「私は、女の人だけが母親的になるのではないと思います。男性も母親的でありうると思うのです。男性、女性なんては仮の姿でね、ちょっとついてるものが違うだけで、たいして違わない。まあ、母親的なもの、男親的なものがあるから、それぞれお互いに尊重しなければいけませんが。
愛という面で、僕は母親的なものを主張しているわけですけれども、男性的に、スパッと切っていくことも必要であるということを女性にも知っていただきたいと思うのです。その切ること、そこで切り離すことが自分を自由にするからです。相手をしばっているつもりだけれど、じつは自分もしばられているのと同じなのです、実質的にね。そういう意味で、男性的なものを必要とする場合もあると思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
「母親的」「男親的(男性的)」というのも、現代においては生物学的性別属性に基づいた表現となり、今風に言うとすれば、何と言ったら良いのだろうか、と思う。
例えば、「生命(いのち)を生み、育む働き」のうち、「包摂的で、ソフトで、温かいもの」と「力強く、剛にして、怜悧なもの」とがあるとか、いくらでも別表現がありそうだ。
そしてそれがいかなるものであったとしても、その両方が我々の中にある=我々を通して働き得るということ。
どっちかだけじゃなくってね。
それが大事。
特に、この、人間が優しくなっていると言えば聞こえは良いが、弱々しく、下手をするとヘタレッてる現代に、「ズバッと切る(斬る)愛」というのも時に必要なんじゃないかと思う。
「相手をしばっているつもりだけれど、じつは自分もしばられているのと同じなのです」という近藤先生のひと言に、またやられた、と思ってしまった。