八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

我々は一生のうちに、自分の本当の本音を話せる相手に何人出逢えるだろうか。

「本音」という字が「本当の音」となっている通り、「本当の音」でないと、鳴らした方も話した気にはならないし、受け取った方も聴いた気にはならないだろう。
そうでないと、人と人とが本当には出逢ったことにはならないと思う。

もし自分がこんなことを言ったらどう思われるだろうか、軽蔑されはしないだろうか、忌み嫌われるのではなかろうか。
そんな話をたくさん聴いて来た私としては、
大丈夫です。
人の悪性(あくしょう)、いや、凡夫の悪性がどれくらい酷いかは、大体わかっていますから、男を十人騙して殺して床下に埋めてあります、と聴いても別に驚きはしません。
その事実よりも本質的に大事なのは、そういう自分と向き合う気があるかどうか、そういう自分を超えて成長して行きたいと心の底から思っているかどうか、ということです。
ですから、そういう思いで、本音の本音を話すというのであれば、それだけで、今までの、そして今の自分を超えて行きたい、という大切な宣言になるんです。

となれば、誰がそんな尊い宣言を疎(おろそ)かに扱いましょうか。
共に超えて行きましょう、どんな問題も。
そんな思いで、私は面談を行なって来ましたし、これからも行っていくのです。

 

 

「大体のところの…母親の、親の態度というものが、どのぐらい子どもに対して影響するかということを述べました。結局ね、親と子というものは、そこに最初において、愛憎の問題が最初からあるということをまず認識してほしいんです。決して、だから、愛が全てではないわけです。その憎しみを解決するのは何かというならば、私は敢えて言うならば、それは、その、親の、お母さんの、特に、あんまり感情的にならない、落ち着いた態度だと思うのです。
やっぱり、なんといっても、それは、そういう愛憎と言いますけど、その基本は、憎の生まれるのも愛するからです。だから、その愛が、本当にまっすぐに、真っ当に、お互いに通じるような、そういうふうな態度というものが求められるわけです。
私はね、その、子どもを育てるという場合に、一番大事なことは、この子どもの持っているものは、自分の産んだものではあるけれども、それは独立した生命を持ったものである、独立した価値を持ったものであるというものを、ま、預けられて育てているんだという態度を持つとですね、そうすると、ある程度、このね、距離が持てると思うんです、子どもに対して。いいですか。自分のもんだと思うと、自分の思う通りに行かないから腹が立つ、感情的になりますね。
しかし、自分のものだったら、全部自分の思う通りになるかっていうと、私はあなた方にお伺いしたいのは、自分の心は自分の思った通りになりますか? 自分の感情は思った通りになりますか? 自分の心が自分の思った通りにならないのに、どうして人の心が自分の思った通りにできるんですか。こんなこと、できっこないと僕は思う。そのできないことをできるような顔をしてやるから妙なことになっちゃう、ね。
そこで面白いことは、そこで、お母さんがもし落ち着くと、これはお父さん自身に、今日はお父さんがいらしゃらないから、あんまりお父さんのことは言わないけども、お父さんも考えなくちゃいけないことがある。それは別として、お母さんの場合の、そこで僕はひとつの尊厳という、そういうものが必要だと思う。教師においてもそうなの。教師においても、その尊厳ということがなかったならば、我々はここに教育が行われない。尊敬ということがあって初めてね、そこに教育というものが行われるのです。本当に自分の尊敬する人からだけ学ぶんです、人間は。
だから、あの、よくお母さんは、女性は、愛、愛とおっしゃる。愛があれば全て。愛が私の全て、二人だけの世界なんていうことを言ってるけども、愛だけが全てではないのです。愛にプラス叡智ということが必要なの。智慧が必要なの。愛を活かすためには智慧が必要なんですよね。」(近藤章久『親と子』より)

 

講演『親と子』の最終回。
親の養育態度というものがいかに大きく子どもに影響するか。
そのために、親は子どもの尊い生命(いのち)を預かって育ててるんだという自覚を持つこと。
子どもの生命(いのち)に対して畏敬の念を持たなければならない。
そして親や大人もまた、子どもから尊敬されないと、子どもは親や大人の言うことを聞かないのである。
「本当に自分の尊敬する人からだけ学ぶんです、人間は。」という言葉が胸に刺さる。
これは親だけの話ではない。
対人援助職者全般について言えることではないだろうか。
そして、愛「情」は常に「情」に落ちる危険性を持っている。
愛「情」+叡智/智慧となって初めて本当の「愛」になるのである。
生命(いのち)を育てるには、叡智/智慧が必要なのだ。
これもまたしっかりと認識して子育てにあたられることを望みたい。

 

◆講演『親と子』に関する内容は、『金言を拾う その1~その4』にかぶる内容でしたが、敢えて引用部分を大幅に増やして掲載致しました。ご了承下さい。
そして、近藤章久先生の講演から正に「金言」を抽出して来た『金言を拾う』シリーズは、今回で一旦終了となります。
他にも近藤先生の講演録としては、本願寺関係のものや専門的なものもありますが、一般的内容ではないため、本欄では取り上げないことに致しました。
そして次回からは、『金言を拾うⅡ』として、絶版となっている近藤先生の著作から金言を抽出して行く予定です。
縁あって出逢った亡師の金言を後世に伝えて行くこともまた、私のミッションのひとつだと思っています。

 

 

精神医学的エビデンスは見たことがないが(もしあったら教えてほしい)、
昔から関係者の間では、春~新緑の季節=「木の芽どき」は精神的に調子を崩す人が多い、と言われて来た。

そこでいう不調の中味は、その人が元々抱えていた精神的問題が先鋭化するということであり、必ずしも新しい問題が出て来るということではない。
例えば、うつ病や統合失調症で闘病中の人ならば、その時期に病状が再燃しやすかったり、神経症の人では、いつも以上に、その人に生育史上付いたテーマ(例えば、他者評価が気になったり、ねばならない・べきだ)などにとらわれたりする。
まさに持っていたものが芽を吹くのである。

ちなみに「木の芽どき」というとき、それは新年度やゴールデンウィークといった社会的要因によるものではなく、季節の変わり目といったむしろ気象的な要因によるもの、というニュアンスがある。
人間もまた気象の中で生きている存在なのである。

そうなると、ここでもまた、「で、どーする」という問題が出て来る。
気象は変えられない以上、こちらで調節するしかない。

ひとつは、ただでさえ不調に陥りやすいこの時期は、無理をせず、よく休み、よく寝て、ストレスは可能な限り少なくし、エネルギーもできるだけ温存する策に出た方がいいということだ。
治療中の方は、早め早めの薬物調整が有効な場合もある。

そしてもうひとつ、神経症的テーマについては、逆にその問題と向き合うチャンスにできるかもしれない。
即ち、「ああ、まだこんなことが気になるんだ。」「この問題が未解決で残っていたんだ。」と気づき、木の芽どきになっても、そういう神経症的テーマに翻弄されなくなるような境地を目指したい。
そしてもし神経症的テーマと向き合うのがしんどければ、呼吸や祈りを深める機会にできるかもしれない。
自力でダメなときこそ、他力におまかせすることを体験する好機になるのである。

 

 

前々から体調の悪さを自覚しながら、なかなか医療機関を受診しなかった。
いよいよもう我慢も限界となって受信したら、既に手遅れとなっていた。

子どもの不登校、ひきこもりがありながらも、お茶を濁す程度にしか相談機関を利用せず、子どもとは、何度かの大喧嘩はあったが、徹底的には勝負しなかった。
そして気がついたら、8050問題になっていた。

思春期頃から生きる辛さを感じていたが、ちゃんと医療機関や相談機関を利用したことがなかった。
そしてなんとなく対人援助職に就いたが、そこで却って自分の問題が先鋭化して来ることになった。
そして、これからも誤魔化し誤魔化しやり続けて行くのか、ここらで自分と勝負するのかという分岐点に追い詰められているという自覚はあるが、次の一歩が出ず、今も時間だけが過ぎ去っている。

 

大事なことを何故先送りにするのか、直面化しないのか。

ひとつには、本音を表出することを阻害されて来た歴史がある。 
本当の思いを、特に怒りや悲しみを、そのまま出して、親から掬(すく)い取ってもらった経験に乏しかった。
むしろそのまま出すと潰された、否定された、無視された。
小さくて弱い子どもがそんなことをされれば、なかったことにして、もうそれ以上向き合わないようにして、先送りする方法を身につけるしかないだろう。
だから、直面化するには、相応の勇気とエネルギーが必要となる。

そしてもうひとつには、そうやって寄り添われずに育った人間の持つ、否定的なセルフイメージがある。
先送りして先送りして遂に先送りできなくなったときに陥る、その惨憺(さんたん)たる結末の自分こそが、“どうせやっぱりダメな自分”には相応(ふさわ)しいと思ってしまうのだ。
それは慢性的自己破壊行為とも言えるだろう。
でも、時計の針が止まることはない。
あたかも、座して死を待つ、ように時間が経って行く。

その他にも、見栄だとか、虚栄心だとか、いろいろなものが絡むこともあるだろう。

しかし、それが何であろうと、最後にはいつも
で、どーする?
に行き着く。
まだ先送りするのか?
今度こそ直面化するのか?

どちらを選んでもその責任を取るのはあなただが、
少なくともあなたが徹底的に直面化する方を選んだとき、あなたは決して一人ではないということだけは保証できる。

 

 

あるジャーナリストの本を読んだ。

異端の新聞記者たちの意地と矜持をまとめた本である。

「従来の取材や編集の在り方を覆(くつがえ)し、かくあるべきとされてきたしきたりを破る。地域の有力者の声に反し、社上層部の意向に従わない。業界内の評判や立身出世に関心を寄せない。…
彼らは…ある一点について忠実だったからこそ『正統』を外れたのではなかったか。…
それは…世の中や読者が新聞に何を求めているかが行動原理のど真ん中にあったということだ。

彼らはあくまで「どこを向いて仕事をするのか」という「意地」を見せる。

医療や福祉の分野でも事情は全く同じである。
誰を向いて、どこを向いて、仕事をするのか。
何故か私のまわりには、愛すべき「異端」の人たちが多い。

そして著者は言う。
「世の中は新聞に何を求めているのか。新聞にしかできないことは何なのか…。彼らのような異端者が異端でなくなったときに、新聞ははまたよみがえるのではないだろうか。」
上記の「新聞」を「医療」や「福祉」あるいは「精神療法」に置き換えても、そのまま当てはまる。

異端だろうが正統だろうが、少数派だろうが多数派だろうが、関係ない。
人間として真っ当に、与えらえたミッションを果たして行くのみである。

 

 

『一遍上人語録』にある

「独(ひとり)むまれて 独(ひとり)死す 生死(しょうじ)の道こそかなしけれ

の言葉がずっとこころに残っている。
また、一遍は別のところで

「生ぜしもひとりなり。死するも独(ひとり)なり。されば人と共に住するも独(ひとり)なり」

とも言っている。
の「人と共に住するも独なり」は、体験したことのある人には身に沁みてわかることであろう。
それは絶対孤独の地獄である。
ちょろまかしの嘘事(うそごと)、戯言(たわごと)では、この地獄は誤魔化せない。
そこに本当の救いはないのか。

そして親鸞の言葉が届く。

「よろずのこと みなもて そらごと たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ まことにて おはします」(『歎異鈔』)

そこまでいって初めて、念仏のもたらす「まこと」がわかるのである、この存在の根底に響くのである。
そして、そこに

「俱會一処」(『阿弥陀経』) 俱(とも)に一処(いっしょ)に會(かい)する(一緒に浄土で出逢う)

という絶対孤独を超えた、一如の世界が開けていく。
「独(ひとり)」であったのが、「一(ひとつ)」に突き抜けていくのである。

「念仏をすると本当に救われるんですよ、先生。」

体験に裏打ちされた彼女の言葉の重みが私の胸に甦(よみがえ)る。


 

 

緑風苑ワークショップや八雲勉強会で長年共に学んで来た、我らが盟友Aさんが今朝逝去されたとの連絡をいただいた。

長い闘病をよく頑張られた。
そして最後までこころを深められ、多くのミッションを果たされた。

我々には、Aさんの生を踏まえて、一人ひとりがどう生きるのかという課題が残された。
“盟友”の残してくれた課題だ。
こころして応えましょうぞ。

 

合掌礼拝

 

 

あるスーパーで売っていたほうれん草のパッケージに
「ぼくはあなたにほうれん草」
というキャッチコピーが書いてあるのを見て、全身の力が抜けた。
「ほうれん草」と「惚れている」のシャレなんだろうが、何故か猛烈に何かを言い返したくなった。

そして考えること1時間。
思い付いたキャッチコピーが
「そんなあなたをズッキーニ」
である。
「ズッキーニ」と「好き」のシャレである。
こんなことを思い付くのに1時間も費やすのは実にアンポンタンだが、まだ気持ちがおさまらない。

さらに1時間かけて思い付いたのが、
チョレギサラダのキャッチコピー
「こんなチョレギにサランヘヨ」
「サランヘヨ」(ハングルで I love you)と「サラダ」をかけたのであるが、こんなことに何時間もかけるのは本当にアンポンタンである。
プロのコピーライターや放送作家なら、何時間かけても良いだろうが、フツーはそうはいかない。

しかし、もしこれがワークショップの場だったら、私は参加者に1日目と2日目の間の宿題として、このような食品に関するキャッチコピーを作って来るように告げるかもしれない。

読者の中で、もし名作を思い付いた方がいらしたら、面談のときにでも教えて下され。

豊かな発想は、自由なこころから生まれます、はい。

 

 

「それともうひとつ。まだいろいろ分け方はあるんですけど、重要な、今、大分多い傾向だけを挙げておきますと…よく見るのは、今のが過保護型、あるいは過干渉型と、結果においてはね。そういうことになるんですが、第三にはね、なんかっていうと、つまらないことでギャアギャア怒るお母さんね。感情的瑣末(さまつ)主義という(笑)。これは瑣末的感情主義。大事なことはね、甘くって、つまらないことでギャアギャア言う。ギャアギャア言うってのは感情的ってことですね。それはいろいろ、そのお母さん自身に問題が実は多い場合が多いんです。自分の旦那さんとうまく行かないとかね、お姑(しゅうとめ)さんがどうだとかね、それからもういろいろ忙しいとかね、隣近所との付き合いがどうだとか、お母さん自身がこんなになって、ハチの巣になってるわけですよ、頭の中がね。心の中が安定してない。そういうことが多いんです。本当にお母さんが安定していればこういうことは別にないの。だけど、大抵そういうことが多いんですよ、聴いてみるとね。でね、ですから、お母さんの問題のことが多い。
それは、そういうふうなね、感情的瑣末主義と言ったのは、つまり、つまらないことで、くだらないことで怒るんです。これはね、男の子を持ったら、一番先に、その、馬鹿にされる元だと思うんですよね。男の子はね、そういうね、「なんだこの馬鹿野郎め!」とこう腹の先で思っちゃうんですよ。女に対する軽蔑感が最初にそこで目立つんですよ。母親を見ててね、女の代表ですからね、母親は、男の子にとっては。最初の女のアレですもん、しかも自分が愛着を感じ、憎しみも感じるけど愛着を感じるもの。それが女の代表。だから、昔は、我々の時代は、ね、初恋の人っていうと大抵ね、母親に似た人でしたよ、ね。近頃は違うんじゃないかな。母親と違う、母親と最も違うヤツを選ぶんじゃないかな。そういうことは、これ、皮肉なことですけど。まあ、アレですが。
そういう意味で、その最初のね、非常に感情的なものに行きますとね、これに対してね、ちょうど、特にそれは中学校の高学年から高等学校に入りまして、あの、男の子の中で、理性的に思考する論理性というものが出て来ます。非常に、そのね、これは女性がですね、非常にそのときに同時に感情的なものがね、豊かさが出て来るのと同じように、そのね、筋肉の発達と共に論理的にものを考える、そういうものが出て来るんです。
その頃から母親は、子どもっていうのは、男の子の場合に、どうもわからないと。私のところに来られる母親、お母さんたち、皆そう言われる。男の子の気持ち、私わかりませんわ、とこうおっしゃるんです。わからないはずですね。これはわからないです。けれども、そこにおける、その、普通だったらば、お母さん、これこれなんとかと言って親しく言うのがね、段々軽蔑して、うるせぇ!なんてこと言われる。何言ってやんでぇ!とかなんとか。黙れ!なんていう具合に言うわけだ。そういうのがね、もう恐ろしいとかっていうことになっちゃってね。戦々兢々(きょうきょう)として、どうしていいかわかりませんということになるでしょ。
これはどういうことかというとね、知らないうちにお母さんがね、つまんないことでね、その、くだらないね、感情的爆発をやってる場合が多いわけですよ、ね。自分でちょっとね、省(かえり)みて下さいね。それをやってるとね、馬鹿だな、阿呆だなっていうことになってね、そりゃあね。
それが旦那さんからそう言われたれら、あなた方は、「何よ!私の気持ちもわかんないで!」とこういう具合にこう来るんだ、ね。けれども、自分の我が子から言われたらね、あなた方は堪(こた)えるはずですよ、ね。どうしたんだろう、と思ってね。私はこんなに愛しているのにってなことになっちゃうんだけどね。
そこいらがね、やはりね、非常に大事なとこなんで、そこで、そういうことをやってると、これが内向性になって、何遍もやってるとね、これをやってると、それがね、本当にね、今度は、お母さんが強い人だとしますね、感情的に。この内の方があるかどうかわかりませんが、非常に強くてね、自分の感情を絶対に押し付ける。そうなって来るとね、あの、男の子の場合はね、特にそりゃあ、育たないです。さっき言ったように、非常に女に対して、女性に対して敵意が出て来ますね。内向的になりますよ。その結果ね、その、ま、いろんな意味でね、もう、非常にうちを早く、家出したりね。そんな問題も男の子の場合は起きて来ます。それからさらに、これが敵意でもって、お母さんをぶん殴ったりね。もう、その、まあ、暴力に訴える。そういうふうなことが多いわけですね。
で、そうした結果、結局、そういうことがみんな認められないようになるとですね、あの、みんなおんなじような、類は友を呼ぶと言いまして、おんなじような人と一緒になって、ま、非行に走るというふうなことが多いわけです。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

女性が感情的になりやすいということは、男性が論理的になりやすいのと同じように、ひとつの特性に過ぎないわけですが(これらはあくまでひとつの傾向であって、もちろん感情的な男性も、論理的な女性もいらっしゃいます、それが感情的な豊かさに発展して行くのか、どうでもいいことにただギャアギャア反応するだけの感情的瑣末主義に陥るか、で雲泥の差が生じて来るわけです。

後者の場合、母親の感情がそれほど強くない場合には、男の子は母親を軽蔑するようになり、母親の感情が強烈な場合には、敵意を示して暴力的になったり、内向的になって来ます。
従って、世のお母さん方は、自分が感情的になりやすいという特性に自覚を持つと共に、それが深く豊かな方に発展して行くことを目指し、浅く瑣末なことに反応しないように戒めて行く必要があります。
そのためにはまず、人間として肚が据わる必要がありますね。
敏感でありながら簡単に動じない。
そよ風にも枝葉が揺れる敏感さを持ちながらも、太い根幹は簡単に揺さぶられない。
そのためにはやはり丹田呼吸が役に立つのではないかと思っています。

 

 

本当は怒っているのに、怒っていないようなフリをする人がいる。
いわゆる本音と表出が一致していない人である。
生まれつきそんな子どもはいないので、生育史のどこかでこの面倒臭い生き方を身に付けたのであろう。
しかし、残念ながら、怒っていることは周囲にバレている。
バレてないと思っているのは当人だけである。
眼に出ている、顔に出ている、オーラに出ている。
しかし周囲は気づきながらも、何も言わないものである。

こういう人でも、もし人間的に成長することができたならば、怒っているときにちゃんと「私は今怒っています。」と言えるようになる。
これは正直である。
本音と表出が一致している。
但し、これが過ぎて、思い通りにならないことがある度にいちいち怒りを出すようになる人がいる。
こうなって来ると、ただの垂れ流しである。
正直ではあるが、わがままなのである。
これはこれで面倒臭い。

これがさらに人間的に成長して来ると、怒りはちゃんと出るんだけど、キレがよくなって来る。
長続きしないで、サラサラと流れて行く。
幼児の機嫌がすぐ変わるようなものである。
こうなれば、面倒臭さは随分改善される。
凡夫が目指すのは、こんなところがいい。
そして、ここらあたりまで成長して来ると、抑圧もやりくりも使っていないのに、以前ほど怒らなくなる、腹が立たなくなる、ということも起きて来る。
偽善的に怒らないようにするのではない、腹を立てないように気をつけるのでもない、自ずから、自然に、怒ることが減る、腹が立たなくなるのである。
但し、怒ることがなくなりはしませんよ、凡夫ですから。
凡夫が現実的に目指せる人間的成長は、ここらあたりなのかもしれない。
しかし、ここまで来るだけでも、相当に大したものだと思う。

 

 

昨日お話した勉強会に参加されている方々だけでなく、ある期間以上、面談を続けておられる方々を見ていると、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っておられる限り、その before-afterで確実な変化・成長を続けておられることが感じられる。

開業当初は、その変化・成長は、年月が経てば、「人間的成長のための精神療法」など受けなくても、誰でも起こることなのだろうか、と思ったこともあった。
しかし、実際に世の中の、特にある年齢以上の方々を見ていると、残念ながら、子どもの頃からの神経症的問題が全く解決されていないどころか、却ってこじらせて悪化している場合も少なくない。
ご本人に「情けなさの自覚」と「成長への意欲」がない以上、残念ながら、いかんともし難いが、少なくとも片方で、そういう方々と接しながら、もう片方で、面談を続けて来られた方々と接していると、歴然とした違いが感じられる。
そして、その変化・成長した姿に接する度に、よかったなぁ、と心の底から嬉しくなる。
大袈裟な表現でなく、その人の一生が変わったのであるから、こんな深い喜びはない。
ここにサイコセラピストとしての醍醐味がある。

流石に私もバカではないので、それが自分の手柄だとは思っていない。
その人を通して働く、その人を本当のその人させようとする力と、
私を通して働く、その人を本当のその人させようとする力と、
この世界を通して働く、その人を本当のその人させようとする力が相俟って、起こって来る奇跡としか言いようがない。
それにしても、人間が目の前で本来の自分を取り戻し、本来の自分を実現して行く場面に立ち会えるという感動はたまらないですよ。
それは情緒的感動を超えて、霊的感動と言ってよいものだと思う。

しかし、私に与えられた時間は永遠ではないし、お逢いできる方々の数も無限ではない。
むしろそれは、人類全体の数からすれば、微々たるものであろう。
それでも、一人の人生が変わるということは、すごいことなんですよ、ホントに。
それ故に、今回の人生において許される限り、縁あるあなたの変化・成長の瞬間に立ち会いたいと、あなたの人生が変わる瞬間に立ち会いたいと、心の底から願っている次第である。

 

 

今日は、ワンシーズン=3か月に一度のハイブリッド勉強会。
今回は[対面参加]が私を入れて3人、[リモート参加]が16人と、会場内は寂しかったけれど、話し始めてしまえば、そんなことはどこへやら。
特に、かつて緑風苑ワークショップなどで深い体験を共にして来た人間にとっては、すぐにあのときの感覚に戻り、まるで目の前で語り合っているような感覚に陥るのである。

そして今回も、レクチャー&ディスカッションの『体得ということについて』で、3時間すべてを使ったが、参加者の成長のための時間であって、予定消化のための時間ではないので、それで無問題(モーマンタイ)である。

詳しい内容については割愛するが、特に、参加者が人間的な成長過程の中で体得して来たこと、例えば、物事の受け取り方が変わった、感じ方が変わった、何かが楽になった、人間の観え方が変わった、世界の観え方が変わった、生き方が変わった、言動が変わった、などについての参加者からの発言が面白く、あんな私が、気がついてみればこうなっていた、あんなあの人が、気がついてみればこうなっていたには、実に、隔世の感がある。
逃げず、誤魔化さず、自分と向き合い続けて来た日々の積み重ねは決して裏切らない。
みんな、成長して来たんです、確実に。
選べなかった生育環境のせいで、後から付けられた神経症的な部分=ニセモノの自分は、いずれも重く、暗く、固く、窮屈であるけれども、それが払い除けられるにつれて出て来る本来の部分=ホントウの自分は、なんと面白く、おかしく、魅力的なことであろうか。
こうして確かに、本当のあなたに、本当のわたしに、逢えている時間は、貴重に過ぎて行くのでありました。

世知辛い娑婆の日々の中で、本当の自分でいられる、こういう時間はあった方がいいなぁ。

それではまた、次回7月のハイブリッド勉強会でお逢いしましょう。

 

 

社交不安症(社会恐怖)というこころの病気がある。
古くは対人恐怖とも言った。
その症状をざっくりと申し上げると、注目を浴びるような社交場面にいると、自分が変に思われるんじゃないか、ダメだと思われるんしゃないか、ということが気にかかり、不安でいっぱいになってしまうのである。
これもまた、ある意味、自分が他者からどう思われるかということ=他者評価にとらわれているのであるが、決して高い評価がほしいわけではなく、低い評価だけは喰らいたくないのである。
厳密に診断基準を満たさなくても、こういう傾向を持っている人は、かなり多いのではなかろうか。

そのように、自分がどう見られるか、自分がどう思われるか、自分がどう評価されるか、そういう思いにとらわれているとき、意識は常に“自分”に向いている。
その典型的場面を挙げるならば、人前で発言するとき、発表するとき、プレゼンするときなどに、動悸がしたり、冷や汗が流れたり、声や体が震えて来るのである。

そこで今回は、ちょっとその“向き”を変えてみることをお勧めしたい。
“自分が”“自分が”ではなく、何のため、誰のための発言か、発表か、プレゼンかという、そもそもの原点に立ち戻り、
相手にとって、聴衆にとって、伝えたい内容が、役立つ内容が、少しでもわかりやすく、的確に、伝われば良いな、というスタンスで取り組んでみるのである。
即ち、“自分向き”から“相手向き”“目的向き”に姿勢を変えてみるのだ。
そして、
そうやってやってみると、大切な相手に伝えたいことがちゃんと伝わりさえすれば、自分個人の評価なんかどうでも良い、という気持ちにさえなってくる場合もある。
少なくとも、あれほど支配されていた不安がなくなっている、あるいは、格段に減っていることに気がつくだろう。

現実社会には、試す場面はいろいろある。
そのスピーチは、誰のため、何のため。
その講演は、誰のため、何のため。
その学会発表は、誰のため、何のため。

自分が否定的評価を喰らわないためではなく、本来の、誰のため、何のため、に立ち戻って、チャレンジを。
今、ちょっとやってみようかと思ったあなたの中には、少なくとも、今までのあなたを超えて、あなたを成長させようとする力が動き始めているのですよ。

 

 

これが今回の自分の人生のミッションではないかと思ってやっていても、現実にはなかなかうまくいかないことがある。

そんなときには、まずそれが本当に自分に与えられたミッションなのか、
それともミッションと思い込んでいるだけで実は自分の我欲からそれをやりたいだけの勘違いなのか、
を見つめ直してみる必要がある。

もちろん後者ならば、もう一度一から、何が自分に与えられたミッションなのかを問い直してみる必要があるし、
もし前者ならば、現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けなければならない。

仏教において菩薩に課せられる修行として、六波羅蜜(はらみつ)=六つの実践徳目があるが、その中のひとつに忍辱(にんにく)がある。
忍耐すること、耐え忍ぶことを指すが、上記の「現状に耐えて、短気を起こさず、今の道を歩み続けること」も、立派に忍辱のひとつと言える。

その途中で、いろんな迷いが生じる、不安にもなる、これでいいのか、と思う。
それでも、自らの魂に訊いて間違いなければ、どんな逆境の中にいても耐え忍ばなければならない。
生前全く評価もされず売れもしなかった芸術家なんていうのは、その典型的な例かもしれない。
それでも創作をやめてはならない。
何故ならば、それがミッション=今回の人生で生を受けた理由であるからである。

しかし、基本的には大丈夫なのである。
それが本当にミッションであれば、なんだか知らないけれど、支えられる、持ちこたえられるようになっている。
そう。
忍辱する主語は「私」ではない。「私」=凡夫なんぞに忍辱する力はない。忍辱する力もまた「私」に与えられるから忍辱できるのである。
六波羅蜜はすべて、他力によって行われるということを知らなければならない。

 

 

時々
「性格は変えられますか?」
と訊かれることがある。
すると私は
「今のニセモノの性格が本来の性格に変わることならあり得ますよ。」
と答える。
自分で勝手に選んで、こんな性格になりたい、あんな性格になりたい、というふうには変えられない。
また、“変える”のではなく“変わる”のだ、とお伝えしている。
いや、“変わる”というより“戻る”と言えば、さらに正確かもしれない。
そして、今のニセモノの性格ができあがるには、それ相応の年月(大人になるまでとすれば最低でも18年〜20年)がかかっていますから、本来の性格に戻るのにもそれなりの時間がかかりますよ、と付け加える。

ちなみに、もし私が悪意の人間であれば、今までの経験と知識と技術を駆使して、ある人の性格を別の性格に変えることも可能かもしれない。
しかし、その別の性格というのもまた(その人の本来の性格ではなく)ニセモノの性格であるため、時間の問題でメッキが剥がれることになるだろう。
“洗脳”というのは、一時的にしか成功しないのだ。
考えてみれば、ニセモノの自分というもの自体が、一種の“洗脳”の産物なのである。
但し、年季が入っているために、下手をすると、そのまま死ぬまで行けてしまうかもしれない。

そもそも人間は本来の自分を生きるために生命(いのち)を授かった、と私は思っている。
残念ながら、多くの方々が寿命が永遠にあるかのように悠長に過ごしておられるけれども、そろそろ本気で、本来の自分に戻ることに取り組んでおかないと、今回の人生では間に合わないかもしれませんぞ。

 

 

その次に、それじゃあ、そんなことは私はありませんと。私は子どもに対して、非常にもう、なんかっていうともう、なんでも言うことは聞いて、傍(そば)にいてやって、なんでもかんでも言うことを聞いてますと。子どもが欲しいものは全部与えていますと。こういう具合に、まあ、おっしゃる方もあるだろうと思います。で、これはですね、ある意味で言いますと、まあ、その、いわゆる、近頃もう、誰でも使いますからね、皆さん、わかり切ったように思ってらっしゃるけれど、過保護型っていうことになるんですね。
過保護っていうのはね、過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです、ね。自分がね、そのね、甘えられない欲望をですね、あってね、それを子どもに転嫁(てんか)して、自分はさぞかし、こんなにホントに、無意識にね、ホントはとっても甘えたいの。それがなかなか甘えられない。そうするとね、幸福なのは、甘えられることが幸福だと思うからね。だから、自分の子どもにですよ、甘えられるように、どんどこどんどこ与えてやる、ね。いいですか。そうするとね、子どもはね、非常に喜びます、ある意味でね。しょっちゅう一緒にいて、甘えられて、そうするとね、これは、ものすごくお母さんに対してね、しょっちゅうお母さんがいないと大変なんだな。もうしょっちゅういなくちゃいけないからね、もうお母さん、お母さんと、お母さんの袖(そで)にぶらさがってね。今、袖がないんだけど何? スカートか(笑)。ぶらさがっているというふうな形になるわけですね。
でね、そういうことが重なって来ますとね、面白いことに、面白いっていうのは、これがね、幼稚園なんかに出て行きますとね、大変問題が起こるんです。ていうのは、お母さんがいないと安心感がないでしょ。一遍もひとりで独立してただっていうのがないから、だから今度は、その、幼稚園に行きますとね、いわゆる乳離れが悪いといいますか、幼稚園に行くと、幼稚園に行くのがイヤなんですね、うちにいたい。お母さん、何よ、そんな! 向こうへ行くとね、泣き虫になってね。すぐもうね、何かっていうと帰って来て、おかあちゃん、とこういうことになるわけですね。…
それでね、どうなるかっていうとね、これがね、まあ、その、幼稚園時代は、甘えたりなんかして、まあ、そういうふうに、泣いたりなんかして、やっとこさっとこやる。そのうちに慣れるでしょう。慣れるけれどもね、しばらくこう行っても、なんとなくね、この、弱々しい子になっちゃうんですね。弱々しい子になって、まあ、いわゆる、なんていいますかな、泣かされる、イジメられっ子になっちゃう。イジメっ子じゃなくてね、イジメられっ子になっちゃう、ね。そうしてね、そのくせ、うちではね、ものすごく、あの、甘ったれになっちゃうんです、ね。
だから、どういうふうな形になる、まあ、いろんなことが起きて来ますが、その、いろんな形と言いますと、ひとつだけ言いますと、例えば、それが、ある思春期になりましてね、その人が思春期になって、まあ、高等学校に行くんですね。そうすると、面白いことはね、女の子であればね、例えば、学校に行きますね。学校に行くと言って出て、行かない。あるいは、放課後ね、どこかに行っちゃう、ね。面白いですよね。今まであれほどお母さんの傍にいたわけだから、いつまでもそうかというと、その頃になるとね、自分の今に干渉されたくない、人間としての、ひとつのね、ある意味で自然なね、ことだとも思うんですけど、表れ方が、いわゆる非行になっちまうんだな。自分が今まであんまり束縛され、お母さんによってアレされたのがイヤになっちゃってね、それで今度は、逆にですよ、その間に自分の自由を楽しもうというようなことになって、まあ、ロッカーの中へね、入れといて、服装を替えて行ったりしますね。
それからまた、男の子であれば、例えば、同じようなね、お母さんに頼んで、250だか、ホンダのなんとかっていうのを買ってもらってね、そうしてね、どうかっていうと、友だちとね、おんなじようなね、やっぱり一緒になってね、それから、なんかね、ああいうふうなね、ものに乗って行くと、こういうことになるんです。
あの、暴走族なんかの気持ちの中にはね、本当は暴走族の連中ってのは、個人的に言いますと、非常に気の弱い人が多いんですよ、どっちかと言いますとね。自分自身の力、腕力に対してはね、そんなにね、自信がないんですよ。だからこそね、ああいうね、馬力の強いね、ああいう、この、まあ、なんていうんですかね、オートバイをね、ブルブルブルとこうやるとね、もう自分がすごく力強くなった気がするんですよね、途端に変身しちゃう、ね。
これは大人にもありましてね、あの、自動車に、平生(へいぜい)、すごくね、謙遜でね、内気なようなね、男性がですよ、一度(ひとたび)ね、オーナードライバーになると飛ばして、ブーンブーンブーンとやってね、ものすごいんですよ、ね。へ~んし~んて言うんでしょうね(笑)、この頃にしたらね。それは要するに、今までの抑圧されたものが全部、出ちゃう、ね。自分自身が本当はね、そういうことがしたいわけ。だけど、自分に自信がない。ところが、物を借りてね、自動車とか、そういうものを借りてね、やると自分のような気がする。そこでそういうようなことを主張する、というようなことがあります。
だから、今言ったように、あんまり過保護にするとね、そういうことになっちゃう。そうして結局、困っちゃう、とかなんとかいうことになるわけですがね。それからまたね、ですから、過干渉ということがある。
それからさらにこれが、まだ良いんですけどね、これが無力感になって、しょっちゅうイジメられっ子になる。学校の成績も良くない。そういうことになりますとね、自分でものすごくね、あの、悲観しちゃうんですね。だからね、この人はね、ものすごく内気になって、内向的になってですよ、その結果ね、もう何ものも失敗しちゃってね。そうした、まあ、結果、自殺するという場合もあります、ね。」(近藤章久講演『親と子』より)

 

今回は、母親が子どもに対して非常に過保護な場合。
お母さんがいないと不安になってしまい、甘ったれで、自立できない、弱弱しい子、ひいてはイジメられっ子になってしまう。
それが思春期以降になると、母親の過干渉に反発したくなって、非行に走ったり、また、バイクや車の力を借りて、抑圧した思いを発散するようになったりする。
しかし実際には、非常に気の弱い、自信のない子であることには変わりがない。
それが無力感にまで行ってしまうと、内向的になって、自殺の危険性すら出て来ることになる。
やっぱり、自分が自分であることの幹を太くして行くためには、過保護・過干渉ではなく、試行錯誤をやらせてみて、手痛い失敗からも学ばせて、自力で切り拓いて行く力を養う必要があるわけです。
それにしても、今回も近藤先生の発言の中で、
「過保護のお母さんっていうのはね、よ~く分析するとね、自分自身がすごく甘えたい人なんです。」
のひと言は、流石に鋭い。
これはね、対人援助職の人にも当てはまりますよ。
患者さん、利用者さん、メンバーさんにサービス過剰な人はご注意を。
それは相手のためではありません、自分のためですから。

 

 

家族や友人を失って初めて、その人の大切さを知る。
健康を失って初めて、健康の大切さを知る。
平和を失って初めて、平和の大切さを知る。
ライフラインを失って初めて、ライフラインの大切さを知る。
挙げればキリがない。
そうして、それらを失ったときには、これからはその大切さを忘れないようにしよう、と心に誓うのであるが、それもまた時と共に薄れ、元の木阿弥と化して行く。
それが凡夫。
気をつけても、気をつけても、そのときだけ。
心底バカだなぁ、と思う。

…で、話を終わらせては、夢も希望もない。
そんな凡夫でも、せめてできることはないでしょうか、という話。
なんでもいいから、一日一回だけでいいから、両手を合わせて頭を下げましょう、ということを提案したい。
どこを向いてやったらいいかって?
どこを向いてやったって構いません。
やってるうちに導いてもらえます。
ただ一所懸命にやることです。
人前で始めると、急にどうしたのかと訝(いぶか)しがられますから、一人のときにやるのがいいでしょう。
それだけでいいんです。
難しいことは言いません。
騙されたと思って、そんなことをバカみたいに毎日毎日やっていると、ちょっとだけね、普段から、当たり前のことが当たり前じゃなくなって、なんだか有り難く感じられるようになる“かも”しれませんよ。

 

 

いわゆる過去の偉人について、その評伝や評論、解説を平気で書く人がいる。
私はそれはとても難しい仕事だと思ってる。
何故ならば、偉人でもない者が偉人について書けるのか、という根本的な問題がある。
少なくとも偉人の境地に肉薄する体験を持っていなければ、書けるはずがないと私は思う。
厳しく言えば、
「燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志(し)を知らんや。」(『史記』)
(ツバメやスズメにオオトリやコウノトリの志がどうしてわかろうか、わかるはずがない)
である。
じゃあ、小人は偉人について一切語ってはいけないのか、となると、そうも思わない。
自分が足りないことを自覚した上で、一歩でも半歩でも尊敬する人物に近づくために、人間として成長するために、偉人が残した言動に触れて、今の自分の精一杯で、ああでもないこうでもないと思いを巡らせることには大きな意義があると思う。
何よりもこの“足りなさの自覚”が重要なのである。
その自覚のない、思い上がった、自己愛的な人物が語るものには、残念ながら、何の意味もない。
簡単にわかったと思うなよ、である。
それ故、かくいう私も近藤先生の言葉について語れるのである。
まだまだわかっていない。
その自覚がある。

しかし先生の言葉に触れることには、絶望ではなく、成長の楽しみがある。
私が近藤先生について書く場合、それは私にとって面談の続きなのである。

偉人たちが残した言葉もそういうふうに活用されれば、たとえそれが浅はかな解釈であっても、故人たちは笑顔で許してくれるものと思う。
 

 

夕方、隣駅まで行く用事ができた。
たまには散歩を楽しむか、と歩き始める。
かつて観たテレビ番組で、新幹線では流れるだけの車窓の風景が、各駅停車に乗るとじっくり楽しめる、と言っていたのを思い出した。
各駅停車どころではない、徒歩でこそ楽しめる風景がある。
そして自分の歩く速度がいつの間にか速くなっていたことに気がつく。
東京の人は歩くのが速いんですよ。
だからといって、実は大したことはしてないんですけどね。

そして敢えてとぼとぼと歩いてみた。
そうしてみてわかったのは、敢えてとぼとぼではない、これが本来の歩く速さだったんだな、と。
ゆっくりと流れる道路脇の風景。
東京はソメイヨシノが満開から散り始めである。
花びらの舞う速度が歩く速さにちょうどいい。
雲の流れる速さも。
公園で遊ぶ幼な子たちの声や笑顔もしっかりと入ってくる。
足の裏で一歩一歩大地を感じ取れる。
忘れていたちょうどの速さで歩くと、感じる世界が一気に広がり、そして、深まった。

あなたにもお勧めします。
とぼとぼと歩いてみましょう。
やがてそれがとぼとぼでないことに気づきます。

 

 

年を取ると、その人のパーソナリティ上の問題点が先鋭化する、という。
段々に抑圧が外れて来る(脱抑制)ため、その人の隠していた本性がダダ漏れになってくるのである。
恥ずかしきエロ爺(じぃ)と化してしまった元校長先生がいる。
人を口汚く罵(ののし)り、裁きまくるようになった元教会長老の女性がいる。
哀しいかな、それが本音だったのだから、今さら抑えようがない。

ですから、私は講義や講演などで、繰り返し若い人にお話している。
いいですか、今のうちから、本音と建て前を一致させておくんですよ。
年を取ったら、隠していた本音が露呈しちゃいますからね。
そして、建て前じゃなくって、その本音が変わることを本当の成長というんですよ、と。

しかし、年の取り方は、そんなトホホな展開ばかりではない。
いい感じにエネルギーが落ちてくる場合もある。
それまでこころの“見張り番(超自我)”に備給されていたエネルギーが加齢で段々減少してくる。
そうすると、以前は「~しなければならない」「~するべきだ」で、自分を締め上げ、返す刀で相手も締め上げていた“見張り番”が弱体化する。
また、“(自)我”に備給されていたエネルギーも加齢によって段々減少してくる。
そうなると、「何がなんでもああしたい、こうしたい」「絶対にあれもほしい、これもほしい」と思っていた“我欲”が弱体化する。
そうして、いずれの場合も、まあ、これでもいいんじゃないかな、と鷹揚(おうよう)な気持ちになってくる。
こういった変化は大歓迎である。
自然に肩の力が抜けるというか、自ずとおまかせの境地に近づいていく。
これは加齢の賜物(たまもの)といっていいだろう。

さて、あなたの加齢が、前者になるか、後者になるか。
それは神のみぞ知る、であるが、せめてできることとして、先に挙げた「本音の成長」だけは取り組んでおかれることをお勧めしたい。

そして、かくいう私がもし前者になったとしたら、すいません、優しくして下さい。

 

 

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