「思いやりというときに、そもそも人間のいちばん最初にあるところの自己主義、自分のことしか考えない、他人のことは考えないというようなところから一歩進んでいるわけです。少なくとも恋愛している人は、相手のことを自分のことのように感じるわけですね。そういうことを感じることで自分中心の考えを立ち越えるということになります。しかし、それはまだ特定の人しか案じていない。いわば二人だけの自己主義かもしれない。…
どうか、二人の愛に満足したならば、それを立ち越えて、もっと他の者に対する思いやりを広げていってもらいたいと思うのです。小さな自分に対する愛、それが相手を愛する愛まで自分を越えていく。さらに自分と相手を越えたものに立ち上がっていく。一つひとつ広がっていくことが自分の世界の広がり、心の広がり、心の深さになっていくだろうと思うのですね。…
よく考えてください。私たちの考えるのはたしかに自分中心、自我中心ですが、それでもほんのわずかな自我を越えた経験を持っています。自分の子どもの病気を、一生懸命になって介抱したとき。そのとき、自分は死んでもいい、私のいのちはどうなってもよいから子どものいのちを助けてください。…そういう気持ちで自分というものを越えるときがあるのです。
そういうときにほんとうの一心で、純粋で、何かほんとうに生きている意味が感じとれるときですね。そこまではあなた方が体験できることだと思います。そこまでが人間界で、人間がふつうに感じることであるといえましょう。子ども…はまだ自分の延長ともいえますからね。
私は、あなた方に、それ以上のものを望みたいのです。人間はそれだけのものではないということを知ってもらいたいと思います。
もっと普遍的な愛。
もっと無差別な愛。
もっと無条件な愛。
そういう愛する力を我々はっ持っているのです。そうした力があるということを、この一回しかない人生のなかで、どうか体験してもらいたいと思うのです。これが人間が持っているすばらしい可能性だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
自分のことしか考えない人間の中に、せいぜい自分の子どもや身近な人のことしか考えない人間の中に、それを越えた、もっと普遍的な愛が、もっと無差別な愛が、もっと無条件な愛が働く可能性があるということ。
そう思うと、なんだかね、自然に手が合わさって頭が下がるんです。
あなたの中に、わたしの中に、わたしたちは所詮つまらない自己中心的な人間だけれど、その中に、あなたを通して、わたしを通して、それを越えた広大無辺な愛の働きがあるということを感じていきたいですね。
そしてそれをわかりやすく表して下さったのが、昨日ご紹介した宝誌和尚立像であり、羅怙羅尊者像だったのです。