八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「これは、私のいう救いの第一章的なことなのですが、つまりどういうことかというと、お互いに幼児性を認めるということは、弱さを認めるということです。やはりお互いが弱いというところで、共感できるものがあるのです。…
しかし、そういうお互いの弱さ、もろさにおける共感というものですごしているうちに、しだいにそれでは満足できなくなってくる。そういうものなのです。つまりそこでもっと高い、もうひとつ上の次元でお互いに共感を持ちたい、もっとほんとうに自分自身救われたい、こんな気持ちになってきます。そういう気持ちになってきますと、現在の自分のいろいろな悩み、苦しみ、もだえ、毎日ガタガタやってる自分の煩悩の存在、自分の煩悩はどういうものであるか、その性質をはっきりわからなくても少なくとも何か感じるわけです。そして、自分の弱さについてわかってくると、これをなんとかしたいという気持ちがおきてくる。その気持ちが最初に起きることが、次の段階にいくために必要なわけです。私たちは、これをなんでもないように思いますけれど、とても大切なことなのです。
だいたい、我々はもし煩悩だけ、欲望だけの器であるならば、永遠にその欲望を追求していっていいはずです。そういう人間であるならばね。けれども、その煩悩を追求していくうち、ふっと自分自身の煩悩の果てに虚無感が現れてきます。何かつまらないような、しらけた気分になったり、あるいは苦しくなったりします。そのとき、その苦しみをじっと見ているうちに、自分はこんな煩悩を持っているんだなーと、しみじみ感じさせられてくる、そう感じさせるものが我々のなかにある、それは私は不思議といいたい。それは私たちのなかに授けられた力であり、能力であります。私は自分自身の経験からいっても、他の人々の経験からいっても、このような力が人間のなかに深いところで働いているということを感じるのです。これを不思議といいたい。どうしても、なぜであるかわからない。そうしたものにどうして目が開くのでしょうか。
我々はほんとうは愛欲に狂い、金銭を追求し、営利を追求し、そうしたもので所有欲を満足するわけです。その人間がどうして自分自身を省みる、そうした力があるんでしょうか。…反省するとか、自分自身というものについて考えるとかいいますけれど、我々としては、こういうことは不快なことです。本来は楽しいことをやりたいと願う人間が、いやなこと、不快なことをなぜやるのでしょうか。これはたいしたことないようですが、出発点といいますか、その人間の精神の新しい次元に到達するために、ほんとうに救われるための次元に到達する最初の大事なところだと思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

(前回の「その22」からの続きです。)
お互いの弱さを認め、共感の世界にいる ー それだけでも大いに救われた気になります。
しかし、それは救いの第一章。
弱さに浸り、煩悩に浸り、ただ欲望を追求し、快楽に溺れていればいいものを、我々は何故かしら、そこに虚しさを感じて来る。いや、虚しさを感じさせられて来る。
それを内省せざるを得ない。見つめざるを得ない。それが不快な、時にしんどいことであるにもかかわらず。
そういう力が我々の中の深いところに働いている。
不思議ですね、本当に。
そしてそうなって初めてそこに救いの第二章の扉が開かれて来ます。
そうして、勘の良い方はお気づきでしょう。
本当の「情けなさの自覚」は、この力によるものだったのです。

 

 

近所に出かけた途中に、小さな店を見つけた。
「〇〇テーラー」と書かれた、いわゆる「洋服お直し」専門の店である。

間口(正面の幅)は一間(1.82m)ほど、店の中は2畳あるだろうか、という小さな店。
80歳を過ぎたご主人が一人でやっているというから驚いた。

外に料金表が書いてある。
ジーンズ丈 1,000円
丈直し   2.000円
胴まわり  2,500円
など、今どき、欲のない料金設定である。

でも良いよね。
腕に覚えのある職人のおじいさんが、自分の小さな店で、いくつになっても手仕事を続けているなんて。

私もあの年になっても、イス二つだけの小さな事務所で(やはり私には良寛さんの五合庵が理想である)、「洋服お直し」ならぬ「こころお直し」、いや、「こころお育て」の店を続けていたいと思った。

ロンドンのサヴィル・ロウ(Savile Row)に引けを取らない仕事の質への誇りを持ち、
それを果たさせてくれるミッションを感じながら。

あなたの仕事もそうでありますように。

 

 

ある匂いにずっと触れていると、嗅覚がその匂いに慣れてしまってわからなくなることを「嗅覚順応」というらしい。

自分の体臭や香水、自分の部屋の匂いなど、思い当たる経験がある方も多いのではなかろうか。
本人は気づかない(気づけない)ものなのだ。

先日のニュースでも、中学生以下の子どもたちを対象とした調査で、他者の柔軟剤や合成洗剤などの生活用品の人工的な香りによって、8.3%の子どもたち(未就学児2.1%、小学生8.9%、中学生12.9%)が吐き気や頭痛などの体調不良を感じたことがあるという。
もしそれを着ている当人が体調不良を感じたとしたら、すぐに脱いで着替え、親にクレームを言うだろう。
幸か不幸か体調不良を感じなかった本人は、着ているうちに嗅覚順応が起こり、わからなくなってしまっていたのである。

この順応って嗅覚だけの話じゃないよね、ということを今日は申し上げたい。

おかしな言動でも、ある一定期間以上行っていると、それが「おかしい」とわからなくなってくる。
自分では気づかない(気づけない)。
だからね、時々信頼できる第三者にチェックしてもらった方が良いのである。

「おれ/わたしの言動でおかしいとこはない?」

それによってあなたは自分自身の問題/課題に気づくことができる。
例えば、サイコセラピストはそのためにいるようなものだ。

かつて80代の近藤先生が当時30代の私に真顔でおっしゃった。

「松田くん、もし僕が間違っていたら教えてくれよ。」

流石である。

 

 

 

井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)という本がある。

近藤先生との間で同書について話したことは懐かしいが、
(井筒俊彦氏の著作をかためて読んだ時期があったことについてはどこかで触れた)
そのとき、河合隼雄氏がサイコセラピストとして読むべき必読書として挙げていることを伺った。
確かに深い内容の本であるが、後になって、そこに意外な壁があることを知った。

この本を読んでみて「難しくて読めない。」という方が意外と多いのである。

そっかぁ。

一応「読んだ。」と言う方でもディスカッションしてみると、う~ん、と思うことが多い。

正直、そう来るとは思わなかった。

ここで立ち止まって、振り返ってみた。
こういう本が読めるというのは、そんなに大切なことなのか?
それは確かに、読めたら読めたで、知的に味わえるものがあるかもしれないが、私の心の隅にはいつも妙好人のことがある。
字も読めず、計算もできない貧しい人たちの中から、学僧や禅の師家たちが舌を巻くような宗教的体験と境地を持った人たちが出て来るのである。

やっぱりそっちが先だよな。

その体験と境地があった上で、たまたまこのような本や専門書などが読める人であれば、それはそれで味わえば良いのである。

中には『意識と本質』は読めるが、それについて知的遊戯的談議しかできない人もいる。
体験や境地がない。
それじゃあね。

どっちが本質かを間違えてはならない。

そこを踏まえた上で、関心のある方はどうぞチャレンジしてみて下され。


 

ニュース記事をご覧になった方もあるだろう。
まだ幼い子どもが脳腫瘍で余命1年と宣告されたお母さんの言葉である。

「自分の子どもなんですけど、やっぱり大変なんです。介護というか、サポートが。イライラしちゃうときもあるし、投げ出したいときもある。いつまで一緒にいられるかわからなくて。本当だったらすごく大切にしてあげたいんだけど。その一方で、もう自分がすごくつらくて、1時間でもいいから離れて、どこかへ行きたい。そんな思いがあったりしました。」

あったり前ですよ。
健康で持続可能なやり方でなければ、続くわけがありません。
親御さんが疲弊して自責的になる。
そんな負のループに陥らないで済むように、医療・福祉がよってたかっての支援を行う必要があります。
また、親御さんたち自身も、遠慮しないで、抑圧しないで、自ら声を上げる必要があります。
それが似たような境遇にある他の親御さんたちを救うことにもなりますから。

今の日本、声を上げればなんとかなります。
例えば、親御さんが倒れたときに子どもさんをなんとかするくらいの力は日本にあります。
でも(倒れてからではなく)倒れる前に、親御さんの方をなんとかしなければなりません。

良いケアには良い健康が必要です。

声を上げて、休んで下さい。
大切な人のために。


 

ある発達障害を専門に診ているというクリニックの話を聞いて驚いた。
そのクリニックでは、思春期以上か、大人の患者さんしか診ていないというのだ。
それはあり得ないでしょ!

例えば、自閉スペクトラム症のお子さんがいたとして、まずその一次特性(=一次障害)に沿った療育を幼児期から始める必要があるのは当然である。
そうして将来の自立年齢に向かって、本人には徐々に、自分の特性を知り、自分の特性との付き合い方や、その特性を持った上での他人や社会との付き合い方を身に付けて行っていただくことになる。
また同時に、親御さんにも徐々に、我が子の特性を理解し、その特性との付き合い方やその特性を持った我が子が他人や社会とどう付き合って行けば良いかも学んでいただくことになる。
その過程で親御さんには、自身の今までの人間観、教育観、人生観、価値観などの見直しも必要になってくる。
そんなことを、子どもが幼児期、学童期、思春期、成人期と成長して行くにつれ、それぞれの成長段階に応じて行っていく必要があるのだ。
幼児期から成人期=自立するまで、継続的に(できれば中断なく)やることは山ほどある。

そういった適切な療育を幼児期から受けられなければ、いろいろな環境との間で不適応を生じて、幼児期から怒られ続ける、学校でも叱られ続ける、友だち、集団ともうまくいかない、いじめられる、不登校になるなどという体験から、さまざまな二次障害が生じて来るのは必定である。
そうなってからの受診や療育、思春期以降になってからの受診や療育では、一次障害、二次障害の両方にアプローチしなければならず、その間に誤った学習もしているため、それらを解除してから学び直すとなると、さらに大変である。

思春期以降の診断名としても、適応障害やうつ病とだけつけられている場合も多いが、それらは二次障害であって、その根底に一次障害としての発達障害があるかどうかを観抜かなければ、治療方針は大きく異なることになる。
一次障害の発達障害を放置しておいて、二次障害だけ治療することができるはずもない。
二次障害として起こり得る精神障害としては、適応障害やうつ病の他に、不安障害、解離性障害、摂食障害(食行動症)、強迫性障害、物質関連症および嗜癖症、パーソナリティ障害など、多岐に渡る。
それらについても、一次障害に発達障害があるのかないのかで治療のアプローチが変わって来るのは当然である。

それなのに、思春期以降になって、あるいは、大人になってから急に治療を始めようというのであれば、苦戦するのは当然である。
だから、とにかく早く専門外来を受診しましょう、できるだけ早い(幼い)うちに。
そして運悪く、思春期以降、大人になってから受診する場合には、医療機関を選んで、可能な限り、療育的アドバイスが充実したところにしましょう。

そして医療機関の医師、臨床心理士の方々に申し上げたいのは、もし発達障害の臨床に関わるのであれば、いきなり思春期以降や大人になってからの臨床は、二次障害などが重なって相当に応用編なのだな、という認識を持って、可能な限り、幼児の臨床からの勉強を、それも検査・診断だけでなく、療育についても是非学ばれることを強くお勧めしたい。

幼児期からちゃんとした療育を受けながら成育した場合はどうなるのか。
幼児期からちゃんとした療育を受けられずに二次障害(中には三次障害も)が重なって行ったらどうなるのか。
そこらを観通せると、現在の位置付けが観え、本人に合った治療・療育方針を立てやすくなる。

自閉スペクトラム症の診断基準を満たす方だけでなく、その傾向=自閉スペクトラムを持った方々も急速に増加している。
それが本当に実数が増えたのか、実は元々いた方々がちゃんとした眼で観られるようになっただけなのか、よくわからないが、とにかく、少しでも生きづらい人生を、しんどい人生を送らないで済むように、一日でも早く、そして、本人に合った治療・療育につながるような世界になることを願っている。

 

 

研修医1年目。
右も左もわからず、何でもかんでも先輩医師たちに訊きまくっていた。
知らなくて当たり前を盾に躊躇することなく訊けた。

しかし2年目になると、後輩が入って来た。
え、もう先輩ですか?
早くも後輩に教える側になった。
でもまだ研修医。
遠慮することなく先輩医師に訊きまくっていた。

それが3年目になり、5年目になり、10年目になるとどうだろう。
また、助教になり、医長になり、専門医になるとどうだろうか。
キャリアが長くなり、職位も上がって来るにつれ、なかなかあからさまには訊きにくくなって来る。
妙なメンツが邪魔をする。
何十年やっても、院長・教授になっても、本当は知らないことは山ほどあるのにね。
単なる知識面のことでもそうなのだから、これが人間的側面のことになると、さらに訊きにくくなる。
即ち、自分の内面を見つめ、プライベートな自分の未解決の問題を吐露し、それを相談しようとすることは、相当にハードルが高い。
だけれど、それをやってかないことには、人間として、本当の意味での成長がないのである。
キャリアと職位だけで人間性は成長しない。

今になって気がつくのだが、そんなとき、いつの間にか、私自身が年を取っていたことが役に立つことがある。
年上の人、特に相手が高齢者だと、どんなに世俗的にバリバリやっている人でも、なんだか不要なガードが下がって、弱みを話しやすくなるようだ。
近藤先生が「私がおじいさんだと思うと話しやすいんだろうね。」と言われていたのを思い出す。
でも本当は「おじいさんだから」ではなく「近藤先生だから」であることを私は知っている。
自分の成長を心から願ってくれている人に対してなら、人は何でも話せるのである。

だから、どんなにキャリアの長い人も、どんなに職位の高い人も、いつからでも遅くない、ひとりの素の人間、そしてひとりの凡夫として、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持てたら、どうぞ話しにいらっしゃい。

 

 

「いちばん安楽な状態というものは、人間の過去の歴史を見ますと、赤ちゃんのときにお母さんの胸のなかに抱かれている状態、これがいちばん安心した状態なのです。だから、人間はそういう状態を非常に好むのです。たとえば女性は恋人の強い腕のなかで抱きしめられているときは安心感を持つ。…男性の場合は、女性の胸に抱かれていると、じつにいい気持ちになってしまう。やはり、これも赤ん坊ということに関係があるのではないかと思うのです。母の胸に抱かれるように、自分の奥さんの胸に抱かれるということがあるわけです。女の人のほうでは感じていないかもしれないけれど、男のほうではけっこう感じているのです。もっとも男の人は、自分は抱かれて安心したなどと男のメンツにかけていいませんがね。
今日、上役にどなられて帰ってきた。それを奥さんがパッと理解して、「そんなこと心配ないわよ」なんていわれると、それだけで夫は救われた気持ちになるんですよ。女性のほうもそんなものです。奥さんが人に何かいわれたとき、「あなた、お隣りの奥さん、こんなふうなのよ」「ああそうか、そうか」なんて聞いて、「それはおまえのほうがいい。お隣りの奥さんが間違っている」なんて理屈なんてどうでもいいから、そういってくれると、たいへんうれしいのです。私たちはみんなとても子どもなんです。自分が間違っていても、そんなふうにいってくれるとうれしい。いい年になっても、人はやはり認められたり、ほめられたりするとうれしいのです。要するに、自分が小さいときに、親から認められたりほめられたりするとうれしかったときと同じことなのです。…
そこで泣いており、そこで怒っており、そこで悩んでいる人が、じつは子どもなんだと感じることは、大事なことであると思います。自分自身も、やっぱり悩み、苦しむ子どもなんだということをわかっていると、そこで共感の世界が開けてくると思うのです。お互いに子どもと認め合うことによって、本当の意味の触れ合いが成立するということです。子どもに理屈は役に立たないのです。きみしっかりしなさい、なんてダメなんですね。もっと平静に思考しなさい。無心になりなさいといったってダメなんです。そんなこといったって役に立たない。それより、お互い子どもであるということについての共感を持ったほうが、わかりやすく、そして理解し感じやすいのではないか。これはひとつ参考にして考えてみてください。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

いい年をして実は子どもなんだ、ということは、精神的に幼児のままだということです。
他者評価の奴隷であり、
承認欲求の塊であり、
いまだに母親の胸を求めている幼児のままなのです。
そして、あなたもわたしもそうなんだ、ということをまずは認めること。
これが「共感」の「第一歩」。
そしてその上で、幼児にとって、ほめられること、認められることは、ひとつの救いになる。
これが「救い」の「第一歩」。

そう思っていると、やがて「あれ? わたしたちって幼児じゃないよね。」という思いが出て来ます。
大人になっても幼児的であるということは、残念ながら、神経症的であるということです。
幼児期の問題が解決されないまま、大人の今も生きているということ。
そこを踏まえた上で、上記の「第一歩」に留まらないから「第二歩」が展開して行きます。
それはまた次回に。

 

 

♪ひとりじゃないって すてきなことね (昭和歌謡)

 

ニュースによれば、単独世帯(一人暮らしの世帯)が34.6%に達し、もうとっくに夫婦世帯の20.7%を超えていると報道されていた

ひと口に単独世帯と言っても、若い人もいれば、高齢者もいるであろう。
一概に論ずることは難しいが、そもそも人類というものが複数存在している以上は、ずっと一人でいるということは不自然なことではないかと思う

ひどい虐待やDVなどを受けて、もう誰かと暮らすのはうんざり、一人の方が清々する、という方もいらっしゃるだろうが、それがどんな母親であろうと、その母親から産まれなければそもそもこの世に出て来ていないし、少なくとも子どもの頃は誰かに養育されなければ生きて来れなかったはずである。
とにかく、どんな形であろうと、つながって生きるように人はできているような気がする。

と言っても、誰もが誰かと一緒に生きなければならない、というわけでもなかろう。
物理的にひとりでも、精神的に“誰か”といる場合もある。
亡くなったパートナーと一緒に生き続けている人がいるかもしれない。

そうなってくると、人は自分の存在証明となるような人(存在)と生きていたいのではないか、という気がして来る。

ここで話が一段深まって来る。
じゃあ、自分の存在証明がされるならば、それは人によらなくてもいいのかもしれない。

ここでもまた、道元の
「万法に証せらるる」
という言葉が浮かぶ。

「万法に証せらるる」=一切の存在によって自己が証明される

それさえ体験できてしまえば、そもそもひとりじゃないんだもの、最早、単独世帯であろうと何人世帯であろうと、どうだっていことになってしまった。

 

 

ある女性が、ずっと秘密にしていた自分の心の傷について話された。 
苛酷なその話をしながら、彼女の頬を涙がつたっていた。 
まずはその涙が悲しみの涙であることは誰にでもわかる。 
今まで抑えて来たその悲しみを存分に体験する必要がある。
いわば、悲しみをちゃんと悲しむために人は泣くのである。
悲しみをちゃんと体験するための涙。
それがひとつ。

そして、涙にはもうひとつの意味がある。
それは近藤先生のおっしゃった通り、人は受け入れ難いことを受け入れるときに泣くのである。
完全に受け入れられるまで何度も何度も泣く。
受け入れ難いことを受容するための涙。
今日はさらに掘り下げてみよう。

そこにはただ受容するだけでなく、悲しみを超えて行こうとする働きが潜んでいる。
いわば、泣かなくていいようになるために泣くのである。
そのことが悲しいのではなく、
そんなことをいつまでも悲しんでいる自分が悲しいのだ。
そんなことで悲しんでいる自分を超えて行きたいと、その人の生命(いのち)は願っている。
そのために泣く。

我の涙と生命(いのち)の涙。
人間に起きるその涙の二重性をちゃんと感じ取る必要がある。

 

 

【注】自己憐憫の涙、注意獲得の涙は、病んだ涙であり、ここには含めない。

 

 

今日は令和7年度4回目の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目に続いて14回目となった。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」に入り、終盤となってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解

患者の神経症的傾向は、先に述べた様に、最初の面会の時から、囚(とら)われない観察と理解の眼をもってする時は、色々な患者の表現を通じて明らかになって来る。このことは、いよいよ分析が始まってからでも同様である。
患者が自分の症状、その他の事を語る態度の若干の例について先に述べたが、その語り方の順序や、強調の仕方、感情をこめたり、また繰返して述べる表現など、治療家に教えるところが多い。雄弁に自己の知識や才能を強調したりするのは、自己拡大型を暗示するし、単純に何か機械的な感じで整然と準備した様に述べるものは、自己限定型を疑わさせられるし、自分の症状の状態を哀れっぽく繰返し述べるものには、自己縮小型を考えさせられる。
同様に、患者が臥床(がしょう)の位置をとることに反応する仕方も注意されてよいことである。
ある患者は、臥床を拒否して言う。「私は無力にされ、侮辱される気がする」と。他の患者は好んで臥床したがる。時間に関してもそうである。或る患者は時間前30分分位も早く来る。又或る患者は遅く来て治療者を待たしたがる。時間が終ってもグズグズする患者もあるし、時間一寸(ちょっと)でも過ぎると分析者に謝罪する患者もある。
この様な患者の様々な態度に、それぞれの性格の内的傾向を反映している。それが、どの様なものの表現であるか、患者の理解の為に治療家は慎重に考察すべきものであろう。
自由連想が行われる時にでも、連想に当って或る患者は饒舌(じょうぜつ)であり、休むことなく語る。しかし、その語ることが表面的なことであったり、余りにも整然として統制がとれている時、その様な連想の態度が患者にとって、どういう意味を持っているか考えねばねるまい。ひょっとすると自由連想が、患者の心的現実の率直な ー 勿論その時に於ける可能の限りではあるが ー 反映というようりも、その隠蔽(いんぺい)に役立っている場合もあるからである。
或は又、自由連想を嫌がったり、困難を示す患者もある。勿論、自由連想そのものが、感情や思想の自由な吐露と言う、日常的な表現と異る性質をもっているから、困難であることは当然であるが、それと別に、ここにもそれぞれの神経症的性格の shoulds とか claim が表現されてはいないだろうかと問う必要がある。
同様なことは夢に対する態度についても言える。夢なんか馬鹿らしいと一笑にふするものもあるし、一ぺんも夢なんか見たこともないと言うものもいるし、記憶していないと言うのもあるし、又夢ばかり語りたがるものもある。
これらは参考にあげた例であるが、自由連想や夢そのものの内容から得られる理解と共に、治療家が患者の神経症的性格の構造を理解する手引きとなるものは言語的のみならず非言語的な表現の中にも無数に存在する。

 

近藤先生が懇切丁寧に神経症的人格構造の三つの型 ー ①自己縮小的依存型、②自己拡大的支配型、③自己限定的断念型に即して例示して下さっていますが、そもそものホーナイにしても、本当はこんな分類は要らなかったのです。
ホーナイや近藤先生においては、そんな知識不要で、クライアントから瞬時にライヴで感じ取っていました。
そうなのです。クライアントの言動の背後に何かおかしなもの=神経症的なものが動いていることをその場で感じ取れるか否かが、実際的な勝負なのです。
これらの三つの型は、言わば、ホーナイが、当時の精神分析医や知識人たち、そしてアイビーリーグ出身の“エリート”弟子たち(頭は良いが、感性の鈍い人たち)への説明用に作った体系に過ぎません。
しかし、いくら知識があっても、鈍ければ、結局、観抜けません。
近藤先生をして「ホーナイの弟子たちはIQは高いんだけど、肚Qが低い。」と言わしめたものは、そんなところにありました。
頭で「考える」のではなく、肚で、体で、存在で「感じる」こと。
よって、後に近藤先生も『感じる力を育てる』という本を書くことになります。
従って、この『ホーナイの精神分析』の勉強も、まずは「感じる」ことから。
そうして、その「感じ」を後から整理するためにこの体系がある、という順番を忘れないでいただきたいと思います。
 

 

知っている人にとっては当たり前、
知らない人にとっては、え!そうだったの?
というのが「緩和ケア」の定義。

WHOによる「緩和ケア」の定義の中に以下の一文がある(全文に関心のある方はこちらをどうぞ)

「病の早い時期から化学療法や放射線療法などの生存期間の延長を意図して行われる治療と組み合わせて適応でき、つらい合併症をよりよく理解し対処するための精査も含む」

長々とした一文だが、ポイントは「病の早い時期から」というところにある。
即ち、「緩和ケア」が「ターミナルケア(終末期ケア)」に限定したものではない、ということである。

よって、ごく初期の癌が見つかった場合でも、治療によってほぼ100%完治する癌の場合でも、「緩和ケア」は利用できる。
特に、心理的・精神的苦痛を“緩和”するためにメンタルケアが必要と感じた場合、「緩和ケア」を利用することに遠慮は要らない、ということをお伝えしておきたい。

具体的には、病院内に「緩和ケア科(緩和医療科)」があれば、すぐに相談して良いのである。
(但し、病院によっては、まだそこまで手が回らず、「ターミナルケア(終末期ケア)」しかやっていない「緩和ケア」も多いので、まずは問い合わせを。)
そして、緩和ケア医の出身はさまざまであり、内科や外科、麻酔科、精神科などいろいろで、四つの苦痛「身体的苦痛」「心理的苦痛」「社会的苦痛」「スピリチュアルな苦痛」に応じて得意分野が分かれるが、もし本格的なサイコセラピーを望まれるのであれば、個人的には、精神科出身の医師か臨床心理士に相談するのが良いと思う。
(勿論、院内に「精神科」があれば、最初からそこに相談しても良い。また、「スピリチュアルな苦痛」については、申し上げたいことは山のようにあるが今回は触れないでおく)

しかし、精神科医でも精神療法が専門なのは実はごく一部であり、最後は何科出身だろうと、人間として相性が良く信頼できる専門家(医師、臨床心理士)を選ぶのが良いと思っている。

今日のこの話題を通して何が申し上げたいかというと、こうして当たり前に最初から「緩和ケア」を利用することを通じて、メンタルケアの利用が国民にとって一般的になってほしい、ということである。

国民の半分が一度は癌に罹患する時代。
癌をきっかけとした「緩和ケア」の利用もまた、メンタルケア利用の大切な端緒となり得る。

 

 

 

今日のニュースで、我が国の100歳以上の高齢者(2025(令和7)年9月1日時点)が9万9763人に達した、と報道されていた。

1963(昭和38)年には100歳以上が153人であったのが、この62年間で飛躍的に増え、現在の日本の人口が1億2330万人(2025(令和7)年8月1日推計値)であるから、ざっくり言って、1000人に1人が100歳以上という割合に近づきつつある
いやぁ、寿命は伸びてるなぁ。

…という話から大抵は、ただ寿命を伸ばすだけでなく(平均寿命で、男性81.09歳、女性:87.13歳)、いかに「健康寿命」(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間。男性:72.57歳、女性:75.45歳(2022(令和4)年))を伸ばすかという話に発展して行く場合が多いが、私は別の関連統計が目に付いた。

それは「親を亡くしたときの子の年齢」である。
皆さんは何歳くらいを想像されるだろうか。
第一生命の調査によ
れば、
父親の場合が平均39.1歳
母親の場合が平均46.4歳

であるという。
皆さんの感想は如何?

私は思ったよりも若いなぁと思った。

そこで今日の本題に入ると、親がまだ存命中であるということは、子が自分の死について本格的に考えないで済む、という影響があるということである。
親の生存が、自分の死と向き合うことの防波堤となっているのだ。
ということは逆に、親が亡くなったときから「次は自分の番だ。」という自覚がリアルになってくる。

そして、やがてそこに兄弟姉妹や同期生などの死などが重なって来れば、さらに自分の死が真実味を帯びてくる。

いくら目を背けても、先送りしても、死は万人に刻々と忍び寄っている。
だからこそ、この一回しかない人生をどう生きるかを、できるだけ早いうちから、ちゃんと見つめておいた方が良いんじゃないかと私は思う。

100歳以上の方が増えました。
それは親の余命も伸びたということだ。
しかしそれが却って、自分の死と向き合うことからの逃避を助長することになりませんように。


 

今日の東京は、線状降水帯が発生し、激しいゲリラ豪雨に襲われた。

そして豪雨と言えば、付きものなのが雷である。
今回もガラガラガッシャーンと何度も近辺に落ちた。
こうなって来ると、思い出すのが「落雷のワーク」である。

降雨も落雷も、可能ならぼ、実被害は御免被りたいところであるが、ただ黙して耐えるだけというのも癪に障る。
そんなときは「落雷のワーク」としての活用をお勧めする。
なんのことはない、いきなり落ちる雷に対して、いかに平気でいられるか、肚が据わっていられるか、を試すのである。
雷雲が近づくほど、雷鳴と落雷との時間差がなくなり、いきなりカリカリカリドーンと落ちる雷は、ワークとしては最適である。
ただ、危険回避のために、建物内でのチャレンジをお勧めする。

かつて、落雷の音どころか、車の急なクラクションやブレーキ、下手をすると後ろに立ったおっさんのくしゃみにさえ、ビクッ、ドキッとしていた私である。
それが丹田呼吸で、文字通り、“屁のカッパ”になったのだ。
今回も、平気で落雷を感じていられた、いやいや、楽しめていたのも丹田呼吸の賜物と言えよう。

予め準備のできない不意打ちがポイントなのだ。
それでも平気でいられるかどうか。
そうなって初めて、些か肚が据わって来た、と言えるのである。
しかし、これがね、丹田呼吸をサボるとすぐに劣化してしまうのだよ。
慢心、ご注意を。

 

 

「私の田舎は、へんぴなところで、瀬戸内海の真ん中の孤島みたいなところで、水清く、まったくの白砂青松(はくさせいしょう)で、のんびりした漁村です。そんなところで暮らしていたのが、急に東京にパッと出されて、しかも小学校へ行ったら、まず方言でみんなからあざけられたり、からかわれたりしたわけです。あんな、いやな気持ちはないですね。子どもを転学させる場合は、よっぽど気をつけてくださいよ。
私は、故郷のことが非常になつかしくなったものですから、作文に書いた。そうしたら、先生がそれをすごく認めてくれて、もう少ししたらさみしくなくなるからと、はげましてくれた。それで、私は助かったんですよ。いろいろな理屈をいいますけれど、人間が弱ったり、くたびれたり、心細くなったり、悲しくなったり、苦しんでいたりするときは、どうか、慰めてあげてくださいよ。やっぱり、それが人間同士ということではないかと思います。いろんなことで苦労して、悲しんで、苦しんでいるときはには、親鸞さんがおやりになったようにひとつお酒でもあたためて、一緒に飲んであげることもいいと思う。念仏を称えよとも、何をしろともいわないんだなー。ただ、お酒を一緒に飲んでと、そういうことなのです。私はそういうものだと思う。むずかしいことはいわなくとも、人間の気持ちは、お互いにやっぱり感じる力を持っているのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

9月4日(木)付けの拙文を読んでいただければ、この近藤先生のコメントの位置付けが、よりはっきりされるでしょう。
子どもたちに寄り添うとき、
娑婆で精一杯生きているフツーの人たち(即ち、俗人、凡夫)に寄り添うときは、
こういきたいものです。
そんなときは「念仏しなさい」なんて言わなくて良い。
分析も説明も要らない。
しかも、
「さあ、飲みたまえ。」
ではなく
「さあ、一緒に飲もう。」
なのである。

 

 

「面談の進め方」の基本については昨日述べた。

自らの問題や成長課題を誤魔化さず、真摯に見つめ、言葉にしていく「情けなさの自覚」。
そしてその問題や成長課題をなんとしても解決・突破していこうとする「成長への意欲」。
これが「面談」の根幹になることは間違いない。

それを踏まえた上で、今日はその「補足」を記しておきたい。

ひとつは、「自分が今まで生きて来た歴史上の問題点」に気づくこと。
特に親との関係や心の傷となった過去の出来事などが浮上して来る場合がある。
抑圧が外れ、封印が解かれて、直面化せざるを得なくなって来る。
だが、心配は要らない。
基本的に、向き合う準備ができていないことを思い出せないようにできているからである。
(即ち、思い出せるということは勝負できる準備が整ったということになるのだ)
過去の呪縛から脱し、あなたがあなたを生きていくために、そういった話題も繰り返し取り上げる必要がある。

そしてもうひとつは、「過去」のことではなく、「今」起きて来るさまざまな出来事がある。
そのうち、「特にあなたのこころを揺さぶる出来事」の中には、あなたの問題や成長課題を刺激するテーマが隠れている。
そこを見逃さないで、掴まえ、そのからくりをひも解いて行く。
「今」を扱いながら、そこにもまた「過去」が、過去の未解決の問題が潜んでいるのである。
これもまたあなたが解放され、成長していくために必要である。

そして最後に、
自らの「成長」が感じられて来ると、
「こんなことが感じられるようになりました。」
「こんなことが言えました。」
「こんなことができました。」
という発見もある。
こういった、あなたがあなたを取り戻していく「成長」の“喜び”も、是非共有したいものである。
しかし、経験した方はおわかりであろうが、その“喜び”も束の間、長く浸ってはいられない。
次々と新たな成長課題が見えて来るからである。
終わりなき「成長」が、この道の宿命なのだ。

その他、取り上げればキリがないので、まずはここまでにしておこう。
少しでも「面談」のイメージが整理できたのであれば幸いである。

 

 

「面談の進め方」というような「方」=“How to”な言い方は、死ぬほど嫌いであるが、
新しく面談に来られる方々のために
また
今、面談に来られている方々がそもそもの来談の原点を見直すために
今回、敢えて記しておこうと思った。
ご参考になれば幸いである。

まず何よりも、言わずと知れた当研究所の面談の基本姿勢は、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」である。

よって面談は、クライアントが自分自身についてどこをどう情けないと思っているか、という「情けなさの自覚」の独白から始まる。
言わば、自分で自分の問題提起をしていただくことになる。
私に言われて、ではなく、まず自分から、自分の問題を取り上げることに大きな意義がある。
これがないことには面談が始まらない。
実際、ちゃんと自分を見つめれば、1週間の間でも、「できなかったこと」「やらかしたこと」の三つや四つはすぐに見つかるはずである。

そして私はその独白を伺いながら、それが問題の核心を突いているか否か、それが浅いか深いか、などを観通して、フィードバックして行くことになる。
そうやって二人で「何が本当に問題なのか」を明らかにして行くわけである。

それが明確になって来ると、次にその問題をどう解決して行くか、どう乗り越えて行くか、という話になる。
問題を見つけただけでは何にもならない。
そこで下を向いてお通夜のように過ごしても何も変わらない。
「で、どーする?」 
の段階に進んで行くわけだ。
その根底に「成長への意欲」が働いていることは言うまでもない。
それについても、まずご本人の解決策、突破策を伺う。
実際にこう言ってみました、こうやってみました、でも良い。
(思いつくところからで構わない。何よりも自分で考えてみるという姿勢が大事なのである)

そして私はそういった案を伺いながら、それが本当に問題解決につながるか否か、それが浅いか深いか、などを観通し、フィードバックして行くことになる。
そうやって二人で「どうやって解決し、成長して行くか」という道を見い出して行くわけである。

こういうことを毎回繰り返すことによって、何を目指しているかというと、
自分ひとりで、自分の問題の核心を掴み、
自分ひとりで、本当に有効な解決策を見い出せる
ようになっていただくことである。

かつてホーナイが唱えた「自己分析」の本質がここにある。
クライアントのセラピスト(精神分析家)による被分析体験が、クライアントが自己洞察し、自己成長して行く力をはぐくんでいくのである。

もちろん上記のことが最初からスムーズに進んで行くわけではない。
必要な試行錯誤を繰り返しながら進んで行く。
むしろその試行錯誤に意味がある。
また、「自己分析」する力を付けるには(面談頻度にもよるが)最低、年単位の時間がかかる。
可能な範囲で構わないので、必要な時間をかけ、肚を据えて、取り組んでいただきたいと思う。

それであなたの人生が変わるならば、
少しでもあなたが本当のあなたを生きることができるようになるのであれば、
本気になってやってみる価値があると思いませんか?

 


 

今日は久しぶりに「講演」を行った。

新入職員研修などを除けば、「講演」がどれくらいぶりになるのか、記憶が定かではない。
新型コロナウイルス感染症拡大以降、「講演」自体が途切れていた上に、「講演・講義等のご依頼」にある通り、「対象」を明確にして来たため、今回のような開催は本当に久しぶりであった。

世間には、残念ながら、テキトーにやりくりしながらちょろまかし、わかったようなことを言っている人たち(特に専門職)が多い中で、今日のような方々を「対象」とした「講演」をしてみると、「反応」や「感想」も自分に引き付けて、良い格好しないで正直に発言されるので、ああ、これでこそ私の思う「講演」なんだよね、と強く思う。
そこに仲間の、同志の匂いがする。

今の私には、余計な色の着いていない新人たちか、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った人たちかのどちらかに関わることに、はっきりとしたミッションが感じられるのである。
感じられるのだからしょうがない。

今日出逢った方々とは
またお逢いしましょう。
またお話しましょう。
そして
まだ見ぬ、お逢いすべきあなたとも。

 

 

当研究所の「人間的成長のための精神療法」の「対象」を、医療・福祉系の国家資格者から「一般市民」に再拡大してから1年以上が過ぎた。

有り難いことに、面談申込者の多くは、正確に「対象」=「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を理解して申し込んで来られ、再拡大して良かったと思っている。

面談に来ておられる方々は、どこかで私の講演を聴いた、私の講義を受けた、一緒に働いたことのある医療・福祉系の国家資格者の方が多いのだが、そんな中で、この『塀の上の猫』を読んだだけで面談を申し込まれる方が、「一般市民」の中には多く、不思議な縁を感じる。

当研究所は、松田精神療法事務所時代から、気軽な気持ちでわんさか面談申し込みがあるような開業スタイルではないが、申し込まれる方は本気で申し込まれる場合が多く、私としてもやりがいを感じている。

世の中では決して多数派ではないと思うけれど、それこそかつての私がそうであったように、真剣に悩んで、自分の成長課題や問題点を一所懸命に見つめて、成長・突破したいと心から願っている人がいないわけがないのだ。

そんな人がこの世の中にいるはずだ、と思っていること自体が、私の人間というものへの期待である。
この期待は捨てられない。

そんな“仲間”に逢って、共に成長して行きたい、とこれからもずっとずっと願い続けるだろう。

 

 

久しぶりに渋谷のデパートにでかけた。

ある買い物のためであったが、ついつい道行く人たちを眺めてしまう。
外国人観光客らしい人たちが多いなぁとか、
こういう人は渋谷や新宿にしかいないなぁとか、
眺めながら、
ちょっとお洒落をして来ている人たち ー デートかな、友だちとおでかけかな、はたまた観劇やライブやコンサートかな ー を見るのも良いもんだなぁと思った。

だからどうだってんだ、という話でもあり、
言ってしまえば、それもまた虚栄心なのかもしれないが、
ちょっと“気合い”の入ったファッションやメイクには、それはそれなりの“俗世の華”を感じるのである。
やっぱりそういうのもないとね、俗世は俗世でつまんないのよ。

思い起こせば、かく言う私も、講演や講義がないと、スーツも着ないし、ネクタイもしないわな。
ついつい楽な格好で済ませたくなっちゃうのよ。
そう言えば、たまに拝見する近藤先生の燕尾服姿はかっこよかったなぁ。

だから、皆さんもたまにはね(毎日でコッテリだとそれはそれで食傷気味になってくるが)、“気合い”の入ったファッションやメイクでおでかけしましょ。
なんかこの俗世の“場”がね、華やぐのでありました。

 

 

 

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