしてあんな形をしているのかというと、元々が豚の膀胱を膨らませたものを使っていたから、というのは結構有名な話らしい。
それにしても扱いづらい形をしている。

あるイングランドのラグビー選手が、だからこそどうやってそのボールを自分の思い通りに操るかというのが大事なんだ、と言った。
彼はグラバーキック(地面を這うようにボールを転がすキック)を得意としていた。

それに対し、ある日本のラグビー選手は、思い通りにならないことこそ面白いんだ、人生と同じようにね、と言った。
彼は癌闘病を超えてプレーしていた。
(そう言えば、故平尾誠二氏も同じことを言われていた)

扱いづらいラグビーボールを前に
なんとかして思い通りに扱おうとする選手と
思い通りにならないことを受容する選手。

なんだかいつもお話しているのと近い話になって来た。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

「ラグビーは人生だ。」
と言う。
それは
ラグビーの学びを人生に活かし、人生の学びをラグビーに活かす
という意味なのかもしれない。

 

 

ニュースで「体感治安」という言葉を聞いた。

面白い言い方があるもんだと思って調べてみると、人々が主観的・感覚的に感じる治安の状態のことを指し、客観的・理性的なデータ(犯罪件数など)に基づく「指数治安」とは対をなしている言葉だそうな。

例えば、
「首都圏で闇バイトに関連した強盗事件が相次ぎ、国民の体感治安が著しく悪化している。」
などというふうに使われる。

ここで何が気になったかというと、こういう言葉があるということは、我々は客観的データに基づいて生きているわけではなくて、多分に主観に基づいて生きているということだ。
「指数治安」がどんなに改善しても、「体感治安」が改善されなくては、我々の日々の具体的な心持ちは安心できないのである。

これは私の専門分野にも直結した話である。
「体感不安」という言葉こそないが、
どんなにコロナの感染者数が減っても、コロナ恐怖の人は恐くてしょうがない。
どんなに大丈夫だと理論的に説得されたところで、予期不安の強い人の「ああなったらどうしよう「こうなったらどうしよう」という不安の先取りは払拭されない。

理性ではなく、まず感情が落ち着かなければならない。

従って、百の説得よりも、彼氏(彼女)にハグしてもらったら不安がなくなったり、
丹田呼吸をしたら不安が減ったりするのである。

「体感治安」という言葉は
「感情には(理性でなく)感情を」
という重要な原則を思い出させてくれた。

よって、頭記の問題に戻れば、「指数治安」を改善させる現実的治安対策を講じながら、例えば、颯爽たる(←これ、結構大事)地域警察官が(特に夜間)パトロールしてくれる露出が増えたら、「感じの良いおまわりさんを夜見かけると安心するよね~。」と「体感治安」が向上するかもしれないのである。

 

 

来たる8月10日(日)開催の「第67回 八雲勉強会 by Zoom」の前半において、いつも通り、近藤章久先生の文献資料「ホーナイ学派の精神分析」に基づいた勉強会を行っていきます。

その中で、今回取り上げる「治療」の資料内容が特に良いので、令和7年度会員の方々には是非楽しみにしておいていただきたいと思いますし、会員でなくても、精神療法/心理療法に関心のある方、対人援助職に就いておられる方には、この機会に是非参加をお勧めしておきたいと思います。

単発参加をご希望の方は、面談時、あるいは、メールにて松田までお申し出下さい。

少なくとも私は医学論文や文献を読んで、専門知識的に「勉強になった」「読んで良かった」と思う論文や文献にはたまに(それでも「たまに」ですが)出会ったことがありますが、まさか「感動する」論文や文献に出逢うことがあるとは思っていませんでした。
今回もそのひとつと言えるでしょう。

真夏のひととき、普段の生活や知識的な勉強の中ではなかなか感じられない感覚を共に味わえる機会になればと願っています

 

 

「『こだわり』といいますと、だいたい人間というもはだれでも、こだわりを持って生きていくのが人生。人生はむしろこだわりの連続みたいなところがあります。…私の患者さんに、女の方で、五十二、三歳…で、小さいときから、何をいっても認められないという状況を経てきたということですが、まあ、それでいろいろありました。…そこで私がいろいろとお話をしたり、うかがったりしてみますとね、心の奥にものすごい葛藤があることがわかりました。それは自分の母親に対する強い憎しみですね。なんとかして自分の子どものときにひどいめにあったことの仕返しをしたい。そういう気持ちが非常に強いわけですな。それが、いちばん深いところにある。しかしだれにも話していないのです。自分が五十いくつになっても、もうそろそろ耄碌(もうろく)しはじめている年とった母親に対して、憤り、憎しみを持っているわけです。…
しかし、ここでちょっといえることは、五十いくつになっても小さいときのそういう体験、母親が自分に対して行った不当な行為、ともかくそういうものに対して非情にこだわる。…なんでそんなことにいつまでもこだわるんだということになるかもしれませんけれども、子どものときに受けた心の傷というのは、いつまでも残る、そういうことがあるものです。…
女の人は、人の態度とか、それから相手の、まあ、相手といっても自分の好きな相手ですけどもね、その愛情、こと愛情に関して非常にこだわりがありますね。愛することもそうですが、愛されたいという気持ちが強い。愛されたいという気持ちが強いために、ある女の人が『ウソでもいいから愛してるといって』なんてことをいってる。『ウソとわかっていても、その言葉をいってほしいの』なんてことをいいます。これは、僕は非常に正直な女性心理だと思っています。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず大切なのは、何かにこだわっている自分に気づくこと、認めること。
それがないことには何も始まりません。
そして、どんなにこちらがこだわっても、それは相手があること、状況があることですので、残念ながら、なかなかこちらの思い通りにはなりません。
よってそこに、思い通りにならない「苦」が生じます。
そうすると、その「苦」を解決するための方法が二つあります。
ひとつは、相手や状況を思い通りにするために、さらに頑張ってなんとかしようとすること(しかしこれはなかなかうまくいきません)。
そしてもうひとつは、そんなことにこだわっている自分の方を消して(薄めて)行こうとすること。
後者のためには、そんなことにこだわっている自分が情けないなぁ、という自覚が必要です。
即ち、
自分が何かにこだわっていることに気づくこと、認めること。
そして、そんなことにこだわっている自分を心底情けないと思うこと。
そうして初めて、そのこだわりを乗り超えて行くにはどうしたらいいか、という道が開けて行きます。
そうして今回は、女性が陥りやすいこだわりのひとつとして、「愛されたい」が挙げられています。
さて、女性のあなたには「愛されたい」というこだわりがありますか?
それに気づいていますか?
そういう自分を心の底から情けないと思っていますか?
そしてそのこだわりを乗り超えて行きたいと本気で願っていますか?
そんなふうに見つめてみて下さい。

 

「モウムリ」と言っても、退職代行の話ではない(それは「モームリ」)。
先日、ある精神科医療保健福祉関係の会合で、ベテランの関係者たちが話しているのが聞こえて来た。
「60代になってまだ引きこもりやってるようだったら、もうそれでいいんじゃない。」とか、
「50代までそうやって演じて生きて来たんなら、そのまま行ってもらいましょうよ。」とか、
「気づかないんだったら、敢えて手をつけなくていいんじゃない。」などという発言が繰り返され、
それが私には、「もう無理」なんだからいいんじゃないの、と聞こえて来たのである。

しかし、それはその人たち自身の「敗北主義」的発想に過ぎない。
人間観、人生観が、根本的に否定的で貧しいのである。
それが自分の人生なら自業自得で仕方ないけれど、対人援助職者として当事者に関わるのであれば、大変な迷惑となる。
「もう無理」の烙印を押されて以降、ゾンビのような、生きてるんだか死んでるんだかわからないような人生に対して行う「支援」などというものはない。

以前にもお話したが、80代の女性で、3回の面談で劇的に変わった方がいた。
このままニセモノの自分で死んで行くのがイヤで、必死の覚悟を持って面談を申し込んで来られたのである。
その方に比べれば、50代、60代は、まだまだハナタレ小僧である。
「もう無理」なハズがない。

私は、死ぬ瞬間まで人間は成長する可能性を持っている、と信じている。
いや、信じているのではなく、それが絶対的な真実なのである。
苗木にも老木にも太陽の光は、分け隔てなく、降り注いでいる。
さらにさらに成長せよ、と降り注ぎ続けているのである。

 

 

昨日のハイブリッド勉強会の中で、ふとパソコンのモニターの Zoom 画面(ギャラリー設定)を見ると、参加者全員が笑顔でいる瞬間があった。
そんなシーンは、今までも数え切れないくらいあったはずなのだけれど、何故か昨日はとても印象に残った。
全員が(あたかも子どものように)すごく自然な笑顔だったのである。

参加者の方々にとっては、面談のように1対1で話しているわけではないし、参加者が多いほど、自分が見られている感が薄く、結果的に、参加者一人ひとりの気持ちがそのまま表情に出やすい環境にあったのかもしれない。
また、そもそもがあの勉強会であるから、参加者が本来の自分を出して来ることは、歓迎されることはあっても、非難・攻撃されることはない。
そこから来る安心感もあったかもしれない。

やっぱり人が集まる空間は、安心と成長の場であってほしいと思う(もちろん成長のための緊張感は必要であるが)。
残念ながら、現実の職場やら、学校やら、地域では、なかなかそうはいかない。
そこで、せめて、こういう勉強会やワークショップの場面では、本来のあなたが出て来ることを促し、歓迎したいと思う。
その意味で、あの笑顔は最高だったのである。

だけれども、そういう集団の場面は、私一人では作ることはできない。
参加者全員で作るものだ、ということを改めて共有しておきたいと思う。

ではまた次の勉強会で、本来のあなたと本来のわたしで出逢える場面を一緒に創って行きましょう。

 

 

今日は、ワンシーズン=3か月に一度のハイブリッド勉強会。
今回のテーマは、『丹田呼吸について』

丹田呼吸。
なんとなくわかっている、のをもう一歩
なんとなくできている、のをもう一歩
進むために、このとても重要なテーマを取り上げた。

詳細は割愛するが、
呼気(吐く息)で、無我を感じ、
吸気(入る生き)で、他力を感じ、
丹田に肚が据われば、私が私を生きることができる。

かつて小さくて弱かった我々は、親や大人たちから感じる不安と恐怖によって魂を売って来た。
それが大の大人になっても、いまだにやめられない他者評価の奴隷。
いつまで、うわぁ、やられる、責められる、怒られると、ビビる、ヘタレる、怯(ひる)むのか。
あなたはあなたを生きるために生れて来たのだから、肚の据わった自分を生きるしかないのだ。

というわけで、今回参加された皆さんは、今後折に触れ、丹田呼吸によって何を感じたのか、何を体験したのかを教えて下され。
さらにさらにホンモノの丹田呼吸に近づいて行こう。
これはやるしかないんです。

 

◆今後について
今日、参加者の希望を伺って、今後は、年10~11回の八雲勉強会(参加者全員リモート)と年1~2回のワークショップ(参加者全員対面)の組み合わせにすることに致しました。

希望者が一番多かった年2回のワークショップ開催は多いかな、と思いましたが、思い出してみれば、コロナ前はそれが“普通”でした。そうだった、そうだった。恐るべし、コロナの影響。
ワークショップ開催についての詳細はまた後日お知らせ致します。

 

 

後輩精神科医のところに不安障害の患者さんが受診されたという。

不安で不安でしょうがない、と言われるので、後輩は、まずお薬を使って気持ちに余裕を作り、それからゆっくりお話しませんか、と提案した。
薬物療法で余裕を作り、精神療法で問題の本丸に迫る、というのは、治療のスタンダードである。
(もちろん薬を使わなくても内省できる余裕があれば薬は使わないし、ただ薬を使うだけで精神療法を行わなければ問題の根本解決にはならない)

しかし、その患者さんが、メンタルの薬を飲むのは恐いから飲みたくない、と言われたという。
まだ若い後輩は、えっ、そんな人がいるのか、と驚いたそうだが、精神科外来ではままある話である。
じゃあ、お薬なしで我慢するしからありませんね、と言うと、患者さんは不満げで、薬なしですぐに楽にしてほしいという。

ここまでだけでも、いろんなことがわかる。
この患者さんが持つ、他者に対する(この世界に対する)基本的不信感(だから薬なんて恐ろしくて飲めない)、望んだことがすぐに全部思い通りにならなければイヤだ、という自己中心性。
これだけでも相当なテーマになる。

まずは、世の中は全てが思い通りにならず、思い通りにならないことを抱えて生きて行けるようになることが、治療の第一歩である。
そして、他者への(この世界)への信頼を取り戻すのが第二歩。
そうでない限り、この人の不安は続くだろう。

「それ以前にまず、自分にそういった解決すべき問題があると認められるかどうか。そして認めた上でその問題と向き合い、解決して行く気があるかどうかですね。」

後輩くんの言う通りである。

「情けなさの自覚」と「成長への意欲」というのは、「成長」においてだけでなく、「治療」においても大原則なのであった。


 

 

面談に来ている臨床心理士の人から、先生にところに通っていると、心理療法の個別指導を受けているみたいですね、と言われたことがある。

確かに、その人がセラピーを行っているクライアントのことを具体的に伺って、私がコメントするという、その形態は、先生一人対生徒一人の個別指導塾に似ているかもしれない。
決して集団指導ではない。

しかし、個別指導塾と決定的に違うのは、そこで問題を解くためのノウハウ=クライアントの問題を解決するためのノウハウを教えているのではなく、セラピーを通じてその人自身の人間としての成長を個別に求めて行くところにある。
数学の問題を解くのに、生徒に人格を求めることはないが、
本物のサイコセラピーを行うためには、セラピストに人格的に求められることは甚大である。
果たしてそこを求めて、いや、そこまで求めて来られるかどうか、それが当研究所の(他と違う)最大の特徴と言える。

そんなことまで求めている人が、果たしてこの精神科医療保健福祉の世界にいるのか、と心配になったこともあったが、いざ開業してみると、有り難いことに(決して圧倒的多数ではないが)、いらした、いらした、奇特な方が。

まさに頭記の人も、そう言いながら、自分自身の成長課題や問題とよく向き合っておられる。
ならば、それは「個別指導」というより(大時代的ではあるが)「嗣子相伝(ししそうでん)」(継ぐべき人に継いで行く)という表現の方が近いかもしれない。

同じことを大切だと思う人に、人間の成長の真実を伝えて行く。

まだまだ私も伝えて行く気満々である。
あとは求めるあなたにお逢いしていくだけだ。

 

 

『論語』の中に、孔子の弟子である子路の学ぶ姿勢について書かれた件がある。

「子路、聞くこと有りて、未(いま)だこれを行うこと能(あた)わざれば、唯(た)だ聞くこと有らんことを恐る」
(子路は、孔子から教えを聞いて、まだそれを実践できないうちは、新しい教えを聞くことを恐れた)

やんちゃなことをやらかしては師に諫められることの多い子路であるが、人間が一本気であるため、愛すべきところも多い人物である。

師の教えを聞いただけで、すぐにわかったような気になる弟子が多い中で、子路は、聞いたことを実践できないうちは、即ち、それが体得できないうちは、次の教えを聞くことを恐れたのである。
実に立派な姿勢だと思う。

また、同じ『論語』の中に

「君子は其(そ)の言(げん)の其(そ)の行(こう)に過ぐるを恥ず」
(君子は、自分の発言が実際に行えている以上になることを恥じる)

という言葉もある。

小人は「言」の方が「行」よりも先行しやすい。
実践できていない、体得できていないくせに、できているかのように言うことを戒めたのである。

これらの言葉が胸のうちにあった私は、近藤先生の面談を受けていた頃、あのこと、このこと、訊きたいことは山ほどあったが、「ああ、それについては、まだ頭の先で知っているだけで、体得できていない。私に訊く資格はない。」と思い、口にしなかったことがたくさんあった。

今も、その姿勢が間違っていたとは思っていないが、少しばかり後悔がある。
思い上がって、できてもいないくせにわかったようなことを言う口先男、背伸び男に堕したくないのは同じであるが、

思い上がりではなく、将来、自分が成長したときのために、より深遠な境地についてもっといろいろ伺っておけば良かった、という後悔があるのである。

師が亡くなられてから二十六年経つ今、流石に私の境地も当時よりは成長している。
ああ、あの時、今のためにあれを訊いておけば良かった、と思うことがしばしばある。
たとえ当時、その真意がわからなくても、今の自分(未来の自分)ならわかるかもしれない、と思うからだ。

そして後悔しつつも

「遍界(へんかい)曾(かつ)て蔵(かく)さず」(『景徳伝灯録』)
この世界は真実を隠したことはない)

という禅語にある通り、近藤先生はいらっしゃらなくても、真実はこの世界に満ちている。
後悔はやめて、この世界から今ほしい真実を見い出す眼を養わなければならない、と思っている。

 

 

「私は海が好きです。そこで、ちょっと疲れたとき、車を運転して海岸のほうをドライブするのです。そうしてずっと海のそばへ行ってね、じーっと海を見つめる。夜ですけれど、波の音を聴いているのですね。静かに聴いていると、生きている海のいのちの音が聴こえてくる。海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。
また、私は山へ行くのも好きなんですね。山でひとりで、それこそ松籟(しょうらい)の音といいますか、森にいますと松をサーッと風が吹き渡る。これが松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。…
みなさんにすすめたいのは、なかなか自分の心の響きが聴こえなかったら、できるだけそうした自然のなかに自分をもっていってみる。そこには何の脅威もない。そこには何の嘘もない。欲も、得もない。。金欲の世界も、名誉の世界も、嫉妬の世界も何もない。そこでは、すばらしい自然が、すばらしい交響楽のように大きい響きを伝えてくる。その響きに自分の体をさらし、それに共鳴する自分のいのちの響きを聴いてみる。ことに若いときからこれをやっていると、一生そのよろこびを持てるような生活に入れると思うのです。
しかし、若い人ばかりじゃあない。あなた方ご自身、こうやって現実の生活のなかで一生懸命奮闘しておられる方々にこそ、これは必要じゃないでしょうか。最近は、中年以上の人たちは、たいてい仕事でストレスを感じています。解消法といえば、お酒。一杯飲むと、いい気分になる。ウフンとなる。でも毎日やってはダメです。どうしても胃腸と肝臓にくる。四十から越して五十過ぎになるとたいてい肝臓をやられますね。胃か肝臓、あるいは高血圧症かどっちかである。男は十八が絶頂であると思えばよいので、十八以後はみな頽齢(たいれい)、老齢にどんどん進むのです。だから、俺はまだ大丈夫と、徹マンなんかやっているのは、自分のいのちを尊敬することにはならないと思う。そういうことよりも、お互いにハッキリ自分のいのちの翳(かげ)りを感じて、お互いがお互いのいのちを尊敬し合うときに、ほんとうにお互いを害することのない、争いのない、真に平和の時代がくると私は思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のこころの響きが聴こえないとき、自分自身を自然の中に連れて行ってみる。
そうして、
海では「海のいのちの響きを聴く。それに応えるように、自分のいのちが共鳴するのです。」
山では「松の息、風の声、生きている響き、いのちの響きがサーッと自分のほうに伝わって心を動かす。自分のいのちがそれに共鳴していくのです。
飲む(アルコール)・打つ(ギャンブル)・買う(性的快感)でちょろまかすのも、もうやめにしませんか。
金銭欲、物欲、名誉欲、権力欲を満たすことによって得られるペラッペラの自我満足に浸るのも、もうやめにしませんか。
そんな浅薄なものを超えて、あなたが、わたしが、縁あって出逢う人たちすべてが、自分に与えられたいのちの響きを、そして相手に与えられたいのちの響きを、共に感じるとき=共鳴するとき、あらゆる存在が揺さぶられ、この世界全体が、とても大きくて豊かな
交響楽として感じられることになるでしょう。

 

 

道の角に小さな石仏があった。

今は住宅地の世田谷も、かつて田畑や林に覆われていた名残であろう、散策していて不意に道端の石仏に出逢うことがある。
大体は四角柱の一面に仏像がレリーフ状に彫られた小さなもので、その何とも言えない拙さから、専門の仏師の手によるものではなく、名もなき農民が彫ったものであることが容易に察せられる。
たとえ技術的に拙いものでも、長い間多くの人に拝まれて来た仏像には、独特の霊的風格が宿ってくる。

そしてある日、その角にさしかかったところで、3歳前くらいの女の子がその石仏に手を合わせている姿が見えた。
親に教わったのか、たまたまそうしたい衝動に駆られたのか、しかし、一心に拝んでいるその姿は、あたかも仏が仏を拝んでいるように観えた。

ふと気がつくと、その女の子の斜め後ろ数メートルのところに、80代と思しきおじいさんが立っている。
そしてそのおじいさんもまた手を合わせて拝んでいた。
その角度から、そのおじいさんが手を合わせているのは、石仏に対してではなく、その石仏と女の子の両方であることが見て取れた。
ああ、私と同じことを感じているんだな。

そしてそういう私もまた、その石仏と女の子とおじいさんに対して手を合わせていた、というより、自ずと手が合わさった。
さらにこの一仏と三者の姿に気がついた四番目の人がいるかもしれない…キリがないな。

「唯佛与佛乃能窮盡(ゆいぶつよぶつないのうぐうじん)」(『法華経』)

ただ仏のみが真実を究め尽くすことができ、凡夫にはできないというけれど、
ふと凡夫が仏になる瞬間があることを、そして本来仏であったということを、忘れてはならないと思う。

 


 

ある青年が受診して来た。

虐待親の許を脱出し、一人で踏ん張って生きて来た。
生育環境のせいもあって人間関係がうまくいかず、就職しては退職し、生活保護になったり脱したりを繰り返していたが、働くことへのチャレンジはやめなかった。
また、母親からの連絡もすべてシャットアウトし、辛くても弱みは見せなかった。
そういう彼の姿勢を私は買い、いつも応援していた。

それが、である。
ある受診の日、母親同伴で外来に現れたのである。
一方的に勝手なことをしゃべり続ける母親の横でうなだれている彼に、あんなに頑張っていたのに、どうしてこんなことになったのか、と訊くと、
「しんどかったです。」
と消え入りそうな声で言った。

そうか。
魂を売ったのね。
服従と引き換えに保護してもらう道を選んだのである。
しかし、この母親の支配の下で、どんな未来が描けるというのだろうか。

八雲総合研究所では絶対に起こらないことであるが(対象外であるため)、
臨床ではいろんなことが起こる。

お蔭さまで、私も気が長~く、タフになってきた。
果たして彼に再チャレンジの日が、自立の日が、来るのか来ないのか。
それでも、死ぬまで、彼の可能性を信じないわけにはいかないのである、死ぬまでは。

 

 

自分で言うのもなんだが、対人援助職者には変わった人が多い。
普段から、その人のまわりに人の輪ができるような、健康な魅力のある人は少なくて(失礼)、
医療、保健、福祉、教育、保育など、その職業に就いたならば、他者から必要としてもらえて、それで孤独にならないで済んでいる人も結構いるのではなかろうか。
むしろ、個人的魅力では人にかまってもらえず(また失礼)、他者にかまってもらうために、そのような対人援助職に就いているんじゃないかと思う場合さえある。
それじゃあ、結局のところ、対人援助のためではなくて、自分のさみしさを紛らわすために、その仕事をやっているようなものだよね。
だから、その職業的役割が済んだ途端、スッと人がいなくなる。
なんだか悲しい話になって来た。

近所の居酒屋にカウンターがあって、そこに高齢のお客さんが一人で来ている場合がちょくちょくある。
時に、この人、本当に話し相手がいないんだなぁ、と思うくらい、店のマスターや女将さんを捕まえて、延々と話をしている人がいる。
マスターや女将さんがちょっと困っている様子もわからないようだ(というより、多少気がついていても、しゃべりたいのをやめられないのかもしれない)。
これもまたお金を払って客になることで、相手をしてもらうのであれば、ちょっと悲しい話になってくる(ホストのお兄さんやホステスのお姉さん相手の場合も五十歩百歩か)。

でもね、職務上のつながり、接待的な対応、枯れ木も山のにぎわい、いないよりまし、くらいの交流だったら、それもまた薄っぺらいんだよね。
本当にほしいのはさ、紛れもなくあなたがいて、紛れもなく私がいて、本音と本音とでがっちりかみ合うような交流なんじゃないかな。
そのために、あなたが、わたしが、今からできることは何かというと、まず自分自身が本当は何者かということをしっかり掴んで、それを表現していくことだよね。
そうすれば、出逢うべき相手も、きっとあなたを見つけやすくなるだろうと思う。

埋め草やちょろまかしは、余計にさみしくなるから、やめませんか。
本当の関係で初めて、さみしさは埋まるのだと思う。

 

 

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医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。