八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

昔、ある連続研修(私が講師)に参加していた中年女性Aが、研修最終日の懇親会(酒席)で話しかけて来た。
先日、自宅の庭の剪定を業者に頼んだところ、職人が見習いのような若い青年を連れて来ていて、どこかで見たことがある顔だなと思っていたら、この研修にも参加している別の中年女性B(私にもわかる人)の息子さんだったという。
Bさんの息子さんは中学生頃から不登校やひどい家庭内暴力があって、ずっと引きこもっていると聞いていたから、ああ、働きだしたんだと思った、というのだ。
訊いてもいないのに、そこまでの内情話をしておいて、Aは「これ、誰にも言わないでね、先生。Bさんにも。」と付け加えた。
一気に吐き気がした。
聞きたくもない他人の秘密を一方的に垂れ流しておいて=相手に無理矢理秘密を共有させておいて、それをしゃべらせないように「誰にも言わないでね。」と最後に付け加える。
パーソナリティに問題のある人間が行う巻き込みの常套手段のひとつである。
こんなところでお目にかかるとは。
しかも、私に仕掛けて来るとは良い度胸である。
即座に(←ここが大事。沈黙すると暗黙の同意ということに持ち込まれる)
「私が何をしゃべるかしゃべらないかは私が決める。
と言って正面から睨めば、退散して行くしかなかった。
こういう悪意の巻き込みは実によく練られていて、つい術中にはまりそうになるのだが、実は対策は難しくない。
「誰にも言わないでね。」と言われた瞬間に多くの人は嫌悪感を覚えるはずである。
そのときに黙らない。
そして整然とした文章で反撃しようとしなくていい。

ただ相手の眼を見て、嫌悪と軽蔑を込めて「ゲッ。」と言えばいいのである。
思いの強さが勝負を決める。

帰り際、別のテーブルに行ったAがまた別の研修担当者と話している声が聴こえて来た。
「同居している舅がわたしのことを時々色目で見るんですよ。これ、誰にも言わないでね。」

「ゲッ。

何しに来てんだ、おまえ。
ダークサイドの世界に巻き込みに来ているのである。

闇は斬るべし。


 

内科の友人によれば、全国で高血圧症で治療を受けている人が約1,600万人いるという。
しかし、高血圧症の人自体は約4,300万人いると推計されているそうだ。
となると、差し引き約2,700万人の人が高血圧の診断基準を満たすのに治療を受けていないということになる。
大丈夫か?

精神科でいうと、全国で精神障害で治療を受けている人が約614.8万人。
しかし、なんらかの精神障害の診断基準を満たす人は約1,900万人いると推計されている。
となると、差し引き約1,285万人の人がなんらかの精神障害の診断基準を満たすのに治療を受けていないということになる。
大丈夫か?

でも、実はどちらも、なんとな~くはわかってるよね。
血圧は健康診断でも測っているし、今どき血圧計は行政機関などいろんなところに置いてあっていつでも測れる。
精神障害も、細かな診断基準など知らなくても、こころの不調が家庭生活や職業生活に支障を及ぼしていれば、なにかのこころの病気なんじゃないかな、とどこかで思っているはずである。

それでも受診しない=先延ばしし、回避し、逃避し、否認したくなる、そんな気持ちも、同じ凡夫としてわからないではない。
オレの/わたしのからだとこころだから、どうしようとオレの/わたしの勝手だと言われるかもしれないけれど、ちょっと視点を変えて、そのからだもこころも自分で作ったわけではなく、そもそもが授かりもの、天からの大切なレンタル品だと思えば、できるだけ、メンテして、リペアして、使い切ってからお返ししましょうよ。
そう思えば(「そう思うようにすれば」というやりくりではなく、私はそれが真実だと思っている)、ちょっと受診しやすくなるかもしれない。
せめてみすみす自分のからだとこころを壊すような自己破壊行為だけはやめときましょ。

 

 

「それでは、そういうこだわりというものを少なくし、我々の心を解放するにはどうしたらいいだろうかということを考えてみましょう。
それには、まず自分の心のなかの声をよく聴いてみる。何かが聴こえてきますね。自分のこだわってる声が聴こえてくる。そしてその次に、そのこだわっているのは何かとはっきり見るわけです。こだわっている状況を正しく見る。ふつう私たちはこだわりのままに引きずり回されて、悶々として苦悩してるわけです。…そういうなかで転々として、泣いたりわめいたり気が狂ったようになっている自分の姿をよく見るのです。これには、練習ということが大切であると思います。
というのは、我々はあまりにも自分のありのままの声を聴いたり、ありのままの姿を見たりするということを避けている。ご婦人の方におうかがいしたいんですけれども、メーキャップをほどこして美しくなった自分の顔。それは自分でしょうか? それとも、化粧を全部取っちゃった後の顔が自分でしょうか。どっちが自分のほんとうの顔なんでしょうか。自分を見ることは、自分の素顔を見ることです。つらいことに違いないと思います。けれども自分の姿をありのままにじっと見つめるとそのなかに、あなた方の英智が光っていることを感じます。自分の心の姿を、静かに正しく見る、正しく聴くときに、あなた方に落ち着きがわいてきます。…
さらに進みます。ほんとうの自分の姿を見、自分の声を聴くときに、どれだけ自分が自分の欲望を中心とし、自分の執着を中心として感じ、行動しているかということがわかると思います。そして、じつはこだわりということが、自己中心的な動きだということがおわかりになると思います。…
まったくみなさん、僕の話を不快に思われるかもしれないけれども、そういったことが私たちの現実ではないかと思うんですよ。つまり、私たちは、人間関係を形成するとき、このようなお互いのおろかさのなかで形成してるってことです。お互い、こういうことについての検討を加えないですね、お互いにそれぞれ自分自身に関する認識を持たないで人間関係というものを形成しようとしている。お互いの愚かさの上に形成された人間関係 ー そこにはどんなことが起こるんでしょうね。それはおそらく、自己中心的な人間同士の集まりだから、お互いにこうすべきである、ああすべきであるという、要求し合うような、そういう人間関係になってくるんじゃないでしょうかね。そこには、我、尊し、我、正しとするような一方的な自己主張の姿が見られるだけであると思います。関係し助け合うのではなくて、お互いに衝突し、攻撃し合い、闘争し合うという人間関係になるのです」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

自分のありのままの姿をじっと見るということは、まず自分の欲望、執着、自己中心性、愚かさを観る、認めるということになりますから、それは愉快なことではありません。
だから、我々はそれを避けているのです。
しかし、自分を見つめるということの意味は、それだけではありません。
そういう心の闇を見つめる、認めた先に、それを超えた叡智の光が観えて来るのです。
光に至るために闇を観るのです。
そこが肝心。
実はその叡智の光が働いているからこそ、我々は、見たくもない、見るのもおぞましい、自分の心の闇を見つめ、認めることができるのです。
だから、自らの闇を観ることを恐れないで。
必ずその先に光がありますから。
これこそが「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の本質ということができるでしょう。

 

 

最高気温が35度のとき。

電車や街頭でヘソ出しファッションの女性を見かける。
ファッションなので、本人の好きにすれば良いのだけれど、
できれば、出ベソの方はご遠慮願いたい。
また、せめてヘソのゴマだけは綺麗にしてからにしていただきたい。
さらに、腹筋が割れてシックスパックの方は良いのだけれど、
ツーパック、即ち、「割れている」というよりは「重なっている」あるいは「のっかっている」二段重ねの方は、お出しにならない方が良いのでは、と思っていた。


そして本日、都内の最高気温が40度を超えた。

もうどうでもいい。
上記のことは、まだ余裕があるときの話だった。
こうなったら、何を出しても良い。
警察にさえ捕まらなければ。
本当にイチジクの葉っぱだけでも良いかもしれない(男性は1枚、女性は3枚)。
外から見えない室内では(同居人からのクレームがない限り)裸族でも良いかもしれない。



酷暑の今だけは、ファッションよりも生命(いのち)を大事にして下さい。

はい。

 

 

精神科医/精神療法家という仕事をしていると、自分の役目のひとつとして、クライアントが生きて来た/生きている/生きて行く人生を知るひとりの「証人」としての使命を感じるときがある。

ようやく酷い夫との離婚が成立し、これから二人の子どもと生きて行きます。
不安もあるけど頑張ります。

発達障害の子どもと夫の世話で生きて来ました。
子宮癌が見つかり、これから闘病です。

虐待を受けてずっと児童養護施設で育ちました。
来春、施設を退所し、ひとり暮らしと仕事が始まります。

みんながみんな、テレビのドキュメンタリー番組の主人公に取り上げられたり、自伝を出版できるわけではない。
また、そんな機会があったとしても、人さまには言えない
ような「秘密」の話もたくさんある。

それでもね、みんなにそれぞれの人生があり、今日までなんとか生きて来た。

せめて私ひとりでも、あなたが生きて来た/生きている/生きて行く人生の「証人」でいることはできる。
そして願わくば、いろんなことがありながらも、あなたがあなたとして成長して行く人生の物語の「証人」でいたいと思う。

たったひとりでも、いないよりはいいでしょ。
そしてどんな「秘密」の話でも聴きますよ。
それであなたが楽になり、あなたが本当のあなたになっていけるのならば。

 

 

バブルの頃、独自のファッション・ブランドのお店を展開し、ものすごく儲かったという話をしている経営者がいた。
しかし、バブルがはじけ、今は細々とネット通販を続けて、なんとか食べて行っているという。

「ファッションって生きて行くのに絶対必要なものじゃないから、景気が悪くなるとダメなんですよ。」

その言葉を聞いてふと、今、自分がやっていることは「生きて行くのに絶対必要」か、と思った。

少なくとも私にとってはそうであった。
出世の本懐(何のためにこの生命(いのち)を授かり、どう生きて死ぬのか)を求めていた私にとっては、いくら巨万の富があったとしても何の役にも立たなかっただろう。

実際、近藤先生がニューヨークでセラピーをされていた頃、クライアントの中にアメリカのビリオネアたちが何人もいたそうだ。

また、日本においても、古来、西行のように、何不自由ない生活からいきなり出家する人たちがいた。

少なくとも、古今東西を問わず、出世の本懐を体得することが「生きて行くのに絶対必要」な人たちがいらしたし、今もいらっしゃるのである。

その人たちのために当研究所はある。
そのためにこの形で開業している。

今日は、それを再確認した一日であった。

 

 

以前は、「人間的成長のための精神療法」の対象を精神科医療関係の国家資格者に限定していなかったので、いろいろな方が面談に来られていた。
(現在も、一般市民の方を対象とした「人間的成長のための精神療法」を再開したため、空き枠さえあれば、いろいろな方の面談をお受けしている)

その中でも、会社の経営者の方で、自分の人間的成長のために申し込んで来られる方が時々あり、奇特な方があるもんだ、と思ってお受けしていたが、結局のところ、職種などは全く関係なく、人間的成長はどれだけ真摯に「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持てるかにかかっている、ということが証明されたように思う(よって、経営者の方でも「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が不十分な方はお受けしていない)。

但し、その経営者の方から、その会社の社員に対する講演や研修を依頼されたときは、今はお断りすることにしている。
経営者が社員のために良かれと思って企画しても、社員全員が「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持てるはずもなく、むしろ「経営者」と「社員」という権力構図や利害関係からイヤイヤ講演や研修に参加されても、得るものがあるはずもない。
社員の方が、一個人として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持ち、自分の時間とエネルギーとお金を割いて面談を申し込まれるようでなければ、残念ながら、得るものは乏しいだろう。

従って、現在、私が講演、研修、講義などをお受けするのを、①大学生や大学院生などの学生(これは変な考えに“汚染”される前に初期教育として重要だと思っている。それに準じて、病院などの新人入職者研修をお受けする場合もある)、あるいは、②それ以外の集団として受けるならば、どんなに小集団であっても、全員が熱心な場合に限定しているのは、そのためである。

それでも
逢うべき人に逢い
その人の人間的成長に関わりたい
と死ぬまで願っているだろう。


 

先日、うな重をいただいた。
うなぎはもちろん美味しかったが、この猛暑期には、付け合わせの奈良漬けが妙に美味しかった。

別の日に、外食で卵かけ御飯を食べたが、これまた自慢の卵はもちろん美味しかったが、この猛暑期には、出汁醤油の味が妙に美味しかった。

で、汗をかきやすい猛暑期には、塩味(しおみ)が妙に美味しいのよね、と結論づけたかったのだが、
専門家によれば、日本人の塩分摂取量はそもそも男性で11g、女性で9.3gと多く(健康のために推奨されているのは男性7.5g未満、女性で8.5g未満とされる。しかしWHOの推奨はなんと5g未満である)、余程大量の汗をかかない限り、塩分の補給は必要ないのだそうだ(その際も塩分を単独で補充するのではなく、スポーツ飲料や経口補水液の利用が勧められている)。

どうもこの「美味しい。」「旨い。」という「感覚」は、時に当てにならないらしい。
「美味しい。」「旨い。」に釣られての飲み過ぎ、食べ過ぎは、いろいろな場面で既に経験済みですよね、みなさん。

で、「感覚」が当てにならないときは「理性」を使うのが上々。
塩分はもう十分に取っているので、さらに塩分を取る必要はないのである。

同じことが、水分摂取についても言える。
ある年齢を超えると、喉の渇きに鈍感になってくると言われている。
よって、猛暑の時期に、喉が渇いたと感じてから水分摂取をしていたら後手に回って、熱中症に陥ってしまう危険性がある。
そこで、高齢の方は喉が渇いても渇かなくても1日7回コップ一杯の水分を摂取しましょう、などと言われるのである。

普段は「理性」「知性」よりも「感性」「感覚」を重視している私だが、時には「理性」「知性」の出番があることも理解しているつもりだ。

ということで、みなさん、この夏は、上手に「頭」の方も使って健康に猛暑を乗り切るワークにしてみましょうぞ。
 


 

今後の「八雲勉強会」につきましては、7月13日(日)付けの本欄でもお話ししたように、2025(令和7)年8月からは、
[1]年10~11回の「八雲勉強会」(参加者全員リモート)

[2]年1~2回の「ワークショップ」(参加者全員対面)
の組み合わせにすることとなりました。

そうなりますと、「八雲総合研究所に面談には来ていないが、ハイブリッド勉強会に参加して来られた方々」は、「ワークショップ」にしか参加できず、「八雲勉強会」には参加できないことになります。

で、現時点では、「ワークショップ」の企画自体がまだまだ具体化しておりませんので、「八雲総合研究所に面談には来ていないが、ハイブリッド勉強会に参加して来られた方々」のうち、ご希望があれば、「八雲勉強会」への参加(全員リモート参加)を受け入れることと致しました。

もし「八雲総合研究所に面談には来ていないが、ハイブリッド勉強会に参加して来られた方々」で、今後の八雲勉強会に参加を希望される方は、「令和7年度八雲勉強会 年度参加のご案内」および「8月 第67回 八雲勉強会 by Zoom」をご参照の上、お申し込み下さい。
その際のお申し込みは ymatsuda@yakumo-institute.com 宛てにメールでお願い致します。

尚、「八雲勉強会」の参加対象を今後さらにどうするのか、につきましては、引き続き検討中ですので、また新たなことが決まり次第、本欄でお知らせ致します。

 

 

 

「男性においてのこだわりは、権力、金力、力ですね。優越するというようなこと。女性においては、愛情とか、愛情ということを基本にしたこだわりですね。…
両方に共通しているのは、人間というのは自己の保全・安全というものがいつも重要な価値のひとつになっている。だれでも自己防衛というか人に対してなんとなく心にもないことをいったり、偽りの微笑を浮かべたりします。これはたいがいの人は経験があると思うんです。これは人間関係における自分の保全、自分の防衛のためということですね。
小さな子どもでも安全ということを考えます。とくに男性においては自分の地位の保全、それは権力を意味する地位の保全。女性においては、愛情的な意味における安全…愛情を確保する安全さです。そういった自己の安全のための防衛ということを人間は行うものです。ところが多くの人が残念なことにこの法則が自分のなかで、はっきりしていない。自覚していない。そして自分のこだわりに執着している。それをどうしてもこうでなきゃイヤだと思っている。執着とはそういうことです。そうして最後にはこうであらねばならないというふうに思いこんでしまう。
こうであらねばならないということになりますと、ちょっとでもそうでないと気になるわけです。もう一回いいますよ。ある価値があって、それに無意識に執着する。執着すると、どうしてもそうありたい。ほしい。おれは偉くなりたい、とね。それがもっと強くなると、偉くならなければイヤだ。その次は偉くならなければいけない。ならなきゃならない。ねばならぬ。…
こだわりの源ってなんだろうということをここでいえば、自分の執着しているものを完全に現実化してなくてはやまないというこの欲望、それが私は、こだわりの源だと思います。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず「こだわり」には、「自己の保全・安全」ということが絡んでいるということ。
特に、男性には「権力を意味する地位の保全」、女性には「愛情を確保する安全」。
そしてそこには「自分が執着しているものを手に入れなければならない」という強い「欲望」が働いており、それが「こだわり」の源となる。
そして最大の問題は、自分でその「こだわり」について自覚していないということ。
自覚がないことには解決のしようがない。
私の表現で言えば、「こだわり」に呑み込まれていては何も始まらない。
そこで少しでも「ちょっと待てよ。」「わたしは/おれはこれにこだわってるぞ。」という自覚が出て来ると、流れが大きく変わって来る。
それが「情けなさの自覚」。
そこからなのだ、成長の道が始まるのは。
まさにそのために、今この文章を読まれた方々は、どうぞご自分の中にある「こだわり」について内省してみていただきたい。
ゆっくりと、そして、事あるごとに、そして、徹底的に。

 

 

 

スケートボードの国際大会、女子ストリートで、ある十代の選手がベストトリックの最後の試技に挑む。

有力選手たちは既に試技を終え、ここで無難にトリックを決めれば、優勝は確実である。
試合後のインタビューで、このときの気持ちを彼女は語っていた。

「ここで手堅く行けば、確実に優勝できるけど、それはかっこよくない、と思った。」

そして、この日最高難度のトリックに挑んで成功し、彼女は優勝したのであった。

かっこいいぞ。

優勝したからかっこいいのではない。
たとえトリックに失敗して優勝を逸したとても、彼女の姿勢、生きる姿がかっこいいのである。

武士道の精神を説いた書に
「勝ちたがりて、きたな勝ちすれば、負けたるに劣るなり。多分きたな負けになるものなり。」
(勝ちたがって、汚い勝ち方をすれば、それは負けることにも劣るのである。まず汚い負けになるのだ)
と書いてあったのを思い出した。

手堅くやって優勝しても、褒めてくれる人はたくさんいただろう。
(実際、ある別競技において、「どんな勝ち方をしても、みんなはすぐに忘れちゃって、金メダルの記録だけが残るから、無難にやっちゃいなよ。」とアスリートの耳元で囁くコーチがいた)
でもそれは自分の矜持(きょうじ)が許さない。
そんなことをすれば、私が私でなくなる。

彼女はそんな書の存在さえ知らないだろうが、武士道精神は、その十代の女の子の中にも脈々と生きていたのである。

 

 

面談を続けている面白いことが起こる。
ある女性が面談を続けるうちに、本来の自分を取り戻し、他者の思惑よりも自分が本当は何を感じているか、どうしたいのかしたくないのかを表出できるようになってきた。

面白いというのは、そうなったときの、まわりの人たちの反応である。

内省性がなく、以前の彼女の方が都合が良かった人は、その変化・成長に反発する。
「おかしくなった。」「生意気になった。」「言うことを聞かなくなった。」などなど。
中には怒り出す人もいる。

そして内省性があり、本当の意味で彼女を愛している人は、彼女の変化・成長を喜ぶ。
「表情が変わったね。」「生き生きして来た。」「良かったね、お母さん。」などなど。
中には泣き出す人もいた。

そして、家族や友人関係でも、本人の変化・成長について行ける人とついていけない人とに分かれて来る。

ついて行ける人は、彼女の変化を自分事として内省し、その人自身もまた変化・成長し始める。
ついて行けない人は、自分にこそ問題があることを内省できず、結局、彼女の変化・成長に置いて行かれることになる。

私がしていることは、クライアントをある特定の型に嵌(は)めていくことではなく、その人がその人になるように(本来のその人を取り戻せるように)(さくらはさくらに、すみれはすみれになるように)応援していくだけのことである。

願わくば、周囲の人も、その影響(=薫習(くんじゅう))を受けて、自分の花が本来何なのかに気づき、一緒に自分の花を咲かせて行ってほしいなぁ、と切に思う。
そういった連鎖反応もまた、人間的成長に関わる精神療法の醍醐味なのである。

 

 

連日、これでもかと猛暑が続く。
読者の方々の中には夏バテに陥っている方もいらっしゃるだろう。

私は基本的に、人生、無駄なことは起きない、と思っている。
というわけで、今日は、
夏バテのときだからこそ、
いや、夏バテだけではない、風邪やらコロナやらノロで、ぐったりへろへろになってしまったときだからこそ体験できるワークについてお話したい。

と言っても、何も目新しいことではない。
いつも申し上げている「丹田呼吸」のことである。
そのうち、今日は特に「吸気(息を吸う)」に着目したい。

「丹田呼吸」においては(詳細について知りたい方は松田まで)、
「呼気(息を吐く)」で、息を吐いて吐いて吐いて、吐き切る。
最後には、空気だけでなく、自分まで、自分の我まで吐いて吐いて吐いて、無我に向かっていく。
そして今度は「吸気」、息が体の中に入って来る。
そのときにあなたをあなたさせる力が体の中に入って来る。
そして自力ではなく、この他力によって生かされていくのである。
それを感じる、できるだけリアルに。

これが元気なときは、自力が強いため、
無我になるまで吐いて吐いて吐き切るのも大変である。
また折角、他力が入って来ても、既にある自力に紛れて、それを感じにくい。

しかし、ぐったりへろへろになっているときは、自力もぐったりへろへろである。
即ち、他力だけになりやすく、その他力を感じやすいのだ。
ぐったりへろへろの中で動いてみるとき、それがなけなしの自力を振り絞ってではなく、他力によって動かされていることを感じやすいのである。
これがぐったりへろへろのときでないとできない、「他力を感じるワーク」なのである。

人間、弱らないとわからないことがあるのだよ。

ちょっとやってみようかなと思った方は、どうぞお試し下さい。
そしてその体験を松田までお知らせ下さい。

 

 

Aさんが言うには、Bさんとは話が弾むが、Cさんと話すと話が弾まない、という。
だから、Cさんと話すのはやめて、Bさんと話すことにしたと。

誰とどう話そうとAさんの勝手だけれど、私が見る限り、Aさん自身も抑圧と緊張が強く、誰とでもオープンに人と話せる人だとは思えない。
Bさんと話が弾むのは大変結構であるが、軽口を叩くのが得意なBさん故、その内容は多分に噂話やら悪口・陰口やら、はっきり申し上げると、ゲスネタである。

秘めた攻撃性を一緒に垂れ流せる仲間との間で話が弾んでも、それが双方の人間的成長にとって役に立つとは思えない。却って一緒に堕ちていくことになるかもしれない。

Cさんは確かに能弁な人ではないが、そういったAさんの内面がわかっていて、話をゲスネタには持って行かなかったように私には見えた。
大切にすべきは、むしろCさんのような人じゃないかな。

本当の意味で「話が弾む」とは、表面的な言葉の上で話が弾むのではなくて、一緒にいて「本来の自分」が、「生命(いのち)」が弾むことなんじゃないか、と私は思っている。
そのためには一方だけじゃなくて、双方の開いた心が必要なのだ。

だから、AさんとCさんとで、時間をかけて、気負わないで、何だったら沈黙したままでも良いから、場を共にして行くことを、私としてはお勧めしたいと思う。

居酒屋の後ろの席で、さっきから大学生たちが盛んに歓声やら笑い声を上げている。
しかし、悲しいほど空疎な響きしかない。
ああ、ここでも“本当の”話は弾んでないな、と思うのでありました。


 

例えば、あなたが生活習慣病(高血圧、糖尿病、脂質異常症など)になったとする。
医者からは食事療法を勧められる。
さて、あなたはどうする?

真面目な患者さんは、食事療法を粛々と励行される。
大したものである。

しかし、そんな人ばかりではない。
大抵の人は続かない。

よくある方法としては、普段は摂生して、たまにチートデイを設ける人がいる。
このときとばかり、好きな焼き肉、うなぎ、魚卵、ケーキなどを食べて、憂さを晴らす。
その楽しみがあるから、普段の摂生も耐えられるという。
それが実行できるのであれば、これもなかなか大したものだと思う。

中には強者(つわもの)もいる。
「食事は制限したくないので、お薬をお願いします。」
と言い切る。
一切我慢する気がない上に、
薬だけでなんとかしてもらおうというのである。
これもこれで大したものかもしれない。

そういう人ばかりではなく、
食習慣は変えず、
受診や健康診断を回避し始める人もいる。
現実逃避である。
それだけでなく自己破壊的な臭いもしてくる。
こればかりは大したものとは言えないな。
陰に(身体的ではなく、実は)メンタルな問題が見えて来る。

食事療法は、内科医や臨床栄養士などによって行われることが多いが、実は精神療法的な要素も相当必要なんじゃないかな、と私は思っている。
理性と意志の力だけで行動変容できる人は、そんなに多くない。
私の経験からすれば、体の声、生命(いのち)の声が聴こえて来るようになれば、動き出すものがあるのではないか、と思う。
私も、今のところ、生活習慣病にはなっていないが、もし罹患する日が来れば、我が身をもって試したいと思っている。
実地でなければ、空論に終わるからね。

 

 

テレビでPICU(Pediatric Intensive Care Unit:小児集中治療室)のドキュメンタリーをやっていた。
小児外科のドキュメンタリーを観たときも同じことを思ったが、画面を見ながら、自分にはできないな、と思った。
自分が治療に関わった子どもが目の前で死んで行ったりしたら、とても耐えられないと思ったからである。
もちろんそういう反応が多分に私の個人的問題に由来しており、
そもそも人間の力で人を生かしたり殺したりできるものではない、ということは百も承知である。

自分が感情反応を起こしやすい人間であることはよくよく意識して来た。
喜怒哀楽が大きく、長引きやすいのである。
感情反応が豊かなことを“深情け”と称して、むしろ良いことのように言う向きもあるが、行き着くところ、それは我の反応に過ぎない。
思い通りになれば喜び、思い通りにならなければ怒るか悲しむのである。

誤解のないように付け加えておくと、その我の反応が起きること、喜怒哀楽が起きること自体に問題があるわけではない。
何が起きても感じないようでは、それは不感症かよくある似非(えせ)悟りである。
そうではなくて、起きた感情反応が過剰であったり、尾を引くことが問題なのである。
健康な我は、サラサラと消えて行く素直な感情反応を引き起こすだけであるが、
病んだ我は、ネバネバとした過剰で長引く感情反応を引き起こす。

そういう意味で、多くの面では、お蔭さまで、健康な我を味わえるようになって来たが、子どもの苦しみや死だけは、いまだに私の中に病んだ我の反応を引き起こすのだ。
それがどこから由来するかは既に分析済みである。
しかし、知的にわかっていても、まだ体験的に解決されていないのである。
それが私の成長課題だな。

課題は永遠にあり、成長もまた永遠に続く。
そしていつも、こんなところに留まっているつもりはない。

 

 

「女の人の例ばかりだしたから、女の人にばかりこだわっているように受けとられるかもしれませんけれど、男の人にも同じようにあるんですよね。男性というのは非常に優越感を欲しがる。世の中には勝ち負けがあるので、自分が負けると大変なんです。つまり優劣意識、競争意識、そういったもので、自分がちょっとでも偉くなりたい。さっきの『ウソでもいいから愛してくれりゃいい』というのに対していうと、『ウソでもいいから偉いといってもらいたい』。偉そうにしていたい。だから、旦那さんのもっともいい操縦術は、うんとほめ抜くことですよ。…そういうと、『そんなことないよ』というけれども、ほんとうのところ大変よろこぶんですね。人間なんて考えてみれば愚かなものですよ。情けないかなそういう存在なのです。ね、ほんのちょっとでも優越したいですよ。…
このように人間というものは本来非常にくだらない価値観を持っている。その価値観というものを信じて執着する。自分はこうだと、こういうものが大事だと、これをですね、いちいちですよ、一人ひとりについてよく吟味してみなくてはいけないんですよ。それが自分自身にとってどんな意味を持っているかということを考えてもらいたいんですよ。
我々は、ふっつうはこんなことは意識しません。それを無意識といいますが、知らないうちにそういうことを考えているのです。…
しかしながら、自分の中に、いつもそういった何か、我々を支配しているこだわりのあることを認めるのが大事なのです。その意味で私の話を参考に聞いてほしいのです。…
といっても、私は、人間はある程度競争がないと進歩していかないもんだと思っています。…もう少し自分の才能を伸ばそうとか、そういった意味で健康的な競争もあるんですね。健康な競争ならその人間の能力を伸ばし、能力ばかりでなくその人の生命力を伸ばし、その生命をまた強くし、もっともっと伸びていくことになるんですけれども。でも、こだわりがでてくると、その生命の流れを逆に阻止してしまう。自分が伸びない。…
健康な競争は、お互いに刺激しながらお互いに伸びていく。ところがひとつこだわってしまうと、なんとかあいつをやっつけたいという敵意とか憎悪に変わります。人を引っ張りおろす、足を引っ張るともいいますけれども、そういうことをやりはじめるのです。
これがね、人間のひとつのあり方であると思います。私は人間がそんなにね、きれいにいくもんじゃないと思うんです。…人間の嫉妬というのは、自分よりも相手が健康だったら、自分より偉かったら、尊敬するんじゃなくて、憎む。そういう悲しい性(さが)を我々は持ってる。しばられ、とらわれてね、そして自分自身も不幸になっていくという悲しい性格があるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まあ、女もアンポンタンなら、男もアンポンタン。
今日もまた、くっだらないことにこだわって不幸になっていくんです。
やっぱりね、転機はね、あ~あ、いつまでも何やってんだろ、わたし/おれ、と“心の底から”思えるかどうかなんですよ。
それがなきゃあ、いくら言ったって、こだわりから逃れられません。
「情けなさの自覚」、それがどれだけ徹底するかどうかにかかっています。
情けないなぁ、ダメだなぁ、バカだなぁ、トホホのホ。
徹底すれば、なんとしても今の自分を乗り超えて行きたい、という「成長への意欲」が(頑張ってでははなく)自ずと湧いて来ます。
そうなったら、相談にいらっしゃい。
代わりに乗り超えることはできないけれど、あくまで乗り超える主人公はあなただけれど、できる限りの支援を致します。

 

 

参院選が終わった。

ここで政治談議を始めるつもりはないが、参政権は国民の三大権利(他は生存権、教育権)のひとつでもあり、選挙権を正当に行使するためにも、それ相応の政治的見識と情報を見極める力(今どきのカタカナ文字は好きではないが「情報リテラシー」がそれに当たる)が重要な時代になったな、ということを痛感する機会となった。

見識に乏しく、情報を見極める能力がなければ、その結果として選ばれた政治家による悪政に支配されたとしても、それは自業自得というものである。

しかしここで「新聞を取りましょう」「ニュースを見ましょう」などと“オールドメディア”系の面倒臭いことを言い出すと、(特に若い人たちには)すぐに嫌厭(けんえん)されてしまうので、ごく簡単なことから申し上げれば、スマホで見られる情報で全然OKなので、複数の情報を比較してみましょう、ということである。SNSでも動画情報でも、とにかく最初から狭い特定情報に偏頗(へんぱ)しないこと。ちょっと比較してみることが、あなたの見識と情報を見極める力をちょっと高めてくれると思いますよ。

それでも、万が一おかしな情報に洗脳されて、まんまと良いように使われてしくじっちまったとしても、大けがさえしなければ、人生勉強になる。
気がついたら修正すれば良いのである。
とにかくあと一歩。

 

で、あなたの地域の次の選挙はいつでしょうか?

 

それが何だって構わない。
その機会もまた、あなたが人間として豊かになる好機にして行きましょうね。

 

 

 

しまくとぅば(島言葉)でいうところの
「なんくるないさー」
は有名であるが、その真意については諸説あるらしい。

ここでそれを一つひとつ挙げて比較検討する気はないが、ある八重山人(やいまんちゅ)が言われていたことが、自分にはしっくり来た(きっと地元の人々の中にもいろいろな意見があるのだろう)。

「なんくるないさー」
は、字義通りに解釈すれば、
「なんとかなるさ」
となるのだが、彼の感覚によれば、それよりも
「なるようになるさ」
の方が近いという。

また、そう言うと、最初からてーげー(テキトー)にやっておけばいい、というような、投げやりな感じに取られがちであるが、彼によると、それも間違いで、
「やるだけやってから初めて『なんくるないさー』と言う資格が生じる」
というのだ。

ほう。大分ニュアンスが変わってくる。

そういう意味になると、彼の言う「なんくるないさー」の真意は、一昨日、昨日と申し上げて来た

なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせする

と非常に近いことになってくる。
今は多くの人が知っている「なんくるないさー」という言葉の真意が、一段と深まった気がした。

今日までの三日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

自力を尽くして、あとはおまかせ。

まず、最初からいい加減ではなく、自力は尽くさねばならないが、自力で何でもできると思うなよ、思い上がるなよ、我を張るなよ、ということである。
そして最後は、何がどうなろうと(あれはいいけどこれはイヤだと言わず)、我を超えたところにおまかせするしかない、ということをよくよく思い知らなければならない。

 

 

テレビで若いお父さんが、子どもの運動会について 
「“万全の状態”で臨んでほしいですね。」 
語っていた。

ああ、若いな、と思う。
恐らく自分の仕事でも大事な商談には“万全の状態”で臨もうとするのであろう。
そういう私も受験前などは、どうやって受験当日を“万全の状態”で迎えるかと気をつけていたのを思い出す。

そんなことも、ほのぼのと「そうだったらいいな。」くらいに願うことは否定しないが、
それが「そうでなければならない。」に近づいて来ると、ちょっと神経症的な様相を帯びて来る。
実際、“万全の状態”でないと、イライラと不機嫌になってくる人も存在するのだ。

本当を言うと、“万全の状態”などというのは、「理想」、いや、限りなく「空想」の産物であって、現実にはなかなかあり得ない。

働くお母さん方はよくご存知であろう。
会社の大事なプレゼンがある前夜、子どもが熱を出して吐いた。
ああ、これで寝不足は決まりだ。
そうでなくても生理痛がひどい。
そんなことは日常茶飯事なのだ。

また、ある金メダリストが言っていた。
明日はオリンピックの決勝だ。
それこそ“万全の状態”で臨みたいのは山々だけれど、ここまで来るのに体に故障がないわけがない。
痛みのない日などないし、鎮痛剤の効果もないよりましくらいに過ぎない。
“万全の状態”どころか“不調を抱えながら”が当たり前なのである。

ここでも、
「思い通りに」“万全の状態”であることにこだわるのか、
「思い通りにならない」“不調込みの状態”を受け入れるのか、
昨日と同じ話になって来る。

自我の強い人間ほど、何事も自分の思い通りにしたがり、
自我の強くない=無我に近い人間ほど、思い通りにならないことを受容しやすい。

両者の行き着くところは、
なんとか思い通りにしようと自力を尽くし(最初からどうなってもいいやと投げやりなのではない)、
最後は、その上で思い通りにならないことを(他力に)おまかせするのである。

二日続けてのお話で、私の伝えたいことが伝わっているだろうか。

最後はおまかせ、ができるか否かで、人生の様相は大きく変わるのである。

 

 

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