9月24日付け小欄の続き。
「自分の中にふっと、そういう気持ちがおきてくる。何か静かになってくると自分のしていることが何かおかしいとか、これは変だなとかいう気持ち、これはどんな場合でも、子どもでも感じています。もちろん大人でも感じていますが、大人のほうは理屈をいい、いろいろな疑問を合理化して、そうした気持ちを消してしまいますけれど、これは私は大事な鍵だと思うのです。その鍵を我々は与えられているのです。これは、自分の能力ではない。どう考えても自分はもっとラクなことをしたい、愉快なことをしたい、楽しいことをしたい、自分のいやなことはしたくない。自分自身を見るほどいやなことはない、けれども、それを否応なしに見せしめられるという、私は受身のかたちを使いますが、そういう感じです。これは大事なものだと思う。そこに自分にいちばん最初の救いの手が出されているのだということを感じる意味で大事だと思うのです。その声を聴き、それによって新しく変わる。そういう声を聴いて、はじめていままでは何の意味もなさなかったいろいろな先人の教えが、何かおぼろげにわかってくる。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)
この「受身のかたち」というところが非常に重要です。
逆に、受身でなく、受動でなく、というのは、即ち、能動ということ。
オレが、ワタシが、する、ということ。
つまり、主語が「我(が)」になるわけです。
そうではなくて、受身、受動であるということは、オレが、ワタシがするんじゃない、主語が「自分以外のもの」であるということです。
それを感じるから、表現が「見せしめられる」と受身にならざるを得ません。
かつて近藤先生のお宅の玄関に「自在」という額が飾られていました。
先生ご自身が書かれたものです。
皆さんはこれをどう解されますか?
「自在ですか。自由自在でのびのびしてていいですねぇ。」でも良いのですが、
私はそれを見て「あれは『自ずから在らしめらるる』とよむのですね。」と先生にお尋ねしたところ、
「その通りだ。」とおっしゃられました。
感じれば、どうしても表現は受身になるのです。
そして、その主語は何なのか、何がそうさせるのか、「自分以外のもの」とは何なのか。
ここで、西行伝と言われるあの和歌を思い出さないではいられません。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
何が働いていらっしゃるのかわからないけれど、ありがたくて涙がこぼれる。
それを感じることが、まさに救いの第二章への入り口となっていくわけです。