八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

世の中に「背徳グルメ」というものがあるそうな。

食べると背徳感や罪悪感を感じる料理のことで、高カロリーのものと脂っぽいものが双璧であるが、他にプリン体の多いものや悪玉コレステロールが跳ね上がるものなどさまざまだ。
具体的には、山盛りの唐揚げ、背脂ラーメン(ニンニク増し増し)、焼き肉食べ放題、トンカツ&エビフライなんならメンチカツものせカレー、炭水化物×炭水化物、スウィーツビュッフェ、チーズケーキやアイスクリームケーキのホール食い、痛風鍋、魚卵攻めなどなど、いくらでも挙げられる。

そうすると思い出すのが、19世紀スウェーデンの、敬虔なクリスチャンにして菜食主義者であったエリク・ヤンソンである。
彼が、余りにも美味しそうな見た目と香りに誘惑され、つい口にしてしまった料理が「ヤンソンの誘惑」(アンチョビとジャガイモのグラタン)である(以前にも少し触れた。由来には諸説あり)。

(昔、勉強会の後の懇親会でスウェーデン料理を食べに行きましたね)
ヤンソンが食したときの、その苦悩に満ちた悦楽の笑顔が想像できる。

嗚呼、食べてはいけない、と思うほど、食べたくなり、
食べてはいけないものほど、美味しいと感じるのは何故でしょうか。
(酒とタバコも同じようなものであるが、両者には依存性があるので事情がちょっと異なる)

その背景が解明されない限り、肥満や糖尿病、脂質異常症、痛風などの食事療法は、これからも苦戦することになるだろうと思う。

ちなみに、あなたの「背徳グルメ」は何ですか?
他で言わないから、そっと教えて下さい。

 

 

最近のデータによれば、日本の自殺死亡率は16.4(人口10万人あたり)だという。
他方、ある研究者が、精神科医の自殺率は約0.5%に上ると報告していた。
これを人口10万人あたりに換算すると、約500になる。
すると、精神科医の自殺死亡率は、日本人全体の約30倍に匹敵することになるのだ。

この数字をどう見るか。

よく言われることであるが、もともと心の病気に親和性を持った人間が精神科医になりたがるという背景がある。
なりたがること自体を止める理由はない。

しかし、ここからがいつも申し上げている話になる。
自分の心の問題とちゃんと向き合って、それを解決する(あるいは、それを抱えながら逞しく生きて行く)ことに成功した人は、臨床の現場に出ても、その経験を活かして、患者さんに貢献できる精神科医になれる可能性が高い。
しかし、自分の心の問題と向き合わず、未解決の問題を抱えたまま臨床の現場に突入すれば、自分の問題に加え、患者さんの問題も抱えるようになり、事態は一層深刻になる危険性が高い。そこで誰にもつながらない、誰にもすがらないのであれば、自殺の危険性が高まってもおかしくはない。

だから、同業者の方々に言っておきたい。
あなたの主治医を持った方が良い。
「主治医」という表現に抵抗があるのであれば「指導医」でもいい。本当は「人生の師」と言いたいところだ。
そういう存在は、「治療」という狭い意味ばかりではなく、人間的な「成長」という広い意味で、非常に重要である。
私自身も、もし近藤先生がいらっしゃらなかったならば、と思うとぞっとする。
少なくとも私は、近藤章久を得て、出世の本懐を感じることができた、と本気で思っている。

精神科医が自殺すると、患者さんへの影響は甚大である。
人生は生きるに値しないということを示すことになるから。
そうではなくて、精神科医は生を授かった意味と役割を果たす喜びを患者さんに示さなければならない、と私は思っている。

 

 

 

親が全員愚かというわけではない。
親は時に愚かになってしまうという話である。

身近なことで言えば
精神科医として
臨床心理士として
精神保健福祉士として
看護師として
作業療法士として
散々、不登校や引きこもりの当事者・家族に関わって来たにもかかわらず、
いざ、自分の子どもが不登校や引きこもりになってしまうと、一気に愚かな親に堕してしまう場合がある。

抱え過ぎる、甘やかし過ぎる、恐れ過ぎる、イジリ過ぎる、放っておき過ぎる、などなど。
その挙げ句に
「他人のことだと言えるけど、いざ自分の子どもとなると、できないものよね〜。」
「そうよね〜。」
などと、愚かな親同士で、自分のダメさ加減を正当化・一般化して慰め合う者たちさえいる。
そうではなくて、それまで行って来た支援の中味もまた、大いに反省しなければならない、ということだ。

かつて「子育ては難しい。」と連呼するお母さんがいた。確かに子育ては簡単ではないが、その人の場合は、子育て一般の難しさのせいにすり替えて、「私の子育てがダメでした。」「私が愚かでした。」とは言わなかった
また、子どもにあれこれ過保護に手を出すことに「まだあれがこれで必要なんです。」「折角ここまで来たので、それ以上、追い詰めたくないんです。」と合理化=屁理屈をつけるのがうまい親がいる。
れは親の方の不安であり、つまりは、子どもの中にある生命(いのち)の力を信じていないのである。これは8050予備軍に多い。

し自分の子どもがそうなったら、
まず自分の非を、自分の親としての足りなさを謙虚に、そして徹底的に認めて、
その上で、改めてその子が生まれたときのことを思い出し、この子の生命(いのち)がどうか健やかに成長して行きますように、と合掌礼拝するような気持ちで接することから始めれば、何かが変わっていくかもしれない。

伸び行く生命(いのち)を止めてはならない。
伸び行く生命(いのち)を曲げてはならない。
伸び行く生命(いのち)を感じなければならない。

親から自分の生命(いのち)が伸び行くことを感じてもらい、尊い存在として合掌礼拝され続けた子どもが成長しないわけがないのである。

 

 

なかなかの問題がある両親の許で育った私は、自分の安心・安全のために、常にアンテナを張って、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読む力を身につける必要があった。
そのお蔭と言って良いのかどうかわからないが、後に精神科医になっても、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読むことは人一倍得意であり、それが役に立つ場面もあった。

しかし、医者になったばかりの頃は、境界性パーソナリティ障害が一気に増えて来た時代で、相手の気持ちを読み、空気を読み、流れを読むということにおいては、そのクライアントの一部に自分と同類のものを感じていた。
但し、彼ら彼女らは、その力を使ってこちらを巻き込み、共に破壊する方向に持ち込もうとするため、こちらとしても、そんなおまえらの巻き込みなんぞに引っかかってたまるか、こっちはその一枚も二枚も上を行ってやる、と対抗心を燃やし、面談場面はさながら“神経戦”の様相を呈していた。
なんのことはない、それは“我”と“我”の戦いに他ならなったのである。
そこには、子どもの頃と同じく、強烈な相手に対し、自分の安心・安全を得ようとする“保身”の姿勢があった。

やがて私は気がついた。
そこに、相手の成長を願う“愛”がなかった。
それでは“治療”になるはずがない。

そして、相手のこころの奥底にある、健康な、本来の自分を実現しようとする力を感じられるようになって初めて、診察の場は“神経戦”から“相手の成長を願う場”に変わって行くことを知ったのである。

“愛”なきところに“治療”なし。
“愛”なきところに“成長”なし。

これは治療場面だけではなく、家族でも、友人でも、職場でも、どこでも同じであった。

 

 

「私は現在女子教育にたずさわっておりますが、日頃つくづく思うのですけれど、入学してくる生徒さんたちが挨拶するということがとても少ないと思うのです。…挨拶とはそもそも何かというと、頭を下げて『おはよう』という。おはようということは、私が早く起きたよと威張っているわけではない。相手に対して『おはやいですね、早く起きて健康ですね、健康だから早起きなのです。すばらしいですね』と、このような気持ちで『おはよう』というのです。同じような意味で『グッドモーニング』と、そういうわけですね。『グッドモーニング・フォー・ユー』ー あなたにとって良き朝でありますように、という言葉ですね。…
私のようにだんだんと年をとってきますと、人生が単純に見えてくる。人生というのは、何かこう余計なコチョコチョしたもの、ムダなものをいっぱい持っている。『オギャー』と生まれるときには何もつけてない。にもかかわらず、それからいっぱいいろいろなものをくっつけて生きて、自縄自縛(じじょうじばく)といいますが、自分を縄で縛って自分で窮屈になって、自分で悲しんだり、苦しんだりする人が多い。これが人生みたいなもの。年をとってくるとそういうのが、自分のつくるすべて幻想みたいなものであるとわかってくる。そうするとできるだけ自分のいのちを大事にして限られたいのちを生かしていきたいと思うのです。
そこで、さきほどの挨拶ですが、英語でいえば、God bless you - 神様があなたに祝福を与えてくださいますように。日本語でいえば、おはようございます。お互いに早く起きられて健康で、今日もこのいのちを持てるということはどんなにありがたいことでしょうと、そういう気持ちなんですね。つまりそれは、相手のいのちに対する祝福なんです。挨拶というのは、そういうものなんです。お互いのいのちを祝福するのはどういう意味かといえば、これこそ、私がいいたいことなんですけれども、いのちというものが私たちに一回しか与えられていないということからくるのです。そして、そのいのちは他の人と替えることができないものです。私が長生きをしたいというので、私のいのちをどこかで、若い人のいのちと取り替えるわけにはいかない。
このことは、みなさん、神秘的なことですが、わかりやすい事実でしょう。わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この一番最後のところが大事。
いのちの大切さについては、いろいろな人がいろいろなことを言っています。
近藤先生の言葉も、中には、そんなこと、わかってるよ、当たり前だろ、と思う人がいるかもしれません。
しかし、そうじゃないんですね。
「わかりやすい事実だけれども、これをじーっと考えると、何かそこに我々は、当たり前でないものを感ずるわけです」
理屈ではない。頭でわかる話ではない。
感じること。あなたの存在を通して体験すること。
そうして初めて、相手の生命(いのち)を感じて、毎日の挨拶がこころからの相手への祝福になるのです。

 

 

殿さまはちょっとバカな方がいいという。

トップに立つ人間が、余り細かいところにまで気がつくと、下がやりにくい。
細かいところに眼を光らせるのは、家老/番頭/重役格の人の役目であって、殿さま/店の主人/社長は、本当に大事なところだけを押さえておいて、他のことについてはちょっと抜けているくらいの方がいいのである。
その方が組織の中が窮屈でないし
、むしろ下が「自分がしっかりしなきゃ。」と思って自律的に働くようになる。

私が知っている教授の面々でも、いわゆる名教授と言われる人はみんな愛すべきバカ(失礼)であった。
(念のためにフォローしておくと、研究においてはみんな優秀な方々です)
計算高く、如才なく、細かい教授ばかりでは息が詰まる。

しかし最近は番頭さんのまま店の主人になるような場合が増えているようで、働きにくいという話をよく聞く。
そこらも実は先人たちの智慧があり、昔は番頭さんが自分で店を構えて独立する(暖簾分けする)ときには、お世話になった店の主人から「主人というものの心構え」について諭されることがあったという。
おまえは今まで番頭として非常によくやってくれたけども、この度、店の主人になるにあたっては、ちょっとバカにならなきゃいけない。
そして番頭の役目は別の人にやってもらうんだよ。

そんな智慧の伝達が途絶えてしまった現代、ちょっとここに書いておこうと思った。
今日これを読んでいる方の中に、トップの立場の方がいらしたら、ちょっと知っておいて下さいな。
主人は主人の役を、番頭は番頭の役をちゃんと果たして行きましょうね。

 

 

時に講義の依頼を受けることがある。
ホームページにある通り、対象は学生が多いが、私としては毎回楽しみである。

それも昔っから楽しみだったわけではない。
気持ちが、聴講生ではなく、自分の方に向いていたときは、講義の目的が、自分が受ける評価の方に偏っていたため、余計な緊張や身構えがあったと思う。
それが、ある時から、「一生のうちで出逢える人の数は限られている。ならば、その限られた出逢いの中で、一歩でも半歩でも人間として成長するきっかけになってほしい。」と願いながら聴講生の方を向いて講義するようになってからは、不要な緊張や身構えもなくなったように思う。

そして、そういう気持ちで聴講生を観ていると、その一人ひとりの中に、伸び行こうとする生命(いのち)の力を感じるときがある。
そんなとき、聴講生の顔が、その生物学的年齢とは別に、皆、子どものような顔に見えて来る。
ああ、折角、生命(いのち)を授かって“自分”に生れて来たのだから、本来の“自分”を実現して生きて行ってほしいなぁ、と親心のように願う。

そのためかどうかわからないが、講義きっかけで、今も当研究所に面談に来られている方は多い。
私としては“営業”のために講義をやっているわけではないので、講義中に当研究所の“宣伝”をすることはないが、数少ない講義きっかけで、長く、深い付き合いに至ることもまた、天のお導きという他ない。

私のところでなくてもいい、誰のところでもいい、どこでもいい、やはり行き着くところは、たった一度の人生、自分以外を生きているヒマはない、ちゃんと自分を生きて死にましょうね、ということに尽きるのである。
講義は、そのメッセージを伝える小さな端緒となる。

 

 

“You raise me up”という曲がある。
なかなか良い曲であるが、今日はその曲の話ではなくて、ギリギリのところにいる対人援助職者の話である。

昔、近藤先生のところに通って来ている一人の精神科医がいた。
わざわざ新幹線に乗って遠方から通われていたが、珍しい経歴の人で、ろくに初期研修を受けず(昔は初期研修を受けることは義務ではなかった!)、しかも早々に開業し(おいおい)、近藤先生のところに通って来ていた。
ありがちな話であるが、その人自身、かなりのこころの問題を抱えていて、もし近藤先生のところに通って来ていなければ、開業できないどころか、本格的に発症し、かなりの治療を受けなければならないことになったであろう。
それが近藤先生の支えがあったお蔭で、本格的な発症もせず、それどころか、開業して診療までできていたのである。

そんな話が今も時々ある。

以前、当研究所に通って来ていた方でも、年輩になってから大学院に行き、臨床心理士の資格を取って、いきなり開業した人がいた。
昔は臨床心理士も、通常5年間くらいは精神科病院などの常勤で臨床経験を積まなければ、一人前とはみなされなかった(どの職種でも、いっちょまえになるには、修行5年は最低ラインであろう)が、今も臨床心理士には(公認心理師にも)資格取得後の研修義務がないため、開業はいつでも可能なのである。
しかしそれよりも、その人自身、かなりのこころの問題を抱えていて、もし当研究所に通って来ていなければ、開業できないどころか、本格的に発症し、かなりの治療を受けなければならないことになったであろう。
それが当研究所に通っていたために、本格的な発症もせず、開業して心理療法までできていたのである。

こういう場合も、現時点では発症していないため、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」があれば、当研究所の「人間的成長のための精神療法」を受けることができる。
そしてその後、文字通り、成長して発症の危険性を脱し、クライアントに貢献できるセラピーができるようになれば、それに越したことはない。
私もそれを応援している。
しかし、中には途中で自分の問題と向き合うことから逃げ、面談から脱落してしまう場合がある。
その場合が最も危惧される。
そのままでは本格的に発症する危険性があり、開業を続けるのも困難になる恐れがあるが、その時点では発症していないため、その人を止めるものはなにもない。
よって、私としても今後もどこかの精神科医につながるように忠告はしておくが、そうするかどうかは本人次第となる。

で、何故、掲題が“You raise me up”かというと、そういう人たちは raise up して(高めて)もらって、ようやく発症もせず、開業もできていたということである。
そのことを忘れないように。
Raise up がなければ、ゼロではなく、マイナスに転落する危険性がある。
そして誤解のないように最後に付け加えておくならば、その人を支えていた力は、決して“I raise you up”(「私」があなたを高めた)のではなくて、“He raises you up”(「私を超えた力」があなたを高めていた)のである。
私自身が私の力でその人を raise up していたと思うほど、私は思い上がってはいない。

そして私もまた raise up してもらって、今の仕事ができて来たのである、ずっと、ずっと、ずーっと。

 

 

【附言】“You raise me up”の曲は、Celtic woman のものが有名であるが、タレント発掘番組により失業中のパン職人から歌手となった高齢男性 Martin Hurkens のものが今はお勧めである。

 

 

私は、学校に行くこと自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その子がその子に生れて来た以上、その子に与えられた意味と役割を果たしているか、果たせるように成長できているのか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その子がその子に生れて来た意味と役割を果たせるようになるために、その学校に行った方が良ければ行けばいいし、行かない方が良ければ行かかなければいい(あるいは、他の学校や他の学ぶ道を探した方がいいかもしれない)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、学校と関係なく、必要不可欠だと思う。

同じことが就労についても言える。
私は、就労すること自体が無条件に良いことだとは思っていない。
それよりも、その人がその人に生れて来た以上、その人に与えられた意味と役割を果たしているか、の方が遥かに重要だと思っている。
よって、その人がその人に生れて来た意味と役割を果たすために、その仕事をした方が良ければすればいいし、しない方が良ければしなければいい(あるいは、他の仕事や他の働き方を探した方がいい)。
それだけのことである。
但し、自分に与えられた意味と役割を果たすことができるようになるための教育や修練は、職場と関係なく、必要不可欠だと思う。

世の中には、そういう「基本中の基本」、明確な「教育観」「仕事観(労働観)」「人生観」を押さえずに、なんとなく不登校児の支援や就労支援をしている人たちがいる。
ただ、学校に行くことや、働くことが、良いことでしょ、当たり前でしょ、と思って支援をしている人たちがいる。
それじゃあね、支援をしているようで、進む道を間違えるわな。
実際に、学校に行ったり行かなかったり、転職と離職を繰り返すのが関の山である。
まず試されるのは、支援者の方なのである。

で、あなたは、あなたに生れて来た意味と役割を果たしていますか?
少なくとも、それを一所懸命に目指していますか?

 

 

例えば、ある人について、あれがひどい、これがダメだ、と否定的発言をする。
そこで、こちらが、それは問題ですね、と言うと、
でも、こういうところは良い人なんです、と肯定的な発言に変わり、その人をフォローする。

おいおい、否定するのか、肯定するのか、どっちなんだよ、と思うが、こういう面倒臭い発言パターンを身に付けるには、それなりの歴史がある。

一番多いのが、親に対する怒りや攻撃性を抑圧して来た場合で、一方的に怒りや攻撃性だけを表出すると、愛されない、あるいは、反撃される不安と恐怖が走るため、フォローしないではいられなくなる。
それじゃあ、最初から怒りや攻撃性も出すなよ、と言いたいところであるが、それも押し留めていると息が詰まってしまうので、言わないではいられない。
よって、否定しといて肯定する、という、なんともおかしな落としどころができあがるのである。

そして、どうしてもそれをやりたいのであれば、一人で勝手にやってろ、というところであるが、迷惑なことに、表出する相手を欲して来る。
神経症的コミュニケーションは、常に巻き込みを伴う、という典型のひとつである。

そしてこの神経症的パターンに本人がどれくらい呑み込まれているかいないのかは、その神経症的パターンを内省できるか否かによって判定できる。
さっきからあなたは、自分が否定しておいて肯定する、という発言パターンを行っていることに気づいていますか?
ここで、はい…そうなんですよ、と内省できれば、近々突破の可能性がある。
しかし、人間にはダメな面と良い面とがあるもんじゃないですか、などと自分の言動を正当化し、抗弁して来るようであれば、道程は遠い。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っている人は、内省できるが。
神経症的パターンに呑み込まれている人は、内省できない、ということで、
前者は成長へ、後者は治療へ、となる。
但し、後者のような神経症的問題を抱えながら、自分は精神的に健康だと思って暮らしている人が実はとても多い。
中には、それで精神科医などの対人援助職をやっている人もいる(気づいてないからやれる、とも言える)。
人間の闇は深いなぁ、と思いつつ、八雲総合研究所のミッションは前者の段階に来た人たちなので、そういう問題と向き合って行くことになる。

さて、今、これを読んでみて、自分の問題と向き合うことが、イヤだなぁ、恐いなぁ、と思った人は、まだ当研究所向きではない。
待ってました、成長したいのでどんどんやって下さい、と思った人は、もう十分に当研究所向きである。
というのも、当研究所の目的は、後からあなたに付いた余計なものを祓い、本来のあなたを取り戻すことにあるからである。
ニセモノのあなたは否定しにかかるが、本来のあなたを否定することは絶対にない。

 

 

「免疫負債」とは、感染対策として、感染しないようにあの手この手を打つのは良いが、感染しなくなったことで、却って免疫力が落ちてしまうことをいうらしい。

事の真偽は、その分野の専門家に任せるとして、少なくとも私には思い当たることがある。
例えば、両親に愛され、良い先生、友だちに恵まれて、すくすくと成長できるとすれば、それは大変結構なことであるが、

社会に出た後、イヤな上司、意地の悪い先輩、面倒臭い取引先などに出会ってしまうと、忽ちにやられてしまう場合がある。

やっぱり感染して苦労しないと免疫力はつかないし、
イヤなヤツ、変なヤツのいる娑婆で揉まれないと、自分が自分として生きる幹が太くならないのである。

但し、余りにも状態が重症化したり、心が折れるまでやられてしまうと、再起が大変になってしまうので、そこそこの苦労=今耐えられるギリギリのところの苦労が、人を育てるには一番良いのだと思う。
その“ギリギリの感覚”はとても重要で、過剰なストレスのときには、一人でなんとかしようとせず、援軍を頼んだ方が良いし、ノーストレス〜軽微なストレスばかりのときは、安逸に流れないで、何か自分に負荷をかけた方が良い。

やっぱり“ギリギリ”のときが一番成長するんだよね。

すべては、あなたがあなたに生まれて来た以上、ヘタレないで、幹太く、逞しく、あなたに与えられたミッションを果たしながら生きて行くための成長なのである。

 

 

「母は子のいのちがのびやかにいきいきと育つことを願うでしょう。よく考えてみると自分自身に対してはどうですか? あなた方は、自分自身のいのちがいきいきと、のびのびと溌溂と成長していくことを願っていらっしゃいますか? 願っていますよね?
なのになぜうまくいかないのか。それはいのちを生かすほんとうの願望をとり違えて、別次元の願望を追求することが大事だと思っているところに問題があるのではないでしょうか。いのちは大事なものです。ただ、大事にする仕方が違う。子どもでも、大事にするといって、やたら猫かわいがりすることが大事にすることだと思っている人がいる。利己主義というのはいわば、自分を猫かわいがりするということなのです。自分をほんとうに愛するということは何か? それは、苦しみや悲しみやいろんなことがあっても、それをよろこびに変え、自分を常に人間として成長させるようにつとめるということ、そういうことです。それがたったひとつしかない自分のいのちに対する尊敬であり、愛です。
いのちをほんとうに尊び、成長させるということが大事だということを、まず銘記してください。
とにかく、自分のいのちを気持ちよく、清らかに生かしていくということ。溌溂と生かしていくことが大事なのではないでしょうか。
そして、自分のいのちがたったひとつしかない大事な存在だと思えば、相手のいのちもたったひとつしかないいのちです。その人にも一回しかそのいのちは与えられていない。そのいのちを育て、そのいのちを成長させていくことが、その人に対する愛ではないでしょうか。…
僕は、あなた方の一人ひとりのなかにある、あなたでなくては持てない、独自の、あなたのいのち、あなたに与えられたいのち、それこそ文字どおりほんとうに自分に一回しかないいのちの貴重性を感じ、そして尊ばなければならないと思います。そうして、それをほんとうにすこやかに、いきいきと、溌溂と、建前によるウソでなくて、ほんとうの意味での愛することのできるいのちとして育てていってもらいたいと思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

是非とも、この近藤先生の言葉の字面の意味ではなく、近藤先生をして、この言葉を語らしめている、その働きを、その力を感じていただきたいと思います。
そうでないと、近藤章久と出逢ったことにはならないんです。
「ああ、そうなんだ。自分のいのちも相手のいのちも大切なんですね。」
では上っ面を撫でただけ。
そうではなく、なんだか知らないけれど、
胸が熱くなる、体温が上がる、背骨がゾクゾクずる、存在が揺さぶられる、そんな体験があって初めて、近藤章久と出逢ったことに、近藤章久を通して働く力に出逢ったことになるんです。

それが「身読」。
身体(からだ)で、存在で読むということ。
読んだ後、言葉の記憶なんて、何にもなくていいんです。
だけれども、なんとも言えない体験の記憶がこの体の中に残っている。
それこそがまさに、あなたのいのちを成長させいく元となるでしょう。

 

 

自分が「社長」だから、社員が頭を下げていることを知らずに、みんな自分に頭を下げているものと思っていた。
退職後、誰も相手にしてくれなくなった。

自分が「教授」だから、教室員が頭を下げていることを知らずに、みんな自分に謝を下げているものと思っていた。
退官後、誰も相手にしてくれなくなった。

自分が「校長」だから、生徒や教師が頭を下げていることを知らずに、みんな自分に頭を下げているものと思っていた。
退職後、誰も相手にしてくれなくなった。

利害関係の絡む「肩書き」によってじゃなくてさ、たとえ無位無官であっても、「裸の自分」で他者からの信頼と尊敬を得られないようじゃあ、まだまだ人間としてニセモノだったということだ。

昔、外来に受診した男性で、変わったおじさんがいた。
やたらめったら女性に手を出すので、妻から「あんた一遍診てもらいないさい。」と言われて来たのだという(たまにこんな変わった理由で受診して来る方がいる)。
結局、病的なところはなく、ただの好色かつ本当に女性を愛するということを知らないおじさんだったのであるが、一点だけ見どころがあった。
彼が女性をナンパするとき、自分が三つの会社の社長であることも、フェラーリに乗っていることも、金満家であることも隠して、一人の男としての魅力だけで勝負するのだという。
「裸の自分」で勝負していることだけは私も褒めた。
そして妻を含めて、本当に女性を愛するということの本質について説諭し、1回だけで通院は終了とした

社長/教授/校長の中にも、その「裸の自分」に対する信頼と尊敬を得て、退職後/退官後も、元部下/元教え子たちに慕われている人たちも(少ないけど)いるのである。

どうせなら、そっちを目指したいよね。
だから、人間としてホンモノを目指す人は、「裸の自分」を磨いて行くしかないのである。

 

 

フツーの人たち、
別の言い方をすれば、多数派の人たちに是非訊いてみたい。

ホントはAと思ってるのに、思ってもいないBと言ってて、平気なの?
気持ち悪くならない?

ホントは大嫌いなヤツなのに、愛想笑いをして話を合わせたりして、平気なの?
蕁麻疹、出ない?

ホントは心底やりたくないことなのに、無理に引き受けてやってて、平気なの?
下痢にならない?

元々が鈍感なのか、感覚麻痺が上手だから、できるのかな。

となると、吐いたり、掻きむしったり、下痢になったりする人の方がむしろちゃんと感じてる(感じてることを誤魔化していない)んじゃないかな。

で、どーする?

ずっと吐いたり、掻きむしったり、下痢になったりしてるのもしんどいから、フツーの人たちのように、多数派の人たちのように、鈍感になる? 感覚麻痺を使う?

いやいや、そうじゃないでしょ。
目指すのは、ちゃんと感じた上で、ブレない勁さ、自分が自分であることの幹の太さでしょ。

そうして、その上で、
いつでも、どこでも、誰の前でも、自分をしっかり打ち出せるようになった上で、
余裕がたっぷりと持てるようになったら、
今度は、相手を育てるために、愛を持って、相手や状況に合わせた言動をしてあげることも可能になるかもしれないね。

でも現実にはまず、自分が感じている違和感や嫌悪感を(そう感じておかしくないと)信じて、その上で、自分でいられる勁さを、幹の太さを身につけて行きましょ。

勁くなろう、一緒に。

 

 

今日は令和7年度2回目の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目に続いて12回目となった。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正箇所である)
※尚、神経症的性格の3つの類型(①自己拡大的支配型、②自己縮小的依存型、③自己限定的断念型)についての説明は、他の文献では見られないほど詳細である。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

4.神経症的性格の諸型

a.自己拡大的支配型 self-expansive domineering type

b.自己縮小的依存型 self-effasive dependent type

c.自己限定的断念型 self-restricting resignation type

前記の二つの型が、それぞれ征服とか、愛情への渇望を中心としているのに、この型に於いて顕著なのは、それらの渇望の欠除である。野心とか、何かを得ると言う様な事への熱情とか、努力とかがなく、そこには、何か冷ややかな人生に対する無関心が感じられる。
彼は恰(あたか)も、人生の傍観者である。又自分自身に対してもそうである。自分の人生に対する野心的な目標とか、それを達成する計画を得ると言う様なことは彼には無縁である。寧(むし)ろ彼は自分の願いや欲望を制限して、何かを期待することは失望のもとであるから、願望を持たないに越したことはないと言う態度である。願望を始めから持たず、感じない様にするという点で断念的である。
対人関係に於いても彼は立ち入らない。時に深い関係があっても、何時もそこには精神的距離がある。この様な一見、何ものにも関心をもたず、関係をもたない冷たい安全な地帯にある様な彼に、更に一歩近づくと、意外なことに彼の中に、他からの影響、圧力、強制束縛に対する異常な敏感さがあることに気付かされる。
他人からの期待、約束、待合わせ、誕生日の御祝に至るまで、彼には自分を束縛するものとして感じる。他人からの期待ばかりでなく、自分の計画すら、それが自分に行為を期待することによって強制と受けとられる。そこで彼は惰性で生きる。それは現状維持を意味する。従って発展とか変化は考えられない。その意味で自己限定的な生活態度である。
同様に責任のある地位とか、指導的な役割を彼は避ける。その様な地位や役割りが要求する責任や任務が彼にとって束縛と感じられるからである。彼は、だから如何にも自分の地位に満足し自足的に見える。しかし、それは本当の意味での安定でもなく自足でもない。彼は又、人に対して協調的で、場合によれば屈従的でもある。しかし、これは彼が人との軋轢(あつれき)を避け安全を守るための防衛手段である。人々との真の交わりではない。
この様な態度は、この型の人の幼児環境を顧みることによってよりよく理解される。環境 ー 人的環境 ー が非常に強力であるか、或は野放図に放任されている場合、何れにしても彼は公然と反抗することが出来ない。或は家庭が厳しい雰囲気で、感情的に一体感がなく疎隔されていた場合、彼は自分の個性を主張することが許されないし、そうしても自分が潰されてしまう。
場合によって愛情が与えられても、その与えられ方がひも付きでうるさく感じられるとか、親が自分は理解がないくせに、過大な理解や助けを彼に要求したり、又は親の愛情の与え方が気分的で、気紛(まぐ)れで当てにならない場合とか、とにかく、陰に陽に、子供の気持を無視した過大な要求をもつとか、或は失望させる様な場合が多いのである。
はじめのうちはこれに対して、何とか適応する試みをするだろうが、それが不可能だとか裏切られると、出来るだけ要求を与えられない様に、失望させられない様に、出来るだけ人と離れて関係しないようになる。人と感情的距離を置くことによって、子供は葛藤や問題から身を遠ざける。そうすることが自分の中の小さな平和を保つ為に必要な方法となる。
しかし、彼が何かを願望し要求する限り、彼は他人の存在と援助を必要とする。だが他人と関係する事は、彼に厄介なことを呼び起す。そこで子供は自分の欲望や願望をできるだけ感じない様にする。オモチャや仔犬を欲しいと思うかもしれない。しかし、彼は諦めた方がいい。失望させられるか、何か代償に要求されるからである。こうして彼は自分の欲望を断念する。そして断念の態度が確立し、発展して行くのである。
こう言った経過から、先に述べた二つの型と異なる彼の「仮幻の自己」が次第に定着して来る。それは、独立し、自足した静かな心境、欲望や激情からの自由、禁欲、中立、公平、超越、脱俗と言う様な要素を含んだ自画像である。
ここに彼の価値があり、誇りがある。他人が野心に燃え立ち、愛に駆られ、闘争と執着に終始している時、彼は群衆の流れから離れ、ひとり自分の静かな自由と独立の状態にあることを誇るのである。
しかし、ここには本当の安心の代りに傷つき易い心があり、孤立でしかない独立があり、消極的な、現実からの逃避としての自由はあっても、真に自分を生かして行く、積極的建設的な自由はない。
この様な「仮幻の自己」から発する他人に対する要求 claims は、前二者の積極的な要求と異なり、「自分に干渉するな」と言う要求であり、又、現実に対しては、現状維持的な意味で、変化のない平和な円滑な状態を要求するのである。
人間の好意も、それに報いる面倒を予想させて避けられ、地位の昇進も新しい責任を意味して、煩わしいものとなり、迷惑なこととなる。そしてこの様な要求の挫折は、沈黙による反抗として表現されることとなる。
「仮幻の自己」は、又彼に対して、自由の為にあらゆる欲求にしばられないことを要求する(shoulds)。従って彼の願望や欲求は禁圧されなければならない。
しかし生きる以上、彼の「現実の自己」は欲求を持たざるを得ない。これは葛藤を意味する。しかし、彼は葛藤を経験してはならない。そこで欲求は生きる為にやむを得ず充たさなくてはならないものとしてひとつの義務に化する。しかし、再びこれは彼にとって束縛である。
かくて、極端な場合、食事すら彼にとっては一つ義務になり、重苦しい気のすすまないものになる。こうした意味で、彼の生活は悪循環に満ちた義務的行為に変化して来る。彼は、その様に生きなければならぬ「現実の自己」を嫌悪し、憎悪しながら(self-hate)生きるわけであるが、この自己嫌悪が又 shoulds によって抑圧されると、感じられる場合には漠然とした物憂い、無気力な気分として経験される。
先に述べたこの型の人間の示す種々な態度は、この様な機制の結果であるが、この様な心的機制はもっと重大な結果をもたらすことになる。この型の人間は、自分の外側に対して精神的距離を置き、それに極力関係しない事によって、自分の自由と安全を保つが、そのことは、彼を本当の打解けた気持の交流から遠ざけ、現実に対しても積極的な計画や努力をすることを断念させ、安易で無気力な惰性的な生活に止まらしめる。
一方、彼の内部に於いても自分の欲求や願望を抑圧し、回避することによって、次第に自分の本当の感情や新鮮な感受性を失い、精神的な麻痺状態に陥らしめる。時として鈍感になった感情への刺激を求めて、突発的に活動を試みるとしても、それは長く続かない。
かくして、他の二つの型に於けると同様に自己疎外が現れて来るのである。この型の人は分析に於て取扱いにくい。何故なら分析に際しても、いつも局外者として、自分を分析的な状況から分離しようとするからである。分析を一つの自由の侵犯、干渉として感じ、自分の狭い限界を頑強に防御するからである。又、他の一面に於いて、自分の感情や欲求を恰(あたか)も存在しない様に感じ、自分の葛藤に対する感覚が不確かであるからである。
しかし、私達が呼びかけ得るものは確かにある。それは彼の中に存在する、彼の最初の動機であった、彼の内的自由への欲求である。その自由は消極的な干渉や圧迫から(from)の自由と受けとれているけれども、それは実は彼の「真の自己」の成長と発展への(to)自由の歪曲された表現であると言うことである。彼の様々な神経症的傾向の底にある、この様な「真の自己」の自由への欲求こそ、分析に於いて追求せられるものであり、彼を真の自由と独立へ解放して行くものなのである。

 

今回、取り上げるのは、「自己限定的断念型」についてである。
現状維持を望み=自己限定的、願望を始めから持たない=断念型、その生き方は、まさに「人生の傍観者」と言える。
もちろん、そんな生きてるんだか死んでるだかわからないような、影の薄い人間になるには、それだけの理由がある。
他(親)からの強力な影響、圧力、強制、束縛から逃れ、また、これ以上失望を味わないようにするためには、自分の中の小さな安全地帯に逃げ込むしかなかったのである。
最初から何も望まず、何の変化も起こさない
そうやって、“脱力系”でとも言うべき「人生の傍観者」ができあがる。

しかし、である。
何故か彼ら彼女らは、絶海の孤島や深山幽谷にひとり暮らすわけではない。
文字通り、“傍観”して生きている。
そう。
人の“傍”にはいたがるのである、無関心な顔をしながら!
そこに彼ら彼女らの中に息づく「真の自己」の願い(本当の意味で、自分をちゃんと生きたいし、人とも深く交わりたい!)がわずかに漏れ出ている。
これを観抜く眼、そして掬(すく)い取ろうとする愛が、セラピストや、彼や彼女を大切に想う人に求められるのである。

 

 

日の延びた夕暮れどき。 

所用で足を伸ばした先で、小さな商店街に「京たこやき」の看板が見えた。
傍に小さく「ソフトクリーム」「たいやき」とも。
店先に小さなベンチ。
アッパッパ(わかります?)を着た、小柄で痩せた80代と思しき女性が一人でそこに座って、立派なソフトクリームを食べている。
蒸し暑い今日は美味しかろう、と思いながら、脇を通り過ぎる。
それにしても、この時間帯に一人で…などと、ついその人の生活背景を思い浮かべてしまうのは職業病かもしれぬ。 

所用が済んでの帰り道、またその店の前を通ると、さっきの女性がまだベンチに座っていた。
しかも今度は膝の上に8個入りのたこやきをのせ、あと1個で完食の様子。
余程、お腹が空いてたのかしらん、と思い、近づいて行くうちに最後の1個も食べ終えてしまった。
今この時間ということはきっと夕食代わり。
家で一人で食べるよりは、せめて商店街の中の方が孤独感は薄まるか…。

そして、女性の脇を通り過ぎようとしたとき、なんとその女性はさらにたい焼きを取り出して、食べ始めたのだ。

ただの大喰いぢゃーっ!このばっぱ!

勝手に想像を膨らませてはいけません。
目の前の事実に集中しましょう。


果たしてそのたい焼きが最後だったかどうかは私も知らない…。

 

 

かつての外来での話。

一方的かつ独善的な母親からの過干渉かつ支配的な生活に嫌気がさし、家を飛び出して、一人で生活保護で暮らして来た青年がいた。
うつ病として精神科に通院していたが、今風に言うならば、持続性抑うつ症というところで、明らかに生育史から来る神経症的要素の方が大であった。
何度も仕事にチャレンジし、生活保護から脱却しようと頑張っていたが、なかなかうまくいかず、生活保護と自立とを行ったり来たりしながら、仕事を転々としていた。
そんな中でも、親に住所を知らせることはなく、スマホに着信があっても、決して出す、
「またアイツから着信がありました。」
と吐き捨てるように言っていた。
その一人での奮闘ぶりを私も応援していた。

それなのに、である。
ある日の外来、診察室のドアを開けた彼の後ろから初老の女性が入って来た。
ひと目で母親だとわかった。
「あんなにイヤがっていたのに、どうしたんだ?」
と彼に訊くと、目を合わせず、
「もう限界でした…。」
と小さな声で答えた。
自分から実家に帰って母親と同居していたのだ。

「奮闘と引き換えの自立」を売り渡し、「保護と引き換えの奴隷」を選んだのね。

そして母親はお構いなしに、一方的で独善的な話を長々と始めた。
横で黙って聞いている彼に向って
「これでいいの?」
と訊いたが、俯いているだけであった。
そして母親はまだしゃべり続けていた。
本人が魂を売った人生を選ぶというのであれば致し方ない。

これがもし八雲総合研究所であれば、即面談終了となるところである。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」のない人は対象ではない。
しかし、臨床では、本人が通って来る限り、付き合うことになる、忍耐強く、次のチャンスが訪れるまで…あとは寿命との競争だ。

「情けなさの自覚」も「成長への意欲」もない人たちがいる(むしろほとんどがそう)のもこの娑婆の現実である。

 

 

このままAIが進化して行けば、人間の仕事が次々とAIに奪われてしまうのではないか、と危惧されている。
そんな中で、幸いにもカウンセリングやサイコセラピーの分野は、AIがどんなに進化しても、人間でないとできない分野、と言われて来た。

しかし、現状を見ると、そうでもない動きがある。
AIにメンタルな相談をし始めている人たちが、思いの外、多いのだ。
もちろん最初から“眉唾物”として、遊び感覚で利用している人たちもいるが、中にはかなり本気で相談している人たちもいて、臨床の現場では、「AIに相談したら、こうでした!」と患者さんに言われて苦笑せざるを得ない精神科医や臨床心理士が増えていることも事実である。

そんな話をあれやこれや聞いていると、AIに簡単に相談し、影響を受ける人たちに、ある程度、共通の傾向があることが見えて来た。
詳しく言うと専門的に過ぎるので、ここで深入りはしないが、ひとつだけ言えるのは、AIに簡単に相談し、影響を受ける人たちは、またその影響もすぐに消えやすい、ということだ。

だから、そんなに心配は要らないのかもしれない。
それにAIの言うことを信じようと信じまいと、結局、利用した人の自己責任という大原則は変わらない。

ちなみに、私は「AIによる相談」を「博識のど素人のおじさん/おばさんによる相談」とみなしている。
猛烈にいろんなことを知っていたりするが、申し訳ないけれど、やはり“ど素人”なのだ。

そうは言いながらも、知識と技術でカウンセリングやサイコセラピーをやっている人たちは、ちょっと心配をした方が良いかもしれない。
ある程度、“パターン”の対応や考え方、使われがちな“決めゼリフ”などは、AIに簡単に持って行かれてしまうだろう。

相手の表に表れている言動。
相手が意識的/無意識的に隠している本音。
そして、本人も全く気づいていない本音の本音=生命(いのち)の声。
それを観抜かなければ、本当のカウンセリングやサイコセラピーを行うことはできない。
そしてそれは、AIと鈍感な人間には不可能なことであった。

それ故、ホンモノのカウンセリングやサイコセラピーを目指すならば、やはり、AIには無理な、感じる力を磨くしかないのである。

 

 

「私は、女の人だけが母親的になるのではないと思います。男性も母親的でありうると思うのです。男性、女性なんては仮の姿でね、ちょっとついてるものが違うだけで、たいして違わない。まあ、母親的なもの、男親的なものがあるから、それぞれお互いに尊重しなければいけませんが。
愛という面で、僕は母親的なものを主張しているわけですけれども、男性的に、スパッと切っていくことも必要であるということを女性にも知っていただきたいと思うのです。その切ること、そこで切り離すことが自分を自由にするからです。相手をしばっているつもりだけれど、じつは自分もしばられているのと同じなのです、実質的にね。そういう意味で、男性的なものを必要とする場合もあると思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「母親的」「男親的(男性的)」というのも、現代においては生物学的性別属性に基づいた表現となり、今風に言うとすれば、何と言ったら良いのだろうか、と思う。
例えば、「生命(いのち)を生み、育む働き」のうち、「包摂的で、ソフトで、温かいもの」と「力強く、剛にして、怜悧なもの」とがあるとか、いくらでも別表現がありそうだ。
そしてそれがいかなるものであったとしても、その両方が我々の中にある=我々を通して働き得るということ。
どっちかだけじゃなくってね。
それが大事。
特に、この、人間が優しくなっていると言えば聞こえは良いが、弱々しく、下手をするとヘタレッてる現代に、「ズバッと切る(斬る)愛」というのも時に必要なんじゃないかと思う。
「相手をしばっているつもりだけれど、じつは自分もしばられているのと同じなのです」という近藤先生のひと言に、またやられた、と思ってしまった。

 

 

今日のマスコミは、長嶋茂雄氏の追悼一色である。

私は巨人ファンでも長嶋茂雄ファンでもないが、その“名言”のエピソードに触れていると、我々が目指す“何にも考えてない境地”に近いものが観えて来る。

 

「失敗は成功のマザー。」

「“I live in Tokyo.”を過去形にすると“I live in Edo.”になる。」

「『好きな番号は何ですか?』と訊かれて『ラッキーセブンの3!』と即答。」

「巨人の監督復帰の記者会見で『僕は12年間漏電していたんですよ。』と発言。」(←「充電だろっ!」)

「アメリカに初めて行ったとき、マクドナルドを見て『アメリカにも進出しているんだなぁ。』」

「アメリカにて『こっちの子は英語がうまいなぁ。』『こっちは外車ばかりだねぇ。さすがアメリカだ。』」

「アメリカ人に『英語でベースボールは何て訳すの?』と訊いていた。」

「魚偏にブルーで鯖。」

「ファンから『長嶋さんと同じ誕生日なんです。』と言われ、「へぇ~、で、あなたの誕生日はいつ?」と訊いていた。」

「他人の100円玉を持ち帰り、後日『ごめん。オレの100円玉に似てたから。』と謝った。」

「肉離れは英語で、ミート・グッドバイ。」

「流れている音楽に耳を傾け、『『君が代』は良いですねぇ。僕も日本人だなぁ。』と言っていたが、実は『蛍の光』だった。」(←『蛍の光』はスコットランド民謡)

 

長嶋茂雄は何も考えてないように見えて、陰では緻密に計算し、考え抜いていた、と言う識者がいるが、私はそうは思わない。あくまでも何も考えてないのだが、たまにほんのちょっと考えると、それがものすごく考えているように見えただけだと思う。

故人を追悼しつつ、我々も上記のようなエピソードを残せるようになると良いなぁ、と願う。
もし既にそのようなエピソードをお持ちの方がいらしたら、面談のときにでもそっと教えて下さい。

 

 

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