後輩セラピストから相談のあった例。
母親のこころの病気で長年苦労して来た娘がいた。
そのことについてセラピストが
「そりゃあ、お母さんから酷い目に遭って来ましたね。」
と言うと、
「いえ。母は母で大変だったと思います。」
と母親を庇(かば)い、
今度は、セラピストが
「お母さんはお母さんなりに精一杯だったんでしょうね。」
と言うと、
「いえ。酷い母親に育てられた子どもにしてみればたまったものじゃありません。」
と母親を攻撃した。
「母親を庇うのか攻撃するのか、どっちなんだよ。」
と言いたくなるが、こんなアンビバレンスはよくある話で、母親が愛着の対象でもあり、怒りの対象でもあるのである。
よって、娘は、その二つの気持ちの間を行ったり来たりしながら過ごすことになる。
即ち、母親に怒りを感じれば、罪悪感が起き、
母親に愛着を感じれば、報われない重荷を感じるのであった。
しかし、どちらかというと、母親への怒りを抑圧し、怒りを感じると罪悪感を感じる人たちの方が多い印象がある。
よって、後輩のセラピーも、娘さんの中にある母親に対する怒りをちゃんと認められるようになることを目指していた。
そんなある日、一人暮らしの娘のもとへ、一人暮らしの母親が急死したとの連絡が入った。
一方で、母が亡くなって悲しい自分がいたが、
もう一方で、亡くなって清々した自分がいた。
そしてそれを感じた途端、娘は猛烈な罪悪感に襲われた。
自分は母親に冷たかったんじゃないかという後悔にも苛まれた。
そしてその後、面談に来なくなったそうである。
「ああ、まだそこだったのか。」
と後輩は残念がった。
本当は、悲しいのと清々したのとの両方を感じるのが当然なのだが、
その娘は、清々とした自分を受け入れられず、その気持ちと直面化することから逃げたのであった。
「どうすれば良かったんですかね?」
という後輩に対し、
「ハウツーはないよ。娘さんの心において、『未だ時、熟さず』だったということだ。」
と伝えた。
「せめて『こうやって罪悪感を抱くことがまだ私の問題なんですね。』というところにまで来ていてくれれば、それからの道もあったと思う。」
後はただ、またいつかどこかで、この娘さんがリターンマッチに挑んでくれる日が来ることを祈るのみである。
罪悪感を抱き続けながら、一生逃げ回るわけにはいかないだろう。
そこを超えて初めて、娘さんの本当の人生が始まるのである。

 

 

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