「それでは、そういうこだわりというものを少なくし、我々の心を解放するにはどうしたらいいだろうかということを考えてみましょう。
それには、まず自分の心のなかの声をよく聴いてみる。何かが聴こえてきますね。自分のこだわってる声が聴こえてくる。そしてその次に、そのこだわっているのは何かとはっきり見るわけです。こだわっている状況を正しく見る。ふつう私たちはこだわりのままに引きずり回されて、悶々として苦悩してるわけです。…そういうなかで転々として、泣いたりわめいたり気が狂ったようになっている自分の姿をよく見るのです。これには、練習ということが大切であると思います。
というのは、我々はあまりにも自分のありのままの声を聴いたり、ありのままの姿を見たりするということを避けている。ご婦人の方におうかがいしたいんですけれども、メーキャップをほどこして美しくなった自分の顔。それは自分でしょうか? それとも、化粧を全部取っちゃった後の顔が自分でしょうか。どっちが自分のほんとうの顔なんでしょうか。自分を見ることは、自分の素顔を見ることです。つらいことに違いないと思います。けれども自分の姿をありのままにじっと見つめるとそのなかに、あなた方の英智が光っていることを感じます。自分の心の姿を、静かに正しく見る、正しく聴くときに、あなた方に落ち着きがわいてきます。…
さらに進みます。ほんとうの自分の姿を見、自分の声を聴くときに、どれだけ自分が自分の欲望を中心とし、自分の執着を中心として感じ、行動しているかということがわかると思います。そして、じつはこだわりということが、自己中心的な動きだということがおわかりになると思います。…
まったくみなさん、僕の話を不快に思われるかもしれないけれども、そういったことが私たちの現実ではないかと思うんですよ。つまり、私たちは、人間関係を形成するとき、このようなお互いのおろかさのなかで形成してるってことです。お互い、こういうことについての検討を加えないですね、お互いにそれぞれ自分自身に関する認識を持たないで人間関係というものを形成しようとしている。お互いの愚かさの上に形成された人間関係 ー そこにはどんなことが起こるんでしょうね。それはおそらく、自己中心的な人間同士の集まりだから、お互いにこうすべきである、ああすべきであるという、要求し合うような、そういう人間関係になってくるんじゃないでしょうかね。そこには、我、尊し、我、正しとするような一方的な自己主張の姿が見られるだけであると思います。関係し助け合うのではなくて、お互いに衝突し、攻撃し合い、闘争し合うという人間関係になるのです」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
自分のありのままの姿をじっと見るということは、まず自分の欲望、執着、自己中心性、愚かさを観る、認めるということになりますから、それは愉快なことではありません。
だから、我々はそれを避けているのです。
しかし、自分を見つめるということの意味は、それだけではありません。
そういう心の闇を見つめる、認めた先に、それを超えた叡智の光が観えて来るのです。
光に至るために闇を観るのです。
そこが肝心。
実はその叡智の光が働いているからこそ、我々は、見たくもない、見るのもおぞましい、自分の心の闇を見つめ、認めることができるのです。
だから、自らの闇を観ることを恐れないで。
必ずその先に光がありますから。
これこそが「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の本質ということができるでしょう。