八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

人間が自分の寿命のことを本気で考えるようになるのは、
大病や大きな事故・被災などを除けば、
四十歳過ぎくらいからではなかろうかと思う。

近藤先生はよく
寿命のことを考えるのは、
平均寿命の半分を過ぎたあたりか、
二親(ふたおや)が死んだ頃からじゃないかな、
と言われていた。

前者は、寿命を「あと何年」と数えるようになる年齢であり、
後者は、死への防波堤であった親がいなくなり、自分が直に死と向かい合うようになる年齢である。

蓮如上人は

「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法の事は、いそげいそげ。」

と言われ、早くにこの世界の真実を見い出すことを求められた。
若い頃は、そんなに焦らなくても、と思ったりしていたが、
年齢を重ねると、この一年、この一か月、この一週間、この一日の貴重さが実感を持って迫って来る。

ニセモノの自分、仮幻の自己を悠長に生きているヒマなんてないんだよね。

元より世俗的な成功や長寿などは、どうでもいい。
自分が今回、自分に生まれた意味と役割を果たしたか、果たしているか、本当の自分、真の自己を生きているのかが問題なのである。
そういう自覚によって、今この一瞬が濃くなるのであれば、寿命があることも、そしてその中で年を取ることも悪くないと思う。

 

 

二十代の頃だったろうか。
知人が
「まっちゃん、話を聴いてくれよ。」
と言って来た。
格段親しい男ではなかったが、伏し目がちにそう言う彼には、ただならぬ雰囲気があった。
「いいよ。」

そうして彼は話し始めた。
彼にはずっと片思いの女性がいたそうである。
悩み抜いた末に、思い切って彼女に声をかけ、今日、喫茶店で逢って来たのだと言う。
結局、踏み込んだ話はできないままに終わり、アパートに帰って来たのだが、洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、ハッとした。

「どうしたんだ?」
という私の問いに、彼は自嘲気味に答えた。
「ブレザーの左襟が立ってたんだよ。」

一瞬にして彼の言いたいことがわかった。

彼が彼女と逢っていた間、ずっとその襟は立っていたわけだ。
彼女はそれを直さなかった。
少なくとも指摘もしてくれなかった。
それが彼女の彼に対する関心の度合いであった。
彼がそんな格好で街を歩いていようと、どうでも良かったのである。

それが答えだった。

当時の私がうまいこと言えるわけもなく
ただ
「辛いな。」
と言うと、
彼はしばらく黙ったあと
「ありがとう。」
と言って、席を立って行った。

 

ブストーリーの映画を観ていて、何十年ぶりかでそんな話を思い出した。
胸の中がチクチクする話だった。


 

 

「大巧(たいこう)は為(な)さざる所(ところ)に在(あ)り」(『荀子』)

こんな言葉に触れると、ああ、東洋だな、と思う。

例えば、精神療法において、ああ分析して、こう戦略を立てて、こういうセリフを使って、あっちに持ってって、こう気づかせて、こんなふうに変わらせる、そんな手練手管(てれんてくだ)の、テクニック(技術)とスキル(手法)の精神療法が行われている。

いかにも自我の立った、「私」が「あなた」を操作する、「私」が「あなた」を治す、やり方である。
その点で、西洋の自我中心主義の臭いがプンプンする。
実際、そんな精神療法が多い。
それで本当に人間が変わったり、成長したり、救われたりするのであろうか。

それに対し、「自我の強化」どころか「無我」を志向する東洋では、そういう「自我」の「はからい」を嫌う。

「大功」の「大」は「人間を超えた力、働き」を表す。

「大功は為さざる所にあり」
人間を超えた力が働き、大いなる巧みさが実現するのは、人間が何もしないところにおいてである、というのだ。

人間が何もしない=「私」が何もしない=「自我」が余計なことをしないときに、人間を超えた力が働く。
そうして、何かを言う、言わされるときがある。
それで、人が変わる、成長する、救われるのである。

例えば、良き仏像を観ていても思う。
ああ、これは仏師が作ったのではなく、仏師が作らされた仏像だなと。

そして、西洋の名誉のために付け加えるならば、
『新約聖書』において

「何を言はんと思ひ煩(わずら)ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん」
(何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる)

とある。
やはりわかってらっしゃる方はわかってらっしゃる。

大功(大いなる巧みさ)は、そういうところで実現されるものではなかろうか。

 

ある海外ドキュメンタリー番組の中で、女性獣医がポツリと

「人間は他の種(species)と関係を持ちたがる動物だ。」

と言った。
このひと言が妙にこころに残った。

「確かに。」

ペットのことを思い浮かべればわかるように、人間はいろいろな他の種の動物と関係を持ちたがる。

そして、気がついた。

「おいおい、動物ばかりじゃないぞ。」

下手をすると、鉢植えや庭の木々などの植物とも関係を持ちたがっている。
少なくとも日本人はよく話しかけ、場合によっては木の幹に抱きついたりもする。

さらに、思い当たった。

「そう言えば、あのじいさんは庭石とよく話していたな。」

無生物まで行くか。
山や海や夕陽や月と話す人もいるぞ。

「関係を持つ」とは、どういうことか。

その存在と存在との根底において、ぶっつづきのものを感じるということである。

話が禅的になってきた。
いや、神道的か。

そんなものが感じられれば、世界の分断や対立もちょっとは少なくなるかもしれない。

まずは、動物でも植物でも無生物でもいいから、表面的な“隔て”を超えて「関係を持つ」ことから始めましょ。

 

 

時間と関心のある方には「書き初め」をお勧めする。

「書き初め」と言ってもただの「書き初め」ではない。
私のお勧めするものは、まず「お題」が変わっている。
まず黙って
『計画性がない』
と書いていただきたい。

書き初めに使う半紙のサイズは、よく使われる「半切」というもので、34.5cm×136cmの縦長サイズである。
これに縦書きで書く。

さて、実際に書いてみてどうなるか。
その結果は三つに分かれる。

(1)まずは、書いているうちに紙が足りなくなり、最後の「がない」あたりが立て込んで窮屈になるもの。
(2)次に、今度は紙が余って、「がない」の下に余白ができてしまうもの。
(3)三番目に、きっちり「半切」のサイズにバランスよく「計画性がない」の六文字がおさまるもの。

お気づきの通り、(1)と(2)には、いかにも計画性がない。
行き当たりバッタリに書き始めて、こういう結末になったことがわかる。
それに対して(3)は、計画性がある。
中には、予め「半切」の半紙を六つに折って、折り目を付けてから書き始める方もおられる。
何だったら「計画性がある」と書き直しても良い。

そして、である(これで終わりではない)。
ちょっと見直してみよう(ここからが本番)。

(1)の方は、「あれ、紙の残りが少なくなったぞ。」と気づいた時点で、今度は紙を下に継ぎ足しても良かったのである。
誰もそうしてはいけない、と言っていない。
そうすれば、「計画性がない」の六文字が問題なくおさまる。
(2)の方は、「あれ、紙が余っちゃうぞ。」と気がついた時点で、今度は余白部分を切り取っても良かったのである。
これまた誰もそうしてはいけない、と言っていない。

そうすれば、「計画性がない」の六文字が綺麗におさまる。
(3)の方は、半紙にきっちり六文字がおさまって大変結構であるが、ひょっとしたらその中に(全員ではないが)、内なる“見張り番”から「失敗してはならない」に脅されて、計画性にとらわれた人がいたかもしれない。
そういう人は、さっき申し上げた「計画性がある」ではなく、「計画性にとらわれる」という九文字で書き直した方が良いかもしれない。
もちろん半紙を九つに折って、折り目を付けてからきちんと書きあげることであろう。

で、何が言いたいのか。
この書き初めを通して
「靴に足を合わせる生き方」と
「足に靴を合わせる生き方」の
違いに気が付いていただければ、それで十分である。

そんな変わった「書き初め」。
おヒマな方はどうぞお試しあれ。

 

 

本来は、暦の上のどの一日も、二度と戻るものではなく、等しく尊いものである。
しかし、愚かな凡夫にとっては、どこかで区切りを付けないと、どの日も等しく尊いどころか、どの日も等しくどうでもいい日にしかねないため、「元日」という心機一転の区切りをつけている。
そういう凡夫のための暦の“からくり”については既に述べた。

そして、現行の新暦(太陽暦=太陽周期で「計算」)以前(明治初期まで)には、旧暦(太陰太陽暦=太陰暦(=月の満ち欠けで「計算」)+太陽暦)というものがあった。
しかし、これもまた日付がちょっと違うだけで、これこれこういう日を「元日」(旧正月)と「計算」し、それを区切りとするという考え方は旧暦も同じであった。

また、「二十四節気」による「立春」という区切りの付け方がある。
一年で最も昼の時間の長い夏至と、最も短い冬至を中心に決めたもので、平気法と定気法があるそうであるが、いずれにしても一年を二十四等分して「計算」し、そのスタート地点を「立春」と決めるという意味では、新暦、旧暦と五十歩百歩の考え方である。

が、しかし、である。
「二十四節気」だけは、旧暦や新暦と違って面白い点がある。
それはそこに「気」という言葉が入っているという点である。
そう。
この日を起点に「気」が変わるのである。
そういう「感覚」がその根底にあるのではないかと私は思っている。
いや、私としては、もう一歩踏み込んで申し上げたい。
「あれ、なんだか今日から『気』が変わった。」と感じて、その日を「立春」としたのである。
「気」が先。
「計算」などどうでもよくなってくる。

ある朝、起きてみて感じる。
外に出てみて感じる。
天を仰いでみて感じる。
この世界に満ちる「新たに」という強い力。
そうして初めて「新たな年」が始まった、と言いたくなるのだ

その「気の変化の感得」が先で、それでできたのがそもそもの「節気」というのが、私の個人的見解である。

その方が遥かに面白い。
面白いというより真実だと私は思っている。
「計算」という「理性」は、「真実」を感得する「感性(あるいは霊性)」の鈍い人たちのためにある、というのが私の見解だ。

元日くらいちょっと変わった、こんな話をしても良いだろう。

そんな話を近藤先生とよくしていたなぁ、と懐かしく思い起こす元日であった。

 

 

人間が本気で変わろうとするとき
変わるのは
今日から
今からでなければ意味がない。

しかし、アンポンタンな凡夫は
すぐにそのきっかけを逃してしまう。

そんなとき
大晦日から元日という大きな区切りがあることはとても有り難い。
元旦から!
と手をつけやすいのだ。
よしっ!
元日から変えて行くぞ!
新年から変えて行くぞ!

そして経験者は御存知の通り
これまたアンポンタンな凡夫は三日坊主に終わるのである。

ですから
いい加減、自力を当てにするのはあきらめて
おまかせしましょう、他力に。
あなたを通して働く
あなたをあなたさせてくれる力に。

おまかせします
おまかせします
おまかせします

そのことを
「南無阿弥陀仏」といい
「御心(みこころ)のままに」といい
「惟神(かんながら)」というのである。
宗教用語が嫌いな方は、ホーナイの精神分析の言葉を借りて
「わたしの無意識の底で働いている、わたしの『真の自己』を実現させる力におまかせします」
でも良い。

どうか
そんな想いを胸に
新たなるを迎えられますように。

 

合掌礼拝

 

 

時々、冠婚葬祭のマナー、テーブルマナー、さまざまな世事の付き合いごと、接遇などなど、いろいろなマナーや儀礼に関して、うるさいことを言う人がいる。
そんな話を聞く度に、マナー、儀礼の“根本”について、一度ちゃんと勉強された方が良いんじゃないかと思う。

言うまでもなく、我が国の「礼」に大きな影響を与えたのは、儒教、孔子である。
その孔子が最も嫌ったのが、形だけの「虚礼」であり、「相手を大切に思う気持ち」が先にあって、それをなんとかして表したくて、出来上がったのが「礼」という形である、という孔子の見解に私は大賛成である。

とすると、マナーや儀礼を知らない人を見下す人たちの姿勢には、そもそも「相手を大切に思う気持ち」がない。
これは致命的である。
むしろ最も「無礼」と言える。

さらに、「そんなことも知らないのは恥ずかしい。」と言って相手を責める人もいるが、“恥ずかしい”で相手をコントロールしようとすること自体、そう言っているその人自身が“他者評価の奴隷”であることを自ら露呈しているようなものである。

「恥ずかしくないように」世俗的なマナーと儀礼を完璧にマスターしているが、いちいち言うこと・なすことが慇懃無礼で、いちいち癇に障る人がいる。
また、世俗的なマナーや儀礼なんぞとんと御存知ないが、その溢れる愛と想いに胸を打たれる人もいる。
あなたはどちらになりたいか?

もちろん、まず愛と想いがあって、“ついでに”マナーと儀礼という形も知っているというのであれば、それはそれで苦しゅうない。

ですがやっぱり、「相手を大切に思う」という「気持ちの出どころ」こそが「礼」の“根本”です。
お心得、あるべし。


 

本日をもって、八雲総合研究所も仕事納めである。

今年、面談でお話して来た、あの人、この人の顔が浮かぶ。
勉強会でお話して来た、あの人、この人の顔も浮かぶ。

私にとって重要なのは、その人に対して私に与えられたミッションを果たして来れたかどうか、ということである。
元より、私の力でやっていることではないので、私を通して働く力を私が邪魔しなかったかどうかが問題、ということになる。

「仏法には無我にで候ふ」と蓮如上人がおっしゃる通り、私の我が働けば、それがパイプに詰まり、私を通して働く力が通りづらくなる。
だから、全てを投げ出して、我まで投げ出して、おまかせすることが必要になるのだ。

その上で、さくらがさくらであるように、すみれがすみれであるように、それぞれのカラー、芸風となって、その力が発揮されて行く。
私のカラー、芸風は、授かった持ち味なので、どうかご容赦いただきたい。

そうして、面談を通して働く、勉強会を通して働く、その力によって、少しでもあなたがあなたに近づくことができたのであれば幸いである。

来年またお逢いしましょうね。
来年またお話しましょうね。

あなたがあなたの顔になり、
あなたの生命(いのち)の輝きが増すのを感じる度に
私の凡情も喜ぶけれど
この世界が共に喜んでいるのを感じるのでありました。

 

 

 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と断定的なことを自信たっぷりに言う人がいるが、実際のところは、間違っていることも少なくない。

「それは本当にアンケートを取って調べたのか?」
「確かなエビデンス(証拠)があるのか?」
と詰めて行くと、甚だ怪しいこととなり、その人だけか、せいぜいその周囲の少数の人たちだけの思い込みだったりする。
精一杯
広く見ても、せいぜい、その地域、その時代だけの思い込みであることが多い。
それではとても「フツー」「みんな」などと言うことはできない。
それなのに、

フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と言うのは、十分に「独善的」である。

さらに
 「フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
という表現の裏には、
「だから、おまえもそうしろ!」
というメッセージも隠されている。
そうなると「支配的」でさえある。

皆さん、騙されないように。

健全な人間には、
フツー、こうだ。」
「みんな、こうでしょ。」
と思いそうになっても、

「ひょっとしたら、これは自分だけの思い込みかもしれない。」
という謙虚な内省が生じるはずであり、

もし万が一、あなたが誰かに、あなたの意見を言いたいと思ったとしても、
「フツー」「みんな」というような、言わば、“ズルい”言い方を使わず、
「(他の人は違うかもしれないが)私はこう思う。」
とか
「だから(もし宜しければ)、あなたもそうした方が良いんじゃないかと思う。」
というような表現になるだろう。

そのときには、あなたにはあなたの人生を歩んで行ってほしい、という愛と願いがこもるはずである。
そうなると、あなたの存在は、世界に一人であり、人類史上初めての存在であるわけだから、
「フツー」も「みんな」も関係なく、あなたの選択が、世界に一人の、人類史上初めてのものであっても構わない、ということになる。

だから、やっぱり戻るところはここになる。
あなたはあなたを生きるために生命(いのち)を授かった。
自分がどう生きて死ぬのかを見い出すのが、出生の本懐なのである。

 

 

 

以前、知人宅で家族一緒のカードゲームに誘われた。
家族みんなが好きなのだというが、私は苦手なので、と丁重にお断りした。

そう。
カードゲームは余り好きではない。
相手の心理を読んだ上の駆け引きとか、勝つためのフリに演技に嘘八百など、やろうと思えばいくらでもできるし、所詮遊びなのだからとテキトーなやり方もできないではないが。それでも面倒臭くてしょうがないのである。

それには私の生育史が絡んでいる。
相手の心理を読んだ上での駆け引きとか、なんとかその場を切り抜けるためのフリに演技に嘘八百など、そんなことは保身のためにイヤというほどやって来た。
もうたくさんなのだ。
そんなゲームをしなくても、本音から結論からコミュニケーションして行って、楽しい時間はいくらでも過ごせるということを、今の私は知っている。

だから、今の仕事も向いているのだろう。
相手の心理を読んだ上での駆け引きとか、なんとかその場を切り抜けるためのフリに演技に嘘八百に行き詰まったクライアントの方々が面談にいらっしゃる。
もっと人間を信じて、言葉を信じて、生きて行きたい人が面談にいらっしゃる。
私の通って来た道だ。
伝えられることは山ほどある。

そういう信頼と愛とに基づいた人間関係を構築できるようになった後で、やっぱりカードゲームを楽しみたいのであれば、それも「あり」だろうが、それでも私は「なし」だな。
可能ならば、いつでもどこでも誰とでも、正面からど真ん中の関係が私には心地よい。
 

 

今日、親族の逝去に立ち会った。
通常なら、そういう時間を持つことも難しいが、今回はたまたまが重なって立ち会うことになった。

地域のある大きな基幹病院での、本人と家族への医療と看護。
終末期の対応から、看取り後のエンゼルケア、エンゼルメイク、そして病棟からの送り出し。
事務方、葬儀社連携の霊安室から御見送りまでの流れ。

それが誰であろうと、ひとりの人間が生きて来た長い一生の最終の最後だもの。
どれも、いい加減に済ませたり、機械的に済ませたりできるものではない。
敬意を持って接したい。
その意味で、大規模病院ながら行き届いたものであった。

こうしたさまざまなハードとソフトも含め、故人のお蔭で、勉強になることが多かった。
やっぱり病院は“人の姿勢”で運営されているのだと思う。
少なくとも故人は、闘病はあったにしても、幸せな最後を迎えられたと確信した。

そしてここまでが“情”のお話。
究極のところは、何がどうなろうとおまかせなのであり、救いは万人に約束されている。

その想いを胸に
「一生のミッション、お疲れさまでした。」
と合掌礼拝して御見送りした。

 

 

「教育者全体にも言いたいことですが、人間関係にも言いたい。それはどういうことかと言いますと、よく私が言う、ひと言でいうと、水を流すためには溝を作れ、というんです。…水が来るように、そこに溝をね、掘らなくちゃいけない。溝を掘ると自然に水は流れる、通じて来る。それがだな、私はいつも思うんだけども、この家庭の問題で、あるいは人間関係で、教育で、足りないのがそれだと思うんです。…
やっぱり、その意味でね、平生(へいぜい)からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。だから、子どもでもそうですね。子どもでも、急にこうしたからといって、なんですか、お母さんは、『私はあなたの生命(いのち)を大切にしてんのよ、だから、こうしなくちゃ!』なんて、僕に聞いたようなことを言ったって、そりゃ、ダメですよ。本当に、毎日のおかずを作ること、御飯を作ることに心を込めた、そうした本当の、先ほど言ったように、ね、ニッコリ笑ってあげるとか、そういうことでね、溝を掘って行かないといかんのだな。溝を作っていかなくちゃいけない。そうしたときに、フッとこう、どうかしょうと思ったとき、お母さんの顔が浮かんだと、ね、それで思い直したと。何のことはない、ただもう無性に…うちに帰りたくなったと。こうしてお母さんにね、逢って、そうして人生の転機をね、迎えた人が何人か、たくさんあります。…
これも、普通の人間関係でもそうです。普通の人間関係でも、お互いにそうしたことを、上役が部下に対して、急に威張ろうとしてもダメなの。平生から部下との間の、いわゆる、そうした意味の、部下の生命(いのち)を観、その若々しい生命(いのち)をもう、じっとこう観て…若い人たちに僕は心から、本当に祝福を送りたい。そういう若者というものは、いつも、やはり、決してね、悪くなろうなんて思ってないの。いつもね、本当に自分の自分の生命(いのち)を輝かそう、本当に発揮しようと思ってる。そういうものを本当に認めてやるときに、生命(いのち)は伸びて行く、若者はね。だから、それをいつも、上役とか年寄りはね、考えるべきだと思うの。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

「溝を作る」ことについては、別の講演(「金言を拾う その9 溝をつける」)でも近藤先生は強調されていました。
改めてここで確認しておきましょう。
本当の挨拶(
=相手の生命(いのち)に対して合掌礼拝(らいはい)する姿勢)を毎日毎日続けること。
親が子どもの食事を作ってあげるときも、子どもの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って、毎回毎回心を込めて作ること。
上司が部下に、先輩が後輩に接するときも、毎日毎日その部下の、後輩の生命(いのち)を祝福する気持ちで接して行くこと。
大切なのは、毎日毎日、毎回毎回。
でも、我々は愚かな凡夫なので、つい忘れてしまうんです。
忘れたって構わない。
思い出す度、思い出す度、やっていると、いつの間にか、段々覚えていることが増えて行くんです。
それで結構。
それが凡夫の歩み。
でも凡夫なりの一所懸命。

そうなんです。
「溝を作る」とは、「私」と「あなた」の間に溝を作るということなんですが、それだけでなく、「大いなる力(あなたに生命(いのち)の礼拝をさせる力)」と「私」との間に溝を作るということにもなっていたのです。

 

 

今日はクリスマスイヴ。

釈尊もそうだけれど、キリストも、わざわざ人間という形を取って、この世に生まれて来て下さったということに、言葉に尽くせない感謝を感じます。
そういうふうにして示して下さらないと、この凡夫は、この迷える子羊は、いつまで経っても、仏の大悲に、神の愛に包まれていることに気がつけないもの
しかも、釈尊は釈尊で、キリストはキリストで、酷い酷い目にまで遭って下さるんです。

だから気づきましょう。
だから感じましょう。
キリストの降誕は、いつ・いずこにありやと。
それは2024年前(実はその数年前だとか諸説ありますが)のベツレヘムの馬小屋ではありません。

今ここに刻々と降誕し続けて下さっているのです。
生命(いのち)の降誕。
真実の降誕。
愛の降誕。
それが途切れるわけがないじゃないですか。
常に生まれ生まれて生まれ生まれて。
でも、それがわからないボンクラのために
わざわざ12月24日という一日を設定して
思い出させて下さっているのです。

どこまでも行き届いた設定に
どこまでもアンポンタンな迷える子羊は
ただ首(こうべ)を垂れて合掌し、感謝するしかないのでありました。

 

 

今日お話したいのは、今年流行ったこの曲『Bling-Bang-Bang-Born』のサビの部分を聴いたときに、あなたは思わず踊ったか踊らなかったか、ということである。

抑圧が強くて踊れない(踊らない)。

他者の目を気にして踊らない。

反対に、他者の目を気にして(ウケを狙って、すごいと言ってもらいたくて)踊る。

これ、みんな、邪道ズ!

リズムに体が共鳴し、勝手に動く、踊る、ワクワクする、嬉しくなる。
うまい?下手?合ってる?間違ってる?
そんなの知るかっ!

生命(いのち)の躍動こそがダンスの原点である。
それ、できますか?

ちっちゃい子どもたちなら、それが訳なくできるんだよね(子どもでも大きくなるにつれて段々他人の目を意識するようになってしまうのは悲しいけれど…)。

緑風苑ワークショップがあったら、これ、絶対やってるだろうな。

さぁ、レッツ・ダンス!
♪​Bling-Bang-Bang, Bling-Bang-Bang, Bling-Bang-Bang-Born!

 

 

私が定期的に受けている大腸内視鏡検査では、検査前に大腸内の便を除去してしまうために、検査前夜に下剤を飲み、検査当日に腸管洗浄剤を飲むという2段構えの前処置がある。
今回は、その検査前夜に服用する下剤の話であるが、精神科で私も処方し慣れた、アローゼン(センナ)やプルゼニド(センノシド)、ラキソベロン(ピコスルファート)などが使われることが多い(アローゼン、プルゼニド、ラキソベロンは商品名で()内は一般名である)。
もう何度も検査を受けている私は、
それまで、あるときはアローゼン顆粒(0.5g)2包を、またあるときはプルゼニド12mg錠 2錠を前夜に飲むように言われ、検査日を迎えていた。
これはいずれも成人が便秘のときに1回に服用する通常使用量である。
それで、今までの検査は、何の問題もなく、受けることができた。

それが、ある検査のとき、担当医師からラキソベロン内用液を出され、1本10mL全部を飲むように指示された。
えっ?
ラキソベロンも処方し慣れた薬であるが、成人の1回に服用する通常使用量は10~15滴である(これをコップの水の中に滴下して飲む)。15滴=1mLであるから、10mLはその10倍に当たるのだ。
それでも、“従順”な私は、まあ、その方が余計に出て良いか、くらいに思って、1本全部を服用し、地獄を見ることになる。

翌朝、腹痛によって目覚め、便が出るどころか、激痛は増すばかり。
既に尿路結石の疝痛発作を経験している私だが、その痛みはそれに勝るとも劣らない救急車級であった。
どれくらいのたうち回っただろうか、やがて鉄の意志と鬼の根性で痛みを乗り切った私であるが、もう2度とラキソベロン1本は飲まないと固く誓ったのであった。

医師の指示を鵜呑みにせず、自分の頭で考えること。
既にアローゼンやプルゼニドの通常使用量で検査が成功していたのだから、ラキソベロンも通常使用量にしておけば良かったのである。
(ちなみに、担当医師の名誉のために付け加えるならば、ラキソベロン1本服用の指示を出す医師は結構おり(中には某大学病院で2本!というのもあった)、現に服用してちゃんと検査を受けている人もいるので、これは個人差なのかもしれない。それにしても、私は私に合わせるべきであった)

その少し前、私の親友が、角膜移植手術を受けることになり、術前に球後麻酔として眼の周囲に局所麻酔注射を受けることになった。
申し遅れたが、彼には先端恐怖があった。
何でも先の尖ったものを見ると、自分の眼を突かれるんじゃないか、と思ってしまう恐怖である。
元々それがあるのに、実際に目の周囲に注射針を刺されるのである。
これほどの地獄があろうか。
しかし精神科医である彼は、術前に自分で高容量の抗不安薬を服用して行った。
そんなことは知らない眼科医は、術前投与として通常使用量の抗不安薬を出したが、彼はあっという間にフラフラになってしまった。
それを見た眼科医が「あ~ら。抗不安薬がよく効く方ですねぇ。」と。
よく効くはずである。既にしこたま飲んで来ているんだもの。
それで手術を乗り切った彼は流石であった。

私が従順に、自分で判断せず、担当医師が決めたラキソベロン1本を服用して地獄を見たのに対し、
親友は、自分で判断し、自分に必要な抗不安薬の量は自分で決めて服用して地獄を回避したのである。
やっぱり、ただ従順で良いのは子どもの頃までで、大人は自分の頭で考えて自分の責任で自分を守りましょうね。はい。

 

 

英語で「お先にどうぞ。」というのを“After you.”というそうだ。
わたしはあなたの後から行きます、という調子で、自我を主張しがちな英語文化圏としては、相手を先にし、自分を後にする美しい表現だと思う。

例えば、街を歩いていても、向こうから歩いて来た人とぶつかりそうになったとき、
また、車を運転する人なら、対向車とのやりとり、

さらに、電車やバスでの席の取り合い・譲り合いなどでも、
我の主張の有無がすぐに観て取れる。

但し、間違わないでいただきたいのは、そういうときにはこうすべきである、我の主張を抑えるべきである、というような超自我(見張り番)的な話をしているのではない。
超自我に頭を抑えられて、意図的努力でそうするのであれば、それは「偽善者」である。

そうではなくて、我々を通して働く力に導かれて、思わず知らず「お先にどうぞ。」“After you.”と出る境地を授かりたいのである。

そう思ってみると、“After you.”の“you”は、実は、目の前にいる「あなた」のことではなくて、“God”=神さまのことではないか、と今気がついた。
「あなたに導かれて、あなたの後に従っていきます。」

そんな気持ちで“After you.”「お先にどうぞ。」が出て来たら、わたしは合掌したくなるだろう。
そこには“you”への感謝しかない。

 

 

ある臨床心理士の書いた発達障害に関する文献を読んでいたら、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」として、子どもの「強み」として感じられることを「意識しながら伝え直して終了」すると書いてあった。
その理由として、親御さんの中には、子どもの発達歴を振り返ることで、自分の育て方に問題があったのではないか、本人の困り感にちゃんと気づいて対処してやれなかくて申し訳ない、と自責の念を抱いている人もいるからだという。
そして、そのような気持ちを払拭するために、面接の最後は、子どもの「強み」の話や、親御さんが感じている子どもの「肯定的な面」を「意識して」伝え直して、気持ちよく終了へと導いていくというのだ。

この文献は。そこまでは非常に優れた内容で、大変勉強になったのだが、この点だけはガックリと失望した。
発達障害の臨床的知見については優秀なのだが、サイコセラピー的な面となると、根本的な間違いを犯している。

まずひとつには、「強み」「肯定的な面」と称して、具体的には、お子さんはこういうところは苦手だけれど、こういうところは優れている、などと伝えていく点である。
その背景には、やっぱりできる方が良くて、できない方がダメだ、という能力主義的な発想がある。
そこが大問題なのだ。
例えば、一部の専門家が、「サヴァン症候群」と称して、自閉スペクトラム症の人たちが、一方で障害を抱えながら、他方で非常に優れた能力を発揮することを取り上げている。
その背景にも、こんな障害がありながらも、こんなことができるなんてすごい!という価値観が臭う。
やっぱり、できてなんぼ、なのである。
じゃあ、同じ自閉スペクトラム症の人たちで、サヴァン症候群でない人たちはダメなのか?
私はいつも重度心身障害児病棟で出逢った子どもたちのことを思い出す。
最重度の子どもたちのどこに、他の子どもたちよりも優れた「強み」や「肯定的な面」を見い出せというのか。
なんのことはない、この臨床心理士自身が、実は能力主義(=できる方が優れている)者だったのである。
何かが苦手な障害者の方々に接するのが我々の仕事である。
いい加減、能力主義というとらわれから脱しようよ。
息をして心臓が動いているだけで、どれだけ尊いか、人間の存在の絶対的価値を本気で体感しようよ。
まず能力主義へのとらわれが第一の問題。

そして次に、それが親御さんの自責の念を払拭するためであるのならば、そんな迂遠な、まわりくどいことをせず、はっきりと親御さんの眼を見て、「お母さんの育て方のせいではありません。ご自分を責めないで下さい。」「何も教わっていない非専門家がちゃんと気づいて対処することは不可能です。教わらない中で、支えられない中で、お母さんはお母さんなりの一所懸命でやって来ました。」と明確に告げるべきだと私は思う。
自責の念を払拭するために、子どもの「強み」や「肯定的な面」を挙げるのは、迂遠過ぎる、というのが第二の問題。

そして第三に、親御さんへの発達歴聴取の「終わらせ方」というのがどうしても引っかかる。
「方」かい!
やっぱり how to なのである。方法なのである。操作なのである。
そうじゃないでしょ。
そんなうすっぺらな「やり方」ではなく、目の前の親御さんに対する思いの出どころが、「ああ、このお母さんにも幸せな人生を歩んでもらいたい。」「母親である前に、一人の人間として自分を生きて行っていただきたい。」などという思いがあれば、言葉なんてもうどうでも良いのである。
近藤
先生の言葉を借りれば、親御さんの生命(いのち)に対する畏敬の念を持って接することができれば、もうそれでいいのだ
肝心なそれがなく、「終わらせ方」という「操作的」な「やり方」に堕しているのが第三の問題である。

 

 

映画や舞台を観に行っているときに気がついた。
目の前で繰り広げられている話の展開が、いつの間にか、わからなくなっている。
より正確に言うならば、頭の中が目の前と全く別の連想や空想にどんどん逸れて行ってしまい、結果的に、話の展開が全くわからなくなってしまっているのだ。
あれ?これ、何の話だったっけ。
話が寸断され、わけがわからない。
そんなことがちょいちょいあった。

なんでこんなことになるのだろう。
しばし内省して思い当たった。
親からの一方的で強い感情に晒(さら)されていた幼少期。
逃げ場のない子どもは、目の前の世界から意識を外すことで、自分の心を守ったのである。
目の前で起きていることから意識を外す。
そして空想の世界に意識の重心を移す。
言わば、そこにいなくなるのだ。

さらに巧妙なのは、あからさまに見ていない、聞いていない態度を取れば、親からさらにひどい攻撃を受けるので、一応は見ている聞いている体(てい)は保っているのである。
我ながら、こりゃあ、なかなか厄介だ、と思った。

どこが厄介かというと、当時は精神的に自分を守るためには、そうせざるを得なかったのであるが、いつの間にか、習い性となり、大人になってからは最早必要のないそのパターンが残存してしまったのである。
心の生活習慣とは恐ろしいものである。
目の前のことから意識を飛ばすことが、習慣化してしまったのだ。
あのまま放置されていたら、本格的な解離症状に発展してしまっていたかもしれない。

そして幸いにも、近藤先生のお蔭で、自分であることを取り戻した私は、映画も舞台も、それだけじゃあない、生きている全ての場面で、自分でいられるようになることができた。
そう思って改めて娑婆の人たちを観ると、私ほどではないにしても、現実逃避で生きている人が、実はとても多いことに気がついた。
大多数の人は、その現実逃避の程度が軽いために、そんなに大きな支障に至らず、却ってその問題を解決できないまま人生を送ることになるのである。

だからこそ、私くらいか、私以上に現実逃避している人たちの方が、その問題と直面化でき、根本解決できるチャンスが与えられるということになる。
だからこそ私は思う。
悩める人たちよ、心配するな。
ちゃんと懊悩するからこそ与えられる根本解決の道があるのだ。
そこをちゃんとくぐって来た人は、目の前の現実とも、自分の現実とも、まっすぐに対峙して、成長することができるのである。

 

 

「例えば、教師はね、この前もちょっと言ったけど、どうしてあのは校長先生の言うことを聞いて、私の言うことを聞かないんでしょう、とこう言うわけですね。僕は別に何もしたわけじゃないんですよ、ね。ただ毎日、その子どもがやってくるときに、こうやって『おはよう!』とこうやるんです。ニッコリ笑って『おはよう!』と言ってる。すると向こうが『おはようございます!』とこう言います。それ以外、何もやったわけじゃない。けれども、僕はそのときに、『おはよう!』って言うときに、本当に『おはよう!』っていうのは、私は、実は、自分の気持ちで、まあ、あるとこにも書きましたけども、『おはよう!』という挨拶ね、あれは、どういう意味かというと、ああ、今日もあなたは健康に、早く目覚めて、生きていますね。おめでとう! こういうことが『おはよう!』ってことなんだ。だから英語では“Good morning”。Good なんだ、ね。おはようってのは、そういう気持ちで、つまり、あなたの生命(いのち)を私は礼讃(らいさん)します。あなたの生命(いのち)は活き活きと今、動いています。今日も溌溂(はつらつ)と動いていますね。おめでとう! それが『おはよう!』 それは相手の、生徒の持ってる、子どもの持ってる、その生命(いのち)に対する礼拝(らいはい)です。
僕はさっきあなた方に頭を下げました。この頭を下げたのは、なんでもないようですけども、僕はここに、あなた方がこうやってらっしゃる。全ての人の生命(いのち)に対して心から喜びを述べたんです。一人ひとりに花咲いているこの生命(いのち)、これに対して私はつくづくと頭を下げるわけです。挨拶ってそういうもんです。…
そういう意味で、いつも、この、挨拶ということをやる。それをやっていますと、自然に通じるんです、その気持ちがね。それから後で何か言うと、聞いてくれるんです。…
それをね、その、平生(へいぜい)のだ、毎日毎日のことをしないで、これを僕は触れ合いって言うんです、ね。心の触れ合い。生命(いのち)と生命(いのち)の触れ合いです。そういうものをしておかないとですね、私が校長訓話なんてやったってね、誰も聞いてくれないんですよ。何言ってやんでぇ、とこうなっちゃう、ね。
やっぱり、その意味でね、平生からね、そうした意味の、なんでもないことで、やっていかなくちゃいけない。」(近藤章久講演『心を育てる』より)

 

近藤先生の生命(いのち)を通して働く力が、近藤先生にホンモノの挨拶をさせ、その力が生徒たちの生命(いのち)に届いて、その生命(いのち)が喜ぶ、ということになります。
そのとき、生徒たちの生命(いのち)が喜ぶのはもちろん、挨拶をしている近藤先生の生命(いのち)も喜んでいる、というところがとても大事なんです。
我々の生命(いのち)を通して、大いなる力が働くとき、まず我々の生命(いのち)が喜ぶ。
そして、それがホンモノの挨拶となって生徒たちに届く。
すると、その大いなる力が届いた生徒たちの生命(いのち)も喜ぶのです。
すから、このとき、近藤先生も生徒たちも笑顔になります。
昨日、お話したことですが、これはホンモノの笑顔ですね。
生命(いのち)が喜んだことから溢れて来る、最も深い笑顔です。

 

 

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