八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

皆さんは、十一面観音菩薩というのを御存知であろうか。
頭上に十の小面を付け、本面と合わせて十一面を持つ観音菩薩のことをいう。
今回は、その十一面の内訳のうち、正面三面の慈悲面と左三面の瞋怒(しんぬ)面の六面についてお話したい(他の五面についても話すと長くなるため、それはまたいつか別の機会に)。

まず正面三面の慈悲面。
慈悲のお顔が三つ並ぶ。
慈悲とは、抜苦与楽のこと。
苦しみを抜いて(抜苦=悲)、楽を与えて下さる(与楽=慈)。
深みを持った優しさのお顔立ちである。

次に左三面の瞋怒面。
瞋も怒りを表し、慈悲面と打って変わって、怒りのお顔が三つ並ぶ。
それも、あからさまな怒りというよりは、迫力を秘めた怒りを有しており、凡夫の迷いを断ち切るにはピッタリである。

そうなんです。
凡夫に光をもたらす慈悲面。
凡夫の闇を掃う瞋怒面。
どちらも観音菩薩の示す救いとして、十一面に含まれていることに意味があるのです。

慈悲面だけで、いつもよしよししてくれるのが、観音菩薩の働きではありません。
瞋怒面で、容赦なく闇を叩っ切るのも観音菩薩の救いであることを押さえておく必要があります。

人間の成長に関わるすべての人に慈悲面と瞋怒面を。
但しそれは、“あなた”の優しさや、“あなた”の怒りのことではないことをお忘れなく。

 

 

基本、我々は凡夫である。
それはポンコツでアンポンタンという意味である。

それなのに我々は、恐れ多くも、
親になったり、
先生になったり、
治療者になったり、
支援者になったりする。

とんでもない話である。
そもそもやれるはずがないのである。

それでも、どうしてもやるというのならば、その基本姿勢は、
「ポンコツでアンポンタンですけど、一所懸命やりますから勘弁して下さい。」
ということになる。

間違っても、自分が何かできるなどと思い上がってはならない。
何かできたように見えたときは、自分を通して働く力が何がしかのことをして下さっただけであり、
決して自分の手柄と思ってはならない。

凡夫は基本、無能・無力にしてしばしば(ほぼ)有害。

何もできないときや、相手に迷惑をかけそうなときは、天に向かって、
「助けて下さい。」
と祈りましょう。

それが、凡夫なりの精一杯+おまかせ、の生き方。
我々にはそれしかないのでありました。

 

 

そこでまあ、その安全ですけども、皆さん、どう考える? これはもう人間のね、子どものときに、僕は、そう思うんですね。子どものときに、母親のね、胸に抱かれて、こうやってるときにね、あれはね、なんとも言えない、安らかな感じがしますよね。あれは素晴らしい安全感だと思うんです。子どもにとって安全感ぐらいね、大事なものはない。このことを言い始めるときりがないですけどね、子どもの問題としてね。それがないためにどんなに、いろんな問題が起きてるかわからない。
そういうふうなことが、例えば、私の、ひとつの例を挙げれば、今、小学校の3年になる女の子が、登校拒否を始めた。何故か? それは、嫁と姑がいるんですね。その間がガッチャンガッチャンやったわけです。で、お母さんが、もうこんなところにはおれないから、私は出て行く、とこう言ったわけだね。それを子どもが聞いてたわけですね。そうするとね、すごく不安になるわけですよね。そのためにね、学校に行ってる間に、もしやお母さんがどっかに行っちゃうんじゃないか。それでね、学校に行かないでお母さんの傍にくっ付いたままでいるんですよ、こうやって。それが登校拒否の原因だと。つまり、自分にそういった安全がなくなるということ、お母さんについてね。まあ、そんなことを、まあ、ひとつの例で挙げますけどね。
そういう安全感というのは、子どものときから、そういうものがずっとあると思うんですよ。けどね、そのために、さっき言ったように、我々は大人になっても、自分の安全を守るためにいろんな方法をしてるわけなんですけどね。一体、安全というのは何のためにある。もう一遍考えてみる必要がある、と私は私のとこにいらっしゃる方に言うんですよ。僕はよくわかりますと。僕だって安全っていうことを考えますと。しかし、安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか、いうようなことを、まあ、訊いてみるわけです。これはまあ、いろいろ、皆さんも議論があると思うんです。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)

 

子どもにとっては、まず自分の心身の安全は最重要事だと思います。
そうでないと、小さくて弱い子どもは生きて行けません。
そしてそのときに覚えた自分の安全の守り方が、大人になってからも自分の安全の守り方のベースになって行きます。
その安全の守り方が、健全なものだと良いのですが、残念ながら多くの大人が身に付けているのは、前回取り上げた「神経症的人格構造」ということになります。
おかしなことをやらかしてでも、自分の安全を守りたい。
事程左様(ことほどさよう)に、人間というものは、自分の安全が大事というわけです。
そこで近藤先生は、疑問を提出します。
安全を守るということは人生の目的なんでしょうか。私たちの生きる目的なんでしょうか。
まあ、すごい質問をさらっとおっしゃるもんだ、と初めてこの講演テープを聴いたとき、私は唸ったのを覚えています。
皆さん、答えられますか?
私はすぐにイエス・キリストのことが思い浮かびました。
吉田松陰のことが浮かびました。
坂本龍馬のことが浮かびました。
自分の安全よりも、殺されてもなお果たすべきミッションがある。
そもそもそのために授かった生命(いのち)であったと。
何も死ねば良いと申し上げているわけではありません。
いざとなったら、安全とミッションとどちらを取りますか、という問題であり、
そもそもあなたは自分のミッションが何かを見い出していますか?という問題です。

そういうことがわかって初めて、安全を守ることが第一の子どもの生き方から、ミッションに生きて死ぬ大人の生き方への成熟があるんじゃないか、と私は思っています。

 

 

相手の中に問題が観えたとき、その問題にどこまで斬り込んで行くか。

相手の芯まで斬り込んで行く。
これを「裁く」という。

それでは相手を殺してしまう。
斬り込み過ぎである。
表面の「闇」だけなら良いけれど、奥にある「光」まで斬ってしまってはならない。

しかし、だからかといって、何も斬らず=問題に触れず、調子の良いことばかり言っていては、何も変わらない。
そうなるのは結局、こちらの問題であり、自分が良い人でいたいのである。
つまりは、利己的で冷たいのだ。

そうではなくて、相手の「闇」の部分に斬り込んで行く。
それによって「光」の部分を出やすくする。
これを「育てる」という。
本当の意味で、相手を活かすことになる。

そもそもの人間存在の二重構造。
生まれたときに授かった「光」の部分=本来の自己を実現しようとする働きを活かし、
生育史の中で後から付いた「闇」の部分=本来の自己の実現を疎外し、ニセモノの自分を維持しようとする神経症的な部分を払って行く。
いつもこの基本構造をお忘れなく。

 

 

親と喧嘩して、仕送りも止められ、四畳半風呂なしアパートで暮らしていた頃、アルバイトで大学の授業料や生活費を稼いでいた。
仕事と学業との両立は大変で、収支やら国家試験やら、先のことを考えると、時に重苦しい気持ちになることもあった
そんなとき友人からビールの500ml缶を一本もらった。
飲むこともない生活だったが、夕食時に飲んでみると、気分に変化が起こった。
事態は何も変わっていないにもかかわらず、今後のことが何とかなりそうな気分になったのである。
我ながら、単純だなぁ、と思いつつ、これが“気分”というヤツだと思った。

我々は、理性的・合理的にものを考えているように見えて、実は悲観も楽観も“気分”に支配されていることが多い。
その証拠に“気分”は簡単に流転する。

認知症の妻を介護している高齢男性が、ある日介護に疲れ、将来を悲観して、心中でもしようかと思い悩んだ。
そんなとき、娘家族が二人の様子を見にやって来た。
すると、3歳の孫娘がおじいちゃんに抱きつき、「おじいちゃん、大好き!」と頬にキスをしてくれた。
事態は何も変わっていないにもかかわらず、今後のことが何とかなりそうな気分になった。
家の中が明るく見えた。
これも“気分”。

ある日、上司に怒られ、財布を落とし、犬のウンコを踏んでしまった女性がいた。
なんて日だ!としょげていたが、帰り道、前を歩く人が手袋の片方を落としたので、拾ってあげたら、韓流風イケメンお兄さんからテレビドラマの一シーンのような爽やかな笑顔で「ありがとう。」と言われた。
それまでの出来事がなくなったわけでもないにもかかわらず、今日もなんだか良い日のような気持ちになっていた。
これも“気分”。

よって、こういった“気分”の特性をとらえて、たとえ悪い“気分”にとらわれたとしても、ちょっとしたことで良い“気分”に転じられる、ということを覚えておきましょう。
そして、どうやっても“気分”が転じないことに関しては、腹を据えて見つめていきましょう。
それは“気分”の問題ではなく、しっかりと勝負すべきテーマです。

 

 

「内省」とは自分で自分のこころを見つめることを指す。
しかし、世の中には「内省」に乏しい人がいる。
しかも、厄介なのは、当の本人が、
「内省」など微塵もなく、そのまんまでいるのなら、それはそれで致し方ないのであるが、
中には「自分は内省できている」、下手をすると「自分は他人よりも内省できている」と思っている人がいたりして、事態はなかなかに複雑である。
それ故、自分が内省に乏しいということに気づく(そして認める)までに、結構な時間を要することになる。

ちなみに、八雲総合研究所の「人間的成長のための精神療法」は、「内省」を基軸として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を求めているため、「内省」に乏しい方はなかなかに苦労することになる。
「内省」が苦手な分だけ、私がそこを補って「内省」をガイドして行くことになるのだが、問題は、本人にとって重要であるがなかなか認め難い問題に直面したときに、
私を信頼し、そして厳しくとも真実と向き合おうとするか(痛いけれど松田先生がそう言うのならきっとそうなのだろう)、
私を信頼できず、また、その問題を認めることもできず、脱落して行くか、ということになる。

精神科臨床においても、脳の機能的に内省が乏しくなってしまう精神障害はいろいろあるが、いずれにしても内省に乏しい=自分一人では気づきにくいわけであるから、上記の私の場合と同じく、苦手な自分の代わりに、何に頼るか、誰に頼るか、ということになる。
現実には、自分の苦手なところを補完してくれる、信頼できる人間を見つけるのがベストである。
痛いけど、この人がそういうのならきっとそうなのだろう、と認められれば、開けて行く未来がある。
そういう人を見つけられなければ、自分が気づかないうちに、迷走、暴走し、他者を傷つけ、自己を貶(おとし)める危険性が高まる。
それでも自己流でやるのを選ぶのであれば、それに伴って生じる結果は、自己責任において引き受けていただく他ない。
あとは面々のおはからいである。

内省に限らず、自分ができないことは、信頼できる他人にお願いするのが、共に生きるこの世界の大事な原理であると私は思っている(私もいろいろお世話になります)。


 

縁あって出会った人たちを見ていると、親からちゃんと寄り添われなかっただけでなく、ひどい扱いを受けて育って来たために(時にそこに学校時代のイジメ体験が加わることもある)、他人のことなどどうでもよく、とにかく自分第一、そんな保身の生き方を身に付けている人が意外といることに気がつく
そんな人にとっては、
他人は自分の安心のための道具であり、保身のために卑怯かつ狡猾に立ち回ることが板に付いてしまい、それが人間として恥ずかしいことだという意識にも乏しい場合がしばしば見受けられる。
しかし、哀しいかな、保身に走る自己中人間は必ず、誰からも疎(うと)まれ、嫌われることになる。
確かに、そんな人間が愛されるわけがない。
そして結局は、誰からも顧みられず孤独の中で生き、やがて死んで行くことになる。
勘の良い方はお気づきであろう、それは子ども時代の見事なまでの再現なのだ。
つまり、幼少期に親からかけられた呪い=結局おまえは誰からも愛されない、が見事に成就するのである。
そんな哀れな人生もある。

しかし、救いのチャンスもある。
本人が、幸いにも(と敢えて申し上げるが)、誰からも疎まれ、嫌われることによって、なんでいつもこうなるのだろう、と自分の問題に気づき(
気がつくだけでは何も変わらないが)、さらに覚悟を持って自分の保身の姿勢を変えて行きたいと心から願う場合もある。

しかし、そこまで来ても、生きる姿勢を変えることは至難の業(わざ)である。
何故ならば、保身のための卑怯・狡猾な生き方がこころにこびりついてしまっているため、その言動を一から十まで徹底的に洗い出さなければならなくなるからである。
即ち、本気でやろうと思えば、朝から晩まで、その言動にダメ出しされ続け、また自分でもダメ出しし続けることになる。
しかもそれが、場合によっては、年単位で続く。
これは相当に厳しい。
その全否定の嵐に耐えられるか。

私が現実に関わった中では、その全否定の嵐と向き合い、保身を突破し、本来の自分を取り戻した方が若干名いらっしゃる(それ以外は残念ながら脱落された)。
しかも、その行程は平均で十年。
よくまあ、その間、毎回毎回面談の度にほぼ50分間ダメ出しを受け続けるのに、通って来られたと思う。
その姿勢には心から敬意を表する。
そして何よりも、その人の人生が根本から変わった、ということに心からの喜びを覚える。
人間の人生が変わるんですよ、根底から。

そして、あれほど自分の事しか考えなかった人たちが、
自分の愛する人のためなら死ねる
自分の生きる信条のためなら死ねる
という境地にまで到達するのである(但し、一時の感情から口先だけでそう言う人と、実際に行動に移せる人の間にはかなりの差がある)。

これはね、いわゆるフツーに生きてる人たちの中にも、そこまでの境地の人はなかなかいませんよ、実際。
いざとなったら、愛する人も放り出し、信条も投げ捨て、保身に走るんじゃないでしょうかね。
そういう意味では、常に保身に走っていた人間が、愛する人と信条のために死ねるようになったということは、本当に稀有なことなのだと思う。
元より、人間の成長を真に促すのは人の力ではないけれど、私も微力ながら苦労しましたよ、はい。

人間の成長の可能性という意味において、そんな十年に一人の人も確かにいるということをお知らせしておきたいと思う。

 

 

以下、「治療」と「成長」の違いをイメージしていただくための例示である。

例えば、親から厳しく締め上げられて来た人に共通の弱点として、大人になってからも同様に強面(こわおもて)の上司、先輩に対して非常に弱い人がいたとする。
目が合っただけでドキドキする。

傍に行くとすくんでしまう。
その人の一挙手一投足にアンテナを張ってしまう。
また明日会うかと思うと前の晩の寝つきが悪くなる。
などなど。
かつて恐かった親と共通の要素を持つ人間が、その人の“天敵”となる。

しかし、小さくて弱かった子どもの頃はしょうがなかったにしても、大人になってからも恐れ慄(おのの)くようでは大きな問題となる。

そして、その後の展開は二つに分かれる。
その分かれ目のポイントは二つ。
一つは、それによって、実生活に支障が出るか否か。
二つは、そういう自分と勝負して変えて行きたいと心の底から思えるか否か。

まず前者は、そのために出勤できなくなるとか、仕事のパフォーマンスが落ちるなどといった「実害」が出るようになれば、受診するなどの「治療」が必要となる。
それでもなんとか仕事に支障をもたらさないように踏みとどまれているのであれば、「成長」によって乗り切れるかもしれない。

次に後者は、「恐い、恐い。」「どうしよう、どうしよう。」となって、恐怖や不安に呑み込まれ、とても内省したり、現状を打開するために勝負して行こうという気持ちになれないときは、これまた受診するなどの「治療」が必要となる。
そこまで行かず、起きていることを内省でき、現状と向き合って乗り越えてやるという決意が持てるのであれば、「成長」の道が開ける。
両者とも「治療」となると、例えば、環境調整を行ったり、薬物療法を使ったりして、まず気持ちに余裕を作って行く必要がある。それからでないと内省も勝負もできない。
(念のために申し添えておくと、「治療」するのが良い・悪いという問題ではない。当人にとってどちらの道を選ぶことが適切なのかを判断することが重要なのである)

当研究所で面談をお受けできるかどうか、という際にも、上記の2点がポイントとなる。
「治療」が必要な人には、中途半端なところでお茶を濁さず、しっかり「治療」を受けることをお勧めする。
そして、「成長」でやっていける人には、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を要求する。
自分と向き合って内省するのも、現状と勝負して具体的に言動を変えて行くのも楽なことではないが、それができる人が、当研究所の「人間的成長のための精神療法」向きということになる。

 

 

そもそも
集団の中に身を置くということの意義はどこにあるのか?
他の人と交わるということの意義はどこにあるのか?
結婚するということの意義はどこにあるのか?
誰かと一緒に暮らすということの意義はどこにあるのか?
子どもを授かるということの意義はどこにあるのか?
子どもを育てるということの意義はどこにあるのか?
学校に行くことの意義はどこにあるのか?
教育ということの意義はどこにあるのか?
会社に行くということの意義はどこにあるのか?
働くということの意義はどこにあるのか?
会社を経営するということの意義はどこにあるのか?
人に働いてもらうということの意義はどこにあるのか?
自分が自分とし生まれて来た意義はどこにあるのか?
生きるということの意義はどこにあるのか?

但し
建前の見解は要らない。
七面倒臭い観念的な見解も要らない。
うまいことまとめただけの合理化の見解も要らない。
本当に
腹落ちする
心の奥底でしっかりと噛み合う
そんな答でなければ意味がない。

そんなこともわからずして
不登校の子どもたち
引きこもりの子どもたち
出社拒否の大人たち
就労支援やリワーク対象の大人たち
会社経営に悩む経営者たち

人生に悩む人たち
生れて来た意義や生きることの意義を見失っている人たち
の力になれるわけがないのである。

自分が答えを持っていないんだもの。
その答えを突き詰めることなく、ただ上っ面だけ適応して生きて来た人間に、真に悩める人たちの応援ができるとは思えない。
それに引き換え、
今、行き詰っている人たちは切実に悩んでいる。
よって、真実の答えでないと納得しないに決まっている。
結局、そこに小手先の〇〇療法やハウツーで解決しない人間の問題があるのだと思う。

真実の答えを持った人間になろう。
その答えと合致した生き方のできる人間になろう。
それが自分自身が成長する道であり、
それと同時に、自分以外の人間を応援できるようになる道なのである。

 

 

「私がもうひとつ言いたいのは…さっき言ったように、日本において特に出てますものは、
[1]相手の好意とか、愛情とか、それによる保護によってですね、それを得て、自分の安全を確保しようという傾向。そういうものが非常にはっきりしてる。

[2]第二には、今度は、権力とか、地位を得て、それによって、あるいは富を得て、それで自分が安心しようとする考え方。
[3]第三には、そういうものから、あの、できるだけね、もう人とも、ね、それから何でも、自分はこれだけの、こういうのを作っちゃって、箱みたいなものを作って、それの中でもう、知りません、存じません、ありません、干渉しません、私は関係しません、私はこうです、とこういう具合にパッとこう決まっちゃってね、中にピシャッと入っちゃう。こういう安全。
そういうね、ざっと言って、三つのね、型が、私は、あるように思うんですよ。それぞれね、面白いけれども、私のところにいらっしゃる、いろいろ悩んでる方は、そういうことでね、結局ね、自縄自縛(じじょうじばく)になってる人が多いんだ。
[1]まあ、安全っていうこともね、最初から言うと、人の好意に頼り、人の善意に頼り、人の保護に頼ってるとね、確かにそれが得られれば安全ですね。ところが、我々個人、自分自身の感情を考えてみてもね、感情なんて、こんな頼りにならないものはないですね。愛情とか何とかいうんだってね、好意だって。愛情だって、あなた、恋愛でお互いに、好きだわよ、永遠に好きだわよってなことを言っててもね、それだって3年したら離婚したりするなんかするんですからね。これ、非常に頼りにならないですよ、はっきり言うとね。そういうふうなね、この、安全っていうふうなことを考えていてもね、人の好意だとか愛情ってのは、本当、よっぽどやってないと、努力しないとね、続かない、大変です。そういうことでね、基本的には、そういうものがいつも不安な状態にありますね。不定(ふじょう)と言いますかね。そういうもんなんですよ。
[2]二番目にね、権力ってことを言いますね、地位。ところが、その、我々が考える権力とか地位とかっていうものね、考えますとね、富でも良いですよ、それもひっくるめて良いですけど、それも一体いつまでもパーマネント(permanent)に、永久にあるものかどうかですよ。…
[3]それからまた、最後はこういうふうな、こう、中に入っちゃって、もう関係しない、私は、俺はもうこれで良いとこうなる。こうやってるとね、僕に言わせれば、これは実に安全なの。人に関係しない、影響を受けない。安全なんだけれどもね、私に言わせたらね、これは一番牢屋の安全と同じだと思うんですね。牢屋の中に入ってね、こう、四面全部コンクリートかなんかでやって、こうやってね、安全だっていう。
で、昔、私は古いですからね、明治の人間だから、アレだけども、教科書があったんですね。それの中に、今の、子ども心に覚えてるのはね、サザエのことなんですよね。サザエがね、そこにいたら、ワーッとこう、変なふうにごちゃごちゃして来たと。あ、大変だっていうんだね。自分は、しかし、こういう城があるから大丈夫。ピシャッと中に入っちゃってね、中でこうやってたというんですよね。それで、他のタイだとかヒラメだとか、みんな、慌ててる。ああ、可哀想なもんだ、私はこうだ、と。そうしたらね、しばらくしたらね、フッとこう開けてみたらね、3銭で、3銭なんて今頃ないけど、3銭で売られてたって話なんですよね。私やっぱり、そういうもんだと思う、つくづくね。そのことを、私、小さいときに教科書で読んですごく印象を受けてね。どうして印象を受けたかよくわからないけどね、すごく印象を受けちゃった、ね。今頃、私、こういう仕事をしてね、ああ、なるほどね、こういう具合に セルフ・リミティング(self-limiting)、自分を制限し、自分の成長を制限してる人はね、そういうことになっちゃうんだっていうことが、今さらわかったんです。ただ、これをね、みんなわかるんですよ。
例えば、これ、一番深いところに何があるかっていうと、人間っていうのは自分の安全ということをものすごく感じるんですよ。こういうことを言ったら、上役に言ったら、機嫌が悪くなって、悪く思われて損だ。損だというのは自分が安全じゃない、ということ、ね。あるいはまた、こういうことを下の部下に言ったら、みんな、気を悪くして思うだろう。自分の、やっぱり、安全なのね。この中に何があるって、つまり、さっき僕は環境って言ったけどね、環境にさらにプラス、我々の心の中にある問題があると思うんですよ。それはね、自分の安全っていうことをものすごく考えてる。サザエ。サザエも自分の安全を考えてるわけ。
その安全の方法は、
[1]人にこう取り入って、人に甘えて、人のこう関心を得て、安全を得ようっていうのと、
[2]人に優(まさ)って、優越して、支配して安全を得ようっていうのと、
[3]それからもう、人からもう全部逃げ出しちゃってね、自分はこうやってやってると、いうふうなことで安全を得ようと、
いろいろあるんですけどね。動機はいろいろあるけれど、我々の心の中に、安全っていうものに対するものがある。」(近藤章久講演『人間の可能性について』)

 

今回は、近藤先生がカレン・ホーナイの「神経症的人格構造」の種類について、わかりやすく説明して下さっている。
(これについては、『塀の上の猫』の「ホーナイ派の精神分析」の中で、今後説明して行く予定なので、関心のある方はご参照あれ)
整理しやすくするために、かつて小さくて弱かった子どもたちが、自らのこころのの安全を確保するために身につけざるを得なかった「神経症的人格構造neurotic personality structure」の三つの種類の名称を挙げておくと、
[1]自己縮小的依存型(self-effasive dependent type)…Toward people
[2]自己拡大的支配型(self-expansive domineering type)…Against people
[3]自己限定的断念型(self-restricting resignation type)…Away from people
となる。
(それぞれについて、上記の本文の中の[1][2][3]に対応させてある)
いずれにしても、我々が自らのこころの“安全”を求めて、誤った神経症的人格構造を身につけ、そのまま大人になってしまった、ということを押さえておいていただきたいと思う。

 

 

当研究所の「人間的成長のための精神療法」を受ける要件として、「情けなさの自覚」ということを挙げている。
即ち、面談希望者に、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、という自覚を要求しているのであるが、何故これを求めているかというと、それがないことには、人間が成長しない、伸びしろがないからである。
言い換えれば、自分には問題がない、解決すべき成長課題がない、と思っている人が、真摯に自分と向き合えるわけがない。
その能天気さというか、思い上がりというか、そういう自己認識でいたいのであれば、痛くない腹を探られたくはないだろう。
そう。
そもそも痛くないのである。

そして、我々がある程度の自覚を持って、自分に問題がある、解決すべき成長課題がある、と思ったとしても、それはまだ氷山の一角に過ぎない。
自分が気づいているよりも、遥かに多くの、そして、遥かにひどい問題が存在する。
それこそ、ラスボスが出て来るまでには、たくさんのステージをクリアして行かなければならないのだ。
そうすると、自分が気づけているよりも自分は遥かにひどいらしい、という自覚を持った方が良い、ということになる。
それが「情けなさの自覚」よりも、ちょっと深い「凡夫の自覚」である。
基本的に我々は、愚かなくせに愚かだと気づいていない。
ちょっと気づいたくらいで、すぐに自分の愚かさをわきまえているようなフリをするが、その実態は、本人が気づいているよりも何倍、何十倍、何百倍、…何億倍、何兆倍もひどいのである。

かつて近藤先生は
「自分のような者が…」
という表現をしばしば使われたが、それはよくある謙遜のポーズではなく、本気で言っておられることが伝わって来た。
また、八十代になられてからも、当時三十代の私に
「もし僕が間違っていたら、教えてくれよ、松田くん。」
とこれまた、本気でおっしゃっていた。
そこに「罪業深重、底下の凡夫」という自覚がある。

だから、永遠に成長できる。
成長させていただける。
救っていただける世界が展開して行く。

だから、誤解なきように。
「凡夫の自覚」の行き着くところは、地獄のような自己卑下の世界ではなく、浄土のような成長と救いに満ちた世界なのである。

 

 

人間、自分の問題と向き合うのは、なかなかしんどいものである。
しかし、本気で向き合わない限り、本当の自分の人生はやって来ないので、そこは覚悟を決めて勝負するしかない。

だけれども、そもそも自分に問題があると思っていない、気づいていない、気づきたくない人たちがいる。
中には、はっきりと「自分と向き合いたくありません。」と明言した人もいた。
もしその人が大人であれば、それもまた大人の選択であり、自己責任において、それなりの人生を歩んでいただくしかない。
私とは縁のない人たちである。

そして、自分の問題に行き詰ったり、誤魔化し切れなくなったり、心底うんざりして来た人たちがいる。
苦しい状況ではあるが、人間はそうならないと、なかなか自分の問題と本気で向き合わないものである。
そういう人が意を決し、覚悟を持って、面談を申し込んで来られる。
そうなれば大歓迎である。
間違いなく私と縁のある人たちである。

難しいのが、その間の人たちである。
自分に何らかの問題があることには薄ら気づいているが、まだ覚悟を決めて、正面から勝負する気になれない人たちがいる。
こういう人たちは意外に多い。
こっちもね、つい手を差し伸べてくなるんだけど、やっぱり準備ができていないと、時間の問題で逃げるか、脱落して行くんだよね。
深まる人、そうでない人、過去の面談記録を整理しているうちに改めてそう思った。

ひとつの目安として、それまでの自分を全否定しても成長して行きたい、と思えたら、準備はできていると思う。

焦らなくていい(時熟を待とう)、しかし、待ち過ぎなくていい(年を取っちゃうからね)、ちょうどのところでいらっしゃい。
 

 

ある発達障害の中学生の男の子がいた。
相手の気持ちが読めない、空気が読めない、暗黙の了解がわからないなどの特性を持つ彼は、クラスメートとのコミュニケーションがうまくいかず、いつもクラスの中で浮いた存在となっていた。
彼としても、ただ無策にその状況に甘んじていたわけではなく、その状況を打開すべく彼が始めた作戦は、いろいろな“情報”という“貢ぎ物”をクラスメートに提供することで、その関心を得ることであった。
“情報”と言っても、その中味は、ゴシップネタや噂ネタ、三面記事ネタという、いわゆるゲスネタである。
そのモデルとしては、見栄っ張りでいながら、実は裏でゲスネタ好きの母親の影響があった。
みんな、ゲスネタが好きに違いない。
「〇組の△△くんと□□さん、付き合ってたけどもう別れたみたいよ。」
「××くんのお父さん、実はズラなんだって。
「◎◎さんのお母さんて、再婚でフィリピンの人らしいよ。」
どうでもいい“情報”提供が続く。
そんな話をすると笑いながら聞いてくれるクラスメートの顔を見て、彼は自分の作戦が成功していると思っていた。
しかし事実は真逆で、クラスメートは彼のいないところで、
「あの、おしゃべり、誰か黙らせろ。」
「ホントにバカだな、あいつ。」
「ニヤニヤしながらくっだらないことを話すあいつの顔を見てると反吐が出る。」
などと言って嘲笑の的になっていた。
そしてそういったクラスメートの声に気づいた担任教師が彼を読んで話をした。
「君の話は全く受けてないよ。」
「それどころか、君は、君のいないところで、散々バカにされ、嘲笑の的になってるよ。」
「ゲスネタは貢ぎ物にはならないんだよ。」
最初、驚いた顔をしていたが、担任の先生による行き届いた説明で、ようやく起こっていることを理解することができた。
じゃあ、これからどうしたら良いのか、途方に暮れる彼に、先生はアドバイスを続けた。
「まずゲスネタは収集するのも話すのも一切やめた方がいい。知ればしゃべりたくなるから、最初から何も知らないのが一番だ。」
「ゲスネタの代わりに、クラスメートの誰かのいいところを見つけて、褒める話をするといい。」
「但し、面と向かって言うのはTPOを間違えると却って逆効果になるから、本人のいないところで、別のクラスメートたちに話すのがいい。」
「その頻度は、週に一回までね。たくさん言うとこれまた嘘っぽくなるから。」
「本当にいいと思ったことだけ言うんだよ。」
などなど、具体的かつ懇切丁寧なアドバイスが続く。
そして特筆すべきは、やっぱり彼が素直だったことである。
彼は一所懸命にそれを実践した。
中には、彼にゲスネタを言わせようと、わざと話を振って来るクラスメートもいたが、彼は一切それに乗らなかった。
そして半年。
クラスの中での彼の立場は変化していた。
確かに特性のせいで、うまくいかないことも相変わらずあったが、まわりが話していても一切ゲスネタを口にせず、クラスメートのいいところを陰で言う彼の姿勢は、それなりの信頼を得ていた。

いい先生との出逢いを得たことももちろん大きいが、
時に「人間としての素直さは特性を上回る」ことを強調しておきたいと思う。
やっぱり人格は人間の一番の宝である。
 

 

 

1989(平成元年)、国連総会で「子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)」が採択され、翌1990(平成2)年に発効された。日本がこの条約を批准したのは1994(平成6)年である。
その主な内容としては、以下の四つ。
(1)生きる権利 …すべての子どもの命が守られる権利。
(2)育つ権利  …自分らしく健やかに育つことができる権利。
(3)守られる権利…あらゆる暴力や搾取、有害な労働などから守られる権利。
(4)参加する権利…自分の意見を言ったり活動したりできる権利。

その内容に関して異論はないが、どうも「権利」という考え方自体が私にはしっくり来ない。
今さらここで「そもそも『権利』とは…」「そもそも『人権』とは…」という観念的議論を始めるつもりもない。
関心のある方は、その筋の文献に当たってみることをお勧めする。
そうではなくて、本当に子どもたちを守り、育てようとした場合、「権利」という概念を啓発し、教育し、流布し、理解してもらうことで、現実にどれだけ人間の行動変容が起こるのか、ということが私の最大の関心事なのである。
確かに、「無知」や「誤解」によって起こった問題ならば、正しい「知識」と「理解」によってその問題は解決されるかもしれない。
その意味では、「子どもの権利条約」が採択され、批准されることには大きな意味がある。
「子どもの権利」意識は高まるかもしれない。

しかし、私はそれよりも、人間としての当たり前の“感覚”の方を遥かに重視している。
目の前の子どもたちを見て、この生命(いのち)を守りたいと感じ、健やかに育って行ってほしいと願い、あらゆる被害から守りたいと思い、のびのびと生きられるようになってほしいと祈ることは、「子どもの権利」意識の知的理解から来るのであろうか。
私はそうは思わない。

悲しいことに、「子どもの権利」については知的に熟知していながら、実際に、我が子を、生徒を、子どもたちを「権利侵害」をしてしまっている人たちがいることを私は知っている。
「権利」意識は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは些か弱いと私は思う。
言い方を変えれば、「権利」の「知識」や「理解」は、ひとつの抑止力にはなると思うが、現実的な抑止力になるには、それだけでは十分でないと私は思う。

反対に、「子どもの権利」という概念を知らなくても、人間としての当たり前の“感覚”から、子どもたちを愛している人たちがいる。
なんらかの理由でつい子どもたちに辛く当たってしまった場合にも、人間としての当たり前の“感覚”から、すぐに後悔し、懺悔する人たちがいる。
私は、そんな人間としての当たり前の“感覚”の方が、気をつけなくても、考えなくても出て来るので、余程信頼できると思っている。

但し、この“感覚”は、教わらなくても人間に最初から与えられているものなのだが、その後の生育史の影響によって、その“感覚”が塵埃に覆われて、鈍くなっている人たちが少なからず存在する。
よって、その塵埃を掃う作業が必要になって来る。
そうでないと、“感覚”というものは、“敏感”であれば絶対的な確かさを伴うが、“鈍感”になると曖昧模糊として非常に頼りないものになり下がってしまうのである。
但し、その作業は、「知識」や「理解」では無理である。
それは「内省」と「体験」によってしか行われない。
詳細は長くなるので割愛するが、当研究所で行っている「人間的成長のための精神療法」も、人間としての当たり前の“感覚”を磨くためのひとつの道である、ということは、手前味噌でなく、付け加えておきたいと思う。

ちなみに、「子どもの権利条約」と同様のことが、「障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)」(2006(平成18)年国連総会で採択。2014(平成26)年に日本も批准)についても言える。
障害があろうとなかろうと、人間同士が互いにその存在に畏敬の念を抱き、愛し合うことは、人間としての当たり前の“感覚”によるものであると私は思っている。

 

 

テレビでやっていたあるドキュメンタリー。
舞台が我が故郷・広島であることもあって、見入っってしまった。
貧困と育児放棄の下で居場所がなく食事も摂れない子どもたちのために、話を聞き、説教もし、手作りの食事を提供し続けているばっちゃんがいた。
いろいろ“事件”(万引きなどの非行)をやらかしてくれる子も多く、来る日も来る日も、朝から晩まで夜中に起こされても、ばっちゃんは子どもたちを支え続ける。
急に電話をかけて来て、御飯を食べに来る子がたくさんいた。

ディレクターの質問に答えて言う。
「こがいに大変なのに、なぜ続けるん?って、それ、みんなが聞くんよ。」
当人は本気でこう答える。

「私にもよう分からんのよ。」

しんどいことが続くと
「『もうせーん!』
 なんでここまでせんじゃいけんの!』ちゅうて、
 しょっちゅうヒス起こすことが多いよね。」
とあからさまで、このばっちゃんは全く良い格好をしようとしない。

〈それでも続くのは〇〇さんにも喜びが?〉
とディレクターがばっちゃんに“よくある答え”を言わせようとして誘導尋問するが、
ばっちゃんは質問にかぶせるように
「ありゃせん!」
と即答し、
「つらいばっかり!」

そうなのだ。
すぐにヒスを起こし、イヤになってしまう凡夫のばっちゃんである。
しかしそのばっちゃんを通して働く力が、この人に尊い菩薩行をおこなわせているのである。
本人の意志でやっているわけではないので、
「私にもよう分からんのよ。」と言うのも当然である。
本人の意志を超えたものが本人を突き動かしている。

ここに“凡夫の菩薩行”がある。

感動してしまった。

少年院帰りの男の子にディレクターが尋ねる。
ばっちゃんに電話をかけては御飯を食べに行っていた彼は
「前は食堂みたいな感じだったんですけど。」
と言い、それを聞いたディレクターがまた誘導尋問をする。

〈ばっちゃんに言ったら何て言うかね?〉
「食堂」なんて言ったらばっちゃんに怒られる、みたいな答えを想定していたのだろう。
しかし、彼の答えは違った、
「『悪さするより電話してきてえらかった、えらかった。』と言うと思う。」

ばっちゃんを通して働く愛は、ちゃんと彼に届いていた。

 

 

「利益相反」とは一般に、「ある行為により、一方の利益になると同時に、他方への不利益になる行為のこと」をいう。

私が関わるカウンセリングやサイコセラピー、精神科医療の分野では、「利益相反」ということに余り関係がないように見えるが、実は絡んで来ることがちょくちょくある。

例えば以下は、学校とスクールカウンセラーが関係して来る場合である(学校とスクールカウンセラーの名誉のために断っておくと、子どもの成長のために誠実な努力を続けている学校やスクールカウンセラーが存在することを私はよく知っている)。

時にスクールカウンセラーが、学校側から直接に、あるいは、暗黙裡に不登校の子どもを学校に登校できるようにしてくれ、という要望を受けることがある。
そして、スクールカウンセラーの雇用は実質上、学校側に握られている。
そうなると
、スクールカウンセラーが自分の雇用を守り、学校側からの自分の評価を上げようと思えば、子どもに対して登校を促す関わりをすることになる。
しかし、当の子どもの成長にとって、少なくとも当面の間は、今の学校に登校しない方が良いと思われた場合、スクールカウンセラーは板挟みの立場に立たされる。
つまり、登校促進が、学校にとって利益となる(不登校を減らす)と同時に、子どもとスクールカウンセラーにとって不利益となり(子どもの成長を阻害することになりかねない/スクールカウンセラーとして魂を売ることになる)、
反対に、不登校容認が、子どもとスクールカウンセラーにとって利益となる(今の子どもの成長を守ることができる/スクールカウンセラーとしての矜持を守ることができる)と同時に、学校とスクールカウンセラーにとって不利益となる(不登校者数が増える/スクールカウンセラーとして次年度の契約はなくなるかもしれない)。

こういうときにスクールカウンセラーの姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、スクールカウンセラーをやっているのか?
それが子どものため、子どもの成長のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

似たようなことが、病院職員のメンタルヘルスのために精神科医が一般病院に勤務している場合にも起きて来る(病院と精神科医の名誉のために断っておくが、職員の幸福を真に考え、誠実な努力を続けている病院や精神科医も存在する)

例えば、看護師不足の折、病院としては看護師に辞めてほしくない。
しかし、その看護師の人生単位の幸福を考えると、
退職することが正しい選択の場合もあり得る。
そこで精神科医は板挟みの立場に立たされる。
つまり、看護師に勤務継続を促すことが、病院にとって利益となる(看護師の数が減らない)と同時に、看護師と精神科医にとって不利益となる(看護師の人生を不本意なものにすることになりかねない/精神科医として魂を売ることになる)。
大体、“体制派の犬”のような精神科医のところに誰が相談に行こうと思うだろうか。慰留されるとわかっている相談に出かけて行くはずがない。
反対に、看護師の退職容認が、看護師と精神科医にとって利益となる(看護師の人生の意味と役割を守ることができる/精神科医としての矜持を守ることができる)と同時に、病院と精神科医にとって不利益となる(看護師が減る/精神科医の今後の契約更新はなくなるかもしれない)。

こういうときに精神科医の姿勢が試される。
そもそも誰のために、何のために、病院職員のためのメンタルヘルスに携わっているのか?
それが職員のため、職員の人生単位の幸福のためであることは言うまでもない。
「利益相反」の中で、それを貫けるかどうか。

それでもし私がスクールカウンセラーやメンタルヘルス担当の精神科医として雇われ、なんでもいいから、子どもたちが登校するようにしてくれ、看護師が辞めないようにしてくれ、と頼まれたならどうするか。
私が一番最初に辞表を書くであろう。

(但しもし私にその学校や病院の体質を少しでも改善・改革して行くミッションが下っていたとしたら、そこまでの縁があったとすれば、悪戦苦闘しながらでも改善・改革に取り組んで行くかもしれない)
 


 

つまり、日本人は、非常に人付き合いが良いんだけども、本当言うと、人付き合いが嫌いだな。できるだけ一人でいたいところがある、ね。だから、アメリカ人に言わせると、留学生が随分、私のところへいましたけど、どうして日本人ってのはパーティに出て来ないんだろう? 彼らはすごくね、寂しがり屋だから、人懐っこくて、みんな寄って来て、パーティをじゃんじゃんやって、何も知らない者にもこうやるわけですよ。ところが、日本人ってのはそうじゃないから、一人でいてね、よくあのアパートの寂しい、机とね、ベットしかないところにじっと一人でいるな、と感心してるんですよ。感心するわけなんでね、しょっちゅう人にばっかり気を遣ってるんだからね、せめて気を遣わないときがほしい、とこういうわけよ、ね。まあ、一杯飲み屋かなんかに行って、こうやって飲んでたら、とても良い気分になる、これね。一人でこう飲んだらなんとも言えない良い気持ちだ、とこういうわけですよ。
だから、withdrawal(ウィズドローワル)っていうか、人から逃避するという傾向に陥る、ね。そのくせ、普通には、社会的に言うと、なんか、人に向かってですね、ご機嫌を取る。相手に向かって相手のご機嫌を取って、相手の好意を得て、自分にね、そしてこの好意を利用してですね、自分の何か、自分の安全とか、自分の昇進とか、良いことを図ろうという、こういうふうな魂胆(こんたん)があるんですね。
相手の方もまたその魂胆を知って、あいつは俺に近づいて来たって言うけど、これはさっきの話で、そうやってやられると、人から良く思われると良い気持ちなもんだから、ああ、あいつは俺の手下だなっていうわけで、こう、非常に良い気持ちになっちゃう、ね。相互依存と私はこれを言うわけ。つまり、支配する者は支配される者がいなきゃ成り立たないんで、みんないなくなっちゃったら、ヒットラーでもね、支配する人間がいなくなったら、一人ぼっちになっちゃう。フワーッとしてることになっちゃう。ところがまた、支配される人間は、支配する人間がいると安心できる。あいつのせいだっていうことにできるからね。なんでもそう。
だから、日本では、面白いことは、これは徳川時代からそうですけどね、なんか議論やるでしょ。最後にね、ごちゃごちゃ、今の閣議でもそうですな。これは委員長に一任とか、任せちゃう。任せちゃうと、自分は責任を逃れちゃう、ね。あれがやったんだから、オレはまあ、任せたんだからしょうがない。あいつのせいだ、とこういうわけ。依存でしょ、これ。自分自身の意見とか、自分自身の責任において解決してるわけじゃない。だから、それは両方依存してるわけね、これね。そういう意味で、私は、日本の社会の特徴は、相互依存的な関係があって、お互いに利用し合ってる関係。まあ、それはそう言っても良い、ね。…
ところが、ご厚意に甘えまして、てなことになっちゃってね。甘え込んじゃって、宜しくお願いしますって、宜しくってのはどの程度だかわからない。そうすると、そのときの状況によって決定されるわけね。そうすると、私は折角あの人に頼んだのに、あれ程頼んだのに、あの人は私の期待を裏切って、やってくれなかった。そういう具合にブーブー言うことになっちゃう。また、片っ方は片っ方でどうかっていうと、自分でね、宜しくって言うから宜しくって僕はやってやったのに、なんであいつは御礼も言わない、なんてことになっちゃう。そういうふうな、妙ちきりんな、腹の探り合いってことになると、そこで益々ね、お互いの顔色をじっとこう、見ることが必要になって来る。あいつはどういうことを考えてるだろうかってことがね。これがね、私は、エネルギーの大変なロスになってると思うんですよ。このために頭がくしゃくしゃしちゃう。
全く対人関係でのね、そういう意味で、問題が多いんですよ。これもへちまの屋根ですよ。屋根みたいなもの、これね。私たちに何かね、そういうものがね、知らないうちに、平生(へいぜい)やってることだけどもね、のびのびとさせない。さっき言った、自然に人間として人を愛し、ね、人に本当に好意を持ち合ったり、あるいはそういうふうなことで、心と心が触れ合ったりすることを妨げてる、ひとつの材料になっていはしないかと、まあ、こんなふうに思いますね。」(近藤章久講演『人間の可能性について』より)
※へちまの話については、こちらを参照。

 

そうしますと、「服従と引き換えの責任逃れ」と「責任の引き受けと引き換えの君臨支配」という相互依存関係の成立と維持にも、腹の探り合い、気の遣い合いという、非常に面倒臭い手間がかかるということになります。
とにかく神経症的な人間関係というのは結局、エネルギーを使って疲弊することになるわけです。
先日テレビで、現代人の会社での昼休みや休憩時間の過ごし方調査というのをやっていました。
その中で一番多かったのが何かというと、個食や孤食、一人で過ごす、という選択でした。
ここでも、普段人に気を遣って生きているんだから、せめて休み時間くらい一人にさせてくれよ、という思いを感じます。
不登校、引きこもり、繰り返す離職といった現代の状況を含めて、この48年前の講演の頃と変わらぬ問題の根幹がそこにあります。
目指すべきは、そんな消耗と疲弊の関係ではなく、私が私でいて、あなたがあなたでいて、その二人が互いに愛し合い、互いの成長を促し合う関係なのです。
そして最終的には、一人でいても誰かといても、本来の自分でいることを目指しましょう。

 

 

ある若い女性が、小学校高学年から中学校の頃、不登校で病院の精神科に通い、カウンセリングを受けていたという。
長く通っても学校に行けるようにならなかったので、親が怒り出し、自分も通うのをやめてしまったそうだ。

そもそも「不登校」は単なる現象名であって、その背景にはさまざまなが要因があり、ひと口で「不登校への対処の仕方」と言えるものなどあるわけがない。
ちょっと考えてみても、生物学的原因、性格因、環境因など、複数の要素が時に複雑に絡み合っている。
それでも言えることは、私だったらもう少し最初に本人や親に説明しておくことがあったろうな、ということである。

まず私ならば最初に「ここでの治療は学校に行けるようになることを目的としていませんが、それでもいいですか?」と申し上げる。
「お嬢さんがお嬢さんとして生きて行けるようになることを第一の目標としていますので、学校に行けるようになるかどうかはわかりません。今の学校に行けるようになることがお嬢さんの成長にとって良ければ行けるようになるでしょうし、そうでなければ行けるようにはならないでしょう。」

そう。
一番根底にある、これらの「人間観」「人生観」「治療観」がまず試されるのである。
ただ漫然と、学校に行ける方が良いんじゃね?世の中、長いものには巻かれて適応して生きて行けた方が良いんじゃね?と精神科医や臨床心理士が(そして親や本人さえもが)思っていれば、当然、治療もそういう方向性に行ってしまうに決まっているのだ。
そして、どうしてもそれがお望みならば、それに賛同する他の医療機関、関係機関に行ってただくしかない。

私がそういう話をすると、その女性は、
「へぇ~、そうだったんですね。」
と驚いた顔をしていた。

そして私は付け加えた。
「で、これからどうします? 今度こそ自分が自分として生きて行けるようになる道を目指しますか?」
あとは、今や大人になったあなた次第です。

 

 

ある人がある人と結婚した。
ラブラブの間は良かったが、一緒に暮らすうちに、相手のいろいろな問題が見えて来た。
で、どうするか?である。
面倒臭いから斬って捨てるのか。
相手の問題も抱えて生きて行くのか。

相手にちょっとでも問題があると、容赦なく斬って行くのもいいけれど、みんな人間だもの、どこかにきっと問題がある。
斬っても斬っても、次の人次の人に問題が見つかって行くうちに、そして誰もいなくなった、になるかもしれない。

かといって、結婚した以上、相手にどんな問題があろうと添い遂げなければならない、というのも考えものである。
「ねばならない」で強要された「糟糠の妻」などは美しくない。

じゃあ、斬るのか、抱えるのか、どうするのか。

斬るも抱えるも、縁で決める、ミッションで決めるのである。
縁がなければ、ミッションがなければ、抱えたくても離れて行く。
縁があれば、ミッションがあれば、イヤでも抱えることになる。

そしてどちらかというと、各人の自我が強まり、斬る方が増えている現代、
後者の、縁があれば、ミッションがあれば、抱えることになる、ということを今日は強調しておきたいと思う。

本来、その必要はないのに、縁とミッションによって、相手の問題を一緒に引き受けて行く、相手の重荷を一緒に背負って行くこともあるのである。
例えば、
ある人は、待望の養子縁組を行ったが、成長するうちにその子どもに障害が見つかった。
ある女性は、大学教授と結婚したが、暮らすうちにその相手に末期癌が見つかった
面倒臭ければ斬るだろう。
しかし、そこに縁があれば、ミッションがあれば、即ち、私を通して働く大いなる愛(私の愛ではない)があれば、それはあなたの問題だから知らない、ではなく、手を差し伸べて、一緒に背負って行くことになるのである。

 

 

初対面の人に逢うとき、初めての場に行くとき、あなたはどういう気持ちになりますか?

私は今でも、ワクワクする気持ちを禁じ得ません。
そこにどんな深い出逢いが待ち受けているのかと思うと、期待の気持ちで胸がいっぱいになります。

もちろん私も何十年も生きて来ましたから、逢ってみてガッカリしたり、ムカついたりしたことは数え切れないくらいあります。
しかし、それでもまた新たな出逢いに期待しています。
何故そうなるか。
幼少期から現在までの出逢いを振り返ってみても、明らかにガッカリしたり、ムカついたりした経験の方が多かったので、これは私の生育史の影響ではありますまい。

となると、そういう気持ちになるようになったのは、やはりアフター近藤(近藤先生に出逢ってから)の結果であると思います。
即ち、人間存在の二重構造からしますと、
その人の生育史の中で、二次的に着いた塵埃、泥、闇の部分に対しては、いくらでもガッカリし、ムカつきもしますが、
その人の中核に最初から働いている、その人をその人させようとうする働き=光の部分に対しては、期待しないではいられません。
(但し、後者の光が、前者の闇を凌駕するかどうかは、寿命との競争ということになりますが。即ち、生きているうちに間に合うかどうかの競争です。)

やっぱり自分として生命(いのち)を授かったからには、ニセモノの自分でなく、ホンモノの自分を実現して生きて行きたいじゃないですか。

そんなことを思いながら、たとえ裏切られても裏切られても、今日もまた人間に期待しないではいられないのでありました。

 

 

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