八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

応援団の部員がいる。
推し活に励む人がいる。

運動部のマネージャーがいる。
黒子に徹する人がいる。
縁の下の力持ちがいる。

ある歌舞伎の名脇役がいた。
主役の華が立つように、長年、行き届いた配慮と演技をして来た人である。
悪意の歌舞伎ファンが
「でも、いつまでたっても脇役だよね。」
と言った。
その言葉を伝え聞いたその人は背筋伸ばして言った。
「私は私の人生の主役でございます。」
彼は彼自身の華が立つように生きていた。

よって、
自分自身を応援すること
自分自身を推すこと
自分自身のマネジメントしてあげること
自分自身も黒子として支えること
自分自身を縁の下から支えること
も忘れないように。

あなたはあなたの人生の主役でございます。

 

 

 

最近、精神科クリニックでなかなか初診予約が入れられないという話を聞く。
それについて、ある開業精神科医のコメントが読んだ。

再診患者を1日α名診察すると、保険診療報酬が年間β千万円になる。
このβ千万円を超えると、制度上、税金が2倍に
なる。
よって、開業して再診患者数がα名に達すると(大体開業1年で到達する)、それ以後、初診患者の受け付けをお断りして、年間保険診療報酬がβ千万円を超えないようにする。
しかも最近は、手のかかる面倒臭い初診患者が多い。
よって、気心の知れた手のかからない患者だけを再診α名に抑えて診察し続けて行く方が、サロン状態にできて一番心地良いのだという。

一読して我が目を疑った。
こんなバカ開業医が実際にいるのかと。
ここには私利私欲の計算しかない。
楽して儲けることしか考えていない。
何のために医者になったのか。
何のために開業したのか。
そこにはミッションも志もないのである。
こいつだけの例外的な話と思いたい。

あのね、そもそも我々はミッションを果たすために生命(いのち)を授かったんですよ。
医者になったのなら、開業したのなら、
診られる範囲で何人でも一所懸命に診るのがミッションなのである(診られる以上に診ろとは言わない。医師が健康で持続な可能な人数で十分である)。

そして、そもそも面倒臭いことをやるのがミッションなのである(人間は面倒臭いんです。臨床は面倒臭いんです)。
しかしそのミッションの中に、人間の変化と成長に立ち会えるという(大変さと面倒臭さを遥かに上回る)やりがいと喜びがあるんです。
楽して儲けたい方は、とっとと医者なんかやめて、もっとあからさまに金儲け本意の仕事に転職されることを心からお勧めしたい、

 

 

たまには硬派な文章を解説抜きでお示ししたい。

「傍観者になれない人生とは、公正な視線を貫くことである。そのためには、賭けた夢も潰(つい)え、もちろん出世も望むべくもない。しかし、この公正な視線が贏(か)ち得るものは、無償の行為である。そして、自分が成しとげたまことの…仕事が残るはずである。」
「俺は強いんだぞ、と誇示した者にかつて勁かった奴はいない。むしろ、名もない漁師や職人に勁直な人間が多い。かつて私は海のすぐそばに棲んでいたことが何年かある。私はそこでいろいろな漁師と知りあった。彼等はみんな貧しく正直な男達だった。海に舟をだしてたったいっぴきの魚しか釣れない日があっても、それが彼等の生活を支えていた。そこには胸に迫ってくる生活の現実感があった。こうした彼等の日常を支えていたものが何であったかというと、それは勁さであった。彼等は弱者でありながら勁さをそなえていた。」
「知識人とは何か。これにたいする明確な答は得られないと思う。はたして現代の日本にまことの知識人がいるのかどうか、いたとしたら、それはごくわずかな数ではないか、という気がする。知識人と自他ともに認めている人が、実は知識の仲買人にすぎなかった、というような場合が多いのは何故だろうか。仲買人の数は実に多い。いま数えただけでもたちどころにかなりの人の名前があがってくる。…彼はヨーロッパに知識を仕入れに行き、こんどはそれを日本で切りうりするわけである。…仲買人の知識に勁さが欠けていることは述べるまでもない。また、切りうりといっても、たいがいは水でうすめて売るのが仲買人の常套だから、勁さがともなうはずもない。」
「現代の知識階級に欠如している最大のものは勁さである。」
「勁さは悪に対してもっともつよい反応を示すはずである。」
「他者の反応がなくとも恥を正確に恥と感じる能力をそなえた人間もいる。」
「わが国では、武士の倫理思想のなかで自覚的に継承されてきた名誉のかたちがある。これは廉恥心(れんちしん)と表裏をなしている。廉恥とは、それを知らない人のたまにやさしく解釈すると、心が濁っておらず恥を知る心があることを言う。」

 

感想のある方はまた面談のときに。

 

 

Apple Music が音楽ストリーミングサービスをサブスクリプション(サブスク)で始めたのが、2015(平成27)年であったという。
当時は、この画期的なサービスの開始により、既に息も絶え絶えの状態にあったアナログレコード業界は、完全に息の根を止められるだろうと言われていた。

しかし、不思議なことが起こった。
アナログレコードの売り上げが、
2015(平成27)年から、むしろ右肩上がりの上昇に転じたのである。
皆、驚いた。
何が起こったのかわからなかった。
アナログレコード業界の人が、当時のことを振り返って

「我々の中に面倒くさいことを尊ぶ文化があったんですよ。」

と語った。
なるほどね。

コスパ(コストパフォーマンス)とかタイパ(タイムパフォーマンス)とか言われ、
誰もが効率主義や功利主義に追われている時代のように見えて、
実は、どこかに「本当に大事なものはそんなところにないんだよね」という感覚が、まだ我々のどこかに残っていたのである。

それは人間というものに希望が持てる話だ。

我々は毎日、人間存在という最も面倒くさいものに関わって生きているんだものね。

イヤんなっちゃうときもあるけど、人間が人間に関わることはやめられないんです、やっぱり。

 

 

ネットニュースに「女子高生のなりたい職業」のアンケート調査結果が載っていた。

高校生になれば、小学生や中学生と違い、ある程度の現実性を考えて、自分の進路を検討しているはずである。
その今どきの女子高生は一体何になりたいんだろう、と興味を持って読んでみると、

第1位 公務員(7.8%)
第2位 看護師(7.1%
第3位 教師(5.2%)
なのだそうだ。

公務員の第1位は、いかにも手堅いであろうから納得がいくが、現代になっても、第2位に看護師が入っていることに驚いた。
現代の女子高生たちも、自分以外の誰かの苦しみを救うために働きたいと思ってくれているのだ。
これには希望を感じる。

しかし私は知っている。
そういった希望に胸を膨らませて看護学校/看護学部/看護学科に入学したのは良いが、大体がまず「看護実習」あたりでダメージを受ける。
ある報告によると、「看護学生生活で『つらい』と感じたこと」のワースト1は「看護実習」なのだそうだ(なんと86.5%!)。

そして、なんとか看護実習を切り抜け、国家試験に合格し、病院に就職してから「新人看護職員研修」を受けることになる。
この「新人看護職員研修」がまた、学生時代の「看護実習」の再来に、いや、プロになってからであるので、さらに一層「つらい」ものとなりかねない。
これが2回目のダメージであり、これから休職や退職にまで発展することもある。
ある報告によれば、新人看護師の離職率は7.5~7.9%。
かなりの数値だ。

では、何がそんなに「つらい」のか。

私自身の病院勤務経験や、病院職員のメンタルヘルスに関わって来た経験からすると、まず一番辛いのは「働く環境」である。もっと言えば「人的環境」である。さらに言えば、「先輩・上司との人間関係」である。

さて、どうするか?

ここらが師長、看護部長の腕の見せどころだと私は思っている。
新人看護師を指導する人間を指導できるか否か。
結局、看護部長→師長→係長/主任(役職名は病院によって異なる)→先輩看護師(プリセプター、エルダー、メンターなども含む)→新人看護師の流れが、本当の意味で、人を育てるようになっているかどうかが問題なのである。

もちろん看護学生や新人看護師の側に、難しい問題がある場合もあることも私は知っている。
中には適性上、困難な子もいる(その場合は早くに他の道に方向転換した方が良いかもしれない)。
それでも、もし可能性があるのであれば、先輩職員たちが、この難しい新人をどう育てようかと、あーでもないこーでもないと、愛情を持って、智慧を寄せ合い、考えていただきたいと思う。

そう。やっぱり「裁くのか/育てるのか」「攻撃するのか/愛するのか」という問題に行き着く。

看護師が看護学生を愛して育ててくれると良いなぁ。
先輩看護師が新人看護師を愛して育ててくれると良いなぁ。

そうして、看護師になりたかった女子高生の夢が、やがて現実に、やりがいと喜びを持って、叶うと良いなぁ、と本気で願っているのでありました。

 

 

「生きている私達は、我々の知性だけでなくて、見るものだけでなく、見えないものをも直感、直覚して、私達にそれを感動を持って感じさせてくれる働きを持っているのです、それは自ずから我々を越えて働く大きな力であり…それがなかったら我々は決して安心することが出来ないのです。…
我々現代の人々は各種の教育が障害となって、どうしてもそういうことを感じられないのです。どんな秀才であっても、科学主義の洗礼を受けてそれに従うとき、実はその人の持っている人間として与えられた能力の僅かの部分しか使われていないわけです。我々に与えられている、もっと大きな、もっと素晴らしい、感じる力というものに気が付くことが出来ないのです。これが現代の科学主義の限界なのです。これを科学主義が非常な傲慢さを持って、自分たちの科学主義が最高の真実であると、堂々と主張して憚らなかったのが二十世紀なんです。私は来る二十一世紀はそうであってはならないと思うんです。…
私が今皆さんに申し上げたことが、少しでも皆さんの耳を通じて心に達したら、嬉しいと思います。私達は心があるということを忘れてはいけないのです。私達は頭だけではないんですよ。心は目で見えるもの以上のものを感じ、感覚するんです。感覚から感情になって行くのです。…私達は時々不安に陥ります。するとその不安を超えようとする願いが起きてきます。…この呼びかけに素直に耳を傾け、それを全身心を以て感じる時に、あなた方は苦しんでいる今までの自分と違った、自分自身を超える、大いな偉大なるものに触れて、自分が支えられている大きな喜びを感じるでしょう。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

まず、目に見えるものを考えるのではなく、目に見えないものを感じること。
そうして感じる力が敏感になって来ると、我々を不安や苦悩から救って下さる大いなる力を感じられうようになって来るということ。
その道筋を、近藤先生は何度も何度も、言葉を変え、表現を変えて、伝えようとして下さっています。
そして、この講演の現場にいた私にとっては、まさにこの近藤先生による講演自体が、我々を超えた大いなる力を感じさせていただけるものでありました。
しかし、現場にいなかった皆さんが失望する必要はありません。
あなたの感じる力が敏感になって行けば、この講演録からも、行間を通して働く大いなる力を感じられるようになるものと私は信じています。

(尚、この講演が、近藤先生の浄土真宗 東本願寺派本山 東本願寺(いわゆる浅草本願寺)における生前最後の講演となった)

 

 

先日、勧められて、あるドキュメンタリー映画を観て来た。

『どうすればよかったか?』

既にご覧になった方もいらっしゃるだろう。

娘が統合失調症を発症したのに、医師である両親がそれを否認し、医療を受けさせないまま25年が経過した話である。
しかもその経過を実の弟が撮影し、映画化した作品だ。

作品を観て、言いたいことは山ほどあるが、これから観る方もいらっしゃるであろうから、これ以上内容に触れるのは控えておこう。

全国で順次公開されるそうで、あなたの近くのミニシアター系映画館で、上映されている(これからされる)かもしれない。

私が観たとき、小さな映画館内はほぼ満席で、一見して、当事者、家族、精神科医療福祉関係者が大半を占めている感じがした(多分当たっていると思う)。

重い内容なので、どなたにも勧められる作品ではないが、精神科臨床や福祉に関わる方々は観ておいた方が良いと思っている。

 

 

ある女性が中学時代、部活でイジメを受けていた。
ようやく高校に進み、イジメた連中と縁が切れて清々していたが、そいつらから何度も「会おうよ。」と誘いの連絡が入って来る。
人の良い彼女は、渋々会いに行き、そいつらと話してみて、なんだかカラクリがわかったような気がした。
結局、イジメていた連中自身が健康な人間関係を築けないヤツらだったのである。
よって、高校になってもマトモな友だちが作れない。
それで遡って、中学時代の知り合いに声かけるのである。
通常なら、高校は高校で新しい友だちができて、その交友で忙しくなるはずである。
過去の友だちなんぞにかかずらわっているヒマはない。
彼女の読み通り、さらに大学に進学しても、就職しても、その連中からの誘いの連絡はなくならなかった。
もちろん、もう誘いに応えることはなかったので、段々に連絡は消滅して行ったが、大学に行っても、就職しても、そいつらは新たな交友関係が築けなかったと見える。
それがもし“生涯の親友”との運命的な出逢いがあったのであれば、時間的に後ろ向きの交友関係もあり得る。
文字通り、一生の付き合いとなるだろう。

しかし通常は、小学校→中学→高校→大学→社会人となって行くにつれ、交友は広がり、質的にも深まり、“今が一番充実した交友関係”になるはずである。
後ろを向いているヒマはない。向く必要もない。

だから私ももし「昔の知人に逢いたいか?」と訊かれれば、答えは「No。」である。
今の交友が忙しくて、充実していて、懐古的になるヒマがないのである。
もちろんその交友の“友”には、面談しているクライアントや勉強会参加者の方々も含まれる。
彼ら彼女らは大切な“同志”であり、ある意味、一般的な“友”よりもずっと深い関係かもしれない。

だからやっぱりどう考えてみても、後ろ向きの交友をしているヒマはないんだなぁ。

 

 

今日は三か月に一度のハイブリッド勉強会。
今回は対面参加:リモート参加=1:2くらいの割合であったが、どちらでも各人の判断で選択されれば宜し。
ただ素朴に、“生(なま)〇〇さん”との対面は楽しいものである。

そして今日は、レクチャー&ディスカッションの『人間の承認欲求について』で3時間すべてを使ったが、参加者の成長のための時間であって、予定消化のための時間ではないので、それで大いに結構である。

その内容には敢えて触れないけれど、今日は特に参加者の発言によって会が深まって行く実感があり、個人面談も良いけれど、やっぱり集団も良いなぁ、ということを実感した。
Aさんの発言がBさんを刺激し、Bさんの発言がまたCさんを刺激する。そうやって参加者が相互に成長への刺激を与え合って行く。
もちろん特に発言しなくても、参加各人の中に起きているものがあり、それが会の雰囲気を醸(かも)し出す。
なかなか言葉では言い尽くせないが、かつてのワークショップや、毎週講義をしていた頃の教室の空気感を今日は思い出し、やっぱり集団は良いなぁ、と思った次第である。
それもこれも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った参加者のお蔭であることは間違いない。

また次回、4月のハイブリッド勉強会でお逢いしましょう。

で最後に、ハイブリッド勉強会の開催は、午後1時15分~午後4時15分です。
毎月の八雲勉強会(午後1時30分~4時30分)とは開催時間が異なりますので、ご注意を。

 

 

ある男子高校生が、
サッカー部に入れば、恐らく万年二軍選手だろうが、
陸上部に入れば、きっとすぐに全国大会で活躍できる、と言われて悩んでいた。
即ち、
本当に何をやりたいのかで選ぶのか、
どうやったらより評価されるのかで選ぶのか、ということである。

あなたならどちらを選びますか? 

かつて医学部に入学したとき、医学部に入ったらエラいと思ってもらえるから入った、医者になったらきっと儲かると思って入った、と思っている(はっきりそう口にするかどうか別にして)連中が余りに多いのに驚いた。
苦しむ患者さんに貢献するために、という言葉は建前でも聞いたことがなかった(実際には本気でそう思っていたヤツもいたと思うが…)。
その意味では、どうやったらより評価されるかで選ぶ、という方に著しく偏っていたと思う。

旧ソ連では、医者では喰えないので、タクシーの運転手をやっている、というテレビ報道を観たことがあった。
もし日本がそうなったら、どれくらいの人が医者になるだろうか。
それでも医者をやりたいという人に是非、医者になってもらいたいと思う。

そしてもう一歩深いことを言うならば、
評価されるかどうかを超えて
自分がやりたいかどうかも超えて
何をするのが自分のミッションなのかを掴み取れる感性を磨いて行ってほしいと願う。

 

 

 

所用があって、私鉄駅改札窓口の駅員さんやJR駅改札窓口の駅員さんと話す機会があった。
そのやりとりの合間合間に、ちょっと待つ時間があり、窓口横に立っていたのだが、その間にいろんな人が窓口にやって来た。

待つこと数秒で 
「早く領収証出せよ。オレ待たされるの嫌いなんだよ。チッ。』 
と言って立ち去るジジイ。

ちょっとした電車遅延の不満を、忙しい駅員相手に延々と言い続けるおっちゃん。

くしゃくしゃのメモを広げて、入れ歯なし(恐らく)のふにゃふにゃ言語で、なんだかずーっと怒ってるおばあちゃん(認知症の方かもしれない)。

毎日毎日これじゃあ、駅員さんも大変だな、と思った。
どこか自分が顧客である立場を悪用して、駅員さんをナメている臭いがする。

そしてまた駅員さんの対応が勉強になった。

そんな利用のされ方(言いがかり?)に対抗するためか、虚勢を張ったしゃべり方をする駅員さんもいるにはいたが、流石に女子高生相手にそんなのは要らないんじゃないかと思った。
しかし、そんなのは一人だけで、私が対応してもらった何人もの駅員さんたちは皆、とても親切であった。
特に、毎日毎日わがままな利用者たちに接しながら、中堅~ベテランの域に入っても“擦れる”ことなく、親切な対応を続けておられる姿勢には感服した。

目立たないことだけれど、地味なことかもしれないけれど、毎日毎日、何年も何十年も、この娑婆の中に生きて、汚泥を浴びせられながらも、こころの芯だけは清浄(しょうじょう)に保てているのは素晴らしいことだと思う。

まだちょっとこの世界には希望があるかもしれない。

 

 

ある舞台の話。 

ひとりの少年が、不運にも親に愛されずして、児童養護施設で育った。
見捨てられ感に泣いた彼の唯一の救いは、施設の図書室の本を読むことだった。
現実と異なる想像の世界が、彼のこころを癒した。

やがて自らの豊かな想像力を悪用するようになった彼は、念入りに練った経歴詐称を操るペテン師となっていた。
たとえそれが盛りに盛ったウソであっても、注目され、評価されるのが嬉しかった。

そしてある日、ひとりの初老の男性に出逢った。
その男は、すぐに彼のウソを見抜いたが、彼を責めることなく、

「本当の君のことが知りたい。」

と言った、繰り返し、繰り返し。
盛った彼ではなく、盛る前の彼に、心からの関心と愛情を抱いたのである。

「本当のオレには何の価値もない。」

と言いながら、泣き崩れるシーンには、私も思わず胸を打たれた。

なかなかやるな、この脚本家。 

寄り添われずに育てば、自己の存在価値なんてないものと思うようになるに決まっている。
それでも生きて行くために、身につけたニセモノの自分。
それで得られる、薄っぺらな存在価値がある。
でもさ、そんなものじゃなくて、そのままの自分に、本当の存在価値を感じたいじゃないの。

こういう脚本に出逢うと、ちょっと嬉しくなる私でした。

 

 

「皆さんは一応安心していらっしゃるように見えますが、心の中ではやっぱり漠然たる不安を感じられているのではないかと思うのです。一体どうしたらいいでしょう。本当にこの何とも言えない不安を乗り超えることが出来るのでしょうか。ここで一つ深く考えて見ましょう。私たち日本人はもう少し、目に見えないものの持つ意味を感じられるのではないでしょうか。いや、我々にその力が自然に与えられているのではないでしょうか。あなた方は目に見えないもの、例えば自分の家族に対する愛、子供に対する愛、愛情、これは目に見えないですよ。それを私たちは信じているでしょう。私たちは自ずからそういうものを、感じる力を持っているのではないでしょうか。これは一体どんなことでしょうか。一体それはどこから来たのでしょうか。
近頃見ていると、男性も女性も若い人達、少なくとも私が接する限りには、そうしたことに関して非常に割り切っているというか、浅い考えしかもっていない感じがするのです。だからお互いの間に本当の信頼はないのではないでしょうか。本当の信頼がないくせに簡単に安っぽく信じてしまう。そういうイージーな信頼の結果裏切られることが多い。その上裏切られた時に傷つけられても、その意味を深く考えない。こんなこと大したことないと、打ち消してしまう。このような何か自分の生命とか、自分の生活に対する安易な態度、自分の生き方に対する浅薄な態度は非常に強くていい加減な生活をしているような気がするのです。
私達の祖先は、いろんな厳しい状態をずっと生き抜いてきました。その中で彼らはいろんな困難に面し、不安に直面して、真剣にどうしたら生きていけるかを考えました。そして何が本当にこうした不安を超えられるか、ということを真剣になって追求した人達がいるのです。…親鸞聖人はその一人でしょう。法然上人もそうですね。そしてこの方々が人間が本当に真の安定を得て、真の安心が得られるのは何かを教えて下さったと思うんです。ひるがえって今のインテリの方々に聞きたいのです。私にどうしたら安心が出来るのか教えてほしいのです。医学博士でも理学博士でも、どこのプロフェッサーでもいいけれど、それを聞いたときにハッキリ答えられる方はほとんどいないのではないかと思うのです。何故かと言うと、少なくとも学者達は科学的な考え方をしている限りは、この質問に関してはおそらく返事は出来ないと思います。」(近藤章久講演『現代を生きるための念佛』より

 

この当たり前の生活の背後にある、漠然とした不安を、あなたは感じたことがありますか?
拭(ぬぐ)っても、誤魔化しても、逃げ出しても、消し切れない不安があることを、あなたは感じたことがありますか?
そしてその不安を本当に乗り超えたいと、心の底から願ったことがありますか?
またあなたは、目に見えるものだけでなく、目に見えないものの持つ意味を感じたことがありますか?
そこに本当の安心への道がある、本当の安心へと連れて行って下さる力があることを感じたことがありますか?
消し切れない不安をひしひしと感じ取り、それを乗り超える道を真剣になって追求し、目に見えない働きを見い出して来た歴史が、この国の先人たちにはある、ということを知っておいていただきたいと思います。

 

 

諸般の事情により、世間のあちこちで値上げが起こっている。
個人的に、一番如実に値上げを感じるのは、スーパーやコンビニで食糧品関係を買ったときや、外食したときであろうか。
いずれも各店舗では非常な営業努力をされているわけで、それについてどうこう言うつもりはない。

ただ、値上げの仕方に二通りある。
以前のままの商品で、値上げするもの。
あるいは、値段は同じ(かちょっと上がったくらい)で、商品が小さくなるもの。

これまた個人的な願望であるが、前者で行くか、どうしても後者で行く場合には、「小さく(少なく)しましたよ~」とどこかにはっきりと明示してほしい。

消費者に気づかれにくいように、ちょ~っとずつサイズを小さくしたり、内容量を少なくしたものに出逢うと(「ステルス値上げ」とか「シュリンクインフレーション(shrinkinflation)」と言うらしい)、なんだかとっても寂しい気持ちになる。
値上げは、確かに、消費者にとっても痛いものであるが、生産者や提供者の大変さもわかっているつもりなので、国民みんなで一緒に乗り超えて行こう!という気持ちでいるところを、知らないうちに「ステルス値上げ」されると、なんだか騙されたような、信頼されてないような気がして来る。

そりゃあ、実際に値上げをブースカ言って来る消費者もいるだろうけども、ここらは生産者/提供者に“矜持”や“姿勢”を示していただきたい、と私は願っている。

「わたしたちも頑張っているので、サイズダウン/ボリュームダウンにご協力下さいっ!」とか。

先日、20年以上前から利用している洋食屋さん(盛りの良いので有名なお店)でオムライスを注文したら、黙~って、ひと回り小さくなったオムライスが出て来て、そのボリュームダウン以上にガックリ来た私なのでありました。

 

 

人間が自分の寿命のことを本気で考えるようになるのは、
大病や大きな事故・被災などを除けば、
四十歳過ぎくらいからではなかろうかと思う。

近藤先生はよく
寿命のことを考えるのは、
平均寿命の半分を過ぎたあたりか、
二親(ふたおや)が死んだ頃からじゃないかな、
と言われていた。

前者は、寿命を「あと何年」と数えるようになる年齢であり、
後者は、死への防波堤であった親がいなくなり、自分が直に死と向かい合うようになる年齢である。

蓮如上人は

「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法の事は、いそげいそげ。」

と言われ、早くにこの世界の真実を見い出すことを求められた。
若い頃は、そんなに焦らなくても、と思ったりしていたが、
年齢を重ねると、この一年、この一か月、この一週間、この一日の貴重さが実感を持って迫って来る。

ニセモノの自分、仮幻の自己を悠長に生きているヒマなんてないんだよね。

元より世俗的な成功や長寿などは、どうでもいい。
自分が今回、自分に生まれた意味と役割を果たしたか、果たしているか、本当の自分、真の自己を生きているのかが問題なのである。
そういう自覚によって、今この一瞬が濃くなるのであれば、寿命があることも、そしてその中で年を取ることも悪くないと思う。

 

 

二十代の頃だったろうか。
知人が
「まっちゃん、話を聴いてくれよ。」
と言って来た。
格段親しい男ではなかったが、伏し目がちにそう言う彼には、ただならぬ雰囲気があった。
「いいよ。」

そうして彼は話し始めた。
彼にはずっと片思いの女性がいたそうである。
悩み抜いた末に、思い切って彼女に声をかけ、今日、喫茶店で逢って来たのだと言う。
結局、踏み込んだ話はできないままに終わり、アパートに帰って来たのだが、洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、ハッとした。

「どうしたんだ?」
という私の問いに、彼は自嘲気味に答えた。
「ブレザーの左襟が立ってたんだよ。」

一瞬にして彼の言いたいことがわかった。

彼が彼女と逢っていた間、ずっとその襟は立っていたわけだ。
彼女はそれを直さなかった。
少なくとも指摘もしてくれなかった。
それが彼女の彼に対する関心の度合いであった。
彼がそんな格好で街を歩いていようと、どうでも良かったのである。

それが答えだった。

当時の私がうまいこと言えるわけもなく
ただ
「辛いな。」
と言うと、
彼はしばらく黙ったあと
「ありがとう。」
と言って、席を立って行った。

 

ブストーリーの映画を観ていて、何十年ぶりかでそんな話を思い出した。
胸の中がチクチクする話だった。


 

 

「大巧(たいこう)は為(な)さざる所(ところ)に在(あ)り」(『荀子』)

こんな言葉に触れると、ああ、東洋だな、と思う。

例えば、精神療法において、ああ分析して、こう戦略を立てて、こういうセリフを使って、あっちに持ってって、こう気づかせて、こんなふうに変わらせる、そんな手練手管(てれんてくだ)の、テクニック(技術)とスキル(手法)の精神療法が行われている。

いかにも自我の立った、「私」が「あなた」を操作する、「私」が「あなた」を治す、やり方である。
その点で、西洋の自我中心主義の臭いがプンプンする。
実際、そんな精神療法が多い。
それで本当に人間が変わったり、成長したり、救われたりするのであろうか。

それに対し、「自我の強化」どころか「無我」を志向する東洋では、そういう「自我」の「はからい」を嫌う。

「大功」の「大」は「人間を超えた力、働き」を表す。

「大功は為さざる所にあり」
人間を超えた力が働き、大いなる巧みさが実現するのは、人間が何もしないところにおいてである、というのだ。

人間が何もしない=「私」が何もしない=「自我」が余計なことをしないときに、人間を超えた力が働く。
そうして、何かを言う、言わされるときがある。
それで、人が変わる、成長する、救われるのである。

例えば、良き仏像を観ていても思う。
ああ、これは仏師が作ったのではなく、仏師が作らされた仏像だなと。

そして、西洋の名誉のために付け加えるならば、
『新約聖書』において

「何を言はんと思ひ煩(わずら)ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん」
(何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる)

とある。
やはりわかってらっしゃる方はわかってらっしゃる。

大功(大いなる巧みさ)は、そういうところで実現されるものではなかろうか。

 

ある海外ドキュメンタリー番組の中で、女性獣医がポツリと

「人間は他の種(species)と関係を持ちたがる動物だ。」

と言った。
このひと言が妙にこころに残った。

「確かに。」

ペットのことを思い浮かべればわかるように、人間はいろいろな他の種の動物と関係を持ちたがる。

そして、気がついた。

「おいおい、動物ばかりじゃないぞ。」

下手をすると、鉢植えや庭の木々などの植物とも関係を持ちたがっている。
少なくとも日本人はよく話しかけ、場合によっては木の幹に抱きついたりもする。

さらに、思い当たった。

「そう言えば、あのじいさんは庭石とよく話していたな。」

無生物まで行くか。
山や海や夕陽や月と話す人もいるぞ。

「関係を持つ」とは、どういうことか。

その存在と存在との根底において、ぶっつづきのものを感じるということである。

話が禅的になってきた。
いや、神道的か。

そんなものが感じられれば、世界の分断や対立もちょっとは少なくなるかもしれない。

まずは、動物でも植物でも無生物でもいいから、表面的な“隔て”を超えて「関係を持つ」ことから始めましょ。

 

 

時間と関心のある方には「書き初め」をお勧めする。

「書き初め」と言ってもただの「書き初め」ではない。
私のお勧めするものは、まず「お題」が変わっている。
まず黙って
『計画性がない』
と書いていただきたい。

書き初めに使う半紙のサイズは、よく使われる「半切」というもので、34.5cm×136cmの縦長サイズである。
これに縦書きで書く。

さて、実際に書いてみてどうなるか。
その結果は三つに分かれる。

(1)まずは、書いているうちに紙が足りなくなり、最後の「がない」あたりが立て込んで窮屈になるもの。
(2)次に、今度は紙が余って、「がない」の下に余白ができてしまうもの。
(3)三番目に、きっちり「半切」のサイズにバランスよく「計画性がない」の六文字がおさまるもの。

お気づきの通り、(1)と(2)には、いかにも計画性がない。
行き当たりバッタリに書き始めて、こういう結末になったことがわかる。
それに対して(3)は、計画性がある。
中には、予め「半切」の半紙を六つに折って、折り目を付けてから書き始める方もおられる。
何だったら「計画性がある」と書き直しても良い。

そして、である(これで終わりではない)。
ちょっと見直してみよう(ここからが本番)。

(1)の方は、「あれ、紙の残りが少なくなったぞ。」と気づいた時点で、今度は紙を下に継ぎ足しても良かったのである。
誰もそうしてはいけない、と言っていない。
そうすれば、「計画性がない」の六文字が問題なくおさまる。
(2)の方は、「あれ、紙が余っちゃうぞ。」と気がついた時点で、今度は余白部分を切り取っても良かったのである。
これまた誰もそうしてはいけない、と言っていない。

そうすれば、「計画性がない」の六文字が綺麗におさまる。
(3)の方は、半紙にきっちり六文字がおさまって大変結構であるが、ひょっとしたらその中に(全員ではないが)、内なる“見張り番”から「失敗してはならない」に脅されて、計画性にとらわれた人がいたかもしれない。
そういう人は、さっき申し上げた「計画性がある」ではなく、「計画性にとらわれる」という九文字で書き直した方が良いかもしれない。
もちろん半紙を九つに折って、折り目を付けてからきちんと書きあげることであろう。

で、何が言いたいのか。
この書き初めを通して
「靴に足を合わせる生き方」と
「足に靴を合わせる生き方」の
違いに気が付いていただければ、それで十分である。

そんな変わった「書き初め」。
おヒマな方はどうぞお試しあれ。

 

 

本来は、暦の上のどの一日も、二度と戻るものではなく、等しく尊いものである。
しかし、愚かな凡夫にとっては、どこかで区切りを付けないと、どの日も等しく尊いどころか、どの日も等しくどうでもいい日にしかねないため、「元日」という心機一転の区切りをつけている。
そういう凡夫のための暦の“からくり”については既に述べた。

そして、現行の新暦(太陽暦=太陽周期で「計算」)以前(明治初期まで)には、旧暦(太陰太陽暦=太陰暦(=月の満ち欠けで「計算」)+太陽暦)というものがあった。
しかし、これもまた日付がちょっと違うだけで、これこれこういう日を「元日」(旧正月)と「計算」し、それを区切りとするという考え方は旧暦も同じであった。

また、「二十四節気」による「立春」という区切りの付け方がある。
一年で最も昼の時間の長い夏至と、最も短い冬至を中心に決めたもので、平気法と定気法があるそうであるが、いずれにしても一年を二十四等分して「計算」し、そのスタート地点を「立春」と決めるという意味では、新暦、旧暦と五十歩百歩の考え方である。

が、しかし、である。
「二十四節気」だけは、旧暦や新暦と違って面白い点がある。
それはそこに「気」という言葉が入っているという点である。
そう。
この日を起点に「気」が変わるのである。
そういう「感覚」がその根底にあるのではないかと私は思っている。
いや、私としては、もう一歩踏み込んで申し上げたい。
「あれ、なんだか今日から『気』が変わった。」と感じて、その日を「立春」としたのである。
「気」が先。
「計算」などどうでもよくなってくる。

ある朝、起きてみて感じる。
外に出てみて感じる。
天を仰いでみて感じる。
この世界に満ちる「新たに」という強い力。
そうして初めて「新たな年」が始まった、と言いたくなるのだ

その「気の変化の感得」が先で、それでできたのがそもそもの「節気」というのが、私の個人的見解である。

その方が遥かに面白い。
面白いというより真実だと私は思っている。
「計算」という「理性」は、「真実」を感得する「感性(あるいは霊性)」の鈍い人たちのためにある、というのが私の見解だ。

元日くらいちょっと変わった、こんな話をしても良いだろう。

そんな話を近藤先生とよくしていたなぁ、と懐かしく思い起こす元日であった。

 

 

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